1 :
名無しさん:
ラーメンじゃないっすよ(笑
孔子の直系子孫が台湾にいるようですけど、
これに匹敵するのは日本の天皇家ぐらいでしょうか?
2 :
そいえば:2000/01/14(金) 23:42
ダビデの子を自称する人っているんですかね
3 :
名無しさん:2000/01/15(土) 01:24
ヨーロッパの王家の人は結構、残っているはずだが、
まぁ、孔子や天皇家にはかなわないよな。
(ハプスブルクなんかも、一応は残っているけど。
ただ、ヨーロッパの方は家系の断絶も多いし直系と言えない物もあるしなぁ。)
あと、日本といえば、とりあえず天皇家に限らなくても
公家の大部分はいまだに家系が残ってるよな。
(この辺は氏姓制度の頃からの奴だって)
中国は、鄭氏の子孫はまだいるんだけど、それ以外はどうなんでだろう。
4 :
素朴な疑問:2000/01/15(土) 01:27
日本って、平然と養子縁組とかしてるけど、
あれは勘定にはいってるのかな
5 :
名無しさん:2000/01/15(土) 01:55
最長の王朝だったエチオピアの王家ってどうなったの?
6 :
>4:2000/01/15(土) 02:02
家系だから良いのではないかな?
血統だったら問題だろうけど。
7 :
名無しさん:2000/01/15(土) 04:28
熊本の阿蘇神社の神官の家系も滅茶苦茶古いとギネスに載ってるぞ。
8 :
確か:2000/01/15(土) 07:55
ヨルダン国王は預言者マホメットの子孫を自称していた
ような気がするが・・・?記憶違いだったらゴメン。
9 :
ジカブラス:2000/01/15(土) 15:09
>7
丹後の籠神社宮司海部氏の日本最古である国宝系図より古いのかな?
大三島の大山祇神社(日本最古の神社)宮司の河野氏(オオラ?氏)系図も相当古いと思う。
出雲大社の出雲国造家も古いだろうね。
日本にはそういう家系が相当あるんじゃない?
10 :
名無しさん:2000/01/15(土) 21:24
>8
自称ではなく、ほんとにムハンマドの子孫です。>ハーシム家
もちろん、直系の子孫ではないですが。
ムハンマド自身、当時のアラビアの名家の出身なので、
そういうこともあるのです。
11 :
>5:2000/01/15(土) 22:54
王様は殺されました.あの国は帝政が滅んでから
悪くなる一方だと思う.
12 :
えでぃおぴあ:2000/01/15(土) 23:22
ハイエセラシエだっけ?
13 :
再考ですかぁぁ〜!:2000/01/16(日) 00:13
天皇家は、ヨーロッパ流の考え方では、続いているとは言えないのではないでしょうか?
家系とか、王朝の継続について、考え方が違っていると聞きました。
14 :
名無しさん:2000/01/16(日) 00:55
ギネスブックでは最長の王朝はエチオピアで、現在も続いてる中で最長
は天皇家になってる。
15 :
名無しさん:2000/01/16(日) 06:16
今の天皇は、初代からの直系ではないからね…。
偽者天皇を信仰している今の人達がかわいそうだ。
16 :
>13.15:2000/01/16(日) 07:32
そういう、政治的な発言は止めませんか?
(天皇家の断絶を示唆して、「信仰」している人たちを
煽るというやり方は)
17 :
あやしい史書の記述を除けば:2000/01/16(日) 07:36
天皇家は少なくとも1500年くらいは続いてるんだから
立派なもんじゃねーか?
18 :
私の祖先は:2000/01/16(日) 10:38
50億年ほどまえは海面にプカプカ浮かぶ単細胞生物でした。
その祖先から、私に至るまで、いちどもとぎれることなく
続いています。
19 :
名無しさん:2000/01/16(日) 10:58
天皇云々の後に、18みたいなこという人が絶対に出てくると思ってた。
20 :
ヨルダン王家:2000/01/16(日) 11:21
21 :
近大帝国法務大臣:2000/01/17(月) 14:09
短いけど、イギリスの「ウィンザー(ハノーバー)朝」
ところで、北欧の「スウェーデン王国」「ノルウェー王国」
「デンマーク王国」の王朝は、何なんだろう?
