正史『三国志』 二十七巻

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1世界@名無史さん
前スレ
正史『三国志』 二十六巻
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1325418244/
2世界@名無史さん:2012/03/26(月) 21:37:07.09 0
わたくし甄氏がいちおつお伝えいたします
3世界@名無史さん:2012/03/27(火) 22:10:06.94 0
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1325418244/998
王基などが魏で孝廉に推挙されて郎中になったりしてるぞ。
州大中正以降貴族制維持装置としての九品官人法に段々ととって代わられていくけど、北魏の時代にも孝廉に挙げられて高官に登った例は見られる。
4世界@名無史さん:2012/03/28(水) 05:59:06.81 0
>>3
・・・北魏以外は?
一瞬復活するけど、やっぱ使えなくてすぐ消えるの繰り返しだろう。
5世界@名無史さん:2012/03/28(水) 07:38:51.42 0
自分で調べる頭も人の言葉を理解する頭もない上に都合のいい場所だけ反応して他は無視かよ
いつもの子
6世界@名無史さん:2012/03/28(水) 07:51:33.65 0
>>5
五胡十六国時代に孝子の取立てなんてどれだけあったというのかw
後漢時代に比べてもないに等しいだろw
7世界@名無史さん:2012/03/28(水) 08:39:48.48 0
>>4
ちょっと探してみた。「孝廉」のみで探したために「孝子」で挙げられている人間を見落としている可能性あり。
また南北朝代は『南史』『北史』のみを探したため見落としが多い可能性あり。

☆立伝人物★非立伝人物○注の人物
三国志
☆王基
○杜寛(杜恕の弟『杜氏新書』に挙孝廉)楊豊(『世語』酒泉の人、黄初年間に挙孝廉)杜摯(『文章敘録』河東の人。)

功臣の大部分を占める後漢代の孝廉制を経た人物は除いた。他何人か孝廉に推挙された年代不明の人物あり。
立伝人物は功臣子弟が郎官にそのままスライドしているため官吏登用制度を経て登用された人物自体が少ない(後漢初期にもみられる現象)。
魏文帝の時期、三公府で(後漢中期より行われてきた)孝廉制における試験制度の廃止が提起されるも、華キンが「行わなければ学問が廃れる」として反対。
文帝はこれに従っている。(正史本文)
孫資が田豫の子を孝廉に挙げている。(『孫資別伝』)

晋書(=おおよそ曹魏後期〜五胡十六国末)
☆魏舒 劉しょく 唐彬 山濤 李胤 盧欽 劉毅(魏末) 侯史光 劉頌 傅玄 光逸 皇甫謐 束皙 阮チュウ 周札 周稚 周訪
孫? 李含 陶侃 紀瞻 薛兼 戴若思 甘卓 熊遠 陳? 張憑 陸曄 蔡謨 王遜 陳寿 虞溥 虞預 謝沈 陳邵 虞喜 徐苗 崔遊
杜夷 曹? 李? 氾騰 任旭 ?秀 索襲 祖約 蘇峻 李庠
(家世孝廉)張軌
★尹虞 范逵 令狐策 索充 呉暢

南史(南朝)
☆袁粲 孔靖 丘巨源 郭世通 呉逵 張乾
★秦綿

北史(北朝)
☆裴? 李彪 劉桃符 劉献之 孫惠蔚 李? 李玄紀 李業興 楊慶 杜纂(明帝初) 公孫景茂
★廉景孫 李漢子 鮑長暄

北魏、北斉は確固とした制度として孝廉制あり。
李キュウ、李玄紀、李業興は三代続けて孝廉に挙げられており、北朝の伝を持ってない三人は連名で出てくる箇所あり。
8世界@名無史さん:2012/03/28(水) 08:54:23.03 0
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20111027/1319642219

孝廉年未五十、先試箋奏。初上試之以事、非試之以誦也。

(応劭『漢官儀』上)

漢代の孝廉は、五十歳未満の場合は「皇帝による試験に合格すること」という条件が付いていた。

逆に言うとそれ以上の年齢の場合は免除された。
9世界@名無史さん:2012/03/28(水) 08:55:56.12 0
やっぱ世の中ゼニだね。後漢でこれだよ。

孝廉になる代償
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20111024/1319383398

馬融爲南郡太守、二府以融在郡貪濁、受主計掾岐肅錢四十萬、融子彊又受吏白向錢六十萬、布三百匹、以肅爲孝廉、向爲主簿。

(『三輔決録』巻二)

三遷、桓帝時為南郡太守。先是融有事忤大將軍梁冀旨、冀諷有司奏融在郡貪濁、免官、?徙朔方。自刺不殊、得赦還、復拜議郎、重在東觀著述、以病去官。

(『後漢書』列伝第五十上、馬融伝)


後漢の儒学者として有名な馬融の醜聞。

馬融は部下の吏から金品を受けて孝廉や主簿にしてやったという。

この件は『後漢書』によれば大将軍梁冀が罷免に追い込むためのものであったらしいので、本当かどうかという問題も無いでもない。

ただ、当時の太守と部下の吏たちの関係について考える上で一つの資料になるのではないかと思うのでメモしておいた。
10世界@名無史さん:2012/03/28(水) 09:15:50.47 0
まぁ賄賂はどの王朝も仕方なかろう。
魏の中護軍は腐敗していて、蒋済に到っては値段を公言して武官の職を売っていた上に馬融と違って摘発されてないようだから。
11世界@名無史さん:2012/03/28(水) 09:22:07.33 0
時代が下がるごとに孝廉が減る理由は簡単。
孝廉が20万人に一人しか推挙されないからだろう。
後漢末期から魏晋南北朝は人口激減期だからね。
12世界@名無史さん:2012/03/28(水) 10:03:52.48 0
馬融は盧植や鄭玄の師だから、劉備や公孫サン、あと曹操の腹心のチ慮や崔エンの師匠筋に当たるね。
13世界@名無史さん:2012/03/28(水) 12:05:04.80 0
>>11
ああ、新末後漢初と三国の双方の時期で激減してるのはそれが大きいのか。
14世界@名無史さん:2012/03/28(水) 12:37:16.08 0
光武帝は別に儒教を重視したんじゃなくて、戦乱で減った分を補充しようしただけ。
15世界@名無史さん:2012/03/28(水) 12:43:39.68 0
いや、露骨に儒教重視しているがな。
祭礼の手順を定めたり封禅もしてるし、太学も建設してる。
孝廉制の重視も決めている。

何故か知らんけど光武帝信者は儒学嫌いが半端無いが、あれを儒学から切り離すのはどうやったって無理。
16世界@名無史さん:2012/03/28(水) 13:15:18.27 0
でも後漢の順帝の頃になると「やっぱり孝行と廉潔だけじゃだめだ。経術や箋奏の試験もやるから」ということで審査基準が変わってる。
なお、奸臣梁冀はこの試験が始まる前にコネで出世している。
17世界@名無史さん:2012/03/28(水) 16:12:54.01 0
>>15
そりゃ〜光武帝には頼れる譜代の家臣が少ないからだろ?
太学は自分に忠実な官僚団を育てるためだし。
でも孝廉制の重視ってのはどーよ。
孝廉の審査基準は前漢の武帝の時代からあんまり変わってないんじゃ。
18世界@名無史さん:2012/03/28(水) 18:07:30.66 0
>>16
孝廉制については色々難しい所もあるが、そもそも元から孝行と廉潔だけを察挙していた訳ではないとする説が根強い。
あと、後漢後期の制度に課試制があるのは事実なんだけど、試験については前漢から行われていたとする説もある。

東晋次氏は『後漢時代の政治と社会』に後漢代の孝廉に関する先行研究として、二つの説を引いている。

福井重雅氏の『漢代官吏登用制度の研究』の漢代の用例に基づいた字義の検証によると、
「孝=儒術的官吏」「廉=法術的官吏」となるとした。
またこれと違う論として、永田英正氏の「漢代の選挙と官僚階級」を引いて、
孝廉制は選挙の諸科を全て含む可能性を挙げている。
四科のうちの第三科に「明曉(達)法令,足以決議,能案章覆問,文中御史。」とあるため、
どちらにしろ孝廉制全体について言えばもとより法に詳しい人間についても登用しているといえる。

このうちの後者の説で行けば、試験は両漢を通じて為されてきたと見る事も出来る。
19世界@名無史さん:2012/03/28(水) 18:10:24.36 0
>>17
孝廉制重視に変わっている。
衛宏『漢旧儀』によると、武帝期の丞相故事として
「第一科曰徳行高妙,志節清白。二科曰学通行修,経中博士。三科曰明曉法令,足以決議,能案章覆問,文中御史。
 四科曰剛毅多略,遭事不惑,明足以照姦,勇足以決断,才任三輔劇令。皆試以能,信然後官之。」
とあり、前漢期の四科では光武帝と違い全てに孝悌廉公は求めておらず、先にテストで能力を見た後、その対象の官に任じたようだ。
またこちらは選挙不実の場合
「称才量能,不宜者還故官」
と、もとの官に戻されることになっている。

応劭『漢官儀』に引く、光武帝の「中興甲寅詔書」に、
「方今選挙,賢佞朱紫錯用。丞相故事,四科取士。第一科曰徳行高妙,志節清白。二科曰学通行修,経中博士。
 三科曰明達法令,足以決議,能案章覆問,文中御史。四科曰剛毅多略,遭事不惑,明足以決,才任三輔令。
 皆有孝悌廉公之行。自今以後(中略)務授試以職。有非其人,臨計過署,不便習官事,書疏不端正,不如詔書,
 有司奏罪名,並正挙者。」
とあり、光武帝以降は、孝悌廉公を四科全ての人間に要求し、能力をその職に就かせた上で問うていて、
更に前漢と異なる部分として、その科目の才能がない者、計算を間違う者、官の習慣に習熟できない者、
書類の形式が整わない者、詔に従わない者は選挙不実の罪に問われ、察挙者被察挙者共に刑に服することになったようだ。

ちなみに引用は中華書局『漢官六種』に拠る。なお異体字はなるべく簡単な物に直した。
203,7,15,18,19:2012/03/28(水) 18:35:48.69 0
ちなみに魏晋南北朝の孝廉制を流し見ての印象なんだけど、
運用から見ても単純に「孝行と廉潔」というよりは、劉頌など、儒法両面の印象も強いから、
実際に最初から儒術と法術を元に建てられていた可能性も高いと思う。
21世界@名無史さん:2012/03/28(水) 18:38:50.24 0
>>19
>光武帝以降は、孝悌廉公を四科全ての人間に要求し、能力をその職に就かせた上で問うていて、
>更に前漢と異なる部分として、その科目の才能がない者、計算を間違う者、官の習慣に習熟できない者、
>書類の形式が整わない者、詔に従わない者は選挙不実の罪に問われ、察挙者被察挙者共に刑に服することになったようだ。

前漢よりさらに厳しく人格と実力をみるようになったってことじゃん。
22世界@名無史さん:2012/03/28(水) 21:44:53.12 0
孫権が孝廉なんだよね。
親父の敵討ちが聞いたのかな。
23世界@名無史さん:2012/03/28(水) 21:58:31.52 0
推挙したのは朱治だぞ
軍閥内の拍付けだよ
24世界@名無史さん:2012/03/30(金) 16:52:41.48 0
6年も喪に服した袁紹が孝廉に上がってないのは何で?
25世界@名無史さん:2012/03/30(金) 16:58:47.05 0
ていうか、袁紹の「奔走の友」で孝廉に挙げられてるのって曹操だけだ。
意外と袁紹チームって地位低い?
26世界@名無史さん:2012/03/30(金) 19:14:42.86 0
孝廉に推挙されると皇帝に宿衛する郎官の道を歩む。
袁紹は二十歳でとっくに郎官になっている。
まあ、孝廉郎官と他のルートでの郎官は出世に差があったようで、この辺は傍流の袁紹と本流の袁術の格差だろうが。
しかし、袁紹はその後、県長まで昇ってから喪に服したので孝廉になる段階はいささか通り越している。
しかも、喪が明けると洛陽に陣取って名士と交流し、食客を養って宦官や中官の警戒を買う始末。
その後は汝南に逃れて反黨錮の地下活動に尽力。
「袁紹グループ」ってのは、後漢朝廷健在の時代はそういう非宦官・非主流青年の集まりだったので、出世の道はお察しください。

どら息子の曹操が孝廉なのは、かの大宦官曹騰の孫ってことからお察しください。
そういう出身に関わらず、郎官として洛陽に登ってから堅物酷吏の橋玄や袁紹らに接触して
名声を獲得していった、というのが曹操の面白いところだね。
27世界@名無史さん:2012/03/30(金) 19:24:09.45 0
八俊と称えられたの張バクまで孝廉じゃないというのは意外だ
28世界@名無史さん:2012/03/30(金) 20:01:53.63 0
>>27
辟召は格から言って孝廉のかなり上だよ。
人口最盛期には孝廉は毎年二百数十名。
辟召は数名から十数名。
29世界@名無史さん:2012/03/30(金) 21:03:19.51 0
いやそれは格ではなく単に高位の人物が有望な人材を招く国家の人材登用としては例外的なものだからだろ
30世界@名無史さん:2012/03/30(金) 21:22:05.98 0
あー言えば、こー言う
こんなのばっかだな、このスレ
31世界@名無史さん:2012/03/30(金) 22:24:45.72 0
ごめんね
32世界@名無史さん:2012/03/30(金) 22:59:24.18 0
>>29
数が少ないと例外的? なんで?
例外的だと格上じゃなくなる? なんで?
33世界@名無史さん:2012/03/30(金) 23:03:43.22 0
しかも「高位の人物が有望な人材を招く国家の人材登用としては例外的な」
辟召を受けた張バクが「地位低い?」とこれ如何に。

その場の思い付きを場当たり反応で誤魔化そうとするとこうなる。
34世界@名無史さん:2012/03/30(金) 23:20:10.66 0
>>33
孝廉ルートよりもえらいのそれ?
35世界@名無史さん:2012/03/30(金) 23:25:29.60 0
>>22>>23
孫策の伝曰く、曹操の懐柔策らしいぞ
36世界@名無史さん:2012/03/31(土) 00:06:36.31 0
辟召ルートでの出世は辟召した人の地位がダイレクトに効いてくるので。
招いた人が失脚したり死んだりしたら途端に価値なくなる。
37世界@名無史さん:2012/03/31(土) 00:26:46.45 0
>>34
孝廉は、そこから県長や丞、地方の二百〜三百石官になるのが常道コース。
辟召ってのは召された瞬間に公府の二百〜四百石の掾属になれる。
のちには御史のような皇帝直属にも栄達できる。

>>36
推挙者の連座で免官になるのは孝廉も同じ。
公から繋がる人脈は当然重要だが、
辟召はそれによって朝廷内に占める地歩だけでも孝廉などより遥かに有利。

孝廉というのは、倍率からすれば国家公務員一種並のエリートだけど、
漢の察挙制度では最もありふれたもの。
茂才とか有道・博士弟子などの推挙の方が価値が高い。
38世界@名無史さん:2012/03/31(土) 00:45:03.70 0
孝廉で出世した人はたくさんいるけど、辟召で出世した人はかなり少ない気がする。
質的にはどっちが上?
39世界@名無史さん:2012/03/31(土) 02:59:52.19 0
五井氏の「後漢時代の官吏登用制『辟召』について」が後漢の三公の昇進経路を集計してて
桓帝期には孝廉から6人、辟召から6人
霊帝期には孝廉から3人、辟召から3人
献帝期には孝廉から3人、辟召から1人

質的にどっちが優位かは明らかでないとしても、数的には孝廉と辟召とでいい勝負かな
また孝廉で決まる昇進は郎官までだったからこれだけではさらに昇進するための絶対条件とはならなかったとか
辟召は孝廉のようには選考基準が一定ではなく辟召者の意志による分昇進には有利だったとか指摘されてる
40世界@名無史さん:2012/03/31(土) 07:49:11.05 0
曹操の挙兵を助けた衛茲は孝廉、鮑信は何進に辟拜(辟召と同じ意味?)されたらしい。
そして曹操自身も孝廉。
曹操集団は意外と粒が揃っている。
41世界@名無史さん:2012/03/31(土) 08:54:41.79 0
うむ
42世界@名無史さん:2012/03/31(土) 15:39:11.87 0
諸葛亮が出師表を出す前は、三国それぞれ平和でありましたな
43世界@名無史さん:2012/03/31(土) 20:32:04.36 0
>>32
高位高官が特定の人材をスタッフとして招くわけだから
選挙がメインの後漢で見れば例外的な雇用でしょ
それとも後漢ではメインの採用方法だとでも?

格が高いから少ないのではなく単に招く権限持ってる人の絶対数が少ないだけで
その数の少なさを理由に格の高さを云々とは言えないよ

あと張バクに関して地位が低いとか言ってるのは俺ではないんで
単に>>28の論法がおかしいって言ってるだけなんだわ
44世界@名無史さん:2012/03/31(土) 22:00:33.98 0
>>39
それって辟召経験者が三公になれる確率は、孝廉のみの20倍はあるってことなんだが
45世界@名無史さん:2012/03/31(土) 22:14:57.28 0
>>43
自分で調べもしないくせに人の字面だけへの反論屁理屈ウザッ。
しかもでかい態度そのままで逃げの手かよ。
じゃあ辟召がどんなもので当時どんな価値があったのか自分で考えてみる能力も気力もないの?

けだし東漢時、選挙辟召みな以って入仕すべし。
郷挙里選を以って序にしたがい進む者、選挙なり。
高才重名以ってふみ昇る者、辟召なり。
ゆえに時の人なお辟召を以って栄となすという。

文献通考第三十九選挙考
46世界@名無史さん:2012/03/31(土) 22:57:48.23 0
>>45
つまり数が少ないことは格とは何の関係もなかったわけだ
めでたしめでたし
47世界@名無史さん:2012/04/01(日) 01:57:51.02 0
めでたくねえよ。
低脳無価値な一行レスに釣られた時間を損しただろ
48世界@名無史さん:2012/04/01(日) 03:16:18.05 0
数と格が無関係なのを強引に結び付けてたのに自覚できないでいたんだろう?
論理の狂いを指摘されて気付けたんだから損じゃなくてむしろ得だよ
めでたしめでたし
49世界@名無史さん:2012/04/01(日) 11:51:04.59 0
それマジレスなのか…
この板で「それは格ではなく」とか「例外的なもの」だとか思わせぶりなこと言うからには、
辟召について基礎知識があるものと思うんだよ。
孝廉と辟召とを受けた者のその当時の名声の差とか、出仕して任官するポストの差とか。
三国志か後漢書をざっと読めばそのくらいのイメージは掴めるだろ。
孝廉の20万人に一人という割合でさえ、六桁の官吏を擁した後漢代において
いかに、君のいうところの「例外的」な登用制度だったのか、なんて計算してみれば判るだろう。
ここは歴史板なんだからさ。

その知識がある者同士の会話だと思ってたのに、ところが、ただの無知による揚げ足取りと来たもんだ。
その場の思い付きを場当たり反応で誤魔化すのは、このスレではやめてくれな、本当に。
50世界@名無史さん:2012/04/01(日) 12:03:08.94 0
まあ、>>37で既に辟召の高価値に触れられているのに、無視して>>32にレスする辺り、
辟召がどうこうってのは本気でどうでもよくて
揚げ足とって言い負かすことにしか興味なかったのだろう。
51世界@名無史さん:2012/04/01(日) 12:06:18.95 0
しかし後漢末期の地位ある人物で、辟召で出世した人ってあんまりいないだろう。
52世界@名無史さん:2012/04/01(日) 13:30:29.91 0
>>49
思わせ振り?
数の少なさは例外的な採用方法に由来するもので
格式の高さによって少数になってるわけでもないのに
人口比で考えるからおかしいって述べてるだけなんだが何かおかしいかい?

価値が高い低いって言ってるわけじゃなくて
数の多い少ないが格の高い低いと関係してるかのような説明がおかしいってこと言ってるだけなので
揚げ足じゃなくて他人と議論するなら正確に説明しろって言ってるだけなんだがね
53世界@名無史さん:2012/04/01(日) 14:07:14.50 0
本当シャドーボクシング好きだな、お前ら…
54世界@名無史さん:2012/04/02(月) 01:27:37.11 O
話題の上ってる孝廉・辟召ですが、いわゆる文官というか官吏の出世コースだったのは分かるのですが、武官の場合はどうだったのでしょう?
士大夫階級で出世して将軍位を貰ったような人と、いわゆる「軍人」というか、現場の才覚でのし上がった人は毛色が違うような気が…
劉巴のエピソードのように厳然とした階級の違いがあったのでしょうか?
後漢末〜三国時代は軍事の才能が重要な時代だったと思うのですが、軍人の地位向上というか、エリート軍人の出世コースみたいなものがあったのでしょうか?
55世界@名無史さん:2012/04/02(月) 02:13:54.13 0
叩き上げ軍人は敵のいるところが出世コースなんじゃない?

エリートは中央の宮殿や要人の警備、親衛隊みたいな役目から軍人として出世してくのかな
結構中郎将とかになってる人いるよね
56世界@名無史さん:2012/04/02(月) 03:12:37.89 0
黄巾の乱まで、武官経験のみの叩き上げ軍人が出世できた例は極めて少ない。
異民族対策ぐらいしか仕事ないし、その人たちですらろくに将軍位はもらってない。
57世界@名無史さん:2012/04/02(月) 04:42:23.48 0
>>56
将軍、となると途端に厳しくなるな
叩き上げっぽく見える人でもさりげなく太守とか県令とか経験するし
武力を背景にした慰撫をするのだろうけど確かに武官ではないんだよなぁ
58世界@名無史さん:2012/04/02(月) 07:42:46.49 0
>>54
この時代は、乱世でなければ高級武官って存在が殆どいない。
将軍は官僚がなるもの。
ただ、前漢には羽林・期門という宿衛の郎官があり、
六郡の良家の子弟から選ばれ、名將が多くこれよりいずる、という。
ただし、隴西、天水、安定、北地、上郡,西河という西北の習俗に通じた騎兵の素養が高い者に限定されるが。
実際、趙充國、甘延壽と言った史書に残るクラスの名将が羽林の出身で、
李廣もまた「以良家子從軍撃胡,用善射,殺首虜多,為郎,騎常侍」と、羽林郎になったのであろう
記述がされている。

後漢ではこの出世ルートはほぼついえたようだが、
末期になって董卓を輩出する。


>>52
>>29がそんな偉いお言葉に見合うほど立派で正確なレスだったら良かったのにね。
「実は俺はこういうつもりだった。始めから正確に説明しないお前が悪い」
とか後から言っておかしさを感じない?
59世界@名無史さん:2012/04/02(月) 10:36:51.01 O
なるほど。後漢当時の武官の仕事は西方(北方)の異民族対策が中心で、しかも基本的には武官の仕事のみでの出世は難しいということですね。
軍功名高い皇甫嵩も孝廉がスタートだしなあ。
羽林郎という武官がスタートの董卓が、王朝崩壊のとどめをさしたのは何だか象徴的ですね。
60世界@名無史さん:2012/04/02(月) 12:34:47.85 0
>>58
はあ?
ハナから単純に数の違いであって格じゃないって言ってるじゃん
それに反論が付くから何言ってんの?って解説をわざわざしてるのであって
基本的には君の論旨が狂ってるってことだけが問題なんだよ
61世界@名無史さん:2012/04/02(月) 12:43:32.57 0
やれやれ。人の追求だけご立派なお子様か
62世界@名無史さん:2012/04/02(月) 12:52:43.18 0
まあ、長々と説明してくれたお陰で齟齬の原因はわかったよ。
後漢の登用方法が「選挙がメイン」で「辟召は例外的」という勘違いをしていたから
>>29のような舌足らずなレスになってしまったんだね
言葉は大事だねってことで。
63世界@名無史さん:2012/04/02(月) 13:03:42.84 0
>辟召は例外的

いやその通りでしょ。
64世界@名無史さん:2012/04/02(月) 16:03:08.69 0
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。

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大韓毎日   、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
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韓国日報  、、、、  〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
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東亜日報   、、、  〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
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日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C ←NHKの社員がよくチカンやヤクで捕まるのはここの工作員

640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品
@『監査法人 (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会
65世界@名無史さん:2012/04/02(月) 17:28:46.53 0
一般的な採用は選挙だしそれから見れば例外的な採用だろ
66世界@名無史さん:2012/04/02(月) 21:26:35.93 0
普通に考えると、孝廉の方が数が多い分質も高いのでは?
20万人から1人が選抜され、その中で更に競争して高い官位をもらう者の方が優秀だろう。
67世界@名無史さん:2012/04/03(火) 06:25:59.94 0
竹島に韓国軍を置かせるように言ったのも朝鮮人だらけの民主党だからな
未だに勝手に侵犯しているなんて考えの人は居ないよな
もちろんJAL、エルピーダは民主党による国策倒産
ここら辺は新聞読んでちゃ判らない


「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
 【殺された石井こうきの発言から】

そうか、統一教会、朝鮮総連、民団→朝鮮人だらけの民主党
すべて繋がっている
68世界@名無史さん:2012/04/03(火) 20:38:03.88 0
ま〜た、シャドーボクシング\(^o^)/ハジマタ
69世界@名無史さん:2012/04/04(水) 08:57:41.48 O
将軍位もってて群雄化した最初って袁術?
この人も孝廉だよね。
70世界@名無史さん:2012/04/04(水) 11:03:50.09 0
僅かながら選挙の匂いが漂ってまいりました。

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                    ||   ちょっと待て .  .     .|
                    ||         .           |
                    ||    その民主党員  . |
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                     '"´: : : : : : : : :`丶 . 帰化鮮人|
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71世界@名無史さん:2012/04/04(水) 18:24:11.09 0
>>69
群雄化の定義がわからん
どういう状態になることを群雄化というの?
72世界@名無史さん:2012/04/04(水) 20:43:40.67 O
>>71

曖昧な言葉を使って申し訳ない。
ある程度の兵力や権威をもって地方に割拠した状態?(漢王朝に反旗を翻した所謂「賊」は除いて)
で考えてました。

そしてその契機はやはり反董卓で関東の諸侯が挙兵した時かなと。
それら諸侯の多くは太守、刺史、国相だったと思うので、現役?の将軍職は袁術だけかなと。
73世界@名無史さん:2012/04/04(水) 20:49:25.44 0
>>72
反董卓の関東諸侯の反乱は形式上は完全に「漢王朝に反旗を翻した賊」なのだけども
その辺の区別はどうしたもんじゃらほい
74世界@名無史さん:2012/04/04(水) 20:59:19.86 0
僅かながら選挙の匂いが漂ってまいりました。

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75世界@名無史さん:2012/04/04(水) 21:47:17.85 0
ことに袁紹なんて新皇帝をたてようとしているからな。
立派な反逆者だ。
76世界@名無史さん:2012/04/04(水) 22:38:56.58 0
>>75
劉秀だって新皇帝俺を立てたんだから別にいいんじゃね
77世界@名無史さん:2012/04/04(水) 22:40:50.59 0
1 名無しさんにズームイン! [] Date:2012/03/28(水) 08:28:15.02 ?ID:NWYs/2ZP Be:
 やらなけゃいけない
 電○の各局への圧力が半端ないんです
 昨日、一昨日前田AKB卒業ネタやった情報番組全てが前田AKB卒業ネタ中の毎分で視聴率がダダ下がりしました。
 各局本音では毎分視聴率ダダ下がりするこのネタははやりたくなかったけど原子力村以上に電○からの圧力が凄いんです

ブーム捏造、枕営業、自社買い、サクラの動員そして
AKBの捏造ブームのために税金が大量に使われている証拠がこちら

やっと気付いた「AKBに電通が絡んでる」ではなく「AKBの正体が電通」な件 その124
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1333533082/
テレビの捏造ブームに騙されるな
78世界@名無史さん:2012/04/07(土) 11:41:44.92 O
bayfm78〜
79世界@名無史さん:2012/04/07(土) 15:33:11.21 0
「国の借金」について

日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。

朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。

<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙されて続けている訳です>

数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
  しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。

それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
 
  実質中国共産党の持ち物でありますNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
   
 ---そのニュース 核心は”デマ”だ。       長文失礼いたしました。---
80世界@名無史さん:2012/04/07(土) 15:37:27.99 0
27スレも話し合うことなんかあるのけ? 三国志で??
81世界@名無史さん:2012/04/07(土) 16:12:06.88 0
恋姫の話とか一騎当千とかいろいろあるだろ
82世界@名無史さん:2012/04/07(土) 16:35:56.09 0
>>81
そういう話はここでは厳禁だろ。
83世界@名無史さん:2012/04/07(土) 19:15:59.78 0
漢代の登用のメインは人事担当官の選任による。
昇進は功労考課制。
官吏の95%以上は選挙なんて経験しない。
選挙というのは現代日本の国家公務員一種以上のエリートを抜擢登用する
例外的な制度。
84世界@名無史さん:2012/04/07(土) 23:52:15.15 0


全国紙社内でも
共産党員の人数は、一位が朝日で212名、二位が毎日で151名、三位が
日経で131名、四位が読売で12名、最下位が産経で11名であった。この順位を見ると
反米や中朝賛美、防衛アレルギーや自虐史観を喧伝する
左翼傾向の度合いと、共産党員数はピッタリと重なっている。
朝日と毎日については実数はその何倍にもなるとのこと

  要するに朝日や毎日なんかは共産党員がつくっている新聞であり、「赤旗」と何ら変わりない(477頁)

 NHKには内部に22の共産党支部があり、昭和63年の調査では東京都下だけでも、98名
以上のキャスター、アナウンサー、ディレクター等が共産党員であることが確認されている。
この共産党員数は、テレビ朝日やTBSと並んでテレビ業界の上位3位に入るものである。

つまりNHKが反日左翼史観プロパガンダ番組を放送し続けるのも、共産党の指示に沿っての
ことなのだ。自由主義国で公共放送を共産主義勢力に支配されているのは、日本と韓国、
この2カ国だけである
≪祖国を蝕む「内なる敵」を斬る!≫
85世界@名無史さん:2012/04/08(日) 13:29:11.06 0
陳寿は、裴松之のように皇帝から「もっと面白い話をいっぱい載っけろよ」とか言われたわけじゃないし
三国志時代を生きた自分から見て、ウソは書かない、ウソっぽい事も書かないってポリシーと誇りをもって書いてる
86世界@名無史さん:2012/04/08(日) 13:51:19.57 0
そして彼の陳寿の故郷の蜀書は、見るも無残にぺ〜らぺら、薄〜いものになってしまったとさ
87世界@名無史さん:2012/04/08(日) 18:04:00.30 0
とはいえ陳寿も人の子
魏呉に比べて蜀書が薄くなりすぎたのを気にしたのか、
季漢輔臣賛を付して量を補おうとしている
88世界@名無史さん:2012/04/09(月) 05:00:39.82 0
>>83
なるほど
それよりもさらに少ない辟召ってのは
さらに少ない例外中の例外だったわけか

でもそれってやっぱり格の違いとは違うよね
数の少なさを理由に格の説明はできないと思うのだけど
89世界@名無史さん:2012/04/09(月) 11:29:42.91 0
中国ドラマ 三国志 Three king doms
BSフジ 月〜金 17:00〜17:55
全95話(吹き替え版) 無料放送

三国志 OP
http://www.youtube.com/watch?v=uymYExuV0L4
90世界@名無史さん:2012/04/09(月) 13:25:16.51 0
呉懿とかは外戚・高官で、しかも戦功ある将軍だったのに、
何故か資料が無いというのは変な感じがする。名が懿だったから、
壱と名前を変えた上に、列伝に残すのをためらった感じがする。

孫乾や簡擁なんて略歴程度の記載しかないのに伝記が残っている。
呉懿の季漢輔臣賛程度の記述と、官位の昇進を記載し、呉班について
を書けば列伝できそうな気がする。
91世界@名無史さん:2012/04/09(月) 17:20:34.15 0
蜀志を読んだときのあるある

・劉備の前になんで劉焉伝?劉備三兄弟の活躍は?
そして関係ない劉焉伝をちょっと読むが飽きて途中で劉備伝へ飛ぶ。
・関羽伝なんでこんなに短いの?
・ていうか張飛伝は短いどころかじゃないんですけど?メモ書きレベルだよね?
92世界@名無史さん:2012/04/09(月) 19:34:30.27 0
>>90
なんで張昭とか名前も変えずためらいもせず列伝に残されたんだ?
93世界@名無史さん:2012/04/11(水) 03:28:53.18 0
避諱と伝を立てる立てないは関係ない気がするが
陳寿は蜀は自分の言葉で書いて、呉はほとんど書き写した
状況が違う
94世界@名無史さん:2012/04/11(水) 15:33:56.11 0
楽進伝や黄忠伝も短い
95世界@名無史さん:2012/04/11(水) 17:47:38.57 0
呉懿も陳寿が避諱したとは限らないしな。
三国の志が別々に所蔵されていた時代もあるから、
裴松之に至るまでに違う人間が写本すれば文字も異なってくる可能性がある。
漢魏の頃は公文書等以外での避諱は厳しくなかったという研究もあるし。
いつ頃から厳しくなったかというと詳しく知らないが。
96世界@名無史さん:2012/04/11(水) 20:01:33.40 0
趙雲伝も別伝なければマジ短い。
ほぼ略歴表といった感じ。二代目皇帝の命の
恩人ということで、諡号をもらった感じなのかな?

