1 :
ベリサリウス :
「人類史上最低の国家」カール・マルクス
などと言われてますが、常に滅亡の危機にありながら、
その1000年以上の歴史のなかで幾たびも甦った奇跡の帝国に
ついて語り合いませんか?
といってもあまりに歴史が長いのでどこをどう語って良いやら……
とりあえず、最初は、何故この帝国は何度も再生できたかについて
お話しませんか?
井上浩一先生もおっしゃっていたように、
その結果国力は落ちたとはいえ「一度はローマ帝国を復活できた」
からでしょうか?
(べつに神聖ローマ帝国に対抗して造ったわけではありません(^^;)
2 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 00:58
整理しておきたいんだけど、
広大なローマの版図を分割したとき、
西がすぐ滅亡、フランク、神聖ローマ
東がずっと東ローマだよね?
3 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 01:29
東西中世ローマ帝国万歳age
4 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 03:50
コムネノス朝で決定的に滅びかけたほかに
どのあたりで滅亡寸前という感じに落ち込んでたっけ、この国。
確かコンスタンチノープルが落とされたことは2回しかないですよね?
>2
1453年まで東ローマ帝国からほぼ連続性を保ったまま続いたのが
いわゆるビザンツ(ビザンチン)帝国、ってことですね。
ラテン系だと思ってたらいつのまにかギリシア系にすりかわったり、
世界史学習者を惑わせるドラスティックな変化も多いけど。
5 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 05:27
厨房から質問
なぜ、ローマ帝国は途中でローマからコンスタンチノープルに首都を移したのだろうか
日本人的感覚だと異民族の地に本拠地を移すってのはどうもよくわからん
あと、フィニキアがカルタゴに移ったりとかも
6 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 05:49
皇帝も含めて異民族出身が多かったから。
そして、「ローマ人」という観念が成立していたから。
カルタゴは植民したんでしょ。イギリス人がアメリカに
行ったように。本拠地が移ったわけではないです。
7 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 06:28
別に首都を移した訳ではなくて、ディオクレティアヌス帝の時の
4分割統治の東正帝の宮殿がコンスタンチノポリスだっただけの事。
いくつかの幸運が重なって1000年の都になって行ったのでしょう。
8 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 07:57
>4
>ラテン系だと思ってたらいつのまにかギリシア系にすりかわったり、
もともと帝国の東側はギリシャ語圏のままだったと思います。
もちろん、ラテン語が公用語(って概念が当時あったかは別として)でしたが。
ちょっと忘れたけどある時点でギリシャ語への明示的な移行がありました。
きっと詳しい人が書いてくれるでしょう(を
9 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 09:39
ラテン帝国!
10 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 14:46
東ローマ帝国って、最後滅亡時にコンスタンチノープルと
あとどこが残っていたのですか?
11 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 14:52
>10
コンスタンティノープルだけだろう。トレビゾントとかアテネ候国
なんかは独立政権とみなしてよいのでは?
12 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 15:18
>8
ローマ帝国の東側領域では、アレクサンドロスの帝国とそれ以降の後継者
帝国時代を通じてギリシア語が普及し、広い分野にわたって使われていま
した。ローマが東方領域を支配するようになってからもギリシア語は準公
用語としての扱いを受け続け、ローマ帝国は、実際には東のギリシア語圏
と西のラテン語圏とに分裂していたようです。
13 :
8 :2000/09/08(金) 21:35
12さん、フォローどうもです。
会社から帰ってきたので本が発掘出来ました(笑。
ラテン語からギリシャ語に公用語を正式に切り替えたのは7世紀のイラクリオス帝です。
例えば、629年の法律の中でこれまで皇帝の称号としてインペラトール等を使っていたのに代えてヴァシレフスを名乗っています。
但し、このギリシャ語はすでに古典ギリシャ語からは変化しています。
