オスマン帝国

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1パトロナ・ハリル
スレッド作ってみたよ。
2高校生:2000/01/14(金) 02:49
イエニチェリってどれぐらい強かったのかな
改宗させて鍛えてたらしいんだけど
3パトロナ・ハリル :2000/01/14(金) 05:25
ウィーンを囲むくらいかな
4ベる:2000/01/14(金) 06:24
サラディンが採用した外国人奴隷兵制がイェニチェリの元だそうです。
主にバルカンなどの占領地域から体の丈夫な男児を強制徴集し、
軍人教育を叩きこんだらしい。

ところでオスマン帝国で1番のスルタンといえばやはり
スレイマン1世でしょうか。
5パトロナ・ハリル :2000/01/14(金) 07:09
う〜ん、難しいところだなあ。
残酷者(ヤウズ)セリム1世も捨てがたいしね。

国家も時期によって求められる指導者像がちがうからなぁ。
(我ながらつまらんレスだな)
6名無しさん:2000/01/14(金) 11:36
艦隊の山越えが好き
7名無しさん:2000/01/14(金) 12:53
第一次大戦で滅びた王朝のその後
ロマノフ 革命政府に処刑される
ハプスブルク 国外追放、後に帰国し欧州議会議員などで活躍
ホーエンツォレルン オランダに亡命

オスマンはどうなった?
8名無しさん:2000/01/14(金) 15:08
アタテュルク革命後、キプロス島に亡命。
後にパリで死去。
9みんな:2000/01/14(金) 15:30
パリなんだな
10名無しさん:2000/01/14(金) 18:19
ボクは“イスタンブール”より“コンスタンティノープル”の
方が地名としては好き。なんか歴史の重みを感じる。
そもそも“イスタンブール”って、古典ギリシャ語の
『エス・テン・ポリーン(町へ)』をトルコ人が
こう発音したからなんだよね。
11それは私:2000/01/14(金) 19:16
教科書にある「オスマン=トルコ」の「オス」と「=トル」を隠す奴が必ずいた。
12>10:2000/01/15(土) 01:17
歴史の重みを感じさせるのだったら、
当時誰も使ってなんかいなかった英語風の発音なんかさせるなよな。
それなら、イスタンブールの方がマシだろ。
ちゃんと、コンスタンティノポリスっていおうぜ、な。
13>10@`11:2000/01/15(土) 02:30
コンスタンティノポリスと呼ぶのはさんせいだけど、
イスタンブールと比べるのって、どうかなぁ。
やっぱ、1929までの正式な名前は「スタンブール」だったんだからさぁ。
そっちと比べてあげようよ。
まぁ、結論としては私もコンスタンティノポリスの方が好きだけど、
歴史の重みってことならどっちもどっちではないかな。
(でも、スタンブールになっても使ってたのはトルコ人だけで
ヨーロッパの人間はコンスタンティノポリスを自国語風に発音してたんだよね)

しかし、それにしても『エス・テン・ポリーン(町へ)』から
スタンブールになるのか? 初耳なんだけど。
ちなみに、マジな質問。
1413:2000/01/15(土) 02:32
名前の >10@`11 は>10@`12 の間違いです。ごめんなさい。
1510です。:2000/01/15(土) 06:21
ごめんなさい。エスではなく、“エイス”でした。
ビザンティンのギリシャ人達はコンスタンティノポリスへ行くことを
単に『町へ行く』と言っていました。つまりギリシャ語の“ポリス”は
帝都を表わす固有名詞でもあったのです。これを聴いたトルコ人達も
それを真似て発音しているうちに、“イスタンブール”になったと
聞いたことがあります。ちなみに『エイス・テン・ポリーン』は英訳
すると『to the city』です。出典は今は思い出せませんが、
これは確かだと思います。
 それと“1929までの正式な名前は「スタンブール」だった”
と言うのは初耳なのですが、どうでしょうか?確か、テオドシウス
の城壁に囲まれた地区(旧市街)のことを
そう呼んでいたような気がするのですが…
 
16名無しさん:2000/01/15(土) 20:35
オスマントルコの取っていた人種政策は、多民族国家内の融和政策
にとって参考になる部分が多いのではないでしょうか。人材登用法
も興味深い。
17常磐線:2000/01/15(土) 21:45
確かオスマン・トルコがセルビア人をクロアチア近辺に移住させた
そのためにユーゴの民族問題はかなり複雑になっている
ムスリム人はセルビア人やクロアチア人がイスラム化した人たちだっけ?

とにかくユーゴの民族はオスマン・トルコとオーストリア帝国に翻弄され
それが現在に至るまで悲劇を呼んでいる
1816:2000/01/15(土) 23:04
たしかに、オスマンの政策が現在の悲劇の元になってるのは否定しないけど、
民族毎の対立がこれだけ先鋭化したのはオスマン後のことじゃないでしょうか。

