キリストの誕生日

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1名無しさん@1周年
っていつ?
やっぱ12月24日であってます?
2名無しさん@1周年:2000/08/11(金) 10:18
いいえ。9月です。
ちなみに、SantaはSatanのアナグラム。
クリスマスは一体何の日なんだろうね。
3名無し:2000/08/11(金) 20:48
クリスマスは、
北欧の太陽祭が起源だと聞いたことがあります。
だとすると、キリスト教がヨーロッパに広まった3世紀頃に、
12月24日がキリストの誕生日ということになったのでしょうか・・
4民明書房:2000/08/12(土) 19:25
クリスマスは、ローマ市民が信仰していたミトラ教の冬至のお祭りです。
キリスト教が広まってからも、その冬至のお祭りだけは残したかったので、
キリストの誕生際ということにしました。
5>4:2000/08/12(土) 20:04
冬至の祭りを残したままでキリスト生誕の祭りを別の日にやれば祭りの日が増えて嬉しかっただろうに...
61 :2000/08/14(月) 00:10
>4
民明書房ってことはガセ?
7名無しさん@1周年:2000/08/14(月) 00:19
>>4
ホントよ。
つーか、ミトラ教徒も取り込みたかったので、
宣伝のために、ミトラ教の聖なる日である冬至を誕生日にしたと聞いた記憶が。

あ、ミトラ教は太陽神信仰なので、
衰えつつある太陽が復活に向かう日である冬至が聖なる日なのです。
8名無しさん@1周年:2000/08/14(月) 01:04
キリストは紀元前4年生まれというのは歴史学上の定説なのか?
9:2000/08/14(月) 01:29
>7
Thanks
うろ覚えだから、間違ってたら恥ずかしいと思って民明書房と名乗ったが、
おおむね合ってましたね。

よく「日本人なのにクリスマスを祝うのはおかしい」という奴がいるけど、
歴史的に見れば、非キリスト教徒がクリスマスを祝ってもおかしくはないわな。
10名無しさん@1周年:2000/08/14(月) 12:24
だからそのミトラ教の祭とやらも神道に
採り入れちゃえばいいんだよ

そういうの得意だろ? 神道は。
まずは「サンタクロース明神」をどっかの神社に祭ろう!
11名無しさん@1周年:2000/08/14(月) 15:34
 ミトラって、旧約聖書でいうアドミだが、仏教では弥勒菩薩であり、
ヒンズー教では閻魔大王で、いわゆる九尾の狐の子供の方だから、
日本では八幡宮っていうのが、それだ。
12名無しさん@1周年:2000/08/14(月) 15:36
アダム      = ラテン語や英語
アドミ、アドナイ = アラム語やイベリア語

13名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/15(火) 09:34
>8
イエスが生まれるとき、ユダヤの王はヘロデであったと聖書には記されているが、
ヘロデ王はB.C.4年に死んでいる。さらにイエスが処刑されたとされるA.D.30年頃には
30歳以上40歳未満であったと考えられていることから、ヘロデ王の最晩年に生まれたのは
間違いない。当時の政治状況、聖書以外の文献などから、イエスがB.C4年に生まれたとするのが
妥当とされている。
そもそも中世の司教が、イエスの生年を調べる際に単純な計算ミスをしたのが原因とされている。

>1
あくまで聖書が正確に記述されているとの前提に基づけばだが・・・
聖書にはイエスが生まれるとき、野宿をしていた羊飼い達が夜空に明るく輝く星を見たとある。
夏ならともかく、冬のゴラン高原一帯は零下まで冷え込むので、テントの中で寝起きしているはず。
テントの中から星に気づくことは出来ない。
したがってイエスが冬に生まれた可能性は低いと思われる。
もっとも、4世紀以前(つまり4や7が言うミトラの冬至祭と結びつく以前)は、
1月6日が「公現祭」としてイエスの生誕とされていた。
14名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 22:51

そもそも、キリスト教にはイエスの誕生を祝うという
風習は無かったのです。なぜなら、イエスは神なので人間
として生まれた日はむしろ忌むべきことだったからです。
ではなぜクリスマスを祝うことになったかといえば、上に
あるとおり元々はミトら今日の祝日です。ローマでミトラ教が
流行り当時を祝っていた日に、キリスト教側も対抗して何か
お祭りをやることになったのです。その際に、イエスが
生まれたことにして、ミトラ教に対して、キリスト教を
誇示し、また信者がミトラ教のお祭りに参加することを
阻止したわけです。
確か、西暦242年のことだった気が <ここはうる覚え
15名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 22:52
うろ覚えね
16名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 13:40
>2
サンタクロースのサンタはSaint(聖)が変化したものじゃなかったっけ。
聖ニコラスという人がキリスト教の聖人の中にいて、子供に贈り物をしたというエピソードが
アメリカのデパート業界の宣伝に使われたのが広まったと聞いたことがあるのですが。
17名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 14:01
バレンタイン少佐が2月14日にチョコレートを配ったのはガセですか?
1811:2000/08/17(木) 15:57
クリスマスに聖誕祭をするってのは、ローマ教皇(誰だったかは忘れたが)が定めて、はじまったのよーん。
起源はたしか当時祭だったかな。
(そういえば、昔エホバの証人の人が、「クリスマスって何の日か知ってますか?」と勧誘に来て言ったたので、「イエスの誕生日とローマ教皇が定めた日です」とか言ったら、すごすごと帰っていったな。)

>16
そう。聖ニコラウス(本当は二人いる)の伝承に、北欧の伝説がくっついたんだったかな。

>17
っていうか、そもそも欧米ではチョコレートを送るという風習ではないぞ。
あれは、日本発。
19名無しさん:2000/08/17(木) 18:18
>14
キリスト教では、イエスは「神の子」としているわけで、
神そのものではないはずですが。
2014>19:2000/08/17(木) 18:48
おっしゃるとおりですが、細かいですね。
「神の子として産まれた」と読み替えてください。

あ、でもニケーア公会議が325年なので、まだこの当時は
必ずしも三位一体説が正当ではないのかもしれません。
識者の方、解説をお願いします。
21名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 21:57
キリスト教って一神教だというわりには、
北欧にはサンタクロースがいる、
ラテン系の人は聖母マリアを崇拝する、
イタリアの都市国家には守護聖人がいる、
で、ヨーロッパに伝播してからはすっかり多神教じゃん。

結局、民族性>宗教性なんだね。
22名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 14:23
>21
聖母マリアや聖人は「崇敬」の対象であって、「信仰」の対象じゃないの。
23名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 10:34
クリスマスって12月24日とこのスレではなっているけど、25日じゃないの。
24ジーモン@ケー二ヒスベルク :2000/08/29(火) 18:57
5月10日。
2Chが誇る現代のキリストの生年月日が1972年5月10日
だから。
25あやめ :2000/08/30(水) 16:43
イエスの生年月日については神学的史学的にいろいろ議論されています。
その詳細を見るのに最も便利なのはジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁訳
「聖書年代学」(岩波書店昭和42年刊)という本です。
イエスの生年についての問題はちょっと脇に置いて、月日について同書に
より紹介します。原著は訳文と相俟って頗る記述が晦渋で要約に苦労しま
した。年代学的考証は省略します。

アレクサンドリアのクレメンスの「ストロマタ」の記載    194A.D.
 クリストの誕生からコンモドゥスの死まで194ヶ年1ヶ月13ヶ日である。
  11月18日説 (3B.C.)
同書所引一説
 ある人はパコン月25日にイエスは生まれたとしている。
  5月20日説 (3/2B.C.)
同書所引一説                   
 別の人はファルムティ月24か25日に救世主は生まれたと言っている。
  4月19or20日説
エビファニウス「パナリオン」の記載          4世紀末
 オクタビアヌスとシルヴァヌスがコンスルであった時の、ヤヌアリウス月
 満月より8日前で冬至から13日後にクリストは生まれた。
 クリストが生まれたのはヤヌアリウス月の5日の晩から6日の朝にかけてで、
 この日はエジプト暦でテュピ月11日、シリア暦でアウデュナイオス月6日、
 ヒブル暦でテベト月5日に当たる。
  1月6日説 (2B.C.)
同書所引一説
 アロギ派ではポンペイアヌス(ポッパイウス・サビヌス)とスルキピウス・カメ
 リヌスがコンスルの時、ユリウス月またはユニウス月初の12日前にイエスは
 生まれたとしている。
  5月21日or6月20日説 (9A.D.)
262 :2000/08/30(水) 18:17
>16
>サンタクロースのサンタはSaint(聖)が変化したものじゃなかったっけ。
それは、表向き。
正直に、Satanの綴りを入れ替えました、
なんて公式に言うわけないでしょ?
ちなみに、クリスマスは、ニムロデを祝ったものだ
という説がある、と、ある牧師が言ってた。
27あやめ :2000/08/30(水) 18:21
以上は12月25日説以外の異説です。
12月25日説の最も早い記載はフィロカルス編「354年のクロノグラフ」所収の「殉
教者墓所表」に録されたもので、「ヤヌアリウス月初の8日前にクリストがベツレ
ヘムに生まれた」と述べられています。
12月25日説の神学的根拠については、キプロスのテオドレトス「誕生日の説教」に
引かれているアンティオキアで386A.D.にクリソストムスが行った12月25日の説
教の中で詳細に説明されています。
 ルカ1-9   ザカリアが神殿に入った時エリザベトはヨハネを生むことを約す。
        大司祭ザカリアが神殿に入る重要な神事は断食と仮庵祭であろう。
 レヴィ16-29 断食は贖罪の日でティシュリ(第7)月10日である。
 レヴィ23-24 仮庵祭は第7月の15日に始まり7日間続く。
        この祝祭をユダヤ人はゴルビアイオス月の終わりに行っていた。
ルカ1-13   ザカリアへのバプテスマのヨハネの受胎告知。
ゴルビアイオス月は9月1日に始まるので、9月末日が受胎日。
 ルカ1-26   それから6ヶ月目にマリアにイエスの受胎が告知される。
即ちクサンティコス月=4月となる。
        更に9ヶ月でイエスの誕生となる。
        それはアペライオス月=12月である。
クリソストムスは「イエスの受肉において『義の太陽』(マラキ4-2)が人の肉体から
光を地上に送ったのは何たる奇跡であろうか」といった趣旨の言及をしています。
これは冬至における太陽の再生を示唆したものであり、不敗太陽神信仰にクリスト
教の祝祭が取って代わったことを意識するものである、というようなフィネガンの
解説がなされています。
そしてアウグスティヌスの「主は3月25日に受胎されたと信じられている。この日は
また主の受難の日であった。……伝承に従えば主は12月25日に生まれた」という語
を引用し、クリスト教における特別な日が太陽年のそれに合致させられている点を
暗示した解釈を示しています。
東方の博士を導いた星の問題はまた別に書くことにします。
28名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 18:27
>2
それ、ほんとに信じてるの?(プ
2916 :2000/08/31(木) 10:19
>2さん
本気の方だったとは。オロオロ。
そんな重大な秘密なのに、あなたはどうやってこの情報を手に入れたんですか?
そしてこれがどういう意味があるんですか? そもそも根拠は?
ニムロデってノアの子孫でしたっけ。ほぼ伝説上の人物で、誕生日なんてイエス・キリストより
はっきりしていない人ですよね。そんなこと知ってるなんて変な牧師さんですね。

>あやめさん
いつも博識には恐れ入ります。
「東方の博士を導いた星」は超新星ではないかと聞いたことがあります。
また、それによってほぼ年代が特定できるとか。次回のレス楽しみにお待ちしています。
302 :2000/08/31(木) 11:44
>16
つまり、クリスマスは、サタニストのお祭りだということ。
あほなクリスチャンを騙して、キリストの誕生日と称して、
サタンを祝わせているということ(簡単かつ乱暴に言えば)。
そもそも、西暦元年だってキリストの誕生年でも、即位年でも
なく、西暦2000年は、ルシファー暦(Anno Lucino)6000年
だし。
歴史には結構大きなウソがある。のでは?
31名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 12:46
そうだね、サタニストのお祭りってところが歴史のウソって感じだね

つーか、あやめさんの話の続きが読みたい
322 :2000/08/31(木) 12:58
ほい。

「クシュから強い魂の狩人で神に反逆したニムロデが生まれた。
彼はパベル(バビロン)、カラ、エレク、アッカド、カルネ
アツシリア、ニネベ、レホボデ、レセンの町々を建てた。昔の
伝説によるとニムロデはパビロニアの大安息日 一二月二五日
の日曜日に生まれた、という」イエス・キリストの誕生日クリ
スマスは一二月二五日になっているが、実は羊飼いが夜、野宿
していたと言う事から冬でないことは確かなのである。もとも
と初代教会にはクリスマスを祝う習慣はなかったらしい。そこ
でサタンはいつの頃からか、キリストの降誕を祝うという名目
で反キリスト、サタンの子を祝う日としたのであろう。あきれ
返った話だ。クリスマスは太陽が一番表れなくなる冬至の祭り
が変化したものだというのが教会の通説であった。「義の太陽」
と呼ばれるキリストを迎えるという意味が付け加えられていた。
しかし、実はニムロデの誕生日だったとはちょっとしたスリラ
ーではないか。

http://www.geocities.com/Petsburgh/Park/7291/himitu.html
33名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 20:52
>32
プロテスタントの牧師の言うことなんて信用ならん
34話は変わるが :2000/08/31(木) 21:16
12/24日に子ども達にプレゼントを持って来る人の元のモデルって
聖ニコラウスでいいの?
スペインじゃ、サンタクロースじゃなくてガスパール・メルチョール・バルタサールの
のマヒ(マギ:東方三博士)が持ってくる。
フランスはパパ・ノエルだわな。

