孟徳新書って接要の事だろうか
>>2 接要は文字通り総集編だから「新」書じゃないっしょ
孟徳新書ではなく「新書」という書籍を著したってことは他の文献に載ってる
ただ全然普及しなかったし、後世の人は難し過ぎワロタwwwって言ってる難解な代物で
演義に出てくるような一回読んで張松が理解し、過去の偉人のツギハギというような簡単な本ではないらしい
王沈の魏書に「曹操様は自ら兵法書を著し、諸将はみな『新書』を携えその規範通りに指揮を執った」
とあるのが大本なのかも。
漢代と三国志時代を分けるものはやはり仏教だと思う
8 :
世界@名無史さん:2013/11/21(木) 19:25:05.91 0
>>6 後漢時代に経典翻訳始まってるし信者も三国時代では少ないと見ていいだろう
孫権にしてもそこまで導入したか微妙
東晋ならわかるが
まだ道教のほうがこれも漢代とはいえ、張魯や張角のことを考えても分けられると思う
>>8 三国志読むと数千から万に届きそうな信者を獲得しているのがわかる
寺院も大きく改築をなんども繰り返しているし新興カルトとしては相当な規模になってるよ
道教ほどではないけどもな
10 :
世界@名無史さん:2013/11/22(金) 01:24:22.88 0
>>9 場所からすると後漢の明帝の弟の時の信者がそのまま続けたんじゃないの?
道教はあくまで民間だ、それに対して当時の有力階層は何をベースにしているのかが問題だ
私はそれが仏教だと思う曹操や孫権、その他も何らかの形で自己の行動基盤としたんじゃないと思うんだが
記録には残ってないけど、魏や呉にはどことなく仏教の匂いがするんだ
そして劉備が信奉してたのは中国の神話
三戦に立ててやれよ
向こう過疎ってるし
13 :
世界@名無史さん:2013/11/23(土) 01:10:27.37 0
>>11 記録も何もそりゃ後漢書見れば仏教が来ていることわかるし
洛陽には胡人が来ているし、後世の仏図澄もきているしな
だが曹操に関しちゃどうみても議郎にいたことからも儒教だし
孫権は高僧伝読めばわかるがたしかに受容はしているが
積極的に信者になったけでもない
>当時の有力階層は何をベースにしているのかが
儒教ですはい終了
金神が12体鋳造されて董卓が鋳つぶしたんだっけ
>>13 儒教だったら漢だってそうなわけで区別ができないじゃん
いや、でも漢代は黄老だっけ、だとするなら三国志時代は儒教文化が
花開いた時代だとみていいのか、確かに魏呉は儒教の匂いもするな
とすると晋、南朝も儒教時代でいいのか、儒教を軽視してたっていうけど
それは見せかけだけだな
ヨーロッパはギリシャ神話時代→キリスト教時代
中国は漢代、(蜀漢まで含むかも)まで神話時代三国志以降儒教時代か
前提となる知識が偏りすぎててめんどくせえ
>>16 アフォ
ギリシア神話はギリシアの神話だ
ローマ神話、ガリア神話、ケルト神話色々あるわい
>>16 戦国時代には普通に三帝に託けた説得術が行われているので
もう既に神話時代ではなく儒教がそれなりに蔓延ってる
>>16 >中国は漢代、(蜀漢まで含むかも)まで神話時代
どんな脳内説だよw
21 :
世界@名無史さん:2013/11/23(土) 12:21:12.17 0
>>15 前漢(西漢)と後漢(東漢)をいっしょにするなボケ
竹林の七賢も調べろ
梁の武帝でググレアホ
>>18 ローマは名前が違うだけでは・・・ケルトガリアはキリスト教に吸収されてるし
>>19 それでも神々の存在が濃厚だったんだよ、漢代まで
>>20 蜀と魏呉はイデオロギー的にも対立していたということを強調したかったのさ
>>21 一緒でいいよ、後漢代は仏教の香りもするだけさ
七賢は儒教と仏教の混交ってことで
梁の武帝を支えていたのは儒教を信奉していたものたちだよ
梁の武帝自身も本質はそれでそれを達磨に見抜かれたんじゃないかな
>>22 ローマは名前違うだけ?ふざけてんのか?
後から発達したローマがギリシア神話と関係させただけで
ローマとギリシアの神話は別物だ」
それでも神々の存在が濃厚?
あのさあ、だからってそれが国家的な信仰になってるかってのは別だろうが
てかそんなこと言ったら儒教が最強になった後だって民間信仰あるから
神々の存在は濃厚だっての
お前の分類は自分に都合のいいこと言ってるだけだ
>蜀と魏呉はイデオロギー的にも対立していたということを強調したかったのさ
一緒
全部「漢の正当性を自分が受け継いでる」って主張しており
イデオロギー完全に一致してる
三国時代が儒教文化の花開いた時期ってのは間違い
それなら前漢最盛期の国教化の時点から数えるべき
文化の爛熟で言えば200年間儒教国家やってた後漢は確かに儒教文化の花開いた時期になるが
三国時代はむしろ儒教が廃れ気味な時代だった
儒教の音楽はなくなりかけて杜キによって復古されたが
杜キは他の音楽家に対して俗な音楽ばかりやってないで古い物を学べと叱ってたりするほど
魏晋は総体的に退廃、俗化の時期で儒教文化の隆盛とは程遠い
25 :
世界@名無史さん:2013/11/23(土) 17:40:40.11 0
>>22 >七賢は儒教と仏教の混交ってことで
どこに仏教の思想があるんだ…
老荘思想だろ…
>いや、でも漢代は黄老だっけ
すげぇなぁ
法家と道家の鬼っ子が時代の主流扱いかー
>>23 ローマ神話って具体的に何?
神々は後漢以降は死んだよ、残ったのは道教の神だけだ
魏呉のイデオロギーが儒教に無いというなら後漢、三国・晋、五胡を分けるものは何だ?
これらの時代を区分するものを具体的にあげてみろよ
>>25 七賢は維摩詰と結び付けられたりしている
素朴な疑問なんだが、なんでイデオロギーで時代区分しようとしてるん?
普通は政権担当一族か史書で区分して、他にやるとしたら経済的観点とかだと思うんだけど
思想で区分しようとしているには、当時の思想を整理しきれてないようだし
一体何がしたいん?
県令クラスの人事って誰が決めるの?
太守?刺史?朝廷?
光武帝から霊帝の頃までは郡の太守・丞、県の令・長・丞・尉は天子が任命することになってた
ありがとうマジか...
中国の県って千以上あるよね
それだけで三千以上も朝廷で選んでたのか
>>27 七賢が仏教と関連するのって晋の後の時代や〜
>>27 ローマって建国神話からしてギリシアとまるで違うんだが
ロムルスとレムスの物語からローマは始まる
対応関係になるようにローマ側が設定を作ったけど元は全く別物
ユピテルとゼウス、ユノーとヘラみたいな関係ってヤツ?
漢というイデオロギーと儒教は別に対立しない
つうかなんで人間が後付けで考えた時代区分がイデオロギーの区分になつわてるとおもいこんでるんだよ
馬鹿っていうのはすげえな
簡単に思考が倒錯する
王政ローマって実在したの?
実在してない根拠ってあんの?
ロムルスとレムスの実在を疑う、歴代王の存在が史実であるかどうかを疑う
というのはまだ理解できるんだが王政ローマそのものの存在まで疑うというのはさすがにさすがに
京極夏彦の姑獲鳥の夏に出てきた徳川家康の実在と妖怪の実在みたいな話になってきた
王政ローマ=夏王朝=邪馬台国
牧って州長官だけど、その下の郡太守を配下にしているわけでは無いの?
州牧が郡を直接的に支配してたのか、行政実務を担当する太守を指揮監督する立場にあったのかは
刺史の「行政官化」論とかとも絡むめんどくさい問題ではある
あと
>>30の話で全部の県令らを天子が任命したわけでもなくて
郡太守が任命する令がいて守令と呼ばれてた
43 :
27:2013/11/27(水) 16:41:11.14 0
ロムルスとレムスは歴史であって神話じゃないだろ
馬鹿ってすごいな、こんなことも分かんないのか
大体何で俺がこんなに叩かれなきゃならんのだ?
>>28 その区分は誰が決めたんだ、その主張に科学的根拠は?
俺がイデオロギーというか思想で区分するのはそのほうが分かりやすくなるからだよ
他の地域もこの区分は可能だ、欧州世界ギリシャ神話からキリスト教(あくまでギリシャ神話
何故ならローマに神話なんてないから笑)
中東は多神教からゾロアスターもはさんでイスラム教時代
そもそも俺は最初に行ったよな中国は思想面からすると分かりにくいと
だから俺は仏教だの儒教だの色々持ち出しているだろ
それをことごとく突っぱねやがって
だったらお前らが区分して見ろよ、ほんと2ちゃんねらーを相手にするのは疲れるな
>>ロムルスとレムスは歴史であって神話じゃないだろ
ええっ!?
自分が分かりやすくしたいがためだけに既存の時代区分に無理矢理当てはめず
最初からイデオロギーだけで区分すればいい
やってることが倒錯してると自覚してないのか
46 :
世界@名無史さん:2013/11/27(水) 19:14:43.20 0
中国思想史とアマゾンで検索して
本でも買え
>>41 後漢の中央政府が機能してた頃は違う。
州牧は太守の監督役でどちらも皇帝の直参。
分かりやすくなるどころか、判然としないじゃないか
むしろ王朝ごとに区分されてるんだから分かりやすく、それ以上ない区分だと思うのだが
思想の流れがわかりにくいから、分かりにくいそれで区分しろって無茶じゃないか
49 :
世界@名無史さん:2013/11/28(木) 23:58:44.29 0
思想といっても
後漢時代に神が死んだがどうのこうの意味不明だからな
中国宗教史読んでも理解不能だわ
50 :
世界@名無史さん:2013/11/29(金) 00:02:26.31 0
後漢から三国は有力な時代区分で言えば古代から中世への移行期間だから
その古代末期に普及し始めた仏教や初期道教に触れるのはありだと思うが…
ローマでも国教化するまで多神教とキリスト教とマニ教みたいな東方由来の宗教と
ギリシャ哲学とそれを多少ローマ化したものやピタゴラスや新プラトン主義みたいな神秘主義があって
多神教の祭祀の形態も一定していないのに
なぜこう一つの時代が一つの思想だけで塗り込められ手々当たり前だと思ってるんたろ
ヴァカだから
漢代まで祀られていた神々のことは呉書を読むとよく出てくる
詳細は不明だがとにかく神々を祀ったと書いてある
ロムルスとレムスはガイアだのゼウスだのに比べれば神話性は低いだろ
>なぜこう一つの時代が一つの思想だけで塗り込められ手々当たり前だと思ってるんたろ
そこら辺はざっくりと見ろよ、大体多神教時代 からキリスト教時代で合ってるだろ
王朝ごとに分けるほうが分かりにくいわ、こんなの中国だけだぞ
あるサイトで中国の文化は五胡で断絶したとあった、
ではその断絶させたものは何だ、ちなみに俺は魏代には断絶したと思ってる
そして俺は漢と魏を断絶させた思想は仏教だと思っている
なぜ老荘ではないかといえば貴んでいたのはどちらも同じだからだ
54 :
世界@名無史さん:2013/11/30(土) 16:43:03.34 0
神々を祀っだけなら孫呉以降というか現在まであるわ
55 :
世界@名無史さん:2013/11/30(土) 16:45:56.78 0
>漢と魏を断絶させた思想は仏教
あなたの脳内にしか考えはないようですが根拠は?
