1 :
山内容堂:
ディアドコイ戦争ともいいますが、皆さんどのような印象を?
2 :
名無しさん:2000/03/25(土) 00:07
アレキサンドロス大王は死の床に横たわり、武将たちが
誰を後継者にと問うたのに対し、最も強きものと答えた
と言うエピソードを何かで読みました。
それ以外良くわからない、調べてみると面白そうな時代
ですが、識者の投稿を待つ。
3 :
名無しさん:2000/03/28(火) 04:38
誰も書かない、興味があるので誰か教えて。
特に、何故後継者たちは悉くローマに負けたのか、戦術
的に劣っていたのか。それであれば、アレキサンダーは
ローマに向かったら負けていたのだろうか。
4 :
名無しさん:2000/03/28(火) 09:11
ローマに向かわなかったのは、
単に当時(330B.C.だっけ?)のローマが一都市国家に過ぎなかったから。
征服対象としては、西アジアの方がはるかに魅力的だった。
後継者がローマに負けたといっても、アレクサンドロス死後100年以上も経ってからで、
プトレマイオス朝は300年後。あまり関係ないんじゃないかな。
後継者の国家が長続きしなかったのも、軍人ばかりで政治家がいなかったから。
5 :
山内容堂:2000/03/28(火) 16:21
アレクサンドロスが完成させたマケドニア重装歩兵軍と、
ローマのレギオンが衝突した実例というのは意外と多くて、
最初のそれは前三世紀中期の、エペイロス王ピュロスによる
イタリア侵略があります。このときは、緒戦ではローマが
コテンパンにやられはしたものの、持ち前の動員力で次第に
ピュロスを圧倒してゆきます。ここでは、人的資源に乏しかった
ピュロスには消耗戦は厳しすぎたこともあり、できる評価は、
国家の懐の広さであって、戦術的評価は難しいです。
次に、マケドニア王フィリッポス5世との戦いがありますが、
ここでマケドニア軍は、キュノスケファラエの戦いで一敗地に
まみれ、続いて息子のペルセウスが、ピュドナの戦いで敗北し、
マケドニアはローマの属州となってしまいますが、史料の記述
を信じるならば、バカ息子のペルセウスが負けたのは当然とし
て、かなり優秀な君主といえたフィリッポスが敗北するあたり、
レギオンの優越が明らかになったともいえそうですが、山がちな
ギリシアという地勢を考えると、柔軟性に富むレギオンに地の利
があったという印象です。実際、ピュドナとキュノスケファラエ
はこの目で見てきましたが、どうしてこんな丘陵地帯でファラン
クスを敷いたのだろうと、疑問に思いました。
(続く)
6 :
山内容堂:2000/03/28(火) 16:21
(続き)また、セレウコス朝のアンティオコス3世(メガス)は、
マグネシアの戦いでローマに敗れています。やはり、節目節目の
戦いで、後継者諸国はローマに敗れている史実を見ると、レギオン
が優れたシステムであることを認めざるを得ないのですが、
オリエントに建設されたヘレニズム諸国は、もともとアジア的要素
の強い土着文化の上に、支配者としての少数のギリシア人が建設
した、ある種の寄生国家です。その軍隊あったファランスクや、
ヘタイロイなど諸エリート部隊も、構成していたのは、アレクサ
ンドロスやその後の時代に入植してきたギリシア人、マケドニア人
の子孫だけでなく、かなりの割合でアジア人が含まれていたこと
がわかっています。ですから、ヘレニズム諸国家の軍隊を、アレ
クサンドロスが率いていた、活力あるファランクスと同列に論じ
ることはできません。
個人的見解ですが、ローマと後継者諸国家の対立は、戦場における
優劣というよりも、傭兵やあてにならぬ異民族軍隊に依存し、一
度負けたら威信もなにも失う脆弱な国家体制であった軍事王国と、
何度打ち負かされても、圧倒的な動員力ですぐに軍隊を建てなお
し、危機にあってその底力を発揮するローマという、国家の活力の
違いにあったような気がします。
7 :
山内容堂:2000/03/28(火) 18:54
自分で振っておいて、なんのレスも返さないのも変なので、
後継者戦争の概略を書きます。といっても、多少、細かい
ミスがあるかもしれませんので、それはご容赦ください。
アレクサンドロスがバビロンの王宮にて死去したのが323年
(すべて紀元前)。30歳そこそこという若さで死んだため、
まともな後継者が育っておらず、後継者は誰に、という部下の
質問に際して、「もっとも優れたものに(強いものに)」と
言い残したと伝えられます。
この後で、すぐに有力武将によって会議が開かれます(信長死後の
清洲会議みたいなもの)。これをバビロン会議と言いますが、