97世界@名無史さん:2012/04/11(水) 21:42:34.93 0
趙雲は老将のイメージが強い。
98世界@名無史さん:2012/04/11(水) 22:08:04.31 0
そりゃあ40年近く歴史の舞台に立っていれば死ぬときはたいてい老人だわな
99世界@名無史さん:2012/04/11(水) 22:47:19.58 0
趙雲は二代目皇帝の命の恩人でも当の本人に特に大事にされた様子はないな
諡号も姜維らの進言によるものらしいし
100世界@名無史さん:2012/04/12(木) 00:27:57.51 0
劉備没後の諸葛亮時代に出世してないかね?
101世界@名無史さん:2012/04/12(木) 00:30:32.84 0
>>100
何故「劉禅時代」じゃなく「諸葛亮時代」というのかね?
102世界@名無史さん:2012/04/12(木) 04:18:39.85 0
李厳が免官されるまでは、他の人が
李厳を越える官位になることは基本的にはなかった。
趙雲存命当時は、李厳は前将軍だから、他の人はそれ以下の
官位にしかなれない。諸葛亮の執政時代は意外と急ピッチに
官位を上げ、魏延と同等まで地位を上げられた印象。
103世界@名無史さん:2012/04/12(木) 06:19:31.91 0
>>101
劉禅時代はその政権を担う宰相の性質によって大きく様変わりするから
趙雲が生きてるのは諸葛亮時代だけだから本当は気にしなくてもいいのかもしれないが
104世界@名無史さん:2012/04/12(木) 16:06:21.33 0
つまり趙雲は諸葛亮には優遇されたかもしれないが
劉禅に優遇されたとする材料には乏しいんだろ
105世界@名無史さん:2012/04/12(木) 18:21:54.17 0
諸葛亮時代に劉禅個人に優遇されたと言える人間を探すほうが難しい。
諸葛亮その人くらいだろ。
106世界@名無史さん:2012/04/12(木) 18:44:15.18 0
リューゼンさんは委任するしかノーがない
107世界@名無史さん:2012/04/12(木) 19:19:07.75 0
後主は斉桓に亜ぐ
108世界@名無史さん:2012/04/13(金) 16:10:13.17 0
斉桓に亜ぐとかいくら晩年が酷いからといって桓公がかわいそうだ
自分を殺そうとした男を才能を認め宰相にしたような器の大きい君主だぞ
しかも劉禅と違って春秋時代で一番戦の回数が多いぐらいの軍人君主なのに
109世界@名無史さん:2012/04/13(金) 16:18:13.26 0
劉禅も酷いのは最後の数年くらい。
晩年は暴君レベルにまで転落した孫権よりもマシなような気がする。
110世界@名無史さん:2012/04/13(金) 20:07:26.02 0
黄色い宦官の人も具体的な悪行はない
生姜繊維が沓中でふらふらしてたのが悪い。
111世界@名無史さん:2012/04/13(金) 20:14:33.10 0
姜維は成都に居場所が無くなって追い出されてから沓中行ったんだよねこれが。
まあそれも魏の最後の侵攻の1、2年前のこと。
112世界@名無史さん:2012/04/13(金) 20:21:24.03 0
無能な劉禅と黄 皓のせいで蜀は滅んだ
113世界@名無史さん:2012/04/13(金) 20:23:31.91 0
姜維は蜀のために最後まで頑張ってたな
114世界@名無史さん:2012/04/13(金) 21:00:50.71 0
106=110=112=113
115世界@名無史さん:2012/04/14(土) 07:17:27.56 0
段谷の戦いでの将官クラスの大量戦死が大きかった。
兵員はなんとかかき集められても、司令官クラスは簡単には
補充できない。防衛システムもガタガタになってしまった。
116世界@名無史さん:2012/04/16(月) 02:44:31.06 0

 <=( ´∀`)  
 (    )  朝鮮人は宇宙一ニダ
 | | |   
 〈_フ__フ


  Λ_Λ    
 < ;`Д´>  あ…
 (    )ポロ 
 | | |  ヽヽ
 (__フ_フ =( ´∀`)

朝鮮人だらけの東京のテレビ局が日夜流す、デマや歪曲に騙されないようにしましょう。
117世界@名無史さん:2012/04/17(火) 20:29:13.23 0
ふとした疑問だが、沛国のショウ県とかで2年の免税とかあったらしいが
その間に移住した住民は免税になるのだろうか?
それとも戸籍管理とかしっかりしてて引っ越し禁止とかになってたのだろうか?
118世界@名無史さん:2012/04/17(火) 20:33:13.31 0
移住したその年の内にほいほい土地購入して耕して収穫して免税受けて、
2年で差し引きプラスに出来るんならそれ目当てで移住してもいいんじゃない?
119世界@名無史さん:2012/04/19(木) 19:53:38.55 0
曹操は、費亭侯に封じられたみたいな書き方だけど、
費亭侯は相続できなかったの?
そもそも親父は相続できてたんだろうか?
ついでに、武平侯は、当初から3万戸?
120世界@名無史さん:2012/04/19(木) 20:57:35.26 0
曹騰が継いでいたかはわからんが、朝廷の権威の及ばない時期にあの死に方では
曹操が相続すると言うより勝手に名乗ったという形式になる。
曹操はそれをせず、皇帝を確保してから改めて正式に相続したってことだろうね。
121世界@名無史さん:2012/04/19(木) 22:20:04.34 0
蜀降伏時の、人口九十何万ってのは、官吏や兵士の家族は別立てなのかな?
人口の1割が兵士って、いくら酷税でも無理がないかな?
122世界@名無史さん:2012/04/19(木) 22:35:10.45 0
先進兵器山盛りのイスラエルが、人口700万に対して常備兵16万(2%)。
予備役も含めて57万(8%)。

複雑な兵器を持たない古代国家の動員力は
ある程度頑健な成人男性を総ざらい出来るくらいあったわけで、
徴兵制の国家で国民の1割が武装を持っているってのは別に不思議ではない。

ていうか魏(晋)も呉もそのくらいの比率の兵士がいた。
蜀漢は当時の時代並でしかない。
123世界@名無史さん:2012/04/20(金) 01:09:46.32 0
戦国時代の日本は人口1200万
生産年齢数はだいたい500万ぐらい
その10%を徴兵すると50万
で、関が原の戦いでは、東西両軍が20万ぐらい
大阪の陣では30万
蜀の人口90万に対して10万は明らかに過酷、っていうかそんなに徴兵したらどう考えても農業が成り立たない
多分兵士10万って言うのは帳簿上の話だろう。
124世界@名無史さん:2012/04/20(金) 01:40:25.74 0
>>123
徴兵制の仕組みを勉強しましょう。
125世界@名無史さん:2012/04/20(金) 01:48:57.85 0
>>124
漢の徴兵ってなんか特殊なの
126世界@名無史さん:2012/04/20(金) 01:51:16.38 0
イスラエルでもスイスでも韓国でも日本帝国のでもいいよ。
近代のものでも徴兵制というものを少しでも知っていれば蜀漢のことも想像できる。
127世界@名無史さん:2012/04/20(金) 01:58:54.60 0
>>126
スイスとイスラエルは特殊例。
徴兵制の韓国軍は人口の1%ちょいの60万ですがなにか。
128世界@名無史さん:2012/04/20(金) 02:00:16.31 0
>>123
ここでしているのは人口全体にたいする兵士の割合だからその計算は間違ってないか?
戦国日本の場合だと10%は120万でしょ。まあこれだとあなたの論を補強することになるけど。

関ヶ原は関ヶ原の戦いを単体でみるのではなくて関ヶ原の役全体で見るべきで
その場合関ヶ原だけで東西両軍が20万、その他に東北では上杉、最上、伊達、その他中小大名が在国で合計5万は優に超えそうだし
北陸でも東軍の前田・堀や西軍の青木らで合計数万、中仙道には秀忠の率いる東軍3万〜4万
畿内及びその周辺には大阪城に秀頼直轄の軍や毛利輝元の本隊が計数万、
大津城攻めや田辺城攻め、さらには伊勢方面にそれぞれ1万以上とも言われる西軍がおり、
四国でも毛利がちょっかい出すわ、九州では島津の大部分や加藤が残留した上に黒田如水が1万も引き連れて暴れるわで
関ヶ原にいる各大名の領地に残ってる守備を考えたら五十万は動員されてそう。

ちょっと長く書きすぎたな。
ちなみに100石に対して6人の軍役を課されることはあった(確かそれ以上もあったはず)ので
100石あたりの人口が100人とすると兵士の割合は6%。
普通はもっと人口は少なかっただろうから7%くらいにはなっただろうか。
129世界@名無史さん:2012/04/20(金) 02:04:42.23 0
>>127
人口比じゃなくて、徴兵制度ってものを理解してくれよと言ってるんだよ。
二十歳で徴兵された人間が30年軍隊暮らしの制度だと思ってたのか?

ついでながら漢の徴兵制ってのは家当たり徴兵比率的に旧日本軍越え。
イスラエルやスイスに近い。
130世界@名無史さん:2012/04/20(金) 02:22:32.29 0
>>128
戦国末期は統一されると大量の浪人があぶれた専業兵士の時代だから
徴兵の農民兵の時代より動員限界が格段に低い。彼らは生産しないからね。
それでも数十万を動員できたのだから、当時の日本の生産力は半端じゃないな。
131世界@名無史さん:2012/04/20(金) 05:47:02.23 0
把握できてた人口が90万人というだけ
実際の人口はもっと多い
132世界@名無史さん:2012/04/20(金) 07:03:53.49 0
把握できてた人数以外の人間を徴兵できるわけがないだろw
徴兵できるほど管理がしっかりしてるなら、それは普通に「把握している」と言う
133世界@名無史さん:2012/04/20(金) 07:08:49.45 0
食うために志願兵になったんだよ
134世界@名無史さん:2012/04/20(金) 08:03:24.14 0
>>129
横レスでしかも当時の徴兵制度に詳しくないんだが、
司馬懿が公孫淵討伐の時期に六十歳以上の老兵を退役させてるけど
この人らも臨時で集められたってこと?
なんとなく、長年兵士やっててそろそろ使えないから家に帰してやるか的な意味だと思ってたんだけど。

あと段谷で将のほかにもベテラン兵が多数死んだから蜀の戦力が低下したってのはデマ?
135世界@名無史さん:2012/04/20(金) 11:12:10.06 0
>>134
自分は129じゃないけどそれは予備役じゃないの?
136世界@名無史さん:2012/04/20(金) 20:05:31.35 0
なんか兵戸の場合は、息子とか弟とか代わりいれば、
もっと早く退役したんじゃないかって。
軍の方だって、どうせならよぼよぼの爺より若い方が良いよな。
濱口氏の本だった思うけど、そんなことが書いてあった。
あと個人の考えだけど、あまり高齢なのは後方任務じゃないのかな。
頭数も重要だけど、役に立たないのが前線にいるとかえって危ないような。
137世界@名無史さん:2012/04/20(金) 20:34:46.10 0
>>134
それは遼東の寒さが厳しかったので60歳以上の兵を先に帰還させたって話だね
段谷の敗戦で、将兵の数的損失がどんな影響を残したかって話は無いと思うが。
まあ今の話にはあんまり関係ないか。

なんか通じてないみたいだから説明してしまうが、
徴兵制の有効な点ってのは、国民全体に広く(数年間の)軍事教練を受けさせることで、
豊富な予備兵力を継続維持できることだよ。
彼らは平時は家業に就いていて、段谷とか遼東征伐のような戦役に召集を受けて遠征に出る。
帰還したら軍は解散して家業に戻る。
漢の徴兵軍の主将たる「将軍」が「非常置」だったのはそういうわけ。

戦時が常態となる三国時代では、この徴兵(農民兵)軍に基本に士戸制・世兵制、屯田、部曲民と言った要素が追加され、
徴集に応じる義務を持つ代わりに公田を貸されてそれを耕す身分や、
豪族の土地を耕して糧を得る代わりに私兵ともなる田客が生まれた。私兵は勿論豪族に従って国の征伐にも赴いた。
輪番的に平時の防備に当たる兵士も赴任地で「秋冬習戰陣,春夏修田桑」と耕作して農業生産を確保した。

かくして生産と軍備の両立が図られて、蜀漢の「帯甲10万」とか呉の「兵23万」が実現する。
ちなみに「帯甲」ってのは国力の中の位置づけとして武装兵の保有数を語るときに用いられる言葉であって、
平時から前線や首都に張り付いて防備していたような数ではない。
138世界@名無史さん:2012/04/20(金) 20:54:36.84 0
>>131
それも一つの特色だね。
たとえば祖父母・父母・子で五口の家に、男子二人の徴兵召集が来たら、その年の農業生産は壊滅してしまう。ように見える。
しかし、この家に戸籍に把握されていない10人の部曲民が存在していたら、
家の生産力には殆ど影響を及ぼさないし、租税も完納できるし、市場に出回る穀物量も減らない。ということになる。
大豪族なら国の求めに応じて部曲を率いて従軍することもある。

また、完全に戸籍の捕捉から逃れている家は租税を払うことはないが、少なくとも社会経済を循環させる存在である。

まあ一律こんな徴兵を敷いていたら小農の仮作農・田客化がさらに進行してしまうだろうが、ともあれ、
三国時代の「戸籍人口600万」の外にいた膨大な流民・田客・不服住民というのは、
三国の見かけの国力を超えた大きな軍事力を一助する存在ではあった。
もちろん、100%戸籍化して徴税・徴兵できた方が遥かに強いんだけど。
139世界@名無史さん:2012/04/20(金) 20:58:16.46 0
>>136
ですよね。数も1000人とかでどうもおまけ扱いぽかったみたいだし。
>>137
詳しくどうもです。
忘れてたけど、今の徴兵制でも兵役は数年で家業に戻すもんだった。浅薄。

ただ、いつの時代でどんな題名の詩だったか思い出せないのだが兵士を題材にしたもので、
長年兵役に駆り出され、老いてやっと家に戻されたけど、周りはみんなしんじゃった
みたいな詩を読んだ記憶があって、それがなんとなく気にかかったのだった。
まあ、ちゃんと思い出せない以上どうでもいいのだが。
140世界@名無史さん:2012/04/20(金) 21:27:44.39 0
専業兵士色が強い時代になるとそういうことも出てくる。
専業兵士だから地位が高いとは限らないわけで。
141世界@名無史さん:2012/04/20(金) 21:28:18.19 0
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(天皇制度廃止論者)のプロデュース作品

@『かんさほうじん (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会

大河の画面が汚いのも、役者が大根なのも、衣装がぼろぼろなのも、役者の下品な立ち回りも、
画面が薄暗いのも、役者が汚いのも全ての原因は




NHKが汚れているから
 史実うんぬんの話ではないのですよ。あの大河は役者、セット、演出等が、いまのNHK内部の汚れ具合を見事に反映しているのです。

薄汚れた空間内で繰り広げられる捏造・妄想(=今年の大河)は、反日・在日の脳内を表しているのだ。
142世界@名無史さん:2012/04/21(土) 02:59:45.26 0
>>138
普通の一家が部曲なんて持ってるの?
そいつらは地主で、数も少ないんじゃないか。
143世界@名無史さん:2012/04/21(土) 07:24:13.80 0
まあ一律こんな徴兵を敷いていたら小農の仮作農・田客化がさらに進行してしまうだろうが、ともあれ、
三国時代の「戸籍人口600万」の外にいた膨大な流民・田客・不服住民というのは、
三国の見かけの国力を超えた大きな軍事力を一助する存在ではあった。
144世界@名無史さん:2012/04/21(土) 19:40:09.07 0
実際、曹操はその流民と化した青州黄巾を取り込むことで人的資源を確保してるし
劉備もまた荊州客将時代に足りなかった人的資源を
戦乱を逃れて荊州に逃げて来た流民を戸籍に組み込むことで確保している

初期の混乱期だからこそかもしれないがこの調子で流民を
勝手に私有民にしていった豪族、軍閥は山のようにいるだろうから
国籍以上に人はいただろうな
145世界@名無史さん:2012/04/21(土) 20:35:52.61 0
>>144
>実際、曹操はその流民と化した青州黄巾を取り込むことで人的資源を確保

てか、青州黄巾って本当に狂信的な流民集団なの?
豪族や群雄が部曲率いてたのと何か違うのか。
146世界@名無史さん:2012/04/21(土) 21:46:21.48 0
流民集団ではあった。黄巾の教えをどれほど原理主義的に守っていたかは怪しいけどね。
また、流民の頭目に豪族が選ばれることは当然あっただろう。

部曲・田客というのは、土地の貸与や衣食住・安全の保証、借金等の形で豪族の傘下に入り、自由を拘束された。
黄巾集団は「方」や「渠師」といった独特の単位役職を持ち、独自の祭祀で結束と社会性を維持した。
147世界@名無史さん:2012/04/22(日) 04:00:39.83 0
>>146
しかしそんなこといったら曹操や袁紹だって流民集団ではないのか?
曹操とその部下たちはあっちこっち移動する(在地性がない流民集団)
曹操は自分についてくる民を土地を与える(土地の貸与・衣食住の保証)
曹操は自分についてくる豪族や民を守るため兵を派遣する(安全の保証)
曹操に自分についてくる豪族や民の自由を拘束し、食料徴収したり、兵役の義務を課す(自由を拘束)
148世界@名無史さん:2012/04/22(日) 13:26:41.61 0
戦闘目的の軍集団を流民とは言わない
149世界@名無史さん:2012/04/22(日) 13:42:39.99 0
黄色いスカーフの皆さんは戦闘目的じゃないのかw
150世界@名無史さん:2012/04/22(日) 14:10:35.03 0
三十年戦争でも、荒廃すればするほど働く所を失った連中が傭兵へ

かくして金さえあれば戦力の維持はいたって容易でズルズルと。。。
151世界@名無史さん:2012/04/22(日) 14:27:06.10 0
男女合わせて100万、うち成年男子30万って人口構成の集団を戦闘目的の集団とは言わないね
152世界@名無史さん:2012/04/23(月) 07:11:27.08 0
>>150
偉大な戦略とか華麗な指揮とか勇敢な兵士とかまったく関係なく、
最後に一枚の銀貨を持っているものが勝利する
153世界@名無史さん:2012/04/23(月) 07:38:30.25 0
>>151
ただの群雄だよね
154世界@名無史さん:2012/04/23(月) 07:54:45.26 0
>>152
じゃあ、中国は何で北方民族に負けまくっているの?
匈奴、ウイグル、遼、金、西夏、チンギスハンのモンゴル帝国、
オイラート、タタール・・・・。全部中国より貧乏な国ばかりだよ。
155世界@名無史さん:2012/04/23(月) 07:56:57.05 0
>>154
軍事に金使ってないから
156世界@名無史さん:2012/04/23(月) 08:07:35.37 0
>>154
金だけが相手でも屈辱的な地位に甘んじてたのに、そこにチンギスハン軍団が加わったら負けるに決まってるだろw
157世界@名無史さん:2012/04/23(月) 09:51:49.82 0
数万規模の流民集団なら中世ヨーロッパにも民衆十字軍と言う例がある
女子供を引き連れ、あっちこっちを略奪したり略奪されたり殺したり殺されたり。
158世界@名無史さん:2012/04/23(月) 18:50:07.36 0
>>153
はあ?
家を中核とする社会共同体の緊急避難・保持を目的とする流浪集団ってのが
おまえさんにとっての「群雄」の定義なのか?
159世界@名無史さん:2012/04/23(月) 19:40:06.65 0
>>158
数万の民を引き連れて○○に帰順した、って結構あるじゃんw
劉備も10万の民を引き連れてたしな。
曹操に妨害されなければ。
160世界@名無史さん:2012/04/23(月) 20:49:54.52 0
>>154
金を集中した前漢は勝ってるじゃん
161世界@名無史さん:2012/04/23(月) 21:08:32.63 0
>>159
じゃあなんで、まだ誰にも帰順してない状態の流民集団が「群雄」なんだ?
162世界@名無史さん:2012/04/23(月) 21:21:44.30 0
>>154
それはいくつかの要素が重なって起こっている。
まず一つの誤解を指摘すると、それらの国は経済規模こそ小さいが、交易・遊牧民中心の国家が多いため、
経常利益に換算すれば、遊牧民側が中国の農耕政権に対して優位に立っていてもおかしくはない。

分かりやすい現代の例で例えよう。
先頃プロ野球関連の板で集められた、各親会社の売上高では
日本ハム 1兆323億円
DeNA     1127億円
となっているが、これが経常利益となると
日本ハム  296億円
DeNA    562億円
という、一見おかしなことをやっている。
前者の日ハムは典型的な巨大インフラを持った巨大企業であり、ぶっちゃけインフラや人的資源が莫大で、
多くの地域にインフラや人的資源を確保していること自体が大きな負担となっている。
また、生もののため現物の移動コストが大きいことも、経常利益を圧迫する原因の一つだろう。
後者のDeNAといったインターネット企業は、インフラ保有の必要が少なく、維持コストも移動コストもほぼ必要がない。

今回提示した日ハムとDeNAの例はもっとも違いが顕著な例ではあるものの、
これはそのまま、定住民である漢民族と交易・遊牧民の割合の多い北方民族の構造の違いといって良い。
移動コストはそのまま兵站に置き換える事も出来る。

つまり、純戦争・純経済といった側面で言えば、「地球が小さくなる」近代と違い、
古代〜近世の定住民側は一種の遊兵的な資産を常に必要とする体制のため、遊牧民に対して圧倒的に不利なんだよ。

これは同時に、よく言われる「何故か分裂時代の方が統一時代より対遊牧民で優勢である」ことの理由の一つでもある。
趙の李牧や新末独立軍閥の竇融などの方が漢の李広より楽に匈奴を破れるのは、単純に遊兵が少なく即応性が高く
効率的に国家資産のほとんどを戦争に傾注することが容易のため、対応が遥かに容易だからなんだ。
岳家軍など軍閥が比較的戦果を挙げやすかったのもまた同じ理由だ。
163世界@名無史さん:2012/04/24(火) 05:47:14.38 0
>>161
群雄って帰順するのが前提なの?w
164世界@名無史さん:2012/04/24(火) 08:36:33.24 0
>>161
黄巾は曹操に帰順したから群雄の資格ありってことでいいすかねw
165世界@名無史さん:2012/04/24(火) 17:36:19.73 0
>>164
そうなんじゃないかなw

>>163
もうわけわからんな。言語能力も構想力もない奴の相手をするのは大変だから
頭かち割って直接脳みそ覗けたらどんなにいいかと思う。
166世界@名無史さん:2012/04/26(木) 10:18:14.57 0
劉備の優れた点は、女がらみで判断誤ったことがないこと。
167世界@名無史さん:2012/04/26(木) 13:20:05.03 O
女がらみで失敗した奴ってだれだ?
曹操ぐらいしか思いつかない。
168世界@名無史さん:2012/04/26(木) 14:46:22.51 0
孫権は娘の大虎を制御できずにニ宮の変起こしたし、
孫権の妻同士で血みどろの殺し合いもやってるよ。
169世界@名無史さん:2012/04/26(木) 19:20:18.60 O
董卓
170世界@名無史さん:2012/04/27(金) 03:59:01.22 0
一瞬童貞にみえた
171世界@名無史さん:2012/04/27(金) 20:01:26.95 0
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(天皇制度廃止論者)のプロデュース作品

@『かんさほうじん (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会

大河の画面が汚いのも、役者が大根なのも、衣装がぼろぼろなのも、役者の下品な立ち回りも、
画面が薄暗いのも、役者が汚いのも全ての原因は


NHKが汚れているから
 史実うんぬんの話ではないのですよ。あの大河は役者、セット、演出等が、いまのNHK内部の汚れ具合を見事に反映しているのです。

薄汚れた空間内で繰り広げられる捏造・妄想(=今年の大河)は、反日・在日の脳内を表しているのです
172世界@名無史さん:2012/04/28(土) 12:27:53.95 0
劉備は根拠地を持てたのが晩年だからなあ。
古参の婦人も蜀を得る前に死んでるし、孫婦人は呉に帰ってしまった。
まあ、争いようもなかったかもしれない。
173世界@名無史さん:2012/04/28(土) 20:39:10.58 O
しかし袁紹にせよ、呂布にせよ、夫人(妾?)の言葉で行動を決めた記録が残ってる。
この時代、家庭によっては意外と女性の発言権が強かったりするのかな?
後漢王朝も歴代皇太后が権力持ってるし・・・
174世界@名無史さん:2012/04/28(土) 21:15:04.97 0
どこでも権力者の寵愛getで無双出来ますよ。

一般家庭でも跡継ぎを生んでしまえば、それなりに強くなる。
ってか、女性が本当に口を出せない時期の方が珍しくね?
175世界@名無史さん:2012/04/29(日) 12:40:09.88 0
大抵、妻の方にも一族がいて発言力があるからね
劉備の場合、甘夫人がそういう富貴の出ではなく、
正妻になれなくて劉禅が赤子の頃に死んでいることと、
劉備の生来淡白な人となりが理由になるのだろう。
176世界@名無史さん:2012/04/29(日) 14:11:19.78 0
生来淡白な人間は40年戦い続けて建国とかようやらんわ
177世界@名無史さん:2012/04/29(日) 15:44:46.47 0
劉表の下で、かつての張繍みたいに曹操と戦い続けていた歴戦の武将やで。
178世界@名無史さん:2012/04/29(日) 16:19:57.91 0
それは仕事や自分の野心の話だろ
今は劉備の私生活の話をしてるんだが


179世界@名無史さん:2012/04/29(日) 19:58:38.83 0
>>178
性生活が淡白とか判断する材料皆無だぞ
人生の大半で安定しない生活を送った人は囲える女の数に限りがある
180世界@名無史さん:2012/04/29(日) 20:08:06.85 0
曹操の子供や孫権の子供が生まれた時期を見る限り、子供が増えたのはやはり安定勢力になってからだな。
劉備は蜀ゲットしたときもう初老。
それでも劉禅の弟を何人か作ってるけどさ。
181世界@名無史さん:2012/04/29(日) 20:31:40.10 0
>>179
人柄についての陳寿の記述があるだろ
182世界@名無史さん:2012/04/29(日) 21:55:19.42 0
>>181
それで私生活について淡白だ、なんて記述あったっけ?
183世界@名無史さん:2012/04/29(日) 22:06:57.27 0
劉禅と弟が二人、あと娘が何人かいたらしいので、劉備もやることはやってるのではないか。
184世界@名無史さん:2012/04/29(日) 22:41:02.40 0
>>182
色々遊んだが不品行の類は無く、口数少なく喜怒を表に現さない
185世界@名無史さん:2012/04/29(日) 22:44:11.10 0
あ、「性生活が淡白だ」なんて言ってないからね。
普通に女性関係はあったかもしれない、もしかしたらセックスだけなら強盛だったかもしれないが、これはよくわからない。
ただ、女関係や子供への情を軍閥としての判断に持ち込むような、ある意味で情の深い人間ではなかったことが伺えるってこと。
186世界@名無史さん:2012/04/30(月) 06:41:17.91 0
劉封事件があったじゃん。
187世界@名無史さん:2012/04/30(月) 07:48:31.38 0
単に嫡子>養子ってだけ
仮にも「副軍」の名号まで与えた養子をばっさり切り捨てた逸話だわな
188世界@名無史さん:2012/04/30(月) 10:07:12.43 O
副軍将軍ってそんな格の高い将軍位だったの?No.2的な?
ただの雑号将軍だと思ってた。
189世界@名無史さん:2012/04/30(月) 10:22:52.05 0
そう言えば、五官中郎将も、本来はさほどたいした官じゃないよな。
190世界@名無史さん:2012/04/30(月) 10:37:33.34 0
階級が高い、と権威が高い、は別だけどね。

中郎将は位階は比二千石だが、朝廷の使者として派遣され、上位の将軍や太守、異民族を監督して
征伐の主将となることがあった。
劉封は副軍中郎将として上位である太守の孟達を率いている。

副軍将軍になってからは、魏側の記録では、破れるまで数年の間上庸周辺三郡の主将と認識されていた。
その周辺には少なくとも二人の将軍がいる。
前後左右の四将軍や「軍師」将軍諸葛亮の存在を考えればナンバー2とは言えないだろうが、
「副軍」の名号には「劉備の軍を補佐する将」として遠方駐在の諸将を
劉備に代わって監督する意味合いが込められていたと見られる。
191世界@名無史さん:2012/04/30(月) 10:58:26.86 0
関羽=張飛=馬超>黄忠>劉封>魏延etc

こういうこと?
192世界@名無史さん:2012/04/30(月) 10:58:49.02 0
劉禅の皇太子はどさくさまぎれに殺されたみたいな表現だけど、
大義名分として皇帝擁立計画でもあったのだろうか?
あるいはそれを疑われた?
本人が関知していたかどうかは別として。
193世界@名無史さん:2012/04/30(月) 11:04:53.06 0
>>184-185
当時の価値観だと男子たるもの孕ませるべき、くらいのもんで
むしろ「不品行でない」とするなら普通にお盛んだったってことだけどね
194世界@名無史さん:2012/04/30(月) 11:09:41.01 0
>>183
君主としてはその程度は義務の範疇じゃないのかな?
2,3人スペア作っておくくらいのことまではね。
10人越えると、やっぱり好きだったんだろうな。
ってことになるんだろうけど。
195世界@名無史さん:2012/04/30(月) 12:42:03.07 0
そもそも劉備の正妻や劉禅以前の子は徐州戦や長坂で捕えられて失ったと記録されてるよね
196世界@名無史さん:2012/04/30(月) 13:14:30.47 O
劉禅の字は公嗣だけど、これって「跡継ぎ」の名前っぽい気がする。
いくつ頃から幼名じゃなくて字で呼ばれるようになるのかな?
197世界@名無史さん:2012/04/30(月) 13:20:35.28 0
成人してから

春秋戦国なら20歳
漢代なら13〜16歳
198世界@名無史さん:2012/04/30(月) 14:26:12.31 0
>>193
少しは勉強しろ

倫理全無視でも、妾ですらない女を何人孕ませたからって
家のためになんの役に立つんだか。
199世界@名無史さん:2012/04/30(月) 16:02:13.44 0
>>198
家を繁栄させるために産めや増やせやってことから
孕ませるべき云々になってくのだし何故家にかかわりのない人を孕ませるって話になるんだか

で、劉備が個人的に淡白であったという証拠は相変わらず何一つないどころか
状況証拠的には劉禅の弟もいくらか仕込んでたり全然淡白ではないわな
200世界@名無史さん:2012/04/30(月) 16:18:09.64 0
少なくとも曹操や孫権にkるあべればかなりましでしょ。
201世界@名無史さん:2012/04/30(月) 17:45:02.06 0
>>200
日本語でok?
202世界@名無史さん:2012/05/01(火) 19:00:50.35 0
>>199
劉備が妻を政治に容喙させたかどうかとか、個人的な性格の話から、
なんで産めや増やせやって話になるんだろうか。

劉備の性欲や強盛の話なんか問題にしてないよ。
子供何百人作ろうがそれを政治や治家に容喙させるかどうかはとは全く関係ないのに。
203世界@名無史さん:2012/05/02(水) 00:31:36.91 0
>>202
さすがにこども何百人も作ろうと思ったら相当な規模の後宮が必要になるから費用の点から政治に影響が出るけどね(笑)
204世界@名無史さん:2012/05/02(水) 00:40:32.64 0
ふーん(笑)
205世界@名無史さん:2012/05/02(水) 01:16:27.52 0
何百人もいれば、集めて兵隊の頭数にでも。。。

そこらの馬の骨より栄養状態良さそうだし、そこそこ活躍するかもしれんし。
206世界@名無史さん:2012/05/02(水) 09:21:37.23 0
>>205
実際それやったのが蜀滅亡時の綿竹の戦いだな
207世界@名無史さん:2012/05/02(水) 23:40:27.51 0
でも諸葛息子は二回にわたってどもりの軍を撃退してるじゃん。
寄せ集めの軍で。
208世界@名無史さん:2012/05/03(木) 01:46:32.25 0
「でも」ってのが何を受けての「でも」なのか良く分からん
209世界@名無史さん:2012/05/03(木) 14:30:38.02 0
綿竹の戦いは、普通に要害守って粘っていれば、
相手は兵糧不足でアウトだったのでは?
210世界@名無史さん:2012/05/03(木) 14:55:02.01 0
普通に守っていたはずだが負けた。
まあ諸葛亮伝では諸葛瞻自身の部隊が大敗して戦死したため全軍壊走したというようなニュアンスだけど。
211世界@名無史さん:2012/05/03(木) 15:25:37.39 0
早く要害を占拠せよと進言されたのに、
逡巡して負けたのでは?
212世界@名無史さん:2012/05/03(木) 20:02:12.81 0
誰に?
213世界@名無史さん:2012/05/03(木) 20:40:48.22 0
黄権の息子に
214世界@名無史さん:2012/05/04(金) 05:51:03.47 0
魏軍も何だかんだ言って、あんま兵糧が無かったのは
事実。兵力にものを言わせ、短期決戦じゃないと撤退の相談
をしなくてはいけなくなる。
215世界@名無史さん:2012/05/04(金) 13:05:30.04 0
蜀まで兵站がっつり維持できるほど魏がマッシブだったら、
孔明も戦下手の烙印を押されとるでしょうな。
216世界@名無史さん:2012/05/04(金) 15:10:11.44 0
諸葛亮なら撃退してたよ
実際1回も蜀には入れなかったからな
217世界@名無史さん:2012/05/04(金) 16:05:27.81 0
姜維も撃退寸前だった。
218世界@名無史さん:2012/05/04(金) 18:05:13.31 0
諸葛亮の北伐では度々軍団を分けてるけど、
姜維の北伐は軍団分けてないのはなぜ?
219世界@名無史さん:2012/05/04(金) 19:03:09.44 0
廖化 胡済
220世界@名無史さん:2012/05/05(土) 04:46:55.67 0
別働隊動かさないってこと
221世界@名無史さん:2012/05/05(土) 13:52:44.64 0
廖化 胡済
222世界@名無史さん:2012/05/05(土) 17:31:27.38 0
胡済との連携作戦なんて完全に破綻していただろw
223世界@名無史さん:2012/05/05(土) 17:50:46.13 0
作戦が失敗したから分けたことにならないとはこれいかに
224世界@名無史さん:2012/05/05(土) 18:41:27.33 0
蜀は動員できる兵力が少ないから、
別働隊を編成してしまうと本体が弱体になる。
基本的には、相手の分散した守備兵力を兵力集中して
個別撃破する以外に勝機はない。

