2 :
世界@名無史さん :2011/08/30(火) 15:57:36.08 0
栄光のローマ
3 :
世界@名無史さん :2011/08/30(火) 23:34:33.87 O
古代瀬戸内海文明についても語ろう
4 :
世界@名無史さん :2011/08/31(水) 09:39:18.71 O
フェニキアーン
5 :
世界@名無史さん :2011/08/31(水) 12:19:46.29 0
海の民
地名はフェニキア由来が多いな次がローマギリシア由来か
レバノン杉を伐採しまくって衰退してもーた...orz
8 :
世界@名無史さん :2011/09/03(土) 06:51:53.36 0
森あったの?
輸出してたんだから森だったんだろう。
10 :
世界@名無史さん :2011/09/03(土) 12:43:47.03 O
ギリシャもペリシテ人かとた
11 :
世界@名無史さん :2011/09/03(土) 12:55:33.11 O
ギリシャもパレスチナ、レバント地方も今はハゲ山ばかりだが、かつては森林だった。 ただ雨量が少なく木を切ると再生不可能な気候なので今のようになった。 ヨーロッパの森も何度か伐採されつくしたが、再生可能な気候だったので全部植林。 レバノン杉は旧約聖書にも出てくる貴重品。
多分気候変動もあるけどね。 サハラの変化からみるに
>>8 地中海東岸のレバノン山脈から小アジアにかけて広く分布していた。
フェニキア人がかなり浪費、続くローマ人も大量輸入した。でも伐採制限を記した石碑があるそうな。
その後も減少を続けて、オスマン時代にほぼ壊滅した。
レバノン杉の伐採は、メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』にも出てくるほどだしね。
17 :
世界@名無史さん :2011/09/15(木) 05:26:55.38 0
明日から放送大学で「地中海世界の歴史」集中講義放送はじまるよ
結局海の民って何なの
>>18 次の1)〜5)の連合勢力。のちに6)7)も加わる。
1)ギリシアのアカイア人(いわゆるホメロス叙事詩の主人公たちと同じ)
2)小アジア南西部のリュキア人(ヒッタイト人と近縁のインド・ヨーロッパ語族)
3)サルディーニャのヌラーゲ人(インド・ヨーロッパ語族の古いの)
4)シチリア東部のシクニ人(民族系統不明でイタリア半島から渡ってきた)
5)イタリア半島のエトルリア人(ローマに吸収されたあれ。屈折語を話す民族)
6)パレスチナ南部のペリシテ人(ユダヤ人の敵のあれ。ミケーネ文明のクレタ人と近縁)
7)パレスチナ北部のチェケル人(トロイアから流れてきたという人もいる)
20 :
世界@名無史さん :2011/10/27(木) 04:13:54.25 0
人気ないな 資料が少ないからか
21 :
世界@名無史さん :2011/11/19(土) 22:45:49.82 0
海の民って、倭寇のことだと思います。 時空間ワープ航法を使って室町時代の倭寇が古代地中海沿岸を荒し回ったのです。 どこから来たか分からないのは未来の日本から来たからです。
23 :
世界@名無史さん :2011/11/19(土) 23:34:48.04 0
青銅器の海の民が鉄器のアッシリアを滅ぼしたのが謎だな
24 :
世界@名無史さん :2011/11/19(土) 23:49:33.70 0
鉄器も使ってたでしょう。 もちろん、アッシリアからの鹵獲品ですが。
ヒッタイトが「海の民」によって滅亡させられた後、彼らが独占していた精錬師 ないし鍛冶師は分散を余儀なくされ、前11〜前10世紀に、その一部は ギリシア世界と接触して鋳鉄術を伝える。 やがてこの技術は、ギリシア北部の山岳地帯に住んでいた、インド・ヨーロッパ語系の ドーリア人たちの支配するところとなるが、別の集団は、おそらく黒海北岸の ステップ地帯に住んでいた馬匹飼育民のキンメリア人へと流れた。
26 :
世界@名無史さん :2011/12/06(火) 16:52:42.02 0
>>20 西洋古代史って考古学無けりゃやっていけなくね?
中東なんかほとんど資料無いじゃん
中国や日本は資料が豊富で文献だけでもいけるのに
27 :
世界@名無史さん :2011/12/07(水) 12:55:03.40 0
28 :
世界@名無史さん :2011/12/10(土) 18:10:50.50 0
アカイア人・ドーリア人はR1bが中心。
>>27 中国や日本には古事記とか史記とかあるじゃん
でも中東にはまとまった歴史書が無いそもそも作ってない
ギリシアだってまあペルシア戦争とか細かい所は分かるけど
それよりもっと古い歴史のことは考古学が無いと分からない
>>20 資料が無いんじゃなくて語れるネタが無いんだよ
というかスレ名のせいで何かしら包括的なネタを取り上げないといけないような気がしてしまうわ
>>1 は何を語りたかったのかね
少し前に出た『古代地中海世界のダイナミズム』って論文集読んだ人いる?
古代西洋は語れる物語に乏しい 中国や日本にはいっぱいあるのに
33 :
世界@名無史さん :2011/12/30(金) 08:42:15.28 0
ギリシャ人侵入以前の先住民はエジプト人のようなハム系というのが定説化しつつある。 これはイベリア半島・イタリア半島も同様。
ハム系かはわからんけどオリエントの影響が色濃いのは明らか ただその影響が、それらの先住民に伝播普及したものなのか、 その先住民自身がすでに東方からの植民者(陸路・海路不明の)であったのか、わかんないよね
35 :
世界@名無史さん :2011/12/30(金) 15:37:10.94 0
36 :
世界@名無史さん :2012/01/09(月) 12:45:36.05 0
アカイア人・ドーリア人はR1bだけど、 ギリシャ人における子孫はそれほど多くないと言うことかな。
線文字Aを解読したいお><
てす
40 :
世界@名無史さん :2012/01/25(水) 20:40:04.46 I
映画トロイをミタ アガネムノンというのがアカイア人の王なんだな トロイは特にアポロンを信仰していたんだな アテネは女神アテナ、スパルタはヘラクレスとか ギリシア神話という世界は共有していたんだな
どうだか ギリシア人は異民族の神について語るときも、ギリシアの神々に当てはめて記述しているし
>>40 共有というか、それぞれのポリスが別々に崇めていた神を持ち寄って体系化したのが
いわゆるギリシャ神話の体系と考えてくれ。
>>26 >>29 中国や日本は古事記とか史記くらしか無いだろ。中東やグレコローマンの
歴史書に何があるのかわかって言っているのだろうか?
>中東にはまとまった歴史書が無いそもそも作ってない
ベロッソスやマネトは?十分まとまってると思うんだけど。
古事記や史記の古い部分なんて、日本や中国全体の歴史ではない。時代を遡る
程一部の場所の歴史となる。そういう意味では、リヴィウスのローマ建国以来の歴史や
古代ユダヤの史書と同じ。
44 :
世界@名無史さん :2012/01/27(金) 13:26:04.43 0
オリエントは中国よりずっと先進国だというのに まともな歴史書が出来たのは書経よりも200年もあととは・・・
>>44 現在旧約聖書としてまとめられている古代ユダヤの書籍のうち、
申命記以降、エステル記までは元は別々の歴史書。特に歴代誌はダビデから
バビロン捕囚までのユダヤ国家の5世紀間のまとまった歴史叙述。バビロン捕囚が586年だから、
書経より100年以上早い。
46 :
世界@名無史さん :2012/01/28(土) 16:51:07.82 0
べロッソスにしてもマネトにしても聖書にしてもまあ体裁は整ってるな でも、中味が薄いような気がするのだよ どうも西洋の歴史は彩りが無いというか、豊かさが無いというか、薄いというか 文学性、物語性に乏しいと思わないかね?
豊かとか文学性、物語性とか、その度合いは主観的な話だよね。 自分は特に、西洋の歴史(具体的にどの史書を対象としているのかよくわからないが) の文学性、物語性、彩りが乏しいとは思わない。
日本の何と比べているんだ
そこら辺は原典で読める語学力があるかどうかも関係ある気が。旧約の話だけど 故・井筒俊彦氏曰く「すでに中性化され、毒気を抜かれた訳文(ラテン語)では分からないのだが、 原典で読むとき、最初の頁から言うに言われぬ強烈な人間的臭気が、いきなり、まともに 吹き付けてきて、思わず慄然と立ちすくんでしまうことがある」とか。
モーゼのエジプト出奔、トロイア戦争・ミケーネ・ヒッタイトの滅亡、アッシリアのバビロニア征服と 紀元前12〜13世紀は古代文明の一代転換の時代だった。 エジプトのファラオは聖書に書かれているようにモーゼなんか構っているより アッシリアの動向の方がよほど気になったように思う。
52 :
世界@名無史さん :2013/02/15(金) 22:03:42.17 0
>>50 だからエジプト側には出エジプトなんて瑣末な事件の記録は無いんよ。
53 :
世界@名無史さん :2013/02/15(金) 22:43:56.82 0
>>29 あの時代紙がなかったから、歴史書が旧約聖書くらいしか
残らなかったからじゃないの?
粘土板と楔形文字では書き残すコストがかかりすぎるよ
同じくパピルスと象形文字でも、パピルスは耐久性に疑問が残るし、
象形文字は覚えるのに手間がかかりすぎだから、消えてしまうのも無理は
無いと思うのだが
>>53 現に粘土板が大量に残っている。資料が無いというのがそもそも間違い。
パピルスは耐久性が無いがヒエログリフによる記録は石碑やお墓の壁に大量に残っている。
ヒエログリフは5000年前からローマに征服されるまで使われたんだから長く続いた方だ。
面白そうなスレに限って過疎
56 :
世界@名無史さん :2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
トロイア人とは何者だろうか?
楔形文字で書かれた歴史資料について言わせてほしい。 耐久性のある書字材料だったため、1世紀頃に至るまで大量に残っている。解読が追いつかない程だ。 それは、楔形文字の消滅した後のパルティア後期〜サーサーン朝期の史料が少なさとは対照的だ。 シュメール期や古バビロニア期の諸王朝の事件を記録した『年名表』。 アッシリア・バビロニアの諸王朝に関する『年代記』や『王名表』の類。 もちろん、これらの国王の事績を記した碑文も重要な史料となるし、 各都市から出土する行政文書・商業文書などもある。 また、天文学者プトレマイオスの『アルマゲスト』の巻末付録である、 歴代バビロン王の統治年表も歴史を復元するのに役立っている。 そして、ヘレニズム期のセレウコス朝などの政治史を復元するために活用されているのが、 バビロンで作成された『天文日誌』だ。これは、その年の出来事と天文現象などが記録されている。 同時代のギリシア・ラテン語文献の記述との比較や、天文学的アプローチも可能で、その価値は計り知れない。
訂正:プトレマイオスの『アルマゲスト』はギリシア語だけど、 それ以外は、全て楔形文字による歴史資料です。
59 :
世界@名無史さん :2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN 0
>>57 ごくろうさん。
こういうところに人材を投入できるような国にして欲しいね。
人材も資金も必要だけど、そうなると例えば現在は無料で見れる大英博物館が有料化されるとか、 消費税が1%upとかそういう事態になるかもしれない。
日本の政治家はスーパーコンピュータの開発費に「世界一じゃないとダメなんですか?」と言ってしまった位 学術を軽視してるから。
費用に見合った成果を期待されるようになった 崇高な理念だけでは通らない財政状況
そう。はっきり言って楔形文字を解読して粘土板を整理する事は学問上の価値は多大だが どれだけ成果を上げても興味の無い人には全く無価値だからな。
文系は金持ちが趣味でやるしかないな
65 :
世界@名無史さん :2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN 0
>>64 だから、やるなら今やらないと。
20〜30年後の日本では、そんな余裕はなくなるよ。
66 :
世界@名無史さん :2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN 0
文献、文献と言っているけど、旧約聖書があるから
何かにつけて旧約聖書に結び付けているような感じなんだよな
>>64 そもそも、この手のものに現世的な見返りを期待してはいけないだろうww
67 :
世界@名無史さん :2013/09/11(水) 20:36:02.64 0
今のアラブ人ぐらいの濃色コーカソイドの世界だろう。
68 :
世界@名無史さん :2013/09/11(水) 21:11:01.85 0
ミノア文明に興味があったのだが、人身御供が有ったらしい事を知ったてから気持ちが萎えてしまった‥古代では珍しい明るくて優しい文明だと思っていたのに…
人身御供ってミノタウロスの話?
71 :
世界@名無史さん :2013/09/12(木) 21:16:56.29 0
線文字Bの古文書に「〇〇女神に少年〇人、少女〇人」という様な記録が残っており、さらに地震で倒壊して放置された神殿跡からは後ろ手に縛られて台に乗せられた少年、短剣を持った成人男子、ボウルを持った成人女子等の骨格が発掘されているそうです どー考えても人身御供では?
72 :
世界@名無史さん :2013/09/12(木) 21:20:21.86 0
>>71 ちなみにソースは以前にヒストリーチャンネルで見たイギリスBBCのドキュメンタリー番組です
>>71-72 そうなんだthx
でも線文字Bはミケーネ時代じゃなかった?
人身御供でググってもテーセウスの話しかヒットしないけど。
75 :
世界@名無史さん :2013/09/12(木) 23:12:30.17 0
>>73 線文字Bは確かクレタの勢いが衰えてギリシャ本土の勢力に一度征服されてから使われる様になったと記憶してます
線文字Aで書かれている言語は今も不明ですが線文字Bで書かれている言語はギリシャ語ですから
ミケーネが元々使っていたのかクレタからの輸入かは私には判かりません
76 :
世界@名無史さん :2013/09/12(木) 23:16:13.60 0
>>74 ミノア文明に関する資料は本でもネットでも少ないですね‥(´Д`)
古代の明るくて優しい文明というのは、具体的にはどういう文明があるのだろうか?
>>75 解説ありがとうございます
線文字B=ミケーネの文字ならミノア文明とは関係ないのでは?と思いまして
でもミノアに元々あった風習がギリシャ人征服者に受け継がれた可能性もありますかね
79 :
世界@名無史さん :2013/09/13(金) 14:44:39.83 0
>>77 68ですが
正直なところ明るくて優しい古代文明なんて他には知りません
強いていうならエジプトかな?
基本的に古代文明は厳しくてキツくて人権なんか欠片もなくて下の人間はどんどん死んでいくイメージしかないです
‥ムーとかアトランティスならばあるいはw
80 :
世界@名無史さん :2013/09/13(金) 14:56:55.04 0
>>78 恐らく衰退したミノアを征服したのはミケーネでしょう
どっかで読んだ受け売りですが自分でもそう思います
衰退の原因はサントリーニ島の大噴火による大津波でしょう
他人事ではありませんね(>_<)
>>79 やはりそうなんですね。。。。ありがとうございました。
>>81 文明で明るとか優しいとか何の話だ・・・?人身御供=厳しい とか新大陸に来たスペイン人かよwww
圧倒的なエジプト産小麦の流通を押さえたとこが勝者なイメージ
エジプトはアッシリア以降はペルシャやギリシャと外部に支配されっぱなし ギリシャ系プトレマイオス朝が土着化したがこれもローマに滅ぼされた
85 :
世界@名無史さん :2013/10/26(土) 05:39:26.45 0
ところで「海の民」の実態は?
86 :
世界@名無史さん :2013/10/26(土) 07:11:33.50 0
ただの海賊や船を利用して移動や侵入を頻繁におこなった部族をまとめてそう呼んだだけ 多くの文明や国家を滅ぼした正体と言う意味では気候変動が正解
ヒッタイト独占だった鉄の拡散で鉄器をものにしたドーリアがミケーネを圧倒。
89 :
世界@名無史さん :2013/11/16(土) 19:20:09.91 0
巨人を人類は滅ぼしたのか? 世界戦争とこの歴史は関わりがある、なし?
フェニキア人が覇権を握っていた 以上
クレタ人は海産物食べ放題みたいな印象 それだけですごく幸福そうな感じ
92 :
世界@名無史さん :2013/12/08(日) 15:18:25.78 0
海の民とヒクソスが撹乱要因だね。
93 :
世界@名無史さん :2014/03/11(火) 23:10:48.75 0
エジプト人自身が、もう少し海に対して積極的になれればなあ・・・
94 :
世界@名無史さん :2014/03/12(水) 16:24:14.06 0
アレクサンドロス大王についてでも語るか… インダス河畔で兵士たちがさすがにこれ以上の遠征に嫌気がさし ご自分だけで行かれたらどうですかと言われたりとかw
じゃあアレクサンドロスがヒュパシス川に築いたとされる 12の祭壇ってどこになるの? あとサンガラはラホールが該当する?
96 :
世界@名無史さん :2014/03/12(水) 20:38:55.93 0
ロクサネはタジク人でOK?
ソグド人とタジク人はイコールになるのか?
ロクサーヌはソグドじゃなくバクトリアでしょ
99 :
世界@名無史さん :2014/03/13(木) 22:30:22.98 0
ということはタジク人だよ。
海の民について詳しい本紹介してくれ それかヒッタイトについて詳しい本 エーベルハルト・ツァンガーの「甦るトロイア戦争」って本では アヒヤワはアカイアではないと言ってたが、いやいやそれはないだろと でも海の民について纏まった本ってこれくらいしか見たことないんだよな メルエンプタハ碑文やメディネト・ハブ碑文の邦訳がある分ネットの方が断然詳しいけど トレバー・R・ブライスのヒッタイト本も邦訳されてないし 日本の書籍だとマッドワッタ文書やタワガラワ書簡の一次資料の邦訳も見かけたことがない 金払って買った本よりネットの方が詳しいのは悔しくもある シケリアのディオドロスによるとアフリカでアトランティスを征服した女王ミュリネ率いるアマゾン軍が 小アジアに戦争しかけてトラキアのモプソスとスキタイのシピュロス王に撃退されたという記述があるが これは全く何の根拠もないデタラメなのだろうか? スキタイのシピュロスというのはシュッピルリウマと音が似てるからシュッピルリウマ1世と連想してみたくもなる それにイリアスにはミュリネの塚なる地名が登場するのも安易に関連付けてっ妄想してみたくもなる
>海の民について詳しい本紹介してくれ 俺も読みたい
102 :
世界@名無史さん :2014/04/04(金) 05:30:24.32 0
海の民って地中海版邪馬台国みたいなもんか?
104 :
世界@名無史さん :2014/04/06(日) 23:13:05.28 0
>>103 その辺りの話しなら神武東征の方が近いと思われ
日本人は何所から来たのか、レベルじゃねぃ
106 :
世界@名無史さん :2014/04/07(月) 00:08:26.42 0
>>105 既に人が居るところに割り込んできて
何処に住み着いたのかはわかってるけど
どんな人たちが何処から来たのかがわからない
107 :
世界@名無史さん :2014/04/07(月) 20:27:24.46 0
黒いアテネは言い過ぎにしても、褐色のアテネは確かだろう。
リビアやアルジェの辺り?
ペリシテ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%86%E4%BA%BA ペリシテ人、あるいはフィリスティア人とは、
古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植した民族群。アシュドド、アシュケロン、エクロン、ガザ、ガトの5つの自治都市に定着して五市連合を形成していた。
古代イスラエルの主要な敵として知られ、聖書の『士師記』や『サムエル記』で頻繁に登場する。
特に、士師サムソンの物語や、戦士ゴリアテと戦ったダビデの物語などが有名である。
また、パレスチナ(Palestina)は「ペリシテ人の土地」という意味だが、パレスチナ人とペリシテ人は、直接の関係はない。
起源[編集]
ペリシテ人の起源を物語る資料は、文献史学的にはエジプト新王国期の記録や旧約聖書に見られ、また考古学によっても興味深い情報が得られている。
これらの情報から、ペリシテ人は紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて地中海東部地域に来襲した「海の民」と呼ばれる諸集団を構成した人々の一部であり、
エーゲ海域とギリシアのミケーネ文明を担った人々に起源を持つとする説が有力である。
文献史学[編集]
聖書の記述によれば、ペリシテ人はアブラハムの時代にはすでにカナンの地に定住していたとされるが、
この時代のペリシテ人へ言及した文献は聖書を除いて他に存在しないため、その起源については諸説存在する。
聖書の記述では、彼らのルーツはハムの子ミツライム(エジプト)の子であるカフトルの子孫であるとされ、
「カフトル島から来たカフトル人」と呼ばれている(『創世記』10:13-14、『申命記』2:23)。さらにこれを裏付ける記述は、『エレミヤ書』47章4節にも存在する。
したがって、ハムの子カナンを始祖とするカナン人とは異なる氏族であったとされる。
カフトルが実際にどの地域を指しているのかについても諸説あるが、紀元前12世紀頃までに、すでに鉄の精製技術を有していたことなどから、
クレタ島、キプロス島、あるいはアナトリア地方の小島の1つであった、などの候補が挙げられている。今日ではクレタ島であるとの見解が示されることが多い。
また、ペリシテ人の築いた都市国家の王はセレンと呼ばれ、これはギリシア都市国家のテュランノス(僭主)と同一起源の語彙と考えられている。
イスラエルに棲息している野生のイノシシの起源はヨーロッパ、古代人がヨーロッパから持ち込んだ可能性
http://jp.sciencenewsline.com/articles/2013110423390003.html イスラエルに棲息している野生のイノシシは世界中に棲息している他のイノシシと似ている。
そのため、これまでイスラエルに棲息している野生のイノシシはエジプトやイランから、
中東へと広がった他のイノシシの親戚だと考えられてきたがそうした考えは間違いであることが判った。
Tel Aviv Universityの考古学研究チームと古代中東文化研究チームが共同研究の結果から、
イスラエルに棲息している野生のイノシシはイスラエルの周囲の国々に棲息しているイノシシとは異なり、
ヨーロッパに起源をもつことを発見した。
遺伝子解析と考古学的分析の手法を用いることにより、
研究チームは、イスラエルに棲息している野生のイノシシは3000年前に
ペリシテ人や他の侵略者によってイスラエルに持ち込まれた家畜のブタが野生化したものだという可能性を見つけた。
そして研究チームはこの研究成果を今週号の「Scientific Reports」を通じて発表した。
「我々が行った遺伝子解析の結果から、
イスラエルに棲息している野生のイノシシは紀元前900年頃の鉄器時代のヨーロッパで飼育されていたブタの子孫であることが証明されたのです」
とTel Aviv UniversityのProf. Finkelsteinは述べる。
「また、ペリシテ人の遺跡から大量のブタの骨が見つかっていることを考慮すると、ヨーロッパのブタは、
ペリシテ人の船舶によってイスラエルに運ばれてきたものだということが言えるかもしれません。」
イスラエル南部の海岸沿いにあるペリシテ人の遺跡で見つかってきたブタの骨は、紀元前1150〜950年頃の鉄器時代の遡ることができるが、
こうしたブタの骨は、イスラエルの同年代の他遺跡ではまったく見つからないか、見つかったとしても非常に稀な存在となる。
旧約聖書のペリシテ人の姿を解き明かす 古代都市ガトの発掘調査
http://www.archeonews.net/2011/07/blog-post_11.html 約3000年前に、ペリシテ人は地中海岸周辺に居住しており、ガトは新たに開拓された都市だった。
この都市で最も有名な住民は、サムエル記にある羊飼いの若者ダビデの投石によって倒された巨人ゴリアテである。
(略)
遺跡からは古代ギリシア様式の文様がある土器片が発見されており、ペリシテ人の起源がエーゲ海方面にあることを示唆している。
ペリシテ人は現在のギリシア地域から紀元前1200年ごろに海を渡って到来した。
そしてアシュケロンやアシュドドなどの主要な港、イスラエルの都市群、現在のパレスチナの領域であるガザ地区などを支配するようになった。
ガトの遺跡の発掘によって、ペリシテ人達は在地の文化を一部受け入れつつも、自分たちのルーツを忘れていなかったことがわかっている。
例えば、この地域に到来してから5世紀たった後でも、彼らはギリシア語の名前を持つ神々を崇めていた。
調査によって、ペリシテ人はエーゲ海地域と同様、レンズ豆を多く摂取していたことがわかっている。
遺跡で廃棄されていた動物骨の調査から、彼らは豚と犬を食べていたようである。
これらはイスラエル人とは異なっており、イスラエル人はこれらの動物を不浄なものとみなしていた。この戒律は現在のユダヤ教にも残っている。
また、ガトの町が紀元前9世紀に破壊を受けたことも発見された。
市の周囲には包囲群によって作られた溝や盛り土が出土しており、現在でも都市があった丘陵部の周りに黒いラインとなって見えている。
この時期に起きたガトの壊滅はアラム人の王ハザエルによって紀元前830年に行われたもののようである。
この出来事は旧約聖書の列王記に言及されている。
このように、ガトは紀元前10世紀から前9世紀にかけてのペリシテ人の生活の様子を明らかにする、極めて豊富な物的証拠を提供してくれている。
その中にはイェルサレムのダビデ王やソロモン王によって統治されていた時代も含まれる。
他のペリシテ人の町の遺跡は、その前後の時代の情報は提供しているが、この重要な時代の資料がない。
ガトは、そのギャップを埋めてくれているのだ。
>>111 紀元前604年には新バビロニアのネブカドネザル王によって侵略を受け、ペリシテ人の町はその支配下に入った。
その後の時代の痕跡は残されていない。
1099年にヨーロッパから来訪した十字軍はガトがあった場所に要塞を築き、その後この地はアラブの村テル・アル=サフィとなり、1948年のイスラエル建国の元になった戦争で廃墟と化した。
現在では、ガトは国立公園となっている。
1955年には数マイル南にキリヤット・ガトと呼ばれる町が建設された。
この町の名前はガトにちなんでつけられているが、この場所にあった遺跡がペリシテ人の遺跡だと誤解されていたことによる。
ペリシテ人の記録は、偏った見方ではあるものの、ヘブライ語聖書に残されている。
英雄サムソンはペリシテ人の女性と結婚しており、ヘブライ人と小競り合いを続けていたが、裏切られ、捕えられて、目を潰され、ガザの神殿に幽閉された。
しかし彼は力を取り戻し、つながれていた神殿の二本の柱を倒して、中にいたペリシテ人全員を道連れにして死んだ。
ガトからは2本の柱を持つ、巨大な構造物の跡が発見されており、おそらくは神殿だという。
Maeir氏はサムソンの話が書かれた時代に知られていたペリシテ人の神殿建築の様式だと述べている。
ガトではさらに、ゴリアテと良く似た名前が書かれた土器片が発見されている。
この名前はインド・ヨーロッパ語族の名前であり、在地のカナン人やイスラエル人が用いていたセム語とは異なるものである。
これらの発見から、ペリシテ人がこうした名前を用いていたということがわかる。
遺跡の調査から、ゴリアテの物語が強力なペリシテ人の都市ガトとイェルサレムの諸王との闘争といった史実を忠実に反映したものであることがわかってくる。
Maeirはこう語っている。
「ダビデが投げた石によって額に穴があいた頭蓋骨が、いつか見つかるだろうと言うつもりはない。ただ、聖書の物語が当時あった文化的な環境を反映したものである、ということを、ガトは教えてくれるのだ」
そこら辺りの話は杉本智俊の「図説 聖書考古学 旧約篇」や 小川英雄の本に載ってなかった?
115 :
世界@名無史さん :2014/04/08(火) 00:38:51.51 0
褐色のアテネに対してです
117 :
世界@名無史さん :2014/04/08(火) 01:08:00.30 0
>>19 これ元ネタは何処から持ってきたんだろうな
ヌラーゲの話しは知らなかった
トロイア戦争の後のオデッセウスの蛮行とかで 「海の民」の話を作ってる人とかいたりしないのかな
120 :
世界@名無史さん :2014/04/09(水) 21:01:10.48 0
フェニキア人とユダヤ人はかなり近いっぽいけど 地理的な問題だけなんだろうか?
だろうね シリア沿岸は川で区切られてるから ところでゲルハルト・ヘルムのフェニキア人って本だと 海の民とフェニキア人が集合して商業航海に乗り出したとある ミュケナイだと竜骨のある船が使われていたが、 シリアやエジプトでは青銅器時代は平底の船しかなかったというのだ ギリシャよりフェニキアの方が海の進出が後進であったという説 ペラスゴイ=ペリシテ エトルリア=トゥルシア=トロイア などと俺が読んだ本には乗ってなかった説をはいている ヘラクレスのルーツはテュロスのメルカルト神で、 ヘラクレスは狂気から子供を火に投じるなど、モロクの儀式などに代表されるフェニキアの生贄の習慣が垣間見えるのだという
メルカルトはヘラクレスと同一視されたのは知ってるけど (アレクサンドロスがティルスの神殿に参拝しようとしたし) ルーツなのかな? ちなみにアルサケス時代には初期のフリ人に崇められ バビロニアの重要な神ともなったネルガルもヘラクレスと同一視された
そもそもヘラクレスの生国テーバイはフェニキアのテュロスの王子カドモスが建てた ギリシャに文字を伝えたのもカドモスだと神話は言う
つまりアレキサンドロスは父方の祖がヘラクレスとされてるのに テーベを叩き潰したことになるのか
カルタゴで大掛かりな人身御供が行われるのは市が危急に陥った時か大勝利を感謝する必要のある時に限られた 例えば前310年にアガトクレスがカルタゴの城壁に陣を敷いて圧力を加えて来た時には 良家の子供達200人が生贄に捧げられ また別の時、シチリア人に勝った後300人の捕虜が火の中をくぐらなければいけなかった だがこういう儀式のイメージをもっと暗くしたのは生贄の親族が祭壇の前で悲しみの情を表すことを厳禁されていたことである 涙一つ零しても溜息を一つ漏らしても犠牲の価値を減ずる結果になった カルタゴの勤行は恐ろしい非人間的規律の道場であった その厳しさは富裕で放縦に慣れた本国フェニキア人にはとてもついていけないものの様に思われた ギリシャ人がこういうことをやってのけた民族を陰気で危険な存在と見なした事に何の不思議もない この点ではローマ人の方が後年の敵をよく理解していた様に思われる
126 :
世界@名無史さん :2014/04/10(木) 22:12:55.49 0
>>123 >>124 そんでもって、そのテュロスを再起不能にまでぶっ潰したのが
アレキサンダー大王なんだよなww
これはもう自分のルーツを呪って
消し去りたかったんじゃないのか?
>>121 平底船は荷物がいっぱい積めて交易向きだったらしい
>>121 俺が適当にチョイスしたレヴァントの主要都市を北から挙げると
1.ウガリト → アナトリアの玄関
2.アルワド → 天然の良港
(アッカル平野) → カデシュ
3.ビュブロス → レバノン杉
(ベイルート)
4.シドン → ベカー渓谷(ダマスカス)
5.テュロス → 海外植民地(カルタゴ他)
6.メギド-ドル → イェズレル渓谷
7.エルサレム → トランスヨルダン
8.アシュケロン-ガザ → ペリシテ人
ってとこですかね?
矢印の先は後背地などを書いてみた
>>126 たしかにアレキサンドロスはヘラクレスに関係するテーベやティルスを壊滅させたけど
それはやはり父方の祖のヘラクレス、母方の祖アキレウスを超えようとしたためか?
いずれにしても容赦ないな
エーベルハルト・ツァンガーの本でもペリシテの都市エクロンとトロイアの平面図を比較して類似性指摘してたな(甦るトロイア戦争 P328・329) エクロンの工人などの区画整備や戦車を使う戦術など当時のユダヤ人よりは進んでいて 海の民は野蛮人の集団ではなく先進的な連中だったと唱える ツァンガーはドーリス人はバルカン半島からの侵入者ではなく、 トロイア戦争から帰還した連中が、留守の間権力握った連中に海に追い払われて それらが復讐の為に数十年後に逆襲したものがドーリア人の征服だと言うが、同民族の内乱で 文字すら失われる文化的打撃が生じるとは考えにくいので承服しがたい メディネト・ハブの壁画やタイルに描かれたペリシテ人は皆ガイル少佐みたいな髪型か被り物してる 着てるものは甲冑なのか服なのか判別しかねる ついでに 地中海には潮の満ち引きがない
131 :
世界@名無史さん :2014/04/11(金) 21:38:49.49 0
>>121 >>128 フェニキアの都市は主人、女主人という
神のカップルにより統治されていて
三大都市をそれぞれ挙げると
【テュロス】
男神:メルカルト
女神:アシュタルテ
【シドン】
男神:エシュムン → 医術の神アイスクレピオス へ
女神:アシュタルテ
【ビュブロス】
男神:バアル(フェニキア語で「主人」あるいは「頭」)
女神:バアラト(バアラト・ゲバル→ビュブロスの女主人) → アフロディーテ へ
メルカルトは西方の植民都市である、キティオン、カルタゴ、カディスでも確か信仰されてて
そんでテュロスの殖民都市だったカルタゴは
【カルタゴ】
男神:メルカルト
女神:タニト(タニト−アシュタルテ)
ということらしい。
ビブロス バアル・シャミンとバアラト・ゲバル シドン エシュムンとアスタルテ ティルス メルカルトとアスタルテ カルタゴはティルスの神々が後に バアル・ハモンとタニト(アスタルテの尊称の1つが独立化) あとメルカルトについて 「オリエントの世界の発展(世界の歴史4)」中央公論社から ウガリットのバアル神話にみられる死からの甦りの物語は自然界の再生をテーマとするが これはビブロスの若神アドニスの神話を生む一方、アルファベットとともにフリュギアに伝えられて アッティス神話の形成に影響を及ぼした。この若神はティルスではメルカルトと呼ばれ、 その英雄的行為のゆえに、ギリシアのヘラクレスと同一視された (フェニキアの項) メルカルトは人類を救済する英雄としての神話が伝えられている。フェニキア人の神々の歴史 において第5代目の神であり、生誕時には将来の英雄にふさわしく捨子伝説の主人公であった。 長ずるに及んでギリシアの英雄神ヘラクレスと同じく数々の功業を成し遂げるが、その中心 テーマは人類の救済であった。このようなメルカルト崇拝はアレクサンドロスの時代には、 フェニキアはもとより地中海域や地中海アジア全域に広まっていた (アレクサンドロスのティルスの項)
フェニキアは後進民族との物々交換が主で ギリシャやリュディアが貨幣を自前で鋳造したより300年ほど遅れて貨幣を作ったそうな もともと大した軍事力ももってなかったからギリシャ勢力が西地中海に進出してきた時フェニキアは傭兵に頼るようになる プルタルコスによるとティモレオンと戦った時は渡河の途中でフェニキアの名士が集まる部隊が襲撃され10万のフェニキア軍が1万のギリシャ軍に敗北 孫子みたいだね
134 :
世界@名無史さん :2014/04/12(土) 02:24:48.54 0
>>132 俺の出店はグレンEマーコウのフェニキア人なんだけど
そっちもバアル・ハンモン、別名「アマヌスの主」になってるな。
アマヌスとはウガリトの北の山岳地方である。とある
あと、ついでに
黒海と地中海の間の海流は
表層海流と深層海流の方向が逆転してるのだ
136 :
世界@名無史さん :2014/04/12(土) 13:59:01.50 0
>>132 「死と復活」はヒラム王によって
”メルカルトの目覚め”として国家的な祝祭になったらしい。
確かカルタゴから使者が春には本国を訪れるのが通例となってたはず。
アドニスに関しては
ギリシアの作家ルキアノスが、ビュブロスで毎年行われていたアドニス神の祭りのことを書いている。
ギリシア神話によればその神は、イノシシにに殺されて1年間を生の世界と死の世界で半分ずつ生きることを余儀なくされた若い狩人である。
アドニスという名前はセム語のアドンすなわち「主人か」アドナイ「私の主人」に由来するので、ビュブロスのバアル神と同一の神だった可能性がある。
とりあえず全般にウガリトの影響はかなり大きいようだ。
>>136 アレクサンドロスがティルスを攻略したとき、神殿にはカルタゴからの巡礼者も
いたみたいだし、いつごろメルカルト→バアル・ハモンに変わったんだろう?
