もっとも感動的な戦い

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1テルモピレーの戦い
歴史の授業中に泣いたのは初めてです。
2しらん:2000/02/08(火) 07:51
おしえてくれい
3名無しさん:2000/02/08(火) 08:43
オルレアンの戦い。

フランス人にしてみれば気分は最高だと思うよ。
4名無しさん:2000/02/08(火) 10:16
「映像の20世紀」で特攻機がアメリカ艦隊に突撃するところはマジで泣けた。
オレも日本人なんだなぁ。
5>2:2000/02/08(火) 12:42

ペルシア軍はマケドニアから南下し、ギリシア連合軍も出撃し、
テルモピレー(海沿いの土地で山が迫り、隘路になっている)
でペルシアの 南下を阻もうとした。
前480年8月、ここに有名なテルモピレーの戦いが 始まった。

 テルモピレーのギリシアの守備隊は、スパルタ王レオニダスの
指揮下に、 スパルタ市民の精鋭300人を中心に総勢約6000人で
あった。
守備隊は、ペルシアの 弓兵の威力が発揮できないように、
隘路の断崖で戦った。守備隊はペルシアの 大軍を相手によく
戦ったが、地元のギリシア人がペルシア軍に迂回路を教えた ため、背後をつかれ挟撃にあい
激戦の末、300人のスパルタ兵は全員戦死した。
この戦場跡に建てられた墓碑の詩
「旅人よ、ラケダイモン(スパルタのこと) の国人に行き伝えよ。
御身らが命に服して、我らここに死にきと」

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/21-greece3.html より引用。)
61:2000/02/08(火) 13:33
どの辺が感動的かも書かないとまずいな。

ヘロドトスの報告によると、スパルタ人300人+同盟諸国数千人に対して、ペ
ルシア王クセルクセスは一気にギリシア都市国家軍全てを支配下に置こうと数年か
けて軍隊を集めて、その数500万。王が攻める前に一同を謁見した時、兵は一つの平野
に入りきらず、軍船も一つの湾に入りきらなかったと言われる。

その軍を少数の精鋭でどう迎え撃つかと考え、狭隘地のテルモピレーで戦ったわけです。
ちなみにスパルタ人の日ごろの鍛錬は今だに「スパルタ教育」というくらい有名ですが、
その300人はその中でも精鋭揃いだった。

ペルシア王の元にも亡命スパルタ人の側近がいて、「これだけの大軍を前にさしもの彼
らも恐怖しているだろう」というと「いや、彼らはあそこの守備を命じられたので最後まで
戦い抜くでしょう。絶対に降伏はしません」と答えます。

で、その後何度も攻撃が繰り返され凄まじい激戦が行われます。最初余裕を構えていた
ペルシア王も何日経っても突破できないことに苛立ち、しゃにむに軍を突撃させたので
ペルシア兵は身動き取れず、崖から落ちて死ぬ者も多数いました。

さて、そのうち内通者から迂回路を教えられたペルシア軍は守備隊を完全に挟み撃ちに
します。もはや勝目はなくなったと判断したスパルタ王レオニダスは同盟諸国の軍に
撤退することを許します。しかし、王自身とスパルタ精鋭の300人の生き残りだけは撤退し
ません。「我々はここで敵を迎え撃つことが任務なんだ」
そして最後の戦い。一気に戦力が薄くなったギリシア軍(但し一人一人は強い)はペルシ
ア相手に最後の一人まで抵抗を続けます。武器も折れて使えなくなり素手で殴ったり
噛み付いたりして、そこを守ろうとし全員戦死。

怒ったペルシア王が死体をさらし者にしたあと「貴公の国の人間は誰でもこれくらい強い
のか?」と聞くと「本国の人間は彼らに少しも劣るものではありません」とその側近は答
えます。
7名無しさん:2000/02/09(水) 07:47
中世欧州最大の野戦になった、グリュネワルトの戦い(別名タンネンベルクの戦い)。
特にポーランドの人の立場から見ると最高に感動的ですね。
8名無しさん:2000/02/10(木) 17:22
1453年、コンスタンティノープルの陥落。1500年近く
続いた正統ローマ帝国の終焉。最後の皇帝コンスタンティノス11世
パライオロゴスは採る古兵との市街戦で戦死。
9その頃も:2000/02/10(木) 17:39
ローマ軍(と言っていいのか?)はレギオン制だったのかなあ・・。
10時価+:2000/02/10(木) 18:11
>6
私も、文化について無関心に見えるスパルタが、
ギリシア文明を守る為に、進んで犠牲となる
(しかもスパルタの戦士に裏切り者はいない)
ことに感銘を受け、スパルタが憧れの地となり
数年前に訪れました。アテネのような文化遺産は
ほとんど残っていませんでしたが、
そこがスパルタらしいと、非常に感動しました。
11名無しさん:2000/02/10(木) 18:43
>9
中世に軍制改革をして、
騎兵・歩兵・弓兵(だっけ)の三兵協同戦術を採っていたそうです。
歴史学者曰く、「中世欧州唯一の組織的軍隊」だとかで、
その意味では古代ローマ軍の継承者です。

彼らがイスラム軍に伍して戦えたのもそのおかげでしょう。
12>6:2000/02/11(金) 02:22
ペルシア軍が500万とは本当でしょうか?
13いろいろ:2000/02/11(金) 04:04
身の回りの世話の人間とかも多いのですが、ほとんど民族大移動って
感じですね。現在の文献では、やたら低く見積もる学者もいるようですが、

ヘロドトスはそう書いてます。ヘレスポントス海峡に船を渡して渡る件が
あるんですが、そこを全軍が昼夜渡りつづけて一週間掛かったとあります。
で、ざっと計算してみると40人が横一列(船の長さ)になって5秒毎に渡っ
ていくと、ほぼ一週間で400数十万人になります。
14ただ:2000/02/11(金) 04:06
多すぎるという理由だけで、過小評価するのは反対ですね。
個人的に。
15名無しさん:2000/02/11(金) 18:46
>13 さん
あんまりそういう計算もあてにならないことが多いですよね。
いろいろな要因から行動が遅れることはままあることですし、
文学的表現もある程度差し引かないといけないわけで。

500 万という数は多分ありえないでしょう。
500 万の軍を一つの戦場に集中させることは「現在でも」不可能です。
兵站などを考慮すれば、多分多くても 30 万程度が限界だと思います。

とはいえ、数千人単位で一軍を食い止めるたのだから、
歴史に残る偉業であることは確かです。(^^;
16名無しさん:2000/02/19(土) 08:44
ボロジノの合戦。トルストイ、『戦争と平和』
で感動しました。
17名無しさん:2000/03/11(土) 02:48

霧社事件。これほど感動的な戦いを俺は知らない。
18名無しさん:2000/03/11(土) 02:54
ミートキーナの水上少将。
19名無しさん
「旅人よ 行きてラケダイモンの人に 伝えよ
 我ら 命を守りて この地に倒れりと」って、この戦いの記念碑の銘文でしたっけ?