諸葛亮の第一次北伐では趙雲の囮部隊が編成されたが、
囮部隊自体は弱体であり、関中方面軍の主力を一時的に
牽制する程度の効果しかなかった。
225世界@名無史さん:2012/05/05(土) 20:40:46.39 0
>>223
胡済はいつ出発したのかすらわからないのだがw
遅刻以前に、ちゃんと出撃したのかすら怪しい。
226世界@名無史さん:2012/05/05(土) 20:41:41.45 0
>>224
>関中方面軍の主力を一時的に
>牽制する程度の効果しかなかった。

いや、それが一番重要だろと。主力がやってきたら諸葛亮の作戦は破綻するんだから。
227世界@名無史さん:2012/05/05(土) 20:47:19.11 0
諸葛亮なら戦わずして勝つから大丈夫
228世界@名無史さん:2012/05/05(土) 20:49:12.53 0
諸葛亮の戦術は、敵を細切れに分断して拘束し、自らが指揮する主力部隊の出撃を決定的段階まで待つというもの。
229世界@名無史さん:2012/05/06(日) 01:12:55.13 0
それはどこぞのサイトの過剰妄想

>>225
出発しなかったのなら出発しなかった(不出などと)と書く。
本伝にはちゃんと「不至」とある。
230世界@名無史さん:2012/05/06(日) 04:50:36.88 0
胡済が軍令違反で罰せられたという記録もないし、
その後も高官に留まっていた模様。軍が期日に到着しなかったのは、
敵軍・天候・道路事情など、それなりに正当な理由があったと思われる。

どうも姜維は諸葛亮より敵地内で勝負する傾向にあった。軍の合流点
も諸葛亮の第四次北伐よりも敵地内に設定されている。同じ北伐でも、
諸葛亮のような慎重さはなく、兵站も現地調達に頼る傾向があったと
思われる。
231世界@名無史さん:2012/05/06(日) 09:21:21.80 0
その「敵地」がどのような支配状態にあるか今となってはわからんのだけどね
都市しか抑えずに支配!とか言っても土地の大半を占める山野で暮らす人を統御はできないしな
232世界@名無史さん:2012/05/06(日) 09:29:24.75 O
姜維は土地の支配よりも、会敵して戦果を上げることが目的だった感じ。
それが防御の一環だったのかもしれんがな。
諸葛亮は土地の支配を目指した感じ。

時代が20年以上違うから、単純比較はできんが。
どうしても姜維は功名を上げることを主目的にした感じがする。
233世界@名無史さん:2012/05/06(日) 12:22:19.94 0
功名を上げるのが主目的だったら、郭淮や陳泰率いる雍涼軍主力と会戦するために機動するだろうな。
しかし姜維はそんなことしてない。
姜維の北伐の大半は、反魏の羌族の支援や収容、魏軍主力がいない地域へ強襲して県城攻略といった
行動に終始し、都督級との会戦は避けている。
一方、郭淮や陳泰も決戦を避けたのは同じ。
察するに、姜維は戦力の集中と強襲を以って隴西の魏支配力弱体化を狙い、
この集中に(短期的には)対抗できない魏都督は陽動や奇策を用いて姜維を撤退に誘うことに意を注いだと見える。

初めての都督級との会戦は、ケ艾戦の段谷であり、これは皮肉にも両国の攻防面でのターニングポイントになった。
しかしながら、これまで隴東の戦力を擁していた二州都督の郭淮や陳泰と違い、ケ艾は隴西都督。
隴西の切り崩しを狙う姜維が正面決戦せざるを得ない相手が出現したということであり、、
魏が西方の国力増大によってここに都督を置けた時点こそが真の戦略的ターニングポイントになるのだろう。
234世界@名無史さん:2012/05/07(月) 12:31:46.76 0
主力と対戦して撃破できる諸葛亮は強いということですね。
235世界@名無史さん:2012/05/07(月) 13:31:02.56 0
段谷の戦いは兵力不足のまま会戦して負けたの?
236世界@名無史さん:2012/05/07(月) 17:37:49.41 0
>>234
主力を撃破まではいけなかった。
戦術的には勝ったこともあったが、それで戦線を前進させるようなことはできなかった。
237世界@名無史さん:2012/05/07(月) 17:46:19.98 0
北伐でどんどん前進させて行った
無能な馬謖のせいでそれが止まっちゃったけど
238世界@名無史さん:2012/05/07(月) 19:38:12.07 0
主力相手じゃない
239世界@名無史さん:2012/05/07(月) 19:49:15.12 0
三国鼎立後は蜀滅亡まで国境線があんま動いていない。
魏や呉の名将も、局地戦や辺境では勝利しても、大きく領土獲得なんて
のは蜀滅亡までなかった。国力考えると、諸葛亮は結構頑張ってた方。
演義みたいな神算鬼謀ではなかったが、十分名将の部類だと思う。
240世界@名無史さん:2012/05/08(火) 00:15:53.70 0
>>239
そう考えると膠着状態から2郡切り取ったのは割と凄いよな
241世界@名無史さん:2012/05/08(火) 00:38:07.19 0
まあ古来益州に属する中原からは守れないような土地ではあるけどな
242世界@名無史さん:2012/05/08(火) 00:39:01.13 0
魏呉がやったみたいに偽装降伏作戦すればいいのに。
243世界@名無史さん:2012/05/09(水) 10:33:42.58 0
諸葛亮の北伐時代は、
三国がそれなりに国家体制が出来上がった時代で、
奇策で局地戦に1回くらい勝った程度では、全く国境線
が動かない。司馬懿の言うとおり「奇才なり」という評価
は概ね妥当なのだろう。北伐するたびに国力がガタガタに
していった姜維よりは数段上の名将。
244世界@名無史さん:2012/05/09(水) 14:26:41.75 0
遼東の公孫氏は一発で即死だったが
245世界@名無史さん:2012/05/09(水) 14:46:20.35 0
それって諸葛亮の南征と変わらんレベルじゃねえか?
246世界@名無史さん:2012/05/09(水) 18:44:06.08 0
公孫氏は三国の一角じゃねえだろw
247世界@名無史さん:2012/05/09(水) 18:53:51.58 0
公孫氏+東夷で蜀と同じぐらいの国力があるらしい
248世界@名無史さん:2012/05/09(水) 19:19:01.17 0
蜀呉が地の利を生かして何度も魏の攻勢を跳ね返してるのに、なんで公孫氏はすぐ死んでしまうん?
249世界@名無史さん:2012/05/09(水) 19:48:04.17 0
東夷って倭や三韓他諸国を全部足した総称だぞ。
徴税も集中投資/運用もできない数字面の足し算で仮に本当に互角だとして、
だからなんなんだよw
250世界@名無史さん:2012/05/10(木) 07:03:38.46 0
【中国BBS】日本はわが国以外でもっとも三国志が好きな国だな
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0428&f=national_0428_083.shtml

>「あと何代かしたら、われわれの子孫たちが三国志について語る時、それは日本のものだというのだろう。これが日本のやり方だ」という被害妄想的な意見もあった。
カステラをいまだに洋菓子だと言っている日本人はそんなことは言わない!
251世界@名無史さん:2012/05/10(木) 08:24:35.53 0
>>250
あと何代www
現在の中国の漢民族は三国時代の漢民族を滅ぼして漢民族を名乗った異民族の末裔だろ。
隋唐宋元明清の漢民族と三国時代の漢民族は別の民族。
当然現代の漢民族とは三国時代の漢民族とは別の漢民族。
中国人はそろそろ三国志は自分たちの祖先の歴史では無く、自分たちが滅ぼした民族の歴史だということを認識したほうがいい。
孫呉の子孫である日本人は思うわけですよ。
252世界@名無史さん:2012/05/10(木) 08:44:38.89 0
歴史を語るのに当人の民族人種は関係ないだろ
253世界@名無史さん:2012/05/10(木) 18:14:04.01 0
>>250
まあ同じ国の人間より外国人の方が研究熱心という例はしばしば。
254世界@名無史さん:2012/05/10(木) 18:17:30.38 0
ローマはギリシャ文化オタクだった
ヨーロッパはローマ文化オタクだった
日本は支那文化オタクだった
255世界@名無史さん:2012/05/10(木) 19:03:15.86 0
「民族」ってのは人種の区分ではないんだよね。
これを理解できないのが日本人(のうちの浅はかな部類の人間)の悪いところ。

中国の騎馬民族支配の件で言うと、
その前後で遺伝子的には混血し、文化的には引き継いでいる。断絶しているのは支配者層の血統だけ。
これを異民族と看做すなら、縄文文化は日本人にとって異民族の文化だと主張しなくちゃならない。
256世界@名無史さん:2012/05/11(金) 00:45:12.10 0
>>255
 たださ、混血といっても男は殺し女をいいようにする例が多かったような気がするのは、
認めるでしょ?

 まあ、それが人類の歴史の正しいあり方のような気がしますが。
257世界@名無史さん:2012/05/11(金) 01:14:56.79 0
民族浄化まではいってないと思うが。
258世界@名無史さん:2012/05/11(金) 01:33:53.70 0
>>256
そんな例が多かった気がするのを認めるだけでどうなるんだw

人口的・生産的に遊牧民族主体では北朝の国力は維持できないよ。
五胡時代で五胡民族が占めたのは支配階級、戦士階級あとちょっとだけで
農耕をした主体の漢民族を殺してしまったら、遊牧民族は王朝どころか定住さえできなくなる。

今の中国人(漢族)というのは、こういう支配と撃退の歴史を
3000年以上繰り返したうちにゆるやかに形成されたもの。
周王朝さえも西方異民族の王朝なんだからね。
259世界@名無史さん:2012/05/11(金) 01:37:55.97 0
行政機構はそのまま残して先住定住民にまかすってやり方が多いよね、遊牧民
色目人重用、漢民族蔑視の元以外はそれなりに使われてたんじゃないの?>漢民族の男
広大な帝国維持すんのに労働力殺しちゃうのは愚策だし
オアシスに点在する小都市国家群とかならともかく
260世界@名無史さん:2012/05/11(金) 13:11:24.03 0
>>258
それは商こそが真性の漢族である、という前提なのかな?

一応考古学的には商以前に4つほどの文化が中原で混在してることがわかってるので
所謂夏王朝の時点で既に民族の坩堝と化してるもんで
商に対する周は異民族ではなく政体の違う国としか言えないと思うのだが
261世界@名無史さん:2012/05/11(金) 14:41:20.07 0
>それは商こそが真性の漢族である
「真性の民族」なんてもの歴史上に存在しないと言う前提
262世界@名無史さん:2012/05/11(金) 16:17:28.38 0
>>250
中国では演義ばかり有名って聞いたことあるけどどうなんだろう。
中国よりも日本の方がよっぽど曹操を評価してるとか。
263世界@名無史さん:2012/05/11(金) 16:31:12.38 0
日本でも演義ばかり有名だろう
曹操が好きなのは日本人特有だとか、蒼天航路のような漫画があるとかいう特色はあるが、
大半の三国志作品のベースは演義だし、
歴史としての三国志が普及しているわけではない。
264世界@名無史さん:2012/05/11(金) 20:19:39.58 0
日本人の曹操好きは吉川英治の『三国志』の影響。
吉川英治は事実上前半を曹操、後半を諸葛亮を主人公として描いている。
吉川英治の『三国志』は日本人に広く読まれているので、日本人の曹操
好きは吉川英治の影響。小説の中で、曹操は1000年に1人でるかどうかの
天才的英雄とまで言っている。曹操を主人公として漫画なども、基本的
には吉川三国志の影響だろう。
265世界@名無史さん:2012/05/11(金) 20:26:43.69 0
256 :世界@名無史さん:2012/05/11(金) 00:45:12.10 0
>>255
 たださ、混血といっても男は殺し女をいいようにする例が多かったような気がするのは、
認めるでしょ?

 まあ、それが人類の歴史の正しいあり方のような気がしますが。


妄想ソースかよw
266世界@名無史さん:2012/05/11(金) 22:37:02.70 0
>>261
おやおや?
では何故周を異民族だと?

異民族とはどこの誰に対する異民族なんだ?
267世界@名無史さん:2012/05/11(金) 23:12:04.92 0
アホ臭い煽りすんなよ
268世界@名無史さん:2012/05/11(金) 23:21:53.95 0
周は当時の殷(中原諸民族)に対して異民族。
五胡は当時の中原漢民族に対して異民族。

初等の中国史クイズだろうか。
269世界@名無史さん:2012/05/12(土) 01:08:38.42 0
>>264
吉川は演義より曹操の扱い良いのか。
吉川は読んだことないから知らんかった。

ググったらこんな話は出てきた。
http://blog.livedoor.jp/kashikou/archives/51207063.html
270世界@名無史さん:2012/05/12(土) 01:45:35.68 0
そりゃまあ中国人にとっては多数の人気歴史ジャンルの一つでしかないからな。
中国人「関羽は超有名人。でも三国演義は読んだことないし項羽や岳飛の時代もあるからね」
日本人「義経は超有名人。でも平家物語は読んだことないし信長や竜馬の時代もあるからね」
って感じだろう。
271世界@名無史さん:2012/05/12(土) 07:33:49.45 0
今の人達知らないけど、昔は三国志演義と言えば吉川三国志。
あれを読んで曹操が悪役だと思った人はいないでしょう。凄い
魅力的人物として描かれている。
272世界@名無史さん:2012/05/12(土) 08:40:17.99 0
俺は吉川英治のは初めのごく一部しか読んでいない。
諸葛孔明の死で終わっているのが何より気に入らない。
全部読んだのは岩波文庫版。
273世界@名無史さん:2012/05/12(土) 18:25:22.22 0
>>268
商自体が周辺民族の混交した状態だからそこを基点にしてもどうかと思うが

それに発掘調査で今の長安の辺りには新石器時代から既に
中原の影響を強く受けた文化が広がってて
周、商が異なる文化かどうかもわからんね
274世界@名無史さん:2012/05/12(土) 18:45:30.74 0
民族という定義に唯一の人種や文化的基点なんてものはないって話なのに
275世界@名無史さん:2012/05/12(土) 19:31:26.05 0
中国が新石器文明までカウントして中国6000年とかいうなら、
日本も縄文時代をカウントして皇紀6000年とか言おうぜw
276世界@名無史さん:2012/05/13(日) 12:34:18.19 0
皇紀ってつけるとちょいと意味合いが違ってくるような…
277世界@名無史さん:2012/05/13(日) 15:39:07.38 0
皇紀なら考古学なんぞよりも皇統神話を重んじないとな
278世界@名無史さん:2012/05/14(月) 13:39:47.69 0
?周いいね
279世界@名無史さん:2012/05/14(月) 13:40:18.16 0
しょう周いいね
280世界@名無史さん:2012/05/14(月) 16:28:16.99 O
ショウ周って陳寿の師匠の?
この人も背が高かったよね確か。
関係ないかもしれんが、三国志って学者・文官なのにでかい奴が結構いる印象。
281世界@名無史さん:2012/05/14(月) 18:13:16.42 0
スゴイ奴=デカイっていうのは世界的に共通な設定
282世界@名無史さん:2012/05/14(月) 19:40:10.20 0
貴族や役人は栄養状態がいいから大柄なやつがおおいだけ
283世界@名無史さん:2012/05/14(月) 20:23:31.31 0
当時は風采も能力のうち。
立派な相を持つ者は高く評価され官僚の登用にも有利だし、
学者は堂々毅然と論戦を張ることが求められた。

光武帝の司徒まで昇った馮勤は魏郡の名家で偉壯な体格の家柄だった。
ただ祖父の偃だけが七尺に満たない体格だったため、「常に短陋を恥じ、子孫がこれに似るを恐れた」
そこで息子の伉にわざわざ長身の妻を娶らせ、生まれた馮勤は目出度く八尺三寸の長身に育った。
284世界@名無史さん:2012/05/14(月) 20:43:38.13 0
列伝にわざわざ身長書いてあるもんな。
そんなことよりもっと残しておいて欲しい記録がいろいろあるんだけど。
285世界@名無史さん:2012/05/14(月) 22:26:35.87 0
>>283
龐統「俺のことか?」
286世界@名無史さん:2012/05/14(月) 23:46:44.00 0
違うよ
287世界@名無史さん:2012/05/15(火) 06:27:24.47 O
曹操「俺のこと?」
288世界@名無史さん:2012/05/15(火) 06:34:15.13 0
せやな
289世界@名無史さん:2012/05/15(火) 21:31:46.58 0
劉表の族子の劉磐は、劉備に使えなかったのかな?
長沙で一緒にいた黄忠は劉備に使えたのに。
290世界@名無史さん:2012/05/15(火) 21:54:13.56 0
宗家が曹操に降伏したのになんで劉備に仕えねばならんのだ。
デメリットしかない。
291世界@名無史さん:2012/05/15(火) 23:04:02.63 0
>>290
現実に居た場所などの関係で兄弟でも仕える相手が曹操と劉備と別れることはあったから、長沙が劉備支配下になったときに劉備に仕えるというのはありえない話ではない
292世界@名無史さん:2012/05/15(火) 23:25:35.55 0
それは劉jが降伏して何ヶ月も後の劉備襲来まで
劉磐が長沙に滞在し続けていたらの話。
劉jが後漢に取り立てられて、近臣も高位に上ったのに
族子で有力者だった劉磐がいつまでも辺境最前線に
いた可能性は、限りなくゼロに近い。
293世界@名無史さん:2012/05/16(水) 03:17:57.33 O
賊になったのでは?
294世界@名無史さん:2012/05/16(水) 07:18:58.73 0
>>290
そんなこと言ったら劉キの立場は
295世界@名無史さん:2012/05/16(水) 15:23:40.82 0
劉gは劉jと対立していた上に劉備に逃げ込まれて行き場が無くなったからだろ
何言ってるんだ?
296世界@名無史さん:2012/05/16(水) 17:04:55.93 0
劉磐は、韓玄が太守としてやってきたから、
他の劉表一族と共に北方に移住したんだろうな。
勇猛な人物だったらしいので、南方で健在だったら、
それなりに一騒動くら起こしそう。
297世界@名無史さん:2012/05/16(水) 17:07:51.61 0
移住と言うより帰郷だな
劉表の一族は山陽人だから
298世界@名無史さん:2012/05/16(水) 17:49:01.36 0
>>295
孫権からの防波堤として絶対に守らなきゃならん江夏に
廃嫡された長子置くとかどう考えても妙な話ではあるけどな
そのまま江夏付きで孫権に投降とかやりかねんぞ
299世界@名無史さん:2012/05/16(水) 18:24:16.91 0
廃嫡じゃないよ。嗣子は元々決まってない。劉gが絶縁されたわけでもない
太子競争に負けた皇子が諸王になるのと同じ理屈
300世界@名無史さん:2012/05/16(水) 18:30:50.26 0
まあ、劉表政権が持続性がないことは、
家臣にもわかってたのだろ。劉備はともかく、曹操や孫権に
領土が分割されるのは目に見えていた。だから、劉gが江夏
に行き、孫権に降伏しようと、家臣団にしてみればどうでも
よかったのだろう。諸葛亮も、そこら辺がわかっていたから、
江夏行きを劉gに薦めたのだろう。

どこまで諸葛亮の計略かはわからないが、劉gの存在が劉備と
孫権の同盟、劉備の荊州南部の領有に大きく寄与した。
301世界@名無史さん:2012/05/16(水) 18:35:37.13 0
えっ
302世界@名無史さん:2012/05/16(水) 18:48:41.00 0
>>299
確かに廃嫡とは書いてないから筆が滑ったんだけどさ
自身の先行きを案じてる人間に重要拠点に1万もの軍勢持った状態で
いくらでも亡命できる状況作ってる時点で劉キを劉ソウとその与党である蔡瑁はおかしいな、と

状況証拠的には史書に描かれてる程この兄弟の仲は破綻してなかったと思うんだよね
ただし劉ソウ降伏後に劉キが江夏の兵持って劉備に合流してるから
兄弟仲がいいという程でもないのだろうけどさ
303世界@名無史さん:2012/05/16(水) 18:57:12.46 0
基本的には仲が悪いだろ。
304世界@名無史さん:2012/05/16(水) 20:02:08.56 0
>>302
不満分子処理だろう。
跡目争いで旗色の悪い劉キとその一派を辺境に配置して、曹操への降伏を支障なくできるようにした。
不満分子は一つに固まっていてくれた方が、処理しやすい。
もし劉備が襄陽にやってきたとき、内部の劉キが1万の兵力を率いて裏切ったらやばすぎるじゃん?
305世界@名無史さん:2012/05/16(水) 20:45:36.43 0
>>304
ちょっと黙っててくれ

>>302
袁紹も同じことをやっている。
共通点は、長男を害すほどの決意が父には無く、
長男も決して無力な子供ではないということ。
袁尚・劉j派の側近達も、長男に領域を一部切り売りするような形で
本拠の支配権を確保し、後継競争の妥結を認めたわけだろう。
また、この時代、あからさまに子が父に反逆するというケースは非常に少ない。
裏切っても信望が得られず立ち行かない倫理意識が普及していた。

問題は父の死後で、両者とも結局分裂している。
が、まあそれを憂慮するならそもそも少子を立てて
特に失敗のない長子を排するような活動はしないわな。
306世界@名無史さん:2012/05/16(水) 20:46:59.36 0
それから、確かに、劉g・劉jや袁譚・袁尚の個人的な仲が悪かったとか
彼ら自身の主導的な抗争だったという話は無いはず。
307世界@名無史さん:2012/05/16(水) 21:55:41.11 0
劉gの支持基盤と劉jの支持基盤はまるで違うだろ。
対立していたはず。
308世界@名無史さん:2012/05/16(水) 21:57:16.15 0
支持基盤主導の対立であって本人の感情や対抗心の問題じゃないってこと。
309世界@名無史さん:2012/05/16(水) 22:47:13.98 0
不満分子は、なるべく一塊になって、それも政権の外縁あたりでいてくれた方が、潰しやすい。
310世界@名無史さん:2012/05/16(水) 23:03:52.45 0
劉gが夏口に飛ばされたことだけを以って不満分子一塊ってのは言いすぎ。
側近を何人連れて行ったのかもわからんし。
むしろ襄陽という政治的中心で反蔡氏派(そんなのが取るに足りるほどいたのか知らんが)
と連携させないために、劉gだけを切り離す策だろ。
311世界@名無史さん:2012/05/17(木) 00:51:34.06 0
>>310
前任の黄祖にも参謀や将らしいのが何人もいたし(孫権との戦いで討ち取られたり寝返ったり)、
劉gも何人か連れて行ったであろうという推測は妥当性がある。
312世界@名無史さん:2012/05/17(木) 01:07:17.65 0
江夏は郡府で行政機構が完結している。追加人員は基本的に必要ない。

「何人か連れて行った可能性はある」程度の話では「不満分子一塊」には到底届かない。
313世界@名無史さん:2012/05/17(木) 01:17:55.05 0
>>312
劉g赴任の頃には黄祖以下全滅してるじゃん。
だから新しい行政官や将を伴って向かったと考えるべきだろう。
314世界@名無史さん:2012/05/17(木) 01:18:32.71 0
襄陽の非劉表と言えば著名なのは司馬徽。
しかし司馬徽は荊州陥落まで襄陽に滞在し、その後普通に北に帰った。
「不満分子として一塊に処理」もされてないし反乱も起していない。

もし、曹操の侵攻が遅れて先に劉表が死に、襄陽で後継者紛争が起きていたら、
劉gと「不満分子」である司馬徽の学友・弟子などに劉備も絡むなどして
一大抗争に発展したかもしれない、という小説的な想像は出来る。
これを未然に防いだのは、曹操侵攻のタイミングと、
劉gが襄陽に戻ってきても入城さえできず、
内部の人間と切り離された状態で降伏が完了したこと。

もし反劉表の不満分子が一纏めで劉gの手元にあったら、
政治的にも軍事的にももう少しやりようがあったかもしれないし、
のちの劉備に対して有利な立場も確保できたかもしれない。
315世界@名無史さん:2012/05/17(木) 01:19:35.98 0
>>313
そんな話は聞いたことが無いな。
もしそうだとしたら、蔡氏の息が掛かった人間で固めるのが普通だが。
316世界@名無史さん:2012/05/17(木) 01:25:07.31 0
大体、劉gが「夏口」に赴任したというのが間違い
逃げる劉備(漢水を渡った)と合流して夏口に向かったという記述からして江夏の長江北岸に居た可能性が非常に高い
つまり劉gは汝南方面からのvs曹操むけの配置であってvs孫権むけとは考えられにくい


併せて考えるに
そもそも夏口は孫権に一度攻め落とされた後なので所謂「廃墟」ではないが
黄祖以上の軍事力を持たない劉gをもってして郡経営の拠点したはずがない
317世界@名無史さん:2012/05/17(木) 01:33:36.46 0
それ今の話題とまったく関係ないと思うが、
「遇表長子江夏太守g衆萬餘人」。
「遇」であるからには、劉備と劉gが出会った場所が本来の劉gの駐屯地であったのではない。
対曹操か或いは別の目的で前進していたところで劉備と出逢ったものだろう。
劉gの江夏太守府が夏口ではない可能性は無いことは無いが、
それは夏口だったと明記されて無いからというだけ。
318世界@名無史さん:2012/05/17(木) 01:44:12.69 0
論理的思考能力が乏しいと色々と難しいね
319世界@名無史さん:2012/05/17(木) 17:55:38.14 0
禰衡すごい
320世界@名無史さん:2012/05/18(金) 00:45:17.54 0
黄祖の勢力

黄祖 江夏太守
黄射 章陵太守
蘇飛 都督
陳就 都督
甘寧
呂公
ケ龍
張碩
禰衡 
321世界@名無史さん:2012/05/18(金) 03:06:07.64 0
都督が二人って、黄祖は驕りすぎではないのか
322世界@名無史さん:2012/05/18(金) 07:39:42.32 0
都督ってのはそんなに偉い役職じゃない
323世界@名無史さん:2012/05/18(金) 07:52:19.97 0
しかし孫権にも都督はそういないじゃん?
324世界@名無史さん:2012/05/18(金) 19:05:38.76 0
記述されないほど有り触れた役職。
魏晋の州都督諸軍事以前の都督は将軍のような一軍の将の下に普通にいた監軍職。
325世界@名無史さん:2012/05/18(金) 19:35:04.61 0
後漢末期だと将軍の数がまず少ない。
だから都督も少ない。
326世界@名無史さん:2012/05/18(金) 19:42:18.94 0
「将軍のような一軍の将」な。
太守は古来郡将と呼ばれ、一軍を率いて軍事を担った。
黄祖ともなればその権限は同時期の曹操の下で部隊指揮官でしかない
一般将軍クラスを遥かに凌ぐ。
327世界@名無史さん:2012/05/19(土) 00:44:28.85 0
まあ黄祖がそんなに弱かったら、孫呉を相手に8年も粘れないよな
328世界@名無史さん:2012/05/20(日) 14:00:18.44 0
孫権が黄祖を破った後、
土地は実行支配できたの?
329世界@名無史さん:2012/05/22(火) 17:19:54.58 0
孔明は中国史上唯一の創造的天才だな
330世界@名無史さん:2012/05/22(火) 17:31:10.94 0
カエサルに比肩するのは曹操だろwww
331世界@名無史さん:2012/05/23(水) 00:50:45.51 0
光武帝じゃなくて?
三国時代限定ならまぁ曹操だろうけど
332世界@名無史さん:2012/05/23(水) 01:04:18.72 0
自演荒らしだから気にすんな
333世界@名無史さん:2012/05/23(水) 07:19:36.08 0
曹操って、演義とはまた違って結構間抜けだったり人間くさい部分も多いと
思うけどな。そこがまた魅力的……ではないんだけどw
334世界@名無史さん:2012/05/23(水) 08:37:21.22 0
ちくまの訳でも曹操のセリフは、踏ん反り返ってるというか愛すべき悪漢のような喋り方。
原文にそんなニュアンスがあるんだろうか?
335世界@名無史さん:2012/05/23(水) 09:25:25.07 0
吉川三国志の影響じゃないの?
336世界@名無史さん:2012/05/23(水) 14:46:40.53 O
正史訳すような先生方も、三国志に興味持ったのは吉川版からってこと?
だとしたら、それはそれで面白い。
337世界@名無史さん:2012/05/23(水) 22:54:03.05 0
演義でも曹操は一番人間臭いよ
三君主の中で喜怒哀楽の感情表現箇所が特出して多い
逆に劉備は登場頻度に比べて驚くほど無感動
338世界@名無史さん:2012/05/23(水) 23:06:58.53 0
曹操はローマで言うとアッティラに近い。小男で風采が上がらなかった。
339世界@名無史さん:2012/05/24(木) 03:48:37.44 0
アッティラの容姿って、平面顔のコテコテのアジア人風から中東系までバラバラだし。
340世界@名無史さん:2012/05/24(木) 11:36:55.98 0
>>337
登場頻度と感情表現の有無とは無関係
たまたま感情を表す必要の無い場面が多いだけ
何でもかんでも感情を表せばいいってもんじゃないしな
341世界@名無史さん:2012/05/24(木) 13:07:39.57 0
正史からして劉備は喜怒哀楽を表に出さない性質って書いてあるんだからいいんでないの?
342世界@名無史さん:2012/05/24(木) 16:40:18.30 O
曹操と劉備は性格も正反対な記述がされてるってことか。
かたや感情表現が豊かで、かたや喜怒哀楽を表に出さない。
劉備は行動とかも意図的に反曹操してたっぽいので、性格も意図的に変えてたりして。
しかしそうなると孫権とかは性格がはっきりみえないね。言動からDQNだったことはわかるが…
343世界@名無史さん:2012/05/24(木) 16:52:01.56 0
あほくさ
344世界@名無史さん:2012/05/24(木) 16:56:42.09 0
儒教的な理想の人間を演じてるってことはありえるが反曹操で性格変えるとか無いわ
345世界@名無史さん:2012/05/24(木) 17:18:01.75 0
劉備が主役だから登場頻度が高いのは当たり前
346世界@名無史さん:2012/05/24(木) 18:41:23.40 0
というか、蜀志は劉備伝と諸葛亮伝だけで7割占めてるよねw
347世界@名無史さん:2012/05/24(木) 19:25:24.14 0
今なんの話題をしてるのかも読めない人間が世界史板で何をしてるのか
348世界@名無史さん:2012/05/25(金) 10:30:39.02 O
孫権の言動にはあまり儒教的倫理観を感じない。
すぐ裏切るし、晩年は暴君だし。
曹操、劉備と違って、周りの目を意識して振る舞っている様子もない。
これで孝廉だったとは・・
349世界@名無史さん:2012/05/25(金) 13:32:24.75 0
劉備も孝廉じゃないぞ。
あと袁紹も。
350世界@名無史さん:2012/05/25(金) 20:40:37.67 0
群雄同士の同盟や約束で裏切り云々言うとは笑える話だが、
劉備と孫権との関係では先に裏切ったのは劉備。より多く裏切ったのも劉備。
曹操(曹丕・魏)と孫権との関係では五分くらいか。
351世界@名無史さん:2012/05/25(金) 21:13:06.35 O
そもそも孝行・廉潔だという世評を立ててもらって推薦を受ければ孝廉になれるんだから
個別の言動が全て儒教的倫理観に合致してる必要もないし
352世界@名無史さん:2012/05/25(金) 21:14:20.19 0
劉備「孝行したいときに親は琢。今俺蜀。劉備ショック」
353世界@名無史さん:2012/05/25(金) 21:21:55.57 0
孫権は孝廉的ではないが、
将や臣に受けた恩義を君主としてではなく個人として返す、という点で、
三君主の中で最も「侠」の精神を見せた人物と言える。
これは後漢代に儒士達が取り入れた行動原則。
特に人間関係において、非常に「周りの目を意識して振る舞っ」た
人物だということが呉志の随所から読み取れる。
354世界@名無史さん:2012/05/25(金) 21:38:15.70 0
いや、孫権はちゃんと親父の敵討ちやったんだから親孝行でしょ。
355世界@名無史さん:2012/05/25(金) 21:58:26.85 0
張詔が死んでからの孫権はもうやりたい放題
356世界@名無史さん:2012/05/25(金) 22:39:02.81 0
関係ないが孫権をみんなはどう評価してるのか聞きたいな。
晩年がアレなんで難しいとは思うが。個人的に関羽殺して荊州奪ったのは
感情抜きにアホだなあと。将来はともかくあの時点でやるかと。
357世界@名無史さん:2012/05/25(金) 23:08:07.84 0
劉備独り勝ちになったら困るだろうに
358世界@名無史さん:2012/05/25(金) 23:20:23.54 0
関羽が呉の倉庫から兵糧を強奪した以上、孫権が報復に出たのは
国家としての体面もあっただろう。やられっぱなしでは示しがつかない。
359世界@名無史さん:2012/05/25(金) 23:48:02.59 0
報復じゃないよ。所定の戦略。
以前の和睦が形だけで、呂蒙が荊州を狙っていることを関羽も百も承知だったからこそ、
初めは南郡に防備を置いていたし、兵糧強奪のような無碍な行為も出来た。

