1 :
名無しさん@1周年 :
2000/07/01(土) 02:09 詳しく教えて下さい。
2 :
ジーモン叔父さん :2000/07/01(土) 02:40
>1 ケー二ヒスベルクを首都とするプロイセン公国(旧ドイツ騎士団領) が大公(国王)が絶えた為に、ベルリンを首都とする ブランデンブルクのホーフェンツオレルン家が両国の 大公(国王)として兼任したのが始まりです(18世紀初頭)。 ブランデンブルク選定伯公国を名乗らず、 プロイセン公国の方を名乗ったのは、形式上とはいえ、 ブランデンブルク選定伯公国は神聖ローマ帝国(ドイツ第二帝国) の一部で、その皇帝=ハプスブルク家の服属という形であったので、 神聖ローマ帝国の領邦外であるプロイセン公国の方を 国名に選んだのです。 しかし、ケー二ヒスベルクなどプロイセン公国の 諸都市の多くはハンザ同盟の自治都市で”反抗精神”が 強く、しかもドイツの辺地であった為に、 首都はベルリンのままで、戴冠式のみをケー二ヒスベルクで 行いました。つまり、”ブランデンブルクのプロイセン”が 誕生したのです。 この直後(?)にプロイセン公国(ホーフェンツオレルン王朝) は「王国」に昇格し、フリードリッヒ大王の下でオーストリア と並ぶドイツ最大の国、ヨーロッパでも有数の大国へと 成長しました。 因みに、この板には私をナチだの何だのと誹謗し、 挙句の果てには同じハンドルを用いて悪戯する子供が 多いので御注意を。
3 :
名無しさん :2000/07/01(土) 02:50
ジーモン叔父さんへ。 私はプロイセンとナチは最も相反する存在だと知っています。 ナチのせいでプロイセンがどれだけ誤解されたかも。
4 :
名無しさん :2000/07/01(土) 03:01
1772年のポーランド分割でケーニヒスベルクを首都とする 東プロイセンとブランデンブルクが一体となりました。 これによって Koenig in Preussen.が Koenig von Preussen.になりました。
5 :
ジーモン叔父さん :2000/07/01(土) 03:17
>3 同感です。ただ、ホーフェンツオレルン王朝やユンカーが 良いとも思えませんが、ワイマール共和国がもはや駄目な 状態であった以上は、ナチスではなく、ホーフェンツオレルン家 の王政(帝政)復古か軍事政権になった方がはるかにマシ だったと思います。 そうすれば、ドイツの悲劇も、ユダヤ人の悲劇も、 東欧・ソ連の悲劇も避けられたでしょう。 >4 詳しいですね。
6 :
名無しさん@1周年 :2000/07/01(土) 03:27
>5 ジーモン叔父さんには続いて講義をお願いしたいです。 >4. どういう意味ですか?
7 :
名無しさん :2000/07/01(土) 03:42
>6 1.Koenig in Preussen.は ‘プロイセンにおいての王’ 2.Koenig von Preussen.は ‘プロイセンの王’ 一体となる前は東プロイセンにおいては王でしたが ブランデンブルクにおいては選帝侯だったのです。 一体となってやっと正式にプロイセン王国 ‘Koenigreich Preussen’となって プロイセンの王‘Koenig von preussen‘ となったのです。 この辺が西欧の国号や称号のややこしいところです。 私もまだまだ不勉強、ジーモン叔父さんや名無しさんの ご教授を待っています。
8 :
名無しさん :2000/07/02(日) 16:59
プロイセンてプロシャのことか?
9 :
名無しさん@1周年 :2000/07/05(水) 22:49
舌噛みそうな国名だな
10 :
>9 :2000/07/05(水) 23:17
昔の論文読むと,ぜったいプロセインという誤植があったものだ。
11 :
名無しさん@1周年 :2000/07/05(水) 23:42
今はどうなっているのだ?
12 :
>11 :2000/07/06(木) 01:18
ワープロ入稿だから,爺の論文だけ。
13 :
七篠権兵衛 :2000/07/06(木) 13:59
Maerkische Heide@` Maerkischer Sand Sind des Maerkers Freude@` Sind sein Heimatland. Sind des Maerkers Freude@` Sind sein Heimatland. (Steige hoch!) Steige hoch@` du roter Adler@` Hoch ueber Sumpf und Sand@` Hoch ueber dunkle Kiefernwaelder@` Heil dir mein Brandenburger Land. Hoch ueber dunkle Kiefernwaelder@` Heil dir mein Brandenburger Land!