138 :
世界@名無史さん :2014/04/12(土) 17:11:59.68 0
>>137 俺もちょっと気になった
たぶん、カルタゴの独立の頃を境に変ったんじゃないかと思ってるんだがどうだろうか?
カルタゴは本国メルカルト神殿への御布施という形で
植民地税を払っているんだけど、この辺りも関係あったりするのかな
神殿への御布施って部分は、ヘロデ大王の頃のユダヤ人を想起させるな 本国の生産力は低いけど、各地のユダヤ人コミュニティからの御布施を基盤として国が成立してたんで
140 :
世界@名無史さん :2014/04/12(土) 18:19:46.62 0
エジプト ミケーネ、ギリシャ アナトリア レヴァント メソポタミア この辺りが並べて比較できる年表とかないのかな? あるとこのスレ的にはかなり便利なんだろうが
141 :
世界@名無史さん :2014/04/12(土) 18:48:07.84 0
フェニキア人とギリシャ先住民は遺伝子上も外見上も大差ないだろ。
143 :
世界@名無史さん :2014/04/12(土) 20:46:23.94 0
「アマルナ文書」によるとシリア・パレスチナ地方は 前14世紀半ば頃にはエジプトの漠然とした3つの地域に組み込まれていた 第1の区域 【カナン】 アッコからベイルートに至るフェニキア南部の海岸 すなわちシナイ半島のエジプトの外れからパレスティナ全体を含む地域に含まれた。 第2の区域 【アプ】 今日のイスラエル北部とレバノン内陸部にあたり、 ガリラヤからベカー渓谷沿いに北上する地域はここに入った。 第3の区域 【アムルル】 フェニキア北部のビュブロスからアルワドに至る海岸平野 その辺りの中心が海岸とオロンテス川に挟まれたアッカル平野であり エジプト人が「ジャヒ」と呼んで、カナン自体の北の延長とみていたフェニキア南部の海岸地帯とは区別していたのは、 この北部海岸沿いであった。
さて、トトメス3世はレヴァント遠征のおり レバノン杉の材木がしかるべく蓄えられ、毎年エジプトへ出荷されるよう取り計らっており ビュブロスでスギの船を現地建造しユーフラテス川まで陸路を運んでいったという逸話が残っている。 奇妙なことにビュブロスから南の海岸都市のことは、トトメス三世やその直後の後継者達にまつわる話の中には1度も現れない。 事実テュロス、シドン、ベイルートも、前14世紀半ばの「アマルナ文書」に初めて登場するのである。
フェニキアの植民市にどうしてカルタゴとの中間くらいに位置する リビアのキュレネやアポロニアの土地に手をつけなかったんだろ? おかげでこの辺りはドーリス系植民市になってしまってんだけどさ
カルタゴ軍は軍事技術の面でディオニュシオスより時代遅れだった様に思われる ヒミルコは野戦に、馬に牽かせた戦車を動員したが、これは例えば今日の騎兵の様に当時既に時代遅れだったのだ 彼が第二回目のシチリア遠征に出発した時、カルタゴで400台の戦車が船に積まれた 従って、彼が密集して突進する所謂ホプリテース、即ちギリシャ重装歩兵に対して、戦術的に軍団を編成して当たる事が出来なかったのも不思議でない 彼の率いる混成の傭兵軍は、例えばフリードリヒ大王時代ののプロイセン軍に相対した中世の傭兵段の様な印象だったに違いない カルタゴ軍がそれにも拘らず再三に渡ってディオニュシオスの部隊を破ったのは、 まさに自殺的な勇敢さ、もしくは職業的傭兵が、引っ張り出された市民兵よりも豊富に持っている戦争経験の結果としか考えられない ただ海上でだけポエニ人は技術的にも戦術的にも依然として文句無く優勢であった
149 :
世界@名無史さん :2014/04/13(日) 20:53:16.38 0
>>133 貨幣の発行もちょろっと載ってるんだが
硬貨に採用されてるモチーフに馬が多いんだよね
著者も不思議がってた
151 :
世界@名無史さん :2014/04/13(日) 22:45:29.56 0
>>144 【テュロス】
テュロスに初めて人が住み着いたのは青銅器時代初期か前3千年期の初めであることが
1974年にパトリシア・ビカイが行った深いサウンディング調査で明らかにになっている。
これはこの都市が紀元前2750年頃に建設されたという伝説とも一致する。
その最初の居住地は5百年かそれ以上存続したかもしれないが、明らかに放置されている。
青銅器時代初期の地層の上にただの砂の厚い層(1m以上)が乗っており、
青銅器時代中期(前2000〜1600年)がまるまる含まれるほどの長い無人の期間があったことがわかる。
ビカイの発掘で確認されたように、
テュロスは青銅器時代の後期の初頭、あるいは前16世紀に「再発見」され、ときおり人が訪れるようになるが、
長いあいだ住人があったりなかったりのところに過ぎなかった。
ようやく永久的な集落ができたのが、考古資料から判断して前15世紀の終わり。
そして前14世紀の半ばには、いろいろな面で都会的発展を遂げている。
ちなみにwikipediaでは以下のようになってる
紀元前2500年、ビブロスやベイルートと共に、フェニキア人の都市として成立。 紀元前11世紀から紀元前9世紀に最盛期。ティルスの植民都市としてカルタゴを建設。
紀元前9世紀から紀元前8世紀にアッシリアの強大化によって勢力を失い、他のフェニキア諸都市と同様にアッシリアに従属する。
152 :
世界@名無史さん :2014/04/14(月) 00:09:25.24 0
>>145 本土と目と鼻の先のキティオンでも
フェニキア人が初めて植民地をつくったのは
その都市の考古資料と碑文からみて前9世紀半ばごろ
しかしキプロス島は前11世紀ごろには重要な貨物集散地として機能していたそうだ
そんでもって前8世紀の終わりには自治を獲得している
キプロスはサラミス、キティオン、パフォス等ギリシア系植民市が 後々フェニキアのに取って変わられたの? つまり先に進出していたのはギリシア系?
154 :
世界@名無史さん :2014/04/14(月) 01:09:54.49 0
>>153 青銅器時代後期のキティオンはキュプロス島の重要な集落だったが、
フェニキア人が入植する前は150年ぐらい放棄されている
もう一つフェニキア人のコミュニティがあったのは、
原住民の町があった南部海岸のアマトゥスの港である。
とのこと。
という訳で普通にギリシア人の方が先なんじゃないのかな。
ウナモン航海記だと海の民の一派チェケル人がキプロス(アラシヤ)に勢力を張っていた
チェケルはその名からテウクロス、(トロイアの祖の名前)でトロイア人と同じという説が wikiだったか
そもそも海の民の侵攻はヒッタイトがカルケミシュの銅山を奪われた仕返しに
アッシリアに対して経済封鎖する為にアムルとキプロス島を占領したことで
地中海との交易路を絶つ貿易摩擦が理由だと、俺は勝手に考えているよね。
カラ・テペ碑文にあるムプシュ王家はトロイア戦争を離脱してキリキアに殖民したモプソスの子孫だと考えたい
カラ・テペ碑文に登場するダヌヌ人とはダナオイ、即ちギリシャ人なのだそうだが
ムプシュ王家のアダナの住民とダヌヌは葛藤を持ちながらも共存しているようにも見える
エジプトのタイル板だとペリシテ人(ロトの勇者みたいな髪型したヤツ)は肌の赤い姿で表現されてるのでギリシャ人とは近しい種族には見えないね
ヒッタイト人、アモリ人、ミタンニ人、カナン人は肌は黄色っぽく、ヌビア人は真っ黒の肌で表現されている
http://realhistoryww.com/world_history/ancient/Misc/Common/Egypt/Corpus.htm
>>155 うーん、発端がなんにあったにせよ
結果はその後悔記にあるように
エジプトのレヴァントへの影響力の失墜だかんね
157 :
世界@名無史さん :2014/04/14(月) 02:42:05.70 0
158 :
世界@名無史さん :2014/04/14(月) 18:52:44.73 0
>>155 とりあえず、該当箇所を抜き出すけど「海の民」には触れてない。
こうしてフェニキアをも潤していたメソポタミア内陸交易(アッカル平原→ユーフラテス経路)に、
前13世紀の半ば、支配力をめぐる変化が起きた。
その時代の文書によると、アムルルの商人と手を組んだヒッタイトが、アッシリアの商路妨害をはかったのだ。
アッカル平野を通れなくなったアッシリアは、当時バビロニアを支配していたから、代わりの道を南に求めた。
ユーフラテス川からタドモル(パルミュラ)とダマスカスを経由し、ベカー渓谷を通ってレバノン海岸へ出るルート。
この南への通商路の移動によって、フェニキア南部の海岸都市が、まさに通称の要になるのである。
この後はビュブロスに代わってシドン(テュロス)が台頭してくる。
159 :
世界@名無史さん :2014/04/14(月) 19:25:42.45 0
やはり地中海世界の起源はギリシャだったか
160 :
世界@名無史さん :2014/04/14(月) 22:37:12.33 0
>>145 カルタゴより東の北アフリカ海岸へフェニキア人が商いに来ていたかどうかについては、考古資料が極めて乏しい。
その辺りに関しては、航海上の現実的な問題が大きかったかもしれない。
北アフリカの沿岸にはジブラルタル海峡からポート・サイドへ向かって西から東へ強い海流が流れており、
エジプトからカルタゴへ海岸沿いに航海するのは著しく困難であった。
そのうえシルティスと呼ばれるリビア中部の不毛な480kmの海岸線を行くあいだは、
叩きつけるような強風と、危険な浅瀬と、視界の悪さに悩まされる。
そういう苦労をするくらいなら、東の本土からカルタゴやその向こうを目指すフェニキア人の船乗りは、
きっと外洋をまっすぐ西へ進むコースを選んだだろう。
ちなみにポエニ人は利用してるので地理的な問題だったんじゃないだろうか。
フェニキア人の有名な植民地はハドルメトゥムとレプティス・マグナらしいが、
カルタゴから人が来るまであまり積極的に利用されなかったようだ。
アフリカ周航やギニア湾、タルテッソス、ブリテン島の航路を知っていたフェニキア人だが カルタゴが滅んだ後ローマはヘラクレスの柱より西のの航路に手をつけなかった ゲルハルト・ヘルムはその航路の情報をカルタゴ人は墓の下まで持っていったというが ローマ支配を逃れて地中海外で活躍したフェニキア人は居なかったのだろうか 他にもポエニ都市はあるのだから全滅したわけでもあるまいし
163 :
世界@名無史さん :2014/04/15(火) 02:44:14.52 0
>>133 フェニキアが海外に植民地を持つ動機となったのが
ギリシャが商売地で次々と植民地を建設して
ここ俺のもんって言い出したかららしい
それまで原住民と仲良くやっていたフェニキア商人は商売しづらくなるから
防衛的な対応として重要な都市を植民地としただけで
交易自体はそれ以前から存在しているので単純に遅いって訳ではない
そんでもって、貨幣を鋳造するようになったのは
ギリシャ商圏で商売しやすいように貨幣を発行したようで
最初はシチリア島の西部モティアやパノルムスといった都市で
重量基準はアッティカ−エウボイア式が採用されたようだ
164 :
世界@名無史さん :2014/04/15(火) 22:01:12.58 0
>>161 ちゃんと調べた訳じゃないので憶測だが
著者は本土フェニキア人と西方ポエニ人を別けて記述してるんで
カルタゴの植民地だったりするんじゃないだろうか?
165 :
世界@名無史さん :2014/04/15(火) 22:03:32.49 0
>>155 その説だとヒッタイトは
傭兵の賃金かなんかの労働争議の末に倒れたってことになるのかな?
>>162 ガラマンテスは砂漠の海を越えたフェニキア人だったか調べてみてくれないか?
167 :
世界@名無史さん :2014/04/16(水) 22:26:47.29 0
>>50 トロイア戦争
ミュケナイ
ミノア文明
エトルリア
海の民
ヒッタイト侵入
フェニキア
バアルとダゴン
ギルガメシュ叙事詩
ゴールデンフリース
アフガンはちょっと離れすぎか
うーん、どれやるか
168 :
世界@名無史さん :2014/04/16(水) 22:51:48.63 0
>>109 あら、ドルは別モノか
そうするとチェケル人はペリシテ人と明確に区別されるんだな
169 :
世界@名無史さん :2014/04/17(木) 01:21:10.83 0
171 :
世界@名無史さん :2014/04/17(木) 20:49:22.21 0
>>170 別に否定するつもりはないので気を悪くしないで聞いて欲しいんだが
アフロディーテの起源も複数あって、まだどれが絶対ってのはないはず。
タニトに関しては、おそらくアスタルテっていうのは間違いないんだろうけど
習合や起源に関しては、それとはまた別問題なのだ。
ところで発掘でわかったのってなんだろうな。
タニトの印と碑文(アルファベット)が同時に見つかったとかかな?
172 :
世界@名無史さん :2014/04/17(木) 21:00:57.06 0
>>151 カルタゴはテュロスに起源を持つことははっきりしている。
そしたら、テュロス人は何処から来たんだろうか?
人が継続して活動を続けていたフェニキアの都市はビュブロスなんだけど
カルタゴ人はビュブロスではなく、ウガリトにより近い神様を信仰することにしたようだ。
もしかして、これはテュロスの起源がウガリトにあることを示していたりしないのかな?
>>155 >>168 とりあえずwikipediaだと、
チェケル人は世紀末にバギーに乗ってそうな容姿で説明されてるなぁ。
>>171 確かに習合や出自は分りにくいよね
でもアテナやアフロディテ、アナトやアスタルテの大本は
戦闘女神であり美の女神であり大地母神でもあるイシュタルになるんじゃないの?
あと地球の歩き方のリビアでレプティス・マグナを見てて思ったんだけど
メドゥーサは、リビアからギリシアにもたらされたのかな?と
怖い顔のもあるけど美人さんなのもあったりしてさ
それともクレタのクノッソスの蛇女神が原型?
175 :
世界@名無史さん :2014/04/17(木) 22:07:35.08 0
>>131 あ、これ貼るの忘れてた
ArcheoNews:アルケオニュース 世界の歴史・考古学
http://www.archeonews.net/2012/03/blog-post_29.html 2012/03/29
古代ギリシアの医学の神アスクレピオスの聖域を発見
ギリシア中央部の高速道路建設に伴う発掘調査で、古代ギリシアの医学の神、アスクレピオスの聖域が発見された。
遺跡はアテネから北へ200km、古代の港街ダフノウンタ(Dafnounta、現在のラミア市付近)の近郊に位置している。
アスクレピオスの像(ナポリ国立考古学博物館所蔵)
紀元前5世紀に年代づけられるもので、アスクレピオスの祭祀に関わる遺跡では最古級のものであり、これまでギリシアで発見されたものの中では最も保存状態が良いそうだ。平面の規模は30m×15mある。
遺跡は2005年から2007年に行われたパトラス−アテネ−テッサロニキを結ぶ高速道路建設の際に、存在が確認されていた。
ギリシアの歴史家ストラボンは紀元後1世紀にこの地を訪れ、記録を残している。
アスクレピオスの聖域とされた根拠は、ヘビ形の供物と宝石、アスクレピオスの名前が書かれた土器片が発見されたことである。
アスクレピオスは太陽神アポロンの子であり、ヘビが巻きついた杖を持っていた。
このアスクレピオスの杖は今でも世界的に医学の象徴となっている。
聖域はちょうど高速道路の建設予定場所にあるため、石は1つ1つクレーンで取り上げられ、近傍に移設されている。
調査を主導している考古学者Maria-Fotini Papaconstantinou氏は、発掘について「時間との戦い」と述べている。
調査には期限が決められており、遺跡にブルドーザーが入る前に遺構や遺物の記録と移動を終えなければならない。
「本来は2年かかるところを、6か月でやっている」とPapaconstantinou氏は語っている。
177 :
世界@名無史さん :2014/04/17(木) 23:01:27.75 0
178 :
世界@名無史さん :2014/04/17(木) 23:09:14.30 0
>>174 メドゥーサは全然知らない。
島の場所と名前って比定されてたっけ?
っと、いま見たらかなり面白かったので、そのうち調べよう
179 :
世界@名無史さん :2014/04/17(木) 23:23:43.07 0
>>19 >>168 ほんとに同意してるんだろうか、、、
http://en.wikipedia.org/wiki/Zakros The town was dominated by the Palace of Zakro, originally built around 1900 BC, rebuilt around 1600 BC,
and destroyed around 1450 BC along with the other major centers of Minoan civilization.
Extensive ruins of the palace remain, and are a popular tourist destination.
[Diod.3.52] 次に昔リビュアの奥地に住んでいたアマゾン族の歴史について語ろう。 多くの人は、アマゾン族はポントスの地を流れるテルモドン河周辺に住んでいたのだけだと思っているが、実際はリビュア奥地のアマゾン族の方が歴史が古い。 リビュアのアマゾン族はトロヤ戦争が終結する何世代も前に滅び去ってしまったから、 今日ほとんどの人はリビュアのアマゾン族のことを知らない。 当時リビュアには多くの好戦的な女性種族が住んでいた。 アマゾン族は世界征服を狙って、ケルネソスの町より出でて 高度な都市文明を有したアトランティスの地に攻め込んだ。 アマゾン族の女王ミュリナは3万人の歩兵、3千人の騎兵を率いて 抵抗するアトランティス人のケルネの町を占領すると、老若男女を問わず殺戮した。 そこで他の都市のアトランティス人は、アマゾン族に降伏し、占領を受け入れた。 その代わりアトランティスを襲うというゴルゴン族を倒すことを依頼した。 アマゾン族はゴルゴン族との戦いに勝利し、3千人以上の捕虜を獲得したが、 ゴルゴン族は森に逃げ込んだ。女王ミュリナはゴルゴン族を滅ぼすため 森に火を放ったが、成功せず、一旦国境まで退却した。 アマゾン族の夜の監視が手薄になっていたところで、 捕虜のゴルゴン族の女性達が反乱を起こしたが、全員殺された。 女王ミュリナは死んだ仲間を三箇所で火葬し、三つの墓を造った。 今日その地はアマゾン塚と呼ばれる。 ゴルゴン族は後に勢力を増したが、ゴルゴン族の女王がメデュサの時、 ゼウスの息子のペルセウスによって征服された。やがてゴルゴン族、アマゾン族は ヘラクレスよって滅ぼされ、彼はその時リビュア(アフリカ)の地に二本の柱を立てた。 人類のために女性が支配する国家を今後も倒すという決意を表明したのである。 また湿地の上のトリトニスの町は地震によって崩れ、大洋の下に消えたという。
どっかの過去スレのディオドロスの私訳から抜粋コピペ
どうもありがと
184 :
世界@名無史さん :2014/04/19(土) 08:33:29.21 0
ギリシャ人は海や川のある場所には強いが、 内陸の平原や山地はイマイチなのかなあ。 アレクサンダーが中央アジアを突っ切っていたら面白かったのに。
185 :
世界@名無史さん :2014/04/19(土) 09:31:27.64 0
さて、ペリシテ人といえば ダゴンの神殿と契約の箱なんだが この信仰は ずっと東の内陸からもたらされたのか それとも海沿いに伝わったのか あるいは彼らが故郷から連れてきたものが いつの間にか習合されてしまったのか
186 :
世界@名無史さん :2014/04/20(日) 02:07:10.83 0
>>180 あの辺りって森はあるのかな?
どんな感じなんだろ
森林資源が豊富ならエジプトが食指を伸ばしそうなもんだけどね
187 :
世界@名無史さん :2014/04/20(日) 10:15:35.39 0
今では赤い大地と呼ばれる荒野 ところでベルベル人は自称アマジグ族といってアマゾンと語感が似てるよね
>>180 ほほう
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/scytobrachion2.html 第5章 リビュア地方の自然と神話
第2節 リビュア・アマゾネス
(4) 故郷は湖中の島
神話作者によると、女人族が住んでいたのは島で、これが西寄りにあることから「へスペラ(西方の)」と呼び名がつき、トリトニス湖中に位置していた。
湖は大地を囲む大洋オケアノスに近く、この呼び名はトリトンという名の川がひとつ、湖中へ注ぐところから来た。湖はエチオピア地方と大洋オケアノス沿いの山脈に近い。
山はこれらの地域内で一番大きく、大洋オケアノスに向けて突き出し、ギリシア人はアトラスの名で呼ぶ。
(5) 今あげた島はひじように広く、あらゆる種類の果樹に溢れ、地元ではこれらの巣実から食料を得ている。
島には家畜も多く、山羊と羊で、飼い主たちはこれらの家畜から乳と肉をとって、食用に供している。
この部族は総じて穀類を利用しないが、これは、自分たちの間でこの果実が不足する目に遭ったことが、これまで一度もないことによる。
(6) 最初の戦
アマゾネス族は群を抜いたカを持ち、戦に出かけると、最初に島内の諸市を「メネ」だけ残して破却した。
この市は神市と見なされていて、そこに住みついていたのがエチオピア族系の「イクテュオパゴイ(魚喰い)」族であった。
島には大きな噴火口があり、貴石がたくさんに出て、これらをギリシア人はルビー、紅玉髄、エメラルドと名づけている。
つぎに、近隣のリピュア族や遊牧民の大半を相手に戦って破り、
トリトニス湖内に大規模な市ひとつを建設し、その地形に因んで「ケロネソス(半島)」市と命名した。
>>186 >>187 >>188 ギリシャの森林資源の衰退を扱った著作は
「文明崩壊」かと思ってたが違ったな
「土の文明史」と「天からの洪水」だったはず
古の森が世界遺産になってたと思ったが、これも違うようだ
女王はリビュアを旅し、アイギュプトス(エジプト)の王であった、 イシスの息子ホルスと同盟を結んだ。そしてアラブ族と戦争し、 その多くを殺してシュリア(シリア)を支配した。 キリキア人が降伏した時は、女王は彼らを自由にした。 更にタウルス山中を平定し、カイコス川周辺を手にした。 ミュリナは支配した地域に自分の名前を冠した町を建設したほか、 部下の名前にちなんだ町、キュメ、ピタニア、プリエネなどを建てた。 これらの町の大部分は海沿いに立てられたが、内陸にも都市を計画した。 彼女はレスボス島を征服し、彼女の妹にちなんでミテュレネという町を建てた。 その後嵐に襲われ、神々の母に祈りを捧げたところ、見知らぬ土地に流れ着いた。 そこをサモトラケと名付けた。これはヘレネ(ギリシャ)の言葉で聖地を意味する。 但しそれ以前からサモスと呼ばれていたとも、トラキア人によってサモトラケと 名付けられたともいう。神々の母は、この島にある人々と彼女自身の息子達を住まわせ 聖地とした。この島は今日、女神の夫の名前にちなんで、コリュバントと呼ばれる。 やがて、トラキア人の王リュクルゴスによって故国を追放されていたトラキア人の モプソスが、亡命した男達を率いてアマゾンの地に侵略した。 トラキアの隣の地であるスキュティアより同じように追放されたスキュティア人の シピュロスも従軍していた。シピュロス・モプソス連合軍がミュリナ軍に勝利し、 ミュリナは大軍を失った。トラキア人は勝利を重ね、生き残ったアマゾン族は、 リビュアへ逃げ帰った。以上がリビュアのアマゾン族の話である イリアスでミュリナの塚という場所が登場するので アマゾン軍が敗れたのは トロイア辺りだったと俺は考える トラキアの亡命王モプソスはルウィ族かアルザワの地方を支配していたマプシュイルワ、 スキタイ亡命王シピュロスはヒッタイト王シュッピルリウマ1世のことと俺は考えているが 全く根拠はない 俺のただの妄想なのであった
192 :
世界@名無史さん :2014/04/21(月) 18:23:01.77 0
>>190 ギリシャ本土に、山の表側は浸食されてるけど
裏側には手付かずの森林が残ってる地域があるはずなんだけど
ちっと調べたけど、巧く引っかからなかった
確かそこ以外の大きな森は殆んど伐採されてしまってて
酷い土壌の流失でかなり人口減少してたはず
その後オリーブやブドウなんかの栽培に切り替わったんじゃなかったっけ?
193 :
世界@名無史さん :2014/04/21(月) 18:27:35.43 0
>>189 エチオピア族ってのは
アフリカに住んでる人の全体を表す言葉なんだっけ?
それともヌビアの辺りのごく限られた地域だったり
もしくは黒い肌を持つ人はみんなそう呼ばれるとか?
195 :
世界@名無史さん :2014/04/21(月) 23:09:49.33 0
>>194 めんどうなのにありがとう
たぶんTatosの森の方だ
ただ、昔どこかに書き込んだんじゃないかと思って
名前を探してたんだがそれもなかったよ
記憶が曖昧すぎて申し訳ない
ギリシャの土地荒廃は複数回やってるぽいので
今度ちゃんと調べてみようと思う
196 :
世界@名無史さん :2014/04/21(月) 23:33:08.30 0
>>191 カイコス川で検索するとこれが引っかかるね
ミュシア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%A2 地理[編集]
ミュシアの山々では、北部のオリンポス山(標高2543m。トルコ名:ウル・ダー、ウル山 Uluda?)およびイダ山(標高1774m。
トルコ名:カズ・ダー、カズ山)と、ミュシアとリディアを分け、アドラミュティオン湾(現エドゥレミット湾)付近まで伸びる南部のテムノス山(現Demir Da?)があった。
北部の主要な河川には、ともにリディアを源流とし、プロポンティス海から約24kmのところにあるアポロニア(Apollonia)の湖で合流する、
マケストス川(現Susurlu Cay)、リュンダコス川(リンダクス川、Rhyndakos、現Adirnas Cay)があった。
南部のカイコス川(現Bak?rcay)はテムノスを源流とし、ペルガモンを通って、西のエーゲ海に流れ込んでいた。
北部には東と西からマケストス川に注がれる、2つの大きな湖Artynia(またはApolloniatis。現Abulliont Golu)、Aphnitis(現マニヤス湖 Manyas Golu)があった。
197 :
世界@名無史さん :2014/04/22(火) 21:01:31.12 0
ギリシャの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 によると、
中青銅器時代[編集]
ギリシャを襲った災厄の後、ギリシャ本土やエーゲ海では初期青銅器時代からの文化伝統が断ち切られており、
災厄に襲われなかったクレタ島ではその継続が見られるなど、明暗がはっきりとしている。
ギリシャ本土においては集落が激減、文化的後退を見せたと考えられており、大規模な建築物が見られなくなっている。
また、この時代には灰色磨研土器「ミュニアス土器」や、中期青銅器時代の幕開けとなる「鈍彩土器」らがあるが、いずれも前後の時代と比べると創意が乏しい。
このことから、古代ギリシャ語を話す民族がギリシャに至り、定住したと考えられる。
一方、クレタ島では大規模な建築物としてクノッソス宮殿が生まれ、また「カマレス土器」のような鮮やかな彩色がされた土器や優れた工芸品が生まれており、クレタ島を除くエーゲ海の島々を文化圏に取り込んでいた。
宮殿は中青銅器時代後期に起きた地震により、被害を受けたが規模を拡大して再建されている[24]。
クレタ島における初期段階(第一宮殿時代、もしくは古宮殿時代、旧宮殿時代とも)についてははっきりした部分も少ないが、
発見されて以来、研究が進んでいるクノッソス宮殿を元とすれば、この宮殿は巨大な力を持った権力者によって建設されたと想像されてはいる
。しかし、その開放性や前1780年ごろに発生した地震・天災より破壊されたがすぐに再建されていること、城壁が存在しないことから、住民らの合意で建設されたと想像されている[25]。
このミノア文明におけるクノッソス宮殿を中心とした他の宮殿において、巨大な貯蔵庫が構築されており、再分配システムの中心を成していたと考えられている。
この再分配システムは通常、首長制の中で見られるものであり、定住型農耕社会と国家との間に現れるものであることから、
ミノア文明では強力な王権が存在したのではなく、首長制社会の典型例として考えられている[26]。
>>198 ミノア文明[編集]
ミノア文明における再分配システムでは物資の管理を行うために「線文字A」と呼ばれる文字体系が確立された。
また、このシステムにより、各種の精巧な工芸品が生まれており、土器もこれまでのカマレス土器に変わって美しいものが生まれ始めた。
前1700年から前1500年頃にミノア文明は頂点を迎え、ケア島やミロス島、サントリーニ島などまでその文化圏が及んでいたと考えられ、
特に前1628年のサントリーニ島の爆発[# 6]により埋没したアクロティリはこの時代の情報を多く伝える貴重な存在と化している[30]。
エジプトにおいてもクレタ島を起源とする土器が発見されており、新王国時代の墓ではファラオに朝貢するクレタ人(ケフティウ)の絵も存在する。
さらにユーフラテス河畔でも確認されており、ミノア文明の活動範囲がかなり広がっていたと考えられている[30]。
また、このアクロティリには多くのフレスコ画が見つかっており、華やかなミノア文明を現在に伝え、
その中でもナイル川を描いたと思われるフレスコ画も発見されており、ミノア文明がエジプトと交流していたことも想像されている。
その証拠にエジプトにおいてもクレタ島を起源とする土器が発見されており、新王国時代の墓ではファラオに朝貢するクレタ人(ケフティウ)の絵も存在する。
さらにユーフラテス河畔でも確認されており、ミノア文明の活動範囲がかなり広がっていたと考えられている[30]。
さらに『フライパン』と呼ばれるなべ型の器や『キクラデスの偶像』と呼ばれる大理石の像があるが、これはオリエントにおける多産や豊穣を祈願したものでなく、
白い大理石が磨き上げられたものでオリエント文明とは異質な独自の文化を持っていたことが考えられている[31]。
>>199 後期青銅器時代[編集]
(略)
ミケーネにおける宮殿はクレタ島の開放的なものとはちがい、「メガロン」と呼ばれる王の間を中心にしていることから、王への権力集中が進んでいたと考えられている。
テッサリアのイオルコス、ギリシャ中部のオルコメノス(英語版)やテーバイ、アテナイ、アルゴス平野のミケーネ、ティリンス、ミデアなどに小王国が存在していたと考えられ、
その中でもペロポネス南西部のピュロス王国(英語版)については研究が進んでいる[35]。
特にこのピュロス王国ではアメリカ合衆国の学者カール・ブレーゲンが発掘した際に「線文字B」が描かれた粘土板を発見、後にイギリスのアーサー・エヴァンズがこれを解読することに成功することができた。
この線文字Bの解読により、ミケーネ文明の人々がインド=ヨーロッパ語族に属し、さらに王国における日常業務が明らかにされることとなった[36]。
ピュロス王国には合計で16の行政区を持っており、それぞれに長が置かれ、それを王が統括したと考えられている。
そして王の名称が「ワナックス(英語版)」(線文字B: ?????? - wa-na-ka、アナックスとも)[37]と呼ばれていたが、これは神に近い存在というニュアンスが含まれており、これは西アジアからの影響と考えられている。
さらに粘土板には公有地や私有地が存在しており、外国から連れてこられた女奴隷が働き、ポセイドンやポトニア神へ祭祀を行っていたことが記載されている。
これらのことが全てに当てはまるとは言えないが、当時の社会を表していると考えられている[38]。
一方、それまで独自の発展を告げていたクレタ島は崩壊を遂げるが、これはミケーネ文明の人々による侵略が考えられている[# 8]。
このような侵略により、ミケーネ文明は後青銅器時代中ごろから後半までに(後期ヘラディックIIIA期)までに
ギリシャ本土、クレタ島、エーゲ海を覆い尽くし、さらにはシチリアや、キプロスにまで及び、ヒッタイトやエジプト新王国と肩を並べる存在であった[40]。
>>201 以前からこれを参照してるけどさ、アルジェのイコシウムの隣のIolが
現在地のどこを指すのか分らないし、読み方も分らない
フェニキア時がイオルでローマになるとカエサレア(現シェルシェル)
ってことでいいのかな?
203 :
世界@名無史さん :2014/04/23(水) 21:01:13.63 0
線文字(せんもじ)
線文字A - 紀元前1450年以前にミノア文明で使用されていたと推定される文字。未解読。
線文字B - 紀元前1450年から紀元前1375年頃まで、ミケーネ文明で使用されていた文字。マイケル・ヴェントリスとジョン・チャドウィックによって解読されている。
線文字Aはおそらくセム語系
線文字Bは印欧語
で、年代は
http://en.wikipedia.org/wiki/Linear_A Chronology[edit]
See also: Chronology of Linear B
Linear A was a contemporary and possible child of Cretan hieroglyphs and the ancestor of Linear B.
The sequence and the geographical spread of Cretan hieroglyphs, Linear A and Linear B,
the three overlapping, but distinct writing systems on Bronze Age Crete and the Greek mainland can be summarized as follows:[8]
Writing system Geographical area Time span[a]
Cretan Hieroglyphic Crete c. 1625?1500 BC
Linear A Aegean islands (Kea, Kythera, Melos, Thera), and Greek mainland (Laconia) c. 1800?1450 BC
Linear B Crete (Knossos), and mainland (Pylos, Mycenae, Thebes, Tiryns) c. 1450?1200 BC
これは意外と知らなかった
やっぱ年表が欲しいな
しょうがないから
>>142 さんのやつを元にして、自作するかなぁ、、、
地図はグーグルマップで作ったの持ってるんだけど編集能力がないww
>>204 さて、とりあえずできたけど
だいぶ情報が足りないな。
各地域別で詳細なやつから拾ってくしかないね。
アルファベット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88 現在の研究で知られている最初のアルファベットは、紀元前1700年〜紀元前1500年頃に地中海東部の沿岸地域で発達したと一般に考えられている。
このアルファベットは北セム文字と呼ばれ、楔形文字とヒエログリフを組み合わせてできたものであるが、
クレタ文字やヒッタイト文字のような類縁関係にあるアルファベットから採られたものもあるようだ。
北セム文字には子音をあらわす文字しかなく、単語の中の母音は補って読まなければならなかった。
紀元前1000年頃に北セム文字が、南セム文字、カナン文字、アラム文字、ギリシア文字の4つの系統に分かれたと考える学者は多い。
ただし、南セム文字だけは北セム文字とは独立に発達したか、両者が共通の祖先から発達したのだという説もある。
南セム文字は、アラビア半島でかつて用いられていた諸言語や、現代のエチオピアの諸言語のアルファベットの起源である。
210 :
世界@名無史さん :2014/04/24(木) 00:09:20.64 0
フェニキア文字
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2%E6%96%87%E5%AD%97 親の文字体系
まず、エジプト神聖文字(ヒエログリフ)から原シナイ文字が生じた。紀元前1500年頃からシナイとレバントで、恐らく初期西セム語(英語版)の話者が用いるようになった。
それがカナンで紀元前1400年頃から原カナン文字へと発展し、カナン語 (北西セム語) の表記に採用された。
系譜(俺編集)
フェニキア文字の原カナン文字は連続性が強い為、違いは字形や年代だけなので、
便宜的に紀元前11世紀半ば以降の物をフェニキア文字と呼んでいる。
音素文字の拡散
知られている最古のフェニキア文字による碑文はアヒラムの墓碑銘と呼ばれ、アヒラム王の棺に刻まれている[3]。
フェニキア人による音素文字の採用は非常な成功を収め、様々な変種が地中海で前9世紀頃から採用された。
さらには、ギリシア文字、古代イタリア文字、アナトリア文字、イベリア文字へ発展していった。その成功の理由の一つは、音声的特徴にあった。
フェニキア文字は一つの記号で一つの音を表す文字体系としては、初めて広く使われたものである。
当時使われていた楔形文字やエジプト神聖文字等の他の文字体系では多くの複雑な文字が必要で、学習が困難であったのに比べて、この体系は単純だった。
この一対一方式のおかげで、フェニキア文字は数多くの言語で採用されることになった。
フェニキア文字が成功したもう一つの理由は、音素文字の使用を北アフリカと欧州に広めた、フェニキア商人の海商文化であった[4]。
実際、フェニキア文字の碑文は遥かアイルランドにまで見つかっている。
フェニキア文字の碑文は、ビブロス (現レバノン) や北アフリカのカルタゴのような、かつてフェニキアの都市や居留地が多数あった地中海沿岸の考古学遺跡で発見されている。
後にはそれ以前にエジプトで使われた証拠も発見されている[5]。
文字は元来尖筆で刻み込まれていたので、殆どの形状は角張って直線的であるが、より曲線的な物が次第に使われるようになり、ローマ時代北アフリカの新ポエニ文字へと発展していったと後に証明された。
フェニキア文字は通常右から左に(右書き)書かれたが、牛耕式で書かれた文章もある。
211 :
世界@名無史さん :2014/04/24(木) 00:22:51.38 0
北シリアのウガリトでは楔形文字が盛んに使われていたが、前14世紀の半ばかその少し前、その書き方にカナンのアルファベットの書き方が応用された。 なんと楔形文字がアルファベットの原理を使って書かれるようになったわけだ。 当時のスペリングの教科書をみると、全部で30個の楔形文字が、後のフェニキア式の並び順とだいたい一致するような順番に並べられていたことがわかる。 (略) ビュブロスでは前2千年紀、120個ぐらいの記号からなる音節書記法の「擬似ヒエログリフ」が使われていた。 正確な年代はわからない。 前18〜17世紀とする説が以前から出されているが、前2千年紀後半の、 たぶんアルファベットが採用される直前の時期まで使われていた形跡もある。 解読は何度か試みられているが、まだ成功していない。
212 :
世界@名無史さん :2014/04/24(木) 01:21:45.50 0
>>174 そういえば、ロドス島のドラゴン伝説って知ってる?
http://curragh.sblo.jp/article/87410696.html とりあえず、ここのサイトしか引っかからなかったけど
ネタ元は一緒です。
(以下、抜粋)
そして後半に紹介されていた、ロードス島にいたドラゴン vs. ヨハネ騎士団騎士デュードネ・ド・ゴドンの一騎打ちの話( 時は第一回十字軍遠征のころ。
ほんらいヨハネ騎士団はエルサレムの巡礼者を守護するために組織された騎士修道会だったらしい )。
ちなみに色々と年代と名称が合わない気がするんだけど
これは面白い話に繋がっていけるのだろうか?