後漢時代に仏教がきたのは確かですが…
民族が変わらない限り文化が滅ぶわけがない
宗教が文化を断絶させたなんて嘘っぱちだと思ってる
どこの国でも伝わってきた宗教は
その地域の文化と交わってその地域性が出てくる
広範囲で宗教感が統一されてる場合は
常に同じ場所、中央から地方へと聖職者が派遣されて、
なおかつ思想が強制されたり、古い慣習が淘汰された時のみだと思う
そうでなけりゃ箸の上げ方下げ方とかの部分でも地域の伝統は生き残る
そもそもその地域にその宗教を受け入れる文化基盤がない場合は根付かないしな
自分の頭の悪さに合わせるために無理やり単純化させて別段対立しないものを無理やり対立させてる自覚が無いんだろうか...
思想と宗教がほとんど重なるときもあればそうでない時もあり
時代ごとに断然していたはずだと決めつけてる根拠が「誰かがそう言ってたから」という全く根拠にならないものだとなぜわからないのだろうか
ハイハイ分かったよもうやめますよ
結局あんた等には時代ごとの文化の違いを論ずるほどの知識も学会とのコネもないんだな
そんな奴らを相手にしてても暖簾に腕押しだったか
時代区分についてだが王朝ごとに分けるだけでなく4つに区分する方法などもあって
まだまだグラつきの多い分野なんだがな、これは本で読んだんだが
秦漢と魏晋南北朝でまとめられてたり唐宋がまとめられたりしてて
その流れに乗るつもりで思想による区分を思いついたんだが
>>57 じゃあローマスレに行って精々キリスト教の擁護でもしてこい
>>58 複雑な事物を単純化して還元するのが学者の使命じゃないのか
>>55 来たのは前漢だよ、根拠はま雰囲気って所かな
魏代にも何点か仏典の翻訳されてるしな
まだ自分の頭の悪さに気付いてないのか…
馬鹿ってのは怖いな
素材もろくにないのに印象や空想じゃ区分できないだろという話だ
歴史を理解するための区分ではなく
理解したつもりになるための区分だな
よくわからないけど根拠は雰囲気っていう渾身のギャグはスルーしてやるなよ
64 :
世界@名無史さん:2013/12/01(日) 19:51:11.39 0
孫権に仏教の教えが伝わったり、桓帝のことからしても
仏教が上流にも知られて
初期道教もこの時代に発展してるのは確かだが
劉備がよってるのが神話とか???
魏と漢でそこまでの変化ないもんな…
学会にコネがあるんならこんな所にいないでそっちで論じてくればいいじゃあないか
66 :
世界@名無史さん:2013/12/01(日) 21:24:51.82 0
記録には残ってないけど、魏や呉にはどことなく仏教の匂いがするんだ
そして劉備が信奉してたのは中国の神話
来たのは前漢だよ、根拠はま雰囲気って所かな
こんなのが学会に相手されるわけも無いじゃん
出土資料なりがあるならわかるが
仏教の香りねぇ
呉はまあともかく魏なんて音楽的に美しいからってだけで
曹植が仏教音楽を好んでた以外にまともに仏教関連のことあったっけ?
あ、そういえば北方謙三三国志では曹操が仏教教団をスパイ組織として活躍させてたね
お話だけどさ
68 :
世界@名無史さん:2013/12/01(日) 21:43:14.66 0
高僧伝によると洛陽に胡人がきて仏教広めてるよ
魏の洛陽の法時が来てる
ただ249ー254年に来たが
仏法はあるが教風はさっぱり振るわず僧侶も剃髪してるだけとも書かれている
逆に言えば僧侶はいたってことでもある
学会にコネw
スネ夫みたいな奴だな
一応徐州に仏教徒がいたじゃん
サクユウについていかず南下してないのもいるだろ
文系の学問なんて雰囲気で決めてるようなもんじゃねえか
仏教についても中世中国を席巻する宗教であるし
上限を上げて魏代からにしてもいいと思うが
芸術面においても書道や絵画など視覚芸術が本格的に始まるのは
このころだけどその功績も仏教に帰してもいいと思うんだが
漢と魏も性格は大分違うよ、前者はほがらかだが後者はギスギスしてる
中世以降の中国の暗さは魏が作ったようなものだと思うけど
私が仏教にこだわるのは中国は五胡以降残念な社会になっていくわけだが
それを五胡のせいにしたくないのだ、中華の暗黒化は魏の仏教導入から
始まっていたと考えたいのだ、(仏教を否定するわけでなくあまりにも高度な精神に触れたが故によって)
欧州だってキリスト教から暗黒化が始まったというし
装飾や彫刻も視覚芸術じゃないの?篆刻もアートだし、はるか以前から芸術的じゃん
文芸も後漢のほうが形式的で魏代に花開いたって解釈が普通じゃね
74 :
世界@名無史さん:2013/12/06(金) 09:43:50.11 0
>上限を上げて魏代からにしてもいいと思うが
>中華の暗黒化は魏の仏教導入から
>始まっていたと考えたいのだ
だから根拠出せよ
後漢時代に経典が訳されてきたが、魏で普及というこんきょがまったくない
呉では孫権が支謙を東宮の教育係にしたことからも
それなりに信者がいたかもしれんが
本格的の基準が全く意味不明なんだが...
魏と西晋でさえ大分雰囲気は違う
具体的に何を暗さと言ってるのかしかもそれが仏教とどう関係してるのか全く説明が無いんだが
というか魏代に於て書道で名を馳せた人に仏教の形跡なんて全然無いんだけど
76 :
世界@名無史さん:2013/12/06(金) 13:10:04.39 0
>仏教についても中世中国を席巻する宗教であるし
>上限を上げて魏代からにしてもいいと思うが
上限をあげてって何だよw
それなら後漢からだっていいだろw
>芸術面においても書道や絵画など視覚芸術が本格的に始まるのは
>このころだけどその功績も仏教に帰してもいいと思うんだが
意味不明、後漢時代の書聖と呼ばれた張芝や鐘ヨウに仏教の色なんか皆無
こんなんでいいなら
>芸術面においても書道や絵画など視覚芸術が本格的に始まるのは
>このころだけどその功績も道教に帰してもいいと思うんだが
これでも問題ないなw
うん、後漢からでも良いよ、仏教化は
道教は当時、征伐される側でしょ、文化の主流ではない
儒教も駄目、道教も駄目というなら仏教しか残ってない
後代のことも考えて仏教化は後漢から始まっていたとしたい
しかし推測でしかない、だから曹植に粘ってもらうしかないのだが…
あと私は張芝や鐘ヨウに仏教の色を見てとることができる、
違う
道教自体が排他されていたのではなく、権力や贅沢に結びつき過ぎて邪教淫祀と見なされたものが弾圧されただけ
つまりカルトを取り締まってただけの話
つうか魏代から老荘の影響力が強くなって儒教との接近が著しくなっているという極一般的な知識を無視してなぜ無理矢理仏教が絶大な影響を持っていたということにしたがる
しかも具体的に何が仏教の影響なのか全く不明のまま
真面目に相手したって有意義な話になる訳でもないし
みんなで曹操の墓でも探しに行こうぜ
80 :
世界@名無史さん:2013/12/06(金) 16:08:03.62 0
>あと私は張芝や鐘ヨウに仏教の色を見てとることができる
何に基づいてだwwwwwwwww
せめて当時訳された経典なり仏教の教えから生き方がそれっぽいとか言ってみろ
81 :
世界@名無史さん:2013/12/06(金) 16:14:43.59 0
歴史学って細分化しているから
中国仏教史からみた三国志と言うのはかなり興味深いんだが
こういう電波君はいらんな
82 :
世界@名無史さん:2013/12/06(金) 16:25:31.10 0
>中華の暗黒化は魏の仏教導入から
>始まっていたと考えたいのだ
魏に導入したと言うからにはそれを行なった人物
働きかけた人物は誰だ?
呉には康僧会がいて孫権がいた
北魏のように寇謙之が道教を崔浩と結んで、皇帝が信仰したみたいにな
魏にも康僧鎧等が無量寿経などを漢訳しています
しかしこれだけでは足りませんね、まあ大体私が知りたいのは
漢から五胡の間に何が変質したかなんですけど
私も五胡の乱さえなければこんなに仏教仏教いいませんでしたよ
五胡の乱なんか大したことではないと納得するために、仏教を持ち出したまでのことです
85 :
世界@名無史さん:2013/12/08(日) 19:45:22.09 0
やはり、五胡の話はタブーですか
でも西晋の話くらいならいいでしょう?
私は西晋の生み出そうとしていたものが知りたいのです
そしてそれは仏教を解読することにより得られるのではないかと考えたのです
あと後漢から三国時代は調子に乗りすぎという思いもあって
仏教でくさびを打とうとしたのです、時代そのものが面白くて
登場人物も好感が持てるのばかりで、その上学問芸術的にも
革新期(詩を新しくしたり、書道を生んだり、絵画まで生んだり)
だなどとあまりにも多くのことに首を突っ込みすぎだ
それでそれらの活動が活発化したのは仏教のおかげだと考えたいのです
三国志が面白いのは仏教という新しくそして高度な哲学の刺激を受けたおかげではないだろうかと
これは新手の釣りなんだ。たとえそうじゃなくても会話にならない。
だからもう絶対反応するなよ。
89 :
世界@名無史さん:2013/12/08(日) 23:30:11.79 0
宮城谷の三国志のあとがきで仏教について触れられてたけど
曹操親子は庇護するにいたらなかったとあるが別に弾圧したわけでもないんだよな
洛陽にいるから存在自体は両名ともしっるだろうし
魏書釈老志で奇跡見せて曹エイに塔の破壊をやめさせた人がいたんだよな
実際魏としては勢力が無いから放置したんだろうか?
