インド諸王朝スレッド

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1名無しさん
語ろう。
ムガール帝国以外は弱体王朝ってこと?
2世界@名無史さん :2000/10/22(日) 19:29
おわ。
インド史って高校の世界史に毛の生えた程度しか知らないや。
3日本@名無史さん :2000/10/22(日) 19:44
インド人、思想ばかりで歴史残さなかったからなあ。
イスラム入った後ではいろいろ資料あるはずだが、勉強してないなあ。
4パシャパシャ :2000/10/22(日) 22:04
確か王朝の成立年代とかがわからずに、中国の年代とかとつき合わせて(玄奘のインド訪問など)要約解ったんだよね
5世界@名無史さん :2000/10/23(月) 01:41
バーンディヤ朝とかいろいろあるけど区別つかねえ。(自虐藁
6名無しさん :2000/10/23(月) 01:47
ムガール皇帝って何て呼ばれてたの?
やっぱシャーかな〜。
シャーってツァーリと通じる気がするが気のせい?
7世界@名無史さん :2000/10/23(月) 02:09
インドって思想、宗教、数学系での人類への貢献
って何気に凄いと思うんだけど、いまいちぱっと
しないよね。やっぱり記録に残すっていう文化が
なかったのと、政治の下手くそさが響いているの
か?簡単に植民地化されちゃったし。
8世界@名無史さん :2000/10/23(月) 02:48
>6 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/10/23(月) 01:47
>ムガール皇帝って何て呼ばれてたの?

パーディシャー。
オスマントルコの「皇帝」の称号と同じ。
近藤治先生に聞いたから間違いない。
9ハイバンド名無しさん :2000/10/23(月) 08:31
超初歩の質問でごめんなさい。
ラジャ、マハラジャってムガール帝国の地方政権の主のこと?
日本でいうと大名と一緒なんですか?
教えてください。
10世界@名無史さん:2000/10/23(月) 12:52
ラジャってイギリス支配のもとに藩王国を認められた王、じゃなかったっけ。

>シャーとツァーリ
全然違う。
シャーは古代ペルシア語で「王」。
ツァーリはラテン語の人名(?)「カエサル」のロシア語なまり。
で、パーディシャーは「シャーのなかのシャー」とかいうような感じだったような。
11世界@名無史さん:2000/10/23(月) 13:01
ムガル朝以外で強勢を誇った王朝というと
デリーのハルジー朝だったと思うけど、
14世紀にアラー・アッディーンというスルタンが南インドまで
一時的に進出している。
でも、すぐ分裂しちゃったはず。
このときのデカン残存勢力は後々ムガル時代に併合されるまで続いた。
けど名前忘れた…
12世界@名無史さん:2000/10/23(月) 13:04
ムガールの皇帝て国の統治を放り出してイギリスに丸投げしたと聞いたけど本当?
13名無しさん:2000/10/24(火) 03:40
奴隷王朝ってなかった?
14AFC3:2000/10/24(火) 04:09
>>9
マハラジャの「マハ」は、マハ・トマ・ガンジーやマハー・バーラタの
「マハー」と同じです。
意味は「偉大な」とか「尊崇すべき」です。
下の部分は「ラージャ」で日本では「藩王」と訳されてます。
ムガール朝以前から存在してる地方領主の事を指していて、現在でも
インドへ行けば本物をお目に掛かれますよ。
15日本@名無史さん:2000/10/25(水) 21:42
奴隷王朝がモンゴルの侵略を逃れられたのは何故?
16世界@名無史さん:2000/10/25(水) 22:30
>15
山越えしたくなかったから
17世界@名無史さん:2000/10/25(水) 22:38
奴隷王朝って言う考えはマルクス主義だけです。
中国も日本もインドも奴隷王朝なわけねぇだろ?
中国=血縁式専制政治
日本=総中産階級
インド=カースト

で、欧米は、支配者と被支配者の奴隷社会ないし奴隷主義。奴隷系社会は欧米のみ。
やっぱりドイツ2M学者のカース・マルクソ、マックソ・ペーパーは唯欧野郎。

で、インド人はインド人でもアーリア系インド人は目が青いよ。
ガンジー見て、確かめたまへ。
18世界@名無史さん:2000/10/25(水) 22:42
日本=総中産階級 ?

