ブルゴーニュ侯国について語ろう

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1名無しさん@1周年
本領ブルゴーニュのみならず、フランドル、ネーデルランドを
押さえつつあったブルゴーニュ侯国。
マリーがハプスブルク家マクシミリアンと婚姻、その長男が
アラゴン、カスティーリア王国の狂王女ホアナと結婚、、、
スイス民兵なんかに当主がやられなかったら。
ハプスブルク神聖ローマ帝国ではなくブルゴーニュ神聖ローマ帝国
になってたのか。イタリアとの関係は????
2カウニッツ :2000/09/05(火) 05:55
そのうち書き込みます。
という事で、
あげ!
3:2000/09/05(火) 17:09
自己レスだけど、15世紀欧州世界というのはダイナミック
かつ、実にきわどい。ルネサンス、大航海時代、ビサンチン帝国
滅亡、英仏連合王国というのもあったし、フランスのイタリア侵入、
オスマントルコ勃興、、、人物、事件に事欠かない。
ブルゴーニュ侯家による英仏西墺伊を内包した神聖ローマ帝国、
即ちカール大帝によるフランク王国の復活なんて可能性も
ゼロではなかった。
4名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/05(火) 21:33
シャルル突進公は北海から地中海までまたがる
大ブルゴーニュ候国を夢見たっつう話だけど、
ハプスブルク抜きでも可能だったんでしょうか?
それくらいやらないと皇帝家乗っ取りは無理じゃないかと思いまして。
5名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 00:51
「善良公」「突進公」
いったいどんな人なんだと思ったことよ。
6:2000/09/06(水) 02:20
ブルゴーニュ侯国の所領には、神聖ローマ帝国の一部であるブルグント
が含まれてました。つまりブルゴーニュ候はヴァロアフランス王家一族
であり、かつ神聖ローマ帝国の一諸侯でもありました。

またハプスブルク家の一人息子、後のマクシミリアン帝に嫁いだのが
侯女マリーです。事の次第ではブルゴーニュ家がハプスブルク家を乗っ取り
神聖ローマ帝国皇帝位を占めることはまったくの夢空言とは言えなかったと
思います。

スペイン王家との婚姻はその後の話しですが、ブルゴーニュ家とヴァロア王家
の仲の悪さを考えると、万一神聖ローマ帝国を継いでいたら、
スペイン王家との婚姻はヴァロア王家が断固阻止に動いたでしょうし、
ヴァロアフランスvsブルゴーニュ神聖ローマの一戦は避けられなかった
でしょう、

万が一ヴァロア王家を破れば、残るはもうイングランドとルネサンス
真っ最中のイタリアが残るのみです。
7名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 12:52
>1・6
おいおい、なんでブルゴーニュ=ヴァロア家がハプスブルク家を
乗っ取れるんだよ。マリー・ド・ブルゴーニュがマクシミリアンに
嫁いだ時点で、ブルゴーニュ公領の継承権がハプスブルクへ自動的に
行くじゃないか。他に男子の相続者がいなかったんだから。

3段落目もおかしい。フランス=ヴァロアと犬猿の仲なのは
ハプスブルクだって同じ。スペイン(アラゴン)ともナポリをめぐって
対立が続いてた。あのとき、フランスは「断固阻止」に動いたか?

それに、ハプスブルク家を乗っ取ったからって神聖ローマ皇帝に
なれるとは限らない。坊主3人と諸侯4人の胸三寸なんだから。
81 :2000/09/06(水) 23:19
別に、可能性がゼロではなかったと言っただけで、3で言った様に
15世紀欧州というのはどうころぶか分からないキワドイ時代というのを
ブルゴーニュ侯国から見て語りたかっただけです。

シャルル戦死時(1477年)44才であり、後嗣がまったく望めない年
でもないでしょう。ハプスブルク家がヴァロア王家と犬猿の仲に
なったのは、ハプスブルクがスペイン王家を兼ねた(これはまったくの僥倖)
事ににより南、東の両面を押さえられ脅威に感じてからでしょう。

イギリスがノルマンディーから撤退したのは1450年、海外勢力と
事を構えるには早く、ルイ12世、フランソワ1世ぐらいからでは?

専門家の方に聞きたいですが、神聖ローマ帝国皇帝位が世俗諸侯の最高位と
して普遍的(ドイツ的でないと意味)権威があったのはどの時代まででしょうか。
フリードリヒ2世くらいまでしょうか?
9名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 12:12
ハプスブルクとヴァロアの対立は、それこそマリー・ド・ブルゴーニュを
めぐるものから。仏王ルイ11世は王太子シャルル(8世)の后にマリーを
望んでいたのに、ハプスブルクに先取りされてしまったのを恨みに思ったんだよ。

そりゃ突進公が神聖ローマ皇帝になる可能性はゼロじゃなかったけどさ、
仮にフリードリヒ3世が死んだときに突進公が生きてたとしても、
 1、ブルゴーニュが強大すぎる。(これが最も重要)
 2、東方の脅威(ハンガリー・トルコ)に対処するのにブルゴーニュは遠すぎる。
 3、まがりなりにもフランス王家一族であり、フランスの影響力が増大する?
 4、前皇帝の子息であるマクシミリアンの方が血統的に妥当。
の理由で、可能性としては低かったと思う。

神聖ローマ皇帝の政治的権威は、大空位時代からルクセンブルク王朝時代にかけて
相当低下したけど、ルネサンス期に入ってローマ教皇の権威が低下したのに反比例
して持ち直し、ハプスブルク世界帝国の成立に至ってかなりの権威を得た。
それが崩壊したのは30年戦争のため。
101 :2000/09/07(木) 20:12
ありがとう。
実際、ヴァロアフランス王族から神聖ローマ皇帝になるのは実現性は
ほとんどなかったでしょう。神聖ローマ帝国の権威については、
事実上のハプスブルク家世襲になった時点で、ドイツ神聖ローマ帝国に変質し
教皇に対する俗界の王としての役割を終えたのでは。シチリアで生まれ、
ほとんどドイツに行くことがなかったフリードリヒ二世まででは。
神聖ローマ帝国について別スレッドが立ちましたね。そちらに移りますか。
11ルドルフ
フランス系の諸侯が神聖ローマ皇帝になるのに
なんら不都合はありませんでした。
ヴァロワ系ブルゴーニュ家の以前にも
ヴァロワ伯シャルルは
(仏王フィリップ三世の子でカペー系ヴァロワ家の祖)
皇帝候補としてかなりいい線いってました。
あと、ルクセンブルク家のハインリヒ七世皇帝は
幼少期からフランス王の影響下にありました。
当時フランス系かドイツ系かは
あまり関係なかったと思います。