14 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 22:49
コンスタンティノープルに遷都した理由は、
・アジアとヨーロッパ、黒海と地中海を結ぶ交通の要地で、貿易に有利
・近隣に豊かな土地を多く持つ
・三方を海に囲まれた難攻の土地
というこれ以上無い良い立地だったから。
また、当時すでに絶え間無い蛮族の侵攻にさらされていたローマ帝国としては、
首都を前線近くに置いて防衛に備えるのは割とよくあることだったらしい。
15 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 22:55
>14
そうですね。
西帝国も首都をローマから移してますね。
帝国防衛の為に。
16 :
ベリサリウス :2000/09/09(土) 00:00
メインマシンがどうやらアヴァール人の襲撃にあって起動しなくなってしまった
ので、486sx25のサブマシンでなんとか一日ぶりにwebに接続することができました。
がんばれ9821AS2! でも、すごおおおおおく遅い。
さて、多くの書き込みをいただいてうれしい限りです。
>4
帝国が外からの危機(内的は数え切れませんね)にあったのは、ものすごく大まかに
みてもこれくらいあるのではないでしょうか。
●580〜 アヴァール人・スラブ人の侵入
●626 ササン朝ペルシャの首都包囲
●674〜678 アラブ艦隊首都包囲
●717〜718 同アラブ艦隊首都包囲
疲れました。とりあえずやめます。序盤だけでもこれだけ存亡の危機にあっています。
詳しい方はさらに多くの危機が思い当たるかもしれません。
この国の魅力は、危機を克服し、新しい時代に対応すべくさらなる進化をとげる
ことだとわたしは思っています。
その原動力はなんだったのか、考えてみたいと思います。
それにしても....日本はこの帝国のように新しい時代に適応できるでしょうか。
まあ、でも東ローマ帝国に住んでみたいとは思いませんけどね(藁
17 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 08:35
>16
>まあ、でも東ローマ帝国に住んでみたいとは思いませんけどね(藁
皇帝になるのすら考え物だよなあ。よく殺されるから。
18 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 08:39
皇帝は神の代理人なのに
何故あれだけ頻繁に殺されてるんだろう?
19 :
儒教至上主義者 :2000/09/09(土) 09:47
「人類史上最大のペテン師」ジーモン@ケーニヒスベルク
等と言われるカール・マルクス(シャルル・マルクス、チャールズ・マルクス、
カルロス・マルクス)。
20 :
ベリサリウス :2000/09/09(土) 10:24
17@`18>
皇帝があれだけ殺されるのは、これはおそらくはローマ帝政初期から
の問題だと思うのですが、
「殺す以外に政権交代する方法がない」
からではないでしょうか。
元老院にはそんな権限はなく、(東ローマにはいっても元老院はある
んだよな.....なにをやっているんだかわからないけど)
結局殺すか「鼻を削いで」追放するという手段にでざるおえないという...
とはいえ、東ローマ皇帝は「信じられないくらいくだらない理由」
で殺されることが多い。
宮廷内の揉め事、皇妃の浮気.....
わたしも皇帝にはなりたくありません(汗
21 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 16:59
皇帝の正統性が血統ではなく市民の歓呼にあるからでしょう。
市民が認めればそれが皇帝ですから。
しかし、市民の力の弱くなった中期以降は、権力に正統性を
与える存在がなくなったので力だけの勝負になり、ますます
殺されやすくなってますね・・・。
これだと元老院を過小評価しすぎかな。
22 :
空耳 :2000/09/09(土) 17:22
世界史では東ローマ帝国についてはさらっとしかやりませんよね。
(高校)
やはり西ヨーロッパについて重点的にやってしまう。
そのせいか、東ローマの皇帝のイメージというものがわきにくいように
思います。
東ローマの方がおもしろいのにーー
素晴らしく長持ちした帝国でしたよね。(笑)
23 :
21 :2000/09/09(土) 18:08
しまった、(西)ローマ帝国のつもりで書いてました。
東ローマの話だったんですね。
24 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 18:46
東ローマ帝国の話が出たついでに、質問があります。
コンスタンチヌス大帝が戦争に負けそうになとき、イエス・キリストに、「どうか勝たせてください。そうすれば、私はクリスチャンに改宗します。」と祈った。
すると、イエスは「ああ、よしよし」といって勝たせてくれたことがあるそうですが、この戦いってどんな戦いなのか誰か教えてくれませんか?
