1 :
孔明:
>>1 乙
自分ではずっと立てられないから気になってたんよね
ここでも関羽の逝け面切りの話をしろとw
5 :
世界@名無史さん:2011/06/22(水) 20:20:24.42 0
ひと昔前から考えると、ずいぶん過疎ったなァ
みんな、規制でも食らってるのか?
世界史板のスレなんてこんなもんだろ
むしろ三国志バブルが終わっただけと思えば非常に気楽
最近ついったーやブログに活動移した人が多いのもあるんじゃない?
鯖移転騒動や今回の忍法帳の件のせいもあるだろうけど。
8 :
世界@名無史さん:2011/06/25(土) 21:40:16.56 O
>>5-7 明らかに大規模規制のため。ちなみに、私は1週間投稿出来ない。
これは携帯からだが、所詮携帯から出来ることなんて多寡が知れている。
記念パピコ
10 :
世界@名無史さん:2011/06/27(月) 21:13:35.51 0
何で魏は寿春を大規模な中継拠点にしなかったの?
かつての大都市で、合肥や荊州にも近くて上庸にも睨み効かせそうなんだけど。
なんかただの通過点みたいな扱い。
11 :
世界@名無史さん:2011/06/28(火) 09:37:10.71 0
蜀も西陵に拠点を作ってなかったのは荊州失陥の
原因の一つでは。江陵では前すぎ、益州との連携がイマイチになる。
12 :
世界@名無史さん:2011/06/28(火) 11:51:02.19 0
蜀は三峡の出入り口にもう一人重要な軍事総督がいればよかった。
ちと関羽一人に広範囲の守備を任せすぎた。やっぱ人材不足だったんだろうね。
13 :
世界@名無史さん:2011/06/28(火) 17:20:33.21 0
三峡の出入口っつーか公安の士仁が降伏した時点で詰んでる
南郡、公安は本来なら呂蒙でも簡単には抜けないだけの防御力はある
関羽と糜芳、士仁の不仲と関羽が襄樊に戦力を投入しすぎた事で史実の結果になった
14 :
世界@名無史さん:2011/06/28(火) 19:01:36.72 0
あれって、守備兵力もほとんど無かったのかな?
まず、関羽が出撃した意味が分からない。
16 :
世界@名無史さん:2011/06/28(火) 20:19:26.26 0
話それるかもしれないけどさ、三国が同時に出現してたとき、
各地の統治はどうしてたの?王や牧はいないとおもうんだけど。
魏が皇族の権力阻害していたことからすると郡県制だと思うんだけど、
蜀と呉はどうだったのかな。
17 :
世界@名無史さん:2011/06/28(火) 20:52:01.13 0
>>15 魏軍が漢中・関中に兵力が集中してるから、その隙を狙おうという
のと、漢中の支配を確実にする為の魏軍への牽制という両方が目的だった
でしょう。しかし、最初に想定以上の戦果だったから、調子に乗って
大失敗だったのでは?
たぶん、劉備・諸葛亮・法正あたりも、関羽が守備兵力まで投入してやり出す
とは予想してなかったかもね。
>>16 基本は後漢の時と同じ。
王の統治領域(規模は小さいが)もあったし、州には刺史や牧が配置された、と。
呉も蜀も同じ。ただし、州の数は少ないが。
支配体制自体はさほど変わらないし、官名も共通なものが多い(三公九卿とか)。
丞相とか皇帝の側近になると、三国とも後漢と変わらないと思うわけよ。
でも地方の刺史や牧って、名前こそ同じだけど、権限は大分違うと思うんだ。
ただ税を集めるだけに過ぎないとか。
>>19 時期によって三国の刺史や牧の権限は変わるよ。
一番変遷著しいのが呉だな。
21 :
世界@名無史さん:2011/06/30(木) 20:46:27.00 0
蜀で、まるっきり離れて地区の刺史の肩書きがある人が
いるけど、あれって単なる名誉職?
蜀の涼州刺史は涼州方面への出兵権でもあるの?
姜維を涼州刺史を解任して、益州刺史にしようとする画策が
あったみたいだけど。
例えば荊州刺史なら三人いるわけだよね
蜀の立場からすると、涼州は「魏が不当に占拠してる」訳で、本来蜀の土地、となる
ので、涼州刺史を任命したりする、と。
ま、攻撃隊長にハッパをかけるようなもんでしょ。将来占領できれば、おまえにやるぞ、と。
>>21 呉懿の雍州刺史と、姜維の涼州刺史は、その方面の責任者にするってことだろうな。
出兵権は将軍号や督〇〇が帯びるんだろうけど、
刺史の称号を帯びてたら、刺史の職権でいろんな命令を出すことができる。
「〇〇将軍」よりは、「○州刺史」のほうが既存の命令系統を利用できて、地元民にも受け入れやすいだろうし。
ちょっと疑問なんだが立伝までされたのに字が不明ってどういうことなんだろ?
刺史や太守の遥任はよくある話だわな。領有権主張とかもあるし
魏も張魯を降した後、楊阜と趙昂を益州刺史に任命してる。後者は夏侯淵と一緒に戦死してるが
呉は遥任の牧を任命してるな。幽州牧まで任命してる。
27 :
世界@名無史さん:2011/07/02(土) 13:21:23.81 0
蜀は呉との同盟関係が復活した後、
李恢を交州刺史の役職を解任してるな。
同盟国の領土の刺史を名乗るのは不都合だった
ということか。ま、実務上不都合はないから、
どうでもよいのかもしれないけどね。
呉の益州刺史劉闡も解任されてるな
29 :
世界@名無史さん:2011/07/02(土) 19:04:02.65 0
姜維の涼州刺史の動きは、
出兵するじゃねえというサインな訳だ。
30 :
世界@名無史さん:2011/07/03(日) 20:41:37.80 0
糜芳って、考えて見れば、
関羽や張飛に次ぐくらいの最古参の人物なんだよな。
趙雲よりも、先に劉備に使えている。関羽とも付き合いは
長いだろうし、それが不仲というのは何があったのだろう?
妹を献上して兄者に取り入った成金の威光を笠に着る野郎だからな
>>30 士大夫嫌いの関羽と、劉備陣営の菜子さんの士大夫である麋芳じゃ、
どっちかが譲らないと、激しく憎みあうことになるんじゃない?
本来、江陵は南郡太守糜芳の居城であるのに、襄陽太守の関羽がまだ襄陽攻略してないからって
江陵に居座り続けていた。10年間も関羽に居城を占有されて、しかも同格の二千石なのに、
なんか上から目線で指図されて糜芳の神経はすり減りまくってたのかも。
関羽は前将軍・董督荊州事だから、ただの太守である麋芳より格上だけどね。
麋芳のキャリアなら他に将軍号を持っていてもおかしくないけど、それでも前将軍よりは下だろう。
>>30 曹操軍でも古参の楽進や于禁は互いに不仲だったのを趙儼が仲裁している
付き合いが長いから仲がいいということにはならない
よく言われるのが、
関羽は兵士の面倒見は良かったが、将軍クラスに対しては過酷な扱いをした、と。
ま、関羽も張飛も劉備ほどの「徳」がなかったてことかな
37 :
世界@名無史さん:2011/07/04(月) 18:13:20.49 0
>>5 間違いなく狭量なここの支配者が原因だろ。
自らは妄想にちかい議論を延々と繰り広げるのに、他者の書き込みで自分の知らない知識があると否定しまくる。
そりゃ、苛政は虎より猛し。 ですよ。
つまりここにいるってことは支配されたいってこと?
39 :
世界@名無史さん:2011/07/05(火) 19:33:03.51 0
糜芳って劉備義兄弟のスポンサーだろ。もっと大事にしろよ。。
40 :
世界@名無史さん:2011/07/05(火) 19:54:53.93 0
糜芳って血だるまになって張飛に「おい!しっかりしろ!」って助けられた人でしょ?
で。「ちょ、趙雲が裏切りました(涙)」って言ったという
で、関羽はかわいい弟分の趙雲を讒言した糜芳を許せなかったんだよ。
41 :
世界@名無史さん:2011/07/05(火) 20:56:06.34 0
関羽も諸葛亮のことは一目置いてたみたいだけどな。
馬超より上との手紙貰って大喜びだったとこ見ると、
諸葛亮の評価は凄く嬉しかったようだ。
>>41 おだてに乗りやすいだけじゃね?
