サファヴィー朝

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93スレ主:2012/10/06(土) 01:10:36.78 0
>>87>>89>>91の続きです。

 イラン全体の政治情勢の変化によって、ヘイダルの政治的野心は、やがてサファヴィー教団と
アクコユンル朝の同盟関係が解消されることを意味した。ヒジュラ暦872年/西暦1467年、
ウズン・ハサンは、カラコユンル朝の指導者ジャハーンシャーを敗死させ、カラコユンル朝帝国を滅ぼした。
次の年には、アゼルバイジャンに進軍したティムール朝の王子アブー・サイードも敗死させた
(『Matla‘-e sa‘deyn』、『Habib al-siyar』)。今やウズン・ハサンは、ホラーサーンを除くイランの
唯一の支配者となったが、彼の死(ヒジュラ暦882年/西暦1478年)までサファヴィー教団との
「打算的な婚姻関係」は解消されなかった。しかし、彼の死後、アクコユンル朝帝国は、支配権をめぐる
部族長の争いによって解体した。ヘイダルとその闘志溢れるスーフィーの門弟は、今や評価される軍事力であった。
夢でイマーム、アリーからの教示を受けたヘイダルは、門弟のために「ヘイダルの帽子(taj-e Heydari)」
として知られる独特な被り物を考案した。それは、深紅色あるいは緋色の棒を載せた12の襠
(シーア派十二イマーム派の12人のイマームを賛美する)のある帽子あるいはターバン(kolah)であった
(『Habib al-siyar』)。その結果、彼らは「赤い頭(ゲゼルバーシュqezelbash)」として知られるようになり、
「ゲゼルバーシュ」の語は、オスマン人は嘲笑の語として用いたが、ゲゼルバーシュは誇りの象徴として用いた。
94オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/10/07(日) 07:51:55.55 0
>>93
父ハイダルの時代の話か。
彼の時代に有名なクズルバシュが成立したね。
それにしても、イスマーイール1世の記事なのに、
前半は祖父や父の話が多くを占めてるのか。
95世界@名無史さん:2012/10/07(日) 08:39:32.33 0
なんか文章が非常に見にくいんだよなぁ。
もう少し改行が欲しいところ。
96世界@名無史さん:2012/10/08(月) 09:18:29.02 0
サファヴィー教団はスンニ派からシーア派に宗旨替えした無節操教団
宗旨替えの動機が教主の座をめぐる争いに勝利するため
シーア派遊牧民を味方につける必要があったからってのは酷すぎるわ
ジュナイドはルネサンス期のローマ法王顔負けの生臭坊主(イスラムに厳密には聖職者はいないけどさ)
97オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/10/08(月) 11:41:37.54 0
>>96
まぁ、確かにジュナイドが結構俗物的な宗教指導者っだたのは否めないね。
だからこそ、サファヴィー教団は彼の時代に勢力を伸ばすことができたんだし。
98世界@名無史さん:2012/11/04(日) 00:59:18.13 0
スレ主の努力は認めるし、内容が濃いのも分かるが、
こういうことやるんだったら2chのスレじゃなくて、ホームページに
まとめた方がずっといいと思うんだが。

とにかく読みにくくてしょうがない。
99世界@名無史さん:2012/11/10(土) 01:26:58.45 0
>>98
数多あるスレ主が立て逃げしているスレよりはるかにマシなんだが。
とりあえずなんか書いて話題を広げられる人を待つっていうことなんだろ。
100世界@名無史さん:2012/11/10(土) 10:38:39.51 0
ましとかそういう話じゃないだろうに
101世界@名無史さん:2012/11/20(火) 01:23:40.92 0
サファヴィー朝とシャイバーン朝のカブールをめぐる仁義なき奪いあいってどうですか。
現地の人は今年はなんかこっちが来て次はあっちが来たなって感覚で呑気なものだったんですかね。
102世界@名無史さん:2012/11/20(火) 08:54:07.92 0
シャイバーニー朝ってカブールまで進出してたの?
103スレ主:2012/12/20(木) 23:28:07.46 0
>>87>>89>>91>>93の続きです。