>>87 ○○だと考えたいので現実もそうなれ、は一番やってはいけないこと
そういう妄想を並べたいなら自分のブログか日記帳でやってろ
まず史料的根拠があって証拠があって、考察に足るだけの材料がある結果として出た話でもないのに
学問板でする書き込みじゃねーよ
そもそもシナに哲学など存在するわけは無いだろ
シナには現実しかない、現実を超えた現実の背景たる世界などシナには無い
老荘を信奉するとは何ぞや、仏教を信仰するとは何ぞや
抽象的なものの見方をもっと深く勉強するべし
はあ、とりあえず仏典をもっと研究した方が良さそうですね
三国志の登場人物達がいかに仏教的原理で生きていたかを証明するために
94 :
世界@名無史さん:2013/12/12(木) 00:37:44.93 0
今残っている経典と訳が違ってるし
無理やり仏教と行動を結びつくてもろくになことにならんと思うがな
>>94に同意
戦いの記録の中に仏教の影響による行動を見つけるのは難しいだろう
おそらくこじつけにしかならないだろう
現代の日本人で仏教に傾倒してる人を見ても
説教が仏教の話ばかりだとか、お布施が莫大だとか、葬儀が特徴的だとか、
寺巡りが趣味とか、仏像の写真集を集めてるとか、
そういうレベルの行動以外では行動原理が仏教だと断定できることなんてほぼないしね
物証が少ない以上、影響が確認しやすいのは行動ではなく発言だと思う
手紙や詩や正史の中の言葉の中に
無常観や現世来世に代表されるような特徴的な仏教思想が確認できたら認めるしかない
曹ヒは怪異に興味を示していたそうですがそれに仏教の影響は?
取敢えず曹沖の話は仏典からのパクリだとかいうのを検証してみます
かんじざいぼさつ、ふかきはんにゃーはーらーみったーをぎょうじたまいしとき、ごうんはみなくうなりと
しょうけんしたまひ、いっさいのくやくをどしたまへり、しゃりしよ、
しきはくうにことならず、くうはしきにことならず、しきはすなわちこれくうなり、
くうはすなわちこれしきなり、じゅ、そう、ぎょう、しきもまたまたかくのごとし
魏晋の時代の雰囲気としてはアニメの新世界よりのEDが似ていると思います
年代設定も200年代だし意識していたのかな
根拠のない事いうアホはもう一生ROMってよ
本当に邪魔だ
雰囲気がどうとか言う奴は学術系の板に来るな
101 :
世界@名無史さん:2013/12/12(木) 20:45:23.26 0
正史と言っても
注が作られた劉宋時代には仏教が普及しているから…
102 :
世界@名無史さん:2013/12/12(木) 20:47:40.96 0
>>95 実際に仏教徒を利用した記述があるサク融や孫権をみても
仏教の考えと結びつけるのはきついもんな
NHK BSプレミアム 12月18日(水) 21:00-22:00
ザ・プロファイラー「誰かのために生き抜けるか〜諸葛孔明・天才軍師伝説の真実」
http://www4.nhk.or.jp/profiler/ 放送概要
戦国ロマン!
知略あふれる軍師・諸葛孔明は、なぜ才能を主君の夢のために捧げ尽くしたのか?自分の夢は何だったのか?
「三国志」の英雄の、はかなく美しく壮絶な生と死。
すべては、あの人の夢のため…。
「三国志」の華麗な軍師・諸葛孔明の知られざる実像に、大河ドラマ「軍師官兵衛」岡田准一と名優・石坂浩二が迫る。
この男に尽くしたい!…孔明を本気にさせた主君・劉備の人間的魅力とは?
「2つの桃で、強い武将を倒す」…謎の歌に隠された、弱者が強者を倒す孔明の秘策とは?
劉備の死後、託された夢を背負って、ボロボロになるまで戦い抜いた壮絶な最期とは?
人生を変える、出会いと感動の物語。
106 :
世界@名無史さん:2013/12/17(火) 01:21:55.35 0
仏教で言うなら蜀での普及がきになるな
正史は儒者の弟子の陳寿だからあまり期待できんもんな
ただ西域から来ることもあったし
後世だが峨眉山は活動がさかんだったしな
中国はキリスト教のように徹底して仏教化を進めなかったから
文明間の競争に敗れたのだ
108 :
世界@名無史さん:2013/12/28(土) 01:42:03.64 0
曹丕が導入した9品中正法の余韻のせいで
胥吏の世襲化を科挙が防ぐことはできなくなったって本当?
九品中正法以前から人材が官吏になるには
地元の名士の前で功を積んで推挙されるのが
近道だった時点で何とも言えんわ
110 :
世界@名無史さん:2013/12/28(土) 22:11:45.09 0
胥吏と官吏は別物だぞ…
九品中正法は官吏の登用法に関するものであって地元の推薦から中央政府主導の登用を狙ったもの
これは実際には果たせず地方有力豪族の貴族化を進めることとなったが
胥吏は地元民間人が無給で徴用されて仕事をするもので別物
官吏は異動があるが胥吏は地元の民間人を採用して再任が繰り返されるため
地元有力者がこのポストを押さえ続け給与が無い分庶民から賄賂を取り続けて憎まれた
なお中国では科挙の導入によって貴族階級は時間をかけて試験を通じて一掃され
皇帝による直接帝政とも呼ぶべき体制が確立されていくことになる
このため一貫して皇帝は強力な独裁者であり続けた
現代の独裁政権が国内に競合相手を持たず官僚を手足に絶対的な権限を振るうのと似た形式
そんな見飽きた説はいいから、新しい説を出してくれよ
114 :
世界@名無史さん:2014/01/16(木) 23:12:39.80 0
宮廷の諍い女見てたら
甄氏と二喬で三大美女とか
甄ケイが曹操の詩を読んでた
あと、周瑜云々
この時代あたりから女性に優しい時代になるけど
その功績は仏教に帰してもいいんじゃないかな
ローマ帝国でもキリスト教の初期の頃の熱心な信者は女が多かったっていうし
116 :
世界@名無史さん:2014/01/17(金) 06:27:54.08 0
この何でも仏教君はどうにかならんの?
本当に三国時代から少しずつ受容されているから余計に・・・
仏教って人の事はどうでもいいから修行しろっていうのが本懐じゃないの?
>>112 違う。
貴族階級は虐殺されたんだよ。農民反乱や安禄山の変などで。
>>116 昔の何でも曹操に結び付けられるよりましだろ
前スレの呉の奇襲さえ無ければ関羽の北伐は成功できたまで話を戻すか
女の知的水準の向上に仏教が一役買ってることは大いにありうるだろ
それが違うと思うなら別のイデオロギーを提示して見ろよ
>>120 奇襲w
そんな面白そうな流れあったのか見たかった
>>120 「北伐の成功」の定義次第かな
北伐の成功が荊州確保ってんならまあ可能性は半々くらい
前線を長江から漢水まで引き上げっていうならほぼ確定だろう
これ以上の戦果が出るとしたら呉の奇襲並の事件が魏に対して起こらないといかんな
魏諷のクーデター成功とか
関羽の軍は樊城で多少手こずってても包囲は完璧だったんだと
それが呉が裏切ったせいでおじゃん、撤退するはめになったんだと
これ魏書にちゃんと載ってる記述だからなしかも裴松之の註じゃなくて
呉が裏切る原因を作ったのは関羽なんだけどな。
樊城攻撃は守りの堅い襄陽を回避していきなり後方を攻撃して孤立させようという奇策
この奇策が一時的に成功したところで襄陽の攻略は容易ではないのに
無傷のままの襄陽が健在な点は無視されることが本当多いな
結局演義の脚色で樊城さえ落とせれば!ってイメージが固定化されてしまっているんだろうけど
呉から見れば荊州を返さないことがそもそも裏切りだと思うだろうな
128 :
世界@名無史さん:2014/01/18(土) 17:33:08.70 0
襄陽と樊城てセットみたいなもんだから
対岸である片方が落ちればやばいんじゃないの?
129 :
世界@名無史さん:2014/01/18(土) 17:36:11.68 0
>>126 近隣の城が落ちたことは
普通に考えれば士気が落ちるし
無傷だろうがあっさり降伏することも考えられると思うよ
>>129 希望的観測過ぎるだろ、城の規模が違い過ぎる
襄陽ってどれだけ人口いたと思ってるんだ
樊城まで攻撃に晒されてる時点で漢水の制水権って関羽側にありそうだけど
樊城解放後の魏軍ってどうやって漢水渡ったんだろう?
運河とかで他の河川から水軍引っ張ってきて普通に関羽側の水軍打ち破ったのか
適当な筏とかで渡れる程度だったのか、実は関羽は漢水の制水権を掌握できていなかったのか
>>126 襄陽は完全包囲状態で関羽撤退以後も包囲は継続されてた挙句
曹操が死ぬ頃になると完全に兵糧も尽き果てて曹仁の戦略判断で一回放棄されてる事忘れてる人も多いな
曹仁が後に取り返すまで、呉に占領されてたんだぞ
関羽が徐晃に普通に負けた事って、何故か無かった事にされる事が多いよね。
>>133 普通にではないだろ
お前も勘違いしてるよ
135 :
世界@名無史さん:2014/01/18(土) 22:06:05.26 0
そこは文ペイだろ
曹操は徐晃に命じて孫権の裏切り文を包囲されてる友軍にも、関羽軍にも矢文で打ち込んでる
ボロボロだった襄樊は「志氣百倍」といわれる程奮い立ち、これで完全に降伏による落城がなくったし
徐晃側も勝てるってことで燃えるだろう
>>134 ?
ああすまん、普通じゃなくて壊滅的大敗だった。
関羽軍は自ら入水自殺する者が多数いた程だったらしいからな。
>>137 普通じゃなくて孫権の裏切りを前提とした勝利だろ
矢文工作とかあるから徐晃も勝てた
それと徐晃伝の記録をそのまま信用もできないな
関羽はその後、軍をまとめて江陵に向かったけど
その時に襄陽の包囲は結局全く緩まなかったことから
包囲軍からそれほど引き抜いた様子がないと判断できる
>>138 矢文工作程度でボロボロにやられる関羽軍てどんだけ〜
あと孫権の裏切り自体関羽の行動が招いた自業自得だから擁護は不可能だよな
>>139 何の話をしてるんだ?
