黄昏の清王朝

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1世界@名無史さん
アヘン戦争から辛亥革命まで、中華帝国最大の危機の時代が訪れます。
外患としてアヘン戦争、アロー戦争、清仏戦争、日清戦争、北清事変、
内憂として太平天国、捻軍、仇教運動、義和団の乱。
活躍した人物にも事欠かないと思います。
中国王朝時代最後を飾る清朝末期を語りましょう。

2酔生夢死ジーモン :2000/10/09(月) 19:01
アヘン戦争以前から、清朝は、白蓮蓮教徒や天理教徒(日本の
同名教団とは全く無関係だよ)の大反乱で、
後者の時には紫禁城まで一時占領されるし、
もう統治体制がガタガタだった。
英帝を弁護するつもりなぞ無いが、
イギリスやフランスなど西洋の侵略だけが清朝崩壊の
原因ではないね。
滅満興漢これっきゃない!
3中国版から追われた :2000/10/17(火) 08:52
中国版から世界史版に逝けと言われ、他人のスレッドを借りて質問いたします。

##中国を支配した異民族の末路##
愛新覚羅・耶律・完顔・拓跋など色々いるけど
みんな漢民族として後の世は生きているのか?
知っている人教えてください。

ぜひとも、御教示を・・・
4世界@名無史さん :2000/10/17(火) 20:42
溥儀の子孫って普通の中国人として暮らしてるんだったっけ?
耶律・拓跋はどうなったんでしょうねえ。
完顔阿骨打は某マンガ描き・・・(殴。
5ミスター・アマカース :2000/10/18(水) 02:32

   ⌒⌒
  /⌒ ⌒\  ヽ
  /へ  へ ヽ /
  (冖) 冖 б)
  ヽ (___)   し
    |    |
   ヽΘ __/

Majesty!
6AFC3 :2000/10/18(水) 05:20
>>4
皇族の拓跋氏は、南北朝時代に全員が「元」姓に変えたのでは?
元さんなら現代中国に大勢居ますし・・・。
完顔・耶律氏は、明代以降よく知らないなあ。
誰か詳しい方居ないでしょうか?
7名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 08:07
清朝に仕えた完顔氏ってのは、金の末裔なのか??
8コピペ :2000/10/18(水) 16:57
愛新覚羅一族は後の世に、
満州族とわかり差別されるのをおそれ 金となのる
これは昔金王朝があったのと、
愛新覚羅が金色に光るという意味だからだそうだ


9世界@名無史さん :2000/10/18(水) 17:12
満州族は文革の時代ひどかったらしいね
もう3度目の中国支配はないね
完全に抹殺されたから
10世界@名無史さん :2000/10/18(水) 20:47
漢化した完顔氏や耶律氏は知らないけど
北に戻った・残った完顔氏は依然女真の部族社会にいて満州族に入り、
耶律氏は他の契丹族と同じようにモンゴルに吸収されたんじゃないかと。
11名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 21:50
 清朝萌え〜。
 日本で清朝の研究できる大学は?
12世界@名無史さん:2000/10/25(水) 22:46
>11

史学科のある大学ならば、中国近代史を扱ってるところは多いですよ。
13ゲームセンター名無し:2000/10/26(木) 17:30
 清王朝といえば、どうして明王朝の紫禁城をそのまま
使ったのだろうか? いや、滅んだ王朝の都なんて不吉だと
思わなかったなのかな?
14世界@名無史さん:2000/10/30(月) 20:40
>12
満洲人が一から首都を建設するのは無理っぽい。
15名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 01:12
弁髪令がイカンかったと思う
あんな髪型じゃ何にもしたくなくなる
16世界@名無史さん:2000/11/03(金) 18:09
満州人をなめんなよ。
ドルゴンさまだ、グラアッ!
17聖祖康煕帝:2000/11/03(金) 18:15
滅漢興満!滅漢興満!
18世界@名無史さん:2000/11/07(火) 02:46
あの、質問なのですが、
清時代に(中国人は)、西洋人のこと、何て呼んでいたのでしょうか?
イギリスやフランスのこと、あるいは西洋社会全体のことを?
「異人」とか?←これは日本ですよねー。
西洋に対する俗称とかあったのでしょうか?
自分なりに調べたのですが、わからなくて・・・
どなたか、お教え頂けると嬉しいのですが。
よろしくお願いします。
19世界@名無史さん:2000/11/07(火) 03:45
まじめに勉強した訳じゃないが、劉永福ってようわからん。
太平天国の時は、清朝の敵でしょ?
で、清仏戦争の時は清の味方。
日清戦争、義和団事件でも顔を出してる。
清の将軍であるかのように扱ってる映画もあるし。
詳しい人、教えてくれ。
20世界@名無史さん:2000/11/07(火) 12:36
ちなみに…、
劉永福
1837〜1917 清末の軍人で広東省の客家出身。進軍に追われて
ベトナムに入ってグェン朝に仕え、1867年に国旗軍(清国版奇兵隊)
を編成、73〜85年フランス軍に交戦。
21世界@名無史さん:2000/11/07(火) 23:34

劉永福(りゅう・ながとみ)てだれ?
22>18:2000/11/09(木) 01:49
「夷」じゃなかったっけ?

違う?

23世界@名無史さん:2000/11/09(木) 08:06
やはり、南から入ってきたので南蛮かな?
24世界@名無史さん:2000/11/10(金) 00:00
>22>23
両方、信じていいのか?
あ、おれ18じゃないんだけど、なんか気になったから。(笑)
25西からなら:2000/11/10(金) 01:01
「西戎」だけどこれはいわゆる西洋人には使わなかったんだろ
うな^^;
ペルシャあたりからの金髪碧眼の人間は「胡人」とか言われて
たような記憶がある・・・。
うろ覚えなのでものすごく怪しいけど。
2625:2000/11/10(金) 01:03
唐代(まで)の記述ね。
清代ともなるとまた海外との行き来も変わってるからまた違う
呼び方かなー。
27世界@名無史さん:2000/11/10(金) 01:37
中国人の感覚として西方=インドだったから、欧州=西洋の
イメージはすぐに固まったらしい。
面白いのが、世界の国々を理解する上で、大陸と大海は
不可分であるという感覚。中国+海。東南アジア+海。
ロシア+海、etc。
そこらへんが後に西方を指して西「洋」と呼ぶようになった
由来なんじゃないかな。
蔑称としての「羊」プラス海から来たってんで「さんずい」が
ついて。
適当な事言ってます。スイマソン
28世界@名無史さん:2000/11/10(金) 01:48
東洋=マレー以東の海
西洋=マレー以西の海(インド洋)
だっけ?
2919:2000/11/10(金) 02:09
>20
わざわざありがとう。すまんけど、それくらいはわかってるんだわ。
俺が知りたいのは、むしろ清仏戦争後の彼なのよ。
清朝との関係はどうなったのか、その辺のところ。