14 :
fff :2000/07/06(木) 14:11
とにかく、日本は明治時代プロイセンからかなりの制度を輸入したよね。 民法はフランス式なのに、あくまでドイツ風の解釈にこだわったりとか(藁 あと明治憲法は完全にプロイセンだな。 プロイセンの社会制度、社会思想というものを研究することは、 日本近代史においても意義があるだろう。
15 :
名無しさん@1周年 :2000/07/07(金) 23:06
プロイセンて今のドイツのどの辺りなの
16 :
>15 :2000/07/08(土) 01:19
旧東ドイツ北部、ベルリン近辺。
17 :
>15 :2000/07/08(土) 01:22
ポーランドの北辺とロシアの飛び地のあたり
18 :
名無しさん@1周年 :2000/07/08(土) 08:38
つまり今やドイツ領ではない・・・
19 :
名無しさん@1周年 :2000/07/08(土) 12:10
ドイツの一地方に過ぎないプロイセンという地名がなぜドイツ史に頻繁に登場するのでしょうか? とくに優秀な軍人を輩出しているそうですが
20 :
あやめ :2000/07/08(土) 17:31
>19 ドイツ皇帝+プロイセン王+ブランデンブルグ選挙侯であったホーヘン ツォレルン家は、ドイツ君主制最後の王家でドイツ近代史上プロイセン 王室はきわめて重要な役割を果たしています。日本の明治憲法もプロイ セン憲法を手本にして制定されたのです。ドイツ史に頻繁に登場するの は至極あたりまえなことなのです。 優秀な軍人も輩出しました。代表的な人としては7年戦争でオーストリア を屈服させたフリ−ドリヒ2世(大王)や「戦争論」の著者クラウゼ ヴィッツ、ビスマルクを助けナポレオン3世を降伏させた陸相ローンや 参謀総長モルトケなどです。 この王朝の歴史は市販のドイツ史の本に詳細に述べられていますので、 それらを参照してください。
21 :
名無しさん@1周年 :2000/07/08(土) 22:07
>19 30年戦争でドイツのほかの国がぼろぼろになったけどプロイセンは、田舎過ぎてあまり被害を受けなかったため後のドイツ統一に中心的と言うより一人で統一してしまったからです
22 :
名無しさん@1周年 :2000/07/10(月) 21:55
書店で手に入る手頃な文献はあるのかな、なんだか興味が湧いてきました。
23 :
名無しさん@1周年 :2000/07/12(水) 23:50
ポツダム宣言のポツダムってプロイセンだったっけ?
24 :
久々のジーモン@ケー二ヒスベルク :2000/07/13(木) 23:45
>23 そうです。現在のブランデンブルク州。
25 :
名無しさん@1周年 :2000/07/13(木) 23:51
大学時代読んだドイツ語教科書で ポツダム宮殿は「臣下根性を呼び覚ます」とか 書いてあったぞ。
26 :
名無しさん@1周年 :2000/07/15(土) 20:06
ダンチッヒ(現ポーランドのグダニスク)も旧プロイセン領?
27 :
♪プロイセン人を知ってるかい? :2000/07/15(土) 20:36
もともと、プロイセン地方に住んでいたのは、バルト語族の言語(プロイセン語)の 話し手だったが、ドイツ人が大量にやってきて植民活動をやった結果、中世までに ドイツ人に同化して消滅してしまった。
28 :
名無しさん@1周年 :2000/07/18(火) 17:55
現在のドイツではプロイセンはどう評価されているのかな?
29 :
名無しさん@1周年 :2000/07/25(火) 18:32
ダンチッヒ回廊とケーニヒスベルクをドイツに返せ!