今って呉の裏切りがない、と言う前提になった場合
歴史がどう動くかってことを議論してるのに擁護とか、関羽が招いたとか
わけのわからん事言うなよ
矢文工作だけで勝敗が決するわけじゃないけどその後押しにはなってる
徐晃が近くにいても孫権の側面攻撃なければ
下手すると襄樊のどちらかが開城してしまう可能性も有り得たので
関羽が完全に後続分断されたという情報ってのは君の考える以上にでかいよ
141 :
世界@名無史さん:2014/01/18(土) 23:36:23.40 0
関羽も工作してあのへんの豪族や異民族を寝返らせていたから
樊城のほうが落ちた段階であれば、曹仁も死亡や捕虜になるか逃走しているあとになるということだし
襄陽も動揺して内通が出て終わる可能性も高いと思うわ
>>140 呉の裏切りがない、って前提があり得ないんだよ。
利害関係考えりゃすぐ分かると思うんだけどな。
と言うか関羽は呉の兵糧庫襲撃しなきゃならんほど切羽詰まってたんだから、孫権が動かない訳ないわな。
絶好の口実になるんだから。
あり得ないifを前提にするのは意味がない。
>>142-143 でも今やってるのは呉の裏切りがないって前提での話しなので
何でそういう話をしているところで間違った前提でのレスを繰り返した挙句
それを指摘されるとキレて前提が間違ってるって言い出すんだよ
最初から前提が違うって言えばいいのに
>>144 あぁすまん、それは悪かった。
そんな関羽側だけに都合の良すぎる話をしてるとは思わなかったんで勘違いしてたわ。
呉の奇襲ってタイミングは前後するかもしれないけど
それ以前の外交と相互不信の積み重ねでどう考えても避けようがない
ってのはのは俺もそう思う
けど、前提はそれがなければ、関羽はどうなったかということ
理解していただけたら君もこの思考実験に付き合わないか?
そういう話なら関羽が呉を意識して動くか違うかでまた変わってくるんで何とも言えないな。
不確定要素が多すぎる。
まぁ全てが上手くいって一時的に領有成功したとしても維持は出来ないんじゃないかと思うけど。
>>147 この当時の蜀は魏で言うところの新城郡を抑えているから
漢水で漢中と新城、襄樊が繋がった状態になってて
維持って相当平易になるはず
関羽が樊城を攻撃したのは暴動がそこで起こったからだとも
陳寿は書いている
そもそも呉は裏切ってない説
151 :
世界@名無史さん:2014/01/19(日) 11:12:59.06 0
たしか樊城で反乱がおきてそれを曹仁がすぐについて鎮圧したんだよな
だとすれば対岸の襄陽の状態も怪しいところだな…
この時、呉が北進したらどこまで行けたかな?
魏の勝利を知ってる後世の人間は後知恵で呉が余計なことしなければって思うけど
当時の人からしたら魏は相当動揺しており蜀が独り勝ちしかねない情勢に見えた
呉にとってその蜀軍を助けるような北進は論外だろう
呉が邪魔しなきゃ関羽が徐晃に勝てた、ってのも怪しいけどな
徐晃だって名将だし、蜀軍は連戦で疲労もあっただろう。兵糧庫襲った経緯から見ても余裕は無かった筈
>>154 徐晃は名将で北岸の包囲を解くことに成功した、としても
南岸は完全に制水権抑えてる蜀のものだし、制水権奪おうにもでかい水路ないから
史実でも関羽負けてさえ包囲継続されてるから呉が邪魔しなければ
そのまま漢中の劉備と襄陽包囲を継続してる関羽、孤立しないから裏切りもしない孟達の連携があって
結局曹操がどこへ行こうと、曹操の居ないところへ攻撃されて、魏は前線を後退させることになるだろう
ロジスティクが持ちません
本格的に動員をかければ魏のほうが圧倒的なのであって
襄陽確保するには魏が諦めてくれないといけない
漢中と違って中原に近い襄陽を諦めるとは思えないのでどうやってもいずれは奪回される
当時は呉も蜀も数万レベルの動員がせいぜいだったのに洪水と失策が重なり3万を一気に
失った直後に逆襲に転じられる魏の国力は圧倒的すぎる
中原に近いって、南陽盆地越えて来ないといかんのにか?
3万失った直後に逆襲はできとらんよ
あくまでも呉の助勢があった上に、曹操が直属の軍を大いに割いてやっとできたことだ
>>153 無理があるな
関羽の北上一つで魏より脅威になるとでも思ってんのかよ
関羽の北上は後詰が無いから厳しいだろうね。単発ではいずれ国力に勝る魏に押し返される
漢水の制水権ちゃんと維持できれば、史実で長江を盾に呉が数十年守られたように
関羽も襄陽を守れる可能性ぐらいはあるんじゃなかろうか
>>162 孟達らがその後詰になるんだよ
もう少し時間あれば何とかなった
だからこそ孫権のここぞという裏切りの見極めは素晴らしかった
漢水で襄陽と連携とかお花畑すぎて笑えるw
ゲームのやりすぎだろ
ある程度侵攻が成功すれば曹操側がぐちゃぐちゃになる可能性はあったと思うよ
前線ではない宛や本拠の許・ギョウで反乱起こるくらいだし
速攻で鎮圧されてるじゃん
>>165 いや実際劉備は孟達、劉封に漢水沿いを攻略させてるんだが
それも関羽の北上以前に
>>168 意味不明
孟達は宜都郡(孟達が太守)からおそらくキシ郡(の山中を通って房陵・上庸を攻め取ってる。
資治通鑑を信じるなら、その兵力は4000。少なくはないが、多くもない。
(この4000という数は劉璋が「遣法正将四千人迎先主,前後賂遺以巨億計」劉備の益州入りにあたって荊州に差し向けた兵の数と一致するので正確だろう)
これで二郡を完全制圧するなんて大したものだ。
劉封は漢中攻めに参加しているので、漢中占領後におそらく手勢を持たず(漢中に軍用の船などないし、漢中から上庸への兵站計画も存在しえない)孟達軍に「上から落下傘」している。
なのでこの時点で「漢水の連携」など存在しない。
上庸と房陵は「漢水沿い」だし、その延長線上に漢中も存在する。
おそらく計画では時間をかけて整備していくつもりだったのであろう。
しかし、219年にこれらの拠点はリンクしていない。物理的に無理。
ぼくが かんがえた りゅうびぐん の だいしんげき
作戦の目的 漢中と襄陽を奪取することで既存の勢力圏の安全を保つことを目的とするとともに、
中原への攻撃拠点を確保すること=防衛から侵攻へ体制を変換したいと思います。
同時に漢中と襄陽を(第一次対魏攻撃の)攻勢限界線とみなし、
その保全のために漢水を利用した物理的防衛ラインを構築するために、その中間地点である房陵・上庸を奪取します。
@漢中を取ります
取りましたか? YES/NO
YES!
↓
A孟達を上庸・房陵へ進撃させます
取りましたか? YES
↓
B(イベント)孟達は新参者でイマイチ信用できないので養子の劉封を上官として派遣します
↓
C関羽に襄陽・樊城を奪わせます
↓
取りましたか? NO
↓
D(イベント)関羽が孟達に援軍を求めましたが無理なので拒否されました
↓
E(イベント)関羽の本拠地が呉に奪われました
↓
F関羽軍は退却中に瓦解しました
GAME OVER
つまり呉関係なく関羽は去る運命と
呉はそれを縮める手助けと
>>169 >>164でももう少し時間があれば、って書いた通り
問題があったというのは俺もわかってる
ただし、孟達と劉封に関羽の援護が可能という認識は劉備が示した通り
物理的に無理というほどではない
んなのいくら時間があっても足りんわ
せやろか?
>>173 という事は劉備の支持が間違ってた、ということでおk?
せやせや
>>172 孟達が増援に物理的に可能かどうかという話をすれば可能だろう。
だが、二郡をたった4000で抑えている孟達が増援の余裕はどれだけあっただろうか?
房陵は孟達が元の房陵太守?祺を殺してはいるが、劉備が任命した新太守のトウホや南郷太守の郭睦もまだ着任していない。
そして上庸にはの申耽・申儀兄弟が一応降伏しているが力を残しているのは明らか。
この状態で4000の内どれだけを増援として繰り出せるだろうか?
各郡に1000を残すなら増援には2000しか出せない。
関羽軍推定30000に対して2000はどれほどの意味があろうだろうかね。
そもそもこの4000の軍は孟達子飼いの軍なので劉封には指揮が不可能。
留守番となるであろう劉封は、敵対する同僚の兵を1000だか2000だか預かって任務責任を果たせると考えないだろう。
孟達は軍の指揮者としてこう考えるだろう
「自分の任務は房陵・上庸の掌握で成功したのに、計画外の軍事行動でフイにしてたまるか」と。
孟達はとうぜん節鉞などは持っていないが、この当時の知識人の常識として
「一旦軍を預かって外に出たならば王命といえども違えることがある」
という指揮者として当たり前の原理原則が「増援拒否」という判断の後ろにあったはず。
孟達を監軍する役の劉封もたまったものではなかっただろう。
孟達が気前よく兵を残してくれるとは限らないし、増援として意味のない兵力を差し向けても意味がない(どころか自分のせいにされる恐れまである)。
以上の理由から孟達に増援を要求したのが関羽だとすると(俺は情況証拠から関羽説を取る)、孟達の任務を理解しておらず、かなり利己的な話といえる。
もし仮に劉備が命令してそれを拒否したとすると、孟達と劉封は正史に描かれている「曖昧な立場」で収まるわけがなく、命令拒否の時点で明確に処分の対象となっていたと思う。
荊州では関羽も命令権者という事忘れてるな
「A>B>C」という序列があったとして
A→B
A→C
Aから上のように命令が下ったとする
A→CにおいてCは完了
A→BにおいてBはその途上
Bは「B>C」という事実を基に
B→C
という新たな命令をCに対して発するが
Cはより上位の「A→C」命令の保全を優先してこれを拒否した
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういう風にみると劉備・関羽・孟達の行動に矛盾はない
だが劉備はBに当たる関羽の命令を聞かなかった事で怒ったよな
註と原文は区別してくれよ
日中戦争を見てると日本はほんの数年で華北とそれ以上の領土を確保している
結論、華北支配は容易、曹操は大したことない
それを安定化させたのとゲリラの巣だったのとで雲泥の差なんだが
>>182 劉封が魏でいう新城郡の統治に失敗して戻ると関羽助けなかったし、ここでも失敗しやがって
ということで処刑されてるってのは本文の出来事だよ
ああ劉封に対してね、関羽にかと思ったよ
>>185 更にアメリカとも戦ってたからな
話がずれてるよ、呉が裏切らなけりゃの話だろ
呉の裏切りについても関羽が100パー悪いことになってるが
ここで陳寿の記述とて完全に信頼できないカードを切ってもいいとおもうが
呉からすれば、蜀は赤壁と周喩の病を利用して荊州を奪い、益州取ったら返すと言っていたくせに返さない屑
蜀からすれば、呉は蜀が自力で勝ち取り、劉表の息子から受け継いだはずの荊州に意味不明な所有権を主張する屑
蜀が弱小の身だから仕方なく脅迫に屈したふりをしただけなのに何勘違いしてんだ?それより倒さなきゃならない敵は曹操だから同盟してんだろ、と
>>189 その後、正式に涼州取ったら返却するということが
口約束ではなく条約で確定してるし、呉もそれで納得してるから
返さないクズ、という批判は間違ってるけどな
孫権はあれでも群雄割拠の時代を勝ち残ってきた男だからな
自国の領土が脅かされても黙って見てるようなお人好しだったら、とっくに消えてるだろう
呉は裏切ってない
当然な主張し関羽が傲慢だったから自業自得だった
へ?