まあ、比較の問題だから多くは言わないが・・・
19日本@名無史さん:2000/10/26(木) 02:11
>16
カンボジア経由じゃダメなの?
20世界@名無史さん:2000/10/26(木) 10:08
>10
古代ペルシア語なら「王」はxsayathiyaだよ。ベヒストゥーン碑文の
中に出てくる。
多分、中期ペルシア語あたりじゃないかな。
21名無しさん:2000/10/26(木) 12:45
>マムルーク朝の事ですか?
2221:2000/10/26(木) 12:46
>13
マムルーク朝の事ですか?
2322:2000/10/26(木) 12:48
すまん、あれエジプトでした。
24世界@名無史さん:2000/10/26(木) 14:39
>>17
ちーがーうー。
奴隷王朝って言うのは、奴隷社会だったからじゃなくて、
トルコの軍人奴隷出身のアイバクが国を興したから。
(後継者にも軍人奴隷出身者が多かったから)
マムルーク朝と一緒。

言葉に自動的に反応するまえに調べてみ。
25世界@名無史さん:2000/10/26(木) 15:10
まあ、紛らわしいから奴隷王朝じゃなくて
「インドのマムルーク朝」って呼ぼう、
って言ってる人もいるし。
2610:2000/10/26(木) 15:17
>20
あ、自分で言っててわかんなくなってきた。(汗)
古代ペルシア語がアケメネス朝のころで
中期ペルシア語がササン朝、でしたっけ?
だったら、たしかシャーはササン朝だったと思うので
「中期ペルシア語で王のこと」に訂正…。
27世界@名無史さん:2000/10/26(木) 18:21
奴隷王朝って言う考えはマルクス主義だけです。
中国も日本もインドも奴隷王朝なわけねぇだろ?
中国=血縁式専制政治
日本=総中産階級
インド=カースト
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

奴隷王朝という考えがマルクス主義として貶すあたりが痛いぞ。
中国・日本・インドとして上げられてる内容が、
政治体制、貧富の格差、社会制度とデタラメじゃないか。
もう少し真面目に勉強しろよ・・・(トホホ


28世界@名無史さん:2000/10/26(木) 21:42
>>27

おそらく勉強以前の問題です。真摯な自己反省をしておいたほうが、
これから先の長い人生、この人のためになると思うのですが・・・。
29世界@名無史さん:2000/10/29(日) 23:38
チョーラ朝は紀元前3Cから13Cまで続いた最長の
王朝っぽい。
30あやめ:2000/11/01(水) 18:10
チョーラ王朝といっても同一家系の王により継承されてきたわけではありません。
古くはアソーカ王の磨崖碑(250B.C.ころ)にチョーラの国名が刻されていますが、
その後のサンガム(西暦2・3世紀のマドゥラの文献)やマハーヴァンサ(5世紀から書き
継がれたパーリー語によるセイロン史)に顕れているチョーラ王の事跡は、断片的で
殆ど神話伝説の類でしかありません。
その後はサンガムやギリシャローマの地理書や考古遺跡などでその王国の存在が認め
られる程度ですが、2世紀後半にはカリカーラ王の王朝が一時威勢を張っていたこと
が伝えられています。しかしその後の数世紀の史実は不明でパーンディア朝やパッラ
ヴァ朝の覇権に服属していたようです。それからもカリカーラの子孫を称する王など
いくつかの地方政権が割拠する時代が続きました。カリカーラとの系譜関係の信憑性
については疑わしく、エティオピア中世の地方政権が往々にしてソロモンの後裔と自
称していたのと同様でしょう。
846A.D.にヴィジャヤーラヤにより創始された王統は1074A.D.まで継続しましたが、
チョーラ王は11世紀から東チャールキャ王朝と通婚を重ね、クロートンガ1世からは
東チャールキャ王統が両国の王位を兼ねることになりました。その後このチョーラ王
国は近隣のホイサラ朝やカーカティーヤ朝に苦しめられ、最後にはパーンディヤ朝に
1279A.D.に滅ぼされて終焉しました。
このような経過なので最長の王朝などとは到底言えたものではないのです。
31hatiman@名無史さん:2000/11/01(水) 18:19
久しぶりにあやめさんを見ました。
32あやめ:2000/11/01(水) 20:11
お仕事と家事に追いまくられてて(泣)
33名無しさん@1周年:2000/11/01(水) 23:48
4C頃のカーリダーサ以上の文化人がそれ以後いない時点でインドは終わってる
・・・と思う。
34名無しさん@1周年:2000/11/02(木) 00:00
>30
インドで名前だけでも残ってれば凄いことだ。
王家が続いたと書いてるわけでもないのだから
マジレスで反論はちょっと・・・
35あやめ:2000/11/13(月) 17:24
御批判を戴いてたのに気が付かないでいました、遅れ馳せながらレスです。
>王家が続いたと書いてるわけでもないのだからマジレスで反論はちょっと・・・
通常は「王家が続いた」場合を「王朝」と称していると思います。ただインドの地方国
家にあっては系譜上は無関係な幾つかの王統を一括して、史家は往々にして「某々王
朝」と呼ぶことがあるようです。しかしこれは飽くまで便宜的な(個々の王統に一々
命名するほどもない零細な王統が多くて)扱いであって、他の地域における連続した
王統による「王朝」とは同日に論じることはできません。
もしこのような不連続「王朝」の存続期間を基準にして「最長の王朝」を決めてよけれ
ば、チョーラ王朝を滅ぼしたパーンディヤ朝はアソーカ王の碑文に現れてから、14
世紀まで断続的ながら継続しているのです。でもこっちが最長の王朝なんて言っても
あまり意味がないと思います。
私は人様のカキコにケチを付けて快を取っているわけではありません。しかし不正確
な歴史情報がノーチェックで独り歩きすることは、少なくとも世界史板のような歴史
知識のまじめな交換の場では好ましくないと考える者です。エチオピアの皇室がソロ
モンから何千年も連綿と続いてたなんて、ナンセンスなお話には皆さんウンザリして
らっしゃるんじゃないかしら?
>インドで名前だけでも残ってれば凄いことだ
インドの歴史は支那ほど詳細な資料は残ってはいませんけど、そんなにバカにしたも
のでもないのよ。