諸葛亮はよく分かってたから、ああいう手紙を書いたと。
関羽から見たら「俺様の偉さをよく分かってる感心な若造だ」ってとこだろう。
それにしたって、わざわざ馬超の評価を諸葛亮に聞く辺り、
他の名士層に比べてもかなり親しい部類に入るだろうな
関羽の性格はあれだから、尚更だ
>>43 劉備でも張飛でもなく諸葛亮に聞くところが変といえば変なのだが。
プライド高いから身内に聞けないんじゃね?
ママに「僕カッコいいよね?」って聞くようなもんだし。
要するに、蜀の首脳部(劉備〜諸葛亮)の判断を聞きたいから、孔明に聞いたんだろ。
それ以外の人間の評価なんか気にしないだろ、関羽ほどの位置なら。
47 :
世界@名無史さん:2011/07/06(水) 22:09:21.31 0
つうか。
おまえらばかじゃないか?
関羽と諸葛亮のこの手紙のやりとりって ふつうにラブレターじゃないか。
関羽「なんか最近、馬超とかいうムキムキ野郎がいるんだとか?浮気してんじゃないだろうな?」
諸葛亮「なにをおっしゃいます。髭さまが一番!髭さまの絶倫っぷりには到底、馬超なぞ。」
みたいな あっ〜〜〜〜〜 な二人のじゃれ合いだろ。。
48 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 13:11:04.81 0
関羽が諸葛亮に対して一目置いてたのは確かでしょう。
劉備が尊重してたし、諸葛亮がきてから自分たちの領土が持てた
からな。以前は根拠地を得ても、短期間に失ってた。手紙を大喜び
で客に見せびらかすとこは、諸葛亮の評価はポイント高いのでしょう。
諸葛亮は名士としてではなく劉備ファンクラブの一員として迎えられたから、関羽も嫌いな士大夫ではなく身内として扱ったとか
そんな説を見た気がする
50 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 19:13:19.05 0
確かに身内扱いではあったかもしれない。
ただ、相手の実力を認めていないと、手紙の内容で大喜びなんて
ことはない。糜芳なんて、諸葛亮よりずっと古参で、劉備が苦しい
ときに援助してくれた一族なんだし。しかし、関羽は軽くみていた。
短期間に国家としての体裁や制度を整えていく諸葛亮の実力は、関羽
も認めてはいたのだろう。
51 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 19:35:30.79 0
その話だって三顧の礼よろしく諸葛亮が宰相になってからおもねってつくられた逸話でしかない
52 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 19:49:45.48 0
ともかくここのやつらは諸葛亮びいきなのでこまる
俺は袁紹びいきだが
官渡の戦い以降は興味ないから諸葛量の話題とか不快だわ
贔屓云々で言うなら個人的には、劉虞はもっと評価されてもいいと思うんだけど。
徳に優れていても力が足りないという典型でもあるんだけどさ。
劉虞を主人公にした読み物とか、ある?
俺が今から書くよ
汚いことは全部公孫賛に押し付け聖人君子を気取っていたら憎まれ
「やらなきゃやられる」と何故か思い詰めて自滅する話ね
完成が楽しみだ
>>54 平時ならいい宰相になれたのにね。
異民族を手懐け、幽州の産業や交易を振興した手腕は本物。
人気取りもうまいし。
>>51 鬚が諸葛亮に手紙出したのって注釈じゃなく正史なんだが
劉虞の破滅は明らかに判断ミスだし、元々平時の人だったんだろうね
特筆すべきは劉虞の勢力を取り込んだ袁紹の巧みさだと思う
60 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 19:14:26.76 0
気に入らないことがあると、
正史も否定する、困ったちゃんがいるみたいです。
正史まで否定すると、歴史は全て嘘という話しになってくる。
61 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 20:50:35.02 0
正史はあくまで政府見解みたいなもんであって 真実であるわけでもなんでもないのにさ。
62 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 21:00:55.80 0
考えてみてほしい。
文書として保管されていたわけでもない思い出話。それも正史が編まれる百年くらい前のねた話を真実性が高いだとかやめてくれよ。
現代の我が国で考えてみろ。今から百年前って明治時代、日清ぐらいのころの話だぞ。
そのころの生きていたじっちゃんの昔話をさらにまごが陳さんにねた話しました。みたいなことをなにをいってんだか。
63 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 21:12:48.74 0
太平洋戦争のころの話さえわからないことだらけ。
南京での出来事とかね。
64 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 21:21:26.67 0
南京での百人斬りはあったんだ、とかいや新聞のネタだったとかね。
それぐらいはっきりしない話が多い。
正史が真実?
正史は陳寿の書いたドラマの脚本なの。
65 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 21:50:45.03 0
じゃあ、自分の説を正しいとする根拠は何?
それくらい示してから言おうね。
66 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 21:55:43.36 0
67 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 22:04:33.83 0
>>65 あんた、筋の通らん文句ばかり言うとるやないか。
68 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 22:18:20.60 0
正史は間違いだらけ、自分の書き込みは正しいとする根拠は何?
なんか新しい発見でもあったの?
69 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 22:19:15.35 0
>>68 さっきからいちゃもんばっかりやないか。あんた。
70 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 22:21:36.64 0
>>68 自分の意見も無く他人を攻撃して楽しいか?
71 :
世界@名無史さん:2011/07/08(金) 22:24:05.57 0
劉虞は袁紹・蓋勲と宦官誅殺を計画しちゃうオテンバ皇族。
蓋勳が長生きしてたら面白いことになってただろうな。
硬骨漢で歴戦の勇者というおいしいキャラだし。
霊帝に謁見できて興奮気味にその聡明さを語るとこなんか可愛い。
75 :
世界@名無史さん:2011/07/10(日) 17:32:50.79 O
三国志の登場人物はやたら背が高いんだよな
陳寿が誇張して記録したんだろうけど
76 :
世界@名無史さん:2011/07/10(日) 17:38:35.89 0
名スレあげ
お前ら蓋勳とかマイナーな人間の名前がよく出てくるな
この時代の一尺は23cmくらいだよな、確か。
中国人は今でも結構背が高いよ。
三国志は英雄豪傑の話なんで平均よりは背が高い人が多いんでは。
曹操は小さいよな。
>>78 陳寿の三国志には曹操の身長載ってなかったような気がするけど、世説新語の時点ではチビ扱いはされてるんだったかな
それともどっかにチビって書いてあるんだっけ?
武帝紀には身長のことは、一切触れず(事実状況)
↓
都合の悪いこと(曹操にとって名誉とならないこと)は、書かないのがデフォ
他の列伝では、大丈夫なら必ず身長・体格を記述している
↓
結局、曹操はチビだった(結論)。
81 :
世界@名無史さん:2011/07/11(月) 10:32:05.26 0
諸葛亮は身の丈8尺、容貌も優れていたという記述。
趙雲も、『趙雲別伝』では身の丈8尺、容貌が優れていたとの記述があるな。
>>81 趙雲別伝がありなら、曹操だって魏氏春秋に「姿貌短小」と書かれてるぞ
程c「高身長と聞いて」
曹操の身長は武帝紀じゃなく文帝紀(曹丕の伝)に載ってるんじゃなかったかな?
7尺って
>>85 あるサイトで見たよ
『生まれて七尺の形あるも…』って
違うの?
やっぱ微妙な事だから陳寿は全く載せなかったのか
>>86 それは文帝紀に引かれている魏書の一文だけど、「人間は生きてる間は七尺の肉体を持つが、
死ねばただの土くれです。」という意味の事を言ってるだけで、誰かの身長の事を言ってるわけじゃない。
丼勘定の背丈なんて信用ならん
最近、発見されたという曹操の墓とやらに曹操の遺骨とかないのか?
あの墓って本物と認定されたの?
されたよ
>>92 おお、本物だったのか
ちと調べてみる。どんな副葬品が出たんだろう。
なんか冷やっこい石でできて「魏武様の愛用品」とか掘られた枕が出土してて、
これは頭痛持ちだった曹操の為の特注品だったんだろうとか何とか。
あと、曹操の遺体の口に含ませたものと思われるヒスイの玉とか。
骨は溶けてるんじゃまいか
96 :
世界@名無史さん:2011/07/19(火) 07:45:41.39 0
ふと思ったんだが、付伝扱いにしたか否かの差って何だろう?