 おそらく、自軍がアクコユンル朝との同盟に挑戦するには強力ではないことを推測したヘイダルは、
自軍にチェルケスィアやダゲスタンの「異教徒」への襲撃を行わせた。
このことは、シールヴァーンシャー・ファッローフ・ヤサールの領域を横断することを意味し、
シールヴァーンシャー・ファッローフ・ヤサールは、義理の息子でアクコユンル朝の首領ヤークーブに助けを求め、
ヒジュラ暦893年ラジャブ月29日/西暦1478年1488年7月9日、アクコユンル朝とシールヴァーンの連合軍は
ダルバンド付近のタバルサラーンでヘイダルを破った。ヘイダルは戦闘で殺された。
 わずか25年の間に、サファヴィー教団は2度指導者を失ったが、絶滅はしなかった。
ヘイダルの3人の息子のうち、最年長のソルターン・アリーがサファヴィー教団の教主を引き継いだが、
アリーと2人の弟、エブラーヒームとエスマーイールは、アルダビールで母親とともに捕えられ、
ファールスのエスタフル要塞に拘束された。
104スレ主:2012/12/27(木) 23:44:57.25 0
>>87>>89>>91>>93>>103の続きです。

ヒジュラ暦898年シャウワール月(西暦1493年8月)、
アリーたちは、アクコユンル朝の継承者争いの参加者の一人ロスタムによって監禁から解放され、
ロスタムは、自分のライヴァルの一部に対してアリーたちの家臣の軍事的援助を用いた。
しかし、この援助の明らかな強力さを警戒したロスタムは、ソルターン・アリーたちを再び捕え、
ソルターン・アリーと、そのタブリーズとアルダビールの支持者を殺そうとした。
アリーとその兄弟たちは、サファヴィー教団の精神的な中心地アルダビールに逃れた。
ロスタムは、アリーたちを追跡する軍を派遣した。アリーたち兄弟は追いつかれ、その後の戦闘でアリーは殺された。
戦いの前に、ありーは、サファヴィー教団の教主の権限を年少の兄弟エスマーイールに譲った。
これは、伝統的なサファヴィー朝の記述である。
A. H. Mortonは、ファズリー・エスファハーニーの『Afzal al-Tavarikh』を引用して、
アリーが、指導者(ershad)の権能をエブラーヒームに、「軍事と王位」をエスマーイールに譲った、とする。
おそらくエブラーヒームは、「イデオロギーの背景よりも、彼自身の個人的性格によって」無視された。
エブラーヒームが「ヘイダルの帽子」を捨ててトルコマンのtaqiyeをかぶってから何ヵ月か後、
ギーラーン(エブラーヒームとエスマーイールが逃げ込んだ場所)からアルダビールに戻った、
というハーンダミールの叙述は、このことを裏付ける(『Habib al-siyar』)。
105世界@名無史さん:2012/12/28(金) 13:43:10.93 0
十数年前に卒論で書いたよ。懐かしや。
勉強させていただきます。
106スレ主:2012/12/31(月) 13:44:14.10 0
>>87>>89>>91>>93>>103>>104の続きです。