ってまたマジレス反論しちゃったー^^
36名無しさん@1周年:2000/11/13(月) 18:49
というか、なんかの資料をほとんど丸写しして研究者風な口調で
解説するのはどうかと・・・
チョーラ朝が話題に上って初めて調べたんならそのように
書くべきだろう。
インド・ヨーロッパ・中国どれも専門的にやるには大変だよ。
37伊賀者:2000/11/14(火) 19:58
現在インド東北部に組み込まれているマニプール州は、
かつては独立した王国だったようですね。 「インド史」に
入らないかも知れませんが、マニプール王国の歴史と、
王国を築いたメイテイ族(チベット・ビルマ系)についてどなたか
教えて下さい。
私の知る限り、「インパール作戦」関連の本はいろいろ
あっても、マニプール自体について解説した和書はないよう
なので・・・。
38名無しさん@1周年:2000/11/14(火) 20:57
聞いたこともねーや。(鬱)
39あやめ:2000/11/22(水) 23:28
>36
またまた御批判またまたマジレス
要するに研究者でもないのに研究者風な知ったかぶりが片腹痛いってこと?
>インド・ヨーロッパ・中国どれも専門的にやるには大変だよ
私は自分を研究者などと言ったことは勿論ありませんし、専門家を気取った口を利いたつもりもありません。どの地域どの分野についても専門知識を持っている者ではありま
せん。況やこれら凡てに亘って研究などしていません。それはあらためて表明しなくても皆さん承知でレスを読んでくださっていると思います。研究者のように歴史情報を開
発できる環境にも資質にも恵まれているわけではありません。しかし研究者が開発した歴史情報をいろいろな手段で(基本的に素人レヴェル)取得し蓄積に努めています。いわ
ば歴史オタクとでもいうべき消費的立場です。でもオタクであればこそ特定地域特定分野に囚われず、貪欲に情報の山を溜め込み自由に知識の海に泳ぎ回ることが許されてい
ます。歴史板に限らず2ちゃんねるにレスしている人は持ち合わせの情報を求めに応じて開示しているわけで、それがオリジナルな知識に限られないもの(いわばオタク的知
識)であることは、カキコ者がどんな文体を用いていようが常に前提されていることではないでしょうか。カルチャーセンターではないのですから。
私が蓄積している情報は当然ながら分野により地域により詳略深浅があります。インド史についても大したことはないがソコソコ知ってるという程度です。そうは言っても
>チョーラ朝が話題に上って初めて調べた
というわけでもありません。チョーラについては大抵のインド史の概説書には取り上げられていて、あなたが思っているほどマイナーな情報でもありません。最低限チョーラ
が継続的な王朝を持ち得たのが9世紀くらいからで、それ以前は断続的な王統しか知られてといないはずというくらいのことは承知していました。レス29を目にした時点で
そんな最長の王朝ではあり得ないと思い、一応は「印度政治史」(原著は"The Cambridge Shorter History of India"、山本晃紹訳、帝国書院刊)その他数冊の書物を参照して、
年次など細かい部分は確実を期しました。
>なんかの資料をほとんど丸写し
にするような場合は基本的に典拠を示すようにしてるつもりです。
>研究者風な口調で
という批評は
>インドで名前だけでも残ってれば凄いこと
なんて「インドのことはよく判ってるんだゾ」みたいな口振のあなたにお返しします。
40あやめ:2000/11/22(水) 23:33
マニプールについては
http://mentai.2ch.net/whis/index2.html#15 
のレス429に書いておきましたが「アッサム史」により年表風に通叙しておきます。
1475 ポンと連合してクーンパットを征服し、クボ河谷地域を併合した。
1714 ナーガ族の首長パムハイバが即位し、ヒンヅー教に改宗しガーリブ-ナワーズと
   称した。
1725 ミャンマーと争う。
1738 アヴァに侵攻し民家や僧院を焼き払った。
1749 ミャンマーに対し勝利しアヴァを占領したが、旗が倒れたのを気にして講和し
   撤退した。
   王子のウガット-シャーに放逐され殺害された。
1755 ミャンマー王アラウンパヤの侵略を受ける。
1758 再びミャンマーの侵略を受け領土の一部を併合される。
1763 マニプール王ジャイ-シングの要請で英国兵が失地回復のため出動したが、成功