関羽っていくつで死んだの?
178年3月に関平が生まれたとか、そのへんから換算してみれば
民間伝承の関平の生年なんかよりは
関羽の活躍時期から考えた方が正史スレとしてまだマシだと思うが
いや正確な没年齢が知りたいわけじゃない
だいたいの年齢でいいよ
死ぬ頃の肉体的な衰え具合を想像したいだけだから
だいたいの年齢と言ったって
正史からは劉備の生年±5かそれ以上の幅がある
としか言いようがない
50~60辺りだろ
そんな長生きだったのか?
まあ現代でもいくら鍛練してても45すぎたら肉体的にはポンコツもいいとこだからな
そりゃ老害もいいとこだな
肉体的に衰えてくると内面も変化するから自尊心ばかり肥大したただの嫌なゲスジジイだったんだろうな
呂岱なんて90近くまで現役ですがな
蜀でも80近い人が愚痴ってるし
食糧事情や医療がわるかったろうによくそんな生きてたな
うそくせえよな
207 :
世界@名無史さん:2014/02/03(月) 23:55:06.60 0
だって身分高いし
大将軍だしな
208 :
世界@名無史さん:2014/02/04(火) 07:54:13.87 0
成年後寿命なんて結構高いものだよ。ゾロアスターの時代でさえ80歳まで生きることを
前提に話をしてるし
曹操の一族がそうだったように若死にする奴も多いけど
長生きする奴も多いんだよなあ
司馬懿の一族みたいに
210 :
世界@名無史さん:2014/02/04(火) 20:11:52.63 0
そういや三国では宦官の状態やその養子制度とかどうなってんの?
蜀の黄コウだって、前漢の石顕のように気に入られて政治にも口は出していたけど
逆に言えばその程度と言えるし、彼個人にとどまり宦官全体のことでもないし…
後漢唐明において酷いというのは聞くけど三国では全体としてどんな状態なの?
蜀以外はたまに宦官の記述がちらほらある程度で大した影響力は持たなかったんだろう
呉についてはよく知らないが
曹丕は彼の政治的傾向から言っておそらくそういう権力の腐敗に繋がるものは抑えた
代わりに中書省が強くなってそれは明帝期に臣下から不満が出るほどになったけど、深刻な対立となるほどじゃない
明帝期が終わると司馬懿と曹爽の政争から司馬一族の執権に移行していくからこれまた宦官が出張る余地が乏しい
呉は谷利が宦官かもしれないとどこかで読んだけど
どうなんだろ
>>203 アンチ関羽とかまだ生きてたんだな
三戦帰って盛り上げてこいよ
>>203みたいなのが暴れ続けた結果三戦は廃墟になったんだから
戻ったところで何の足しにもならないよ
>>213 2日も前のレスにわざわざ噛み付くなんて三戦でよっぽど虐められたんだね可哀想に
よしよし
即レスワロタ
三戦で物足らず中英でも暴れだす関羽厨
流れを切ってすまんが関羽云々書いたのは俺w
なんか思い入れの強い人がいるんだなぁwキモイw
関羽信者に三戦の名前はタブーだからなぁ
あっちに居場所がなくなって中英や学問板にまで出張して暴れてるのは知ってたけど
流れ切ってあれだけど質問。
義兄弟になる場合は、やはり年齢で兄か弟かが決まるんでしょうか?
地位などは関係しないのかな、と。
ID出ない板で荒れる話題出すな
見ろよこの自演連レスの嵐
いや、別にいいだろ
ずっこけ三人組
正史で義兄弟って誰々がいたっけ
劉備と孫権かな
馬騰と韓遂
どっちも生年が分からんが、韓遂が年上なような気はする
韓遂が反乱起こした時(洛陽で官僚経験有り)、馬騰はいち義勇兵だったし
どっちが義兄で義弟かとかは更に分からん
しかし近代の中国人みてるとどうせこいつらもろくなもんじゃなかったんだろうな
世界から見たらハラキリ・カミカゼのジャパニーズもろくなもんじゃないぜ
列強国側のほうがやることがえげつないうえにゲスくね?
ウイルヘルム二世なんて大馬鹿じゃん
すげーあほな返しだな
おたがいさま
いや俺第三者だから
神風が取り上げられるのって単に航空機だからだよな
100%死ぬ突撃くらい陸なら腐るほどあるのに
空軍だけ目立ってずるい
あるじゃん 玉砕
山本をはじめ海軍の上層部がアホマヌケぞろいとしかいいようがないのに大陸の陸軍強かったからな
岡村とかモンゴルや金門行った根本とかの話とかフツーにスゲーだろ
日本人には知名度ないけど
>>228 総力戦だったし勝ったほうはなんとでもいえるからな
アメ公だって病院船や商船沈めたり国際法破りまくりだろ
さんざん略奪や強姦、リンチやってといて綺麗事ならべてなかったことにしてるだけ
おまけに大統領は人種差別者だし
あんなんヒットラーやスターリンと大差ねえ
まだまだ日米の交流少なくて得体のしれないサルが飛行機で体当たりしてくるような時代にしては
すげえ分別のある行動してたと思うがな
同じだけ危険なモノを持たせるなら当時の日本、ドイツ、ソ連なんかよりはアメリカの方がまだマシ
2chの各所でアメ叩き増えたね
叩かれるような国だししゃーないだろ
基本あいつらバカだし
今までは何をいわれてもケツを舐めてたのにね
まあ2で吠えてるくらいならいいじゃんよ
昔は板垣大隈みたいにいきなりアメ公に戦争ふっかける馬鹿政治家もいたんだから
ネットに限らずほとんどの国で不満のぶつけ先は1位自国政府2位アメリカなんじゃね
それだけアメリカが世界に及ぼしてる影響は大きいってことだな
でもアメリカって好きですか?って言われて臆面もなく好き!
といってくれる人ってアメリカ人とカナダ人くらいしかいなさそうだが
(カナダ人が好きなのかはしらんけど)
まあ中共よりは嫌いじゃないよw
中共といえば大虐殺でおなじみだけど考えてみたら中国では昔からやってるな
京観とか聞くと喜びそうだね君
ヨーロッパの方が殺しまくってるよ
中国は兵士だけだが西洋は一般人も殺りまくり
確か司馬懿の京観は民間人も入ってるな
15歳以上の男子全員だね
戦後だけでも米国が空爆した国は20ヵ国以上
東西両陣営いずれの軍事同盟にも直接属さない国の場合、
実に3割近い国が米国の攻撃を受けた計算になる
また反体制派への武器援助による介入を含めると中立国の約半数が米国に攻撃を受けた経験がある
この好戦性は他に比較するものがない
アメリカは国じゃないビジネスなんだよ
252 :
世界@名無史さん:2014/02/17(月) 21:21:57.96 0
趙雲って老将のイメージが強いよね。
歳とった後しか記録が無い人物ではないから
単なる思い込みだろう
ぐわんゆうは晩年どんな髪型してたんだろうな?
ハゲだろな
ぐわんゆうって誰?
曹操はチビハゲデブの三重苦
まともな話題ふっても嫌蜀厨の発狂で終わるんだからもうやめようぜ
そもそもここは数少ない蜀ファンの牙城だったのにな
いつからこうなっちまったんだか、患者と呉キ゚ブリは三でホルホルしてろ
という釣りでした
テへ ごめんな
きっとあの人のことなんだな
でも俺は悪くない
ほんとにしらなかったからきいただけなんよ
>>258 三戦行くとこういうのゴロゴロいるから怖い
俺、メガネッコはいまいちダメなんだよね
だから劉備とかカクとかダメ
カコウエンとかわりと好きだけどしゃべり方が変だよねあれ
そもそも易姓革命上等な中国で何故長らく蜀漢正当論が受け入れられてきたのだろうか
その後の分裂時代が長すぎたとは言え曹操は異民族をよく抑え、
後の東晋の地盤は江南だったし蜀漢を特別持ち上げる理由に乏しい
その後支配層が漢民族でなくなったからじゃね
そのすぐ後の僭主の石ロクですら、曹操と司馬懿はクソとか言われてたしなあ
>>262 誰でも易姓革命していいという思想じゃないからな
誰もが認める=天下を統一する君主が易姓革命の権利を持ってる
それ以外は本当の意味では正統として認められないから正閏論が色んな時代で起こってる
強くても正統として認められない以上、以前からの王朝の方が正統ということになるから
266 :
世界@名無史さん:2014/02/19(水) 20:35:09.36 0
正統論なら北朝の流れで来る唐も南朝との正統論で議論してたからね
267 :
世界@名無史さん:2014/02/19(水) 20:41:23.38 0
司馬家は天下統一して魏は統一してないからね
魏書で僭晋とかつけて元帝は司馬家の人間ではなく牛金の子どもにして正統の晋の血筋のものではないとしてるね
正史三国志も魏書みたいに、島夷孫権伝やら僭漢劉備伝にすれば勘違いする人も少なかっただろうなw
268 :
世界@名無史さん:2014/02/19(水) 22:50:06.86 0
>>262 漢の命脈が尽きたとは考えなかった人が多かったからだろう
前漢後漢の400年にはそれだけの重みがあったということなのだろう
匈奴の劉淵が弟として漢を復興しようとしてたくらいだしな
劉裕が漢の復興を全く押し出さなかったのはなぜだろう
プロパガンダのメリットがなかったから
劉知遠ですら漢を名乗ったというのに
ていうか劉備一派なんて所詮コジキみたいなゴロツキ集団で正当性なんて無いに等しいんじゃね?
基本はいじきたない利己主義であちこちフラフラ放浪しながらシノギをさがしてたただのヤグザ
おう三戦っぽくていいぞそのノリ
あと諸葛亮
こいつもろくでもねえ
自らはなんもせず呉をそそのかして曹操と争わせるってまんま毛沢東だろw
人材のないのに内部で粛正なんかして自分に権力集中させることに成功してるし
やだやだなにが出師の表だよwwwキモッ
275 :
世界@名無史さん:2014/02/20(木) 20:59:02.58 0
>>269 劉宋下で書かれた正史後漢書で我らが聖漢とか書いてあるから
漢の意識はあったと思われる
>>274 「泣いて馬謖を斬る」
「死せる孔明、生せる仲達を走らす」
と名言を作っただけ
まあこれ書いた奴が
おまえんところ良く書いてやるから米よこせや→キィー!断りやがった!じゃあいいやおまえんとこ無視な!
諸葛亮てめーは俺の身内ころしやがってゆるさねー!悪口書いてやる!
とかいうとても品格のあるお人だからな
なんでや三顧の礼と七縦七禽もあるやろが!
