1 :
日本@名無史さん :
2000/10/06(金) 21:44 何となく作ってみた・・・ ダメ?
2 :
>1 :2000/10/06(金) 21:47
字が間違っとる 教皇(誤)−−−>狂皇(正)
3 :
世界@名無史さん :2000/10/07(土) 02:28
歴代教皇様の悪事もろもろを誰か暴露してたもれ
4 :
名無しさんZ80 :2000/10/07(土) 03:02
アレクサンドル6世萌え〜
5 :
世界@名無史さん :2000/10/07(土) 04:26
教皇と法王は別人ですか?
6 :
日本@名無史さん :2000/10/09(月) 11:45
インノケンチウス3世は陰謀好きが顔に現れてるな・・・
ヒトラーが『卓上談義(テーブル・トーク)』で言って いたように、ムッソリー二はローマ進軍をあと一年は待つべき だった。そうすれば、社会党・共産党が国王(サボイア王家)と 教皇(ローマ法王)をローマから叩き出し、 かつ左翼政権がすぐにガタガタになるから、 そこでムッソリー二のファッショ党がローマ進軍! そうすれば、ヒトラーの言う通り”ドゥーチェがイタリア唯一の主人” になれた。
8 :
パシャパシャ :2000/10/09(月) 17:20
大シスマ(三教皇時代)萌え〜三人いても意味が無い
9 :
日本@名無史さん :2000/10/10(火) 04:33
教皇は所詮イタリア国王以下
10 :
枢機卿 :2000/10/10(火) 04:59
>>7 まあ、法王猊下はイタリア半島を追放されても、何処かの
カソリック国へ滞在なさるだけでしょう。
その地からムッソリーニ追放の圧力を周辺諸国へ掛けまくる
可能性も否定できませんね。
法王を協定で抱え込んで、内憂外患の種を押さえ込んだムッソリーニ
のやり方の方が結果的に良かったのでしょう。
ヒトラーさえ適当にあしらっておけば、長らくイタリアの統領で
居られたのに・・・、非常に残念ですな。
11 :
日本@名無史さん :2000/10/10(火) 20:42
ファチマの予言教えろ!
12 :
ネブラスカ :2000/10/11(水) 01:08
現法王ヨハネパウロ2世はポーランド出身と聞いたが、 イタリア以外出身の法王はいつ頃から増えたのであろうか。
13 :
名無し三等兵 :2000/10/11(水) 01:14
>ファチマ もう公開されたぞ。 確か…東欧でのキリスト教迫害を予言したものだったそうな。
14 :
世界@名無史さん :2000/10/11(水) 07:22
神聖ローマ皇帝カール5世の家庭教師であり、ルーヴァン大学総長でもあった、 ユトレヒト出身のネーデルラント人ハドリアヌス6世(1522−23在位)が、 非イタリア人として教皇位にあってから、現在のヨハネス・パウルス教皇まで、 400年間はすべてイタリア人教皇。
15 :
ネブラスカ :2000/10/11(水) 22:37
やっぱりほとんどイタリア人みたいですね。
ボルジアの親父はやはりすごいやつだったのか。
>>14 でも現法王ヨハネ・パウロ2世はポーランド出身が正しいみたいだよ。
1945年ヴィドワイチエ(Vadowice、ポーランドのクラコフ地域)生まれだって。
外務省のデータ。
16 :
ネブラスカ :2000/10/11(水) 22:39
>>15 訂正
1920年生まれ。
1945年クラコフ市ヤジエッロニカ大学卒業、神学専攻
でした。
すいません。
17 :
日本@名無史さん :2000/10/12(木) 00:16
女教皇がいいな。 できれば若い奴、ダメ? というか女の聖職者ってどの辺が最高位?