30 :
名無しさん@1周年 :2000/07/25(火) 23:02
>29 今更無理だ。
31 :
ポーランド人 :2000/07/26(水) 00:44
シロンスクも返さないぞ。
32 :
名無しさん@1周年 :2000/07/26(水) 09:12
うう。NATO加盟国がここまで、東方に広がったとは・・・。 レーベンスウラムだっけ? 生活生存圏。 やっぱ総統は正しかったなあ(笑)
33 :
名無しさん@1周年 :2000/07/26(水) 11:43
領土問題は隣国の対象地域に自国の民族が少数民族としては無視できないほどの 数で居住しており、かつ自国の民族が旧来の国民国家思想を強く保持しているとき に発現します。現ポーランド国内における統計上の「ドイツ人」は約1.3パーセント程 で、またネオナチは社会現象でありながら社会思想の主流にはなりえない (ドイツは戦後英米と立場を同じくした)ところから、両国間の領土問題が 当該条約にもかかわらず再燃することは近い将来においては考えにくいことです。 さらには、ポーランドのNATO加盟によってすでに両国は軍事的には同盟関係に あり、近い将来のEU加盟によって政治・経済・社会的つながりはいっそう 堅固になるでしょう(しかもフランス・イタリア間のような関係として)。両国間の 領土不可侵条約については説明するまでもありません。 領土問題ならバルカンのセルビア人やアルバニア人の居住地域、そして スロバキアやトランシルバニアにおけるハンガリー人居住地域の方がはるかに 重要です。
34 :
名無しさん@1周年 :2000/07/26(水) 18:33
>33 つまりシロンスクだのグダンスクだのには もうドイツ人全然住んでないから返せだなんて言うわけないってこと?
35 :
ポーランド人 :2000/07/27(木) 00:07
>34 グタンスクを返したら海への出口が無くなる。 シロンスクを返したら工業が壊滅する。 脳死状態の人間から生命維持装置を外すと同じだ。
36 :
ジーモン@ケー二ヒスベルク :2000/07/27(木) 03:07
シロンスクことシュレジェンには、現在でも70万人もの ドイツ人(今では”ドイツ系ポーランド人”)が居住して おります。ただ、彼らは現実的で、ドイツ本国の 元シュレジェン難民の団体や極右のようにドイツへの返還は 馬鹿げた主張だと思っている人が大多数だそうです。 >ポーランド人=ポラック ダンツッヒ・西プロイセン・ポーゼン(ヴァルテラント)は 貴方達のもので良いから、 せめてシュレジェン・ノイマルク(東ブランデンブルク)・ ポンメルンを返還しなさい! 東プロイセン南部(マズール地方)はロシアにプレゼント。 我がドイツとロシアとの再同盟によるポーランド挟撃に 為に、我が故郷にケー二ヒスベルクを含め東プロイセン北部も ロシアの領土として保障する(ドイツは永久に放棄)。
37 :
ジーモン@ケー二ヒスベルク :2000/07/27(木) 03:08
訂正:我が故郷のケー二ヒスベルク
38 :
名無しさん@1周年 :2000/07/27(木) 10:42
>36、37 ポーランド挟撃などど物騒なことをおっしゃるが、現在のポーランド のあり方によってもっとも得をしている周辺国は貴殿の国ドイツでは ないかね。経済と安全保障の点から見直してみたまえ。われわれ ポーランドは貴殿の西部国境線に存在するオランダ・ベルギー・ リヒテンシュタイン等のような緩衝地帯として貴国にとっては 不可欠の存在になろう。すでに当該両国は政治・経済上 相互補完の関係になりつつあるのを無視してはいけない。さらに、 貴殿の挙げるすべての地方は、歴史を遡ればわれわれ固有の領土で あったことも忘れないでいただきたいが、それについてはいまさら われわれが声を大にして主張する必要もなかろう。そもそも すべからく国家の領土というものは、隣国との合意によって 安定化するものである。この点においては現在のわが国と貴国との 国境線は歴史上もっとも理想的なものとみなされなくては ならない。貴殿のような過激な意見をもつ少数派にとっては 不満だろうが、われわれは民主主義の世界に住んでいるのである。
39 :
名無しさん@1周年 :2000/07/27(木) 10:47
>36 なぜドイツ系ポーランド人の存在が問題にならないか。それはわれわれ ポーランド人が彼らに対してわれわれとまったく平等の扱いをするからである。 在日朝鮮人問題のようなものとは構造がまったく違うのだ。恥ずかしながら 国民の多くはロマやユダヤ人のような流浪の民には冷淡だが、その点は貴国も 同様である。