諸葛亮の人狩りだな
素性のあやしいゴロツキが成り上がると劉備のように綺麗事並べ立てたがるんだよな
その人の姓は朱っていうんじゃないですかねぇ
素性のあやしいとか曹操の親父のことそこまで悪く言うなよ
誰だって寄って立つ権威がしっかりしてなかったら
万人受けを狙うしかないだろ
自分たちが私欲が強く自分に不利益な約束を守らない人種だから綺麗事にあこがれるのか… と一瞬思ったがそんな奴らばっかの社会じゃそれが普通だからそんな内省的なこと考えるわきゃねーなw
285 :
世界@名無史さん:2014/02/27(木) 03:41:13.65 0
戦前から生息してた赤が終戦時から徐々に日本を侵食し角栄くわえこんだあたりから自民にも中華様が入り込んで今に至るんだよなあ
もう日本だめじゃね?
右を見ても左をみても赤ばかりな米の飼い犬
米がやだからって中華様に近づいてなんとかなるとでも思ったのか
チョンと同じことしてどうなるよ
まあ もう手遅れだな…
スタグフレーション突入w日本崩壊のはじまりw劉備?どうでもええw中共が攻めてくるw
蜀嫌いだの右だの頭悪い発言だな。
>>275 劉裕とその後(特に文帝期)は分けるべきだろう。禅譲した後に
王莽魏晉桓玄もしなかった先王朝の皇帝を殺害したように劉裕は礼教軽視
の傾向がつよい。
291 :
世界@名無史さん:2014/03/01(土) 23:43:45.23 0
>>290 それは劉裕と言うより時代の流れじゃないかな?
蕭衍ですら南斉の和帝殺してるしな
のち仏教狂いになったとはいえ、初期は蕭衍は礼教重視だろう
それ自身劉裕からの流れに乗ったと言えるかもしれないけど…
王莽魏晉桓玄はしなかったが劉裕以降は北宋以前まで殺しつづけるわけだし
単に礼教とかそういうわけでもないでしょう
古代からの話だけどコン刑が屈辱的な意味を持ったり、
華佗伝とかで体を傷つけることを避けたりしてることから考えて古代中国では髪って全く切らなかったの?
あと司馬炎の髪が長いからすごいよって話は、
みんな髪は伸ばしてるけどそこまで普通いかないからすごいって理解で大丈夫?
>>292 儒教で「身体髪膚」を傷つけないことが孝行の始まりとしてるからでは?
294 :
世界@名無史さん:2014/03/02(日) 11:22:38.40 0
宮刑に処せられたあとの司馬遷は実際に宦官の仕事に就いたの?
>>294 当時は宦官の官職だった中書令になっているよ
>>296 そう思うのなら永遠と回線切れよ
ネットやるんじゃねぇよ
蜀好きは陰険なネクラでok?
はあ?お前らが回線切れよ、嫌蜀厨は現実にゴロゴロいるが
(本よみゃ分かる患者ばっかりw)まっとうな三国志ファンは少ないからな
その数少ない三国志ファンとの交流を楽しみにしてるんでね
お前ら池沼患者こそ、だから三行けって言ってるだろ
お仲間がゴロゴロいるだろw
しかし、どうして三国志の研究家は患者が多いんだろうな
研究家レベルになるとどの陣営云々とか言う人皆無だぞ?
というより史料少ないからどこも満遍なく愛してないと研究捗らないねん
俺は蜀っていうか中国人が嫌い
だから中国人が殺し合う三国志は好きだよ
蜀好きな奴に偏屈な奴がいるとわかった
どうでもいいけど
>>302の似非関西弁が気になる
2chで似非関西弁とか今更過ぎる
>〜ないねん
ドイツ語とかフィンランド語なのかもしれない
アホネンというジャンプの選手がフィンランドに居たな
コスイネンとカタイネンもな
そうマイナーな人物あげても
ライコネンというF-1ドライバーがいるではないか
すまん、ハッキネンを忘れてた
エノッピドゥー、なのねん
パンおいしいねん
魏@王道
呉@マニアック
蜀@マンネリ
316 :
世界@名無史さん:2014/03/17(月) 23:08:53.01 0
魏 AKB
呉 SKE
蜀 乃木坂
魏「ブライアント(近鉄)」
呉「デストラーデ(西武)」
蜀「ディアズ(ロッテ)」
ギャンブル三国志
魏/競馬
呉/カジノ
蜀/パチンコ
もうネタはいいから
マジネタがないから仕方ない
ガチで研究のためで結論出るまであんま外に出したくないネタと
もうどうでもいい語り尽くされたネタしかないので誰かの話題に乗っかるしかない俺
凄い分かる
ほんとにちゃんと独自な考えを持ってることはあんまここで言いたくないんだよな
中華土人は殺しあって滅亡したらいい
世界のために
曹操は徐州の民を大量虐殺した英雄
呂蒙は関羽を斬った英雄
周瑜は曹操の兵を焼き払った英雄
陸遜は劉備の兵を焼き払った英雄
蜀には英雄いないなw
質問なんだけど曹丕の「文章は経国の大業」って言葉
この場合の文章っていうのは現代的な意味の文章と変わりないの?
文章=今で言う文系全般
法律、経済、勿論文学も含まれる
もし三国志の人物に仕えるなら誰がいい? 君主以外でもいい。
おれはやっぱり魯粛かな。関係ないが孫権とかがゲーム上の能力高いのには
納得いかないのだが。
すまん
そういうのはここじゃなくて三戦板行ってやってくれ
いいじゃん別に過疎ってるんだし。
三戦板の方が過疎ってるここでやるよりもあなたとお友達になれそうな方が多いですよ
三戦版?ああっ、誰も寄り付かない化石なってるあの板かw
関羽信者とかいうのが荒らしまくったせいで、まともに議論できる人がほとんど逃げちゃったからな…
>>332 長年、気に入らん人様に曹操何ちゃらと難癖付けてたしね
こんな事が続いちゃったから人がいなくなって当たり前
今はコテ馴れ合い板になってるし
一応三戦板も細々とまともな議論してるスレもあるが活発とは到底言い難いからな
10年くらい前の勢い有った時期からは隔世の感がある
まともかねぇ
ジキル博士とハイド氏のハイド氏が眠ってる間程度にはまとも
微妙すぎるw
袁術の再評価が一時流行ってたけど、今どういう評価で落ち着いたんだろうか
忍者もIDもない三戦はやりたい放題だが過疎
ここも過疎
袁術みたいなネタキャラ枠からの再評価とかだと良いんだけど
人気や知名度ある人物だとちゃんと正史の文章引用しつつ批評しても
○○信者とか○○厨とかアンチ○○言われて磨り減るからもう三戦板からは俺撤退してるなぁ
曹操を戦争屋、政治は微妙なところも多いって言った時は本当に変なの次から次へと沸いてきたし
三戦板はポケモン板のようなキャラ萌え板
ピカチュウはネズミだから〜と生物学的な引用をしたところで受け入れられないように
史実の引用は受け入れられない
まあ実際のポケモン板はピカチュウ萌えーかわいいみたいなところじゃないんだけど
まあ、劉備ってドブネズミみたいなもんだよな
キャラ的には
え、てっきり手長猿か、兎かと
三国志ライターで劉備をラオウみたいな奴って言ってるのがいたな
なぜだか佐村河内と劉備が被る
関羽はうなぎ犬
劉備「陳寿よ、ねつ造してまで俺を美化して書いてくれ」
陳寿「しかたねー」
第三者「(゚д゚) ポカーン」
劉備
161-223
陳寿
233-297
ゴーストライター劉備
陸遜が夷陵の戦い直前に揚州牧別駕従事になってるから
開戦当初は揚州にいたんだってレスを三戦で見てぶっとんだ
意外と三戦もあなどれねぇな
されど三戦
発想だけは面白いけど揚州にいるってありえないだろ
やっぱ三戦はレベル低い
355 :
世界@名無史さん:2014/05/01(木) 16:15:35.41 0
>>339−340
ここが過疎なのはまぁどうでもいいとして
三戦も過疎っぷりって最近どうなのかな、どんどん酷くなってるのか持ち直してるのか
>>355 どーでもいいよ、三戦なんて
とっとと閉鎖してしまえ
張飛ってどんなやつだったのかな
関羽はイメージできるけど張飛はよくわからん
>>357 酒呑み、豪傑、激情、戦術的な駆け引きは得意、御徒
酒飲みは違うんじゃ?
酒豪ときたら孫権だろう
酒豪っていくらか飲んでも潰れない人の事じゃないの?
孫権は酔った勢いで問題起こしまくってるだろ
酒乱
いくら飲んでも酔い潰れなかった人物というと、盧植や華歆だな。
>>332 そこからの流れを見ても分かる通りや最初に攻撃をしてきたのはお前らだろクランケ
クズみたいな曹操患者が跋扈したせいで皆もう嫌になって
善良な蜀ファンが消えたんだよ、だから三戦は衰退したんだ
正統な三国志ファン=蜀ファンだからな」
あといったいいつになったら患者の精神疾患被害妄想は続くんだろうな
魯迅や毛沢東も再評価したし本場の中国じゃもうどうとも思われてねえよ
あと三国志の話題がつきるのは君主の大半がクズばかりだからだろ
名君ばかりの日本の戦国時代と違ってな
唐卓は暴虐さだけが取り柄のデブ呂布は筋肉馬鹿袁術はただのバカ袁紹劉表はボンクラ呉の三傑論外
こんな連中を相手にしてるんだから曹操も孫氏も活躍できたんだろ
まあ家康が鼻削ぎ、耳削ぎをやりまくりだった話とかはほとんどの人が知らないからな。
歴女とか言われるライトな歴史好きもそういう話題より忠勝わっしょいだから。
368 :
世界@名無史さん:2014/06/18(水) 00:10:08.13 0
三国文化のバトンを持たずに疾走した有能なランナー宮城谷氏について
http://togetter.com/li/679947 にゃも @AkaNisin 2014-06-11 07:44:48
@Hiro_Satoh へー...宮城谷さんはあまり三国志に詳しい方ではないのでしょうか?
にゃも @AkaNisin 2014-06-11 08:24:56
@Hiro_Satoh よくいる歴史好きのおじいちゃんですね
にゃも @AkaNisin 2014-06-11 08:36:30
@TAKEUTIMasahiko 宮城谷の名前を貼っとけば、とりあえずファンには売れるという程度の作品なのですか..