   を見ることなく撤退した。
1765 ミャンマー王スィンビュシンの兵が侵入しジャイを追い出し別の王を立てた。
1768 ジャイはアーホーム王ラージェスヴァル-シングの援助を得て復位した。
   ジャイはその後も失脚し、14年間に4度も亡命を繰り返した。
1770 ミャンマー王スィンビュシンの兵が侵入し人民や家畜を略奪した。
1782 ミャンマーと講和し王位の安定を得た。
1792 アーホーム王ガウリナータを応援のため出兵した。(敵はミャンマー?)
41世界@名無史さん:2000/11/22(水) 23:36
マニプールについては
http://mentai.2ch.net/whis/index2.html#15 
のレス429に書いておきましたが「アッサム史」により年表風に通叙しておきます。
1475 ポンと連合してクーンパットを征服し、クボ河谷地域を併合した。
1714 ナーガ族の首長パムハイバが即位し、ヒンヅー教に改宗しガーリブ-ナワーズと
   称した。
1725 ミャンマーと争う。
1738 アヴァに侵攻し民家や僧院を焼き払った。
1749 ミャンマーに対し勝利しアヴァを占領したが、旗が倒れたのを気にして講和し
   撤退した。
   王子のウガット-シャーに放逐され殺害された。
1755 ミャンマー王アラウンパヤの侵略を受ける。
1758 再びミャンマーの侵略を受け領土の一部を併合される。
1763 マニプール王ジャイ-シングの要請で英国兵が失地回復のため出動したが、成功
   を見ることなく撤退した。
1765 ミャンマー王スィンビュシンの兵が侵入しジャイを追い出し別の王を立てた。
1768 ジャイはアーホーム王ラージェスヴァル-シングの援助を得て復位した。
   ジャイはその後も失脚し、14年間に4度も亡命を繰り返した。
1770 ミャンマー王スィンビュシンの兵が侵入し人民や家畜を略奪した。
1782 ミャンマーと講和し王位の安定を得た。
1792 アーホーム王ガウリナータを応援のため出兵した。(敵はミャンマー?)
42あやめ:2000/11/22(水) 23:41
二重カキコしちゃいました(A^_^;;
レスの続き
1799 ジャイはバーグワーンゴラへの巡礼の途上で死去した。
   長男のハルシャ-チャーンドラが継いだが2年後にジャイの妻の弟に殺される。
   次男のマドュー-チャーンドラが継いだが5年後に殺される。
   3男のチャウルジット-シングが継いだ。
1812 4男のマルジット-シングがアヴァ王の援助で王位を奪い、一族与党全てを処刑
   した。
1818 マルジットはカチャールに侵入し、カチャール王ゴビンド-チャーンドラはチャ
   ウルジット-シングの応援を得てこれを撃退した。
1819 ミャンマー王バジードーの兵がマニプールに侵入しマルジットはカチャ−ルに逃
   亡する。
   マルジットはチャウルジットと和解しゴビンドを放逐する。
1823 彼らの甥(長男か次男の子?)ピタムバール-シングがミャンマー人を破り、マニ
   プールを回復する。
   チャウルジットの弟(ジャイの5男?)ガムピール-シングがマニプールに進撃し、
   ピタムバールはアヴァへ逃走した。
   ミャンマーは間もなくマニプールを奪還する。
   英国の後援でゴビンドはカチャールの王位を、ガムピールもマニプールの王位を
   回復する。
1826 英国ミャンマー間のヤンダボ条約によりマニプールの王位も確定する。
   この時点で英保護国になったものでしょう。以後の記述がありません。
43世界@名無史さん:2000/11/23(木) 01:07
長久手世向き市内や
44伊賀者:2000/11/23(木) 01:57
あやめさん、質問箱スレでもお世話になりました。
教えて頂いた戦前の本は探し当てる自信がないので、年表だけでもありがたいです。
暇にまかせてインターネットを検索し、
http://members.tripod..com/~TheManipurPage
を見つけました。 この中に歴史のページがあって、参考になります。 二十数冊の文献(英語)の表がついています。 それを適当にまとめて作ったページらしい。
このページによると、マニプールが最終的にイギリスの保護下に入ったのは1891年で意外に遅れています。
王位継承にからむ内紛にイギリスが介入してイギリス・
マニプール戦争(日露戦争式に短く言えないかなあ)が
起こり、イギリスがマニプールを占領したようです。