40 :
名無しさん@1周年 :2000/07/27(木) 10:56
>34 そうでなく、そこに居住する少数のドイツ系ポーランド人がドイツより ポーランドの方に愛着を感じていて、民族主義的・国民国家的思想を持って いないからです。その理由は39に書いてあるとうりです。 在外ハンガリー人問題のような現象とはまったく違うのです。 先祖がポーランド人を持つドイツ人と同じなのです。ある私の知り合いは 実際先祖がポーランド人でしたが、ドイツの元貴族です。
41 :
名無しさん@1周年 :2000/07/27(木) 19:24
せめてカントの遺骨だけはドイツに返して欲しいと思うけど、 カント自身はロシア領であってもケーニヒスベルクで 眠っていたいと思ってるかなあ。
42 :
名無しさん@1周年 :2000/07/28(金) 11:03
>41 司教座がヒント。
43 :
ドイツ出張 :2000/08/07(月) 18:49
ハーファーに行くんだけど、ベルリンにも寄ってみようかな。
44 :
ベルリン帰り :2000/08/08(火) 04:39
大和国が支配の中心だったから日本を大和と呼ぶけれど、大和国と日本は違うです。 だからプロイセン州とプロイセン王家と統一プロイセン王国は分けて考えないといけないです。 ナポレオンが規定を破るまで、帝国内にボヘミア以外の王「国」を置くのは許されませんでした。帝国自体がドイツ王国ですから。 ボヘミア王以外の王は、ポーランド王兼ザクセン公とか、ブリテン王兼ハノーバー選帝公とか、みんな同君連合ですね。ボヘミアは、皇帝の領地なのでよいのです。 だからプロイセン王(公)兼ブランデンブルク選帝侯(その他諸侯領称号)。 領地の所有者の呼び名は、対外的には一番上級の称号で代表させます。侯より公や王が上なので、プロイセン公(王)と呼びます。 王領地統一令(だったか)で、王領地全土が一元化されるまでは、各所領はホーエンツォルレルン家という持株会社の所有する子会社にすぎず、相続で分割されることの有るものでした。これは「国」とは呼べないですね。 各領地は代官によって支配されてました。そこからあがる税金・年貢を使ってベルリンの王室官僚と王室軍隊を養っていたわけです。 領地を統べる領邦君主は、日本で言えば大名や旗本です。プロイセン王家は、さしずめ守護大名。 守護の下には地頭あり、それが「貴族」とよばれるものですね。 貴族は、領主裁判権とか免税とかの特権を受けて、領地を経営していました。 領地てのは、自治権のない村落のことです。第一次世界大戦まで、ドイツ東国ではそのようでした。
45 :
闇のルーハ :2000/08/08(火) 15:01
グーツヘルシャフト??
46 :
ベルリン帰り :2000/08/09(水) 05:25
グートは荘園。グーツヘルは荘園領主。 グールヘルシャフトは、荘園領主制または荘園領主層
47 :
名無しさん@1周年 :2000/08/10(木) 18:00
来年は王国として成立して300年かあ、 何か祝賀行事はあるのかな?
48 :
>47 :2000/08/17(木) 01:58
どうかねえ。
49 :
43 :2000/08/22(火) 00:49
ハノーファー万博、寒かった。
50 :
名無しさん@1周年 :2000/08/22(火) 01:03
>49 閑古鳥だらけ?
51 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/08/22(火) 01:35
>50 人の数はまあまあ、でも活気がいま一つ。 一般向けのアトラクションと企業向けの アトラクションが混在。 一般人はお呼びでなく、ビジネスの場のような 雰囲気がありすぎる。
52 :
>51 :2000/08/22(火) 02:33
CeBitと遊園地を混ぜたようなものか?
53 :
名無しさん@1周年 :2000/08/22(火) 02:44
Gutsbezirkの解体は1927年。 ただし領主裁判権なんかは第二帝制期に解除されていたので、 封建的要素が果たしてそれほど強かったのかどうか。 かつてドイツ史学界の一大論争を巻き起こしたテーマですね。
54 :
カウニッツ :2000/08/23(水) 17:33
オーストリア継承戦争の時にフリードリヒ2世が主張した シュレジエン地方にたいするブランデンブルク=プロイセン の古い権利について詳しく御存じの方、教えてください.
55 :
名無しさん@1周年 :
2000/08/23(水) 20:13 あげ!!