にゃも @AkaNisin 2014-06-13 14:13:23
@Hiro_Satoh 僕も『三国志読本』を読みました。感想はひろおさんと同じであります。
それと、本作にように歴史をひたすらに追求するのならば、宮城谷さんは勉強不足だとも感じました「
このスレの住人もこんな意見
>>364-366の異常な文章見ればどっちがおかしいかなんて一目瞭然なんだけどなw
完全に狂っちゃってるよ関羽信者ってやつはw
だからそうやって攻撃を仕掛けてきたのはお前らだろっての
いい加減クランケは三逝け三
家康は260年の天下泰平を実現させた男だぞ
数十年しかもたなかった国を作った連中と違ってな
残虐さなら曹操の徐州大虐殺も患者は華麗にスルーしてるしな
家康の耳削ぎなんて信憑性のない資料なんか信用できるかよ
そもそも何で急に家康が出てきたのか
意味不明すぎる
三国志クイズ
三国時代の君主の中で「封禅の儀」を行った人物は誰でしょうか。
資料を見ずに正解できたら立派なマニア。
たぶん呉の君主だろうなと見当をつけて調べたら孫晧だった
江南の神秘主義流行の芽はこの頃から出始めていたのか、ちょっと勉強になったわ
375 :
世界@名無史さん:2014/06/19(木) 15:45:57.06 0
孫晧の酷刑て陳寿が現役で活動していた時だから全部、本当なのかね?
陳寿はどうも呉の君主への評価が厳しいんだが。
碁が嫌いだったっぽい
曹叡は封禅にびびってたね
魏の正当性に疑ってたところがあったんだろうか
>>377 漢の武帝は南越などを平定してからやっと行ったことだからな
蜀も呉もあるうちからやるってのは抵抗あるんだろ
>>364 >正統な三国志ファン=蜀ファン
釣れますか?
380 :
世界@名無史さん:2014/06/22(日) 00:20:14.53 0
今もパチンコにはNAOMI2姐さん使われてるの?
丹陽兵って屈強なことに定評があるけどどのくらい強かったんだろう?
楽々とトイレットペーパーを破るぐらいじゃね?
それは凄いね
384 :
世界@名無史さん:2014/07/07(月) 21:12:07.20 0
孫堅は正史読んでるとほぼ完璧超人じゃね
どこが
あいつは性格悪いって書いてあるだろ
完璧超人ってネプチューンキングとか性格悪いの多かったからいんじゃね?
>>376 蜀の遺臣って呉嫌いが多いからな。
まあ蜀をデスるわけにもいかんし、再就職先の魏を叩くのはもっといかんから仕方ないのかもしれんが。
あとハイエナにきたのを死ぬほど恨んでいるっぽい。
日本でいえばアレだけ日本に最低な事やったアメリカよりも、
ハイエナに来たソ連を嫌うようなものではないかと思う。
ソ連の場合は、アメリカに頼まれて参戦したんだけどな。
スターリンはソ連海軍しょぼいし、ノモンハンでかなり苦戦したのもあって日本軍と戦いたくなかったようだし。
呉は蜀の滅亡を防ぐために牽制の軍を出したりしてるのに、逆怨みもいいとこだな
蜀が呉の為にやった事って何かあるか?
蜀目線で行くと呉は魏を叩くチャンスなのにやる気ない出兵して負けてすぐ帰るザコな印象
呉の永安攻めは蜀滅亡後じゃないか。そもそも
ソ連とやってること同じ
ま 所詮中国人のやることだからなw
394 :
世界@名無史さん:2014/08/12(火) 23:03:15.62 0
白帝城は山城?都市?
395 :
世界@名無史さん:2014/08/12(火) 23:18:26.03 0
劉備は、兵法を知らぬ。七百里にわたって点々と陣営を張るとは、分散された兵力でいざというときどう対処するというのか。
怒りで一気に滅ぼすには呉の本拠は内陸すぎたな
最前線に呂蒙が出てきてて、呂蒙を撃ち取れたら
まあ目的は果たしたで帰れたかもしれんが
つくづく運命のいたずらやな
397 :
世界@名無史さん:2014/08/13(水) 21:55:43.56 0
孔明が出陣しなかったのはなぜ?
天才軍師諸葛亮なら、もう劉備が攻め入って負けるのは分かってるから、
負けるならせめて損害を少なくしようと立ちまわったから
正史なら軍事の責任者じゃなかったからじゃないの
399 :
世界@名無史さん:2014/08/15(金) 01:08:03.67 0
公孫讃と遼東公孫氏は親戚なのですか?
親戚ではありません
401 :
世界@名無史さん:2014/08/15(金) 06:22:09.30 0
日本では古代に導入された弩が廃れた。
製造技術までは習得できなかったせいか?
402 :
世界@名無史さん:2014/08/15(金) 06:23:40.63 0
方天画戟も青龍堰月刀も日本に伝わっていないのは、原料の鉄が少ない砂鉄だけだったからか?
403 :
世界@名無史さん:2014/08/15(金) 06:24:57.33 0
木牛流馬は猫車。
>>401 弩をくみたてるより和弓を馬鹿力でひくほうが楽でしょうが
405 :
世界@名無史さん:2014/08/15(金) 14:41:47.53 0
>>401 鎌倉武士は大集団による戦闘を基本的にしなかったから複雑な兵器を使わない。
406 :
世界@名無史さん:2014/08/15(金) 14:43:46.38 0
>>402 2つとも明代の兵器。平地での騎馬戦に向いてる。
日本には騎馬戦がなかったから。
戦車戦もないしな
408 :
世界@名無史さん:2014/08/16(土) 19:17:33.90 0
平地が狭いから。
409 :
世界@名無史さん:2014/08/17(日) 14:51:28.81 0
曹操の死因は脳梗塞でしょうか?
410 :
世界@名無史さん:2014/08/17(日) 15:06:20.50 0
脳腫瘍じゃないかと個人的に思うけど。
癲癇のような症状があったんじゃないかな。
カエサルやアレキサンダーと同じ感じ
肺結核という説もあった
210年後半は流行り病で七子の何人かも亡くなっていること、虎痴が血を吐いたことから、頭痛の悪化と流行り病の併発とかね
412 :
世界@名無史さん:2014/08/18(月) 02:56:56.18 0
古代には中国にも華陀の外科手術があったのに曹操に殺されて消滅したのですか?
413 :
世界@名無史さん:2014/08/18(月) 06:09:50.77 0
なかったのに、あったことになってんだろ
妖怪とか魑魅魍魎の類
414 :
世界@名無史さん:2014/08/18(月) 17:30:30.86 0
呉は倭と政治関係があったのですか?
415 :
世界@名無史さん:2014/08/18(月) 20:11:40.68 0
倭は呉のほうには使者を送らなかったのですか?
質問なんだけどさ
日本の武士の場合は軍事教練的な側面があるのは有名だけど
三国志の時代の中国もそうなのかな?
とりあえず曹丕が叩かれまくってたのは知ってるけど
つか何だ、この流れ
三国志関連のスレや板なんて夏休み中一番触れちゃいけないところだろ
9月までほっとけよ
>>415 三国時代の呉(江南)は隋唐以後の江南と違って
中原より経済も文化も下の後進地域だぜ
そんな所に使者を送らねえよ
420 :
世界@名無史さん:2014/08/21(木) 07:31:57.50 0
南朝の劉宋なり普通に使者送ってたんですけど…
交流があったら孫権が人を攫いに派兵したりしないんじゃないの
もうちょっと方法選ぶでしょ
あれは台湾・沖縄なんだっけ
422 :
世界@名無史さん:2014/08/21(木) 19:36:48.12 0
倭の五王とは何だったのか…
東晋・安帝に貢物を献ずるから始まって梁の武帝に朝貢してるのにな
日本人の出自の一つとされるのが戦国の呉越なのにな…
つーか呉鏡が日本に来てる時点で何らかの往来はあっただろ
>>422 呉→公孫淵→倭じゃないの?
鏡を直接送るくらいの交易があれば絶対史書に残るはずだし
そもそも倭は統一されているわけでもいないし
日本列島にあったどこかの国からか来たんじゃねえの?
そもそも、米作とか長江流域から直接来たんだし
往来がないわけないだろ
あの、倭の五王は東晋以降で、
三国志の時代なら、卑弥呼や壱与です……
426 :
世界@名無史さん:2014/08/21(木) 23:16:26.57 0
>三国時代の呉(江南)は隋唐以後の江南と違って
東晋って隋唐より後だったのか
427 :
世界@名無史さん:2014/08/22(金) 01:21:28.71 0
呉服とか呉音とか紅(=くれ・の・藍あい)という日本語が残っているのだから、倭人が江南と関係なかったなんてことは考えられないが。
428 :
世界@名無史さん:2014/08/22(金) 01:24:30.60 0
邪馬台国の対立勢力が呉に支援され、邪馬台国が魏に支援されていたのでは?前者の記録は失われたけれど。
429 :
世界@名無史さん:2014/08/22(金) 01:26:15.20 0
>>419 孫権も本当は地元の習俗に合わせて刺青していたのかも?
>>429 アメリカの開拓時代に白人たちが先住民の習俗をまねたか?
>三国時代の呉(江南)は隋唐以後の江南と違って
江南が文化経済で中原を上回るのは五胡十六国で中原が荒廃する一方で
江南地域に大量の漢族が亡命してからだな
どちらにせよ三国時代の江南は後進地帯
当時のジャパンと比較すれば文明国ではあるけどな
呉って山越討伐に明け暮れてる印象あるし、蛮夷に価値をみない政権だったんじゃね
折衝校尉ってどんな要職だったのでしょうか。
分かる方できれば教えて頂けませんか?
校尉で思い出したけど、キョチョ配下で将軍・校尉になったのものはいっぱいいるって
書かれてるけど具体的に名前とか役職出てる人物には誰かいる?
兄のキョテイが振威将軍になってるくらいじゃない?
Twitterの三国志クラスタって、当然のように費イがクーデターで権力を取っただの劉備が大豪族出身だの語ってるけど、もしそうなら何で三国志にはっきり書かれていないんだっていう。
436 :
世界@名無史さん:2014/09/17(水) 23:10:55.72 0
>>435 気になるなら自分でツイッター上で聞いてみればいいんでね?
