半島で百済文化を育んだ百済が663年滅亡し
残った百済人が列島に渡り、列島にいた親百済政権に取り込まれ
百済文化を日本で継承した場合、
百済文化は日本の歴史の一部ということになるんじゃないだろうか?
>>371 百済文化が日本で継承されて
百済人が現地では雲散霧消し百済語も百済文化も絶えたのであれば
百済は日本史の一部分で朝鮮史には含まれないものということになる
さすがにそれは考えにくいがな
現地でも百済文化は部分的には残存して朝鮮文化に痕跡として残ってるのだろう
百済語がどんな言語だったかすら伝わってないんだから今となっては知るすべはない
但、半島王朝は外国の特に中華や満洲に在った強国の影響を強烈に受けるから
日本の方が百済文化を残してる可能性も無くは無いかもw
>>373 半島は歴史的に文化も人種も上塗りされているからね。
記録厨のシナや、史上一度も征服されたことがないという我が国の正史野史をとっても
半島の人種(定義も不明だが)が変わっただの言語が通じなくなったなんて記録はゼロなのに
何を以って上塗りだ上書きだと言ってるんだろうね
いや、普通に百済語と新羅語が違った記録は残ってるだろ
歴史は人によって作られるもの
人は動く物なので、
一時的に半島にいた人が作った歴史は現在その人たちの子孫がいる国の歴史といっていいと思う
貴人を運ぶのに神輿見たいのに担いでいる場面が韓国ドラマでよく出てきたが
李氏朝鮮は文化が退化したようだ
李氏朝鮮時代、
木を丸くして輪にし車輪や水車を作る技術がなくなったというのを聞いたことがある
韓国朝鮮は李氏朝鮮の子孫なのだから、
それ以前の半島にいて高度文化を築いた人々は他のところに移動したと考えるのが普通ではないだろうか
>>372 >百済語がどんな言語だったかすら伝わってないんだから今となっては知るすべはない
朝鮮通史スレといいつつ日本の話ばっかになるのはそういうわけだな
>>375 えー?支配層と非支配層で人種が異なることとか
その後同化したこととこかモンゴルなどの南下勢力の血が入っていったのは史実では?
>>377 一応言っておくが神輿みたいなものそれ自体は別に文化が退化した証にならないぞ?
日本でも輿が普通だったように東アジアでは車輪と併用して使われるものだからな?
車輪が実際に作れなかったのかは知らないが
それを主張するのは別の根拠によらないといつか反論されるよ
>>380 え?水車の導入失敗とか。
そんなレべルから説明しないといけないスレなのか?
>>379 元朝の領土に成った時可也大きな影響を受けただろうけど
モンゴル人が支配していた時間は50年前後で短かったし
女真人の李朝はあくまでも浸透王朝で支配民族の女真は少数だったから
それ程大きな影響を与えて無いと思うは
水車の導入失敗は知ってるよ
ていうかそういうハッタリも説明を回避するための保険もいいよ
単純に輿文化の存在を理由に貶しても自爆する可能性を注意してるだけだっつうの
そんなレベルの説明とかいうなら最初から頓珍漢な根拠を挙げずにもっと真っ当な根拠だけ挙げてりゃいい話しなんだよ
サツマイモも栽培技術の確立や既存作物との食い合いを嫌う地方支配者の
妨害やらで導入から普及まで随分時間食ったというが、テクノロジーの
導入も簡単では無いね
ジャガイモのほうは導入⇒普及はより早かったらしいな
輿で文化が退化とか言ったら明治天皇だって東京奠都の際京都から江戸まで鳳輦で移動したが
何故かっつたら今みたいにそこらじゅうの道がたいらで、全ての川に橋がかかってるわけじゃないから、
(幕府が防衛上の理由で架橋を禁じた箇所もあり)将軍ですら駕籠を担がせて渡河してた
天皇東幸の大行列には渡る全ての川に船橋をかけたが、当然「車」だったらそんなん渡れない
それを「平安時代は牛車で移動していたから」江戸末期までに退化していたというのか?
