1 :
名無しさん:
フランスと仲悪すぎだけどなぜ?
オーストリアは同じ民族なのに、なぜ国がちがうの?
他にもあったら、教えてください
ちなみに仕事でドイツに行く人は、こういうことを
基礎知識として勉強させられるんだとさ。
別にドイツに限った事じゃないけどね。当たり前か
2 :
名無しさん:2000/05/02(火) 22:11
ドイツは、ヨーロッパの嫌われ者だけど・・・
フランスとは9世紀から殺し合い
デンマークを農業国にしたのは
ドイツが資源豊富な地域(どこだっけ?)を奪ったから。
中立国のベルギー侵略・・・
特に2次大戦を上げたら、きりがないね
3 :
ケー二ヒスベルク:2000/05/02(火) 22:40
ドイツはロシアと並ぶ欧州の憎まれっ子。
両国で18世紀以来 何回もポーランドを
分割しているし・・・
ヨーロッパ中で暴れ廻っていた。
オーストリアとは、おしゃる通り同じドイツ人の
国ですが、19世紀にプロイセンとオーストリアが
ドイツ統一の覇を争い、オーストリアはプロイセンに
敗れ「ドイツ」から排除された為に、ハンガリー人や
スラヴ人を支配する多民族国家としての道を選んだ。
が、第一次世界大戦敗北で革命が起き、オーストリアは
ドイツ人だけの小国(現在のオーストリア)に転落し、
オーストリアもドイツも統一を求めた(「右」も「左」も)
が、ヴェルサイユ条約で禁止され、それが1938年
オーストリア人のドイツ帝国総統ヒトラーによって統一。
オーストリア人は熱狂した。
しかし、第二次世界大戦敗北で、またもや別離。
因みに、ドイツはオーデル・ナイセ川以東の
広大な「固有領土」をポーランドとロシアに奪われて
”大国”から転落(面積では・・・)。
私は、再びドイツとロシアは暴れ出す恐れが有ると
思う。
4 :
名無しさん:2000/05/02(火) 23:45
ロシアは当分無理っぽい
チェチェンの方が長引きそうですね
プーチンさんがこれからどう出るか・・・
5 :
>2:2000/05/03(水) 06:59
>資源豊富な地域
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン。ビスマルクが戦争でぶんどった。
ちなみに、国家としての「ドイツ」は19世紀まで存在していません。
(イタリアと同じ)一般にいうところの「ドイツ」は
「プロイセン・ドイツ」なので、地理的、民族的な意味での「ドイツ」
とズレがあることに注意すべきでしょう。
6 :
名無しさん:2000/05/07(日) 05:13
age
7 :
名無しさん:2000/05/07(日) 20:32
ドイツの建国記念日はいつですか?
10年前の統一の日ですか?
しかしその前から東西ドイツがあり、その前にはナチスドイツがあった。
では第1次大戦に負けて、いわゆる「ワイマール共和国」が成立した日ですか?
しかしその前にはドイツ帝国があった。
では普仏戦争に勝ってベルサイユ宮殿でドイツ帝国成立記念式典が行われた日ですか?
しかしその前から、統一国家ではなくてもドイツ民族はいた。
それ以前にドイツ民族が統一されていたのは神聖ローマ帝国である。
ではオットー大帝が神聖ローマ帝国を打ち立てた日ですか?
しかしこれは東フランク王国が名前を変えただけである。
では東フランク王国成立の日ですか?
つまりベルダン条約でフランク王国が分裂した日である。
分裂だから、あまりめでたくないなあ・・・。
一体ドイツの「建国記念日」はいつなのでしょうか?
