1 :
アントニウス:
誰か教えて下さい。
2 :
>1:2000/06/29(木) 23:17
ローマ人の末裔か知らんが、とりあえず
白人は昔からいる。詳しくは知らん。
3 :
東方不敗:2000/06/30(金) 00:15
田中芳樹の中国武将列伝に載ってましたね。
4 :
名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 00:20
大月氏や小月氏は白人だったそうだが。
5 :
名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 01:33
アレクサンドロス大王が植民したことを言ってるんじゃないの?
これだとギリシア人だけど。
6 :
名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 01:40
ローマはどうだか知らんが、大月氏系北方民族は白人。
中国の大学にはウイグル自治区からの金髪碧眼の美女が中国語で勉強している。
7 :
名無しさん:2000/06/30(金) 06:23
>大月氏系北方民族は白人。
イラン系ですか?
金髪碧眼のお姫様(中国への人貢?だったか?)の描写が古い書物にあるそうだけど。
ウイグル自治区・・・・これは混血ですね。
そんな人まだいるんですか。
8 :
アントニウス:2000/06/30(金) 10:23
「中国西域にローマ人の末裔?」って見出しで
1年前位に新聞に出てたんですよ。
あっ、東スポとかじゃなくて
日経(だったと思う。とにかく大手)ですよ。
碧眼で鼻が高く、年に1回、小麦粉で牛の頭を
かたどったものを作って、西方を向いて礼拝する
部族が発見されたとかいう記事だったと思います。
9 :
名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 10:24
あれ?
ウイグル自治区の金髪の白人達は、
ロシア革命の時に亡命してきたロシアの人達の子孫でしょ?
ウイグル族は白人ではなかったはずだが。
10 :
9:2000/06/30(金) 10:27
>アントニウス
マジで?
中国西域って具体的にどこなんだ?
11 :
9:2000/06/30(金) 10:47
12 :
アントニウス:2000/06/30(金) 12:18
>10
具体的な地名は覚えてないんですよ。
すいません。
>5
アレクサンドロス大王って
中国に到達してたんですか?
13 :
名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 22:16
>12
アレクサンドロスは現在のパキスタンどまりだったと教科書には
書いてた。確かね。
14 :
名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 23:12
ウイグル人は古代北アジア遊牧民(コーカソイド的特徴を持っていたらしい)と
インド・ヨーロッパ語族の定住民の混血だから、
白人みたいな特徴は多分に持ってます。
たしかウイグル自治区に当たる所謂「西域」に古代住んでいた人々の言語は
インド・ヨーロッパ語族の中でもヨーロッパ諸言語に親縁の深いものだとか。
たしかにウイグル自治区にはロシアから亡命してきたロシア人(オロス人)や
タタール人(ヴォルガ流域に住むトルコ系イスラム教徒。白人)も
居るけどね。
15 :
名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 09:47
中国の甘粛省永昌の祁連山北麓にいるらしい。
生活風習は殆ど中国化されてしまっているが、容貌や背格好が「ローマ人」と同じだとか。
紀元前53年にローマ軍がパルティア軍と戦って敗れ、その残党の末裔が彼らなのではないか
ということらしい。
漢書の陳湯伝によると、漢軍が匈奴を攻めた折、今のカザフスタン当りでローマ軍と思える
部隊に遭遇したという。これが捕虜となって前漢の元帝の時代に中国に捕虜として連れてこられた
のが彼らの先祖なのではないかと学者は考えているとか。
16 :
名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 10:17
ローマ人って中国語ではどう書くんだ?
中国ヤフーで調べたい。
17 :
名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 01:17
大秦?それとも羅麻かな?
18 :
名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 02:31
インドの奥地にアレクサンドロス大王軍の兵士の子孫がいると読んだことがある。
松浪ソウイチロウ氏の本であった。
しかし、中国にいるのかな?ローマ軍兵士?
突厥とかのトルコ系、あるいはずっと後世のロシア人じゃないのかい?
いたら面白いけれど。
19 :
名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 09:26
>15
パルチアも白人じゃありませんでしたっけ?その子孫かもしれませんよ。
あるいは、フン族に追われて大移動したゲルマン人のうち、移動できずに取り残された者はいなかったでしょうか?
20 :
15:2000/07/02(日) 11:34
>16、17
15は中国のサイトを参照したもの。
「羅馬 綢之路 甘粛 軍」当りで検索すると結構いっぱいヒットすると思う。
>18,19
読んだ記事によると、次のような間接証拠からローマ人と関連付けている。
中国に連行された軍隊が住まわされた地域を古代史書では「驪罷」県と呼んでいる。
この「驪罷」とは、ローマ帝国が「大秦」と呼ばれる以前の呼び名であったと。
そして「驪罷」県は現在の甘粛省永昌と重なる地域を指したという。
甘粛省永昌には古代ローかの建築方法を使用した史跡が見つかっており、祁連山北麓に
住む問題の人々の間には、例えば闘牛と関連性のある祭儀が守られているという。これは
古代ローマ軍に広まっていたミトラ神崇拝と一致する。
他に遺伝子調査、埋葬方法、見た目等の違いなど、色々細かな証拠を挙げているけど、
たしかに間接証拠ばかり。彼らの祖先の古い墓からも古代ローマとの関連性を匂わす出土品
が出たというが、やっぱり直接証拠は見つかっていないみたい。まあおれが読んだ記事は
4つだけだけど。
21 :
名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 14:15
アレクサンドロス大王の兵士の末裔を名乗っているのは
パキスタン北西部のカラーシュ族という少数民族だそうだ。
22 :
名無しさん:2000/07/06(木) 15:44
ウルドゥとパシュトゥーン覚えて現地に行くだね。
23 :
名無しさん:2000/07/07(金) 15:42
前、NHKでやってた。名前は忘れたけど。
パキスタン?の奥地に住む民族でイスラムを拒否しつづけている。
金髪碧眼の人も多い。
24 :
名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 23:33
本当だったらすごいな。紀元前53年の戦いって、
クラッススが死んだ例の戦いだろ?