エスキャンダル・ベイグは、このことをエブラーヒームのデルヴィーシュ的な心性や
母と会うことへの強い願望によるものと考えている。
いずれにせよ、エブラーヒームはサファヴィー朝のほとんどの年代記から削除された。
例えば、エスキャンダル・ベイグは、意義深いことにエブラーヒームの名前の前に
「エスマーイール・ミールザー」の名前を配置し、ヘイダルがエブラーヒームに
エスマーイールにしたがってギーラーンに向かった他の兄弟たちに会うように指示した、
と説明するが、「彼らのその後の歴史は記録されていない」、
「アリーを例外として、著者は他の兄弟たちについての情報を得られなかった」と言う。
エブラーヒームが死亡した時期や場所は不明である。
107世界@名無史さん:2013/01/20(日) 13:59:03.87 0
>>103-104
短期間で指導者が交代することが続きながらも、
サファヴィー教団はしぶとく存続できたのはすごいな。
「チェルケスィアやダゲスタンの「異教徒」への襲撃」とあるが、
サファヴィー朝とカフカース地域との関係の深さを感じさせるな
(そもそも成立したのがアゼルバイジャンなのだから、
 カフカース地域との関係の深さは当然と言えば当然なんだけども)。
108世界@名無史さん:2013/01/22(火) 00:43:09.53 0
サファヴィー朝歴代で最も衆道=少年愛好きだった君主は誰ですか?
109世界@名無史さん:2013/03/10(日) 01:05:54.82 0
タフマースブ1世じゃね?
110世界@名無史さん:2013/12/02(月) 01:39:31.06 0
>>108
美少年に入れ込んで奥さんに殺された王様がいたような・・・
111スレ主:2014/03/08(土) 15:13:22.59 0
>>87>>89>>91>>93>>103>>104>>106の続きです。

     サファヴィー教団の宣教
 明らかなことは、エスマーイールがギーラーンの統治者キャール・キーヤー・ミールザーの宮廷で保護されたことである。
5年後のヒジュラ暦905年(西暦1499年)、12歳のときにエスマーイールは、イランの権力をねらうためにギーラーンの森から出た。
それから2年後のヒジュラ暦906-7年(西暦1501年)、わずか14歳でエスマーイールはタブリーズでシャーとなった。
彼はサファヴィー教団の革命運動の重要な位置にあったが、彼の若さはこの革命の最終段階の遂行の推進を妨げた。
推進力となったのは、「特別な人々ahl-e ekhtesas」として知られる献身的なゲゼルバーシュの臣下たちであった。
ギーラーンに隠れていた5年を通じて、エスマーイールは、「khalifat al-kholafa」の指揮下にある将校
(khalifa、abdal、dada、khadem、pireと呼ばれる)のネットワークを通して支持者と接触し続けた。
このネットワークの機能は、アナトリア、南カフカース、アゼルバイジャンのトルコマン諸部族に
サファヴィー教団の理想の支持者を得るために設計されたプロパガンダを広めること(da‘wa)であった。
112スレ主:2014/03/09(日) 21:05:19.84 0
>>87>>89>>91>>93>>103>>104>>106>>111の続きです。

この宣伝の本来の基礎は、
門弟(morid)に精神的な指導者としてのスーフィーのシャイフ(morshed)への絶対的な服従を要求する、
シャイフと門弟との間の伝統的な関係であった。
しかし、ヒジュラ暦9世紀(西暦15世紀)後半、サファヴィー教団の宣伝は、
一般的に、極端派(gholat)に特徴的な過激な教義を多く採り入れていた。
サファヴィー教団の主義に敵対したホンジーKhonjiによれば、
ジョネイドの門弟はジョネイドを公然と「神(elah)、神の子(ebn Allah)」と賞賛して呼び、
「ジョネイドは生ける神であり、神はいないがジョネイドはいる。」と言った。
ヘイダルがサファヴィー教団の教主の跡を継いだとき、
門弟は「あらゆる指示の出所となり、愚かにも、彼の神性の喜ばしい知らせを伝えた。」。
この宣伝da‘waをより効果的に行うために、
エスマーイールは、「ハターイーKhata’i」というペンネーム(takhallos)を用いて、
テュルク語のアゼルバイジャン方言の平易な詩をトルコマンの臣下たちに宛てた(「Aエスマーイール1世の詩」を見よ」)。
これらの詩は、エスマーイールが、門弟たちに、自身が神の具現であると思わせたことの明白な証拠を提供する。
この宣伝の賢明な混合物は、イランを訪れた同時代のイタリアの商人が驚嘆をもって言及した、
エスマーイールへの熱狂的な臣下の忠誠をもたらした
(Angiolello&Ramusio(tr. C. Grey)『A Narrative of Italian Travels in Persia in the Fifteenth and Sixteenth Centuries』,
 Hakluyt Society, London, 1873. p.206)。
113世界@名無史さん:2014/03/10(月) 01:14:02.65 0
「イランを訪れた同時代のイタリアの商人」って誰?
114スレ主:2014/03/10(月) 02:32:35.96 0
>>113
わかりません。
『A Narrative of Italian Travels in Persia in the Fifteenth and Sixteenth Centuries』
で取りあげられている商人ということしか推測できません。
115世界@名無史さん:2014/03/10(月) 07:55:44.88 0
歴史上屈指の後継者選定方法の酷さを誇る国
116スレ主:2014/03/12(水) 21:03:09.07 0
>>87>>89>>91>>93>>103>>104>>106>>111-112の続きです。