夏侯玄は夏侯尚の付伝扱いなのに、張緝は張既の付伝扱いじゃないとか。
この2人で比べれば内容量が全然違うけど、張緝と同じように少なくても付伝扱いの人はいるし。
張緝は事跡が乏しいからじゃないか?
臧洪伝の陳容とか、臧覇伝の孫観とかも乏しいと思ったけど…
張緝よりはまだある、か…?
99 :
世界@名無史さん:2011/07/19(火) 17:24:24.18 0
董允は父親よりも格上扱いな感じだね。
陳寿的には、「この人が長命だったら・・・・・・」みたいな
感じなのかもしれない。
巴の豪族出身であった陳寿にとっては、益州豪族と融和的だった董和・董允親子は
好印象だったのだろうね。逆に専売府出身でバリバリの法家だった呂乂は低評価。
101 :
世界@名無史さん:2011/07/19(火) 20:50:02.02 0
張翼なんかも、厳格な統治が南方の反乱を招いた一因となり、
南方方面の長官から解任されたのに、益州出身であり、後漢の名臣の
末裔である張翼は高評価。姜維の北伐に反対してたのもポイント高かった
というとこかな。
>>100 呂乂は尚書令になってから評判を落としたそうだから、経済畑にいた時は評判が良かったんじゃないかな?
諸葛亮ですら一目置いてた王連みたいに。
呂乂が疎まれたのは法への厳格さじゃなくて、
「俗吏」と称されるような、法律の条文には詳しいだけで、
法を運用する器量を持ち合わせていない役人を起用したからじゃないかと思う。
>>101 張翼が高評価なのは、反乱を招いた責任を問われて解任された後の始末をきっちりつけたからでしょ?
王連も廖立に「民衆を苦しめる俗吏」と批判されてる辺り、彼が主導した
塩鉄専売制は益州の豪族から非難囂々だったやもしれない。
何せ和帝以来百年以上も甘い汁を吸ってきた利権を国有化されたんだから。
104 :
世界@名無史さん:2011/07/19(火) 23:17:27.79 0
>>103 廖立の批判の原動力は「こんなつまらない連中が重んじられてて、オレが干される世の中は間違ってる」って怨念だからな…
取るに足らない因縁じゃないかと思う
105 :
世界@名無史さん:2011/07/20(水) 00:05:43.82 0
>>100-101の見方も分からなくはないけど、ちょっと穿った見方じゃないかなぁ。
キャリアの初期がイマイチでもそっから名を挙げていった張翼と
最後がイマイチだった呂乂じゃ、同じ失敗ったって評価が異なるのは当然でしょう。
(裴松之も言ってるけど)まだ蒋エンにイチャモンつけてる方が謎。
>>90-95 「本物と認定された」と「本物である」の間には大きな隔たりがあるぞ
>>104 関羽の子の関統(若造)に侍中の職をとられたのが
不満轟々だったという説をブログで読んだことがある
108 :
世界@名無史さん:2011/07/21(木) 04:53:28.64 0
>>107 ×関統 ○関興
でも廖立がそれで恨んだのは、関興じゃなくて郭攸之じゃないの。
ほぼ同時期に、馬良(戦死)・廖立→郭攸之・関興、になったかと。
110 :
世界@名無史さん:2011/07/21(木) 16:37:16.96 0
>>100 陳寿が豪族かどうかは微妙なところじゃないの?
あと、董和は豪族からは嫌われて民衆からは好かれたみたいだし。
じゃあ官に仕える名士さまはどちらに入るのと言われたら微妙だよね。
>>108 ブス専やババア専の存在を考慮しないのはいかがなものか。
世の中には谷亮子でオナれる人間や、70代をレイプする50代も居るんだぞ。
ブスやババアを議論の対象にするのは論点ずらしだよなあ。
専用車両設置の一番の理由は、
痴漢に遭って恐怖で電車に乗るのが辛いという被害者が
翌日からも通勤通学できるようにするためであって。
その数人を守るために1両を専用にすべきかどうかという問題。
ブスやババアが乗ったからといって問題とはならない。
それと、ブスでも痴漢被害には遭うだろ。
有名な話があって、ブスが痴漢に遭って声をあげたら
痴漢が「誰がてめえみてーなブスのケツ触るかよ!」と公然と罵倒したという。
その罵倒までが痴漢側の歪んだ欲望のあらわれなんだろう。
だいたい、痴漢する奴なんて大半は異常者だからな。
113 :
世界@名無史さん:2011/07/21(木) 20:02:38.81 0
郭攸之はそれほどの人物ではなかったのは事実では?
北伐の頃には、年下と思われる費イ・董允の方がバリバリ仕事してたし、
廖立失脚の頃には、郭攸之より官位が下だったと思われる蒋エンが
その後は諸葛亮の後継者になった。
侍中というのは皇帝と接する機会が多いだろうから
実務能力よりは、幼帝を善導するような人格性が買われたのかも知れん
115 :
世界@名無史さん:2011/07/21(木) 20:31:58.67 0
廖立は素行が悪かったのは確かだからなあ。
劉備の棺の横で、人の首を切り落としたんだっけ?
>>113>>114 むしろ、実務能力はあったけど劉禅を善導するようなことがなかったんでないの?
董允伝「郭攸之は大人しい人だったからただ官位にあるだけで、忠言を奉るのは全て董允の役目だった」
廖立「人の後について行くだけで、共に大きなことを成すには不足」
侍中に出世した順は、廖立→馬良→郭攸之・関興→費イ→董允、なんだよね。
関興って費イと董允より先に侍中になってたのか。長生きしてれば演義よろしく
諸葛亮の右腕にまでなってたのかな。
>>110 華陽国志に巴西郡安漢県の陳氏は大姓であるって書いてある。
中監軍も兼ねてたから、既に諸葛亮の主要な腹心の一人だったんじゃね?
関羽の子という事を差し引いても異常な出世スピードだよな
>>118 大姓=豪族なのかということと、陳氏=大姓なら陳寿は豪族なのかという疑問がある。
南充國の大姓は張氏だが、張嶷は身寄りがなく貧しかった。
(とは言え20歳で県功曹になってるが)
あの時代の史書に出てくるような人間の「貧しい」については渡邉義浩が現代的な意味でとらえるのは間違ってると言ってたような。
123 :
世界@名無史さん:2011/07/22(金) 01:46:32.01 0
大姓=頭数が多い一族
>>121 豪族や大姓でも、本家とは限らないだろ?
勢力があって血族がたくさんいる一族なら、貧しい分家がいてもおかしくない。
陳寿は出仕時期や昇進速度を考えると、名門の嫡流っぽいけど。
125 :
世界@名無史さん:2011/07/22(金) 06:11:23.02 0
陳式の子供という説もあるけど・・・・・・・
>>124 であるならますます益州豪族の利益を保証してくれるからという理由で
董和を支持するという結論にはならないような。
>>125 姓以外に具体的なつながりを見いだせないのは単なる妄想でしかない
そういうのは説とは言わないよ
>>126 董和が一部の豪族に疎まれたのは乱れた風俗を取り締まったせいだから、
郷論に影響力がある学識層は拍手喝采したんじゃないか?
初めて「蜀書」を読んだ時に最初に好きになったのが董和だったな
あと楊洪
130 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 08:47:45.25 0
>>劉備の棺の横で、人の首を切り落としたんだっけ?
くわしく。
131 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 10:10:09.73 0
>>130 『諸葛亮集』に載ってたらしい。
廖立伝の注に書いてあるらしい。
132 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 11:22:57.31 0
>>131 ソースを求めているんではなくてどういう状況だったのかを知りたいんだ。
133 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 11:32:22.24 0
なんで求めている答えが出てこないんだろうね
134 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 12:31:48.79 0
それ以上の資料がないからだろ?
135 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 17:58:48.02 0
うそ?
まじで?
そんな理由?
いや、本当に諸葛亮の弾劾文の中で、チロっと触れてるだけで詳細は全く不明。
137 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 19:44:09.56 0
かなり身分の低いの者を殺したのだろう。
庶民より低い身分の者じゃないだろうか?