18 :
世界@名無史さん :2000/10/12(木) 00:24
前教皇謎の死亡の真相きぼーん。
19 :
あやめ :2000/10/12(木) 11:40
>17 女性は助祭までで司祭にはなれないと聞いてますが、最近の風潮で女性に も門戸を開くべきだとかいう話も出てるみたい タロットカードのキャラには女教皇ってありますけど、High Priestess だから女司教とか女司祭長とか訳す場合もあるようです 中世には女教皇の伝説もあって重要な祭儀パレードの最中に分娩しちゃう といった、無惨きわまりないお話なんだけど今その文献が見あたらないの
20 :
コピペ :2000/10/12(木) 21:35
生活全般板から拾ってきました。事実ですか? 68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2000/10/12(木) 00:08 ローマ法王がセルビア人(?)にレイプされて妊娠しちゃった イスラムの女性達に「中絶は悪だ、産みなさい」なんて余計なコメント してたの思いだしちゃったさ。それ以来ローマ法王なんて聞くだけでも 吐き気がする。 結局自分の身体じゃないもんだから、好き勝手なこと言えるんだよね、男って。
21 :
る :2000/10/12(木) 22:25
あやめ殿の正確な資料が出るまでのつなぎとして。 857年LeonIV死去のあと法王となったJeanVIIIがRogation祭の儀式中に女児を出産。 母子とも生き長らえなかったという。 (Gerard de Sede [Les Templiers sont parmi nous]Flammarion@`1975@`pp137) 少なくともルネッサンス期まで、カトリック教会はこの事件を否定していない。 同時代のVaticanの司書Anastasseが[Liber Pontificalis]で始めて記述して以来、 この事件は、Mets@`Erfult@`Martinなど11〜13世紀の全ての教会史に記載されている。 16世紀、15世紀には、法王の命により歴史を編纂したAmaury D'Augierと Barthelemy Sacchiがこの事件を詳細に紹介している。(略) 当時、ローマには女児を抱く彼女の像があり、その銘文には「PPPPPP」と記載されていたが、 Sixte Vが打ち倒し、テーベ川に廃棄した。 シエナの聖堂には彼女の銅像があり、その銘文は「Johannes VIII@` femina」であった。 (略) (op.cit@` 注釈より抜粋) ただしこの本自体 電波本の類なので、本当かどうかは知らない。
22 :
世界@名無史さん :2000/10/13(金) 22:11
>>20 は本当なんでしょうか。
ご存じの方いませんか?
23 :
ネブラスカ :2000/10/14(土) 04:49
教会が現在でも人工妊娠中絶を認めないのは事実。 極端に保守的な場合は、避妊も認めない。 いわゆる民族浄化に関連して、中絶は認めないというコメントを出したのも事実。 人工妊娠中絶については、特にアメリカで極端な対立が起きていて医師が殺害されるなどの事件が発生している。
24 :
あやめ :2000/10/21(土) 19:05
>21 女教皇の文献がまだ見つからない、ってゆうか何ていう本に出てたのかが思い出せないの。それほど詳しさもオリジナリティもないものだったので、御期待に副えるほどのものでもないし。 ってことで今日たまたま本屋さんへ寄ったら「ローマ教皇事典」(三交社刊)という本が目に付いて、立ち読みしてたら「女教皇」という項目がありました。お値段いくらと見たら7000円だって!「ローマ教皇歴代誌」(創元社刊)の2倍以上じゃない、お食事後で持ち合わせが全然不足してたので、買うには諦めてこの項目の内容をしっかり頭にインプット、忘れない内と今カキコしてるわけです。 大体は{る}さんが書かれたのと同旨ですが、初め彼女は男装して写字生として教皇庁に勤め、能力を認められ遂には教皇にまで選出されたが、ラテラノ聖堂(有名な公会議が何度も開かれたとこね)へ行進中にコロセウムのとこまで来て、女児を出産して女性であることが発覚し石打刑に処せられた。 という話なんですが、確かにレオ4世を継いでヨハネス8世と名乗ったということになってます。当然ながらカール禿頭王に帝冠を授けたヨハネス8世とは別人です、彼は50歳代で教皇になってますので女性だったとしても妊娠は到底無理でしょうけど。 この伝説は長いこと信じられていて文学上のテーマとしても恰好のものであったので、ペトラルカやボッカティオが取り上げているということです。しかし西暦17世紀になってモーリス-ブロンデルという人がその信憑性を覆す考証を発表し、以来まともな歴史家からは全く顧みられなくなりました。 またこの伝説には別系統のものがあり、そちらでは1100A.D.に即位した教皇のこととなっているということです。この説の発生事情は何となく想像できるように思います。ウルバヌス2世死後の対立教皇のテオドリクスもアルベルトゥスも相次いで短期間に非業の死を遂げているので、スキャンダラスな噂話が民間で取り沙汰されるようになったのではないでしょうか。 ところで西の女教皇に対して東には男皇后という話が支那の南朝時代にありますが、スレの趣旨に逸れますので今回は遠慮しときましょう。
25 :
あやめ :2000/10/21(土) 19:29
>同時代のVaticanの司書Anastasseが[Liber Pontificalis]で始めて記述して以来 このアナスタッセってレオ4世死後の教皇アナスタシウスと同一人物じゃないかしら
26 :
る :2000/10/22(日) 18:37
>>25 それって対立教皇のほうですよね
というか、対立教皇(anti-pape)って概念がよくわからないです。
分裂状態ってことなんでしょうか?