ここいわは、聖ニコラウスの伝説が形を変えたって事?
35名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 02:18
>34
ミュラの聖ニコラウスで良い。
ただ、元々は彼の誕生日である12月6日に贈り物をする習慣がオランダにあったものに、北欧のトナカイのそりの話がくっついたところに、クリスマス・プレゼントと同一化して、ニュー・アムステルダムから全米にも広がった。
サンタ・クローズはオランダ語のシント・クラウスから。

34のスペインやフランスの話は、多分
その地方に聖ニコラウスよりも崇敬が強い聖人や馴染み深い人物がいたとすると、崇敬の強いの方に仮託されたからではないか、とおもわれる。
36名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 13:38
>33
キリストについてのことで、諸説あるとはいえ、
牧師以外で、誰のいうことをあなたは信用するの?
37名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 14:00
>30
おい、いつからルシファー暦(Anno Lucino)元年は
アダム楽園追放メモリアルイヤーと同じ年になったんだよ。(ワラ
3830 :2000/09/01(金) 14:17
>37
そんなこと、フリーメーソンに聞いてくれ。
六本木の森メーソニック・ビルの礎石に、
「AL5981」と書いてあるんだってさ。
AL=Anno Lucino または Anno Light
AD1981=AL5981
AD2000=AL6000

39名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 14:22
 ぢゃぁ、ルシファーってあの蛇かぁ?!
40名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 14:22
(藁
41名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 14:51
>39
そうだよ。
ていうか、ヘビはサタンね。
で、今や、ルシファー≒サタンとみなされている。
全会一致ではないけど。
キリスト教界では、定説じゃない?
42名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 14:54
Anno(ラテン語) Light(英語、しかも格変化がAnnoと合っていない)

おほほほほ!面白い方ね!「あんパン」みたいな言葉ね。
あたくしもラテン語には通じてないけどそれぐらいは知ってるわ。
羅和辞典でもお引きになったら如何?

43名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 15:24
>42
おいらもそれくらいは知ってるよ。
引用もとの説明通りに書いたまで。
ちなみに、Lucinoは間違いで、Lucisでした。
失礼。
で、Lucis(Latin)=Light(English)という
意味で書いてあるということ。
詳しくはこちら。
http://www.freemasonry.bc.ca/Writings/annolucis.html
44名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 23:49
>36
つーかだね、自由主義プロテスタントの牧師は、いわば何でもありだから、そう簡単に信用できないの
45名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 01:12
18と35に、北欧が起源のサンタクロースについて書かれてますが、
オーディンのことです。
トナカイではなく、馬に乗った姿が伝えられている所が残っているようです。
ついでに有名ですが赤い服を着せたのはコカコーラ。

キリスト教はたくさんの土着宗教から話を持ってきてますね。
クリスマス・ツリーとかイースター。
旧約聖書のデタラメさが起源なのかな。

世界ふしぎ発見で見たんですが、「冬至前後は太陽が一番弱ってて、闇が強くなる
から外出禁止」でクリスマス?なにそれ?な地域が未だに残っているようです。
ブロッケン山のサバトとか・・・
EUといっても多様です。日本だと「鬼は内、福も内」みたいな所かな?
46名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 10:08
>44
だから、誰の言うことなら信用できるの?
って、聞いているんだけど。
47名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 10:29
>46
ハァ?
だから、自由主義プロテスタント的手法によらずにやってくれれば良いんだよ。
48名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 10:55
不勉強の言い訳、カコイイ。
49あやめ :2000/09/18(月) 19:48
先月末にイエスの誕生日に関する諸説について書きました(レス25@`27)。
今回はイエスの出生年について何回かにわけて書くことにします。
前回同様に主な参考書はフィネガンの「聖書年代学」です。

普通の本にはイエスはキリスト紀元元年の生まれではなく、実は4B.C.であると
書いてあります、では何を根拠として前4年を推定したのでしょうか。
イエスの出生の年次について直接間接に言及したものは、先ず当然のこととして
新約聖書です、しかし聖書にはイエスは紀元何年に生まれたとか述べていません。
当時はまだキリスト紀元はありません、当たり前な話ですけど。因みにキリスト
紀元は531A.D.にディオニュシウス・エクシグウスというスキタイ人の修道院長が
提唱したものだそうです。この間の事情についてはダンカン著「暦をつくった人々」
(河出書房新社刊)とマイアー著「西暦はどのようにして生まれたのか」(教文館刊)
などを参照してください。当時一般的だった紀年法はユダヤでは王の統治年次か
ユダヤ教の世界創造紀元で、ローマではコンスルの任命、皇帝の統治年次、ローマ
市建設紀元、セレウコス紀元などです。
やや後世になるとディオクレティアヌス帝紀元がキリスト紀元が普及するまでの間、
主流的な紀年法でしたがこの皇帝はキリスト教を迫害した人なのは皮肉です。
イエスの生誕にまつわる事実についての聖書の記述から、当時の歴史事実と対照し
て間接的にこれを推定するというのが、第一義的な方法ですが歴史学的研究の外に
例の東方の賢者を導いた星についての天文学的研究がこれを補助します。
そして第ニ義的方法としては早期キリスト教徒などが書き残した文献に記載された、
イエスの生誕年次に関する直接的言及です。
明日から先ず文献記載のイエスの生年次についての諸説を紹介することにします。


50あやめ :2000/09/21(木) 19:30
イエスの生誕に言及した文献では年次についてどのような表示を採用しているので
しょうか?
先ず第一の表示法は何らかの事件が発生した一定の年を起点として、将来に亘り半
永続的に毎年または毎一定複数年のシリアルナンバーを付する―早い話が紀元年数
で特定するやりかたです。なお紀元はパブリックな性格のものですが、著述家によ
るプライヴェイトな編年もこれに含めておきます。
第二には特定年の在位コンスルによる表示です。
第三は当時のローマ皇帝であったアウグストゥスの統治年次による表示です。

関係文献で使用されている紀元はオリンピアド紀元とローマ創市紀元です。
オリンピアド紀元は776B.C.を起点として、4年を1単位とする周期(オリンピアド)
の回次と周期内の年次とを組合せて表示します。ギリシャでは年は夏至後の新月から
始まるのですが、他国ではオリンピアドを利用する際は自国の暦法に合わせていた可
能性があります。
ローマ創市紀元は753B.C.を起点とする年次で表示します。元来は4月21日が毎年
の起点であったようですが、153B.C.からヤヌアリウス月(現行カレンダーの1月)に
始まる暦年に合わせるようになったそうです。
関係文献で使用されている編年にアフリカヌスなどが独自に提唱している開闢以来
の年代があります。ユダヤ教で使用されている世界創造紀元もしくはアダム紀元に
似たようなものですが、起点である年次が大分古く5503B.C.ころに置いています。

ローマでは毎年に任期1年のコンスル(最高政務官)2名が任命されてました。その
任期は暦年と合致するもので詳細な任次一覧表が編纂されているため、特定事件が
どのコンスルの任期内に発生したものか記述されていれば、正確な年次を認知する
ことが可能です。
51あやめ :2000/09/21(木) 19:42
「新約聖書」の「ルカ傳福音書」2-1に「そのころ天下の人を戸籍に著かすべき
詔令カイザル・アウグストより出づ」とあって、イエスがアウグストゥスの
治世に生まれたことは疑いないところですが、それがアウグストゥスの統
治第何年のことなのかは後代の記録に待たなければなりません。ところが
彼の統治第何年という表記が実際は一義的なものではないので厄介です。
先ずカエサルが殺され彼の遺言によりアウグストゥスが地位を継承した、
44B.C.の3月17日にその統治が開始したものとして、翌年の同日までを
治世第1年とし以後も同様に年次を序していく方式、言わば満年式とも呼
ぶべき表記があります。
次に44B.C.の3月17日から同年末日までを治世第1年とし、以後は暦年
に従い年次を序していく方式、また即位の年は数えずに翌年元日から暦年
に従い年次を序していく方式、言わば暦年式とも呼ぶべき表記ですが前者
を立年式、後者を踰年式とでも呼んでおきましょう。ここで支那の古代史
に関心のある方は平勢隆郎東大東洋文化研究所助教授が、東周時代の紀年
法において注意を要する点として強調しておられる立年式と踰年式の区別
を想起されたかも知れません。
更にアウグストゥスがアクティウムにアントニウスを破った31B.C.の9月
2日に統治が開始したものとするものとして、これまた満年式・立年式・踰
年式と3種の表記が有り得ます。
更にアントニウスとクレオパトラの死亡した30B.C.の8月にエジプトにお
ける統治が開始したものとするものもあるそうです。
暦年式についてはローマ支配下の各地方による暦法の相違という事情もあ
り、皇帝の統治年次の表記にはかなり複雑な問題が存在するようです。