213 :
世界@名無史さん :2014/04/24(木) 01:35:38.08 0
214 :
世界@名無史さん :2014/04/24(木) 05:07:37.28 0
>>100 >>191 なるほど
ちなみに俺はトラキアからきた
アナトリアの王様というとミダス王が思い浮かぶ
ギリシアがトルコのボドルムに築いた植民市ハリカルナッソスは
ドーリス系かイオニア系かどちら? 本によって違うから困る
「NHKスペシャル文明の道3 海と陸のシルクロード」で
木村凌二はイオニア系としていた
>>170 の下の本や吉川弘文館の世界史年表・地図などではドーリス系
216 :
世界@名無史さん :2014/04/24(木) 23:12:33.02 0
>>132 メルカルトの捨子伝説って気になるな
いろいろな文書に語られる地域的なバアル像を総合すると、
嵐の最高神とフェニキア神界の首領という二つの性格が浮かび上がる。
(中略)
嵐の神なら当然ながら、地方版のバアルの多くは神聖な山や岬と結びついている。
(中略)
サポン山(いまのシリア北部のアクラ山)は、その嵐の神の本拠地だった。
ウガリトの神話では、その山に宮殿のような住まいがあった。
シリア海岸を見晴らす海抜1700mのその山は、
カルメル山やテュロスの南のナクラ岬(おそらく「岬の主人」という意味のバアル・ロシュの縄張り)
と並んで明らかに船乗りのランドマークだった。
ちなみにバアル・シャメムとバアル・サポンが嵐の神として、沖ゆく船をおどかしている。
テュロスとアッシリアの海事条約で、違反者の船を難破させる役目を頼まれているのである。
「その船の上に邪悪な風を放ち、帆を引き裂き、マストを持ち去らんことを・・・・・・」
それはどこの文献から? H.クレンゲル著、五味亨訳「古代シリアの歴史と文化 東西文化のかけ橋」(六興出版) くらいしか読んだことないから出来れば書籍名等は載せて欲しい
218 :
世界@名無史さん :2014/04/25(金) 01:04:13.51 0
にしても、
>>142 は面白いわ
紹介してくれた人ありがとう
こういうの凝り始めると止まらなくなるねww
222 :
世界@名無史さん :2014/04/25(金) 20:23:47.67 0
>>221 そそ、自分で追加しないと
面白くならないんだよね
テンプレートにするにはかなりお手頃でした
223 :
世界@名無史さん :2014/04/25(金) 21:16:33.88 0
フェルナン・ブローデルの「地中海の記憶 先史時代と古代」って本読んだ奴いる?
224 :
世界@名無史さん :2014/04/26(土) 21:08:37.35 0
225 :
世界@名無史さん :2014/04/26(土) 21:24:14.72 0
>>224 ネストール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB ネストール(古希: Ν?στωρ, Nest?r)は、ギリシア神話の人物である。
長母音を省略してネストルとも表記される。メッセーネーの都市ピュロスの王で、トロイア戦争におけるギリシア軍の武将の一人。
(系譜略)ペルセウスの父
ネストールは神の好意で人間の3倍の寿命を与えられたといわれる[3]。ネストールはラピテース族とケンタウロスの戦いや[4]、
一説にアルゴナウタイやカリュドーンの猪狩りにも参加し[5]、トロイア戦争でも高齢にかかわらず参加した。
『イーリアス』におけるネストールはしばしば自分の自慢話を語って聞かせる老将で、高齢のために戦士として戦うことはなかったが軍の指揮者の1人であり、
弁舌においてはオデュッセウスと肩を並べ、献策においては常にアガメムノーンの信頼を得ており、ギリシア軍のあらゆる武将から敬意を持って遇された。
神話[編集]
青年時代[編集]
ネストールには多くの兄弟がいたが、ヘーラクレースとの戦争でみな殺された。このときネストールは幼く、ゲレーニアで育てられていたため無事だった[6]。
これにちなんで『イーリアス』では頻繁に「ゲレーニア育ちの」ネストールと呼ばれている。一説にネストールはこのときにピュロスからゲレーニアに亡命したという[7]。
またネストールはトロイアで育ったという奇説もある[8]。
(後略)
226 :
世界@名無史さん :2014/04/26(土) 21:53:49.48 0
ギリシャ都市テスピアイはアナトリアの嵐の神テシュプに由来するって説は聞いたことあるな
227 :
世界@名無史さん :2014/04/26(土) 23:57:48.04 0
>>226 へー、なるほど
テスピアイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2%E3%82%A4 パウサニアスによると、テスピアイで最も崇拝された神はエロスだった。太古のエロスの肖像は未加工の石だったが、テスピアイには多くの美術作品があった。
その中には、古代世界の彫刻の中でも有名なものの1つ、プラクシテレスの『エロス』もあって、それを見ようと人々がテスピアイまで詣でてきた。
そのエロス像はローマ皇帝カリグラ帝がローマに持ち出し、次代のクラウディウス帝が一度返還したが、再びネロ帝が持ち出した。
リュシッポスのエロスのブロンズ像もテスピアイにあった。さらにテスピアイ人はムーサも崇拝していて、ヘリコーン山の聖なる林でムーサを讃える祭を催した。
ムーサ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B5 ムーサ(古希: Μο?σα, Musa)またはムサは、ギリシア神話で文芸(μουσικη; ムーシケー、ムシケ)を司る女神たちである。
複数形はムーサイ(Μο?σαι, Musai)。英語・フランス語のミューズ (英語・フランス語単数形: Muse、フランス語複数形 Muses) やミューゼス (英語複数形: Muses) としても知られる。
ムーサたちはパルナッソス山に住むとされる。ムーサたちを主宰するのは芸術の神・アポローンである。
しばしば叙事詩の冒頭でムーサたちに対する呼びかけ(インヴォケイション)が行われる。
なお『ホメーロス風讃歌』にはムーサたちに捧げる詩がある。
228 :
世界@名無史さん :2014/04/28(月) 21:33:37.92 0
>>155 ふーむ
http://en.wikipedia.org/wiki/Karatepe The site's eighth-century BCE bilingual inscriptions, in Phoenician and Hieroglyphic Luwian,
which trace the kings of Adana from the "house of Mopsos", given in Hieroglyphic Luwian as Moxos and in Phoenician as Mopsos in the form mps,
have served archaeologists as a Rosetta stone for deciphering Hieroglyphic Luwian. [1] [2] [3]
おっと、ヒッタイトのサイト見れなくなってるのか
>>155 http://www.hittitemonuments.com/karatepe/ ASATIWATA SPEAKS
I am indeed Asatiwata,
The blessed of the Sun, the servant of the Storm-God,
Whom Awariku exalted, king of Adanawa.
The Storm-God made me father and mother to the city of Adanawa,
And I developed the city of Adanawa,
And I enlarged the land of Adanawa, both to the west and to the east.
And in my days the city of Adanawa had prosperity,
Satiety and comfort, and I filled the granaries of Pahara,
I added horse upon horse, shield upon shield,
Army upon army, all for the Storm-God and the Gods
I crushed the arrogance of the arrogant, all the evil that was in the land I cast outside.
I erected mansions for my lordship,
I brought prosperity to my race,
And I sat on the throne of my father, I made peace with every king.
Kings considered me their father, for my righteousness, for my wisdom,
And for the goodness of my heart.
I built mighty fortresses on all my borders,
On the borders where there had been bad men, leaders of gangs, none of whom had been subservient to the house of Muksas, I, Azatiwata put them at my feet.
I destroyed the fortresses there, I built fortresses in those places, so that the people of Adanawa might dwell in ease and in peace.
In the west
I subjugated mighty lands
Which the kings before me had not subjugated.
And I, Azatiwata subjugated them, made them my servents.
And I settled them in the east of my land,
Within my borders.
>>230 The people of Adanawa, too, I settled there.
And in my days I enlargened the borders of Adanawa to the west as well as to the east, so that, in the places which had formerly been feared, on the desolate roads where men would be afraid to walk, in my days women could stroll with their spindles.
And in my days there was plenty, satiety, comfort and peace.
And Adanawa and the land of Adanawa lived in peace and plenty.
And A built this citadel,
And I gave it the name of Asatiwataya,
Because the Storm-God and the Gods directed me towards this,
So that this citadel might protect the plain of Adana and the house of Mopsos.
In my days there were in the people of Adanawa was plenty and peace,
In my days none of the people of Adanawa was put to the sword.
And I built this citadel, I gave it the name of Azatiwataya,
There I settled the Storm-God and I made sacrifices to him; annually an ox, in the season of ploughing a sheep, in autumn a sheep I sacrificed to him.
I sanctified the Storm-God,
>>231 He granted me long days, countless years and great strength above all kings.
And the people who dwell in this land became owners of cattle, herds, plenty (of food) and wine,
Their offspring was plenty, by the grace of the Storm-God and the Gods
They rendered service to Asatiwata and to the house of Muksas.
And if any king among kings, or any prince among princes, or a person of renown,
Obliterates the name of Asatiwata in this gate and puts here another name, or even covets this city and destroys this gate which Asatiwata made, and builds another gate in its place and puts his name upon it,
Whether he destroys this gate from greed, or from hate and evil,
Then may the God of the Sky, the God of the Earth And the Sun of the Universe and all the generations of gods obliterate this king, this prince or this person of renown from the face of earth.
Only the name of Asatiwata is immortal in eternity,
Like the name of the Sun and of the Moon.
233 :
世界@名無史さん :2014/04/28(月) 22:18:31.08 0
235 :
世界@名無史さん :2014/04/28(月) 22:40:02.70 0
ちょっと勘違いしてた調教文書はボアズキョイで見つかってるんだな。 キックリ キックリ(Kikkuli)は、ボアズキョイ遺跡から出土した、軽戦車を牽引する馬匹の調教について書かれた、 紀元前15世紀末-14世紀前半に編まれたものと推定される世界最古の馬書文書に登場するフルリ人の人名。 キックリ文書 馬の調教師(a??u??anni)キックリの文書は保存状態が良く、馬に軽戦車を牽かせる前に行うべき調教が、1080行に184日にわたり詳しく記述されている。 1906年にヒッタイトの都ボアズキョイの発掘で発見された。4枚の粘土板文書に記されており、それぞれ別の書記により書かれている。 紀元前13世紀に筆写されたものであるが、表現には原典の古いままの言葉で書かれた部分もある。 またフルリ語には部分的に文法上の間違いも見られる。数詞や職名など一部にはインド=ヨーロッパ語に由来する言葉も見られる。
236 :
世界@名無史さん :2014/04/29(火) 07:31:39.81 0
ヒッタイトはR1b
イリオス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9 イリオス(古代ギリシア語イオニア方言形:?λιο?, ?lios イーリオス)
1 伝説上のイリオス
1.1 イリオスの建設
1.2 アポロンとポセイドンによる城壁の建築
1.3 ヘーラクレースによるイリオス攻め
1.4 トロイア戦争
2.3 ヒッタイトの記録によるイリオスとトロイア
紀元前13世紀中ごろのヒッタイト王トゥドハリヤ4世時代のヒッタイト語史料に、アナトリア半島西岸アスワ地方の町としてタルウィサが登場する。
これはギリシア語史料のトロイアに相当する可能性が示唆されている。また、同史料にウィルサ王アラクサンドゥスが登場する。
これもそれぞれギリシア語史料のイリオスとアレクサンドロスに相当する可能性が示唆されている。
トゥトゥハリヤ4世の治世はヒッサリク遺跡の第VII層Aの時代と一致しており、パリスの別名がアレクサンドロスであったことが知られている。
このため、この史料の記録はギリシア史料によるトロイア戦争となんらかの関係があるのではないかと推測されている。
>>236 アカイア、イオニア、アイオリス、ドーリスもみなR1b?
241 :
世界@名無史さん :2014/04/29(火) 23:00:30.37 0
242 :
世界@名無史さん :2014/04/30(水) 00:02:18.83 0
>>241 日本語のサイトは参考文献すごいな
俺もヒッタイトは微妙にスレチだと思うけどウガリトあるし
シュメールほどは離れてないかとは思う。
個人的にはメソポタミアの話してもらっても全然楽しく聞けるけどね、、、
せっかくなので誰かミュケナイ、ミノアと線文字Bの話をしてください
243 :
世界@名無史さん :2014/04/30(水) 02:37:03.89 0
なんだ、世界史板は バビロンもアッカドもシュメールもアッシリアも全滅なのか、、、 メソポタミアはみんな興味ないんだな
オリエント全般興味あるけどメソポタミアは人気ないみたいだね でも中央アジアよりは人気あるんじゃないの? カザフスタンスレはあっても他のないからオクサス川〜ヤクサルテス川に かけてなんか語るところなんかないし
246 :
世界@名無史さん :2014/04/30(水) 18:36:41.83 0
中央アジアはその特性上しょうがないんだろうけど 関連スレが多岐にわたっててかなりの数があると思う そんで逆にまとまりはない
247 :
世界@名無史さん :2014/04/30(水) 18:43:56.54 0
バビロニダはともかくヒッタイトのスレも なかったのはショクだな 聖書関係も見当たらないし 知名度人気とも高いだろうに なんでなんだろう? むしろ俺だけ異端かww
バビロニアと表記しないと....
>>247 がNGにかかった理由を探してたらさ
ヒッタイト:投石器のhp二倍 バビロニア:塔のhp二倍
251 :
世界@名無史さん :2014/04/30(水) 22:40:59.48 0
>>250 ありがと、すっごくおもしろかった
なんてこったshit!!!!!
252 :
世界@名無史さん :2014/05/01(木) 00:32:25.98 0
>>250 このレスが気になったのでコピペっとくけど
日本のオリエント学・アッシリア学のレベルは非常に高い
ってのはほんとなんだろうか、、、
101 :85:05/01/29 00:04:47 0
>>100 |ω・)ノ □ 本ドゾー 大城光正/吉田和彦『印欧アナトリア諸語概説』大学書林1990
ttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9900717775 通販で購入出来るかは微妙ですが(汗 紀伊国屋やジュンクドウだったら店頭で手にはいるかも知れません。
大学書林の本はお高いのはいつものことということで(^^;
これは現在では死滅してしまった、インド=ヨーロッパ語族アナトリア語派の文法についての概説書です。
扱われてる言語はアナトリア語派に分類されるヒッタイト語、パラー語、ルウィ語、
ヒッタイトの象形文字として知られる象形文字ルウィ語、リュキア語、リュディア語の6つの言語です。
うちヒッタイト語を扱っているページ数はグロッサリーを含む全377ページ中10-123.pp、全体の三分の一ほど。
聖書ヘブライ語、アラム語のものを抜かせば、日本語で読める古代語をあつかった学術的な文法書はこれ一冊だけといえます。
欧米に比べまだ日が浅いとはいえ、日本のオリエント学・アッシリア学のレベルは非常に高いので後身のためにも
日本語でシュメール語やアッカド語(古期〜新アッシリア語&バビロニア語含む)の本格的な概説書や文法書を出して欲しいと切に願います(^^;
253 :
世界@名無史さん :2014/05/01(木) 00:36:27.83 0
>>252 d 『印欧アナトリア諸語概説』その本、
碑文の内容載ってる? マットトワッタ文書やキックリ文書といった
ルウィ語のカラテペ碑文なら他の本でも読んだことあるんだが
255 :
世界@名無史さん :2014/05/02(金) 16:29:45.21 0
>>254 ごめん、読んだことがないのでわからないよ
年代決定だと 日本は中年代説が主流で 欧米だと低年代説が主流 欧米が色々新説を出すのを、比較的距離を置いて見ているのが日本という印象がある
258 :
世界@名無史さん :2014/05/06(火) 22:30:49.62 0
>>256 なるほど
こういうのはwikipedia調べても出てこないからおもしろいね
とりあえず上の参考に連休中で
王名表から年表とか作ったったww
259 :
世界@名無史さん :2014/05/06(火) 22:50:27.22 0
>>257 へー、アレキサンダー以後の遺物か
ほんとに分銅だとしたら重量体系はどこのが採用されてるんだろうなぁ
>タニット女神の記号はチュニジアやシチリアからの出土例が多く知られていたので、従来はカルタゴの女神といわれていた。
>現在集成を進めているが、少なくとも紀元前5世紀に遡るテラコッタ像に記されたタニット女神記号は、
>テュロス、アッコからの出土であり、この女神もまたフェニキア、テュロス起源であった可能性が指摘できる。
こっちは本格的に年代次第ってことで
260 :
世界@名無史さん :2014/05/07(水) 22:07:07.15 0
261 :
世界@名無史さん :2014/05/08(木) 19:37:23.70 0
262 :
世界@名無史さん :2014/05/08(木) 19:46:53.88 0
>>261 あれ?これ知らないわ
ピュグマリオーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 ピュグマリオーン(古希: Πυγμαλ?ων, Pygmali?n)は、ギリシア神話に登場するキプロス島の王である。
長母音を省略してピュグマリオンとも表記される。
現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻した。
その像を見ているうちにガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。
そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。
その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pygmalion_of_Tyre Pygmalion (also known as Pu'mayyaton) was king of Tyre[1] from 831 to 785 BC and a son of King Mattan I (840-832 BC).
During Pygmalion's reign, Tyre seems to have shifted the heart of its trading empire from the Middle East to the Mediterranean,
as can be judged from the building of new colonies including Kition on Cyprus, Sardinia (see Nora Stone discussion below), and, according to tradition, Carthage.
For the story surrounding the founding of Carthage, see Dido.
何故ピグマリオンのURLじゃなくてピグマリオンコンプレックスのURLなのか?
264 :
世界@名無史さん :2014/05/08(木) 23:49:56.75 0
265 :
世界@名無史さん :2014/05/09(金) 00:02:06.09 0
266 :
世界@名無史さん :2014/05/09(金) 00:20:59.41 0
>>261 http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_kings_of_Tyre より
Kings of the Sidonians (with Tyre as capital), 990?785 BC[edit]
The dates for the reconstruction of the Tyrian king list from Hiram I through Pygmalion are established in three places by three independent sources:
a Biblical synchronism (Hiram's assistance to Solomon in building the Temple, from 967 BC onwards),
an Assyrian record (tribute of Baal-Eser II/Balazeros II to Shalmaneser III in 841 BC), and
a Roman historian (Pompeius Trogus, who placed the founding of Carthage or Dido's flight from her brother Pygmalion in the latter's seventh year of reign, in 825 BC, 72 years before the founding of Rome).[3]
>>265 カルタゴと言えば「ビュルサの丘」が代名詞
しかし、同じような物語が別のところにあるのは有名な話
268 :
世界@名無史さん :2014/05/09(金) 01:13:07.68 0
269 :
世界@名無史さん :2014/05/09(金) 21:11:14.32 0
>>267 途中までしか読んでないけど
たぶんゲームは完成しなかっただろうなww
そんな感じやね 一生懸命凝ろうとして挫折したんじゃない?
271 :
世界@名無史さん :2014/05/09(金) 21:52:15.67 0
>>267 321 : 世界@名無史さん[] 投稿日:2006/11/08(水) 19:56:23 O
時系列順に主だったところを並べると
リクソスはプリニウスがガデスより古い最古の植民市と論じており12CBC
ガデスが1110BC、次いでウティカ1101BC、タルテッソスが10C、
キプロスのキティオンとクレタ中部に950-900BC、
サルディニアのノラやビュティアが9C初頭、若干遅れてタロスやサルキスが9C、
カルタゴ814BC、マルタや南シケリアが8C末、
タプソスやサブラタ、ヘルマコンなどの北アフリカ諸市が800BC前後
モテュアは8-7C、パレルモとソレントは若干遅く7C初頭
バレアレス諸島はさらに遅くイビサが654/3BC
最初期の植民市(タルテッソスまで)は考古学的には証拠が確認されておらず
現実的には7C頃からの遺物しかない
これらイベリア南部の伝説的な都市を除けば
植民はキプロス・クレタ→南仏・南西・地中海西部の島々→北アフリカ
と北回りで順々に進展したと考えればいいんでない
322 : 世界@名無史さん[] 投稿日:2006/11/08(水) 21:36:57 O
スマソ
時系列と言っときながらマルタと北アフリカの順序が逆だったな
アフリカ諸市が多少落ち着くのと前後してマルタ・シケリアに移ったみたい
272 :
世界@名無史さん :2014/05/09(金) 21:56:23.50 0
スレは2010年まで続いていたらしい、、、
>>270 探してるうちに、どんどん気になることが増えていくのはわかるな
そして、年表も終わる気がしないww
273 :
世界@名無史さん :2014/05/09(金) 22:26:08.67 0
>>268 >>271 B.C.1500 (circa) The Phoenicians settle Cyprus.
B.C.1100 Cadiz and other colonies planted on the Atlantic shores.
B.C.813 Carthage founded.
B.C.695 Spain becomes an independent Phoenician kingdom.
B.C.538 Phoenicia becomes a Persian province; Carthage asserts its independence.
ん、
274 :
世界@名無史さん :2014/05/10(土) 01:08:51.02 0
そういえば、ハムナプトラのシリーズで 確かスコーピオンキングだったかと思うんだが 各国の傭兵達?かなんかが会話してるときの言葉がアッカド語で 字幕が日本語で出てたんだけど あれはホントにアッカド語だったんだろうか、、、
275 :
世界@名無史さん :2014/05/10(土) 01:25:32.21 0
>>274 どうやら考えるだけ無駄らしいことがわかった
映画はおもしろかった気がする
277 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 11:20:20.05 0
>>276 まだ、出てないんじゃないかな
にぼん語で検索するとまず間違いなく引っかかるので
俺もときたま読んでる
行間が詰まってて読み難いのが玉に瑕で
全部を続けて読む気力がわかないんだよなww
バアル・ヘルモン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3 バアルとヘルモン山につながりの深い語である。
『士師記』(3.3)においては山の名前として現われ、ヘルモン山と同一視される。
『歴代誌上』(5.23)においては、「ヘルモン山」および、このアモリ人による呼称とされるセニル[1]と並列で現われる地名であり、
「ヘルモン山の主(バアル)」への信仰につながりの深い場所だと考えられているものの、この場所が現在のどこにあたるかには一致した見解がない。
『歴代誌』の該当部分では、ヨルダン川東のマナセの半部族の居住地とされ、
これらの家系の長の名前と、この半部族が戒律に背いて、ヤハウェがかつて滅ぼした民の神々を拝んだことを伝える。
『ヨシュア記』(11.16、13.5)では、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷の地名であるバアル・ガドが、マナセ半部族らへの土地の割り当てのくだりにも現われる。
このため、歴代誌の地名としての「バアル・ヘルモン」を「ヘルモン山のバアル・ガド」の誤伝とする説もある[2]。
バアル・ガドはヨルダン川源流のいくつかの地名に比定される[3]。
その一つにヘレニズム期にはパーン神信仰と結び付けられるパネアスの泉の神殿をもち、
ローマ帝国支配下ではフィリポ・カイサリア、アラブ人にバーニヤースと呼ばれた遺跡がある[4]。
279 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 12:13:32.33 0
ヘルモン山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E5%B1%B1 高点はシリアが支配しているが、南部の稜線にあたるゴラン高原は1967年の第3次中東戦争以降イスラエルの支配下にある。
聖書地名としてのヘルモン山[編集]
ヘルモン山を、アモリ人はセニル、シドンの住人はシルヨンと呼んだ(申命記 3:9; 詩篇 29:6; 歴代誌上 5:23; 雅歌 4:8; エゼキエル書 27:5)。
これらの語源は、鎖帷子または鎧であるかもしれない。
この土地は、いわゆる「約束の地」の北の境界と考えられ、旧約聖書でヨシュアに率いられたイスラエル人が征服したとされる土地の北限にあたる(ヨシュア記 11:17, 12:1, 13:5)。
ヘルモン山の高地は、カナン人によりその宗教儀礼に用いられた。
彼らはこの山をバアル・ヘルモンの山と呼んだ(士師記 3:3)。シオンという別名も現われる(申命記 4:48)。
新約聖書では、イエス・キリストが弟子を伴いガリラヤ湖畔のベトサイダからヘルモン山南麓のフィリポ・カイサリアの町へ旅したことを伝える(マタイによる福音書 16:13; マルコによる福音書 8:27)。
この地でイエスは自分の教会を建てることと、エルサレムに行き、死んで復活することを弟子たちに予告した(マタイによる福音書 16:18-21)。
ヘルモン山は、新約聖書の「主イエスの変容」、すなわち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を伴って祈りのために高い山にはいったというくだりの、「山」かもしれないとされる場所のひとつである。
ここでイエスは輝くように白くなり、モーセとエリヤが現われて、イエスと語り合ったとされる。
エノク書では、ヘルモン山はグリゴリ(見張り)と呼ばれる堕天使の一団が地上に降り立った場所である。
彼らはこの山上で、人間の娘たちを娶りここに戻ろうと誓い合った(エノク書 6)。
280 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 12:26:48.90 0
バールベック
http://en.wikipedia.org/wiki/Baalbek バールベックとは「ベカー高原の主神」を意味し、ここにフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来するといわれ、本来はフェニキア系の神々の聖地だったと考えられる。
しかし後にギリシア・ローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター・ビーナス・バッカスと呼ばれるようになった。
遺跡はこれら三神をそれぞれ祀る三つの神殿から構成されている。世界でも有数のローマ神殿跡である。
History[edit]
Prehistory[edit]
The history of settlement in the area of Baalbeck dates back about 9,000 years, with almost continual settlement of the tell under the Temple of Jupiter, which was a temple since the pre-Hellenistic era.[4]
Nineteenth century Bible archaeologists wanted to connect Baalbeck to the "Baalgad" mentioned in Joshua 11:17, but the assertion has seldom been taken up in modern times.
In fact, this minor Phoenician city, named for the "Lord (Baal) of the Beqaa valley" lacked enough commercial or strategic importance to be rated worthy of mention in Assyrian or Egyptian records so far uncovered,
according to Helene Sader, professor of archaeology at the American University of Beirut.
Heliopolis, the City of the Sun[edit]
http://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9 【バールベク】より
…古代宗教都市の遺構で知られる。〈ベカーの主〉を意味するその名前からフェニキア起源と考えられるが,
アレクサンドロス大王の征服後,フェニキアのハダド神とギリシアのゼウス神が習合することによって隆盛し,
ヘリオポリスHeliopolisと改名された。
前64‐前63年ポンペイウスによるシリア征服によってローマ都市となり,アウグストゥスによって植民市となる。…
281 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 14:31:42.99 0
>>134 引用対象がww
http://wol.jw.org/ja/wol/pc/r7/lp-j/1200004775/1907/0 キリキア
キリキア - 洞察,第1巻
山脈の南方の支脈であるアマヌス(現在のヌル)山脈によってシリアと分断されていました。この地方の古代史のほとんどの期間中,少なくともこれらがその境界線でした。
基本的に,この地域は次の二つの自然区分に分けられました。キリキア・トラケイア(起伏の多いキリキア)と呼ばれる西部と,キリキア・ペディアス(平らなキリキア)と呼ばれる東部です。
キリキア・トラケイアはタウロス山脈の未開の高原地帯で,森林に富んでいました。岩だらけの岬によって分断された,凹凸の多いその海岸は,避難所となる多くの港や入り江を供しました。
早い時期からそこは沿岸航行船をえじきにする盗賊や海賊の隠れ場となっていました。キリキア・ペディアスは,よく潤された,非常に肥沃な部分である,広大な海岸平野を擁していました。
ローマ時代には,この平野に半自治都市が散在していましたが,中でも最も際立った都市が,サウロ(パウロ)の生まれ故郷のタルソスでした。―使徒 21:39; 22:3; 23:34。
キリキアは小麦や亜麻,果物のほか,ローマ時代にキリキウムとして知られたやぎの毛を産しました。
それが天幕の製作に用いられたことは,パウロが早くから天幕作りを経験していた理由を幾らか説明するものかもしれません。
キリキアは,軍事面でも商業面でも重要な位置を占めていました。
シリアからの主要通商路は,“シリアの門”,つまりアンティオキアの北約30`のアマヌス(現在のヌル)山脈を抜ける主要な山道を通ってから,キリキアをタルソスまで横断し,
タウロス山脈を,“キリキアの峡門”に向かって上って行きました。“キリキアの峡門”というのは険しい隘路または裂け目で,小アジア中央部や西部への通路となっていました。
282 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 14:41:12.51 0
283 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 14:47:27.64 0
>>282 ちなみに俺はアンティオキアはシリアだと思っていた、、、
イスケンデルン湾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%B3%E6%B9%BE イスケンデルン湾(トルコ語:?skenderun Korfezi、英語:アレクサンドレッタ湾 Gulf of Alexandretta)は、トルコ中央部南部に位置する湾である。
湾の幅は70km、奥行きは150km。北東から南西に向かってU字形に開き、地中海の最北東端に面する。このため、トルコ国内でも大波で有名な湾である。
歴史[編集]
アレクサンダー大王は遠征時に現在のアンカラから南東に軍を進めている。
紀元前333年には、イスケンデルン湾最奥部に位置するイッソスで、3万のマケドニア・ギリシア連合軍がダリウス3世率いる10万のペルシャ軍と戦う(イッソスの戦い)。
海岸に山が迫っているため、3km弱の幅しかない隘路になっていた。このときペルシャ軍を破った大王はエジプトに向かって南に進んでいる。
アレクサンダー大王の死後、イスケンデルン湾周辺に大王の後継者の一人であるセレウコス1世がセレウコス朝シリアを築く。
現在のイスケンデルンの南50kmに首都アンティオキア(現在はトルコ領アンタキヤ)を定め、後に人口数十万を数える東地中海随一の大都会となった。
しかしながら、イスケンデルン湾は海上、陸上交通には適していなかったため、古代の通商路は、アンティオキアから東のサマンダグ近郊を通り、そのまま地中海に抜けていた。
8世紀前半にイスラム帝国アッバース朝の版図が最も広がると、イスケンデルン湾は帝国の地中海北東部の辺境となった。
同時期、アフリカ大陸北岸とイベリア半島もイスラム帝国の版図となっている。
284 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 15:22:46.83 0
>>218 第7章 海外への商業発展
フェニキア人の海外植民地と地中海貿易
(01).キュプロス島
(02).ロードス島
(03).クレタ島
(04).エーゲ海北部
(05).エーゲ海中部とギリシア本土
(06).イオニア海ルート
(07).シチリア島
(08).サルディニア島
(09).イタリア中部
(10).マルタ諸島
(11).北アフリカ
(12).スペイン
(13).バレアレス諸島とイビサ島
(14).フェニキア人の大西洋交易-モロッコ
(15).フェニキア人のはるかなる探検
ポエニ人の海外発展
・カルタゴ人の冒険の旅
285 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 15:25:06.67 0
それにしてもマイナーなフェニキア人の話を適当に振っていれば 誰かが滔々とギリシャ人の話を始めてくれるんじゃないかと期待しているのだが、、、
>>286 色々と書いてあるし合ってると思うよ。
にしてもYamですらも日本語ページはないのか、、、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%A0_ (%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF)
ヤム (yam) - 植物の一群。芋を採る。
ヤム・ブランズ (Yum Brands) - アメリカのファーストフード企業。
サイモン・ヤム (Simon Yam) - 香港の俳優 (1955?)。
ヤム・ハナル (Yam) - ウガリット神話の海神。
おいおいww
288 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 19:23:11.93 0
バアル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A2%E3%83%AB カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語で「主」を意味する[1]。バールや、バビロニア式発音のベール[1]、およびベルとも表記される
歴史[編集]
もともとはハッドゥまたはハダドという名で、アッカドの雷神アダドの前身でもある。この名は恐らく雷鳴の擬音と考えられる。しかしハッドゥが主神、すなわちバアルと呼ばれ崇められているうちに、その呼称が固有名詞化し、後にはもっぱらバアルと呼ばれるようになった。
本来、カナン人の高位の神だったが、その信仰は周辺に広まり、旧約聖書の列王記下などにもその名がある。
また、ヒクソスによるエジプト第15王朝・エジプト第16王朝ではエジプト神話にも取り入れられ同じ嵐の神のセトと同一視された。
フェニキアやその植民地カルタゴの最高神バアル・ハンモンをモレクと結びつける説もある。さらにギリシアでもバアル(古典ギリシア語: Β?αλ)の名で崇められた。
足を前後に開き右手を挙げている独特のポーズで表されることが多い。
ウガリット神話におけるバアル[編集]
ウガリット神話では最高神イルと全ての神々の母アーシラトまたはアスタルトの息子と呼ばれる。
またダゴンの子バアル(b‘l bn dgn)とも呼ばれる。勝利の女神アナトの兄にして夫。またアスタルトを妻とする解釈もある。
彫像などでは、右手で矛を振りかざし、左手に稲妻を握る戦士の姿で表される。
豊穣神として崇められ、竜神ヤム・ナハル(英語版)や死の神モートの敵対者とされる。
ヤムとの戦いは彼が荒々しい自然界の水を征する利水・治水の神であることを象徴し、
モートとの戦いは彼が慈雨によって実りをもたらし、命を養う糧を与える神であることを象徴する。
289 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 19:25:19.28 0
ヤム
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%A4%E3%83%A0 ヤムまたはヤム・ナハル(Yam,Yam Nahar)は、ウガリット、カナン神話に登場す海神。
概要
ウガリット神話におけるヤムは、“審きの川”、“海流の支配者”の称号を持つ海の支配者であり、至高神エルの息子である。
至高神エルはバアルに玉座を奪われ、「河川の源」「冥界の果て」に追いやられる。
嘆き悲しんだエルは仲間に助力を請い、それに対して真っ先に答えたのがヤムである(または神々の集会で脅迫を行う)。
そして、ヤムはエルの祝福を受けて後継者の資格と、バアルを奴隷とする権利を獲得する。
これを受けて激怒したバアルは、「ヤムは王権を簒奪し、そのために殺される」と公言し侮辱し、ヤムからの使者に対して鞭打つ。
だが、エルはヤムの使者に対して「バアルはヤムの僕であり、貢物をささげる。
バアルはたやすく征伐できる」といいつのって承服しており、これに対してバアルは武器を振り上げて跳び上がり、いよいよ怒り狂う。
それに対し、アナトとアスタルテはバアルを押しとどめ、彼がヤムと戦う準備を整える。
ヤムとの戦端を開いたバアルに対して、鍛治神コシャル・ワ・ハシスはバアルに対して二本の棍棒(電光)を託す。
バアルはまずヤグルシ(追放)を投じてヤムの肩と胸を打つがそれでも退けるに至らず、
続けてアイムール(撃退)を投じてついに頭部を打ち、制圧に成功する。とどめを刺されたヤムは殺されて死体をばら撒かれてしまう。
神話におけるヤムは、神でありながら駆逐されるべき悪魔、荒ぶる自然の象徴、洪水をもたらす河川、荒れ狂う海原を表徴するとされる。
そして、メソポタミア神話におけるティアマトのように、分割された肉体と王権の標章やマルドゥクの秩序による混沌の制覇との照応、
また、秩序だった雨による不毛・破局を内蔵する海と地下水に対する勝利を意味するとされ、さらに海を支配する竜の撃破による英雄神(バアル)の台頭を描くものとされる。
そして、ヤムはこれ以後も死に絶えることなく、「生の循環」に則って何度もバアルと争うとされる。
290 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 19:53:54.96 0
ちなみに以下に対してググルと アンティオキア 約 125,000 件 (0.19 秒) @ シリア 約 13,800 件 (0.21 秒) A トルコ 約 11,400 件 (0.24 秒) B アナトリア 約 11,300 件 (0.29 秒) @>A≒B ということらしい
291 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 20:57:59.09 0
フェニキア人は地中海全域に自分たちの遺伝子をばらまいたようだ。 例えばマラリア耐性のある遺伝子とか。
292 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 21:16:59.51 0
>>132 >>134 >>172 バアル・ハモン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%A2%E3%83%B3 バアル・ハモン(“群集の支配者”)はカルタゴの主神。
彼は空と植物の神格で、髭を生やし、曲がった羊の角をつけた老人として描かれていた[1]。
バアル・ハモンの妻はタニト(英語版)だった[2]。
文化と属性[編集]
バアル・ハモンの崇拝はカルタゴのフェニキア人植民地の間で盛んだった。
カルタゴの神々の中で、バアル・ハモンの至上性は、カルタゴとテュロスの間の関係がヒメラ海戦(英語版)で壊れた後 、紀元前5世紀に遡ると信じられている[3]。
現代の諸学者は、この神を北西セム語族の神 エール (神)または ダゴンに結びつけている[4]。
北アフリカとカルタゴにおいて、バアル・ハモンは特に羊と結び付けられ、
カルタゴ湾を横切ったところにある聖域ジェベル・ブ・コルネイン(二本角の丘)にて、バアル・カルナイム(二本角の主)としても崇拝された[要出典]。
バアルはメルカルト(英語版)とは同一視されていなかったと考えられている(古くは同一視する説もあった)[要出典]。
古代ギリシアの著作家達はタイタン族のクロノス と同一視し、古代ローマにおいてはサートゥルヌスと同一視され、
第二次ポエニ戦役に結果を受けたローマとカルタゴの間での文化的変容は古代ローマの宗教祭祀である古代ローマの宗教祭祀(英語版)であるサートゥルナーリア祭に影響を与えた[5]。
293 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 21:23:25.12 0
ちなみに英語の方も文献と場所は載ってない
バアルの角の方は勝手に牛と勘違いしてたな
>>292 名称と性格[編集]
ハモン(またはハンモン)の意味は不明で、19世紀にエルネスト・ルナンが現在の テュルスとアッコの間にあるハモン(?ammon)の遺跡(現在のUmm al-‘Awamid )を発掘し
エール・ハモン(El-Hammon)に捧げられた二つのフェニキア語碑文を発見した。
エールは通常クロノスにあたると考えられており、 Ba‘al Hammon はクロノスに相当するものとされていたことから、エールとバアル・ハモンは同じものであるとされた。
またしばしたヘブライ語/フェニキア語の ?amm?nは、'火鉢'を意味するとの説が唱えられ、”火鉢の主(Baal)”という文脈から、彼は太陽の神格を持つものとされた[7]
イガエル・ヤディン は彼を月の神と考え、エドワード・リピンスキー(英語版)は ダゴン神であると考えた[8]。
フランク・ムーア・クロスは Kham?nとの関連を論じ、ウガリット語と アッカド語のアマノス山(シリアとキリキアを分ける山脈)の名称との関連性を論じた。
Kham?nをHaman山の一つとして、エール神のウガリット表記に由来すると論じた。
バアル・ハモンに与えられた古代の月の神である"二本角の主"という名は 前2112年頃支配していたウル・ナンム朝時代の北シリアで崇拝されていた。
これは聖書にある、カナンの征服の約束が与えられる前のアブラハムと彼の祖先達がシリアに滞在していた頃、ヘブライ族の祖先によって崇拝されていた。
クロノスやサトゥルーヌスへのバアル・ハモンの関連づけは古代メソポタミアの史料には無く、古代バビロニアの史料は、明確にバアル・ハモンをエール神の息子としている。
このエールは、"天空の主" と称された古代シュメールのニップール市の主神であったエンリル神と同じ神格を持っていた。
彼の二人の息子がシン(またはナンナ・スエン)という月の神、及びアスタルト(または“雲の乗り手”バアル)として知られていた。
月の神の娘は金星の神イシュタルで、ウガリットやカナン文字の古代史料では、バアル・アスタルト(Baal Ishkur)の妻となった。
294 :
世界@名無史さん :2014/05/11(日) 21:31:41.78 0
>>293 >>279 地名学[編集]
バアル・ハモン(Ba'al-Hamon、Ba'al-Hammon, Ba'al Khamon, Baal-Ammonなどの表記がある)はソロモンの歌8:11で言及されている。
それはソロモン王が所有していた生産性の高いワイン畑の場所を示し、王は畑を貸し出して1000シェケル の収入を得ていた。
その場所は Baal-gadに比定されていて、アシェル族の Hammon にも比定されている(ヨシュア記 19:28)。
パレスチナ中部のDothaim近郊のBelamonに比定する学者もいる。
一部の学者は、直接に場所を示しているのではなく、ソロモンが支配した領域が富める場所であったことの比喩であるとの見方を提案している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Baal-gad A place in ancient Israel, Baal-Gad was a Canaanite town in the valley of Lebanon at the foot of Hermon, near the source of Jordan River. (Josh. 13:5; 11:17; 12:7)
It was the most northern point to which Joshua's conquests extended.