「オランダ王国」は「ナッサウ家」でしたね。
22 :
ヴィッテルスバッハ家:2000/01/17(月) 14:32
いまだにいてるよ。
ヴィッテルスバッハ家。
バイエルンの王家。あのルードヴィヒ2世を輩出。
子孫は現在F1レーサーになってる。
23 :
>21:2000/01/17(月) 15:27
24 :
ベルナドット家:2000/01/17(月) 20:45
もともとはナポレオンの将軍。政略やらなんやらで
王家になったけど、元はフランス人だし、良く考える
とよくスウェーデン人が納得したものだ。
もっともそれ言ったらヨーロッパの王室ってほとんど
が外国人だけど。
25 :
>24:2000/01/18(火) 00:27
ナポレオンの出来の悪い兄弟を押しつけられるより
マシと考えたのではないだろうか。
26 :
>25:2000/01/18(火) 08:20
ナポレオンの兄弟って、弟一人以外はみんな
出来が悪かったらしい。むしろ姉妹の方が
頭がよかったらしいけど。ナポレオン帝国が
早く崩壊したのもこの兄弟達が足を引っ張った
というもっぱらの話
27 :
ベる:2000/01/18(火) 10:31
ベルギーのコーブルク家。
スペインのブルボン家もフランコ総統の死後復位しました。
28 :
名無しさん:2000/01/19(水) 12:19
イタリアのサヴォイ家(もう廃位されたけど)
は10世紀くらいからの名門だってきいたけど。
29 :
フランス元大統領の:2000/01/19(水) 23:44
ジスカールデスタンって、たしかブルボン王朝の末裔だったよね。
30 :
jss:2000/05/01(月) 12:14
ていうかイタリアには、
キリストに死刑判決を与えたピラトの子孫が
今も家名を名乗っているらしいぞ。
貴族(もちろん制度はないが、以前そうだったということ)
らしい。
31 :
名無しさん:2000/05/01(月) 15:23
32 :
>31:2000/05/03(水) 04:03
世界中にいそうだが。
特に新興宗教関係者(笑)
33 :
名無しさん:2000/05/05(金) 06:52
>(天皇家の断絶を示唆して、
どういう断然津があったのか素人にも判るように教えて下さい。
34 :
>33:2000/05/05(金) 07:32
継体天皇の出自が怪しい、といわれている。継体が初代、と考えると
1500年ほど続いている、ということになる。
どう怪しいのかは系図をみてくれ。
まあ、今となっては継体が皇室の血をひいていたかどうかの証明は
困難だが。
35 :
33です。:2000/05/06(土) 02:44
>34
継体・安閑・宣化らへんの話しで、
継体天皇が新潟の方から連れて来られたって話しのことですか?
36 :
34>35:2000/05/06(土) 04:22
新潟じゃなくて、越前なので福井県です。
武烈の死後、後継者がいなかったので、5,6代くらい前の先祖が
一緒とされる継体を擁立したと言う話。で、それが同祖だったのが
怪しいと言う・・・。
あと、安閑・宣化はまた別の話で、安閑・宣化VS欽明の2朝が
並存していた、という説のことですね。
37 :
チベットの王家:2000/05/11(木) 06:50
七世紀半ばに建国、君主の称号は「ツェンポ(賛普)」。
842年に王統分裂、国家崩壊にいたるも、子孫は「ラギャリワ」という小貴族として存続。
38 :
藤原氏:2000/05/11(木) 18:16
669(天智8)年10月より始まる。
ところで今の藤原氏の氏長者は誰なんだろうか??
39 :
>38:2000/05/11(木) 19:37
もしも五摂家筆頭の近衛家だったら、元総理細川護熙氏の実弟になるのかな。
40 :
>38,39:2000/05/12(金) 03:17
近衛文麿の子か孫が氏の長者。
近衛秀麿ってまだ生きてるっけ?
生きてれば彼でしょ。
41 :
名無しさん:2000/05/12(金) 13:56
>40
近衛秀麿は1973年没。息子の秀健氏が家を継いでるよ。
42 :
名無しさん:2000/05/12(金) 16:26
井口家、上岡家、宮治家。
43 :
34>36:2000/05/13(土) 15:26
どうも勘違いしていたようで整理できました。
有り難う御座います。
44 :
>40:2000/05/14(日) 07:42
秀は分家でしょ?
細川の弟が本家の当主を養子ながら継いでいるから
やっぱり彼が氏長者じゃないの?
45 :
>1:2000/05/15(月) 09:38
俺んちとか君んち、だろ
46 :
だからどうした:2000/05/16(火) 19:45
曲阜に行った時、
孔子の子孫に二〇人程合いました。
何か眉唾モノだと感じた。
47 :
名無しさん:2000/05/17(水) 05:58
徳川家の世が世なら将軍となってた現当主は今何の仕事に就いてるんですか?
48 :
名無しさん:2000/05/17(水) 07:16
徳川美術館の館長の徳川氏は、尾張徳川家の当主でしたっけ?
名古屋では名士です。
49 :
名無しさん:2000/05/17(水) 14:41
徳川宗家の子孫の人はフリーカメラマン。たまに雑誌の対談とかに
でていますよ。
50 :
名無しさん:2000/05/17(水) 15:16
NHKでアナウンサーやってる松平定智とかどうよ。さだとも。字あってるかな?(−−;
51 :
名無しさん:2000/05/17(水) 15:44
>50
定信 じゃなかったっけ。
白河藩松平家の直系だから、暴れん坊将軍の子孫ってことだね。
52 :
名無しさん:2000/05/17(水) 18:05
>47@`48
NHKアナウンサーのあの方は傍流?