ここでは帝国摂政の地位にあったペルディッカスが主導権を握り、
自らに有利なように武将を配置します。この頃ちょうど、ギリシア
本土では、アテナイのデモステネスが主導した反マケドニア反乱
(ラミア戦争)が勃発しており、マケドニアの宿将アンティパト
ロスが危機に陥っていたのを幸いとして、人望の厚かったクラテ
ロスを、救援として派遣し、厄介払いします。そして、幸運な
ことに、クラテロスはラミア戦争のさなかに戦死してしまいます。
8 :
山内容堂:2000/03/28(火) 18:55
しかし、ペルディッカスの専横は長くは続きません。
エジプトの太守にしたプトレマイオスが反旗を翻したために、
これを討伐すべくエジプト遠征を敢行したペルディッカスで
したが、ナイル渡河に失敗し、部下の反乱もあって暗殺され
てしまうのです。
この結果、一応のたがを失った帝国の分割傾向はいっそう進み、
その取り分をめぐって、トリパラデイソスにおいて有力武将に
よる会合が開催されます。320年のことです。(続く)
9 :
山内容堂:2000/03/29(水) 10:59
すいません。修正があります。
クラテロスのことですが、彼はラミア戦争ではなく、
エウメネスとの戦いで戦死しています。
ここで、バビロン会議によって取り決められた序列を挙げます。
一見、一枚岩のマケドニア軍ですが、詳細に眺めてみると、
貴族階級中心の騎兵部隊と、平民を中核とする歩兵部隊の階級闘争は
随所に見受けられます。大王死後はこの対立が先鋭化したのですが、
これを仲介したのが摂政ペルディッカスで、大王の夫人ロクサネが
男子を産んだなら、それを後継者とし、成人するまでは大王の弟の
フィリッポス3世アリダイオスと共同統治させるという前提条件の元、
以下のように序列を定めることで妥協を図ります。
すなわち、マケドニアの宿将で、本国の留守を任されていた
アンティパトロスを、ヨーロッパにおけるマケドニア王国の筆頭に据え、
ヨーロッパの軍団長にはクラテロスを当てる。自らは帝国全体の軍団長
となり、副官に歩兵の利害を代弁していたメレアゲルをあてる。(続く)
10 :
山内容堂:2000/03/29(水) 11:01
と同時に、帝国各所に有力武将を送り込み、太守として任命します。
これを全部挙げるときりがないので、後継者戦争で主要な役割を
はたした人物のみ挙げますが、
・アンティゴノス フリュギア、パンフリア(小アジア西部)の太守
・リュシマコス トラキア(ブルガリア・ルーマニア近辺
ここはマケドニアより切り離された)の太守
・セレウコス シリアの太守
・プトレマイオス エジプトの太守
長老はマケドニアに送り返し、実権を掌握したペルディッカスでしたが、
ほとんどの武将はこれを心の底から認めたわけではないので、結局、
「彼(ペルディッカス)は誰からも信頼されず、そして彼も、誰も
信じていなかった」という状況になります。そして、自らの元に権力を
集中させ、中央集権的な体制を固めようとするペルディッカス一派と、
派遣先の太守として独立傾向を強める諸武将の間で、対立が先鋭化して
ゆき、ペルディッカスが大王の妹を娶るにいたって、ついに
反ペルディッカス陣営(アンティゴノス、リュシマコス、プトレマイオス
、クラテロスら)はアンティパトロスを担ぎ出して戦端を開きます。
しかし、クラテロスが、ペルディッカスの部下エウメネスとの戦いで
敗れると、ヨーロッパ方面は膠着してしまい、これで孤立したと見える
プトレマイオスを撃つために、ペルディッカスは自らエジプトに遠征し
、作戦の失敗から部下に暗殺されるのです。
こうして、320年、トリパラデイソスにてアンティパトロスを中心とした
会議が開かれ、後継者戦争は第2ステージに突入します。
11 :
わくわく > 10:2000/03/29(水) 12:30
続き楽しみにしてます。
12 :
山内容堂:2000/03/30(木) 13:47
トリパラデイソス会議は、勝者であるところの反ペルディッカス派の
利害調整という色彩が強く、すでに太守として任命されていた多くの
武将は、自らの権限の強化を求めますが、大枠としては、次のように
定まります。
アンティパトロスは二人の王の守護者としてマケドニアの宮廷を守り、
アンティゴノスは「アジアの将軍」として、エウメネス討伐軍の指揮権
を握ります。この取り決めは、マケドニアとアジアの新領土が、
実質的にこの二人の手によって分け隔てられたということであり、
すくなくともアンティパトロスの考えには、アジアは意識されていな
いことが伺えます。これにより、将来の持ち主は変わるものの、