で、史実の荊州奪取は孫権にとって最上かつ最後のタイミングだった。
劉備が漢中-襄陽の漢水ラインを固めてしまえば、
次は益荊の戦力を集中して荊州南部と交州の奪取に振り向ける番。
孫権の地勢ではこれを効果的に防御できず、揚州一州になるのは時間の問題。
北・西に敵を迎えた揚州は江水の険を発揮できず、魏蜀いずれかへの従属か滅亡かを選択することになる。
史書は「二国志」として書かれることになっただろう。
360世界@名無史さん:2012/05/26(土) 06:33:27.38 0
劉備側の失策は西陵に拠点がなかったこと。
361世界@名無史さん:2012/05/26(土) 06:37:09.73 0
西陵を取り返しに行く戦いなのに、西陵がないのがダメってw
362世界@名無史さん:2012/05/26(土) 07:28:52.38 0
荊州失陥のときの話じゃね?
あったんだけどね。孟達がいた。しかし北上していて不在だった。
363世界@名無史さん:2012/05/26(土) 11:35:49.94 0
江陵と永安との間が長すぎたのは確かでは?
三峡の出口付近の拠点が手薄だったのは致命的。
364世界@名無史さん:2012/05/26(土) 13:18:25.18 0
>>356
インペリウムの確立とそれに抵抗する豪族という図式で見れば
晩年の暴力的な状態も行き過ぎではあっても意味はないものではないように見えるしな

虞翻を処刑しようとする孫権が孔融を処刑する曹操に自分を例えるのも
朝廷内で権力の一極化を邪魔するものを処刑して権力を掌握する過程にあったので
酒を飲みすぎてついポロッと本音が出てしまったのかもしれない
365世界@名無史さん:2012/05/26(土) 18:08:14.28 0
>>363
人の話聞けよ
366世界@名無史さん:2012/05/26(土) 18:14:01.12 0
晩年孫権の失敗は、寵愛を孫覇に置いていたのに孫和を廃せなかったこと。
或いは、そこまで出来なかった所が孫権の権力集中の限界だったのかもしれないが。
367世界@名無史さん:2012/05/26(土) 23:17:29.98 0
てか、二宮の変って後継者を選ぶ主導権は明らかに孫権にあるのに、なんで豪族のほうが強いとか孫権が豪族に悩まされたとか言われてるの?
豪族連中をあっさり粛清しているのに。
368世界@名無史さん:2012/05/26(土) 23:27:24.60 0
皇帝なのに自分の好む後継者を結局選べなかったから
369世界@名無史さん:2012/05/26(土) 23:49:32.00 0
>>368
本当か?
豪族の意見が影響したとは思えないが。
孫権が後継者選定にあたって皇帝権力をもてあそんでるようにしか見えない。
370世界@名無史さん:2012/05/26(土) 23:54:17.57 0
「もてあそんでる」って正しい意味で言ってるか?
孫権をただの愚帝という評価でいいのかな?
371世界@名無史さん:2012/05/26(土) 23:57:36.12 0
>>370
孫権が暗愚かどうかは知らんが、「豪族が皇帝より強かった」というのは間違いだと思うぞ。
だいたい、後継争いで有意の人材を失うのはどこも似たようなものだろう。
372世界@名無史さん:2012/05/26(土) 23:58:42.60 0
その日本語は正しく使えているのか?
と聞いているのだが。
それに応えてくれなくちゃレスしようが無い。
373世界@名無史さん:2012/05/27(日) 00:45:45.64 0
>>367
皇帝孫権の方が強い、でも豪族の意見は無視できない

皇帝と言ったって完全な絶対権力者じゃない
374世界@名無史さん:2012/05/27(日) 07:41:24.45 0
孫権の晩年は暴君レベルで暗愚だろ。
劉禅よりも酷い。劉禅は死刑を乱発したり、
功臣を憤死させたりはしなかった。劉禅が
本当におかしくなったのは、滅亡の数年前
くらいから。そこに遠征による疲弊と段谷の
大敗という外的要因が重なり滅亡になった。

呉が孫権の代で滅亡しなかったのは、運が良かった
のと、蜀より国力に余裕があったから。
375世界@名無史さん:2012/05/27(日) 08:19:15.59 0
>>369-370に答えてから語れよ
376世界@名無史さん:2012/05/27(日) 08:28:25.24 0
ニ宮の変は

喧嘩両成敗で両派粛清→孫権が孫亮を選定

で終わったわけだが、もし豪族が強かったらこんな処分できないだろ。
豪族をすべて敵に回して圧倒したのは、孫権。
377世界@名無史さん:2012/05/27(日) 08:32:38.21 0
圧倒してたのにわざわざ寵愛した孫覇を殺した孫権は権力を「もてあそんだ」愚帝という結論か。


日本語勉強してこいよ本当に。
378世界@名無史さん:2012/05/27(日) 08:36:30.92 0
>>377
豪族より強い=賢明な皇帝

ではないw
内ゲバにだけ強くて、戦争も内政もダメダメなやつっているじゃん。
379世界@名無史さん:2012/05/27(日) 08:38:15.57 0
はいはい。お疲れさまでした。
ちくま版呉志を購入してから来てくださいね
380世界@名無史さん:2012/05/27(日) 09:37:09.90 O
三国志とはいったいなんだったのか…
381世界@名無史さん:2012/05/27(日) 10:53:34.60 0
孫覇は特に英邁だったということもないし、
孫覇を推す豪族もいたりして、豪族の勢力を抑圧する効果も
微妙だった。しかも、最後には孫覇を自害させている。

目的も効果も意味不明で、しかも国内を疲弊と人心を混乱させた
だけ。晩年の孫権は愚かで残虐なのは愚帝といってよい。
382世界@名無史さん:2012/05/27(日) 11:12:29.75 0
愚帝かどうかと、強力な皇帝だったかどうかという今の話題とは関係ないんだがねえ。

おまえはいつも馬鹿ばっかり言ってるな。
三国志に加えて中学生向け国語辞典も購入リストに加えておけよ。
383世界@名無史さん:2012/05/27(日) 12:09:50.16 0
>>379
ニ宮の変は豪族の力が強いために起こったのであり、
皇帝権力の弱体な孫権は泣く泣く息子二人を処断せざるを得なかった、
孫権は暗愚ではなかった・・・

なんてちくまのどこに書いてあるんだよw
384世界@名無史さん:2012/05/27(日) 12:23:32.57 0
>>383
そんなこと誰が主張したんだよ。脳内で勝手に作ってんじゃねえ。
「強さと暗愚は関係ない」が、「強くないから暗愚ではない」に変換されるなんてどういう論理脳してるんだ。
本物の餓鬼か?
385世界@名無史さん:2012/05/27(日) 12:25:38.53 0
ちくまの訳しか読めないんだから察してあげるべき
386世界@名無史さん:2012/05/27(日) 12:29:48.93 0
「孫権は強い皇帝だった」
「なんで?」
「愚策を取りながら臣下を誅殺できたから」

「孫権は愚帝だった」
「なんで?」
「強いのに目的も効果も意味不明な愚かな行動してるから」

循環論法でググレカス
387世界@名無史さん:2012/05/27(日) 12:35:15.78 0
>>384
ていうか、お前には孫権が暗愚だとダメな理由でもあるのか?
戦争に強くても内には暴君なんて例はいくらでもあるだろうに。
388世界@名無史さん:2012/05/27(日) 12:36:05.42 0
後継者選びにかこつけて有意の人材粛清しまくるようなやつのどこが暗愚ではないというのだ?
389世界@名無史さん:2012/05/27(日) 12:38:23.26 0
>>387
つくづく馬鹿だな。

孫権は(他人から見れば)愚かな行動をたくさん残しているだろう。
それを議論したくても、>>383みたいな論理性の欠片も無い馬鹿が
「強かったので愚かだった」とか馬鹿な事言い出してるから、
議論にも入れないのが今の状況なんだよ。なんとかしろ。
390世界@名無史さん:2012/05/27(日) 12:47:12.73 0
>>369以降、孫権や孫覇について実際的な議論が展開されていたと
思っていたとしたら、世界史板に書き込むのはもうやめてくれよ
391世界@名無史さん:2012/05/27(日) 13:21:13.35 0
後継者争いを起こさせ、家臣を殺戮する時点で
暗愚以外のなにものでもないだが・・・・・・・・・
392世界@名無史さん:2012/05/27(日) 18:21:40.77 0
暗愚というか暴君
393世界@名無史さん:2012/05/27(日) 18:43:00.54 0
>>386
自分が、「循環論法」の意味を先に確認すべきだな。
少なくとも、そこで書いている事柄は「循環論法」にはあたらないよ。
394世界@名無史さん:2012/05/27(日) 19:11:00.79 0
「孫権は強い皇帝だった」
「その根拠は?」
「愚帝なのに臣下を誅殺できたから」
「孫権は愚帝だったって根拠は?」
「強い皇帝なのに目的も効果も意味不明な愚かな行動してるから」
「孫権は強い皇帝だったって根拠は?」
「愚帝なのに臣下を誅殺できたから」
395世界@名無史さん:2012/05/27(日) 19:28:12.01 0
孫権はそもそも皇后も自由に選べなかった状況だった
396世界@名無史さん:2012/05/27(日) 19:33:01.40 0
君主権を強化したいという考えはわかるが、
後継者争いで家臣団を分裂させ、不当な殺戮を加えたのは
君主権強化には寄与しなかった。しかも、後継者に据えた
幼君は後の混乱の原因にもなった。

強さより愚かさが目立ったという結論以外に何かあるか?
397世界@名無史さん:2012/05/27(日) 19:48:38.11 0
結論に文句を言ってるんじゃない。
それを主張している人間の日本語能力と論理能力に問題があるから
採用も議論も出来ないと言ってるだけだ。

これだけ言って解らないってのは本当に14,5歳以下なんだろうな…
398世界@名無史さん:2012/05/27(日) 21:02:41.13 0
呉は三国一長生きした
孫権が暗君や暴君だったら直ぐ壊滅したでしょうね
劉禅なんて、諸葛亮の為の蜀だったし姜維の為の蜀だったし
399世界@名無史さん:2012/05/27(日) 21:22:13.44 0
二宮の変で、孫権は孫和派、孫覇派で分かれた豪族の意思を無視って、孫亮に後継者を決定した。
もし豪族が強ければ、孫和派か孫覇派のどちらかの勢力が台頭したはず。
400世界@名無史さん:2012/05/27(日) 21:23:08.50 0
>>394
軍事外交に優れていても、別の面で暗愚ということは十分にありえるのだよw
401世界@名無史さん:2012/05/27(日) 21:33:33.45 0
>>399
孫和派は陸遜をはじめ劣勢の間に勢力を殺がれ、
孫覇派は孫覇派とともに一網打尽になった。
台頭したのは比較的中立だった豪族の諸葛恪。

この潰しても潰してもキリが無い抗争を帝権有利に持っていくには、それ以後も時間がかかった。
その点では孫峻・孫リンも帝権強化の功労者。
そして成長した孫休が孫リンを殺して呉の皇帝集権は頂点を迎え、孫皓に継がれる。
402世界@名無史さん:2012/05/27(日) 22:51:02.01 0
曹操は何度も反乱を起こされているが、孫権は一度も反乱を起こされていない。
治安維持の才能は孫権の方が上。
403世界@名無史さん:2012/05/27(日) 23:22:26.91 0
>>397
一番
> 日本語能力と論理能力に問題がある
のはお前自身だろうが。
404世界@名無史さん:2012/05/28(月) 00:27:57.62 0
>>401
>孫和派は陸遜をはじめ劣勢の間に勢力を殺がれ、
>孫覇派は孫覇派とともに一網打尽になった。

陸遜を憤死させたのは孫権本人だろう。
豪族たちの力を削ぎ、そして一網打尽にする力を持っていたという事実こそ、孫権の皇帝権が極めて強力だったということを示してはいないか。
405世界@名無史さん:2012/05/28(月) 03:54:59.43 0
孫権は呉郡出身の勢力を削ぎたかったという説
406世界@名無史さん:2012/05/28(月) 12:54:38.28 0
「豪族」の使い方が乱暴だと思う。
そもそも呉では「豪族」なんぞ力を持っていない。
力を持っていたとしたら、それは「功臣」だろう。
しかし、その功臣ですら皇帝の前には力及ばず。
孫権は名君だったが、晩年は迷走し、二宮の変と遼東との同盟という二つの失敗を犯した。

>>401
>そして成長した孫休が孫リンを殺して呉の皇帝集権は頂点を迎え、孫皓に継がれる。
孫休や孫皓が孫権時代より強い皇帝権を持っていたとは思わないな
407世界@名無史さん:2012/05/28(月) 13:19:20.70 0
二宮の変を他の皇帝でたとえてみよう。
例えば曹魏なら、司馬懿と曹爽が衝突したとき、
曹芳が強力に主導権を発揮して司馬懿も曹爽もやっつけてしまうようなもの。
こう考えると孫権の権力の強さが分かるはず。
408世界@名無史さん:2012/05/28(月) 17:55:28.99 0
>>407
司馬懿は皇太后を掌握していた
皇太后は前皇帝由来で皇帝に近い権力が振るえる
曹爽は皇帝は握っていたが実際の軍事力を伴ってなかったので投降した
どちらも皇帝の権力の元で動いてる

皇帝の意向無視して私闘してた呉と比較すると
皇帝の命令無しには動けない前者の方が皇帝権力が強いことがわかる
409世界@名無史さん:2012/05/28(月) 18:34:43.90 0
>>404
孫覇派の首領というのは孫権自身なのだが。
中核の愛息を含めて自分の派閥の首脳をなで斬りにして
抗争を手打ちにしなければならなかった首領のどこが強力なのか?

勘違いしているようだけど、二宮の変というのは皇帝対豪族の抗争ではないよ?
皇帝の意思を盾にする派閥と、法を盾にする派閥との抗争だ。
「法を盾にする者達」の抵抗によって、皇帝が結局意思を通せなかった。それが結末。

孫権以降の皇帝権の進展は、以後権臣と呼ばれたり派閥抗争した者達の所属を追いかけるとわかる。
410世界@名無史さん:2012/05/28(月) 18:55:18.86 0
>>409
>孫覇派の首領というのは孫権自身

ちくまにも書いてないことをまた得意そうにw
411世界@名無史さん:2012/05/28(月) 19:58:28.60 0
皇太子でもない皇子が皇帝に寵愛されと繰り返し記述され
京師に宮を構えて皇太子と同格の待遇を受け
廃太子の議論が交わされた際に廃立に抗議した者だけが
皇帝に罪に問われるという状況を理解できないならもう話す言葉も無い。
412世界@名無史さん:2012/05/28(月) 23:36:03.66 0
>>409
>孫覇派の首領というのは孫権自身なのだが。

二宮の変で良識ある臣下が問題視したのは、魯王が太子並みの厚遇を受けたこと。
魯王は魯王であって、太子ではない。
孫権が孫覇を太子に据えればまた別の展開があった。
孫権は孫覇を寵愛しても太子とはしなかった。

>孫権以降の皇帝権の進展は、以後権臣と呼ばれたり派閥抗争した者達の所属を追いかけるとわかる。

具体的に書かないと何が言いたいのか分からんな。
進展したと言いたいのだろうか。
孫休なんか、張布に気兼ねしてるけどな。
413世界@名無史さん:2012/05/28(月) 23:57:55.20 0
>>412
>魯王は魯王であって、太子ではない。
漢三国の王朝がなぜ皇太子以外を諸王に封じるのか、述べてくれ。
それを知った上で
>孫覇を寵愛しても太子とはしなかった。(つまりその意思もなかった?)
なんて寝言をもう一度いえるのか。
414世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:01:15.85 0
続き

もし俺が宮廷人だったら、どんなに野心がなくとも政争を避けて保身に奔走するか、
子弟を用いてどちらかの派閥に取り入るかの選択を強いられるだろう。
ってくらいの大事件なんだけね、魯王の宮が宮廷内に建つというのは。
415世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:06:51.23 0
孫呉での諸王の扱いが漢魏と同じとも限らない
諸王はどう扱えばいいのか?みたいなのに詳しい人たちはみんな曹魏の方にいるわけで。
孫権が皇帝になったころには、孫呉の宮廷じゃすでに在りし日の漢の朝廷の姿を知らない世代がほとんどだろう。
416世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:09:18.92 0
当時の文献の万分の一も知らない現代の歴史学者でさえ諸王の意義を知っているのに
中原から逃れてきたり揚州で代々家学を伝えてきた学者名士が律法を立てた呉が
同じ理屈を知らないってなんなんだよ。
417世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:11:17.88 0
>>415
つか、答えないってことはその「諸王の意義」を知らずに二宮の変を語ってるんだな、あんたは。
418世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:14:46.00 0
>>416
細かいノウハウは伝わってないとか、伝承されるうちに歪んで別物になってるとか、あると思うけど。
董卓のせいで漢の朝廷が消えてから、三国の朝廷ができるまでの空白期間はかなり長いだろう。
あと孫呉は政争で失脚なんてザラだし。
419世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:19:29.73 0
アホか!
いい加減にしろよ。ノウハウなんて細かいこと言ってるんじゃねーよ。
中華帝政の世襲に当たって十指に入るくらいの超基本原則のことを言ってるんだよ今は。
調べもせずにその場しのぎの屁理屈で誤魔化しやがって
無知はまだ勉強の余地があるが低脳には心底救いがないってのはこのことだな。
420世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:23:31.49 0
>>419
>中華帝政の世襲に当たって十指に入るくらいの超基本原則のことを言ってるんだよ今は。

三国時代当時の人間にとっては前漢しか例がないだろがバーカw
後漢書の成立がいつだと思ってるんだ?
421世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:27:09.66 0
両漢20数人の皇帝が代々踏襲し、たまにわがまま言って家臣に理屈を諭され、
憲法があったら明記されるくらいの大原則なんだがね…
422世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:30:23.80 0
横レスなんだが、諸王ってもしもの時(皇帝、皇太子が死ぬか、国がヤバイとき)に
助けてくれることを期待されたスペア的なものだと思ってたんだけど違うの?
423世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:39:06.24 0
>>417
>つか、答えないってことはその「諸王の意義」を知らずに二宮の変を語ってるんだな、あんたは。
俺は>>412だが>>415じゃない。寝言はお前だろ。

言ってることも話を逸らしてるだけではないのか?
孫権は孫覇派なら孫覇を太子にすれば良かった。それ以上でもそれ以下でもない。
424世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:39:46.15 0
>>420
後漢書の先行史料になる八家後漢書の一冊なら
孫権の外戚の一人が書いてるぞ

今正史になってるもの以外にも大量の後漢関連の史料は当時存在してるぞ
425世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:40:26.12 0
>>423
でもそうするには反対者の力が強かった
孫権は絶対的な君主ではなかった
426世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:40:36.99 0
>後漢書の成立がいつだと思ってるんだ?
もしかして、范曄後漢書のことか?w
後漢の歴史や慣わしを知識人が学ぶのに、なんで范曄を待たねばらないんだ? 
東観記は? 漢官儀は? 百虎通は? もはや名も知れないその数百倍の類書はどこいった?
427世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:42:58.36 0
>>423
何人いようが関係ない。
知識が足りないなら自分で調べるか、教えてくださいと頼むか、どっちかを実行してから話を続けてくれ。
428世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:50:49.28 0
>>422
それもある。
特に皇太子不在の場合に王が呼ばれるのはしばしば実行された。
ただ藩屏たる期待、というのは、漢・魏と王国の軍事力が削減されまくって用を為さなくなった。
これも諸王が余計な競争力を持たないための措置の一つ。
晋で強力に復活するけど。
429世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:52:04.94 0
>>425
違う。孫権自身の考えだよ。孫和伝にそう書いてある。
そもそもそうでなきゃ孫和を立太子しない。

>>427
>何人いようが関係ない。
違う人間のレスなのに勘違いして揶揄した挙句、「寝言」どうちゃらとケンカ腰のお前は
自分の卑しさを見つめた方が良いと思うよ。
そもそも、主張したいことがあるなら自分で論ずればいい。
>>413の書き方では>>412への反論にはならない。つまりお前は反論出来ていないということだよ。
430世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:54:13.22 0
>>428
>晋で強力に復活するけど。
復活しないよ。
晋では、都督クラスの官位を得ない王などカスだよ。
431世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:58:41.81 0
>>429
そりゃ反論して無いからな。二宮の変を考えるための基礎知識があるのか確認しただけだ。
知識も無く、身につける意思も見せない相手に反論したくないんだよ。
無知を盾にゴネ続けられてそのまま自然消滅って展開が目に見えてる。
432世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:01:42.91 0
>>431
無知って、三国志もまともに読めないお前のことだろ?
なぜ孫権が寵愛する孫覇を太子としなかったか、三国志を読んでよく考えるといいよ。
433世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:06:26.15 0
孫和は立太子された後に孫権の不興を買った。
寵愛は孫覇に移り、既成事実と人脈を持たせて廃太子への工作が始まった。
が、廃太子の議論で太子派に強硬に阻まれ、陸遜などを死に追いやったものの
廃立は成立せず抗争は長引き、最終的に痛みわけの形で手打ちにされる。

という順番。
434世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:07:57.46 0
>>426
>東観記は? 漢官儀は? 百虎通は? もはや名も知れないその数百倍の類書はどこいった?

それらの書籍はきちんと孫呉にまで持ち込まれ、ちゃんと講義されていたのかねーw
曹魏と孫呉を比べたら、孫呉は基盤となる知識人層が貧弱なんだよ。
実際、孫呉で曹魏のより優れた書籍は生まれていない。
435世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:08:48.43 0
どうでもいいが
人肉食を嫌悪したのは曹操と司馬一族
マメ知識な
436世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:09:41.14 0
>>434
くそ、本当に頭痛がしてきた
437世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:11:50.82 0
孫呉の文化教養程度は、晋に投降した陸氏などの待遇からわかる
438世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:11:56.61 0
>>433
>既成事実と人脈を持たせて廃太子への工作が始まった。
これの主語は?
まさか孫権が工作したとは思ってないよな?
439世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:12:52.24 0
>>434
孫呉では書かれた八家後漢書と同レベルの後漢の史書が曹魏では生まれてないのです
悲しいことなのです
440世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:13:31.34 0
てか国家としてはともかく、豪族連中は普通に手紙のやり取りしてるしなぁ
441世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:15:45.20 0
色々吹き込んだのは魯班や孫弘、孫覇の支持・取り巻きたちだろうが、
魯王宮の件など、最終決定権は当然孫権にある。
結局は「孫覇を寵愛していた」という感情が事態を進展させたことになる。
442世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:17:11.63 0
事態進展してないんじゃないの?
引っ張って引っ張って、結局は孫亮を太子にするわけだし
443世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:18:17.32 0
話は>>433の二行目だぞ。
魯王が立てられて人が集まり抗争が激化するまでのことを言っている。
444世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:20:33.43 0
取り巻きが色々吹きこむというが、取り巻きが出来たのは魯王宮のあとからだぞ。
孫権がなにか工作したという事実はない。
445世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:20:51.27 0
>>439
まあ皮肉を言ってやるなよw
後漢末に既に東観記が成立していて、これが後漢史のスタンダードだったわけだから。
446世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:25:07.68 0
>>444
孫権の取り巻きのことだよ。寵愛する心理を利用して歓心を得ようとするような。
孫権がしたのは工作なんかじゃなくて、公的な措置。孫覇を孫和と同等に扱うなど。
447世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:31:54.77 0
>>446
結論出てるんじゃないの?
孫権は工作などする必要がないわな。強権もった皇帝なんだから。
本人自身の考えで孫和を立太子し、それを継続したんだよ。それは三国志に書いてある。
448世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:34:02.41 0
>>447
孫和伝とは正反対の意見だがどこに書いてあるの?
449世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:35:33.19 0
>>447
ではなぜ魯王を立てて皇太子の地位を危うくし、
宮廷分裂を招いた末に太子を廃したのか。
450世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:41:30.11 0
董卓の人肉嗜好も創作らしいし正史にも出てこないんだよね
曹操の人肉否定嫌いは有名
451世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:48:43.23 0
うーむ…
「孫権は強い皇帝だった」って主張が三日もこじれると
「孫権は自分の考えで孫和を立太子し、それを継続した」までいっちゃうのか。
人間ってこわいね。
452世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:51:11.32 0
>>448
>孫和伝とは正反対の意見だが
正反対だという、その孫和伝の記述を引いてみてくれないかね?
見当たらないので。

>>449
そりゃ耄碌してたから、としか思えないな。
もし孫権が本当に孫和を廃立したかったのなら、廃立のタイミングはもっと早い段階である。

>>451
>權沈吟者歷年、後遂幽閉和。
こうハッキリ書いてある。
453世界@名無史さん:2012/05/29(火) 02:21:07.80 0
人気のあった孫登の遺言から孫和が太子になったんでないの?
孫登って孫権の集権化邪魔してるし勘ぐっちゃうよね
孫登って太子のくせに君臣の序列を薄めて
皇族を豪族のワンオブゼムに貶めようとするお馬鹿ちゃんだし
そんなもんの推薦による孫和が集権体制を試みる孫権と指向が合致するわけないんでない?
454世界@名無史さん:2012/05/29(火) 03:45:07.58 0
話逸れるけど孫休じゃなくて孫亮が立てられた理由って書いてあったっけ?
455世界@名無史さん:2012/05/29(火) 07:39:30.04 0
>>452
wwww
おまえ自分の理解が及ばないものを耄碌とか暗愚のような非論理のせいにしてるだけじゃねーかw
仮に孫権が耄碌していたとしても、それに乗じた側近が都合のいいように
政策を動かしていればそれは何らかの政治的意図の含んだ行動になるし、
現に晩年の孫権の行動はあらかた政治力学で説明できるんだよ。
456世界@名無史さん:2012/05/29(火) 08:10:31.80 0
>>439
孫呉の文化人はどのぐらい優れているの?と曹魏や西晋の高官のような事を言ってみる。
457世界@名無史さん:2012/05/29(火) 08:11:34.88 0
>>436
曹操気取り乙
458世界@名無史さん:2012/05/29(火) 10:51:40.08 0
>>456
陸兄弟はハイレヴェルじゃね?
曹操についての論文は面白かった
459世界@名無史さん:2012/05/29(火) 12:47:54.23 0
二宮の変の時、魯王の傅役の是儀がこれを明快に批判している。
その論法から見ても中原の文化学問のレベルと変わらないだろう。
東晋が興った時、朝廷の儀式を整えたのには、
中原から逃れてきた識者と並んで、江南の人士の貢献がある。
おそらく一番貢献したのは賀循。

でもそもそも呉の文化レベルと孫権の失策は関係ない話。
>>413がアホなミスリードをしただけ。

>>455
なんの反論にもなってないな
460世界@名無史さん:2012/05/29(火) 13:17:31.28 0
>>459
とりあえずネット上には素晴らしい先行の論があるのでこの反論から始めるといいんでないですか?

ttp://d.hatena.ne.jp/mujin/20070903/
むじんさんのサイト宣伝する気はないのだがリンクが綺麗にまとまってるのでここから
461世界@名無史さん:2012/05/29(火) 13:27:51.70 0
>>460
以前読んだことあるが、それは論としてボロボロだと思ったな。
それとなんで俺が反論しなきゃならんのだろう。

http://unkar.org/r/warhis/1255413144
過去に三戦板で批判されてるよ。
462世界@名無史さん:2012/05/29(火) 17:28:36.97 0
孫休が孫権の後継者から省かれた理由ってなに?
孫亮より年上でしょ。
463世界@名無史さん:2012/05/29(火) 17:53:35.84 0

そもそも、「孫和派」言うけど、これって変なんだよ。すでに太子なんだから。
群臣が太子に取り入っても、太子を守っても、何の問題もない。
逆に、太子を蔑ろにして諸王を支持する奴が出てくる状況が狂ってるわけで。
「孫和派vs孫覇派」というフレームで眺めてる限り、それこそ「お話にならない。」
464世界@名無史さん:2012/05/29(火) 18:04:07.60 0
>>463
その取り入りを孫権は問題視したんだろ
そして自分で立てた皇太子の権威を殺ぐように魯王を寵愛して意図的に問題を起してる
それから両派閥が形成されるのだからそのフレームで眺めないとむしろお話にならない
465世界@名無史さん:2012/05/29(火) 18:09:27.39 0
>その取り入りを孫権は問題視したんだろ

なんなんだよこの妄想w
466世界@名無史さん:2012/05/29(火) 18:27:35.31 0
わざわざ自分で宮廷の序列破壊しておいてさらに廃太子からの追放コンボなんて
よっぽど孫権の不興買わないと起こりえないと思うんだが
467世界@名無史さん:2012/05/29(火) 18:43:10.37 P
>>387
暗愚と思うかどうかは人それぞれ違うだろ。公式があるわけじゃない。
468世界@名無史さん:2012/05/29(火) 19:35:57.82 0
孫休は熱心に文学を奨励したというが業績が残っていないのが残念。
469世界@名無史さん:2012/05/29(火) 19:38:52.66 0
造語という立派な業績が…
流行らなかったけど
470世界@名無史さん:2012/05/29(火) 20:23:54.88 0
>>462
朱拠が岳父だったからじゃないかな。
孫和を弁護した罪で朱拠を粛清した以上、その娘婿の孫休を立てるわけにはいかなかったんでしょ。
471世界@名無史さん:2012/05/29(火) 20:32:11.75 0
だったら孫和じゃなくて娘婿の孫休押せばいいやんw
外戚になって権力振るえるぞ。
472世界@名無史さん:2012/05/29(火) 22:16:13.35 0
それは露骨すぎるし孫和と孫覇が揃ってる時点で孫休を推せるほど孫休は有力候補じゃない
473世界@名無史さん:2012/06/01(金) 19:01:02.10 0
孫皓伝注の『晋紀』で、紀陟が魏へ遣わされて宴会になった時に
司馬昭が「あれは安楽公であっちは匈奴単于だ」っていった時の単于って呼廚泉のことかな?
劉猛なわけないよね
474世界@名無史さん:2012/06/01(金) 20:57:33.79 0
呼廚泉ってそんなに長生きなんだろうか、と思ってウィキ見たら
277年に西晋に来朝したとある。
でも三国志、晋書、資治通鑑をザックリ調べた限りでは、ソースらしきものを見つけられなかった。
出典はどこにあるんだろう。
475世界@名無史さん:2012/06/01(金) 21:34:31.19 0
当の劉猛が、匈奴伝では反乱時既に単于になってるんだよな。
南匈奴帥って記述の方が多いけど。

司馬炎の即位式に参列云々は、武帝紀に
「百僚在位及匈奴南單于四夷會者數萬人〜」とあるが、
呼廚泉の名は無いし、そもそも年代的には
この時既に代替わりしていると見るのが普通だろう。
476世界@名無史さん:2012/06/02(土) 10:22:19.21 0
司馬芝って司馬鈞以降(子か孫のあたり)くらいに晋の司馬氏と別れた家系かな?
477世界@名無史さん:2012/06/02(土) 21:54:05.82 0
司馬氏ほどの大族になるとわからんね
県のあちこちに「殷王を祖とする司馬氏」がいただろうから
478世界@名無史さん:2012/06/04(月) 08:58:15.92 0
そう言えば司馬懿の従兄弟とかって見ないような気が。
劉裕の場合は男系の従兄弟は居なかったみたいだけど、
同姓だけど母系の従兄弟とか、二股従兄弟とか、姻族、
継母の親族まで登用してるのに、男系の従兄弟や又従兄弟の形跡がない。
しかし、司馬氏の場合は、従兄弟や、又従兄弟くらい居たんだろうけど、
兄弟が多くて親類とかはどうでも良かったのかねえ?
まあ居なかった可能性もあるけど。
479世界@名無史さん:2012/06/04(月) 14:25:42.72 0
そりゃ劉裕と司馬懿じゃ立場が違う。
司馬昭の従兄弟はたくさん出てくる。
480世界@名無史さん:2012/06/04(月) 15:35:21.16 0
司馬の八達には子供が少なかったのか
481世界@名無史さん:2012/06/04(月) 17:41:46.05 0
董襲すごい
482世界@名無史さん:2012/06/04(月) 20:59:18.12 0
劉備はモテなかったな
483世界@名無史さん:2012/06/04(月) 21:01:58.21 0
モテモテですよ
484世界@名無史さん:2012/06/04(月) 23:07:48.09 0
司馬懿の従兄弟・族兄弟世代は魏王朝の史書に残らない程度の高官に幾らでもいたんだろうが、
司馬懿が権力を握ったときは既に老齢で、権力を分担するような年代ではない(同世代司馬孚がいれば十分)。

晋王朝の王になった血筋は司馬懿の兄弟・子息世代以下だからやはり従兄弟では晋書にも名が残らない。
485世界@名無史さん:2012/06/04(月) 23:58:26.57 0
「ここ危ないから逃げよう」
長老たち「えーでもー」
「じゃあ俺達だけで逃げるわ」

そして残ったほうは戦乱に巻き込まれて半分が死んじゃった・・・
みたいな話があったよね
486世界@名無史さん:2012/06/05(火) 00:06:08.39 0
司馬懿みると諸葛亮は何かが足りない
487世界@名無史さん:2012/06/05(火) 01:20:54.08 0
寿命だな
488世界@名無史さん:2012/06/05(火) 02:11:39.69 0
国内での野心