53 :
名無しさん:2000/05/17(水) 18:28
>49
うーん 慶喜の血引いてるっぽいね。
カメラマンは憎いなあ・・余裕を感じさせられる。
54 :
名無しさん:2000/05/17(水) 18:32
誰も突っ込んでないが・・・51さんに
55 :
名無しさん:2000/05/17(水) 20:09
徳川宗家って慶喜の次は田安家から来た家達が継いだんじゃないの?
また慶喜系に戻ったのかなぁ・・・
56 :
名無しさん:2000/05/17(水) 21:45
ずっと前だけど、テレビにラーメン屋の徳川さんが出てたな。
あれは宗家じゃなかったかな?
井伊家当主は彦根市長だったけど、亡くなられて、現当主は
何してるのだろうか?
57 :
大嘘かも:2000/05/17(水) 23:08
徳川宗家の跡取りは田安家出身の田安亀之助(徳川家達)です。
そのほかにも慶喜を祖とする慶喜家というのもあるらしいのですが、
そっちの御当主カメラマンの方で、宗家をついた御当主は日本郵船の
取締役と聞いたことがあります。
58 :
名無しさん:2000/05/17(水) 23:17
千代田区1−1の土地を天皇家に世襲されて
徳川家の人は悔しくないのかな?
59 :
徳川家は:2000/05/17(水) 23:21
宗家は日本郵船のエラい人ですね。たしか徳川宗孝さんって名前じゃ
なかったでしたっけ?
NHKアナの松平定知アナは伊予松山藩主家の当主だったような記憶が
あります。これは久松松平家といって傍流ですね。
60 :
名無しさん:2000/05/18(木) 01:40
>59
宗家は会津松平家から徳川恒孝さんですね。
牝系で繋がっているからと言うのが養子の理由です。
日本郵船は合っています。
尾張水戸は名士らしいけど紀州は没落して当主がいないって
聞いたけど今はどうなんだろ?
61 :
こんなん出ました:2000/05/18(木) 03:59
全国に徳川さんは、479世帯居るそうです。
62 :
>:2000/05/18(木) 05:58
家系って、みんな続いているから生きてんじゃないの?
王侯の家系は近親婚が多くなるんで、こだわればコダワル程
早く切れちゃうのね。天皇家なんて、ヨメサン一人に限定
したら、三代でもう危機だよ
63 :
あやめ :2000/08/31(木) 17:31
支那の旧家には皆どこもいわゆる族譜というものを代々編纂し続けていて、その
最初のところには以下に由緒古き家系だあるかということを、誇らしげに記載し
ているのが普通です。しかしその裏付けとなると怪しいものが殆どです。
しかしそんな中に2家だけ確実な由来の辿れる家族が存在します。儒家の聖裔で
ある曲阜闕里街の衍聖公孔氏と、道教の玄苗である貴渓龍虎山の漢天師張氏の門
宗です。
先ず孔子の子孫について記述しましょう。孔子の先祖は殷王朝を相続した宋の公
族です。だからこの時点でもうかなり古いわけです。でも「史記」の「孔子世家」に
は3代前からしか系譜の記載がありませんが、ともかく春秋時代までは確実に遡
れるんだから凄いです。
孔子は御存じのように三千人だかの弟子がいて、また儒家というのは諸侯にリク
ルートして任用されてナンボという学派で、戦国時代には墨家と並んで天下の顕
学と目されるまでになりました。そして孔子の孫の孔キュウ(フォントなし、人
偏の右に及)即ち子思子や8代の孫の孔鮒(子魚)のように郷里で家学を紹述し、
有力な弟子(孟子とか)を養成した人物がいて、既に家門が確立されていたという
べきでしょう。
漢の武帝の時代には儒家は国教ともいうべき地位を獲得し、この支那思想界にお
ける儒教独尊体制は清朝の倒壊まで続き、文革の「打倒孔家店」の運動まで命脈を
保ってきました。歴代王朝の孔子尊崇の歴史は浅野裕一「儒教-ルサンチマンの宗
教」(平凡社新書)あたりを参照してください。
儒教と孔子への殊遇に対応して孔子の子孫の恩蔭も一方ならぬものがありました。
孔子の家督相続者「奉祀君」は13世の孫の孔覇が漢の元帝に関内侯に封じられたの
から始まり、唐の玄宗は35代の孔燧を「文宣公」に封じています。孔家の当主の爵
号の「衍聖公」は46代の孔宗愿が宋の仁宗に賜ったもので、明代からは文臣の首と
いうことでマンダリン最高の一品官の待遇を得て、清末の76代の孔令貽まで世襲
されてきました。
この間に孔家一族からは前漢に孔子11代の孫の孔安国、後漢に20代の孔融、唐に
孔穎達などの学者が輩出しています。孔融などは孔子さまの後裔としてはかなり
の変り種ですけどね。
64 :
あやめ :2000/08/31(木) 20:16