次回から各文献の具体的な記述内容を紹介することとします。
52名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 12:29
>>22
今更だけど@`それ逆。
教義上マリアや聖人を「崇拝」できないから「崇敬」って概念を考え出したんだよ。
たとえは悪いが@`憲法9条があるから「自衛権」概念がでてきたのと一緒。
53あやめ :2000/09/23(土) 18:41
現存文献で最も早くイエスの出生年に言及しているのは「駁異端論」で、
著者は西暦2世紀末のリヨンの司教イレナイウスで、初めてカトリック
信仰を体系的に解明した書と評価されています。殊に三位一体論を顕示
しヨハネ福音書の価値を確認させたのはこの書の功績であると言われて
います。本書はほぼ180A.D.に書かれたと推定されていますが、その中
で「我らの主はアウグストゥスの統治28年に誕生した」と述べています。
この年は満年式では4/3、立年式で4、踰年式で3(いずれもB.C.以下同じ)
年となります。
次は「ストロマタ(雑録、原義は絨毯)」で著者は2世紀末にアレキサンド
リアで教授していたティトゥス・フラヴィウス・クレメンスです。ローマ
の司教クレメンスと区別するため、通常アレクサンドリアのクレメンス
と呼ばれています。彼は秘儀的認識(グノシス)と信仰の融合を主張する
独自の神学を構築しました。彼は聖書の所説のギリシャ哲学に対する年
代的優越を示すため、年表付き歴史叙述を「ストロマタ」の中で試みてい
ます。本書で「我らの主はアウグストゥスの統治28年に誕生した」と述べ、
またイエスの出生からコンモドゥスの死までは194ヶ年1ヶ月13ヶ日と
も言明しています。コンモドゥスは192A.D.の12月31日に殺されました。
ということはイエスは3B.C.の11月18日ということになります。
54あやめ :2000/09/24(日) 19:38
次の文献は「ユダヤ人への返書」で筆者はカルタゴ生まれの2世紀末3
世紀初の著述家のクィントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥ
リアヌスです。彼は「護教論」など多くの著作があり、クリスト教に対
する異教徒の非難を論駁すると共に、非妥協的な教説を堅持しました。
本書は預言が実現さるべきもであることを証明する意図で書かれたも
のです。そして「アウグストゥスの帝政41年でクレオパトラ死後28年に
クリストは生まれた」「アウグストゥスはクリスト誕生後15年君臨した」
と述べています。またアウグストゥスの統治期間についてクレオパトラ
死後43年で全期間は56年としています。クレオパトラ死後43年に合致す
るのは満年式により計算した場合と、ユリウス暦の8月29日を年始と
する当時エジプトで行われていた暦法での踰年式による計算です。また
ローマにおける彼の統治全期間が56年となるのは踰年式です。これを基
準とすると踰年式によるアウグストゥス統治41年は3B.C.であり、エジ
プト暦年によるクレオパトラ死後28年はユリウス暦では3/2B.C.に当た
ります。
次は「クロノグラフィアイ(年代誌)」で著者は2世紀後半から3世紀前半
のパレスティナの著述家ユリウス・アフリカヌスです。本書は彼の多く
の著述の中でも最も重要なもので、これにより彼は西洋年代学の開祖と
称されています。本書は編年の元期をアダムの創生に取りイエスの生涯
までの聖書上の重要事件の年代を推定しました。その資料としては「セ
プトゥアギンタ(七十人訳聖書)」など多くの文献を参照したようですが、
その作業の具体的内容は省略します。ただオリンピアド紀元(略号Ol.)
が彼のアダム紀元(略号A.Ad.)の4727A.Ad.に相当するとした点は注意
さるべきでしょう。本書ではイエスの誕生は5500A.Ad.=194@`2 Ol.=3
/2B.C.としています。なお本書では大洪水は2262、出エジプトは3707、
バビロン捕囚の解放は4943(各A.Ad.)年となっています。因みにアダム
紀元(創世紀元)にはこの外5493(パノドロス)5492(アンニアノス)5508
(ゲオルギオス)5491(ネストリウス派)5604(グルジア教会)3761(ユダヤ
教)年(各B.C.)などの諸方式があります。
55あやめ :2000/09/25(月) 19:16
次は「クロニコエ(年代記)」で著者はアフリカヌスと同時代のローマの著述
家でイレナイウスの弟子ヒッポリュトスです。本書は234A.D.ころ著された
ものですが完全な形では残っていません。アレクサンドリア本などで復元
されたところではイエスの誕生は5502A.Ad.としています。しかし本書はま
た実際には234/5A.D.に相当するセヴェルス・アレクサンデル帝の統治13年
を5738A.Ad.としており、これから逆算すればイエスの誕生年は3/2B.C.で
なければならないわけです。テーベ本ではアフリカヌスと同じ5500A.Ad.と
なっています。
次は「ルカ傳講義」で著者は2世紀末から3世紀前半の代表的神学者オリゲ
ネスです。彼はクリスト教とギリシャ哲学の融合を試み組織神学の祖と呼
ばれています。殊に聖書訓詁学の基礎を確立した点は重要です。余談です
が彼は聖書の教義に忠実ならんとして自ら去勢したそうです。イエスの出
生年とアウグストゥスの統治期間との関係について、クリストはアウグス
トゥスの41年に生まれ、その後15年アウグストゥスの統治が続いたと述べ
ています。これは前回に書いたテルトゥ リアヌスと同一で3B.C.というこ
とになります。
56あやめ :2000/09/25(月) 19:29
ヒッポリュトスの「年代記」のテーベ本の記載について補足しますと、ある
個所ではイエスの出生年をアウグストゥスの統治42年とし、別の個所では
43年としています。前者なら3/2B.C.となり後者なら2/1B.C.となります。
57あやめ :2000/09/28(木) 20:07
次は「教会史」で著者は3世紀後半から4世紀前半にかけての神学者で、カ
エサレアの司教であったエウセビオスです。彼はオリゲネスの影響を受け
アリウス派のシンパであったようですが、博学ではあったが妥協的な性格
で神学の内容としては深奥なものを欠くと評されています。本書は324A.D.
ころに一応の成立を見たもののようで、この書によって彼は教会史の父の
名声を得るに至りました。本書における年代構築はほぼアフリカヌスに準
拠しているものと想定されます。本書では「我が主イエス・クリストがベト
レヘムに生まれたまうたのは、アウグストゥスの統治42年にしてアントニ
ウスとクレオパトラの死によりプトレマイオス王家が滅んで後28年であっ
た」と述べています。これは他の個所での年次表現から類推してエジプト
暦年による立年式で計算されたものと思われ、アントニウスもクレオパト
ラも30B.C.の8月中の死亡であるので、この約1ヶ月未満がエジプトにお
けるアウグストゥスの統治第1年、8月29日から始まるエジプト暦の新
年が第2年とされ、以降28年は3B.C.の8月29日から2B.C.の8月28日
となります。またローマにおける統治42年は満年式では3B.C.の3月15
日から2B.C.の3月14日までとなり概ね重なります。
ヒエロニムス訳によるエウセビオスの「年代記」では「アウグストゥスの統
治期間は56ヶ年と6ヶ月で、イエスの誕生はその42年目である」としてお
り、エウセビオスはシリア暦で踰年式により計算していたものと思われる
ので42年は3B.C.の10月1日から2B.C.の9月30日までとなり、こちら
も概ね重なることとなります。
58あやめ :2000/10/02(月) 14:31
次は「パナリオン」で著者は4世紀後半にキプロスの司教であったエピファ
ニウスです。本書ではイエスの出生年についてエウセビオスと同様に「ア
ウグストゥスの統治期間は56ヶ年と6ヶ月で、イエスの誕生はその42年目
である」としていますが、またこの年のコンスルをオクタヴィアヌスとシ
ルヴァヌスとしています。この2人がコンスルであったのは2B.C.という
ことになります。
「パナリオン」にはアロギ派の説も伝えています。アロギ派は小アジアを中
心に一時盛んであったモンタヌス派に対抗しており、モンタヌス派が教義
の根拠としていたヨハネ諸書において宣せられているロゴスを排斥する者
―アロゴイと呼ばれていました。エピファニウスによれば彼らはイエスの
誕生はアウグストゥスの統治40年と主張していたそうです。エピファニウ
ス自身は上記のように42年=2B.C.説ですから、40年は4B.C.でなければな
りません。ところがエピファニウスはまたアロギ派の主張するイエス生誕
年にはカメリヌスとポンペイアヌスがコンスルであったとしてます。コン
スルであったポンペイアヌスという人物は存在せず、このころコンスル職
にカメリヌスと共に在位していたのはポッパイウス・サビヌスであり、そ
の在位年は9A.D.ということになってしまいます。
次は「354年の年代記録者」で編者は後に教皇ダマスス一世の祐筆となった
フリウス・ディオニュシウス・フィロカルスとされています。その成立は正
に354A.D.と思われます。本書では「ガイウス・カイサルとルキウス・アイミ
リウス・パウルスがコンスルであった時に主イエス・クリストは生まれた」
と記述しており、本書所載のコンスル在位表ではこの2人はローマ創市紀
元754年の在位となっています。754A.U.C.=1A.D.となります。
次は「クロニカ」で著者はローマの修道士であり史家のカッシオドルス・セ
ナトルで、519A.D.に刊行されたものとされています。本書には「レントゥ
ルスとメッサリヌスがコンスルであった時に、神の子イエス・クリストは
ベトレヘムに生まれた、アウグストゥスの統治41年のことである」と記述
しています。そしてコンスル表にはこの2人は751A.U.C.に在位したことに
なっています。751A.U.C.=3B.C.であってユリウス暦年による踰年式では
統治41年に相当します。
59あやめ :2000/10/02(月) 17:51
このように諸説が提出された後に現在広く使用されているクリスト紀元が
制定されました。考案したのはディオニュシウス・エクシグウスです。彼は
6世紀中期に暦法やカノンに関する教会業務に携わっていたようです。彼
がクリスト紀元を考定することになったのは、教皇ヨハネ1世から復活祭の
日取を確定するように委嘱されたことに由ります。それまでイースターのリ
ストは5世紀初にアレクサンドリアのキュリロスが算定したものですが、525
A.D.にはあと6年分しか残ってないとこに迫っていたのです。この算定作業
に付随して彼が思いついたのは、クリスト教に対する迫害者であるディオ
クレティアヌス帝の即位から年次を数える方式を廃棄し、イエスの誕生を
元年とする紀年法の提案でした。彼の算定法についてフィネガンは当時の
通念に従って754A.U.C.がイエス出生年と考え、始点を同年の1月1日に
置いたものと説明しています。ということは前回紹介したフィロカルスの説
が当時は一般に承認されていたということになるのでしょうか。岡崎勝世著
「聖書vs世界史」(講談社現代新書)では次のように解説しています。ディオ
ニュシウスはイエスの復活が3月25日の日曜日に起こった事実であり、そ
の時イエスは満30歳であったとの想定から出発します。3月25日は受胎
告知の日であり世界創造の日でもある重要な日付です。そして3月25日が
日曜日であり復活祭にも当たる日を探索しディオクレティアヌス紀元279年
を発見しました。そして当時知られていた復活祭1巡周期が532年間であ
るという知識に基づき、532年を遡るとイエスが復活した日の年次が得られ、
更に当時のイエスの年齢を参照して再び31年を遡ります。こうして専ら聖
書の記載と信仰上の通念と暦法上の知識によって設定されたのが、現在
も世界の多くの人が年次計算の起点としている年というわけです。そこに
は歴史事実の探求という観点は顧慮されていません。ダンカン著「暦をつ
くった人々」(河出書房新社刊)では復活祭の532年周期は、週の日数でも
太陰の19年周期(メトン)でも割りきれる便利な数値として、アクィタニアの
ヴィクトリウスが457A.D.ころ発見していたが、ディオニュシウスはこれを知
らなかったらしい、彼のイエス誕生年算定の根拠は不明であると述べてい
ます。どちらが正しいのか判定しかねます。
60名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 08:18
>あやめさん
いつもわかりやすく、かつ、ひろく深いご教授ありがとうございます。
結局イエスの生誕年は諸説あるのものの、どれも決定力に欠き(言い換えれば
根拠がはっきりしない?)、さらに宗教的な意義を中心に決められた経緯があるため
歴史的事実とは大きくかけ離れたものが、現在にいたるまで採用されつづけている
と言うわけですね。
あやめさんの書き込みを見て思ったのですが、過去にはいろいろな紀元年が
存在していたんですね。たしかSF作家のアイザック・アシモフ博士だったと
思いますが、イエスの生誕年を基準とする西暦は使いにくい、古代史のほとんどが
マイナス表記になって歴史を勉強するものにとってはまことに不便である。
オリンピック紀元かせめてローマ紀元にしておけばこんなことにはならなかったのに、
と嘆いていたのを思い出しました。
61あやめ :2000/10/04(水) 19:43
こんな重苦しいテキストをちゃんと読んでくださって有難うございます、特
に「わかりやすく」と言っていただけて正直ほっとしています、余所のスレで
は「もっとスッキリ書いてくれ」と批判されてしまい悲観してました、これか
らも判り易く読み易くを心がけるつもりです。

>イエスの生誕年は諸説あるのものの、どれも決定力に欠き
今まで書いてきたのは初期クリスト教徒たちがイエスの出生年について、ど
のように認識してきたかというテーマを文献を追って見てきたもので、彼ら
の主張の史学的根拠は示されていません。では現在ではほぼ定説とされてい
る4B.C.と考えられている根拠は何か、次回からその点について書くこととし
ます。

>古代史のほとんどが マイナス表記になって…まことに不便である
全くそのとおりだと思います。西暦紀元を公式に採用せよと主張している人
はその合理性と普遍性を論拠に挙げていますが、実は合理的でもなく普遍的
でもありません。その不合理不便利の一端が御指摘の逆進年次です。最も不
適切な点はやはりこれがクリスト教という、日本人のごく一部の人にしか信
仰されていない特定宗教と不可分の歴史を背おっているということです。元
号制度に対して天皇制との関係を理由に反対している人(政教分離原則の厳
格な適用を主張している人とかなりの部分重複すると推定されます)が、こ
のことについて全く潔癖さを放棄してしまっているのは不思議としか言えま
せん。普遍性についても疑念を抱いていますがここでは詳記を避けておきま
す。私としてはシリアルナンバーによる紀年法の利便性は十分理解していま
すので、クリスト紀元に代わる紀元法の私案を最後に示すつもりでいます。
なお特定の一点から未来のみならず過去へも年次を直線的に数えて行く、そ
のことについてもクリスト教では神学上の意味を与えています。次回は先ず
そのことに触れることから書き始めるつもりです。
62名無しさん@1周年 :2000/10/05(木) 08:17
>あやめさん
>「もっとスッキリ書いてくれ」と批判されてしまい
少なくともこの一連のレスについてはそんな批判は出来ないと思います。
諸説を順序だてて記述するためには、これ以上スッキリ書くとわけがわからなく
なると思います。(もっともじっくり読むのに半時間ほどかかってしまいましたが。)
>最も不適切な点はやはりこれがクリスト教という、日本人のごく一部の人にしか信
>仰されていない特定宗教と不可分の歴史を背おっているということです。
わたしは逆にこのことが日本でも受け入れられた要因ではないかと思います。
西欧化を目指していた日本にとって「西暦」は、メートル法やローマ字の導入と同様、
「世界標準」への参画を意味していたのではないでしょうか。その中で、かえって
日本国内では宗教色の薄い(力が無い)「西暦」が受け入れられたと考えられます。
元号制度や皇紀はどうしても国内の権力と結びついているイメージがありますから。

