1 :
大賢良師:
取り敢えず創っておこうかの・・・。
世界史版の皆様の度量の広さを期待して、
三国志好きよ、強く生抜いていこうぞ。
ああ、我らの桃源郷は何処じゃろうか・・・。
黄夫マサニ立ツベシ。
2 :
大賢良師:2000/01/15(土) 04:13
赤壁の戦いからいって良いかの?
転載しておくぞ・・・。
228 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/01/09(日) 15:32
赤壁といえば最大の功労者はやはり老将黄蓋でしょうか?
苦肉の刑なんて泣かせます。
お年寄りは大切にしましょう。
230 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/01/09(日) 17:50
赤壁はどこまで現実なんだろう?
戦略的な意味は大きかったんだろうけど、戦の規模としては
大したもんでもなかったんじゃないだろうか?
曹操側に戦う以前の問題(疫病とか)があったみたいだし。
赤壁は孫権側が開戦を決意した段階で、曹操側の戦略失敗みたいなところもあったんじゃないだろうか?
大軍率いて遠征してきたのも、孫権側をびびらせて降伏させるのが本当の狙いだったのかも。
3 :
大賢良師:2000/01/15(土) 04:15
転載その弐じゃ。
231 名前: >230 投稿日: 2000/01/11(火) 09:22
曹操は荊州攻略と同じ様な幻想を抱いていたのでは?
と思っています
兵士の熟練度、統率などの面を考えると
あの遠征はかなり無理がありますからね
びびらせると言う意味合いが大きかったと思いますよ
ただこの敗戦で兵は失っても人材的な損失が殆ど無いところを見ると
最初から負けを想定していたのかも知れませんね
やる気はないけど、降伏してきたら儲けモンみたいな感じだったのではないでしょうか?
238 名前: >赤壁 投稿日: 2000/01/15(土) 00:17
疫病やら何やらでもうそろそろ引き上げようかって撤退準備してた
ときに、船焼かれたんじゃないかな。逃げる準備してたから主戦クラス
の武将の被害はなかったとか。
だから魏は無かったことにしようとするし、勝ちは勝ちだから呉は士気
高揚のために誇大宣伝した。これが「魏書」と「呉書」の赤壁に対する
記述の違い繋がったと。
4 :
大賢良師:2000/01/15(土) 04:25
ドコまで信じて良いのかわからんが、
長江と准河の間に両軍が展開しておって、赤壁のみが戦場ではないようなんじゃが。
こいつらは何をしておったんじゃ?
それで赤壁の意味が違ってくると思うんじゃが・・・。
知ってる者はおらんかのう。
赤壁自体はそう大きな戦ではないかもしれん。
5 :
名無しさん:2000/01/15(土) 08:43
なんかお一人で、大変そうですね。がんばってください。
6 :
名無しさん:2000/01/15(土) 13:36
7 :
むー:2000/01/15(土) 14:12
三国志スレッドで良く思うんですが、「三国志」と「三国志演義」の
どちらをよりどころにして話せばいいのでしょう?
演義をネタにすると、「正史には出てこない」という無粋なツッコミが
入るのが嫌です。
8 :
>7:2000/01/15(土) 15:39
話をふる前に演義か正史かを述べたらいいと思います
こっちは重々承知して書いても
それは演義!とかって知ったかぶったツッコミって結構むかつくよね
その気持ちよく分かります
9 :
名無しさん:2000/01/15(土) 18:29
一応、歴史板だから「正史」じゃないの?
10 :
名無しさん:2000/01/15(土) 21:24
正史だけに限っちゃうと書き込みづらい人もいるんじゃないのかな?
基本は正史、演義について書きたい場合は冒頭にその旨書く、というのは?
11 :
7:2000/01/15(土) 22:00
演義で別スレッド立てます。どうぞよろしく。
12 :
>10:2000/01/15(土) 22:19
それでいいと思う。
13 :
張師君:2000/01/16(日) 12:05
>大賢良師殿
曹操軍は呉を攻める際、広陵や合肥などにも兵を配置し、大規模な
包囲網をひいたそうですから、その一部ではないでしょうか?
実際に戦闘があったかどうかは判りませんが。
14 :
大賢良師:2000/01/17(月) 04:50
おお、これは五斗米教の、いや鎮南将軍閣下とお呼びすべきかの?
手取りはどのくらいになるのか、所得税も消費税もないからの、弟だって見捨てても結構じゃ、
そもそも余も科挙に受かっておれば・・・いかん涙が出てきおった。
本題返るが、
江南を攻めるときは長江線まで北が進出しておらんとぐんじてきに難しいらしい。
准河の線から一気にというのは無理らしいんじゃ。
長江上流から下っていくのもまた難しいらしい。
>大軍率いて遠征してきたのも、孫権側をびびらせて降伏させるのが本当の狙いだったのかも。
これか、もしくは赤壁辺りに呉軍主力をひきつけておき、
勢力圏を長江線まで拡大するのが目的かと感じておるが・・・。
准河と長江の間で戦闘は実際にあったのかのう?
15 :
>14:2000/01/17(月) 05:37
大賢良師さま、つかぬこと伺いますが、三国志の時代にも科挙があったのでしょうか?
科挙は唐の時代からできたように教わった気がするのですが、宜しければ
東方の倭奴めに当時のことをお教え下さいませ。
16 :
名無しさん:2000/01/17(月) 23:27
俺も誰かになりきろうかな?
17 :
大賢良師:2000/01/18(火) 00:45
>15
仰る通り、科挙なぞ無いぞ。
九品官人法が後の科挙の原型となった・・・はずじゃが。
この時代は郷挙里選とかいう・・・はず。
建前として儒教的徳目を持つ人物を、地方から中央へ推薦することになっておるはず。
もちろん実際は地方有力者の子弟限定じゃ・・・。
ただ、コネがなくて郷挙里選にもれた、よりも
宦官の不正で科挙に落ちた、と書くほうが物語上分かりやすかろ。
もっとも、余が官吏志望だったかどうかすら分かっておらぬがの。
>16
なりきってしまわれるがよい・・・浮世は夢ぞ、いざ狂え。
さて、科挙なぞより卒業が・・・。
18 :
回し下痢:2000/01/19(水) 06:46
干吉!!
左滋!!
うそいうんじゃねえよ!
三国志5より
19 :
名無しさん:2000/01/19(水) 06:53
>17
良師には落第の予兆有り、か。
そこまでロールプレイするとは・・・デキル!
20 :
名無しさん:2000/01/20(木) 13:02
もう一日レスなかったので、赤壁の話は終了ってことでいいんじゃないすか?
次、誰か語りたいことない?
21 :
名無しさん:2000/01/20(木) 18:14
>大賢良師
黄巾族について語ってくれい!
22 :
>21:2000/01/22(土) 23:00
以前、少し語ってたよ。三国志人物評価のスレッドで。
23 :
大賢良師:2000/01/23(日) 00:06
>21
22殿が仰っておられるが、その程度しか覚えておらんのじゃよ。
しかし、皆、時間の余裕があるんじゃな・・・。
潰しても潰しても、黄巾賊のように問題が発生する。
現世でも余は劣等生なのかの、道なお遠し・・・。
24 :
東方不敗>大賢良師殿:2000/01/23(日) 00:55
人生という戦は最後の最後にならねば勝敗などわからぬもの、
結論を出すには時期尚早でございますよ。
今は己の心に恥じぬ戦いをする事だけをお考えあるのがよろしいかと。
健闘をお祈りしております。
25 :
東方不敗:2000/01/23(日) 01:00
あっと・・。関係ないレスでスイマセン・・。
26 :
大賢良師:2000/01/25(火) 02:24
>24
東方不敗殿、かたじけない・・・。
あま〜く見ても五分五分の戦にて、つらいのじゃ。
>20
なにかないかの?
ん〜、もっとライトにこの合戦が好き!とか。
27 :
20です:2000/01/26(水) 07:35
誰もお題を出さないので、別スレッドから持ってきました。
つーことで(転載)
劉備の没落はいつから始まったか
1 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/01/16(日) 13:29
関羽の死、荊州失陥以降、劉備軍団は一気に没落していきました。
「劉備が没落していったのは荊州を失ったから」と言われていますが、
私は蜀攻略戦の最中にホウトウを失ったときから、すでに劉備の
勢いには陰りがあったと見ています。
ホウトウの死によって、絶対的な軍師が孔明一人になったのが痛すぎます。
益州に孔明、荊州にホウトウという配置が出来ていれば、
蜀はもっと強くなっていたでしょう。
荊州の守りは、関羽よりも趙雲に任せるべきであったと思います。
関羽は「文武両道の将軍」というイメージがありますが、彼は
所詮豪傑に過ぎなかったと思います。
彼よりも趙雲の方が冷静沈着で、計略にも長けていそうな気がするので、
趙雲にこそ荊州の守りを任せるべきであったと思うのですが。
2 名前: >1 投稿日: 2000/01/16(日) 13:51
>ホウトウの死によって、絶対的な軍師が孔明一人になったのが痛すぎます。
>益州に孔明、荊州にホウトウという配置が出来ていれば、
法正は?
>荊州の守りは、関羽よりも趙雲に任せるべきであったと思います。
>関羽は「文武両道の将軍」というイメージがありますが、彼は
>所詮豪傑に過ぎなかったと思います。
>彼よりも趙雲の方が冷静沈着で、計略にも長けていそうな気がするので、
>趙雲にこそ荊州の守りを任せるべきであったと思うのですが。
あなたは、自ら絶対的な軍師といった孔明の人選を疑うのですか?
実際、趙雲でも無理だったと思う。関羽が豪傑に過ぎないというのは認めるが、
趙雲にも同じことが言えると思いますが?