It probably derived its name from the worship of Baal.
Its exact location is uncertain, but it is generally considered to be Hasbaya in Wadi et-Teim or a site nearby.
http://en.wikipedia.org/wiki/Hermon
295 :
世界@名無史さん :2014/05/12(月) 18:34:40.33 0
>>291 そしたらフェニキア人は何処から持ってきたの?
296 :
世界@名無史さん :2014/05/13(火) 01:54:53.76 0
299 :
世界@名無史さん :2014/05/13(火) 20:47:30.70 0
>>276 第1部 古代
「海上交易圏の形成」
(前30世紀頃〜後6世紀頃)
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/index.html 【掲載目次】
第1章 海上交易圏の模索―文明発祥の地―
1・1・1 エジプト―外国人商人に依存―
1・1・2 オリエント―遠隔地交易人の登場―
1・1・3 インダス―海上交易圏の登場―
第2章 海上交易圏への架橋―東地中海の世界―
1・2・1 ビブロス、ウガリット―古代文明の十字路―
1・2・2 キプロス、クレタ―地中海世界への橋脚―
第3章 海上交易圏の形成―フェニキア、ギリシア、ローマ―
1・3・1 フェニキア―海上交易国の誕生―
1・3・2 ギリシア―エーゲ海限りの海上帝国―
1・3・3 カルタゴ、アレクサンドリア―地中海の棲み分け―
1・3・4 ローマ―単一支配の海上交易圏―
結章 古代海上交易論
1・4・1 古代の海上交易の形態
1・4・2 古代の船の発達―技術史的意味―
1・4・3 古代の航海、航海術、そして船員
300 :
世界@名無史さん :2014/05/13(火) 22:57:16.10 0
301 :
世界@名無史さん :2014/05/13(火) 23:03:06.16 0
>>299 1・3・1 フェニキア―海上交易国の誕生―
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/page007.html ▼文明、交易、遠征の世界史の十字路▼
▼フェニキア、アッシリアに贈り物や貢ぎ物▼
▼大国からの独立でえる飛躍の機会▼
▼地中海全域に広がる交易地(港市)▼
▼ソロモンのヒラムとの提携による紅海交易▼
ソロモンのヒラムとの提携による紅海交易
▼中継品と加工品の交易、御用から自前の交易▼
▼ペルシア時代の交易の拡大と艦隊の派遣▼
ペルシア支配下におけるテュロスの交易品
▼丸い・黒い・がらんどうの船▼
▼大規模な港湾とヘラクレスの柱への航路▼
▼ガレーの登場、衝角、二段櫂船の開発▼
▼ペルシア戦争で、フェニキア艦隊、連敗▼
▼若干のまとめ▼
302 :
世界@名無史さん :2014/05/14(水) 00:00:52.56 0
>>284 さて、どこまで書いたもんかなぁ
個人的におもしろかったのは以下
とりあえず、載ってる関係のものをメモ代わりに書いておこう
(03).クレタ島
イダ山「ゼウスの洞窟」
シデロス岬(鉄の岬)、コモス、港町イタノス
キュテラ島、東の港ポイニクス、対岸本土のラコニア
最大の港ギュテイオン
(07).シチリア島
これは長い、、、
(08).サルディニア島(ノーラ、スルチス、タッロス)
(12).スペイン
タルシュシュ(タルテッソス)
カディス(エリュテイア島)
港町ウェルヴァ(リオ・ティント鉱山)
アンダルシア地方:
文献記録の有る都市は、マラカ(今のマラガ)、セクシ(アルムネカール)、アブデラ(アドラ)
トスカノス
303 :
世界@名無史さん :2014/05/14(水) 00:24:53.29 0
古代ギリシャ・神話の旅 前編
トルコからクレタ島へ
http://www.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_25_01.html さまざまな神や英雄、怪物が登場し壮大な物語が繰り広げられるギリシャ神話。神話の原点となった風景や出来事は実際に存在していたのか。
その誕生の背景を探るべく、歴史家ロビン・レイン・フォックスが、ギリシャ神話のエピソードを紹介しながら、今も残る古代の遺跡や地中海沿岸の名所を訪ねる。
神話を生み出した人々は、神についてどう考え、どうやって神話を生み出したのか?
今回はギリシャ神話誕生の真実に迫る全2回シリーズの前編。
ギリシャ神話に描かれた天地創造の物語や、世界の芸術家に影響を与えてきた有名な神々。
それらはもともと、エウボイア島(現・ユービア島)に住んでいた民族エウボイア人が、地中海沿岸の各地から集めた伝承をもとに、新たに作りあげていったものだった。
彼らの足跡を追いかけながら、ギリシャ神話誕生の真実、その謎をひもとく。
304 :
世界@名無史さん :2014/05/14(水) 00:26:15.41 0
>>303 ギリシャ神話を作り出したといわれるエウボイア人。
彼らは航海技術に優れ、地中海沿岸のさまざまな国を船で渡った民族だった。
歴史家ロビン・レイン・フォックスが訪れたのは、トルコ・古代ヒッタイト帝国の首都、世界遺産ハットゥシャ。
古代、この地でエウボイア人が伝え聞いた物語が、天の神ウーラノスと大地の女神ガイア、そして息子クロノスによる、ギリシャ神話における天地創造のエピソードとなったのだという。
さらに、地中海の島々も巡る。キプロス島で訪れるのは、多くの芸術家たちを魅了し続ける女神アフロディーテが海からあがってきたとされる浜辺。
今でこそ愛と美の女神として定着しているアフロディーテだが、エウボイア人が訪れる前は、キプロス島に伝わる、豊穣(ほうじょう)多産をつかさどる女神として信仰されていた。
またギリシャ・クレタ島では、全能の神ゼウスが幼少期を過ごしたといわれる洞穴を訪れる。元々この洞穴では、子供の姿をした多産の神コウロスが崇められていた。
しかし、エウボイア人がやって来たことでコウロスは、ヒッタイト遺跡から誕生した神クロノスの息子ゼウスとして生まれ変わったのだ。
各地を旅したエウボイア人は、ギリシャ神話を作り上げただけでなく、アルファベットを普及させた立役者でもあった。
また、彼らのおかげでギリシャ神話が誕生し、現代へと伝えられたのである。
古代を旅したエウボイア人と、彼らが出会った物語の数々を紹介しながら、ギリシャ神話が誕生した背景に迫る。
305 :
世界@名無史さん :2014/05/14(水) 00:28:24.76 0
>>303 古代ギリシャ・神話の旅 後編
ギリシャからシチリア〜ナポリへ
http://www.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_25_02.html 神話誕生の真実に迫る全2回シリーズの後編。
今回の旅は、ギリシャより西側の島々へ。神々や人間、そして怪物たちがぶつかり合う戦いの伝説を中心に、それらが生まれた経緯や背景にある真実を探る。
エウボイア人は神の実体をどのようにとらえていたのか、その答えが浮かび上がる。
ギリシャ神話を作り出したエウボイア人は、自分たちの神話をさらにドラマティックな内容へと進化させた。
それは、全能の神ゼウスとヘビの怪物テューポーンの戦いを描いた物語だ。このエピソードは、実際にある場所や風景と伝説という、全く違う要素を組み合わせて作られていったものだった。
彼らは古代ヒッタイトの伝説をもとにストーリーを構成する一方で、テューポーンが住むとされた洞穴はトルコのカラペテ南西の峡谷をもとにしている。
さらに、イタリアのエトナ火山やイスキア島にも渡り、物語のクライマックスとなるテューポーンの最後を書き上げた。
番組では、それらの土地を旅しながら、全能の神ゼウスと怪物テューポーンの壮絶な戦いの物語を追う。
また、シチリア島クーマイ近郊の化石の発掘現場に赴き、エウボイア人が、マンモスなどの骨を、神と戦って敗れた巨人の骨と考えた経緯を探る。
さらに、神々が巨人達を撃退した戦場の跡地を求めてナポリへ。地中海各地の大自然や風景、エウボイア人が出会ったであろうさまざまな文化を紹介する。
ギリシャ神話誕生の背景にある真実、そしてその謎を解き明かす壮大な旅はクライマックスを迎える。
306 :
世界@名無史さん :2014/05/14(水) 00:44:56.38 0
307 :
世界@名無史さん :2014/05/14(水) 00:52:04.04 0
308 :
世界@名無史さん :2014/05/14(水) 01:01:09.87 0
>>302 (08).サルディニア島(ノーラ、スルチス、タッロス)
プメイ神がみつからなかったけど、これだと王になってるね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nora_Stone The Nora Stone or Nora Inscription is an ancient inscription found at Nora on the south coast of Sardinia in 1773.
Though its precise finding place has been forgotten, it has been dated by palaeographic methods to the late 9th century to early 8th century BCE[1]
and is still considered the oldest Phoenician inscription yet found in Sardinia.
It is conserved at the Museo archeologico nazionale, Cagliari.
A possible reference to Pygmalion of Tyre is inferred by an interpretation of the fragmentary inscription, made by Frank Moore Cross as follows:[2]
[a. He fought (?)]
[b. with the Sardinians (?)]
1. at Tarshish
2. and he drove them out.
3. Among the Sardinians
4. he is [now] at peace,
5. (and) his army is at peace:
6. Milkaton son of
7. Shubna (Shebna), general
8. of (king) Pummay.
>>309 >>262 続き
In this rendering, Cross has restored the missing top of the tablet (estimated at two lines) based on the content of the rest of the inscription, as referring to a battle that has been fought and won.
Alternatively, "the text honours a god, most probably in thanks for the traveller's safe arrival after a storm", observes Robin Lane Fox.[3]
According to Cross the stone has been erected by a general, Milkaton, son of Shubna, victor against the Sardinians at the site of TRSS, surely Tarshish.
Cross conjectures that Tarshish here "is most easily understood as the name of a refinery town in Sardinia, presumably Nora or an ancient site nearby."[4]
He presents evidence that the name PMY ("Pummay") in the last line is a shortened form (hypocoristicon) of the name of Shubna's king, c
ontaining only the divine name, a method of shortening “not rare in Phoenician and related Canaanite dialects.”.[5]
Since there was only one king of Tyre with this hypocoristicon in the 9th century BC, Cross restores the name to pmy(y)tn or p‘mytn, which is rendered in the Greek tradition as Pygmalion.
Cross's interpretation of the Nora Stone provides additional evidence that in the late 9th century BCE,
Tyre was involved in colonizing the western Mediterranean, lending credence to the establishment of a colony in Carthage in that time frame.
Pygmalion, the Greek version of the Phoenician royal name Pumayyaton, also figures in the founding legend of Paphos in Cyprus, and Robin Lane Fox more cautiously finds a Cypriote association possible:
"The traveller even may have had links with Cyprus, suggesting the Cypriote contacts had guided Phoenicians to this island."[6]
>>311 トルコの地名は鬼門なんだよな
チャタル・ヒュユク
http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%87atalh%C3%B6y%C3%BCk Catalhoyuk (Turkish pronunciation: [t?a?ta?hojyc]; also Catal Hoyuk and Catal Huyuk; catal is Turkish for "fork", hoyuk for "mound")
was a very large Neolithic and Chalcolithic proto-city settlement in southern Anatolia, which existed from approximately 7500 BC to 5700 BC, and flourished around 7000BC.[1]
It is the largest and best-preserved Neolithic site found to date. In July 2012, it was inscribed as a UNESCO World Heritage Site.[2]
チャタル‐ヒュユク 【atal Hyk】
http://kotobank.jp/word/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%A6%E3%82%AF 《「チャタルホユック」とも》アナトリア高原にある新石器時代の遺跡。現在のトルコ中南部の都市コンヤの南東約45キロメートルに位置する。
1958年に発見。紀元前7000年以上前にさかのぼる人類最古の集落跡の一つとして知られ、牛を描いた壁画や女性の彫像などが見つかっている。
hoyuk は "mound"
tepe は "hill"
313 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 06:39:45.18 0
314 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 06:43:16.86 0
315 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 07:12:11.01 0
>>137 >>138 膨らませてばっかりもあれなので、バアル・ハモンに関して
情況としては、これで整合性は取れているんだけど、
カルタゴからの「10分の1税」も、やっぱこのときに終わったんだろうか
>>292 >カルタゴの神々の中で、バアル・ハモンの至上性は、カルタゴとテュロスの間の関係がヒメラ海戦(英語版)で壊れた後 、紀元前5世紀に遡ると信じられている[3]。
>>273 B.C.538 Phoenicia becomes a Persian province; Carthage asserts its independence.
316 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 07:20:41.50 0
317 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 17:37:42.84 0
318 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 21:50:05.83 0
319 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 21:59:02.18 0
320 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 22:06:46.92 0
321 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 22:14:39.54 0
322 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 23:00:28.57 0
324 :
世界@名無史さん :2014/05/15(木) 23:41:56.63 0
>>323 Boura (Achaea)
http://en.wikipedia.org/wiki/Boura_ (Achaea)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d5/Towns_of_ancient_Achaia.svg/1000px-Towns_of_ancient_Achaia.svg.png Olous
Olous or Olus (Ancient Greek: ?λου?,[1][2] or ?λουλι?[3]) is an ancient, sunken city situated at the present day town of Elounda, Crete, Greece.
http://en.wikipedia.org/wiki/Elounda Pheia (Elis)
http://en.wikipedia.org/wiki/Pheia_ (Elis)
Pheia (Ancient Greek: Φει?, also Φεια? - Pheiai) was a small town and a port in Elis in the ancient country of Pisatis.[1]
It was built in a natural bay at today's Agios Andreas, Katakolo. It was destroyed in the 6th century.[2]
It was located on the isthmus connecting the cape of Katakolo with the mainland, near the river Iardanus.[3]
During the Peloponnesian War, the Athenians conquered the small town and used its ports as their base for military operations in Elis.[4]
In the location of the acropolis, a castle was built in the Middle Ages which survives today, known as Pontikokastro
http://en.wikipedia.org/wiki/Elis http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c2/Ancient_peloponnese.svg/583px-Ancient_peloponnese.svg.png Phanagoria これはセーフ?それともアウト?
http://en.wikipedia.org/wiki/Phanagoria http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/Ancient_Greek_Colonies_of_N_Black_Sea.png/350px-Ancient_Greek_Colonies_of_N_Black_Sea.png
>>319 ヘラクレイオンは昨年地球ドラマチックでやってた
326 :
世界@名無史さん :2014/05/16(金) 02:40:23.40 0
327 :
世界@名無史さん :2014/05/16(金) 02:50:06.99 0
328 :
世界@名無史さん :2014/05/16(金) 03:01:08.55 0
ベロッソス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%BD%E3%82%B9 ベロッソス(Berossos あるいはBerossus, Berosus; ギリシア語: Β?ρωσσο?)はヘレニズム期バビロニアの著述家。紀元前3世紀はじめに活躍した。
伝達と受容[編集]
ベロッソスの著作はヘレニズム世界ではほとんど知られていなかった。
メソポタミアの歴史は、たいていの場合クニドスのクテシアスの『ペルシア誌』(Persica)によるものだった。
むしろベロッソスは占星術関連の著作によってよく知られていたのである。
キリスト教時代以前の著述家たちはベロッソスの『バビロニア誌』を直接には読まず、ベロッソスの著作を引用していたポセイドニオス(前135-51年)に依拠していたらしい。
ポセイドニオスの記述も現存していないが、ウィトルウィウス、プリニウス、セネカらが三次資料として現存している。
その後の時代、ポセイドニオスからいくつかの引用を経てベロッソスを伝えているものとしては
アエティウス(後1-2世紀)、クレオメデス、 パウサニアス、アテナイオス、ケンソリヌス(3世紀)、パルクス(6世紀)、
アラトスの『パイノメナ』(前315-240/39年ごろ、ギリシア語)への匿名のラテン語注釈がある。
329 :
世界@名無史さん :2014/05/16(金) 03:06:22.75 0
330 :
世界@名無史さん :2014/05/16(金) 03:10:41.36 0
そういえば、ポセイドニオスは イリヤッドに無かった気がするな 3拍子揃ってると思うんだが
331 :
世界@名無史さん :2014/05/16(金) 21:57:33.00 0
>>325 俺も見ようと思ってたんだが
途中で寝ちゃったんだよな、、、
332 :
世界@名無史さん :2014/05/16(金) 22:12:44.16 0
>>309 ちゃんと全部確認した訳ではないけど、
結局
>>218 ではピグマリオンに関する記述はなくて
プメイ神として扱っており、キティオンとの関係性を述べているに留まる。
そんでもって、聖書の記述は尊重してて、ヒラムに関する記述は多いね。
とすると、そろそろアフロディーテをやるべきか
333 :
世界@名無史さん :2014/05/16(金) 22:54:12.33 0
>>333 個人的にはペースが早くて付いて行けない
335 :
世界@名無史さん :2014/05/17(土) 00:35:58.19 0
>>334 うーん、なるほど。
そうすると、同じ内容の話を続ける方がいいんだろうか?
自分でも発散しすぎだとは思うんだがww
336 :
世界@名無史さん :2014/05/17(土) 13:37:09.60 0
>>302 (03).クレタ島
(略)
キュテラ島の東の港、すなわちクレタ島から西へ向かう商船にとっては最初の寄港地となるところが
古代名をポイニクス(フェニキアをギリシア人はそう呼んだ)というのは、まるで秘密を漏らしているかのようだ。
その島とフェニキアとが深く結びついていたことは、
その島でいちばん大きいアプロディーテー・オウラニアの神殿はフェニキア人が建てたというヘロドトスの記述にも明らかだおる。
クレタ島西部と同様にキュテラ島と対岸本土のラコニアは、どちらも鉄鉱石の資源に恵まれていた。
とくにラコニア南部は純度の高い赤鉄鉱を産し、フェニキア人を引き寄せたのは当然かもしれない。
そのうえキュテラ島とラコニア最大の港のギュテイオンは、どちらもすでに前二千年紀のミノア時代に紫の染料の生産センターになっていた。
ただしどちらの港町でも鉄器時代の地層がまだほとんど発掘されておらず、フェニキア人の居住を示す確かな証拠は見つかっていない。
337 :
世界@名無史さん :2014/05/17(土) 14:17:19.36 0
338 :
世界@名無史さん :2014/05/17(土) 20:47:33.14 0
340 :
世界@名無史さん :2014/05/17(土) 21:04:26.50 0
にしてもギリシャは難しい、、、
論客もいるだろうし、ミノアにしとこうかな
>>308 歴史上の創成期[編集]
ボイオーティアはコリントス地峡の北側に位置し、東南のアッティカ、北方のテッサリア、南方のペロポネソス半島に囲まれた形で広がっているために、政治的に大変重要な場所だった。
辺境の住民たちの戦略的強さと、広大な地域の中のコミュニケーションの容易さ故に戦略的拠点として度々戦火に見舞われたボイオーティア諸国は、外的に対抗するために「ボイオーティア連合」によって連合制をとっていた。
一方で、良港はなく、それで海運の発展を遅らせた。
ボイオーティア人の中には、ピンダロス、ヘシオドス、エパメイノンダス、ペロピダス、プルタルコスのような偉人もいたが、ことわざでは「鈍い」と言われていた。
おそらくアテナイの、近隣諸国に対する文化的優越感がそう言わせたのであろう。
現在のオロポス (Oropos) 周辺にあったと推定される都市グライア (Graea) (Γρα?α)は、ギリシアで最も古い都市であると伝えられており、地名も「古い」「古代」という意味がある。
何人かの学者は、ギリシャ神話に登場するギリシャ人の祖「グライコス」 (Graecus) (Γραικ??)と関係があるとしている[2]。
アリストテレスはこの町は大洪水前に建設されたと述べている。都市グライアの起源に関する同様の主張は、紀元前267年から紀元前263年に書かれた、古代の大理石の碑文「パロスの年代記」 (Parian Chronicle) にもある。
この年代記は1687年に発見され、現在はオックスフォードとパロス島にある。さらにこの古代都市について、ホメロス、パウサニアス、トゥキディデスの著書にも記述がある。
341 :
世界@名無史さん :2014/05/18(日) 19:06:29.35 0
>>334 とりあえずここでのコピペは止めます
カキコミ内容もちょっと考えてみるので許して
皆にも戻ってきて欲しい、、、
343 :
世界@名無史さん :2014/05/21(水) 00:46:26.47 0
344 :
世界@名無史さん :2014/05/21(水) 01:01:45.00 0
>>343 『ピリッポス史』(Historiarum Philippicarum)
失われた文献に邦訳 があって、その名も『地中海世界史』かww
>>341 コピペで荒らしてスレ過疎化したかったんだろ。もっと頑張れよ屑
346 :
世界@名無史さん :2014/05/22(木) 22:15:41.62 0
347 :
世界@名無史さん :2014/05/23(金) 03:22:36.34 0
ジョン・チャドウィック『ミュケーナイ世界』 は近くの図書館に無かった
>>218 【アッコ】 内の記述で
(略)
ペルシア時代には都会的発展に拍車がかかり、アケネメス朝の行政センターとして興隆をきわめている。
この時期には海岸に沿って市街地が拡大され、アクロポリスには一連の優れた建築物が建てられた。
その場所からフェニキア文字の刻まれた鉢の破片が発見されており、
その一つからアシュタルテ神殿があったことがわかる。
丘の上で発見された住宅街にはあきらかに都市計画が実施されていた。
ペルシア時代と次のヘレニズム時代の建築物には、フェニキア式のピア・アンド・ラブルの技術が見られる。
(略)
>>218 >>128 補遺 - フェニキア本土諸都市のアウトライン
【アトリト】
【テル・アブ・ハワル】
【アッコ】
【アクジヴ】
【テル・ケイサン - 内陸の農業都市】
【テュロス - ある大都会の地誌(トポグラフィ)】
【サレプタ - 産業の町のポートレート】
【シドン - フェニキアの港湾都市とその近郊】
【ベイルート - 新たに発掘された古代の港町】
【ビュブロス - 海岸商都の都会的発展】
【トリポリス - 鉄器時代の都市連合】
【テル・アルデ】
【ウラッサ】
【テル・アルカ】
【シーク・ゼナド】
【テル・カツェル】
【アルワド - 北の過密都市】
【アムリト】
350 :
世界@名無史さん :2014/05/25(日) 21:44:08.43 0
>>349 【アトリト】
【テル・アブ・ハワル(古代名:アクサプ)】
【アッコ】
【アクジヴ(現在:エズージブ村)】
【テル・ケイサン - 内陸の農業都市】
【テュロス(古代名:ソール、フェニキア語で「岩」) - ある大都会の地誌(トポグラフィ)】
【サレプタ(現在:サファランド) - 産業の町のポートレート】
【シドン(現在:サイダ) - フェニキアの港湾都市とその近郊】
【ベイルート(ギリシャ名:ベリュトス) - 新たに発掘された古代の港町】
【ビュブロス(古代名:ゲバル) - 海岸商都の都会的発展】
【トリポリス - 鉄器時代の都市連合】
【テル・アルデ(古代名:アルダタ)】
【ウラッサ(アマルナ文書:ウラッサ→セレウコス朝:オルトシア)】
【テル・アルカ(古代名:アルカタ)】
【シーク・ゼナド】
【テル・カツェル(古代名:シミュラと比定される)】
【アルワド(ポエニ語で「避難所」、ギリシャ名:アラドス) - 北の過密都市】
【アムリト(古代名:マラトゥス)】
カルメル山の麓のドールは?
352 :
世界@名無史さん :2014/05/26(月) 02:45:46.38 0
>>259 ドルは書いてなかった。
たぶん、フェニキア人の都市ではないので。
>>350 【テル・アブ・ハワ厶(古代名:アクサプ)】
の間違いでした。すまそん
ちなみにここは
アッコ湾にのぞむキション川デルタにある。
カルメル山と集落の丘(テル)の間の潟ラグーンに三つの港のうちの一つがあったらしい。
353 :
世界@名無史さん :2014/05/26(月) 03:03:43.17 0
アンカミスった、ごめん
>>350 さらに間違い発見
【サレプタ(現在:サラファンド) - 産業の町のポートレート】
せっかくなのでサレプタは
前8世紀のものとみられるタニトーアシュタルテの切石積みの神殿が、ベンチや供物台神殿中央の柱と共に発見されている。
とあるから
>>170 のぶんと同じだろうな。
そんでもって
>>259 も遡るのかもしれないけど記号はどうだろね?
355 :
世界@名無史さん :2014/05/26(月) 18:44:09.01 0
>>354 そっか、なんだろうね
古代名とかだったら単純にお手上げ
とりあえず、Wikipediaのチェケル人のとこには以下のようにあるので、後年は変わったのかな?
さらに紀元前1100年頃のエジプトの文学作品である『ウエンアメンの物語』の中に、カナン北部、カルメル山の南、タボル山の西にあるドルという町の住人としてチェケル人たちが登場している。
聖書によればこのドルを含んだ地域は後にマナセ人によって征服されたが、チェケル人に関する記述は何も残っていない。
ウェンアメン報告書では悪役として登場なんだがww
356 :
世界@名無史さん :2014/05/27(火) 23:45:36.82 0
>>354 マナセはイスラエルの12部族の一つ、マナセ族の先祖となった
upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/48/12_staemme_israels_cs.png/504px-12_staemme_israels_cs.png
ちなみに英語の記述には、フェニキア人の伸張があったように書いてあるね。
358 :
世界@名無史さん :2014/05/28(水) 01:46:27.20 0
>>218 第1;章 歴史
@ 青銅器時代の地中海東海岸
A 鉄器時代
B ペルシア時代からヘレニズム時代へ
@ 青銅器時代の地中海東海岸
@-01.ビュブロスという例外
@-02.フェニキア南部の海岸都市
@-03.銅の商い
@-04.スギの商い
@-05.アマルナ後からラムセス時代へ
@-06.紀元前13世紀のキュプロス交易
@-07.フェニキア、ウガリト、メソポタミアの通商
@-08.青銅器時代後期フェニキアの全体像
Aの鉄器時代のとこに記述があったはず。
>>357
>>359 A 鉄器時代
A-01.東地中海の激動期
A-02.紀元前12世紀エジプトの衰退
A-03.内陸の交代劇
A-04.『ウェンアムンの報告書』
A-05.「海の民」後の経済復興
A-06.紀元前11世紀フェニキアの商業発展
A-07.テュロス海上交易帝国の誕生
A-08.ソロモンとヒラムの共同事業
A-09.テュロスと内陸通商
A-10.紀元前10世紀のフェニキア人とアラム陣
A-11.エジプトとアッシリアのはざまで
A-12.イトバアルの商い
A-13.紀元前9世紀のフェニキア人とアッシリア
A-14.権力の幕間に− アラム-ダマスカスの台頭
A-15.アッシリアの帰還
A-16.クシュ人のエジプト
A-17.大国の終焉
A-18.バビロニアの支配
B ペルシア時代からヘレニズム時代へ
B-01.ペルシア統治下のフェニキア人
B-02.シドンの優越
B-03.ペルシア時代のキュプロス島
B-04.西方の独立国 −カルタゴの興隆とマゴ将軍家
B-05.斜陽の帝国
B-06.ペルシア時代のフェニキア −領土拡大と市街地発展の時代
B-07.フェニキアとカルタゴのヘレニズム
>>360 A-06.紀元前11世紀フェニキアの商業発展
(略)
旧約聖書のなかの都市ダンが、フェニキアの海岸都市と商いで緊密に結びついていたことは「士師記」にはっきり示されており、時代設定もちょうどこの時期である。
その物語の中では、ダンの住民が属するアシェル族は、アッコ、シドン、アクジヴの住民を追い払わず
「彼らのなかに住み続けた」〔士師記1-31、32〕と書かれている。
別の箇所では、ダンとその住民の防備の堅さが、シドンのそれに並ぶとされている。
そのガリラヤの都市が地理的にテュロスとシドンの両方に近かったことは(40km程度)、
後のダヴィデによるイスラエルの人口調査の話にも裏付けられる。
ダンの名のすぐ後にテュロスとシドンの名が続いている。〔サムエル記下24-6、7〕
さて、このように考古資料に示されるように、前11世紀のフェニキア人都市の経済成長と都会的発展は、
フェニキアの商業拡大の波を明らかに南へと、すなわちガリラヤやイスラエル北部海岸へと押し広げていった。
ダンやドルだけでなく他の遺跡でもみられる破壊の層をフェニキア人によるものとする説がもし正しければ、この商業的進出は軍事力をともなったのかもしれない。
しかし、いずれにしてもフェニキアの通商が、カルメル半島を越えてシャロン海岸平野へと、南にむかって広がっていったことは考古資料から明らかである。
ドールについての記載ありがと
>>360 A-09.テュロスと内陸通商
(略)
ダヴィデのイスラエルによるフェリスティアの征服は、フェニキアの商業を明らかに活気付けている。
フェリスティアは既に前11世紀には、5都市(ガザ、アシュドド、アシュケロン、ガツ、エクロン)の強力な商業連合へと進化しており、
カナン南部の内陸通商路だけでなく、レヴァント南部の沿岸にまで支配の手を伸ばしていた。
そんな彼らがイスラエルに降伏すれば、フェニキアとエジプトの海上交易から侮りがたい邪魔者が消えたことになる。
もちろんイスラエル自体とその首都エルサレムも、前10世紀のフェニキアの商工業にとっては優良な市場以外の何ものでもなかった。
フェニキアの商品は二つの大きな港−北のドルと、南のヨッペから連合王国へと流れ込んだ。
ヨッペはソロモン王の下へ運ばれてきたテュロスの杉材を降ろしたエルサレムの港だが、その正確な場所はいまでもはっきりしない。
ヤッフォの東、アイヤロン側の古代の川筋に面してコトン(内陸港)が発掘されているのでもしかしたらそこかもしれない。
その建設にフェニキア人技術者が手を貸していた可能性もある。
しかし、もう一つの港のドルがフェニキア交易の中心地だったことは明らかだ。
主にイスラエル領北部との取引に使われたことが考古学的に裏づけられている。
フェニキア文化の影響を強く受けており、この時代より前にフェニキアからじかに政治的な支配を受けていたのかもしれない。
(略)
>>365 ちゃんと調べないとわからなそうだね
ちゃんと調べてもわかんないかもしんないけどww
というか、アブ・フレイラの絡みで
前にダムと人造湖のことを調べたことがあるのだが
たしかよくわからなかった
>>131 >>132 >>216 テュロスの男性主神メルカルトは、その名前(ミルク・カルトすなわち「都市の王」 mlk )から、
主たる役どころが都市の統治者であることがわかる。
ポエニ人の宗教は東方から持ち込まれた。当然ながらカルタゴ市には、母都市テュロスの信仰が受けるがれた。
その都市で発見された現存する最古の碑文には、女神アシュタルテと男神プメイ(ピュグマリオンpmy)が登場する。
プメイはキュプロス島起源の神でサルディニア島でみつかった古いフェニキア語の碑文にも名前がみえる >ノーラストーン
>>309 >>310 他にレシェフ、バアル・サポン、シャドラパといった本国フェニキアの神々も信仰されたことがカルタゴの文章から知られている。
しかしなんといっても初期のカルタゴではメルカルトが最高の神だった。
けれどもカルタゴや他の西方ポエニ人都市で信仰されたメルカルトには、早くから本土出身のライバルがおり、
最終的にはその男神「バアル・ハンモン」に地位を奪われている。
エル(ギリシア神話のクロノス)の創造神としての役割は、キリキアで発見された前8世紀のフェニキア語の碑文に
”エルは大地の創造者なり”という句がみられることにも裏付けられる。
ダゴン信仰も、フェニキア地域に根付いていたことがしられている[ヨシュア記19-27]
青銅器時代後期の他の神々も、次の鉄器時代に時期に引き続き信仰されている。
ウガリト神話の最高神で神々の父とされるエルは、カラテペで発見された前8世紀のフェニキア語の碑文に
>>367 にみられる。
前二千年紀に広く崇拝されたバアル・サポンも、のちのテュロスとカルタゴに現れた。
大レシェフ神はカラテペの碑文に再登場を果たし、その後シドンとキュプロス島でひじょうに広い信仰を集めたようだ。
キティオンでは”矢の王”と呼ばれたが、その前身は青銅器時代後期のウガリトにみれれるセム族の神シェドである。
前二千年紀後期に信仰されたことがよく知られている。
いい加減、引用貼り続けて荒らすのやめろよw 電波にいっても仕方ないけど
>>366 岩波から出てる、アッリアノス「アレクサンドロス大王東征記 付インド誌」の注釈で
タプサコスはカルケミシュか?としておきながら、遠征図には
>>365 のAじゃなくBの
位置なんだよね (他の書籍なんかでもB)
やはり分らないんだろうね
372 :
世界@名無史さん :2014/06/02(月) 00:23:25.75 0
>>370 どんな話がしたいのか教えて貰えれば
その方向になるよう努力するのだが
373 :
世界@名無史さん :2014/06/02(月) 21:31:31.81 0
>>371 うーん、ちらちらと見てるんだけど
気になりだすと資料ごとのタプサコスが
同じものを指しているかどうかから始めないと駄目かもしんない。
ちなみにタプサコスで俺が思い浮かべるのは
クセノフォンのアナバシスかなぁ
W.W.ターンの「ヘレニズム文明」で巻末にある図でもBだった これ読みにくいんだよね.....