ここからは「孔府内宅軼事」(孔徳懋著、天津人民出版社刊)という本に
依って記述します。著者は孔子77代の子孫である女性です。
孔子の後裔の原籍は山東省の曲阜でここに在住する者を闕里の孔氏と
称します。時代の変遷により他所に移住した支族も多く、その最大の
ものは河北省在住の「河西派」です。その始祖は孔子31代の嫡孫である
孔穎達で、彼は唐の高官でもあったので天子の陵に陪葬されることと
なったので、一家を挙げて長安に定住することになり、更に宋初には
甘粛省の涼州に、また明初には河北省の河間にと移動しています。河
間の孔氏は更に河北省一帯に分居し8支族を派生しています。
これに次ぐ大支族は華南に散居する「南宗派」です。48代の嫡孫の孔端
友は宋王朝の南遷に従い浙江省の衢州に移住し、そこで衍聖公府を曲
阜とは別に開きました。この支族からは更に四川・江蘇・浙江・江西・福
建・安徽の各地に散在する分家を発生しています。
闕里の孔氏はまた内孔と外孔に大別されます。内孔は孔子のネイティ
ヴな後裔で「内院孔」とも称しています。外孔は元来の孔裔としての素
性が確実でない者で「外院孔」と呼ばれています。中には祖先は孔姓で
なかった者もおり「偽孔」と蔑称されています。1982年現在の闕里の孔
氏の総人口は約10万人と推定されているそうですが、闕里孔氏の族譜
に登載してもらえるのは内孔だけです。
内孔はまた60宗戸に分岐しており中核となるのが衍聖公の家族である
「大宗戸」です。大宗戸と他の宗戸とは殆ど主従同然の関係と言ってよ
く、宗法による処罰権なども認められていたようです。孔府の族譜の
行輩字については「同名を名乗る事について〜 」のスレッドにカキコ
しましたので参照してください。
衍聖公府(孔府)、孔子廟(孔廟)、孔子以来代々の墓所(孔林)が闕里の
中心となる施設で観光名所にもなっているようです。
イスラエル王家の子孫はアダムとイブまで遡れるぞ。
いればの話だけど。
いそうじゃない?
66 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:26
フランスのブルボンあたりは傍流がウヨウヨいますね。
イタリアでボルジアさんは山田のようなありふれた名前なんでしょうか?
それともあのボルジアの子孫なんでしょうか?
67 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 03:27
マホメット、アリの直系の子孫はいないのだろうか。これは名家だろう。インドのアショ
カ王の子孫は?
漢の劉氏の子孫はどうなのか。五代にも後漢があるし。
ジンギスカンの末裔は、時代が下るし、何か胡散臭い感じがするから、良いけれど。
68 :
カウニッツ :2000/09/01(金) 03:56
ハプスブルク家。
69 :
>67 :2000/09/01(金) 05:36
クライシュ族のハーシム家の家系は広大なんですが・・・。
教祖ムハンマド(マホメット)には息子が居なかったので、直系の子孫は
居ません。代わりに、娘のファーティマとアリーの子孫が直系だそうです。
アリーとファーティマの子孫は、イラン地方でシーア派教団のイマームと
呼ばれました。これが「12イマーム派」です。
代々イランでイマームを名乗った家系は、12代目の時に子供が居ないまま
行方不明となり、血統は絶えています。
ただ、6代イマームの傍系の子孫がエジプトでカリフを名乗って統治した
時期がありました。これが「ファーティマ朝」です。
余談ながらファーティマ朝は、十字軍で有名なサラディンに廃されてます。
現代では、ヨルダン・ハシミテ王国の国王が「クライシュ族のハーシム家」
の子孫を名乗っています。中近東では随一の名家だそうです。
70 :
>67 :2000/09/01(金) 05:53
五代十国時代の後漢・北漢・南漢は全て劉氏ですが、西漢の劉邦との
血縁関係は全くありません。
五代漢の創業者、劉知遠は突厥沙陀部出身で漢族ではありません。
北漢は、劉知遠の一族なので同様です(トルコ系)。
南漢は、はっきりした人種は判りません。アラブ系説もあるようですが。
西漢創業者の劉邦の子孫は、西漢滅亡時に大陸全土に多数の子孫がいて
大して珍しくなかったそうです。東漢光武帝の劉秀も、各地に居る多くの
劉氏の一人程度だったそうですから。現代で直系の子孫を見つける事は
非常に難しいでしょう。
71 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 07:33
>67