>>485
この時代では荀ケ
いつでもありそうなネタだけど
489世界@名無史さん:2012/06/05(火) 14:06:37.97 O
>486
優秀な息子たち
490世界@名無史さん:2012/06/05(火) 20:53:20.70 0
どっちも孤児を託された臣で尚且つ気を許せないライバル(李厳・曹爽)がいたのは一緒なんだよな
491世界@名無史さん:2012/06/06(水) 10:37:22.38 0
卑弥呼の魏への朝貢の記録が景初2年からなのは、公孫淵が滅んだから?
それまで帯方郡などの支配はどうなっていたんだろ?
492世界@名無史さん:2012/06/06(水) 18:55:56.21 0
>>491
遼東以東どころか青州の一部さえ公孫淵の支配が及んでいたんだから、帯方郡はもちろん公孫淵のものよ
493世界@名無史さん:2012/06/06(水) 20:31:21.64 0
司馬懿は「公孫氏を下すまで一年」つってるけど、蜀は滅亡まで半年だったよねw
司馬懿って意外と戦下手じゃね
494世界@名無史さん:2012/06/06(水) 20:37:42.91 0
↑アホがなんか言ってるぞw
495世界@名無史さん:2012/06/06(水) 21:28:40.37 0
その司馬懿だけど、後漢の少帝懿と名前かぶってんだよね。
礼に厳しいはずの司馬防の子のはずなのに避諱はどこいったんだ。
それとも王扱いならセーフなのか?
496世界@名無史さん:2012/06/06(水) 22:17:35.85 0
セーフ。
というか歴代皇帝も全てが避諱の対象になるわけじゃないし、漢はまだそれが緩い時代。
だいたい始祖その後の重要な何代かと直近数代。
497世界@名無史さん:2012/06/06(水) 22:25:23.95 0
さっき調べたら、劉協の子も劉懿みたいだしそんなもんか。
でも王允の兄の王宏は絶対アウトだと思った。
霊帝即位後の改名の話もないしなぁ
498世界@名無史さん:2012/06/06(水) 23:23:07.36 0
曹叡もそうだけど、司馬懿というか司馬師と司馬昭は意外と
甄氏の家系がお好きなようですね
499世界@名無史さん:2012/06/07(木) 01:36:22.00 0
でも曹叡の子を皇帝にしないw
500世界@名無史さん:2012/06/07(木) 12:39:33.05 0
甄氏というか、郭氏から甄氏に養子にいった甄コのことでしょ?
郭皇后に取り入る必要性があった。
養子じゃない甄溫も任用されているが。

魏の高官だから、穏健に禅譲を進める立場としては、ないがしろには出来ない。
501世界@名無史さん:2012/06/07(木) 18:53:20.79 0
両家とも魏の外戚家として影響力を維持していただろうからね
502世界@名無史さん:2012/06/07(木) 19:56:31.19 0
関係ないけど、曹操の親兄弟ってなんであんなに影が薄いの?
503世界@名無史さん:2012/06/07(木) 19:57:26.89 0
軍閥に入らなかったからだろ
504世界@名無史さん:2012/06/07(木) 20:22:36.16 0
>>501
甄氏は賜死して以降政権から排除されただろうし
郭氏はそもそもそういう影響力ないから曹丕に好まれたんだろ?
外戚として影響力なんて保持できるか?
505世界@名無史さん:2012/06/07(木) 20:30:27.76 0
>>500
甄悳(旧:郭悳)とか甄黄や甄毅とかね、昇進し重宝されました。
506世界@名無史さん:2012/06/07(木) 20:32:57.76 0
>>502
たぶん殺されたから
徐州に避難してるのに曹操徐州と敵対してるからね仕方ないね
507世界@名無史さん:2012/06/07(木) 20:37:45.69 0
>>504
賜死ではない。両者とも殺害は非公式な説。
両者の親族は引き続き厚遇された。

>>506
曹嵩がいたのは陶謙の勢力外だぞ
508世界@名無史さん:2012/06/07(木) 20:44:34.85 0
>>507
あれ?
曹叡の母の甄氏の話だよね?
違ってたらすまん
509世界@名無史さん:2012/06/07(木) 20:48:53.53 0
>>508
ああ、ごめん。こちらの勘違いだった。
甄氏は自殺されている。ただ曹叡に名誉回復されて親族は高位に就いている。
510世界@名無史さん:2012/06/07(木) 20:54:01.42 0
>>509
爵位はともかく官位は高位には就いてなかったはずじゃ
曹丕が生前に定めた法律で皇太后と関係者の政治参加を禁止してるよね?
511世界@名無史さん:2012/06/07(木) 20:57:38.17 0
射声校尉散騎常時とか越騎校尉とか
512世界@名無史さん:2012/06/07(木) 23:07:59.87 0
>>504
曹丕の嫁じゃなくて曹叡の嫁の方の郭氏。
513世界@名無史さん:2012/06/07(木) 23:28:17.27 0
まあ漢で栄華を誇った外戚のような勢威があったら抗争してどちらかが倒れていただろうけどね。
厚遇しても問題ない程度の外戚だから司馬氏も厚遇できたと言える。

514世界@名無史さん:2012/06/08(金) 00:12:23.42 0
>>513
そもそもそんな外戚がいたら司馬氏が権勢握れない
515世界@名無史さん:2012/06/08(金) 00:17:30.84 0
それ以前に司馬氏は内戚の曹氏と抗争してこれを倒して権勢を握ったんだからね
516世界@名無史さん:2012/06/08(金) 00:50:49.79 0
だからね、って言われても
517世界@名無史さん:2012/06/08(金) 02:21:57.89 0
えーとね。
後期前漢や中期後漢で権勢を握ろうとしたら先に陣取ってる外戚に勝たねばならなかったように、
曹叡後の魏で権勢を握ろうとした司馬氏は先に陣取っていた内戚の曹氏に勝たねばならなかった。

もし魏が、漢並に外戚を尊重する体制だったら、司馬氏は内戚ではなく外戚に対して勝利を収めねばならなかったし、
晋が成立するならそのような歴史を辿ることになる。

史実はそうではなかったため、司馬氏は魏の外戚をそれなりに厚遇する余裕を持つことが出来た。
ってな話。
518世界@名無史さん:2012/06/08(金) 03:02:46.36 0
でも魏の内戚も全体的に見ればそんなに実力があったわけではないよね
曹爽自体は確かに力は持っていたわけだけど
519世界@名無史さん:2012/06/08(金) 03:16:42.71 0
あれは内戚曹爽が力を持ってたんじゃなくて
功臣曹真の子、曹爽が政争を繰り広げて力を握ったからね
520世界@名無史さん:2012/06/08(金) 04:25:43.97 0
>>519
それなら権勢を誇った外戚の殆どが、
「外戚が力を持っていたんじゃなくて皇太后(稀に皇后)の親族が政争を繰り広げて以下略」
になる。
皇太后の死や皇后の入れ替わりで力の源泉が殺がれると即失脚のケースが多い分、
曹爽の方が遥かに自分の力で立っていたと言える。
521世界@名無史さん:2012/06/08(金) 04:30:07.91 0
それから、外戚にしろ内戚にしろ、畸形的に力を持つのは、
皇帝集権体制下で幼年の皇帝が立つなどして、帝権の補佐が必要になったとき。
魏の歴史からして対象になるのは曹爽一人になるのは必然。
522世界@名無史さん:2012/06/08(金) 12:45:58.69 0
>>520
ほら、自分でも分かってるじゃない
曹爽の力の源泉は血縁じゃなくて功臣の子として宮廷内闘争で勝ち抜いたからだって
523世界@名無史さん:2012/06/08(金) 14:07:41.59 0
魏が外戚を尊重していないとは言っても、文帝と明帝以降じゃ少し違うし
曹芳は母無し子だからなぁ
皇后の父の張緝が政変に絡んでくることからも分かるように
曹芳に母親がいたら、その一族と司馬氏は対決していたと思うね
524世界@名無史さん:2012/06/08(金) 19:03:25.52 0
何故、楊義は自分が諸葛亮の後継者になれると思ったのだろうか?

諸葛亮死後の事は楊義はハブられて既に決められていた。何故本人は
気づかなかったのだろうか?
525世界@名無史さん:2012/06/08(金) 21:31:40.31 0
ハブられてたから気づかなかったんでないの?
526世界@名無史さん:2012/06/08(金) 21:38:50.14 0
>>522
……?
それがどう>>514に帰結するの?

司馬氏が魏で権力を握るとしたら
魏的内戚相手でも漢的外戚相手でもやることは変わらない。
力の源泉が同じだから。って話を俺はした。
だから>>514の主張は意味がないってことだよ。
博打とはいえ史実で成功してるんだから。
527世界@名無史さん:2012/06/08(金) 22:16:00.01 0
あー、ごめん。なんか読み違えてたな。逆を言ってるのか。

>曹爽の力の源泉は血縁じゃなくて功臣の子として宮廷内闘争で勝ち抜いたからだって
違う。
曹真は良将で功臣だが、曹操に重用され曹丕を宿衛を統括する中軍大将軍を経て大司馬まで昇ったのは、そもそも血縁だから。
曹爽が武衛将軍を経て後事を託されたのも、曹真の息子、つまり血縁だから。
これがなければ曹爽は魏のトップの位置で権力争いするスタートラインにも立てなかった。

念のため言っておくが、これは外戚や内戚の不名誉を示す物ではない。
是以先帝建列將之官,近戚主内,異姓距外,故姦軌不得萌動而破滅,誠萬世之長冊也。
帝権維持のために理論化された立派な政策。
528世界@名無史さん:2012/06/08(金) 22:16:49.38 0
で、曹爽が本当に漢の一般的な外戚より「強い」とするなら、やはり>>514には繋がらなくなるのだが。
529世界@名無史さん:2012/06/09(土) 00:20:23.57 0
>>527
曹真は魏略では秦氏で後に曹姓を貰って曹真になったと書いてあるね
同族を名乗ることは認められてても実際どこまで皇族に連なる人間として扱われてたんだろ
530世界@名無史さん:2012/06/09(土) 01:28:19.52 0
でも曹操とその子孫を除けば曹氏と言っても男系でつながってないからね
531世界@名無史さん:2012/06/09(土) 01:33:56.89 0
そういやそうだね

魏における諸曹氏の扱いと夏侯氏の扱いどうなってんだろ
532530:2012/06/09(土) 01:46:44.64 0
あーそういえば一応曹操って弟いたっけ
まあ事績乏しいから無視でいいよね

ところで無知で申し訳ないんだが曹騰が養子に異姓の人間を迎えたのは何故?
宦官故に同姓の親族から相手にされなかったから?
それとも夏侯氏と特別な関係にあったから?
533世界@名無史さん:2012/06/09(土) 01:49:50.56 0
まず曹魏には晋の司馬孚や後漢劉伯升の子二人のような存在が無いので、
皇帝・封王になれるのは曹操の直系子孫だけ。これは血筋の繋がりが必須。

それ以外、この時代は養子の効力が非常に大きいので、
皆やや遠縁ではあるが、普通に宗室の扱いになる。
司馬望のような「皇帝筋ではない諸王クラスの実力者」がいない分、
朝廷の高官としてちょうどいい面子だったんじゃないかね。
呉の孫静等の子孫も同じくらいの位置だね。
534世界@名無史さん:2012/06/09(土) 14:24:28.89 0
>>532
>ところで無知で申し訳ないんだが曹騰が養子に異姓の人間を迎えたのは何故?

異姓の養子というのはデマなんじゃないかなぁ
陳琳の檄文でも「異姓養子だ!」と弾劾されてはいない。
曹嵩がもともと夏侯氏ならば、曹操の娘が夏侯氏に嫁ぐのは同姓婚となり、大スキャンダル。
陳矯はもともと劉氏の出身なのに劉氏の娘を娶り、弾劾された。
晋の劉頌はその陳矯の娘を娶り、やはり弾劾された。

あと、曹爽(曹真)が秦氏出身というのもちょっとウソくさい。
親父が曹操のために死んだのなら、
ちゃんと秦氏を継がせるんじゃなかろうか。
それに、養子があり得るにしても、誰の養子になったのか。
改姓だけというのはかなり珍しいと思う。
535世界@名無史さん:2012/06/09(土) 14:44:50.79 0
>>534
陳琳の檄文では曹嵩のことを「乞食のガキ」って弾劾してるから異姓養子以上に問題
乞食のガキなら曹氏でないことも明らかだから異姓養子であることも含まれるんだろうけど
536世界@名無史さん:2012/06/09(土) 15:31:28.03 0
>>535
>陳琳の檄文では曹嵩のことを「乞食のガキ」って弾劾してるから異姓養子以上に問題
乞食でも同姓ならタブーではないだろう

>乞食のガキなら曹氏でないことも明らかだから
同族の貧しい家の子を買ったのかも知れない
537世界@名無史さん:2012/06/09(土) 19:24:06.76 0
それこそ姓すらわからないような境遇だったとか?
538世界@名無史さん:2012/06/09(土) 19:30:32.04 0
>>534
秦真は曹邵の養子になってから邵が死んだので曹操に引き取られて曹邵の跡を継いだ。
これはおかしくないよ。

異姓養子のタブーって時代ごとに違うと思うのだが後漢末はこれが緩かったってだけでないの。
539世界@名無史さん:2012/06/09(土) 20:35:43.18 0
曹邵の養子になったという記述はないよ

魏略曰:真本姓秦,養曹氏。或云其父伯南 夙與太祖善。
興平末,袁術部黨與太祖攻劫,太祖出,為寇所追,走入秦氏, 伯南開門受之。
寇問太祖所在,答云:「我是也。」遂害之。由此太祖思其功,故變其姓。

曹氏に養われた、というのは、本伝の記述と合わせて考えれば、曹操に養われたということだろう。
父親の伯南(曹邵?秦邵?)が実父じゃないという推察は難しいんじゃないか?
540世界@名無史さん:2012/06/09(土) 20:38:01.09 0
>>539
そのようだ。すまん
541世界@名無史さん:2012/06/10(日) 08:18:16.23 O
曹操の子や族子達は皆、字に「子」が付いてるけど、これって一族で示し合わせて付けたのかな?
それとも一族の偉い人とかが決めたの?
542世界@名無史さん:2012/06/10(日) 08:40:28.09 0
排行のお約束
543世界@名無史さん:2012/06/10(日) 12:19:54.46 O
>>542
なるほど、勉強になりました。
544世界@名無史さん:2012/06/10(日) 14:07:20.57 0
興平末に曹操が袁術に追われて秦伯南の家に逃げ込むって、
ちょっと筋が通らない気がするな
545世界@名無史さん:2012/06/11(月) 18:52:25.93 O
ガイシュツなのだろうけど、高島俊男氏が指摘してるように、曹叡のお父ちゃんて誰なの?
まさか袁煕ってことはないと思うけど、
考えるヒントとして皆さまの意見を拝聴したい
546世界@名無史さん:2012/06/11(月) 18:54:26.19 O
sage忘れました
すみません
547世界@名無史さん:2012/06/11(月) 20:11:36.22 0
袁煕じゃないなら曹丕でいいんじゃないの?
袁煕は幽州に赴任、甄氏はギョウに残ってる。
曹叡が袁煕の子なら異姓養子が皇帝を継いだことになり
司馬氏あたりで喧伝してもよいはずだけど、それもない
548世界@名無史さん:2012/06/11(月) 20:48:50.14 0
曹叡の生年は206年説が普通だが、享年の記述をそのまま計算すると204年になる。
これはギョウ陥落の年。であるからには曹丕が甄氏に仕込めたはずがない。
というのが袁煕父親説の薄弱な根拠。

しかし、ギョウ陥落は八月。曹叡が12月末日に生まれたとしても最大五ヶ月しかない。
妊娠が診断されていなかったはずがないし、
大事な軍閥の後取り息子が嫁を娶って五ヶ月未満で生まれた子供を
何の疑問も無く子にするなんて、曹操とその周辺が見逃すはずが無い。
侯、王に封じて帝位を継がせるなんてことが(曹丕の好悪の感情以外)波風無く進んだ史実にも反している。
さらに後、魏の醜聞として野史の噂話レベルにもならなかった理由が説明できない。

20世紀になって初めて出てきた、残念ながら珍説なんだよね。
唱えたのが三国志集解の編者らしいのでめんどくさいんだけど。
549世界@名無史さん:2012/06/12(火) 01:18:09.83 0
享年が間違ってる可能性なんていくらでもある以上、
父子関係は明確な言及が無い限り信じるべきだね
550世界@名無史さん:2012/06/12(火) 01:31:11.08 0
享年三十"六"の一文字だけを無条件に信じて、
他の色々の辻褄を「史実を隠す陳寿の曲筆」と全て捨ててしまわないと
成立しないのがこの説のネックなんだよな
551世界@名無史さん:2012/06/12(火) 01:57:27.63 0
曹叡が甄氏の連れ子であることは、公然の秘密ですらない誰でも知ってる事実だから、同時代の人間は誰も改めて責めなかっただけ。
そもそも、曹丕には曹叡よりも年長で若死にした長男、曹協がいた。
なぜ年長かと言うと、曹協の息子の曹尋が235年に早くも後を継いでいるから。
つまり、曹協は少なくとも子作りできる年齢までは生きていたことになる。
仮に曹尋が16歳で親の後を継いだとすると、219年生まれ。
また、親の曹協が16歳で仕込んだとすれば曹協は203年生まれになり、曹叡より前に生まれていた長男である可能性が非常に高くなる。
長男である曹協が生前に爵位をもらえなかったのも、彼が文帝即位前に死んでいるからだと考えると辻褄が合う。
552世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:07:05.39 0
誰もが知っていた不実の子、しかも皇后ですらなかった賜死の子が
皇帝になろうとしているのに、曹丕の死の間際に宮廷闘争が起きなかったなんてのはナイわ。可能性ゼロ。
王どころか侯にもなれんよ。
553世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:07:13.13 0
>>548
>曹操とその周辺が見逃すはずが無い。

曹叡が生まれた時点で曹叡が後継ぎになると決まっていたわけではないだろう。
曹丕は三男だったし、曹植もいたし、曹沖が後継ぎ候補だった。
たくさんいる後継ぎ候補の中の一人の子供を、当時の曹操がそんなに気にする必要があるのか。
554世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:11:59.06 0
んで、曹叡が長男であったという記述はない。
しかも曹丕が即位した前後から既に甄氏との仲は冷却していた。
だからこそ曹叡は不遇の時代を長く送った。
(にも関わらず最終的には曹丕の心変わりで即位できた)

曹叡が長男でなかったことは、彼が曹丕の実の息子であったことを補強する材料だよ。
この境遇で実子でさえなかったら、甄氏が死を賜ったときに良くて追放されて終わり。
555世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:12:29.81 0
556世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:16:20.48 0
武徳侯になるのが15歳でこれが延康元年の出来事だからやっぱり206年生まれだよなぁ

曹叡の景初元年に改元のみならず改暦まで行われてるが
もしかするとこの辺りで少し年齢計算がずれてて36歳というのも嘘ではなかったが
西暦で考えると206年というのも事実、という考え方は面白いな
557世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:17:53.44 0
>>556
年齢は干支で数えるから改元ではずれない。
まあ四と六の誤写だね。
558世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:18:33.86 0
>>554
元々甄氏が正妻だった時期もないしね
一時曹丕の気紛れで寵愛を受けてた側室でしょ
559世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:25:02.58 0
>>558
そうだね。
曹叡の即位後に皇后を追贈されているから歴史上では甄后と呼ばれて、
陳寿も多少筆を潤して、あたかも曹叡が当初からの正当な曹丕の跡取りだったように書いている。
実際はそうではなく、複数いる兄弟の一人に過ぎなかったのだろう(しかも後にかなり不利な地位に落とされる)。

この潤筆の理由を取り違えて、「曹叡は袁煕の子」派は惑わされているんだな。
560世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:32:06.51 0
曹叡は字からして「元仲」。
伯・仲・叔・季の兄弟命名規則から言って、次男かつ養子。
他に正当な後継者である兄がいた。
それが曹協。
だから曹叡を養子にした時点では問題なかった。
魏の後継者から限りなく遠い存在に過ぎなかったのだから。
561世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:35:27.33 0
そもそも後継ぎ候補の皇太子を封建しない。
曹叡は王侯になった時点で後継争いレースから脱落。
562世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:42:04.89 0
曹叡は異姓養子のタブーに抵抗がない人物で、皇后郭氏の従弟を甄氏の養子にさせてる。
異姓養子ってだけでも大問題なのに、他の家にまでやらせるとかもはやキチガイ。
彼の出生が影響していたのではないか。
563世界@名無史さん:2012/06/12(火) 02:54:33.82 0
>>560
元って養子って意味なのか?
出典どこだよ
「元嫡」なんて言葉も知らないんだろうな

あとその字パターンって大概一文字目が順番を表す文字で
二文字目に順番を表す仲が来てる時点でその「規則」とやらがどれだけ信用できるの?

字義としたら「元」は物事の根源、根本、頂点、人の頭部のこと、「仲」は物事の内側、二番目、弟
「元」は頂点、「仲」は二番目、二代目皇帝って意味じゃないかね
もっともこんな字を付けられるようになるのは曹叡が即位後ということになるだろうけど
それでも根拠ない養子を意味する名前ってよりはマシだと自負してる
564世界@名無史さん:2012/06/12(火) 03:21:02.01 0
二字目が「仲」といえば糜竺-子仲、張緝-敬仲がいるが二男かはわからない。
565世界@名無史さん:2012/06/12(火) 03:26:18.65 0
>>564
糜竺の場合、弟の糜芳が子方で法則無関係の命名であることがわかるな
566世界@名無史さん:2012/06/12(火) 04:54:59.66 0
曹操すら妾の連れ子の何晏に「曹氏にならない?」と誘って断られたらおとなしく引き下がってるのに
曹叡は平気の平左で異姓養子のタブーを犯させるとか、
何考えてるのか分からん。
567世界@名無史さん:2012/06/12(火) 05:01:17.19 0
>>563
曹真の長男の曹爽は字が「昭伯」だぜ?
後につくこともありだろ。
568世界@名無史さん:2012/06/12(火) 06:26:19.60 0
「伯」の場合ははこのくらいかな?
長男はどれくらいだろ?
荀寓景伯、邵悌元伯、陳泰玄伯、婁圭子伯、伊籍機伯、王昌公伯、王雄元伯、向雄茂伯
569世界@名無史さん:2012/06/12(火) 06:32:49.42 0
陸遜の甥の陸喜は字が文仲で二男のようだ
兄弟の字が分からんのでなんとも言えん
570世界@名無史さん:2012/06/12(火) 07:27:17.75 0
で、「曹叡は養子派」の人はその根拠をまだ何一つ出していないのだが。
571世界@名無史さん:2012/06/12(火) 13:09:12.02 0
二文字目に伯仲叔季が来てる奴いても兄弟で字が判明してる奴いないから
兄弟の法則に則ってるか判明しないな
572世界@名無史さん:2012/06/12(火) 16:27:54.99 0
晋の趙胤(字は伯舒)は趙龔の弟。ただし趙龔の字は不明。

もっとも、曹叡が長男でなかったからといって、養子であったとする根拠とするには弱いと思うが。
その理由はいろいろあるが、>>554の言うように、
甄氏が殺された時点で帝位は継げないだろう。
殺されてなくても養子なら継げないと思うが。
573世界@名無史さん:2012/06/12(火) 19:55:03.48 0
本当のことなんて誰にもわからないけど、
決定的証拠がない以上、
赤の他人を後継者にした動機に対する合理的説明がない限り、
あえて非実子説に組みする理由は無いなあ。
年齢だけなら誤記なんていくらでもあるしね。
司馬氏や陳寿に隠さなければならない理由も特に有るとは思えないし。
574世界@名無史さん:2012/06/12(火) 22:23:01.61 0
西晋にとって魏の第四代にして最後の皇帝の曹奐は曹宇の子だから曹叡がどうであれ致命傷にはならないもんな。
漢魏晋革命の体面として曹叡を立てたのだとしても、
風聞としてさえ在野の史家の注意を引かず、裴松之の捕捉に掛からなかったのはかなり不自然。
孫呉派や漢魏交替説の信奉者にとっては格好の正当化材料だろうに。

司馬睿の父が牛氏だったというヨタが唐代まで伝わったことと比べて考えると、
魏晋南北朝代の歴史家は曹叡の出自を疑いもしなかったことになる。
575世界@名無史さん:2012/06/12(火) 22:24:04.85 0
×孫呉派や漢魏交替説の信奉者にとっては格好の正当化材料だろうに。

間違えた

○孫呉派や漢晋交替説の信奉者にとっては格好の正当化材料だろうに。
576世界@名無史さん:2012/06/12(火) 23:43:50.42 0
>>574
異姓養子は孫権の親族も劉備もやってるからブーメランになるからなあ
晋の重臣にもいるし
577世界@名無史さん:2012/06/12(火) 23:53:59.23 0
異姓養子を認めることと後継者にするのは別の話

劉備は劉封ではなく実子の劉禅を後継者としたのであり、
曹丕にも実子が他にいたので曹叡が異姓養子ならば実子を後継者にするまで。

異姓養子なんかに跡継がせようとしたら、実子がおらずとも弟や甥あたりが騒ぎ出しそうなもんなのに
実子がいる状況でそれを差し置いて異姓養子を立てたら相当な紛糾を生じるのは必定。
記録スカスカの蜀書じゃあるまいし、魏書に皇族内でのなんらかの騒動の形跡を見つける事はできるのか?
578世界@名無史さん:2012/06/13(水) 00:29:10.76 0
養子跡継ぎが認められるのは精々徹侯までだぞ
漢から禅譲された天子は代々少なくとも始祖皇帝の血を引いていなければ
国家の祭祀が根底から覆る。
579世界@名無史さん:2012/06/13(水) 00:56:50.78 0
>>578
まあ魏の元帝は初代皇帝の子孫ではないんですけどね
580世界@名無史さん:2012/06/13(水) 01:00:58.82 0
>>577
でももし劉禅が生まれなかったら、劉備の後継者は異姓養子の劉封で確定じゃん?
劉備はたまたま運が良かっただけ。
581世界@名無史さん:2012/06/13(水) 01:12:39.56 0
>>579
だからわざわざ始祖皇帝というめんどくさい言葉を使ったんだよね。
最初に皇帝を名乗った「初代」ではなく追号で遡って「祖」を決める
魏は太祖武皇帝曹操を始祖として、その子孫を帝位を襲う権利を持つ皇室と定めた
だから帝紀第一は曹操から始まってるだろ。漢なら劉邦。

異姓養子の話題には全く関係ない話なので程ほどにな。
582世界@名無史さん:2012/06/13(水) 01:15:57.49 0
>>580
劉封は異姓じゃないよ。
別に群雄の後継者が養子であって悪いはずもない。

ただ、劉備は"運良く"、のちに漢中王、漢皇帝まで登ったから
実子がいなければ少し困ったことになっただろう。
その時は漢室の血を引く者を養子にとるか、
劉封の血筋をそのようにでっち上げればよい。
583世界@名無史さん:2012/06/13(水) 01:23:38.63 0
>>580
> でももし劉禅が生まれなかったら、劉備の後継者は異姓養子の劉封で確定じゃん?

んなわけねーだろ
漢中王になって以降の劉備にとっては後継者が劉邦の男系子孫(少なくとも劉備自身のように建前上は)であることは
絶対だっただろうから異姓養子に後を継がせるわけがない

劉禅が生まれなければ劉永か劉理が王世子・皇太子になるだけ
劉永も劉理も生まれなければ劉循でも養子にしとけばいい
584世界@名無史さん:2012/06/13(水) 01:27:37.29 0
>>581
曹叡は曹騰、曹嵩までさかのぼって高皇帝、太皇帝と追号しているのだが。
そもそも、太祖の曹操も後漢の臣として死んでるから、曹操を武皇帝と追号したのは息子の曹丕。
曹騰は宦官なので、二代皇帝の曹嵩は異姓養子になる。
曹魏というのは異姓養子でも認める特殊な家風があったのではないか?
585世界@名無史さん:2012/06/13(水) 01:27:59.28 0
>>581
まあそれは承知の上で書いた
でも一つ言わせてもらうと諡号の「祖」を遡ると曹騰にまで至らないか?
魏の場合曹騰にはもちろん子供がいないし曹嵩の子も曹操以外残っていないみたいだからいいのだけれど
586世界@名無史さん:2012/06/13(水) 01:29:56.05 0
>>582
劉封の父は寇氏だよ。
587579=585:2012/06/13(水) 01:31:38.92 0
>>584
かぶった

しかし皇帝の地位を異姓養子で継承することはありえない
長い中国の歴史の中でも後周で一例あるだけではないか?
いい加減諦めろ
588587:2012/06/13(水) 01:32:33.04 0
あー違ったわ
五代十国ではいくつか異姓養子の例があったわ
589世界@名無史さん:2012/06/13(水) 01:37:51.25 0
>>585
子孫が皇帝を継ぐ権利を持つ帝室の祖を誰にするかは王朝によって協議されて決まる。
追号などで固定された規則はない。
魏は曹操に定められたってだけ。
590世界@名無史さん:2012/06/13(水) 02:20:15.47 0
>>589
宋朝帝室の祖は趙弘殷なの?
こいつクッソマイナーな人物で王朝創業にタッチしてないんだけど
591世界@名無史さん:2012/06/13(水) 03:18:30.20 0
宋の場合、趙匡胤が急死して弟の趙匡義が即位してるから
父親を祖にしないと弟の即位の正統性が保てないってことなんかな
592世界@名無史さん:2012/06/13(水) 05:15:53.86 0
>>589
>魏は曹操に定められたってだけ

誰が定めたの?
明帝の決定だって有効でしょ。
593世界@名無史さん:2012/06/13(水) 08:51:06.83 0
孫権だか孫策だかの命令で異姓養子にさせられたが、しつこく「元の姓に戻してください!」と要求してついに成功した孫呉の武将がいたな。
異姓養子はやっぱり当時はタブーなんだろ。
594世界@名無史さん:2012/06/13(水) 08:55:38.71 O
>>593
朱然だっけ?
595世界@名無史さん:2012/06/13(水) 09:16:01.72 0
朱然と朱績が二代に渡って「姓を施に戻して!」と要求して、朱績の代にやっと叶ったらしい。
どんだけ朱姓が嫌なんだよと。
596世界@名無史さん:2012/06/13(水) 10:44:42.74 0
で、話戻すけど曹叡は曹丕の実子ってことでよろしいですね?
597世界@名無史さん:2012/06/13(水) 11:07:19.48 0
204年生まれなのに?
598世界@名無史さん:2012/06/13(水) 11:10:32.80 0
陳の2代目は初代の甥。
その前の梁は最初の後継者候補が甥、後実子が出来て外される。
ともに一代で築いた国で、初代の父親は曹操らと同じ立場ではない。
まあ、梁の方は前朝の遠縁の親類で建国の功臣ではあるけど。
「南斉書」を編纂したのが梁でなければ、「南斉書」に伝が立ちそうな人。
陳の方は息子が出世しなければ、ただの無名の下級役人。
実子がなければ、甥ってのは自然でしょう。
後趙は、養子の継承があるけど、あれは実力だし。
前趙も遠縁の相続だけど、あれも実力。
ともに後継者として認められていたわけじゃない。
しかも当時としては異民族系だし。
異姓相続は相当不自然なんだよね。
その不自然なことをやれば、当然抵抗が大きくなる。
それをあえてやるからには、相当な理由がないと。
例えば、自己の血筋に対する強烈なコンプレックスか憎悪。
あるいは実子との深刻な対立関係。
そう言うことがあってこそ、非実子説が議論の対象となる。
なにもなければ、議論以前の問題でしょ。
599世界@名無史さん:2012/06/13(水) 19:07:00.97 0
>>597
>>556

問1
両者とも陳寿の記述であり信憑性は同等。
一方を無条件で採用し、他方を完全に棄却する根拠は未だ示されていない。

論じてみて?