375 :
世界@名無史さん :2014/06/03(火) 01:45:26.90 0
>>371 アレキサンダーに関してはカルケミシュ説も十分にありそうな雰囲気なんだけど
ファンの方がいっぱい居るだろうから、深くは突っ込まないつもり
かわりにアケメネス朝のサトラップをちょっと調べてみているところ
ちなみにどんな理由で知りたいの?
単に出来るだけ正確なアレクサンドロスの遠征路を知りたいなというだけなんだけど
いろいろ見比べると結構違ってるから、
>>371 ので昭文社の重たい大判の地図等を
横に置いて追ってるんだけど、注釈に載ってる現代名も対象地域のせいか
見当たらなかったりもあるし
>>376 そっか、やっぱアレキサンダー大王の足跡を知りたいってのが理由なんだね。
にしても
>>374 のは書評を見る限り辛そうだww
379 :
世界@名無史さん :2014/06/05(木) 22:38:04.81 0
>>378 とりあえず保護はされてないだろうなぁ
彼らも金になることはわかってるだろうから
アフガンみたいに派手にぶっ壊したりしないだろうけど
盗掘や窃盗の標的になるんじゃないの?
エジプトも含めてアラブは頭ん中も春だよねぇ
380 :
世界@名無史さん :2014/06/05(木) 23:06:30.18 0
じゃぁ訊くがメナンドロス1世もミリンダ王と呼んじゃイカンのか?
もしかしたらソクラテスもソークラテースと延ばさなきゃダメか?
383 :
世界@名無史さん :2014/06/05(木) 23:56:49.52 0
>>380 検索したときにいろんなのに引っかかるようにだよ
三代目もそうしろと言っていた
384 :
世界@名無史さん :2014/06/06(金) 00:09:54.08 0
>>382 個人的には最近の若者がどう読んでるか知りたい
もしかするとギリシャ人やギリシャ神話の神さまは全滅かもしんないねww
387 :
世界@名無史さん :2014/06/06(金) 01:24:56.55 0
アリストテレスはアリスターテレなんだよな。
アケメネスもダレイオスもクセルクセスも使っちゃいけないんだろうな
389 :
世界@名無史さん :2014/06/06(金) 07:49:33.26 0
>>387 テレww
この辺りになると、もはや通じないかもしんない
もう最近の若者とは話ができないかも、、、
390 :
世界@名無史さん :2014/06/06(金) 15:30:37.44 0
アリスタータルか。
>>391 おう、やっぱこういうの作れるのか
ありがとー
王名表もあるし、ありがたやありがたや
394 :
世界@名無史さん :2014/09/17(水) 00:13:36.07 0
以下抜粋、ふーむ
欧州最古の文字が刻まれた粘土板を発見
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110331002 April 1, 2011
最新の研究によると、ギリシャで発見された粘土板の破片に刻まれた記号が、ヨーロッパ最古の判読可能な文字であることが判明したという。
ギリシャ南西部にあるイクライナ(Iklaina)という村のオリーブ畑で発掘された粘土板は、紀元前1450〜1350年ごろに古代ギリシャのミケーネ人書記官によって作られた。
イクライナにもミケーネ文明初期には宮殿があったが、今回の粘土板が作成された時代にはピュロスという都市の近郊にある一集落という程度にさびれていた。
ピュロスは『イリアス』の主要登場人物の1人、ネストル王が統治した地である。
粘土板の破片は縦2.5センチ、横4センチほどの大きさで、記された記号は初期の「線文字B」であった。
線文字Bは古代ギリシャで使われた文字で、約87種の記号で構成され、文字がそれぞれの音を表す音節文字となっている。
ミケーネ人が線文字Bを使うケースは、支配階層が関心を持つ経済的な事柄の記録のみと考えられている。
今回の粘土板も、表側には“製造”を意味すると思われる動詞が刻まれ、裏側には名前と数字の一覧が記されており、おそらく資産表と推定されている。
395 :
世界@名無史さん :2014/09/20(土) 23:09:59.24 0
何にせよ 『西洋古典学事典』を読むことだ。 でなくては、話がはじまらぬ。 分かったナ!!!!!!!!
その本持ってるけどいうほど役に立たない
397 :
世界@名無史さん :2014/09/24(水) 00:16:35.41 0
398 :
世界@名無史さん :2014/09/26(金) 23:33:26.02 0
399 :
世界@名無史さん :2014/10/01(水) 07:57:39.82 0
>>100 ヒッタイト情報はほんと少ないなぁ
文書記録も豊富なのになんでこんなにマイナーなんだろうか
400 :
世界@名無史さん :2014/10/04(土) 21:30:06.31 0
400
401 :
400 :2014/10/04(土) 22:06:23.29 0
やったぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
402 :
世界@名無史さん :2014/10/05(日) 12:14:25.21 0
何にせよ京都大学学術出版会『西洋古典学事典』を買って きちんと読みこなすことだ。 通常の知能があれば、誰にでも出来ることだ。 よいな。
403 :
世界@名無史さん :2014/10/05(日) 15:24:43.20 0
>>399 古代エジプトのピラミッドのような遺跡がなく、クレオパトラのようなエピソードがなく、
アッシリアや新バビロニアのように聖書でメジャーじゃないからではないでしょうか
ハットゥシャ遺跡があるし日本では「天は赤い河のほとり」というマンガまで描かれてるのに。
405 :
世界@名無史さん :2014/10/05(日) 20:37:08.99 0
>>402 どっちかというと、同じトコ出版の『地中海世界史』が読みたい
406 :
世界@名無史さん :2014/10/07(火) 23:42:36.27 0
>>403 エジプトには負けるにしても
話題にはことかかない気がするんだけどね
>>404 そのマンガが元で旅行したりしてる人がかなりいるみたいだね。
そういえば、おれは中学校のときヒッタイトを知って、好きになったのを思い出したよ。
「製鉄の秘密」 と 「戦車」
これほど中二心をくすぐるものもあるまいてww
407 :
世界@名無史さん :2014/10/09(木) 22:56:50.52 0
>>109 >>130 なんかエピソードが足りない気がする、、、
http://en.wikipedia.org/wiki/Ekron エクロン(英語Ekron)は旧約聖書に登場するペリシテ人の5つの町の内のひとつである。
「深く根ざした」という意味であると言われる。多くの学者はアキロンをエクロンである主張している。
カナン入国の際にはヨシュアによってはまだ征服されていなかったが、最初ユダ族に割り当てわれた。
その後ダン族に割り当てられ、ユダ族によって征服された。
エクロンの住民は、祭司エリの時代にペリシテ人に奪われた神の箱が災害をもたらしたのを見て、
自分の町置くことに反対して、イスラエル人に送り返すように提案した。
後に、エクロンの町はガテと共にサムエルによってイスラエルに取り返された。
ダビデがゴリアテに勝利した時には、ペリシテ軍がエクロンの門にまで退却した。
409 :
世界@名無史さん :2014/10/10(金) 22:02:23.10 0
先ヒッタイトのクッシャラ帝国と、古アッシリアのシャムシ・アダド1世帝国の崩壊に関連性がありそうだけど ありそう止まりで終わりそう
411 :
世界@名無史さん :2014/10/10(金) 23:12:30.59 0
アルゴー船つながりで、セーフということにはならないだろうか?
コルキス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9 ギリシア神話の中では、アイエーテースやメーデイアの母国にして、アルゴナウタイの目的地で、また、アマゾーン族のいた土地もここだろうと言われている。
この古代の地域の場所については、現在のグルジア西部とされ、
具体的には、サメグレロ(en:Samegrelo)、イメレティ(en:Imereti)、グリア(en:Guria)、 アジャリア、スヴァネティ、ラチャ(en:Racha)、アブハジア各地方、
およびトルコのリゼ県とトラブゾン・アルトヴィン県の一部と言われている[6]。
コルキス人については、青銅器時代中期には既にカフカースに定住していたものと思われる[7]。
最初期[編集]
この地域は、十分な発達を遂げた青銅器文明の中心地であった。
その文明はコルキス文明(en:Colchian culture)として知られ、青銅器時代中期にかけて出現した隣接するコバン文明(en:Koban culture)と関係があった。
少なくともコルキスの一部では、都市化のプロセスは、古代ギリシアの植民以前、紀元前2000年の終わり頃までには、十分に進んでいたように見られる。
青銅器時代後期(紀元前15世紀?紀元前8世紀)のコルキス人は、ヨーロッパでその技術が習得されるずっと以前に、金属の製錬と鋳造を始め、その専門技術の発達ぶりが確認できる。
洗練された農具も作られた。過ごしやすい風土に恵まれた、肥沃でよく灌漑された低地が、進歩的な農耕技術の成長を促進したのである。
412 :
世界@名無史さん :2014/10/10(金) 23:32:31.83 0
>>410 ここにあるこれが凄く見たい
http://crazyhis.web.fc2.com/alaw/hittitearmy.htm 紺谷亮一著 ヒッタイト帝国成立の背景 筑波大学歴史人類27 1999年
アナトリアの鉱物資源の銅と、アナトリアでは僅かにしか取れないが、当時の主流となっていた青銅を作る上で欠かせない錫の流通ルートからヒッタイトの成立状況を検討していて、
初期のヒッタイトはこの銅の産出点と錫の交易点を押さえることを主眼として支配地域を固めたようだ。
ヒッタイト初期の歴史を記録したと言われるアニッタ文書の全訳とアナトリアの銅の鉱脈図や錫の交易図などもつけられている。
413 :
世界@名無史さん :2014/10/11(土) 11:36:28.51 0
>>412 ちょっと古くないか?
21世紀になって遺伝人類学が長足の進歩を遂げているから。
>>413 微量元素分析とか同位体比を調べるのは、その頃にはかなりできるようになってるので
ほとんど問題ないんじゃないかという気がする。
どっちにしろヒッタイトがどうしてアナトリア南東部のカルケミシュやウガリトの支配を
地理戦略的に選択していったかという話だろうからね。
415 :
世界@名無史さん :2014/10/13(月) 11:53:35.83 0
>>414 しなみに
>>100 のエーベルハルト・ツァンガーの「甦るトロイア戦争」では
アヒヤワ(アシヤ)がAsiaの発祥となったとしていて、
トロイアはボヘミアの錫と強く結びついているとしているが根拠はしらない。
へー、Asiaの語源にはそういう説もあるんだ セム語派のAsu(Sun rise,アジア)とEreb(Sun set,ヨーロッパ)でほぼ確定してるものと思ってた
ttp://harutaseiro.blog89.fc2.com/blog-entry-908.html このサイトでは、
>なお、「アシア」については、ヒッタイトのトゥドハリヤ4世の碑文に出てくる「アスワ Assuwa」の方が相対的には可能性が高そう、と考えられています:
A number of scholars believe that Assuwa is the origin of Graeco-Roman name Asia, drawing attention to the fact that the Roman province of Asia was originally centred in this region.
Trevor Bryce, The Kingdom of the HIttites, Oxford University Press, 1998, p.136.
って書いてある
418 :
世界@名無史さん :2014/10/14(火) 23:15:08.76 0
>>417 アヒヤワ(ヒッタイト名)、アシヤ(エジプト名)、
あと
>>397 のアスワ同盟が、全て同じ対象を指しているかどうかはともかくとして
「海の民」襲来以降の混乱の中、ヒッタイトとその言葉が
近代になるまで長いこと忘れ去られていたことを考えると
おそらくはエジプト名なんだろうなという気はする。
でも、別にアスワの可能性がなくなったりする訳じゃないよ。
419 :
世界@名無史さん :2014/10/14(火) 23:31:59.01 0
>>418 ちなみにアシヤについてはトゥトモシス三世(トトメス3世)のための
年代記や記念碑(ステレ)に書かれた詩的な文章の中で以下のように言及されており
アシヤ地方は、銅、鉛、銀、馬匹?、シグ材、青金石(ラピスラズリ)、
そして象の牙(ママ!)の供給地として知られていたとのこと。
ちなみに、この国との接触はキプロス経由で行われていたらしい(けど根拠は追えてない)。
420 :
世界@名無史さん :2014/10/16(木) 03:49:05.02 0
421 :
世界@名無史さん :2014/10/16(木) 03:54:12.23 0
>>420 Shaushkamuwaで検索するとFacebookが大量に引っかかるよww
c.1230 - 1210 BC Shaushga-muwa / Shaushkamuwa
c.1230 BC
Shaushga-muwa confirms Amurru's alliance with his brother-in-law and uncle, the Hittite king, Tudhaliya V (IV).
Amurru has to follow the Hittite lead in all international matters, provide troops, and prevent seaborne trade between Assyria and Ahhiyawa.
The last point comes from records in Ugarit and relates to the divorce of its ruler, Ammistamru II, from Shaushga-muwa's sister.
c.1200 BC
The state is sacked and destroyed by the Sea Peoples during the collapse of the Hittite empire.
Within a century the former subject city of Damas begins to flourish.
422 :
世界@名無史さん :2014/10/16(木) 04:01:24.66 0
423 :
世界@名無史さん :2014/10/18(土) 01:54:00.94 0
>>155 ふむふむ
そんで
>>100 のエーベルハルト・ツァンガーの「甦るトロイア戦争」では
「サウスガムワ条約」
>>420 の追補部分では、
シリアのサウスガムワに対して、アヒヤワの商船をかれの港に入港させないようにとの命令を下している。
これはとりわけアッシリアに向けられた敵対行為であるようだ。
イスワの銅山を失った後、紀元前1236年に王位に付いた次のヒッタイト大王トゥドハリヤシュ4世は
次の2つの主要課題を解決しなかればならなかったとしている。
第1に、銅を入手できる他の銅鉱床を探すこと、
第2に、アッシリアの攻略行為への報復である。
まず彼は原料供給の問題を解決するため、キプロス島(アラシア)の銅山に触手を伸ばした。
同時代のテクストいわゆるアラシア文書のなかでトゥドハリヤシュ4世は、
キプロス(アラシア)を軍事的手段によって征服し、貢納義務を負った属国に変えた様子を誇らかに述べている。
424 :
世界@名無史さん :2014/10/18(土) 23:59:34.48 0
映画のヘラクレスってどの話やるのかな?
ヘラクレスって、古代の地中海のみならず影響を与えた存在だよね
>>132 前後でも出てるメルカルトのみならず、ヘレニズム期にはメソポタミアではネルガル、
ペルシャではゾロアスター教のウルスラグナとそれぞれ同一視されてるし、大乗仏教では
執金剛神として日本にまで到達してるからさ
427 :
世界@名無史さん :2014/10/21(火) 03:33:09.27 0
>>426 ネルガルはなんとなく聞いたことがあった気がするけど
ウルスラグナは名前すら知らんかった
説明はヴィシュヌだね
どっちもなんでヘラクレスと習合されたのかイマイチわからない
428 :
世界@名無史さん :2014/10/21(火) 04:27:10.12 0
ギリシャ人が勝手にヘラクレスっぽい神を ヘラクレスと同一視しただけだろ。
429 :
世界@名無史さん :2014/10/21(火) 21:54:10.83 0
>>428 そうでもない
少なくても
>>426 で出てる執金剛神なんかは
ギリシャ人が勝手に名前付け替えた訳でもないし
というか、ギリシャの神の多くがオリエントの神々のパクリだよね
431 :
世界@名無史さん :2014/10/22(水) 18:22:36.67 0
>>430 なんか記憶に引っ掛かってたんだが
ネルガル探してて思い出したww
432 :
世界@名無史さん :2014/10/22(水) 23:15:39.87 0
>>426 前出の辞典によると
ネルガルとヘラクレスが同一視されたのは
アケメネス朝ペルシア時代みたいだね
>>433 俺も図書館で見たんだが
下の日本オリエント学会編の辞典を見たはずなんだが
色は青だったような気がするな
あとネルガルは男女入れ替わってるけどペルセポネだな。
そういえば、例のモザイク画の話はでないね。
まぁ、ぐぐる先生は偉大なのでここに載ってるし
同一視される理由っぽいエピソードも続きにある
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/29782953.html そんな黄泉の国を支配するネルガル神がどうしてヘラクレスなのか?
アケメネス朝ペルシア時代にネルガル神はアナトリア南部のキリキア地方で崇められていたということが分かっている。
タルススから発見された紀元前420年頃の硬貨には、アラム語で「nrgl trz」、つまり「タルススのネルガル」と書かれており、棍棒、弓、そして背中にライオンを背負っている姿で描かれている。
タルススはもともと紀元前16世紀頃からヒッタイトの支配下となる紀元前14世紀頃まで王国として存在していたと思われるキツワトナ王国の主要都市だ。
これらは道具や姿は、ヘラクレスの姿を表現する時に使われるものだ。
後の時代のコインにはペルシアの衣装を着て、ダブル・アクスを持った姿でネルガルが描かれているが、
棍棒、斧、ライオンなど、これもヘラクレスのシンボルと一致している。
ヘレニズム時代関連する考古学遺物にはヘラクレスとネルガルを関連付けるものが、ハトラ(Hatra)やパルミラ(Palmyra)などの地から数多く出土している。
>>435 それかもww
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kidlat/soturon/Sugita2007.pdf 5. 神々のレリーフ‐岩の神殿ヤズルカヤ‐
5-1. 遺跡の構造と描かれた神々
5-2. ヤズルカヤの機能
5-3. ヤズルカヤにおけるフリの影響
5-4. ヤズルカヤと王の役割
5-1. 遺跡の構造と描かれた神々
ヤズルカヤとはトルコ語で「描かれた岩」を意味する。その名の通り、この遺跡の岩場にはヒッタイトで信仰されてい
た多数の神々のレリーフが刻まれており、「岩の神殿」と形容される。レリーフ群は主に新王国時代後期のハットゥシリ
3 世からトゥトハリヤ 4 世にかけて造られたと考えられている。都ハットゥシャから北東に約 2km と近いが、古代名はい
まだわかっていない。
遺跡の構造は大きく分けて A 室=回廊 A と B 室=回廊 B、祭壇址と門
址の 4 つである(図 1)。A、B 室ともに自然の岩壁を利用したもので天井
はない。A 室には岩壁前面に行進する神々の像が描かれている。西側の壁
には主として男神が、東側の壁には主として女神のレリーフが刻まれ、そ
れぞれの最高神が行列の先頭に立ち、北の壁でお互いに向き合う。また、
東側にはこの遺跡最大のヒッタイト皇帝トゥトハリヤ 4 世のレリーフ像
がある。いっぽう B 室には、東壁にシャルマ神に抱かれるトゥトハリヤ 4
世(図 2)西壁には 12 神の行列、冥界の神ネルガルのレリーフが存在する。
これらは各々に独立したものであり、相互に関連性は見られない。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/herakles.html (抜粋)
リュディアでは、ヘーラクレースは女王オムパレーの宇宙の車輪に縛りつけられた。女王は、女神の具現者であり、宇宙の中心(オムパロス)の表象だった。
ヘーラクレースは、オムパレーの夫になった一連の聖王のうちの1人 だった。
彼の直前の聖王は、オークの冠を戴いたトモロスだったが、トモロスは、この女大祭司と交わったのち、杭に串刺しにされて死んだ。
ヘーラクレース以前に車輪に縛りつけられた聖王としては、ラピテース族のイクシーオーンがいたが、彼は太陽の巡行を意味する火焔の車輪で命を失った。
たぶん、この種の供犠の風習が、車輪に縛りつけられて1 年間ぐるぐる回された(すなわち、車輪を飾っていた十二宮を1年かけて1巡した)というヘーラクレース神話の下敷きになっていたものと思われる[9]。
古代ギリシアの神話記者たちは、このヘーラクレース神話に新たな解釈を加え、ヘーラクレースは、オムパレーに仕える女たちの間で奴隷として1年間を過ごしたが、
その間、彼は女の衣装を着て、紡ぎ車で亜麻を紡いでいたと改められた。
この物語は、母権制の聖王が父権制の王へと展開していく過程にあって、王は女装をしているときにのみ女王の代行者たりえたという初期の段階を説明するために考え出されたものだった[10]。
ヘーラクレースに仕える祭司たちは、かなり後世になっても、女の衣装を身にまとっていた。
別の神話によると、ヘーラクレースの前任者は半人半馬のネッソスで、彼は、巫女デーイアネイラの所有をめぐって、ヘーラクレースと戦った。
ヘーラクレースが勝って、デーイアネイラと結婚した。ネッソスは死んだが、死に際して 征服者ヘーラクレースに自分の血で赤く染まった儀式用の衣装を贈った。
のちに、巫女-妻デーイアネイラがヘーラクレースにその衣装の着用を命じたとき、彼はそれを身に着けたが、そのためにヘーラクレースは、まるで「炎に包まれた」かのように、身を焼かれてしまった。
ヘーラクレースを火葬にするための積み薪に火をつけたのは、次の王ピロクテーテースで、彼がヘーラクレースの持っていた王位のエンブレムを継承した[11]。
439 :
世界@名無史さん :2014/10/25(土) 08:20:28.84 0
>>438 おっと、どもども
ヒッタイトの時代には既に
ライオンと棍棒のセットになっていたかと思ってたんだけど
なるほど
http://wol.jw.org/ja/wol/pc/r7/lp-j/1200004775/4603/1 バビロニアの神々
時たつうちに,最初のバビロニア帝国の神々は増え始めました。その万神殿には三つ組の神々が幾組か含まれるようになりました。
そのような三つ組の神々の一例は,アヌ(天空の神),エンリル(大地と空気とあらしの神),およびエア(水をつかさどる神)で構成されていました。
もう一組の三つ組の神々は月神シン,太陽神シャマシュ,およびタンムズの愛人もしくは配偶者である豊饒の女神イシュタルでした。(第2巻,529ページの写真)
バビロニア人は,ラバルトゥ,ラバス,およびアッカズのような三つ組の悪魔をさえ奉じていました。天体の崇拝も顕著になり(イザ 47:13),様々な惑星が特定の神々と結び付けられるようになりました。
木星はバビロンの主神マルドゥクと同一視され,
金星は愛と多産の女神イシュタルと,
土星は戦争と狩猟の神で,
農耕の守護者でもあるニヌルタと,
水星は知恵と農耕の神ネボと,また
火星は戦争と疫病の神で,冥界の主であるネルガルとそれぞれ同一視されました。
古代バビロニアの諸都市は,幾分“守護聖人”に似た,それぞれ独自の特別の守護神を持つようになりました。
守護神はウルではシン,
エリドゥではエア,ニップールではエンリル,
クタではネルガル,
ボルシッパではネボ,そして
バビロンの都ではマルドゥク(メロダク)でした。
ハンムラビがバビロンをバビロニアの首都にした当時,その都市の人気のある神マルドゥクの重要性が高まったことは言うまでもありません。
ついに,マルドゥクにはそれ以前の神々の属性が付与され,マルドゥクはバビロニア神話の中でそれらの神々に取って代わりました。
後代になって,その「マルドゥク」という固有名は,「ベル」(「所有者」)という称号に取って代わられたため,結局,マルドゥクは一般にベルと呼ばれるようになりました。
その妻はベリト(特に,「女主人」)と呼ばれました。―「ネボ」4項; 「ベル」を参照。
>>438 アリンナはまんまここに出てる本で読んだ記憶しかない
http://ww5.enjoy.ne.jp/~s-mattsun/kouza/kouzabk04.htm ネルガル(Nergal)
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003228 バビロニアの神。クタという都市で特に崇拝されていました。
歴史によれば,この都市はネルガルにささげられたとされています。
クト(クタ)の民は,アッシリアの王によりサマリアの領土に移住させられた後も,引き続きこの神を崇拝しました。(王二 17:24,30,33)
一部の学者の説によれば,ネルガルは元々,火や太陽の熱と結び付けられていましたが,後に戦争と狩猟の神,さらには疫病をもたらす神とみなされるようになりました。
宗教的なテキストの中でネルガルに付けられている呼称は,ネルガルが基本的には破壊者とみなされていたことを示唆しています。
ネルガルは「激怒する王」,「乱暴な者」,また「焼く者」などと呼ばれています。さらには,冥界の神,またエレシュ・キガルの配偶者ともみなされるようになりました。
人頭有翼のライオンはネルガルの象徴であったと考えられています。
ネブカドネザル王の君の一人である,ラブマグなるネルガル・シャレゼルの名は,この神にちなんで付けられたようです。―エレ 39:3,13。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9 3 ヘーラクレースの12の功業
3.1 ネメアーの獅子 (しし座)
3.2 レルネーのヒュドラー (海へび座、蟹座)
3.3 ケリュネイアの鹿 (アルテミス)
3.4 エリュマントスの猪 (プロメテウス)
3.5 アウゲイアースの家畜小屋 (エーリス王アウゲイアース)
3.6 ステュムパーリデスの鳥 (ヘパイストス)
3.7 クレーテーの牡牛 (ミノス王、ポセイドン)
3.8 ディオメーデースの人喰い馬 (トラーキア王ディオメーデースはアレースの子)
3.9 アマゾーンの女王の腰帯 (アマゾーン女王ヒッポリュテー)
3.10 ゲーリュオーンの牛 (ヘリオス、ゲーリュオーンはメドゥーサがペルセウスに殺されたときに血潮とともに飛び出したクリューサーオールの息子)
3.11 ヘスペリデスの黄金の林檎 (水神ネーレウス、りゅう座、プロメテウス、アトラス)
3.12 地獄の番犬ケルベロス (ハデス、ペルセポネ、テセウス、ペイリトオス)
>>442 アウゲイアース
アウゲイアース (古希: Α?γε?α?, Augei?s, ラテン語: Augeas) は、ギリシア神話の人物である。
エーリス王。ヘーラクレースの「十二の功業」のうち5番目の課題である「アウゲイアースの家畜小屋掃除」に登場することで知られる。
長母音を省略してアウゲイアスとも表記する。イアーソーン率いるアルゴナウタイの1人にも数えられる。
ヘーリオスとナイシダメーの息子。異説では、父親はポセイドーン、ポルバース、エーレイオスともいう。母親についてもアムピダマースの娘ナウピダメーあるいはイーピポエーともいわれる。
兄弟にアクトール。息子にピューレウス、アガステネース、娘にエピカステー、アガメーデーがある。カール・ケレーニイによれば、アウゲイアースとは、「輝ける男」の意である。
ヘーラクレースのエーリス遠征[編集]
このことを恨んだヘーラクレースは、イリオス攻略ののち、アルカディア人の軍勢を集めてエーリスを攻撃した。
アウゲイアースはこれに対して兄弟のアクトールとモリオーネーの息子で、腰から下はひとつの身体という双子の兄弟エウリュトスとクテアトス(モリオネ)を将に任じた。
兄弟はポセイドーンの子ともいう。ヘーラクレースは遠征中に病を得て休戦したが、休戦の理由を知ったエウリュトスとクテアトスがこれを襲い、ヘーラクレースは退却を余儀なくされた。
その際多くの兵が倒され、ヘーラクレースの異父兄弟イーピクレースもこのときの傷がもとで死んだという。
しばらくしてイストミア大祭が開かれ、これにエウリュトスとクテアトスが参加することを知ったヘーラクレースは、二人を待ち伏せして殺し、エーリスを陥落させた。
アウゲイアースは息子たちとともに殺された。一説には、命だけは助けられたともいう。ヘーラクレースは追放されていたピューレウスを呼び寄せてエーリスの王とした。
さらに、ヘーラクレースはこの地にオリュンピア競技を創設し、オリュンポス十二神の祭壇とペロプスの祭壇を築いたという。
>>442 >>434 棍棒と獅子はわかりやすいとして
他は弓と斧か
弓ならスキタイ
黒海地方在住のギリシア人による伝説
ヘラクレスはゲリュオネウス[1]の牛を追いながら、当時は無人であったスキュティアの地にやって来た。
ところが、折からの冬季で酷寒に見舞わされ、ヘラクレスはライオンの皮を引被って眠ってしまった。
するとその間に草を食べていた馬がいなくなってしまったため、ヘラクレスは目を覚ますなり馬を探しまわった末、ヒュライアという土地にやってきた。
ヘラクレスはこの地の洞窟で上半身は娘の姿で、下半身が蛇の姿である怪物と遭遇し、初めは驚いたものの、その蛇女に「迷った馬を見なかったか」とたずねてみた。
すると蛇女は「馬は私の許にあるが、そなたが私と交わってくれぬかぎり馬を返さん」と言うので、ヘラクレスは渋々了承し、しばらく同棲したあと馬を返してもらった。
しかし蛇女の腹には3人の子供が身ごもられており、蛇女はヘラクレスにこの子供をどうするか訊ねた。
するとヘラクレスは弓と帯を使って自分の示した仕草をした者をこの地に住まわせ、できなかった者を追放せよと蛇女に伝え、弓と金の盃のついた帯を渡して去っていった。
やがて3人の子供が成人になると、蛇女はヘラクレスに言われた通り、例の儀式を行った。
長男のアガテュルソス、次男のゲロノスはヘラクレスが示した仕草をできずに国を放逐されたが、三男のスキュテスは見事ヘラクレスが示した仕草ができたので、国に留まり、王になることができた。
以後、スキュテスの子孫が代々王となり、スキティア人は帯に盃をつけるようになった。
>>444 もうひとつは工芸神コシャル・ハシスの弓か
大元の話はすぐには見つからなかった
アナトより
アナト (‘nt [‘anatu]) は、ウガリット神話の愛と戦いの女神。
古くは最高神イルの娘にて妻と位置付けられたが、後に嵐と慈雨の神バアルが人気を得て信仰の中心となるとバアルの妹とも妻とも言われるようになる。
ある時アナトはハルナイムの王ダニルウ(英語版)が工芸神コシャル・ハシス(英語版)に頼んで、息子アクハト(英語版)の為に特別に作らせた弓を手に入れようと考えた。
彼女はアクハトに金や銀、不死の命とその弓を交換しようと持ちかけるが、アクハトは頑としてこれを拒んだ。これに怒るアナトはイルの下へ行き、アクハトに復讐する事を告げた。
イルはこれを咎めるが彼女は聞かず、自身に仕える戦士・ヤトパンを鷲に変えて他の鷲達と共に送り込み、アクハトを殺させた。すると、アクハトの死と共に地上に乾季が訪れた。
その後の詳細は不明だが、アナトはこれを後悔してアクハトを蘇生させたと思われる。
キプロスでは同じ戦いの女神であり、名前のよく似たアテナ (古代ギリシア語: ?ν?θ、?θην?) と同一視され、カルタゴのタニトの起源と考えられている。
ちなみに棍棒もコシャル・ハシスであったな。
>>289 定かでない記憶では投げても手元に戻ってくるはず
蛇女ってのがそそる
>>440 >>441 サマリアより
歴史[編集]
この地には北イスラエル王国が成立したが、紀元前722年、アッシリアにより滅ぼされると、住民はアッシリア領の各地に強制移住させられ(アッシリア捕囚)、
サマリアへはバビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムから[1]、アッシリア人やアラム人が移住してきた。
その後、人食いライオンが現れた(聖書によると、神に遣わされた)ために、捕囚されていたイスラエルの祭司の1人が連れ戻され、ベテルに住まい祭事を行うようになった[2]。
これにより、サマリアの宗教は、移民元の各地の宗教の神とイスラエルの神を共に祭る、独特のものになった。
このように、サマリアの宗教はユダヤ地域と異なる宗教形態を持ったため、ユダヤ人から忌避された。
ユダヤ人のバビロン捕囚からの帰還後、ユダヤ教団とサマリア教団の分裂は決定的になり、とくにサマリア教徒は「サマリア人」と呼ばれるようになった。[要出典]
詳細は「サマリア人」を参照
サマリア人の聖地はショメロンと同じサマリア地方の、ナブルス市のゲリジム山にある。
サマリア教団に伝承されるモーセ五書の形態はマソラ本文と異なり、これを特に「サマリア五書」と呼ぶ。
旧約聖書成立の過程をユダヤ教団と共有しなかったため、トーラーのみを聖典とする。[要出典]
449 :
世界@名無史さん :2014/10/26(日) 15:12:29.32 0
>>448 ちなみにライオンに襲われる
列王記より
https://www.bible.com/ja/bible/jlb/2kgs.17.jlb 24 アッシリヤ王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムの住民を連れて来て、サマリヤの町々に住まわせました。
こうして、サマリヤをはじめイスラエルの町々は、アッシリヤ人のものとなったのです。
25 アッシリヤからの移住者は、初め、神様を礼拝しませんでした。 それで、神様はライオンを送り込み、幾人かを噛み殺させたのです。
26 移住者はアッシリヤ王に使者を立て、こう報告しました。 「私たちイスラエルに植民した者は、この地の神の教えを知りません。
その神がライオンを送り込んで、私たちを滅ぼそうとしました。 その神を礼拝しなかったからです。」
29 それでも、移住者たちは、同時にめいめいの神をも拝んだのです。 神の像は自分たちが住む町の近くにある、丘の上の礼拝所に安置しました。
30 バビロンから来た人々はスコテ・ベノテ神、クテから来た人々はネレガル神、ハマテから来た人々はアシマ神というぐあいにです。
31 アワ人はニブハズ神とタルタク神の像を拝み、セファルワイムから来た人々は、アデラメレク神とアナメレク神の祭壇に、わが子を火で焼いてささげました。
>>441 サンタスSantas と 配偶者であるラズ(Laz) はよくわからん。
エレシュキガル とは別モノなんだろうか?