次回のレスを楽しみにお待ちしています。
63:2000/10/05(木) 18:00
あやめさんのスレッド読んでると
教会史の歴史自体にも興味持ってくる
むしろそっちのほうがキリスト教理解には大切そう
64あやめ :2000/10/05(木) 18:39
レス59で挙げたアクィタニアのヴィクトリウスは「復活祭暦表」を作成しまし
たが、表の1列目にイエスの受難から始まる毎年の番号、2列目以下には当年
在位のコンスル名、元日の曜日と月齢、復活祭の日付と月齢を記載しました。
受難から始めたのは復活祭の開始がイエスの受難と関連したものであるとい
う、構造的な理由からで特別に神学上の思い入れはないらしく、また紀元の
提唱といったアイディアとも無関係のようです。しかしイエスの生涯のある
一点から永遠に継続する年次のナンバーという点にディオニュシウスの先蹤
としての意義を認めることができます。そしてディオニュシウスに至っては
世俗の年次表記に代え教会に相応しい紀元を創始しようという動機が明らか
です。イエスや諸聖人の殉教の事跡が「イエス・クリストの支配の下に」現れた
ものであることを、殊更に付記した教会文書が2世紀半ころから見られるよう
になり、世界を時間という側面から神の子が支配していることを意識するよ
うになってきました。世俗の王ではなく真の唯一の王が地上を支配しており、
年次表示もこれに対応することが神学的に合理的であるという観念を背景に、
恰も好しディオニュシウスの提案がなされたのでした。
それにも拘らずこの紀元は当初はなかなか普及しませんでしたが、8世紀前半
のベーダ・ヴェネラビリスの「イギリス教会史」が採用したころから、徐々に他
の紀年法より優位に立つようになって来ました。国王の統治や教皇の在位や
インディクション(ローマ以来の15年周期で租税の改定時期とも騎兵の服役年
限とも説明されています)などの紀年法もだんだん衰えていったようです。
かってローマ支配世界でユダヤ教とクリスト教との共通のの関心事であった
旧約聖書の歴史意識に基づく世界創造から最後の審判までの経過を見とおせる
時代区分や年次設定は、レス54でも触れたように余りにも創造紀元が多様化し
て頼りなくなって来ました。そしてクリストの誕生が現実的な歴史事実として
浮上したのです。クリストのインカネーション(体現または受肉と訳されてい
ます)を歴史認識の中心に据える方式は実用上も神学上も受容れらるべきもの
として、クリスト教世界の標準紀年法の地位を得ることになりました。
この事態は古代の年次についてどのように処理すべきかという問題をも発生さ
せることになりました。
65あやめ :2000/10/05(木) 18:41
不可逆的な時間を過去へ遡上して昇順で数えてゆく不自然な紀年は、一方的に
流れ去る時間の中の一点を歴史の構造的な核心と措定した宗教観念から、必然
的に導き出されることになったものでしょう。ケルンのシャルトル会士ヴェル
ナー・ロレヴィンクは「時代の小束」(1474A.D.)で各時代に属する人名を記入した
円形図表の上下にそれぞれ直線を引き、上の線は出来事がクリストの何年前に
起こったか一目で判るように数字を記入し、クリスト以後は現在まで下に延ば
してあったそうです。しかしB.C.(クリスト以前)という表記自体は17世紀にペ
タヴィウスが創始し、18世紀に一般化するようになったものだそうです。それ
でもまだ彼はクリスト紀元を創世紀元の補助手段として採用しています。

ところでインカネーションによる紀元の神学的な意義については、カール・レー
ヴィットが「歴史の意味付け」(1949A.D.)でユダヤ人が未来に期待すべきメシア
の出現が、クリスト教徒にとっては主の出現という現在完了としての事実とし
て認識され、これを中心として主の年は前後いずれの方向へも延伸しうるもの
であり、ただ終末へ向かう時間は絶えず増殖して行き、そのため紀元前の時間
は相対的に短縮して行くと説明しています。一直線上の2面構造という救済史
の神学的イメージを数値化したものが西暦紀元というわけです。
66あやめ :2000/10/05(木) 19:51
初期クリスト教文献上のイエス出生年に関する諸説を設定年の早い者から
リストアップしてみました。

4B.C.
アロギ派(エビファニウス所引)
4/3B.C.
イレナイウス
3B.C.
カッシオドルス・セナトル
3/2B.C.
クレメンス@`テルトゥリアヌス@`オリゲネス@`アフリカヌス@`ヒッポリュトス@`
エウセビオス 
2B.C.
エビファニウス
2/1B.C.
ヒッポリュトス(テーベ別本)
1A.D.
フィロカルス
9A.D.
アロギ派(エビファニウス所引別記)
67あやめ :2000/10/09(月) 20:08
さてイエスが何時この世に出生したのかという問題について、大分ながたらし
く第2義的方法である後世文献の見解について付き合っていただきました。
いよいよ第1義的方法であるイエスの生涯と同時かまたは近い時期に成立した
資料による、現代の学者が研究した史学的な検討を紹介することにします。

同時資料というと「クムラン文書」いわゆる死海文書を想起される方も多いこと
でしょう。確かにこれらは世紀前2世紀中葉から70A.D.までの記録を含むもの
なので、資料としての同時性に申し分はありません。しかしこの文書の本来の
性質はユダヤ教の特殊な一分派であるエッセネに関するもので、初期クリスト
教についての直接的な情報にとっては余り期待できないものなのです。ユダヤ
教の聖典でもある旧約聖書のテキストの古いものが大量に含まれ、殊にセプト
アギンタ(七十人訳聖書)の評価に寄与するところが大であると言われています。
この文書から判明したと称する初期クリスト教団やイエスの事跡を、センセー
ショナルに喧伝する著述が日本でも評判になりましたが、地道な専門研究者は
その評価については消極的です。少なくともイエスの出生に関する情報は見出
せません。
クリスト教団外の資料でイエスを去ること遠くない時期の文献としては、ロー
マの学者たちの遺してものがあります。そのうちでは官僚としても文人として
も有名な小プリニウスの著書「エピステュラエ(書簡集)」の中に収録されている、
彼がビテュニア総督であった113A.D.ころのトラヤヌス帝に対する報告書や、そ
の数年後に著されたらしい高官で歴史家として知られるタキトゥスの「アナレス
(年代記)」中の記述や、120A.D.に著されたトラヤヌス帝の秘書で伝記家のスエ
トニウスの「デ-ヴィタ-カエサルム(諸皇帝傳)」中の記述にはクリスト教徒に関
する情報がありますが、いずれも帝国のクリスト教徒に対する取締りとか処罰
に係るもので、イエスの生涯についての具体的な言及は見られません。
68世界@名無史さん :2000/10/09(月) 20:31
59 あやめ さんへ

>古代史のほとんどが マイナス表記になって…まことに不便である
>全くそのとおりだと思います。西暦紀元を公式に採用せよと主張
>適切な点はやはりこれがクリスト教という、日本人のごく一部の人にしか信
>仰されていない特定宗教と不可分の歴史を背おっているということです。元
>号制度に対して天皇制との関係を理由に反対している人(政教分離原則の厳
>格な適用を主張している人とかなりの部分重複すると推定されます)が、こ
>のことについて全く潔癖さを放棄してしまっているのは不思議としか言えま
>せん。

日本の「政教分離派」の多くが共産主義か反日本人か切支丹なんですから、
「全く潔癖さを放棄してしまっているのは不思議」ではないでしょう。

彼らの本音は次の通りですね。
(ヨーロッパでは共産主義と切支丹は仲が悪いが、日本では連合している
ようにすら見える)

共産主義:皇室・体制的なものに反発を覚えるため
反日本人:日本の伝統的なものに反発を覚えるため
切支丹 :政教分離を名目に、日本の習慣を潰し、キリスト教の習慣を押し付けるため


69あやめ :2000/10/10(火) 19:27
いつも読んでくださって多謝です。
「皇室・体制的なものに反発を覚える」側の中にも潔癖さを失っていない人が
いなかったわけではありません。いずれも物故された方ですが鈴木武樹さんと
久野収さんです。お二人とも殊に久野さんは右翼や保守思想とは対極に位置さ
れていましたが、西暦紀元は元号と同様に将来もっと真にグローバルな基準に
よる、欧米の武力や文明に圧伏された民族にも受容れられるものに取替えられ
るのが、正義と公平に合致するものであると主張しておられていました。筋の
通った態度だと思います。
お二人に引替え加藤周一などという朝日の御用評論家などは、ロンドンに滞在
していた際にここでは全く元号を見なくて済む、西暦紀元の中に生活すること
が何と快適なことであるか、といった趣旨のレポートを朝日に載せていたのを
読んだ記憶があります。
70あやめ :2000/10/10(火) 19:30
ユダヤ教主流派の文献からクリストの生涯に関する情報を見てみましょう。
膨大な「タルムード」中にはイエスについての言及は十数ヶ所しか見当たらない
そうです。それは当然のことながら批判というより罵詈讒謗に類するもので、
処女懐胎は兵士パンテラとマリアの姦淫をごまかすための与太話だとまで書い
てあるということです。ダニエル・マルグラ著「ナザレから来た男」によると、
イエス関連記事が極端に少ないのは両教徒による検閲のためだそうで、「ユダヤ
教徒は大成功を収めたライバルについて語りたくなかったし、クリスト教徒も
またタルムードが自分たちの主の名を挙げることに耐えられなかった」と説いて
います。
また93A.D.ころにユダヤ人の将軍フラヴィウス・ヨセフスが著した「アンティクィ
タテス-ユダイカエ(ユダヤ古代紀)」は、聖書や聖書外典にも載っていない情報
を多く含んでいることで尊重されています。イェルサレムの陥落当時ウェスパ
シャヌスの命により現地で従軍していましたし、ユダヤに対する関心と好意を
持っていたことで知られています。本書ではイエスに関してはイエスが賢者で
あるとした上、ピラトによる断罪と十字架上の処刑について記しており、復活
などの奇跡について弟子たちが伝えていたこと、メシアだったのかもしれない
などと語っています。またイエスの兄弟のヤコブの処刑についても述べていま
す。しかしイエスに関する情報はこの2箇所にしか現れていません。
結局イエスの誕生に関する証言は新約聖書の中に探るしかなさそうです。
71世界@名無史さん :2000/10/12(木) 22:58
次回、「新約聖書に探るイエス誕生の謎」期待あげ。
72世界@名無史さん :2000/10/12(木) 23:03
次回「新約聖書に探るイエス誕生の謎」期待あげ。
73あやめ :2000/10/13(金) 19:26
今チベット問題に引っかかっちゃてるので、もうちょっと待ってくださいね
74あやめ :2000/10/15(日) 16:57
>72
「新約聖書に探るイエス誕生の謎」ってそんなミステリアスなお話じゃないのよ。
地味な史学上の推理ですから期待はずれかもね。

新約聖書は全編これイエスとその信徒の言行に関するもので、論語やコーラン
が孔子やムハンマドの生涯の事跡を構成するに足りないのとは異なり、外典や
偽典を併せれば概ねイエス伝の素材を網羅していると言ってよいでしょう。特
に福音書は重要な情報が盛られている文献です。
しかし史料としてこれを利用する以上その素性の検討は欠かせません。福音書
などの原本が現在は亡佚していることは断わるまでもないでしょうが、その写
本はかなり古いものが伝来しているそうです。ヨハネ伝福音書などは原本成立
の50年後の130A.D.前後のパピルスが、8.9×6cmの断片ながらマンチェスターに
保管されていて、またジュネーヴに保管されている200A.D.前後のポドマーパピ
ルスにはヨハネ伝の3分の2が残されているということです。新約聖書の全部を
収録する写本としては西暦4世紀のものがヴァチカン図書館とブリティッシュ-
ミュウジアムに各1部が存在しています。不完全な写本に至っては勿論おびた
だしく伝来しており、活版印刷が普及する16世紀までのものを総計すると5000
種に及ぶと言われています。
ところでこれらのテクストが果たしてどこまで原本の内容を忠実に反映してい
るかという問題については、近来コンピュータを利用したテクスト・クリティー
ク学の成果として、1世紀のクリスト教関係の著述における引用を始め8世紀
までの30万の翻訳や引用を比較分析し、テクストの原形や系統がかなりの程度
判明してきたのだそうです。
75あやめ :2000/10/15(日) 19:28
このような聖書学の成果により各福音書の成立や性格が明らかになったところ
では、
マルコ伝は65〜70A.D.にローマで異邦人向けに書かれたもの、
マタイ伝は西暦80年代にユダヤ人信徒向けにパレスティナ北部書かれたもの、
ルカ伝は70〜80A.D.に非ユダヤ人向けに書かれてもの、
ヨハネ伝は1世紀末に小アジアで書かれたもの、
いずれも使用されているのはギリシャ語である点は共通しており、イエスの存
在感について革新性を強調している点も一致しています。それぞれの独自性に
ついての詳説は避けますが、このうちヨハネ伝が特異な構想を持つものである
ことは一読して感得できるところです。
なお新約の中で最も早く成立したのはパウロの諸書簡でイエス死後30年内、次
は使徒行伝やペテロ前書・ヘブル書・ヨハネ黙示録で1世紀末に、次いでテモテ
前後・テトス・ヨハネ1〜3・ユダの各書が2世紀初頭に、ペテロ後書が140A.D.
ころのものと考えられているそうです。こうした各時期の成立の背景に関する
考察も興味あるところですが当面のテーマに入りましょう。
76あやめ :2000/10/17(火) 17:54
各伝福音書の中でイエスの出生年を推定する手がかりになりそうな記事は次の
2箇所にしか存在しません。
マタイ伝2-1、2
 イエスはヘロデ王の時ユダヤのベツレヘムに生まれ給ひしが、視よ東の博士
たちエルサレムに来りて言ふ「ユダヤ人の王とて生まれ給へる者は何処に在すか、
我ら東にてその星を見たれば拝せんために来れり」
ルカ伝1-5
 ユダヤの王ヘロデの時アビヤの組の祭司にザカリヤという人あり、(以下ザカ
リヤに対する妻エリサベツの受胎の告知、6ヵ月後のマリヤに対する受胎告知、
エリサベツのヨハネ出産の記事が章末まで続き)
同2-1〜7
 その頃天下の人を戸籍に著かすべき詔令カイザル・アウグストより出づ、この
戸籍登録はクレニオのシリヤに総督たりし時に行はれし初のものなり、…ヨセ
フもダビデの家系また血統なれば、既に孕める許嫁の妻マリヤとともに戸籍に
著かんとて、ガリラヤの町ナザレを出でてユダヤに上りダビデの町ベツレヘム
といふ処に到りぬ、此処に居るほどにマリヤ月満ちて初子を産み之を布に包み
て馬槽に臥させたり、旅舎におる処なかりし故なり。
なおマルコ伝やヨハネ伝のみならず新約聖書の他の部分―パウロの諸書簡など
にも、イエスの出生に関する記事は見当たりません。前に書いたようにパウロ
諸書とマルコ伝はマタイとルカに先行して成立したものです。
またマタイとルカに共通するのはイエスの出自をダビデに関連付けていること
と、処女マリア懐胎の説話を伝えている点です。この意味もいずれ書く予定で
います。
アウグストゥスとヘロデの治世に戸籍登録が実施され異星が出現したというの
が、前記の聖誕記事の内容なので実年次を順にこれから検討することとします。
77世界@名無史さん :2000/10/23(月) 11:28
あやめさん、お忙しいとは思いますが、続きお待ちしています。
78misterium tremindum:2000/10/23(月) 21:12
>76
何で文語訳なの?
79世界@名無史さん:2000/10/24(火) 11:37
関係ないけど、文語調のほうが「経典」といった雰囲気が出るよね。
続きを期待してるのでageます。
80あやめ:2000/10/26(木) 19:39
なぜ文語訳の聖書を使ってるのか? 理由は単純、私が利用してる叔父の書庫
にあるのが文語訳のだから。
口語訳のも持ってはいたんだけど所帯もったときに、実家へ本は大部分置いて
きちゃったの。でも本当のところ文語訳の方がおっしゃるように経典としての
荘重さがあって、あやめ的には口語訳よりも何となくオキニです。
今日お隣の叔母(プロテスタント)から新改訳版を借りてきました。ちょっと両
者の文体を比較してみましょう。