また質問箱で触れておられたガーリブ・ナワーズ以前の伝説とも歴史ともつかない時代のことも、書いてあります。 ページ制作者がメイテイらしく、プライドからか史実であるかのように書いています。 私が一番関心があるのはヒンドウー化される前のメイテイですけど、
「最初の王は殷の湯王の血族から出た」なんて記述を
見ると、なんぼなんでもまともな話とは思えない。 独自の文字とともに独自の文化も持っていたはずだけどやはり接近不可能か・・・。 まずはメイテイ語を勉強しようかな? (教科書なんてあるのか?)


45伊賀者:2000/11/23(木) 02:44
訂正。 44のアドレスではつながりません。 正しくは
  http://members.tripod.com/~TheManipurPage/history/puwarimeitei.html

です。 大丈夫かな? 質問ですが、アドレスを書いて投稿すると、色つきでクリックできるようになりますね?
クリックすると正しくつながるかどうか、投稿前に知るにはどうすればいいんでしょう? たとえば上のアドレスは、今書いている段階では二行に分かれているので、不安だ・・・。
46上野でやってる:2000/11/24(金) 17:51
インダス文明展行ったんだけど
他の文明展に比べると出品物がヘボすぎる。
インダス文明って当時から埋葬文化がなかったのかしら?
他の文明展をゴージャスにしてるのって
埋葬品のおかげだもんねえ。
47世界@名無史さん:2000/11/26(日) 22:24
インド亜大陸の南部・北部を統合した王朝といえば

マウリヤ朝(アショーカ治下)
グプタ朝(チャンドラグプタ2世治下)
ハルジー朝(アラー・アッディーン・ハルジー治下)
トゥグルク朝(ムハンマド・ビン・トゥグルク治下)
ムガール朝(アウラングゼーブ治下)

ぐらいと思う。中国と比べると統合されてる期間が短い。
インド共和国、南端から北部まで統合した国としては長続きしてるほうかな。

>>15
>>16
奴隷王朝vsモンゴル帝国、歴史地図帳見るとデリー近くまで攻めこまれてる。
どんな戦いじゃったのじゃろ。
48世界@名無史さん:2000/11/28(火) 23:28
少数部隊の激突でしょ
49ふまーゆーん:2000/11/29(水) 00:02
あやめさん&皆様、よかったらムガール王朝についてのデータがありましたら
教えていただけませんか?
ムガールが好きなんですが・・・・

50世界@名無史さん
>>47
ハノーヴァー朝(ウィンザー朝)も忘れてはいけません。