問2
この矛盾する記述を公正に扱うには、この記述を双方とも一旦思考から除外したのち、
曹叡の生まれ育ちの経緯を整理して彼が当時置かれた立場を再構築するしかない。

やってみて?
600世界@名無史さん:2012/06/13(水) 19:46:55.00 0
当時でも妊娠期間なんて何ヶ月なのか解ってたんだから
曹丕は自分の子じゃなかったら気づく。
?って確か半年くらい包囲されてたんだろ?
この間袁煕は?に入って甄氏と交わることは不可能で、
そうすると曹叡が袁煕の子として生まれるためには
?が陥落してから遅くとも3〜4ヶ月以内に生まれないといけない。
曹丕が甄氏と交われるのは当然?陥落以後なので、曹丕が曹叡を自分の子だと考える余地はない。
601600:2012/06/13(水) 19:48:37.02 0
文字化けしてた……
全文訂正

当時でも妊娠期間なんて何ヶ月なのか解ってたんだから
曹丕は自分の子じゃなかったら気づく。
?って確か半年くらい包囲されてたんだろ?
この間袁煕は?に入って甄氏と交わることは不可能で、
そうすると曹叡が袁煕の子として生まれるためには
?が陥落してから遅くとも3〜4ヶ月以内に生まれないといけない。
曹丕が甄氏と交われるのは当然?陥落以後なので、曹丕が曹叡を自分の子だと考える余地はない。
602600:2012/06/13(水) 19:49:26.26 0
ああああ
やっぱ駄目だ

?はギョウです
603600:2012/06/13(水) 19:58:23.60 0
という訳で、曹叡の父=袁煕説に立つと
曹丕は曹叡が自分の子では無いと知っていながら自分の子として扱ったことになる。
当然このことは周囲も気づく(婚姻から3〜4ヶ月で生まれた子供を実子とは流石に誰も信じないだろう)はずで、
そのことは公然の秘密だった訳だ。
そして、曹丕は曹叡を皇太子とするのだが、この時点で曹丕には他にも男子がおり、
彼らは曹丕の実子だろうと考えられるのにそれを差し置いて皇太子には袁煕の息子が立てられる。
だとすると当然反対者が出る。曹丕の実子なのに皇太子になれなかった者は当然不満を持つだろうし、
本人が不満に思わなくても取り巻きが黙っていない。
そのため、曹叡が帝位を継承するためにはそれらの反対者を排除しなければいけないのだが、
彼らが排除された形跡が全く以って見当たらない。

以上から曹叡の父=袁煕説は破綻。
享年の記述が間違っていると見るべき
604世界@名無史さん:2012/06/13(水) 20:17:26.25 0
>曹丕の実子なのに皇太子になれなかった者は当然不満を持つ

明帝以外は幼すぎて政治ができない。

>本人が不満に思わなくても取り巻きが黙っていない。

司馬氏と曹爽派が激突しただろ。
605世界@名無史さん:2012/06/13(水) 20:18:10.74 0
曹叡は母の亡き後朝臣との関わりを絶っていたため、高官達は誰もその人柄を知らなかった。
侍中という顧問役の身であった劉曄がやっと即位数日後に拝謁することができたというほど。

宮廷闘争に持ち込まれたら瞬殺。
606世界@名無史さん:2012/06/13(水) 20:21:33.88 0
>>604
>明帝以外は幼すぎて政治ができない。
漢代四百年に何人幼帝がいたと思ってるんだ。
皇帝は人格がまともでさえあれば年齢は殆ど関係ないよ。

そんな理由で曹氏以外の手に皇帝の座が渡るのを臣下一同黙って見過ごすなんて
光栄三国志よりも酷い世界だな。…あんたの脳内は。

>司馬氏と曹爽派が激突しただろ。
はあ?
607世界@名無史さん:2012/06/13(水) 20:25:42.56 0
つーか>>604みたいな瑣末事(これが瑣末になるレベルの低さだが)はどうでもいいよ。
>>599に答えて。
608世界@名無史さん:2012/06/13(水) 20:31:42.52 0
>>605
孫呉最後の皇帝みたいだね
609世界@名無史さん:2012/06/13(水) 20:43:38.69 0
>>608
孫皓は烏程侯でそもそも建業にいなかった。
むしろ人脈の無い皇族だからこそ万ケが目を付けて、
高官の協議で天子として祭り上げるのに都合の良い存在だった。
漢で数の前例がある話。

孫皓の場合はそこから廷臣達の目論見が狂ったが。
610世界@名無史さん:2012/06/13(水) 21:21:30.67 0
>>604
曹丕の子はともかく曹操の子は山のようにいて
しかも壮年で脂が乗り切ってる政務に向いたお年頃
実子でまともなのいないなら兄弟相続でいいだろ
611世界@名無史さん:2012/06/13(水) 21:54:07.31 0
>>604
政治ができようができまいが、いやむしろできないほうが取り巻きはそれを補佐する名目で権力にありつける。
仮に幼帝を立てることを皆が恐れていたとしても、出自の怪しい先帝の息子と出自の確かな先帝の弟がいたとしたら
先帝の弟の方を立てる者の一人や二人は絶対に出てくる。
曹操には息子が25人もいて、そのうちのいくらかは既に死んでいたとは言え、壮年や青年の者は何人も残っていた。
能力も血統も問題なく人格以外は完璧な曹丕ですら跡目争いやってるのに
能力は定かでなく血統も怪しい人間がすんなり後継者になれるわけがない。

司馬氏と曹爽が激突したのは曹叡の時代ではない
612世界@名無史さん:2012/06/14(木) 01:09:07.81 0
>>610>>611
明帝よりも戦争がうまい皇族が誰かいるのかね?
613世界@名無史さん:2012/06/14(木) 01:20:56.66 0
>司馬氏と曹爽派が激突しただろ。
>>司馬氏と曹爽が激突したのは曹叡の時代ではない

曹叡政権の末期に、司馬懿を差し置いて曹爽に大将軍をやってたじゃん。
実績もないのに寵愛してるというだけで。
この頃から関係悪かったと思うよ。
614世界@名無史さん:2012/06/14(木) 01:27:18.56 0
>>612-613
ポカーン…
615世界@名無史さん:2012/06/14(木) 02:39:19.27 0
>>612
戦争うまいへたなんて曹叡即位時にはわかんない
曹叡即位時には能力は未知数だった
少なくとも曹丕の実子じゃないのに後継者に成れるほどの能力を示す機会は無かった

>>613
それ末期の話じゃん
>>603で言ってるのは曹叡即位の際の話だから、まるっきり見当違い
曹叡が曹丕の実子か否かについての議論とは全く関係が無い
616世界@名無史さん:2012/06/14(木) 05:04:00.99 0
>>604
>明帝以外は幼すぎて政治ができない。
曹丕は曹霖や曹礼を寵愛していたが、二人が幼かったかどうかは不明。

>>613
>曹叡政権の末期に、司馬懿を差し置いて曹爽に大将軍をやってたじゃん。
曹叡が死ぬ1カ月前くらい。病床についてからだよ。
617世界@名無史さん:2012/06/14(木) 11:08:08.36 0

「国の借金」はデマ

日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」は1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。

朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。

<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙され続けている訳です>

数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
  しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。

それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
 
  実質中国の広報機関であるNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
   
 ---そのニュース 核心は、デマだ       長文失礼いたしました。---
618世界@名無史さん:2012/06/14(木) 12:50:36.40 0
曹宇って結局はどういう存在だったんだろう
賢愚もいまいちわからんし、いつの間にか消えていった印象が…
619世界@名無史さん:2012/06/14(木) 18:57:49.47 0
>>618
司馬氏に下手に逆らわない賢さはあった
620世界@名無史さん:2012/06/14(木) 21:26:30.96 0
>>574-575
呉の能力はあてにならんよ
莚売りの劉備の化けの皮だって剥がせなかったじゃないかwwwww
621世界@名無史さん:2012/06/14(木) 21:39:59.28 0
演義乙。

それと、剥がしたらまずいんだよ。同盟国なんだから。
622世界@名無史さん:2012/06/15(金) 22:11:06.45 0
後漢最末期の皇族の王侯ってどんな人がいたんだろう?
全般的にはただの装飾品だろうけどね。
後漢書みればある程度はわかるんだろうけど、
最寄り(事実上利用可能な唯一の)の図書館が丁度一週間ほど休館。
ああ、なんか気になる。
623世界@名無史さん:2012/06/15(金) 22:37:01.31 0
ttp://hanji.sinica.edu.tw/

列伝第四、三十二、四十、四十五辺りか。
少なくとも七王家が建安11年に除かれたことが記されている。

面白いのが琅邪王。当時の王の弟だった劉バクが、
東郡太守だった曹操を忠誠だと賞賛したためか、
一端途絶していた王位が建安11年に逆に復活している。
しかし在位11年にして「謀欲過江」に座して誅された。
曹操が魏王になる頃に江東に逃げようとしたんだね。
624世界@名無史さん:2012/06/15(金) 22:38:33.73 0
ああ、世襲したのは劉バクではなく、その兄子で前の琅邪王容の子の煕ね
625世界@名無史さん:2012/06/16(土) 14:18:23.24 0
魯って王が見当たらないのに魯相いるよな
張遼とか
626世界@名無史さん:2012/06/16(土) 15:59:43.79 0
張魯が魯粛の養子になったら
魯魯か
やっかいだーやっかいだー
627世界@名無史さん:2012/06/16(土) 18:24:14.58 0
なんだその初代ノルマンディー公みたいな名前は
628世界@名無史さん:2012/06/16(土) 20:40:31.83 0
うむ。
629世界@名無史さん:2012/06/19(火) 12:21:55.06 O
>>625
劉永、孫覇
630世界@名無史さん:2012/06/19(火) 19:32:40.55 0
後漢には、ってことだろ。張遼は呉にも蜀漢にも仕えてないぞ。

で、継ぐ王がいなくとも国が除かれない限り王国としての体裁は維持される。
國相がほぼ太守と同一の仕事をしつつ、留守を守るだけだからね。
王国の国事儀礼も多少は代行していたのかもしれない。
631世界@名無史さん:2012/06/24(日) 18:20:31.18 O
劉備が平原国相だった時の平原王ってだれだろう?
ていうか国相って王の臣下扱い?それとも中央からの出向官僚?
632世界@名無史さん:2012/06/24(日) 18:47:59.21 0
儀礼は臣下。実態は出向。
平原王はわからない。当時在位者がいたかいないかもわからない。
633世界@名無史さん:2012/06/24(日) 22:30:15.81 0
董卓専横とか関東諸侯の一斉蜂起とか官渡の戦いとか、そういう時期の各地の王様って何してたの?
634世界@名無史さん:2012/06/24(日) 22:38:44.11 0
黄巾の乱で二、三人殺されてた。
まあその程度の力しかなかったのが後漢の諸王。
唯一例外で奮戦したのが陳王寵。
635世界@名無史さん:2012/06/24(日) 23:12:17.51 0
所謂
血族と創業の功臣の「藩屏」は機能しないのは前漢で明白だったからね

後漢は宦官と外戚で揺れ動いて
魏はシステマチックな官僚主義につけこまれて

それらをみた普は前漢に戻る、とw
636世界@名無史さん:2012/06/24(日) 23:27:41.85 0
宋元明清は簒奪防げてるのはどういう理由だろうか
637世界@名無史さん:2012/06/24(日) 23:39:07.08 0
王朝ごとに事情は異なるだろうが、基本的に科挙と宦官。
簒奪できるほどの信望を、臣下の一家が集めることが出来なくなった。
638世界@名無史さん:2012/06/24(日) 23:40:17.51 0
>>635
晋を普と書いちゃう人はまず中学社会からやり直して
639世界@名無史さん:2012/06/25(月) 00:00:07.85 0
>>637
一代で簒奪しちゃった人も結構いるけどねえ
まあそういう輩は軍人だから軍人の力が弱くなれば簒奪できないのか
640世界@名無史さん:2012/06/26(火) 00:13:33.66 O
>>638
そこを突っ込む( ´∀`) オマエモナー
641世界@名無史さん:2012/06/26(火) 00:57:38.74 0
>>640
えっ
642世界@名無史さん:2012/06/28(木) 09:02:21.73 O
ちょっとした誤字を鬼の首を獲ったかのように指摘し、
責め立てるような輩が同好の士だと思うと悲しい。
もっと楽しい話しようよ。段ワイについてとかさ。
643世界@名無史さん:2012/06/28(木) 09:54:18.34 0
猥談か
644世界@名無史さん:2012/06/28(木) 10:23:36.76 0
打鍵の世界では同音誤字が多いよな、音(読み)を打ち込んで変換するんだから
いわゆる誤変換だが
この場合手書きじゃないんだし、普と晋ではどう読んでも類似がない
誤字を書き込んでしまったというより、そもそも間違った認識をしていたか、
正しい認識はあっても、過去の習慣的な錯誤が不意に出たとしか考えられない
言葉の選び方のわりに残念すぎて、突っ込まれるのも分かる
645世界@名無史さん:2012/06/28(木) 10:52:07.56 0
タイポミスなんてネットじゃ日常茶飯事
なお今使ったタイポは誤字ではない。
646世界@名無史さん:2012/06/28(木) 11:03:00.23 0
シンとフをどうタイプミスすんだという話だろ
647世界@名無史さん:2012/06/28(木) 12:25:12.03 0
某航路でも程普が程晋になったりするんだし寛大な心で許してやろうぜ
648世界@名無史さん:2012/06/28(木) 21:03:31.07 0
>>647
関雲長のことを「せきうんちょう」とルビを振った某航路ですね
649世界@名無史さん:2012/06/28(木) 21:11:15.31 0
俺のPCだと普通に「しん」で普が出てくるが?
650世界@名無史さん:2012/06/29(金) 08:58:31.29 O
董卓の軍勢の実質的No.2って牛輔?
その次辺りの地位にいたのだれだろう?
胡シン?段ワイ?
651世界@名無史さん:2012/06/29(金) 09:25:51.39 0
知られるうちで高い地位を獲得したのは胡軫かね。
存命中に牛輔とどちらが格上だったのかとかまではわからん。
652世界@名無史さん:2012/06/29(金) 09:32:58.48 0
趙謙とか?
653世界@名無史さん:2012/06/29(金) 10:00:44.31 0
趙謙やら王允は朝廷の高官であって外様。
「丞相曹操の軍勢のナンバー2はチ慮」とは言わないだろう。
654世界@名無史さん:2012/06/29(金) 11:07:41.25 O
胡軫や楊定は、涼州出身なのに董卓死後に王允に従ってる。
胡軫は陳郡太守の経歴もあるし、孫堅に負けた後は董卓に嫌われたか、漢朝の臣としての色合いが強くなったんじゃないかな?
そうなると女婿であり、中郎将でもある牛輔がNo.2?
段ワイも涼州出身だけど、楊定に嫌われてたし、賈クにも逃げられてるから人望がなかったのかな?
段ワイの事跡みると意外とまともな奴のような気がするが・・
655世界@名無史さん:2012/06/29(金) 11:33:42.29 0
別に胡軫が漢臣よりになったんじゃなくて、
李カクらも胡軫や徐栄みたいに従いたかったけど
許されなかったから賈クの進言で蜂起しただけでしょ。

実質の軍事かどうかわからんが董旻、董承、董越らが有力なんじゃなかったっけ?
656世界@名無史さん:2012/06/29(金) 11:56:11.72 0
チ慮ってやっぱり現代風にいえばイエスマンなのかな?
657世界@名無史さん:2012/06/29(金) 14:46:17.04 0
チ慮もそうだけど、鄭玄門下ってろくな奴がいない気が・・
高官になった奴多いけどね。意図的に貶められてるのか?

>>655
董越も東中郎将だったね。

ところで段ワイらを率いて李カクを滅ぼした裴茂って「謁者僕射」だよね?
この身分って、中郎将達を率いれるものなんだろか?
658世界@名無史さん:2012/06/29(金) 16:05:16.67 0
>>657
えーと劉備とか>鄭玄門下
659世界@名無史さん:2012/06/29(金) 16:23:55.94 O
>>658
そうか、劉備か。
あいつは、偉いよね・・
660世界@名無史さん:2012/06/29(金) 19:55:03.60 0
>>657
謁者僕射が中郎将を率いる権限があったのではなく、この時の裴茂は皇帝の使者として派遣されていて、中郎将たちは皇帝の使者に従ったということだろう
そして謁者僕射は皇帝の使者になることが多い官だったということ
661世界@名無史さん:2012/06/29(金) 20:50:03.12 O
>>660
なるほど。
実際軍勢を指揮したわけじゃないんだね。納得。
息子は伝に劉表のところにいたってあるし、
李カク滅ぼした後、許には行かなかったのか。
662世界@名無史さん:2012/06/30(土) 13:11:21.90 0
>>640
> >>638
> そこを突っ込む( ´∀`) オマエモナー

細かいと言われることは百も承知だが、あまりにもひどいだろ。小学生か?

三国志の前に漢字の勉強くらいやっておけよと心配になる。おせっかいだが。
663世界@名無史さん:2012/06/30(土) 18:05:18.81 0
>>649
自分で辞書登録したんじゃないのw
664世界@名無史さん:2012/06/30(土) 20:44:15.76 0
>>657
崔エン・国淵って建安時代屈指の儒者だぞ。それから孫乾
665世界@名無史さん:2012/06/30(土) 21:03:05.43 0
>崔エン・国淵って建安時代屈指の儒者だぞ。それから孫乾

孫乾だけ超小物w
666世界@名無史さん:2012/06/30(土) 21:27:18.46 0
鄭玄は自立してから常時数百人から千人の弟子を取っていて、
孫乾はそのうち歴史に名を残す6、7人のうちの一人なのだが。
667世界@名無史さん:2012/06/30(土) 22:51:35.04 0
>>666
学術的業績は?
668世界@名無史さん:2012/06/30(土) 22:53:58.39 0
王基やチ慮や劉備の学術的業績は?
669世界@名無史さん:2012/06/30(土) 23:03:09.13 0
通なら「晋」より「晉」だよな
670世界@名無史さん:2012/06/30(土) 23:05:12.90 0
「ホウ悳」はいつから「ホウ徳」って表記が主流になったんだろう?
671世界@名無史さん:2012/07/01(日) 00:14:24.56 0
新字体が普及してから
672世界@名無史さん:2012/07/01(日) 01:31:07.90 0
>>669
そういうのは通じゃなくて旧字体厨だろう
673世界@名無史さん:2012/07/02(月) 23:15:25.30 0
えっ
674世界@名無史さん:2012/07/03(火) 08:51:06.46 O
そもそもがタイプミスか、読み方間違ってたのか知らないが、
誤字の話題をここまで引っ張る暇人達が同好の士とは残念だよ。
もっと楽しい話しよう。劉勲についてとかさ。
675世界@名無史さん:2012/07/03(火) 11:25:36.19 0
司馬師の男系って結局壊滅?
676世界@名無史さん:2012/07/03(火) 20:30:44.81 0
>>674
何かと思えば三日も前に終わった話題じゃねーか。何引っ張ってんの

袁術配下で一番頑張ったのは陳蘭。これは譲れない。
677世界@名無史さん:2012/07/04(水) 11:45:29.33 O
雷薄・陳蘭コンビと呉蘭・雷銅コンビって、
セット売りなところが何となく似てる。
字も被ってるし。
678世界@名無史さん:2012/07/05(木) 00:54:42.06 0
>>675
男子がいなくて司馬攸が養子に来てるから壊滅以前にもとからないのでは?
679世界@名無史さん:2012/07/05(木) 23:47:01.10 0
ありゃりゃ司馬昭のつもりだったのに間違えてた。
ちゃんと確認しないと駄目だな。
680世界@名無史さん:2012/07/06(金) 11:02:28.85 0
東晋では司馬昭の子孫で王位についていた者はいないし、生き延びてもいないはず。
東晋成立(318)以前に、311年の王衍敗北、洛陽陥落、苟晞敗北で皇族は軒並み死亡。
312年の時点で生きている子孫は、匈奴(漢)に連行された懐帝(司馬熾)と
懐帝処刑後に皇位を継承する司馬鄴(愍帝)しかいないんじゃないかな。

司馬懿の子孫で東晋まで生き残ったのも
皇位についた司馬睿のほかには司馬亮の子孫だけじゃないかなぁ
司馬八達の子孫はちょろちょろいるけど。
681世界@名無史さん:2012/07/07(土) 12:34:18.17 0
>>677

呉蘭・雷銅はどの程度の兵を率いてたのだろ?

全滅しても、後の漢中攻防戦が蜀側の勝利になったこと
考えると、大した兵数じゃなかったのかな?
682世界@名無史さん:2012/07/07(土) 19:22:34.72 0
雷銅と雷諸は親戚かな?
683世界@名無史さん:2012/07/07(土) 20:09:22.32 0
清河王司馬遐の、たぶん次男の司馬籥ってどうなったんだろう?
他の兄弟は次々と皇太子になり殺害されてるが、
この人だけは最期か書いてない。
弟が皇太子になる前に死んじゃったのかねえ?
684世界@名無史さん:2012/07/07(土) 22:18:31.24 0
曹叡の異姓養子疑惑について。
曹叡は母甄氏の家が断絶の危機に瀕した時、タブーである異姓の養子縁組を行わせて甄家を存続させている。
おかげで孫盛にけちょんけちょんに叩かれている。
一方で、曹氏の異姓養子になることを拒否した何晏は曹叡に殺された。
また、父曹真が異姓養子だった曹爽は曹叡に寵愛された。

祖父の曹操は曹操で、求賢令で「卑賎でも不孝でも用いる」と叫んだ。
これは自分が卑賤で不孝な宦官の家の出身であることの裏返しだった。

父の曹丕もまた、できる弟曹植への劣等感から執拗に苛めた。

曹氏は代々コンプレックスの塊。
685世界@名無史さん:2012/07/07(土) 22:25:50.38 0
当時数少なくなってしまった司馬炎の直系という血筋、冀州の状況を考えると
藩国に赴任していたとは考えにくいから、洛陽に留まっていて、陥落と同時に死亡したか
あるいはその前に病死したかだろうね。

ただ清河王位は二人の弟はどちらも就いてないのが微妙だな。
司馬銓は上庸王から豫章王、皇太子だけど、豫章は懷帝のもとの封国だから
豫章王になった時点で後継者候補。
その弟の司馬端は廣川王で、兄が皇太子になると豫章王に。

司馬籥が早くに亡くなっていればどちらかを清河王にして司馬遐を継がせてたと思うので
洛陽陥落までは司馬籥は生きていたのかなぁ。
686世界@名無史さん:2012/07/07(土) 22:30:38.92 0
何晏は曹叡に殺された?
687世界@名無史さん:2012/07/07(土) 22:33:34.90 0
>>686
閑職に追いやられた、に訂正します
688世界@名無史さん:2012/07/08(日) 00:24:37.93 0
>>684
一行目と二行目以降がまったく繋がらないのだが
何がいいたいのだろう。
689世界@名無史さん:2012/07/08(日) 08:16:38.56 0
>>687
その理由は浮ついてて実がない、であって異姓養子ではないぞ
妄想を押し通すのは小説の中だけにしてくれ
690世界@名無史さん:2012/07/08(日) 09:30:34.31 0
晋書読むと正始年間に起用されてる奴も多くて
何晏はちゃんと仕事してるなと思わされる。
691世界@名無史さん:2012/07/09(月) 23:44:40.47 0
何晏らは怠慢じゃなくて曹爽派として人事に勤しんでいたわけだからね(これも勝利した司馬氏側からの記述だが)
しかも、曹爽に辟召などされて党与を構成していた朝臣からも結構な数が司馬氏に吸収されて晋臣になっているのだから、
思想や利権と言うよりももっと単純な権力闘争の構図だ。
692世界@名無史さん:2012/07/10(火) 18:28:42.04 0
不思議なんだけど、司馬柬を跡継ぎにしようって話はでなかったの?
少なくとも兄と違って標準レベルの人物では有ったらしいのに。
693世界@名無史さん:2012/07/11(水) 13:33:04.70 0
三少帝紀にちょこちょこ忠義の人とかが叙爵されたり、任官されたり
って記事がある。たいした地位じゃなく普通は名の残らない人も。
これってやっぱり人気取りとか?
694世界@名無史さん:2012/07/11(水) 17:18:58.57 0
>>692
皇太子・司馬衷(のちの恵帝)の廃嫡はたびたび持ち上がったけど
その際は当然、同母弟の司馬柬が皇太子となったと思う。
司馬炎が二人の実母である楊氏に司馬衷廃嫡を相談したことがあるけど
その時も当然、代わりに司馬柬を皇太子にするつもりだったろう。
ちなみに楊氏は「嫡子は年長者を選ぶべきで、賢さで選ぶべきではない」と反対。
まぁ司馬衷が継いでも、サポート体制が盤石なら、無理ゲーではなかったと思う。

その司馬柬も司馬炎死亡の1年半後には病死してるから、司馬柬が継いでいたところでなぁ。
タイミングが凄すぎるので、毒殺のような気がしないでもないが。
695世界@名無史さん:2012/07/11(水) 21:22:41.46 0
>>694
意外と暗殺、毒殺の類って成功しない気がする

国は違うけど西洋の王族で毒殺が疑われた人の死体が残ってたので検査したら
急性白血病で突然死のように死んだということがわかったりしてるし
696世界@名無史さん:2012/07/11(水) 22:06:30.95 0
劉弁が死んだのもタイミング悪かっただけなのに噂におひれついただけなんだろうな
697世界@名無史さん:2012/07/11(水) 23:00:12.07 0
>>695
日本では意外に成功しているけどね、毒殺。
足利義満、恒良親王、足利直義といったぐあいにね。
698世界@名無史さん:2012/07/11(水) 23:08:27.47 0
現代だったら狙撃すれば一発で殺せそうな気がするんだが違うのかね
要人だったらそもそも狙撃ポイントに着かせてもらえないのか
699世界@名無史さん:2012/07/11(水) 23:28:27.42 0
劉弁については、李儒絡みで辻褄が合う記述が残っているので信憑性がある。
と言うしかない。
700世界@名無史さん:2012/07/12(木) 00:40:37.12 0
>>697
3例しかないじゃん。伊達政宗も毒で死にかけたが助かってるし。
普通に刀や槍で殺すほうが確実だし、暗殺だと圧倒的にそっちの例が多い。
701世界@名無史さん:2012/07/12(木) 00:51:45.55 0
確実ならいいってものじゃなく、疑わしくても病死に見えてくれないと困る場合もあるから
702世界@名無史さん:2012/07/12(木) 01:01:00.36 0
足利義満は、そういう主張をしている人もいる、というレベルでしかないね。
恒良親王も実際のところは不明だし。太平記では一緒に毒殺されたとなって
いる成良親王が、実際には生きていたということだし。
703世界@名無史さん:2012/07/12(木) 01:02:53.21 0
ローマで言うと2代皇帝ティベリウスの息子ドルススなんかは確実に毒殺だという証拠が後から出てきてる
704世界@名無史さん:2012/07/12(木) 19:35:09.14 0
司馬炎は、粗製濫造って感じだ。
才能じゃなくて生命力が、
自然死以外が多いにしても、
誰一人半世紀の寿命がない。
約半世紀でも恵帝だかでしょ。
あとは30歳程度までか?
孫や曾孫に至っては悲惨の一言だし。
705世界@名無史さん:2012/07/12(木) 20:43:56.67 0
>意外と暗殺、毒殺の類って成功しない気がする

BSフジで再放送中の『三国志』で前回、主命を無視して私怨から関羽を殺した呂蒙を(明示はしていないが)孫権が密殺したという解釈は面白かった
706世界@名無史さん:2012/07/12(木) 20:57:59.52 0
呂蒙は孫権子飼いの兵だから主命を無視することもなければ
孫権も暗殺することもないでしょ
孫権が君主やってられるのって子飼いの軍人たちの影響力のお陰でもあるんだからさ

と、物語に野暮なこといってみる
707世界@名無史さん:2012/07/12(木) 21:15:52.37 0
呂蒙・周泰などは、功績高い諸将や名士・豪族達の間に楔を打って統制できる、孫権の子飼中の子飼だからね
708世界@名無史さん:2012/07/12(木) 22:11:43.50 0
甘寧も地盤がなくて子飼いのはずなのに何故か統制できないという謎
709世界@名無史さん:2012/07/12(木) 22:22:32.77 0
甘寧は本人のケレンミ溢れる性格のせいで統制される側だから
710世界@名無史さん:2012/07/12(木) 23:16:41.48 0
甘寧は無名から孫権に取り立てられたのではなくて、
益州時代からの名声で長年豪族の間を渡ってきて
最終的に呉に腰を落ち着けた人間だからね
子飼とは大分違う。
711世界@名無史さん:2012/07/13(金) 10:16:19.94 0
中国の正史ってものの性質上仕方がないことだってわかっては居るけど、
三国志に司馬懿から司馬炎までの伝がないのは、
歴史書としては、やっぱり欠点だな。
あと、主たる活動時期が呉滅亡までの人とかも。
むろん、陳寿に書けと言うのが無理なのはわかってる。
本来は新王朝の開祖は、前朝の史にも伝があってしかるべき。
と無い物ねだり。
司馬懿の場合は特にそう思う。
712世界@名無史さん:2012/07/13(金) 11:07:38.60 0
陳寿
「私が愛した蜀と、逆賊魏の戦いを書きたいんであって、司馬懿一族が簒奪するのしないのなんてぶっちゃけどうでもいい。
魏蜀が消えてしまって晋と呉の二国志なんてマジ書く気起こらん」
713世界@名無史さん:2012/07/13(金) 13:35:27.01 0
>>711
晋書読めばいいだけだろ
晋書の日本語訳がないことや、現存してる晋書が後代に編纂されたものであることを嘆くのならともかく。

ただひとつ言うと、晋書読んでも司馬懿の人柄ってあんまり見えて来ないんだよな
曹操や劉備や孫権や、あるいは司馬炎とはその辺が違う。
714世界@名無史さん:2012/07/13(金) 14:13:18.85 0
理想を言えば、前朝じゃなく、前々朝の史書を作成する方が冷静に書けそうだ。
まあ、短命王朝の場合はそれでもしがらみが有るけど。
たとえば梁書なんかは、南斉建国前に生まれた人の伝の集合体みたいなもんだし。
715世界@名無史さん:2012/07/13(金) 19:22:06.27 0
>>713
それは漢書での劉邦像に通じるものがあるね。
史記と違って、漢書はいわば国家機関としての皇帝という視点を中心に本紀を書いている。
716世界@名無史さん:2012/07/13(金) 19:24:39.37 0
>>714
後漢書・三国志・晋書の時期はそんな慣例は無いよ。この三つが編まれた時代もバラバラ。
特に前二つが「正史」として認定されたのは、数々の類書の中で最も出来が良いと評価されてほぼ完全な形で後代まで残ったから。
717世界@名無史さん:2012/07/13(金) 19:33:51.37 0
皇帝を追号されている今上の父や伯父を前代の王朝の史書で伝を立てろとか、
今上の事業を論評した「史書」を今上に上梓しろとか
現在統一王朝に仕えている臣下の伝を滅んだ王朝の史書に立てろとか。

おまえの頭の中の陳寿はどんだけ狂人なの?