ちょくちょくいるようで、Avignon時代はわかるとしても、二人の教皇が
同じローマにいるのはちょいと想像つかないです。
「Liber Pontificalis」というのはどうも有名な文献みたいですね。
例の「3人の預言者」の名前を確定したのがこの文献だとか。
ほかにも教会初期の逸話や、フランク王と教会の関係だとか、
そのへんがこの文献に拠っているようです。
カール大帝様に聞いてみようかな。
PS まともな文献がなくWWWで調べてるので信頼性はあまりないかもしれません。
27 :
る :2000/10/23(月) 03:02
>>26 「Liber Pontificalis」は特定の文献を指すのではなく、
「教書」みたいな意味ではないか、との示唆がありましたです。
よく調べもせずいいかげんなことを書いてしまったかもしれない。
はっきりしたことわかるまで引きこもろう。
28 :
る :2000/10/24(火) 02:14
とりあえず訂正できるとこだけ。
>>27 Liber Pontificalisは歴代教皇の事跡等を編年体でまとめた公式史みたいなものらしい。
当然、適切なる日本語表記や日本語訳もあるはず。請うフォロー。
初期の部分はAnastasius Bibliothecariusの編によるものとされてきたが、現在では否定されているようだ。
>>26 「3人の預言者」云々は別系統の史書Liber Pontificalis Ecclesi Ravennaに絡む話。
>>25 二人が同一人物であるという説は確かにあるようだ。
29 :
あやめ :2000/11/01(水) 20:03
{る}さんフォロウ多謝です。今日も本屋さん寄ったのでまたしても「教皇事典」と「教 皇歴代誌」の立ち読みしちゃった(A^y^;; で忘れないうちにとレスしてる次第。 女教皇についてトロッパのマルティンという人が著した「教皇皇帝年代記」という本に、 「女教皇ヨハネスはヴィクトル3世を継いだ人物とも伝えられるが、通常はレオ4世の 次の教皇とされてきた、彼女はイギリスで生まれ恋人に連れられアテネに来て、男装 して諸学を研修し次第に出世し遂に教皇に選出された、ところが側近の者と通じ妊娠 してしまったのだが、当時は出産日が正確に推定できないまま経過していったので、 身重の体を隠してサンピエトロからラテラノまで行進し、コロセウムとサンクレメン テの間の路地でとうとう分娩し、母子とも即死してその場に埋葬された、以後ここは 行進の順路から外されることとなった、彼女が教皇であった期間は2ヶ年7ヶ月と4日 である」と書かれているそうです。 ところでハドリアヌス2世を継いだ人の外にもヨハネス8世っているみたいね。セル ギウス2世の対立教皇だったヨハネスも8世と称したそうです。この人は844A.D.に 対立教皇に推し立てられたのですが、あんまり有力な後ろ盾ではなくて直ぐにセルギ ウスに詫びを入れてしまい、セルギウス派の連中に処刑されそうになりセルさんに命 乞いしてもらって、やっと助かったって締まらない対立教皇でした。 対立教皇は本人より諸勢力の利害打算から担がれちゃうことも多く、当然に両派はバ トルになってしまうわけで狭いヴァチカンに平和共存なんて事態は有り得ません。他 管区の司教だったりすることが多く擁立者が軍隊でローマへ送りこみ、対立者を追い 出したり幽閉したりしたケースも見られます。なお対立皇帝というのもあります。神 聖ロ−マ皇帝(厳密にはドイツ王)の選出にからむもので、ハインリヒ4世に対するル ドルフ-フォン-シュヴァーベンやコンラート4世に対するヴィルヘルム-フォン-ホラ ントなどです。
30 :
あやめ :2000/11/01(水) 20:08
リベレ-ポンティフィカリス」はボニファティウス2世の時代に最初の編 纂が行われ、フェリクス1世からの歴代教皇のデータが記載されていた もので、その元になったのはリベリウス-カタログという文献で、そのま た元は「354年の年代記録者」で編者は後に教皇ダマスス1世の祐筆となっ た フリウス・ディオニュシウス・フィロカルスとされています。
31 :
る :2000/11/02(木) 18:41
どうも あやめ殿のソース「教皇事典」って 僕のソースと同じか、そこから派生したものみたい。 ひょっとして、かなり要約されてますか? 立ち読みで、相当分量の記事をその場で要約、 記憶できるとはやはりただものではないな。 一箇所だけまちがいみっけ。