のちのヘレニズム時代の枠組みは確定したといえます。
13 :
山内容堂:2000/03/30(木) 13:48
この後、20年間の歴史は、アンティゴノスという人物を中心に
展開します。後のマケドニア王アンティゴノス・ゴナタスと区別
するために、モノプタルモス(隻眼)とあだ名されるこの
アンティゴノスは、アレクサンドロスとともにアジアを駆けめぐった
同世代の若いリーダー達(ヘファイスティオン、プトレマイオス、
メレアゲル、セレウコス、ペイトン)と違い、大王の父フィリッポスと
同世代で、パルメニオンやアンティパトロスらとともに、マケドニア
王国の隆盛に駆けめぐった宿将です。大王の東征にあっては、早々に
小アジア西部のフリュギアの太守として、後方に留めおかれていまし
たから、大王が長命であったなら、歴史書の注釈程度の扱いしかされ
なかったでしょうが、この後の彼の活躍は、古代史の中でも、彼が
ハンニバルやカエサルにも匹敵する軍事的指導者であったことを十分に
証明しています。常にマケドニアにあって、それ以上の世界観の広がり
をみられなかったアンティパトロスと違い、遠征に参加していたことが、
彼をして、新時代への適応を可能ならしめたともいえそうです。
14 :
山内容堂:2000/03/30(木) 14:57
これまでだらだらと書き連ねてきましたが、当面、こんな感じで
気が向くままに話を進めようと思います。もしも質問なり疑問
なりがありましたら、知っている範囲でお答えしようと思いますので、
遠慮せずに書き込んでください。
15 :
山内容堂:2000/03/30(木) 14:58
こうして軍権を掌握したアンティゴノスは、エウメネス討伐のために
軍を進めますが、ペルディッカスなき後、分裂状態にあった残党を
糾合したエウメネスは、大軍を擁してアンティゴノスを迎撃します。
ここから数年の間、エウメネスは常にアンティゴノスの眼前に立ち
ふさがり、後継者戦争を彩ることになります。では、このエウメネス
という男のことを、すこし述べておきたいと思います。
16 :
名無しさん:2000/03/31(金) 16:34
期待してます。
ヘレニズム期の軍事・統治制度について教えて。
傭兵に支えられた危なっかしい国家だってのはわかるけど、
実際にはどうやって運営してたの?
あと、オリエント・地中海対決の鍵となる、アルメニア王権についても。
CCさくら板から流れてきた者なので、こういうまともなスレッドをみるとほつとします。
17 :
山内容堂:2000/04/01(土) 10:37
>運営
セレウコス朝について分かっていることから言いますと、
後継者戦争時代に自軍にいたギリシア人やマケドニア人
などを、そのまま都市部に居住させ、荘園を与えて経済的
な地盤を与え、引き替えに軍務を課したと言うことらしい
です。オリエントを支配した力の源泉がのがマケドニアの
軍事制度だったわけだから、その枠組みを崩すことはでき
なかったようです。と同時に、自軍エリート部隊に、オリ
エントの住民から選抜した人間を入れて、その子孫などを
軍隊に取り込み、分割統治も実践していたようです。
アルメニア王権に関しては、ちょっと不案内なので、ほか
の人のレスに期待します。
18 :
名無しさん:2000/04/03(月) 11:21
ううむ。ヘレニズム期には、世襲軍人、つまり「武士」の
ようなものがいたのね。
あとこの時代の都市経営は?
基本的には自治で、税金払うだけだったの?王は長官とか、
派遣しなかったわけ?
19 :
山内容堂:2000/04/03(月) 14:21
都市経営
名目上、ギリシア風の民会などが用意されていた痕跡はありますが、
守備隊長官のような立場でセレウコス朝の役人がいたこともあり、
どうやら自治というのはポーズにすぎなかったようです。
文献資料が充分に残っておらず、研究者の間でも、自治と強制に
ついては議論が分かれるところです。
20 :
山内容堂:2000/04/03(月) 14:23
>ううむ。ヘレニズム期には、世襲軍人、つまり「武士」の
>ようなものがいたのね。
ギリシア・マケドニアの純度をすこしでも保とうとしたようで
すが、結局土着化が進んでしまったようです。「武士」よりも
半農半兵の「郷士」という立場のほうが近いように思われます。
21 :
名無し:2000/04/03(月) 14:46
山内さんのHPってあるの?あったら教えて。
西アジアの地方政治ってよくわかんない。やっぱり、中央派遣の長官
がいたのね。
それは一代限りの官僚?それとも、地方領主?