何十年か後に、パルチアに勝ったアウグストゥスが、
パルチアにこの捕虜の返還を求めたところ、
一人も生き残っていないという返答だったという。
もし@`DNA鑑定で彼らがローマ人の末裔だと証明されたら、
ぜひ、塩野七生に彼らの数奇な運命を物語にしてほしい。
史実ではなく、史実を基にした物語ね。
25 :
名無しさん@1周年:2000/07/11(火) 11:36
中国奥地って、何でもありだな。
FAQだと思うんだけど、古代ローマ人と、現代イタリア人って人種的に違うの?
26 :
あやめ:2000/07/11(火) 19:03
>20
これは驪軒(ほんとは車偏でなく革偏だけどフォントないから代用)の
ことと思います。漢書地理志の注に出てきます。また後漢書西域傳では
犂建(これもほんとは革偏が付く)としていて、大秦国の別名だそうで
つまりローマってわけです。そしてその降人を甘粛の永昌県の南に置い
たと記載されています。
学者の中にはこれはアレキサンドリアの対音だと説く人もいます。
27 :
あやめ:2000/07/12(水) 19:43
どうも誤解を発生しそうな書き方をしてしまったので少し修正します。
驪軒が文献に初めて現れたのは「史記」の「大宛傳」で、張騫が西域探査で齎した
情報の中で、遠西の諸国の一つとして「黎軒」と記述されています。次に「漢書」
の「西域傳」と「三国志」の注に引かれた「魏略」に「犂軒(ほんとは革偏)」と、
「後漢書」の「西域傳」では 「犂建(ほんとは革偏)」と表記されています。
そして「犂軒」が即ち「大秦」であるという説は「魏略」に始まるもののようです。
実際にはどこかということは色々議論があり、アレキサンドリアに比定したのは白
鳥庫吉で、テヘランの南のレイに比定したのは藤田豊八です。藤田氏は大秦=犂軒
説には消極的なのです。
では「大秦」はどこかという議論になりますが差し当たりは省略しておきましょう。
以上は西域の国名としての「犂軒」ですが、漢の県名としての「驪軒」について考
えますと、「漢書」の「地理志」と「後漢書」の「郡国志」の各本文(前のカキコ
で注の中に出るとしたのは間違い、ゴメン)に現れています。
問題は大秦国の降人がそこにいたとする説ですが、これは「地理志」について清の
王先謙という人が付けた注に出てくるものです。王氏は西域の地名の考証に熱心に
取り組んだ学者ですが、今日その成果は高い評価を得てはいません。大秦降人居住
説はどうやら王氏の想像の産物らしいのです。実際に前漢時代ローマ人が纏まって
支那に来ていた形跡は絶無です。しかし何でこんな県名を設けたのかという疑問が
残るのも否定できないところです。
28 :
名無しさん@:2000/07/12(水) 22:37
>しかし何でこんな県名を設けたのかという疑問が
>残るのも否定できないところです。
あやめさん、博学ですね。
何かの本に載ってたのですが、インド・東南アジアの商人たちが
大秦の名を使っていたのではないかという話を聞いたことがあります。
もしそうだとするなら、ローマと交易をしているということが、
一つのステータスみたいなものだったんでしょうかね?
29 :
名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 13:46
〉23
アリヤン人ですね。インドよりも純潔度が高いのかな?
30 :
20>あやめさん:
詳しい解説ありがとうございます。
「大宛傳」の「黎軒」はやはりどうみてもローマではありませんね。
「安息(パルティア)」が先頭に書かれてあること、それから「黎軒」が
「奄蔡(カザフスタン)」と「条支(シリア)」に挿まれて書かれてある
という点からも、中近東のどこかという方が正しいと思います。
それに武帝の時代に齎された文物の中にはガラス器とか青銅とかいった
ローマの輸出品が含まれていないようですし、殆どが西域の文物が
占めていることからもローマ説は支持できないように思います。
武帝が河西4群を開いたのが西域貿易のためであったことを考えると、
たしかに驪軒県に外国人を住まわせたという話もあながち嘘だとは
言えないと思いますが、おそらくローマ人ではなくアフガニスタン当り
から通商のためにやってきた人々を住まわせていたのでしょう。
そういう人々の末裔ならば容姿や姿形が漢人とは違っていてもおかしく
ありませんし。だから「黎軒」をカンダハール(アフガニスタンの都市)
と同定している説もあるようです。