32 :
る :2000/11/02(木) 19:04
>>24 のモーリス・ブロンデルは別人だと思います。
僕のソースCatholic Encyclopediaの「Popess Joan」の項目には、
あやめ殿の
>>24 とほとんど同じ記述が見られますが、この説を合理的に
否定した人としてファーストネーム無しのBrondelが挙げられています。
他の文献の情報を総合すると、このBrondelはDavid Brondelであることが
わかります。(Maurice Brondelは、19世紀くらいの思想家らしい。)
類推できること:
あやめ殿の「教皇事典」はCatholic Encylopediaの邦訳そのものか、
そこから派生した文献であり、翻訳者または編纂者が早とちりして
Blondelをモーリス・ブロンデルと訳してしまった。
実は「教皇歴代誌」は買ってしまいました。図版が多くて楽しいけれど
ちょいとミイハアちっくかも(笑)←死語。
33 :
る :2000/11/02(木) 19:08
>>32 のBrondelとなってるところは全てBlondelが正しい。
よくやるんだな。
34 :
る :2000/11/02(木) 19:14
ソースー>デミグラスソースー>タンシチューー>舌 の連想で、焼き鳥が食いたくなってしまった 食いにいってきますです
35 :
世界@名無史さん :2000/11/03(金) 08:32
遺伝子問題。
36 :
あやめ :2000/11/03(金) 12:24
{る}さん再度のフォロウ有難うございます。 私も両ブロンデルについて少し調べてみました。 David Blondel(1590〜1655)はフランスの文献学者で、偽イシドルス 法典(Pseudo Isidorus)の信憑性について徹底的な批判を加えた人です。 従って女教皇伝説の嘘を暴いた研究もこちらに帰せられるのが適切です。 この法典の批判的研究をした先駆者は15世紀ではニコラウス-クザヌス・ ファン-デ-トルケマダ・ロレンツォ-ヴァラなどが数えられます。 Maurice Blondel(1861〜1949)はパスカルの影響を受けたカソリックの 思想家で、アウグスティヌスとトマス-アクィナスの神学を統合せんとし た人なんですって。最近の人だったんじゃない! 「歴代教皇誌」すぐ隣に「教皇事典」が並んでなかったら私も買っちゃった かもね。女教皇がしゃがみこんだ足元にアカンボが転がってるカラーの 絵には笑えました。29のレスに引用したマルティンの著書は「歴代誌」 の記事です。 もう少し寒くなったらタンシチュウ作ってみよっと(笑)
37 :
る :2000/11/05(日) 01:43
こちらも、BlondelからPseudo Isidorusにたどり着きました。 年代は9世紀、10000以上の文章を切り貼りしてでっちあげ、 元文献はわかってるだけでも100をくだらないとか。 「疑いもなく、著者はその時代有数の知識人であったと思われる」(Catholic Encyc.) とあるので、疑いは当然例のAnastasius Bibliothecariusにも向けられるはず。 ただ、上掲の記事には、「中にはAnastatiusを著者と疑う説すらある」と 表現的にはAnastasiusをアプリオリに除外する表現となってたのが逆に印象的でした。 このAnastasius、なんとなく匂う。対立教皇Anastasiusと同一人物という説もあるし、 中にはAnastasius=女教皇とする説(Quid2000、France)すらある。もしそうなら、 その名が示すとおり当時最高の知識人、対立教皇となりながら和解し、歴代教皇に重用され 政治手腕ありーの、外交手腕も発揮しーの凄い癖のある人物ですな。 (昔の)梅原猛の書くところの藤原フヒトのイメージを思い出しましたです。
38 :
世界@名無史さん :2000/11/10(金) 00:50
age
39 :
あやめ :2000/11/12(日) 13:47