718世界@名無史さん:2012/07/13(金) 19:46:49.96 0
>>717
漢書に王莽伝があるじゃん。
王莽だって一応皇帝だろ?
719世界@名無史さん:2012/07/13(金) 20:40:12.20 0
王莽は漢に皇帝だと認められてないからことさら「伝」を立てられたんだよ。
陳寿は司馬師・昭に対して同じ扱いをしろと?
720世界@名無史さん:2012/07/13(金) 23:37:13.46 0
司馬昭だって晋王どまりじゃん?
721世界@名無史さん:2012/07/14(土) 00:04:05.84 0
722世界@名無史さん:2012/07/14(土) 00:06:03.06 0
司馬昭は文帝を追号されてるよ
晋では、司馬懿が政権とった時から(司馬芳を退位させた時?)から晋が始まったと考えるべきかどうかって議論があった。
723世界@名無史さん:2012/07/14(土) 00:30:46.23 0
>>722
追号なら、曹操の父親の曹嵩には太皇帝、祖父の曹騰は高皇帝を追号されているが、本紀はないぞ。列伝もないけど。
724世界@名無史さん:2012/07/14(土) 00:31:40.08 0
後漢書に曹騰伝があったような
725世界@名無史さん:2012/07/14(土) 00:51:55.23 0
>>720
魏王の曹操は?
726世界@名無史さん:2012/07/14(土) 01:02:06.68 0
>>723
建国に功績が無い父祖になんで本紀を立てる必要があるの?
727世界@名無史さん:2012/07/14(土) 01:05:58.11 0
>>726
劉邦の父親レベルで功績ないならともかく、曹騰は創業に僅かながら貢献しているからその言い方はどうなんだ?
728世界@名無史さん:2012/07/14(土) 01:12:59.58 0
えっ
729世界@名無史さん:2012/07/14(土) 01:26:39.98 0
>>726
そもそも、なんで功績もないのに追号する必要があるの?
あと司馬懿・師・昭も創業はやってないよね。
曹操みたいに軍閥スタートじゃないし。
730世界@名無史さん:2012/07/14(土) 05:22:44.60 0
>>729
司馬昭は晋王になってる上に、魏のどの王よりも上位の待遇とされた。
司馬懿は九錫の下賜をされたが本人が固辞している。
創業者と言ってよいレベルだろう。
731世界@名無史さん:2012/07/14(土) 09:08:19.25 0
>>729
廟を立てるため。

晋の実質の創業は司馬懿からというのが晋王朝の見解
732世界@名無史さん:2012/07/14(土) 09:22:59.82 0
三司馬の「功績」は二つ。魏王朝を実質経営して、天子たりえる「徳」を積み上げたこと。
蜀呉を撃退して統一への道を開いたこと。
王になったばかりでなんの功績も無い司馬炎が禅譲を受ける正統性は、祖父・伯父・父が用意したもの。
特に蜀を撃退・征服した功績は司馬氏のものである、ということは、のちの漢晋交替論でさらに強調される。
733世界@名無史さん:2012/07/23(月) 16:34:03.55 O
司馬懿って本当にキャラが掴めない。
苛烈な性格で、それを隠してて、たまにそれがこぼれたり、
自分の生き方をドヤ顔で子供達に語るあたり、
強いて言えば徳川家康に似た感じ?
734世界@名無史さん:2012/07/23(月) 19:29:14.76 0
別に隠してはいないだろう。
曹操から隠れたり、曹爽相手に仮病を使ったのは単に処世。
最初の約束を反故にして曹爽に罪を被せて殺したのは単にそうしなければ生き残れないから。
735世界@名無史さん:2012/07/23(月) 21:01:24.36 0
>>733
苛烈な性格っつってもそれが表面に現れたのって公孫淵の乱の時とか正始の変くらいだからなー
普段温厚な人なんだけど相手の度が過ぎた振る舞いにはブチ切れるってだけだったんじゃないかと思ってる
兄貴の司馬朗や弟の司馬孚は温厚で人格者なのに司馬懿だけ温厚なのはフリで実際は苛烈ってなんか違和感が


あと曹操に対して仮病使って出仕拒む理由がいまいちわからん
兄貴や弟は普通に仕えてるのになんで司馬懿だけいやいや出仕したんだろ
曹爽相手の「年取ったんで引退する」宣言は半分本気だったと思うんだけどなぁ
曹爽達が暴走する兆しがあったからボケたふりしてカマかけたら案の定…な感じだったんで粛清決意したんじゃないかと
736世界@名無史さん:2012/07/23(月) 21:32:12.42 0
>曹操に対して仮病使って出仕拒む

これは後付けだろうな

超厳格な家父長制の家に生まれた懿が
その家の父がかつて推挙し、なおかつ、長男で兄である朗が仕官してる勢力の長を拒むとか論理的に破綻してる

宦官の孫で簒奪政権の始祖にその才能を見出されたが拒否した、という定型文に近い神格化
737世界@名無史さん:2012/07/23(月) 21:48:16.93 0
別に破綻してない。
司馬家が曹家に恩があるなら応じる義理も生まれるが、事実は逆。
兄が仕えているからといって、家業を放って公務員にならなきゃならない義務も無い。
嫌なら仕えないって選択は世情不安定なら有りふれたもの。

「時流に屈せず」ってのも極めてポピュラーな名士の逸話であって、
創作だとしても神格化なんてほどじゃない。
738世界@名無史さん:2012/07/23(月) 21:58:46.76 0
>>737
魏略の逸話見てると司馬懿が曹操に使えるのが嫌だったっていう話も嘘くさい気はするけどなー

神格化っつーか「元々司馬懿は曹家に対して忠誠心なんて持ってない逆臣ですよ」って言いたいんじゃないか>曹操に出仕拒否
光武帝の司馬懿評とか見てると、正直晋書の記述は司馬懿の人格面はわりとボロクソに貶してる印象が
739世界@名無史さん:2012/07/23(月) 22:45:01.58 0
>>736>>738
どっちだよ
議論は先ず両極端同士でやってくれw
740世界@名無史さん:2012/07/24(火) 03:03:47.81 0
>>736
まだ袁紹生きてたから下手に曹操に仕えると危険とか思ってたかもよ
官渡で一敗地に塗れたとは言えまだまだ袁家は強勢だったしな
741世界@名無史さん:2012/07/24(火) 07:28:47.94 0
どっちにしろ「後付け」という見方なわけで
劉巴のケースような信憑性・一貫性がないんだよね
742世界@名無史さん:2012/07/24(火) 08:24:55.75 O
>>741
確かに劉巴は一貫してるw
コミュ障やDQNばっかの劉備、孫権陣営に比べて比較的常識人が多い曹操陣営で
司馬懿はひそかに恐れられた感じかな?
743世界@名無史さん:2012/07/24(火) 16:57:09.99 0
>>734
曹爽を殺したのは俺は言い訳出来ないと思う
あと固辞したとはいえ九錫下賜が行われたというのは、司馬懿の野心を物語っていると思う。
もし野心がないなら、固辞する前に介入して、未然に防いだと思うから。

もっとも、幼帝でなかったら、曹爽の専権がなかったら、
野心など見せずに淡々と仕えたとは思うが。
744世界@名無史さん:2012/07/24(火) 18:21:04.15 0
>>743
九錫下賜されたのって司馬懿じゃなくて司馬昭じゃね?
司馬懿が固辞したのは丞相の位だったような
745世界@名無史さん:2012/07/24(火) 19:29:10.20 0
丞相も九爵も公位も漢の忠臣で微塵も帝位への野望を見せなかった曹操が就いてるから問題ないな
746世界@名無史さん:2012/07/24(火) 22:32:56.49 0
>>741
当時河内の名族の息子でしかなかった一青年が、三度も四度も変転した皇帝の推戴者に召されて仕えるのを拒否することに、
歴史や人生に対する一貫性なんかあると思う時点でおかしい。

司馬懿が一旦は曹操に仕えるのを拒否した。この事実が元になって、「漢への忠誠があったから」「曹操を認めてなかったから」
などと後付された、というならわかるが。
747世界@名無史さん:2012/07/24(火) 22:48:23.76 0
>>744
三少帝紀の注の漢魏春秋によると九錫下賜されて固辞してる。
これが元ネタかも知れんが、晋書の宣帝紀だと249年2月に丞相任命、12月に加九錫。どちらも固辞。
漢魏春秋の作者の孔衍はガチの学者なので、信憑性は高いと思う。
748世界@名無史さん:2012/07/24(火) 23:13:36.54 0
魏略の逸文に曹洪に交際を求められたけどそれを恥じて仮病を使って断った。曹洪はそれを恨んで曹操に告げ口した。
曹操は司馬懿の評判を知っていたので出仕を求めると、司馬懿は喜んで杖を捨てて(仮病のふりを辞めて)出仕した。

っていうのが有るらしいんだけど、これホントだったら曹操への出仕全然嫌がってないよね
似たような話が阮うにもあるから信憑性は微妙かもしれんけど

そういや恩人の息子である司馬懿を曹操が冷遇したって本当なのかなー
基本的に曹操は自分の恩人の子供達はかなり優遇して手厚く保護してる印象があるんだけど
749世界@名無史さん:2012/07/24(火) 23:30:54.47 0
冷遇したってどこネタだったっけ?
少なくとも晋書では、
曹丕の遊び相手>黄門侍郎>議郎>丞相東曹屬>主簿>太子中庶子(四友)
皇帝側近で箔を付けてから丞相側近。曹丕が丞相になると長史。
曹操にとっての要人というよりは、次世代の宿臣を期待された若手エリートコースだね。
750世界@名無史さん:2012/07/24(火) 23:41:07.32 0
>>749
晋書によると曹操が狼顧の相とか不吉な夢とかで司馬懿が危険だと思って曹丕に忠告したけど、曹丕は司馬懿と仲が良くてむしろ司馬懿をかばっていた
司馬懿も疑いが解けるように身を謹んだ結果ようやく曹操は疑いを解いたとか
書いてて思ったけど、冷遇というか嫌われていたって感じかな
どうもこの内容が丁沖や鮑信の恩に報いるために息子たちを召し寄せてわりとかわいがってた曹操の姿とギャップを感じる
751世界@名無史さん:2012/07/25(水) 00:01:36.50 0
>>750
曹操は嫌った奴を殺したりもしてるから別にギャップは感じないな
752世界@名無史さん:2012/07/25(水) 02:20:54.68 0
司馬防は当時の人事担当官だったってだけで、
孝廉出身の郎官を県尉にするのは普通のことであって抜擢とも言えないのだから
恩人と言うには弱い。

曹操は陳寿に「嫌いな相手を許せない人柄で」と明記されるくらい好悪の情が激しかった。
「度量の幅は広いが嫌った相手はとことん駄目」と言うべきか。
まあ司馬懿は許しているんだけど。

そもそも>>750が司馬懿の青年時代で一番後付け臭い逸話じゃないかw
晩年の専横と晋成立の後でなければ価値が無い話だぞ。
753世界@名無史さん:2012/07/25(水) 10:10:55.14 0
では朱霊に対しての感情はなんだったのか、という疑問が常に消えない
754世界@名無史さん:2012/07/26(木) 09:37:56.51 0
気に食わないことがあったんだろ
755世界@名無史さん:2012/07/26(木) 19:52:59.05 0
元は袁紹配下だったから警戒してたとか?
756世界@名無史さん:2012/07/26(木) 21:41:35.82 0
張コウに比べればよっぽどマシな移籍経緯だが。
757世界@名無史さん:2012/07/26(木) 23:12:38.68 0
魏晋の場合、一字王ってのは特に意味はないの?
758世界@名無史さん:2012/07/26(木) 23:57:58.77 0
なにそれ
759世界@名無史さん:2012/07/26(木) 23:59:45.28 0
>>757
日本語でおk
760世界@名無史さん:2012/07/27(金) 05:01:33.21 0
エスパーすると、
南朝に朝貢した「讃・珍・済・興・武」の倭王じゃまいか
761世界@名無史さん:2012/07/27(金) 11:37:44.76 0
>>760
それはたぶん違うだろww
楚王みたいのと豫章王みたいのの差って意味じゃないの?
762761:2012/07/27(金) 11:40:26.66 0
あーごめん補足しとくわ
楚王とか趙王とか斉王とかみたいな国名が一文字なところと
豫章王とか長沙王とか東海王みたいな国名が二文字なところで何か差があるのかってことでしょ?

時代が下ると実際この両者で待遇に差がある時代もあったはず
763世界@名無史さん:2012/07/27(金) 12:24:55.37 0
ただの地名でショ?
764世界@名無史さん:2012/07/27(金) 17:41:00.86 0
晋の2代目恵帝が即位すると、扶風郡を秦国と改称した上で、
同母弟の南陽王柬を秦王に移封するということはあったけど
これも多分関係ないっぽい。
その後、成都王潁が皇太弟になっても改称しないし、吳王晏の扱いも悪い。
765世界@名無史さん:2012/07/27(金) 19:54:17.35 0
自己レスだが、皇太弟になってから改称はありえないか。
ただ、皇太弟になる前に改称はなかった。
皇太弟になりかけた淮南王允も、改称されてないし、
一時政権を掌握した汝南王亮やら長沙王乂その他も、改称はなかった。
766世界@名無史さん:2012/07/28(土) 13:48:49.69 0
呉王ってのは考えてみると微妙命名のような。
魏王・漢王・漢中王とかは、やっぱり避けてたのかな?
禅譲直前が、一文字ってのはまあ様式美とかお約束にしても。
って言うか先例主義。
767世界@名無史さん:2012/07/28(土) 21:24:04.48 0
呉王が微妙ってイミフ。
魏王・漢王・漢中王が何を避けてたのかさっぱり判らない。
禅譲直前に一文字ってなにそれ?
768世界@名無史さん:2012/07/28(土) 23:29:12.70 0
>>767
アホか

本当に判ってないのか判ってて否定してるのか知らんが
判ってないんだとしたら中国史に首突っ込むのやめた方がいいでしょ
ちなみに俺は766じゃないぞ

魏王と漢王は「二王乃後」的な意味合いもあるだろうから避けられたのだろうか
769世界@名無史さん:2012/07/29(日) 00:10:31.50 0
ああ、晋代諸王の話の続きしてたのか。そりゃすまんかった。
770世界@名無史さん:2012/07/29(日) 00:22:29.86 0
一字二字であることに格差があるというより、元々は
一字の国は普通周代からの古国名で、
二字の国は後代に出来た単なる「地名」だからってことだろう。
侯王としてなら淮南王や長沙王でも構わないが、
独立や禅譲を企図するなら古国の由緒が必要となる。

この由緒の差が、徐々に封爵の格差として制度化されると。
771世界@名無史さん:2012/07/29(日) 18:14:36.53 0
独立や禅譲を企図する場合は、由緒以上に藩国の大きさが重要なんじゃない?
それだけ権力を握るようになっていたなら、郡国以上の封土を得るだろうから、
自然と古国由来の王号となる。

同じ王朝の中で帝位を継ぐ場合は、郡国王であっても問題ないと。

司馬懿の息子だと、趙王とか梁王とかいるけど、これはただの郡国王であって、
兄の汝南王、瑯邪王、扶風王、平原王より格上ということではないと。
772世界@名無史さん:2012/07/29(日) 23:54:59.98 0
曹操や五胡十六国代の軍閥上がりの場合は、乱世で自分の軍事力を維持するために大きな封地を必要としただろうが、
司馬氏のように宮廷秩序と自分の権勢を一体化させたうえでの禅譲なら外にそんな巨大な封地を得ても使い道が無い。

>同じ王朝の中で帝位を継ぐ場合は、郡国王であっても問題ないと。
そりゃそうだよ。王どころか亭侯から皇帝になったのが漢には普通にいる。
帝位を世襲するのに直前の爵位に由緒など必要としない。
773世界@名無史さん:2012/07/30(月) 01:11:04.07 0
でも司馬昭は巨大な封地を得たわけで、
巨大な封地を得た王であるというのは皇帝即位の前段階としては意味あることなんじゃないの?

>帝位を世襲するのに直前の爵位に由緒など必要としない。
もともと「一字王」に意味はあるのかって話だったからさ。
趙王の司馬倫は世襲というか、簒奪して即位したわけだけど
そこに一字王というのが影響あったかというと違う。
でも亭侯だったら無理だろう。
774世界@名無史さん:2012/07/30(月) 09:18:28.65 0
漢の場合は世代順とか親疎関係とかの関係?儒教がらみで。
別にその時期に王がいないわけじゃないよね。
なるべく幼少を選びたかったんだろうってのはともかく。

晋はかなり盛大に王号ばらまいたから、
即位できそうな人は大概王だよね。
傍系でしかも兄を差し置いてってのは難易度高くなるし。
その上継承権が上のライバルが多すぎる。
775世界@名無史さん:2012/08/01(水) 23:51:22.34 0
ふと気になって調べたが、曹宇って息子の曹奐が即位したあとも生きてるのか。
三少帝紀に出てくる。
と思ったが、燕王と記されるだけで、ちくまはカッコして曹宇としているが
もしかしたら燕王を継いだ兄という可能性もあるのかな?
776世界@名無史さん:2012/08/02(木) 00:00:02.37 0
曹操、孫堅は董卓討伐の際長安に到着してからも追撃に出た。
董卓は羌族を味方につけてたんでヘタレ漢民族ではやられるの必須。
死ぬつもりで追撃したと思われる。自称皇族劉備様は帰ったwww。

漢王朝復興に積極的だったのが上のお二方。劉備は詐欺師。
777世界@名無史さん:2012/08/02(木) 00:36:31.91 0
どこの漫画…いやネット小説の話ですか
778世界@名無史さん:2012/08/02(木) 00:39:31.47 0
>>776
それ演義の話だろ?
先主伝読む限り劉備は董卓討伐に参加してないはずだけど
779世界@名無史さん:2012/08/02(木) 00:50:09.85 0
董卓と戦ったっていうことで評判が良くなったのは確かだろうが
どこまで本気での漢王朝復興だったのかはわからんな、特に孫堅
780世界@名無史さん:2012/08/02(木) 00:51:42.88 0
>>778
ヒント:長安に到着

演義の話でさえない。
演義なら劉備どころか諸侯軍全てが洛陽まで到達してそこで解散している。
781世界@名無史さん:2012/08/02(木) 01:18:54.28 0
孫堅が漢王朝復興?
そんなの「祖父の代から後漢の忠臣」をアピールしたい孫権たちの捏造だろw
独断で越境しまくり、後漢が任じた太守や刺吏をぶっ殺しまくってるし、
その上反逆者袁術の第一の部下だしw
782世界@名無史さん:2012/08/02(木) 03:27:41.96 0
>>778
先主伝読む限りでは註釈の英雄記の方で曹操の募兵に応じて参加してること書かれてるわけだが
783世界@名無史さん:2012/08/02(木) 03:37:35.91 0
>>782
じゃあ曹操と一緒に追撃かましてるかもしれないわけですね
784世界@名無史さん:2012/08/02(木) 03:57:33.06 0
>>781
後漢が任じた、じゃなくて、董卓が任じた、だろ。
それとも後漢朝廷は董卓を忠臣と認めてると言いたいの?
袁術の皇帝僭称は孫堅の死からずっと後だけどな。
785世界@名無史さん:2012/08/02(木) 05:25:09.76 0
>>784
君側の奸って便利な言葉だよね
これ使えば朝廷に反旗翻しても正当化できるもんね
ただ実力が伴ってないと討伐されるだけだが
786世界@名無史さん:2012/08/02(木) 16:35:39.44 0
>>784
王叡は董卓が任じたわけじゃないんじゃ。
787世界@名無史さん:2012/08/02(木) 17:44:45.85 0
>>783
可能性だけならね
788世界@名無史さん:2012/08/02(木) 18:00:55.18 0
孫皓の帰命侯は名号侯って説もあるみたいだけど、
それだと劉禅の安楽公に比べてあまりにも低いな。
開国爵の郡侯ないし県侯ならさほど差はないけど、
旧列侯の県侯でもかなり落ちる。
もう敵が居ないから厚遇する必要が無いって言う、
一種の実利主義なのだろうか?
後に前秦に降伏した前涼の張天錫が帰義侯かなにか、
その前に前涼に謀反起こして前秦に通じたけど、
失敗して前秦に逃亡した将軍がやはり帰○侯。
孫皓が先例なんだろうけど、これも名号侯なのかなあ。
789世界@名無史さん:2012/08/02(木) 19:59:59.14 0
ところでさ、蜀で大尉に任命された人はいたっけ?
790世界@名無史さん:2012/08/02(木) 21:19:09.38 0
上官勝
791世界@名無史さん:2012/08/02(木) 22:44:49.82 0
>>785
君側どころか一度は仕えた同族の皇帝の武装解除令を拒否して皇帝名乗って
再興200年の礎を築いた中興の祖がいるわけだが。
792世界@名無史さん:2012/08/03(金) 03:08:28.67 0
>>777-785
ごめん。洛陽焼き払った董卓が長安に逃げ始めたので、追撃するよう袁紹にいったが聞き入れられず、
しかたなく曹操と孫堅の部隊が追撃したが敗れた。戦争に強い異民族に二人だけとは無謀。
漢王朝復興なんて情熱なければ宴会して遊んでる。感王室復興に熱心だったのはその二人ではないか
というのが言いたかったこと。


793世界@名無史さん:2012/08/03(金) 06:08:20.93 0
本気で漢王室復興を目指してたのは劉備だけ
794世界@名無史さん:2012/08/03(金) 09:53:23.81 0
吉本:・・・・
795世界@名無史さん:2012/08/03(金) 10:13:54.83 0
>>792
それも違う。
曹操は焼き払われる前の洛陽へ、総進撃が認められなかったので一部の部隊で前進を試みて徐栄に破れる。
これにより戦力と信望を失ったので袁紹の庇護下に入る。
孫堅は袁術・張バクらとは戦術的には連携してない南陽方面の前線司令官。総司令官は袁術。彼らは二年に渡り継戦する
劉備は当時、一介の県令か、または賊に敗れて公孫サンの庇護下に入った頃。

3人とも全く立場が違う。比べても意味が無い。
796世界@名無史さん:2012/08/03(金) 10:17:22.00 0
ああ、訂正。
曹操が前進したのは洛陽が焼かれた後か。
しかしこれは防御縦深を取るためのもので、
以後翌年まで洛陽周辺に大軍が展開している。
797世界@名無史さん:2012/08/03(金) 18:00:21.97 0
798世界@名無史さん:2012/08/04(土) 00:43:02.68 0
>>795
信望を失ったというのは関係ないんじゃない?
酸棗諸軍は動かないし、あそこにいる意味もないんだから。
799世界@名無史さん:2012/08/04(土) 01:07:49.99 0
それではわざわざ河内に行く理由も無い。エン州を頼りにすればよい。

張バクと袁紹は反董卓連合を境に仲たがいしているが、
曹操は張バクと共に酸棗に集結したにも関わらず、
敗戦後明確に袁紹派閥として数年動き続けた。
800世界@名無史さん:2012/08/04(土) 10:56:39.99 0
>>799
エン州にいても董卓と戦えないだろ
敗戦後明確に袁紹派閥として数年動き続けたんなら、曹操が張バクを討伐してるわな
801世界@名無史さん:2012/08/04(土) 11:45:39.03 0
曹操が河内に行って董卓と戦ったとでも言うのかw

曹操は袁紹の後援でエン州に乗り込んで、張バクとの個人的友好から当初は連携したが、
結局彼を圧迫して関係破綻している罠。
802世界@名無史さん:2012/08/04(土) 12:37:03.15 0
わざわざ募兵までしてるんだから、あの時点では戦う気はあったんだろ
募兵もせずに敗北後にそのまま河内にいったんなら別だけど

関係破綻したのは張バクが反乱したからだよ
803世界@名無史さん:2012/08/04(土) 12:53:24.04 0
袁紹ら冀州河内方面軍が、張バクらエン州方面軍より戦意旺盛だったという根拠を出さないと意味の無い主張だぞそれ

張バクが曹操から離反したのは、袁紹からの「殺せ」という圧力を曹操が実行すると信じたから。
袁紹と曹操はそれが信じられる関係だったわけだ。曹操の本心は知らんが。
804世界@名無史さん:2012/08/05(日) 17:00:43.61 0
>>802
反乱したのは張バクが悪いってお前、なんでそんなに曹操擁護なのw
民には苛斂誅求、その上外征ばっかりやる馬鹿なんかいらねーよ。
805世界@名無史さん:2012/08/06(月) 01:51:02.73 0
>>804
はて?初期の曹操が苛斂誅求だったなんて話はどこから導き出した結論?
806世界@名無史さん:2012/08/07(火) 23:00:07.76 0
魏晋以後で劉氏を名乗る人たちの系譜って、
山陽公一族、匈奴系、系譜不明等を除くと、
前漢皇族の末裔を名乗る場合が多いようだけど、
後漢皇族はどうしちゃったんだろう?
魏建国直前でもそれなりの数が居ただろうに。
807世界@名無史さん:2012/08/08(水) 00:40:04.29 0
>>806
劉虞、劉曄など、後漢皇族もいるにはいるが。
808世界@名無史さん:2012/08/09(木) 06:14:13.37 0
>>803
すでに一度、酸棗諸侯は曹操の提案を拒否して出撃しなかったろ。
それなら酸棗にいてもしょうがない。

>張バクが曹操から離反したのは、袁紹からの「殺せ」という圧力を曹操が実行すると信じたから。
それは張バクの内心の問題。>>801のような「圧迫した」という事実はないだろう。
最初に袁紹が圧力掛けた時は曹操が明確に拒絶している。

>>804
張バクが悪いのではなく、張バクの反乱以前に、関係の破綻を示す根拠はないと言っている。
809世界@名無史さん:2012/08/09(木) 21:54:05.70 0
>>808
張バクは酸棗に集結してた頃、曹操の提案を蹴ってる
以降曹操は袁紹と行動しててもうこの時点から少し関係危ういよ
810世界@名無史さん:2012/08/09(木) 23:25:26.22 0
>>808
一度「明確に拒絶した」から張バクが安心できるような三者関係だったとは言えないがね。
無論、エン州支配を確立させようとする曹操には曹操なりの思惑があり、張バクを尊重したいのが本音だったかもしれないが、
しかしながら袁紹と張バクのどちらを取るか選択を迫られる事態になれば、曹操の決断は火を見るより明らか。
当時のエン州は夏侯惇以外は曹操より古い各郡太守が半独立の軍事力を持っていた。
曹操は袁紹の支持とご機嫌を必須とする身分だった。
811世界@名無史さん:2012/08/09(木) 23:28:19.32 0
>>808
>それなら酸棗にいてもしょうがない。
そうだね。で、河内に行けば董卓と戦える保証は? と聞いているのだが。
積極的だった王匡が敗れたのは開戦の大分初期で、以後目立った動きをしていないのは
酸棗と同じだぞ、と。
812世界@名無史さん:2012/08/10(金) 23:45:25.35 0
プロ野球板では、阪神和田監督がいろんな人物に例えられてる今日この頃。
813世界@名無史さん:2012/08/12(日) 06:05:02.25 O
なんの誤爆だ
814世界@名無史さん:2012/08/18(土) 12:27:20.89 0
袁紹袁術の見直し論は飽きた
彼らが「本当はすごかった」という論陣をはればはるほど、実にくらだらなくなる
特に袁術なw

普通に考えればたった10年内で興隆して壊滅した勢力だぞ?
815世界@名無史さん:2012/08/18(土) 14:14:57.89 0
そういえば、PHP文庫で袁紹も袁術も出ないね。董卓とともに発売を期待しているが。
816世界@名無史さん:2012/08/18(土) 23:01:22.70 0
10年隆盛期間があれば国史に名が残るがな。
そういう比較をすると諸葛亮と同等になって逆効果だぞ。
817世界@名無史さん:2012/08/18(土) 23:45:53.69 0
三国時代に限らないんですが、同じ漢民族同士の間では言葉の壁は
あまり問題にならなかったのでしょうか?
818世界@名無史さん:2012/08/19(日) 00:52:56.96 0
方言はまったく別物。
ただし教養人同士は全国的な繋がりがあり、
古典朗読、特に詩・楽の習得でその時代なりの「正しい音韻」を身に付けるので
日常会話は問題にならなかった模様。
819世界@名無史さん:2012/08/21(火) 16:02:19.60 0
>>814
官渡の戦いは戦略的には袁紹が優勢だったし、許ユウが裏切らなければ負けてなかったはず
袁紹は人間性はともかく無能ではなかった
820世界@名無史さん:2012/08/21(火) 21:05:52.42 0
人間性では袁紹が圧倒的に曹操に勝ってたぞ
袁紹が負けていたのは軍事と人事(後継者含む)の識見と決断力
821世界@名無史さん:2012/08/21(火) 22:04:24.55 0
>袁紹が負けていたのは軍事と人事(後継者含む)の識見と決断力

重要なところが全部だめじゃん。
曹操は人事面でミスなしやぞ。
822世界@名無史さん:2012/08/21(火) 22:41:15.28 0
袁紹が優れていたのは人望と統治の識見、組織力
823世界@名無史さん:2012/08/21(火) 22:46:45.67 0
若い頃から一族に叱責されながらも宦官支配に抵抗して駆けずり回って人望と人脈を作り、
独立しては他の群雄にいち早く四州支配までいける程度の軍事力と組織力ってのが袁紹だな。

曹操にあったのは一瞬の隙を現実の打開に結びつけた決断力。
それでさえ、打破できたのは戦術レベルにすぎず、
袁紹存命中どころか袁尚と袁譚が結んでいる間は劣勢だったのが袁紹の遺産。
824世界@名無史さん:2012/08/22(水) 02:34:41.66 0
許ユウ親族の不正がばれなきゃよかったのにね
825世界@名無史さん:2012/08/22(水) 02:55:19.00 0
袁紹が官渡で見せた程度の戦場の「隙」なんて、曹操は後にも先にもボロボロ見せてるからね
それを致命傷にしなかったのは、曹操の戦術的な強さ、粘り強さと、
蓄えた国力は一戦の勝敗くらいでそう簡単に逆転しないってこと。
一方袁紹は冀州中心の圧倒的な国力を再活用する前に死んでしまった。
826世界@名無史さん:2012/08/22(水) 03:03:30.02 0
よく言われるけど官渡よりも袁尚袁譚の兄弟喧嘩がターニングポイントなんだよね
827世界@名無史さん:2012/08/22(水) 05:12:56.27 0
河北の制圧にぐだぐだ8年以上掛けてた曹操の評価として「電光石火」「戦術的に優れてる」とか違う記するが。
828世界@名無史さん:2012/08/22(水) 17:43:10.44 0
すごい袁紹はすごくない曹操に負けたので
袁紹はすごくないです
829世界@名無史さん:2012/08/22(水) 18:10:19.70 O
劉備はもっとすごくないです
孫権がすごいんです
830世界@名無史さん:2012/08/22(水) 19:07:38.44 0
「すごくない」て、おまえ幼児か
831世界@名無史さん:2012/08/22(水) 19:29:34.69 0
すごい袁紹と袁術はすごくない曹操に負けた
すごくない曹操に劣った劉備はもっとすごくないけど王朝を建てた

すごくない曹操≧もっとすごくない劉備>すごい袁紹袁術
832世界@名無史さん:2012/08/22(水) 21:41:03.07 0
でも、そろそろPHP文庫で誰か出しても良いと思うが、袁紹。
833世界@名無史さん:2012/08/22(水) 22:14:08.42 0
>>830
( ´∀`) オマエモナー
834世界@名無史さん:2012/08/22(水) 22:32:33.95 0
袁紹は曹操よりも短期間で河北をまとめ上げて南下している
袁紹の方が優秀
835世界@名無史さん:2012/08/23(木) 02:27:00.10 0
>>827
それだけ袁氏の戦略縦深が深かったってことだよ。
一方の曹操陣営は、小まめに許都へ戻らなければならない兵站事情と内部情勢。
漢朝廷の基盤固めと劉表対応も並行してやっていた。
836世界@名無史さん:2012/08/23(木) 02:34:28.70 0
>>835
そんなの袁紹だってやってましたけど?
837世界@名無史さん:2012/08/23(木) 02:35:40.66 0
>>836
???
もう少し論理的に
838世界@名無史さん:2012/08/23(木) 06:43:46.49 0
袁紹は、袁術や呂布や陶謙や劉表といった南の敵と戦う曹操を管理しつつ、
同時に河北の制圧作戦もやっていたし、
また朝廷にもいちいち目を配っていたね。
それでいて曹操よりも短期間で河北を抑えて大勢力になった。
曹操が自ら劉表対応したっていうけど、それって劉表への対応を委任できるほど信頼できる部下がいなかっただけじゃないのw
839世界@名無史さん:2012/08/23(木) 08:21:52.08 0
信頼できる部下、夏侯惇送った時は劉備にケチョンケチョンにされましたしおすし
840世界@名無史さん:2012/08/23(木) 11:17:47.33 0
そんなすごい袁紹はすごくない曹操に惨敗したので袁紹はすごくないです
841世界@名無史さん:2012/08/23(木) 14:03:06.89 0
袁紹が曹操に惨敗?
いつどこで惨敗したの?

官渡って曹操の戦果が誇張されてるだけ
実際のところ袁紹の戦略企図であった南下を一回だけかろうじて防いだだけで
史書に書いてあるほどの大戦果なんて出てないからな?
もし数万人も生き埋めにしたら10万くらいしか持ってない袁紹は病死するまで勢力を維持なんてできないから
842世界@名無史さん:2012/08/23(木) 14:47:11.31 0
袁紹患者(重病)の言い分

「袁紹は凄い」
「曹操は凄くない」←重要

「袁紹が凄かった」・・・これは理解できる
たしかに凄い
しかし袁紹患者の知性ではそれに留めることができず、袁紹の凄さに箔をつけようとする誘惑に抗えないらしい
そこでなぜか相対性を求めて「曹操」より上だったことを持ち出す

こういうクズをからかうのは実に楽しいw

843世界@名無史さん:2012/08/23(木) 16:55:51.85 0
曹操は不利な状況、劣った勢力で袁紹を破り覇者になった。

袁紹はあらゆる面で曹操に勝った条件が揃ってたのに生かせなかった。

袁紹の何が曹操より優れ、何が凄いと言いたいのだろうか?