25 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 19:05
マクセンティウス帝とのミルウィウス橋の戦いです。
26 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 19:10
>23
21の発言はあながちビザンツから外れてない来もするが・・・。
27 :
24 :2000/09/10(日) 07:22
>>25 ありがとうございます。
もし、できるなら戦いの経過などを教えてください。
28 :
某所からの抜粋 :2000/09/10(日) 13:55
ガリアに置いて皇帝を称していたコンスタンティヌスは、
皇帝位をめぐるライバルであるマクセンティウス打倒を
目指してアルプスを越え、イタリアに侵入、ローマへと
軍を進めた。
これに対してマクセンティウスはティベル川のミリウィウス橋を
背後に陣を敷いた、背水の陣である。
マクセンティウスはイタリアにた皇帝を倒して自ら皇帝を
称した人物で、妹ファリウスタをコンスタンティヌスに
嫁がしており、両者は義兄弟の関係であった。
彼は北アフリカとイタリアを押さえており、兵士数も
コンスタンティヌスより断然多かった。
29 :
某書からの抜粋 :2000/09/10(日) 14:01
このときにあたってコンスタンティヌスはキリスト教信仰によって
奇跡的な勝利を得たという。
「昼間すでに日が傾いた頃、コンスタンティヌスは天高く
太陽の上に光り輝いている従事の勝利の証を、かつ、それに
汝これに勝てという文字がついているのを、自らの眼で見た。
そのことについて色々思いめぐらしている間に、夜が訪れた。
すると就寝中の彼の元に神の子イエスが、天に現れたしるしの
模型を作り、それを敵との対戦に守護として用いよと進めた」
30 :
某書からの抜粋 :2000/09/10(日) 14:05
しかしながら、ミリウィウス川の勝利をキリスト教の偉大な勝利と
見なすことには問題が多い。そもそもマクセンティウスもキリスト教に
大してかなり好意的であり、兵の数の差も誇張しているものと
思われる。
ゲルマン人と戦っていたコンスタンティヌスの軍団と、イタリアで
ぬくぬく暮らしていたマクセンティウスの軍団の力の差であろう。
生き残った帝国ビザンティン(講談社)
31 :
24 :2000/09/10(日) 15:48
>28@`29@`30
詳しいレスありがとうございます。
こういうことで、キリスト教の奇跡といわれているわけですね。
大変勉強になりました。
32 :
ベリサリウス :2000/09/13(水) 01:08
>22
確かに、東ローマの方が西より面白いと思うのですが。
なかなかイメージのつかめない皇帝も、かなり面白い人が多いです。
秀吉のように、自分の才覚だけで厩番から皇帝に成り上がった者や、
遙かカルタゴから行軍して皇帝に上り詰め、ササン朝ペルシャの首都クテシフォンを
包囲した英雄的な皇帝。
「野蛮な」西洋人を手玉に取って、十字軍を起こし、自領を回復したもの……
ほんと、おもしろいですよ、東ローマは。
興味を持たれた方は、創元社の「黄金のビザンツ帝国」を読まれるといいと
思います。
ギボンのように、塩野七生が1453年の滅亡まで書いてくれれば日本での
この帝国の知名度も少しは上がるかも……
(たぶん、ユスティニアヌスまではやるみたいだけど)
33 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 02:01
昔は東欧の方が西欧より文明がすすんでいたんだよね
今のフランス並みの憧れ方をされたのかな?
34 :
そうだよ :2000/09/13(水) 06:34
ロシア人が国の宗教(≒文明)を決めようとして、
イスラムとローマカトリックとギリシャ正教を比較したことがある。
当時のカトリック圏は貧しい途上国だったので興味無し。
イスラムはロシア人の唯一の楽しみ、酒を禁じてるので論外。
結局、ギリシャ正教を採用することになった。
35 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 08:40
この話面白いよね。今と違って当時の宗教は文明そのもの
だからね。初めて聞いたときはとても驚いた。
36 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 12:16
ところで、元(モンゴル)軍はヨーロッパやエジプトに攻撃したけど、
なぜ、東ローマ帝国には攻撃しなかったんでしょう?