ちなみに進軍じゃなくて清軍じゃないの?
あと国旗軍じゃなくて黒旗軍だと思う。
30世界@名無史さん:2000/11/10(金) 08:41
劉永福は確か台湾に行ったよ、そして日本の、台湾占領に反対して台湾独立を叫んで戦いました。結局負けて本土へ逃げ出したけど、
31世界@名無史さん:2000/11/10(金) 13:10
劉永福は元来は天地会系の土匪で太平乱に乗じて暴れたいたのですが、
そっちが片付いて清軍の馮子材の討伐を受け親分ともども阮朝に帰順し
たのです。それから独自に黒旗軍を編制し阮朝軍や少し前まで敵だった
馮子材と協力し、土匪討伐や清仏戦争で著しい功績を挙げました。殊に
ガルニエやリヴィエールを敗死させて英雄として清朝からも遇されたの
ですが、土匪魂が官軍と折り合わず張之洞の要請で帰国しました。この
戦争で知り合った唐景ッが日清戦後に日本に割譲された台湾で抗日政権
を樹立すると、唐を総統とする「台湾民主国」で民主将軍に任ぜられ日本
軍と戦いました。唐が清朝の命令に従い本土に逃亡すると彼が後任の総
統に推されたのですが辞退し、台湾南部で頑強に抵抗戦争を継続してい
た挙句に、事の成らざることを悟り光緒二十一年九月にアモイへ逃亡し
ました。その後は広西省の南寧で黒旗軍を再編し北清事変の際も出動し
ています。辛亥革命後は広東都督胡漢民の要請で広東民団総長に任ぜら
れました。その後は引退していましたが日本の21箇条要求に対し抗日
戦を企て、義和軍の組織に着手したのですが実行前に病死してしまいま
した。
32名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 14:13
ベトナムで死んだと勝手に思い込んでました。>劉永福
33世界@名無史さん:2000/11/10(金) 14:41
>18
清末でしたら普通には外国は「夷」です。日常的にもそうですが官場用語でもそうで
あったのです。イギリスであれば「英夷」フランス大統領が「法酋」と中華意識丸出し
です。外交交渉なんかも「夷務」とか言っていました。外国は朝貢国としか扱う手続
きがなくて理藩院や禮部の所管でした。ところが咸豊八年の天津条約後にイギリス
全権エルギン(安政仮条約や円明園の破壊で有名)から「邸報(官報)の中に載ってい
る上諭にまだ『夷』という字が使われているが、これは天津条約の『平行相待之禮』
違反するのではないか」と抗議を受けたことから、以後は「夷」という字は公文書中の
使用は罷りならぬという通達を出さざるを得なくなりました。その後も日清講和の際
にも日本公使の林董から「清国の奏章に『島夷』という文字が見えるのは怪しからん」
とねじこまれ、天津条約の例により各種公文に「夷」字を書き出してはならぬと再び通
達しています。民間の日常語でも「夷場」と呼ばれていた租界を「彙場」と変更させまし
た。「彙」は人が集まるという意味ですから「盛り場」といったニュアンスで適切な言い
換えと言えます。
34あやめ:2000/11/10(金) 14:51
31、33はあやめのレスです、「名無しさん」はイヤでありんす
35あやめさんサンキュ:2000/11/11(土) 05:48
おれ、質問者ぢゃないけど、勉強になりました。
36ど〜でもいいけど:2000/11/11(土) 09:37
>>28
>東洋=マレー以東の海

近現代の中国で、「東洋」というのは日本のことだけど。
37世界@名無史さん:2000/11/12(日) 02:34
>31
詳しい説明、ほんとうにありがとう。
知れば知るほど、劉永福という人物に興味がわいてきました。
タダの「暴れるのが好きなおっさん」だったのかなあ。
38世界@名無史さん:2000/11/12(日) 12:34
増井経夫著「太平天国」(岩波新書)にも劉永福の生涯について1章を設け
て詳説していたと記憶します。この本絶版になっちゃってるのかな?
近世アジアの3奇男子としてあやめ的には東で劉永福、南でターンティ
ア-トピ、北でヤクーブ-ベクといったとこを挙げたいです。ヤクーブは
中共系(陳舜臣なども)の本ではメタメタに言われてますけどね。
39あやめ:2000/11/12(日) 12:37
↑あやめのレスです、またクッキーがおかしい(T_T)
40世界@名無史さん:2000/11/12(日) 15:42
サンクス、
41あやめファン:2000/11/13(月) 02:08
age
42世界@名無史さんZ :2000/11/13(月) 03:55
>清末でしたら普通には外国は「夷」です。
すんません、これなんて読むんですか?
「い」?
・・・それじゃ日本語か。
現地・当時で、ということなんですけど。
43>45:2000/11/13(月) 08:41
西戎東夷北荻南蛮
せいじゅう、とうい、ほくてき、なんばん
順番は忘れたけど、中国を中心にしてその四方に住む「未開民族」の
呼称です。
場所は変わって日本。
坂上田村麻呂が征「夷」大将軍だったのは、近畿の朝廷から
東方を討伐したから。だと思う。
44世界@名無史さん:2000/11/13(月) 11:14
いわようこう
45あやめ:2000/11/13(月) 11:20
「夷」の発音はウェード式だと/i/、ビンイン式だと/yi/になり、アクセ
ントは後の方に来ます。要するに片仮名で書けば「イ」でいいです。
「夷」の甲骨文の字形は「尸」と似ており、発音も元は同じであったようで
す。つまり背を曲げ体全体を低くした形で、周辺の未開人の座った様子
に象ったものと解されています。意味は「平らたい」とか「傷つく」とかい
うことで、イメージとしては野蛮人がペッタンコな姿でひいひい言って
るってとこでしょうか。因みに「倭」もチビが地べたをのたくってるって
イメージの字です。
夷は確かに「東夷」という風に分類されてるみたいな感じですが、実際の
用例としては厳密に東方の野蛮人ばかりに使われてるわけでもなく、程
度の低い外国人(原則として外国は全部程度が低い)に対して汎用されて
る文字です。「胡」が匈奴など北方の民族ばかりでなくペルシャ系の異国
人にも適用されてるのと同様です。
46シベリア@名無史さん:2000/11/13(月) 12:25
中国も日本も韓国も北も皆自分が一番の中華思想国家じゃない?台湾は知らないけど。
中国…他の国を随うべき奴隷と見なす中華思想国。
日本…世界進出型の中華思想国。
韓国…強い者に頭を下げる外交中心の中華思想国。
北…独裁中心の完全鎖国的中華思想国。
47世界@名無史さんZ :2000/11/14(火) 00:23
あやめさん、本当にどうもありがとう。
勉強になりました。
48世界@名無史さんZ :2000/11/14(火) 02:38
ありゃ?偽物?コピペミスかな? 不思議。
いいか、同じだし意図と内容は・・・。
皆様ありがとうございました。
感謝します。
49世界@名無史さん:2000/11/14(火) 04:21
はじめまして。
えーと、ここでいいのか・・・孫文のことなんですけど、
「名は逸仙イツセン、号は中山チュウザン」ということみたいで、
はて?
この「名」と「号」って、どういうことなんでしょうか?
無知で申し訳ない・・・。
孫文って「名」じゃないんですか?
(子供の頃の名は孫文じゃなかったんですか? 孫って苗字ですよね? 文っていうのが名前?)
どなたかお教え願えれば・・・
ああ、罵倒してもいいですから。
50名無しさん@1周年:2000/11/15(水) 20:33
孫文の場合。
姓は孫。父親の姓とおなじ。
名は文。親もしくは同族の有力者がつける。
字が逸仙。成年になったとき自分でつける。
号が中山。ペンネームみたいなもの。
51世界@名無史さん:2000/11/15(水) 21:28
英語では孫文は
Sun Yat-sen
になる。イギリス式中国語アルファベット表記で、孫逸仙。
日本では孫文。姓名。
中国では孫中山。
本人は中山っていう名前を好んで使ってたけど、本当なら英語でも
中国語でも「孫文」って呼ぶべきじゃないのかな。
なんて思ってたりする。
5249:2000/11/15(水) 23:33
おふたりとも、ありがとうございます。
子供の頃には普通に孫文(文)と呼ばれていて、
大きくなって変えたわけですか。
なるほど。
無知者に、わざわざ、すみません。
53厨房っス:2000/11/16(木) 03:10
バクゼンとした質問なのかもしれないっスけど、
清朝後期ごろって、地方(ド田舎)の支配とか、どーなっていたんスか?
なにかの本で、地主が仕切っていた、と読んだことあるんスけど、
ある程度大きな町なら役人とかいたと思うんスけど、
本当の片田舎の小さなムラとか、ちゃんと支配されていたんでしょうかね?
警官とかいそうもないし……
そうだ、警官とかいたんスか、清朝後期には、もう?
(リー・リンチェイの映画とか見ると、警察長官とか出てくるんスけど、警察組織があったんスかね?本当に)
誰か教えてくれたら、すっごくウレシイっス!
お願いしまっス!!
54名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/11/16(木) 03:42
清は歴代王朝のなかでも評価は低いんでしょうか?
個人的には明より印象は良いんだけど。
(清は近世の王朝なので前の王朝と比較するのは危険ですが)
55世界@名無史さん:2000/11/16(木) 23:57
>53リンチェイの映画って、それ
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」?
56世界@名無史さん:2000/11/17(金) 23:37
警察かどうか知りませんが「地方官」が各地で罪人を罰していたようですけど?

清は明を継承したものの評価は低くないと思いますが?
現中国って、結局、清のイメージが強いわけですし(服とかいろいろ)
57世界@名無史さん:2000/11/17(金) 23:40
警察かどうか知りませんが「地方官」が各地で罪人を罰していたようですけど?