22 :
山内容堂:2000/04/03(月) 16:00
後継者戦争のHPではありませんが、機動戦士ガンダムの
HPは運用しております。たはは。恥ずかしくて、ここでは
公開できません。
>それは一代限りの官僚?それとも、地方領主
たとえばピエリアのセレウキアなど、主要都市では
官僚的要素が強かったと推測できますが、辺境域の
都市などでは懐柔戦略(あるいはやむを得ず)として、
土着有力族長を「役人」として任命していたというのが
真相のようです。
といいつつ、ペルシア湾の孤島(ファイラカ島)のような
場所でさえ、かなりの程度、ヘレナイズ(ギリシア化)が
進んでいたのが、発掘の結果分かっているので、まだまだ
確定できません。
出土史料一つで劇的に変わる研究領域です。
23 :
山内容堂:2000/04/03(月) 16:45
エウメネスについてたびたび史料に「カルディアのエウメネス」として
登場するとおり、彼は中部ギリシアのカルディア出身であり、後継者の
中にあって、唯一の外国人です。それだけに、家柄の裏付けもなく、
アレクサンドロスの秘書官という地位まで登り詰めたことは、彼の能力が
際だっていたことを示しています。しかし、自他共に認める軍事的才能や
能力を持ってしても、やはり出自がネックとなるために、権威に依存して
自らの能力を発揮せざるを得ない定めにあり、それが故に、反抗的な
マケドニア人を多く従えざるを得ない太守の地位を求めるよりも、
ペルディッカスの腹心として能力を発揮する道を選んだのです。
しかし、ペルディッカス亡き後の不安定な状況下でも、自らの勇気と
将官としての才能で兵士達の信頼を勝ち取り、常にアンティゴノスを
悩ませ続けていたエウメネスという男。後継者戦争の中でも、
私がもっとも好きな人物の一人です。
24 :
名無し:2000/04/04(火) 12:18
あはは。ぼくもアニオタだから、いいですよ。
そういう人って多いんですね(^^;;
前に、シリアのアンティゴノスについて読んだことがある。
何世だったか忘れたけど、インドまで遠征し、エジプト・ローマと戦った人。
ヘレニズム末期だから、後継者戦争とは違うかな?
だけどなんでインドまでいけたんだろうね?
発掘待ちかあ・・・碑文さえあればね。でも、長いのはもうでてこないでしょう。
だいたい、短くて解釈もめるじゃない?
一般書で、読みやすい後継者戦争の本があったら教えて。
ヘレニズムの本、少ないし、専門書ばっか。素人にはツライ。
25 :
山内容堂:2000/04/04(火) 21:56
>前に、シリアのアンティゴノスについて読んだことがある。
ああ、多分アンティオコス3世でしょうか。
退潮期のセレウコス朝を立て直し、インドまで遠征し
たことなどから「大王」と呼ばれています。結局、
ローマに破れてしまいましたが。ハンニバルも晩年は
彼に身を寄せました。
一般書では、残念ながら後継者戦争をわかりやすく伝える
本はありません。いずれ後継者戦争の通史を書きたいと
思って、こつこつ洋書を読みあさってます。
26 :
新参者:2000/04/05(水) 01:10
山内さんはすごい勉強家ですね。
何かそういう関係のお仕事をしてらっしゃるのかな?
もし通史ができたら、是非見せてください。
このあたりのところって、高校の世界史で
すごく納得いかなかったんですよね。
アレクサンダー大王が死んだ後、もういきなり三つの国に
分かれちゃってて、ディアドコイ戦争の経過がぜんぜん
触れられていない。まあ、重要度の点でそう判断したんだろうから
仕方ないかもしれんけど、それにしてもちょっと唐突過ぎる
内容なんですよ。
だから妙に興味のある個所でして。
どうでもいい話ですけど、レンタルのアニメコーナーに
「アレクサンダー大王記」っていうのがありました。
27 :
名無しさん:2000/04/05(水) 01:45
アンティゴノス朝の前にカッサンドロス朝というのが
あったと思うのですが、これはペルディッカスのことですか?
