397 :
世界@名無史さん:
>>390 >いや、碧蹄館は兵力的にほぼ互角の状態で戦って明の精鋭遼東鉄騎を
>大破してるわけだが
いまだに碧蹄館の戦いは、小早川隆景率いる前衛だけで勝利したって
思っているんだ。(笑)
後衛の宇喜田秀家配下でも戸川肥後守達安や国富源右衛門戦闘に参加
しているのに。
なんで重臣の戸川と誰だかよく解らない小身の国富なんちゃらを並べてるんだよ
>>397 この話もちょっと前に上がったばかりなんだがなあ
日本軍本隊のうち戦闘に参加した記録があるのは宇喜多勢の戸川隊のみで
その戸川隊の参戦さえ「戸川記」に書かれているだけで疑わしいところがある
明軍と交戦したのは先鋒隊二万のみで、本隊二万一千が予備兵力として未参戦であったことは
徳富蘇峰や李炯錫も指摘しているわけだが
戸川達安はやはりフカシだろうねぇw
事前に戸川だけ先鋒隊に分派でもされていない限り、陣備えで
最後尾の宇喜多勢が戦闘に参加するのはどうしたってムリだろ。
石田大谷ら奉行衆は合戦自体に消極的だったからわかるとしても
本隊先陣の黒田長政が後続部隊の抜け駆けを見過ごすとは考えづらいな
402 :
世界@名無史さん:2011/11/20(日) 03:30:18.50 0
おまえら受験生か?
>>392 臣下云々と福建省云々は別人だよ。
それに臣下云々は勘合貿易再開の件とか同時期のアルタン・ハンの事例とか出してて、
ちゃんとした根拠があるのに、荒らし呼ばわりはひどいと思う。
404 :
世界@名無史さん:2011/11/20(日) 10:56:11.08 0
>>399 >日本軍本隊のうち戦闘に参加した記録があるのは宇喜多勢の戸川隊
>のみでその戸川隊の参戦さえ「戸川記」に書かれているだけで疑わ
>しいところがある
印象操作はいいからもっと具体的に反論しろ。
たとえば、国富源右衛門の逸話などは本人にとってもあまり名誉ある
話じゃないのにこれも捏造だというのか?!
>>404 根拠が「戦国ちょっといい話・悪い話」に載っている逸話だけとか情弱すぎだろw
そういうこと言い出すなら後世の「陰徳太平記」では碧蹄館で宇喜多・吉川勢が先鋒を任されたことになっているし、
「黒田家譜」では黒田隊の大活躍によって日本軍が勝利したことになっているわけだが
お前は後世の逸話や文献を片っ端から鵜呑みのする前に、他の文献と照らし合わせて資料批判するべきだな
まあ旧参謀本部の「日本戦史・朝鮮役」では戸川隊の参戦を肯定しているわけだし
ありえない出来事とは言えないんだろうが
どっちにしても宇喜多の一部将が参戦したかしなかったかだからな
本隊がほとんど不参戦であったことに変わりはない
>まあ旧参謀本部の「日本戦史・朝鮮役」では戸川隊の参戦を肯定しているわけだし
してねーよw
補伝に資料として収録されているだけで、採用していないから本編にその記載は皆無だ。
>>407 あ、ホントだw勘違いしてたわ
補伝には上の陰徳太平記みたいな眉唾話も結構載ってるし
参謀本部も戸川隊の参戦はなかったものと認識してたんだな
409 :
世界@名無史さん:2011/11/20(日) 14:58:47.97 0
立花宗茂の配下として碧蹄館の戦いに参加した
天野源右衛門の文書では、後衛から宇喜多隊八千
が前衛の毛利隊に対抗するためにずんずん前に出て
備えを立てたので毛利勢の先手から『備前勢があんな
に押し出したのは、定めて先陣せんとのつもりでござろう。
貴殿はすでに今朝いざぎよき合戦をとげられたのでござれば
先陣をお譲りくだされ。』との口上があり宗茂が先陣を譲ったとある。
>>409 「天野源右衛門覚書」の該当記事を見てみると
「三陣の備前衆八千ばかり、敵近づかば、立花に先んじて、一戦せんと進み出て見えしが、
敵の大勢なるを見て、引くともなく、進むともなく、ためらいしが、四五町ばかり引き退く」
とあり、宇喜多勢は結局「四五町ばかり引き退」いてしまっており
その後の戦いの場面にも毛利家と立花家しか出てこない
この記事には右方から明軍を攻撃したはずの小早川秀包、毛利元康、筑紫広門らが出てこず
毛利勢の粟屋・井上隊が敗走した後に立花隊が単独で明軍を大破したかのように書いてある
「天野源右衛門覚書」は合戦の当事者が書いたという点では極めて史料価値が高いけれど、
大名家が編纂させた文献ではなく一個人の覚え書きであるため誤解や記憶違いもあるだろうし
立花家を表彰したいがための脚色も多く留意が必要だと思う
怪しげな三次資料あたりの引用をドヤ顔で書き込んでみたら、
すかさず原文挙げて否定されて
>>409涙目だな。
ためになるな
>>403 でも戦争吹っかけておいて勘合貿易をしたいって、「貢物をよこせ」って要求じゃね?
秀吉が死なず、明と有利な講話を結ぶとしたら
どのような条件が妥当だろう
朝鮮南部の確保?歳幣の要求?
後の展望が見えん
「此の戦争は、第六番組の受持であつた。
即ち小早川隆景を首とし、毛利秀包、立花宗茂、高橋主膳正、筑紫廣門等にして、此に毛利元康の一隊参加して居た。
先づ未明に始まり、午後四時頃終わった。
最初は立花兵と、敵の先鋒査大受と○石嶺の此方に於ける衝突に始まり、次に李如松と小早川本隊との接戦となつた。
即ち隆景本隊は第一陣粟屋、第二陣井上、第三陣隆景旗下とし、立花宗茂を左翼とし、毛利元康、小早川秀包等を右翼とし、
本隊の戦酣なるに際し、左右の翼を放って、敵の後方に迂回し、殆ど敵を包囲攻撃した。
実際戦闘に参加したるもの、我は一万五千以下、敵も暫時に増兵し来りたれば、
最後に来援したる揚元の兵を合すれば、二万内外にも上る可きか。
其の損傷は、我が二千、敵が五六千の間であらう。 」
碧蹄館の戦いに関しては「近世日本国民史」の考察が最も真相に近いと思う
日本側の参加兵力が少ない気がするけど、これは渡海以来の兵士の消耗を差し引いて考えた結果だろう
あ、違った
日本軍の参加兵力を一万五千以下としているのは
吉川広家の兵力四千が勘定に入っていないせいか
417 :
世界@名無史さん:2011/11/22(火) 05:36:58.06 0
その気なら12世紀の十字軍のように半島の一部に傀儡国家くらい作れたと思うわ
極端な話、その気が有れば今の韓国領ぐらいは編入出来たな。
秀吉が死ぬと撤兵するあたり、朝鮮の土地はあんまり魅力的じゃなく
その気はなかったんだろうな。
今の韓国に値する土地を確保したとしたら
かなり歴史が変わりそう
女真との関係とか
明が崩壊期に入った時期ならサクっと半島まるごと占領して
清と分割協定結ぶのはわけなさそうだ
明が崩壊に向かう前に、固まる前の女真族を明がけしかけてくる可能性が
夷をもって夷を制すを実践するだろ
ヌルハチ自身も得体のしれない鉄砲軍団より明につくだろうし。
後金は日本への通り道を必要としてないから。
明遠征の為の通路を欲した日本とは違って。
半島中南部の割譲を明から引き出したら
誰が配置されたんだろうな
当初の予定どおり
勲功あった武将か、豊臣家一門・宇喜多あたり配置するんじゃね
426 :
世界@名無史さん:2011/12/01(木) 19:47:04.92 0
>>422 満州八旗10万じゃ朝鮮に城と補給線を構築しきった
日本には勝てないよ
清は肥沃さも技術も文化も無い半島になんて興味無いよ
428 :
世界@名無史さん:2011/12/01(木) 20:21:42.86 0
鬼島津の対兵数二十万人は誇張された数字ではないと思うな。
三国志の時代ですら百万人規模の軍勢が在った国ですよね?
それならなおさらのこと、当時でも数十万人の軍勢で
押し寄せたとしても違和感が無い。
むしろ、数万人程度で島津義弘へ攻撃したとする説のほうが誤りに見える。
429 :
世界@名無史さん:2011/12/01(木) 20:26:11.82 O
どうでもいいけど後世のために滅ぼして欲しかったわ。秀吉さん・・・
>>428 小説や漫画はどうか知らないが現実はそこまで多くないだろ
三国時代末期でも蜀が10万、呉が25万くらいだから魏呉蜀を合わせても100万いくかどうか
数万人ってすごい数だぜ?
2万人が1メートル間隔、二列縦隊で行進したら全長10キロだぜ?
三路の戦いに投入された明軍を総計しても十万人前後だし
二十万はありえないな
428はあっちこっちの板にマルチポストなんで
スルー推奨だな。
>>429 秀吉の時代に半島奪ってれば、近代の日清日露など回避できたもしれんね
明治時代になって「気がついたら列強に囲まれてる!怖い!軍国になろう!」
とはならなかったかもな。
女真やモンゴルに対する備えを考えれば辺境の朝鮮半島南部の賊軍の一部隊に兵力二十万人投入はありえない
女真やモンゴルに対する備えを考えなくとも二十万投入はありえないだろ
明がサルフの戦いに投入した兵力も十万だから、このくらいが外征に出せる兵力の限界だったんだろうな
朝鮮半島手に入れて明と講和したとする
サルフの戦いがあるとしたら、明は日本に救援を依頼するのだろうか
439 :
世界@名無史さん:2011/12/03(土) 12:30:59.70 0
朝鮮本土なんかにこだわらず、済州島と鬱陵島だけ確保しとけばよかったんだよ。
そしたら、その2島はいまでも日本領だった可能性が高い。
440 :
世界@名無史さん:2011/12/03(土) 12:37:59.09 0
とにかく後世のために滅ぼして欲しかったわ。
441 :
世界@名無史さん:2011/12/03(土) 13:00:02.90 0
やっぱり、済州島スルーしたのは謎だよな。
滅ぼしてもあの地理的状況が新しい朝鮮人を産んだだろうよ
日本と中国に挟まれて恨みの文化が育まれるもの
443 :
世界@名無史さん:2011/12/03(土) 13:44:12.44 0
そんなことより、済州島をスルーしたことの方が大失態だろ。
現代の視点でみると鬱陵島は朝鮮の領有権が及ぶとした江戸幕府の大失態が痛い
445 :
世界@名無史さん:2011/12/06(火) 15:53:41.80 0
スルーしてないし
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや
その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ?
448 :
世界@名無史さん:2011/12/07(水) 20:14:08.17 0
>豊臣秀吉の朝鮮出兵はスペインの日本侵略を防ぐ布石を打つことが目的だった
この説の起源は井沢元彦ってことでおk?
>>449 西尾幹二が「国民の歴史」でそういう感じのことを書いていたような・・・・
つくる会の教科書が文部省の検定で「具体的事実がない」とひっかかってたな。
井沢元彦と西尾幹二どっちが先かね
スペインの日本侵略とか、つくる会も文科省並みに電波だな
スペインを過大評価し過ぎ
当時のスペインなんて日本どころか明にもボロ負けするだろうな
というか当時の明の軍事力は過小評価され過ぎな気がする
動員兵力は世界一だろうし、装備も兵の錬度も悪くないはず
455 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 13:48:34.53 0
もし秀吉が朝鮮半島を占領しても明との戦争に明け暮れどの道、負けていたと思う。
国内では内乱が起こり家康が三成を破って徳川幕府成立してたでしょう。
朝鮮出兵、もし信長ならどう戦っただろうか?秀吉と同じ手法だったのだろうか?
明と戦うなら日本と朝鮮が戦わず連携して明に攻めれば勝機はあったかも知れない。
飛行機の無いこの時代、まともな国を相手に海を渡って戦争して勝った国はそうそう無いよ。
そもそもが対馬の宗氏が吹き込んだ「朝鮮はすでに服属している」なんて甘い見通しを前提に出兵しちゃってるからなあ
「征明」も朝鮮という先導役・前線基地あってこその計画だったろうし
457 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 14:11:23.60 0
>>454 いや局地戦なら当時の明は何処とやっても負ける
458 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 14:14:10.12 0
李氏朝鮮が味方した方が勝利する
これは間違いない
>>457 スペインからはるばる遠征してきたスペイン軍程度じゃ明に負けちゃうでしょって話
当時の渡海能力だと送り込める兵力なんてたかが知れてるし
460 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 15:09:00.10 0
秀吉でも明でもいいが、とにかくチョンを滅ぼして欲しかったわ
朝鮮出兵の時に朝鮮を領有出来ても
その後も維持出来るとは思えないんだよな
中華が南北に分裂するなら別だろうが
>>457>>459 スペイン人自ら、明兵は恐ろしく統制され、精強無比な集団であり
我々の軍隊では到底対抗できない、と報告してる。
463 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 18:01:27.11 0
だから朝鮮半島全部とか、南部4道とか欲を出さずに、
チェジュ島とウルルン島だけにしとけば、確実に領有できてたのに、
なぜかこの2島はスルーしてるんだから、信じられんわ。
秀吉が70歳まで存命してたら
倭領を含めた半島南部は確実に回復出来たんだろうけどな
465 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 18:27:39.34 0
無理。
チェジュ島とウルルン島確保が一番現実的。
余裕。
半島南部の日本領土化は現実的で確実。
秀吉の死亡で日本の大陸進出の夢が断たれたのは確か
賛否もあるが江戸幕府には外征してほしかったね。
でも仮に倭国が大陸全土を手中に収めたら…
幾多の騎馬民族のごとく「漢化」して日本文化を失うのがオチじゃないか?
江戸幕府って薩摩に琉球の遠征はやらせてるのに、大陸侵攻どころか海外渡航を禁じたり蝦夷地はほぼ放置。
琉球だけなんで攻めたんだろ。
470 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 19:36:27.04 0
幕府は薩摩が琉球遠征するっていうからまぁいいんじゃね?って許可しただけだろ
薩摩も琉球を介しての大陸との貿易がしたかっただけでてこずったらすぐ撤退する予定だったみたいだし
李朝を滅ぼしたところで住民は残るわけだし、史実より日本と明の干渉が強くなったら
いまより関係が拗れるんじゃね?
徳川としては大陸に大量に兵を送るより
国内の基盤固めがしたかったんじゃね
李朝は当時かなり民衆から恨まれたりしてたわけで
上手く根回しすれば民衆を味方に出来たのに
数多の植民地帝国や日本帝国も俺のほうが上手く支配できると勢い込んで
手を広げたんだろうけどなかなか上手くいかないようだし、難しいようですな
いくら植民地を手に入れても同化させなければ意味ないしね
>>462 明軍を見たポルトガル人宣教師は、世界中探してもおそらくこれほど精強で規律正しく操練された軍隊は居らず
ヨーロッパの軍隊とは比べ物にならない、彼等がその気になれば地の果てまでも征服するだろう。と報告してる
↑気になって調べてみたらこういうレスを見つけた
誰かこの話の出典を知っている人はいない?
>>471>>475 李朝の頃に滅びてたら今頃朝鮮半島の住人は日本語喋る日本人になってるよ
現代トルコ人がトルコ語を喋り北アフリカ諸国がアラビア語を喋るように
数十年では同化しなくとも100年200年経てば同化する
戦国時代の集大成の一つとも言える合戦なんだけどなあ…
強さは示したけどただそれだけ
大暴れして民衆の反感買ってるし、国内の豊臣の力が落ちるはでまともなものじゃない
朝鮮征伐が民衆の反感買ったとか初耳だわ
聞いたことが無い
実は朝鮮出兵の兵糧確保の名目で蔵入り地って豊臣家の直轄地が増えて、
豊臣家の権力は強化されたって話を聞いたけど、どっち?
フィリピンはスペイン化しなかったけどな
本国から遠すぎたか?
482 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 22:58:30.65 0
そういえば、フィリピンって白人系のメスティソっているのか?
金持ちも完全なアジア人の顔ばっかりで、白人っぽい奴ほとんどいないんだが。
例外的にアヤラ財閥という、スペイン系白人の財閥一家がいるって話は聞いたことがあるが、
それ以外はほとんど白人系住民って見かけない。
占有してたのは港近くの集落だけだからな
それも普段の管理は現地人任せだし
484 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 23:10:31.81 0
アジアで白人が同化する事はなかったな。
シベリアの住人はロシアに同化しちゃったぞ
スペイン系フィリピン人はマフィアに多いよ
華僑系フィリピン人は政界経済界に多い
>>485 でも今は人口は史上最大で割合を増やしつつあるような
>>477 トルコとて住民交換前はギリシャ人随分居たし、アルメニア人も多かったし
クルド人は今でも多いし。マグリブも千数百万だかのベルベル人いるわけで
1000年かけてもそんなもん
おまけに半島は人口と人口密度がかなりでかいし、同化つうても結構難しいんじゃなかろうか
半島を同化させるなら
大衆レベルで進んで日本語を習わせる
心情を日本寄りにさせる
旧制度を徹底的に同意のもと破壊
くらいの条件が必要な気が
仮に同化に成功して統治がうまくいったとしても清代に奪われるだけじゃねーの?
清に半島狙われて、何時までも維持できるとは思えんが
元々少数民族による支配なんだし、清がそう強固とも思わんけどな。
日本が早い時点で橋頭堡が確保できれば、むしろ清が史実通り旧明の
全域を支配できたかどうか怪しいと思うが。
史実でも、鄭成功絡みで徳川幕府の派兵の可能性があったわけだし。
>>487 半島人の同化は余裕だよ、現に北部人は南部に滅ぼされ同化しちゃってるしな
進んだ文明としての意識や確固たるギリシャ語があったオスマン治下のビザンツ系とは質が違う
クルド人の存在は英国の混入政策の結果だし、そもそもトルコのクルド人は大して古い民族でもない
492 :
世界@名無史さん:2011/12/09(金) 09:13:36.21 0
>>462 いや寧ろ現地のスペイン人らは明攻撃を盛んに説いてた
本国とマニラ総督が乗り気じゃなかった為実現せず
>>492 フロイスの日本史を読むと文禄の役のくだりに面白いことが書いてあるよ
なんでも「明人は弱い」という認識は倭寇に荒らしまわされてた「軍兵がいない」中国南岸部の弱兵のイメージが広まったものであり、
戦闘経験豊富な明の国境付近の駐屯軍と日本軍が交戦するに至って、
実際の明軍はヨーロッパ人や日本人の想像よりもはるかに強大であることが分かったとか
スペインが本気出しても、せいぜい出来る事はイギリスがしたみたいな海賊行為だけだろ。
コンキスタドールの影響で強さが際立って見えるだけ
スペインの軍隊自体はそこまで強いものじゃあない
496 :
世界@名無史さん:2011/12/09(金) 13:51:11.01 0
まさにそれが目的だった
広州や寧波などの大経済都市から苦力や産物たらふく強奪できれば相当な利益になる
>>492 明軍を見たことも無いアホが喚いてたが
直に目の当たりにした
>>462の報告を見て取り止めた
>>491 日本が相手するのはその同化力の強い南部人になるのでは?