昨日お出かけした序でに例の本屋さんに寄ってまたまた立ち読み 「教皇事典」の原題は"Pope Encyclopedia@`An A to Z of the Holy Father"で、著者は Mattew Bunson という人でした。 横の方に岩波と東京堂の「世界人名事典」が並んでたので、Blondelを 引いてみたけど David も Maurice も載ってませんでした。岩波の方 には Blondel de Nailes とかいう吟遊詩人、東京堂の方はファースト ネーム忘れちゃったけどフランスの建築家が2人載ってました。そこで 不審なのが2人とも時代も接近したフランスの建築家なのに、片方の姓 は「ブロンデ」もう一人が「ブロンデル」と読み方が異なってること、スペ ルは同じなのによ。ブロンデルの方はサン-ドニの門を造った人なんだっ て。
40 :
あやめ :2000/11/12(日) 15:07
それから晩にある会合に出たら某私大の先生と隣り合ったので、専攻を お尋ねしたところ「フランス中世史です、最近は主に民衆運動をテーマに 勉強してます」「それじゃ当時の教会事情なんかもお詳しいんですね」「詳 しいと言いますか民衆運動と教会は密接な関係がありますので」「で教皇 庁はイタリアなので守備範囲がずれるんでしょうか」「いやフランスの勢 力というのが教皇の地位に影響を持ってますので一応の程度のことでし たら」「アヴィニヨンの捕囚なんてありますよね」「アよく御存じですね、 14世紀のことですけどね」「その前から対立教皇とかは出てますよね」 「それも皇帝とかフランス王もそうですけど諸侯の思惑とか、いろんな 勢力が関わってきて対立教皇が生まれる状況が出てきちゃうんですね、 勿論そこに御本人の野心とかも絡みますし」「一応コンクラーベやった結 果ってものも出るんでしょ」「そのコンクラーベもですね両派で各自それ ぞれやったりもするんですよ、ローマじゃなく勝手な場所だったりね」 「ローマ市内で二人の教皇が対立しながらも平和共存てシーンはないわけ ですか」「平和にとは言えませんけど共存というのはありますね、7世紀 だったと記憶しますがテオドルスとパスカリスというのと対立しまして、 ラテラノという聖堂に二人とも立て篭もっちゃって根競べしてたことが あったんですね」「ラテラノって公会議やるとこですよね」「そうそうラテ ラノの中を真っ二つに割って頑張ってたんです」「結果はどうなったんで すか」「あんまり見っとも無いのでローマ市民が愛想つかしちゃいまして、 第3勢力の人を持ってきて教皇にしちゃったんで決着となりました、聖 セルギウスという教皇なんですが」「2人はどうなったんですか」「降参す るしかないですよ、どっちの人だったかは皆の前でセルギウスに接吻し たそうです」「ローマ市民の人気とかも関係するんですか」「そうですね、 権力者の持ってきた教皇が不人気で市内で暴動騒ぎになることもあった ようです」「権力者同士のぶつけ合いで負けた対立教皇って殺されちゃう んですか」「そういう例もありますがヤバイと気付いた方が、逸早く擁立 者の勢力範囲に逃げ込んじゃうのが多いと思います、実は対立教皇の史 料っていうのが少なかったり怪しかったりするんですよ」「はぁ…」
41 :
あやめ :2000/11/12(日) 15:47
前の会話の続きです 「史料が怪しいって言えば女性の教皇っていう話も長いこと信じられてた みたいですね」「ヨハンナ伝説ですね、いろいろ知ってらっしゃいますね、 教職とか就いてられたことがおありなんですか」「いえ自己紹介でも申し 上げましたが、半分無職みたいな者なんで教職に関係したこともないで す、それでヨハンナですけど赤ちゃん生んじゃったなんて小説そのもの ですけど、本当に史実として扱われてた時期もあったんですか、現在は 当然否定されて信じてる人なんてないんでしょうけど」「勿論それは研究 者の間では完全に否定されてることなんですけど、ヴァティカンでは必 ずしも然からずなんですね、これが」「エッ実在したことになってるんで すか」「とも言えないんですが彼女が在位したという言い伝えを無視でき なくて、典礼や実務の面では一応そのような前提に立った扱いも存在す るんです」「…??」「つまり教皇立候補者に対するセックスチェックです」 「ほんとにー」「ホントなんです、女性に向かってこういう話題もあれで すけど、端的に言いますと男性器の確認ですね、コンクラーベ開始に先 だってやるみたいですよ」「オドロキですゥ」「具体的な話になって気が引 けますが御免なさい、あのですね前を開けてもらって下から覗くんだと か、床に鏡を置いて映すんだとか色々聞いてます」「痴漢の覗き撮影みた い、マジなんですか」「細かい話は伝聞ですからどこまで真実か判りかね ますけど、最低セックスチェックやってることだけは確実だと思います」