28 :
転載その2:2000/01/26(水) 07:36
3 名前: >2=1 投稿日: 2000/01/16(日) 14:04
関羽の、目上の者には傲慢にふるまう性格を見抜けなかったのは
孔明の明らかな失敗。孔明を「絶対的な軍師」と言ったのは訂正します。
趙雲なら、それなりに冷静沈着だから、関羽よりは安心できると
思うのですが・・・
考えてみれば、法正を荊州に派遣していれば、荊州失陥という危機は
避けられたのかも知れませんね。
4 名前: 張陵 投稿日: 2000/01/16(日) 17:08
趙雲がその勇名を上げるのは漢中遠征とか北伐とかもうちょっと後の時代。
関羽が荊州をまかされた当時は趙雲はただの中堅どころの一将軍に過ぎない
から、彼に任せるのは無理だったのでは。
もともと誰に任せても荊州をめぐる呉との確執は避けられないものであったし
関羽の樊城攻めは孔明の隆中対に従った当然の行動だったと考えています。
やはり没落の大きな要因の一つは呉の魯粛の死ではないでしょうか。
当時呉の軍を任されていた魯粛は南方の二大勢力の内、荊州を押さえた方が
魏に対するイニシアティブをとることができると、また豪族の連合組織である
呉は豪族たちの利益優先で北伐などは到底できないだろうと考え、劉備に荊州を
預けていたのだと考えています。
しかしこの同盟の要である魯粛の死によって呉の方針が転換し、孫策の時代からの
悲願であった荊州の奪取に再び動き始め、関羽の足を引っ張ってしまう。その結果
荊州の北部を魏に押さえられてしまい、南方勢力の北方進出の機会を永遠に失って
しまうことになったのでしょう。
29 :
転載その3:2000/01/26(水) 07:37
5 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/01/16(日) 18:02
私は、ゲーム(光栄のやつ)で関羽とホウトウに荊州を守らせてます。
6 名前: Mb 投稿日: 2000/01/16(日) 21:24
最初から蜀の劣勢は圧倒的で、それを孔明その他で必死にカバーしていたものの、
ついに力つきたのでは?
7 名前: >1 投稿日: 2000/01/17(月) 03:09
趙雲は関羽と違い大軍団を統率する経験は無かったので無理でしょう。
8 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/01/17(月) 11:44
やくざかゴロつきの集団であった劉玄徳が
僻地とはいえ、蜀の支配者となったこと自体が
彼にとっては幸運以外の何者でもない。
彼が死ぬまでは蜀は存在したのだから
その人生はお釣りがくるのではないかな?
9 名前: 関羽の配置が失敗 投稿日: 2000/01/17(月) 13:17
結局関羽が独断で魏に侵攻したのが荊州陥落のきっかけだから
悪いのは関羽でしょうね
4の方の言われるとおり魯粛の死も遠因の一つだと思います
10 名前: 漢中王を名乗ったところから 投稿日: 2000/01/17(月) 21:26
ではないでしょうか。
これをしなかったらギや呉の対応も外交ももっと和やかで
いられたのでは?当分の間。
30 :
張師君:2000/01/26(水) 11:53
私が思うに、 関羽を荊州に残したのは、新家臣団とのイザコザを
恐れたからだと思います。
転載その2の3の人もおっしゃている通り、関羽は傲慢な性格だった
ようですから、蜀においておくとなにか問題を起こしかねません。
それから諸葛亮が関羽の性格を見抜いていなかったというのは
どうでしょうか。
馬超が劉備に降伏てきた時、どんな人物かと尋ねてきた関羽に、
諸葛亮は「馬超は関羽には到底及ばない」という返事を出しています。
ですから、関羽を荊州に残しておいたのは、そういった性格を考慮
した上の事ではないでしょうか。
諸葛亮の理想を言えば、蜀にはホウ統を置き、荊州は自分自身で
守備したかったのではないでしょうか?
31 :
名無しさん:2000/01/27(木) 17:08
リュウショウ幸福の後すぐに敬シュウに軍隊を何割か裂いてやれば
良かったのでは?
朝雲、ギエンなんか送って。
32 :
転載の2です:2000/01/28(金) 12:02
関羽の配置は、劉備の蜀侵攻の際の人選ですからその時点では一応、ホウ統や
趙雲という人選も可能だったでしょう。あくまで一応ですけど。
しかし、関羽は当時の劉備陣営ではダントツの名声、功績があり、たぶん派閥
みたいなものがあったんじゃないでしょうか?演義の周倉のような家臣がたく
さんいて、関羽以外の者に荊州を任せると、その人達が文句言い出して騒動が
おきるなんてことが予想できた。だから、劉備は関羽に任したみたいなことは
ないでしょうか?それにあの時点でのホウ統には、実践経験がなく、いきなり
一つの州を任すほどの信頼がなかったんではないでしょうか?蜀侵攻に従軍さ
したのも、ホウ統の実力をためそうという狙いもあったような気がします。
33 :
大賢良師:2000/01/28(金) 23:40
皆、中国板に早く来てたも。
34 :
東方不敗:2000/01/28(金) 23:55
なにかいいネタでも見つかれば良いんですけど・・。
35 :
あの:2000/02/01(火) 07:22
この時代の戦いって大将が代表で一騎撃ちやって負けた方が壊走するんですよね?
実際のところそうだったのかなあ?だとするといろいろ戦いの記述に不満がある。
36 :
張師君:2000/02/01(火) 13:28
>35
いえ、そんな事はありません。
指揮官が突出して戦うのはやはり愚かな事とされていたようです。
曹操は、夏侯淵が戦場で一人突出するくせをいさめて、
「指揮官には臆病になるときもなくてはならない。勇気に任せる事しか
できないのであれば、一人の男を相手にする事しかできない」
といっていたそうです。
ですが結局、漢中で黄忠に一騎討ちで討たれてしまいました。
37 :
画本:2000/02/01(火) 17:09
三国志を見ると、両軍が整列してて銅鑼とかで応援し、
大将一騎打ちの勝敗とともに壊走・追撃に移ってるように見えますが?
38 :
あげ:2000/02/02(水) 06:01
あげ
39 :
>36:2000/02/02(水) 07:54
夏侯淵が黄忠に一騎討ちで負けたってうそくさい話だなー
ほんとに一騎討ちだったんだろうか?
40 :
名無しさん:2000/02/02(水) 10:58
距離を取られて弓で射殺されたか?(冗談)
41 :
一騎撃ちの:2000/02/02(水) 16:36
疑問には誰も答えてくれないのね。
だいたい徴兵された農民が真剣に戦うはずがない。
42 :
陳羣:2000/03/13(月) 23:41
そういえば五虎将の中で一騎打ち関係で
趙雲が唯一出てきてないような気がするのですが・・・.
彼の本当の実力が知りたくなりました.
統治能力とか実力的には魏延の方が上なのでしょうか?
(比較的新参なのに漢中長官という抜擢ですし・・・)
諸葛亮との派閥争い(?)も気になりますが,ご存じの方
宜しくお願い申し上げます.
43 :
>42:2000/03/14(火) 03:05
44 :
陳羣:2000/03/14(火) 10:09
スレッド紹介ありがとうございます(^^)
早速拝見致しました.
残念な事に途中から感情むき出しのスレッドに
なってましたね.しかも小説・正史・演義ごち
ゃまぜ.”理路整然とした討論”しようとする
なら一番やっちゃいけない事でしょうに・・・
(相手の話も聞いてないし)
とりあえず狂信的なファンの方もご覧になってる
事を踏まえて発言には気を付ける事に致します.
趙雲は許楮(←代理の字で失敬),典葦(←代理の字で失敬)
のような側近,あるいは親衛隊長として優れていたので
一騎打ちのような高位より,君主を護るのが役割で
魏延は方面軍長官としての任務が優れているから漢中の長官
となった.
という事ですね?(と解釈します)
しかし,紹介していただいたスレッドを見て感じた事
なのですが,・・・・・狂信的なファンのカキコって
その武将まで嫌いになってしまいますねぇ.
好きな武将でも冷静に批評できるようでありたいものです
それでは失礼致します.
45 :
陳羣:2000/03/14(火) 10:27
追記です(笑)
もっと下の方(188くらいから)読みはじめたら
またちゃんとした書き込みになってますねぇ.
自浄作用みたいなものでしょうか.(それとも
一部の荒らしだったとか)
この辺からまたご紹介いただいたスレッドをちゃんと
読み直す気になりました(正直,途中は見るに耐えな
い代物でした)
いろいろな捉え方があるものですね.
46 :
名無しさん:2000/04/05(水) 13:47
大賢良師 って誰?
47 :
名無しさん:2000/04/07(金) 05:58
>46
カルト系新興宗教のドンでしょ。
48 :
俺:2000/04/08(土) 06:20
。
49 :
大賢良師:2000/04/11(火) 21:16
>46
黄巾党の首領じゃった張角のことじゃ・・・。
50 :
名無しさん:2000/04/12(水) 01:00
おお!張角のことだったのか(驚)
51 :
>39:2000/04/14(金) 05:53
そーいや卒業できたのか?
52 :
名無しさん:2000/04/15(土) 03:28
最近三国志は下火だね。
もう話題なくなったのかな?それとも興味が失せたのかな?