「チンギス統原理」といって、
モンゴル帝国時代以降の遊牧君主はチンギス・ハーンの末裔でないと
「ハーン」を称することができない、という建前があり、
チンギス一族は貴種として温存されていました。
ティムール家が代々チンギス家の娘と結婚して
「アミール・キュレゲン」(婿公)として統治していたとか、
オイラトのエセン・ハーンはチンギス家ではないのに
ハーンを名乗ったためにまもなく内紛で殺されたとか、
チンギス統原理が(少なくともある時代まで)生きていた証拠は事欠きません。
>69
モロッコ王家も「自称」サイイッド(聖裔、ムハンマドの子孫)。
記憶が曖昧だけどオマーン王家もサイイッドだったような。
歴史上ではサファヴィー朝がシーア派イマームの誰かの末裔を自称してます。
一昔前では60年代までイエメンを支配したザイド派イマームは
4代目のシーア派イマームの末裔でした。
ファティマ朝と同じイスマーイル派としての
イマーム(6代イマームの子孫)もまだまだ居るはず・・・
たしか、インド独立運動のアーガー・カーン一族がそうじゃなかったかと。
72 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 09:55
アガ・カーンの現当主は今アイルランドにいるよ。
英国競馬の大馬主&生産者として有名。
73 :
あやめ :2000/09/01(金) 20:03
孔子の子孫に次いで古い家系が張天師の血統で、即ち三国志で誰もが
知っている張魯の後継者なのです。
「後漢書」の「劉焉傳」と「三国志・魏書」の「張魯傳」によると、彼は沛國
豊縣の出身で、祖父の張陵は蜀の鶴鳴山(「「張魯傳」は鵠鳴山に作る)
で道術を修業し五斗米道の開祖となり、子の衡から魯に伝え魯は教団
を組織化し、また教義の整備も進んだようです。そして劉焉と結んで
漢中に割拠し、後に曹操に降ったことは三国志ファンの人には更めて
述べる必要はないでしょう。「張魯傳」の裴注に引かれている「典略」に
は陵の次ぎを張修としていますが、裴松之は張衡の誤写としています。
また張陵の名を張道陵とするのは葛洪の「神仙傳」から始まるものかと
考えます。明代に編された「漢天師世家」には道陵は光武帝の建武十年
に生まれたとしていますが措信できません。魯の子で魏から受けた爵
位を継いだ者を「張魯傳」は張富としていますが、「漢天師世家」では魯
の道統を嗣いだのは張盛という子としています。ともかく今日まで継
続する漢天師の先祖は張盛とされています。
なお清代に編された「留侯天師世家宗譜」という張家の族譜では、張道
陵は漢の高祖の三傑の中の張良の10世の孫とされていますが、根拠は
甚だ薄弱なことは言うまでもありません。しかし漢末の農民反乱指導
者の名を見ると張姓の人物が頗る多いことは注目すべきことのように
思います。霊帝から後の例を拾ってみると張嬰・張丙・張路・張角兄弟・
張曼成・張修・張牛角・張白騎・張燕・張雷公・張饒・張普と、これだけ発
見できるというのは何か偶然でない事情を想像せざるを得ないのです。
私は当時の世上の空気が劉氏の天下が終末に逼っている予感に満ち、
これに代わるのが漢の高祖の重臣の中でも人望のあった人物、張良と
曹参の子孫であるといった民衆伝説が流布されていたのではないか、
飽くまで想像に過ぎませんが私見を提出しておきます。殊に張良は道
家の気風を帯びた人物であったので、黄巾や五斗米は付会し易かった
のではないでしょうか。
張盛から以後の家系については一両日後にカキコします。
家系図ほど当てにならない物も珍しい。
その権化=徳川家(松平家)。
>73
張も曹も土性だからじゃないの?
76 :
金吾 :2000/09/02(土) 01:17
>73
長過ぎる
もっと皆が興味を持てるように分りやすくまとめれ
77 :
名無しさん :2000/09/02(土) 01:31
>73
適当に改行・行空けするだけで
かなり違うと思うよ。
資料検索能力はたいしたものだと思うからガンバレ。
78 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 02:12
昔、八王子の某○林大学に、三国志でおなじみの馬超の子孫が
在籍していたという話しを聞いたことがある。
>資料検索能力はたいしたものだと思うからガンバレ。
なんか、これ、フクザツな気分にさせる激励の仕方だよな(w
80 :
77 :2000/09/02(土) 03:39
気ィ悪くしたらゴメンね。
でも歴史家の能力なんて7〜8割は
いかに資料を貯めこんで、いかに検索するかでしょ?