138 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 19:44:57.18 0
139 :
世界@名無史さん:2011/07/23(土) 23:27:20.95 0
>>138 いや。
例1
下人が失礼をしたのを廖立が咎めた。
廖立を恐れた下人はそのまま逃げて先帝の棺にとりすがって処刑を逃れようとした。
例2
廖立が先帝の後宮の一人を手篭めにしようとした。
それを宦官の一人が咎めた
「昭烈皇帝陛下が卿のその行動を御知りになられたらどのおもわれますでしょうか?
おやめくだされ!!」
廖立「なに?邪魔をするか?? ならば先帝に御注進にゆけぃ!」
ザシュ!!!
宦官「ぎゃあ〜!!!!」
とか。
いくらでもドラマが思いつくじゃん。
廖立は先帝の喪をけがすこともかまわず下人を斬り捨てた。
こいつなんでこのスレにいるんだろう
141 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 00:15:54.57 0
>>140 おれはおまえが呼ぶからここにいるのだ。
ドラマを作りたいなら適切な板があるからそちらでやってくれ。
語り得ないことについては語らないというのは、洋の東西を問わない学問についての大原則だ。
学問板でそれをするのは適切じゃない。
wikipediaの郭攸之のページ編集するために調べてたら訳分かんなくなってきた。
短期間に、黄門侍郎→中郎→侍中と移ったってことでいいのか…?
144 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 07:04:45.57 0
費禕と馬謖とでは、
北伐時はどちらが官職上だったの?
>>144 馬謖が死亡した時点では、二人とも丞相参軍
146 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 10:37:07.25 0
費禕は侍中か中護軍兼務じゃかったけ?
147 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 11:24:45.32 0
費イは、侍中→丞相参軍→(230年)行中護軍→丞相司馬
馬謖死亡は228年なので
>>145の言うとおり。
李厳罷免の上奏では「行中護軍・偏将軍」とあるけど、いつから偏将軍だったのか分からん。
それからすると参軍&偏将軍はあっても、参軍&侍中はないと思うけど。
漢中に居て侍中を兼任するとしたら格を保障するためだろうが、
行中護軍の時点で別にそんなこと気にされてないようなので。
148 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 11:53:10.91 0
袁に図有り、曹には嘉有り、劉にはまた攸之有り。
とまで言われてるんだから有能だったとは思うけど
149 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 12:21:05.24 0
郭攸之といえばむしろ怪異譚
150 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 12:40:11.17 0
出典書いてないことは全て間違いか捏造だと思っておけばいいよ
そうじゃないというなら出典をちゃんと引用すればいいこと
後継争いで袁譚を支持したのは潁川名士が主なんだよな
袁譚が曹操に一時的に降伏したのは曹操軍の中核に潁川名士が多かったことも関係してるんだろうか?
154 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 19:37:51.04 0
郭攸之は温厚で学識はあったけど、政治・軍事についての
助言はイマイチだったのかもね。その点、董允は道義を重んじる
だけでなく、政務にも通じていた。魏延と楊義がお互いに反乱したと
上奏した時、楊義が正しいと助言している。
郭攸之は乱世の侍中としては力不足だったのかもしれない。その点では、
董允はまさに適役だったのだろう。
劉禅の教育係として期待されていたのかも。
156 :
世界@名無史さん:2011/07/24(日) 20:21:58.12 0
色んな書物の講義をしてた可能性があるな。
劉備も本読めと遺言してたし。
>>153 それは関係ないんじゃないか?
袁譚派の名士が穎川人脈を頼れたなら、辛毘以外の穎川名士もツテを使って、
袁氏滅亡後に曹操に仕官できたんじゃないかと
>>153 もろにそうだろうね。更に、曹操が袁紹配下だった頃袁譚派だった
可能性も高いと思う。でなければ、あんなに簡単に曹操に一時的
とは言え降伏できるはずがない。
郭図と郭嘉は縁戚なのかな
郭嘉が袁紹のもとを辞去するときに、郭図に袁紹の悪口を言ってるから、
一族でなかったとしても、かなり親密な関係ではあると思う
郭嘉と郭図、辛評は同郷(潁川郡)だからってのが大きかったかもしれない。
むしろ、郭嘉はその当時あんまり名声が無かったので、
同郷人くらいしか頼れる人がいなかったのかも。
162 :
世界@名無史さん:2011/07/25(月) 16:35:38.75 0
>>149 あぁ あの話だね。
でも郭攸之の後年がよくわかっていないことからつくられた民間伝承だろうけどね。
163 :
世界@名無史さん:2011/07/25(月) 17:40:35.17 0
郭嘉はむしろ醜聞が有った人だったらしいね。
そういうことだろうか。
儒教的な倫理に反する様なことをしたのだろうか。
品行がよくないことを陳羣に弾劾されてもスルーしたことで不良軍師のイメージを持たれがちだけど
それ以外に素行に関することは特にかかれてない
品行が良くないって書かれるだけでも珍しいというか、相当な部類だと思うが。
曹仁や甘寧の例もあるし曹操や袁紹だって若い頃相当やらかしてたと書かれてる
167 :
世界@名無史さん:2011/07/25(月) 21:14:25.48 0
法正なんかも、高い策術の持ち主ではあったが、
品行は良くない。程c・郭嘉の輩と評されてたな。
>>164 同陣営の人物に何度も弾劾されるんだから、よほどひどかったんじゃないか?
曹操は陳羣を咎めなかったんだから、曹操の寵臣じゃなかったら許されなかったぐらいやばかったんだろう。
>>166 曹操と袁紹は主に官に就く前の若い頃だし、武官と文官はまた違うだろ?
文官の方が儒教的価値観に基づく評判第一。
曹操配下はまだマシな方だろうが、それでもそれを無視しては成り立たない。
まぁ、武官でも書かれてるだけで相当な部類だと思うけど。
孫権配下の面々とか。
>>167 法正の方は不良の度を越えて人間的に陰険だと思うが…
書いてないだけで、郭嘉も同じようなことやってた可能性も否定できないけども。
いつも思ってたんだが、品行を元に登用を進めたから不品行の人間が増えたって滅茶苦茶な言い草だよね。
取り締まるようになってから犯罪が増えたみたいな。
>>170 そういうもんでしょ
品行を元に登用するってことは逆の言い方すれば
品行が元で失脚するってことでもある
政争の場で相手の品行を貶めることが重大な意味を持つということなんだから
当然ながら品行を元に登用にしたら、「不品行な人」が増えるのは当然
毛カイは東曹として品行を重んじた登用を行ったが最重要は曹操、魏王家にどれだけ忠義を尽くせるかだろ
来るべき簒奪に向けた人材登用をしていたとしたら相対的に郭嘉の様に素行のよくない者も増えたんじゃないか?
まぁ毛カイの列伝からはそんな雰囲気はないんだがw
>>171 でもそれは政争の結果であって、本来の目的はおおよそ達成されてるやん。
豪族が自分達の不品行を正当化したいだけにしか思えん。
174 :
世界@名無史さん:2011/07/26(火) 19:53:26.14 0
あの時代の 不品行 って今の不品行とは違うよな
175 :
世界@名無史さん:2011/07/26(火) 19:59:41.10 0
似非君子がばっかになったんだよな。
>>174 葬礼、礼儀無視、贈収賄(+霊帝期のみ売買官)、奴隷の扱い、男女関係、高利貸しなどだな。
今でもマナーの範囲のものから、今なら明白に犯罪になるようなものも含んでる。
曹操の求賢令を見る限り、後漢だと賄賂は咎められて官僚に登れなかったようだな。
魏だと蒋済みたいに具体的な賄賂の相場を公言する奴まで現れるわけだが。
>>176 何でそんな解釈になるのか分からん。
後漢の方がむしろ賄賂は酷かった思うし、魏だって別に賄賂が公認されてたわけじゃないでしょ?
孟達の親父は中常侍の奴隷に賄賂贈って出世してるし、皇甫嵩や盧植は賄賂拒否して罷免されてる。
皇甫嵩は賄賂もらってた部下にさらに金をやって恥じ入らせたという話もある。
今、朱儁伝読んでるけど、朱儁は上司が処刑されそうになった時、賄賂使ってそれを助けてるな。
自分の利益のためにやったわけじゃないから、これはいい話ってことでいいのか。
その朱儁が賄賂使って助けた会稽太守の尹端って、
董卓と共に張奐の副官を務めていた司馬の尹端と同一人物なのかな。
朱儁のいい話だけど賄賂で法を曲げることができた証拠でもあるな
司法官が賄賂で判決変えちゃうって相当マズいよな。
当時は目的が正しければ手段も正当化されるという価値観があったのだろうか。
正当化とかではなく、単に美談なんじゃないか?