陳寿が貶されてるのは孔明を過小評価した所為でしょう。
最近、陳濡の孔明評は別段おかしな事は無く、むしろ正当に評価している
陳寿は孔明を嫌っていない、諸葛亮集を著したことからも
と、述べる輩も居りますが、彼等は間違っている。
陳寿の時代では孔明はすでに半ば神格化されていました。
その業績、その才覚、その忠節、一般的にすべてに置いて最大の評価を受けていました。
ですが陳寿は、時の帝司馬氏に阿り、また私怨から、孔明を
過小評価し、宣帝を引き立たせました。
このように司馬氏に恩を売ったのですが、生前は特段恩愛を受けられなかったようです。
しかし死後、その内容、特に(宣帝>>>孔明)を評価され正史に認定されました。
この孔明の過小評価がすべての元凶となり、後代の歴史家から
受けきれないほどの非難と、偽りの人格攻撃を受けています。
一般的に三国志は良史である、とされております。
この1件が無ければ、あるいはもっと賞賛されていただろうと思います。
ですが、この1件が無ければ、陳寿の三国志は正史には認定されなかったでしょう。
陳寿は名を落として、三国志は名を残しました。
54 :
51:2000/04/15(土) 06:33
39じゃないや、49の張角さんへの質問ね。
55 :
大賢良師:2000/04/15(土) 09:23
>54
幸か不幸か学校を叩き出されてしもうた・・・。
やれやれ、浮世はつらいのう・・・。
56 :
名無しさん:2000/04/15(土) 23:16
>53
おおっ、久しぶりに三国志の書き込みですね。
でも正直言ってめちゃくちゃ極端な文ですわ、
わざとそう書いたのでしょうかね。
53の書き込みはおそらく『晉書』の陳寿伝を元にかかれているのだと
思われます。
でもまぁ、はっきり言ってこの陳寿伝は全然当てにならないのですよね。
この『晋書』が編纂された唐代においては諸葛亮人気が絶頂期を迎えていたのです。
ですから、諸葛亮に反した物にはことごとく批判を加えています。
証拠に『晋書』の宣帝紀は司馬懿のことを実に酷く書いています。
「生怯実而未前、死疑虚而猶遁。良将之道失在斯乎」
とまぁ、『三国志演義』と対して変わらない描き方ですね。
もちろんデタラメとしかいいようがないです。
ですから『晋書』の描く陳寿でんにはかなりの悪意が感じられるのです。
そして、肝心の陳寿についてですね。
陳寿は別に諸葛亮を貶めようとしたわけじゃなくて
「諸葛亮が中原に進出できなかったという事実を冷静に分析した」
ゆえの評価をあの諸葛亮伝に載せているのだと思います。
57 :
名無しさん:2000/04/16(日) 10:04
武帝・司馬炎は諸葛亮に興味をもっていたようだ。
58 :
南華仙人:2000/04/17(月) 18:54
>55
嘆くでない。
「至高の学問は学府に有らず、草庵にこそあり」と申すでな。
善を施し、悪を討つ為にも、
ゆめゆめ学問を怠るでないぞ。
おお、老師様ではありませぬか・・・。
お懐かしい・・・。
鄭飛石・三好徹の三国志はそれぞれ読破致しましたぞ!
我らの出番はほんの数ページですが・・・。
うむ、健在なればよい。
わしとぬしとで、言わば三国時代の幕開けをしたのじゃ。
出番の少なさなど、物の数では無い。
いかに当代および後世の民を鼓舞できたかが慣用ぞなもし。
おお、南華老仙様・・・。
この張角、久しぶりに目の覚める思いでございます!
身を路傍に置こうとも、志は天にめぐらせとうございます!
老師と出会って千数百年、不肖張角、一層精進致しまする。
62 :
名無しさん:2000/04/24(月) 23:01
漫画板で赤壁の正史ネタが出てるね。リンク貼るの面倒なので
自分らで行ってみそ。
>59〜61
ところであなた達、メール欄に何書き込んでるの?
63 :
>53:2000/04/25(火) 00:11
「蜀書」諸葛亮伝より(面倒なので筑摩訳で)
刑罰・政治は厳格であったのに怨むものがいなかった
のは、彼の心くばりが公平で、賞罰が明確であったか
らである。
ここまで誉めてるのに私怨も何もあるかいな・・・
64 :
名無しさん:2000/04/25(火) 00:44
陳寿は諸葛亮を敬愛していましたよ、絶対。
悪く書いていないですよ、全然。
65 :
56:2000/04/25(火) 04:55
>63、64
いや、陳寿は誉めてばかりじゃないのですよ。
諸葛亮伝の評の最後を読んでみてください。
諸葛亮は自分を管仲・楽毅に喩えていたのですけど、
陳寿はそのことにあからさまに反対しているのです。
「管仲の方は認めるが、楽毅の器じゃないよ」ってね。
これをテコに誇大妄想を繰り広げると53の意見になるのです。
66 :
>62:2000/04/25(火) 06:10
このスレッドでもやってるぞ!赤壁の話は。
このスレッドの一番最初を御覧なさい!
67 :
蜀漢原理主義:2000/04/25(火) 13:27
ネタ振りとしてかなり極端に書かせてもらいました。
でも陳寿の孔明評はやや抑え気味であることは間違いないと思います。
勝てなかったの知略不足の所為とは言い過ぎでしょう。
私怨説はまあ定説と言うことで。私は、やはりそれらしきものはあったと思いますが。
68 :
名無しさん:2000/04/26(水) 01:58
孔明は初漢の蕭何タイプでしょう!
69 :
62>66:2000/04/26(水) 02:26
こっちでもやってたことは百も承知。
でも、両方であまり内容がだぶっていない。
70 :
56:2000/04/26(水) 02:58
>66、69
まぁまぁ。そんなつまらんことでもめなくても。
71 :
56:2000/04/26(水) 03:10
>67
んーー、人物評価なんて所詮は人それぞれの主観ですからねぇ。
67さんは何故、諸葛亮が中原に進出できなかったと思いますか?
72 :
>69@`70:2000/04/26(水) 05:57
すいやせん
73 :
蜀漢原理主義:2000/04/26(水) 12:45
よく、地理的に蜀漢に近い状態から出発した勢力でも
中華を統一した事例が有る。孔明はそれらの人物には及ばない、
とも言われていますが、これも付会の論ではないでしょうか。
相手方の能力と言うものまでは考えずに評価しているものも有ると思います。
司馬宣帝も、魏の明帝も、弱国から強国を護る程度の能力は
十分有していたようですから、当時の情勢では、たとえ張良や
楽毅の才を有する者が転生して事を成そうとしても無理だったでしょう。
中原を得られなかったことは、いわば天命なのです。
74 :
名無しさん:2000/04/26(水) 13:08
国力差考えると諸葛亮の無能で片づけるのは無理があるな、
蜀が中原に出られなかったのは。
むしろ勝てない戦を再三に渡って兵力を出し国力を消耗させ
たって点で俺の諸葛亮に対する点は辛い。
彼の後継者たちにも言えるけど。
75 :
56:2000/04/26(水) 15:36
>73・74
司馬懿や曹叡がある丁度能力や度量を有した人物っていうのは
間違いないでしょうね。
ただ、結局のところ「相手が強かったから負けたのだ」
といってるレベルでは楽毅の才にはほど遠いのですよ。
楽毅の燕は戦国七雄のなかでも韓と一・二を争う弱国でした。
国土は貧弱、北からは匈奴の圧力があり、
先代には斉によって国力を根こそぎとられたのです。
こんな状況の燕を復活させて楽毅は強国の斉をうち破ったのですよ。
とてもじゃないですが、諸葛亮では楽毅に遠く及ばないと思います。
74さんの書いてる無謀な戦いを起こしたって点でも諸葛亮は
楽毅に及ばないでしょうね。
76 :
>75:2000/04/26(水) 18:53
楽毅の時代の斉と、魏の国家整備とでは比べられないよ。
それに北方ということも大きい。
あと、司馬懿は極めて有能。楽毅は相手に恵まれすぎ。
その証拠に田単にみごとにしてやられて水の泡。
なにも残らなかったね。
77 :
名無しさん:2000/04/26(水) 21:02
>76
>楽毅の時代の斉と、魏の国家整備とでは比べられないよ。
>それに北方ということも大きい
田斉と曹魏は一概には比べられないのですが、
どちらも当時の大国であったことは間違いないでしょう。
とりあえずこのことだけあれば十分では。
あと、北方っていうことで何がどう違うのでしょうか?
>あと、司馬懿は極めて有能。楽毅は相手に恵まれすぎ。
>その証拠に田単にみごとにしてやられて水の泡。
まずは司馬懿のことですけども、諸葛亮が北伐において実際に
魏でよく戦っているのは曹真ですよ。
司馬懿はその後釜でひたすら粘り勝ちしたのです。
曹真・司馬懿どちらにも諸葛亮は勝てなかったっていうことですな。
楽毅が相手に恵まれたというのは、結局楽毅が
あっけなく勝ってしまったからそう思えるわけですね。
実際には大国斉をうち破るというのは当時の大偉業ですよ。
しかも相当なじり貧から出発してです。
「楽毅は相手に恵まれすぎ」
なんて思わせるほど楽毅はすごい人物だったわけです。
諸葛亮にここまで言わせるほどのものがあると思いますか?