 「完全なる導師morshed-e kamel」としての役割は、
サファヴィー教団の教主に自身の臣下に対して絶対的な服従を命ずることを可能にし、
「神に準ずる人」としての教主への臣下の信仰は、臣下に教主の不滅を信じさせた。
サファヴィー教団の宣伝の第三の重要な要素は、
臣下に教主の「無謬性」を信じることを要求した点である。
十二イマーム派の政治理論では、無謬性あるいは潔白は、
通常、「隠れイマーム」、マフディーに特徴的なものであった。
「神の如く恵まれしイマームの無視・不服従は、預言者の無視・不服従に等しく、
 不誠実である。」。
イマームは、十二イマーム派の信徒からは共同体の指導者と見なされた。
したがって、ヒジュラ暦260年(西暦873-74年)に第12代イマームが地球上から消えたとき、
共同体は指導がないままとなった。
しばらくの間、一連の代理人(wakil)が「隠れイマーム」の媒介人として行動したが、
ヒジュラ暦329年(西暦940-41年)に後継者を指名せずに亡くなり、
共同体は「大ガイバGhaybat-e Kobra」として知られる時期に入り、
その状態は今日まで続いている(「ガイバ」の項を見よ)。
幾世紀の間に、「隠れイマーム」の不在中、シーア派法学に最も精通した法学者(foqaha)のうち、
最高位の「モジュタヘドmojtahed」が「隠れイマーム」の地球上における代理人として行動すべきであることが、
受け容れられるようになった。
117世界@名無史さん:2014/03/12(水) 22:03:40.92 0
イスマーイール1世も自分自身に対して無謬性を信じていたんだろうな
チャルディラーンの戦いで初めての決定的な敗北を喫したあと、
あそこまで無気力になったのはその信じていたものが粉々になったせい
118世界@名無史さん:2014/03/13(木) 00:32:42.08 0
>>自分自身に対して無謬性を信じていた

翻訳すると、「俺は神だ」と本気で言い散らかしている基地外だな
119世界@名無史さん:2014/03/14(金) 11:45:36.87 0
でもそのわりにセリムに敗北したときは重臣同士の主導権争いを止められず
自分のやりたい戦術にできなかったんだが

大衆には無謬性を示しても、側近クラスには信奉されてない感じする
敗北で権威失墜以前から内紛してたし
120世界@名無史さん:2014/03/14(金) 12:48:57.80 0
そりゃあまあ基本、クズルバシュのお神輿ですしおすし
121スレ主:2014/03/14(金) 22:18:15.33 0
>>87>>89>>91>>93>>103>>104>>106>>111-112>>116の続きです。