清は明を継承したものの評価は低くないと思いますが?
現中国って、結局、清のイメージが強いわけですし(服とかいろいろ)
58世界@名無史:2000/11/17(金) 23:55
 明清<隋唐宋

歴史研究者のイメージはこんなんらしい、元は別格ですが
59スリムななし(仮)さん:2000/11/18(土) 02:06
ほんとに一般人も辮髪だったんですか?
強制したことは知ってるけど。
60あやめ:2000/11/19(日) 00:00
>53
宮崎市定さんが書かれた「鹿洲公案」という本が平凡社の「東洋文庫」の1
冊としてでています。これなんか清朝の地方官の治跡が手に取るように
判りますよ。
61名無しさん@1周年:2000/11/19(日) 03:03
弁髪が最悪
弁髪って鮮卑系の風習だっけ?
あんな髪型を強制させた時点で文化破壊決定
トムとジェリーとかに出てくる中国人って
大概弁髪だな・・・
62ラーメンマンも弁髪:2000/11/19(日) 04:00
横レスですんません

公案=警察、なのでしょうか中国では?
それとも、公案=役人という意味なのかな?
63>62:2000/11/19(日) 06:14
公案=役所の行政文書のこと、判例とかそういうもののこと
だったと思うけど…微妙に違ったかも。

禅宗で修行者に出す課題も公案って言いますね。
64世界@名無史さん:2000/11/19(日) 08:55
禅の公案のように問題に取り組み謎解きするみたいなニュアンスの言葉
ですね。日本で言えば「大岡政談」「遠山政談」の政談に当たるのかな。名
奉行の裁判ものです。最も有名なのが「龍圖公案」で宋の龍圖閣大學士で
あった包拯の裁判もので、江戸の講談にも影響を与えています。その他
にも色々ありますが変わったところでは唐の狄仁傑を主人公にした「狄
公案」があります。どこが変わってるかというと作者が西洋人というと
ころで、ファン-グーリックというオランダの外交官がいかにも支那の
昔の口語小説といった文体で書き、明代かなんかの小説本みたいな挿絵
まで自分で描いてるという凝り様です。この人は日本にも駐在していま
したが支那が大好きで、支那趣味をここまで極めたっていうのは日本の
支那学者にも稀です。支那のエロ藝術に関する「秘戯図考」なんてものも
書いてます。
65あやめ:2000/11/19(日) 08:57
64はあやめのレスです。
66世界@名無史さん:2000/11/19(日) 13:44
孫文の号「中山」は、日本に亡命していたときにつけた日本名「中山樵」からきている
と聞いたことがあります。「なかやまきこり」と読み、しゃれだそうです。

それにしては、孫文の墓は「中山廟」という。これでいいのだろうか。
67ラーメンマンも弁髪:2000/11/20(月) 04:11
飛び込みの横レスにこんなにこたえてもらって、皆さん(&あやめさん)いい人だなぁ、と。
世界史板は、軍事などと違って、電波妄想の人が少なくて、まともに話もできるし、もっと早くこっちに来ていればよかったです。
ありがとうございます。
68>66:2000/11/20(月) 07:32
「中山きこり」って、AVモデルとかでいそうな名前だ。
中山エミリに似てると言われたら、似てるような感じの。
69名無し丸:2000/11/20(月) 11:58
呉三桂なんぞが清に降伏した際に、弁髪にして恭順の意を示したところから始まったらしい。
「漢民族を屈服させるには、これが一番だ」と清側は考えた。
んで「留髪不留頭 留頭不留髪」の看板を掲げて、理髪師を巡回させた、と。
そこで弁髪にすることを拒んだ者は、首をチョン切られさらし者に。
首を切られるより、髪を切られた方が痛くないので、みんな渋々北方蛮族の風習に従うようになり、
辛亥革命に至る。
ちなみに西域の方では、エリートしか弁髪を許されず、あこがれの対象でもあったようだ。
70パシャパシャ:2000/11/20(月) 21:54
清末期には、これが標準になって、革命で、辮髪が廃止された時、中国人の中からかなりの不満が出たそうだ
71世界@名無史さん:2000/11/20(月) 23:23
一般人もラーメンマンかよおー。
カッコいい男も台無しじゃん。
               21歳厨房女子大学生心中。
72ラーメンマンも弁髪:2000/11/21(火) 01:11
あの、もともとはオレの質問じゃないんですけど、
それで「警察(警察組織・警察官)」というのはあったのでしょうか清時代には?
気になる〜。
素人すぎる質問でしたら無視してください。
73名無しさん@1周年:2000/11/22(水) 19:56
 清末にはあったよ。
74世界@名無史さん :2000/11/23(木) 00:07
(私は「ラーメンマン〜」ではないのですけれど)
警察あったのですか。
名称は「警察」?
75世界@名無史さん :2000/11/23(木) 01:32
ジャッキー・チェンの映画では「警察」って言ってるね。
字幕でだけど。
76>75:2000/11/23(木) 02:04
プロジェクトA2のことか?
酔拳2かな?
77名無しさん@1周年:2000/11/23(木) 10:01
 清末っていっても、20世紀初頭なんだけど。近代警察が誕生。
それまでの地方の治安維持は、緑営がやってた、のかな?
78名無しさん@1周年:2000/11/23(木) 11:12
肅親王家ってすごい!
79ラーメンマンも弁髪:2000/11/24(金) 01:15
また横レスで、すんません。
「緑営」ってなんですか?
80あやめ:2000/11/24(金) 11:37
緑営は江戸時代で言えば八州廻りや火盗改め、アメリカなら州軍とかハ
イウェイパトロールみたいな広域出動の任に当たってたのではないかと
思います。各地方の治安は地方官が基本的に責任を負うもので、県の兵
房に属する弓兵などの若干の武力の外は、県に代々寄生してる隷卒など
の衙役に捕盗くらいのことはやらせており、やくざの喧嘩などは民壮や
各区域の保甲あたりを利用してたはずです。
81ラーメンマンも弁髪:2000/11/25(土) 01:37
あやめ様
ありがとうございます!
82ラーメンマンも弁髪:2000/11/25(土) 02:27
あれから改めて調べたのですが、またまたよくわからず・・・
つまり、こういう感じなのでしょうか?

・弓兵=正規の兵士
・隷卒=ヤクザ(または新撰組)のようなもの?
・保甲=民間自衛団(ボディガード専門職)みたいなもの?


違いますか?
83世界@名無史さん:2000/11/26(日) 00:31
保甲については、だいたいその通りです。
ボディガードではありません。
もともとは軍馬を育てる農村組織だったと思います。
84世界@名無史さん:2000/11/26(日) 01:24
おいおい・・・ヤクザと新撰組は違うって・・・
大体新撰組は臨時組織だし・・・

岡っ引きとかじゃないの?
85世界@名無史さん:2000/11/26(日) 02:34
でもまー新撰組って右翼ヤクザみたいなものではあるわな。
86世界@名無史さん:2000/11/27(月) 06:26
 粛親王家って、川島某とかで有名だよね。
 王ってことは、皇族なの?
87世界@名無史さん:2000/11/27(月) 11:31
清末の緑営なんかは「士気はすこぶるあがらない。」なんて書かれちゃってたりする。
写真を見ると、やる気のなさそうな、敵の突撃一発で四散しそうな正規軍。
保甲は、自分トコがかかってるから、やるきはあるようだ。
後に義和団に発展した小刀会の前身とか、有力な自警団が古い秘密結社の
影響を受けて、巨大化することもあり。
88ラーメンマンも弁髪:2000/11/27(月) 23:49
皆様、ありがとうございます。
くれくれクンですみません・・・

それで、その・・・「隷卒」というのは、なんなのでしょうか?
89名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/11/28(火) 01:13
立命館大学の某教授の奥さんが、アイシンギョロ家の王女様だと
聞いたんだけど。ほんと?
90あやめ:2000/11/28(火) 12:43
隷卒というのはヤクザでも新撰組でもありません。県などの役所に寄生
してると言うか飼い殺しにされてると言うか、特定の賎役に従事してい
る世襲の下層身分です。役所に代々居付いて実務を扱ってる点は胥吏と
似ていますが、胥吏が一応は知的業務を処理しているのに対して頭は使
わなくて済みますが、人の嫌がる仕事を扱うので制度上の差別を受ける
ことがあります。具体的には隷卒の家族は科挙に応ずることができず賎
民として固定されています。
業務はいろいろで皀隷(最も汎用的な雑役で、捕物などに駆り出されたり
もする)・馬快・歩快・小馬(以上は飛脚役)・禁卒(牢番)・門子(門番)・弓手
(弓兵に同じ)・ゴ(フォントなし、人偏に午)作(検屍人)などさまざまで
名称も県によって異なる場合もあるようです。知県さまがお出ましにな
るとき銅鑼を叩いたりチャルメラを吹いたり、轎を担いだりする「六色」
という連中もこの手の賎民です。
彼らは一応は役所から多少の手当は貰っているのですが勿論十分でなく、
胥吏と同様に人民から名目を設けて金品を取っています。例えば晒し首
の番などは土地の保甲に義務付けられているのですが、実際には隷卒に
然るべき金でやってもらっているのです。検屍後の変死体の片付けなど
も恰好の金蔓だったでしょう。
日本でも死刑の執行に随伴する仕事は全て非人が処理していました。
91名無し3:2000/11/28(火) 15:49
徳王ってのは戦後は何処にいってしまったのかな?

92あやめ:2000/11/28(火) 19:56
徳王については下記に略歴があります
http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/html/history/kaisetsu/jinmei/tokuo.html
なお6年ほど前に岩波書店から「徳王自伝」という本がでています。
93名無しさん@1周年:2000/11/28(火) 19:56
>89
 確か、乾隆帝から派生した下級王家の末裔だろう。
94名無しさん:2000/11/28(火) 21:17
清王朝は偉大だ!
なぜなら歴代皇帝の全員が、大学入試の世界史のテストで出題される可能性がある。
世界史の試験に絶対出ないという皇帝が、ひとりもいない。

順治帝・・・明を滅ぼした
康熙帝・・・三賢帝の一人
雍正帝・・・三賢帝の一人
乾隆帝・・・三賢帝の一人、在位中にマカートニー使節団が来た
嘉慶帝・・・アマースト使節団が来た
咸胞帝・・・西太后の夫
道光帝・・・アヘン戦争
同治帝・・・同治中興と呼ばれる近代化が進められる
光緒帝・・・西太后によるクーデター、日清戦争
宣統帝・・・辛亥革命で退位

誤字があるかもしれない。ご容赦を。

95名無しさん@1周年:2000/11/28(火) 22:24
 もちろん、ヌルハチもホンタイジも出る。
 ところで、なぜ石橋崇雄『大清帝国』(講談社選書メチエ)では、
 ホン=タイジ表記なんですか? なんかヘン。
96ラーメンマンも弁髪:2000/11/28(火) 23:30
>90 あやめ様

本当に感謝致します。
勉強中ですので、また教えてもらえたらうれしいです。
若輩者に、皆様、本当にありがとうございます。
9791:2000/11/29(水) 11:42
あやめ様

どうも有り難うございました。
愛新覚羅浩氏の自伝「流転の王妃」や、満州国関連にちょこちょこ出てくる人名ですので、
気になっておりました。
早速本を探してみます。
98あやめ:2000/11/29(水) 16:01
>95
確かに「ホン=タイジ」って表記はヘンですよね。そもそも石橋さん自身
も本書中で言及しているように、「ホンタイジ」という呼称は漢語の「皇
太子」の音を写したもので、当初はチンギス-ハーンの子孫でハーンの位
を継ぐ者―正に皇太子として目される人物に許されるものであったよう
です。元代以後のモンゴル貴族にはこのような漢語音に由来する命名が
多いようで、チンサン←丞相、ザイサン←宰相、チイン←知院、タイシ
←太師などいろいろ知られています。だから意味の上からでは「ホンタイ
ジ」と表記する方がよいように思われます。
ただ英文表記では"Hong Taiji"とか"Khong Tayiji"が一般的なので、
石橋さんの独特の表記もここらから来てるのかもしれません。ところが
満文表記では"tai"と"ji"も区切れていて一連のスペルになってないみ
たい。どうなったるんでしょうね。
99名無しさん@1周年:2000/11/29(水) 19:47
95>あやめ

ご教授ありがとうございます。
しかし、あの『大清帝国』の文章の下手さはどうにもこうにも
ついていけませんでした。
しかも何か専門知識の詰め込みばかりで閉口です。
100世界@名無史さん:2000/12/01(金) 00:00
>99
激しく同意しますね。
専門家が、自分のマニアックな知識を披露してるだけみたい。
概説書なんだから、もう少し気を配って欲しい。
それとも、研究者ってあんなつまらないことばかり研究してるの?
101名無しのオプ:2000/12/01(金) 19:02
n
102狗雑種:2000/12/01(金) 19:17
「ホンタイジ」は「皇太極」と表記されていましたが、是如何哉?
103あやめ:2000/12/01(金) 20:10
98に書いておきましたが漢語の「皇太子」の音から「ホンタイジ」というモ
ンゴル語の単語が成立し、それが女真語にも波及していたわけですが必
ずしも語源を意識して使用されていたわけでもないのでしょう。従って
漢字音写する際には近似音の文字である「皇太極」を採用したというに過
ぎません。ただ「太極」という語は「易経」の「繋辞」に「易に太極有り、是
より両儀を生ず」とあり、その疏(注)に「太極とは天地の未だ分かれざる
の前、元気(物質の元素)混じて一と為る、即ち太初太一也」とされていて、
「初めにロゴスありき」みたいなドエライ存在が「太極」なんです。だから
天子の名前に持って来いだと思ったんでしょう。でも凄すぎてチョット
なーって感じですネ。
104ZZZ:2000/12/01(金) 20:51
弁髪嫌いな人多いですけど良く考えりゃちょんまげだってそうですよね。
ところで由来はやっぱり遊牧民なんでしょうか。だとしたらいつ頃から
発生したのかご存知の方ご教示ください。
105 狗雑種:2000/12/01(金) 20:55
なるほど!謝謝!“便荘刺虎”というやつですな!>103
106日本@名無史さん:2000/12/02(土) 15:14
たしかに石橋サンの大清帝国には幻滅。
 やっぱ、神田信夫先生だね!
107あやめ:2000/12/02(土) 18:55
>104
漢代にはもうあったみたいです。「史記」の「匈奴傳」の「比余」という単語
の「索隠」に「比余は辮髪の飾なり」、また「漢書」の「西南夷傳」に「北は葉
楡に至る、名づけてスイ(フォントが出ない、山の下に雋)昆明と為す、
髪を編む」、「晋書」の「粛慎氏傳」に「俗として皆な髪を編む」同じく「吐谷
渾傳」に「婦人は金花を以って首飾と為し、髪を辮して後にメグ(フォント
が出ない、榮の木が糸になる)らし、綴るに珠貝を以ってす」、「南史」の
「高昌傳」に「男子は髪を辮して之を背に垂れ、女子は髪を辮して垂れず」、
「資治通鑑」の「魏紀」文帝の黄初二年の条に「宋魏以降は南北分治し、各
おの國史有りて互に相い排黜す、南は北を謂て索虜と曰ひ、北は南を謂
て島夷と曰ふ」注に「索虜なる者は北人の辮髪を以って之を索頭と謂ふ也」
とあってかなり由来は古いんです。清朝の辮髪の系譜としては「大金國
史」に「金の俗として髪を編みて肩に垂れ、顱後の髪を留め繋ぐに色絲を
以ってす、富人は珠金の飾を用ひ婦人は髪を辮して盤髻とす(ぐるっと
巻いてシニョンを作る)」とあるのに連なっているわけです。清の兪エツ
(フォントが出ない、木偏に越)の著「小繁露」に「頭を剃り髪を辮するは
金俗已でに然り、宋の湯ジュ(フォントが出ない、玉偏に壽)の『建炎徳
安守禦録』に『建炎二年十二月に北來の群賊数萬人有り、皆な頭を剃り
髪を辮し金人の装束を作す』と」とあって女真族の伝統的ヘアスタイル
であったのです。
108日本@名無史さん:2000/12/03(日) 01:35
女真=女直=満州族なの?
満「洲」族が正しいのですか??
109世界@名無史さん:2000/12/03(日) 01:45
教えて君はどこにいっても嫌われるよ>108
110名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/12/03(日) 01:57
教えてくれる人がいるんだからいいじゃん。
じゃないとこのスレなんのためにあるのさ?
まあ、質問ばかり3つ立て続けにレスされてるとむかつくけど。
111世界@名無史さん:2000/12/03(日) 07:40
女真=女直=満州族なの?

そうです。
つーか、これくらいは、ちょっと調べればすぐわかる
上の質問とレベル違いすぎ
だから、教えて君は痛いって言われるんだよ。
112ZZZ:2000/12/03(日) 12:25
>107
あやめさん、どうもありがとうございます。
「史記」や「漢書」にあるってことは匈奴由来ってことですよね。
西に行ったフン族達はどうだったんだろう。
あ、また質問してスンマセン。
113ん?:2000/12/03(日) 17:57

ちがうでしょ。いわゆる満洲族は清朝の旗人(満・蒙・漢)の末裔。
女真と女直は厳密に言うと構成「民族」がちがう。
「教えて君」と馬鹿にするより、111こそ浅薄な知識
114世界@名無史さん:2000/12/03(日) 19:09
>113 私は111ではないが、女真と女直は同じではないのか?
同じツングース民族だし?
時代によって呼び名は違うが。
明代は西海女直と建州女直に別れていたが。
女真=女直=満州族 は正しいはず。
115世界@名無史さん:2000/12/03(日) 20:41
ここら辺の民族は、錯綜してて分からん。
トルコ系遊牧民族「突厥」にも辮髪、そうこん制(自分の継母を嫁にする)
があったっていうし・・・。遊牧民共通の習俗なのかな。
「高昌溥」は唐代のものですか?
116名無しのオプ:2000/12/04(月) 01:46
>114

建州女直・海西女直・野人女直ですね。
女真と女直については113の理解のほうがより実像に近いのでは?
ただし、現代中国の民族区分の「満洲族」と清朝の「マンジュ」とを
混同しているようですが。
117中国人留学院生に:2000/12/04(月) 09:45
聞いてみたら,113さんの言うことが概ね正しいそうですよ.
彼の国では,そのように習っているのでしょう.
118114:2000/12/04(月) 20:09
>116@`>117
女真と女直はどう違うの?
子細希望
119世界@名無史さん:2000/12/04(月) 20:56
まず、字が違います。
120名無しのオプ:2000/12/05(火) 05:02
なるほど。
121ZZZ:2000/12/05(火) 15:32
ってことは発音もちがう(はず)。
122世界@名無史さん:2000/12/07(木) 03:09
で、どう違うんですか?

清朝のもともと=女真、
は正しいの?
123世界@名無史さん:2000/12/07(木) 06:57
>女真と女直は厳密に言うと構成「民族」がちがう。

これは日本民族が違う、と言うようなもので、
ツングース系民族をどうわけるか、という考えは
研究者および地域住民によって異なるはずです。
124世界@名無史さん:2000/12/07(木) 22:56
 ぬかずヌルハチ。
125名無しさん@1周年:2000/12/08(金) 10:33
女真族は 生女真と 熟女真という なんかイロっぽい2つがありましたが
女直族は 実直に1つでした。
126世界@名無史さん:2000/12/12(火) 19:25
マンジュ。
127世界@名無史さん:2000/12/13(水) 04:00
浅田次郎の『蒼穹の昴』って、考証的にどう?
物語がおもしろいから、別に歴史に厳密じゃなくてもいいけど、
気になる。
128世界@名無史さん:2000/12/14(木) 19:54
 ↑私も知りたい!
129世界@名無史さん:2000/12/15(金) 19:03
石橋崇雄の大清帝国読んだひと、感想きぼーん。
130日本@名無史さん:2000/12/16(土) 14:23
↑ サイアク。
131世界@名無史さん:2000/12/17(日) 03:42
 >129
清朝について知りたいなら、もっといい概説書ありますよー。
宮崎市定・神田信夫・岸本美緒あたりがオススメ。
石橋教授のは、コムツカシクテよく分からんです。
専門家の意見はどうでしょうか??
132世界@名無史さん:2000/12/18(月) 13:09
age
133世界@名無史さん:2000/12/21(木) 17:54
>131
激しく同意。
134世界@名無史さん:2000/12/22(金) 16:57
>131
むしろ、専門家の評価が悪いらしい…。
135名無しのオプ:2000/12/23(土) 20:51
>134 詳細キボンヌ(読んでないので)。
136【^▽^】ジョーカー:2000/12/23(土) 21:26
フー・マンチューによる白人への復讐。
137【^▽^】ジョーカー:2000/12/23(土) 23:28
滅満興漢!
138名無しのオプ:2000/12/25(月) 02:04
メッツマン強姦!
139名無しのオプ:2000/12/25(月) 13:58
浅田次郎のあれはよかった。
完結編 草原の虹 をはやくかいて。
140世界@名無史さん:2000/12/25(月) 23:27
浅田次郎はわりと考証してた。
141【^▽^】ジョーカー:2000/12/26(火) 00:34
蒋介石による西太后の墓暴きは素晴らしい!
142世界@名無史さん:2000/12/27(水) 06:59
>>141
そんなことしていたんですか?
戦争中に?
143世界@名無史さん:2000/12/27(水) 07:25
ネタ?>>142
144日本@名無史さん:2000/12/29(金) 13:56
 いま寝るとこ。
145世界@名無史さん:2001/01/02(火) 02:53
岸本美緒萌え〜
146日本@名無史さん:2001/01/05(金) 09:03
まじで可愛い岸本美緒
147世界@名無史さん:2001/01/05(金) 16:09
>>62
公案=警察のでしょうか中国では
62さんは、ひょっとして公安のことをいってるのかな?もしそうならそれは正しい
新中国では警察部門は国務院公安部の管轄でありその下に各省,直轄市,市県など
の公安局(警察署)などがある。ちなみに警察(ジンチャー)といえば警官をさす
んだよ。

そういえば、以前福田和也氏が彼のいう「満州」で「[公安]と書かれた恐ろしげな
ジープがあった」などとのたまってたが、中国の「公安」と日本の「公安」の違い
を知らずに恥じかいてたね。
148世界@名無史さん:2001/01/07(日) 18:15
みお
149世界@名無史さん:2001/01/09(火) 07:22
おばさん趣味のやつがおおいな
150名無しのオプ:2001/01/10(水) 03:10
清朝って、異民族王朝だよね。
宮廷での公用語は、漢民族も満州族のことばを
話していたのかな。
151ひみつ:2001/01/10(水) 03:19
ちなみに僕の高校での同級生が、
溥儀さん(ラストエンペラー)の弟の、溥傑さんの孫でしたよ。
西宮在住で、お母さんが娘さんだそうです。
152日本@名無史さん:2001/01/10(水) 21:49
なにか、秘密の話聞いた?
153>139:2001/01/11(木) 17:21
蒼穹の昴の完結編て、ほんとにあるんですか??。
154日本@名無史さん:2001/01/11(木) 19:43
139>153

一昨年の『このミステリーがすごい!』の
「わたしの隠し玉」で作者が明言。
155>151:2001/01/12(金) 09:54
私もずっと西宮でしたが、どうやったら溥傑の孫に会えますか?。
156名無史:2001/01/12(金) 12:14
フケツ
157>151:2001/01/13(土) 08:03
やっぱり愛新覚羅を名乗ってるんですか、その人は?。
158名無しのオプ:2001/01/14(日) 06:55
 ミーも会いたい。
159世界@名無史さん:2001/01/15(月) 04:32
>157
出席番号は1番か?
160世界@名無史さん:2001/01/15(月) 08:14
>>159
激ワラ
161名無しさん@1周年:2001/01/15(月) 16:14
相川さんや相澤さんがいたらダメだな。
162世界@名無史さん:2001/01/16(火) 06:52
なんでこんなに姓が長いの?
163日本@名無史さん:2001/01/19(金) 09:01
あげ。
164162:2001/01/19(金) 09:14
満洲語の姓を無理やり漢字で表記してるからです。
当然、西洋人などの姓も漢字で表記すると長くなってしまいます。
165世界@名無史さん:2001/01/22(月) 10:27
満州と満洲は違うの??
166164:2001/01/22(月) 11:46
日本では「満州」と書くことが多いけど、中国では「満洲」と書くとどっかで読んだ。もしかしたら「洲」が常用漢字に無いので「州」と書き換えてるだけかもしれないね。

ということで「満洲」と書くほうが正確そうな気がするので「満洲」と書いてます。
167世界@名無史さん:2001/01/23(火) 21:43
満洲!
168世界@名無史さん:2001/01/24(水) 13:50
満洲はマンジュの音訳だろう。
清朝は水徳の王朝だから、清・満・洲と
すべてにサンズイがついているのです。
169世界@名無史さん:2001/01/25(木) 12:50
……だったとおもう。
170世界@名無史さん:2001/01/25(木) 17:47
>>151
芦屋のあの学校でしょ。
171170:2001/01/25(木) 17:48
>>155
昔の名簿とってくるとか
172>170:2001/01/26(金) 08:28
って、どこなんですか?。
173世界@名無史さん:2001/01/26(金) 13:05
芦屋市内に高校は三つしかないので、がんばってさがしましょう。
174世界@名無史さん:2001/01/28(日) 11:07
アイシンカクラ万歳!!
175世界@名無史さん:2001/02/07(水) 12:58
 清朝は、満・蒙・漢の多民族王朝なのです。
176日本@名無史さん:2001/02/08(木) 21:32
は?
177日本@名無史さん:2001/02/09(金) 21:48
>175
意味がわかりません。
178林士文(リン・シーウェン)@天地会:2001/02/09(金) 21:52
滅満興漢!
179世界@名無史さん:2001/02/11(日) 15:43
 メッツマン強姦!
180日本@名無史さん:2001/02/13(火) 08:05
清代といえば、岸本美緒だろう。
ぼくでも知ってるよ!
181世界@名無史さん:2001/02/13(火) 19:20
岸本は社会経済史の雄だろう。
182世界@名無史さん:2001/02/14(水) 19:12
雄というより雌では。
183日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:30
失礼な。
184世界@名無史さん:2001/02/22(木) 20:32
bitch?
185世界@名無史さん:2001/02/23(金) 00:47
 岸本美緒のすごさは、その論文の平易さにある。
それでいて内容は抜群。まじですごい。
186国姓爺:2001/02/23(金) 07:24
清に限った質問じゃなくて申し訳ないんですけど、なんで圧倒的大多数である漢民族を征服することができたのですか?
187世界@名無史さん:2001/02/23(金) 09:12
その前の明末期の支配があまりにひどすぎたので、漢民族の民衆は
むしろ清に征服されるほうがありがたかったんだよ。(弁髪令だけ
は反感かったけど。)
188世界@名無史さん:2001/02/23(金) 10:17
っていうか、明は自滅したの。清が滅ぼしたわけじゃないんだ。
清が武力でやったことは明の残党狩り。
で、その前に明の軍も清に大量に寝返ったりもしてたの。
189世界@名無史さん:2001/02/23(金) 14:02
>186
漢民族を支配したというと、南北朝時代の北朝(鮮卑など)、遼(契丹)、
金(女真)、元(蒙古)、清(満洲)といったところですね。
共通点は北方の遊牧民族(ないしはそれに近い民族)であったこと。
遊牧民族は、生産者イコール戦士です。ふだん羊を飼っていたり、交易に従事して
いる男性のほとんどが、いざという時には兵力となります。
さらにいざとなれば、部族ぐるみ老若男女すべてを移動させることも可能なので、
大規模な機動作戦を展開できます。
一方、漢民族に限らず、土地に縛られた農耕民族はそうはいきません。
あえて単純化して言えば、兵士1人を養うために百人の農民が必要なのです。
(それでも、「米」という効率のよい作物のおかげで、ヨーロッパよりは
はるかにマシでしたが。)
したがって、戦場での強弱は単純に人口比で比べるわけにはいかないのです。
190名無しさん:2001/02/23(金) 21:53
入関した満洲人は約2,30万人らしい。
成人男子だけで。
191世界史@名無史さん:2001/02/24(土) 10:48
 >190
根拠は?
192国姓爺:2001/02/27(火) 02:06
答えて頂いた方有難うございました。
感謝あげ
193名無しのオプ:2001/02/27(火) 07:25
最近あやめをみかけんのう。
194世界@名無史さん:2001/02/27(火) 08:38
そか?いるスレにはいるぞ。
195名無しのオプ:2001/02/28(水) 04:54
あやめは死にました。
196世界@名無史さん:2001/02/28(水) 05:02
中国板でも見かけました。
197世界@名無史さん:2001/02/28(水) 22:46
 あやめってさー、コテハン使い分けて、
別名で他人を悪し様に罵ってない?
198世界@名無史さん:2001/02/28(水) 22:51
>>197
あやめっぽい名無しをたまに見かける。疑惑ありだね。
199酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/02/28(水) 23:20
漢民族も蒙古・女真も糞。
200名無しのオプ:2001/03/01(木) 02:19
>197/198
あ、おれもそう思ったことがある。
文体が妙に共通してたし。
201あやめ:2001/03/01(木) 12:05
別名なんか使ったことはぜーったいにありません、もっと具体的に指摘
してください
202名無しさん:2001/03/01(木) 15:19
まーまー、相手にしないほうがいいですよ。
どうせ、根拠もないんだろうから。
203世界@名無史さん:2001/03/01(木) 15:31
煽りは放置!よ、あやめさん。
204あやめ:2001/03/01(木) 19:03
そうですね、まだまだ2ちゃんねる修業が不足してましたわ
205桃の天然水:2001/03/01(木) 22:03
皇帝溥儀の義理の母にあたる先帝の妃たちの写真を見たことが有る。
どれもこれも、オバQかどらえもんか風間のばばあ(バイト先に居る醜い
デブ)みたいで笑いました。
皇帝になったところであんな妃ばかりなら意味無いじゃ〜ん。と思いました。
206おサル:2001/03/01(木) 22:46
だって美意識が違うんだもん。ちなみに明治時代の美人コンテスト
入賞者の写真見たこと、あります?
「ムーミンですか?」って聞きたくなるような感じですよ。
明治天皇の側室の写真もすごかったっけ。
207名無しのオプ:2001/03/02(金) 02:10
光緒帝の后の場合、多分に西太后の思惑と
権力闘争がからんでいるから、必ずしも
当時の感覚で美人だったとは限らない。
だから光緒帝は珍妃を寵愛したのでは?
208名無しさん:2001/03/02(金) 17:49
なるほど。
209酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 18:05
光緒帝は憐れ過ぎる。どうにか西太后一味を誅滅出来なかった
ものかな?
210名無しのオプ:2001/03/02(金) 18:14
>209
無理でしょう。傀儡だから。
211酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 18:23
>210
いやいや、光緒帝自身がではなく、満洲人でも漢人でも
有志がさぁ。
212名無しのオプ:2001/03/02(金) 18:26
210>211
やはり宮中内の侍衛とか、近衛兵的存在は西太后が
掌握していたはず。皇帝に伺候するだけの官僚たちに
対抗手段があったとは思えないが。
213酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 18:34
>212
西太后一味が清朝を、更には中国を奈落の底へと突き落とした
のだが、あの糞婆を討つ事は無理だったか・・・
やはり、孫中山らの革命しかない!
214名無しのオプ:2001/03/02(金) 18:37
清の太祖ヌルハチが、「わが家を滅ぼすのはエホ=ナラ一族だ」
とかいう遺言の通り、あの西太后(エホ=ナラ氏)が清朝を
滅亡させたという伝説はどうよ?
215酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 18:47
>214
では、何故 ヌルハチはエホ=ナラ一族を討たなかったのだろう?
やはり、後金(後の清)の拡大の為には、
その一族の協力が必要だったのかな?
それより、西太后を側室に迎えた清朝は何を考えていたのだ。
216名無しのオプ:2001/03/02(金) 18:52
>215
エホ=ナラ一族は当時格式が高く、ヌルハチ自身その氏族から
娘を娶っている(その子が太宗ホンタイジ)。
清末には落ちぶれていたのでは。
217あやめ:2001/03/02(金) 19:22
光緒二十四年に帝は袁世凱の指揮する新建陸軍を利用するクーデターを
企図し、康有為に密諭して袁に連絡させました。帝の計画としては洋式
訓練をうけた新建陸軍に挙兵させ、西太后の甥で直隷総督として北洋軍
を掌握している榮禄を殺害し、頤和園を包囲して太后を幽閉し一気に改
革を実行するというものでした。しかし袁が表向き承諾しておいて榮禄
に密告してしまったので、この計画は失敗に帰し却って帝は幽閉され太
后の訓政が復活してしまったのです。
218七資産:2001/03/02(金) 20:06
>あやめさん
栄禄って西太后の甥でしったけ?

219酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/02(金) 20:14
袁世凱は西太后と並び近代中国史上最悪の人物。
220名無しのオプ:2001/03/02(金) 20:26
という評価は最近の中国では払拭されつつあるらしい。
あと、栄禄は甥ではなかったはず。
221桃の天然水:2001/03/03(土) 00:07
永禄と西太后は愛人関係でしょ。
222桃の天然水:2001/03/03(土) 00:15
小説「珍妃の井戸」では、
珍妃だけが、いかに美しかったを語っているが、
珍妃の写真だけは見たことがない。
本当にきれいだったの?
223山師さん:2001/03/03(土) 00:21
袁世凱って皇帝になれないことが決定した直後に病死するんだよね
人間、失意のあまり死ぬってことがあるんだな、というのが
高校世界史の授業を受けた俺の感想。

>>222
珍妃は中公文庫から出ている「中国文明の歴史11 中国のめざめ」
67ページめに写真が載っているから、
明日でも本屋で立ち読みしてくればいいよ。

美人ってわけじゃないど、愛嬌がある顔つきだな。
224名無しのオプ:2001/03/03(土) 00:51
浅田次郎の「蒼穹の昴」の光緒帝と珍妃の
ベッドシーンはそそる。
225七資産:2001/03/03(土) 16:24
 何かで珍妃の写真見たなあ。
226桃の天然水:2001/03/03(土) 22:13
ラストエンペラー溥儀の皇后の写真は見たことがある。
チャーミングだった。
阿片で廃人になって、戦乱のどさくさでのたれ死にして墓も無いのでしょう。
珍妃のように皇帝から愛されてもいなかったのだから、清朝で一番哀れな皇后では
ないのでしょうか。
227名無しのオプ:2001/03/04(日) 01:17
↑ちなみに皇后ではない。
228七資産:2001/03/04(日) 10:09
皇后は確か西太后の姪だったような。
229あやめ:2001/03/04(日) 15:00
>218@`220
榮禄が慈禧太后の甥ということは小林通雄さんの書かれたものにありました。但し
その裏付け文献を探し当てられませんでした。彼は瓜爾佳氏で太后は葉赫那拉氏で
血族ではありませんから外甥になるわけです。ということは咸豐帝か太后の姉妹の
子になるはずですが、「清史稿」の「公主表」で宣宗の諸女を検しましたがそれら
しい公主は存在しませんでしたし、太后の妹は醇親王に嫁し光緒帝を儲けています
ので該当者不明です。そういうことで確かに疑問はありますが一応は専門家の言っ
てることなので、?付きでそのまま維持しておくことにしときます。
>227
溥儀の夫人は満洲ダフール族の女性で郭布羅氏、名は婉容で字が慕鴻、民國十一年
=紫禁城内では宣統十四年十月十三日(1922/12/1)に大婚儀が挙行され、十七歳で
皇后に冊立されていますから、名目上は皇后で間違いではありません。溥儀は退位
に際して民國政府から優待条件として皇帝の称号と礼遇を承認されていますので、
統治の実質はなくても大清帝國の天子として振舞っていました。満洲帝國成立後も
彼女は皇后として処遇されていたはずです。
>228
西太后の姪は弟の桂祥の娘の静芬で溥儀ではなく光緒帝の皇后です。「隆裕太后」
と呼ばれている人です。
230七資産:2001/03/04(日) 15:53
229さん、どーも。お詳しいですね。
専門家もしくは院生クラスの方でしょうか。
ところで小林通雄さんて誰ですか?
231あやめ:2001/03/04(日) 18:10
小林通雄さんて確かむかし立教大学におられた先生で老大家です。詳し
い履歴や業績は知りません。
あやめ自身は大学すら入ってません。当然ながら専門家ではなくただの
歴史オタクです。
232七資産:2001/03/04(日) 19:13
>あやめさん
常連の方のようですね。レスありがとうございます。
当方は院試におちてトホホな学生です。
いろいろご教授ください。
小林通雄さんの本とはどの本でしょう?
233桃の天然水:2001/03/04(日) 21:20
ラストエンペレス婉容。
かわいそう、かわいそう、かわいそうだな。
234七資産:2001/03/04(日) 23:24
しかし彼女はダフール族だったのか。
よく皇后になれたなあ。
235名無し:2001/03/05(月) 10:36
ダフール族って?
満州族とはちがうのかいな。
236名無しさん:2001/03/07(水) 05:01
ダッフル・コートを着てる人たち。
237名無し:2001/03/08(木) 06:39
清朝って民族構成がよく分からない。
238名無しのオプ:2001/03/09(金) 01:01
満洲族だろ。
239名無し:2001/03/09(金) 02:35
それぐらいは知ってます。
240【^▽^】ジョーカー:2001/03/09(金) 22:16
20世紀の満洲族で一番勇敢だったのは川島芳子だよ。
あとは腰抜けばかりになっていた。
漢人や蒙古人に敵う筈が無い。
241名無しのオプ:2001/03/10(土) 02:21
粛親王家だな。
242名無し:2001/03/11(日) 02:36
清朝の王家っていうのは、勢力あったんですかね?
歴史的に見ても清末の恭親王はすごいと思う。
243名無しのオプ:2001/03/12(月) 03:15
少なくとも清初は皇帝と競い合っていたのでは。
ドルゴンとかもいるし。
244名無しさん:2001/03/13(火) 01:49
名前からいって強そうなドルゴンあげ。
245名無しのオプ:2001/03/15(木) 01:53
ドルゴンの意味は「穴熊」だそうな。
246名無し:2001/03/16(金) 01:00
乾隆帝が、漢民族の血を引いているって
本当?
247名無しのオプ:2001/03/19(月) 01:22
本当。
248世界@名無史さん:2001/03/19(月) 02:32
嘘。
249世界@名無史さん:2001/03/19(月) 08:03
ドルゴンは飛んでゆく
250あやめ:2001/03/19(月) 13:29
>246
この話はかなり広く信じられていたようです。
明代から科挙及第者を輩出する海寧(浙江)の陳氏という一族がありまし
た。当然に代々高級官僚を生産する天下の名家と目されていたわけです。
雍正帝がまだ一皇子にすぎなかったころ陳家と親しく交際していました。
偶々両家で同日に子が生まれたのですが雍正帝の子は女子で陳家は男子
でした。喜んだ雍正は陳家の当主に嬰児を連れてくるようにと申し入れ
ました。陳家でも有り難くお受けして子供を抱えて参上しました。ちや
ほや大騒ぎが果てて陳家の当主が帰宅し、子供を見るとなんと女児で取
り違えたらしいと判明し打ち震えましたが、敢えて表沙汰にせず雍正か
らの糾明もなく歳月が流れました。やがて雍正は帝位に即き更に歳月は
流れ陳氏の子は帝位に登ることになったというわけです。
この話を元にして現代の武侠小説の人気作家として有名な金庸が「書劍
恩仇録」という小説を書きました。この本は昨年あたり邦訳されていま
す。香港のデレビで連続ドラマになり大ヒットしています。前に横浜の
中華街の市場通りにあるメディアタイトルショップでVDセットを見か
けました。
なおこのテーマは「中国」板の「武侠小説」というスレッドで取り上げ
られています。興味があったら覗きに行ってみてください。