マタイ5-3〜5
文:幸福(さいはひ)なるかな心の貧しき者、天国はその人のものなり、幸福なる
かな悲しむ者、その人は慰められん、幸福なるかな柔和なる者、その人は地を嗣
がん
口:心の貧しい者は幸です、天の御国はその人のものだからです、悲しむ者は幸
いです、その人は慰められるからです、柔和な者は幸です、その人は地を相続す
るからです
同7-7・8
文:求めよ然らば与へられん、尋ねよ然らば見出さん、門を叩け然らば開かれん
口:求めなさい、そうすれば与えられます、捜しなさい、そうすれば見つかりま
す、たたきなさい、そうすれば開かれます

口語訳にしたのには相応の理由があると思います、解かり易いとか親しめるとか
尤もなことと言えるでしょう。イエスだって文語文でしゃべったりはしてないは
ずですし。彼の語り口ってどっか女性的だしね。
でも頭にしっかり残って何かの折りに口を衝いて出てくるのは、「求めなさい、
そうすれば与えられます」という何となく締まらない文句ではなく、「求めよ然ら
ば与へられん」の方じゃないかしら。「捜しなさい、そうすれば見つかります」だ
なんて交番に届けたらオマワリさんに言われちゃったって感じでしょ。
経典に必須の格調は緊張感ある文章から生まれるものではないかと愚考します。
81あやめ:2000/10/26(木) 19:42
しばらく間が空いちゃって御免なさい、また読んでね。
先ずアウグストゥスの治世にイエスが生まれたことは、彼の統治期間の開始時点
の表示方式(レス51参照)をどう採るにもせよ、30〜40B.C.以前に在り40〜50年
以上継続したことが明白なので、年代上の微妙な問題は発生しないと考えて差し
支えないでしょう。
ただレス59でディオニュシウスがイエスの出生年を算定した根拠を紹介しまし
たが、これに関連して追加したい情報がありますのでアウグストゥスの統治年の
序でとして書いておきます。
イエスがいつから宣教を始めたのかということは初期クリスト教史の重要テーマ
です。これを考証すべき最も明白な言及はルカ伝3-1〜23の次の記述です。
「テベリオ・カイザル在位の十五年…神の言荒野にてザカリヤの子ヨハネに臨む、
斯てヨルダン河の辺なる四方の地に行き、罪の赦を得さする悔改のバプテスマを
宣伝ふ、…民みなバプテスマを受けし時イエスもバプテスマを受けて祈りゐ給へ
ば、天ひらけ聖霊形をなして鳩のごとく其の上に降り、かつ天より声あり、…曰
く『汝は我が愛しむ子なり、我は汝を悦ぶ』、イエスの教を宣べ始め給ひしは年
およそ三十の時なりき」
例の「聖書年代学」はこの宣教開始時期についても詳細に考証していますが、当面
脇においとくとして山本七平著「日本人は知らなすぎる聖書の常識」(講談社オレ
ンジバックス)という本を覗いたら、ディオニュシウスについて以下のような説
が書いてありました。即ち彼はイエスが宣教を始めた時の年齢の「およそ30歳」
を「ちょうど30歳」と誤解した上、「ティベリウスの治世の第15年」を本来は同帝
がアウグストの称号を付与された時点から数えなければいけないのに、それより
4年後のアウグストゥス帝死去の年の翌年=15A.D.から数えてしまった。そうす
るとティベリウスの治世の第15年は29A.D.となり、これから30年を逆算すると1
B.C.にイエスが0歳と考えたものであろう。というのですけど計算に僅かながら
ごまかしがあるような感じがしなくもありません。
ティベリウスがアウグストゥスと属州共同統治を始めたのが12A.D.であるのは事
実で、そこから第15年は26A.D.で30年を逆算すると4B.C.になり、イエスが宣
教を開始した時の年齢が31歳なら5B.C.が、32歳なら6B.C.がイエスの出生年
となると山本さんは説明しています。
82世界@名無史さん:2000/10/27(金) 17:51
30歳未満という可能性もありますよね。
83世界@名無史さん:2000/11/03(金) 02:42
age
84世界@名無史さん:2000/11/03(金) 08:26
age
85:2000/11/04(土) 11:23
あやめ殿、せっかくビールを持ってきたのに
今日はご高説が聞けないようで
残念でございまする。
86あやめ:2000/11/04(土) 18:38
ごめんなさいね
明日はレスするつもりでいます
87世界@名無史さん:2000/11/04(土) 23:11
>>あやめさん
すばらしいです。
続きをお待ちしています。
88?:2000/11/04(土) 23:31
まあ、お約束だから・・・。
>1
クリスマスは12月25日、クリスマスの前夜祭、つまり、イブが12月24日だろ?
「悲惨な1!!」と言う投稿がないのは良いなあ。
ほのぼのしてます。
89あやめ:2000/11/05(日) 20:05
お待たせをいたしております。

「およそ30歳」というのは「30歳前後」という解釈もありえますから、確かに30
歳未満という可能性は否定できないでしょう。29歳とか28歳かもしれませんが、
いずれにせよ「およそ」ということですから一義的に絶対値を判断できる情報ではあ
りません。当時のギリシャ語の慣用例として「およそ」が実際上どこまでを包摂する
のか判りません。ひょっとすると「30歳代」という意味で使われていたのかもしれ
ません。高校の英語教師が"few minutes"が日常会話で何分を言い表すかについて、
生徒相手に長時間に亘り薀蓄を傾けていたのを想い出しました。
そういう明確でない言葉をディオニュシウスは敢えて特定の数値として、議論の前
提に使用してしまったところに彼の誤解の根本が在り、そしてこの誤解を生んだ原
因は30が割切りのよい数であるところから来ているものでしょう。従ってディオ
ニュシウスがイエス宣教の年齢を29歳や28歳と解釈した可能性は、山本説に依
るかぎり極めて低いと考えざるをえません。
しかしアウグストゥスの死去が14A.D.であるという確実な年次は動かせませんから、
そうなってくるとその翌年から開始されるティベリウスの15年は29A.D.でなけれ
ばならず、この年に30歳の人物の出生年はどうしても1B.C.になってしまうわけ
で、ディオニュシウスが1A.D.にインカネーション紀元を設定した根拠の説明とし
ては、山本さんの認識に反して些か怪しい結論に達してしまいます。イエスが29
歳であったと解釈できる合理的な根拠が説明できると都合がよいわけですけど、経
験的な言葉の感覚からは29歳と受けとれる事情が思い付きません。前のレスでわ
たしが「計算に僅かながらごまかしがあるような感じがしなくもありません」と指摘
しておいた所以です。
90あやめ:2000/11/05(日) 20:07
ところで山本七平という人は「ユダヤ人と日本人」以来、クリスト教など西洋の思想
に関する現代日本人の通念に対して、一貫して啓蒙的批判を加えるという態度を取
り続けていました。「日本人は知らなすぎる聖書の常識」も「聖書もしくは聖書的発
想にほとんど接しなかった例外的民族」(本書まえがき)である日本人のために、敢
えて「至難のわざ」を試みたものなんだそうです。山本さんは長く聖書学の先端的知
識を摂取してこられた方なので、書いてある学術的内容に間違いは多分ないのだろ
うと信じます。前のレスに紹介したディオニュシウスのイエス出生年についての誤
解に関する解説も、山本さん自身の説ではなく誰か欧米の聖書学者のものを引用し
たものでしょう。
ただ「日本人の誤まった通念」の指摘の部分になると首肯しがたい考察も見うけられ
ます。今回のレスでは一例を挙げることにします。
この本の中には「預言者は未来を占わない」という1節を設けて次のように述べてい
ます。「『預言』という言葉も他の多くの聖書訳語と同じように中国語訳の流用で
ある。最近では『予』という字も使うが、『予』はあらかじめ『預』はあずかるで
意味が違う」として、預言者は沸騰するという意味のナービーから来た言葉で、内
心から沸騰してくる神の言葉が口を衝いて出てくる者、一方で未来予知者のことは
ホーゼーと称して区別している、「旧約の預言」は「ノストラダムスの大予言」とは本
質的に異なるものだと説いています。
聖書における「預言」の神学的解釈は恐らくこの通りなのでしょう。そしてナービー
とホーゼーの相違も正確な引用なんでしょう。ただこの2語はヘブライ語またはギ
リシャ語だろうと推察します。で英文の聖書はこの区別をしてるのかしら?英語の
辞書で調べた限りでは「預言」も「予言」もどっちも"prophecy"となっています。ただ
"prophesy"といういくらかスペルの異なる単語があって、そちらは予報するとか予
言するとかいう意味になっているので、こういうとこで区別してるのかと思うとさ
にあらず、"-cy"の方は名詞で"-sy"は動詞で品詞上の区別でしかなく、後者も古語
では聖書を解説するという意味があり語源は一つのようです。"prophet"にも予言
者と預言者の両義が具わっているらしいです。
91あやめ:2000/11/05(日) 20:11
更に疑わしいのは「予」は「あらかじめ」で「預」は「あずかる」という漢字の用例につい
ての理解です。前者の方はそのとおりで問題ないでしょう。斎藤秀三郎著「熟語本
位英和中辞典」という戦前出版の辞書では「豫言」と旧字体を使用しています。怪し
いのは預言者は「その本質は神の言葉を預託された者という意味であろう」という解
釈です。
山本さんも指摘しているように邦訳の聖書の訳語の本原は漢訳に由来します。そし
て"prophecy""prophet"は「預言」「預言者」と訳されました。その際に訳者が「預」の
字に「豫」と異なる特別の意味を持たせたということはありません。元来「預」という
字は「豫」字と通仮の関係に在ります。「通仮」とは相互に借用しあえる文字というこ
とです。「預」は「あらかじめ」と訓むべきもので「預言」とは「預かじめ言ふ」であって、
つまり「前もって未来のことを言い当てる」で「予言」そのものなのです。決して「預
かりて言ふ」でも「言を預かる」でもないのです。ではなぜ「預」を「あずかる」と訓む
のでしょうか。「預」字はまた「関與」「参與」の「與」字とも通仮します。他人の計画の
相談を受けたり行動に参加したりすることです。ところが日本語の「あずかる」には
このような「…にあずかる」の用法の外にも、「…をあずかる」という他人の寄託を受
けたり物品を領置したりする意味も含まれます。しかし「與」「預」には本来こちらの
用例はないのです。山本さんは日本語にしかない含意を漢語にまで及ぼした誤解に
陥ってしまっているわけです。日本製英語というのがあるように「預託」「預金」とい
うのは日本製漢語とも言うべきものです。
「預言者は神から言葉を預かった人で将来のことを警告する予言者とは違うんだ」と
いう説は、山本さんのみでなく最近しばしば見かけます。殊に昨年は例のノストラ
ダムスの予言の当否が決する年であったので、「預言は予言と違うぞなモシ」という
議論が聖書学者や宣教関係者あたりから喧しく提出されていました。朝日新聞でも
見かけましたが全て見当違いをしてるとしか言えません。
http://theology.doshisha.ac.jp/users/students/kkano/jesus/goku/prophet.htm
ここなんかもそういうおかしな理解をしていると思います。
92あやめ:2000/11/05(日) 20:15
だいぶ本題から逸れちゃったけど脱線ついでにノストラダムスねた。