まぁ、美談と納得するかは人それぞれだろうけど、
敢えて罪を犯して人を助けるなんてのは古今を問わずある話だし。
朱儁のその話を以って「目的は手段を正当化する価値観があった」とするのは早計じゃね。
まあ金の多寡で弁護士の腕前や人数が変わり裁判有利になる現代も
「金で判決が変わる」という意味では一緒だけど現代人はそれ程気にしてないし
この当時の人々の認識としても金でなんとかなる、くらいの話だったんだろうな
>>177 そうか?
流石に後漢の時は魏の蒋済みたいに、賄賂の相場を公言する人間までは居なかったと記憶してるが。
同じように私欲のためでなく法を曲げた話として太史慈のことを思い出したが、
あれはさすがに酷い話だと思うんだが、実際当時もそう思われたんだろうな。
でも孔融みたいに一部では評価する奴も居たと。
>>184 何でその一点を持って「後漢より魏の方が賄賂が横行していた」と思うのか分からん。
賄賂というか蒋済のやってたことは売官なわけだが、霊帝の代には帝自らそれをやっているわけだが。
私的な賄賂と法的な売官を一緒にしては駄目だぞ。
>何でその一点を持って「後漢より魏の方が賄賂が横行していた」と思うのか分からん。
には全面的に同意するが。
後漢後期の賄賂や腐敗は官僚制度を傾け高官の人材層ごと塗り替えるほど酷いものだった。
まあ、しかしながら、曹魏三代が特に清廉に拘った制度を作らなかったせいもあって、
魏代で高官の請託や豪族名族との癒着に特別歯止めが掛かったわけではないのだろう。
乱世を経て人材が一新された効果は何十年か続いただろうけど。
後漢では幾つかの理由で権勢が長続きしない外戚や宦官が賄賂の元締めをしていたために、
短期の利益を貪る金権政治で中央朝廷も地方も壊乱した。
魏から南朝に掛けては、高級官僚の固定化が同時進行したため
清廉潔白とはいえないがそれなりに統治能力のある官僚世襲=貴族化が進む。
>>186 護軍の売官が大っぴらになっていたからと言って、
それだけで帝自ら売官していたほどの倫理観の後漢より酷いということはないのではと。
それで下が清廉ということはないだろうし、実際賄賂の話は無数に出てくるわけで。
つまりはイメージの話に過ぎないし、分かりにくかったのも認める。
護軍(だけでなくほかの官僚も)の収賄は、公に還元されない純然たる汚職。
霊帝の売官は、収入が帝室財政に入る。
朝廷と劉氏帝室の二重財政が取られていた漢では、こちらも立派な国庫。
霊帝の売官においては、無論個人的な遊興にも使われただろうが、
西園八校尉の設立資金にも使われた。
別に霊帝が志し高い清廉な人物だったなんては言わないが、
少なくとも官僚の収賄とは同列ではない。
ただ、皇帝を頂点とする官僚機構と同時に、贈与慣行が根強く残る時代では、
収賄も即ち「純然たる汚職」と言い切れないところがあるけど。
だから当時の情勢、倫理観の話なんだが…もう帝の売官の話はいいよ。
郭嘉な関しては荀ケ伝でもアウトローな人だったって書かれてたから、ある程度逸脱しているところはあったんだろう
それが何なのかは推測だが
20歳の頃から名前と経歴を隠して潜伏生活してたらしいから、まっとうな人間ではなかったんだろうな
隠遁するなら名前や経歴を隠す必要ないわけだし
潁川の郭氏ってかなりのイイとこ出のはずなのに、何やらかしたんだろ
一世代前なら党錮に引っかかったってのがありそうだけど、郭嘉20歳の時は董卓が政権を握ってからなんだよな
仇を避けてたとか、罪を犯して亡命とかだろうね
若くしてそれじゃロクなもんじゃない
最初は司徒趙温の辟召を受けてるのも謎だ。当初は曹操に仕える気は無かったけど、
荀ケが司徒府から引っ張ってきたという事か。
郭嘉は司徒の辟召を受けたけど、応じたとは書かれてないよ
皇帝の売官が公的なものとして正当なら
買官して三公になった連中も叩かれなかったと思うけどね。
蒋済の話だって、中下級官吏を対象としたもので、こんなものどの時代にもある。
後漢にだって皇帝の売官だけではないし、宦官への賄賂の逸話は多い。
司馬炎が「朕は漢の皇帝の誰と匹敵しよう」と言ったら
散騎常侍か侍中の誰か(列伝されてるクラスの人物)が
「霊帝ですね。あの頃は公的な売官があり、今は私的な売官(賄賂)があります」と答えた話があるが
これは霊帝の売官が賄賂と同一視され蔑まされていたことを表している。
後漢では賄賂を渡さなかったって官職を罷免されることも多かったけど、魏ではそういうことは皆無だったよね
秦朗のように収賄で財産築いた人間はいるけど、贈賄で官職を得た高官の記録もないし
>>196 そこ違うよ。
桓霊当時の売官は官庫に納入されていました。
陛下の行う売官は私門に入っております。
(統一の功業があろうとも)これでは桓霊とほとんど変わるところが無いでしょう。
ってはなし。皇帝の所業同士を比較している。
臣下が賄賂を取って官位を斡旋するのを当時売官と言ったのなら別だけど。
>>198 蒋済のは賄賂の相場であって、後漢のように賄賂をもらって官職を斡旋するのには変わりないだろ
それとも、相場の記録が残ってるから、魏のほうが甚だしいと言いたいの?
後漢のほうが賄賂で官職を斡旋してもらったってエピソードが圧倒的に多いわけだが
201 :
世界@名無史さん:2011/07/29(金) 18:56:37.26 0
漢っていうのはすごい法治国家でね。
とくに刑罰ね。
それで国をまとめた。
だけどそれが緩む、刑罰の方法が忘られてゆく。そして国が乱れる。
それを立て直して刑罰を厳しくしたのが劉秀であり曹操である。
202 :
世界@名無史さん:2011/07/29(金) 20:51:53.09 0
>>201 まじで前漢末期には杖刑の執行方法がわからなくなっていたらしい。
それを決め直したんだとか
>>201 劉璋→劉備(というか諸葛亮)でも立て直したって言うね。
204 :
世界@名無史さん:2011/07/29(金) 22:42:29.04 0
>>202 そう。杖や笞の使い方、つまりぶち方が忘れられていた。
折角、漢の武帝が 「ぶてい!」って決めたのにね。
そこで光武帝がまた「こう、ぶてい!」と決め直した。
魏の武帝がまた「ぶてい!ぶてい!」と厳しくしたわけだぁね。
それで、各王朝に武帝がいるわけか
>>199 それを俺(198)に言われても困る。198は臣下の贈収賄や漢晋の世相の話はしてないからね。
>>200 「じゃないの?」とか言われても困る。
司馬皇室も「私門」と言ったのか、法的な売官制度の金が臣下に流れる風潮だったのか。
どちらにしても、臣下の私的な汚職をも「賣官」と呼んだのだと解説してくれない限りは、
>>196の見解は成立しないってだけだ。
で、俺はそんな説は寡聞にして知らない。
>>206の意図するところがいまいちよくわからない。
司馬炎自身が売官を行っていた、という認識なの?
>桓霊当時の売官は官庫に納入されていました。
>陛下の行う売官は私門に入っております。
「当時」と「行う」と分けてるが、比喩として「行う」と訳したのか、どうでないのか、趣旨が読めない。
>で、俺はそんな説は寡聞にして知らない。
司馬炎が売官を行い、その対価が皇室の収入になっていたという説はあるの?
私門を皇室と見なすのが専門家の間での主流なの?
司馬炎が売官を行っていたのなら、霊帝と同じ。
銭が官庫に入ろうが、皇室の私的な財産(?)になろうが大差ない。
陛下も霊帝と同じく売官してます、と言って済む話。
わざわざ言い方を分けたのには意味があると思う。
「桓靈は官を売り,錢は官庫に入りました」
「陛下は官を売り,錢は私門(臣下、権勢家)に入りました」
これは、賄賂が横行し、桓靈時代の売官と変わりませんよ、ということを
機知に富んだ言い方で表現したものでしょ。
209 :
世界@名無史さん:2011/07/31(日) 21:44:58.31 0
諸葛亮と張裔は、劉備入蜀前から面識があったの?