ついでに、日本は文禄・慶長の役で朝鮮から陶工を連れてくるまで磁器を作れなかった訳だが、
それをもって日本の文化は朝鮮に劣っていたと言えるのか?
木器(漆器)や土器で間に合ってたからわざわざ作らなかっただけだろ
現在普遍的にある物・制度がなかったからとその時代や文化を蔑むって歴史板住人としてどうなのかね
しかしまぁ、李氏朝鮮の道路事情が極て劣悪だったのは、当時訪朝した西洋人の
旅行記が示すとおりで、街道整備は進めたものの戦略上の都合で大河に橋を
架けなかった江戸幕府の施策とは全く別の話だろ。
>>385 > 現在普遍的にある物・制度がなかったからとその時代や文化を蔑むって歴史板住人としてどうなのかね
蔑むつもりはない
事実はどうかだけ
文化水準は、ブランド品のバックか100円ショップのバックかの違い
389 :
世界@名無史さん:2014/09/17(水) 17:11:22.95 0
>>387 文化が高いというのと、テクノロジーが高いというのは、若干異なる。
>>382 そうか?朝鮮人は名前が中国人、顔はモンゴル人な時点で
かなり影響受けてると思うが。
文化って相対的な物だと思うから水準、つまり評価の基軸なんてもんを作れるのか疑問
ブランド品のバックの方が100円ショップのバックの方が単純に優れてると言いたいのだろうけど
判断する人によりそれをどう評価するのかは異なってくるだろ
392 :
世界@名無史さん:2014/09/17(水) 23:20:59.04 0
>>390 文化的影響と混血の話をごちゃごちゃにいうなっつの
名前が中国人だけど朝鮮語は中国語とはぜんぜん別の言語、
日本人の名前だって「諱」の見た目は嵯峨天皇の頃から中国風、
訓読みしてるから支那風だと自覚してないだけ。
半島は李朝になってから儒教原理主義で強制的に中国風の名前にした。
顔がモンゴル顔なのはツングース人種の特徴でこれは李朝ができた時に
女真族の居住地である北朝鮮の東北部(咸鏡道・慈江道・両江道)を併合したから
朝鮮に百済系の本貫って殆どおらんよね
×李朝ができた時に女真族の居住地である北朝鮮の東北部(咸鏡道・慈江道・両江道)を併合したから
○朝鮮東北部(咸鏡道・慈江道・両江道)の女真族が李朝を建てたから
あんま関係無いと思うけどねw
支配民族とはいえ女真はそんなに人数多くないし
てか、そもそもの話だけど
李氏朝鮮王室が女真系っていう説は
とりあえずいろんな説の中の一つに留まるもので、
それが一般的な通説ってわけでもないでしょ。
それと、漢風の姓名は新羅の頃からの慣習らしくて、
別に李氏朝鮮の時代が初めてってわけでもないし。
李成桂は女真人とモンゴル人のどちらか解らないけど
李成桂の功臣の多くは女真人だしな
そもそも14世紀かそこらにモンゴル人だの朝鮮人だのは概念として完成されてないんじゃね
そういうのがはっきりするのはそれこそ近代のごく最近になってから生み出された分類法で
境界に住む人々とか単純にこいつは何人だとか断言出来ない人間もかなりいただろうに。
夏休みの研究発表?
