ワ−ルシュタット

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1きぷちゃく、17歳
実は恥ずかしながら教えて下さい。
世界史で「ワ−ルシュタットの戦い」というのを習いました。蒙古軍がドイツ・ポーランド
騎士団連合をこてんぱんに倒した痛快な戦闘だったらしく、興味を持ったので実際どんなところで
どういう風に戦われたのか知りたいと思い、いろんな書籍を探しましたがどこにもその戦いを
記したものがないのです。もう1年ほどになりますが図書館、書店など様々なモンゴル関係や
西洋史関係を読みましたが記載されたものがありません。
なにかそれについて詳しく書かれた書籍はありますか?またどんな戦闘だったのか知っている人が
いたら教えてくれませんか?
2名無しさん:2000/05/17(水) 18:00
同じモンゴロイドの民族が活躍する戦争は好きだな。

当時のヨーロッパは伝染病によって人口が激減していて
そんな中モンゴルが攻めてきたんだからたまんないね。

騎士団の重装備ではモンゴルの起動力にはかなわなかったって所か?
3名無しさん:2000/05/17(水) 20:14
資料がない、ということはつまり
実際にはたいした戦闘ではなかった、っていう見方もできませんか?
世界史ではモンゴル軍がヨーロッパに攻め込んだ象徴として
強調されすぎている気がする。

南ロシアやキプチャク草原の遊牧民たちがヨーロッパに侵入して
地元の兵と戦ったことはこの前も後も何度もあったはず。
バトゥだって軍の編成をしたのがキプチャク草原だったことを考えれば
その軍にはおそらくその地のトルコ系遊牧民が含まれていただろうし・・・
4無明斎:2000/05/17(水) 20:22
それは確かリーグニッツの会戦じゃなかったけ?
バトウの指揮するモンゴル軍15万とヘンリック二世の指揮する
ヨーロッパ連合軍4万の戦いで、ヘンリック二世がリーグニッツ
の東南4Km、ワールシュタットに布陣した戦い。
書籍としては新紀元社のTruth In Fntasyシリーズの
覇者の戦術 -戦場の天才たち- ¥1748 があります。
戦闘の経過がわかり易く載っています。
またこの本は、古代から中世の代表的な戦術がテーマ毎に(攻城戦とか
少数騎兵による迂回起動戦といった具合に)あるので、いろいろと参考
になります。
まあ数の上でも圧倒的なのに、そのうえ大軍を伏兵とし、小兵力の前衛
部隊で擬似敗走によって、その中につり出す戦法でヨーロッパ連合は、
みごとにひっかかって完膚なきまで叩かれたそうである。
5まぁまぁ棒:2000/05/17(水) 20:22
>3 ちなみに・・・・・煽りじゃないですよね?(笑)

規模が小さかった=大した事は無い という訳でもなくって、
あの時代にモンゴル軍がはるばるヨーロッパの地まで辿り着
いて、さぁこれから席捲するぞ、という状況だった、という
事が大事なのでは?

確かに指摘通りに前哨戦で規模は比較的小さなものでしたが。
6名無しさん:2000/05/17(水) 22:55
ワールシュタットって地名ではないでしょ。確か死体の山という意味
だとおもったけど。
73:2000/05/18(木) 07:11
>5
半分マジでしたが。
遊牧民と定住民が戦って定住民軍が惨敗、なんて戦争は
ユーラシア大陸のあちこちで何度も繰り返されてきた戦闘のパターンなのに
ワールシュタットばかり大きく言われるのって変なの、
って思ったので。
だいたいモンゴル帝国軍自体はこれより前、チンギスハーンの生前に
もうロシアまで来てるわけだし。
あ、ロシアはヨーロッパじゃないってのか(笑)
それと、モンゴル軍の全軍がモンゴル人だと考えるのも
モンゴル高原の人口のことを考えると不自然だと思います。
キプチャク草原やヴォルガ、南ロシアで現地徴用した兵力も多かったはず。
「元寇」の主力が高麗人や南宋人だったようにね。
だから、東からはるばる来たモンゴル対未知の敵を迎え撃つヨーロッパという見方はなにかおかしな気がする。