あと、田単にやられたのは楽毅じゃなくてあくまでも君主の惠王です。
楽毅はいわば食客将軍だから上とのつながりが弱いのは仕方ないでしょう。
>なにも残らなかったね
これは諸葛亮の方でしょう(笑)
楽毅はきちんと斉を滅亡寸前まで追い込むという戦果をあげてますよ。
78 :
56=77:2000/04/26(水) 21:14
すまぬ、長すぎた。
まぁ、要するに諸葛亮は楽毅の器じゃないよってこと。
陳寿の諸葛亮評は妥当なものだと私はおもうわけですな。
79 :
>77:2000/04/27(木) 02:31
諸葛亮の蜀はまだもったじゃん。楽毅こそなにも残ってないよ。(笑)
陳寿の評価は妥当だろうけどね。諸葛亮は蕭何・管仲の輩。
80 :
名無しさん:2000/04/27(木) 22:09
>79
ああ、、77の書き込みが隠れたからみえないですね。
77で言いたいことは、楽毅はきちんと「戦果」を残し、
諸葛亮は残せなかったということだったのです。
見えない文章で申し訳ないです。
(ちなみに燕がやぶれたのはあくまでも楽毅が指揮をとらなくなってから
のお話なので、そこのところもよろしくです。)
81 :
楽毅と孔明:2000/04/27(木) 22:20
田中芳樹が昔からことあるごとに主張していた内容と同じですね
82 :
>79:2000/05/17(水) 03:36
諸葛亮は政治家としては天才といえるが、将軍としては1流半。
演義のせいで名将だと思われているが。
彼は内政の成功により蜀の寿命を延ばしただけ。
83 :
56:2000/05/17(水) 05:46
>81
あのーーー、、、
私はあくまでも「陳寿」が楽毅と諸葛亮の比較してたから
それを支持しただけです。
田中芳樹の如きファンタジー小説作家には興味ないっす。
というか、、81さんは田中芳樹中心的な呪縛からは早く逃れた方がいいですよ。
そういえば最近、駒田信二先生が筑摩の文庫から「中国大盗伝」っていう
本を出しているんだけど、その本の解説を田中君が巻末で担当してるよ。
田中君も偉くなったもんだねぇ、駒田先生の本の解説やるなんてさ。
あ、ちなみにその解説は読み飛ばしてよし。解説になってないから。
84 :
名無しさん:2000/05/17(水) 10:25
楽毅が征服を完了できなかったのは田単がいたから。
そして田単の策略によって失脚。
その後、田単の怒涛の失地恢復。
>彼は内政の成功により蜀の寿命を延ばしただけ。
こういう考え方は、中華には存在しませんよ。
86 :
名無しさん:2000/05/17(水) 11:19
>56
田中芳樹を阿呆と喝破なされていますが
あなたも中国文学の専門家の方なのでしょうか。
87 :
56:2000/05/17(水) 14:14
>84
既出です。77を参照。
>86
いや、私は単に中国文化専攻の学生にすぎないです(^^;
ちなみに私は田中芳樹をあほなんて思っていないです。
単に嫌いなだけですわ(^^;
田中君は中国史を本当によく勉強してるんだな、とは思います。
すごいとは思うけれども嫌いなんですよ。彼のこと。
88 :
>87:2000/05/17(水) 16:21
書いてないよ。
詳しいようだから、戦いの経過を追いながら解説してください。
89 :
名無しさん:2000/05/18(木) 06:17
曹操や周ユは孔明や楽毅と比べてどうなんよ?
90 :
90:2000/05/19(金) 00:19
諸葛亮を孔明と云っているやつに何がわかるツーの。
曹操を諸葛亮と比較するには次元が違いすぎる。楽毅は所詮一将軍
曹操は唐代に発展した漢詩の先駆けであり、今の孫子の体系を形成。
九品官制法の採用したし、進言したのは陳群。
また、曹丕の歴史上初、禅譲の土台作り。これが、宋代まで続く。
まとめると、曹操はその後の中国史の土台を形成かな。
91 :
名無しさん:2000/05/19(金) 08:18
>九品官制法の採用
これって曹丕じゃないの?
92 :
56:2000/05/20(土) 04:45
>88
んーー、わざわざ戦いの経過を説明する必要はないような、、
昭王の子供、惠王っていうのは王子時代から楽毅の才能を妬んでいたのですよ。
だから、楽毅は自分の燕での運命を悟っていたのではないですか?
斉を倒したところで燕には長くいられないってね。
すなわち、田単の活躍っていうのはあくまでも契機の一つにすぎないのです。
(楽毅の最後の攻城戦も不振なところ多いしねぇ)
まぁ、ここら辺はけっこう議論の余地のあるところなのですけど、
田単がいようがいまいが楽毅は燕に長居できなかったのは
まちがいないっておもいます。
93 :
56:2000/05/20(土) 04:59
>90
私も曹操支持者だからあまりいいたくないが、、、
でも一応書いておくと、「論点を変えないようにしましょう」ってことで。
スレッドの流れとしておそらく89さんは
「曹操や周瑜の将軍としての腕は諸葛亮・楽毅と比べてどうなの?」
ってことをいいたかったのだと思いますよ。
あ、あとちなみに(神話以後)史上初の禅譲は新の王莽です。
94 :
名無しさん:2000/05/20(土) 05:41
なるべく、やわらかくいきましょう。
95 :
56:2000/05/20(土) 05:47
>94
すいません、きつかったですか?
以後気をつけます。
96 :
>56:2000/05/20(土) 09:18
>昭王の子供、惠王っていうのは王子時代から楽毅の才能を妬んでいたのですよ。
>だから、楽毅は自分の燕での運命を悟っていたのではないですか?
>斉を倒したところで燕には長くいられないってね。
だから、なんなんですか? つまり、もう勝つ気がなかったと?
さっぱり分からないですね。斉を倒してから去ってもいいのでは?
>(楽毅の最後の攻城戦も不振なところ多いしねぇ)
どう不振なんですか?詳しくおしえてください。
97 :
>96:2000/05/21(日) 07:44
>斉を倒したところで燕には長くいられないってね。
そりゃあそうでしょう。楽毅にしても自分を信頼してくれている昭王が
亡くなり、後を継いだのが自分を嫌っている惠王ですからねえ、うかつに
斉を滅ぼして国にかえっても、帰ったところでバッサリとやられるかも
しれないし。それだったら遠征軍をつれて斉に居たほうが安全だからねえ。
実際、韓信を初め国に大功をあげた人間の最後が死刑(ちゅう殺の漢字
忘れた)と言う人間はいっぱい居ますから。
98 :
李牧さいこ〜♪:2000/05/22(月) 06:03
>96
>どう不振なんですか?詳しくおしえてください。
だいたい1年で70ちょっとの白を陥落させて、最後に即墨1つを
残したものの、たったひとつの城を大軍勢で囲んでおきながら
糧道も水道も断つことなく4年(だっけ?)もの間放置していたことです。
結局、即墨を落とすことなく昭王が亡くなって恵王が後を継ぎ、
楽毅は騎刧と交替させられ、そのまま趙に亡命。
99 :
94:2000/05/22(月) 06:58
あ、56さんに言ったわけじゃないです。すいません。
100 :
56:2000/05/23(火) 07:05
うお、代わりにレスが入ってる(笑)
97さんどうもありがとうございますm(__)m
私の言いたかったことをほぼ言い当ててます〜
(私も李牧好きです。趙ってなんで名将が多いんでしょうかねぇ?)
でも、、私の書き込み、漢字の間違い多いなぁ、、
>94
あ、そうだったのですか(^^;了解しました〜
101 :
94改め、陳黒彩:2000/05/24(水) 18:42
春秋戦国の時代に入っている様なので、ここでまた三国志の話題に(笑。
上の方で陳寿によって諸葛亮が貶されてるとの意見があったので、これについて少し。
陳寿が西晋に上程した「諸葛氏集目録」と諸葛亮を激賞する上奏文には
諸葛亮に対する敬愛が現れているといわれてます。
その中で彼は、諸葛亮は軍略の統治には長じていたが、奇策の点で劣り、
人民を統治する才幹の方が、将軍としての才より優れていたと述べており、
その後文で(ここが重要)、諸葛亮が蕭何・管仲に次ぐ才を持ちながら
勝利を得られなかったのは、王子城父や韓信の様な人物に恵まれておらず、
それ故、功業は次第に衰え、大儀は遂行されなかった、そして、
それは天命であり、いかなる才知をもってしても事を成すは不可能だった、
としています。もちろん、連年の遠征も正当化しております。
こんなフォローあり?というぐらいの愛を感じますね(笑。
また陳寿は、表向きは魏を正統としていますが、後の世の、蜀漢を正統とした
諸葛亮の神格化は、陳寿の策略だったのではないかと思うほどです。
ちくま学芸文庫の「正史・三国志」で訳をなされた井波律子氏の
あとがきを参考文献とさせて頂きました。
最後に、僕も蜀漢正統説を堅く信じる、蜀信者であります(笑。
102 :
名無しさん:2000/05/26(金) 09:40
長い・・・
103 :
名無しさん:2000/05/28(日) 06:10
大賢良師!!!いるか?
生きておる、ROMってもおる。
が、かように労働が厳しいものじゃったとは・・・。
書き込む力は残っておらぬぞよ。
しかし、新しく知識を持った若人がこれほどとはのう。
三国志スレッドは安泰じゃ。
蜀漢正統説は少し大袈裟ですが、最近、蜀陣営の旗色が悪いんでフォローしたいと(^^;
やっぱり、演義と正史のギャップがこんな結果を生んでしまったのでしょうか?
いや、特をしてるのは蜀陣営か、ヤッパ。それでもフォローしまふ。
最近の、劉備の正史での評価はいろいろですが、よく聞くのは、
「寝業師」「盗人」「小悪党」「無能」「ダンボ(笑)」など。
いや、やっぱ英雄ですよ。玄徳兄貴は。乱世で策謀を張り巡らすのは当然の事で、
草鞋売りから一国の君主になるには、それなりのワルでなきゃね。
でも、陳寿の評価は高いです。わざわざ劉備を持ち上げる為に、蜀書序盤で、
劉エン、劉璋、親子を無能君主とこき下ろし、国を盗られて当然と罵倒します。
そして先主(劉備)伝で、彼の蜀乗っ取りに対する正統性を立証します。
さらに、魏の禅譲を簡潔に記したのに対し、劉備の帝位に関する記述は
特筆大書しているという、ヨイショぶりです。さすが陳寿殿(笑)。
陳寿は、蜀書の中で、晋王朝の臣下でありながら、魏から禅譲を受けた西晋に
配慮しながら、亡国となった母国に対する愛情を、巧妙に記しているのです。
その配慮から、蜀書は、呉書や魏書より、薄くなってしまったのでしょうか?
それとも単に情報が少なかっただけなのでしょうか?
何にせよ、私達の想像を掻き立てるには、十分な情報量かもしれないですけどね。
106 :
56:2000/05/30(火) 04:17
陳黒彩さんがんばってますね(^^;
私は魏・晋の陣営が好きなので反劉備・反諸葛亮派になります。
蜀って最近旗色悪いのですか?