8 :
>7:2000/05/07(日) 22:04
これは面白い問題ですね。
フランク・神聖ローマ帝国ともに,単に現在のドイツ国家と
地理的位置が重なっているだけで,決してドイツ人国家という
観念は持っていかったみたいです。
ドイツ「国民」観念というのはようやく15世紀ぐらいの諸宗教会議の中で
でてきたものみたいですね。
しかもその後も19世紀まで,中部ヨーロッパは領邦分立状態が長く続きましたし。
だから,ドイツ人国家というのはプロイセンのような巨大領邦を筆頭とする
無数の諸領邦国家という形で(厳密に今日的な意味での国家といえるかどうかは問題ですが)
存在しますが,「ドイツ国」というのはなかったんですな。
中央政府を持つということで言えば,やはり近代的な意味での
ドイツ国成立は,1871年のドイツ帝国成立時になるかと思います。
ただし,その日付に記念するほどの価値があるかどうかは,ドイツ人自身の
間ですら議論があるようですが。
9 :
7の者:2000/05/07(日) 22:35
>8
ご教示ありがとうございました。
10 :
>8:2000/05/07(日) 22:59
>ただし,その日付に記念するほどの価値があるかどうかは,ドイツ人自身の
>間ですら議論があるようですが。
そりゃできんでしょう。
それをやっちゃあドイツ革命を「間違っていた」と否定することになってしまう。
それとも最後の皇帝ヴィルヘルム2世だけ悪者扱いしておいて、ビスマルクやホーエンツォレルン家は否定せずに認めることにしておけばいいかな?
ちなみにヒットラーは、ドイツ革命を否定していましたね。
「我が闘争」の中で、あの革命のことを「11月犯罪」と呼んでいました。
(ああ、だったらホーエンツォレルン家を引っぱり出して王政復古させればよかったのに。すれば、あだ名だけでなく正式名称でも「第3帝国」になったのに。まったく何考えてんだかわからん狂人だ)
11 :
8です。>10:2000/05/07(日) 23:51
革命の意義と言うことで,仰ることはよく分かるのですが,
ただドイツの場合は,統一民族国家がそもそも存在しないという
状態が長く続いた,という事情があります。それだから,
現在の統一ドイツの原型と言うことで,1871年を位置づける,という
動向がドイツ人にないわけでもないのです。
ボンからベルリンへの首都移転がまさにそのような意識を反映していると言えます。
何しろ,ベルリンに所在する議事堂の呼称は,
相も変わらずReichstag[帝国議会]なのですから。
このあたりは,ほぼ単一民族国家の日本と,歴史理解や問題の捉え方が
かなり違ってくるので,ドイツ統一の問題と革命の問題というのは,
さしあたり切り離して考えた方がよいのかも知れません。
12 :
>11:2000/05/08(月) 21:17
>現在の統一ドイツの原型と言うことで,1871年を位置づける,という
>動向がドイツ人にないわけでもないのです。
しかしなあ、フランスのベルサイユ宮殿で建国式典をやったから、この日を記念日にしたらフランスが怒るでしょう。
この日は普仏戦争の戦勝記念日でもあるわけです。
それにしてもなんでビスマルクはベルサイユ宮殿なんかで挙行したんでしょうね?ベルリンでやればいいのに。
敗戦国フランスへのいやがらせ以外の何物でもない。
13 :
>12:2000/05/09(火) 11:32
>それにしてもなんでビスマルクはベルサイユ宮殿なんかで挙行したんでしょうね?ベルリンでやればいいのに。
>敗戦国フランスへのいやがらせ以外の何物でもない。
たしかに嫌がらせもあるのかもしれないが、以前どっかのHPでドイツ皇帝の皇帝位はフランスナポレオン3世から
受け継いだ(禅譲?)形になっているので、そのためにわざわざベルサイユ宮殿にまで行ったそうです。でそのHPでは
大英帝国の皇帝位もインドムガル朝の皇帝位を継いだ物でそれ以前は皇帝では無かったそうだ。それにしてもその情報元の
HPのアドレスなどを忘れたのは失敗だ。
14 :
名無しさん:2000/05/09(火) 11:33
「大英帝国」に「皇帝」はいないよ…
15 :
ふむ・・・:2000/05/09(火) 11:39
イギリスの場合、インドのマハラジャ(地方領主)たちの推戴を受けて
「インド皇帝」に即位したんじゃなかったっけ?
別にムガール朝の帝位を相続したってゆーわけでは…
詳しく知ってるひと、すくレス入れて。
5分以内で
16 :
13:2000/05/09(火) 11:44
17 :
13:2000/05/09(火) 11:48
18 :
ふむ・・・:2000/05/09(火) 16:34
>16・17
レス早過ぎ(笑)
19 :
>10:2000/05/11(木) 04:12
いや、一応は首相就任後に、オランダに亡命中のヴィルヘルム二世に
皇帝即位を打診したらしいけど、拒否されたらしいです
20 :
>19:2000/05/11(木) 16:11
ホントかい?