81 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/04(月) 11:49
劉氏といえば、自称中山靖王の末裔劉備の子孫はどうなったのだろう
劉禅は蜀滅亡後も魏の家臣として生き残ったのだからその子孫も生きていて
おかしくはないはずだ(一人自害したのがいたけど)
でも、あの劉禅やその子孫が晋のクーデターやその後の東遷にはじまる
激動の時代を生き延びれたかは疑問だ
あと、劉備て本当に劉邦の子孫なの?
82 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 18:02
あやめさんって、すごいね。
なんか尊敬!!
83 :
あやめ :2000/09/05(火) 18:57
激励してくださる方がいらっしゃるのでガンバッテ書くことにします
長くなるけどガマンして読んでください
尊敬してくださるなんて感泣です、バカにしてくれる娘にも読ませます
五斗米道から天師道への発展の道程については日本では福井康順(野末
陳平のゼミの指導教授だそうです)大淵忍爾などの諸先生の研究があり
ます。このテーマについては敦煌から発見された「老子想爾注」の利用
が飛躍的な充実を齎したと言われています。
五斗米道はその後は貴族層にまで浸透し、書聖として知られる王羲之
の一族は「晋書」の本傳によると、「張氏の五斗米道を奉じていた」とあ
り殊に子の凝之は甚だしく、孫恩に攻められたときも道術を恃んで守
禦の手段を講ぜず害されてしまいました。そして孫恩の方も代々やは
り五斗米道の信者であった妖賊です。ただその五斗米道は張角の系統
のものである可能性も否定できないと思っています。
その後は北朝では寇謙之による改革で南朝では陶弘景や陸修静による
整備で、道教の様相は張魯の教法とは大分変化を来たしています。
ここでは張魯の子孫の行方のみに限って追跡することとします。
張魯の3子である張盛は江西省貴渓の龍虎山に天師道の本拠を定めた
とされています。この4代張盛から明の萬暦初年の49代の張永緒に至
る系譜は「漢天師世家」に、以降の分は民国の62代張元旭まで「補漢天
師世家」に載録されています。元旭の子で63代の恩溥は内戦を逃れ台
北に天師府を設け、彼の死後は甥の張源先が64代の漢天師を継ぎ今日
に至っています。この連綿たる道統が事実とすれば孔子の子孫には及
ばぬまでも驚嘆するに十分です。
しかしこの系譜の伝承に対しては少なくとも唐末までに関する限り、
全面的な信頼が学界から寄せられているわけではありません。
(この続きは明日書きます)
ちょっと、マジですごくない??あやめさんって。
これだけのことを打込んだことだけでも、すごいと思う…。
85 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 13:44
あ、sageでレスしちゃった…。
86 :
あやめ :2000/09/06(水) 19:41
こけのガンバリはまだまだ続きます
先述のように天師道の教法は南北朝を通じて著しく変質し、また孫恩
や盧循に領導される農民反乱の形で運動していた五斗米道は、宋の太
祖劉裕に鎮定され終息してしまったようです。その過程で張魯の子孫
が歴史の表面に顕現した形跡が見られません。
ただ唐初の類書「藝文類聚」所収の梁の簡文帝の「招眞館碑」に、「道士
の張道裕は漢朝の天師張陵の12代の孫で、梁の武帝の天監年間に夢の
お告げで虞山(江蘇省の常熟)の麓に住居を設営した」ということが述
べられています。また宋代の説話全集「太平廣記」所引の五代の杜光庭
の「神仙感遇傳」には「武帝は初めは道教を知らなかったが陶弘景の感
化で張天師の道裕を尋ね、玄壇三百所を建立し弘景の資とした」とあ
ります。しかし「漢天師世家」には張道裕に相当する人物の記載を欠い
ています。
また「茅山志」所収の梁の普通3年の「九錫眞人三茅君碑」には張道陵の
九世と十世の孫のことが記載されているとのことですが、「茅山志」を
所蔵していないので直接確認できませんでした。いずれにしてもこれ
らは龍虎山の張天師とは別系統のように思われます。茅山(江蘇省の句
容)は早くから道教の聖地として知られ陶弘景と関係が深く、この系統
の張天師も彼の教儀と何らかの連携があるのかもしれません。
明の王圻の「續文獻通考」の「仙釋考」には「唐の玄宗の天寶六載に後漢の
張天師の子孫を審査して、眞教天師を嗣がせ太師を冊贈した」という記
事がありますが、これも龍虎山との関係は不明です。
続きは明日か明後日に書きます、ガマンして付き合ってね
87 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:40
88 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:41
89 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:41
90 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:41
URYYYYYYYYY!!
91 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:41
URYYYYYYYYY!!
92 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:41
URYYYYYYYYY!!
93 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:41
URYYYYYYYYY!!
94 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:42
URYYYYYYYYY!!
95 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:42
URYYYYYYYYY!!
96 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:43
忘れた頃にあがるスレだね。
97 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:43
忘れた頃にあがるスレだね。
98 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:43
忘れた頃にあがるスレだね。
99 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:43
100 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:43
hundart!!