相変わらず蜀贔屓・諸葛亮贔屓が多いように思えるのですけど、、、
劉備が各地をいろんな人に迷惑と滅亡をもたらしつつ逃亡して
結局自分だけ美味しいところをもっていくこととか、
孫権との約束を反故にしたりすることとか
漢を復興させるとかうそぶいて、漢が滅びるや自分が帝位に就くとかは
別に私的にはいいと思うのですよね。嫌悪感はないです。
ただ、、これらの行為をした人物を「英雄」と呼べるのですかねぇ?(^^;
107 :
名無しさん:2000/05/30(火) 06:49
無能いい人劉備より、有能詐欺師劉備のが好きだ。
>56さん
レス有り難う御座います。とりあえずこのスレ盛り上げていきましょう(笑。
まず、策謀を張り巡らすのは当然と、僕は上で述べました。で、劉備は英雄か否か?
そもそも、何を以て英雄と呼ぶか定義が曖昧だし、主観的な要素もあるので、
不毛な論議な気もしますが、立場上、玄徳兄貴のフォローといきます(笑)。
あと、善か悪かなどの道徳的な判断は、さらに議論をややこしく
していまいがちなので、”なるべく”避けたいと思います。んで、
英雄がすべて品行方正であったハズがないし、他人を踏み台にしてないハズもない、
と、僕は思っております。では、僕の中で劉備が英雄であると位置づけた根拠は?
少し安直ではありますが、正史での記述に拠る所が大きいです。。
陳寿の蜀書、先主伝に締めくくられてる文章です。
「先主は度量が広く意志が強く心は大きく親切であった。人物を見分け士人
を待遇した。思うに漢の高祖の面影があり、英雄の器であった。」
曹操よりスケールが小さいものの、英雄の器であると、述べているのです。
陳寿が多少、色眼鏡で蜀を見ていたとしても、あくまで母国に対する配慮であり、
彼の公正な人物評に対する評価に傷がつく事はありません。
さらに曹操も、劉備が英雄であると述べている記述もあります。
同時代またはそれに近い時代に生きた人達の劉備の評価、の一例です。
>劉備が各地をいろんな人に迷惑と滅亡をもたらしつつ逃亡して
>結局自分だけ美味しいところをもっていくこととか、
>孫権との約束を反故にしたりすることとか
>漢を復興させるとかうそぶいて、漢が滅びるや自分が帝位に就くとかは…
この論理でいくと、献帝を傀儡とし、禅譲を迫った、曹操、曹ヒ親子は大悪党
という事になってしまいます。さらに曹操は、徐州での復讐戦で、草の根も残らぬ
ほどのジェノサイドを展開、張繍の反乱では、結果的に息子を見殺しにするなど
(この辺は劉備も似てますが)、悪行と呼べる事件をいくつか起こしています。
あと、少し余談ですが、エン紹は存命中に、善政を施したらしく、河北を曹操に
征服された後も、民衆は前君主の時代を懐かしんだ、という話があります。
では、この様な汚点があるが故に、曹操は英雄ではないのか?といえば、
やはり、彼が偉大な功績を残した英雄である事に変わりありません。
劉備の悪行でさえ、曹操の前ではスケールが小さくなってしまいます。
言い換えれば、小賢しい、という感じでしょうか。それでも英雄の資質はあると思うのです。
なぜなら、小規模ながらも、中国を三分し、一国の君主となったからです。
劉備の悪行といわれている部分については後日、僕なりのフォローといきます。
あと、歴史学者にとって、その功績だけが英雄の資質なのかもしれませんが、
庶民にとっては「金も名誉も地位もない男の、国盗り物語」も、英雄伝説と成りうるのです。
文才がないので、長文、駄文になってしまいましたが、どうかご容赦を。
それにしてもATOK…、三国志に対応してないんでしょうか?(笑)。
111 :
東海定王:2000/06/08(木) 21:36
劉備の悪行1
滅び行く漢王朝を尻目に、よりによって漢中王など自称
したこと・・・魂胆バレバレじゃん
112 :
Miki:2000/06/12(月) 12:07
>111
魂胆はどうあれ、王を称することは何ら不自然なことではなく、
王を称することが「皇帝の前段階」であるとは決められません。
漢王朝における「王」は支配者ではなく、実権は「相」にあり中央集権です。
劉備は漢王朝の血統を称していましたから、地方藩屏として王となることは
血統の正当性を主張するためであり、大逆とは言えません。
英雄という観点には個人差があると思いますが、
悪事を論って引き比べるのは無意味だと思います。
戦争に正義など存在しません。
曹操には徐州での復讐戦という汚点はありますが、
それ以外の点では寧ろ懐柔政策が主体であり、
「統一」という観点で見れば英雄の資質であったと思います。
人材を求めること甚だしかったのは周知のこと。
青州黄巾30万が降っているのは殆ど戦いの無いことを示していますし、
北方戦線では公孫康、荊州では劉jを降しています。
降らなかったのは袁家のようなくだらない貴族くらいです。
善政を施した者を攻めたら悪かと言えばそうではありません。
それなら尚更、皇帝を奉じている者に降るべきです。
(皇帝を奉じること自体を悪とするのは悪い慣習です)
天下三分に膠着したのは、劉備が劉gを奉じて
目ぼしい者を引き連れて亡命したのが原因であり、
荊州で全軍が降っていれば東呉も和平論に傾いたと思います。
蜀は言わずもがなでしょう。
劉備に関して言えば、曹操の目論見を潰した点で英傑と言えると思います。
ただ、事実に反して聖人君子として祭り上げられている感は否めません。
劉jを攻めなかったのは天下への大望の表れとも言えますし、
結果的にこのことによって蜀取りが正当化されているのが事実です。
実のところ、天下を三国争乱に導いた張本人とも言えると僕は思います。
113 :
名無しさん:2000/06/13(火) 19:41
三国志とは世界一の文学作品なのです。ベーコンのもう一つの
人格“シェー苦槍”の作品など足もとにも及ばないよ。
中国が世界で最強なのです。
ジーク・CHINA ジーク・CHINA
114 :
名無しさん:2000/06/13(火) 22:30
>113
中華思想は世界最強のエスノセントリズムだ!!!!!
ジーク・CHINA ジーク・CHINA
115 :
東海定王:2000/06/14(水) 21:20
>112
う〜ん、何か酷い文章だなぁ。
>劉備は漢王朝の血統を称していましたから、地方藩
>屏として王となることは血統の正当性を主張するた
>めであり、大逆とは言えません。
あんたはアホか。漢王朝でも魏王朝でも王ってのは
皇帝の部下であって、皇帝に封じられるもの。それを
勝手に名乗ることは(漢王朝にとっては)立派な反逆。まして蜀王ならともかく、漢中王を自称するってことは自分を高祖にたとえているわけだろう。皇帝の座を狙
っているとしか思えないってこと。
ちなみに我は文帝の子ゆえに王に立てられたのじゃ。
116 :
東海定王:2000/06/14(水) 21:31
(続き)
>青州黄巾30万が降っているのは殆ど戦いの無いこと
>を示していますし、
鮑信が死んだのはなぜだ?青州黄巾は曹操に敗れ
追いつめられたから降伏したのだって。
>降らなかったのは袁家のようなくだらない貴族くらいです。
呂布は?孫権は?劉備だってねぇ。
117 :
東海定王:2000/06/14(水) 21:54
(更に続く)
>天下三分に膠着したのは、劉備が劉gを奉じて
>目ぼしい者を引き連れて亡命したのが原因であり、
先主伝に記載はあるが、ここで言う「目ぼしい者」って
誰なんだろう?曹操に降って出世したカイ越や韓嵩、
劉先らに匹敵するレベルの人材が果たしていたんだ
ろうか。(カイは萠+りっとう:字が出せない・・・)
時間がなくてあんまり調べられんのでこの辺で・・・
118 :
113:2000/06/14(水) 23:25
>114
エスノセントリズム?
白(味方)か黒(敵)か?
はっきりしてくれやがれっ!