42 :
る :2000/11/14(火) 11:23
わははは。
15,6世紀くらいのこんくらべはラテラノの大広間に枢機卿たちを
閉じ込めて、新教皇が決まるまで外に出さないそうですね。
みんな大広間に自分のテントをはって、そこで寝起きするそうです。
そいえば、最近もどっかの国で根競べやってますね。
>>41 関連する研究者と接触できるとは羨ましいです。
セックスチェックは、ヨハンナ実在説のひとつのよりどころと
なっているようですね。ここ2週間ほどほとんど寝てない状態が
続いていて整理ができてないのですが、せっかく集めた資料を
ほっとくのももったいない、(というかまとめとかないと忘れてしまう)
ので昼間からビール飲める状態になれたらまとめてみようかな。
43 :
あやめ :2000/11/14(火) 12:37
>関連する研究者と接触できるとは羨ましいです。 ってこれほんとに偶然にお隣に座った方が専門家だったってわけなの。 異業種交歓パーティみたいな集まりで、お名刺いただいときゃよかった んだけど、ヨッパ状態でうっかりしてしまいました。 どっかの国のコンクラーベもどうなっちゃうんでしょうね、世の中ケッ コウ中世的 ^o^
44 :
世界@名無史さん :2000/11/19(日) 01:01
この前バチカンに行ったら、ちょうどティベレ川をはさんだ向かいに あるイエズス会本部の屋上を各国のマスコミが場所取りしていた。 コンクラーべの結果は教皇庁の窓から煙で知らせるので、その屋上からは その窓が一番よく見えるからだといっていた。なんか、予定されてるっぽい。
45 :
世界@名無史さん :2000/11/19(日) 23:41
>>36 偽イシドルス法典
皇帝が西ヨーロッパを法王にあげたってやつですか?
46 :
る :2000/11/22(水) 09:10
47 :
世界@名無史さん :2000/11/22(水) 11:31
『偽イシドルス文書』は教皇の地位の確立に大きく貢献した文書。 この文書出現以前は、すべての司教は使徒の後継者とみなされており、ローマ司教も ペトロの後継者に過ぎなかった。しかしこの文書の出現により、教皇がキリストの唯一の 代理人であり、他の司教はその補助者に過ぎないことが法的に根拠付けられることになった。 つまり教皇を「ペトロの後継者」から「教会の代表者」への発展を決定付けたのが、 『偽イシドルス文書』。
48 :
あやめ :2000/11/23(木) 00:00
>45 これは「コンスタンティヌスの寄進状」"Donatio Constantini"を指すものかと想います。 これは「偽イシドルス法典」に含まれる偽文書中でも最も有名なものです。 内容はローマ皇帝コンスタンティヌスがクリスト教に改宗するに当たって、教皇シル ヴェステル1世にローマを始め西方諸地域の宗教上の裁断権のみならず、統治権をも 寄進したとするものです。 この文書は中世を通じ真実に成立したものと信ぜられ、教皇の世俗権の主張の最大の 裏付として機能しました。レオ9世による対ビザンティン・対ギリシャ教会との関係で 大きな武器となりました。 しかし本来なら世俗君主からの寄進よりクリストからペテロへの授権にこそ権威の由 来を求むべきもので、インノケンティウス4世のようにそうした言説をしている教皇 もいました。ただグレゴリウス5世やシルヴェステル2世のようなフランク出身の教 皇は利用したようです。 この文書が8世紀の偽作であることを主張したの最初の論文は、1440A.D.に発表され たラウレンティス-ヴァラによるもので、以後18世紀末まで論戦が重ねられ定説と なるに至ったものだそうです。
49 :
あやめ :2000/11/23(木) 00:03