101 :
おちんこTTH+α :2000/09/07(木) 04:44
hundarteins!!
102 :
あやめ :2000/09/07(木) 17:38
早朝から努力なさる方がいらっしゃるのね、私も頑張ります
龍虎山の張天師に関する最も早い確実な資料は五代に至って漸く著録さ
れます。南唐の保大八年(950A.D.)の陳喬「新建信州龍虎山張天師廟碑」
がそれです。しかしこれまた私の参照しうる資料の中にないので具体的
な内容は紹介できません。これに次いで後周の孫夷中の「三洞修道儀序」
に「天師の後裔は世に一人を傳える、即わち信州龍虎山の張家である」と
あって、これで唐代晩期から張道陵の後裔と称する者が龍虎山を本拠と
していたことが窺がわれます。
「漢天師世家」には8代の張迥が北魏の太祖から招かれたとか、12代の張
恒が唐の高宗から治國の道を問われたとか、15代の張高が玄宗から漢祖
天師に冊封されたとか、20代の張ェが武宗や懿宗から殊遇を賜ったとか
さまざまに書かれていますが、内輪の資料にしか出てこないもので信憑
性は薄弱です。それに漢末から唐末までざっと650年間で僅か20代しか
経ていないというのも首肯し難いものがあります。
龍虎山の張天師が正史に現れるのは「元史」からですが、明の王圻の「續
文獻通考」の「仙釋考」も確実な資料による情報かと思われます。同書に
は「宋の眞宗の祥符九年(1016)信州の道士張正隨に眞静先生の号を賜い、
授ロク(フォントなし、竹冠の下に録)院及び上清観を立てその租税を除
く」とあり、正隨は「世家」では24代の漢天師に当ります。また「徽宗の崇
寧二年(1103)張繼先に虚静先生の号を賜う」とあり彼は30代です。
「元史」の「釋老傳」には「正一天師は張道陵の4代目の盛が龍虎山に来居
して36代の宗演に伝えた、世祖は至元十三年(1276)に彼を召し江南の道
教を主領せしめた、その後も2度拝謁し張道陵から伝わる玉印と宝剣を
世祖に見せたところ大変な感銘に預かった、二十九年に卒し子の與棣が
37代を継ぎ、元貞元年(1295)に弟の與材が継ぎ道教を襲掌し、大徳八年
(1304)に正一教主を授けられた、武宗が即位し留國公に封じられた、延
祐四年(1317)には子の嗣成が39代を継ぎ江南の道教を襲領した」といっ
た記述があります。この留國公というのは張良が漢の高祖から留侯に封
じられたのに因むものと思われます。(続きます)
103 :
あやめ :2000/09/09(土) 19:34
金元時代は道教にとっての画期で全眞教を始めとする新教派が勃興し、
儒佛の教義を摂りいれ錬丹や長生の呪術より、日常的な修行や実践を重
視し庶民や士人に浸透してゆきました。また全眞教の長春眞人邱處機の
ように積極的に権力に接近する傾向も見られます。正一教では36代天師
張宗演の弟子の張留孫の活躍が顕著です。
そして庶民の間に道教の総元締としての張天師の存在が意識に定着した
ようです。そのことは民衆文藝に明白に反映しています。最も有名なの
は「水滸傳」で冒頭に宋の仁宗の嘉祐三年に疫病の蔓延を鎮めるために、
張天師に祈祷してもらいに洪太尉という高官が龍虎山に登る話が出てき
ます。小説ではこの天師は虚清天師とも道通祖師とも呼ばれていますが、
時代から考えると25代の張乾耀に当たるかと見られます。しかし徽宗の
ため宮中で祈祷した30代の張繼先の史実が反映されたものと言う説もあ
ります。いずれにせよまともに考証するほどのこともないでしょう。洪
太尉はこの際に伏魔殿の石碑を倒し、そこから108人の魔君が飛び出し
梁山泊の好漢となって天下を騒がすことになるわけで、龍虎山の事件は
全編の重要なフレームの場に設定されています。洪太尉が帰京すると張
天師は既に鶴に乗って宮中に到着している筋になっていて、当時の民衆
が天師をどのようにイメージしていたかが端的に判ります。
また戯曲では元には呉昌齢作の「張天師斷風花雪月」明には朱有燉作の「張
天師明斷辰鈎月」などがあって、いずれも張天師が問題解決者として登場
します。現在も京劇の代表演目になっている「白蛇傳」の民間説話にも、
張天師が重要な役割を果たす筋が多いそうです。
「明史」には「方伎傳」の中に当時の張天師の歴代について記述されていま
す。明の太祖が陳友諒を破って南昌を取った時点で42代天師の張正常は
拝謁していましたが、太祖が即位して大明國を建てると正常も拝賀に参内
しています。その際に太祖は「至尊であるべき天に師が存在するというの
は不届きな話だ」ということで、それまでの「天師」の号を改め「正一嗣教眞
人」の号を賜りましたが、このころから龍虎山の凋落が始まったのです。
(次回で終わります)