昨年8月1日お友達からメール「バンザーイ助かったー!これで2000年が来るわ。何
のことか判るよね」だって。その晩に電話して蒙を啓いてあげました。
「あなた1999年7の月はまだ来てないのよ」「ウソ7月終わったじゃない」「あのね7月
じゃないのよ、『7の月』ってとこがミソなのよ、7月イコール7の月じゃないの」
「話が見えないよ」「カレンダーに書いてある毎月の英語って伊達に載せてるわけじゃ
ないのよ、西洋人は日本人みたく一月二月なんて言い方しないの、一月ならゼニア
リー、二月ならフユブラリって毎月固有名詞で呼んでるんだよ」「それが何だっつー
のさ」「じゃ九月は何てゆう」「セプテンバーくらい知ってるわよ」「そのセプトっての
がラテン語で7ってゆう意味なの、つまりこれからやってくる9月こそが7の月な
のよ」「九月が7の月って変じゃない、ナンデソーナルノよ」「そのいきさつを説明す
ると長くなっちゃうけど、要するにシーザー父子を記念するために二人分の月を間
に突っ込んじゃったので、その分後の月の順番がずれて7月が9月になっちゃった
のよ」「そんなら9月1日からヤバイ期間が開始するってわけだ」「それも正確には9
月14日から10月13日が要注意期間なの」「どうして」「ノストラダムスって何時
ごろの人か知ってる」「フランス大革命より前なんでしょうね」「ずっと前です、1566
年に死んでるんだって、この年代が結構微妙なわけよ」「どこが」「いまの暦のシステ
ムは1582年に切り替わったもんだから、それ以前と以後とじゃ日付がずれちゃって
るわけ、ノストラが言ってる7の月が始まるのが9月の14日なの」「13日間もず
れちゃうんだ、それも変な話よね」「何でかってゆうのは西洋の移動祝祭と季節の関
係とか、説明がメンドッチイし長くなるから略すけど聞きたい」「聞きたくない」「要
点だけ言うと1582年の10月4日の翌日を15日としちゃったの」「10日間も切り
捨てって乱暴な話よね」「法王様がやったことだからね」「ほおおお」「西暦が100で割
切れる年は閏年にしない、でもそれが更に400で割切れる場合はやっぱり閏年になる
ことは知ってるでしょうね」「知ってるんじゃないかな」「だから1700・1800・1900年は
昔だったら1年が366日のはずが今の暦だと365日、この省かれた3日と切り捨てた
10日を足した13日のズレが生じたってわけです、わかった」「ような気がする」
世界史板には昨年8月1日にバンザイした人はいなかったと信じますけどネ。
93あやめ:2000/11/05(日) 20:20
明日はヘロデ王の在位期間とイエスの出生年の関係について書きます。
94:2000/11/05(日) 20:36
>>92
いや、
「ノストラさまは予言成就時の暦を使ってるんだ」
というのがノズトラ人の公式見解だって聞いたぞ。

そうしないと計算があわないんだそうな。
95あやめ:2000/11/06(月) 20:38
福音書ではイエスはヘロデ王の治世に出生したとされているので、ヘロデの統治期
間を確認することはイエスの出生年を推定する手懸りを得る上で重要な作業です。
ヘロデはローマの藩属国であるユダヤ王国の最も有名な王ですが、一応は彼の伝記
の概略を紹介しておきましょう。
ディアドコイ国家であるセレウコス朝シリア王国の支配に服していたパレスチナの
ユダヤ人は、シリアが強行しようとしたヘレニスム政策に反抗しマカベア戦争を起
こし、141B.C.遂にハスモン家を中心とする政教一致のユダヤ主権を回復しました。
しかしその後ハスモン家の内紛によりローマの干渉を受けるようになり、63B.C.に
ポンペイウスに征服され政治的独立を喪失するに至りました。そしてハスモン家は
僅かに大祭司職のみを維持するに止まるようになりました。
ヘロデの父アンティパテルはハスモン家の後援者でしたがカエサルに接近し、殊に
アレクサンドリア戦争で彼を援助したことからユダヤにおける勢力を確立しました。
彼を継いだヘロデは40B.C.にハスモン朝の遺児アンティゴヌスがパルティアの後援
で王位を回復した際、ローマに逃亡し元老院から37B.C.にユダヤ王としての承認を
獲得し、ハスモン家に代わりローマの忠実な臣従王としてユダヤを支配しました。
彼は初めはアントニウスに従っていましたがアクティウム海戦後はオクタヴィアヌ
スに乗り替え、終始ローマ権力者の歓心を買うことに努めました。
彼はハスモン家の血統を根絶するこため妻や義母などの係累の縁者まで殺し、遂に
はハスモンの血筋の妻マリアンメが産んだ実子のアレクサンデルやアリストブルス
まで殺害しました。しかしまた産業の奨励や学問の保護など内政面では見るべき成
果を挙げました。
もっとも彼の努力に拘わらず人民からは異邦人から遣わされた圧政者として憎まれ
ていたようです。彼も一応はユダヤの伝統的制度を尊重するなどの配慮もしてはい
たのですが、一方また異邦人がセム種族に抱く悪感情を緩和するため、多額の費用
でシリアのみならず小アジアやギリシャにまで、競技場や異邦の神殿を寄付するな
どヘレニズム君主のようにも振るまっていました。
96電波:2000/11/06(月) 22:14
とすると、ここ数年でキリストが生まれる/ている
可能性が高いというわけか...
97世界@名無史さん:2000/11/07(火) 20:01
ヘロデの統治期間について書くつもりで本をあちこちひっくり返していたら、図ら
ずもレス82:世界@名無史さん投稿の「30歳未満という可能性もありますよね」に
関連する文献記載を発見しましたので、ちょっと後戻りをして紹介しておきます。
欽定版英訳聖書は宣教開始時のイエスの年齢を「イエスはおよそ30歳になりはじめ
た」とされているそうです。前に紹介したイレナイウスは「彼(イエス)が洗礼を受け
に来た時まだ30歳になっていなかったが、およそ30歳になりつつあった」とし
ており、エビファニウスも「およそ30歳になりつつあった」と解釈し、洗礼を1月
6日のイエスの第30回誕生日より60日遡った前年11月8日になされたものと
して、29歳10ヶ月になった時点でイエスが洗礼を受け宣教を始めたものと主張
しています。前に紹介したようにエビファニウスはイエスの出生年を2B.C.の1月6
日と理解していますから、それを前提とすればこのような計算になって来ざるを得
ないわけです。
そこでイエスの出生年を5B.C.の12月に置き26A.D.11月受洗とすれば、正に彼は
「30歳になりつつあった」ことになり、ティベリウスがアウグストゥスとの共同統
治を開始した時点から数える方式での「統治の15年」に相当するわけでもあります。
フィネガンは更に次のような幾つかの可能性を挙げています。
イエスの出生年を5B.C.の12月と仮定し、ティベリウスの統治15年をユダヤ暦に
従ってニサン月(ユリウス暦の3/4月に相当)年始方式で、かつ14A.D.のアウグストゥ
スの死の時点から数えるとすると、28A.D.の32歳の誕生日直前に受洗となる。
ティベリウスの統治15年をローマ式にアウグストゥスの死の翌年から数えるとする
と29A.D.となり、受洗は33歳の誕生日の直前となる。
またイエスの出生年を7B.C.もしくは6B.C.に置くとすると、受洗を26〜29A.D.のいず
れの年に持ってきても、「およそ30歳」は30歳代の初めころという解釈に落着くこ
とになります。いずれにせよ決定的な結論に導いてくれるような情報ではありません。
98あやめ:2000/11/10(金) 19:38
さてヘロデの統治期間の問題に立ち戻りましょう。ユダヤ王国末期の史実について最
も詳実な情報を提供しているのはレス70でも触れたフラヴィウス・ヨセフスが著した
「アンティクィ タテス-ユダイカエ(ユダヤ古代紀)」ですが、彼はヘロデの死の時期に
ついて「アンティゴヌスを殺し支配権を得てから34年、ローマ人により王と宣言され
てから37年の統治の後に」と記述しています。
ヘロデがローマから王位を宣せられた年次についてヨセフスは「第184オリュンピアッ
ドの期間、グナイウス-ドミティウス-カルヴィアヌスとガイウス-アシニウス-ポリオ
がコンスルであった年」と述べています。184 Ol.は40B.C.の6月末に終わっており、
カルヴィアヌスとポリオがコンスルであったのも40B.C.です。ヨセフスは別の個所で
ヘロデは冬までローマに赴かなかったとも述べているので、厳密には40B.C.の年末で
185@`1 Ol.になるはずだとフィネガンは言っています。
またアンティゴヌスの死の時期については「ローマでマルクス-アグリッパとカニニウ
ス-ガルスがコンスルであった年、即ち第185オリュンピアッドの期間」と述べており、
アグリッパとガルスがコンスルであったのは37B.C.であり、185 Ol.は36B.C.の6月
末に終わっています。
この記述からすると王位についてから第37年もアンティゴヌスを殺害してから第3
4年も4B.C.となるわけです。
更にヨセフスはヘロデの死の直前に月蝕があり直後は過越祭であったと記述していま
す。4B.C.には3月12/13日の夜に正さしく月蝕が起こっており、過越祭が春に当たる
ことと月蝕は3B.C.にも2B.C.にも発生していない事実から、ヘロデの死の年次が4B.C.
であったことはほぼ確実と言えましょう。そしてこのことはイエスの出生がこの年を
降らないということを裏付けることになります。
99世界@名無史さん:2000/11/10(金) 20:24
レス97はあやめのカキコです、何かクッキーがおかしいみたい

またまた後戻りだけど「預言」の「預」の字は昔から在ったものではないん
だという記述を見かけました。
清朝の考証大家の王鳴盛が著した研究ノート「蛾術編」の「説字」の部には
「豫という字は原義は象の大なるものであるが、図体は大きいが物を害し
ないところから和順喜楽の意に用いられるようになった、…また凡そ前
もって準備しておく意味もあり、これを区別するため魏晋間の人が別に
預の字を作ったのである、晋の杜預(呉を征した将軍で左傳の注を著し
た人)のあざなは元凱であるが、これは豫の字の和順喜楽の意に対応した
ものである。(凱はやわらぐとか楽しむの意があるから)豫はあらかじめ
の意に用い預は和らぐの場合に用いることにしたのであろう」といった趣
旨のことが記述されています。両字はこのように本来から全く同じ字で
あったのです。
100あやめ:2000/11/10(金) 20:26
またクッキーが変だわ、今度はダイジョブかな
101あやめ:2000/11/11(土) 20:44
ヘロデの死亡が4B.C.に在ることが確実であり従ってイエスの出生もこの年を降らな
いと推定されるとすると、次に問題となるのはヘロデの生前にイエスは何歳に達して
いたであろうかということです。
マタイ傳2章に依れば東の博士たちがヘロデを訪れ「ユダヤ人の王とて生れ給へる者
は何処に在すか、我ら東にてその星を見たれば拝せんために来れり」と言ったので、
ヘロデは祭司長らからキリストの生まれるべき場所として答申のあったベツレヘムに
博士たちを遣わしたところ、博士たちは星に導かれて幼児イエスがマリヤとともに居
るのを発見しました。幼児はギリシャ語で"to paidion"で非常に小さい子供であると
いうニュアンスの表現だそうです。殉教者ユスティヌスは「生まれたばかりの御子を
拝するためアラビアから来たマギ」と博士たちを呼んでいますが、新生児であったと
いう理解は概ね当たっているように思われます。
マタイ傳2-16
 爰にヘロデ博士たちに賺されたりと悟りて甚だしく憤ほり、人を遣し博士たちに由
 りて詳細にせし時を計り、ベツレヘム及び凡てその邊の地方なる二歳以下の男の児
 を悉く殺せり。
この文句から推測されることはヘロデが幼児のアトロシテを命じた時点で「時を計り」
幼児の年齢を考えた結果、「ユダヤ人の王として生まれた者」は略ぼ2歳に達していた
と思われたということです。そうするとイエスの出生は5B.C.か6B.C.に遡る可能性が
考えられるということになってきます。
102世界@名無史さん:2000/11/13(月) 22:51
もの凄く単純なことをいいますが紀元前、後という
感覚がいつから認識されたのか正確なところを確定
しておかないと人によって誤差がでるような・・。
103あやめ:2000/11/22(水) 23:46
西暦紀元の前後がいつから意識されるようになったかはレス65を見てください。