楊洪伝に、張飛に敗北して陣営が壊滅した時は、諸葛亮は
心配でものの味がわからない程心配したとかいう件があるが、
内容からすると、劉備入蜀前、あるいは諸葛亮の入蜀前から
二人は面識があったことになる。
知識人どうしの交友が以前からあったの?
210 :
世界@名無史さん:2011/07/31(日) 22:04:43.26 0
張裔って高い実務能力は有るんだろうけど
人としての器はかいのかちっさいのかわからんなぁ
211 :
世界@名無史さん:2011/07/31(日) 22:30:35.54 0
>>208 首をはねられたら二度とここに書き込みできなくなりまするがそれでもよいので?
三国志のwikipediaスレってないよね?
大幅に編集したら推敲してもらいたくなるんだけど。
>>209 孔融と虞翻が文通してたりするから、あるんじゃなかろうか。
>>210 張裔伝では別に性質がどうとか書かれてないのに、すぐ次の伝でボロクソ書かれてるから何か笑えるよね。
>>209 許靖が「鍾ヨウに匹敵する」と賞賛したほどだから、
張裔の名声は荊州まで聞こえてたんじゃないか?
214 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 05:27:54.62 0
実際に会ったことはなくても、
有名人だったから、諸葛亮が赤丸チェックしてたのかな?
でも孫権は存在を知らなかったんだよな。
215 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 08:19:40.22 0
名前を知っていた程度では、消息を心配したりしないでしょう。
面識はなくても、文通程度の交流はあったのではないでしょうか?
リップサービスもあるだろうけど
217 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 09:32:28.22 0
益州には、法正みたく積極的に劉備の益州奪取に荷担しなくても、
劉璋はダメだと思ってる奴は多かったんだろうな。黄権も劉璋を諫めたり、
義理を立てりしてるが、劉備が政権握ると、諸葛亮と信頼関係結んでる。
劉璋に対しては、最低限の義理だけを果たすといった感じ。
意外と諸葛亮を初めとする荊州知識人と、益州の知識人とは交流はあった
可能性はあるね。
荊州名士と益州名士はわりと交流ある
董和や費観や李厳や王連のように、荊州から流れてきた名士も多いし
益州名士は劉焉の入蜀を受容したっていう背景もあるからじゃないかな。
益州を安定させる為には、という感じで。
劉焉と一緒に入ってきたホウ羲、呉懿も馴染んでいたわけだし。
受容したっつうか、劉焉が賈龍ら益州の豪族を粛清しまくって
非益州人の政権を打ち立てたのでは?
そういや劉焉の僭上について劉表が上奏してたな
桟道が焼かれて以降、益州情勢は荊州くらいしか容易には掴めない状況だったのだろう
名士間の横の繋がりって陣営間が敵対していようとなかろうとあまり関係ないもんな
223 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 18:58:33.36 0
黄権伝にも、司馬懿が諸葛亮に手紙送っていることが書かれているもんな。
劉巴伝にも、陳羣が諸葛亮に手紙書いていること書かれているし。
224 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 19:40:08.73 0
手紙って誰がどうやって届けるんだろう?
使者が一直線に渡すのか、国境付近で受け渡しがあるのか
なんか資料であったっけ?
225 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 20:05:40.97 0
劉璋ってそんなにダメな人物ではなかったよね?
劉備と比べて、はどうなるんかしらないけど
226 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 20:17:58.49 0
>>224 たしかにそれはなぞだ。
塩商人に託したりしたんだろうか?
わざわざ手紙の為だけに使者を送るとはおもえんし
227 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 20:53:07.65 0
そうか。君は蜀にゆくのか。
では**郡の++という男に手紙を届けてくれないか?
と言う感じだったのかも。
と、いうことは託された手紙は届けた使者にとっても現地での宿、食料、身元証明。さまざまな便宜を相手先がはかってくれたんだろうな。
228 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 21:14:15.39 0
というのは手紙に「この手紙を届けた男をそちらで誅殺してもらいたい。」みたいなことを書くやつがいたからであって。
手紙を届けて はい、さよなら〜!では無かったことがわかるのだ。
届いた手紙の返事ができるまで何日間も滞在したんだろう。
華歆、王朗、陳羣、許芝、諸葛璋各々書簡を以て降伏を呼びかけた云々
とかあるから蜀に届くルートはあったぽいかな?
それとも重要な手紙だから使者が直接渡しにいったのか
私的な文通は商人、公的なのは使者がいたんじゃね?
劉焉時代(桟道が焼かれて音信不通)だけど、名士同士の交流は残ってたんじゃね
って話だよね?
劉備の入植後は普通に手紙の往来は出来たんじゃない?
wikiの後漢初の人物の充実ぶりが羨ましい
>>225 無能と言えば無能。再三部下の反乱に遭っている。最も殆ど
鎮圧しているがな。ちなみに、反乱を起こした甘寧を滅ぼし荊州
に追いやったという経歴もある。
劉璋政権は外来政権なのに、劉焉に従ってたり、劉璋を頼ったりして入蜀した人々はほとんどあっさり降伏して、
益州土着の人々の戦意がやたらと旺盛だったのが不思議
劉焉はいい政治家だったらしいね。
劉璋は刑罰を用いる事ができず大赦を連発していたから、益州の豪族にしてみれば
自分達の権益に手を付けない「良い君主」。法家主義の劉備なんかに来てほしくなかったんだろう。
>>233 ちょっと話題逸れるけど、後漢初は実は光武帝時代の重要な立伝人物すら網羅されてないよ。
知名度や『後漢書』の二十八将優先でヘンテコな立伝方針から言えば頑張ってる方だけど。
杜詩みたいな冶金・灌漑史上の重要人物で、監察官や軍人としても功のある人も無い。
歴史概説書にも載ってるのに。
>>233 三国時代より記事数多いとこ無いだろ、時代ごとに分けたらダントツだと思うが
記事数だけで言ったら三国志は「こいつ要らないだろ…」っていうのが多い。
別にあって悪いことはないけど。
後漢末〜三国〜晋の人物は、ゲームや関連書籍に登場したら
追加されるような感じだな、wikipediaは。
たとえ数行でも。
242 :
世界@名無史さん:2011/08/02(火) 22:40:12.06 0
中国の晋の時代、一人の婦人があった。
容貌はきわめて気品があって、すこぶるつきの美人だったが、帯より下の肉体がなかった。
両足が腿の付根から斬り落としたようになっていた。
父親が彼女を車に乗せ、長安へとやって来て、市中で物乞いをしたところ、毎日数千人が見物に集まった。
この婦人は、すばらしい声で歌った。
歌はやさしく哀しく人々の心をとらえて、それゆえ彼女は巷でもてはやされ、豪壮な屋敷の奥までも招かれた。高位の人の家であれ大金持ちの家であれ、招かれないところはなかった。人はみな彼女を愛しいたわって、金銀や衣装を惜しみなく施した。
後年、都の将官などに、北方の敵国から謀反を呼びかける書状を受け取った者が多数あることが発覚した。
この陰謀を手配したスパイは誰なのか。くわしく探索した結果、やがて、かの無足の婦人こそ張本人だとわかった。
彼女は、家々に行っては、密かに説得し、仲間を増やしていたのである。
こうして陰謀が露見すると、一味徒党はことごとく捕らえられ、処刑された。
そういや、晋書って怪異談やら幽霊話が異様に多いけど、
あの時代の流行か何かなのか?
曹丕が列異伝を編纂した(といわれてる)のと何か関係があるのかな?
ゲームはそれ専用のスレが腐るほどあるだろうに。
何故ここで語ろうとする。
スレどころか歴史ゲーム板があるので是非そっちで正史準拠の他時代新武将を作るスレを建ててやってくれ。
それなら俺や、多分このスレの他の人も微力ながら協力するから。
247 :
世界@名無史さん:2011/08/04(木) 14:29:51.86 0
1
248 :
世界@名無史さん:2011/08/04(木) 14:30:55.94 0
宋建は辺境でミニ国家を建設し、
生意気に丞相以下百官を設置してたんだな。
どんな統治だったのだろう?