フランス中世史の先生との会話の続きです。 「女性の聖職者は絶対に排除するってゆうのが現在でも維持されてるって わけですよね」「まあそうですね、プロテスタントなんかの内部では議論 があるみたいですがね、いろいろおっしゃりたいこともあるでしょうが」 「イエイエ伝統的な制度って尊重されるべきじゃないかと思っています、 中世から現代までずーっと異議なく守られてきたわけでしょ」「例外が一 つも無かったってことでもないんですわ」「女性司祭とかの例もあったん ですか」「もちろん正統的な教会の話じゃなく、異端と言われてる教団の 内部においてのことなんですが」「とすると中世のことなんですか」「はい ヴァルド派ってのが12世紀にありまして、ここは普通の教会のような 聖職者の存在を否定しちゃってるんです」「聖職者がやるような教会業務 は誰がやるんですか」「そうなんです、洗礼だとか告解だとかはやらない わけにいきません、それは完全者と称する修行の積んだスタッフがやる んです、でも完全者は秘蹟を授けられて叙階されるというわけじゃない ので、女性の完全者という人もいたんですよ」「異端だから当然ヴァチカ ンは認めてないんでしょ」「ルキウス3世という教皇から異端宣告を受け てますからね、このヴァルド派ってのは元々ヴァルドという人が組織し たんですが、彼は最初は金貸しだったんです」「天国に行くのは駱駝が針 の穴を通るより難しいと」「そう、ある日たまたま吟遊詩人が語ってる昔 の聖人の清貧な生涯に感激しちゃいまして、回心して財産全部を貧者に 分け与えちゃうんです、そうして托鉢しながら福音を説いて回ってたん です」「共鳴する人を集めて教団を作ったってことなんですか」「はい彼は 神学的教養なんてまるでなくて、ラテン語の聖書なんて読めませんから 俗語に訳してもらって勉強したんですね、それなのに布教活動を公認し てもらいたくて教皇に会いに行くんですよ」「言い度胸してますね」「って ゆうか無邪気なんです、ちょうど公会議やってるラテラノに乗込んでき たんですが、初歩的な神学知識しか持ってないので意地悪な問題に引っ かかって笑われて大恥かいちゃうんです」
50 :
あやめ :2000/11/23(木) 00:27
続きます 「教皇に会いに行くとこなんかはアッシジのフランシスコに似てますね」 「似てますね、ただフランシスコの場合はヴァルドと違って教団としての 承認を取り付けているんですよ」「フランシスコを主人公にした映画を前 にテレヴィでやったの見ましたら、彼も教皇に理解されなくて失望して 独自に活動はじめるみたいな筋になってましたけど」「そういう映画があ るんですか、見てませんでした、彼の場合は托鉢修道教団という位置付 けで承認してもらったわけなんですがね」「ヴァルドがダメでフランシス コが認めてもらえた理由って何ですか」「情勢の変化ってことでしょうか ね、カタリ派って聞いたことおありですか」「南仏で勢力があった異端と いう程度には承知してますけど」「すごい勢力があったんです、異端とし ても半端じゃなく十字架ダメ画像もちろんダメ、結婚による性交まで否 定してたそうです」「お城に篭もって抵抗したとか」「相当な武力持ってま したので最後は十字軍で鎮圧したんです」「十字軍ですかァ」「アルビジョ ア十字軍ていうんですが、なにしろ教皇としてはそっちの対策が最大関 心事で、フランシスコ派みたいな無害なとこは認めてやってもいいと、 むしろ広告塔として利用できる面もあると」「どういう点が広告塔になる んですか」「カタリっていうのは病的な潔癖みたいなニュアンスの言葉で、 生活全般を清潔にというのがモットーなんです」「最近の若い人みたいで すね」「いや神経的な清潔じゃなく身の行いを正しく、肉体的な欲望を徹 底的に排除しなければいかんと、そういう点で既存教会は腐敗堕落して るって猛烈に攻撃してくるんです」「実際そういった面もあったんでしょ」 「そうですね、それでこっちにだって現世的欲望を断って修道してるヤツ もいるんだぞ、みたいな意味での宣伝に利用した形跡があるんですよネ」 「はー、いやー今晩は勉強になりましたわ」
51 :
る :2000/11/28(火) 02:38
>>48 donatio constatiniですが、確かに偽イシドルス教典の中に含まれ、これにより広く影響を与えたらしいんですが、
偽イシドルス教典よりも成立は早く、別の作者の手によるもののようです。
内容から言えばローマ筋が怪しいんですが、どーもフランク筋が怪しいらしい。
ローマー>教皇ー>フランク という統治権委譲を正当化するためのもの、
という説が有力らしいです。
52 :
世界@名無史さん :2000/11/30(木) 10:57
バチカン旅行記念age
53 :
あやめ :2000/11/30(木) 13:50