ネルガル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AB ネルガル(Nergal)またはニルガルは、バビロニアの神の一柱で、
彼への信仰は、バビロンの北西15マイルのクター(英語版) Cuthah(今日ではテル・イブラヒムTell Ibrahimとして知られる)という都市で主要な地位を占めていた。
旧約聖書「列王記」に、ネルガルはクターの神であるとの言及がある。
ネルガルはある面では太陽神の側面を持ち、しばしばシャマシュと同一視される一方、太陽そのもののことを指しているとも考えられる。
神話や賛歌の中では、戦争と疫病の神として描かれており、正午や夏至の太陽が人類にもたらす災禍を表していると思われる。
メソポタミア人の暦では、夏の盛りは死をもたらす季節だったからだ。
ネルガルはまた、死者(アラルAraluまたはイルカラ(英語版)の名で知られる地下の大洞窟に集められると考えられていた)の国のパンテオンの頂点に立ち、黄泉の国を宰領する神でもある。
その能力から、女神アルラツ(英語版)ないしエレシュキガルと関連づけられる。
アルラツはアラルの民を統治する単独の支配者とされることもあるが、いくつかの資料では、アルラツまたはエレシュキガルが、ネルガルの息子ニナズ(英語版)を生んだとされている。
一般的にはネルガルは、配偶者であるラズ(Laz)と対にされ、標準的なイコンでは彼をライオンとして描く。
>>441 >>450 出典はアマルナ出土らしい(アッシュール出土もある)
http://www.toroia.info/dict/index.php?%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2%2F%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%81%AE14%E3%81%AE%E6%82%AA%E9%AD%94 ネルガルがエレシュキガルの夫となり冥界の王になった理由を物語る神話は2つあり、
それはネルガルが、エレシュキガルが神々の集会に送った特使の前で立ち上がることを拒否したことから始まる。
エレシュキガルはネルガルを呼び出して自分たちへの無礼の説明を求め、神々は天界からネルガルを追放することに同意した。
その後、知恵の神エアは追放されたネルガルに14の悪魔の護衛を与えた。
ネルガルはこの悪魔たちを使って地下世界の7つの門を差し押さえ、そしてエレシュキガルの部屋に入ると彼女の髪をつかんで床の上に投げ出した。
ネルガルはエレシュキガルの喉元にナイフを突きつけたが、エレシュキガルは彼に対して自分の妻になるように求め、冥界の王になるよう懇願した。
ネルガルはそれを受け入れ、冥界の王となった。ちなみにこの物語の資料はエジプトのテル・エル・アマルナ出土の二断片に記されたもの。
この14の悪魔のうち12の名前が残っているが、多くが病気に関するものである。詳しい描写はないが、おそらく「名は体を表す」のだろう。
../ムタブリク、../シャラブダ、../ラービス、../ティリド、../イディブトゥ、../ベンヌ、../シーダーヌ、../ミキト、../ベルー・ウプリ、../ウンム、../リーブ、../フルバシュ。
別の集団ではあるが、ネルガルに属するものとしてアッシリアの皇太子(おそらくアッシュルバニパル)の夢に出てきたものがある。
まずネルガルは玉座に座っており、双頭の槌鉾を持っていた。
そして彼の周囲を../ナムタル、../ナムタルトゥ、../ムートゥ、../シェードゥ・レムヌ、../ムキール・レーシュ・レムッティ、../フムト・タバル、
../エテンム、../ウトゥック・レムヌ、../シュラク、../マーミートゥ、../ベドゥ、../アルルハップ、../ミンマ・レムヌ、../ムフラ、
さらに名の知られていない2つの神、一人は../アンズーの頭と手足であり、もう一人は人間の姿をしているものがいた。
ちなみにこの物語は「冥界の幻影」と呼ばれ、アッシュール出土。
>>451 どうだろうねw
どっちにしろ
>>442 のヘラクレスと「12の功業」が
東地中海(というより黒海周辺)と関係が深いのは間違いない。
と、ここまでは前に調べたときにもわかりやすいんだけど
ヘラクレスの起源はいまいちわからない。
「12の功業」と季節の話が統合できるんじゃないかとも思ったが
これは単純じゃないね。
>>442 >>451 エキドナの子供達[編集]
◆テューポーンとの間に生まれた子
ケルベロス(♂)
オルトロス(♂)
ヒュドラー(♂)
ラードーン(♂)
金羊毛の番竜(♂)
エトン(プロメーテウスを襲った鷲)(♂)
クリュンヌ(♀)
デルピュネー(♀)
パイア(♀)
キマイラ(♀)
ケートス(♂)
スキュラ(♀)
●オルトロスとの間に生まれた子
ネメアーの獅子(♂)
カルキノス(♂)
タゲス(♂)
スピンクス(♀)
▲ヘーラクレースとの間に生まれた子
アガテュルソス
ゲローノス
スキュテース
>>451 加藤九祚というとウラルトゥの本を読もうかどうか迷ったが、
本が汚かったのでやめました。
加藤九祚でふと思ったんだけど、オクサス川とコクチャ川の合流する地点にある アイ・ハヌムはこのスレの対象範囲か否かどちら?
457 :
世界@名無史さん :2014/10/27(月) 22:05:36.11 0
>>456 俺はどっちでも構わない
というか、ほとんど人も居ないし
なにやっても大丈夫なんじゃないだろうかww
458 :
世界@名無史さん :2014/10/28(火) 21:56:17.03 0
「イナンナの冥界下り」は読んだ気がするけど それに比べて 「ネルガルとエレシュキガル」は ギリシャ神話と色々と類似もあっておもしろいな。 検索しても日本語の出典があんまり載ってなくて寂しいところ。
>>328 >>57 >>326 バビロニアの星座の名前
http://www.kotenmon.com/str/mulapin.htm 星座の起源・カルディア人羊飼い説を考える
http://www.kotenmon.com/str/hitsuji.htm なぜ今欧米ではカルディア人羊飼い物語が無いのか
アメリカの星座の本を見てもカルディア人羊飼い物語を見つけるのは難しい。既にアメリカでは「星座の起源=カルディアの羊飼い説」は子供だましとすら使われていない。
これは星座の起源について学術的研究が行われているためで、たとえば、黄道星座の発生はカルデイア王国より新しい紀元前5世紀頃であることは今は常識となっている。
アメリカではずいぶん前にカルディア人羊飼い物語は淘汰されているので、それに関する資料をみつけるのも難しい。
その中で、先に挙げたROBERT BROWNの「Reserchs into the origin of the PRIMITIVE CONSTELLATIONS of the Greeks, Phoenicians and Babylonian」(1899)
に以下のコメントがあるので以下に引用しておく。なぜ今欧米ではカルディア人羊飼い物語が無いのか
461 :
世界@名無史さん :2014/10/30(木) 00:13:57.36 0
>>460 さて、どっち?
(2)アモリ人・カッシート人・
アモリ人のが残した、今から3800年前のBC1800の記録には、荷車(おおぐま座)、天の狩人(オリオン)といった星座や、
現在も星占いの星座として知られる「黄道十二星座」のうち、いて・かに・てんびんを除く黄道9星座が登場しています。つまり、このアモリ人が、「確実に星座をつくった、とりあえず確実な人たち」ということになります。
農業を行うために、星ををよく観察し季節を知る必要性があり、やがて暦をつくっていったのでしょう。
その後、ハンムラビ王が亡くなって、古代バビロニア=バビロン第1王朝が衰退していくと、カッシート族に国をのっとられてしまいます。
カッシートの時代は400年も続きますが、あまりよくは知られていません。しかし、境界石(クッドルー)と呼ばれる石碑が大きく注目されます。
クッドルーは、王が領主に授けた土地所有についての誓約書のようなものだとされています。楔形文字と絵が書かれていて、その絵には動物の姿が多く描かれています。
かつては、これが星座絵だといわれていましたが、残念ながら、神々の姿(シンボルマーク)である、ということに現在は落ちついているようです。
しかし、クッドルーの絵の中には、魚ヤギやサソリ人間、水がめをもつ女神があったりして、これが星座のもとになっていった、という見方もできそうです。
Wikipediaでは
由来と歴史[編集]
元々はさそり座のはさみの部分であったとも考えられている。後に星座として独立した。このため、黄道十二星座の中では最も新しいものと考えられている。
黄道十二星座の1つなので、元々はメソポタミア文明に由来を持つ可能性が高い。
神話[編集]
ギリシア神話では、正義と天文の女神アストライアーの所有物で、正義を計る天秤だとされる[4]。かつては秋分点がこの星座にあったので、昼夜の長さを等しく計る天秤だったという説もある[4]。
なお隣の星座であるおとめ座はアストライアーをかたどったものとする説がある[4]。
463 :
世界@名無史さん :2014/11/04(火) 19:40:29.73 0
464 :
世界@名無史さん :2014/11/04(火) 21:20:26.05 0
しかし、よくもあんな寒いところに帝国首都を置けたものだ。
466 :
世界@名無史さん :2014/11/05(水) 00:57:25.20 0
>>462 この辺りか
ミトラス(ミスラ)じゃなくてヘリオスなのがおもしろいところ
アイ・ハヌム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%8C%E3%83%A0 アイ・ハヌム(Ai-Khanoum, Ay Khanum)は、アフガニスタン北部のタハール州にあったギリシャ人による古代都市で、
アレクサンドロス3世による征服後の紀元前4世紀に作られたグレコ・バクトリア王国の主要都市。
アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus) に比定され、後のエウクラティディア(ギリシャ語版、英語版) (Eucratidia) の可能性もある。
"Ai-Khanoum" という名称はウズベク語で「月の婦人」の意[1]。
位置はアフガニスタン北西部のクンドゥーズ州内であり、オクサス(Oxus、現在のアムダリヤ川)とコクチャ川(英語版)が合流する地点にあり、インド亜大陸の玄関口にあたる。
アイ・ハヌムは約2世紀に渡り東洋におけるヘレニズム文化の中心地だったが、エウクラティデス1世の死後間もない紀元前145年ごろ遊牧民月氏の侵入によって壊滅した[2]。
その他の遺物
エウクラティデス1世の時代までのグレコ・バクトリア王国の硬貨が多数出土しているが、それ以降の貨幣は見つかっていない。
Agathocles とヒンズーの神々を描いた珍しい硬貨も出土している。
ヴェーダの神々を描いた最古の硬貨とされており、ヴィシュヌの初期のアヴァターラ、バララーマ-シェーシャ、ヴァスデーヴァ-クリシュナなどが描かれている。
これらはグレコ・バクトリア王国が北インドを侵略していた証拠と考えられる。
他にも以下のような遺物が出土している。
戦車に載ったキュベレーと炎の祭壇が描かれ、上にヘーリオスが描かれた、丸い浮き彫りのプレート
ほぼ完全な形のヘーラクレースのブロンズ像
宝石や金を使ったアクセサリ
宝物庫から見つかったインドの工芸品。エウクラティデスが遠征の際に持ち帰ったものと推測される。
アフロディーテの座像の形をした洗面所用トレイ
髭をたくわえ王冠をかぶった中年男性の浮き彫り
日時計、インク壷、食器などの各種出土品から、日常生活はギリシア風だったことがわかる。
>>466 作成したのがアナトリア出身のギリシア系ならミスラじゃなくヘリオスなのは当然じゃない?
468 :
世界@名無史さん :2014/11/05(水) 17:45:51.94 0
>>467 ゴメン、拝火教徒の方と読み違ってた。
アナーヒタとキュベレは微妙にズレてる気もするんだが
習合するのはなんでもありなのかww
469 :
世界@名無史さん :2014/11/05(水) 17:52:34.93 0
>>465 移住政策の結果としてなら、
荷物は多かったんじゃないかという気がするんで
ユーフラテス川を下ったんじゃなかろうか
でもそこからのルートは全然わからないww
>>470 青木健の本だったと思うけど、
ゾロアスター教も最初はアフラ・マズダを最高神として旧来の神を認めなかったが
結局のとこ人気がありすぎて何体かの神が系列に加わっており
それが、アナーヒタ、ミスラ、とあと数体だったかな。
アケネメス朝ぐらいまでしか知らないので、
その後の話はどうなったのか定かでない、、、
>>471 単純にキリキアのタルソス辺りから東へ一直線でカスピ海の下を経由して
オクサスまでって√は無いだろうね
474 :
世界@名無史さん :2014/11/06(木) 01:31:18.77 0
アナーヒターってライオンに乗ってたりしなかった?
アナーヒターとキュベレは共に戦車に乗るが、豹または獅子のペアを付き従わせる
のはキュベレ (アナーヒターに獅子はメアリー・ボイスの本見る限り無かった)
>>471 王の道に関して、ピエール・ブリアン(小川英雄監修)の「ペルシア帝国」に
サルディス→タルソス辺りから直線で→アルベラから南下し途中で東へ→
ベヒストゥーン→エクバタナ→テヘラン→ヒルカニアを経由して直線で→バクトラの√が載ってた
なおサルディスからスサまで徒歩で3ヶ月、早馬で数日かかるらしい
476 :
世界@名無史さん :2014/11/06(木) 21:49:49.07 0
早馬で数日・・・ そんなもんで行けるのか。 距離にして3000kmくらいありそうだけど。
477 :
世界@名無史さん :2014/11/07(金) 00:39:23.18 0
>>476 王の道の早馬はたしか駅舎で乗換式のやつ
アケメネス朝なら汗血馬を各駅に飼っておけた? フェルガナってキュロポリスとかあったんだから勢力範囲だろうし
鎌つき戦車で突っ込んで来るのはやめてくださいよ、ペルシア帝国
>>473 バイキングがカスピ海経由でアラブ商人と交易していて
バグダットまで到達しているみたいなんだけど、どこ通ったのかなぁ
日本大百科全書(ニッポニカ)
スウェーデン系
東方に進出したのはおもにスウェーデン系で、スウェーデンで発見される多数のルーン碑銘は、「東方で没した」同胞を記念したもので、
ギリシアやセルクランド(カスピ海の東部地方)に言及するものもある。
彼らは7世紀からバルト海東岸部に進出し、9世紀には北ロシアのラドガ湖周辺に定住して、ドニエプル川と黒海によりビザンティン帝国と、
またボルガ川沿いにカスピ海を越えてイスラム教国と、おもに交易関係をもった。
『ベルタン年代記』は、839年ロシアを通過し、ビザンティン帝国の使節に随伴してルイ1世(敬虔(けいけん)王)を訪れたスウェーデン人を記録する。
1112年ごろにキエフで編纂(へんさん)された『原初年代記』によると、862年ルーシ(スウェーデン人をさすフィン語の訛(なま)り)の首長リューリクは、
スラブ人らに招致されノブゴロド公国を、また部下のオレーグは、882年に遷都してドニエプル川中流にキエフ公国を建設した。
10世紀に入ると、ルーシ人はビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルに遠征し、種々の商業特権を帝国領内で獲得するが、
両者間で結ばれた912、945両年の通商条約に署名されたルーシ人名の比較から、彼らの急速なスラブ化の過程が判明する。
しかし、キエフ諸公と、オーラフ1世、オーラフ2世ら北欧諸王との親縁関係は、以後も維持された。
この時代、キエフやコンスタンティノープルで傭兵あるいは皇帝の親衛隊として勇名をはせた北欧人はワリャーグとよばれ、
ノルウェーのハラール3世は著名であるが、彼らを通じてギリシア正教、ビザンツ文化がロシア、北欧にもたらされた。
一方、9世紀ごろにノブゴロドからボルガ川中流の町ブルガルの大市へ赴き、さらにカスピ海へ下ってアラブ人と交易関係を維持した者もあるが、
彼らは9?10世紀中ごろまで北ロシアやスウェーデンにアラブ銀貨を多量に流入させ、アラブ人は彼らをルーシ商人とよんでいた。[荒川明久]
『ジャクリーヌ・シンプソン著、早野勝巳訳『ヴァイキングの世界』(1982・東京書籍) ▽熊野聰著『北の農民ヴァイキング――実力と友情の社会』(1983・平凡社)』
482 :
世界@名無史さん :2014/11/12(水) 21:53:36.32 0
>>475 べヒストゥーン碑文は
天下の往来で偉業を知らしめるために
王の道沿いに彫られたんだよね
前にテレビで見た時に
あまりに平凡な道でびっくりしたんだけど
あれは当時の王の道のとは別もんだったんだろうか、、、
>>201 と
>>481 のギリシアとフェニキアの地図を比較して
差異を見つけるのっておもしろいね
ミシガン大学のほうも、もう少しカラーだったらもっと分かりやすいのに
484 :
世界@名無史さん :2014/11/16(日) 23:45:09.28 0
鎌戦車で特攻したらさっと左右に避けられて そのまま直進してしまう虚しさ。
>>465 あまりにおもしろそうだったので借りてきてしまった、、、
ヘレニズムに関しては、前田耕作「バクトリア王国の興亡」もおもしろいよ もし図書館にあるなら借りてみるのもいいかも
>>481 いまさらヒッタイトの地図を確認したけど、すんごっくおもしろいね
カスカは真北の設定で
アスワは決めかねてる感じか
ミタンニ内の地名はしっかりしてそうなんだけど
これはメソポタミアの方に情報あったりするのかな
489 :
世界@名無史さん :2014/11/22(土) 00:34:28.98 0
>>488 良く分かってないってのがホントのところなんで
それで正しいと思うな
とりあえずこの地図だと「ミラワンダ」を「ミレトス」として同定していて
「ウィルサ」を「トロイア」に固定はしてないね
>>486 ご丁寧にありがとう
時代的にはそんなに興味ないかなと思ったのですが
紹介にコインの写真が豊富とあるのが、、、じゅるる
写真は白黒だから、もしカラー期待してたら外れだよ 一応ね
492 :
世界@名無史さん :2014/11/25(火) 21:30:14.20 0
>>180 >>189 >>191 どうみても、リビアじゃなくてリディアな気がするんだよなぁ
http://en.wikipedia.org/wiki/Lake_Tritonis そんで
>>189 は
[55] 世界制覇へ
アマゾネス勢は、昼間の成功に気をよくして夜間の見張りをなおざりにしていたので、捕虜の女人たちがこれを襲い、征服し切ったはずの勝者の持つ剣を引き抜いて、大勢の相手を殺した。
しかし最後には、アマゾネス勢が多勢で四方から捕虜の周りへ押し寄せたので、捕虜の女人たちは誇り高く戦いながら、ひとり残らず斬り殺された。
(2) ミュリナは、遠征仲間のなかから戦にたおれた兵たちを、三つの火葬の薪のなかで茶毘に付すと、大きな塚の上に墓三つを立てた。これらを今日までアマゾネス族の土墳の名で呼ぶ。
(3) ゴルゴネス族の最期
それより後代に、ゴルゴネス族がふたたび勢力を伸ばしたが、その後ゼウスの息子ペルセウスとの戦に破れ、当時のこの族民の女王がメドゥサであった。
そして結局は、へーラクレースの手でアマゾネス族共ども完全に滅び去った。後者の英雄が西寄りの諸地域へ出かけて、リピュア地方の地に標柱を立てた折のことである。
英雄の考えでは、自分が人間族全体に功労を尽す道を選んだのに、それら諸族のなかに一部、女人支配の族民がいるのを見逃したのでは、不当なことになるからであった。
また、トリトニス湖も地震が起きた際に姿を消し、消えたのは、湖のうちで大洋オケアノス寄りになった諸地域が裂けたことによる、という。
(4) エジプトからシュリアまで
話によると、ミュリナはリピュア地方のほとんどへ出向いた。そして、エジプト内へ足を踏み入れると、
イシスの息子ホロスが当時エジプトの王位にあった許を訪れて、友好関係を結び、アラビア族との戦を遂行して多くの敵をたおし、シュリア地方を打倒した。
キリキア族は贈物を用意して女王を迎え、受けた命令を実行することに同意したので、自発的に投降したものとして自由民の資格を存続させた。
(5) カイコス川に達する
女王は、タウロス山脈一帯の諸族が格段に強力であったのをも戦に下し、大プリュギア地方を通過して(わたしたちの)海へ下った。
そして、引きつづき沿岸地方を征服地に加えた後、カイコス川を遠征の境界とした。
494 :
世界@名無史さん :2014/11/29(土) 21:50:49.27 0
495 :
世界@名無史さん :2014/12/02(火) 22:14:51.08 0
496 :
世界@名無史さん :2014/12/10(水) 20:33:49.60 0
497 :
世界@名無史さん :2014/12/20(土) 11:23:14.12 0
既にネタもあるんだね。まぁ、みんな考えることは同じっぽい
が、ニュートンってのはホントなんだろうかww
>>411 >>453 >>496 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%82%A4 黄道星座の構成要素[編集]
グレーヴスによれば、アルゴナウタイの航海と黄道十二星座の関連を指摘したのはアイザック・ニュートンである。
物語がエジプト、とりわけアレクサンドリアの十二星座の影響を受けた可能性があるとする。
星座と物語が対応する要素として挙げられるのは、
おひつじ座→プリクソスの金毛の牡羊、
おうし座→青銅の足を持つアイエーテースの牡牛、
ふたご座→ディオスクーロイ(カストールとポリュデウケース)、
しし座→ドリオニアの王キュージコスが殺したというレアーのライオン、
おとめ座→メーデイア、
てんびん座→ケルキューラ島でのアルキノオスの裁定、
いて座→ヘーラクレース、やぎ座→レームノス島での求愛の象徴、
みずがめ座→アイギーナ島での水汲み競争、である。
さらに、隠れた要素として、さそり座→蛇、かに座→再生の象徴としての黄金虫があるとする。
隠れた要素とは、航海には直接現れないが、アルゴナウタイの帰還後、
メーデイアがアテーナイを追放され、イタリアでマルビウム人たちに「蛇遣いの術」を教えたという伝承、
もうひとつはメーデイアがペリアースを謀殺したときのように、大釜を用いて再生(若返り)の魔法を使ったことを指すものと考えられる[2]。
>>409 http://en.wikipedia.org/wiki/Palaic_language Palaic is an extinct Indo-European language, attested in cuneiform tablets in Bronze Age Hattusa, the capital of the Hittites.
Its name in Hittite is palaumnili, or "of the people of Pala"; Pala was probably to the northwest of the Hittite core area, so in the northwest of present mainland Turkey.
That region was overrun by the Kaskas in the 15th century BC, and the language likely went out of daily use at that time.
http://en.wikipedia.org/wiki/Kaskians
>>499 の地図と自分が参照してる本2冊のイプソスの場所と違うから、Ipsusに気づかなった
本ではベイシェヒル湖とエイルディル湖の間くらいの経度に記載があったんだけど
(W.W.ターンのヘレニズム文明、前田耕作のバクトリア王国の興亡を参照)
>>500 現在のトルコにおける地名は何かな?と
>>501 なにを何処まで極めたいのかと思ったワロスww
アレキサンダー大王については全く無知なんだけど
ディアドコイ戦争はしっとくと楽しそうだ
>>501 http://en.wikipedia.org/wiki/Synnada Synnada (Greek: Σ?νναδα) was an ancient town of Phrygia Salutaris in Asia Minor. Its site is now occupied by the modern Turkish town of ?uhut, in Afyonkarahisar Province.
アフヨンの辺りっぽいけど、IpsiliHissarは見つからなかった
やはりアフヨンの辺りだよね(地球の歩き方を見ての見当で) どうもありがと
連投で申し訳無いけど、IpsiliHissarじゃなくiscehisarでいいのかな? アフヨンの東斜め上に位置してる
>>505 それはよくわからんねww
とりあえずやっぱトルこの地名は鬼門
個人的にはそのさらに東にCeltikをみかけたんだけど
ガラティアと関係あるのかどうかが気になった
セルティックってぎりぎりフリュギアなんじゃない? その上にある川を越えた先のバルヒサル(ベッシヌス)はガラティアだろうけど
508 :
世界@名無史さん :2014/12/27(土) 18:09:48.45 0
>>507 そうか、まんまケルトっぽいと思ったんだけど
まぁ、ほんとにCなのかどうかも怪しかったww
509 :
世界@名無史さん :2014/12/30(火) 00:05:08.59 0
>>131 エシュムンとアスクレピオスの話までは色々とひっかかるんだけど、
どういう経緯でそうなったのかがイマイチわからないんだよな
何故両者が同一視されたかってこと? そうだと仮定してだけど、エシュムンは冥府の神だから病気にすることも 逆に治すことも自在なため、祀ることによって治療の神の側面を顕現してもらうように祈願 このことからギリシア人にアスクレピオスと同一視されたと読んだ覚えがあるけど どんな書籍でかは忘れた (うろ覚えなんで違ってたらごめん)
512 :
世界@名無史さん :2015/01/02(金) 01:15:17.02 0
>>510 ありがとう
Wikipediaのエピタウロスの項を読むと
出身地とされるこの都市に神殿が建てられたのが前5世紀頃で
其れ以前は別のモノが祀られていたらしい
エシュムンの神殿は水が重要な要素なんだけど、うーむ
513 :
世界@名無史さん :2015/01/02(金) 19:28:50.34 0
遺伝子のおかげで、ドーリア・アカイア人と先住民との違いがはっきりした。
514 :
世界@名無史さん :2015/01/02(金) 21:20:59.58 0
516 :
世界@名無史さん :2015/01/04(日) 16:32:15.63 0
>>515 古代ギリシャって鉄板ネタなのに
おもしろい論客が居ないのはなんでなんだろうね?
>>516 あ、スレがおもしろくなかったという訳じゃないよ。
コテハンで長いこと頑張ってるような人が居ないなぁと思っただけで
>>511 これとか有名な碑文なんだろうけど日本のサイトで取り扱ってるとこ見かけないね
っと思ったが紀元後2世紀ならおいらの知ってるやつじゃないな
今度探してみよう
A trilingual inscription of the 2nd century BC from Sardinia[2] also identifies Eshmun with the Greek Asclepius and the Latin Aesculapius.
>>510 なるほどレシェフ神か
>>369 Pausanias[3] quotes a Sidonian as saying that the Phoenicians claim Apollo as the father of Asclepius, as do the Greeks, but unlike them do not make his mother a mortal woman.
The Sidonian then continued with an allegory which explained that Apollo represented the sun, whose changing path imparts to the air its healthiness which is to be understood as Asclepius.
This allegory seems likely a late invention. Also Apollo is usually equated with the Phoenician plague god Resheph.
This might be a variant version of Eshmun's parentage, or Apollo might also be equated with Sadyk, and Sadyk might be equated with Resheph.
>>518 >the 2nd century BC
紀元前じゃないのか?
>>522 3枚なのでてっきり三カ国語併記だと思ってたwwアホ過ぎてワラタ
Pyrgi Tablets
http://en.wikipedia.org/wiki/Pyrgi_Tablets The Pyrgi Tablets, found in a 1964 excavation of a sanctuary of ancient Pyrgi on the Tyrrhenian coast of Italy (today the town of Santa Severa),
are three golden leaves that record a dedication made around 500 BCE by Thefarie Velianas, king of Caere, to the Phoenician goddess ?Ashtaret.
Pyrgi was the port of the southern Etruscan town of Caere.
Two of the tablets are inscribed in the Etruscan language, the third in Phoenician.[1]
These writings are important in providing both a bilingual text that allows researchers to use knowledge of Phoenician to interpret Etruscan, and evidence of Phoenician or Punic influence in the Western Mediterranean.
They may relate to Polybius's report (Hist. 3,22) of an ancient and almost unintelligible treaty between the Romans and the Carthaginians, which he dated to the consulships of L. Iunius Brutus and L. Tarquinius Collatinus (509 BCE).
524 :
世界@名無史さん :2015/01/04(日) 22:05:04.77 0
525 :
世界@名無史さん :2015/01/06(火) 00:15:20.41 0
>>515 の一番上のスレに黒いアテネについての書きこみあるね
その本に対する批判の回答しての続編も読むならありじゃない?
>>223 これは前書きを見てさすがに古すぎるんじゃないかと思ってやめた
著者は博学らしいので
内容はおもしろいこともいっぱいありそうではあったんだが
ところでアレクサンドロス3世の足跡を追っている人は
>>344 は読んだんだろうか
密かにヒストリエあたりのネタ元なんじゃなかろうかと考えてるんだけど
529 :
世界@名無史さん :2015/01/06(火) 13:16:21.03 0
黒いアテネよりも、黒いクロマニヨン人という本を出してほしいわ。 クロマニヨン人の身体的特徴を明確にしておく必要があるだろう。 でないと、欧州人の起源に関する議論がバラバラになってしまう。
>>527 >>344 はまだ読んでない
今はオーレル・スタインに関しての「アレクサンドロス古道」という本を読んでる
カーブルからタクシラ辺りにかけての特にスワート周辺が取り上げられてるけど
個人的には凄くおもしろい
531 :
世界@名無史さん :2015/01/06(火) 22:00:48.01 0
>>369 >>521 が
※ちなみに「カデシュ」は地名のカデシュとは関係ない。ラメセス2世の時代に起きた「カデシュの戦い」とは無関係。
と言い切っているのは何の理由からなんだろう、、、
534 :
世界@名無史さん :2015/01/07(水) 10:31:58.66 0
ツタンカーメンがR1bだからね。 何故なのかいろいろ妄想しているが(笑)
それどっかのスレでガセって話で落ち着いてたぞ、ソース付きで
536 :
世界@名無史さん :2015/01/08(木) 21:47:08.07 0
142 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/08/14(日) 13:47:22.98 0
ほんまかいな・・・・って眉唾でみてるが、いちおう貼っとく。
「欧州男性の半数、ツタンカーメンと同じ遺伝子ルーツ」
ttp://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-22506620110803 ツタンカーメンの父系遺伝子(Y染色体遺伝子だろうな)はコーカサス由来ってのを仮に事実として、
考えられるのはヒクソス集団(基本セム系)の末端に印欧語系がいて、それがうまく現地民に溶け込み、
その子孫が第3代トトメス1世(第2代の娘婿)となり、以後第12代ツタンカーメンまで父系続く・・・てなシナリオか?
母系遺伝子なら、ミタンニ王族をいっぱい妃に迎えてるから簡単なんだが・・・。
144 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 01:14:56.96 0
>>142 ガセに乗せられた記事らしい。
118 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2011/09/04(日) 23:25:26.68 O
最近、ツタンカーメンと同じDNAをヨーロッパ人の半数が持ってるとかの記事があったが?
古代コーカソイドか、近一万年前後なのか数千年というレベルなのか?
いずれにせよ、王家ほどの有力な血筋は古代から有力だと?