 サファヴィー教団が権力に到達したとき、
彼らは、特にイランの君主が伝統的に主張した神聖な王権に頼るようになった。
さらに、イマーム、ムーサー・アル=カーズィムからの男系の家系である(とされる)ことによる長所によって、
「代理人(niyabe)」であることを主張したが、
「イマーム以外のあらゆる世俗的な権力の設立は、イマームの合法的な権利の簒奪である」ため、
サファヴィー教団はモジュタヘドとの紛争を引き起こした(A.A. Sachedina, 『Islamic Messianism』, Albany, New York, 1981.)。
サファヴィー朝国家の設立以前でさえ、
サファヴィー教団のシャーとモジュタヘドとの間に対立が生じた。
ハーンサーリーは、ジャラーロッディーン・モハンマド・ダヴァーニー(ヒジュラ暦9世紀(西暦15世紀)の偉大な神学者、哲学者、法学者)が、
自身の門弟に「ときのイマームは誰であるか?」と尋ねたとき、
門弟たちが「シャー・エスマーイールである!」と答えたことへの怒りを記録している
(M.M. Mazzaoui, 『The Origins of the Safawids: Si'ism, Sufism and the Gulat』, Wiesbaden, 1972.)。
ダヴァーニーは、「『救世主である』というシャー・エスマーイールの主張を拒絶するように言った」。
122世界@名無史さん:2014/03/14(金) 23:08:39.85 0
つーかどう見ても聖人崇拝だろサファビー教
これイスラムの基本教義であるアラーのもとには預言者を含めてすべての者が平等って考えに反してるんだが
123世界@名無史さん:2014/03/14(金) 23:59:46.27 0
んなこと言っても、シーア派のイマームへの接し方は基本聖人崇拝ですしおすし
イマームは最後の審判のときはマフディー(=メシア)となって再臨なされ云々というのもあるわけで
124オツガイ ◆EAbyJft1LY :2014/03/15(土) 07:21:36.21 0
>>118
14歳という若さで王朝を設立し、その後の戦いも勝ち続けたとなれば、
自分はなにか特別な存在だと思うのも無理はない気がする。
セリム1世に負けるまでのイスマーイール1世の業績は確かに並はずれている。
125世界@名無史さん:2014/03/15(土) 12:57:54.98 0
アレクサンドロスの帝国の東7割くらいをアレクサンドロスの遠征より短い期間で統一してるし
あとはエジプトとオスマンを5年くらいで制覇すればレコード更新だったしな
126世界@名無史さん:2014/03/16(日) 20:12:33.36 0
原理主義者たちはどう考えてるんだろうな
127スレ主:2014/03/27(木) 21:03:26.65 0
>>87>>89>>91>>93>>103>>104>>106>>111-112>>116>>121の続きです。

     サファヴィー朝国家の創設とイランにおけるサファヴィー朝権力の強化

 ヒジュラ暦906年(西暦1500年)、エスマーイールは、アゼルバイジャンで、
ゲゼルバーシュの諸部族、オスタージュルー、ルームルー、タッカルー、ズル・カダル、アフシャール、
ガージャール、ヴァルサーグからトルコマン兵7000人を動員した。
これらの人々は、長い間、スーフィーの信徒・門弟であった。
シャルヴァーン(もしくはシールヴァーン)での軍事行動(シールヴァーンシャー・ファッロフ・ヤサールを殺して、
父ヘイダルと祖父ジョネイドの死への復讐を果たした)で自身の兵を戦闘に慣らしたエスマーイールは、
サルールの戦いで、アクコユンル朝のアルヴァンドの軍(エスマーイールの軍の4倍の兵力だった)を徹底的に打ち破り、
その後まもなく、タブリーズに進軍した。
「剣士shamshirzan」の年号表示(A. D. Moztar, facs.ed.,『ハーガーンの世界開闢Jahangosha-ye Khaqan』, Islamabad, 西暦1971年。)では、
彼のタブリーズを占領の日付とサファヴィー朝創設を記録している。
エスマーイールは当初はアゼルバイジャンだけの統治者であったが、アクコユンル朝の残存勢力を粉砕し、
ヒジュラ暦916年(西暦1510年)までにはイラン全土の主人となった。
「宗教を保護する王の勝利fath-e shah-e din-panah」の年号表示に記録されるヒジュラ暦916年シャーバーン月30日
(西暦1510年12月2日)には、マルヴでムハンマド・シーバーニー・ハーンに対して大勝利をおさめ、
ウズベク勢力をホラーサーン地方の東北辺境に追いやった。
128スレ主:2014/03/27(木) 22:25:28.05 0
>>87>>89>>91>>93>>103>>104>>106>>111-112>>116>>121>>127の続きです。