誤差とおっしゃてるのは1B.C.を‐1年と解して計算した場合に生ずるものを指してい
られるのかしら。そうなんですよね、西暦って決して合理的なものではありません。
天文学などでは1B.C.は0年、2B.C.は‐1年という風に数えるシステムになっています。
宮崎市定さんも「一月一日0時0分」(岩波書店刊の「独歩吟」所収)というエッセイで
「いったい年代を数えるのに古代へ向かって数が伸びて行くというのが甚だ不自然なの
である。中国人ならこんなことはしない。嘗て中国には黄帝紀元というものがあって、
その元年はなんと前2698年、これならたいていの歴史はこの中にすっぽりと包み
こむことができる(欧亜紀元合表)。しかしもっともっと古い年代について、せめて暦
だけでも造りたいという目的のために、中国の暦家は暦元という概念を創案した。こ
れは天体の動きを計算して古代に遡り何万年も前のある時、日月五星が勢揃いして暦
の計算をする出発点として最も好都合な折をとらえてこれを暦元と称するのである。
…年代は時の流れに従って前進すべきもので、それに逆らって後退するような数え方
はできる限り避けた方がよく、その方法はいくらでもあることを古代の中国人は教え
ているのである。西欧の文化はちょっと見たところいかにも合理的に思われながら、
実際は甚だ不合理なものであることが少なくない。」と書かれています。
欧米人が西暦を使っているのは合理的だとか便利だとかいう理由からではありません。
それが欧米の歴史意識の骨格に在るからだと思います。中学生の時に教師に奨められ
てH-G-ウェルズの「世界史概観」という岩波新書を読みました。上下2巻になってい
て人類の誕生から現代までを叙述しているんですが、イエスの出現で長い歴史の流れ
を分割してありました。彼らとしては世界史とはそういうものと当然のように意識し
ているのでしょう。ヘーゲルであろうとマルクスであろうと終末観的歴史認識の背景
には、世俗化された聖書のイデアが貫かれているもののように見うけられます。
中華人民共和国が「公元」と称して国家の公式紀年法としてこれを採用したのは、マル
クス・レーニン主義による立国の根本イデオロギーが西欧由来であることを宣明したと
言えます。そうした思想系譜の上に日本の西暦推進派の元号非合理論などが位置して
いたのですが、産業の国際化と情報処理の電子化による「グローヴァル・スタンダード
だデファクト・スタンダードだ」といった声援に勢いづいているのが近状です。
104あやめ:2000/11/22(水) 23:51
ヘロデによる幼児の鏖殺というイエス伝中の最も厭うべきエピソードは、史実として
信ずべき根拠があるとフィネガンは述べており、Stewart Perowne の"The Life and
Times of Herod The Great"の記載を引用して、異教時代においては新生児の生命は父
親や国家の意のままに扱われ、居城から数マイルしか離れていない地点での陰謀の予
兆は、ヘロデをして当時の事例に倣って虐殺の命令を発せしめる十分な動機となり得
たであろうとして、ローマにおける次のような事例を挙げています。
アウグストゥスの誕生数ヶ月前にローマ人の王の出生を告げる予兆があったので、憂
慮した元老院はその年の子供の養育を禁ずる命令を発しており、またネロも彗星の出
現に恐怖の余り有力貴族の処刑を命じ、その子女を追放して餓死させたり獄死させた
りしているということです。

オリゲネスやエウセビオスら初期クリスト教徒の記録においては、東方の賢者たちが
来訪した時点でのイエスの年齢につきいずれも2歳説を採用しています。
しかし彼らの年次の説明には明らかに混乱が認められます。両者とも賢人の来訪とエ
ジプトへの逃避はイエスが2歳の時のこと、エジプトからの帰還は4歳の時のことで
あったと言っています。そして帰還の年次については聖書の次の記載により当然のこ
ととして、ヘロデが死亡し子のアルケラオスがローマの容認の下で嗣立した際として
います。
マタイ傳2-19〜23
 ヘロデ死にてのち、視よ主の使夢にてエジプトなるヨセフに現れて言ふ、「起きて
 幼児とその母とを携へイスラエルの地に行け、幼児の生命を索めし者どもは死にた
 り」ヨセフ起きて幼児とその母を携へイスラエルの地に到りしに、アケラオその父
 ヘロデに代わりてユダヤを治むと聞き彼処に往くことを恐る。また夢にて御告を蒙
 りガラリヤの地方に退きナザレという町に到りて住みたり。
混乱の原因はそれがアウグストゥスの45年であったという主張です。以前のレスで
説明したようにイエスの出生をオリゲネスは3/2B.C.に、エウセビオスは2B.C.に置い
ています。アウグストゥスの45年は最も早い年次からの数え方でも1A.D.になるので、
前のレスで考察したようなヘロデの死亡年次とは合致しないことになってしまいます。
105あやめ:2000/11/22(水) 23:55
イエス出生当時の歴史事件としてはルカ傳2-1〜7のアウグストゥスの命令により、シ
リア総督クィリニウス(クレニオ)が実施した最初の人口調査があります。
スルピキウス-クィリニウスの履歴については彼の葬儀の際にタキトゥスが述べたとこ
ろによると、アウグストゥスによりコンスルに挙用された(コンスル表によるとそれは
12B.C.のことでメッサラと共同)、キリキアのホマナデン人との戦闘で功績を著したと
のことです。また彼がシリア総督であった期間は3・2B.C.及び6・7A.D.であったと認め
られています。
彼が実施した徴税がガウロン人のユダスにより抵抗をを受けたことはヨセフスの伝え
るところです。この徴税は人口調査を伴うものであったでしょう。
使徒行傳5-37のファリサイ派の学者ガマリエルの演説中の
 戸籍登録のときガリラヤのユダ起こりて多くの民を誘ひ己に従はしめしが、彼も亡
 び従へる者も悉く散らされたり。
とあるのがユダスの反乱の際に人口調査がなされていた事実を裏付けています。そし
てヨセフスによればこの徴税は「アクティウムにおけるアントニウスに対するカイサル
の勝利の第37年」のこととされていますので、6A.D.に相当する年次であることが知
られます。でもイエス出生時にクィリニウスが実施した人口調査がこれではなさそう
です。
106あやめ:2000/11/22(水) 23:58
人口調査というものは共和制時代には定期的に行われていたものだそうで、アウグス
トゥスの命令によるものは28B.C.以降しばしば実施されています。調査内容としては
属州民の人口・法的地位・財産の数量と種目が主なものであったようです。この調査は
共和制時代の旧来のより立ち入ったものなので各地で抵抗をうけたようです。それで
もガリアでは27・12B.C.と14A.D.に、キュレネでは7B.C.にそれぞれ実施されており、
エジプトでは34・48・62A.D.と14年ごとに例行されていたことが知られています。
当然ユダヤでも紀元前から実施されていたであろうことが推定されます。
もっとも従属的ながらも王国という性格のユダヤ地域の人民に対して、ローマ人が人
口調査などを敢えて実施し得たか疑問視する意見もあるそうです。しかし自前の貨幣
まで持っていたほどの自立性を許されていたシリアの都市オパメアも、「シリアにおけ
る皇帝の使節」と号するクィリニウスの人口調査を受けていたことが、アイミリウス-
セクンドゥスというローマ官吏の碑文によって明らかにされています。
クィリニウスの最初のシリア総督在任期当時にはヘロデの皇帝に対する地位は、当初
の「友人」から「臣下」に格下げされており、ローマの総督が彼に対し人口調査を遠慮し
なければならない何らの事情も存しなかったのです。それではヘロデ在位当時にクィ
リニウスが実際に人口調査を実施した事跡を窺がわせる状況は認められるのでしょう
か。テルトゥリアヌス(レス54参照)によればイエス出生時のユダヤにおける人口調査
は、センティゥス-サトゥルニヌスがシリア総督として実施したものと述べています。
サトゥルニヌスは9〜6B.C.の間にシリア総督として在任していました。クィリニウス
は当時ローマ東方属領における高官でしたから、何らかの形でサトゥルニヌスの実施
した人口調査について、彼が干与した可能性を否定しなければならない事情は存在し
ないようです。
もしクィリニウスがサトゥルニヌスに協力してユダヤの人口調査に従事したとすれば、
その時期は彼が参加したとされるホマナデン戦役がほぼ鎮定された6B.C.またはその
翌年であろう、フィネガンはこのような結論を示しています。

いよいよ東方の博士たちを導いた「星」について考察する段階に至りました。
でもその前にホッタラカシにしてあるチベット問題に始末を着けておかなければなり
ません、今少しお待ち下さい。
107世界@名無史さん:2000/11/26(日) 15:38
メーソンの信仰対象はそのグノーシス的流れから
サタン=ルシファー=アフラマズダー=アーリア時代はミトラと双子神
=ミトラの誕生日12月25日
よってルシファーはサタンをあがめる日?という発想が出てきてもおかしくない。
ちなみに東方の三博士(マギ)の一人はゾロアスター
サタンによって光もたらされたユダヤ教がキリスト教ということを
現しているのかも知れない。
そもそもグノーシスには知恵の実を与えるのを禁じていた神は本物の神ではない
という神話があったような・・
108世界@名無史さん:2000/11/26(日) 15:41
双子神のあとは=じゃなくて→に訂正。
109世界@名無史さん:2000/11/26(日) 15:50
補足 ゾロアスター教の神アフラマズダーは知の光の神。
   ゾロアスター教では性は開放的、クリスマスにやりまくるのには
   ある意味で正統的。
110世界@名無史さん:2000/11/26(日) 16:01
ルシファーは>ルシファーの誕生日は に訂正。
111世界@名無史さん:2000/12/01(金) 11:03
あやめさんって何者なの?
112世界@名無史さん:2000/12/09(土) 01:20
あげます
113あやめ:2000/12/22(金) 18:33
8月末から始めた連載レスですが聖誕節も近づいたので「お星さま」の話で結末を付け
ましょう。
フィネガンは東西の古代世界での天文現象への関心の起源について述べていますが、
ここでは西方の文献に記述された天象が東洋の記録により確認された1例のみに触れ
ておきましょう。
ローマに対するミトリダテス戦争("Bella Mithridatica")で知られているポントゥス
の王ミトリダテス6世エウパトルは、ユスティヌスが引用するローマの史家ポンペイ
ウス-トログスの「フィリッポスの歴史」によると、「彼が胎内に宿った年も統治を始め
た年にも彗星が70日間出現し、空の4分の1も占めて太陽を圧し全天が燃えている
ようであった」ということです。彼のクリミアにおける自殺が63B.C.であることが知ら
れており、その統治期間が56年に亘るとプリニウスが伝えていることから満年式で
計算した場合、可能性として彼は120B.C.に即位したものと推定することができ、また
彼は即位時点で13歳であったとするメムノンの記述を信ずれば、その誕生は133B.C.
で従って受胎は前年134B.C.ということになる、と近代の天文年代学者J-K-フォザリン
ガムは仮定した上で、この現象は「史記」や「漢書」の記載により証明されるものであると
説いています。
即ち「史記」の「天官書」に「元光と元狩に『蚩尤の旗』再び見らはる、長きときは則ち天
に半ばす」とあり、「漢書」の「天文志」には「元光元年六月に客星が房に見らはる」また「武
帝紀」の元狩「三年春に星が東方に孛す」とあり、元光元年は134B.C.元狩三年は120B.C.
に相当します。前者はジョン-ウィリアムズの「彗星表」にある31号に該当し、後者は
同じく32号に該当するというのがフォザリンガムの主張です。なお元光の客星の出現
位置である「房宿」は天秤・狼・蛇使い・蠍の各星座を含む天空の1分野です。
東洋科学技術史の権威として知られるジョセフ-ニーダムが「古代における世界の両端に
おいて注意深く観察された」天文現象であると言っているとおり、この彗星はヨーロッ
パでも東アジアでも観望されえた貴重な稀訪天体でした。
114あやめ:2000/12/22(金) 18:34
ミトリダテスの受胎と即位に異星が出現したことが問題のある事件の前兆であると意識
されたように、それがメシアの出現に関連付けられて語られた伝承は既に旧約「モーセ
五書」の中にも見ることができます。
民数紀略24-17
 我これを見ん、然ど今にあらず、我これを望まん、然ど近くはあらず、ヤコブより一
 箇の星いでん、イスラエルより一条の杖おこり、モアブを此旁より彼旁に至るまで撃
 破り、また鼓譟者どもを尽く滅ぼすべし。
このパラムの第3の託宣はユーフラテス河の流域に住んでいた人物によって述べられた
とされています(民22-5)が、フィネガンはこの地方が早くから天体に関心を持たれて
いたことを指摘しています。
115日本@名無史さん:2000/12/22(金) 19:50
あやめタン・・・・・あやめタン・・・・・・ハアハア・・・逝キソウダヨ・・・ハアアアアア・・
116世界@名無史さん:2000/12/22(金) 20:54
>ルカ伝1-5
> ユダヤの王ヘロデの時アビヤの組の祭司にザカリヤという人あり、(以下ザカ
>リヤに対する妻エリサベツの受胎の告知、6ヵ月後のマリヤに対する受胎告知、
>エリサベツのヨハネ出産の記事が章末まで続き)