28 :
山内容堂:2000/04/05(水) 13:48
>26・27
私も、アレクサンドロスほどの偉業の後、帝国分割となればそれこそすごい
大混乱があったはずなのに、そのあたりの説明が全くされないまま、分割
されたという結果しか示されないことに不満を持ったのが、この時代に興
味を持ったきっかけです。
で、カッサンドロス朝とアンティゴノス朝についてですが、
たとえば教科書的にはよく、
セレウコス朝シリア
プトレマイオス朝エジプト
アンティゴノス(カッサンドロス)朝マケドニア
という書かれ方をされてしまい、早稲田政経あたりの問題でないと、
まずマケドニアについては出題されませんでした。この経過はいずれ
詳しく書くつもりですが、簡単に説明しますと、306年にアレクサンド
ロスの家系が断絶するのと前後して、アンティゴノス・モノプタルモス
が王号を名乗り、これを皮切りにプトレマイオスらも王号を用い始める
のですが、この時マケドニアを押さえていたのはアンティパトロスの
息子カッサンドロスだったので、この王朝をカッサンドロス朝マケドニア
といいます(同様にリュシマコス朝トラキアなんてのもあったりして)。
29 :
山内容堂:2000/04/05(水) 13:49
ところが、カッサンドロスは後継者を残せずに没してしまい、
マケドニア王位は空白となります。シリアとエジプトでは大勢
が確立してしまった以上、マケドニアの主導権を巡って流動的な
状態が続き、エペイロスのピュロス(大王の甥)やリュシマコス、
アンティゴノスの息子デメトリオス、プトレマイオス・ケラウノス
など、群雄どもが次々と軍を入れ、一旦はケラウノスが主導権を
握ったと見るや、こんどはゴール人の侵入があって戦死してしまう
など、大混乱が続きますが、デメトリオスの息子でアンティゴノスの
孫にあたるアンティゴノス・ゴナタスが、ゴール人を撃破して権威を
確立し、ここにアンティゴノス朝マケドニアが成立します。
30 :
新参者:2000/04/05(水) 15:06
>山内さん
どうやら興味を持った理由は同じようですね。
案外、この辺に興味を持つ人はみんな同じ理由なのかな?
しかし、カッサンドロスはアンティゴノスとの
血縁関係はないようですね、お話を聞く限りでは。
私はてっきり、何らかのつながりがある王朝同士だから
二つまとめて並べてあるのだと思っていました。
どうやら、統治していた地域が同じだけで、
カッサンドロス朝が短命に終わったということのようですね。
それにしても知らない人間のオンパレードです。
やっぱり群雄割拠の混乱の時代で、いろんな英雄的な
人たちが活躍してたみたいですね。
これからも楽しみにしています。では。
31 :
山内容堂:2000/04/05(水) 21:57
>24
後継者戦争の通史ではありませんが、つい最近、
「アレクサンドロス大戦記」という小説がでています。
著者はマンフレディというイタリアの研究者で、翻訳者も
古典に明るいようですから、期待の作品です。
エウメネスとアレクサンドロスの会話があったのをのぞいた
瞬間購入しました。
徳間書店 1800円です
それと、アニメビデオですが、あれはきっついですねぇ・・・
まだなかなか踏み出せないのですが、全巻そろったら試しに
みてみようと思います。
荒俣宏でしたっけ?原作。彼は、4年ほど前にも大王がらみの
小説を出していますが、信長に偉人のことを聞かれたフロイスが
大王を信長に紹介するという小説でした〔読んでないので不明)。
32 :
名無し:2000/04/06(木) 12:15
ところで、トゥキュディデスやヘロドトスはと゜うて゛す?
彼らの本を読むことから、ヘレニズムへの興味が芽生えたのて゜すが
33 :
山内容堂:
古代ギリシア史を区分すると、
アルカイック期
古典期
ヘレニズム期
に分けられますが、ヘロドトスやトゥキュディデスはどっぷり古典期の人
ですね。アレクサンドロスの東征以降、区分的にはヘレニズムに突入しま
すので、ちょっとスレッドの方向性からはずれてしまいますが、
トゥキュディデスの『戦史』はとてもおもしろいです。ただ、いきなり
読んでも難解だし、そもそもなじみの薄い事件なので、通史を押さえてから
読むとおもしろさも倍増です。ヘロドトスなんかは、著作そのものが解説本
みたいなものなので、そのまま読んでもおもしろいです。
で、トゥキュディデスを読み終えたら、クセノフォンの『アナバシス』を
読むと、アレクサンドロスが東征に至った気持ちが分かるような気がします。