しかし、この勝利は、ウズベク勢力の侵攻に対する東北辺境の防衛の問題を解決せず、
トランスオクシアナを自分の領土に併合するというエスマーイールの希望は2年後に潰えた。
ティムール朝の王子、ザヒールッディーン・ムハンマド・バーブルは、
ムハンマド・シーバーニー・ハーンによってブハラ・サマルカンドから追い出され、
エスマーイールの名で貨幣を鋳造することと引き換えに、
サマルカンドを奪還するための援助をエスマーイールに求めた。
当初はうまくいった。ゲゼルバーシュ軍の援助によって、
ヒジュラ暦917年ラジャブ月(西暦1511年10月)、バーブルはサマルカンドを奪還し、貨幣鋳造の約束を守ったが、
グジュドゥヴァーンの戦い(ヒジュラ暦918年ラマダーン月3日。西暦1512年11月12日)で、
戦場で多くのゲゼルバーシュが離反したために、バーブル軍はウズベク勢力に敗れた。
この離反の原因は、イランの将校ナジュメサーニー・アミール・ヤール・アフマド・エスファハーニーの指揮下に
置かれたゲゼルバーシュの憤慨であった。この敗走の後、バーブルはトランスオクシアナへの野心を放棄し、
北インドに退却し、ヒジュラ暦932年(西暦1526年)に、そこでムガル朝を創建した。
129スレ主:2014/03/27(木) 22:29:01.89 0
>>87>>89>>91>>93>>103>>104>>106>>111-112>>116>>121>>127-128の続きです。

 イランにおけるサファヴィー朝権力拡大の主要な局面は、
ヒジュラ暦908-09年(西暦1503年)のファールスと「アジャムのイラク」の征服、
ヒジュラ暦909年(西暦1504年)のマーザンダラーン・ゴルギャーン・ヤズドの征服、
ヒジュラ暦915年(西暦1508-09年)のシールヴァーンの征服である。
ヒジュラ暦914年(西暦1508年)には、フーゼスターン、ロレスターン、クルディスターンの現地の統治者が
エスマーイールの宗主権を認め、同年に、エスマーイールは「アジャムのイラク」に侵攻して、
バグダードを占領し、最終的にアクコユンル朝支配下に残った領土を支配した。
バグダードの占領によって、エスマーイールはサファヴィー朝の統治権を「イラン本土の外」に拡大した。
130世界@名無史さん:2014/03/31(月) 13:02:23.12 0
乙だなぁ