122 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 03:02:10.55 0
エジプト人には100人に1人くらいの頻度
西ヨーロッパ人には2人に1人くらいの頻度
というような遺伝子をツタンカーメンが持っていた、ただそれだけだろ。
別に100人に1人の型をたまたま王様が持っていたって別段不思議ではないし。
123 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 04:09:34.88 0
ttp://55096962.at.webry.info/201108/article_7.html ググったらこんな記事出て来ましたけど
145 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:25:04.66 0
自社商品のプロモーションか
540 :
世界@名無史さん :2015/01/09(金) 21:53:55.22 0
541 :
世界@名無史さん :2015/01/10(土) 07:27:19.18 0
R1bはアフリカ大陸にも侵入している。 カメルーンの一部部族はかなり高い割合でR1bウエイトが高い。 ただ、白人的特徴の痕跡がみられないので、 相当現地黒人系の女性と混血を繰り返したのだろうと推定されている。
542 :
世界@名無史さん :2015/01/10(土) 23:55:26.40 0
アポロンに関して
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%B3 オリュンポス十二神の一柱。ゼウスと女神レトの息子で、女神アルテミスとは双子の兄妹である。
聖地は出生地であるデロス島と神託が下される地として高名なデルポイである。
嫉妬したヘラに命じられた大蛇ピュトンは、レトを執拗に追いかけて出産を妨害し続けたが、
出生直後のアポロンは逆にピュトンを追い続けデルポイの地で射殺し、以後その地は神託の下される聖地となった。
が、これは、元々ガイアの聖地だったデルポイをアポロンを奉ずる人々が奪ったのを正当化するため、新たに作られた神話だとも言われている。
文化的な性格を持つ詩人の神であるが、「遠矢射る」アポロンとしては病疫の神として知られる。
転じて医療神としても知られ、医療神アスクレピオスの父でもある。自分の息子アスクレピオスには一匹の蛇が絡みついた杖を、
同じ十二神の一柱である弟ヘルメスには竪琴と交換で二匹の蛇が絡みついた飾り付きの杖を送ったことがある。[※1]
起源
小アジア起源の女神レトを母親に持ち、トロイア戦争では一貫してトロイ側だったように、彼もまた非ギリシャ的な側面を持つ神である。
彼はエトルリアの地ではアプル(Apulu)として信仰されたが、一方フリやヒッタイトの神話にもアプル(Aplu)という神が信仰されていた。
この小アジアの神は元来アッカドの神であり、その本来の意味はアプル・エンリル「エンリルの息子」で、この二つ名を持つ冥府の王ネルガルを指していた。
ネルガルは時にメソポタミアの太陽神シャマシュと同一視されるが、もしアポロンがその名の由来をネルガルに持つなら、
病魔の神、死の神、太陽神、そして主神の息子としての性格の多くを彼から引き継いだのであろう。
ほう、エンリルの息子が伝播したという説もあるのか 真偽のほどはわからんが、もしそうならシュメール時代の神格が流れに流れたということになるな
アポローン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3 ギリシア神話に登場する男神。オリュンポス十二神の一人であり、ゼウスの息子である。
詩歌や音楽などの芸能・芸術の神として名高いが、
羊飼いの守護神にして光明の神でもあり、イーリアスにおいてはギリシア兵を次々と倒した[1]「遠矢の神」[2]であり、
疫病の矢を放ち男を頓死させる神[3]であるとともに病を払う治療神でもあり、
神託を授ける予言の神としての側面も持つなど、付与された性格は多岐に亘る。
もとは小アジアに起源をもつ神格で、本来は繁茂する植物の精霊神から転じて牧畜を司る神となったという説や、
北方の遊牧民に起源を求める説など[4]、アポローンの出自については諸説あり、複数の神格の習合を経て成立したものとも考えられている[5]。
古典期のギリシアにおいては理想の青年像と考えられ、また、ヘーリオス(太陽)と同一視されるようにもなった。
>>546 概説[編集]
古典期のアポローンは主神ゼウスとレートーとの息子であり、アルテミスとは双生児である。
オリュンポス十二神には(諸説があるが)ほぼ確実に名を連ねる。古くから牧畜と予言の神、また、竪琴を手に執る音楽と詩歌文芸の神であった。
光明神の性格を持つことから前5世紀には時としてヘーリオスと混同されて太陽神とされ、ローマ時代にはすっかり太陽神と化した[6]。
聖獣は狼および蛇、鹿で、聖鳥はヒュペルボレオイの国から飛来する白鳥および、鴉、雄鶏、鷹、禿鷹で、蝉もアポローンの使いとされる[7][8]。
聖樹は月桂樹、オリーブ、棕櫚、御柳[8]。また、イルカ(デルピス)との関係も深く、
イルカの姿に変身したという神話からデルピニオスとも呼ばれ、「デルポイ」という地名はここから来ているともいわれる[8]。(デルポイは「子宮」を意味するデルピュスが語源という説もある[9])
また、あらゆる知的文化的活動の守護神とされ、詩神ムーサイを主宰するとともに、オルペウス教の伝説的開祖である詩人オルペウスの父親ともされる。
一方、人間に当たれば苦痛なく一瞬で即死する金の矢を武器とし、姉妹神アルテミスとともに「遠矢射るアポローン」として疫病神の性格を持ち、転じて医術の神としても信仰された。
医神アスクレーピオスがアポローンの子とされるのはそのためである。
このように、アポローンの性格は理性的であると同時に人間を地上に向かって放った矢から広がる疫病で虐殺したり、
音楽の腕を競う賭けでサテュロスの1人マルシュアースを生きたまま全身の皮膚を剥いで殺すなどの冷酷さ、残忍さをも併せ持っている。
腕力も強く、イリアスではアカイア勢の築いた頑強な城壁を素手で軽々と打ち砕いて崩壊させている。ボクシングを創始した神としても知られる。
フリードリヒ・ニーチェは、理性をつかさどる神として、ディオニューソスと対照的な存在と考えた(『悲劇の誕生』)。
>>547 非ギリシア的性格[編集]
ギリシア的な神とされるが、『イーリアス』ではつねにトロイア側に加担している。
また、母親とされるレートーは、元来は小アジアで信仰された大地の女神で、アポローンはこれに付き従う植物神を核として形成された、複数の神格の集合体と考えられている。
その名前もギリシア語に由来するものではないというのが一般的な見解である。
また、生誕後、ギリシアに現れる前の一時期を北方の民ヒュペルボレオイの国で暮らしていたとされ、北海沿岸の琥珀産地と地中海沿岸を結ぶ交易路「琥珀の道」とも深いかかわりを持つ神だと考えられている。
さらにアルテミスの起源は北アフリカとされ、この女神と双子であるという性格は、地中海周辺で崇拝されていた女神群の配偶者群(タンムーズ、アドーニス、オシーリスなど)と同列のものと考えられる。
デルポイはアポローンの神託所であるが、少なくともミケーネ文明以前の時代から開けており、元は他の別神格の信仰中心地であったと考えられる。
神話によれば、もともとガイアの聖地だったものを、番人の大蛇ピュートーンを射殺して奪ったものだという。神託は巫女ピューティアーにより詩の形で与えられた。
このほか、ヘーリオン山、生誕地とされるデーロス島、ミーレートス市近郊のディデュマもアポローンの聖地とされる。
>>549 まぁ、それはウィキペディアの分類なんだししょうがないんじゃww
たぶんギリシャ語の流れではないという話なんだと思います。
イリオン=トロイア説なら環エーゲ海の一部ですね。
アポロンを調べて毎度ふしぎに思うのはこれ >また、母親とされるレートーは、元来は小アジアで信仰された大地の女神で、アポローンはこれに付き従う植物神を核として形成された、複数の神格の集合体と考えられている。
アポッローン( =Apovllwn)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/apollon.html アポローンの出自ならびにアポローン崇拝の起源に関する近代の学者たちの説は、文字どおり諸説紛々であるが、大別すると三つの系統に分けられる。
そのひとつは、ヴィラモーヴィツによって強力に提唱され、ニルスンに継承された説であり、
アポローンを小アジアのリューディア、リュキア地方に起源する神で、「レート−=アポローン=アルテミス」という三位一体をなすアジア的神格としてとらえる考え方である。
この説によれば、小アジアの大女神ラーダー(レートー)を母とするアポローンはリュキア辺に起源を持ち、
イオーニア海に浮かぶ諸島を伝わって、その崇拝がギリシア本土に及んだ外地からの渡来の神だということになる。
その理由としてしばしば、アポローンにとっての聖地やゆかりの地が小アジアことにもイオーニア地方に多く見出され、
クラーロスやディーデュマをはじめとするイオーニア諸都市でアポローン崇拝が盛んだったことが挙げられる。
また『イーリアス』において、アポローンが一貫してトロイア側に立ち、ギリシア人に対しては敵対的であるのも、
この神が元来は小アジア一帯において崇められていた強大な神格であったことを示唆している、というのである。
これに対立する有力な学説は、H・J・ローズによって代表される、アポローン北方渡来説である。
アポローンがその誕生の直後に赴いて一年を過ごじたと言われ、また毎年夏になるとそこへでかけるとも伝えられていたヒュベルボレオイ人との関係を重視し、
極北ないし北方地帯にあったと想像されるこの国こそがアポローンの故地であって、北方の牧人たちによって崇められていた牧畜の守護神こそがこの神の本来の姿だと主張する説である。
(この説を唱える学者は、「リュキオス(Lykios)、「リュケイオス」(Lykeios)というアポローンの称呼を、「リュコス」(lykos 狼)という語かち出ているものと解し、
アポローンは本来「狼神」Wolf-godであり、それゆえに牧畜の守護神であったと見なしている)。
>>552 アポローンの出自に関する第三の説は、0・ケルン、R・アリなどの学者によって唱えられているものである。
すなわち、アポローンは渡来神ではなく本来のギリシア民族の神であって、最後にギリシアの地に侵入したドーリス族によってことにも祭められていた牧畜の守護神がその本性である、と主張する説である。
この説によれば、エーゲ海諸島やアナトリア、小アジアの沿岸にアポローン崇拝が盛んに行われたのは、
アポローンがこれらの地で、先住の神である「マンドロス」(これも牧畜の守護神であったらしいが)を押し退け、この神にとって代わったためである、ということになるようである。
アポローンの出自をめぐる諸説は、これに尽きるわけではない。
>>544 >>545 1936年にハンガリーの学者B・フロズニーがアナトリア地方で発見して刊行したヒッタイトの碑文に、「アプルナス」(Apuluna)という神名かあらわれていることが明らかとなり、
一部の学者たちは、このオリエントの戸口の守護神こそがギリシアの神アポローンの言わば「遠祖」だと考え、アポローンが東方起源の神であることは疑う余地がない、と主強した。
またアムベールのように、以上のいずれの説にも与せず、アポローンがアカイア人(ギリシア人)のものであるオリュムポスの神々とは全く異質な体質をもっていることは認めながらも、
この神のアジアからの渡来を否定する立場をとっている学者もいる。
すなわちアムベールによれば、アポローンはギリシアー族の神でもなければアジアから渡来した神でもなく、ギリシア人がその地に入る以前から、
後のギリシアならびにアナトリア地方全体を覆っていた「エーゲ世界」で崇められていた神絡である。
ギリシア人やリューディア人が後に彼らの国となる地に侵入した時点で、そこですでに崇められていたこの神を見出し、これにアポローンの名を与えた、というのである。
ざっと以上のようなところが、アポローンの出自ないしは起源をめぐる諸説のあらましであるが、
先に述べたとおり、そのいずれもいまだ決定的な説得力のある説とは認められていない。
554 :
世界@名無史さん :2015/01/11(日) 20:53:25.83 0
>>166 >>338 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/genesis3.html しかし、リビア人たちによれば、百腕の巨人たちより先にガラマース〔リビアのガラマンテース人の名祖〕が生まれており、
彼が平原から立ち上がったとき、まず大地母神に甘いドングリの実を供えたという。
3 ガラマースというのは、リビアのガラマンテース人の名祖である。
この種族はフェザン地方の南にあるジャードー砂漠のオアシスを占拠していたが、前十九年にローマの将軍バルブスによって征服された。
彼らはもとクシト・ベルベル語 族の民であったが、二世紀のころに母系制のレムタ・ベルベル族に征服されたのだといわれている。
さらにその後、彼らはナイジェル河上流の南岸に住んでいたニグロの原住民と混交して、その言語を用いるようになった。
こんにちでは、ただひとつコロマンツェという名前の部落にだけ、彼らは生き残っている。 ガラマンテ(Garamante)という名前は、
ガラとマンとテの三つの単語が組みあわさってできたもので、「ガラの国びと」という意味である。
ガラというのは、どうやらケール Ker もしくはクレ Q're あるいはカール Car などとよばれる女神をさすらしい。
そしてこの女神は、さまざまな種族のなかでもとくにカーリア人の名祖で、蜜蜂の飼育と関係のふかい神とされていた。
穀物が栽培されるようになる以前に古代世界の主食であったどんぐりは、リビア地方でたくさんとれた。
またガラマンテース人たちが入植していたアモン地域と北部ギリシアのドードーナ地方とはある種の宗教上の盟約を結んでいたが、
サー・フリンダース・ピートリの説にしたがえば、この信仰上の結びつきは、早くも前第三千年紀にははじまっていただろうといわれる。
この二つの地域には古くから樫の木をめぐる神託というべきものがあった。
ヘーロドトスはこのガラマンテース人たちのことを、平和を愛するが、しかしたいへん強力な種族で、
ナツメヤシを栽培し、穀物をつくり、牛羊などの家畜を牧していたと書いている(第四書・一七四および一八三)。(グレイヴズ、p.50-53)
557 :
世界@名無史さん :2015/01/12(月) 13:15:47.18 0
トラーキアのリビア人ってのがわからない ほんとにいるんだろうか?
558 :
世界@名無史さん :2015/01/13(火) 23:53:48.76 0
>>556 うーん
http://www.africanworldheritagesites.org/cultural-places/rock-art-pre-history/tassili-najjer.html It is the home of more than 15,000 rock paintings and engravings, dating back as far as 12,000 years.
This incredible open-air gallery tells the story of the changing fortunes of this part of the Sahara and the people who have occupied the area over the millennia.
It is a story that traces the environmental effects of climate change which can be divided into distinct periods according to the characteristics of the rock-art legacy.
The oldest art belongs to the so-called Wild Fauna Period (10,000-6,000 BC) characterised by the portrayal of animals
? elephants, giraffes, hippos and rhinos ? that inhabited the area when it was much wetter than today.
Overlapping with this era is the Round Head Period (8,000-6,000 BC) when human figures appear alongside painted circular heads devoid of features.
At this time people were living as hunter-gatherers,
but this gradually gave way to the Pastoral Period (5500-2000 BC)
characterised by art that depicts the introduction of domesticated cattle,
and a more settled existence with human figures handling spears and performing ceremonies.
As the climate became progressively drier and long-distance travel more important,
the art of the Horse Period (1000 BC ? AD 1) shows the introduction of horses and horse-drawn chariots.
Finally, the most recent period of rock-art in the Sahara (from about 200 BC to present) is the Camel Period, as these animals have played an increasingly important role.
560 :
世界@名無史さん :2015/01/15(木) 18:20:04.05 0
>>559 ここでは紀元前千年以降になってるけど
「馬の時代」の始まりを
ヒクソスや海の民の侵入に求める説もあるようだ。
563 :
世界@名無史さん :2015/01/16(金) 01:41:34.11 0
564 :
世界@名無史さん :2015/01/16(金) 18:21:18.96 0
>>560 アフリカの岩絵に描かれているチャリオットの形式について、
色々と考察しているサイトが何処かにあったんだけど失念
>>555 クシ諸語(クシしょご)
説明:
北東アフリカ,エジプト,スーダンの紅海沿岸,ソマリア,エチオピア高原に分布する諸語の総称。Cushitic。
クシト語Cushiteとも。ベジャ(ベドウェー),ガラ,ソマリなどの諸言語が含まれる。→ハム語
レムタ・ベルベル族
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7b/Lenguas_bereberes.png/300px-Lenguas_bereberes.png ???
>>559 http://en.wikipedia.org/wiki/Proto-Berber_language History[edit]
Proto-Berber shows features which clearly distinguish it from all other branches of Afroasiatic, but modern Berber languages are relatively homogeneous,
suggesting that whereas the split from the other known Afroasiatic branches was very ancient, on the order of 10000~9000 BP, according to glottochronological studies,[2]
Proto-Berber might be as recent as 3000 BP. Louali & Philippson (2003) propose, on the basis of the lexical reconstruction of livestock-herding,
a Proto-Berber 1 (PB1) stage around 7000 BP and
a Proto-Berber 2 (PB2) stage as the direct ancestor of contemporary Berber languages.[3]
In the third millennium BC, proto-Berber speakers spread across the area from the central North Africa to Egypt.
In the last millennium BC, another Berber expansion created the Berber peoples noted in Roman records.
The final spread occurred in the first millennium BC, when the Tuareg moved into the central Sahara, by then possessing camels;[4]
in the past, the northern parts of the Sahara were much more inhabitable than they are now.[5]
The fact that there are reconstructions for all major species of domestic ruminant except for the camel in Proto-Berber
implies that its speakers produced livestock and were pastoralists.[6]
567 :
世界@名無史さん :2015/01/17(土) 01:43:10.39 0
568 :
世界@名無史さん :2015/01/18(日) 08:46:56.39 0
569 :
世界@名無史さん :2015/01/18(日) 11:40:35.57 ID:O8nIibdd0
サルジニア人のかなりはクロマニヨン人の直系の子孫だからな。
571 :
世界@名無史さん :2015/01/19(月) 23:01:34.72 0
おうん? コーカサス地方とイベリア半島って、どちらも「イベリア」と呼ばれたとこやの どうも繋がりがはっきりしないみたいだが、なんぞその件と関係あるんかの
>>572 その発想もなかったww
そしてこの発想もなかった
古代エジプト王朝の「暗黒時代」の謎を解く壁面彫刻を発掘
2009年04月22日 13:19 発信地:カイロ/エジプト
http://www.afpbb.com/articles/-/2594612?pid=4056841 古代ギリシャ語で「外国の統治者たち」を意味するヒクソスは、非常に憎まれていたため、
エジプトの王による支配が復活した際に、ヒクソスに関するモニュメントや記録はことごとく破壊されたといわれる。
古代エジプト・ヒクソス王朝の地下都市をレーダーで確認
2010年06月21日 15:12 発信地:カイロ/エジプト
http://www.afpbb.com/articles/-/2736873 【6月21日 AFP】
エジプトの首都カイロ(Cairo)北東部のナイル川下流域の町テルエルダバア(Tal al-Dabaa)付近で、
オーストリアの考古学チームが3600年前の古代エジプト・ヒクソス王朝の首都アバリス(Avaris)とみられる地下都市を確認した。
エジプト考古最高評議会(Egypt's Supreme Council of Antiquities)のザヒ・ハワス(Zahi Hawass)事務局長が20日発表した。
調査チームはレーダーを使って上空から一帯を撮影。道路、家屋、墓などを含む計画的に設計された地下都市を確認した。
この他、都市を貫いて流れていたナイル川の支流や2つの島も確認できた。
>>570 ニンギッジドゥって、ニンギシュジダ(ニンギジダ)を指してるのかな?
治癒神、ラガシュとの関係からみて
岩波の「古代オリエント事典」と山川の「メソポタミアの神々と空想動物」を参照
シドンで信仰されたエシュムンはベイルートで起った神らしいんだけど
その起源はシュメールやバビロニア
かたやウガリットのバアル、アラム人の雷神ハダト、アッカドのアダトは遡ると
ヒッタイト・フリ系の天候神テシュブに至るみたいだけど、それぞれルーツが
異なるのがおもしろいね
577 :
世界@名無史さん :2015/01/21(水) 00:44:29.45 0
以前の見たニュースではオリュンピアスではないかと噂されていたが、、、
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201412%2F2014122000055 【アテネAFP=時事】
ギリシャ文化省は19日、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の時代の巨大墳墓から見つかった人骨について、
性別や年齢、身長などの詳細に関する調査結果を来年1月に公表すると発表した。
墳墓に埋葬された人物が大王の妻もしくは母、部下ではないかとの臆測が飛び交っている。
ギリシャのウェブサイト上では、この骨は54歳の女性のもので、大王の母オリュンピアスの可能性があるとの主張が掲載されたが、
文化省は19日、この見解を「根拠がない」と指摘した。また、歴史家は大王本人である可能性はほとんどないとみている。
(2014/12/20-05:30)
最近発掘されているアレクサンドロス3世時代のアンフィポリスの墓から発見された遺体は
60歳前後の女性が1遺体
35歳と45歳の男性 2遺体
他数名
らしい。はてさて
アンフィポリスってロクサネとアレクサンドロスW世が カッサンドロスによって殺害されたところだよね?
579 :
世界@名無史さん :2015/01/21(水) 21:49:44.14 0
581 :
世界@名無史さん :2015/01/21(水) 23:13:00.19 0
>>201 リビアのキュレナイカとエジプトの間ぐらいにある
メルサ・マトルフ(に近い遺跡って)載ってないね。
駝鳥の卵が輸出されていたようだけど
エジプトにあるナウクラティスより古いギリシャ植民地ってどこなんだろうなぁ
>>492 パンイオニオンは何処に | アルタクセルクセスの王宮址遺跡 ...
http://plaza.rakuten.co.jp/artaxerxes/diary/200504280000/ より(松平千秋訳による岩波文庫版)。
「・・・・ これらのイオニア人の話している言葉は同一のものではなく、4つの方言に分かれている・・・・」
「・・・前に挙げた12の町(ミレトス、ミュウス。プリエネ、エフェソス、コロポン、レベトス、テオス、クラゾメナイ、ポカイア、サモス、キオス、エリュトライ)だけは、
この名称(イオニア)に誇りをもち、自分たちだけで聖地を定め、これをパンイオニオン(全イオニア神社)と名付けたが、
他のイオニア人(注・アテネなど)には一切この聖地にあずからせないことを議決した」
「パンイオニオンはミュカレ山の北斜面にある聖域で、イオニア人が共同して「ヘリケのポセイドン」に捧げたものである。
ミュカレは大陸から西方サモス島に向かって伸びている岬で、イオニア人たちは例の町々からここに集まり、「パンイオニア(全イオニア祭)」の名で呼んでいる祭りを祝うのである」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%90%8C%E7%9B%9F イオニア同盟(英語:Ionian League)またはパンイオニア同盟(Panionic League)は、紀元前800年頃、アナトリア半島のイオニア地方(現トルコ)の諸都市を中心に結成された同盟である。
ヘロドトスによると(I.142)、イオニア同盟に含まれる都市は12で、北から順に、
ポカイア(現フォチャ)
クラゾメナイ(Klazomenai)
エリュトライ(Erythrae)
テオス(Teos)
レベドス(Lebedus)
コロポン(コロフォンとも、Colophon)[1]
エフェソス
プリエネ(Priene)[2]
ミュウス(Myus)
ミレトス(Miletus)現アイドゥン
それに、サモス島、キオス島
スミルナ(Smyrna)(現イズミル)は元々アイオリス人の植民地だったが、コロフォンのイオニア人に征服され、後から同盟に加わった。
>>583 続き
イオニアというのは元来ドーリア族、アイオリス族、アルカディア族などと並ぶギリシャ人の部族名だったが(アテネもイオニア族なので、
アテネ式の建築様式を「イオニア式」と呼んでいる)、多くは現在のトルコのエーゲ海岸に住んでいたのでいつしか地方名になった。
イオニア人がギリシャ本土から現在のトルコのエーゲ海岸に移住したのは紀元前11世紀頃からだという。
ミュカレ山ではそれ以前の後期青銅器時代の土器なども採取されているが、不思議なことに同じ時代に地中海東部に広範に輸出されたミケーネ土器は見当たらないという。
なおヒッタイト帝国時代(ムルシリ2世、紀元前14世紀後半)の粘土版文書にはミュカレ山と思しき記述があるというが、本当だろうか?
・・・
ローマン教授はミュカレ山のあちこちを踏査して回った結果、標高750mのところにある場所で、崩れた城壁に囲まれた遺跡を発見した。
そこでは紀元前6世紀の土器や、同じく紀元前6世紀のミレトスで使われていたのと酷似する瓦や鬼瓦(模様は鬼ではなくライオンの顔だが)を採集することが出来た。
他の時代の遺物が拾えないこと、またミュカレ山には他にパンイオニオンの時代に合致する遺跡が見当たらないことからこの遺跡がパンイオニオンではないかと結論付けている。
城壁には破壊の痕跡があり、これはイオニアがペルシアに対する反乱を起こした際(紀元前500〜494年)に、報復としてペルシア軍によって破壊された跡ではないか、と推定している。
海の神であるポセイドンの神殿が山の上にあるというのも変な話だが、
ポセイドンに捧げられるのは牛であることから、小アジア土着の牛を聖獣とする山岳信仰(ヒッタイトなどがそうだが)と習合したのではないか、ということだった。
どちらにせよ発掘はまだこれからなので今後の進展を待つしかない。
>>318 >>322
>>584 >イオニアというのは元来ドーリア族、アイオリス族、アルカディア族などと並ぶギリシャ人の部族名
アルカディア族はアカイア系を指してる?
588 :
世界@名無史さん :2015/01/22(木) 07:17:58.60 0
>>587 Wikipediaを見る限り微妙なところがありそうだけど
この場合にはそれでもいいんじゃないのかな
589 :
世界@名無史さん :2015/01/22(木) 21:46:21.14 0
>>571 しかし昔ならともかく今ならこの説にかなり無理があるとかんっじるな
起源を調べてみよう
>>582 マルサマトルーフってパライトニオンのことだよね?
アレクサンドロスがシウア・オアシス(アモンの神託所)へ行く途中の
591 :
世界@名無史さん :2015/01/23(金) 01:57:01.11 0
>>590 ありがとう、これか
そんでもって「Ammonia」(ストラボン、ステファノス)なので間違いないだろうね
マルサマトルーフ(メルサマトルー、Marsa Matruh)は、エジプト北西部にあるマトルーフ県の県庁所在地で、地中海に面する港湾都市です。
アレクサンドリアから西へ約240km、エジプトの首都カイロから北西へ約410kmの場所に位置しており、
ナイル・デルタからリビア国境へのハイウェイとシワ・オアシスやバハリヤなどへの西部砂漠へ向かうハイウェイの分岐点にあります。
このマルサマトルーフは、古代エジプトやアレクサンダー大王の時代には「アムニア(Amunia)」と呼ばれ、
プトレマイオス朝やビザンチンの時代には「パライトニオン(Paraitonion)」、
ローマ時代には「パラエトニウム(Paraetonium)」と呼ばれる街でした。
(2) 長い海岸線に港がひとつ
四番目の側辺は、……ほとんど港のない海が波打ち寄せていて、エジプト海に面し、
外海は沿岸航路がこの上もなく長いものの、この地方へ上陸しようとしても船を寄せての停泊は難しい。
リピュア地方のパライトニオンからコイレ・シュリア地方内のイオペまでの問、
その沿岸航路は五、000スタディオン(九00キロ)に近いのに、パロス以外に安全な港を見つげることが出来ない。
そのうえまさかと思ったが、ここまで繋がるのかww
「アンモニア」
名称の由来は、エジプトのアモン神殿の近くからアンモニウム塩が産出した事による。
>>589 すごく古い起源だww
http://en.wikipedia.org/wiki/Merino The Phoenicians introduced sheep from Asia Minor into North Africa and the foundation flocks of the merino in Spain might have been introduced as late as the 12th century by the Marinids, a tribe of Berbers.[citation needed]
In the 13th and 14th centuries, Spanish breeders introduced English breeds which they bred with local breeds to develop the merino; this influence was openly documented by Spanish writers at the time.[12]
[12] "Wool". The New American Cyclopaedia 16. D. Appleton and Company. 1858. p. 538.
>>593 こちらから抜粋させて頂きました
ディオドロス・シクロス『歴史叢書』第一七巻
「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その二)
森谷公俊
>>556 「この山脈を越えると砂漠があり、 それからテルガエと呼ばれるガラマンテス族の町、 そして
またデブリス (その近くに一つの泉があって、 その水は正午から夜半までは煮湯のように熱い
が、 夜半から正午までの同じ時間は凍るように冷たい) とガラマンテス族の有名な首都ガラマがある。
ガラマンテス遠征について語っているのは紀元後1世紀のローマ人大プリ
ニウスだけだが、 ガラマンテスについてはヘロドトスもリビア (アフリカ) について解説する際に言及している。
「アンモン人につづいて、 砂の台地をさらに十日進んだところに、 アンモン人の土地にあるの
と同じような丘と水があり、 そのまわりに住民がいる。 この土地の名はアウギラという。
ナサモネス族がココ椰子の実を採取にくるのはこの土地である。
アウギラからさらに十日進んだところに、 また塩の丘があり水や実のなるココ椰子が多数あることは、 他の場所と同様である。
ここの住民の名はガラマンテスといい、 きわめて多数の人口を有する種族で、
塩の上に土を運んで種子を蒔いている。」
ここでヘロドトスは 「アンモン人の土地にあるのと同じような丘と水があり」 と述べている
が、 このアンモンとは現在のエジプト西方砂漠にあるシーワ・オアシスのことである。
さらにアウギラという地名にも言及している (地図B)。 またヘロドトスの世界観を示す図として地図Bをあげる。
そして、 紀元前後を生きたストラボンもアンモンとアウギラとの関連を述べている。
「話によると、 大シュルティス湾のうちアウトマラに面した湾奥部あたりから出発して陸路を冬季の日の出方向へとると、 4日目にアウギラ市へ着く。
この場所はアンモンに似て、 やし樹が育ち水も豊かである。 ここはキュレナイア地方から見て南方の内陸にあたり、
100スタディオン (18キロ) までの間では樹木も育つほど地味があるが、
もう100スタディオンまでの間では種ものを播くことだけはするものの、 乾燥地帯だから米造りの出来る土地ではない。
これら(オアシス) の場所から上の方はシルピオンの産地で、 それからは定住者のない地方とガラマンテス族の土地になる。」
「Tales from HERODOTUS」 PENGUIN BOOKS
ヘロドトスの「歴史」から、いくつかのエピソードを抜き出したもの。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/5094/hon3.html <The Destroying Wind >
ナサモネスの隣はプシュロイであるが、彼らはもはや存在しない。
リビア人の話では、南風によって貯水池の水が干上がり、シュルティスの中にある領土に水がなくなった。
彼らは会議を開き、全員一致で南風と戦うことを決めた。
砂漠に進攻したとき、風が吹き、彼らを砂の中に埋めてしまった。
この部族が絶滅した後、ナサモネス族が彼らの土地を占領した。
<Hunting the Troglodytes>
アンモンから砂の地帯に沿って10日行くと、砂の丘と泉がある。
そこはアウギラと呼ばれ、人が住み、ナサモネス人がナツメヤシを採りに来る。
ここには、後ずさりしながら草を食べる牛がいる。
角が前方に彎曲しているので、前方に進むと土の中に突き刺さるからである。
その角と、皮が厚くて丈夫なことを除けば、普通の牛と変わらない。
ガラマンテスは4頭立ての馬車でエチオピアの穴居人(トログロデュタイ)狩りをする。
トログロデュタイは話に聞くあらゆる民族の中で最も足が速い。
彼らはヘビやトカゲや爬虫類を食べ、言語は他のいかなるものにも似ず、コウモリの鳴き声のような声を出す。
<The Pillar of the Sky>
ガラマンテスから10日行くと、また丘と泉があり、アタランテス人の国である。
彼らは、個人が名前を持たない唯一の人種であり、太陽が自分たちと国土を焼くと言って太陽をのろい、ののしる。
さらに10日行くと、塩の丘と泉と人の住む地域があり、側にアトラス山がそびえている。
この山は、細長いコーンの形で、頂上が見えないくらい高い。 夏も冬も山頂は雲におおわれている。
山の名にちなんでアトランテス人と呼ばれている住人は、その山を「天の柱」と呼んでいる。
彼らは生きものを食べず、夢も見ないといわれている。
>>596 <The Libyans>
エジプトとトリトニス湖の間のリビアの沿岸には、肉と乳で暮している遊牧民が住んでいる。
彼らは、ブタを飼わず、エジプト人と同じ理由で牛肉も食べない。
キュレネの女たちでさえ、エジプトのイシス女神を敬って牛肉を食べるのは悪いことと考えているし、 女神のために断食や祭りをする。
バルケの女は牛肉ばかりか豚肉も食べない。
トリトニスの西では遊牧民は見当たらず、生活様式も子育ての仕方も異なる。
遊牧民の多くは、子供が4歳になると、カタル(鼻や咽喉の粘膜の炎症)を防ぐため、脱脂していない羊毛で 頭の血管や、ときにはこめかみを焼く。
このためかどうか確かには言えないが、彼らは世界一健康な種族だと言われている。
血管への灸の際にひきつけを起こすと、牡山羊の尿をかけて治す。
遊牧民の犠牲の仕方 ―
まず、犠牲獣の耳を切り落とし、初物として家の屋根越しに投げ、それから獣の首をねじる。
リビア人は一般に、太陽と月に生贄を捧げるが、 トリトニス湖周辺の人々は主にアテナに、それについではトリトンとポセイドンに生贄を捧げる。
埋葬の仕方 ― ナサモネス人以外はギリシャ人と同じ埋葬の仕方をする。
ナサモネス人は、息を引き取ろうとしている者を座らせ、仰向けに寝た状態では死なせない。
そして座ったままの姿勢で埋める。
住居 ― 植物の乾燥した茎をイグサと共に編んだポータブル式の家。
>>597 <The Dog-Headed Men>
トリトンの西、アウセエスを越えると、リビアには普通の家に住み農耕をしている部族が住む。
最初にあるのはマクシュエスで、頭の右側の髪を伸ばし左側は剃り、体には朱を塗り、トロイアの子孫だと言っている。
<この辺りやトリトン河から西の農耕民が住む地域> ―
山が多く、森や野生動物も多い。
巨大なヘビ、ライオン、ゾウ、クマ、毒ヘビ、角のあるロバ、 犬頭人、胸に眼のある無頭人、野生の男女、架空ではないその他多くの生き物。
<遊牧民の住むリビア東部> ―
トリトン湖までは低地で砂漠である。
どこにでもいる動物以外に、尻の白いアントロープ、ガゼル、ロバ(角のあるのではなく、水を飲まない種類)
牛のように大きく、角が竪琴の腕木に用いられるアントロープ、キツネ、ハイエナ、ヤマアラシ、野生の羊、
ジャッカル、ヒョウ、巨大なトカゲに似た4、5フィートもある陸ワニ、一本の角のある小さなヘビなど。
鹿といのししはリビアにはいない。
3種類のネズミ ― ディポデス、ゲゼリエス、エキネス
シルピオンの繁茂するところにはタルテッソス産に似たイタチもいる。
>>591 「アンモニア」
名称の由来は、エジプトのアモン神殿の近くからアンモニウム塩が産出した事による。
>>593 「苦い湖」と呼ばれる湖
夜明けに泉は暖かい水を噴き出すが、日が昇ると時間の経過に歩調を合わせて水は冷めていき、真昼の暑い盛りに最も冷たくなる。
それから夕方に向って温度の下降は止まり、夜になると次第に暖かくなって夜中に至る。
未明にかけて温度の上昇は止まり、夜明けにはまたもとの温度に戻るのである。
まぁ、この辺りかな
http://fuken.komazawa.net/~rika/nh4cl.pdf 塩化アンモニウムを用いた地学,物理現象の視覚実験
>>591 「アンモニア」
名称の由来は、エジプトのアモン神殿の近くからアンモニウム塩が産出した事による。
>>593 「苦い湖」と呼ばれる湖
夜明けに泉は暖かい水を噴き出すが、日が昇ると時間の経過に歩調を合わせて水は冷めていき、真昼の暑い盛りに最も冷たくなる。
それから夕方に向って温度の下降は止まり、夜になると次第に暖かくなって夜中に至る。
未明にかけて温度の上昇は止まり、夜明けにはまたもとの温度に戻るのである。
まぁ、この辺りかな
http://fuken.komazawa.net/~rika/nh4cl.pdf 塩化アンモニウムを用いた地学,物理現象の視覚実験
604 :
世界@名無史さん :2015/01/23(金) 22:29:48.68 0
アテフ冠 アテフ冠は古代エジプトの神オシリスが被る特別な羽根飾りを付けた白い冠である。 それはオシリス信仰を示す赤いダチョウの羽と上エジプトの王冠であるヘジュトを組み合わせたものである。 羽は根本に向かってわずかに拡がり、上端がカーブしていることからダチョウのものと特定できる。 その羽はマアトが(1本で)身につけている羽と同じものである。この冠はまた、セベクも身につけていた。[1] アテフ冠のダチョウの2本羽は、アメンの冠と比較することができるであろう。 アメンの冠の羽は、カーブが無く、より細くて真っ直ぐな鷹の尾羽が2本飾られているのである。 アテフ冠は古代エジプトの壁画において、オシリスを特徴付けている。 アテフ冠は黄泉の国の支配者の象徴とされるため、オシリスが被っているのである。冠の中央にある高く膨らんだ白い部分は、2つのダチョウの羽の間にある。 エジプト神話において、ダチョウの羽は真実、正義、道徳、均衡を象徴している。[要出典] アテフ冠は羽根飾りを取り除くと、先王朝時代(紀元前6000年頃〜3100年頃)以後、上エジプトのファラオの象徴とされた白い冠(ヘジュト)によく似ている。 ↑ コム・オンボ神殿における、セベクは、羊の角・太陽円盤・2匹のウラエウス(蛇形記章)を組み合わせた頭飾りを付けている。 先端がカーブしていること、根本に向かって太くなっていることから、ダチョウの羽とされているのか? コム・オンボ神殿はプトレマイオス朝(古代エジプトのマケドニア系王朝(紀元前306年 - 紀元前30年))の時代に建設されたものである。 あとはネクベト?
>>605 いやナウクラティスはみな分かってるし、地図にも普通に載ってるからさ
>>562 兄弟らしいけどドワーフってww
ケルト→ガラチア→ペルガモンなのか
http://en.wikipedia.org/wiki/Telesphorus_ (mythology)
In Greek mythology, Telesphorus (Greek: Τελεσφ?ρο? Telesphoros) was a son of Asclepius.
He frequently accompanied his sister, Hygieia.
He was a dwarf whose head was always covered with a cowl hood or cap.
He symbolized recovery from illness, as his name means "the accomplisher" or "bringer of completion" in Greek.
Representations of him are found mainly in Anatolia and along the Danube.
Telesphorus is assumed to have been a Celtic god in origin, who was taken to Anatolia by the Galatians in the 3rd century BC,
where he would have become associated with the Greek god of medicine, Asclepius, perhaps in Pergamon (an Asclepian cult center)
and spread again to the West due to the rise of the Roman Empire, in particular during the 2nd century AD, from the reign of Hadrian.[1]
しかもドワーフのリンク先がこれ
http://en.wikipedia.org/wiki/Cabeiri
610 :
世界@名無史さん :2015/01/24(土) 19:08:53.83 0
>>600 シャーベットは古代から食べられてたんだけど
エジプトはやらなかったのかなぁ
近代アイスクリームの起源がマルコポーロっていうのも捨てがたい
http://www.icecream-navi.net/history/history_world2.html ●新製法発見
16世紀初頭、パドヴァ大学のマルク・アントニウス・ジマラ教授が、
水に大量の硝石を入れると溶解により吸熱作用が起き、それにより-20度程度まで水の温度を下げられる事を発見します。
この作用を利用して、人工的に食品を冷却・冷凍させる事に成功。
この方法は発見当初、ワインなどを冷やす技術として利用されていましたが、
やがて近代技術の発展により冷却時間を短縮させる技術が開発。
これにより飲み物を冷凍させる事が可能となります。
この新製法の発見に伴って、シャーベット類のバリエーションも増えて行く事となります。
イタリアで発見されたこの新製法は、17世紀初頭にはイギリスにも伝わります。
この様に16世紀はアイスクリームは大きな発展を遂げた時代でもありました。
>>571 昔から訳わからんものとか全部
フェニキア人に帰するようにしてたんだろうなぁww
>>210 >>211 フェニキア最古のテキストがミイラの包帯に書かれていると
どっかで見たことがあった気がしたけど微妙に違ってた。
>>268 Snake spells of the priests of Byblos
http://phoenicia.org/byblos_priests_spells.html A 5,000 year old spell in hieroglyphics was discovered in the tomb of an Egyptian Pharaoh, Unas in Saqqara, Egypt.