37 :
名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 12:44
38 :
ベリサリウス :2000/09/14(木) 01:03
>34、35
そうですね。
確かに宗教は文明そのものだったのでしょう。
ロシア(まだロシアではないけど)の使節がとりわけ感銘を受けたのは
現存する聖ソフィア教会に行ったときみたいですね。
「彼らは自分たちの教会へわたしたちを連れてゆきました。私たちは
天上にいたのか地上にいたのかわかりませんでした。地上にはそのよう
な美しい光景はなく、それをかたることもできません……わたしたち
はその美しさを忘れることはできません」
確かに……現代人でもあの教会は仰け反る美しさをもっていますね。
っていうか、6世紀に60メートル近いドームをもった大建築物
を造ってしまうローマ人恐るべし。
でもわたしまだいったことないんです……どなたか訪れたこと
のある方いらっしゃいます?
39 :
ところで :2000/09/14(木) 06:13
東南アジアのイスラムは戒律が緩くて、けっこう酒も飲んでるけど、
そういう抜け穴を見つけてロシアがイスラムを選んでいたら、
世界史は全く違ったものになっていただろうな。
イスラムとキリスト教の力関係がだいぶ変わって、
どこかの時点でヨーロッパもジハードの波に呑み込まれ、
キリスト教世界は存在しなくなっていたかもしれない。
で、現代の国際共通語はアラビア語になってんの。
40 :
名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 18:03
>34
その話実話なの?「生き残った帝国ビザンティン」(講談社)をで読んだけど
「世界史にありがちなもっともらしい逸話」だと思っていた。
つまりガリレオの「それでも地球は動いている」みたいな。
41 :
ベリサリウス :2000/09/15(金) 00:38
>40
おそらくは実話でしょう。
わたしが38で引用したのは中公の新版「世界の歴史」
ビザンツとスラブの116項からですが、井上浩一先生は
「引用」と書いています。
(生き残った帝国……と同じヒトですね)
時代は東ローマというよりビザンツの全盛期、バシレイオス2世
とかいてます。
なにから引用したかははっきりしませんが……だれかビザンツを
専攻したかたはいないのかしら……
42 :
名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 00:40
みんな、ギボンは読んだのかね?
43 :
名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 07:17
ギボン
途中で挫折しました。
バシレイオス2世の頃は最盛期だろうに
ギボンの書ではまるで何もない停滞期のように
書いていた。
44 :
名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 08:19
>ギボン
老後の楽しみにとってあります(笑。
最近長期入院した時に買ってあったビザンツ帝国史を読みました。
巨大すぎて、入院でもしなかったらきっと読了できなかったでしょう。
45 :
ベリサリウス :2000/09/15(金) 10:23
>ギボン
じつはわたしも途中で挫折(苦笑
機会があれば再挑戦したいのですが。
今はしかし、東海大学編著の「ビザンツ帝国史」を買おうかと
悩んでいます。
でもすごい高いんですよねえ(^^;
46 :
名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 16:09
ロシア帝国は自らを東ローマの後継者と考えていたんでしたよね、確か。だから
宗教的にも正教を取り入れたんでしょう。モスクワに行くと、あちこちにビサン
ツ形式の寺院が建ってました。
クレムリンには双頭の鷲の旗が翻ってましたが、これはやはりローマ帝国の軍団
旗から来ているんですかねぇ。
47 :
名無しさん@1周年 :2000/09/16(土) 19:36
>>45 頑張って買ってください>ビザンツ帝国史(18@`000円)
あの手の本は見かけた時に買わないと、二度と入手出来ない可能性が大です。
48 :
名無しさん@1周年 :2000/09/16(土) 19:40
>>46 双頭の鷲を受け継いだハプスブルクの帝國もロマノフの帝國も一次大戦で潰えてしまいましたね。
紀元前221年から続いた中華帝権も1911年に潰えたし。
1910年代は古代帝権が相次いで倒れた年代だなあ。
49 :
>46 :2000/09/16(土) 23:30
逆だよ。
ギリシャ正教を取り入れて、ビザンツ王家とも縁戚を結んだから、
ビザンツ滅亡後は、自分たちが後継国家だと主張したの。
50 :
名無しさん@1周年 :2000/09/17(日) 22:27
帝国あるいは皇帝 と称する 資格について 教えてください。
51 :
ベリサリウス :2000/09/17(日) 22:55
あ、2チャンに入れる。
ううむ。東ローマ的に復活しましたな(^^;
>50
帝国あるいは皇帝は「世界の支配者」という意味ですよね。
しかし、未だに世界征服をした国がいないのに帝国が史上幾つもある
のは変な話。
まあ、「帝国と称しうる国力をもった国家」というところでしょうか。
「おれが皇帝!」
と宣言し、
「ふざけんな、おめーのどこが皇帝じゃ!」
と攻め込んできた国々を撃退して何代か王朝が続けば帝国でしょうか?