ムスリム人というのは、オスマン時代にムスリム化した人達で、民族という概念を
適用できないから便宜的にそう呼んでいるはずです。

歴史に仮定は禁物ですが、もしオスマンの支配がもう少し進んで民族融合が進んで
いれば民族間の対立がここまで酷くなかったと思いますがいかがでしょう。
19常磐線:2000/01/16(日) 00:00
多民族国家における民族融合は、表面的なものに終わる場合が多々ある。
オスマントルコもしかり、ソビエト連邦もしかり。
民族融合が成功しているのはアメリカなど植民地国家や、
宗教が同一である国家の場合が多い。
オスマンやソビエト連邦の崩壊後民族対立が深刻化している事実がある。
これらの帝国は民族の居住地を移動させたりしたが、
これが崩壊後にしこりが残る原因となった。
20常磐線:2000/01/16(日) 00:02
ところで、オスマンがセルビア人やクロアチア人をイスラム化してしまえば
民族融合が進んだであろうと思われる。
21>20:2000/01/16(日) 10:43
南(ユーゴ)スラブ族は、もともとカソリックと正教徒にわれてい
たところへ、オスマン支配によりイスラムへの改宗者もでたから、
なおかつ一層混迷が深まったようにおもうが。
2221(補足):2000/01/16(日) 10:47
南スラブ族は宗教の相違によって三つの民族に分かれた。
カソリック・・・・クロアチア
正教・・・・・・・セルビア
イスラム・・・・・ムスリム(正式名称:民族的区分としてのイスラム教徒」)
23パトロナ・ハリル :2000/01/16(日) 23:50
うーむ、やはり民族間の価値観の違いが悲劇を生むのか。
やはり米国のように、各民族の意思を統一する何かが有れば良かったのか?

わがオスマン帝国は異教徒に比較的寛容だっただけに残念ではある。
(理想的、とまでは言わんがな)
24>23:2000/01/17(月) 01:01
いやいや、米国でも民族間の「プチ悲劇」は日常茶飯じゃないか?
25名無しさん:2000/01/17(月) 18:00
「多民族国家」は、普通は支配民族が被支配民族に大幅な自治権と
いう恩恵を与えるために起こる現象であって、
民族が並立して融合しているなどどいった理想主義的なものでは
ないような気がします。

オスマンはトルコ人、ソ連はロシア人が優先する社会だったじゃ
ありませんか?

2616:2000/01/17(月) 19:44
オスマンの場合には、精神的に統一されているという側面があると思います。
身体的な特徴やコミュニティの独自性を考えれば民族という区分は消えることは
永久にないのですが、民族国家(民族的境界=物理的国境と仮定)という単位に
分けた結果悲劇が進行したというのが私の考えです。国民国家を前提とした多民族
国家という枠で論じるのは少々危険だと感じています。

実際、オスマントルコでは法律上の身分秩序では宗教・民族は関係ないし、
他教徒から人材を発掘する慣習がデヴシルメ等の制度としてありました。
したがって、トルコ人のみが優先されていたわけではありません。
むしろ、有能な人材は民族・宗教に関係なく登用するという面を先進的と
評価したいと思います。
27名無しさん:2000/01/17(月) 20:49
パン=オスマン主義のことかな?でも結局ナショナリズムが勝って
帝国が解体したのではないでしょうか?
2816:2000/01/17(月) 21:16
パン=オスマン主義といえばそうなのかもしれませんが、これはそもそも西洋の民族国家の概念に対する
対抗概念としてオスマン末期に出てきた用語であり、そもそも実体を伴わない言葉であると思います。

当時、すでにオスマンは末期的症状にあり、帝国はアーヤーンという地方名士(日本でいうと地頭に近い)
によって分裂状態にありました。その中で有力な者が反乱を起こしたりして帝国は弱体化していったわけですね。
そういう流れでいえば、27さんの言われる「結局ナショナリズムが勝って帝国が解体」の線は当たりと思うのですが、
各民族が独立を求めて蜂起して帝国が解体したという言い方は違うと思います。
29パトロナ・ハリル :2000/01/18(火) 00:23
まあ、トルコ人はほとんど宗教的分野に職を得て、
政府中枢の多くはそのスルタンが地方の知事だったころの腹心だったから、
他民族が出世する基盤はあったろうよ。
まあ、これも王位の一子相伝?(他の継承者は殺されてしまう)の制度があった頃の話しで、
後になって高級で育てられた暗愚なスルタンが出るようになると、宦官やらが幅を利かせ、
産業革命に乗り遅れた事も有り、こりゃダメだって事になって反乱が相次ぐ中(エジプトのムハンマド・アリーなんてのは有名だな)
トルコ人のナショナリズムが近代化、改革の要求と一本化されたんだろうな。
(違うかな?)

とはいえ、賢帝とか言われているセリム3世は俺達イェニ・チェリを解体する、なんざほざいたが、
今まで散々働いてきたのにポイ捨てはないだろ。だから、殺ったのよ!
(なりきりスレッドじゃないか?)
30パトロナ・ハリル:2000/01/18(火) 00:29
高級→後宮

よく見りゃ人の意見をテキト−にまとめただけだな。
スマン。

ウィーンを攻略できてれば、上手くいったのかねぇ。
いや、統治システムが・・・
31名無しさん:2000/01/27(木) 15:47
被支配民族を登用するのは、支配民族の勢力を強めるための
政策にすぎません。
(有能な被支配民族出身者を、「帰化」支配民族にするだけ。)

本当に民族融和を図るなら、無能でも融和させるはずです(^^;
32名無しさん
ギリシャ人のトルコ嫌いも未だに凄いもんがあるからな。
でもオスマンもハプスブルクも、あのどうし様もないバルカンを
よく治めたと思うよ。
英仏が介入してきて決定的におかしくなったんじゃないか。