うろ覚えで申し訳ないが、
メシアニック=ジューによれば、「アビヤの組の祭司」が、神殿にのぼり、
勤めをする時期が決まっていたらしく、これからイエス生誕の日を割り出
せば、たしか、9月であったことになるそうだ。

しかし、ユダヤ人学者によれば、この説は、閏月を考慮しておらず、そのため
この説からは、イエスの生誕日はわからない、とのことである。
ユダヤ歴は、太陰暦だが、そのため、閏月が、年に、最大2ヶ月あるらしい。
ところが、その閏月に、イエス時代の決め方が全く分からないのだそうだ。
前後2ヶ月もあるので、現実には、イエスの生誕日は不明というほかないのだそ
うである。
117116:2000/12/22(金) 21:04
>年に、最大2ヶ月あるらしい。

太陽暦と比べて、前後2ヶ月のずれがあるという意味だったかも
しれない。
調べるのが面倒なので、ゴメンちゃい。
118あやめ:2000/12/23(土) 12:46
>116
この点についてはレス27に骨子を書いています、御面倒でも参照してください。
ユダヤの暦についてはそのうち書きます。

マタイ傳2-2に述べられている異星に該当すると思われる天文現象について、これまで
提出された臆説で最も有力なものは惑星の会合とするものです。古くはヨハネス-ケプ
ラーが1606A.D.に著した書物の中で「マギたちが見たのは木星・土星その他の特殊の星か
ら成るものであった」と言っているそうです。彼は1603A.D.の12月17日に発生した木星
と土星の会合に関連して、このような現象は凡そ805年周期で起こりうるものであると
主張し、この計算は今日でも支持されているものであるそうです。そうするとこの2周
期を遡る7B.C.にこのような会合現象が発生しているはずです。
グリニッジ天文台の計算によると木星と土星の会合は7B.C.において3度実現しているそ
うです。即ち同年の5月29日・9月29日・12月4日の3回です。また6B.C.には火木土の3惑
星が3角形の位置で集合しているそうです。この天文現象を傍証する記述は旧約以外の
古代文献に存在するでしょうか。
ベルリン博物館所蔵のメソポタミアの粘土板の中にシッパル出土の天体暦表が存在し、
セレウコス紀元305年ニサヌ月1日(7B.C.4月2日)から始まる年のものであると認められ
ています。そしてそこにはシマヌ月(5/6月)からタシュリトゥ月までの間に木星と土星
が魚座に集まっていたと記されています。フィネガンはこの天文現象がマタイ傳のもの
に該当するか否かは断定できないにせよ、ユダヤ人に結び付けられる魚座と関連付けら
れるこの事態は彼等の注意を促したであろうと言っています。
119あやめ:2000/12/23(土) 13:20
マタイ傳の異星を彗星に関連させた説明も当然ながら提出されています。この時期の前
後で発生した彗星をウィリアムズ表で探索すると51〜54号が候補として挙げられま
す。この内で12B.C.の51号と13A.D.の14号は少し外れ過ぎるようなので除外します。
52号は5B.C.で「漢書」の「天文志」には哀帝の建平「二年二月に彗星が牽牛に出づること
七十餘日」とあるのに対応しています。建平二年二月は5B.C.3月8日から4月6日までに当
たります。53号は4B.C.で「漢書」の「哀帝紀」に建平三年「三月己酉に丞相當が薨ず、星
有りて河鼓に孛す」とあるのに対応します。建平三年三月己酉は4B.C.の4月28日に相当す
るわけですが、前述の記事中の丞相の死亡のみならず星孛にまで係るものであることは、
この年の三月は己酉の日と翌日の庚戌と2日間で尽きてしまうことから推定できます。つ
まりこの彗星の出現の日は確定的な日付なのです。
但し当時の天文知識や観測技術のレヴェルでは彗星と新星の区別はされなかったと想わ
れますので、これらの天文現象が新星であった可能性も考慮されなければなりません。
殊に「孛」が「晋書」の「天文志」では「孛星は彗の屬也、偏指するを彗と曰ひ、芒氣の四出す
るを孛と曰ふ」とあって、彗星のように片方に尾が流れているのでなく周辺が毛羽立った
様相を呈していて、新星であると見た方が確かかもしれません。
120世界@名無史さん:2000/12/23(土) 13:37
>>116
>この点についてはレス27に骨子を書いています、御面倒でも参照してください。
>ユダヤの暦についてはそのうち書きます。

>>27
イエスの時代に、閏月が、どう入っていたのか分からないの
では、この説は、学者にとって、無意味だという意味が読
んでみてよく分かったよ。

121あやめ:2000/12/23(土) 16:53
昨年9月15日の英紙タイムズから引用した同月下旬の朝日新聞の次の
ような記事があります。
シェフィールド大学の天文学者D-ヒューズという人の説では、ベツレヘ
ムの聖なる星は木星と土星が接近し明るく輝き、恰も1個の特異な星の
ごとくに見えたものであろう、そしてこの現象は7B.C.の9月15日に
起こったことであるということです。
これは前記の7B.C.の9月29日の木土会合と関係があるのか否か、詳
細が不明で何とも説明できないのが残念です。この説について情報をお
持ちの方は御教示ください。また天文シミュレーションソフトを使って
らっしゃる方も実行結果を教えていただけると有難いです。
122>121:2000/12/23(土) 22:20
天文板で聞けばどう?
123オプオプ:2000/12/24(日) 20:34
はじめまして。私、理科系の大学の4年です。
いや、皆さんホント、詳しいですね〜。私高校も世界史など取っていないので
一生懸命読んでみたものの、あまり頭に入っていない感じです。
高校も含めて、7年近く歴史の本なんか読まず、1番暇な大学生のときも
微分方程式やフーリエ解析など数学などばっかやっていたので、なんか情けない。
もっと、自分も本を読めば良かったと思います。
とりあえず、自分も古代ローマなどに興味がありますので研究の暇を見つけて
何とか読んでみたいと思います。
ところで、やっぱ初心者は、「旧約聖書」などから読むのがいいのでしょうか?
(いや、これはネタで無くマジで) それとも、高校の世界史の教科書からか?
誰か、親切な方教えてください。
あ〜、明日からまた学校です。とりあえず30日まで。
何とか、時間見つけましてこの板チェックするのでホント誰か宜しくお願いします
124世界@名無史さん:2000/12/24(日) 20:58
>ところで、やっぱ初心者は、「旧約聖書」などから読むのがい
>いのでしょうか?

旧約聖書を全部読んだどとのある人は、普通、かなり変な人と
呼ばれることでしょう。
125あやめ:2000/12/24(日) 21:21
>122
御助言に従い天文板で質問してみました、「あなたにとってNo1天文現象
とは」というスレッドのレス100です。さてどんな情報がいただけるか、
それとも純粋な天文学的関心とは見なされず無視されてしまうかしら。
126あやめ:2000/12/24(日) 21:24
楽しいイヴを余所にしてこのスレに立ち寄ったアナタに感謝!

5B.C.3月に出現した星はマギたちを旅立たせたものかもしれない、そ
の際に彼等の念頭には7B.C.に数回も起こった惑星の会合が、メシアの
降臨を告げる前兆のように意識の底に留まっていたのかもしれません。
マギたちは4B.C.の3月12日から4月11日の間のヘロデの死より前に、
4B.C.4月に出現した彗星の輝くベトゥレヘムに到着したと想われます。
ヘロデが殺害を命じた幼児の年齢が2歳以下という点から推定すると、恐
らく4B.C.の春より2年前にイエスは誕生していたのでしょう。しかしま
たイエスはまだ産まれたばかりの嬰児であったこともマタイの記述から窺
がうことができます。当時かその前ころにクィリニウスによるユダヤの人
口調査も行われていたのでしょう。
フィネガンは「イエスの誕生を5/4B.C.の冬のある時点とすれば我々の利
用しうるあらゆる根拠を最もよく満足させるであろう」と結論しています。

長々と続いてきたこのレスも今回で一応の結着といたします。
ユダヤ暦の複雑な仕組みとかまだ書きたいこともあるんですが、ミレニアム
を静かに見送ってネクスト-センチュリーのお楽しみとしておきます。
みなさま良い新年をお迎えください。
127オーマイガッ!!:2000/12/25(月) 06:27
偶然たまたまチラッとこのスレ見たけど・・・・
アナザーワールドが構築されている・・・
スさまジーね
いったい何者?神学博士?
俺も何気に神学科受験しようとしてるし・・
128世界@名無史さん:2000/12/25(月) 21:38
天文板にレスついてるよ。
129>123:2000/12/25(月) 21:40
>ところで、やっぱ初心者は、「旧約聖書」などから読むのがい
>いのでしょうか?

普通の人とかは、「小説聖書」あたりで止めておいた方が
無難だと思います。
130あやめ:2000/12/26(火) 13:46
「天文板」でレスをいただきましたのでコピペさせてもらいます。
大変ありがとうございました。

あなたにとってNo.1天文現象は何?
101 名前:名無しさん@1光年投稿日:2000/12/25(月) 02:31
「ステラナビゲータ(アスキー/アストロアーツ)」によりますと、
B.C.7年9月15日は、最接近の最中で、特別な会合日にはなってないです。
このソフトの会合検索で、B.C.15年からA.D.10年までの木星と土星の、
3度以内の接近を検索してみると、B.C.7年5月27日、0度59分、
同年10月5日、0度59分、同年12月1日、1度3分、と、なってます。
暦はユリウス暦です。(このソフトのプラネタリウム(星空解説)機能でも、
この話題は扱われていて、この3回を紹介しています。)
「星の古記録(斉藤国治著、岩波書店)」という本があるのですが、
(この本はこういった話題をいろいろ扱っていて大変面白いです。)
この本でも上記の3回が紹介されています。
この本によりますと、このレベルの接近は、中国で言う「犯」(0.7度以内)にも
なっておらず、特筆すべき天変とはいえない、としています。
よく言われる事ではありますが、惑星の会合は徐々に進行しますので、
1日の移動も小さく、接近した状態が何日も続き、
突然現れたという印象は持たないのではないかと思うので、
これをもって、ベツレヘムの星とするのは無理があるのではないかと思います。
他にもいくつかの説がありますが、そもそも、キリスト教の伝説だから
ここまで注目されている、という面もあると思いまして、
元来、特定の難しい分野のお話ではあると、個人的にも思います。
(あぁ、クリスマスの日にこんな事言ってると…)


102 名前:名無しさん@1光年投稿日:2000/12/25(月) 03:36
>101
2行目、「最接近の最中」とは、書き方が悪いですな。
つまり、10月5日の最接近にむけて、徐々に接近しつつある状態です。
131123:2000/12/26(火) 14:05
>124・129様
本当にありがとうございました。
早速、「小説聖書」を買ってみようと思います
なんか、本の名前からしても理系の私も読みやすそうです。
ところで、「旧約聖書」と「新約聖書」ってどこが違うのですか?
旧約がキリストが生まれる前のことで新約がキリスト誕生後のことが
書かれていると聴いたことがあるのですが本当ですか?
それだと、旧約から読まないといけませんな〜
ホント、こんな事を聞くのは皆さんにとって失礼だと思いますが
「世界史初心者スレッド」みたいのがあればそこで聞けばいいと
思うのですが、無いみたいなのでここにかきますー


132日本@名無史さん:2000/12/26(火) 14:40
横浜こども科学館・天文民俗学HPの「ベツレヘムの星」が参考になります。
http://www.city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/christmas.html

そこに「ベツレヘムの星リンク集」をみれば、諸説が分かります。
http://www.city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/beture.html
133世界@名無史さん:2000/12/26(火) 18:31
>>131
旧約の創世記だけでも読んでおくと、筒井の「バブリング創世記」を
楽しく読めるよ。
134>131:2000/12/26(火) 19:16
旧約聖書は、おおざっぱにいって、紀元前までのユダヤ人の神話、
歴史、文学をつづった、ユダヤ人の文学全集みたいなもんです。
ユダヤ教徒の聖典です。それに影響を受けたキリスト教徒、イスラム
教徒の聖典でもあります。

新約聖書は、ナザレのイエスの伝記とその後のことをつづったも
のです。キリスト教徒の聖典です。

後者は、良く知られているイエスが十字架にかかったという例の話し
がメインですので、手っ取り早く聖書を簡単に知りたいのなら、
旧約聖書を先に読むべきでしょう。
135世界@名無史さん:2000/12/26(火) 19:22
ただ、キリスト教徒でもないのに、ナザレのイエスのことを
「キリスト」と呼ぶ連中には、なんか、反感を感じるね。
136世界@名無史さん
あやめage