251名無しのオプ:2001/03/20(火) 18:34
>>246
伝説はおくとしても
祖父康熙帝には満洲・漢人の
血が流れていたので、乾隆帝にも
漢人の血は流れていた、はず。
252あやめ:2001/03/21(水) 12:37
康熙帝の生母のトウ(人偏に冬)佳氏が漢軍出身であることは、「清史稿」
の「后妃傳」にも明記されていて確かな事実です。父の名「圖頼」から見
てかなり満化してる感じですけどね。
253世界@名無史さん:2001/03/21(水) 12:51
暴れん坊皇帝とかないのかな
254【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/21(水) 13:19
満漢皇帝 万歳!
255名無し:2001/03/22(木) 18:59
246>>あやめさん・251さん
レス有難う。少し疑問なのですが、
「図頼」というのは非漢民族の名前なのでしょうか。
漢人と漢軍という呼称も意味がちがうのですか?
軍籍にある徴兵された漢民族を漢軍というのでしょうか?
256偽アヤメ:2001/03/22(木) 20:13
清朝皇帝の旗本的存在にあたる旗人と呼ばれる一群の人々がおり、「旗籍」という特別の戸籍に登録された。もともとは満州民族を八つの「旗」に編成して登録したものだが、清が万里の長城を越える(1643年)以前に清に服属した漢人やモンゴル人の中にも「八旗」に編成された者がいて、それぞれ「満州八旗」「蒙古八旗」「漢軍八旗」とよばれ、清朝の支配階層の最上位に位置した。
257名無しのオプ:2001/03/22(木) 22:15
>>偽アヤメ
そーなのか、はじめて知ったよ。
258名無し:2001/03/24(土) 01:11
八旗というのは、旗本なの?
259世界@名無史さん:2001/03/24(土) 07:02
>>258
ま、似たようなもんと考えてよい。
260名無し:2001/03/24(土) 11:05
じゃあ、貧乏旗本の四男坊とかもいるわけだ。
261あやめ:2001/03/24(土) 18:35
>255
「圖」や「頼」というのは満人の名の漢字表記によくある用字です。
「清史稿」の「圖頼傳」には対明戦争で功績のあった満人の「圖頼」とい
う将軍のことが出ています。同傳の末にはトウ圖頼の事跡も載っています
が、彼は撫順を守っていた明将の一族で本名はトウ盛年と言い、清に降っ
てから彼の娘が宮中に入り康熙帝を生んだので、特旨により満籍に入るこ
となり圖頼と名のるようになったもののようです。また皇太后もトウ佳氏
という姓を賜りました。「佳」という字は「家」の代用で満化した漢人に
よく見られます。なおトウ(人偏に冬)というのは北朝時代から遼東に多い
姓です。
262あやめ:2001/03/24(土) 19:12
乾隆帝の出自にいろいろ疑惑が生まれたのは彼の誕生場所が熱河の避暑山荘か北京
の雍和宮なのか、曖昧な取り扱いがなされたところからのようです。清末の熊希齢
という人が任地にある避暑山荘に赴いたところ、周辺の立派な建物と甚だ不調和な
茅屋があるので不審に思い、古手の宦官に尋ねたところ「乾隆帝の実母は南方の人
でシャ(俊の右上のムを凶に替える)大姐つまりアホねえちゃんという仇名の人で、
家人に従って熱河に住んでいましたが侍女に欠員ができた穴埋めに選ばれたところ、
たまたまそこで皇子であった雍正帝が重病に罹り、彼女が40日も献身的に看護し雍
正帝は感激し平癒後に関係を持ち懐妊したのです。そしてあの小屋で分娩したのが
後の乾隆帝というわけです」と語りました。こういう智慧遅れの女性から生まれた
ということなので、道光帝はこの噂をすることを禁じたということです。熊氏はこ
の話を新文学のリーダーとして有名な胡適に伝えて広く知られるようになったそう
です。
263あやめ:2001/03/24(土) 19:40
>253
>暴れん坊皇帝とかないのかな
そういう伝説もあります。雍正帝は皇子のとき康煕帝に嫌われ民間に流
浪し、和尚と呼ばれる人物を頭とする十三人の侠客や力士と兄弟分の盃
を交わし、「血滴子」という武器で暴れていたというのです。これは円
盤の中に鋭利な刃物を閉じ込めてあって、ばね仕掛けで跳びだし首を刎
ねてしまうんだそうです。もちろん全然あてにならない怪しげな噂に過
ぎません。
また10年くらい前に台湾が舞台で皇子時代の嘉慶帝を主人公とする黄門
漫遊記みたいな番組を、台湾のテレヴィで連ドラ放映してたという話を
聞いたことがあります。
264名無し:2001/03/25(日) 03:19
>>あやめさん
この挿話の出典を教えてください。
興味あります。
265あやめ:2001/03/25(日) 09:37
>264
愛人の支那人から聞いた話なので出典は知りません。勝手に調べてください。
266名無し:2001/03/25(日) 10:13
264>>265
すいません、聞いてばかりで。
自分で調べます。
267あやめ:2001/03/25(日) 11:14
>266
265のあやめは偽者です、騙る場合は「偽アヤメ」さんみたく正々堂々
たるフェイクパースンとして出現してください。なお支那人にせよ日本
人にせよミカン星人にせよ愛人は存在しません!
皆様に「あやめって意地悪でヤな女だなー」って思われちゃうじゃない
さー(ホントはそうなんだけど)
でもって出典ですけど馮爾康の「雍正傳」(人民出版社刊)の中の「野史
中的雍正」に燕北老人の「満清十三朝宮イ(門の中に韋)秘史」や蔡東藩
の「清史演義」に出てる挿話として紹介されています。
雍正帝ってスパイを使って高官が遊んでた紙麻雀を一枚こっそり盗んで
こさせたり、文字の獄で処刑した呂留良の娘に暗殺されただの、野史の
ネタにはもってこいの人なんですよね。
268世界@名無史さん:2001/03/25(日) 12:44
中国では近現代人の講史小説を指して野史って言うんですか?なんだかなあ。
269あやめ:2001/03/25(日) 14:42
野史=講史小説とも言い切れません、野史というのは概ね文言で書かれて
あまり長くなく1則1題くらいの、世間の噂話をそのまま書き留めるか
精々多少の脚色をした歴史エッセイみたいなものです。一方で講史という
のは宋の呉自牧の「夢粱録」にある「講史書」あたりから由来するもので、
大衆向けの読みきりか続き物の講談のように口語のある程度の長編物です。
清末から民國になると文人が書く野史も口語体のものが現れますが、両者
は一応は区別できると思います。
「なんだかなあ」というのはどの辺のことかしら?
270世界@名無史さん:2001/03/25(日) 15:05
>>269
蔡東藩の演義モノなんかが野史の範疇に含まれるんですか、なんだかなぁ。
・・・ってことです。かれは前漢演義から始まって民国演義まで書いてるでしょう?
そんな新しいもんを野史に見える雍正帝のエピソードとして紹介するなんて、
ちょっと感覚のズレをおぼえるというか、どうかと思ったわけですよ。
野史ってあくまで史書ですよね。
燕北老人や蔡東藩のは歴史を題材にした小説だし。
271あやめ:2001/03/25(日) 16:11
本来は野史とといえどもちゃんとした歴史書を志向するものであるはず
で、官府の資料によらず民間人が編纂した纏まったものが野史であるべ
きで、「南詔野史」とか飯田忠彦のそのものズバリ「野史」とかが典型
言えるものと思います。「野史」と題さなくてもこの手の著述は歴代に
少なからず存在します。しかし一般に野史と目されているものには説部
の範疇に属するものが多いようです。そういったものが小説との境界が
ぼやけてくるのは止むを得ない成り行きでしょう。そして清末から民國
にかけて新聞連載ものの小説までが一概に「野史」と呼ばれるような事
態も現れてきたと思います。厳格には燕北老人や蔡東藩のは野史からは
はみ出した作品だと考えています。でも馮爾康がそれを野史として語っ
たとしても誤認と決め付けるほどのこともないと思います。系譜的には
どっちかと言えば講談よりは野史の延長として発生したものと認めるべ
きなのではないのかしら。
272名無しのオプ:2001/03/25(日) 17:06
確かに雍正帝には野史・風説の類がたくさんあるよね。
実際のところ、コトの真偽は確かめようがないんだろうけど、
雍正帝が康熙帝の遺言状改竄については、以前『しにか』か
何かで「雍正帝が、歴代皇帝の起居していた宮殿を離れて
新たな宮殿で生活し始めたのは、康熙帝の遺言を改竄した
事実に負い目を感じていたからでは」と、研究者の見解が
述べてあった。個人的には、当時康熙帝は遺言を残す時間もなく
急死したと考えているが、この研究者の意見もなるほど、と思った。
273世界@名無史さん:2001/03/27(火) 14:04
あげとこう。
274名無し:2001/03/27(火) 22:17
おれもあげとこう。
275名無しさん:2001/03/29(木) 02:19
>>272
『しにか』の記述を信用するな!
276世界@名無史さん:2001/03/30(金) 11:04
277?«àÕ?G:2001/03/30(金) 11:47
278?H&amplaquo:2001/03/30(金) 11:56
あげ
279???Q?P:2001/03/30(金) 12:48
280世界@名無史さん:2001/03/31(土) 17:09
age
281世界@名無史さん:2001/03/31(土) 18:17
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