ジーク・CHINA 毛沢東万歳!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
119 :
名無しさん:2000/06/15(木) 04:48
献帝を傀儡とし、息子に禅譲をさせ、ジュンイクを自殺に追い込み、
自らは保身にまわった曹操の方が、劉備より悪行をかましてると思うが。
いや、そんな事より、善悪の判断で語る話ではないと思う。
120 :
名無しさん:2000/06/15(木) 08:49
>112
ということは当時の状況では曹操の「官軍」に降ることが正道という結論になります。
非常時というのはそのようなものでは無いことは歴史が明確に語っています。
当時の追い込まれた状況では「隆性漢王朝の復興」という大儀が必要であり、
地方藩屏の領袖としての肩書きと官軍意識が無ければ戦えなかったでしょう。
劉邦が項羽に封じられたのが漢中王であった前例はありますが
劉備が攻め取った土地が同じく漢中巴蜀でありそれは結果に過ぎません。
何より、名目は復興であって独立王朝を主張したわけではないということです。
(たとえ推戴された皇帝であっても「勝てば官軍」が歴史です)
劉備の心の中はどうあれ、心の中の罪を裁くことはできません。
121 :
名無しさん:2000/06/15(木) 08:51
120は
>115
ですね(^^;
122 :
名無しさん:2000/06/15(木) 09:20
>116
局部的な戦闘で武将が死ぬことなどは往々にしてあります。孫堅だってあっさり死んだ。
鮑信が死んだ=激戦だったなどとは決して言えません。
当時の曹軍の状況で青州軍を力で降したというのは奇異という他ありません。
この時の戦闘に関する記述があまりにも少な過ぎるんです。
また、この時期以後の曹軍の強さもあまりにも不自然です。
なにより、群雄と民軍では考え方が異なるということです。
青州黄巾については中心者が不明で謎が多いのですが、
例えば張魯を教祖とする五斗米道などは相互扶助の慈善集団で
これらの自警団的な集団には保身以外に争うべき理由がありません。
張魯のように、然るべき軍閥を選んで投降するのが利です。
張陵のような野心を持った教祖に率いられたカルト集団ならまだしも
青州黄巾軍には領袖が不明なことからも野心は見えません。
話は変わりますが、呂布は斬るのが正義でしょう(笑
劉備に関しては最後まで負けなかったわけですし
一応は大義のもとに戦っていたわけで、降ったら大義が無くなります。
孫権は曹操の生前に臣と称し陛下と呼び恭順の態度を示しています。
(陛下は皇帝以外にはあまりにも行きすぎですが)
以上の通り、降る降らないは個々の立場によるものであり
大義も無くあたら民衆を苦しめるのはくだらないことだと言ったまでです。
こういう無意味な揚げ足取りはやめませう。
123 :
名無しさん:2000/06/15(木) 09:36
>117
少なくとも劉g派主戦論者はある程度従ったでしょう。
それよりも、僕が問題にしているのは荊州全土が降らなかったことです。
「三国志」によれば衆十余万、輜重数千輌とあります。
そこから推定すれば兵卒は2〜3万、それに夏口の荊州兵も居るでしょう。
それよりも輜重の方が問題で、占領下統治に破綻を来たしかねません。
追激戦でも捨石になった民草のため、兵站は厳しかったはずです。
(これも劉備の策略であったのかもしれません)
周兪(字が無い・・・)存命中の東呉は決して一枚岩ではありませんでしたから
荊州の動向は大勢にかなりの影響を及ぼしたはずです。
124 :
名無しさん:2000/06/15(木) 10:09
>119
自殺というのは一般的に信じられている説であって
荀ケ伝によれば「憂いを以って死せり」とあるだけです。
この記述は非常に不可解と言わざるを得ませんが、
年齢的には死んでもおかしくない歳ですし、
諡は敬候であり、これは子が世襲しています。
また死後に大尉を追贈されていますので
「憂い」があったにしても、曹操の不況を買って
殺されたならばこれらは有り得べからざることです。
曹操は孔融、楊修などの危険分子を悉く誅殺しており
自ら手を下さない方法を取ったという説も
曹操の合理主義な事跡を辿れば考えにくいことです。
ともあれ、演技や諸説に振り回されていては歴史は面白くないですよ。
>Mikiさん
120〜123はMikiさんなのでしょうか?貴方の意見に、ほぼ賛成であります。
が、袁紹についてフォローっす。揚げ足取りではありませんよ。
ちなみに、「袁」って文字をATOKで出すにはどうすればよいのでしょうか?
今回は「袁」をコピペさせてもらいました。
で、袁紹は決してくだらない貴族ではありません。袁術はアレですが(笑)。
事実、名族制が確立されたのは魏晋南北朝時代だと言われておりまして、
後漢の時代に名族という権威だけで勢力を保つのは容易ではありませんでした。
当時の名族は官界進出で家名を保つのが常で、積極的に軍閥化を計っていません。
名家の中では、袁家がその先駆けになったともいえます。
反董卓連合の件では、袁術や韓フクの方が官位は上であるにも関わらず、
盟主の座に就きました。後に車騎将軍を自称していますが。
そして、僕が109で述べた様に、河北での袁紹の政治は人民の心を捉えており、
晋の時代になっても袁紹の時代を懐かしむ声が語り継がれたそうです。
曹操も、袁紹の政治政策を下地に魏王朝の政治体制を築いたフシがあり、
曹操に人材の流出を許したのは、対皇帝政策の失敗が遠因と思われます。
あと、荀ケの謎の死について。確かに荀ケ伝では「憂悶のうち逝去した」、
とありますが、その前に、太祖の爵位に関して反対した荀ケを
曹操は「内心穏やかでなかった」と記されてあります。
そして「魏氏春秋」で、荀ケは、曹操から食物だと贈られた空の箱を見て
毒薬を飲んで自殺したとあります。
真偽は定かでないですが、荀ケの晩年は暗かったと推測できます。
愚直に漢の臣であろうとした荀ケと、献帝を次第に蔑ろにしていった
曹操との間は、官渡の戦いの後、急速に冷え切ってしまったのです。
この件では、演義の話もそれなりの根拠があったと言えるでしょう。
127 :
名無しさん:2000/06/16(金) 14:49
ここに熱心に書き込みをされている皆さんは、光栄の「三国志」
シリーズなど、ばかばかしくてやってられないでしょうね。
コンピューター君主はほんとバカだし。
>127さん
そんな事ないっすよ。演義は演義で好きだし、光栄シリーズも好きだし、
吉川三国志も、秘本三国志も、横山も、蒼天航路も面白いと思うし。
まぁ、演義思考の人を馬鹿にする人もいますが、
僕もそういう揶揄は好きではないです。
やっぱり読み物としては演義の方が面白いと思いますしね。
あと余談?ですが、映画で三国志を撮るなら、香港でやって
もらいたかった。ワイヤーとCGで戦闘シーン重視の(笑)。
で、何故かBGMはテクノ。変な話ですいません。m(_ _)m
129 :
名無しさん:2000/06/16(金) 18:27
>125
袁術の兄弟(だった)ということと息子たちが馬鹿をやった所為で
袁紹を低く見積もっている自分に気付きました。
まだまだ、精進して行かなければならないようです。
「名族という権威だけで勢力を保つのは容易ではない」という見解はもっともだと思います。
たとえば周兪。周家は兪の叔父が三公であり、孫家よりも名家です。
しかしながら、東呉では戦争に乗じて孫家が成り上がってしまいました。
周家では堅の代に成り上がった孫家対して内心鬱々たるものがあったと思います。
(この点から考えると、堅や策の早死にも疑念を禁じ得ません)
周兪が「反劉備独自路線」に固執した背景には孫家への反骨心があったと思う。
それ以外に反劉備の理由が無かったからこそ、死後を親劉備派の魯粛に託した。
荊州全土が曹操の手に落ちていれば東呉は戦えなかったと僕は思います。
やはり劉備&諸葛亮は乱世の英雄ですね。でも、関羽は猪武者だと思う(^^;
130 :
名無しさん:2000/06/16(金) 20:41
みんな英雄(一部除くいて)
131 :
名無しさん:2000/06/16(金) 20:45
よっしゃ三国志で1・2
132 :
名無しさん@1周年:2000/06/27(火) 05:16
とりあえずアゲとくぜ。誰かネタないの?
133 :
1の張角さまへ:2000/06/27(火) 21:28
黄色人まさに立つべしってことですか?
それはともかく服部隆之さんの「華龍進軍」大好きです。
聞いてると鳥肌たちます。
だれか好きな人いませんか?
134 :
名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 17:46
日本の三国志ファンは三国志の武将を日本人と同じように捉えている時点で馬鹿。
135 :
名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 20:49
三国志の武将を日本人と同じように捉えていると考えるあなたは論語読もうとして漢文読めなかった論語語り。
136 :
名無しさん@1周年:2000/06/30(金) 02:01
>134
つまり、その当時の国の常識や風習を知れ、って事か?
というか、アンタ支那人?
137 :
東海定王:2000/07/01(土) 19:30
しばらく来ない間にレスがついているようじゃの。
>120
漢王朝における漢中王ってのは決して軽いものじゃないと思う。
ま、これ以上は115と120の繰り返しにしかならんじゃろうから
ここまでということで。
>122
揚げ足取りは我の性格じゃから仕方ないのじゃが、気を悪くされ
たのであれば申し訳ない。
だけど、仮にも(2chとはいえ)歴史掲示板なのじゃから、歴史事
実(正確には事実として残っている事項)の過ちを指摘するのは
当然のことなのじゃ。
>鮑信が死んだ=激戦だったなどとは決して言えません。
武帝紀では「(鮑)信が力の限り戦って戦死したが、やっとのこと
で敵を打ち破った。(中略)黄巾を追って済北まで行くと、降伏を
申し出た」とあるのだから、ちゃんと戦ってるはずなのだが。
ま、本題とは関係ないからこの辺で。
138 :
東海定王:2000/07/01(土) 19:43
>127
我もゲームはたまにはするし、小説だって読んでおったから、
そっちのファンがいることはよく分かるし、それ自身を馬鹿にした
りはしない。ただ、ゲーム派は知らんが、小説(演義よりもやは
り吉川)派の中には小説のオリジナル設定すら史実として語る
輩すらおるからの。そうゆうのはさすがに歴史ファンとしてどうか
と思う。
>129
東呉の件については、もう少し調べてからレスしたいのう。
>陳黒彩氏
早く「劉備の悪行」について書いてください、待ってます(はぁと)
139 :
名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 17:33
生きてる時代が違う人間に例えるのならともかく、比較するのはどうかと思うぞ。
呂布と項羽どっちが強い?とかさ。
空想だけなら愚民でも出来る
140 :
大賢良師:2000/07/05(水) 18:54
>133殿
解釈は自由じゃ・・・。
好きなように振舞われるが良い・・・。
141 :
ある屯田兵:2000/07/06(木) 16:21
個人的には蜀滅亡後の羊怙や陸抗、諸葛格、杜預なんて所が好きなんですけど、
その辺の話題はでないですね。
兵は神速をもって尊ぶべし??
↑ネタか?
ネタだよな。
死刑の重圧
ギボンの「ローマ帝国衰亡史」だったかでは、
暴君 ネロ が死刑執行の際、最後まで 涙を流しつずけた
ことが美徳として紹介されていますが、
「三国志」では曹操が
親しい人間を処刑する時、
涙を流しながらも許そうとしなかったことが
悪徳とされています。
このように
死刑執行の重圧については歴史上の英雄さえ
批判を免れえない。
その「三国志」では曹操が呂布と陳宮を処刑するとき
呂布は劉備が、
陳宮は陳宮自らが望んだから処刑したことに
なっています。
この記事の出展は「英雄記」ですが、
これは曹操ひいきで、
記述に信用おけない処もあるといわれています。
うろ覚えですみません。
http://union-jp.net/home/ysngmilk.html!