104 :
あやめ :2000/09/11(月) 16:56
張天師(明の太祖により公式には眞人という称号に改められましたが、
世間一般には相変わらず天師で通用していました)の43代は張宇初で
彼は正一派道教の理論体系を完成した人なのですが、どういう事情か
らか建文帝により罰せられ、眞人の玉印や天子から賜った封冊の誥勅
などを取り上げられてしまいました、成祖が建文帝を簒奪したので返
還してもらえましたが、46代の張元吉は天子以外に禁じられている乗
輿器服を僭用し、かってに天子の下した制書を書き換えるなどしたば
かりか、良家の子女を奪い財物を強請りとり私刑を行うなどの不法を
摘発され、眞人の地位を失い有力者のコネを使って死刑だけはやっと
免れました、その後も明末までに朝廷から疎んじられるような状況が
何度か発生しています、「明史」の「方伎傳」には「張氏は正常からこの
かたこれといった神異も見られず、専ら符録(道教のおフダ)が頼みで
雨乞いとか悪魔祓いとかで、どうかすると多少の験があったに過ぎな
い」と評されるまでになっていました
明清交代の際には龍虎山は福建の南明政権と結んでいたのが禍して、
清の江西副総兵に上清宮を荒される事件が起きました、52代の張應京
は直ぐに清朝に降伏してしまいました、順治帝は彼を招き明朝からの
「正一嗣教眞人」の号と掌管天下道教事の権限を認可しました
しかし清朝の宮中の祈祷など宗教行事はラマ黄教一辺倒なので、お呼
びがかからないばかりか雍正帝も乾隆帝も道教大嫌いな人で、乾隆十
七年(1752)には正一眞人の位を二品から五品に降し、天下の道教を管
理する権限を単に龍虎山の道衆の管理のみに制限してしまい、宮中へ
の参内の礼遇も差し止められました
こうして龍虎山はさびれる一方で民国革命を迎えました、迷信打破の
風潮を背景に江西都督は民国元年(1912)天師の封号を取消してしまい
ました、北洋時代に入ると62代の張元旭は袁世凱や呉佩孚や孫傳芳な
どの軍閥に工作し、正一眞人の封号や龍虎山の田産を取り戻すことに
成功しました、63代の張恩溥は国民党政権時代に李宗仁や白崇禧に接
近していました、台湾で亡くなり64代は甥の張源先が継ぎました
105 :
あやめ :2000/09/11(月) 17:36
ここまでお付き合いして下さった方(もしもいらっしゃたらの話ですが)
有難うございます、よく辛抱して読んでくださいました、当初は2回で
終わらせる予定が成り行きで長くなってしまいました、御免なさい
張天師の家系は張良から数えると2200年、張道陵からで1900年、信頼で
きる史料の裏付けのある時代からで1100年ほども中絶せず続いた点で、
やはり世界史上でも特筆してよい事例と思い紹介した次第です
天師道は本土では宗教集団としては存在を失ってしまいました、張恩溥
は3人の娘を本土に残して台湾に逃れましたが、3女の張晩香が龍虎山
天師府に居住しているとのことです、その息子の張金涛は龍虎山道教協
会の責任者として観光客に龍虎山の宗教文化や観光スポットの解説とか
やってるそうです、彼は一応は中国道教会理事や中華全国青年連合会委
員とか江西人民政治協商会議委員その他の地位に在ります
要するに現在の龍虎山は宗教遺跡としての観光地となっているというこ
とになります
106 :
八幡 :2000/09/11(月) 20:21
冗談抜きでお疲れ様です。
107 :
ストラスモア伯爵夫人 :2000/09/13(水) 21:48
現英皇太后の実家でもある
スコットランドのストラスモア伯爵家とは?
どのような家系なのでしょうか??
108 :
名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 03:27
有名な、館に怪物のいるあの家系ですよ。「開かずの間」があって
その中に100年近く生き続けたらしいとか噂されてる。
代々の当主はストラスモア伯を継承した際にご対面させられたそうです。
109 :
名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 10:35
110 :
あやめ :
>109
御教示ありがとうございました、なかなか充実したサイトですね
わたしのカキコは永続した家系というテーマに絞ったので、正一道の
教義などは省略しました、道教に興味を抱かれた方はこのホームページ
を御覧になると得るところがあるでしょう、最近では唯物史観に基づく
科学的社会主義の大陸でも、結構カルトな文化とか内面世界のテーマと
かが関心を呼んでるようで、その方面の出版物が多いみたいです、そう
いう土壌からあの法輪功なんかが出てきたんでしょうネ