この間までアフリカに皇帝がいたような気がしますが……あれは
どうなんでしょ。えらい小さい国だったし。
ボガド皇帝だったか……まあ、究極的には自分で言ったもんがちですかね。
52 :
50 :2000/09/17(日) 23:52
>>51さん ありがとう
いや、英国など、よく大英帝国と言いますが、正式には連合王国と
称していますよね。でも皇太子がいるので不思議に思っていたのです。
正式には、王太子でしょうか。
53 :
名無しさん :2000/09/18(月) 00:30
>52
インド帝国(英領)があったぞ。
英語で「エンペラー」と自他ともに言えた人は、英領インド帝国の皇帝だけだ。
他に英語圏での帝国・皇帝は、ない。
54 :
名無しさん@1周年 :2000/09/18(月) 07:13
55 :
ボカサ皇帝って :2000/09/18(月) 07:50
いや〜、いきなり即位のニュースが入った時は驚きました、当時。
それまで、中央アフリカなんて考えた事もなかった国だった(笑)。
ナポレオンのマネしてどうするんだろうと思ったら、案の定あっさりダメになったし。
56 :
名無しさん@1周年 :2000/09/18(月) 07:53
>>51 ブルガリア帝国はビザンツを窮地に陥れて帝位を要求した時にちゃっかり
称号を得てしまいましたね。
57 :
ベリサリウス :2000/09/18(月) 16:31
>54
ありがとうございます。すごい面白いHPですね。
やはり皇帝は言ったもんがちのような……
>56
そういえば、ビザンツ皇帝が何処か東方の国の使節に「おみやげ」として
「神聖ローマ帝国」(^^;の称号をあたえたことがありましたな。
(アレレ……当時のルーシだったか? どわすれ)
おみやげでもらえる「帝国」
あなたもビザンツ皇帝に会おう!!
58 :
名無しさん@1周年 :2000/09/18(月) 17:28
>57
それ以外のコンテンツも、ふざけてていい味出してますな。(笑
2ちゃん向きのサイトといえよう。
59 :
ksa :2000/09/28(木) 17:58
皇帝、というのは、世界で一人なのでは?いわゆるシナの皇帝です。皇帝以前は、王も
ひとりしかなれなかった。まだ周が残っていたときに、楚が王を僭称していますが、周王朝からあたえられた爵位は子爵だったはずです。
戦国時代になって、燕、魏、趙、斎、韓、楚、秦がそれぞれかってに王をなのりますが、政が皇帝という尊称を作った。
漢には王は、封建制の爵位のひとつとして、格下げになり、皇帝によって、「世界に一人」の原則が復活したわけです。
皇帝、というのはかなり、「作られた」感がつよいですね。
あとはローマ皇帝の、いわゆるImperatorです。これは、西洋東洋の訳で便宜的にそうなっていますが、両者の歴史、意義などをかんがみるに、まったくいっしょ
とかんがえるのは疑問です。このインペラトトールも原則では世界(厳密にはローマ世界内)で一人です。ハプスブルグ家がローマ帝国皇帝ということですが、
この原則はナポレオンがローマの後継者の地位をねらい、フランス帝国をなのったことでぼろぼろになりましたが。
あともうひとつはモンゴル起源の帝国です。インドのムガール帝国はモンゴル系ですが、これは皇帝、というより「ハーン」から来ていますよね。
ハーンが、皇帝と同意義かどうかは疑問ですが。帝国を名乗りたいイギリス王室も、血統的にはまずまず。大陸に領土をもつこともできない。
そこで、イギリスはインド帝位を継ぐことで帝国を名乗ったのですね。賤しいけど。
つまり、皇帝という日本語であらわすものには、
皇帝、インペラトール、ハーンなどがあります。
日本の天皇も、エンペラーですが、これは疑問ですよね。
あとエチオピアにも皇帝がいたというはなしですが、見栄をはって、エンペラーにしたのかもしれないし、くわしいことはわからないのですが、
経緯をかんがえると、なぜ王ではなく皇帝なのか甚だ疑問です。
60 :
ジーモン・オーヴァーヒューゲル :2000/09/28(木) 20:23
ジャマイカのレゲーは本来、
エチオピアのハイレ・セラシェを全世界の黒人の救世主とする
妄想だかデマだかで誕生した。
でも、よくブラック・アフリカの停滞・後進は西欧の
植民地主義が原因と言われるけども、
エチオピアは1930年代末から1943年までイタリアの
占領を受けただけで独立国、リベリアは主にアメリカの自由黒人
(ムラート=混血を含む)で作られた独立国、
(カリブ=西インド諸島だが)ハイチは200年前に独立。
それなのに、エチオピアもハイチもリベリアもどうであろうか?