249 :
世界@名無史さん:2011/08/04(木) 20:08:57.34 0
孔明はイケメン
ヘイ原が就いた丞相徴事とか五官長史とかって、階級的には低い?
徴事は丞相の属官の中でもトップじゃないのか?
五官長史は低いけど、実質的な太子太傅みたいなもんだから、やはり重要か。
徴事ってそんな高いの?
正確にはわからん。
漢書に記述があるが、注に複数の説がある。ただ、丞相府でずば抜けて高位の官ではないだろう。
比六百石説と、崔エン伝の「為東西曹掾屬徴事」を「為東西曹掾,屬徴事」と読むなら、
徴事は丞相府の実務を預かる東西曹の上ということになるが、
それでも府内トップの長史や司馬と同格以下だし、
曹操丞相府にさらには上に漢朝廷の国務を実質的に預かる軍師集団と、
中軍を統括する中護軍・中領軍がいたわけだから、トップとは言えないだろう。
失礼、後漢では三公の長史は千石だったから 比六百石と「同格」ってことはないな。
>崔エン伝の「為東西曹掾屬徴事」を「為東西曹掾,屬徴事」と読むなら、
>徴事は丞相府の実務を預かる東西曹の上ということになるが、
それは「徴事に属した」と訳したわけか。
ちくまでは「続いて徴事になった」の訳だが。
東曹掾、西曹属、徴事を歴任したっていう読み方は無理があるかな。
でもヘイ原伝で、「東曹掾の崔エン」が「徴事のヘイ原」に官位譲ろうとしてるけど。
258 :
世界@名無史さん:2011/08/09(火) 18:00:00.01 0
215 名無しさん@ピンキー sage New! 2011/08/09(火) 16:46:42.52 ID:???
ほんと張飛の二重人格設定は誰得だよって感じだったな
ボクっ子口調でドSとか何がしたいのか分からん
ドSは他の二人で間に合ってるわ・・・
ただ、関羽のフェラ顔はかわいかった
>>255-257 まあ、いろいろ解釈や矛盾があるんだけど、
一応
>>253は「徴事」を出来るだけ高く見積もる読み方だから。
漢書では「二千石の官のうち収賄の罪で落とされた者がなる官」という説があり
師古はそれを支持してるんだけど、ヘイ原や崔エンには当てはまらないし。
前漢と後漢末の「徴事」が同種のものという保障もないわけだけど。
前漢では、公府から派遣されて高官の目付けや捕縛を行う官であるらしいことは共通しているが、
もし、それでもなおかつ左遷的な意味合いのある役職だとしたら、
秩石や組織図では東西曹の上位であっても、権威や権能では、実務職の東西曹の方が上、
なんてこともありえるわけで……。
つまり、わからんってこった。
「為東西曹掾屬徴事」は、「東西曹の掾属や徴事となった」と読んだほうがいいんじゃ?
崔エンと西曹掾毛カイの前後の官暦を比べると、毛カイの方が格上っぽいし、
徴事より東西曹の掾の方がたぶん上かと。
曹操政権内での「格」と、世論の人品評価での「格」は食い違うよ。
毛カイは、勿論彼自身も名士だが、曹操がエン州に入った当時から付き従っている
古参の人物で、曹操政権の運営を担い続けてきた。
一方、上で名が出ているヘイ原、崔エンや、崔エンが同じく東曹掾を辞める際に推挙した張範は、
冀州陥落前後に参入した「外様の高士」で、なかなか政権中枢に着ける立場ではなかった。
崔エンがヘイ原と同時に推挙した張範は、当時、議郎参丞相軍事で、
これは皇帝の直臣として丞相府に派遣され、丞相に対して属官としての礼を払う必要のない
特別な地位だった。秩石は少なくとも六百石。
しかし、非常に尊重はされても、その格に相応しい実務職だったとは考えられない。
当時の政局では、東西曹掾の方が遥かに大きな実務権限を持っていて、
だからこそ崔エンは「張範を異動して使ってくれ」と推挙したのだと言える。
「徴事ヘイ原」も同じ事情だとすれば、これらのやりとりから「官位の格の上下」は判断が付かない。
実権を持っている官はどれかというのは、わかるけど。
とりあえず崔エン伝の読み方の話を言えば、
>>253のように「東曹・西曹の掾となり、徴事に属した」と読むなら、
東曹掾が徴事に官を譲ろうとしたというのはさすがにおかしいと思うのだが。
組織図上では上でも実権がないということが腐るほどあるのが中国官制。
>>263の言うとおりなら、東曹掾が議郎・参丞相軍事に官を譲るなんてのは
おかしいを通り越して侮辱ものだよ。
あ、「東曹・西曹の掾となり、徴事に属した」というのは、あくまで徴事を高めに見積もる
(ついでに比六百説と整合を取る)読み方であって、
これが正しいと言い張るつもりはないよ、原文がどこか脱落している可能性があるだろう。
俺はあくまで、「上下関係は正確にはわからないね」と言ってるだけで。
あ、張範はこの時、格だけなら崔エンより上か。
これはアレだ。「ぐぬぬ」だ。
初歩的な質問だと思うが…参丞相軍事って官職?何品?
つまり参軍のこと。
品秩は府長の地位や時と場合で変化する。
魏では二品将軍/都督/諸大将軍の参軍が七品とあるから、公府参軍は六品と見るのが妥当かな。
後漢なら六百石または千石相当。発祥が後漢の末の末、張温時代だから詳細は不明。
ちくまの三国官職表に「丞相府は西曹属、掾は置かず」ってあるが…
じゃあ丁儀はどこの西曹掾だ、って話に。
・毛カイが東曹掾の時、曹操は1回西曹を潰して、後で復活させている
・東曹に属した面々は魏が建国されると、ごっそり魏の尚書に移っている
・魏建国以前の丞相西曹掾は見当たらない
ってことから見るに当初は丞相西曹掾はなく、
魏建国後に西曹が復活した時に置かれた、ってことで良いのだろうか。
271 :
世界@名無史さん:2011/08/10(水) 06:49:39.87 0
ところでさ、
先主伝に劉封・孟達が上庸を攻略したくだりに
李平という名前が書いてあるけど、あれって李厳と
同一人物?
改名前だから、やっぱ別人なのかな?
>>271 原史料が書かれたのが改名より後ならあり得るのでは?
ただ李厳は反乱討伐しているから,上庸に行くのは難しそうだけど。
273 :
世界@名無史さん:2011/08/10(水) 07:28:01.30 0
李厳が改名したのは漢中へ赴いてからだなあ。
こいつは「李厳伝」に明記されている。
274 :
世界@名無史さん:2011/08/10(水) 11:48:29.95 0
王平を「魏延伝」では何平と記載してたしなあ。
結構そこら辺はいい加減だったりする。ただ、「李厳伝」には
上庸攻略戦への参加は記載されていない。別人の可能性が高い
のでは?
275 :
世界@名無史さん:2011/08/10(水) 17:34:55.35 0
孤忠とは馬忠のこと?
さよう
277 :
世界@名無史さん:2011/08/10(水) 22:05:00.51 0
参軍と書いてあったから、
たぶんそうなのだろう。馬忠はその頃参軍だったし。
でも諸葛亮の上奏文では「(李)平が参軍の孤忠が〜」と書いているから、
孤忠は驃騎将軍参軍であり、丞相参軍を務めていた馬忠とは別人なのかとも思う。
李平に漢中を委ねるに際し、丞相参軍を馬忠を驃騎将軍府に異動させ、
目付け役としていたとかなら面白いんだけど。
でも偶然別人が居たにしては出来すぎだと思う。
孤忠に他に事跡ないし。
280 :
世界@名無史さん:2011/08/11(木) 05:30:35.32 0
李厳は開府はしてなかったのでは?