○○という説を提唱している人がいるけどそれって本当?ってここで聞く前に
説を提唱してる本人に当たれる環境あるならそっちで聞いた方が話速いよ
読んでないけど、(pdfは重い)
・誰も劉備の出自について追求してない
・大した功績もないうちから左将軍に任命されてる
から少なくとも当時の人達は劉備が皇族である事に疑いを持っていなかったと思うんだよね
もし詐称なら大きな脛傷になるし下手すりゃ罪人
でも敵対勢力でさえその事に触れていない
今には残っていないけど、当時にはそれなりに信頼性の高い証拠があったんだろう。
左将軍自体は
董旻→袁術→呂布→劉備
と横滑りにとりあえず与えてただけな気がするけどな
ともあれ、引用された論文は荊州以前には皇族を称して無いと指摘する部分は面白いけど
劉表から皇族として特典を受けていたとかはただの想像で論証してないだろ
441 :
世界@名無史さん:2014/09/23(火) 01:18:11.17 0
日本で発見された赤烏年鏡は呉人がもたらしたものに違いない・・・
442 :
世界@名無史さん:2014/09/23(火) 01:44:45.72 0
そもそも劉氏かどうかなんか光武帝の出自が景帝からくだると大したことがないように
劉備も似たようなもんでさらに後漢建国から150年たってるんだからそりゃ誰も問題にしないわ
魏には漢以来の記録とか戸籍とかあるんだし臨邑侯子孫説のがまだ信憑性高いんじゃないかな
まあ朝廷が洛陽から長安に移動してさらに長安から皇帝が逃走する時点で
相当の行政史料は失われてると考える方が正しいか
444 :
世界@名無史さん:2014/09/27(土) 05:05:10.57 0
家柄は歴代三公の御曹司 袁術>>越えられない壁>>草鞋作りの劉備
ですから。
何言ってんだ?「家柄」で言ったら皇族のが上に決まってんだろ
ただ当時の社会を見ればその辺の弱小皇族なんかより
袁氏は遥かに権門ってだけで
いくら皇族の末裔でも、皇族と言えるのは分家して亭侯くらいまでだよ
劉備の家は皇帝を祖にする民(っても豪族ではあっただろうが)でしかない
447 :
世界@名無史さん:2014/09/29(月) 23:00:04.90 0
皇族といっても後漢からみるとかなり薄いわ
そもそももし前漢王朝が続いてたら
光武帝だって県令の息子程度だからそれから100年たってさらに4,5世代をカウントすれば
劉備なんて傍流の傍流
>>447 魏の史料では光武帝の兄の子孫扱いだから薄いどころかど本命の血筋
449 :
世界@名無史さん:2014/09/30(火) 00:18:33.93 0
本命じゃねえよwww
劉邦の兄の劉伯、劉喜の子孫が前漢末期に本命と言ってるようなもんだぞ
景帝→長沙定王劉発→舂陵節侯劉買→鬱林太守劉外→鉅鹿都尉劉回→南頓県令劉欽→光武帝と劉エン
劉エンのときに王だと仮定してもそれから5代経てばしょぼいわな
まあだが霊帝のときはかなり系譜遡ってるし
袁紹も劉虞を擁立しようとしてる
擁立する側としてはおそらく劉姓と利便性が問題だった
451 :
世界@名無史さん:2014/09/30(火) 00:53:15.08 0
劉備が夏侯惇を破った博望って張騫が封ぜられたところ?
>>449 全然違うよ
劉邦は劉邦が旗揚げして後から兄弟がそのおこぼれで出世だけど
劉秀は劉エンが旗揚げしてその一部将として反乱に参加してるから
主客が両者は全く逆の状態
453 :
世界@名無史さん:2014/09/30(火) 23:28:48.57 0
それが100年以上先に光武帝の子孫より
本命視される理由になるのかよ
結局失敗して更始帝に粛清されたアホw
結局弟によって子どもを王にしたわけだし
結局担ぎ方によって劉姓の価値は高くも低くもなるってことでいいんですか。
455 :
世界@名無史さん:2014/10/01(水) 01:56:36.30 0
劉一族は秦に残留した人質が遠祖であった。
456 :
世界@名無史さん:2014/10/01(水) 01:57:35.97 0
春秋左氏伝
演技的な解釈だけど、帝の周囲もすげーごたごたしてて
地方で君主やってる由緒正しい皇族が軍閥化してる中で
優秀で忠誠心もありそうな皇族を頼りにしたってのはどうなの
演技的解釈なら、その頼りにした皇族を鉄砲玉扱いしていて
献帝の周囲もえらく世知辛い対応してるなあと思うわ
ぶっちゃけ本流とか傍流とか大した問題じゃないわな
劉備にはそれだけの力と利用価値があっただけの話
>>457 劉表とか劉焉ってそういう存在だがな
もっともどちらも軍閥化しとるけど
462 :
世界@名無史さん:2014/10/01(水) 22:30:31.42 0
実際詐称しても問題ないだろw
王郎が生きて勢力を保ってれば史書でも成帝の子の劉子輿になるわw
盧芳だって武帝の曾孫・劉文伯になるからある意味どうでもいいわ
新しく出来た国の国名って、創立者が以前任されてた土地の名前から持ってくるのが普通だけど
袁術の「仲」はどこに由来するんだろうか?
仲氏 っていうのが謎だよね
465 :
世界@名無史さん:2014/10/16(木) 09:19:26.99 0
名前や字に「仲」の文字が入ってるのはたまに見るけど(仲達とか)、
「仲」の付く地名ってあまり聞かないな
ふと思ったが当時の豫州ってどういう状況だったんだろう
袁紹、袁術の出身地だけど
>>463 国の名前は成で国姓が仲氏じゃなかったけ?
成なんて書かれてないっしょ?
成の出典出してみろボケナスが
公孫述の「成」がいろいろあって袁術の国号のようになってしまった
公孫述は新末の群雄。成都に都を置いたから「成」
その「いろいろ」が公孫「述」と袁「術」を読み違えた説や
「仲氏というのは漢家や成家と同じような表現で〜」という解説文を読み違えた説
などを見たことがあるが現在の公式なり有力なりの説は知らない すまん
でも、袁術の国号は成ってのはそこらのタネ本に歴史的事実のように
書かれてた時期があるので、そう思ってる人は少なくないから
普通に説明しとこうよ、と思ったので横やりを入れさせていただくね
地名由来ではないだろうなあ
寿春近辺は春秋時代だと州来だし
地名由来だった漢・新の前例にしては、袁術が封じられたのは陽テキだから関係ないし
袁氏の始祖、轅濤塗が、別名、轅宣仲だけど、さすがにこれは関係ないだろうし
仲といえば仲孫氏ぐらいしかないしなぁ
袁術は結局どういう国家作りたいと思ってたんだろうな
ひたすら暴政敷いた記述しかないんだが
そら敵側の記述だし、呉側で記述あったっけ、確か息子が呉に行ったんだよね
劉備政権設立後の蜀って漢中争奪戦や夷陵の戦い、
南方平定や複数回に及ぶ北伐など様々な地域に戦争を仕掛けているけど
もしかして蜀が難治の国だから外敵を求めていたなんて事は無いんですかね?
正史三国志も持ってない全くの素人考えなんですが・・・。
魏という正統な外敵がいるのでわざわざ人為的に作り上げる必要はありません。
天下三分っつったってやっぱり中央の覇権争いだったし、
外敵がどーたら言うほど国は別個に独立してないしょ
>>476 そもそも、天下三分の計自体が天下統一へのステップですから
予定してた形とは大きく変わっちゃったけどね
おもに髯のせい
479 :
474:2014/11/07(金) 00:09:48.82 0
レス有難うございます。
明確な敵国が存在しているのに他に戦争を仕掛ける必要性は有りませんでしたね。
それこそ戦費の負担増で逆に国がバラバラになるかも・・・。
下らない質問にお付き合い頂き感謝です。
>>435 費禕については個々人の主張する持論が微妙に違うから直接訊いてみるのが一番じゃね?
ただツイッターは酒場の雑談位に思っとくほうが。ずっと前に前フリがあって、それ前提で突然続きが始まる雑談の途中から見てる形になってると思うので当然のように語られてるようには見えるかもね。
劉備については大豪族だというのはそれまでの貧乏に対する対抗論上のフカシ込みだろね。大げさに言って見せるという。
世々、州郡に仕えてる家柄で祖父が孝廉に挙げられて父も州郡に仕えてるわけで父が早世しなければもっと好い暮らしが出来たのに位の感覚で見た方がよさげ。
本人や宗族にしてみたら予定外だったのかもしれないけど。その地域の超セレブと比べたら親父が早く亡くなって貧乏になって苦労したという立位置。
劉備出自考は是非読んどくといいかも。ネット上で拾えるし。
ネットの発展の何が凄いかというとこういうのを受益できる所だよなあ。
遅ればせながらあけおめことよろということでスレの皆様ひとつよろしく。では。
曹操出身の沛国って、当時も徐州の管轄だったんですか?
482 :
世界@名無史さん:2015/01/21(水) 22:53:58.11 0
483 :
世界@名無史さん:2015/01/22(木) 11:29:35.60 0
劉邦が定めた沛の住民への租税賦役免除て曹操の子供時代まで
続いていたの?
>>483 いい質問ですね
続いていたかもしれませんし
続いていなかったかもしれません
単純に考えれば王莽の時代にそうならなくなった様にも思うけど
単純に考えれば光武帝の時代に復活した様にも思うけど
487 :
世界@名無史さん:2015/01/25(日) 22:01:38.62 0
陳スンシンが死んだね。
488 :
世界@名無史さん:2015/01/25(日) 22:44:37.20 0
>>483 正解は清の時代まで免税が続いていました。孔子の故郷の曲阜も清の時代まで免税が続いていました。
489 :
世界@名無史さん:2015/01/25(日) 22:47:11.42 0
正史で認められた皇帝の生まれ故郷は基本的に前王朝を打倒した新王朝といえども永世免税にしなければいけませんでした。
故郷ってどこまでの範囲なんだろう。
せいぜい村・郷程度かな。
県ぐらいまでじゃないの?
492 :
世界@名無史さん:2015/02/04(水) 23:23:41.84 0
劉備と張飛の子孫っているの?
劉禅の子孫いるなら張飛の娘嫁いでるからいる可能性はあるんじゃね?
494 :
世界@名無史さん:2015/02/05(木) 10:38:03.56 0
劉禅の子孫なら八王の乱の時に巻き込まれて絶滅しているよ。
八王の乱で生き残ったのは、劉禅の弟の劉永の一族だけらしい
496 :
世界@名無史さん:2015/02/05(木) 11:55:38.94 0
張飛の子孫は次男の張紹が魏に降伏した際に列侯になっているから
多分、東晋でも生き残ったと思う。
497 :
世界@名無史さん:2015/02/06(金) 21:01:58.15 0
498 :
世界@名無史さん:2015/02/08(日) 02:50:07.46 0
次漢の献帝
499 :
世界@名無史さん:2015/02/11(水) 14:29:59.39 0
張飛の子孫の本貫ってどこ?タク郡?
燕人
502 :
世界@名無史さん:2015/02/24(火) 01:25:32.89 0
なんか建安文学を解説した文で曹植と何晏が友人だったみたいに説明する記述をよく見かけるけど
三国志を読む限り何晏と曹植の関係は伺えないんだが
というか何晏が建安文学の時代に活躍してたかすら怪しいんだが
どっかにそういう史料あるの?
曹丕に嫌われたからじゃないの
何晏「仲達殿は詩がヘタですな」
505 :
世界@名無史さん:2015/02/26(木) 21:21:27.73 0
赤壁前だよ、時間軸は。
楊修と混同してるに一票