いいもん読ませてもらってて感謝に堪えない
131スレ主:2014/09/15(月) 20:30:10.61 0
>>129の続きです。

     サファヴィー朝国家建設後にエスマーイールが直面した諸問題

 歴史上の成功した革命運動のあらゆる指導者たちと同様に、エスマーイールは、
自身に権力をもたらした人々の熱情や革命の過剰さをいかにして抑えるのか、という問題に直面した。
サファヴィー教団の宣伝によって自身の門弟にもたらされた狂信の程度は、ペルシア語史料から明らかにされる。
イラン征服の過程において、エスマーイールによって行われた最も過酷な軍事行動の一つは、
フィールーズクーフ、ダマーヴァンドの統治者アミール・ホセイン・キーヤー・チョラーヴィー
―アクコユンル朝帝国の崩壊を利用して、自身の支配権をハール、セムナーン、レイに拡大させたり、
「アジャムのイラク」の境界に侵入したりした―に対する戦い(ヒジュラ暦908年/西暦1503-04年)であった。
エスマーイールが、オスター要塞―かつて彼が避難した場所―への水の供給を遮断した後、
ヒジュラ暦909年ズー・アル=カーダ月27日(西暦1504年5月12日)、アミール・ホセインは、最終的に降伏した。
アミール・ホセインは、鉄の檻―かつて、「彼によって収監されたイランのあらゆる権力者」を閉じ込める目的で、
彼が考案した―に入れられた。アミール・ホセインは、エスファハーンに向かう途中で自殺したが、
彼の将校の2人は幸運ではなかった。彼らは串刺しにされて火刑に処され、他の者への警告として、
焼き肉として食べられた。エスマーイールは、「この焼き肉の一片を食べる者は誰であれ、信者である」と言った。
ある者は、この事例から測られる懲罰の残虐さは、エスマーイールの認識
―アミール・ホセインが「自称のシーア派」であり、「完全無欠なイマーム」の家への献身を常に自慢していたため、
アミール・ホセインは政治上のライヴァルであるだけでなく、宗教の次元における脅威でもあった―に起因すると推測している。
132世界@名無史さん:2014/09/15(月) 21:50:17.89 0
水の供給遮断って川をぶったぎるほどの土木工事やったんですか?
133世界@名無史さん:2014/09/17(水) 00:25:47.10 0
>>132
以前、スレ主が翻訳したタフマースブの項目(>>66)にもあるように、
カナート(地下水路)を破壊して水を遮断したのでは?
134世界@名無史さん:2014/09/17(水) 20:44:21.22 0
地下水路とか灌漑農業用施設は一度壊すと直すのめちゃくちゃ難しいし土地がその間に取り返しのつかないことになるのに
おそろしや
135スレ主:2014/09/20(土) 20:03:12.39 0
>>131の続きです。

 「諸代理人の代理人khalifat al-kholafa」―「完全なる導師morshed-e kamel」の代理人として見なされた―
を頭領に戴くスーフィーの組織は、まだ東アナトリアで活発であった。
ときおり、サファヴィー教団の運動への新たな徴募は、イランにおいても行われ、
シャー・タフマースブ(在位:ヒジュラ暦930-84年/西暦1524-76年)の治世中には、
ディヤールバクル、アナトリアから新たなスーフィー教団がやって来さえした。
これらのスーフィーは、「諸代理人の代理人」がシャーに仕える人々であったため、その命令に従い、
この強力な将校は、シャー自身の権力に対する潜在的な脅威となった。
エスマーイールが採ったこの問題の短期的な解決策は、
これらのスーフィーの戦士(ガーズィー ghazi)をオスマン領への襲撃に送ることであった。
これらの襲撃のうち、最も大規模なものは、ヒジュラ暦918年(西暦1512年)に、
ヌール・アリー・ハリーフェ・ルームルーによって行われた。
スーフィーの戦士は、アナトリアのトカトまで侵入し、彼らはそこを焼き打ちし、
彼らを追跡するために送られたスィナン・パシャ指揮下のオスマン軍を打ち破った。
皮肉にも、2年後に、オスマン帝国のスルタン、セリム1世がイランに侵攻する要因の一つは、こうした襲撃であった。
136世界@名無史さん:2014/09/20(土) 23:13:26.99 0
イェニチェリの上層部にもいたってのはほんとなのかね
セリムがまとめて粛清する口実な気がするんだが
137スレ主:2014/09/27(土) 23:36:41.01 0
>>135の続きです。