>6
>ワールシュタットって地名ではないでしょ。確か死体の山という意味
だとおもったけど。
そういえばそうでしたね。
ドイツ語?
8名無しさん:2000/05/18(木) 11:17
ワールシュタットの戦いはモンゴル帝国の西方の最大進出線を確定
したということで重要なのじゃないかな?同じ意味で重要なのが元
寇。
9名無しさん:2000/05/18(木) 13:42
戦闘の内容自体が特別重要なんじゃなくて、
戦いに後から付与された意味が重要、ということ?

それならアイン・ジャールートの戦いも重要ですね。
マムルーク朝を安定政権にしたという意味もあるし。
10無明斎:2000/05/18(木) 21:00
とりあえず、手持ちの資料による開戦前の状況を書いておきます。


モンゴル帝国は広大な帝国を打ち立てたが、チンギス・ハンが死亡した後には、
その大帝国も支配が行き届かず、一度は滅亡した国々が勢力を盛り返しつつある
中で、モンゴル帝国の後継者は、
全部族をあげたクリルタイ(モンゴルの最高決定機関。部族会議)を催し、緩み
かけた帝国のたがを閉め直す為の大遠征軍の西制を決定した。
総司令官はチンギス・ハンの長子ジュチの息子バトォ、副将にスブタイを戴き、
モンゴル騎兵隊5万、
トルコ系の歩兵7万からなる大軍だった。
出陣したモンゴル軍は西アジアからヨーロッパ・ロシアに至る各国を征服し、
ポーランドに駒を進めた。
この頃には、モンゴル軍の陣容は降伏した国や都市から徴発した兵士を加えて
15万を超えている。
ポーランド領内に侵入したモンゴル軍はヨーロッパ各国にとってはまったく
理解不能の悪魔の軍団であった。
度々十字軍を起こしてイスラム領内に侵攻しているヨーロッパにも、イスラム
教徒でも、キリスト教徒でもない異形の軍団はなんとしても阻止しなければな
らない敵だったのだ。
ヨーロッパ軍総司令官となったシレジアの大公、ヘンリック二世は各国から送
られた増援にポーランドから最大限の動員をかけた大軍を加え、4万の軍団を
組織して、防衛線を敷いた。
その場所は、ポーランドの西方、ドイツとの国境に近いリーグニッツ。
ここを破られればモンゴル軍はドイツに雪崩れ込み、小さな領邦国家に分裂
しているドイツは各個撃破されて、ヨーロッパは無防備な平地と化す。
最後の防衛線に、ヘンリックは絶対の自信を持つ、ヨーロッパの重装騎士団
による突撃で臨もうとしていた。
11無明斎:2000/05/18(木) 21:08
とりあえず手持ちの資料による開戦前の状況を述べておきます。