145 :
東海定王:2000/07/15(土) 13:29
あんまり動いていないようじゃが、Miki氏と陳黒彩氏はどこへ・・・
>129(予告通りに)
ってあんまり進んでないんだが、途中経過で・・・
周瑜は周榮(後漢書に伝有り)の子孫とはいえ、三公になった周
景や周忠(後に漢・献帝の洛陽帰還に随行した)とは系列が異な
るいわば傍系だったこと、孫堅が実際には袁術の部下で他人が
嫉妬するほど成り上がっていないこと、なにより周瑜と孫策の仲
を考えると、「孫氏」に対して反骨心があったとは思えない。劉備
のことは、単に曹操に対抗するために勢力を拡大する必要があ
ったあの時点で、1勢力として自立し決して服従しそうにない劉備
なんてのは邪魔でしななかったのではないかと思う。
「孫氏」ではなく「孫権個人」として考えると面白いかもしれない。
(実際子孫の扱いも微妙だし)
146 :
東海定王:2000/07/15(土) 13:38
>大賢良師様
ご健在でありましたか、うれしゅうございます。
>ある屯田兵殿
その時代はなかなかネタが少ないからのう。
個人的には羊怙と陸抗の関係は好きなのじゃ。
147 :
東海定王:2000/07/15(土) 13:50
せっかくだから、新しいネタを・・・
例の劉備の遺言「(劉禅)が駄目なら取って代わってく
れ」についてどう思っているのか知りたいのじゃが。
我は、「孫策の遺言を聞き知った諸葛亮が、劉禅に言う
事聞かせるために仕組んだ」ということにしておこう。
だいたい、劉氏であること(のみ)をよりどころにしている
のにそれをあっさり否定するわけにもいかないし、劉禅
の弟である劉永と劉理をパスして臣下に譲らせる理由
もないからねえ。
>145
曹操>武帝ね、キャラ忘れてどうする・・・
148 :
名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 21:13
孫策は木を切る〜
ヘイ兵法〜 ヘイ兵法〜
149 :
名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 10:26
上手い
と思ったけど語呂悪いね
150 :
名無しさん@1周年:2000/07/19(水) 15:27
「レスを全部読む」で今までのやりとりを拝見させていただきました。
そこで気になったのですが「反三国志」について
一応三国志ネタとして、歴史のifの先駆けともいえる「反三国志」
皆様がどのように思われているかを伺いたいのです。
>東海定王さま
諸葛亮を蜀につなぎ止める鎖の役割だったのではないでしょうか?
劉備が蜀に入り三大勢力に仕立て上げた時点で諸葛亮としては自身が唱えた「天下三分の計」を
成立させた訳ですから、自分の役目はそこで終了しているはずです。
諸葛亮としては張良のように劉備陣営を離れるつもりだったのでは?
しかし、その時点をすぎても劉備の下に居たのは劉備の持つ人間的魅力でしょう。
それを分かっている劉備は自身の死によって諸葛亮が蜀から離れていく事を懸念して
「駄目なら取って代われ」という遺言を残したと推測します。
元々、諸葛亮は畑を耕して生きたかったみたいだし。
ま、空想の域を出ませんけどね。
151 :
ピン:2000/07/20(木) 12:27
孔明は、三国志演義では名軍師となっているが、現実は勝ち戦より負け戦の方が、
多く実在は、迷軍師ではないでしょうか。
152 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 13:38
つーかあーいうの軍師っていうのかな?
どっちかつーと将軍だと思うが。
153 :
名無しさん@1周年:2000/07/21(金) 00:07
孔明は名軍師!
155 :
>154:2000/07/21(金) 01:35
喀血しながら仕切っていた周瑜の方が名軍師さ。
156 :
>155:2000/07/21(金) 05:09
周瑜は魯粛の献策に従っただけさ。
157 :
俺:2000/07/23(日) 03:11
魯粛ってなんか演技系だと風采の上がらない情けない男みたいに書いてある
感じがするけど、実際は金持ちでしかも豪気な性格だったみたいだね。
周愈(字が無い)が一番腹を割って話す事が出来た大親友だっつうし。
158 :
名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 03:41
ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/ss/sangokusi01.htm
何かとサイコと言われる”しろはた”より
159 :
名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 11:32
周瑜に倉庫丸ごと1個プレゼントしたくらいだから相性は良かったと思う。
話は変わるがリョウ統と甘寧の関係がよく分からない。
父親を殺されたのに戦場で助けられただけで許してしまうとは。
演義だけの話でしょうか。正史詳しい人どう思います?
160 :
名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 09:47
>150
「反三国志」は三国志の小説と言うよりは、孫文の弟子が
小説の中で孫文に天下を取らせてしまった、という代物なので…。
あれを三国志モノと思ってはいかんのですね。
>159
それは『演義』の創作ですね。
実際はあまりに仲が悪いため、騒動が起こって
甘寧をリョウ統とは別の場所に移動させています。
まぁ小説としては面白いし、よく作ったとは思いますが。
161 :
東海定王:2000/07/25(火) 23:16
>150殿
確かに裏付けは取れないだろうけど、おもしろい意見だと思うよ。
>ピン殿
軍事的には正攻法しかできず、その正攻法で通じない魏には打
つ手が無かったんじゃないかと。そうゆう意味では「臨機応変の
軍略は得意ではなかった」という評価はむしろ真っ当かと。
162 :
ピン:2000/07/26(水) 00:08
163 :
練り児山:2000/07/26(水) 18:07
もしも三国志に曹豹がいなかったら?
1:張飛が徐州で飲んだくれている事を呂布に知らせる者がいなくなる。
2:呂布が徐州を襲わない為、劉備は徐州に居続ける。
3:刑州に行く理由が無くなる為、諸葛亮は劉備の軍師にならない。
4:諸葛亮がいない以上、劉備が曹操に立ち向かえるはずもなく、あえなく敗北。袁紹、劉表も曹操に敗北。
6:曹操の侵攻に対し、呉では抗戦派と降伏派が議論するが、諸葛亮がいない為、孫権は降伏派に従い、曹操に降伏。
7:曹操は益州の劉璋に降伏勧告。劉璋は無条件降伏する。
8:曹操は天下統一を果たし、魏王朝の時代が始まる。
164 :
>練り児山様:2000/07/26(水) 23:34
あぁ、あなたはもしや、
光栄の某雑誌に曹豹ブームをおこした、
あの練り児山様ですか???
このようなところでお会いするなんて(泣)。
>練り児山サン
最後までなんと読むのか解りませんでした(笑)。
166 :
曹豹:2000/07/27(木) 04:34
つまり、俺が三国志のキーパーソンって事だ。
167 :
名無しさん@1周年:2000/07/27(木) 07:06
本物?
168 :
ピン:2000/07/28(金) 09:55
>練り児山
無理がある。
2:呂布が徐州を襲わない為、劉備は徐州に居続ける。
呂布が徐州を襲わなくても、曹操が襲う。
3:刑州に行く理由が無くなる為、諸葛亮は劉備の軍師にならない。
劉備が孔明に会いにいかなくても、孔明から軍師に仕官する可能性がある。
169 :
名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 07:21
諸葛亮って徐州出身じゃなかったっけ?
曹操の侵攻がなければ諸葛亮も徐州にいたのでは?
170 :
名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 00:40
そういや、諸葛亮が魏に仕えなかったのは、
幼少時代に曹操の徐州征服の戦火に巻き込まれたから
という説もあるね。
171 :
高僧:2000/08/07(月) 09:14
もしあなたが諸葛亮孔明で、これから蜀を率いて魏と戦わねばならない、
としたらどうする
俺ならまず人材の育成に励む
武官や文官の子弟を集めて幼少の頃から徹底した英才教育を施す
もしくは平民の中から才能のありそうな奴を探してきて教育した後
武将として登用するとか
172 :
ピン:2000/08/08(火) 02:56
>170そういや、諸葛亮が魏に仕えなかったのは、
>幼少時代に曹操の徐州征服の戦火に巻き込まれたから
>という説もあるね。
否定はしませんが、別の説を・・・。
1 当時曹操陣営は熟成しており、孔明の入る余地がなかった。
2 曹操と孔明との人のとらえ方の違い。
3 徐州での関羽の活躍(必要性)を知っていた。
以上のことから魏への仕官は、ないと思われる。
173 :
ピン:2000/08/08(火) 03:09
>171
>武官や文官の子弟を集めて幼少の頃から徹底した英才教育
孔明の英才教育では理想が高すぎて人がついていかれない。
曹操のような現実主義であれば多少の人は集まる。
>平民の中から才能のありそうな奴を探してきて教育した後
>武将として登用
法正が生きているとすれば可能性はあるかも?
ゲームと現実はかなり違うから「もしあなたが諸葛亮孔明で、」
というのはかなり難しい。
違う人であれば・・・たとえばホウ統・法正とかはどうでしょう?