モンゴル帝国は集団を厳格に区分してたし
大元帝国もモンゴル人、色目、漢人、南家の4区分に分けてた
李成桂の先祖はダルガチに任命されてるからこの時点で高麗人では在り得ない
当人が全州李氏の末裔を自称したのは
高麗人というステータスに惹かれていたからだろう
というか、支配民族が相当に少数だから故の方便でしょ
ていうか李成桂女真族説とか言ってるの宮脇淳子とその夫くらいだし↓に「論証」があるけど
http://www10.ocn.ne.jp/~okamiya/liseikei.html おばが女真族(これがダルガチだった)の嫁になってるから李成桂も女真に違いないとか
「情況証拠しかなく、立証する術はない。」と言ってるぞ。
王室のルーツが女真族だろうが世宗代に北方女真を侵略して、仁祖代に女真王朝である清に凹られたのは変わらんのだから
歴史的に大した違いはないが、そもそもの論拠が薄いんじゃないかね。
ダルガチ云々にしてもダルガチは「代官」であり、フビライの娘婿になった忠烈王が「征東行省(=高麗)ダルガチ」を兼任したように
役職優先だったのか、蒙古系と姻戚関係になるだけでも任命されたようだし。
李安社は只の千戸長だから高麗人だったらダルガチには成り得無いよ
>>399 "厳密"に区別されてるか?
いわゆる漢人ってモンゴル諸語を話すとされる契丹族、ツングース諸語を話す女真族
あとは、いわゆる漢民族の原型になったとされる中国諸語を話す人々でそういうのを全部ひっくるめて漢人と一括りにしたわけだが
南人と漢人を区別するという発想自体は金の統治からきてる。 金は靖康の変以後に手に入れた華北に住む人々と燕雲十六州の人々とを漢人、南人の区別を設けたが
どんな集団的差異があってそうなったのか不明
色目人にもイラン系テュルク系タングート、マルコポーロ等の著名な欧州から来た人々も色目人。
そして色目人的性質を持ち合わせている人間もモンゴル人に含まれる場合があった事からは集団を厳密には区別してない事が明らかなようにも思えるが。
少なくともエスニックグループによる分類ではないだろうね。
厳密に区分されてる
モンゴル人はモンゴル人、南家は南宋の人間
漢人は大元以前に華北を支配していた遼金西夏の諸族
色目は諸色各目でそれ以外の全て要するに外人
何をいってるかも理解出来なかったらしい・・・。
モンゴル人の中にはテュルク系の人々も含まれていた、というのもハーンなどが直接率いる軍隊には
テュルク系とされる人々がかなり含まれていたが彼らは"モンゴル人"扱いされた場合もあるし
タングート族は色目人に含まれる場合も、漢人とされる場合もあった。
分類は簡単に言えば地域毎に大雑把にわけられているが、各個人によってそうでない場合もあり、厳密などでは到底ない
例えば、"漢人"という括りはとてつもなく雑多なグループを一まとめにしてる。
実際漢人というのは華北に住むという以外は余り共通点はみられないわけでね。
所詮、民族なんてものは形而上学的な想像物なわけだから実態とは違うわけだよ。
例えば、ティムールみたいな人物がいい例でモンゴル人でありつつもテュルク系の性質を帯びているともいえるし。
モンゴル人でもテュルク系の人間ではなく別の何かともいえる。
特にモンゴル帝国によって人々の交通、通婚が盛んになる以前から人々は通婚していたわけだし、"厳密"に区分する事なんてまず不可能。
それこそ恣意的な判断によらざるをおえないと言う事を忘れているか理解していないんじゃないか。
馬鹿は凡ゆる部分で何も理解出来て無いな
4つの集団は厳密に区分されていた
モンゴル人はモンゴル人、南家は南宋の人間
漢人は大元以前に華北を支配していた遼金西夏の諸族(高麗族も含む)
色目は諸色各目でそれ以外の全て要するに外人
モンゴル人は当然ながら現代のモンゴルに住んでいた人間では無く
モンゴル帝国を建国した際の部族がモンゴル人、西夏人は漢人に区分された
個々人が個人的な関係(早期の帰属等)によって移動する事はあっても例外でしか無い
李安社は只の千戸長だから仮に漢人である高麗族の場合ダルガチには成り得無い
女真も漢人になるのでは?