モンゴル帝国は広大な帝国を打ち立てたが、チンギス・ハンが死亡した後には、
その大帝国も支配が行き届かず、一度は滅亡した国々が勢力を盛り返しつつあ
る中で、モンゴル帝国の後継者は、全部族をあげたクリルタイ(モンゴルの最高
決定機関。部族会議)を催し、緩みかけた帝国のたがを閉め直す為の大遠征軍
の西制を決定した。
総司令官はチンギス・ハンの長子ジュチの息子バトォ、副将にスブタイを戴き、モ
ンゴル騎兵隊5万、
トルコ系の歩兵7万からなる大軍だった。
出陣したモンゴル軍は西アジアからヨーロッパ・ロシアに至る各国を征服し、ポー
ランドに駒を進めた。
この頃には、モンゴル軍の陣容は降伏した国や都市から徴発した兵士を加えて
15万を超えている。
ポーランド領内に侵入したモンゴル軍はヨーロッパ各国にとってはまったく理解不
能の悪魔の軍団であった。
度々十字軍を起こしてイスラム領内に侵攻しているヨーロッパにも、イスラム教徒
でも、キリスト教徒でもない異形の軍団はなんとしても阻止しなければならない敵
だったのだ。
ヨーロッパ軍総司令官となったシレジアの大公、ヘンリック二世は各国から送られ
た増援にポーランドから最大限の動員をかけた大軍を加え、4万の軍団を組織して、
防衛線を敷いた。
その場所は、ポーランドの西方、ドイツとの国境に近いリーグニッツ。
ここを破られればモンゴル軍はドイツに雪崩れ込み、小さな領邦国家に分裂してい
るドイツは各個撃破されて、ヨーロッパは無防備な平地と化す。
最後の防衛線に、ヘンリックは絶対の自信を持つ、ヨーロッパの重装騎士団による
突撃で臨もうとしていた。
12無明斎:2000/05/18(木) 21:09
すみません。
二重カキコになってしまいまた。
13ジーモン@ケー二ヒスベルク:2000/05/18(木) 21:57
ホッ、薄汚い蒙古野郎とタタールが、
神聖なるゲルマニアにまで進入してこずに
良かったぜ。
あんな醜い連中に我々の女が種を植付けられたら
大変だったからな・・・
だが、バトゥの末裔なのか赤軍総司令官の
ジューコフにヤラれてしもうた・・・
蒙古人・タタール人にもロシア人にも
二度とゲルマニアに来てもらいたくない。
14名無しさん:2000/05/18(木) 22:53
>13
東洋人側からの発想なら、惜しかったよなあ、ワールシュタットの
後の展開は。ヨーロッパの全土をモンゴル軍が席巻すれば、
西洋人のあの鼻持ちならない独善的態度も、
いくらか違ってたかもしれんのに。それとも余計酷くなってたかな?
15>13、14:2000/05/18(木) 23:32
 それにモンゴルって宗教には妙に寛大だから、ドイツ当たりは
征服された方がかえって後の宗教戦争などよりはましだったんじゃ
無いだろうか??
16無明斎:2000/05/19(金) 00:24
戦闘の経過 1

ヘンリック二世は全軍をあげて、リーグニッツの東南4km、ワールシュタットに
布陣した。
ヘンリックの戦略は、4万の軍をせれぞれの出身別に5個の部隊に分け、それを
梯団編成により、モンゴル軍を漸減しつつ、最後部に配置した最強の装甲重
騎兵で蹴散らそうというものだった。
第1陣は、モラヴィア辺境伯の嫡子ボレスラフが指揮する歩兵中心の部隊である。
第2陣はから第3陣までは、各州の地方領主を中心とする部隊で、封建領主と
しての騎士と、その従者、そして農民を徴発した歩兵の部隊である。
第4陣と第5陣が決戦部隊だった。
異教徒たるモンゴル軍を殲滅するための、重装甲を施した騎士を中心とする
騎兵部隊である。
第4陣はプロシアのチュートン騎士修道会、そして第5陣は、ポーランド騎士団と
ドイツの傭兵部隊である。ヘンリック自身は第5陣に本陣を置き、自らを決戦部隊
の司令官としていた。

梯団状に配置したヨーロッパ連合軍4万に対し、モンゴル軍は圧倒的に優勢だった。
司令官バトゥは総勢15万を各3万の5個軍にわけ、ヨーロッパ軍を包囲する横隊陣形
をとった。
直接正面にあたる部隊は、チンギスハンの第二子チャガタイの子バイタルだった。
バイタルは敵が5段の陣を敷き、各団ごとに防御線を敷いて、モンゴル軍を疲弊、
漸減する戦法であることを看て取った。
その思惑の裏をかくために、バイタルは前線に押し出す騎兵の小部隊を編成した。

17無明斎:2000/05/19(金) 00:37
戦闘の経過 2

両軍が対峙し戦端が開かれた。ボレスラフの指揮する第1陣が前進し、モンゴル
騎兵隊も、猛然と疾駆してきた。
短い戦闘の末、モンゴル軍は混乱し、馬首を巡らせて、逃げ出していった。
意外なほど脆い敗走だったがボレスラフは疑問を感じることなく、全部隊に追撃を
命じた。
第2陣も意外な展開に驚きながらも手柄の一人占めは許さないとばかり、全部隊に
前進を命じた。
必勝を期して組み上げた陣形が崩れはじめた。慌てたヘンリックは命令を飛ばして
制止する。しかし言葉も違い、統一された指揮系統にあるわけでもない連合軍には
意思統一は望むべくも無く、眼前にちらつく手柄に目を奪われた連合軍は、周囲の
状況など目に入らず突進した。
気づいたときには、第1陣、第2陣共に本体から大きく引き離されて、大平原のただ中
に引きずり出されていた。
18無明斎:2000/05/19(金) 00:38
戦闘の経過 3

敗走するモンゴル前衛部隊を追撃する連合軍第1陣だが、距離は詰まらず、しかも
付かず離れずの距離を保って逃げていく。連合軍将兵の胸に疑念が射した。
そのとき、行く手に白い旗が翻った。同時に歓声があがり、地響きが轟いた。
左右両翼から土煙が上がり、何万という騎兵が疾走してくる。
モンゴル軍の主力、軽騎兵が連合軍を覆い潰すように突進し、呆然と立ちすくむ
第1陣を嘲笑うかのように、敗走していたはずの前衛部隊までが馬首を再度巡らせた。
モンゴル軍が得意とした、擬似敗走による釣り出し戦法である。

圧倒的な兵力を用意して敵軍に対する鶴翼陣形を取り、それを伏兵として、小兵力の
前衛部隊を突出させる。軽く戦った後に敗走を装って後退し、敵の追撃を誘いつつ、
味方の包囲網の中心に誘い出す。
そして敵の兵力を引き離し、騎兵の大集団が自在に行動できる平原に誘引して、
伏兵となった騎兵集団が左右から突撃。同時に前衛部隊も反転して敵の前進を阻み
、動きの止まった敵集団を主力騎兵の大密集集団で押し潰すという、必殺戦法だ。

事態の急変に右往左往するボレスラフの第1陣は、完全包囲され、矢の雨が降り注ぐ。
第1陣が包囲され、なぶり殺しの窮地を救おうと第2陣、第3陣は、全力で進軍した。
しかしその戦場にたどり着くより早く、モンゴル騎兵の大軍が彼らを続けざまに挟み込み
、矢の雨で殲滅していく。
無秩序に前進した連合軍の各部隊は、いつのまにかモンゴル軍の伏兵が潜む中に
放り出されていたのである。
梯団編成をとる敵に対しては、伏兵を重層的に配置し、釣り出し戦法と併用する。
その上で分断された敵を各部隊毎に包囲し、各個撃破するという戦法だった。
圧倒的な優位を保ちながら、なお敵を分断するという非常なほどの殲滅戦法に、
連合軍は為す術も無く倒されていく。ヘンリックが計画した漸減戦法は、逆にモンゴル軍
によって実行されていく。
やがて見る影も無く討ち減らされた連合軍は、必死に囲みを破って逃げ出した。
分散していたモンゴル軍は終結し、大集団となって前進する。

19無明斎:2000/05/19(金) 00:41
戦闘の経過 4

ヘンリックは勝負に出た。潰走する味方を追撃してくるモンゴル騎兵隊に向かって、
決戦兵力を出撃させる。
精強を誇るチュートン騎士修道会が、短い祈りをささげてから馬腹を蹴った。
続いて、ヘンリック自身が指揮するポーランド騎士軍が突撃にかかる。
しかし、精鋭騎士団といえども全員が騎乗しているわけではない。従者や歩兵をひき連れた
騎士団はせっかくの機動力を生かすことが出来ず、モンゴル騎兵隊に捕捉、包囲されて
一方的に倒されていく。
モンゴル騎兵隊は短弓の速射性を活かして、まず弩を持つ歩兵を倒し、次に騎士が目標と
なる。モンゴル軍は一定の距離を保って包囲し、矢の雨を注いで騎士団を殲滅していった。
モンゴル軍の矢には毒が塗ってある。たとえ鎖帷子が防いでも、わずかな傷をつければ
、それで勝負が決まる。
次々と味方を討たれ、それでも必死の指揮を続けていたヘンリックは、最後に起死回生の
突撃を試みた。しかし命令を伝える伝令の声は戦場の喧騒にかき消され、それを退却の
命令と聞き間違えた者がいても不思議はない。
ヨーロッパ騎士団は一時に崩れ、退却を始める騎士が出たために、全軍にわたって乱れが
生じた。
それを見逃すバイタルではない。追撃命令が出、勢いを増したモンゴル軍は攻撃を強め、
連合軍は全戦にに渡って崩壊した。
もはや万事窮す。ヘンリックは退却の道を探ったが、その時飛来した毒矢が彼の命を絶った。

もはやヨーロッパの風前の灯火だった。
しかしモンゴル国内で後継者問題が再燃。再びクリルタイが招集されたため、バトゥはドイツ
を目前にして全軍を反転させた。


20名無しさん:2000/05/19(金) 12:26
>16―20
すげーなモンゴル・・・
21名無しさん:2000/05/19(金) 13:21
>16−20
モンゴルの戦争って戦法からなにから
こっちの常識が通じない、だから強かったんだろうなあ。
22名無しさん:2000/05/19(金) 13:46
そういや火薬を戦争に使ったのってモンゴル軍が最初だっけ?
日本の攻めてきた時には使ってたよね。
それとも中国ではすでに使われていたのだろうか?
23名無しさん:2000/05/19(金) 17:50
>22
火薬は宋代に使われ始めたとか。
金軍が最初に本格的実用化したんじゃなかったかな。
24ジーモン@シュトラスブルク:2000/05/19(金) 22:40
まあ、ともかく、トゥール・ポワティエで
イスラム軍が、リーグ二ッツでモンゴル軍が
撃退されて良った(後者は「撃退」された訳
ではないが・・・)。
もし、アラブ人・ベルベル人に、或いは
モンゴル人・タタール人に占領されていたら、
西洋文明は花開かず、我々も暗闇をさまよっている
事になるからな(当時はイスラム文化が一番水準が
高かったが・・・)。
25名無しさん:2000/05/19(金) 23:05
トゥール・ポワティエも最前線まで略奪にやってきた部隊を
追っ払っただけって話だけどね・・・

まぁ、イスラム進出の停止の象徴として意味はあるけど。
26名無しさん:2000/05/20(土) 13:50
それにしても東欧連合軍はよく万単位の兵を集めたね。
当時のヨーロッパではすごいことなんじゃない?
27名無しさん:2000/05/20(土) 17:33
というか、当時の欧州はそれだけ魅力のない辺境の地だったのさ。
28名無しさん:2000/05/20(土) 19:21
この戦いの意義について言えば、実は日本人にはワールシュタットの戦いを
やたらと過小評価する人もいて、実は実際にあった戦いなのか疑わしいとか、
あったとしてもせいぜい数百人程度の兵力の小競り合いに過ぎなかったとか
書いてる人もいるんだよね。
29名無しさん:2000/05/21(日) 04:18
日本のモンゴル研究者はモンゴルの意義を強調しすぎてるような気がするけど。
その文脈からワールシュタットのような戦いの意義は小さく見られる。

まぁ、でもモンゴル=脅威の野蛮人・破壊者って見方も
モンゴル=ユーラシア世界秩序の建設者という見方も
結局後の人が勝手にああだこうだ言ってるだけじゃないかねえ。
30名無しさん:2000/05/21(日) 05:17
ロシア史についての本でモンゴルの影響を「アジア的専制」などといまだに
平気で書く日本人学者の頭はどうかしているとは思う
31名無しさん:2000/05/21(日) 05:37
>ワールシュタットって地名ではないでしょ。確か死体の山という意味
>だとおもったけど。
ドイツ語だとstadtはstateつまり英語で言うlandみたいなものだから、地名なのでは?
文字通り「山」ならburgで終わると思うんだけどなあ。
32ドイツ語は知らんが:2000/05/21(日) 11:28
> 別名リーグニッツの戦い、というよりも、もともと戦い
> が行われたのがポーランド郊外のリーグニッツの近く
> なのである。では、『ワールシュタット』というのは何
> か?
>  実は「死体の山」という意味である。
>  この戦いの後、ポーランド・ドイツ軍の兵士がまさしく
> 死体の山と化しており、ヨーロッパで「ワールシュタット
> だったそうだ」と言われ伝えられるうちに、いつしか地
> 名になってしまったという話である。

という解説見つけた。
http://www.asahi-net.or.jp/~xr6k-msd/event/waru.html
33>24:2000/05/21(日) 13:39
西洋文明が花開かなくても、近代文明のようなものはいずれどこかで
開花したでしょう。せいぜい歴史の進み方に数百年〜数千年程度の
誤差が生ずるくらい。
34ジャスティス野郎:2000/05/21(日) 16:10
マルコポーロが大都まで行けたのはモンゴルの整備した通行路の
おかげじゃないかな?

イタリアに帰ってから獄中で書かせたと言う東方見聞録は馬鹿売れ
したんでしょ。
オスマン朝の存在がでかかった時には陸路は危険だったし・・・
35名無しさん:2000/05/21(日) 20:58
>34
キャピチュレーションやってたから
オスマン領内は大丈夫だったんじゃない?
むしろ内陸を抑える国が複数に別れて統一秩序がなくなったのが問題。
36ジーモン@ケー二ヒスベルク:2000/05/22(月) 20:05
私は、悪質な冗談をカキコしていたが、
ただ、(昔の)モンゴルを美化する事は、
ロシア帝国及びソ連が”タタールのくびき”を
強調したり、ドイツが”蒙古・タタールの野蛮性”を
強調してきた(これは独ソ戦争の際にもソ連=モンゴル、
スターリン=ジンギス・カンに見立ててナチスが
盛んに宣伝した)事などと同じく歴史学的には誤り。
日本も元軍に占領されていたらば、モンゴル人と混血し、
更に南宋人ら中国人が大量に移住してきたであろう。
幕府はおろか朝廷も滅ぼされた可能性すら有る。
37ジーモン@ケー二ヒスベルク:2000/05/22(月) 21:01
因みに、私はモンゴル嫌いではないよ。
モンゴル・ファンでもないけれど。
モンゴルの乳酒も好きだし(クセが有るが・・・)。
38名無しさん:2000/05/22(月) 22:29
>37
乳酒はバリ酸っぱい。
39きあら:2000/07/01(土) 09:29
1週間前にパソコン買って、今初めてこのコーナーを見ました。
バトゥの遠征は、卒論でやりました。
「モンゴル軍の軍紀や戦法・武器」「リーグ二ッツの戦いをはじめとした戦争の経過」「遠征がヨーロッパに与えた影響」など。
う〜ん。
しかし、最後の書き込みを見る限り、このコーナーはもう終わりっぽいですね。
残念☆

『モンゴル帝国史』(ドーソン著)(平凡社)が1番わかりやすくていいかも。
モンゴル族の戦いなどがチンギス=ハンから載ってます。
40名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 03:13
age
41名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 19:16
にしても16〜20はすごいな。そこから仕入れてんだ?
4241
ミス。
そこから→どこから

失礼致した。