クルド人はセルジューク朝に征服される前にマルワーン朝形成してたし、
新しいとも思えんのだが。英国支配地にしたって元オスマン領だし。
同化するかどうかは現地の人の態度しだいだろうね
積極的に他国の言語を使う風潮が出来たら百年たてば同化するだろう
エジプトやイランがアラビア文字化したのは100年ちょっと
エジプトがアラビア語化したのは2,3世紀
最初は漢語はそのまま、チョウセングルがかな文字に置き換わって
今頃は日本語化してたじゃないかな
501 :
世界@名無史さん:2011/12/10(土) 11:42:10.47 0
>>497 バラつきがある宣教師達の私的報告で総督府の方針がコロコロ変わる事はあまり無い
単にガレオン貿易での取引が予想より有益だった事とフィリピン諸島の征服事業に専念するため取り止めた
>>502 スペイン人や米人との混血は人口の1%もいないよ
朝鮮獲得しても次の中国入りをどう成功させるのかが大問題
北京落として終了ってわけじゃないし
仮に成功しても女真みたいな統治じゃ中華に同化する
インディアンみたいに対立煽って自滅させるのが一番だろうが
そこまでアホじゃあないだろ
505 :
世界@名無史さん:2011/12/11(日) 03:09:03.45 0
そう言えば朱元璋が死ぬ間際に上げた「不征ノ国15カ国」て全部分かる人いる?
506 :
世界@名無史さん:2011/12/13(火) 01:04:56.91 0
朝鮮半島も征服できない侍風情じゃあなあ
実質秀吉が死ぬまでの7年程度じゃ無理だったってだけだろ
小西やら沈惟敬の欺瞞外交で長い休戦期間もあったわけだし
まあ、明の参戦がなかったら李氏朝鮮なんてとっくに服属か滅亡してただろうけどな
おおむね戦争では勝ってたが
異民族支配のノウハウがなかったのがな・・
蝦夷を支配し新羅と百済を属国化し、カヤを支配し高句麗にまで出兵した
古代のノウハウが残っていればな
交渉相手はあくまで明なんだぜ?
朝鮮半島を平らげて、完全に民衆を手なずけても明が朝鮮救援に燃えてれば
戦争はずっと続くんだぜ。
明が嫌気さして適当に講和する条件は何が考えられるのか
女真の反乱だろうか 農民反乱だろうか
実際、嫌気さして朝鮮無視して適当に講和した結果が
文禄のあとの講和だろ
あの段階で朝鮮南部が日本になってたら今の朝鮮はどうなってたか
狭い領土で南北に別れてろうか
いまも分かれてるじゃんw
日本に近い南東部が日本で、中国に近い北西部が中国になってたんだろ
清朝崩壊で北西部が独立した可能性はあるかも
そうなると加藤清正あたりがヌルハチと戦ったりするのか
胸熱だな
あと日本に儒学者がわたってきてたりしてたんだろうな
朝鮮としては貨幣経済が発達したりすんのか
慶長の役で行った恒久支配と、不満分子の皆殺し
大和化政策、日本と変わらない待遇を50年続けたら
民族意識なんて希薄な当時なら朝鮮民族意識は消えて大和民族になるよ
蝦夷とアイヌの違いなんて昔は殆ど無かった訳だし
実際、熊川とか釜山とかの倭城の城下町では朝鮮人が月代を剃ったりお歯黒をしたりと
風俗の同化が進んでたらしいな
朝鮮支配すると変に儒学かぶれする人物が続出しそう
あの頃の朝鮮は圧政に苦しんでる大衆が多いから
善政を敷けば苦もなく大和化したかもね
その場合日本の影響受けた南部と中華に追従する北部とで
酷い南北対立が起きそうなんだが
儒教は徳川の治世じゃ無いと
あそこまで流行らないと思う。
>>518 日本が満州ヌルハチ相手に朝鮮半島で何処まで兵担を伸ばせるか次第だと思う。
南端沿岸に留まると日本の影響はその周辺都市に限定されるし
中朝国境付近まで支配できれば50年で日本化が始まって
200年も経てば朝鮮民族は隼人や蝦夷みたいに
歴史の遺物になるよ
特に当時は民族意識も人権意識も弱いから
日本化した朝鮮人を差をつけないで待遇したら
染まるのは早いし、染まらないのは殺されて終わり
まぁ混じれば朝鮮民族は数も多いし日本人の意識に
相当な悪影響を及ぼしそうだけど
イギリスとアイルランドみたいな関係になるぞ
満州族も結局は山海関を自力で突破できなかったから
無敵ってほどは強くない だだっ広い騎兵に有利な場所に出なければじゅうぶんに対処可能じゃねえの
もし仮に明朝が倒れる頃、日本人が満州族みたく漢語に通じてたら
中国の征服王朝になった可能性もあるのか、宗篤だなw
満州が全部ロシア領になりそうだけど
戦国時代の日本の民度なんてかなり酷いものだろうし
朝鮮民族と多少混じっても悪影響は及ばないと思うが
まあ、朝鮮半島全部併合するより緩衝国として残す方がいいわな
そういう意味では朝鮮南部の確保を目的とした慶長の役は現実的だった
山がちな地勢だから半島分割もできなくはないだろうな
おいおいwikiの碧蹄館の戦いのページどうなってんだ?
明軍の損失が2000〜2500人で日本軍が6000〜8000人って書いてあるぞ
日本軍がそんなに死んだわけねえだろ。ソースは?
あのページコロコロ変わるからなあ
ほっといた方がいいんじゃね
>>524 >>525みたいな在チョンが
歴史的事実を無視して自分たちの願望優先で秀吉軍を貶めるのに必死だから
さっさと元の版に戻した方がいいよ、キチガイ在チョンは会話が成立しない。
お前がやれよ
やることは誹謗と指図だけかよ
とは、願望優先でウリナラファンタジーした在チョンの便。
誰と戦ってるんだよ
朝鮮討伐が成功してたら今の慰安婦問題(笑)もないんだろうな…
ほんっと惜しいことしたよ
531 :
世界@名無史さん:2011/12/19(月) 03:17:15.16 0
とにかく日本は朝鮮なんか統治すべきじゃなかった。アメリカと戦争
した事に次いで、朝鮮統治は日本史上における大失態だ。
日本統治時代に、土人国家をインフラ、産業などの整備してやって、
戦後もガンガン技術、経済協力までしてやったのに逆恨みをするだけ。
同じく統治した台湾と正反対。台湾ではシナ人は略奪するだけだった。
世界中から嫌われるはずだ。チョンにすればアメリカ様は解放者だろ?
韓チョンにすれば虐殺者、将軍様から今も守ってもらってる恩人だろ。
チョンを守るためにどれだけのアメリカ人が死傷したんだ・・・
その恩人の国旗を平気で踏みつけ火を付ける。それが、「チョン」
↓
http://images.4chan.org/trv/src/1324204379430.jpg
>>530 あんなのは河野と宮沢が娼婦の売春行為に謝罪したのが問題
日本政府が間抜けだから起きた問題であり
慰安婦問題が火種にならな くても
別の問題が出てくるよ
一時期フィリピンパブのダンサーが人身売買だと言われてたように
今、安さで日本の風俗を席巻してる韓国娼婦も
慰安婦問題が無くても、日本批判のネタなるのは間違いない
碧蹄館の戦死者数についてなんだが、徳富蘇峰氏が「近世日本国民史」の中で
「其の損傷は、我(日本軍)が二千、敵(明軍)が五六千の間であらう」と推定してるんだよな
wikiに載せるなら「2000〜2500」だの「6000〜8000」だの根拠不明の数字じゃなくこっちにすべきじゃない?
まあ俺は編集の権限持ってないから、こうして2ちゃんで素人考えの提案をすることしかできないわけだが
朝鮮側の言い分じゃ
両役とも、派兵した兵隊の8割強は
朝鮮、明兵に討ち取られてることになってなかったって?
韓国籍の言い分は常に間違ってるからどうでもいい
>>533 編集は誰でも出来るよ、キチガイが暴れたなら串通せばいいし
実際、朝鮮兵ってどのくらい貢献したの
朝鮮水軍が活躍した話くらいしか聞かないんだが
頑張って明軍の補給を悪化させたよ
538 :
世界@名無史さん:2011/12/25(日) 00:44:20.11 0
Wikiでの碧蹄館の戦いのことなんだけど、
戦死者数の記述がおかしくね?
539 :
世界@名無史さん:2011/12/25(日) 00:51:54.41 0
とにかく滅ぼして欲しかった。それだけ。
>>533 >>538 両軍の戦死者とも何が出典なの?って感じだよな
日本側は実質二万人前後しか参戦してないのに、六千人も討ち取られたら壊滅状態だろ
とても包囲陣形を維持できずに早々と壊走してるはず
あと明側の戦死者についてなんだが、個人的には「日本戦史」にある六千人はさすがに多すぎるように思う
安国寺恵瓊が立花宗茂に送った書状に
「去廿六日、大明人罷出候処に、先手御請取候て、被振御手柄、数千人被討取由、京都御三人衆・隆景注進状にて承知」
とあるから少なくとも二、三千人以上討ち取ってるのは確かだと思うが
日本側は優勢な推移のまま勝利し兵器の質も上だった以上、最大限で1割の2千人は超えない。15%超えたら敗走寸前
「日本戦史」にある六千人の推計は、恵瓊が宗茂へ送った書状にある「数千人被討取」とよく合致しているし信憑性がある。
明側に野垂れ死に多そうだが
帰還経路が長い
それらもふくめてるんでないかい
「首級六千余」だからなあ
確かに長い敗走途中に野垂れ死んだ明兵の首まで含むなら分かるけど
日本軍は深追いせず漢城に帰還してるみたいだし
544 :
世界@名無史さん:2011/12/25(日) 23:56:53.34 0
勝った側の戦死者数が負けた側の2〜3倍近くなんて良くある話なの?
どう考えてもおかしい
ベトナム戦争みたいだな
wikiは日本語版と英語版が全く内容が違ってるんだがw
はいはい、在チョン乙
548 :
世界@名無史さん:2011/12/26(月) 20:42:52.46 0
結局、日本語版と英語版はどっちが正しいの?
>>544 攻城戦だの上陸戦だのであれば普通。
守る側は攻める側の3倍有利だと言われている。
本件は後詰め決戦ご主戦だから関係ないな
>>548 おおむね日本語版が正しい
なんせ英語版のソースはもっぱら朝鮮人の書いた本とかKBSだからな
釜山浦の戦いが朝鮮軍の決定的な大勝利だとか幸州山城で朝鮮軍2300人が
日本軍1万5千人をぶっ殺したとかやりたい放題w
>>548 碧蹄館は、現在では国際的にも韓国領だと認識されている。
それにしても英語版は日本語版よりも海外の人の目に触れる機会が多い
これは由々しき事態だな
この手の編集合戦に関しては情熱が朝鮮と違う上に朝鮮はインテリもキチガイなので日本が不利だな
文化普及庁だかなんだかに予算と人員付けて
国家ぐるみで世界中のありとあらゆる場所の管理側から末端側まで
全線に渡る容赦無い無慈悲な工作と韓国人への配慮要求してる国だからな
お、wikiの碧蹄館のページようやく戻ったな
今度は明軍の損失に出典もついたし、これでもう迂闊には変えられないはずだ
どこのどなたかわかりませんが乙です
558 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 19:20:33.50 0
日本が朝鮮出兵で成功して現地文化を完全支配したら
きっと同化して日本は朝鮮化していただろう。
ちょうど中国を支配した満州が中国に同化して消えてしまったように。
同化ってのはそうゆうことだ。
そろそろ大和民族なんて滅ぼして
蝦夷民族の国としよう。
畿内の侵略史ばかり学ぶのはもうこりごりだ。
人口差があり、文化レベルはむしろ朝鮮のほうが低いものも多いので無理
朝鮮も明も変わらないので人口も文化も大陸優位となるので有り
なにより畿内の文化優位は大陸が寄りどころです。
蝦夷か大陸かどっちか選びましょうよ。
どう見ても
>>558は釣り
本気で書き込んでるとしたら真性のキチガイだろ
562 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 22:37:08.11 0
まあ大した意味とかないけど。
そんな真剣勝負を挑んでどうなる。
秀吉の対明出兵を日朝戦争さながらに論じる姿が
面白おかしかっただけだ。
日本は何度も大陸進出しているから中華化している、これは事実。
秀吉の時代は足利は公家化していてこれを秀吉は名族として保全する。
関東では古河の足利を権門として正当性を持せているし
義昭は室町内府公として対明出兵にも参加。
足利義昭は明から日本国王の称号を受けているので正式な対明戦争。
それを朝鮮がなんだとアホらしいことを。
563 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 22:47:15.61 0
まあ隼人はのちの鹿児島人として
蝦夷は関東政権として後年日本の中心となったから、
朝鮮出兵が成功してたら
今ごろ日本のトップは朝鮮人だっただろう(笑
足利義昭が対明出兵とかどこのパラレルワールドだよw
隼人が鹿児島県人だの蝦夷が関東政権だの言い出すあたり本物のキチガイだったみたいだな
566 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 23:26:13.83 0
愚かだな。
日本に征麗将軍なんて役職はないんだよ。
あくまで明との関係があるのみ。
概念のない征伐論なんて無意味。
対隼人は鎮西将軍だし対東国は征夷や征東や奥州鎮守府将軍やら諸々。
まあ全ては中華思想に基づく概念だが。
”中華様、今我々は蛮人討伐していますよ!”っていう意味の役職名ばっか。
567 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 23:30:17.04 0
>>565 バカなのに威張る奴の意味はいつもわからん。
自分が間違ってるときは自分に威張るのか、バカって。
バカのルールほどキチガイじみてるモンはないな。
朝鮮出兵で手柄まで立ててる足利義昭も知らない嘘歴史。
日本の歴史歪曲は酷い
きっとマンガの歴史教材ばっか読んでるからこうゆうことになるんだろうな。
信長「義昭追放だ!」義昭「ひえーっ」・・・室町幕府滅ぶ
こんな感じの。
これを読んでいい点取ってママに報告→褒められる。
これが日本の子供の勉強の実体なのだ。嘆かわしい。滅んでねえよ足利
足利義昭が朝鮮出兵で立てた手柄って、もしかして200人の手勢で名護屋に参陣したこと?
なら同じように名護屋に駐屯してただけの前田や徳川も朝鮮出兵で大活躍というわけだな
いま北海道があるように、長い半島統治で同化してたら西海道になるだけ
もしくは南北で分けて韓羅道と朝鮮道とかね
571 :
世界@名無史さん:2011/12/30(金) 00:08:07.52 0
>>569 調べてから知ったように答えるな。アスペか。
活躍と手柄は別だバカ。
従軍した結果をもとに所領を得てるんだから手柄と言うんだよ。
武家の仕組みも知らんのかよ。やっぱマンガしか知らないから。
いいから落ち着けよ
何でもかんでもアスペアスペ言うのは馬鹿の証拠ってのは事実だと解った
>>571、ありがとな
574 :
世界@名無史さん:2011/12/30(金) 00:23:47.39 0
お礼言われた。
やはり反応が読めないアスペならではだわ。
アスベと言うならむしろ脈絡も無くいきなり的外れな話題をレスし始めた・・・
いや、やめておこう
576 :
世界@名無史さん:2011/12/30(金) 00:42:36.94 0
香取鹿島両神宮が元の蝦夷征伐前線基地なことも知らんらしい。
隼人はどう考えても薩摩だろ。
奥州が鎮圧されたのは鎌倉の頃だから、
その300年後に半島に大和参加地が出来たとして同化も可能だろう。
ただし大和のアイデンティティが同じものであるとは限らない。
・・・というかパラレルワールドはどっちだよ。
バカの想像力だな。
現実の足利の歴史を知るより
朝鮮半島に妄想を膨らます方が楽しいというアホだな。
日本の恥部だ。
現実的だからなあ、半島地域の日本民族への同化という仮想は
議論するまでもないが
1 13世紀、すでに日本は地域におけるバランスオブパワー バランスオブシステム
だった。これは議論の余地なし
2 そして通年再三、再四的に攻めてきた、チョン、シナに対する征伐行動だった
3 結果的に、悪巣チョン、シナは駆逐された、秩序ができた。
都合シナ海賊、チョンテロ海賊が駆逐されて秩序ができた。
順序的に
すでに12〜15世紀でもチョン海賊テロ行動は巨大だった。そしてそれまでが海賊行動だったのが
明白なテロ、破壊行動に変わった
再三、再四、せめてきた。それを撃退した。
この都合上、明はチョン海賊を意図的に作為し、調べもせず、日本海族と(海賊被害者に向かって)挿げ替えた。
都合上チョンテロ征伐したが、この都合あきらかなチョンテロとばれた。都合明はごまかし下がる。
しかしその50〜100年あとも同様の手口をした。そしてその段階ではあきらからに明海賊、シナ海賊がいた。
明海賊スケープゴーとした。
つまり地域の秩序、規律に強力せず、その海賊、破壊行動を挿げ替えたのが頭にきていた。
明はあきらかに地域の破壊者だった (というより日本進行を再三画策した)
その都合上明征伐した。
結果チョン艦隊全滅、海賊死亡、 明ほぼ絶滅←後裔の清はやむなく日本手を引き、かつその段階で
明海賊を討伐しないといけなくなった。
所詮日本がバランスオブパワーで地域の秩序を作っただけ。その上で日本が秩序として最上じゃなかろうと、
シナが一切秩序を構築しないから、日本が最高の秩序だった。
シナは伝統的に、地域のルール、バランスオブパワーとして機能しない。ただのファシズム。
そしてシナはただのファシズムであって、ルール策定、バランスオブパワーの概念がない
政治上は日本が正しい。
1 明はすでに最初、そうしょきから難民、丁稚国家で(首長が盗賊w難民)日本進行を画策した
2 200年間日本攻撃、進行の意図はやまなかった。
3 明は事実上地域安定にはほぼ強力せず、海賊支援、海賊幇助、海賊同素、そして日本進行を画策したテロ国家であった。
明は最初から最後まで盗賊、海賊がつきない。
4 かつその都合日本はバランスオブパワー、秩序の都合、明征伐を主張する権限はあった。
5 たかが200年の歴史しかない盗賊あがりの丁稚を過去500年以上は歴史がある、由緒ただしい武士団の国で
礼儀、作法ルールが戦国ですらシナ以上に制定されてる日本が征伐するのは当たり前で当然の行動である。所詮地域征伐、安定行動にしかならない。
6 明はシナファシズムを抜かし、盗賊あがりが破壊行動しかなく、力、経済すべてに日本に劣るくせに(というより伝統シナ朝はおそらく1200年相当以降日本のとうふより劣るというより地域に負けるレベルw)
それが日本に征伐されて、あたりまえで、それで 妄想シナファシズムぬかすとか妄想だろ
いわゆる華夷秩序間、華夷ファシズムの世界での妄想なんて、妄想だし、カルトだろう。
まともな歴史間じゃないよ。華夷ファシズムは
(というより華夷ファシズム主義の秩序だと、シナが常に蛮で夷で日本が華にならないか?)
と、政治上では日本の正当性が証明されて、
かつその上でシナはくそにしかならないよ。
1 すでにシナ北方。実質国力、徴税対象の都市経済は日本に完全に劣る。
2 軽く常に金経済レベルでは日本の5〜10分の1
3 武装は日本の5〜10分の1の規模でも難しい。
4 経済、知識、教育レベルが日本に劇的に劣る。
5 日本の1地方にも負ける(たかだが西日本の部分連合相手に圧敗とはw)
それがなぜ秩序で華であって夷であるのだ?
夷が華にたかってるだけじゃないか。行動実態は常にそうだよ。
オンボロ、くそためシナが負けただけだろ。で?華夷秩序のシナってほぼ刈るとだよ。チョン並み。
生活実態とか軽く嘘つく。
蛮族、丁稚、豚がいるだけ
そもそも戦国民度とかいうけど
チョン、シナ←キチガイ、丁稚、卑属、強盗団、人食い
部落レベル
戦国←地方利権。武装団
くらいの差でぜんぜん違うよ。戦国なんかと比べ物にならん
なぜ、貧乏人が部落に劣る?なぜ武装団が人食いや匪賊に劣る?
それくらいの差だよ。武装団とテロ組織くらいの差かな?
なんだこいつ
ベトナム人じゃね、日本語変だし
もしくは在チョンお得意の成り済まし
だから政治的には
シナ、チョンが伝統的なテロ国家でせめてきたは、重要だが、別にして
1 明はすでに建国当初から日本進行をもくろんでいた。
2 そのために明が悪いのに、チョン海賊、テロ集団を日本にスケープゴーとした。←あれはテロ集団の阻止行動といいわけがつく。
ーこの段階で侵攻を画策して不当なデマゴーグを流した不当な国といえるね
3 そしてその危険な思想、ぶろぱがんだで事実上直接侵攻した
対馬侵攻紛争(戦争は)明の介入戦争とも十分いえる。
4 かつその段階で、海賊はチョンだったとかバレたこれは明らかにその後、チョン南部軍港割譲まで条件引き出してるんで、
妥当だといえるね。つまりチョン侵攻行動だったと。そして明は加担した危険な国家だったと。
5 そしてその後、50年しないで、また似たようなことしだす。
6 チョン海賊再開の可能性、再軍備はあった
7 明は半島足がかりにして、日本侵攻の前提としていた
8 地域にシナ海賊が勃発した。そこで明、またスケープゴートして侵攻しようとした
ーさて過去に進入画策した国がデマゴークして、同様の手口でせめてきたらどうするだろう。
そして地域の安定に強力せず、テロ支援したらたたきつぶす理由もある
ゆえに征伐戦争そして懲罰戦争だったのだ。
日本に文度、力で劣る。蛮族ゴミは叩き潰されて当然とおもわんか?
いわゆる明大国wカルト論者ってのは所詮儒者(華夷秩序から)ぬけられない。キチガイだよ。
アレどうあってもド小国だろう。文度ないもん。でかい文度ない地域だよ。
>文度ない
日本人じゃなく機械翻訳を使用しとる可能性あるな
シャブやってんじゃないの
辞書使ってたら分度みたいな言葉は連続してでんやろ
だから機械翻訳かと
本命:チョン
対抗:ベトナム人
穴:台湾人
大穴:チョン系米人二世
スケープゴーとして
韓国の掲示板に転載されて日本タタキのネタにされたら糞食民の仕業決定なんだが
外国人ならがんばったじゃんと言ってあげたい
読んでないけど
現実的だが同化されるのはこっちだ。
畿内と朝鮮はきれいに同化して漢語偏長の文化が花開くだろう。
きっと東国や九州とはいくさになるね。
そもそも列島内の同化より半島と畿内の同化の歴史の方が長いからなあ。
それもいいのでは。
日本から影響や支配を受けることはあっても
日本へ何をもたらしたことも無い、文化も技術も貧相な半島人が同化?無理無理
日本に同化されるしかない。
半島には中国やギリシャやペルシャのような先進文化は無いんだから
半島の李朝なんぞ停滞の証じゃねえか
どうして貧乏な国の方に同化するって発想になるのか分からん
朝鮮・・・中華の属国
畿内・・・中華の属国
同じだろ
畿内が中華の属国?何言ってんだこいつ
599 :
世界@名無史さん:2012/01/03(火) 22:20:25.37 0
室町時代のこと言ってんじゃね
義満時代
朝貢は外交関係とか貿易の形式の事であって属国じゃないよ。渤海は日本の属国だったか?
新羅、高麗、李朝では中国王朝に警察権があったけど
日本がそんな状態だった時期は歴史上一度も無いよね。
義満は中国に臣従しますという文書にサインしただけで
明朝の使いに叩頭した訳じゃないからな
そして明の方でもそんな気もない
朝貢という名目での貿易、本当に口先だけの臣従
何とかして日本を貶めようと必死ながら
知識が全く伴わないため、直ぐに叩かれて終わり。
中国は実質的にも金の属国だったり実際に蒙古や女真などに異民族支配されたりしてんのにな
八切止夫は奈良時代は白村江の敗戦のせいで唐に進駐されてたって説
書いてたけどなw
数百人の「使者」がきてたからかな
義満の件と同じく双方の面子を立てる措置かもね
唐は敗戦国に「進駐軍」送るが国政には口出ししない
日本はその進駐軍をあくまで使者と称して歓待する
歴代中国王朝で対外政策が最も融通無碍なのが唐だしね。
高句麗のようにどうしても服属あるいは滅亡させなきゃいけない相手にはどんな犠牲を払っても
軍を送るけど、そうでなければ割となあなあで済ませる。
白村江で負けた相手が明や清ならガチで服従を要求してきたかもしれん。
それを拒絶して侵攻軍を返り討ちにしたか、征服されてしまうかは分らんが。
この辺の唐のある種のおおらかさの恩恵は旧百済領を唐から横取りした新羅も受けてる。
一度離反した国に懲罰もなく朝貢再開を許すんだからな。
李朝なんて清への朝貢品に添えた奏上文の文言が気に入らないと言うだけで懲罰されたのにw
清は本拠地の横腹に朝鮮があり、正統中華と朝鮮が清を見ていないという
安全保障、政治上の要素もあったのかなぁ
日本のガチの防衛体制からみてあの使者が本当だとしても面子をたてた処置とはおもえない
ただ遣唐使の留学代が只だったり唐は伝統的な中の華っていう態度だよねえ
唐にすりゃ朝貢して貰えばそれでおkっしょ。名目だけの
進駐軍なんか送る意味は無いよね。
すぐに半島経営する余力もなくなったし。
遣唐使は唐の側では朝貢と見ていたのかな?
東夷国という分類だが正式なさっぽうではないね
同じ遣唐使でも朝貢と留学は区別して書き分けされてるから、朝貢ではないよ
朝貢とある場合も新羅と違い、献じるではなく貢ぐ。それと冊封も受けてない
614 :
世界@名無史さん:2012/01/25(水) 23:29:38.40 0
353 日本@名無史さん sagE 2012/01/19(木) 20:34:27.27
>>345 いや、最初は食料は豊富だったんだ。
進攻先の国倉に溜め込まれていた。
緒戦の快進撃の一因だね。食料には当面は困らないと現地からも報告を上げている。
しかし、それは低生産の農民から高収奪をした結果だった。
秩序が乱れて農民が再生産をしなくなった不毛の第二年目からは地獄でした。
これは朝鮮支配地域でも同じこと。
それでも本国から補給がくる日本だけが大軍の長期維持と集中が可能だった。
明が大軍を集中して動かせるのは短期間だったし、朝鮮にいたっては大軍を構築できなかった。
616 :
世界@名無史さん:2012/02/01(水) 09:20:09.85 0
秀吉は名将だから、チョン賊が必ず日本に害をなす事がわかっていた。
だからこそ早めに叩き潰そうと出兵した。
617 :
世界@名無史さん:2012/02/01(水) 15:07:34.84 0
>>617 >後代に中国や日本の画家が描いた19〜20世紀の作品と推定される
史料価値なし
ただの絵かw
620 :
世界@名無史さん:2012/02/13(月) 01:12:10.95 0
歴史通 2012年3月号
http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/4312166/s/ 古田博司氏によると、秀吉の朝鮮出兵の研究は進んでいて、日本軍の占領地域には李朝の圧政を
嫌った朝鮮農民が大量に流入してきていて城下町が形成され、領地の藩分けまで行われていた。
秀吉の死で撤兵することになっただけで日本が敗戦したわけではないようだ。
そういうことを日韓の歴史共同研究の場で日本人若手研究者が報告したそうだ。
>>620 そんな今更な話を新発見みたいに言われても
特に集まったのはテラを再興して貰いに来た仏徒
>>621 >特に集まったのはテラを再興して貰いに来た仏徒
ソースは?
黄算哲
624 :
世界@名無史さん:2012/02/15(水) 04:19:33.51 O
どうして秀吉は、朝鮮人征伐の時に朝鮮人を絶滅させなかったんだー!
バカヤローーーーー!
秀吉があとちょっとだけ長生きして慶長4年に、名護屋の予備なり徳川軍団なりを渡海させていたら南部割譲くらいには落ち着いただろうが、ホンタイジと闘ったり成功の要請にも応じざるをえなかったりで平和な江戸時代と文化は花開かなかった。
ヨーロッパ勢みたいに本国から遠く離れた海外植民地とは違うから半島人との混雑で俺たちの目は細くなる。
スペイン王国は最盛期にイタリア半島の約半分を数世紀支配していたから
家康が半島南部を継承しても江戸文化は爛熟したんじゃないか?
停滞の象徴になってる清朝も日本が隣国では気が抜けないから
軍備の革新を怠らず、汚職と腐敗が史実ほど蔓延しなかっただろうし
陸続きなら海禁も困難なので互いの技術の行き来も頻繁に行われ
産業革命が日本か清で起きてた可能性も十分あるかもね。
大坂や尾張の綿業や絹織物のマニュファクチュア豪商は製品を売ってありあまるカネで米を買って江戸に納めてたが、それでも日本では自然発生的に産業革命は起こらなかった。
奴隷半島南部人に綿花や生糸を大量に作らせて清との大規模な貿易によって産業革命が生起するほどの資本の蓄積がされてたかどうか。工業に発展するには技術はもちろんが必要だし。
>>620 この手のが出てくるだけでも時代は変わった
ちょっと前まで朝鮮兵の活躍だけ過剰に褒め称える記述に溢れかえってたんだから。
日本が悪役なのは鉄板なんだけど、明兵ですら「あれ?居たの?」って扱いだったから。
631 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 20:34:19.21 0
秀吉が半島を制圧していたら
秀吉死亡後の徳川VS豊臣の日本列島の覇権争いはどうなっていただろうか?
マケドニアの後継者戦争みたいになってた気もしなくはないけどw
豊臣一派が半島に逃亡して
豊臣朝を半島に樹立…あるかな?
そういう仮想戦記が読みたいな
歴史変わって前提条件も異なるのに必ず関ヶ原の合戦になるような火葬はもう飽き飽きだ
そもそも秀吉が子沢山か男3人でも産んでたら
徳川政権は無かっただろうな。
信長なら、たぶん、朝鮮・中国の沿岸に詳しい倭寇を活用していたであろう。しかし、秀吉はそうしなかった。
すでに大名になっていた九鬼嘉隆は、日本国内の海賊の出身だったから、朝鮮沿岸の事情は詳しくなかった。
これに対し、李舜臣は、潮の流れの逆転を利用するなど、地元である利点を利用して、少数の亀甲船で日本の大軍を破った。
私は、当時の日本に中国と戦う必要性があったとは思わない。だが、ここでは戦争それ自体の是非を論じることはやめよう。
私が問題にしたいのは、戦争のやり方である。もし、日本がエリザベス1世と同じ方法を用いていたらどうなっていたかをシミュレーションしよう。
当時の倭寇には、もちろん日本人もいたが、その多くは、明に不満を持つ中国人で、いわば反体制ゲリラ組織だった。
もし、日本が倭寇を背後から支援したら、明は、たぶん李氏朝鮮とともに艦隊を率いて日本を征伐しようとしたであろう。
信長は、敵を誘き寄せて叩く戦法をよく採ったが、この方法なら、元寇の時と同様、日本が地の利を生かして、勝てただろう。
そして、敵の水軍力を削いでからであれば、明に対する侵略戦争は成功したかもしれない。
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/bunroku_keicho.html
亀船大活躍!とか言ってる時点でもうダメだろw
>>637見て思ったんだけど
朝鮮役に関しては詳しくない奴がテキトーぬかしても
許される風潮みたいなのがあるよね
自虐にはこの国は際限なく甘いからな
戦中皇国、今自虐って感じ
朝鮮役に関しては詳しいはずの専門家と言われる奴がテキトーぬかすのが
当たり前な風潮みたいなのがあるよね
最強の水軍力と英雄が居たのに
なんで簡単に揚陸できたんだ?
1(朝鮮一般兵)と100(李)の差はでかいが100万(日本軍)に比べれば大差ない
つまりはそういうことだろ
>>643 ゲリラ戦の名手だったってだけだから、そりゃ優秀だったろうけどね。
ガキの頃は亀甲船が相手なら、こちらも鉄甲船を出せばいいじゃないか?
って思ってたけど、実際には亀甲船なんて存在しないし
朝鮮水軍は殆どの戦いが日本の補給船を焼き払うゲリラ作戦に従事してた訳だから
そりゃ鉄甲船なんて出る幕ないわ。
いや、鉄甲船は移動要塞みたいなもんで外洋航海力なんてないから
結局は秀吉が天下統一の過程で各地の水軍を次々と縮小させていった弊害が
出たということだな
海賊禁止令の影響はあるにせよ、縮小したと言うより、
最大の水軍戦力である村上水軍を、あえて用いなかったと
いう方が正確じゃないかね。
村上水軍の三島の内、船手衆で参戦したのは
早くに秀吉方に帰順した来島だけで、遺恨なのか
見せしめなのかあとは陸戦に回されてるからな。
松浦氏も普通に陸に上がって小西隊とともに
平壌で戦ったりしてるし
当時、水軍を本当に軽視してたんじゃないの?
精々対馬、釜山ルートさえ確保できれば問題ないって程度の認識
李朝実録を読めばだいたいその通りのことが書かれてる
>>647 まぁ、軽視っちゃー軽視といえるかもしれんけど、元々文禄の役での
日本水軍に期待された役割は、名護屋−釜山間の船舶警護でしかないからなー
一般的には、李舜臣の部隊を破れなかったから海戦では日本の負け、って
話にはなってるけど、元々日本の国内戦でも水軍同士の決戦なんてのは
行われてないし、秀吉としては一旦は朝鮮水軍撃滅をはかったものの、
閑山島・安骨浦海戦の結果を受けて、それ以上の無理攻めはせず、かつて
村上水軍にやったように、陸地の支配を固めて無力化できればそれでよし、って対処を
朝鮮でもやったように思う。
もっとも、慶長の役ではこの前役での反省から、軍船もそろえて満を持し
緒戦で朝鮮水軍を殲滅してるけどね。
wikiは編集合戦が無ければねえ
韓国は文化庁のリアル工作員が各言語版で工作してるから仕方ない
日本語版は捏造と改竄があると割と早く叩き潰してるだけまとも
>>650 慶長の役は本当に前回の反省を生かした
隙のない戦略を立ててると思う。
654 :
世界@名無史さん:2012/05/03(木) 23:44:49.78 0
16世紀の秀吉の大陸遠征を研究して、日本と中国の戦争術を比較研究
した江戸時代の兵学研究者、荻生徂徠は、 組織的な戦術に長け、大兵力
を神変のように自由に取廻す中国軍を相手に、 兵士の個人的力量に依存
して非組織的な戦いを行う日本軍は敗北したとして、日本の戦争術を
厳しく批判しています。
他人のレスをコピペするなら全文しろよ
656 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:36:21.50 0
2/4.近世の国際戦争と日本人
さて、これに続いて見て頂きたいのは近世期の豊臣秀吉の朝鮮出兵
(1592〜1598年)についてです。
秀吉の朝鮮出兵においては、日本軍が中国の明帝国軍と衝突し、
日本軍の特徴が否応なしに暴き出されているのですが、朝鮮出兵で
暴かれた日本軍の特性ついては、江戸時代の軍学者、荻生徂徠が見事
な研究考察を行っています。徂徠は、日本の戦史や用兵学のみならず、
明の名将・戚継光の用兵学まで学習し、その知的基盤の上に朝鮮出兵
の戦史を研究、日本軍と明軍の差異、特性を明らかにしているのですが、
それについて少し徂徠の文章を引用してみましょう。
657 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:37:20.12 0
日本の軍は、専ら士卒の智惠をかり候て軍を致候事に候。依之敗軍の
將、罪科無之候。異國の軍は士卒の智惠を不用候て、戰の勝負は全く
大將の掌握に有之候故、敗軍の將は死罪に候。(『ツ録外書』2巻
『荻生徂徠全集』河出書房新社 6巻 612頁)
<訳>
日本の戦いは、専ら士卒の知恵を借りて戦います。このため敗軍の将
には、罪科がありません。外国の軍は士卒の知恵に頼らずに、戦いの
勝敗は全く大将が掌握していますから、敗軍の将は死罪となるのです。
658 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:38:26.47 0
日本には治世の軍法と申もの無之候。異國には治世の軍法有之事に候。
……其C正家の故老の物語に、大明の軍法は、人數の遣様、日本と
替り各別の事にて、諸將皆是に仰天致したると申事にて候。
いろいろの物語有之事に候。されども百戰の中よりみがゝれたる
勇將・猛士ゆへ、きたなき負は不致迄の事に候。明朝より高麗へ渡り
候大將、左迄の者にても無之候へども、嘉靖年中、兪大猷・戚南塘と
申す名將の立置たる法ども殘り候間、如此に御座候。
(同上 644、645頁 一部漢字記号改変)
659 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:39:45.56 0
<訳>
日本には平常時から理論的に構築された体系的戦争術というものは
存在しません。外国には平常時から理論的に構築された体系的戦争術
というものがあります。
……その清正家の古老の物語では、大明帝国の持つ体系的戦争術は、
兵士の動かし方が日本と比べて全く異なっており、
(朝鮮に出征して明軍と戦った)諸将は皆それに仰天したものだと
言っています。
いろいろの物語にもあることです。
しかし日本の将兵は戦国時代の百戦の中で磨き抜かれた勇将・猛士
であったので、惨敗にはならなかったというだけのことです。
明帝国から朝鮮へ派遣された大将は、大した武将でもなかったのに、
嘉靖年中に兪大猷・戚継光といった名将が定立しておいた体系が
残っていたので、このような成果を挙げることができたのです。
660 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:44:03.90 0
ちなみに徂徠の軍学における軍法とは、軍法会議などと言うときの軍法とは違う言葉です。徂徠の言う軍法とは戦場における具体的臨機応変の策たる軍略と対照を成す概念で、平時における訓練・組織構築等からなる理論的体系的な戦争術のことです。
さて、秀吉の時代は、近世日本の軍事的な組織化体系化が進行した果ての時代であり、日本軍事史の流れの中に限ってみれば、その軍隊は相当高度な組織化が成されていました。
ところが、その日本人的には高度な軍事組織も、明帝国軍と対比して
みると、兵士の個人的力量に頼った、非組織的な軍隊に見えると言う
ことです。
またしても、日本軍の和を欠く、不合理な非組織性を目にすることに
なりました。
661 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:55:45.41 0
李如梅はサルフの戦いの直前に朝廷の者から日本兵と満州兵の強弱に
ついて聞かれて「倭兵は体躯倭少なれども、敏捷にして、鳥銃をよくす。
ただし一人同志の戦いとなれば、倭兵三十人をもってしても、
満兵一人に敵せざるなり」と回答している。
李如梅はサルフの戦いの7年前に死去してるよw
>満兵一人に敵せざるなり」と回答している。
「といいなあ、そう朴はおもいます。」が抜けてる
663 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 21:12:14.58 0
>「といいなあ、そう朴はおもいます。」が抜けてる
日本語でおk
と朴が言っています。
665 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 22:47:26.07 0
>と朴が言っています。
日本語でおk
>>659 劉テイや麻家、李家が大した事ない武将なら他に誰が居るんだ
他に楊鎬や陳リンもそうだけど、文禄慶長の役に参加した武将って
万暦の三征、サルフの戦いに大概顔を出してる。
>>661 「百万の野人(女真族)さえ、十万の倭卒(日本兵)の敵ではない。
にも関わらず、国家は南を軽んじ、北を重視する。いまだにその理由が分からない。」
姜「看羊録」
李如梅って平壌で小西に勝ったはいいが
碧蹄館と蔚山城の戦いで日本に大敗してる武将だろ
敗軍の将の遠吠えをコピペしていったい何がしたいの?
667 :
世界@名無史さん:2012/05/06(日) 01:12:47.94 0
>>659 日本軍の強さっていうのは組織としての強さではなく
兵士の個人的力量に頼った、非組織的な軍隊だってことだ。
だいたい碧蹄館の戦いも勝利しながら敵の占領地に攻め込むでもなく
それどころか現状の占領地さえ維持できずに撤退してる。
撤兵する最中に追撃してきた明軍を打ち破った戦いなんだから当然だよね
>>667の馬鹿さにびっくり
戦術的勝利に拘泥して戦略的勝利を逃すなんてのは昭和の日本軍くらいだろ
そんな戦略眼のないやつが将帥やってられるほど
戦国乱世とその余塵さめやらぬ安土桃山の世は甘くない
670 :
世界@名無史さん:2012/05/06(日) 13:52:17.29 0
671 :
世界@名無史さん:2012/05/06(日) 14:31:18.99 O
>>667 あれは組織戦云々じゃなくて兵站の問題でしょ。
その前に明軍に兵糧焼かれたりして補給持たなくなったから
明軍を碧蹄館で撃退したのち撤退。
そもそも当時の明軍が日本と比べて高度な戦術を展開してたようには見えないが?
>>660 江戸時代の兵学者、軍学者なんて戦の無い時代に机上の空論で飯食ってた連中じゃんw
当世具足よりも昔具足の方が実用的なんて言い出したり
瑠璃斎胴だの鼻紙袋だの実用性皆無の装置を考え出したり
机上の築城理論に基づいて旧幕府軍に数時間で攻め落とされるような城築いたり
そんな連中が何を言っていたところでだから何なの、て話なんだが
というか、明のような中央集権国家と日本のような封建国家の軍制を単純比較したって
あまり意味が無いんじゃないの?
673 :
世界@名無史さん:2012/05/07(月) 13:15:38.83 O
そもそも寛永年間以降の学者が好き勝手に机上の空論垂れ流してくれたせいで
講談話みたいな俗説が広まって定着してしまい、後世の人間が
室町〜安土桃山時代研究するときの大きな妨げになったんだがなw
674 :
世界@名無史さん:2012/05/09(水) 14:28:17.87 0
歴史と言えば、私は、外国人は「正しい歴史」とか「本当の歴史」を学ぶべきだという韓国人らの説教に
辟易している。「正しい歴史」とか「本当の歴史」とは、実は「韓国人の歴史解釈」という意味だ。なぜなら
歴史というものは自然科学とは違い、いくつかの基礎的事実を除けば歴史上の出来事や趨勢は様々な
解釈を許すものだからである。私は今まで、異なった見解を認める韓国地元メディアを見たことが無い。
韓国メディアのやりかたは、「反対意見など無視しろ。韓国側の主張を復唱しろ」だ。
だが、世界のほかの国々が、どうしてそれに従わなくてはいけないのか?
民族主義は東アジア全般において、
そしてとりわけ韓国において、強力な感情的な力である。韓国の民族主義の中核は、日本に対する
不信と嫌悪である。
傷ついた自尊心から生じた独善的キャンペーンが、国際的支持を受けるはずもないではないか。
【日本海呼称】イギリス人が韓国紙に寄稿:「韓国の『東海!』主張、本当の理由は反日感情ではないですか?」 ★6 [05/04]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1336132861/1-2
675 :
世界@名無史さん:2012/05/09(水) 15:28:41.09 O
胴丸のはなかみ袋は
戦国時代からあったわけだが…
>>675 ごめん勉強不足だった
俺がイメージしてたのは正しくは鼻紙袋じゃなくて前袋ね
草摺の裏に取り付けて口が下向きになってるやつ
677 :
世界@名無史さん:2012/05/10(木) 13:47:07.00 0
678 :
世界@名無史さん:2012/05/14(月) 02:36:02.21 0
文藝春秋 2012年6月号
戦国武将の養生訓 酒井シヅ/磯田道史
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/355 秀吉の朝鮮出兵によって、陶器や陶工、印刷術のみならず、三千巻もの医学書と医官が日本に
連れてこられ、医学の発達に貢献。西日本の戦国大名の家臣団の系図を見ると、朝鮮に出自を
持つ者がかなり多く見られる、というような話が語られている。
他に、名護屋城に兵が大量に集められたことで肥前から梅毒が日本に広まったそうだ。
679 :
世界@名無史さん:2012/05/14(月) 09:38:52.43 0
朝鮮に帰らなかった理由があるんじゃね
つ 「故郷忘じたく候」
「故郷忘れじがたく候」 じゃないぞw
317:世界@名無史さん:2011/05/31(火) 12:30:52.21 0
李家軍が、他の明軍より優れているのは、
実戦経験が有無だけだ。
軍隊の強弱が実戦経験だけで判断できるわけじゃない。
常在戦場を心掛け、常日頃からの軍事訓練を欠かさなければ
実戦経験のみの軍隊より精強だ。
日々の鍛練を怠らなければ、実戦経験の乏しい鎌倉武士(元寇時)
やプロイセン軍(オーストリア継承戦争時)が経験豊かな元軍や
オーストリア軍に勝利することも可能だ。
戚継光の軍制改革後、明軍が強化されたのは、すなわち『練兵実紀』
などによる軍事訓練を導入したからに他ならない。
318:世界@名無史さん:2011/05/31(火) 12:49:14.90 0 将を実戦を積むことで鍛えられるが
兵は実戦のみでは(戦闘による死傷者など消耗も激しい)
鍛えられない。
実戦経験は他の明軍より豊富だが辺境に配置されており
明朝廷から(かつての安禄山のように)脅威とみなされて
いない時点からも明軍最強なわけはない。
↑かなり亀レスになるけどこれに反論しておく
上のレスの人は何の根拠もなしに李家軍を「優れているのは実戦経験の有無だけ」と決め付け、
まともに軍事訓練もしていなかったかのように印象操作してるが、これは間違い
何故かというと、李家軍も普通に戚継光の兵制を導入してるから
「上詣謝都督李如松, 問天兵前後勝敗之異, 都督曰:前來北方之將, 恒習防胡戰法, 故戰不利。
今來所用, 乃戚將軍《紀效新書》, 乃禦倭之法, 所以全勝也。」・・・「宣祖実録」 27年2月1日
李如松は朝鮮国王に「祖承訓は北慮との戦い方しか知らなかったから負けたけど、
俺らは戚継光の兵法を知ってたので平壌で勝てました」と語ってる。
それを聞いた国王が戚継光の書(紀效新書)を見せて欲しいと李如松に頼んだけど、
如松は出し渋ったのだとか。また26年8月19日の記事には、朝鮮王朝が李如松配下の兵から
「紀效新書」を買い求めて研究させたという話も載ってる
軍隊の鍛錬に最適な体験は実戦と勝利の経験だろう
訓練は最低限なんとか戦えるようにする手段
>>681 倭寇や宣教師の情報を統合して秀吉は明征服に乗り出した訳だし
要は、華南のヨワッチイ兵隊しか知らないから明を軽く征服できると勘違いしたわけ。
李家軍は少なくとも倭寇の活動地域には居ない強さを持った兵隊だったと思う
だから日本軍も平壌から漢城に押し戻されてる。
そりゃ中国の歴代王朝の多くは北の民族に滅ばされてきたんだから
北の備えは精鋭を駐屯させて十全にしておくのは当然。
特に李家の守った遼陽は首都北京に程近い場所なんだから。
その李如松も日本軍には大敗を喫したんだけどな
686 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 16:22:19.22 0
その日本軍もそれから3ヶ月程で占領地のほとんどを放棄して
撤退している。
撤退中に李如松の明軍と属国群が追撃してきたのを
日本軍が散々に打ち破ったんだよ
688 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 16:29:54.43 0
冬から春を迎えるいい季節になってたんだから
そのまま北上して占領地を取り返せばいい。
撤退は軍の戦闘力そのものとは関係ない
690 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 16:45:11.16 0
冬から春にかけてのいい季節を向かえているのに、
明国征服どころか朝鮮からも撤退するのに
軍の戦闘力が関係ないなら、どんな理由で
撤退するんだ(笑)
そりゃ兵站がままならないことと、明軍の圧力が増したからじゃねえのか
692 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 17:01:29.18 0
穀倉地帯の全羅道でも占領しておけば兵站ももうちょっと
余裕があったのにな。
朝鮮義兵の抵抗にあって占領できなかったことも兵站不足
のおおきな理由だな。
当時はまだ穀倉地帯じゃないけどな
>冬から春を迎えるいい季節になってたんだから
>冬から春にかけてのいい季節を向かえているのに
プッ >688,690は粗国の恒例行事wであるところの春窮というのを知らないのか。
食糧事情が悲惨だった李氏朝鮮時代の半島では、冬の間に食料食い尽くして、
春蒔きの作物がとれるまで春先は絶賛飢餓状態というのが恒常化してたわけだが。
695 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 21:56:32.59 0
>>694 西日本出身の武士どもには朝鮮半島の冬の寒さは辛かろうと思って
たんだがちがうんだな。
食料事情が悲惨なのは日本勢だけじゃねだろ。
明・朝鮮勢だって同じじゃね?
それとも明・朝鮮軍は日本勢より粗食に強いなにか根拠でもあるのか?
もっとも粗食に強いってことはそれだけ強兵だったってことなんだが(笑)
サッパリ理解できてねーのなw
粗食云々とかいうレベルじゃなく、半島では食い物がないので
春に軍事行動なんぞできないんだよ。
697 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 23:51:23.91 0
>春に軍事行動なんぞできないんだよ。
北上して占領地を取り返すどころか
現状の占領地さえほとんど放棄してるんだぞ。
食い物ないなら当然だろう。
占領地にこだわりソウルに留まって飢えたら全滅じゃん。
戦争の相手が朝鮮国ではなく明国である以上、朝鮮の占領地を広げることに躍起になって
兵を損なったらただの馬鹿だよ。
699 :
世界@名無史さん:2012/05/20(日) 11:50:11.96 0
>>698 馬鹿の相手をするのもそろそろ疲れるわ。
朝鮮には当時500万〜600万の人口が
いたんだ。
たかだか十数万の日本勢が現状の占領地を維持
できないほどの兵糧不足になるんなら、毎年の
春窮の中どうやって朝鮮人民は生活してきたんだ?
それに撤退の理由に戦闘力が関係ないならなんで
明国との和平交渉を始めたんだよ。
慶長の役に際しても明・朝鮮との直接対決を恐れて
倭城で迎え撃つ作戦を取っているんだが。
>>699 年貢取れるわけでもないし略奪すれば逃散
言葉も通じないから取引もロクにできん
500万の人口がいるからって日本が軍の胃袋を満たす食料を
安定的に調達できると思うその論理性の無さが素晴らしいな
>春窮の中どうやって朝鮮人民は生活してきたんだ?
草の根や木の皮を喰ってたらしいがw
半島全土に偏在する数十人から数百人程度の村落単位ならそれで食いつないだからといって、
万単位の軍でそれをやれると思うなら>699はそれこそ馬鹿だな。
702 :
世界@名無史さん:2012/05/20(日) 12:51:53.05 0
>>700 >年貢取れるわけでもないし略奪すれば逃散
>言葉も通じないから取引もロクにできん
だったら春窮なんて関係ねえじゃん。
春先に撤退した理由になんねえぞ(笑)
>>702 春には朝鮮人ですら困窮するのに輸送が微妙で生産基盤のない日本軍が
影響をもっと強く受けるとは思わないの?
704 :
世界@名無史さん:2012/05/20(日) 15:19:55.77 0
>>703 もう言い訳は聞き飽きた。
戦略目標も達成できず、占領地の
ほとんどを放棄しておいて。
だいたい、慶長の役においても適当に南部
4道を荒らしまわったら、明・朝鮮軍の主力
との直接対決を避けそのまま南岸の倭城
にまで撤退して立て籠もって迎え撃つような
消極的な作戦を立てている時点で明・朝鮮軍を
恐れていないなんて言い訳は通じない。
古今東西の戦史においてもこんな臆病な侵略者は他にいない。
戦略目標は達成してないが退却の理由って基本的に本国の退却命令だけだぜ?
明書だと勝算は皆無だったけど秀吉死んで助かったって書いてあるように
防衛側なのに勝算が皆無だった
要するに朝鮮が日本側の想定を大きく超えて貧窮した国だったってことだわな
今の北朝鮮に攻め込んで食料を現地調達しようとすればどうなるか
文禄の役で戦った明軍は強かったのだから恐れて当然じゃん。
勇敢に攻めまくって全滅したら馬鹿じゃん。
合理的じゃん。敵を侮らずに南岸の城で迎え撃ったら結果大勝利じゃん。
さすが足軽からのたたき上げ。秀吉頭良いな。
>>704 耄碌で正気を失い凶暴化した秀吉の元、日本側ももうやる気がなかったんだけどね。
だから、南岸を荒らし回るだけでそれ以上何もしようとしなかった。あとは秀吉が死ぬ
のを待っていただけって感じ。文禄の役はマジでやる気があった。
>>707 小西行長、石田三成を買収し、秀次事件を起こし、日本を疑心暗鬼にさせた名将
李如松を褒め称えよ。
709 :
美麗島の名無桑:2012/05/20(日) 17:42:49.32 0
アメリカの朝鮮性買
アメリカ初の本土決戦 アメリカ国民vs朝鮮人慰安マッサージ婦
韓国内では、「当局が韓国人売春との戦争を宣言したという解釈」
韓国人の売春問題が相次ぐ中、アメリカでも韓国人が多いことで有名なアトランタで、マッサージ店に対して積極的な「牽制」が始まったようです。
マッサージ店といっても、韓国人がやっている売春(風俗)店のことです。
19日(現地時間)アトランタジャーナル(AJC)等、現地の言論によれば、アトランタで韓国人が最も多く居住する二ルーズ市はマッサージ業者関連条例を次のように改正しました。
・事業者登録税を50ドルから1千500ドルに30倍引き上げ
・マッサージ業者の数を制限する
・当局の要求があった場合、事業主と従業員の指紋を採取、提出する
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1337498066/l50
>>708 明様々だな。
いや、明の属国でなければ今頃は日本国に不可分な一部になって
もっと繁栄した良い暮らしを享受していたから、結果的には不幸だったか。
>>704 慶長の役って明軍も朝鮮軍も緒戦で蹴散らされて逃げ回り
日本軍が兵力の半分を帰国させて翌年の攻勢の準備してたら
調子に乗って攻めたけど、また完敗した戦争じゃん
万全の準備を期した11万の大兵力で三城を同時攻撃したのに一城も攻め落せず、
それどころか膨大な戦死者を出して惨敗しちゃうなんて
古今東西の戦史においてもこんな情けない軍隊は他にいないんじゃないの?w
三路の戦いって、どの戦域でも敵城を落とせる気配すら無かったからね。
三か所同時攻撃なんて大風呂敷を広げるのは無理があったんだよ。
文禄慶長を通して不落だった倭城に1万の日本軍が籠る。
これだけで10万の大軍を動員して一か所を攻め込むだけの必要性があった
そもそも第一次蔚山城の戦いも未完成でかつ兵糧備蓄の少なかった蔚山城を
6万近い大軍で奇襲に成功するような形で籠城戦に持ち込み、初撃で外廓を突破できたのに
結局は1万の兵で籠城する日本軍を攻めて落せなかったんだから
第二次は加藤清正が万全の態勢で守ってるんだから
正直10万を超える大軍で攻めても落とせないよ。
武力を誇ってどうにでもできると思い上がって失敗するキャラなのか、日本は
朝鮮側としては、追い返せば勝利だからな。
戦死者数では日本を上回ったとしても。
715 :
世界@名無史さん:2012/05/22(火) 00:50:56.85 0
A国とB国が戦争しました
戦後B国はA国の定めたルールで片務的に外交使節の派遣を義務付けられました
戦争に勝ったのはどっちの国でしょうか?
日本と明は国交回復してないんだよね
すぐには
A国は何がしたかったのか
有り余る軍事力を発散したかっただけなのか
719 :
世界@名無史さん:2012/05/22(火) 01:13:48.77 0
>>711 だからー、日本軍の戦闘力が明軍や朝鮮軍より上なら、
なんでそんな面倒な作戦を取る必要があるんだよ。
さっさと南部4道を占領し、要所要所に諸大名軍を配置
すればいいだけじゃん。
それを明軍や朝鮮軍の主力部隊が南下する前に南岸の倭城
に立て籠もっている時点で明・朝鮮軍を恐れていないはずがない。
>>719 朝鮮王朝の過酷な収奪で貧窮極まる荒地を占領してやる慈善事業を
日本が施してやる義務は無いからな
>>715 片務的ってのは「滞在費用はこちら持ちですからおいで下さい、こちらからお伺いして
お手間をとらせる事はいたしません」って事を言ってるのか?
片務的っつーのは言い過ぎだろうが、朝貢される側が大盤振る舞いってのは
中国王朝でも同様だからな。
で、朝鮮通信使には日本側も金を使ったけれど、その大半は沿道諸大名持ちだし、
逆に朝鮮は通信使を出すだけで、その諸費用(造船やら礼単やら)で国庫が
払底したという明らかな事実があるしな。
他方、李氏朝鮮は日本側を国防上の観点から警戒して招かなかったとか言う話は
あるものの、実際問題といて双務的に日本側を同様の歓待レベルで漢城に招くなんて
言うのは財務面から逆立ちしてもムリポ、という国力差はやはり如実にあったわな。
>>719 だからー、それを半島全土規模でやって食い物もなく惨憺たる目にあって
懲りたからだろーがw
過去の失敗を踏まえず同じコトを繰り返すのは朝鮮人くらいだろ。
>>719 戦闘で勝てるかどうかと、統治できるかどうかは別問題だろ
>それを明軍や朝鮮軍の主力部隊が南下する前に南岸の倭城
>に立て籠もっている時点で明・朝鮮軍を恐れていないはずがない。
よく分かってないみたいだが、倭城に駐屯していた部隊の目的って
翌年の攻勢までの間、守りを固めて拠点を確保しておくことだぞ
まさか、わざわざ城外に野営しておくべきだったとでも言うつもりか?
敵なんか怖くねえ!!とか見栄張って守備側が城を利用しないとか、ただのバカだろw
しかも三路の戦いのとき全軍の過半数は帰国している状態で、倭城を守っていたのは実質六万人程度
要は、明軍や朝鮮の主力軍が押し寄せて来てもその程度の兵力で十分撃退できると考えてたってことじゃん
事実、その通りの展開になってるしw
10万の大軍と戦ったのは結局3万程度で
しかも内容は記録的な大勝
統治する気も無い戦い、スポーツ・ゲーム感覚?
>>726 「唐入り」という字の意味がわからない池沼
統治する気も無い戦い、雑兵の乱暴狼藉・略奪感覚!
前回の反省を生かして地道に進軍、勝ち続けの状態。
そして本格統治する前に秀吉が死んで撤退
つまり、明征服は確実に出来たが国内権力基盤がダメだったので撤退、
いやむしろ豊臣世界帝国の悪夢から皆が全力で逃れた結果?
恐怖の独裁者秀吉に屈従してただけなのか?
がんばれば北京くらいは落とせたかもしれんが明征服は無理だと思う
>>721 当時の外交儀礼は洋の東西を問わず客のもてなしをホスト側が全額負担すんのは常識
日本もスペインに対して使者出した時全部スペイン持ちでバンカロータの原因の一つになってたりする
>>730 日本が勝ちまくってたのは朝鮮半島南岸に城を築いて戦ったからってのもあるからね。
慶長の役の目的である南部4道の占領に限ると明、朝鮮軍の終盤の崩壊振りを考えると楽勝だっただろう。
朝鮮半島全域も慶長の役での戦い方(城を作りまくって補給線を十全にして進軍)なら可能性は高かったと思う。
けど鴨緑江を越えた後と、山海関付近でまともに補給線が維持できるかは不明。
特に鴨緑江を越えたら、明とヌルハチの挟撃を受けることになるからね。
伊達に朝鮮が属国ながら国を維持できたのも
あの満州の地が大軍を駐屯さすのは向かない土地であってのも事実だし
735 :
世界@名無史さん:2012/05/25(金) 22:43:55.78 0
>>733 まだ侍幻想に浸っているの。
天野源衛門も荻生徂徠も明軍の強さに
日本側がおどろきあわてている様を
記述している。
秀吉が生きていたところで日本の勝利は
おぼつかないよ。
>天野源衛門
>荻生徂徠
無名与力の日記か何かよりも
当事国の全く勝ち目は無かったという報告書や
一次史料に基づいた明史の評のが信頼出来るよね
そもそも全文見ない判断不能だしね、驚いただけの可能性も高い
737 :
世界@名無史さん:2012/05/25(金) 23:30:58.73 0
>>736 まーたお得意の話のすり替えかよ。
>当事国の全く勝ち目は無かったという報告書や
南岸に強固な倭城を構築してそこに立て籠もって
いる間だけじゃねえか。
もっともわざわざ十数万の大軍で再侵攻しておきながら
敵の主力が来る前に南岸に撤退して倭城に立て籠もるなんて
アレキサンダーのマケドニア軍やカエサルのローマ軍と比較
するまでもなく第一回十字軍と比べても相当情けない侵略軍
だな。
秀吉が10年とか生き続けてたら延々と大陸の戦いが続き女真やモンゴルや
スペインポルトガルオランダとかから干渉されたりしてんだろうか
たしかにこれは秀吉死んだら即撤退したくなるかも
十字軍が内戦中の四分五裂したシリアを何度も増援を受け
ようやく何十年もかけて占領した後、中央アジアからセルジュークの本群が来たら
1年ちょっとで叩き出されたことも知らないのかw
精強無比な明軍ですら勝てないと謂わしめた日本軍は
オスマン軍を上回って当時世界最強といえる
741 :
世界@名無史さん:2012/05/25(金) 23:52:47.17 0
秀吉が10年生き続けてたら、明領朝鮮省と日本領韓藩に分割され
日本人の暮らしは今より遅れたものになってただろうね。
742 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 00:15:12.59 0
>>739 >精強無比な明軍ですら勝てないと謂わしめた日本軍は
だから倭城に立て籠もっていたからだろ。
なんど言わせんるんだ、この馬鹿が。
>739
第一回十字軍は諸侯の混成軍でありながら3年かからずに
エルサレムを占領しているんだが。
それも兵力は日本軍が朝鮮に派遣した兵力の3分の1から
4分の1ほどだ。
>>742 日本軍は精強無比の明軍に野戦でも大勝したよね。
日本軍は1年掛からずに全朝鮮を占領しているんだがw
しかも朝鮮群の総兵力はセルジューク系諸侯の10倍以上、どんだけ惰弱なんだかw
しかも内政に注力していたわけでもなく、庶民は貧窮、現地調達はロクに出来ない有様
744 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 01:25:01.53 0
>>743 >日本軍は1年掛からずに全朝鮮を占領しているんだがw
おまえって息を吐くようにうそをつくんだな。
全羅道一つ占領できてないのにどうやって全朝鮮を占領できるんだよ。
>しかも朝鮮群の総兵力はセルジューク系諸侯の10倍以上
日本語でおk。日本が攻めてきたとき朝鮮の正規軍は7千人程何だが。
>庶民は貧窮、現地調達はロクに出来ない
砂漠地帯が多いメソポタミアに比べれば朝鮮は十分豊かだ。
745 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 01:40:42.76 O
全朝鮮は支配してないが、
お前らどちらもブンロクとケイチョウ混同しとんやないかい。
あとメソポタミアは豊かだぞ
砂漠だからってアホか。
さらにいうと初期朝鮮も安国寺がびっくりの豊かさだわ。
馬鹿と馬鹿が争っとるな
>>744 シリアもアレッポ筆頭にセルジューク系やイフリキア系の
諸侯が保持し続けた大都市は多数あったよな。
一方の日本軍は1年と掛からずに痩せ地を除く全朝鮮を占領してしまった。
十字軍と交戦した正規軍は全部で5000人前後だから最大でも李朝群の1/5を下る程度。
シリアはシリア、メソポタミアはジャジーラとイラクねw
近代農業が始まる以前のイラクは生産性の高い穀倉地帯だよ
メソポタミアが豊かだったのはモンゴル帝国(フレグ)に荒らされるまで。
モンゴル帝国はメソポタミアの農地、灌漑施設を破壊し、一気に生産性の
低い土地へと様変わり。
当時は朝鮮の方が豊かだったと思われる。まあ、支配者がろくでなし
だったから、土地を生かしきれなかったと思うが。
>>735 天野君は明軍は強い強いと騒ぎながらも、その件の碧蹄館じゃガッツリと勝ってるがなw
武辺強き唐人かなって言ってるのも
そもそも明トップクラスの李如松率いるの明国超精鋭なんだから当たり前だし
(前年には慶長の役で朝鮮に救援に来る、回族出身の麻貴と共にモンゴルのボハイの乱を鎮圧してる)
処女の如くと言われた朝鮮兵や明の普通の兵隊と比べりゃ、こちらも損害が出るから武辺強き唐人って意味だろ
「今までの連中は男なのに男も知らない小娘みたいに弱かったが、
今度の連中は身体もデカいし戦も上手くてつええなw」
ってノリで書いてる。
>>737 文禄じゃ加藤がオライカンまで攻め込んでるし、普通に平壌、ソウルで戦をしてるでしょ。
慶長の役では補給線の確保重視の完勝を目指して時間がかかるがローラー作戦に変更したんだよ。
勿論効果は抜群で朝鮮兵は当然として明の精鋭相手にも勝ちっぱなし、圧勝の連続。作戦の正しさが実証された。
しかし、作戦の最中に秀吉が死んだってだけ。
それに、相手はあの世界の超大国明国だからね。幾ら日本が世界最強レベルであっても
アレキサンダーやカエサルのように無人の荒野を行くような進軍を行える訳ない。
(事実、相手が朝鮮だけならば2カ月で首都を陥落させて無人の荒野をいくがの如くの進軍であったが)
751 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 18:41:55.05 0
>>749 また、同じことの堂々巡りなのかよ。
ピョンヤンが陥落したあと石田三成が
ソウル防衛のために北朝鮮各地の軍を
呼び戻した際も、その後ソウルで明軍を
迎え撃つことを提案したときも小早川隆景
や立花宗茂は城外で迎え撃つここを主張
諸将の賛成を得て出撃し、碧蹄館で勝利した。
戦後、明軍追撃を主張した宗茂に対し、隆景
はソウル防衛に方針転換を主張し諸将の支持を
得た。
これなんかも明軍の精強ぶりに対する日本側の対応
の変化を表している。
752 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 18:51:35.98 0
>>750 小早川隆景を主将とする第六軍1万5千は
全羅道を攻略するべく攻め込んだが、
権慄傘下の官民合同軍2万の抵抗にあい、
攻略をあきらめて撤退している。
753 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 19:01:49.75 0
8月初旬、権応銖の義兵隊は、他の義兵隊と協力して、500余名の
日本兵が守る永川城(慶尚道)を攻撃して、これを全滅させた。
続いて権応銖の義兵隊を中心に各義兵隊が協力して、慶州城も解放した。
以後、慶尚道を占領した日本軍は、小部隊による掠奪もできなくなり、
数十・数百の兵が守る砦は、義兵の攻撃にさらされて全滅するか、
または撤収せざるを得なくなり、結局、重要拠点に兵力を集中する
しかなかった。
かくして、日本軍の補給路は遮断され、移動も思うままにできず、
大部隊を編成してのみ可能であった。
754 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 19:04:44.90 0
この他にも有名な義兵将として、趙憲・申蘭秀や、僧侶の霊圭は忠清道
を舞台に、福島正則・蜂須賀家正の軍と戦い、禹性伝と洪彦秀・季男父子
・金千鎰等は、京畿道を舞台に宇喜田秀家の軍と戦い、朴渾・禹応民・元豪は、
江原道を舞台に森吉成・島津義弘の軍と戦い、李廷○・宋徳潤・趙光庭等は、
黒田長政の軍と戦って延安城を守り、黄海道でゲリラ戦をくりひろげた。
鄭文孚・李鵬寿等は、咸鏡道北部で加藤清正軍と、柳応秀・李惟一等は、
咸鏡道南部において鍋島直茂の軍と戦い、高敬命・柳彭老・安瑛・梁大璞等は、
全羅道侵入を企てる小早川隆景の軍と戦った。
755 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 19:05:55.25 0
>>752 いつの話だよ
李朝実録だと全羅道を抜けて釜山へ入った隆景と戦いボッコボコにされてるぞw
各道州城の李朝群兵を合わせると少なくとも五万は超えてるなw
758 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 21:11:01.11 O
759 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 21:14:47.50 O
>>756 多分小早川隆景じゃなくて、宇喜多秀家が幸州山城を攻め倦ねた戦いを言いたいんだと思う。
>>758 一次史料だと、援軍がまだ来ない、援軍寄越せ
あそこは陥落した、戦が起きて打ち破られた
何所何所が潰滅した、民が逃散した、って記録ばかりなのに不思議だよね
日本側の記録見たらそういう記述があるんでしょ。
日本側の学者ですら同じような事言ってるし。
北朝鮮にある北関大捷碑に関してはぶっちゃけ史料価値あんま無いんじゃね?って言われてるが。
>>760 義兵の活躍は公式史料には残らないのSA!(キリッ
いや、冗談はさておきちょっと李舜臣関連と併せて調べてみるか。
763 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 22:50:16.08 0
結局一次史料には記録が見当たらずかw
梨峙はわからんけど、次の幸州山城では実際に撃退してる。
ただ、そのリンク先の日本側の犠牲者が二万は明らかに誇張だがw
逆に言えば文禄・慶長を通じて陸戦で負けたのは
これと第一次晋州城攻防戦と明軍の平壌奪回くらいだが。
因みに海戦は閑山島を最後に輸送船団の襲撃も上手くいってないみたい。
766 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 23:55:35.78 O
当時の海軍に制海権なんてにぎる力がないことをわからん奴が
記事を書くのが朝鮮クオリティ
まぁさすがに学者はファンタジーとわかっててなお
朝鮮のアイデンティティーの為に嘘を書いてるかもしれんが。
哀れな民だ。
釜山対馬間を切断できてないことは海戦の場所がそこにないことでも明らかなのに
なぜ平気で補給線を切ったみたいなこというかね。
767 :
世界@名無史さん:2012/05/27(日) 00:03:42.44 O
逆に言えばそこより北は義兵や水軍で分断できてたんじゃないかな?
例えばその釜山より北の海域も日本が制海権握ってたり
漢城までの補給路がちゃんと確保できていれば、碧蹄館での勝利後に
平壌奪回することもできたかもしれんし。
いずれにせよ、講和を結ぶ段階では漢城での補給にはかなり難儀してたっぽい
補給に難儀してたのは現地調達を阻害されたからじゃね?
遠くに食料送るのは海軍による制海が成り立ちがたいのと同じ理由で
発動機がない当時の軍には困難だろう
>>767 李朝側の記録でも、緒戦以降の李朝水軍は負け通し
何度か不用意な攻勢に出て大打撃を被ってる
日本にもポルトガルのような航海技術があれば・・・。
現地調達に頼ることへの限界に対する反省から、ちびちびとやってた二回目は
経緯を見ると割と首尾よくいってたように見えるが
秀吉死んで即撤退したのを見ると、やっぱみんな無理を感じてたのかな?
仮に戦争で圧勝しても、統治コストと見合うだけのメリットが
なければ撤退するという場合もあるんじゃね。
>>770 ポルトガル軍なんて、全力出しても2,万人弱だからな
南米大陸の公認武装商人は数百人のレベルだし
いや、本国は常備軍だけでも15万の精鋭がいたぞ。
しかも半数はマスケット銃装備で騎兵も充実してるぞ。
ってこれはスペインの話だったなw
>>770 むしろ「権力者が死んだ!後継者は幼い!なんか周囲もきな臭い!
これから日本というか俺の領国はどうなるんだ!?」
って時に呑気に「へっへっへ、俺は新天地でパラダイスを築くぜw」
なんて領国ほったらかして異国統治に精出す奴がいたら
ホンモノのアホだと思うぞw
>>648 ノート見たら向こうの人っぽいのが凄い勢いでファビョってて吹いたw
>>774 スペインの常備軍は本国と低地諸国とイタリアの封領の駐屯兵と
封建領主のお抱え武士くらいで3万人届かないよ。
全力出せば8万人強はいくけど
>>751 なんだ認識は一致してるじゃないか
救援に来た明軍は明の中でも精鋭中の精鋭だけあって超強い
それこそ、普通の戦国大名と変わらないぐらいの強さだった。
それが4〜5万も兵を率いてきたんだから万全を期すのは当然。
・李瞬臣の海上ゲリラ戦で西進が出来なかった(西進する戦略は無かったぽいけど)
・民衆ゲリラによって兵站に支障がきたした、
・明の精鋭は朝鮮雑魚兵と違って、日本軍も警戒するぐらい強かった
それこそ、朝鮮兵、朝鮮ゲリラと戦う時は農民一揆を戦うノリで、李如松と戦うのは戦国大名と戦うノリ
(けど、農民一揆って幾多の大名武将を殺してきた半端ない戦闘力を有してたから、朝鮮兵よりは精強だろうけど)
>>756 梨峙の戦いって奴じゃないの?
フロイスが死因については敵に討たれたのは僅かであり
大多数が病気、飢餓、凍死で死んでるって記述してるように
文禄の役は兵站の維持が最大の課題だった
それこそ
>>753-755に有るように文禄の役での死者の大半の原因が兵站求められるとすると
慶長の役では、前回の反省を生かして
最初の全羅道、忠清道において掃討作戦を行って、次に補給線の構築に全力を注ぐって
戦略は些か慎重すぎるぐらいの、前回の反省を生かした完璧に近い戦略だと思うよ。
慶長の役も前回同様に一直線で進撃すれば漢城辺りまでは余裕で占領出来ただろうけど
次の明軍の救援は李如松の精鋭(李如梅、董一元)以外にも麻貴や劉テイ、陳リンの参加する
明国オールスターに近い布陣なんだから結局は行き詰るよ。
>>778 明軍の補給は李朝の義務だから大した兵力展開できないよ
史実でも李朝領で多数の飢餓、逃散が起きてるし
>>777 梨峙の辺りで起きただろう戦は、李朝の将官が多数戦死しただけで
今のような軍記が書かれたのは李朝末期だからなw
780 :
世界@名無史さん:2012/05/27(日) 11:08:49.18 0
>>779 >梨峙の辺りで起きただろう戦は、李朝の将官が多数戦死しただけで
小早川隆景(日本一の賢人)の全羅道攻略は失敗してるんだが。
お前の反論(?)は毎度意味不明だな
中野等氏は何の一次史料準拠にしたんだろうか?
>>778 逆に言えば、韓国側や一部の日本の学者が主張する
水軍やゲリラが日本の正規軍をフルボッコっていうのは嘘なのね。
勿論、輸送部隊を襲って補給線を脅かすのは立派な戦術だが。
>>776 スペインの行政記録見ると、1588年の4月には
フランドル地方だけでも歩兵が56000、騎兵が3600いたみたいだぞ。
>>781 実際に全羅道の平定には割と苦戦してるよ。
一回目の晋州城攻めと幸州山城攻めには失敗してるし。
ただ、梨峙の戦いに関しては一次史料がどこにあるんかわからんけど。
>>783 まともに艦隊決戦なんてやったら元均みたいに即死するでしょ
勿論、伏兵に引っかかって戦闘艦(安宅船、板屋船等屋根の有る船。)でも
手痛い負けを喫することが有ったのは事実だけどね。
李瞬臣は限られた手駒で出来るだけの事をやった名将だと思うよ
ただ、今過剰に称えられてるだけであって。
>>784 なんとか公が絶賛謀反中で宿老の大公や王弟を派遣して全力鎮圧
都市を要塞化して守備兵を減らす政策も実行途上で
各地にまとまった守備兵を張りつけてた時期だよ。
その頃は仏とも和平中で手持ち戦力も全力投入
日本人の間では完全に小物扱いの脇坂さんが
向こうでは物凄い大将軍みたいな扱いって時点でお察し。
789 :
世界@名無史さん:2012/05/28(月) 01:55:16.24 0
小早川隆景率いる第6軍1万5千人って、立花宗茂の3千人や小早川秀包の
1千5百人を擁してる当時の日本でも最精鋭の一つだろ。
その第6軍でも実戦経験もない武装農民である義兵に勝てなかったんだから
120年の戦乱に揉まれた史上最強の武士たちもたいしたことねえな。
えっ?
李朝官軍は全羅道を通過した隆景隊を追撃して夜戦を仕掛け
準備万端の日本軍に散々打ち破られ大敗したよ。
朝鮮学校でどう教えられたかは知らんがねw
791 :
世界@名無史さん:2012/05/28(月) 03:12:49.47 O
>>789 だからその義兵が小早川隆景をコテンパンに破ったとかいう
梨峙の戦いの一次史料を提示しろと何遍も言うとるやないか。
>>789 14万の大軍で攻め込んでおきながら
たかだか四万に満たない武士に殲滅された元軍や
1万を越す軍勢で攻め込んでおきながら
12歳の子供が跡を継いだばかりの頃の
たった数百の対馬の武士に惨敗した朝鮮軍ほどでは・・・
>>789 全羅道の義兵は確かに頑張ったけど、結局は明軍南下までの時間を稼いだってだけだからなあ
梨峙の戦いではなんとか砦を死守したけど死屍累々の状態で、退却する日本軍を追撃もできず
錦山の戦いでは日本軍を二度攻めて二度とも惨敗、部隊は壊滅、指揮官の高敬命も趙憲も戦死してる
なんとか侵攻を阻んでいたと言うならわかるが、とても日本軍を大破したなどと言える状況ではない
六番隊はその直後に南下する明軍への対応のために京畿道へ移動させられてるから
全羅道が制圧を免れたというのも結局は明軍のおかげさまなんだよね
>>778 >戦略は些か慎重すぎるぐらいの、前回の反省を生かした完璧に近い戦略だと思うよ。
明侵攻というマクロな視点では前回朝鮮半島を「通行路」にした事自体が間違いだったんだから
再び朝鮮出兵した時点で轍踏んでるようなもんだけどな
出兵目的が明・朝鮮に対する「懲罰」という名目が本当だったのならともかく
>>794 とはいえ、直接明に攻め込むのもナンセンスじゃね?
>>793 梨峙の戦いって拠点攻防戦だったのか。
なんかまるで野戦で小早川の大軍を撃破したみたいに語る人がいたが。
しかし、幸州山城といい晋州城といい全羅道はやけに守りが堅い要塞が多かったんだね。
なんでだろうか?
>>795 >>724の意見には特に異論はないけど、泗川の戦いだと
鬼島津さんが城から打って出て、釣り野伏やったんじゃなかったっけ?
>>796 明に攻め込むなら倭寇に好き勝手されてる南方
そしてそこを攻めることが出来ないなら明侵攻は断念するのが正解
倭寇みたいに沿岸を襲撃して逃げるだけならともかく
元寇のときの南路軍みたいな目にあうんじゃないの?
東シナ海ってたまに台風通るし。元軍は暴風雨で船を失って五島列島のあたりで
孤立して無縁の状態になって皆殺しにされたんだろ?
だから結論として
「日本の国力で明の征服は無理」だろ
唐入りが最初から半島の占領を目的としたものだったら成功したかもしれんが
占領地域が増えるにつれて負担が増えそうな戦略ではあるなあ
後継政権が戦略を継がなかったのはそういうわけか
元寇にしろ唐入りにしろこれがアジアのパワーバランスなんだということを感じさせてくれるな。
日本は大陸の帝国に脅かされないほどの力を持つが
逆に大陸に攻め込んでこれを制圧するほどの力は持たないと。
804 :
世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:26:06.50 0
>>795 いちいち反論するのも面倒だけど、
>当事国の全く勝ち目は無かったという報告書や
これは倭城を攻めて撃退されたことについての感想だろ。
>翌年の攻勢までの間、守りを固めて拠点を確保しておくことだぞ
おろかな侍厨はなんも疑問を持たないようだが、慶長の役開戦前から
慶尚道南岸に4万の日本兵が駐屯していたんだが。
>>804 >反論できる箇所が無くて哀しいけど
あっそ
>これは倭城を攻めて撃退されたことについての感想だろ。
これは明の将軍が半島入りして以降の攻城野戦、全戦役を通じての所感だよ。
>侍羨ましいニダ、悔しいニダ。なんも疑問を持たないようだが
>慶長の役開戦前から慶尚道南岸に4万の日本兵が駐屯していたんだが。
だから城を築いて2万強に減らし、恒久的な領国にしようとしたんだが。
>>803 大陸の統一政権でも台湾ですらロクに支配出来なかった事を考えると
地中海と違って太平洋では海を越えて武力侵攻するのは19世紀になって
航海技術が飛躍的に進歩するまで極めて困難だったんだろうね。
807 :
世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:22:15.16 0
>>805 出たー!
こまったときの朝鮮人認定
おまえネトウヨだろ(笑)
航海技術じゃなくて火力と地理の問題だね
列島と半島の間には東シナ海、半島と大陸の間には湿地帯と河川と丘陵が続くが
アナトリアとギリシャの間は狭いボスポラスがあるだけで、両側も人口密集地帯。
半島王朝は東アジアの中じゃ弱小でも、東地中海沿岸の後背地が無い諸国に混じれば
国土の広い大国、しかも山だらけな上に平野間盆地間の交通の便も悪い
制圧するのは北アフリカやシリアのように簡単にはいかない。
ドーバー海峡や地中海と違い対馬海峡も東シナ海も荒波の難所だ。
それでも日本側から半島に渡海する場合は反対のパターンに比べ
半島に上陸してから内部に攻め込むとこまでは割とスムーズにいくのは
対馬が歴史的に日本の領土だったことが大きいと思うよ。
逆パターンの元寇の場合はまず対馬や壱岐を制圧しなきゃいけないから
結局九州に辿り着く頃には体勢を整えられてしまい、現地での橋頭堡構築に失敗してる。
実際、距離的には目と鼻の先のはずの東路軍ですら、狭い船倉に押し込められ
ジメジメした不潔な環境で、食事もろくなものが無いので病人続出で台風が来る
前に元の将軍は根を上げていたぐらいだからな。
江南軍は数の上では圧倒的だけど、状況は遥かに悪かった筈だから文字通りの
「烏合の衆」。仮に「神風」が吹かなくとも元が日本を制圧するのは不可能
だったろう。
だね、九州沿岸へ到着する航海技術があっても
海岸線の開けた東地中海と違って簡単には上陸できないし
穀倉地帯に近いアナトリアやシリア沿岸部と違って半島南部は食料に欠く
日本側の軍勢も国土の広さと人口に比例して多いから苦戦必至。
>>810 しかも近くの島に上陸したらしたで
一斉に武士の皆さんが目の色変えて殺しにやってくるんだぜ?
悪夢にも程があるわ。
813 :
世界@名無史さん:2012/05/29(火) 22:35:16.82 0
(3)六月八日安国寺恵瓊書状
「当国之事、第一兵粮沢山之儀、不可言竭候、ーー一城ニ白米四五千石、黒米籾
大豆麦以下雑穀等之蔵之事者、更以不知数候ーーー、城々ニて兵粮下行候間、高
麗着以来ハ、日本之兵粮少も不入候、我等兵粮之事、名護屋のこともと申所、対
馬の豊崎又釜山浦所々残置候、如此候間、此方への気遣、少も不可有之候」
二回目の出兵でドンドン半島人をポルトガル人の奴隷商に売り払えばw
>>814 実際に売り払いまくってるけどな。まあ、数十万人売れたと言われる日本人自身ほどは
売れてはいない。
正直、国内人口面では、中国の三国時代と並ぶ暗黒時代だよ、安土桃山時代は。
その人口減少率は、太平洋戦争が可愛いぐらい酷いものだった。
817 :
世界@名無史さん:2012/05/30(水) 23:07:40.20 0
評者は著者がいうような兵粮調達に関する「政策の変換(変容)」は文禄の役
の開戦時にはなかったと思う。朝鮮侵略戦争全体を通じても、基本的な政策の変
化はなかったとは思うが、もしも政策の変化があったとすれば、「版図の確保」
に目的を切り替えた慶長の役、侵略戦の再開時であろう。「仮途入明」(=明へ
の道を貸してほしい)を主張した文禄の役と、「稲禾を刈って糧に供せ」「首を
取らずに鼻を削ぎ、塩蔵して京に送れ」と命令された慶長の役とでは、建前上、
後者の方が略奪指向は強かった。「兵粮は諸人より憎まれながらも現地調達いた
すつもり」。島津義弘の書状中の言葉である。これも文禄開戦当初の話ではなく、
慶長三年の史料に登場する(正月九日・旧記雑録後編)。著者の論旨とは逆にな
るが、慶長再戦時に敵対地への略奪指向、武力による威圧政策が強化され、宣言
された。
818 :
世界@名無史さん:2012/05/30(水) 23:19:38.38 O
>>815 その50万人という数字はデマだよ。
人身売買で売り飛ばされた日本人がいたのは事実だが。
>>816 日本の場合、特に人口が大きく激減した時代は無かったはず。
>>817 ニホンコむつかしねw
>>816 室町後期から織豊期にかけて技術革新で農業生産が伸び人口は増えたよ
>>818 南蛮船ってそんなに船数往来してないからね
全部の貿易船に目一杯詰め込んだと仮定しても
50万人もいかないw
>>804 >慶長の役開戦前から慶尚道南岸に4万の日本兵が駐屯していたんだが。
慶長の役で日本軍は新たに八城を築いて、戦線はそれまでの三倍に拡大してるよ
守備兵力を増強するのは当たり前
>>816 平気で嘘をつくな、もしくは天然バカなのか?
三国志の時代は漢の時代の最盛期より
人口は6〜8分の1程度まで落ちてた筈
室町最盛期の人口が1億近くいないとお前の発言は辻褄が合わない。
戦乱で戸籍の把握率が下がったせいもあるだろう。
823 :
世界@名無史さん:2012/06/01(金) 00:11:47.02 0
>>820 天下の賢人、小早川隆景が率い、鎮西一の勇者立花宗茂も従軍する日本
最精鋭、六番隊1万5千人でも攻略できなかった、全羅道を左軍、右軍合わせて
11万以上でようやく攻略したのにそのほとんどを放棄することになんの意味が
あるんだ(笑)
×天下の賢人、小早川隆景が率い、鎮西一の勇者立花宗茂も従軍する日本
×最精鋭、六番隊1万5千人でも攻略できなかった、全羅道を左軍、右軍合わせて
×11万以上でようやく攻略したのにそのほとんどを放棄することになんの意味が
×あるんだ(笑)
知略家の小早川隆景が率い、九州一の兵たる立花宗茂の従軍する
日本軍の六番隊1万5千人が無視した全羅道は、秀吉の指示で攻略が決まると
左軍と右軍合わせて6万弱を動員して瞬く間に攻略した
そのほとんどをわざわざ放棄することになんの意味があるんだ(笑)
825 :
世界@名無史さん:2012/06/01(金) 01:00:57.66 0
>>824 >左軍と右軍合わせて6万弱を動員して瞬く間に攻略した
左手の備(左軍) 計49600人
右手の備(右軍) 計64300人
合計113,900人
7月下旬から9月下旬まで2ヶ月ほどかかっている。
一次史料プリーズ。
梨峠の戦いみたいにまた捏造されたんじゃたまったもんじゃない。
827 :
世界@名無史さん:2012/06/01(金) 01:26:52.74 0
>>824 文禄の役で6番隊が攻略に当たった際、全羅道での豊富な食料事情については、
六月八日安国寺恵瓊書状にも
「当国之事、第一兵粮沢山之儀、不可言竭候、ーー一城ニ白米四五千石、黒米籾
大豆麦以下雑穀等之蔵之事者、更以不知数候ーーー、城々ニて兵粮下行候間、高
麗着以来ハ、日本之兵粮少も不入候、我等兵粮之事、名護屋のこともと申所、対
馬の豊崎又釜山浦所々残置候、如此候間、此方への気遣、少も不可有之候」
と記録されていることからも6番隊にとって魅力的な攻略拠点だっただろう。
ただ戦力が足りなくて占領できなかったのでろう。
>>825 またデマか、これだから在チョンは嫌われる。
全羅道は左軍の担当、しかも8月上旬から9月初頭まで1ヶ月弱で攻略完了
829 :
世界@名無史さん:2012/06/01(金) 01:58:11.67 0
>>828 寝言は寝て言え、基地外右翼(笑)
9月16日の井邑会議において「相残人数七万八千七百人」
が全羅道掃討戦に動員されることが確認され、
そのまま10月下旬くらいまで掃討戦が行われている。
梨峠の戦いの元ネタっぽい記録あったけど
全羅道の官軍4万、忠清道の官軍4万、林川路の官軍2万の合計10万人が
梨峙付近に集結して防備を固めていた。としか書かれてない記録と
官軍5万で防備を固めた所へ日本軍が攻撃を仕掛け、その日は守り通したが
文人ばかりのせいで翌日の攻勢に遭うと、算を乱して武器防具資材を山の様に捨てて逃げた
って記録だけで、勝ったという記録が無いぞw
>>829 自分で掃討戦って書いてるじゃんww
主要な攻略目標は1ヶ月弱で平定、あとは残敵の掃討
>>823 ねえ、慶長の役の戦略とか、そのへんの話題は過去スレで出尽くしてるよね?
なんかしつこく粘着してる人みたいだし、まさか覚えてないってことはないでしょ。鳥頭なの?
833 :
世界@名無史さん:2012/06/02(土) 08:58:23.19 0
835 :
世界@名無史さん:2012/06/02(土) 11:56:28.66 0
>>834 へー、秀吉って慶長の役の開始当初も明国を征服するつもりだったんだ。
あきらめが悪いやつだな(笑)
それよりも秀吉が病死せず、もって長生きしていたら、
何年くらいで明国を征服するつもりだったんだ(笑)
また、その為にはどれぐらいの兵力を投入する予定だったんだ(笑)
慶長の役が作戦どうり行ってるんなら答えられるだろ(笑)
もはや酔っ払いのいちゃもんレベルw
>>835 実際に名目はそうだけどね。最も、明に攻めるなら、タタールや女真に
工作する必要があるけどね。日本国内なら確実にやっていた。
基本的に、朝鮮出兵はそれまでの秀吉にはない非常に杜撰な戦争
だったと言える。ただ何も考えずに攻める、という無策ぶり。小西行長、
石田三成を買収し、秀次事件を引き起こした明の名将李如松の方が
余程優れている。他に、加藤清正排斥も両名を使った李如松の計略
だしね。
まあ、売国奴の元祖、石田三成、小西行長も大概だが。
838 :
世界@名無史さん:2012/06/02(土) 14:56:01.12 0
■ 在日の最終目標は外国人参政権→政治力→軍事力で日本支配
在日民団集会のコメントです。
「もはや裏社会は我々が制圧した。
その暴力と経済力を背景に日本の政官財界を侵略する。
60万在日の経済力は日本経済の2割に相当し、それは実に韓国の経済力の2倍という凄まじい物だ。
経済力に加え、地方参政権によって政治力も手に入れ、やがては軍事力も手にした日には
完全に日本から独立した、世界で最も豊かな国家を手に入れることが出来る。
もはや完全に在日の奴隷状態の日本人には、在日国家の軍門に下って貰うことになる。
こうして、在日朝鮮民族はアジアの頂点に立つことが可能となり、半島と日本を実質支配する
(在日韓国人、魯漢圭氏(広島市))」
朝鮮征伐って言うが、当時は「乾煎り」って言ったんだろ(´・ω・`)
つまり、朝鮮はストローでお目当ては支那大陸だったワケだ。
いまだに朝鮮が朝鮮征伐の被害性を強調するのは
駅の階段でこちらが、ふと上を見た時にブスの女子校生がいて
こちらに気づいてスカートを手で押さえるようなもん?
朝からブスに余計な自信を付けさせてしまったような・・・
原爆投下の目的は新爆弾の試験で
広島長崎の市民を殺傷するためではなかったのだから
被曝者は被害者ぶるのをやめろという理論。
やたら「朝鮮征伐」って言いたがるのは日本のアホウヨだからなあ
やたら朝鮮征伐の被害や戦績を誇張・改竄・捏造するのは韓国籍ネトウヨだからなあ
まあ韓国籍のネット右翼が日本で暴れるのは朝鮮征伐に限らないが
判決そのものは妥当だけど主文の「短絡的」ってのは余計なお世話だな
当人なりに人命と苦痛や尊厳を秤にかけて熟慮の上で後者を選んだかもしれんのに
無論前者を選ばなきゃ犯罪なのはわかるけど、裁判官に他人の心情を批判する権利はない
それこそお前こそ人の苦痛や尊厳を軽視してるだろと
誤爆ったw
>>844 誤爆したことを表明するなら、どこの誤爆なのかも明記すべき。
どうせニュー速+だろ
>>842 韓国は国民総ネトウヨ
自分に都合のいいことはビックリするほど簡単に信じるし
それを腐すと売国奴扱いで大騒ぎ、正直手がつけられん
まあネトウヨは総じて屑ってことだ。
日本の場合日・朝・明の三国の資料が普通に見れるからな
明はもちろん朝鮮の資料も漢字だから大体のニュアンスはわかるし
主要な資料は日本語訳もされてる
一方、朝鮮じゃ一部漢字を読める知識層しか資料読めない上になぜか
現代朝鮮語・ハングル仕様に完訳されない
いや、理由はわかるけどw
850 :
世界@名無史さん:2012/06/07(木) 17:07:31.83 0
韓国の知識層が迂闊に本当のことを言うと(ry
851 :
世界@名無史さん:2012/06/07(木) 17:38:04.19 O
単純に知的蓄積がないのもあるかもね。
東南アジアの留学生がいってたが、
日本人は日本語で専門書をよめる。
我々は母国語の専門書がないので、まず英語を学ばなければならないと。
最近微妙な先進国入りしたか?くらいの国でしかも日本と比べたら小国で専門書の市場も小さい。
他に翻訳すべき書物があるんだろう。
どうもいわゆるネトウヨは韓国に過大に期待してる。
なぜ日本並みを求めるのかね。
同じ地位と思うから韓国を嘲笑ったり、憎悪したりするわけで、
そもそも中進国の星であり、子供が背伸びしている程度という認識をしたらまぁ許せるだろ。
子供ならなおさら、悪い事したり嘘ついたなら、
大人が叱りつけて正しい道に戻してやらないといかん
争いは同じレベルの者同士でしか(ry
>>852 そんなことして百万が一韓国人が更生したらどうする
あいつらには永遠にあのままでいてもらうのが日本の国益なんだよw
>>851 現在の世界で「英語の話せないインテリ」がいるのは日本だけらしいね
中国やイランやエジプトもだな
そんな国の仲間なのか
>>856 それらの国もインテリは基本英語出来ないと自国語の文献資料が不足してるだろ
たとえばドイツ文学・フランス文学・ロシア文学などの文豪の全集がほとんど揃ってるのは日本語訳くらいで
英語訳すら代表的作家の代表作しかないし、酷い場合は自国ですら全集が編まれてなかったりする
中国人インテリが自国の文献資料を読むのに英語できなきゃならんなんて聞いたこともねえ
一世紀半を海外文献の翻訳に費やしてきた歴史は伊達ではない
>>859 実学の文献なら現在進行形で訳されてるけど
文学や思想哲学系は未訳や、訳本が文革の混乱で消失したりした例が多いのに
何言ってんだ?
確実に中国の方が豊富な翻訳文献揃ってると言えるのは発掘ブームで今が旬の
古生物学関係だな
日本じゃ金になる恐竜関係以外はほとんど未訳
>>861 逆だよ、科学技術は米欧日が先端を行ってるから英語が必須
人文系は国内を研究していれば十分かつ最も進んでいるので
外国語文献に当たる必要性が乏しい、外国で一番資料の豊富な日本は英語必要無いしね
話が噛み合わないと思ったらインテリと学者を混同してるらしいな
>>864 日本語訳しか読んだことない人間はインテリではあっても文学者とは言えないからね
原著読めてはじめて学者と言える
>>864 知識人なら猶の事だよ、学者ほど専門性を要求されない
ん?
>>859は自国のと言ってるから中国語の文献ってことだろ。
なんで英語訳文が必要なんだ?
俺が読解力ないの?
868 :
859:2012/06/09(土) 18:40:49.97 0
あ、いや。元々の俺が読解力なかったっぽいw
>>858は、日本のインテリは各国の文学などを日本語訳で読めるから英語を学ぶ必要が薄く、英語を話せない。
中国・イラン・エジプトなどはそんな豊富な翻訳環境がない癖に英語が出来ない。どうなってんの。
って言いたいようだ。
なんで新スレが立ってるんだぜ?
心機一転捏造を繰り返す気満々なんだろ
871 :
世界@名無史さん:2012/06/11(月) 15:23:40.87 0
>>868 そもそもその三カ国だって普通にインテリは英語話せる国だろ
少なくとも革命前のイランは日本より遙かにアメリカナイズドされてたし
現代になっても昔ながらの宗主国様に対する下僕っぷりを誇る国民性は変わらないなw
ん?アメポチの事かい
>>872がどのレスを読んでこんなレスしたのか誰か教えてくれ
どこでそんな話が出たのか
宗主国様マンセ〜偉大な米語マンセ〜ってねw
まさか英語が話せるかどうかの話を英語マンセーと理解したのかな
そんな低能じゃないよねw
ウリが国籍を持つナラは宗主国様ナイズされて誇らしいニダってねw
879 :
世界@名無史さん:2012/06/18(月) 17:50:50.20 0
?
880 :
世界@名無史さん:2012/06/23(土) 15:57:24.52 0
不毛の朝鮮半島が緩衝地帯としての役割を大いに発揮した戦役だよね
信長なら、南蛮交易船をマネて竜骨付きの外洋艦隊を作り、上海あたりに直接上陸してたのかなあ
南蛮船はジャンクと比べてあらゆる面で性能が劣っていたから
外洋船団を創るとしても平底船だね。
やるとすれば上陸地点は前期倭寇で割と襲撃の多かった江蘇じゅないだろうか
信長もそんな無謀なことはやらないけど
そもそも信長が西洋人のマネをしたことなどほとんどないからな
献上されたマントやらソンブレロを礼儀で着けて見せたような話が大袈裟に一人歩きしすぎ
南蛮胴具足だって実際は着てないしな
三英傑で一番保守的だったのに
なぜか革新的な人物像が一人歩きしとる
>>880 当時の海上輸送能力じゃ自殺行為、橋頭堡を築くなんて相当の実力差が無いと難しい
数百〜数千人単位の海賊を数十単位で組織して
ヒット&ウェイで海岸を荒らしまわって国力の疲弊を狙うって戦略なら有りだけど
副都の南京にて包囲戦を行えるほど当時の倭寇は強かったんだから
886 :
世界@名無史さん:2012/06/27(水) 11:56:08.77 O
>>884 そして三英傑で一番南蛮貿易や東南アジアとの交易に精を入れて
関ヶ原では西洋式の甲冑を着て、大阪の陣ではカルバリン砲を動員した家康が
何故か一番保守的で排他的な扱い受けてるよね。
>>886 後に保守化した徳川幕府の施策を譜代の老中若年寄どもが
権威つけのために「神君のご遺訓」とほら吹きまくり
その駄法螺を真に受けて書かれた本が多いから
888 :
世界@名無史さん:2012/06/28(木) 01:58:21.60 0
保守化っていうか、朱子学化だよね。
当時の東アジアで「平和」「安定」を志向する
政権が、商業や貿易(海賊行為を含む)を積極的に
肯定するようになるとか、そもそもありえるのかな。
家康の将軍・大御所時代はなんだかんだと言っても豊臣家の存在があったから
家康は幕府の強大化を志向して貿易や最新軍備の導入に積極的だったけど
大阪陣が終わって数年で家康も逝き、残された幕府はもう強大化する必要がなかった
890 :
世界@名無史さん:2012/06/28(木) 23:20:14.20 0
>>885 >副都の南京にて包囲戦を行えるほど当時の倭寇は強かったんだから
、『明史』日本伝にも真倭(本当の日本人)は10のうち3であるとも
記述されている。
>>886 家康の開放政策は、結局の所、あまりうまくいかなかったからだろうな。
家康が晩年、外交政策上、特に執着していたことは、
「南蛮交易航路(インド洋航路の延長としての東シナ海航路)を、東京湾(江戸湾)まで延伸すること」だった。
ところが、はるばる浦賀まで、西洋船はなかなか来てくれない。
そこで、妥協して「駿河湾まで延伸」と言うことになったが、これもあまりうまくいかない。
結局、南蛮航路の地理的利便性は、西国九州方面ほど圧倒的に強いということが、再認識された。
さりとて、幕府政庁を長崎に持っていくわけにもいかない。結局、まともに競争しても西国勢に負けるから、
長崎だけでの管理貿易=鎖国ということになった。
いっそのこと地理的に開き直って、東の新スペイン(メキシコ)交易開拓一本に絞った伊達政宗のほうが、
開明的とされている理由は、実はここにある。
家康は、駿府や浜松から東海沖(フィリピン海)を眺めて育った東海地方の人だから、
どうしても遠州灘に国際航路を引っ張りたかったんだろう。
戦国期から江戸時代に掛けての知識が何も無いと
意図せずにここまでアピール出来ちゃうのはある種凄い才能だなwww
「関東&東海僻地論」は、お気に召しませんか?ww
まあ、「三英傑」なんて特殊なローカル用語を使っているから、
直近いくつかのレスを書いた人の出身はバレバレなので、意図して煽ったんだがね。
もちろん、新教・旧教の宗教問題や、フランシスコ会の問題もあるが、
家康が、かなりしつこく、浦賀や駿府に西洋船を入れたがっていたことは、これは明らか。
でも、うまくいかなかったことも明らかだ。
その後は、朱印状発付などで間接統制を図るが、これも手の届かない所がある。
それで管理貿易に徹することにした。これが鎖国。
書けば書くほど恥の上塗りするだけw
当時の浦賀はよくある漁村でしかない
江尻は伊勢湾の諸港や品川と比べ数段小規模
直轄の神領や代官領は日本全土の至る所に在った
長崎も代官が置かれた直轄領
家康が育ったのは岡崎や駿府
>>894 うふふ。じゃあ、家康はなんで西洋船の関東入りや、駿河湾入りにこだわったんでしょうね?
ガチで都市基盤整備までやってるぞ。
江戸も駿府も、そういう設計だったという説すらある。
(江戸の港湾整備は、ジャカルタを参考にしているという説すらあるんだな)
西洋船は和船とは「港湾適地」が違うので、話の行き違いになるんだが、それでも家康は拘っていた。
この港湾適地の違いは、いろんなところに影を落としている。堺や博多は糞立地になるし、
伊勢湾岸に至っては、適地はほとんどない。
(明治時代、最初に開港したのは知多半島の武豊だった。あそこが唯一の西洋船スペックを満たす港湾だった)
全国に領地が点在しているから直ちに東国政権ではない、というわけでもないのですよ。
徳川政権にとって、西南の管理はどれだけ大変なことか。
鎖国は、西国大名の統制策の一環であるということは、これはありふれた説だ。
ということは、開国していると、江戸幕府は西国大名に相対的に競り負けるということ。
まあいいや。「三英傑」民には、いくら言っても通じないだろうことは、分かっていたから。
「東海地方に閉じ込める」「関東地方に閉じ込める」という発想が理解できないと、
徳川家康を巡る16・17世紀の政治力学は、実のところ、何も分からない。
家康は、常に「閉じ込められていた」武将で、それをどうひっくり返すか、逆手に取るかが、
彼が天下を取る上での、常に最大のポイントになる。
関ヶ原以降は、ある程度は畿内も使えるようになるが、それでも本籍はあくまで東国だ。
これに、日本人と西欧人の、港湾観の決定的な違いが、さらに影を落とす。
まあ、どうでもいいや。
>>895 家康は拘っていないから、その質問自体が無意味だね。
浦舟場の整備はとても役に立った、ただし海外貿易ではなく
首都である江戸への各地からの廻送の為に。
博多や堺や津や名古屋や長島は良い立地、南蛮人が主に使っていたのはジャンクだからね。
それと当時のガレオンはまだ喫水の浅い小型船。
下段の4行は概ね同意だ
898 :
世界@名無史さん:2012/07/01(日) 22:57:52.40 O
こっちを無視して向こうのスレが伸びてるんだが
899 :
世界@名無史さん:2012/07/17(火) 21:34:51.38 O
それどころか例の酔っ払いがこのスレ無視して余所様のスレで暴れてるんだが
900 :
エイリアンとの戦い:2012/07/18(水) 09:25:48.73 O
∧ ∧
(*‘ω‘ *) ゆーほっほ
/ ̄ ̄ ̄ ̄.\
|) ○ ○ ○ (|
/″ \
/________.\
 ̄ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪  ̄
/ \
/ \
/ 〃∩ \
/ ノ ⌒⊃ \
/〃⊂(><;)ノ´ \
/ ∪ 彡 \
やめてください
∫ ∬
901 :
世界@名無史さん:2012/07/18(水) 10:31:59.59 0
ts
902 :
世界@名無史さん:2012/09/03(月) 23:36:18.01 0
徳川旗本8万騎を渡海させたかった
904 :
世界@名無史さん:2012/12/26(水) 09:42:34.55 0
朝鮮征伐とは?
>>904 世界で言い慣わされる所の朝鮮征伐のこと
906 :
世界@名無史さん:2012/12/28(金) 09:10:33.77 0
カルバリン砲
>>904 唐、天竺、南蛮をも征服する太閤殿下の壮挙を矮小化しようと作り出された
御用学者の造語。
908 :
世界@名無史さん:2012/12/30(日) 08:48:51.74 0
明とぶつかった件は
文明の衝突なんだから、
トゥール・ポワティエやタラス河畔に匹敵する事件と考えてもいいのでは、
909 :
世界@名無史さん:2012/12/30(日) 11:47:28.89 0
>>907 実際に占領や侵攻出来たのは朝鮮と女真の一部だけで
明領は寸土も冒せなかったんだから矮小化というよりは実態を現わしてるだろ
特に朝鮮は単なる通り道のつもりだった文禄の役はともかく
明確に朝鮮への「懲罰」も目的に含んでた慶長の役は
910 :
世界@名無史さん:2013/01/07(月) 13:13:22.47 0
?
>>908 日明戦争と呼ぶのが正しいね
東アジアにおける覇権争いでしよ
朝鮮は闘技場にすぎない
朝鮮半島の戦いか
日清戦争と同じだよね
あれも戦場は朝鮮中心だし
914 :
世界@名無史さん:2013/01/31(木) 18:08:32.39 0
戦争原因は秀吉の「男のロマン」だ
それ以上でもそれ以下でもないよ
朝鮮半島とイタリア半島は常に大国同士の勢力争いの戦場になってる
なってねーよw
イタリアは西方正教圏の中で先進的で洗練された地中海文明の影響を
最も強く受けて発達していた地方だから、北の野蛮人に度々侵略された。
もう一方の半島は、中華帝国が大拡張した時代の最後の余り物(征服対象)として
或は、日本が大陸進出した場合の大陸勢力との衝突場所としての戦場
・福田首相は中国講演で歴史認識について村山談話をかみくだいて語った。
・だがそれは、日本人に向かって言ったのでも、日本人が聞いていたわけでもない。
・こういう大事なことは、日本に向かってこそ語りかけるべきだ。
918 :
世界@名無史さん:2013/06/22(土) 14:28:59.58 0
朝鮮征伐
919 :
世界@名無史さん:2013/07/12(金) 01:38:33.00 0
きちんと征伐してれば世界のためになったのに
朝鮮征伐未遂
と記述した方がいいんじゃないか
朝鮮征伐に失敗して逃げ帰ってきましたとは記述できないだろ
ウリたちに恐れをなして逃げ帰っていくニダ<`∀´>ホルホルホル
と勘違いして追撃した結果討ち取られてしまう朝鮮最大の英雄であった
922 :
世界@名無史さん:2013/07/27(土) 18:05:58.94 0
924 :
世界@名無史さん:2013/07/30(火) 12:31:52.52 0
「歴史通 3月号」の筑波大学大学院教授・古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。
以下引用(38〜9頁)
日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・ ・ ・ ・ ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。
引用終了
学校では全く教わっていない、知らない話でした。
良さ気に見えても結局当てにはならんかったわけだな
926 :
世界@名無史さん:2013/07/31(水) 08:42:32.72 0
>>924 そもそも古田博司が主張するように日本武士団が強ければ慶長の役なんて起きなかったのに。
秀吉の計画では文禄4年(1595年)には明国を征服するつもりでだった。
その為に、文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを
引き連れて渡海するはずでいたのに。
それが秀吉の渡海も中止され、それどころか明国と和平交渉に入ったのはなぜなんだ(笑)
それは明国軍5万の参戦により日本側が劣勢に立たされたからだろ。
それすなわち日本武士団が押され気味だった証拠ジャン。
なにが、
> 日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます
ほんと古田博司って馬鹿だよな。
馬鹿なうえに恥知らずだ(笑)
近世日本の軍勢を「日本武士団」とか言ってる時点で
>>926も大概の馬鹿だな(笑)
>>926 いや、そうでもないよ。
世界史見たらわかるが、広大な異国との戦争って、
数年または十数年続くってのは当たり前だし。
慶長の役の時点で、明・朝鮮軍はもう壊滅的で、秀吉軍に
勝てる見込みはすでになかつたわけだから。
秀吉が死んで打ち切りになったから助かっただけ。
明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)
第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)
露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。
特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。
第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。
戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。
930 :
世界@名無史さん:2013/08/01(木) 18:40:44.04 0
>慶長の役の時点で、明・朝鮮軍はもう壊滅的で、秀吉軍に
>勝てる見込みはすでになかつたわけだから。
三路の戦いって、慶尚道南岸の倭城の防衛に成功したってだけだからな。
史書によれば明・朝鮮連合軍は攻城戦の後、遠巻きに監視したとある。
つまり戦線はまだ継続してたわけだ。
>秀吉が死んで打ち切りになったから助かっただけ。
二言目には秀吉が死んだからーとか、秀吉が死ななかったらって言うけど
秀吉って不老不死だったのかよ。
本来は死ぬはずがなかった秀吉がなぜか死んでしまった為、仕方なく
撤退したのかよ。
文禄の役を開始した1592年4月から秀吉の死まででもすでに6年半もたって
いるのに。
秀吉の死を言い訳にするな!この馬鹿が。
>>930 >三路の戦いって、慶尚道南岸の倭城の防衛に成功したってだけだからな。
三路の戦いって、日本側に取っては兵力の半分以下の留守番組が陣地を守ったってだけだけど、
明朝鮮側に取っては文禄・慶長両役を通じて最大規模の大軍を投入した一大攻勢計画だったんだが(笑)
それなのに三城を同時攻撃して一城も落とせず、逆に兵力半分以下の留守番組に万単位で討ち取られる大惨敗を喫しているんだが(笑)
>史書によれば明・朝鮮連合軍は攻城戦の後、遠巻きに監視したとある。 つまり戦線はまだ継続してたわけだ。
宣祖実録には「三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をした」と書いてあるんだが(笑)
あと、明史にも「明とその属国朝鮮に勝算は無かった」と書いてあるんだが(笑)
>本来は死ぬはずがなかった秀吉がなぜか死んでしまった為、仕方なく撤退したのかよ。
秀吉が死んだ時点で後継者の秀頼がまだ幼児で、権力争いで一触即発の状況になったから外征どころじゃなくなったんだろ(笑)
だいたい、エスパーでもないのに秀吉の死期が事前に分かるわけないじゃん(笑)
そのくらいのこともわかんねえのかよ、この馬鹿が(笑)
>文禄の役を開始した1592年4月から秀吉の死まででもすでに6年半もたっているのに。
モンゴル帝国は高麗を服属させるのに30年近くかかっているんだが(笑)
清は明を完全に征服するまで5世代70年近くかかっているんだが(笑)
歴史通ってネトウヨのオナニー雑誌だからな。
毎回、極右の日本美化の記事ばかりで気持ち悪すぎ。
秀吉が後継者成人するまで生きてたら果てしなく大陸に戦線を広げ続けたのだろうか
なかなか辛そうだな
>>933 しかし、南明が実際に滅んだように落としどころはあるだろ。
日本人のトラウマの一つでもある日華事変が泥沼になったのは、
結局米欧の援助があったからで、それがなけりゃ民国政府は
どこかで白旗上げるしかなかったはず。明も同じだろうな。
>>934 落としどころかー。失敗ばかりしてるような印象があるけどどうなるんだろ
イデオロギー的には明を征服するまで止められ無ぇのかな
当時、漁夫の利をねらいそうな他勢力ちゅうたらポルトガルとオランダと
スペインと女真とモンゴルぐらいか
937 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 09:11:34.04 0
>>931 >明朝鮮側に取っては文禄・慶長両役を通じて最大規模の大軍を投入した一大攻勢計画だったんだが(笑)
城攻めなんてそんなもんだ。
幸州山城の戦いなんかもっと戦力差(朝鮮軍4千人対日本軍3万人)がありながら、撃退されてるんだが。
>宣祖実録には「三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をした」と書いてあるんだが
ふーん、そんな状態でよく秀吉死後の撤退する日本軍を追撃したり、
露梁海戦を行えたな(笑)
938 :
革命的名無しさん:2013/08/02(金) 09:34:40.76 0
ボロボロに負けて逃げかえったとはおもわないけど、
余裕の圧勝だったら一片の土地も取らずに帰ってきた理由がわからんのだけど
領土欲がなかったの?
朝鮮半島の日本軍橋頭堡に壊滅的打撃を与えて講和を有利にする目的で実施された
起死回生の三波同時攻勢の失敗で明朝野戦軍アボン
時期・兵力・物資を万全に整えて望んだ一大攻勢で成功すれば後世に広く語り継がれるはずだったが
遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
そもそもそんな壮大な作戦を成功させるだけの能力を牧歌的なシナ・半島人が持っている訳ないし
940 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 11:43:32.32 0
>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
文禄元年(1592年)4月よりはじまった征明戦争。
三路の戦いの時期(1598年10月)にはすでに開始から6年半も
経ながら、いまだに慶尚道南岸に日本軍橋頭堡を築いて固まっていたのに?
941 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 11:50:49.33 0
>>939 >遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
だいたい日本軍がそんなに強かったらなんで明軍と休戦なんかするんだ。
秀吉の計画では文禄4年(1595年)までには北京を占領して明国を征服するつもりでだったのに。
その為に、文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
渡海するはずでいたのに。
>幸州山城の戦いなんかもっと戦力差(朝鮮軍4千人対日本軍3万人)がありながら、撃退されてるんだが。
で、その朝鮮軍は死屍累々の状況で退却する日本軍を追撃もできず、戦後速攻で幸州山城を放棄してるんだが(笑)
だいたいなー、朝鮮人の守城戦ってひたすら亀のように引き篭もってるだけじゃん(笑)
日本軍はたびたび城から打って出ててるし、敗走する敵軍を追撃して万単位で討ち取ってるんだから一緒にしてほしくないなー(笑)
>ふーん、そんな状態でよく秀吉死後の撤退する日本軍を追撃したり、露梁海戦を行えたな(笑)
明朝鮮軍が露梁海戦以外のどこで追撃を行ったんだよ(笑)
劉テイにしろ麻貴にしろ、日本人が帰り支度を済ませて引き払った後にその城に入っただけじゃん(笑)
露梁海戦にしたって順天の小西らは取り逃がすし、救援に来た島津らを殲滅することもできず、
逆に明軍副総兵のケ子龍や朝鮮最大の英雄イスンシン(笑)まで討ち取られちゃうんだから散々だな(笑)
>だいたい日本軍がそんなに強かったらなんで明軍と休戦なんかするんだ。
現実にほとんど大部分の会戦で日本軍が勝利している以上、どう考えても戦闘では圧倒的に日本軍の方が強かったんだろ(笑)
遠征が頓挫したのは戦闘力の問題ではなく、朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足が最大の要因だな(笑)
「従来、豊臣政権下で兵たん機能が大幅に強化・向上したと漠然と考えられてきたが、
主な改善点は作戦発起点への兵糧の事前大量集積に尽きており、
敵地に進んだ軍隊への陸上補給は、物理的な制約から依然困難であった。
結局、一七世紀頃は日欧ともに敵地の野戦軍は現地調達に頼らざるを得ず、
これが出来なければ敗退するしかなかった。
日本の朝鮮出兵の敗退は、義兵運動等様々な要因はあるにせよ、
第一には、当時の陸上補給能力の限界と現地での食糧調達の不可能性に起因するものだった。」
(久保田正志氏の豊臣政権の兵たん論文より)
943 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 12:36:08.83 0
>>942 >で、その朝鮮軍は死屍累々の状況で退却する日本軍を追撃もできず、戦後速攻で幸州山城を放棄してるんだが(笑)
3万の大軍で4千人の守る城を攻めておいて退却する状況で言う言葉なのか(笑)
944 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 12:38:41.55 0
>遠征が頓挫したのは戦闘力の問題ではなく、朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足が最大の要因だな(笑)
文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
渡海に際して兵糧も持って行く予定だっただが、なぜそれを取りやめて明軍と休戦したんだ。
>3万の大軍で4千人の守る城を攻めておいて退却する状況で言う言葉なのか(笑)
何万の大軍で何度攻めても結局倭城を一つも落とせなかった状況で言える言葉かよ(笑)
しかも権慄が幸州山城を放棄したことで日本側の戦略目標は達成されているわけだが(笑)
あと兵力差を言うなら、例えば竜仁の戦いでは5万の朝鮮軍が脇坂勢の砦を包囲したが、
33分の1にも満たない1500人の脇坂勢が打って出て5万の朝鮮軍が総崩れとなり、
さらに追撃を受けて将軍の白光彦・利之誌をはじめ1千人が討ち取られているわけだが(笑)
また春川の戦いでは、春川の島津勢500人の砦が朝鮮軍数千人に包囲されたが、
やはり島津勢が打って出て朝鮮軍を敗走させ、将軍の朴渾を討ち取っているわけだが(笑)
亀みたいに引き篭もるだけの朝鮮人には逆立ちしたって真似のできない芸当だな(笑)
>文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
>渡海に際して兵糧も持って行く予定だっただが、なぜそれを取りやめて明軍と休戦したんだ。
よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万の大軍を食わせていくんだよ(笑)
すでに前線部隊が慢性的な兵糧不足に苦しんでいる状況なのに(笑)
それと休戦について言えば、秀吉は明側から降伏を申し出てきたと報告されていたわけだから、
そういうことならととりあえずの休戦に応じたんだろ(笑)
946 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 15:48:04.58 0
>何万の大軍で何度攻めても結局倭城を一つも落とせなかった状況で言える言葉かよ(笑)
んなこたあ、わかってるわ!!
勘違いしているようだが、野戦なら 鎧袖一触にされる兵力差7.5倍の強敵であっても
城の防御力に頼れば撃退できる、ってことを言いたかったんだよ。
幸州山城よりも遙かに防御力が高いであろう倭城に立て籠もりさえすれば、野戦では
勝てない相手の攻撃も跳ね返すことができるってね。
>よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万
>の大軍を食わせていくんだよ(笑)
それをおれに聞くのか?
質問に質問で返すな、馬鹿(笑)
>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
ってお前が言うんだから、当然その文禄の役の失敗について説明責任はお前にあるよな(笑)
だいたい
>すでに前線部隊が慢性的な兵糧不足に苦しんでいる状況なのに(笑)
と主張しときながら、
>よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万>の大軍を食わせていくんだよ(笑)
とほざいておきながら、(その上、平壌、開城などの主要都市を取り戻されている状況で)
>秀吉は明側から降伏を申し出てきたと報告されていたわけだから
>そういうことならととりあえずの休戦に応じたんだろ(笑)
秀吉の頭ではどのあたりをどのように理解していたんだ(笑)
「日本軍TUEEE」 VS 「そんな強くないわw」
そこに拘ってるのはちょっと不毛では?なんせ程度を争ってるようだし
しかも
TUEEE側 記録を元に戦術的勝利の積み重ねを評価 → 引き上げただけで負けてねえし!超TUEEEEEEE!
反論側 結果を元にした戦略的評価 → 結果が伴わないザコ!史料の感想なんて知らん、ザコはザコ!
噛み合ってねえ
噛み合ってないんじゃなく
日本軍を貶めるのに必死なチョンの妄言が
全く説得力が無いだけ
>>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
>ってお前が言うんだから、当然その文禄の役の失敗について説明責任はお前にあるよな(笑)
俺は
>>939じゃないからそんなこと言ってないっつの(笑)
だいたい、文禄の役の失敗要因は朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足だと
>>942で言ってるジャン(笑)
人違いでやれ説明責任はお前にあるとか、ガキみたいなこと言ってんな!!(怒)
戦闘力は完全無欠の化け物だが政治力は全くの欠陥品であったのか
寿命は政治力じゃないからな
953 :
世界@名無史さん:2013/08/03(土) 21:54:20.17 0
へぇ
文禄の役の時に秀吉が死んだとは知らなかったな。秀吉の死と遠征軍撤退の時系列を確認したほうがいいぜ。
秀吉が逝去した為、日本軍は引き揚げを始めた
チョン学校でどんな物語を説法してるかは知らんがね
955 :
世界@名無史さん:2013/08/03(土) 23:41:32.84 0
秀吉の死は慶長3年8/18だがその前から日本軍の侵攻は完全に滞っている
秀吉が死ななくてもどの道アボーンだな
大体明もどのくらい全力で朝鮮に支援したかもようわからんし
>秀吉の死は慶長3年8/18だがその前から日本軍の侵攻は完全に滞っている キリッ
とか言われても、5月に宇喜多・小早川・毛利らの主力を帰国させてるんだから、
既に翌春以降の攻勢に備えてまさに持久中だろw
兵数差を戦力差にすり替えたり、
戦闘・戦術的勝利を戦略・外交的勝利にすり替えたりするのは
ウヨにもサヨにもなれない子
半島南部の旧任那料の領国化
十分に戦略的勝利と云える。完勝では無いけどね
959 :
世界@名無史さん:2013/08/04(日) 02:02:32.52 0
実際明は実力の10分の1も出してなかったんじゃねーの?
結局退却して領土は全部奪い帰されただから普通ニ負け戦だろ。
秀吉が死んだから撤退したとかそんないいわけはしらん
>>959 明の当時の総動員兵力は60万ほどという試算があり、そうだとすれば
日本側の通常動員可能兵力とほぼ同等。
朝鮮の史料で明の派兵は延べ22万余とされており、明軍の兵糧を賄わされた
朝鮮の数字はそれなりに信がおけると考えられることから、明は総兵力の
およそ1/3を朝鮮役に動員したことになる。
広大な明の辺境警備に回す分を考えれば、その辺がもう限界いっぱいだろw
>>958 秀吉が生きてたら半島南部のみで妥協していた?
>>959 言い訳っつか、当の明史に秀吉が死んだから戦争が終わった、明には勝算がなかったとまで書かれてるじゃん
963 :
世界@名無史さん:2013/08/05(月) 13:08:58.40 0
>>960 >明の当時の総動員兵力は60万ほどという試算があり、そうだとすれば
>日本側の通常動員可能兵力とほぼ同等。
明の場合は、常備兵数が1569年の時点で定員3,138,300人、実数845,000人、北辺で勤務
する兵数推定50万人、朝鮮救援に動員された兵数は前後12万人、これは北辺勤務
の兵力の4.17%、
日本の場合の60万人ってのは動員兵数であって常備兵数ではない。
長期間60万人動員しようと思えば出来るから
どっちでも大きくは変わらんけどね
965 :
世界@名無史さん:2013/08/06(火) 09:29:18.91 0
>>964 >長期間60万人動員しようと思えば出来るから
武士ってのは普段は行政の仕事をしつつ合間に武芸を磨く
役人兼業軍人なんだ。
それがいざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓
を武装させて動員する、それが武士の軍隊なんだ。
比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、
どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
武士も百姓もそれぞれ本業をおなざりにしているため、長期間動員する
と現場の深刻な人手不足に悩まされることになる。
>>965 一体いつの時代の話をしているの?
信長の時代から兵農分離が始まり、秀吉の時代には都市経済を通して得られる潤沢な資金によって
農村の余剰人口を巨大な兵力供給源として利用するようになったというのが定説なんだが。
もちろん朝鮮役には水夫や人夫として百姓も大勢動員されたが、この頃にはいわゆる「常備軍」の編成が全国的に進んでいたわけで
日本軍が元亀・天正以前のままだと思っているならそれは大間違いだよ。
あと「比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8」というのはさすがに武士が少なすぎる
国衆の所領把握が進まず、農兵が比較的多かったといわれる謙信時代の上杉軍でも武士と農兵の比率は1:3くらいだし、
天正十五年の後北条氏の岩付衆などに至っては軍勢の48%が馬上・手明、およそ半数が武士という計算になる
>>965は世界史板で吹かす前に日本史板でお勉強した方がいいみたいだねw
967 :
世界@名無史さん:2013/08/06(火) 17:39:43.09 0
>>966 豊後大友領では、農民に夫役出陣を命じたところ、農地を返上し、百姓を
捨てて、諸課役も不納する動きに出ました。農地返上は小作地に多く出ました。
出兵の翌年、大友吉統(よしむね)は戦場での臆病を理由に改易され、
豊後は直轄領として接収されました。
豊臣方から豊後に山口玄蕃が乗り込みます。豊後では、大規模な百姓の逃亡が
起こっていました。
逃亡の範囲は島津領から毛利領まで広がっていました。
出兵の中で農村は荒廃していました。
過酷な耕作の強制が待っている以上、農民が帰って来ることはありません。
このため、山口玄蕃は渡海している夫役の者達の朝鮮からの召還を指示し、
豊臣政権は陰陽師を妻子とともに京都に集め、豊後に農民として移住させました。
http://kitaqare.d.dooo.jp/hist136.htm
>>967 そんなコピペで何が言いたいのかねw
勘違いしてるのかもしれんが、俺は朝鮮役で夫役(非戦闘員)として大勢の百姓が動員されたことは否定してないでしょ。
君が戦国期の半農半兵的編成と豊臣政権下の常備軍的編成を混同してたり、
武士と百姓の比率が1:9だとか言い出して無知を披露するからそれを指摘したまでなんだけどw
>>965 それは戦国前期の話
兼併が進んで大大名が衝突する時代になると
専業化在勤化が進んだ、在地の武士でも
大名の派遣する代官が管轄する様になっていったんだよ
太閤秀吉軍の頃には長期間動員しても
人手不足に悩まされる事になどならなくなっていた
970 :
世界@名無史さん:2013/08/07(水) 17:44:24.60 0
文禄二年(1593)、豊後では、朝鮮役への負担に耐えかね農民の逃散が続出し、田畠は荒廃した。
大陸への出兵基地である九州での混乱をほおって置くことは出来ない。これへの対処を迫られた秀吉は、こんな命令を出した
「全国の陰陽師を逮捕し、豊後につれてきて荒廃した農村に送り、定住させ農業をさせるのだ!」
非定住の遊民である民間の陰陽師は、支配者である秀吉にとって気に入る相手ではなかった。
自分自身が、敵を霍乱やスパイするために陰陽師たちを使った過去があるだけに、なおさらである。
遊民問題と農村の荒廃問題、これらを一度に解決する、一挙両得の政策であった。
もちろん失敗する。
秀吉の強大な権力により、豊後には全国から大量の陰陽師は集められた。が、いきなり見ず知らずの土地で農業をやれといわれても、出来るわけが無いのだ。技術も経験もないのである。
そうこうしているうちに農民の逃散は、九州全域、そして全国へと拡大した。
慌てた秀吉は今度は文禄六年(1597)、農民が逃散した田畠はすべて豊臣政権が没収する、荒田没収令と言う
強硬策を打ち出したが、これは、自領の統治に介入されると諸侯の猛反対に会い、結局撤回された。
秀吉の指導力の限界が、露呈した形となった。
豊後に集められた陰陽師達は結局、またどこかへと消えて行ったという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-294.html
>>970 日本の歴史を何も知らないんだな、まあ在チョンじゃ仕方ないが。
逃散したのは普請役や荷駄役や傳馬役を課せられた村、農民で
武士や足軽とは無関係、そもそも西国や九州の大名には
意図的に重い負担が割り当てられてる
中世と近世の区別も付けられない人にそんなこと言っても無駄でしょ
もうこいつは的外れなコピペ張りまくって逃げまわるだけだよw
秀吉が生きる限り農民を無限に締め上げることが可能なわけか
絶対に負けない
あの島津領さえ、細川や石田が検地の計測竿を持ち込んで直接調査したり、義弘・久保・伊集院に直接領地を指定して割り振るぐらいの超強力政権だからね。
江戸幕府なんておよびもつかない。
恐怖の独裁者が死んだらそりゃ全力撤退ってことか
976 :
世界@名無史さん:2013/08/08(木) 08:56:12.93 0
秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。この時、数万の朝鮮人を拉致した
■農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。
源氏平家の戦いが一段落したと思ったら、それは束の間のことで、鎌倉時代の半ばの「元寇」以後から日本国内は乱れた。
続く、南北朝時代、京都を灰にした「応仁の乱」を含む室町時代、その後に信長・秀吉による全国統一が成ったとはいえ、その間にも内戦は続いた。
極めつけは、1590年に秀吉の全国統一が成ったと思ったら、1592〜98年の7年間というもの、秀吉の朝鮮出兵であった。
さらに2年後の1600年には、関ヶ原の戦いがあった。
というわけで、朝鮮出兵のことについて、色々と調べてみた。
この時動員されたのは、なにも武士だけではない。
農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。
日本からの大軍団の半数は、彼ら庶民であった。
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1151988.html
なんでおっさんのブログを貼ったんだ?本人ってことはないよな
>>970 >>976 あれー?お前
>>965で
>武士ってのは普段は行政の仕事をしつつ合間に武芸を磨く役人兼業軍人なんだ。
>それがいざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓を武装させて動員する、それが武士の軍隊なんだ。
>比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
って言ってたよな(笑)
秀吉軍の戦闘員の8割〜9割、大部分が百姓だってのがお前の主張じゃなかったっけ(笑)
それが「水夫や人夫などの夫役として百姓が動員された」まで後退したのかよ、情けねえな(笑)
その夫役にしたって渡海したら渡海しっ放しというわけではなく、釜山・名護屋間の船舶輸送で帰国したり補充されたりしているから
「長期間動員すると現場の深刻な人手不足に悩まされる」なんて主張もそもそも成り立たないんだけどな(笑)
例えば秀吉は文禄元年11月10日付書状や文禄2年2月5日付書状で水夫を帰国させるよう指示している(笑)
ついでに言うと水夫の家族にも扶持が与えられているんだが、お前はどうせ知らないんだろ(笑)
朝鮮人自らが、耳そぎの起源を主張しているようですw
「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年 南山吟社
しかし、耳を取る事は朝鮮の方が元祖だ、宣祖王の九年(1576年)に、日本の海賊が、
慶尚の南岸に寇し、辺将(国境守備の将兵)がこれと戦い、勝って殺した時に、首の代りに
京城へ耳を送って居る。また文禄の役のときに黄海道辺で日本軍に勝った時に、矢張り耳を
切って送って居る。日本の諸将が耳を切って送ったのは、実は朝鮮に学んだのではある
まいか、もっとも昔し後三年の後に(後三年の役 1083〜87年)、源義家が耳を切って
送った事もある。
敵兵の耳を切り取る風習は、漢字の生み出された古代シナの時代にまでさかのぼるのだ。
「取」という漢字は、敵兵の耳を切り取る風習を文字にされ意味を持たされたものなのです。
・ 耳+又(手)の会意文字で、捕虜や敵の耳を戦功のしるしとして、しっかり手に持つことを
示す。 学習研究社「学研漢和大字典」
・ 昔は人の首をとる代わりに、耳を切り取ってそのしるしとした。
ゆえに耳と又(手)を合わせる。 講談社「新大字典」
・ 討ち取った敵の左耳を切り、その数によって戦功を数える。 平凡社「字統」
耳切りは東アジア地域に古代シナから現代まで続く伝統か、ベトナム戦争で韓国兵が
記念品としてベトコンの耳を切りとる。
Link 韓国・ハンギョレ新聞日本語
http://www.geocities.com/inunabe2003/jiji/rekisi1.htm ←リンク切れ。
980 :
世界@名無史さん:2013/08/08(木) 18:33:08.90 0
>>979 あくまで例示的にいった日本軍全体における百姓(平民)の割合を
ネチネチ言ってるんじゃねえ、みっともない。
俺の主張お主眼は
>どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
だが、ちなみにgoo辞典で大部分を引くと
★物事の半分以上で全部に近い量や程度。
【1】「大部分」は、全体の半分以上を占める多い数量、程度。
と書かれている。
俺が引っ張ってきたブログの
>秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。
とほぼ同じ意味なんだが(爆笑)
981 :
世界@名無史さん:2013/08/08(木) 18:36:50.98 0
>>978 あくまで例示的にいった日本軍全体における百姓(平民)の割合を
ネチネチ言ってるんじゃねえ、みっともない。
俺の主張お主眼は
>どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
だが、ちなみにgoo辞典で大部分を引くと
★物事の半分以上で全部に近い量や程度。
【1】「大部分」は、全体の半分以上を占める多い数量、程度。
と書かれている。
俺が引っ張ってきたブログの
>秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。
とほぼ同じ意味なんだが(爆笑)
>>981 見苦しい言い訳ばっかしてんじゃねえよ(笑)お前は
>いざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓を武装させて動員する
とした上で
>比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
と言っているんだから
「夫役」ではなく「戦闘員」の大部分(それも八割から九割)が百姓だというのがお前の恥ずかしい「主張お主眼」だろうが(爆笑)
苦し紛れに話を摩り替えてんじゃねえよ(笑)
わざわざ「百姓を武装させて」なんて書いてるんだから言い逃れできねえよなー(笑)
戦闘員である足軽には具足なり数槍なり数弓なり何らかの武具が支給されるが、
水夫や人夫を武装させるなんて聞いたことないからな(爆笑)