61 :
世界@名無史さん :2000/09/28(木) 21:09
>>59 ハンチントンによると、日本はそれひとつでひとつの文明だから天皇は皇帝級。
異論ありありかもしれないけど。
62 :
秀@レイカ命(はぁと :2000/09/29(金) 12:30
>>59 ハーンの元々は「族長」じゃなかった?
モンゴルの統一で「王」と訳されるようになって
帝国の拡大に伴って「皇帝」となった
63 :
世界@名無史さん :2000/09/29(金) 19:33
>あともうひとつはモンゴル起源の帝国です。インドのムガール帝国はモンゴル系ですが、
>これは皇帝、というより「ハーン」から来ていますよね。
ムガル王家の先祖であるティムール家はチンギス=ハンの血を引いていないので
チンギス統原理から「ハーン」は名乗れず、
代々「アミール」(アラビア語で「君主」)を名乗っていました。
また、「シャー」(ペルシア語で「王」)という場合もあるようです。
だから、インド皇帝としてのムガル朝君主はむしろ「シャー」の理念の継承者です。
ちなみに、ムガル帝国の支配下には封土として領域を与えられた軍人として、
土着のラージプート諸「王」が継続して存在していたので、
これと上級権力であるムガル朝君主を区別するためには
ムガルの支配者を「皇帝」と訳すほか無いと思います。
こことは別に、帝国と皇帝スレ立てた方がいいんじゃない?
65 :
>ALL :2000/09/30(土) 03:21
天皇はエンペラーでは在りません。
現人神です。
66 :
ベリサリウス :2000/10/01(日) 01:25
>64
まあ、べつにいいですよ。
でも最近書き込んでいなかったので、ちょっと東ローマネタ(?)を書いておきます。
新「ローマ人の物語」が出ましたが、なんかペースが遅いですな。
このままでは西ローマが滅んだ時点で終わりそうだ。
個人的にはせめてユスティニアヌスまでやって欲しいのですが。
67 :
世界@名無史さん :2000/10/01(日) 14:49
>65
アホウヨは逝ってよし!
68 :
世界@名無史さん :2000/10/01(日) 15:00
日本国天皇陛下は「tenno」かつ「emperor」ですね>65
69 :
世界@名無史さん :2000/10/02(月) 10:13
東ローマが滅んだとき、皇帝の妹がロシアに亡命してロシア皇帝と
結婚したらしいけど、その二人の間に子供はできたんですか
(だとしたら、ロマノフ朝は東ローマの末裔・・・)
70 :
名無しさん :2000/10/02(月) 12:32
最後の皇帝コンスタンティノス十一世の姪ゾエ(ロシア名ソフィア)
がロシアキエフ大公イヴァンに嫁いだのが始まり。ここからロシア
皇帝を名乗るようになった。
直系の血統はイヴァン四世(雷帝)まで続いています。
ロマノフ家が直接引いているかどうかはわかりません。
ただ東ローマ(正教系)の後継者ということでロシア(同じく
正教系)が皇帝を名乗っていたのは間違いないです。
71 :
政教分離名無しさん :2000/10/09(月) 16:56
ag
72 :
パシャパシャ :2000/10/09(月) 17:07
ようは、皇帝は皇帝、エンペラーはエンペラー、天皇は天皇、ハンはハンで、全部違うっていうことですね
73 :
世界@名無史さん :
ローマ皇帝は名称を変えたしねえ。