 エスマーイールが直面した第二の主要な問題は、
名目上スンナ派の住民をいかにしてシーア派十二イマーム派に改宗させるか、であった。
これを達成するために、より重要なことには、
別の方法で自身の権威に挑戦した宗教組織に対する政治的統制を維持するために、
エスマーイールは、サドル―エスマーイールに個人的に責任を負う宗教組織の長―を創設した。
サファヴィー朝国家建設後にエスマーイールが直面した第三の重要な問題は、
国家内の二つの主要な民族集団、古典的なイスラーム社会の「剣の人」たるトルコマンのゲゼルバーシュ
―その武力がエスマーイールに権力をもたらした―と、「ペンの人」たるイラン的要素
―かつてのイランの統治者(アラブ、トルコ人、モンゴル人、トルコマンなど)の下で
何世紀もの間そうであったように、サファヴィー朝国家においても官僚機構・宗教機構で務めた―
との間の隔たりにいかにして橋渡しをするか、であった。
ミノルスキーMinorskyが「(ゲゼルバーシュは)民族的なイランの伝統と関係しなかった。
水と油のように、トルコマンはすすんで混淆せず、住民の二元的な性質は、
イランの軍事・民政におおいに影響をおよぼした」と示したように、二つの民族集団の間の摩擦は避けられなかった。
この問題を解決するためにエスマーイールが採った方法は、「帝王の代理人」(vakil-e nafs-e nafis-e homayun)
官庁―スーフィーのサファヴィー教団の「完全なる導師」としての宗教的権能、
国家の「世俗的」統治者シャーとしての権能の双方において、シャーの代理人である―の創設であった
(詳細については、R.Savory『Studies on the History of Safavid Iran』, London, 1987年を参照)。
138世界@名無史さん:2014/09/28(日) 03:07:52.04 0
スンニ派をシーアに鞍替えさせる方法の話はまだこっからなのか?
139世界@名無史さん:2014/10/12(日) 23:41:48.43 0
アッバースTですら後継者選定法を改善できず
オスマンが欧州にとらわれてなければ消滅してたくらい内紛だらけ
140スレ主:2014/11/01(土) 22:53:46.13 0
>>137の続きです。

この官庁に就任した初代の人物が、「特別な人々ahl-e ekhtesas」であり、
ギーラーンでの幼少時代のエスマーイールの師傅lalaでもあったホセイン・ベイグ・シャームルーであったことは、
ホセイン・ベイグ・シャームルーがゲゼルバーシュの将校の一人であったため、最も重要である。
この試みは、件の将校が強力になりすぎ、ヒジュラ暦914年(西暦1508年)にエスマーイールに免職されたことで、うまくいかなかった。
エスマーイールはイラン人をこの役職に就けたが、ゲゼルバーシュの憤慨にもかかわらず、この政策を続けたので、ほとんど成功しなかった。
西暦1508年から1524年(エスマーイールが亡くなった年)の間、シャーは、「代理人vakil」の役職の後継者にイラン人を5人任命した。
5人のうち、最初の一人は、1年あるいは就任後に亡くなっており、ある年代記は、彼が「トルコ人の地位を弱めた」と述べている。
サファヴィー朝の行政機構における自身の支配的な地位の弱体化に対するゲゼルバーシュの憤慨は、その後継者ナジュメ・サーニーを頭領とするようになった。
ナジュメ・サーニーがトランスオクシアナのサファヴィー朝軍の司令官に配属されたとき、
彼に仕えなければならないことを恥だと思ったゲゼルバーシュが彼を戦場で見捨てたため、ナジュメ・サーニーは殺された。
3人目のイラン人の「代理人」は、チャルデラーンの戦い(ヒジュラ暦920年/西暦1514年)で殺された。
その役職での2年間で、彼はゲゼルバーシュとの対立をなんとか避けたようである。
4人目はゲゼルバーシュによって殺され、5人目もゲゼルバーシュによって死に追い込まれた
(詳細については、R.Savory『Studies on the History of Safavid Iran』, London, 1987年を参照)。
エスマーイールがイラン人を「代理人」に任命する方針をとったことは、
ゲゼルバーシュのアミールの手中に全ての権力が集中することへの恐怖がきわめて大きかったことを意味する。
エスマーイールの死後すぐに、ゲゼルバーシュが国家の支配権を掌握したことは、危険がとても現実味があったことを示している。
141世界@名無史さん:2014/11/01(土) 23:38:23.78 0
クズルバシュか
マムルークもそうだったが歩兵による銃火器の運用を卑怯とか考えてた無能どもと聞いたが
偏見かな
142世界@名無史さん
中東における騎兵最後の栄光
イライラ戦争でバイクにのった部隊が横隊突撃とかやらかしてたけど