「コンスタンチヌス寄進状」はフランク王の小ピピンによる教皇領の成立 に関し、ビザンチンに対して正当性を主張するため偽作されたもののよ うです。 中世の教皇領はかなり広大ですが元来は東ローマ帝国のラヴェンナ太守 の支配地でした。太守はランゴバルド族の脅威に対して有効な防衛がで きず、教皇が蛮族と交渉したりして権威を高めていました。グレゴリウ ス3世は聖像礼拝問題をめぐり東ローマと争い、皇帝レオ3世を破門し 皇帝もローマ教会所在地を没収するに至りました。グレゴリウスも後継 者のザカリアスも領土と地位の保全のためフランク王国に接近し、さら にステファヌス2世は遂にランゴバルドの圧迫を逃れてパリに赴き、救 援をピピンに求め彼に"Patricius Romanus"(ローマ貴族)の称号を贈り ました。これは本来なら皇帝の代官たるラヴェンナ太守にのみ許される ものです。ピピンは"Promissio Carisiaca"(寄進契約)によりランゴバ ルドが奪ったイタリアの教皇領の還付を約し、教皇はピピンのメロヴィ ング朝の簒奪の正当化を認めました。ピピンはこの約を践んでランゴバ ルド王国を756A.D.までに討平し、ラヴェンナ及びペンタポリス(5都市 地方、長靴のふくらはぎの部分)を独立した世俗領として教皇に進呈しま した。 ビザンティンは当然この措置に異議を唱えることとなりましたが、法的 にはフランクに東ローマ領の処分権なんかあり得ないわけで、教皇陣営 としては何とか理屈と証拠をでっち上げる必要を感じました。かくて偽 文書である「コンスタンチヌス寄進状」が成立したものと推測されます。 東ローマの世祖皇帝であるコンスタンチヌス様が寄進したものなるぞ、 恐れ入ったか文句あるまいというわけでしょう。 後世における西欧の聖俗諸権に優越する教皇の権威の裏付としてのこの 文書の機能は、成立当初には必ずしも予想されてはいなかったのでない かと想像されます。
54 :
世界@名無史さん :2000/11/30(木) 15:13
>48 シルヴェステル2世って紀元1000年の教皇ですよね。 フランク人?最初のフランス人教皇ですよね。 オーリヤックのジェルベールですよね。 若き神聖ローマ皇帝オットー3世と親しかったと聞いていますが・・・。 そこで「寄進状」ですか、実際どんな風に使われたか歴史書には残ってないんですか?
55 :
あやめ :2000/12/02(土) 20:17
詳細についての情報は承知しておりません、御免なさい。 想像ですけれどオットー3世という人は一種の空想家であったようで、 なまじっか古典的教養が豊かだったもんでローマを首都とする大帝国の 建設を夢想していました。シルヴェステル2世の方も皇帝のこうした希 望に沿うような言説をしていたらしいです。時あたかも最初のミレニア ムが目前で人心は怖れと希みに動揺していました。フランク人の王が帝 国を統治しアンティ-クリストの出現まで地上の平和が保たれる、修道士 アゾーの説く黙示録解釈も世に行われていたようで、皇帝と教皇それぞれ の思惑の間で西欧聖俗権力の強化の道具として、「寄進状」が都合よく利用 されていたということではないでしょうか。なお当時はフランス王は「ロ ワ-デ-フランク(フランク王)」と呼ばれていたようです。
56 :
世界@名無史さん :2001/01/03(水) 12:33
忘れないでね♪
57 :
名無しさん@GOBANDB :2001/01/04(木) 00:50
今、まだやってる爺さん、もうすぐ辞めるかにゃあ? どじゃろ?
58 :
世界@名無史さん :2001/01/07(日) 12:46
アナーニ事件って?
59 :
世界@名無史さん :2001/01/07(日) 13:05
どんなことをすればカトリック破門にされるだろう。 あと破門したら、何が困るんだろう。 体裁だけ?
60 :
祝、大聖年終了 :2001/01/07(日) 18:48
祝、モナー誕生一周年 あげ 爺さん、もうやめねえかな? やめるに一票。
61 :
あやめ :2001/01/07(日) 20:15
教皇ってたしか天皇と同じで終身制で自分で退位するわけにいかなかっ たんじゃないかしら。
62 :
ど〜でもいいけど :2001/01/07(日) 20:30
63 :
世界@名無史さん :
2001/01/07(日) 22:15 >>59 たぶん、破門して困る人はいないでしょう。
破門されると、天国にいけないという他に、葬式などの儀式をやってもらえない、
教会の墓場に入れてもらえない、っていうような不利益があるようです。
破門の理由は、教会の指導に従わない場合で、おもに教義上のことでしょうね。
通常の犯罪は懺悔すればいいようです。