金人は漢人でも女真の生女真は色目
>>406 >モンゴル人は当然ながら現代のモンゴルに住んでいた人間では無く モンゴル帝国を建国した際の部族がモンゴル人、
なるほどつまりその当時はエスニックグループによって分類されてない事は明らかで当時の"モンゴル人"という存在は帝国の創設者達ぐらいの意味しかなかった。
これは私の主張と合致してますね。
>個々人が個人的な関係(早期の帰属等)によって移動する事はあっても例外でしか無い
なるほど、つまりそのような例があった事は認めてくれている訳ですね。
当時の戸籍からどの程度そのような"例外"があったのか算出するのは実質的に不可能でしょうし、そもそもどの程度の比率をもって"例外"とするのかは相対的なもので人によるでしょうし
例え、帰属が変更されているような例があったとしても"厳密"に区別されていると考える人がいてもしょうがないですね。
エスニックグループによる分類でもなければ、そうした集団的分類が硬直性を持ったものではなく、"例外"もあった事を認めてくれたようですので、もう話す事はないですね。
漸く大元帝国に於ける4つの集団
モンゴル人、南家、漢人、色目が厳密に区分されていた事を受容した様だね
階級間の移動が特権階級の縁故による例外に属し
支配層の末端である千戸長、ダルガチに被支配民族である高麗人が成る可能性は殆ど無い事を
賀惟一みたいに漢人でも蒙古系の姓に改姓すれば達魯花赤にはなれた(高麗王族も同様)んだから
そもそも前提が食い違ってる気が。
まあ賀惟一は高麗出身の奇皇后と対立した挙句賜死されてるけど。
蒙古は文官の数が少なかったから、征服地の王をそのまま達魯花赤=知事にして
適度な武官を監視役に置いて間接支配したわけでしょ。
中原は数少ない蒙古で支配したから、そこから漢人の知事が出る余地はなかったってだけで。
>>408 金は全女真を統合しているのでは?
末帝は殺されたけど蒲鮮万奴の大真(東真/東夏)は取り入った件?
しかしそうなると上手く取り入れたかどうかということになるのでは
李安社がモンゴル側に回ったのはモンケ時代で高麗自体は交戦中、
このタイミングで取り入ったことはそれなりに有利かな
>>411 高麗王でさえ征東行省の次官でしかなくモンゴル人の下に置かれていた
南家と同じく下位に置かれた高麗人がダルガチに成る可能性は殆ど無いから
李安社が千戸長とダルガチを兼任していた以上
女真かモンゴルのどちらかの蓋然性が高い
>>405 主張してることは屁理屈こねてるだけにしか見えないが、
とりあえず、
×よらざるをおえない ○よらざるを得ない な。
岩波や明石書店の朝鮮史も、いわゆる嫌韓本もバランスが悪かった
ので朝鮮史研究会『朝鮮史研究入門』(名古屋大学出版会)を読んでいる
のですが、韓国の研究については一切言及されていません。
朝鮮史については、日本の研究水準のほうがまだ高いと考えてよい
のでしょうか。
どなたかご教示いただければ幸いです。
金朝鮮と五財韓
>>415 日本に関係する部分は、日本の方が高い。
しない部分は、日本人論文でも、個別項目として韓国の論文引用率が高い。
韓国人研究家の名前を挙げて記述する人はすくない。
>>417 お答えありがとうございます。
ごめんなさい、
しない部分は、日本人論文でも、個別項目として韓国の論文引用率が高い。
韓国人研究家の名前を挙げて記述する人はすくない。
の意味がよくわからないのですが、教えていただけませんか。
日本人の朝鮮史研究者の論文であっても、韓国の研究者の論文を引用する率が高いということでしょうか。
そうすると次の「名前を挙げて記述する人はすくない」の意味がよくわからないのですが。
大学のリポジトリーをあさって
直接論文を読んでみたほうが早いと思うよ。
420 :
世界@名無史さん: