吉近 はるたさ(バルタサル)
豊後出身のキリスト教徒で、平戸の領主・松浦氏の家臣。松浦氏の使者として平戸とフィリピンの
マニラを往復した。
1587年六月二十六日付のメキシコ副王宛デ・ベラ書簡には、松浦氏とその友人・小西行長らの
意思として、兵士を主体とする軍事協力をデ・ベラ総督に提供する用意があると、吉近が総督に
伝えたことが記されている。しかし、吉近のこの提案の裏には、日本人のファン・ガヨも関与した
ルソン島原住民の武装蜂起計画が隠されていた可能性が高い。スペイン側の軍備不足を見て取った
吉近が、軍事協力を口実に兵士と武器をルソンに送り込もうとしていたとも考えられる。
吉近のマニラでの蠢動については、中国人アントニオ・ロペスが1593年の聴聞で証言している。
それはロペスが1592年の平戸滞在中に同地の中国人キリスト教徒から聞いた情報であり、
すなわちルソンのイスラム系原住民の首領ドン・アグスティンを首謀者とした武装一斉蜂起の計画に、
日本人ドン・バルタサル(吉近)が加担していたというものだった。
http://proto.harisen.jp/hito1/yosichika_barutasaru.html ファン・ガヨ
天正十五年(1587)、平戸からルソン島のマニラへ渡った渡航船の船長。日本人。同年、
ルソン島のイスラム系原住民の武装蜂起計画の謀議に関与したとされる。
スペイン人が調査した武装蜂起計画の経過と全容は、1589年五月二十日付で作成された
マニラ総督府の事件報告書、およびメキシコ副王宛マニラ総督書簡などに残されている。
これらによると、ガヨは1587年、ルソン島原住民の首領であったドン・アグスティン・デ・レガスピと
親交を深めて次のような計画を練り上げたという。
それは、まず日本からガヨがスペイン人との友好的交易という口実のもとに兵士や武器をルソンに
持ち込む。第二段階として、ボルネオ、モルーカ、マレーのイスラム系勢力にその武器を横流しし、
陸海からルソンのスペイン人を包囲して総攻撃をかける、というものだった。最終的にはスペイン人を
皆殺しにして原住民首領一族がルソン島を支配し、支配階級には日本人を入れる合意が交わされ
ていたという。
1587年のこの謀議の時点ですでにガヨは、日本から輸送していた武器をイスラム系原住民勢力に
供与し、協力の印とした。実際、別の史料には1587年に大勢の日本人と商品を乗せてマニラに
到着したガヨ船長の船が記録されている。またガヨと同時期にマニラを訪れていた吉近はるたさの船が
武器を搭載していたという記録もある。
計画は1588年十月に発覚し、スペイン側によって未然に防がれたが、発覚数日前には日本からの
武器や火縄銃を供与されたボルネオ勢力がマニラ湾に迫っていたという。
http://proto.harisen.jp/hito1/fan_gayo.html