そしたら劉備なんてもっと凄いぞ。旗揚げ時点の状況考えたら、

袁紹なんて問題にならんくらい凄い。一国の主にまでなったのだから。
844世界@名無史さん:2012/08/23(木) 17:10:02.75 0
袁紹厨じゃないけど擁護するとするならば、
袁紹は官渡で南下を一度食い止められた段階で病死してしまい、
その後曹操が河北を制覇できたのは息子二人が兄弟喧嘩始めたからであって
曹操は袁紹を破って覇者となったのではなくて袁尚袁譚を破って覇者となっただけとも言える

これで曹操と袁紹に明確な優劣を付けるのは難しいと思うがねえ
845世界@名無史さん:2012/08/23(木) 17:20:12.75 0
袁紹は、有能な参謀の意見を一度も聞かなかったというエピソードがあるじゃない
あれは、どうなの?
846世界@名無史さん:2012/08/23(木) 17:33:11.25 0
袁紹と曹操の評価は、
諸葛亮の評価が妥当でしょう。
847世界@名無史さん:2012/08/23(木) 17:38:38.37 0
劉備は地方の任侠で、関羽は塩梟。
任侠と塩の密売は切っても切れん関係にあるから、この二人が結びつくのは自然。
おそらくは桃園以前、古くからお互いの事は知っていたのではないか。

塩梟は中国全土にまたがるネットワークを持つ一大シンジケートだ。
その影響力は後に塩梟である李自成が明を倒したように、絶大。
劉備はその勢力を代表して台頭した人間だったろう。
そう考えればどこに行っても彼らが優遇され続けたのは合点が行く。

恐らく蜀にはいったのもそのためではないか。
蜀は岩塩の産地、流通路であり、塩梟の根拠地。
唐が滅びた理由も、この地で叛乱があったために塩税収入がなくなったからだ。

そう考えれば、劉備は決して脆弱な政治基盤の勢力ではなかったと言える。
848世界@名無史さん:2012/08/23(木) 18:06:58.79 0
>>843
官渡に限って言うと、攻め始めたのは曹操のほうだから
なぜか兵にも兵糧も不安満載の曹操が「あらゆる面で勝った条件」のはずの袁紹領に攻め込んでる。
実際劉備攻めてる間にカウンター食らって
あんだけ大勝利したはずなのに初期目標の黎陽取るどころか、官渡後に黄河より南の倉亭を取り返してる。
官渡前の状況を袁紹有利にすればするほど、
そんな相手に攻め入った曹操の見通しのなさが問題になると思うが。

曹操の凄さはあんだけ劣勢になったのに、ワンチャンをひたすら耐えて待ち続けられる精神力の強さと
訪れた僅かなチャンスをモノにする驚異的な戦術と手腕だろ。
普通あんなところまで追い詰められたら心が折れるか、自分の動揺が周囲にも感染して終わりだよ。
849世界@名無史さん:2012/08/23(木) 18:08:03.94 0
>>844
息子二人が兄弟喧嘩をしたのは袁紹の責が大きいだろ。
850世界@名無史さん:2012/08/23(木) 18:36:41.09 0
>>842
このスレの誰のこと言ってんの?
架空の相手にシャドーなら三戦ででもやってくれ
851世界@名無史さん:2012/08/23(木) 18:39:18.36 0
>>843
>袁紹の何が曹操より優れ、何が凄いと言いたいのだろうか?
「先に地盤を固めた能力が曹操より優れている」だな。
廷臣、在野時代の実績含めて。
852世界@名無史さん:2012/08/23(木) 18:44:58.99 0
>>849
曹操だって死ぬ時期が違えば曹丕と曹植が兄弟喧嘩した可能性はある
寿命も能力の内だと言えばそれまでだが
853世界@名無史さん:2012/08/23(木) 19:09:34.53 0
>>852
曹丕と曹植で真っ二つに割れようはないだろ。
割れたかもしれない、で曹操を袁紹と同列に貶めるのはおかしい。

袁譚袁尚が割れたことは、政治的に失陥だったと言わざるを得ない。
854世界@名無史さん:2012/08/23(木) 19:30:20.72 0
>>853
失陥だからどうしたって?
855世界@名無史さん:2012/08/23(木) 19:38:39.83 0
結局(全てがとは言わないが)敗因は袁紹にあるということ
856世界@名無史さん:2012/08/23(木) 19:42:53.32 0
そりゃ当たり前だよ。負けた事実を分析して原因を求めるんだから。
「袁紹の敗因」と言うよりは「袁氏の敗因」だが

そういう作業もせずに「すごい」「すごくない」とか頭の悪い二元論にしたがるのは
>>814>>828>>842みたいな奴ら。やめてくれよな。
857世界@名無史さん:2012/08/23(木) 20:10:33.06 0
>>847
劉備を地方の任侠とか言ってる奴はとりあえず世界史板にいる意味はない
三戦行って好きなだけ三国志トークしててくれ
858世界@名無史さん:2012/08/23(木) 20:11:52.57 0
>>848
曹操は心折れてたけどな
荀ケや郭嘉などの参謀が必死で折れた曹操を立ち直らせて我慢させた
859世界@名無史さん:2012/08/23(木) 20:18:06.72 0
>>857
現代の一般的なイメージでの「任侠」と、
当時の士人に普及していた「侠」の心性を別物としてそう言っているのなら賛成
860世界@名無史さん:2012/08/23(木) 20:20:46.99 0
>>852
一時期むちゃくちゃ悩んだのは確からしいが、袁紹んとこみたいにはならなかったと思う
元々曹丕が暫定後継者扱いで、曹植擁立しようとしてたのは一部の奴らだけで殆どの家臣は曹丕を後継者にと考えてたようだし
861世界@名無史さん:2012/08/23(木) 20:21:12.99 0
袁紹は別に「国盗り」なんてしてないからな
董卓にビビって宴会して
韓馥騙した挙句自殺に追い込んで
その一方で劉虞に媚売って皇帝に仕立て上げようとして全方位から否定フルボッコ食らって
したらしい戦といえばサイコパスのメンヘル公孫?と長年してただけ(一番やっかいな袁術とか陶謙は曹操任せ)

結局官渡の戦いの時の領有四州なんつってもまともな州は騙して乗取った冀州だけ

青州:黄巾の影響で大荒廃して袁譚も受難
并州:張燕と匈奴のオコボレ
幽州:公孫?撃破後からほんの僅か
862世界@名無史さん:2012/08/23(木) 20:33:31.85 0
>>859
中国史を語る上で外せない任侠と「地方の」などという現代日本語的な用法で出る任侠は全く別物だろ
区別してなきゃ文句は言わんって
863世界@名無史さん:2012/08/23(木) 21:31:23.84 0
>>860
まあ曹操が悩んでた時期に死んでたら、丞相位なんて相続できず軍閥解体するしかないので後継者も何も無いからな。
これが地方軍閥なら、群雄の息子を中心にして権益を維持しようとある程度は纏まるが、
許都で中心になるのは当然皇帝。荀ケらを含む後漢廷臣の綱引きに巻き込まれて曹操軍閥の構成員はバラバラになる。
864863:2012/08/23(木) 21:38:48.07 0
いや、失礼。曹丕が太子に正式に落ち着いたのは217年だから、
荀ケが既に死んでいる時期も長いし、魏王廷も安定しているか。
魏公王時代に跡継ぎの準備不足で曹操が急死した場合、魏王廷と許都朝廷に分裂する危険が一番大きいな。
865世界@名無史さん:2012/08/23(木) 21:47:45.81 0
>>861
対する曹操の陣営はエン州・司隷・豫州・徐州。
全てボロボロで青并幽程度の支配力でしたとさ。
ポカの多さで袁紹とこれだけの差がついたのが曹操。
ここから逆転したのも曹操。
866世界@名無史さん:2012/08/23(木) 21:50:05.75 0
もうどっちもすごいでいいじゃん
867世界@名無史さん:2012/08/23(木) 21:50:13.10 0
>>865
何を根拠に「青并幽程度の支配力」と言ってるの?
868世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:00:02.00 0
>>867
当時の中原や司隷は、并州へ人が避難していくほど長年の飢饉でボロボロだったのだが。
しかも曹操が地盤固めできていたのはエン州と豫州西部くらいで、しかも呂布から奪還して4年以下。
豫州東部はそれこそ袁術が滅びたばかり、徐州は劉備にあっさり叛旗を翻されるほど統治が手についてない。
司隷東部は長安から人を戻して復興途上。司隸校尉の鍾ヨウは并州の高幹に攻め込まれ劣勢の始末。

曹操は袁紹を冀州から駆逐したあと、孤立した袁譚・高幹を滅ぼすのに各一年掛けている。それくらいの地力はそれぞれにあった。
徐州や司隷単独と比べて貧しいと言えるのだろうか?
869世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:00:50.66 0
×曹操は袁紹を冀州から駆逐したあと、
○曹操は袁尚を冀州から駆逐したあと、
870世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:08:09.50 0
>>868
ボロボロだったというのは理解できる

俺が聞いてるのは「青并幽程度の支配力」と断言する具体的な比較の根拠だ
数字的根拠もなしに「青并幽程度の支配力」と言ってるわけじゃあないよな?
871世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:11:15.62 0
>>861も、「それに比べて曹操はまとも」って比較を前提に語ってたんだろ?
数字的根拠出してくれよ
872世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:20:39.01 0
曹操も司隷は李カク郭シのおこぼれだし
徐州は自分で大虐殺やらかしてボロボロな上に劉備撃破して間もないし
豫州は汝南とか支配できてないしでロクなもんじゃないけどなあ
873世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:23:18.61 0
>>871
いや俺>>861じゃないし

あまりにも自信満々に「青并幽程度の支配力」なんて言ってるから
そんな断言するだけの根拠を問うてるんだよ

どういう根拠で割り出した比較なんだ?
874世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:27:31.96 0
>>861は後漢末の軍閥の中でも軍事力で北方の諸民族を圧迫してた公孫サンを
大したこと無い扱いしてて三戦板向きというか世界史板向きでない人だからそんなんに対抗意識燃やすなよ
875世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:30:11.41 0
>>873
じゃあ横レスしてくれても困るなあ。
861に対して同レベルの反論をしただけなんで。
官渡とほぼ独立して行われた徐青州と司并州戦線は互角。ていうか曹操側が攻め込まれている。
それで十分だろ。
876世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:32:02.14 0
つか冀州だけが飛びぬけてて青并幽エン徐司隷がドングリの背比べなんだよこの時点では
許都と洛陽周辺はその後整備されていくが
877世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:34:06.42 0
曹操は曹操で袁紹以外の敵が多かったが、実は忘れられがちなのが
袁紹の後方をかく乱していた張燕の存在。ちなみに、官渡の時ではないが
一度袁紹は張燕の部下に?を落とされるという相当恥晒しな真似をされている。
878世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:35:12.10 0
>>875-876
不思議なこと言うなぁ
支配力と戦争って相関関係にはあるが比例して変動するようなもんでもないだろ

「青并幽程度の支配力」だとどうして戦線が互角になるんだ?
もっともその程度の支配力という結論に至った根拠もまだ提示されてないんだが
横レスすんなっていうならまず掲示板に書き込むべきじゃないな
そういうのがないツールで語り合えばいいさ
879世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:38:42.47 0
「支配力」には多様な中身があるが、その総合力が供出できる戦力に直結するから。
曹操と袁紹の決戦と優劣の話題なんだからそれでいい。
880世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:40:47.55 0
>>879
つまり供出できる戦力が同程度であったと主張しているのか?
881世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:42:25.10 0
>もっともその程度の支配力という結論に至った根拠もまだ提示されてないんだが
あんたの言いようさっぱり中身がないな。
同じような「後出しハードル上げ」されて史料を提出できる人なの?

>>868を読んで、ナニが不足なのか、原典史料なのか、推論過程なのか具体的に言ってくれ。
文献史学の常識の範囲内で頼むよ。絡みたいだけじゃなければな。

882世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:47:06.07 0
>>881
>対する曹操の陣営はエン州・司隷・豫州・徐州。
>全てボロボロで青并幽程度の支配力でしたとさ。

これの根拠求めてるんだが
同程度だったと主張するからにはちゃんと出典や分析の基本になるデータ示してくれよ

>>868だと「同程度」と推測した数字的根拠がないんだよね
攻め込まれた、戦線が膠着したなんてのは情勢の推移や指揮者の属人的な要素など
様々な理由で支配力と対応しないことなんていくらでもありえることだろ
883世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:49:00.36 0
無根拠に「このくらい」とか主張してそれ突っ込まれたら
後出しでハードル上げられたからとか言うのは頭オカシイ
884世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:53:20.07 0
おいおい。この時代の国力やら何やらで「数字的根拠」が出せるケースがどれだけあると思うんだい。
「同じくらい」と言われたときに「数字で出せる」と思った根拠はいったいどこから生えてきたんだい。
出典不明の会戦兵力がなぜか羅列してある歴史群像本とかあの辺から?
885世界@名無史さん:2012/08/23(木) 22:54:55.16 0
で。>>879-880
そうだね。それでいいよ。
886世界@名無史さん:2012/08/23(木) 23:00:51.53 0
>>884
じゃあ不明だが戦線はどうこうだった、で終了だろ
「青并幽程度の支配力」というのは史料に基かない希望にしかなってない
数字的根拠もなく同程度とかあたかも比較して判明したかのように言い出すのはおかしいだろ

曹操の支配してる領域には黄巾の乱や董卓の攻撃他でボロボロになった地域はあるけど
どの程度の疲弊具合かというのはわからない
袁紹の支配領域もどうなってるかってのはわからない
それをどうして比較して同程度と言うことができるかね?
887世界@名無史さん:2012/08/23(木) 23:01:58.39 0
後漢盛期から晋盛期の人口分布と、この間行われたギョウ、洛陽、許都などへの徙民や開拓政策の影響を差し引けば、
「冀州だけ飛びぬけてあとはドングリ」の数字的根拠は出せるな。ただ、エン州はその中でも頭半分高いドングリになるが。
888世界@名無史さん:2012/08/23(木) 23:02:30.66 0
889世界@名無史さん:2012/08/23(木) 23:48:46.01 0
>>887
後漢の豫州って冀州を越える人口のある州だぞ
豫州人は官渡以前には激減してたのか?

冀州だけ飛びぬけて後はドングリってちょっとおかしいだろ
冀州なんて黄巾賊の張角がいた激戦地の一つで兵難を少なからず被ってる土地なんだが
890世界@名無史さん:2012/08/24(金) 00:38:15.93 0
人口は晋書開けば判るよ。

漢魏間の大規模な人口移動と逃避が起きたのは、後漢中後期から董卓の乱辺りまで。
州単位で群雄が支配している官渡の時期には既に安定している。
その後の大規模移動は淮南とか漢中とか、徙民や統治失敗のあった部分だけ。
891世界@名無史さん:2012/08/24(金) 01:12:00.47 0
>>890
豫州の人口が官渡前に冀州と逆転していたいたと主張するならちゃんと証拠を出しなよ
冀州だけが頭抜けて良い土地だって言うのは官渡時点での人口統計とか
それに言及した人物の逸話とかないと難しい

それに官渡前の袁譚の青州じゃ担税力が低下して上手く税金を取れてない話があったり
并州は曹操が後に放棄したように元々支配できてない地が多くあった
こういう不確定要素で変動しているから具体的な数字がわからない現状では
冀州だけが優れた州であって他は支配していてもそれ程変らないという主張はおかしいぞ

わからんもんはちゃんとわからないと言うのが誠実さってもんだ
892世界@名無史さん:2012/08/24(金) 02:33:25.94 0
後漢書と三国志の至るところに散りばめられている大量の流民の記録を読みなさい。
荀ケの避難に代表されるように、この時期の大きな人口移動は動乱初期まで。
893世界@名無史さん:2012/08/24(金) 08:14:26.93 0
>>892
移動の記録は読んでるが冀州と豫州の人口差がどこで逆転したかなんてわからんし
そもそもその流民の記録が残ってないところでも着々と移動してるから後漢と晋で偏り方が大分変ってるんだよ
初期の動乱除けば後は王朝の中核部やってた冀州と
呉との策源地兼国境やってた豫州では官渡以後の待遇も全く違うし
人口なんてどう流れるかさっぱり計算できんぞ
894世界@名無史さん:2012/08/24(金) 11:21:23.71 0
日本の戦国時代とか戦乱やってんのに人口伸びてたとか聞いたことあるしねえ
ほんと人口はどう動くかわからんよね

しかも中華王朝が作成した史書に残る人口は前近代の未熟な調査能力・統計技術によって
王朝が把握した人口に過ぎないのでその数字自体にも疑問が残ると言うものだし
まあ把握していた人口によって政府の動員できる国力は測れるのは確かなんだが
895世界@名無史さん:2012/08/24(金) 23:20:15.51 0
人口人口うるさいね
蜀の人口180万と捏造した奴を思い出したじゃねーか
896世界@名無史さん:2012/08/24(金) 23:25:36.77 0
897世界@名無史さん:2012/08/25(土) 00:20:01.84 0
「袁紹再発見」(俺流の歴史に対する新しいスポットライトが超カッケー)の名のもとに
どう袁紹を称えようとも
崔杼が荘公を「弑」したと書かれたように
袁紹の悪行の数々はしっかり記録されてるからな

韓馥の件
劉虞の件+帝に対する姿勢
臧コウの件
それから麹義、沮授、田豊ら功臣の粛清(しかも道成った後ではなく途中wwどんだけ頭悪いんだ)

こんな徳も武もない奴が天下取れるかよw
898世界@名無史さん:2012/08/25(土) 02:25:20.53 0
>>897
必要もないのに辺譲ぶっ殺してエン州に叛かれたチビがいたなwww
袁紹からすると、これまで積み上げてきた対南部戦線全ての放棄を考慮するほどの大失態。
899世界@名無史さん:2012/08/25(土) 02:35:23.06 0
臧洪の件が悪行なら曹操も悪じゃないか。
麹義の粛清はなんとも言えん。本当に麹義の言動が酷すぎただけかもしれんし。
900世界@名無史さん:2012/08/25(土) 14:58:56.21 0
>>897
天下取れなかった曹操disってんの?
901世界@名無史さん:2012/08/30(木) 16:26:27.73 O
>>900
スレッドストッパー乙
902世界@名無史さん:2012/08/30(木) 19:57:36.10 0
曹操が統一を果たせなかったのは「徳」が欠けていたからという示唆は早くから行われている

だがその徳が足りなかった曹操より更に小じんまりしていたのが他の英傑なわけで

天下の7〜8割を獲った曹操をDISるということは三国志の時代をDISるということになる
903世界@名無史さん:2012/08/30(木) 22:42:24.02 0
>>902
徐州大虐殺に尽きると思うがね。あれで、徐州人士が呉蜀につき、地盤では
裏切りが相次ぎ、窮地に追い込まれた。
904世界@名無史さん:2012/08/30(木) 23:30:55.80 0
あれで朱元璋も徳があったってことか。
905世界@名無史さん:2012/08/30(木) 23:46:39.71 0
>>903
生まれ故郷の土地と切り離された名士なんか怖くねーよ。
906世界@名無史さん:2012/08/31(金) 20:48:55.73 0
>>903
降伏論者の張昭や秦松だって徐州出身だけど。
907世界@名無史さん:2012/09/01(土) 04:40:54.76 O
>>904
天下とるまでは朱元璋は「四先生」ら知識人の言うことをよく聞いて、おとなしくしてたよ。
曹操や袁紹は天下とってないのに徳に欠ける行為があった、ってことでしょ。

曹操が天下とれたのは穎川をとれたのが大きいな。
ソースはコーエーのゲーム
908世界@名無史さん:2012/09/01(土) 07:58:44.46 0
三国志を読みたいんですが、もしかして作者、訳者や出版社なんかでいろいろ違ったりするんでしょうか?
定番とかありますか?
909世界@名無史さん:2012/09/01(土) 08:31:08.68 0
定番と言やあ、もちろんアレですよ
910世界@名無史さん:2012/09/01(土) 09:32:13.27 0
ここでの定番は中華書局かな
911世界@名無史さん:2012/09/01(土) 13:22:12.21 0
>>902
後は、世継ぎらへの教化かな
曹丕曹叡は知謀に長けてたし
912世界@名無史さん:2012/09/01(土) 17:03:56.65 0
>>908
三国志の定番といえば普通は「恋姫無双」です
三国志に詳しい人は大半がこれを参考資料として考察・分析しています
「一騎当千」も漫画ですが正史を非常に忠実に、かつ読みやすく再現していると評判です
913世界@名無史さん:2012/09/01(土) 18:15:42.39 0
蒼天航路という一級資料抜きには語れないね
914世界@名無史さん:2012/09/01(土) 20:54:56.68 0
三国志映像記によると曹操は金髪で于禁が女だそうだ
915世界@名無史さん:2012/09/01(土) 23:01:10.85 0
某絵画記録によれば曹操が女
916世界@名無史さん:2012/09/02(日) 07:57:01.35 0
孫権は眼が青かったそうな
917世界@名無史さん:2012/09/02(日) 15:16:41.82 0
>>916
Gacktかよ
918世界@名無史さん:2012/09/02(日) 18:47:55.02 0
定番はスイート三国志だろうJK
919世界@名無史さん:2012/09/02(日) 20:03:46.06 0
曹操劉備密約説
920世界@名無史さん:2012/09/02(日) 20:52:36.29 0
劉備と曹操はかなり若い頃に会ってるんだろ

それを元に書こうとしても陳舜臣が先に書いてるからなw
921世界@名無史さん:2012/09/02(日) 21:04:00.90 0
この流れだとスイート三国志はだいぶ本筋に沿ってる方だろ
演義の方にだけど
922世界@名無史さん:2012/09/03(月) 18:26:58.05 0
劉備が人を食ったって本当ですか?
923世界@名無史さん:2012/09/03(月) 19:47:49.59 0
>>920
流れ的に「秘本三国志」のつもりで書きました。
924世界@名無史さん:2012/09/03(月) 19:48:48.88 0
人を食ったようなやつは多そうだな。
925世界@名無史さん:2012/09/03(月) 19:57:31.95 0
王忠なんてマイナーな話はやめとけ
926世界@名無史さん:2012/09/03(月) 21:13:09.37 0
程イク印の肉は人肉だったんだから、曹操以下ほとんどの奴が食ってるよ
927世界@名無史さん:2012/09/03(月) 21:31:16.39 0
なにせ夏侯淵の身内が餓死するくらいだったからな

人肉食は生き残るためのものだったのにそれを笑う曹丕
というかその頃の曹丕の年齢からしても笑えないはずだが
やはり母親からも軽蔑されるくらいの人格だったんだろうな
928世界@名無史さん:2012/09/03(月) 23:03:29.95 0
曹丕「髑髏の飾りって素敵やん?」
929世界@名無史さん:2012/09/03(月) 23:46:21.73 0
曹丕はなんというか、潔癖すぎるくらい潔癖なところがある気がする
ドケチの曹洪や分をわきまえない格好をしてた何晏への態度が悪いのに対して
進んで財を他の人に分け与えた曹真とは仲良くしてたり
930世界@名無史さん:2012/09/04(火) 02:57:59.43 0
まあ曹真とは幼い頃から付き合いもあっただろうしな
931世界@名無史さん:2012/09/04(火) 14:52:26.18 0
曹洪が嫌いな理由はこれだろ。
「散財するわけでもなく献上するわけでもなく施すわけでもないのに、やたら財産を溜め込むのはなんのためかな〜?」
932世界@名無史さん:2012/09/04(火) 21:57:08.96 0
デブだから
933世界@名無史さん:2012/09/05(水) 09:34:41.10 O
デブは曹真じゃ・・
934世界@名無史さん:2012/09/09(日) 12:02:28.50 0
女好きだから
935世界@名無史さん:2012/09/10(月) 09:10:42.95 O
それは夏候尚じゃ・・
936世界@名無史さん:2012/09/10(月) 18:49:45.99 0
夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪の序列って長い間

夏侯惇>曹洪=曹仁>夏侯淵だよな?
937世界@名無史さん:2012/09/10(月) 19:19:18.10 0
>>936
曹洪>夏侯惇>曹仁>>>夏侯淵
くらいかな、当初は
次第に夏侯惇と曹仁が上がっていった
夏侯淵も上がってるけど他の奴も上がってるので最後まで死んでも責任被せられる立場のまま
938世界@名無史さん:2012/09/10(月) 23:58:43.47 0
創業の臣、しかも創業者の命を本当に救ったこともある重臣を
むかし借金の申しを断られたという理由で粛清しようとする曹丕は重度のキチガイ
939世界@名無史さん:2012/09/11(火) 00:49:31.90 0
ありゃ。次の話題に入ってしまいましたか。
スレスト気味なら「三国志序盤の青州事情」の感想聞きたかったのに。
ttp://togetter.com/li/363834
940世界@名無史さん:2012/09/11(火) 02:43:32.02 0
>>938
それだけではない

その理由ばかりピックアップされてるけど
曹洪は資産や功績を傘に来て食客も素行不良だったり
色々問題はあった
941世界@名無史さん:2012/09/11(火) 04:42:28.64 0
州ほったらかして董卓討伐に出て、曹操が栄陽で負けたらあわてて帰っていた焦和さん
942世界@名無史さん:2012/09/11(火) 22:52:46.41 O
>>940
甄氏さんを誅殺したのもね
943世界@名無史さん:2012/09/12(水) 04:15:20.94 0
叔母が悪い
944世界@名無史さん:2012/09/14(金) 05:24:03.71 P
>>922さんに先越されて書かれたけど、この時代の食文化ってどんな感じだったんだろうね?
ドラマでは魏延が鳥の丸焼き食べてたけど。餅とか美味しい物があったのかな?
945世界@名無史さん:2012/09/14(金) 11:20:31.87 0
魏が蜀料理のレシピを記した詔をだしている。

http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_hi/meats.html
曹丕(曹子桓/魏文帝) > 孟達の蜀の肉料理レシピの詔(全三国文、太平御覧、北堂書鈔より)

「新城の太守の孟達が語るには、蜀の干し肉やにわとり、アヒルはみな味がうすいので、
蜀の人か作るたべものは、ごちそうにはみな飴や蜜をかけて味を助けています。」
946世界@名無史さん:2012/09/14(金) 18:16:04.54 0
食は文献学じゃなくて考古学をプラスしないと危険だからな

ここで語れることは限られる
947世界@名無史さん:2012/09/15(土) 13:46:26.44 0
>ごちそうにはみな飴や蜜をかけて味を助けています
甘いの好きなんだな。
948世界@名無史さん:2012/09/16(日) 08:05:02.38 0
たとえば北京ダックは、とかした飴を塗ってから焼くよ
949世界@名無史さん:2012/09/16(日) 23:43:06.60 0
>>947
香辛料が当時なかったからだろ。肉は香辛料が一番合うのは同意するが。
最も、諸葛孔明の何番征伐でも得られなかったのだろうか、香辛料。
950世界@名無史さん:2012/09/17(月) 00:59:32.37 0
>>949
三国時代にあったかまでは知らんけど中国原産のスパイスは五香粉があると思うんだが
951世界@名無史さん:2012/09/17(月) 03:04:09.85 0
生姜とか山椒はあったのでは
952世界@名無史さん:2012/09/17(月) 03:44:30.69 0
そう言えば鍾ヨウが山椒食ってたな
953世界@名無史さん:2012/09/17(月) 15:51:22.46 0
「まるで強盗団だった」

山東省青島で15日、日系のスーパーや工場を襲ったデモ隊を目撃した中国人男性は、こう声を震わせた。
襲撃されたパナソニックグループなどの工場は、一夜明けた16日、
放火ですすけた建物や、壊された機械類が無残な姿をさらしていた。

自動車部品工場管理職の中国人男性は「うちは再起不能。
ほかの工場も含めて、これで数万人の失業者が生まれるが、
中国人がやったことだ」とやりきれない表情だった。

ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120916-OYT1T00592.htm?from=main3
954世界@名無史さん:2012/09/17(月) 17:07:28.13 O
曹操が蜀の生姜で鱠を食べるの愛してたやん
955世界@名無史さん:2012/09/18(火) 06:09:21.48 0
まるで、赤壁の戦い

■漁船1000隻、尖閣海域へ
http://postimg1.mop.com/2012/09/17/13478483871091423.jpg
956世界@名無史さん:2012/09/19(水) 23:02:12.67 0
いじめ・パワハラの元祖かつ究極=曹丕
957世界@名無史さん:2012/09/20(木) 00:32:31.29 0
>>956
何かしたっけ?
958世界@名無史さん:2012/09/20(木) 00:43:34.71 0
于禁にはある意味良くここまで手の込んだ仕打ちを与えたものだと思う。
今のいじめやパワハラだってここまで手の込んだフェイントは仕掛けない。
959世界@名無史さん:2012/09/20(木) 00:47:44.57 0
剣術自慢した件って、どう考えてもやらせ強要だよな
もしくは本人だけがガチだと思ってただけの注射相撲だったか
ケ展は自分が勝ったらなにされるかわからないんだから怖くて実力出せないだろ
960世界@名無史さん:2012/09/20(木) 01:04:05.09 0
>>958
でも詔勅だして公式に于禁の名誉回復してるのも曹丕だぜ?
嫌がらせの絵を描かせたというけど「状況の描写」なら于禁が見たような絵しかありえないし
これを嫌がらせにしちゃうのはどうかと思うんだよな

>>959
曹丕は勝負事が好きで色々な人と色々な勝負してるし(おはじきとかチャンバラとか)
ちゃんと実力あるならちゃんと勝っていいような気がするんだがなぁ
961世界@名無史さん:2012/09/20(木) 13:07:47.24 0
子桓ちゃんは気に入った人物には人の悪い冗談を言う。
孟達が于禁並みに神経質で律儀だったら、「俺は信用されてないのか?」で即反乱しただろう。

孟達
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E9%81%94
孟達が?に到達するや、その謁見に進む有り様はゆったりとして優雅であり、才能と弁舌は傑出しており、注目しない者はいなかった。
また、曹丕は近くに外出しようとして、輦(てぐるま)に乗った際、孟達の手をとり、彼の背中を撫でてからかって言った、「君はまさか劉備の刺客じゃないだろうね?」かくして共に輦に乗った。
962世界@名無史さん:2012/09/20(木) 13:25:30.56 0
曹丕は黄権に対しても圧迫面接染みたことをやった。
降伏者に対して辛口の冗談を飛ばすのはもはや曹丕の悪癖といえる。
于禁は曹丕の冗談が分からず、真に受けて意気消沈して死んじゃった。

黄権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%A8%A9
魏に降った黄権に対して魏皇帝曹丕(曹操の子、文帝)が「君は逆(蜀)を捨てて順(魏)にならった。陳平・韓信に倣おうとしたのか?」と聞くと、
黄権は「私は蜀で過分な厚遇を受けていました。私が魏に降ったのは単に死を免れようとしただけで、古人に倣おうなどとは思っていません」と答えた。
曹丕はこの答えが気に入り、黄権を鎮南将軍・育陽侯・侍中とした。

963世界@名無史さん:2012/09/20(木) 14:20:24.58 0
つかずっと肩身の狭い思いをしてきた老将にあの対応は辛口の冗談を越えてる
謹厳な性格の于禁がどう受け取るかくらい想像できないのはおかしい
964世界@名無史さん:2012/09/20(木) 14:46:03.61 0
「ネタだよネタ!」
面白いと思ってるのは自分だけ
965世界@名無史さん:2012/09/20(木) 17:28:16.86 0
デイコウあたりが生きてリャ案外曹丕と馬が合って盛り上がったかもしれない
そのうち斬られると思うけど
966世界@名無史さん:2012/09/20(木) 22:23:31.46 0
つか魏の最高のインテリであり実務家だった司馬懿や鍾ヨウから「顔回」と讃えられた荀ケと
単に虚名が先行して無能だった孔融の両方を知ってる曹丕からしたら
禰衡とか初対面で斬首だろうな
967世界@名無史さん:2012/09/20(木) 22:43:20.14 0
>>966
孔融を無能っつってるのは今日日演義しか知らん子だけだわ
968世界@名無史さん:2012/09/20(木) 22:51:50.59 0
子供みたいにいきりたつ前に自説を書いてみろよw
賊が迫っても酒を飲んで高尚さを装うしかなかったと書かれてるが
異説を持ってるんだろ?
969世界@名無史さん:2012/09/21(金) 01:00:10.57 0
異説つーか後漢書読んでください、以上
970世界@名無史さん:2012/09/21(金) 06:28:18.26 0
司馬彪からもはっきり無能扱いされてるが
後漢書を読んで(キリッ
なんて言われてもなw
971世界@名無史さん:2012/09/21(金) 06:34:29.13 0
虞翻のいじめに耐えた于禁を憤死させるとか、ぴぃちゃんのいびりはすごいな。
972世界@名無史さん:2012/09/21(金) 13:55:05.02 0
>>970
後漢書孔融伝って真っ先に「孔融は幼い頃から才覚を有していた」と書いてあるのだがな
973世界@名無史さん:2012/09/21(金) 14:51:32.31 0
へー(棒

そんな定型文が支えなんて斬新すぎてボクついていけないです^p^
974世界@名無史さん:2012/09/21(金) 15:10:02.70 0
>>970
司馬彪の言うことは絶対ですか?
975世界@名無史さん:2012/09/21(金) 17:22:49.32 0
>>966
ふと思ったんだが有徳の人間を褒める言葉として「顔回」は(孔門中)最上級なんだろうけど
実際の政務家としての褒め言葉じゃないよね、隠者タイプだし
無論無能な人間を曹操が重要なポストに就かせるはずがないので、有能なのは前提で
徳を褒めてるんだろうけど

何が言いたいかというと孔子の子孫の人は実務は無能だったけど、徳に関しては顔回並
だったかもしれない
才をひけらかしたがるのが玉に瑕の顔回w

976世界@名無史さん:2012/09/21(金) 18:06:03.65 0
>>973
いやだって君は史家の判断が人物の価値に直結してると言うのだろう?
後漢書では孔融が幼少期から才能あったという評価を史家がしてるのに
どうして司馬彪の評価が優れていて范曄の書いた評価が信用できないというんだい?

また文才に関しては建安七子という評価で歴史的にも認められているし
とうてい「無能」とは言えないよね
当時の詩はただのお遊びではないよ
977世界@名無史さん:2012/09/21(金) 19:09:07.49 0
孔融の詩賦の才能が発揮されたのは主に曹操にいちゃもんつけるときだったわけだが。
曹操がだした禁酒令を批判したりね。
978世界@名無史さん:2012/09/21(金) 20:54:42.93 0
>>975
現代日本で顔回みたいなって言われたら、
社民党員みたいな人って言われてるようなもんだろうな。
民主党員みたいな人って言われるよりははるかにマシだけど。
979世界@名無史さん:2012/09/21(金) 21:02:13.49 0
>>977
曹操にいちゃもんつけた時の詩が文章として残ってるだけで
それ以外の詩もいくつか残ってるだろ
雑詩とかいいぞ?
980世界@名無史さん:2012/09/21(金) 22:06:50.59 0
孔融も禰衡も頭良すぎて空気読めない人だったんだろうな
981世界@名無史さん:2012/09/21(金) 22:27:52.87 0
孔融は空気読めてるから朝議をリードできるんだろ
そして大勢から支持を受けるから曹操の政敵として排除されるようになるわけで
禰衡も人の嫌がるところを的確に読む能力があるから空気も読めてるよ

三国志で頭良すぎて空気読めない奴って鍾会くらいの突き抜けた変態くらいじゃないかな
982世界@名無史さん:2012/09/21(金) 22:59:41.02 0
禰衡は現代の波田陽区
983世界@名無史さん:2012/09/21(金) 23:08:32.86 0
そういやそんなやつもいたな
984世界@名無史さん:2012/09/22(土) 08:39:21.91 0
>>984
顔回が生き返った
985世界@名無史さん:2012/09/22(土) 08:40:42.25 0
間違えたw

>>986
顔回が生き返った
986世界@名無史さん:2012/09/22(土) 08:42:18.66 0
>>985
孔子は生きている






こういう自作自演劇に近いやりとりを衆人の前で交わすなんて有徳ではないなw
987世界@名無史さん:2012/09/22(土) 09:03:33.76 0
顔回みたいって言う表現、
余人ならともかく司馬懿の発言だと、
皮肉にしかとれないんです。
人間がひねくれてるから。
988世界@名無史さん:2012/09/22(土) 09:05:04.51 0
首もひねくれておる
989世界@名無史さん:2012/09/22(土) 10:30:42.54 0
いや、亜聖として讃えられるって並大抵のことではない

数ある知識人の中でも
荀ケだけは更に頭一つ抜けてると誰もが認めてるわけだ
990世界@名無史さん:2012/09/22(土) 10:34:08.45 0
荀ケって別に徳のある振る舞いしてないよ?
991世界@名無史さん:2012/09/22(土) 10:45:33.23 0
内容を読まずにそんなこと書いてもイミフ
992世界@名無史さん:2012/09/22(土) 11:02:37.14 0
司馬懿の発言ってなんかみんな裏がありそうで。
すべての言動が計算された演技というか。
所謂褒め殺しとかそんな臭いがする。
993世界@名無史さん:2012/09/22(土) 11:05:09.38 0
実は司馬懿が「芝居」の語源じゃないのか?
994世界@名無史さん
そうそう