そんな話初耳だぞ…
ヒトラーは共産主義みたいな大衆を基盤とする独裁権力を志向してたのでは?
でも確かに、初期には他者依存の姿勢をみせてるけど…
21 :
名無しさん:2000/05/11(木) 18:36
ヒトラーはハプスブルク家に次いで
ホーフェンツオレルン家を嫌っており、
「テーブル・トーク」では君主制や貴族制度
への敵意を露にしている。
また、”ドウーチェ(ムッソリーニ)はローマ進軍を
もう1年待って、共産党と社会党に国王と
教皇を叩き出させておけば、ドゥーチェは
今頃、イタリア唯一の主人になれたのになぁ。”
などと余計な事まで言っている。
初めから(それこそミュンヘン一揆の頃は
ともかく)ヒトラーは大統領(元首)を目指していた。
多分、ヴィルヘルム2世に打診したとしても、
実質上は再即位できない事を理解していたの
パフォーマンスだと思う。
22 :
名無しさん:2000/05/12(金) 04:45
ドイツとロシアが嫌われ者とはおもしろいね。
確かロシアではドイツ系は憧れの的って聞いたけど
実際どうなんでしょーか?
23 :
>22:2000/05/12(金) 07:40
スターリン時代にほぼ絶滅しています
24 :
名無しさん:2000/05/12(金) 11:08
今さらサンクト・ペテルブルグなんて名前を復活するぐらいだし…
25 :
名無しさん:2000/05/12(金) 16:12
>24
未だにケー二ヒスベルクはカリーニングラード
のままであり、ジュガーノフを英雄として
迎える共産党天国。
26 :
名無しさん:2000/05/13(土) 15:37
>24
なんで「ペトログラード」にしなかったのでしょうね。
ドイツ風よりもロシア風のほうがいいにきまっているのに。
27 :
24ことジーモン@シュトラスブルク:2000/05/13(土) 16:27
>26
私も疑問に思っている。
第一次世界大戦でドイツと戦争になる以前から、
ペトログラードと通称されていたし、戦争(1914年)
からレーニン死後(1924年)までの10年間は
公式名称だったのにね(ロマノフ王朝、ケレンスキー
政権、レーニン政権を通して)。
それに、正真正銘のロシアの町をドイツ語風に
戻し、本来はロシア及びソ連と何の関係もない
旧ドイツ領の町は、スターリンの忠臣カリーニンの
巨大な銅像が残り名称もカリーニングラードのまま。
しかも、カリーニンの生地トヴェーリはカリーニンの
名称も銅像も撤去したのに・・・
28 :
ジーモン@シュトラスブルク:2000/05/13(土) 16:28
訂正:Ich bin 25.
29 :
>7:2000/05/18(木) 19:13
国家ドイツの前身はプロイセン王国
プロイセン王国の前身はブランデンブルグ選定候領
よってホーエンツォレルン家の人間がブランデンブルグ選定候に
なった時がドイツの建国記念日。
30 :
名無しさん:2000/05/20(土) 03:40
>相も変わらずReichstag[帝国議会]なのですから。
これはReichという言葉をどうとらえるか、ということになるんだけど
Reich自体は帝国という意味に限定されるわけじゃないのよね。
ヴァイマル時代だって相も変わらずReichstagだったんだから。
この場合はやはり「共和国議会」とするのが普通だろうし、
第二帝制期なら「帝国議会」でいいだろうし。
あと神聖ローマ帝国は、「ドイツ国民による神聖ローマ帝国」
が正式名称。
だけどこの「ドイツ国民」(Deutscher Nation)というのが
現在の国民国家における「国民概念」とは全く異なるのは
明らかなわけで。
となると「ドイツ国民国家」の始まりをどこにおくかという問題は
まぁ教科書的に考えれば、やはり1871年になるのかなぁ。
31 :
8です:
仰るとおり,Reich=帝国という等式は成り立たないので,だからこそ
括弧書きの[帝国議会]なわけです。
要するに,8で言ったようにドイツの特徴は民族的分布と
国制の不一致,国家の分裂にあります。
その分裂を肯定的に捉えたのが現在のラント連合国家としての
Bundesrepublikであるとすれば,
他方,Reichという国制形態に表現される強力なドイツ民族統一国家に,
ドイツ人自身が惹かれている側面もある,ベルリン首都移転は
まさにそのような側面の現れと見ることができる,ということが言いたかったのです。