大橋武夫
兵法ナポレオンを読んだ。
一・五倍になった
オーストリア軍をカッコよく各個撃破する
ガルダ湖畔の戦いを読んで、
私もこうありたいものだと
内心思っていたら、
その解説文で、このようなことを続けていけば
破綻するのは明白だと書いてあった。
¥2500もしたがそれなりの価値はあったと思う。
>
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=962485777&ls=50 20 名前: 竹田丹後守 投稿日: 2000/07/03(月) 00:22
余談になりますが、大橋武夫さんの本は俺も何冊か持っていますが、最近、日本
古戦史に関しては従来の定説を覆すほどの説得力を持った異説が続出してまして、
そっち関係については全然信用できなくなりました
例:桶狭間合戦で織田軍の迂回奇襲はなかった
第4次川中島合戦で上杉軍は妻女山に布陣していなかった
姉川合戦で徳川軍の迂回攻撃はなかった
長篠の合戦で鉄砲三段撃ちはなかった
いわゆる武田騎馬軍団などというものは存在していなかった
鉄砲の威力は喧伝されているほどではない
・・・・・・・・等々 <
私もそのような欠点はよく知っています。
しかしそれまでの意見をまとめた研究成果があればこそ
それに対する批判が成り立つのであり、
欠点はあっても価値はあります。
また今読み返してみれば、
意外と新しい発見があるかもしれない、と再度研究中です。
http://union-jp.net/home/ysngmilk.html 例えば大橋武夫 はよく孫子の意見として「兵は拙速を貴ぶ」という
引用をしていますが、
兵藤二十八も指摘しているとうりこの語は孫子にはないです。
原文は「兵は拙速を聞くも、未だ功久を睹ざるなり」。
100聞は1見に如かずという諺がある。
これは後段の「功久を睹ざるなり」に重点が置かれている
と思います。
私の思い浮かべる「拙速」の実例は
1943年に三式戦がラバウルに行こうとして
大半が海没したことがあげられます。
(三野正洋「日本軍小失敗の研究」・渡辺洋二「液冷戦闘機飛燕」参照)
つまり「拙速」とは「速くしようとして拙くなってしまった」
という意味ではないでしょうか?
しかも「聞く」(伝聞)に過ぎないもので、「そうかどうか詳しくは判らない」
というニュアンスで。
それに対し、「功久を睹ざるなり」は「睹」という直接見た上での判断で、
「絶対にありえない」というニュアンスが込められているのではないでしょうか?
大橋武夫は「兵は拙速を貴ぶ」の実例として北条氏が小田原評定で戦機を逸した
ことをあげています。
いろんな案がある中、何でもいいから一つを選んであれこれ迷うヒマに
長所を伸ばして短所を補う工夫をするべきだったと。
http://union-jp.net/home/ysngmilk.html
175 :
東海定王:2000/08/11(金) 23:41
久しぶりだから入力間違えたような気が・・・
>練り児山殿
呂布がいようといまいと、劉備は袁紹、劉表の所へ逃げていくだ
ろうから、諸葛亮とは出会う可能性大でしょう。
>ピン殿
スレッドは読ませていただいてます。まとまったらそちらにもレス
付けさせてもらいます。
>高僧殿
諸葛亮が育成したら、馬謖みたいなのが大量生産される恐れが。
私だったら、魏延の策の通り一気に長安を狙いますね。だって、
あの時点(第1次北伐時)で司馬氏が台頭することまでは読みに
くいし、時間が経てば経つほど「漢の復興」という大義名分が通用
しなくなるからね。大義名分を放棄すれば時間かけてもいいんだ
けどね。
文体がいつもと違ってる・・・
176 :
名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 08:30
>魏延の策の通り一気に長安を狙いますね。
で、大敗、壊滅でしょうね
177 :
名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 15:10
ちょっと聞きたいんですけど、
もし郭嘉が赤壁の戦いまで生きていたらどういう結果になると思いますか?
とりあえず、曹操軍の大敗は免れるんじゃないかと思うんですが。
178 :
名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 12:46
赤壁の戦いは、実際大した規模のものではなかった。
179 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 00:55
最澄は献帝の子孫だった
180 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 05:24
age
三国スレ多すぎ・・・
夏休み最後の日だから?
>>168 お気持ちは解りますが、マジレスは無粋と言うものです(藁
183 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/02(土) 03:04
関羽って、プロレスラーのブルーザー・ブロディに似てません?
風貌はもちろん、性格も。
関羽もブロディも強さと知性をあわせもってたっていうけど、
尊大すぎていらん恨みも買ってたらしいし。
184 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 07:18
じゃ、ブッチャーが張飛ね。
185 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 15:14
張飛はハンセンにしとこうよ。
186 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 23:14
>185
張飛がブッチャーって言うのは、屠殺業とかけてるんじゃないの?
187 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 23:52
董卓はマクガイア兄弟ということで。
188 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/03(日) 03:13
屠殺業なら何進でしょ。
189 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/07(木) 16:09
曹操はビンス・マクマホン・ジュニア
190 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 22:21
曹丕はシェイン?
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
◄Zweihundert►
203 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 01:59
あなた楽しい?
すみません、書く事が無いならsageて下さい。
話題も無いのに上げまくってますと、それだけで鬱陶しがられますので。
荒らしでも、一応sageてるのは、律儀と言うか何か・・・(笑
205 :
名無し@まんぷく。 :2000/09/13(水) 15:39
まじスレ(?)いきます。
劉備よりも曹操の方が悪い事やってる!!ってスレ、わりと多いけど・・・。
曹操は実際世間の評判も悪いし(ヒールの代表的キャラでしょ)、あ。そのままだ・・・って感じだからじゃない?
でも劉備は「演義」では完全に「いいひと。」だし。
そのギャップが正史派や曹操ファンには許せないんじゃない?
実際私もそうだし・・・(^_^;)
206 :
名無しさん@1周年 :2000/09/17(日) 13:57
>205
中国人の「伝統」や「現実」を無視する人間発見
>中国人の「伝統」や「現実」を無視する人間発見
↑って曹操のこと?
208 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/18(月) 03:42
他国を貶めないと自己確立できない厨房発見>206
209 :
少容 :2000/09/21(木) 12:49
っつーか早く平和な世の中が来ることを望んでいたので
戦いはみんな八百長だった。
結局五斗米教が天下を取った!
210 :
陳潜 :2000/09/22(金) 04:22
>小容
るせえぞ!ババァ!一発やらせろゴルァ!
211 :
名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 06:20
>210
実はあんたのかーちゃんなんだぞ
212 :
東海定王 :2000/09/23(土) 16:46
(休み明け)すんごい久しぶりだなぁ。
>177(遅くなったが)
どっちみち孫権は下せなかったと思う。あの時点で孫権も劉備もほったらかして蜀
や漢中を攻めたりしたら分かんないが。荊州だけ固めてたら取られることもなさそ
うだし。
213 :
末広・嵐・バジーナ大尉(whis解放戦線):2000/11/04(土) 06:36
進歩的文化人は、
たいていの場合、エリートである。
要は進士なのである。
ある意味彼らは、
孔子、孟子の手の上で踊りつづけ、
徳川家康の手の上で踊りつづけ、
山県有朋の手の上で踊りつづける。
御苦労な事である。
214 :
世界@名無史さん:2000/11/04(土) 06:39
>208
意味不明の厨房発見
215 :
末広・嵐・バジーナ大尉(whis解放戦線):2000/11/04(土) 09:46
要は唯脳論である。
唯脳論では、文化を目と耳から考える。
日本のように草木が繁殖している国では、
葉っぱの一枚一枚が目に飛び込んできて、
視覚を刺激する事はなはだしい。
で、美術が発展する。
砂漠のような見るものが無いところでは、
視覚の刺激が不十分であり、
音楽が発展する。
216 :
末広・嵐・バジーナ大尉(whis解放戦線):2000/11/04(土) 10:23
羅 貫 中 作
217 :
末広・嵐・バジーナ大尉(whis解放戦線):2000/11/04(土) 10:23
羅 貫 中 作
218 :
末広・嵐・バジーナ大尉(whis解放戦線):2000/11/04(土) 10:23
羅 貫 中 作
219 :
世界@名無史さん:2000/11/10(金) 18:20
>214
感情先行の厨房発見
見苦しい(笑
220 :
三国志最大の疑問:2000/11/11(土) 15:06
孔明は、なぜ劉備べったりの関羽に荊州を任せただろうか。
私は、関羽を蜀に行かせ、趙雲に荊州守備をさせたほうがよかったと思う。
そうすれば、無益な呉への桃園のリターンマッチをせずとも済んだのに。
趙雲なんか無理無理!
222 :
世界@名無史さん:2000/11/14(火) 13:54
りょふってどんなやつ?
223 :
世界@名無史さん:2000/11/14(火) 17:44
武力100
224 :
Mr.名無しさん:2000/11/15(水) 01:10
もっとくわしく。りょふってどんなやつ?
225 :
世界@名無史さん:2000/11/15(水) 03:57
知力0
226 :
世界@名無史さん:2000/11/15(水) 11:33
ぎゅうきんってどんなやつ?
227 :
世界@名無史さん:2000/11/15(水) 17:52
曹仁のかませ役
228 :
世界@名無史さん:2000/11/15(水) 18:45
蒼天航路はいつ再開するのだろうか。
青洲兵ってどうなんですか?最強の歩兵は。
229 :
世界@名無史さん:2000/11/15(水) 19:04
230 :
世界@名無史さん:2000/11/16(木) 20:03
もっとくわしく。りょふってどんなやつ?
231 :
世界@名無史さん:2000/11/16(木) 22:35
女と子供に弱い
232 :
世界@名無史さん:2000/11/17(金) 11:38
今週も載ってなかったねぇ・・・蒼天航路
233 :
世界@名無史さん:2000/11/17(金) 18:25
234 :
げった@末広:2000/11/17(金) 19:21
FUCK ME!!
>220
プライドの塊のような関羽をさしおいて余人を
抜擢するなんて、劉備だって出来ないだろうに。
236 :
世界@名無史さん:2000/11/18(土) 15:00
>220
まず、孔明がってのがおかしい
んで、趙雲にってのもおかしい
237 :
世界@名無史さん:2000/11/18(土) 15:46
>236
それは結果論なのでございます。
原作読めばわかると思うけど(演義でも可)
関羽の立場はあとあとまで悪かったのだよ。曹操に下って後。
238 :
世界@名無史さん:2000/11/18(土) 15:55
>>237 220が結果論ではないかな
236っては別に関羽の事は何も書いてないが
239 :
世界@名無史さん:2000/11/18(土) 15:59
>238
あ、そうでございます。まちがえましたすみません。
237は>220のつもりでした。
240 :
世界@名無史さん:
スケープゴート2