Early on, scholars were unable to decipher the hieroglyphics until an expert in Semitic languages,
Prof. Richard Steiner of New York's Yeshiva University cracked the case.
Steiner was readily able to read the transliterated Semitic text in hieroglyphics.
The text, written between 3,000 and 2,500 B.C., was inscribed on a subterranean wall of the pyramid of King Unas.
Initial attempt at reading the text in the language of the pharaohs did not make sense in that language.
Steiner recognized the transliterated inscription as Canaanite based on the evident reference of "mother snake," typical of Canaanite spells.
Other hieroglyphic spells in the Egyptian language further supported the decipherment, based on the subject matter of the "mother snake."
Read more: Phoenicia: Byblos Priests Write Spells to Protect Pharaoh's Mummy
http://phoenicia.org/byblos_priests_spells.html#ixzz3PkwQzcUy
613 :
世界@名無史さん :2015/01/26(月) 23:23:24.95 0
>>611 紀元前3000〜2500年だとウガリトも歴史に登場してないころだね。
ウィキペディアだとこうなってるから、まあそんなに齟齬はないけど対象は違うのかもしんない。
Unas /?ju?n?s/ or Oenas (/?i?n?s/; also spelled Unis or Wenis) was a Pharaoh of Ancient Egypt, and the last ruler of the Fifth dynasty from the Old Kingdom.[1]
His reign has been dated between 2375 BC and 2345 BC.[2]
Unas is believed to have had two queens, Nebet and Khenut, based on their burials near his tomb.[3]
第五王朝、、、そして、マザースネークか、、、
同じトコにあった船の絵はカナンの乗り手とあるがなにをもってそう判断したんだろ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Saqqarah_Ounas_08c.jpg/800px-Saqqarah_Ounas_08c.jpg Syro-Canaanite sailors aboard a seagoing ship.
A relief from the causeway of Unas at Saqqara.
Lateral trusses are seen here supporting the tripod mast (on the right)
家族が購入した2015年1月号の文藝春秋の伊集院静という人の掲載に
「フェニキア人が或る日突然歴史から消えるのはアレクサンドロスがティルスを
滅ぼし子供含めて全員を殺戮したからだ」とあるんだけど、これおかしくない?
ティルスは
>>132 の本では8000人が死亡、3万人が奴隷として売られたとある
数の正確さはともかくメルカルト神殿に避難していた人々はアジールにより
アレクサンドロスにより全面的恩赦を与えられてる (アッリアノスのでも)
またアラドゥスやビブロス、シドンはさっさと降伏引き渡しをした後、
ティルスを攻略するのに大きな手助けをしてるし、なにより地中海には
サルディーニャやシチリアに植民市があるし、カルタゴもあるのにさ
615 :
世界@名無史さん :2015/01/28(水) 22:27:49.37 0
>>614 うーん、それはまず伊集院静という人が作家なので
文学的表現をしただけなんじゃないかな、、、
まぁ、おいらは著作をひとつも読んだことがないから
実際のとこはわからんww
普通はカルタゴ滅亡をもって歴史の表舞台から去るとするもんなんじゃないかね?
ちなみにのカルタゴの独立は、
アケネメス朝ペルシアにテュロスが占領されたときみたいなんだけど
これもけっこう不思議な気がする。
>>254 >>368 あほなんで、カラテペ と キュルテペ をよく勘違いするんだよな
しかもてっきり象形ルウィ語だと思ってたからな
カラテペ【Karatepe】
トルコ東南部のタウロス山麓に位置したヒッタイト王国後期の古代城塞都市。前 700年頃アッシリアに攻略された。
1945年 H.ボッセルトによって象形文字とフェニキア語の対訳碑文が発見され,ヒッタイト文字とヒッタイト語の解読が促進された。
碑文はアジタワッダ碑文の方がメジャーなのかな?
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN0000711X-20030300-1004.pdf?file_id=2693 トルコ中部地中海寄りにある後期ヒッタイト時代の遺跡。
アザチワタAzatiwata王が前8世紀に建設した城砦都市アザチワタヤAzatiwatayaである。
ここでヒッタイト象形文字と,同じ内容のフェニキア文字とからなる碑文が1946年に発見され,47年に報告された。
そのためヒッタイト象形文字解読への期待が高まったが,まだ解読されていない。
南北350m,東西200mの,内城壁が不整形卵形に巡らされ,北東と南西にそれぞれ門を設けてある。
>>616 話は飛ぶが、こんなものみかけた
海泡石の産地、エスキシェヒル 堤 大介(国際ジャーナリスト)
http://picnicbooks.net/pipes/Eskisehir.html ・海泡石とは
メシャムパイプの素材であるメシャム(MEERSCHAUM)は、日本では一般に海泡石(かいほうせき)と呼ばれている軽石のような白い鉱物のことです。
純白の美しさは言うまでもなく、原石を15分ほど水に浸しておくと、海泡石はスポンジのように水分を吸って軟らかみを帯びるため、非常に加工しやすい、という特徴があります。
小刀でサクサクと削って形を作り、あるいは手彫りでライオンや蛇や鷲などの動物、スルタンや女神の顔、古代ローマの神殿風の装飾などを施すことができます。
メシャムは乾燥すると再び固くなります。その白い輝きと希少価値から「白金の石」と呼ばれることもあります。
表面処理をしなくても柔らかな純白の光が美しいですが、透明なワックスを一回から三回ほど掛けて光沢を出すのが普通です。
さらに数分間ほど走ると、前方にメシャム鉱山が見えてきました。ここがカラテペ鉱山です。
カラテペ以外にもエスキシェヒル地方には「トカット」(Tokat)、「ベヤズアルチン」(BeyazAltin)、
「ネムリ」(Nemli)、「コズルベル」(Kozlubel)、「ソグトチュク」(Sogutcuk)、「タイチラール」(Taycilar)というメシャム鉱山がありますが、
やはり何といってもカラテペ村の鉱山から採れるメシャムが最も優れているということです。
なお、「ベヤズアルチン」のBeyazとはトルコ語で「白い」という意味、Altinとは「金」という意味で、メシャムが採掘されるようになってから、この名で呼ばれるようになりました。
ベヤズアルチン村の旧名は「セペッチ」(Sepetci)だったそうです。「白金」は、カラテペ村やセペッチ村の村民たちを、大いに潤しました。
Google Earthでヒッタイトの遺跡を探す
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1045913&id=9862654
NEWSでトルコとシリアの国境付近の地名が出てくると凄く微妙な気分になる グザナ(テル・ハラフ)やミタンニのワシュカニ(テル・ファハリヤ?)等を地図で 捜す時に覚えたんだけど... 今の情勢じゃあワシュカニがどこかなんて判明しようがないね
○○テペあるいは○○テペが多すぎて・・・ まあ、それだけ古代人の居住地として丘が重要だったということだろうけど
ホユックとヒュイクは結局同じ意味? アラジャホユックとチャタル・ヒュイク等同じ書籍内で 統一されてないけど、厳密な使い分けがあるのかな
621 :
世界@名無史さん :2015/01/30(金) 00:27:33.30 0
>>620 ないと思うな
その表記揺れで検索にすら引っかからなくなるよねww
624 :
世界@名無史さん :2015/01/31(土) 17:15:20.77 0
628 :
世界@名無史さん :2015/02/04(水) 01:55:38.07 0
>>613 Yehimilk Inscription を探していたところこんなのを見かけた
http://www.academia.edu/8717081/Phoenician_Inscriptions_from_Iron_I-II_Byblos レバノン杉の交易は相当古いってことだろうけど、ふーむ
ちなみに探し物のビブロス海岸の岩窟墓から発見された金の胸当てはみつからない
An Interpretation of the Old Byblian Inscriptions: Elibaal, Shipitbaal, and the Azarbaal Spatula
I.Elibaal (KAI 6) and Shipitbaal (KAI 7) Inscriptions
A.Historical, Political, and Cultural Context
The Elibaal inscription was the third Old Byblian inscription discovered after
1
those of Abibaal and Ahiram were found in the early 20th century. It was discovered in the temple of Baalat Gubla “The Lady of Byblos,”
where it was used as a votive offering. The French archaeologist Rene Dussaud ?rst translated and published it in 1925. The
2
inscription is written across the abdomen of a statue of Pharaoh Osorkon I. Elibaal may have received the statue as a gift from the Pharaoh to be dedicated to Baalat Gubla in her temple.
Egyptian in?uence in Byblos dates from before the Egyptian Old Kingdom (2705-2250 B.C.).
Archaeological evidence points toward a trade in timber between Egypt and Byblos, already ?ourishing by the 27th century,
when the temple of Baalat Gubla was built. The long-standing political and economic relationship with Egypt was
3
also re?ected in the religious practice at Byblos.
Archaeologists have noted Egyptian in?uence on the architecture of the temple of Baalat Gubla,
but whether Egyptian or Phoenician priests maintained her cult at Byblos is uncertain. Baalat is most likely
4
equated to the Egyptian goddess Hathor, a mother goddess and the goddess of foreign lands,
who would have protected the timber trade, so vital to Egyptian building projects.
5
Thus, the worship of Baalat Gubla would have had a singular, enduring importance at Byblos.
>>613 http://www.geocities.jp/kmt_yoko/Dyn.12_2.html より
ラフーンの都市生活
一般の人々の生活については、ラフーンのセンウセレト2世のピラミッド複合体のそばのヘテプセンウセレトの町から知ることができます。
1888-9年にラフーンを発掘したフリンダース・ピートリーのよって間違って「カフーン」と名付けられ、センウセレト2世の葬祭礼拝と密接に関連づけられました。
ヘテプセンウセレトは、新王国のアマルナやデル・エル・メディーナのもっと小さな壁に囲まれた村と同様、単純な建築平面図で設計され、
王の労働者達とその家族を住まわせるために建設されました。
しかし、その住民の中には葬祭礼拝と関係がない多数の人々も含まれたことはありそうです。
町中の穀倉の収容力に基づいて、最高5,000人の住民が扶養されたと見積もられてきました。
しかし、現在の遺跡は周囲の砂漠とほとんど見分けがつきません。
というのは、泥レンガはほとんどまったく取り去られ、建築物の基礎部分と下層部分しか残っていないからです。
630 :
世界@名無史さん :2015/02/04(水) 02:14:10.98 0
>>629 プント貿易の記述もあるよ
外国との交易
中王国のエジプトとエーゲ海地域との交易は、明らかにミノア・タイプを模倣した地域のエジプトの土器の断片と小箱の蓋と同様、ラフーンの町の第12王朝の時期にあたるミノア式土器のわずかな破片によって示されます。
しかし、これらの破片はゴミ捨て場で発見されたので、それらの年代や本来の層位学上のコンテクストについては確かではありません。
奇妙なことに、町の住民の中にクレタ島出身の労働者がいたことを示しさえする、労働者達によって使われたごくありふれた土器があったように思われます。
第12王朝には、ラフーン、エル・ハラガ、アビュドス、南はエレファンティネの第12王朝の墓のような遺跡で、ミノア文化の「カマレス土器」の破片のゴミ捨て場もあります。
この時代からの多数の物品も、地中海の芸術上・図像学上の交換ネットワークの存在を明らかにします。
エジプトのモチーフはクレタ島の神殿に捧げられた粘土製のスカラベ型奉納物と同じくらい広範囲の物品に見られます。
エジプトの石製容器はクレタ島に進出し、その様式はクレタ島の職工達によって模倣されました。
エジプト様式と図像のそのような地域的模倣はしばしば年代不明のコンテクストに由来しますが、それらは物資や製品と同様アイデアの交換に至る頻繁な接触を示すので、重要です。
(略)
西アジアとの増大する接触はアジアの分銅がラフーンでエジプトのものより数で勝っているという事実によって示されます。
さらに、中王国の最も豊かな発見物の一つはトードのモント神殿の下で4つの青銅の箱に入って発見されたおそらくミノアの金・銀製品のコレクションです。
逆に、ピエール・モンテはビブロスで壷の中に埋められた1,000品目のエジプトの品々の宝庫を発見しました。
これらにはラフーンの墓地にある第12王朝の王女達の墓から発見された宝物と極めてよく似た装身具類が含まれていました。
第13王朝のネフェルヘテプ1世とその他のエジプトの支配者達は、ビブロスの王たちによって大君主と認められました。
彼らはエジプトの記章と称号をコピーしただけではなく、エジプトのヒエログリフの碑文をも模倣しました。
塩野七生著「ローマなき地中海世界」がいい本だったので是非
>>632 まぁ、シリアは古代の昔から
係争の中心地で文明の十字路だかんね。
歴史を繰り返してるに過ぎない。
とも言えるかな
635 :
世界@名無史さん :2015/02/06(金) 01:12:18.56 0
>>631 俺もローマ亡き後の地中海世界なら読んだよ
そんなIFものもおもしろいかもね
地中海都市の興亡(新潮選書)って読んだ人いる? 図書館で見つけたんだけど、他の読むの溜まってて手が出せない
638 :
世界@名無史さん :2015/02/07(土) 08:57:24.04 0
>>636 ローマが現れなかったらカルタゴは地中海の覇権を握れたんだろうか?
ローマが現れなかったらイスラムは環地中海に拡大できたんだろうか?
ヴァンダルはローマを蹂躙したが長続きしなかった
640 :
世界@名無史さん :2015/02/09(月) 21:19:26.30 0
>>570 >>575 ニンギッジドゥは、ラガシュのグデア王の守護霊みたいなんだけど
こんな個人神が大々的に祭られるようになるのかなぁ、、、
641 :
世界@名無史さん :2015/02/09(月) 22:15:14.39 0
>>639 ヴァンダルの統治能力のあるが、宗教の違いもあるのでは(ヴァンダルはアリウス派)。
642 :
世界@名無史さん :2015/02/09(月) 22:30:21.66 0
>>638 カルタゴの野望はヒメラで潰えちゃったのかな
うんこうんこ
>>638 カルタゴの覇権とローマの覇権はおそらく内容が違う
ビュブロスの自称がゲバルかと思ってた、、、
>>131 >>136 >>144 >>211 世界大百科事典内のグブラの言及
【ビュブロス】より
…現在名はジュバイル。
旧約聖書ではゲバルGebal,
古代エジプト史料ではクブナ,
アッシリア史料ではグブラと呼ばれた。
ビュブロスはギリシア語名であり,ギリシア人は当地を経て輸入されたパピルスをビュブロスと呼んだことから,後世,本,聖書Bibleなどを表す語が派生した。…
うんこっこ
>>267 へー、へー、へー
79 : 世界@名無史さん[] 投稿日:05/02/24 00:06:16 0
現代でもモロッコやアルジェリアのベルベル人が用いている表音文字
「ティフィナグ」はフェニキア文字の流れを汲む古代リビア文字の末裔で、
名称の「フィナグ」が「フェニキア」と同語源だそうな。
余談だが「ポエニ」も同語源なんですね。
うんこ
650 :
世界@名無史さん :2015/02/13(金) 21:54:49.68 0
>>643 どうやったんだろうねぇ
って船で渡ったってことしかわかんないなぁ
いずれにせよ、行って帰ってきたんだから
フェニキアお得意の農作物の種を持っていったんだろうね
星を見て自分の位置を調べるのは現代でも現役だし、
航行術に関してはなんとかなったんじゃなかろうか
651 :
世界@名無史さん :2015/02/13(金) 22:17:14.31 0
>>619 >>620 人が長く住んでいた場所は
日干し煉瓦が風化して丘になるという
話を聞いたことがある。
ところでせっかく日本隊が発掘してるのに
カマン・カレホユックに関する書籍ってこれしかないの?
できたらもうちょっと新しいやつが読みたいなぁ。
アナトリア発掘記 ~カマン・カレホユック遺跡の二十年 (NHKブックス)
653 :
世界@名無史さん :2015/02/15(日) 15:34:45.24 0
>>426 >>430 >>442 http://www.ozawa-katsuhiko.com/5egypt/egypt_text/egypt06.html 勝利の神ウルスラグナ
この神は「戦いの神」であるため当然「王侯・戦士」たちにとって最重要の神となり、こうしたタイプの神はどこの民族も主要神として持っていました。
でから「ササン朝」にはこの神の名前に由来する名前を持った王も存在していたほどです。
昔日はおそらくインドのインドラがそうであるように主神的な位置を持ち多くの機能をもっていたと思われますが、
その地位を「アフラ・マズダ」に譲った時にその機能の多くも失ってただ「戦の勝利」だけを管轄するようになったのでしょう。
この神の姿は「変身」の神として謳われており、その姿は十となります。
第一にこの神は「風」の姿となって現れ、ゾロアスターに対して「我は最強にして、もっとも多くの勝利を得、悪魔と人間の敵意とを打ち砕く」と語ったと言われます。
第二にこの神は、黄金の耳と黄金の角を持つ雄牛に変身する。
第三にこの神は、黄金の耳を持ち黄金の飾りを付けた美しい白馬に変身する。
第四にこの神は、鋭い歯を持ち足が速く長い毛を持つラクダに変身する。
第五にこの神は、鋭い爪を持つ猪に変身する。
第六にこの神は、15歳の輝く若者に変身する。
第七にこの神は、どの鳥よりも早く飛ぶ大鴉に変身する。
第八にこの神は、野生の美しい雄羊に変身する。
第九にこの神は、鋭い角を持った戦う雄鹿に変身する
最期にこの神は、黄金の刃がついた太刀を持つ人間に変身して現れる。
以上の中でも第七の大鴉の羽根はとりわけ大事で、この羽根を持つ者は敵の呪いをはね返し、だから羽根の力によって誰も彼を倒すことはできなくなる。
また、戦闘があって勝負が付かないとき、両軍の間に四枚の羽根が投げられると、いち早くそれに気付いて「ウルスラグナ」を拝んだ方に勝利が与えられるという。
この神は先に指摘したようにアーリア民族の太古の神の一人でインド側では「インドラ」として展開したと考えられていますが、,、、
ウルスラグナとインドラの関係についてだけど (以前他の板に書いたもの)
ヴェーダ時代のインド人は、ウルスラグナを礼拝しなかった。というのも、彼らの先祖たちは、
古い勝利の神をインド・イラン語族の英雄時代の戦士の原型である神インドラ(Indra)に
置き換えたとみられるからである。 (M・ボイス:ゾロアスター教 3500年の歴史)
インドラは「ヴリトラを殺す者」(Vrtrahan:最初のrの下に.がついてる)と呼ばれている。
Vrtrahan(最初のrの下に.がついてる)は、イランの勝利の神ヴルスラグナ(Verethraghna)
に対応するから、武勇神インドラの崇拝はインド・イラン共同時代にさかのぼる。
(上村勝彦:インド神話)
あとは補足で
http://www.toroia.info/dragon/index.php?%3AShaw M・ボイスだとウルスラグナとインドラは違う?
>>654 なるほど
一番下の行は変身といえばヴィシュヌかな、って思ったので入れてみました
そういえば、ヴィシュヌも蛇(龍)とは関係が深くて
アナンタはこの世が始まる以前、宇宙が混沌の海だった時に、ヴィシュヌがアナンタを船の替わりにして、その上に寝ていたという。
また、この世が終わる時、全ての生物が滅び去った時も、再び世界が創造されるまでの間、ヴィシュヌはアナンタの上で眠り続けるとされる。
ヴィシュヌの使いとされる。
このバリエーションはいっぱいあるね
マンビジ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%B8 古代のマンビジはギリシャ語ではバンビュケ(Bambyce)の名で登場するが、大プリニウス(v. 23)はそのシリア語名をマボグ(Mabog, または Mabbog, Mabbogh)と述べている。
もとは古代アルメニア王国のコンマゲネ地方の聖地だと考えられるが、歴史記録への最初の登場はセレウコス朝時代であり、首都アンティオキアとチグリス河畔のセレウキアを結ぶ国道上にある拠点であった。
またシリア地方の女神アタルガティス(Atargatis、ギリシャ人は縮めてデルケトー Derketoと呼んだ)の祭祀の中心であり、
ギリシャ人はこの都市を「聖地の都市」(ヒエロポリス、?εροπολι?、Hieropolis)または「聖なる都市」(ヒエラポリス、?εραπολι?、Hierapolis)と呼んだ。
アタルガティスの神殿は、紀元前53年、パルティアとの戦いに赴くローマのマルクス・リキニウス・クラッススにより略奪された。
アタルガティス神への信仰は、コンマゲネの住民であるルキアノスによるものとされる有名な小冊子『シリア女神について』(De Dea Syria) に登場する。
この文章では神殿での崇拝や飲めや歌えの大騒ぎぶり、アタルガティス神の聖なる魚が泳ぐ水槽について詳述されている。
『シリア女神について』によれば神殿では男根崇拝がされており、信者達は木や青銅でできた小さな男性像を捧げている。
大きな男根が神殿の前にオベリスクのようにそそり立ち、年に一度はよじ登る儀式が行われる。
神殿には神官しか立ち入れない聖なる部屋があり、その前には青銅の大きな祭壇が立ち奥に神像群がある。
その前庭には犠牲に捧げられる動物や鳥達がいる。神殿には300人ほどの神官が仕え、その他大勢の人が奉仕している。
聖域の中央には大きな池があり、信者達は中へ泳いで水の中に立つ祭壇を飾り付けるのが習慣となっている。
境内では自傷行為やその他の乱痴気騒ぎが行われる。また街に入ったり神殿を最初に訪れる際には複雑な儀式があるとされる。
マンビジは本によってはメンビジュ(ヒアラポリス)と表記されてたりする 地図でもMenbejやManbij等いろいろ アタルガティスはイシュタルやアナトが習合したも地母神と 小川英雄の本には書かれてる
>>658 エシュムンと関係が深いのかな?
シドンの神殿テンプルではエシュムンとともに
ベイルートのコインでは、ポセイドン、アシュタルテ、エシュムンとともに
また、ピュルジ銘板にも名前が出てくるらしい
http://en.wikipedia.org/wiki/Astarte より
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/As-Julia_Maesa-Sidon_AE30_BMC_300.jpg Other major centers of Astarte's worship were the Phoenician city states of Sidon, Tyre, and Byblos.
Coins from Sidon portray a chariot in which a globe appears, presumably a stone representing Astarte.
"She was often depicted on Sidonian coins as standing on the prow of a galley, leaning forward with right hand outstretched, being thus the original of all figureheads for sailing ships." [4]
In Sidon, she shared a temple with Eshmun. Coins from Beirut show Poseidon, Astarte, and Eshmun worshipped together.
Other faith centers were Cythera, Malta, and Eryx in Sicily from which she became known to the Romans as Venus Erycina.
A bilingual inscription on the Pyrgi Tablets dating to about 500 BC found near Caere in Etruria equates Astarte with Etruscan Uni-Astre, that is, Juno.
At Carthage Astarte was worshipped alongside the goddess Tanit.
Donald Harden in The Phoenicians discusses a statuette of Astarte from Tutugi (Galera) near Granada in Spain dating to the 7th or 6th century BC in which Astarte sits on a throne flanked by sphinxes holding a bowl beneath her pierced breasts.
A hollow in the statue would have been filled with milk through the head and gentle heating would have melted wax plugging the holes in her breasts, producing an apparent miracle when the milk emerged.
The Aramean goddess Atargatis (Semitic form ?Atar?atah) may originally have been equated with Astarte,
but the first element of the name Atargatis appears to be related to the Ugaritic form of Asherah's name: Athirat.
>>663 んー、「第○次発掘調査」と示してあるとこのリンク先は見てる?
論文には到底及ばないが、俺的には「アナトリア発掘紀」の6掛けくらいの情報密度はあると思ったけど
すでに、カマン・カレホユック発掘の基礎情報はあの本で仕入れ済みなことを前提とするとね
それより、飲んだ帰り?以前のレスと比べて文が乱れてるけどw
>>664 いやいや、ビールやワインや日本酒なんてノンデナイヨ
とすると「アナトリア発掘紀」はホントに発掘記なんだね、、、
>>654 メアリーボイスはおもしろかった?
本が読みにくくなければ読んでみたいかな
図書館にあった筑摩のを読んだけど、読みやすかったよ 今だと講談社学術文庫から出てるけど、文庫だからか巻末に牽引一覧が無くなってて不便かも? ただ内容はアップデートされてるから文庫のほうがいいと思う
>>612 羊毛と織物はバビロニアの特産品だった希ガス。それも進入以降の
牧神ドゥムジが牧畜製品を誇っていたけどどんなだろう
羊毛のドメスティケーション
ウールの発達と紡錘車
須藤寛史
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2007moundsAndGoodesses/07/007_02_01.html から抜粋
後述するように青銅器時代以前にもウール・タイプのヒツジは成立していたようだが、その頃の毛刈は春の生え変わりの季節に摘み取っていたものと思われる。
ところで家畜化開始期以降、ウールの有用性はどれほど認識されていたのだろうか。
先述の通り、野生あるいは家畜化初期段階のヒツジでは、繊維原料として便利なウールは、死毛や獣毛の下に隠れており、生え変わりの時期にしか表面に現れなかった。
したがってヒツジの家畜化が始まった新石器時代の人々は、柔らかなウールを目にする機会が少なく、繊維原料としての利用度が低かった可能性がある。
現在見られるような体毛がすべてウール状の柔らかい毛に発達したヒツジをウール・タイプのヒツジと呼ぶが、その最古の証拠としてよく引き合いに出されるのがイラン西部のテペ・サラブ遺跡で出土した前5,000年頃の動物土偶である。
胴体にV字の刻文が連続して刻まれており、ウール特有の縮毛を表現しているとされる(Ryder 1993:Fig.4)。しかしこれだけでは証拠として不十分だ。
ライダーが示したモデルでは、青銅器時代に獣毛あるいは死毛が細くなった品種が出現し、鉄器時代になってようやくウール・タイプのヒツジが出現するという(Ryder 1993: Fig. 3)。
西アジアでは前4千年紀末頃から文字が使用され始めるが、前3000年頃の粘土板文書にウール・タイプのヒツジが明確に区別されている(Green 1980)。
青銅器時代には意図的にウール・タイプのヒツジを利用していたことがわかる。
671 :
世界@名無史さん :2015/02/26(木) 23:34:05.92 0
>>123 >>571 フェニキア人であるカドモスとハルモニアーの娘イーノーがいちまいかんでいる
ということなんだけどあんまりうまく説明できてるとは思えない、うーむ
イーノー(古希: ?ν?, ?n?)はギリシア神話に登場する人物である。長母音を省略してイノとも表記する。
テーバイの王女として生まれ、のちにボイオーティアの王妃となった。
死後、ゼウスによって女神とされ、海の女神レウコテアー(Leukothea)あるいはレウコトエー(Leukothoe)として信仰された。レウコテアーとは「白い女神」の意である。
ネペレーの子たちとイーノー
アタマースには最初の妻ネペレーとの間に二人の子、プリクソスとヘレーの兄妹があり、イーノーはこの二人に悪意を抱いていた。
イーノーは、密かに土地の女たちに種麦を焙らせて作物が実らないように工作した。
穀物が芽を出さないのを怪しんだアタマースがデルポイの神託を仰ごうと使者を送ると、イーノーはこの使者を買収し、プリクソスをゼウスの生け贄に捧げるよう神託があったといわせた。
アタマースがプリクソスを生け贄にするために山頂に引き立てたとき、ヘーラクレースがプリクソスを救った。
一説には、救ったのは実母のネペレーともいう。
プリクソスは妹のヘレーとともに金毛の羊の背に乗って逃れ、二人が乗った牡羊はコルキスの「金羊毛」として後のイアーソーンとアルゴナウタイの冒険につながる。
後は衣装と交換、、、
バッコスの饗宴にまつわる神
後になってイーノーが健在であることがわかり、アタマースは乳母といつわってイーノーを宮中に入れた
。テミストーはこれを見破り、テミストーの子には白い衣装、イーノーの子には喪服を着けさせるようイーノーにいいつけ、翌日護衛に命じて喪服の子供を殺させた。
しかし、イーノーは危険を察して子供の服を取り替えていたので、殺されたのはテミストーの子だった。アタマースはこれによって乱心したのだという。
673 :
世界@名無史さん :2015/03/02(月) 00:21:33.27 0
ダメリカがイラクから撤退したらゴキブリのように 現れたヤツら。 米軍に責任取って鎮圧させればいい。
しかしイラクの集団間抗争を見てると、ルワンダの民族融和政策って奇跡的だな ヨーロッパでカガメ大統領が独裁的だとか批判がポツポツ出てきてるみたいだけど、 相応の強制力ないとヤバいだろアホかと言いたいわ チトーとかカガメみたく、ひとまず復讐の連鎖を回避させてんのがいかに凄いことなのか想像しろよと
675 :
世界@名無史さん :2015/03/02(月) 02:05:08.67 0
>>651 >>662 この本が出た時点で19年だからもうかれこれ30年以上を掘り続けてるのか
ほんとに発掘紀だったけどこれはこれでよかったww
本の中ではガシュガ
>>669 だね
勢力圏のイキズテペ遺跡ではイスタンブール大学が1974年以降発掘を続けているらしい
>>675 ガシュガの動向が「マシャトホユック文章」にあるらしい
ちなみに日本語で検索するとこんな感じ
24 : ライラック(dion軍)[] 投稿日:2009/05/11(月) 08:02:41.77 ID:x3PDeu5T [2/2回]
>>22 ヒッタイト帝国滅亡の原因は核戦争だった!?
“地獄の業火”−−これは比喩ではない。アナトリアの数多い遺跡のこの時代の地層には、すべて大火災の跡が一面に残っているのだ。
例えば、首都ハットゥシャシュからしてそうだ。発掘報告書によれば、この要塞都市は「原因不明の非常な高温」によって滅び去った。それは考古学者ビッテルが、
「この町に可燃性物質がどれほど貯蔵されていたにしても、通常の火事ではこのような高温を出すことは絶対に不可能である」
といっているほど、凄まじいものだった。
日干しレンガの城壁や建物が融解して、赤色の塊になっていた。石は焼結して、ひびができていた。ハットゥシャシュには、想像を絶するような高熱破壊の跡が残っているのである。
同じような高熱破壊の跡は、この時代の他の都市でも認められる。コルジュペテ、ハラバ、カラホユク、パトノス、カーノスなどという遺跡が、厚い焦土層を残している。
マシャトホユックという遺跡は、壁という壁が強烈な熱を受けたために真っ赤にただれ、カチカチになっている。
出土した粘土版文書の中には、強い火を受けたため、2枚が完全にくっついているものがあった。焦土層の厚さは50センチ以上にも達している。
紀元前1200年というその時代、アナトリア高原全域がいっせいに炎と化して燃えつきた。これがヒッタイト帝国滅亡の日の姿なのである。
677 :
世界@名無史さん :2015/03/03(火) 02:54:42.27 0
>>675 これは意外な拾い物ww
http://en.wikipedia.org/wiki/%C4%B0kiztepe Although ?kiztepe means "twin moulds" in Turkish, the site contains four mounds and a burial ground amidst those. ?kiztepe II mound contains the earliest findings.
Most of the findings are dated to the Early Bronze Age, but the earliest finds date back to possibly the sixth millennium BCE. Finds from ?kiztepe exhibit similarities to material of the same age found elsewhere in Anatolia.
There are also parallels with findings from Eastern Europe. Among the artifacts found are pottery, metalworks and spindle whorls.
According to one theory, the Bosphorus might have been blocked temporarily during the Late Calcolithic to Early Bronze Ages,
exposing a wider shorline at the coast of the Black Sea, making it possible to easily travel from Varna to ?kiztepe region.[1]
The Hittite city of Zalpuwa is sometimes associated with ?kiztepe. However, this identification is not certain.[2]
The large amount of textile materials (spindle whorls) found in the site may indicate sailing activity.[3]
The excavations in ?kiztepe started in 1974 and continued intermittently into the 21st century.[4]
http://en.wikipedia.org/wiki/Zalpuwa Zalpuwa was by a "Sea of Zalpa". It was the setting for an ancient legend about the Queen of Kanesh, which was either composed in or translated into the Hurrian language:
678 :
世界@名無史さん :2015/03/03(火) 03:13:10.03 0
>>675 本を書いたのが2004年4月で熱く鋼について語っててこの流れは熱いなww
それがしかも自分とこの遺跡っていう流れは学者冥利に尽きるだろう。
2005年05月14日
世界最古の鋼 紀元前18世紀 500年さかのぼる発見
http://www.konesite.com/weblog/archives/2005/05/post_77.html トルコのカマン・カレホユック遺跡で出土した紀元前18世紀(アッシリア植民地時代)の鉄片が鋼だったことが、岩手県立博物館の赤沼英男上席専門学芸員の分析で判明した。
これまで世界最古とされてきた紀元前14〜12世紀(ヒッタイト帝国時代)の鋼を約500年さかのぼる発見。
今回の発見について、中近東文化センターアナトリア考古学研究所の大村弘所長は「メソポタミアからやってきたアッシリア商人が、優れた冶金技術をヒッタイトに伝えた可能性が出てきた。
ヒッタイトと鉄の関係を根本から考え直す必要がある」と話している。
2012年4月3日 朝日新聞
「最古の鉄鋼生産か・・トルコで発掘 前期青銅器時代」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/426b9a23634e1fd3726e33cd495f6144 中近東文化センターが発掘調査を進めているトルコのカマン・カレホユック遺跡で、紀元前2100年〜前1950年ごろ(前期青銅器時代)の地層から出土した遺物に、
鉄器の原料となる鉄鉱石や、製鉄や精錬の際に出る不純物である鉄滓が含まれていることが、岩手県立博物館の赤沼英夫氏の分析でわかった。
この層からは鋼の鉄器も出土しており、世界最古の鋼の生産が行われていた可能性が強まった。
確認されたのは、破砕された鉄鉱石が2点と鉄滓が2点。
鋼と推定される鉄片も新たに1点みつかった。
また鉄鉱石から鉄分の少ない部分を取り除いたとみられる岩石片もみつかっており、赤沼さんは「選鉱も行われていた可能性がある」と見ている。
中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所の大村所長は、「注目すべき発見だ。今後出土した遺物の年代測定を行うとともに、鋼の生産遺構の発見に努めたい」と話している。
679 :
世界@名無史さん :2015/03/04(水) 22:44:10.97 0
>>675 いま見てる「古代のメソポタミア」に古アッシリア時代の交易路が載ってるんだけど
その中にカネシュ(キュルテペ)までの推定ルートが掲載されている。
アッシュールから出発してティグリス、ユーフラテスの両大河を使わずに
ほぼ真っ直ぐ西へハブール川を横切ってバリーフ川沿いの都市ハルランを経由して
パドナ→カルケミシュ→ウルシュムに至り
そこから北西へ折れ
マムマ→ティメルキヤ→カネシュ
へ至るという超内陸非河川ルートなんだけど、これなんでなんだろうww
680 :
世界@名無史さん :2015/03/06(金) 05:15:19.64 0
681 :
世界@名無史さん :2015/03/07(土) 22:15:23.33 0
>>679 ちなみにこのルートはおそらく▲カールムや●ワバラトゥムの分布から復元されたものなんだけど
ハットゥシャ → アラジャ・フユク を経由し北へ向かい
東へいったん蛇行した後に戻ってきて、最後は赤い河の下流の黒海近くまで
ドゥルフミト▲ → トゥフピヤ● → ザルパ●
と続いている。
さて、ここで疑問が二つ
この蛇行はなぜかという点と、
そしてなぜかザルパが地図中二2つあるのだ
ひとつは黒海のザルパ、もうひとつはバリーフ川のザルパ
682 :
世界@名無史さん :2015/03/07(土) 22:44:43.91 0
683 :
世界@名無史さん :
2015/03/08(日) 22:33:09.06 0