確か、開府したいと言ったけど、認められず、
代わりに息子に江州を代行で任せたという話しが
採録されてたような。
李厳は開府してないよ。
蜀で開府を許されたのは諸葛亮、蒋エン、費イの三人だけ。
>>278 李厳は中都護として府事を署したとされるから,
馬忠は丞相参軍の身分で李厳に従っていたのでは。
283 :
世界@名無史さん:2011/08/11(木) 15:06:09.31 0
馬忠は諸葛亮が送り込んだエージェントだったのさ。
参軍は部隊を率いて別働したり、府主の権威で持って諸将を監督したりするから
丞相参軍馬忠=李厳の側にいた参軍孤忠 はありえるだろう。
285 :
世界@名無史さん:2011/08/12(金) 10:09:57.00 0
李厳が漢中に赴く前から、
李厳の行動が怪しくなってきてた。馬忠を目付として
残しておいた可能性はある。
>>285 それなら丞相直属の目付け役がいるのに、すぐにバレる嘘を上奏した李厳さんがますます残念な感じに・・・
288 :
世界@名無史さん:2011/08/12(金) 13:30:28.71 0
李厳・魏延・楊義は劉備や諸葛亮の引き立てだけで
出世し、回りに支持者がいないのに、変な気をおこして失敗している。
三人とも、アホなことしなければ、蜀の重鎮として一生終えたのにな。
声の大きな人間ほど足元が見えてなかったりするから
あまり言及されないけど、李厳は性格がきつくて費観ぐらいしか友達付き合いしてくれる人いなかったんだよね
李厳といや、弾劾文に載ってる前監軍・征南将軍の臣劉巴って
伝が立てられてる劉巴とは別人でいいんだよねあれ
章武二年逝去って明記してあるし
そして征南将軍が二人いるんだけどどちらが正しいのだろう
劉邕の誤植って説があるけど、それで良いんじゃないかな?
293 :
世界@名無史さん:2011/08/13(土) 01:09:39.71 0
>>292 そうだね。劉邕の可能性大だと思う。
将軍位も鎮南将軍の誤植かもしれない。
294 :
世界@名無史さん:2011/08/13(土) 06:31:18.41 0
>>293 『華陽国志』では、劉邕は鎮南将軍と書いてある。
おそらく、征南将軍・劉巴ではなく、鎮南将軍・劉邕の
誤りであろう。
295 :
世界@名無史さん:2011/08/13(土) 13:11:10.57 0
孤忠と馬忠。
別人だろ。
それこそ田中美奈子と田中美佐子を混同する様な仕業だろ。
296 :
世界@名無史さん:2011/08/13(土) 13:18:35.01 0
孤忠の名はむしろ最後まで戦い抜いた姜維にこそふさわしい。
姜維 あざなは伯約 あだなは孤忠
>>295 同一人物と断言するのも難しいが、別人と断言するのも難しいと思うけど
根拠が示されないと単なる妄想と変わらないよ
298 :
世界@名無史さん:2011/08/13(土) 15:16:34.96 0
馬忠伝を読むと、第四次北伐の時、
諸葛亮のもとに赴いて、軍の事務をとりさばいたとある。
李厳伝には、兵糧の補給が困難な旨を参軍の孤忠と督軍の成藩を
派遣して伝えた。軍が撤退してくると、勝手に漢中から帰ろうとした
のを、孤忠に諫言されて思いとどまったとある。
同一人物説をとるなら、李厳に使者として諸葛亮のもとに赴き、
そのまま軍に留まり、撤退まで事務をとりさばき、軍と共に漢中に
帰還。李厳が逃亡してたので、追いかけて諫言して連れ戻したことに
なる。
同一人物じゃない説をとると、使者として諸葛亮のもとに赴き、伝言だけ
伝えてすぐに帰還。李厳と共に行動してたが、やっぱ拙いよと諫言して李厳
と共に漢中に戻ってきたことになる。
299 :
世界@名無史さん:2011/08/13(土) 16:31:20.68 0
北伐闘争は孔明死亡時が潮時だった。1派の戦争ではなく中国統一運動という
大衆運動の課題だったということを忘れてはいけない。
ところで三国時代、蜀と呉はその地にあったという
古蜀国や古越国についての伝聞を調べたりしなかったのかな
特に古蜀国は独特の古代文明で、黄金の仮面とか青銅の神樹とか
の秘宝が眠っていたりするから、発掘しようとか思わなかったのだろうか
発見しようにも、発掘しようにも技術が要る。
魏は盗掘専門の役職を置いていたし、呉でも漢代諸侯の墓を盗掘した似た例があったが、
しかし、違う文化、文明となると、当時の技術、知識では難しかろう。
また、盗掘を受けなかった部分だけ残った可能性も普通にある。
302 :
世界@名無史さん:2011/08/14(日) 08:08:18.69 0
当然調べたさ。それが伝奇録におさめられたんだろ
伝奇録って初めて聞いた名前だ。どこにある史料?
>>300 この時代の価値観では、「正統な」中華的遺産でもなければ、
純粋な金や青銅の塊以上の価値には評価されないんじゃないかな。
わざわざ探す価値が見いだれていたかどうか。
304 :
世界@名無史さん:2011/08/14(日) 09:02:44.40 0
仙人とか妖怪、妖異の仕業と考えられていたらしいね。
諸怪志異 伝奇録にそういう話があるな。
古蜀国の目が飛び出た仮面とかは妖怪そのものだものね。
見つけたとしても忌まわしき異物として破壊したかもしれない。
後漢の献帝の頃、郭攸之という人が蜀の山中に狩猟したときに地底の村に迷い込んだ話。
そこの住人達は蛇の様な下半身をもち異な習俗、言葉を話して手真似身振りでしか意志が通じなかった。
と言う話。
古いお墓にでも落っこちたんだろうか?
郭攸之ってきっとあの郭攸之ではないだろうし。
308 :
世界@名無史さん:2011/08/14(日) 10:38:11.82 0
>>300 そりゃ、現在の眼からすればそうだが、
今から百年前ですら「調べようとしなかった」のが現状なわけでして
310 :
世界@名無史さん:2011/08/14(日) 12:34:23.81 0
あの郭攸之は狩りなんてするか?
>>310 狩猟は皇帝もやるような雅な趣味だから、郭攸之がやってても不思議ではない
312 :
世界@名無史さん:2011/08/14(日) 13:06:29.53 0
パンダ狩り?
313 :
世界@名無史さん:2011/08/14(日) 13:58:40.73 0
314 :
世界@名無史さん:2011/08/14(日) 14:27:07.15 0
>>309 西洋ほどではないにせよ、中国にも考古学はあった。
甲骨文を解読したのは中国人で、わりとすんなりと解読されたのも、
金文についての知識の積み重ねがあったからこそ。
316 :
世界@名無史さん:2011/08/24(水) 17:42:07.49 0
鎮軍将軍とはどんな役職なのですか?
軍を鎮める将軍。
将軍名号の「軍を〜する将軍」という場合の「軍」は、普通「主君の軍」を指す。
陳羣が「車駕に隨い、衆軍の董督に当たる」として随伴諸軍の総督実務を担い、
晋代にこの職と引き換えに左右将軍が復活したように、
皇帝の近衛将軍というニュアンスがある将軍号。
まあ、全ての鎮軍将軍が陳羣ほどの実権を有したのではないだろうが。
318 :
世界@名無史さん:2011/08/24(水) 20:15:47.80 0
趙雲は降格されたけど、中央軍の重鎮扱いだったということ?
趙雲は元々そういう地位を歴任してきた人物。
降格先のポストとはいえ、その宿将としての価値が尊重されたということだろう。
ただ、実権として「皇帝の近衛将軍」という地位に返り咲いたかどうかは別の話。
ところで、趙雲は死去の時まで漢中の前線に留まっていた話を何度か見たことがあるが、
それと確定できる情報は多分無いよね?
320 :
世界@名無史さん:2011/08/24(水) 21:07:10.22 0
>>319 『水経注』に、諸葛亮が兄の諸葛勤への手紙の一部が採録され、その中に
趙雲が撤退時に、敵の追撃を阻止する為、桟道を焼き壊し、赤岸に駐屯し
ていたという内容が書かれているそうです。どうも最前線で曹真の追撃に
備えていたようです。
>>320 赤岸に駐屯したというのは一次の論功行賞が行われる前だろう。
その後曹真が撤退してその隙を突いて二次三次北伐が行われて成功して、
趙雲が死去したのはそのあとだろうから、無数の配置換えが起きてる。
留まったという確証も成都まで戻った確証も無い。
あえて言えば、新任の将軍号から見て、成都へ帰還したという方がもっともらしいか?
というくらい。
>>321 官位としては,成都に帰還してても変ではないのだけど,
趙雲クラスの武将を北伐の最前線から下げる余裕があったとは考えにくい。
病気の療養や,余生を過ごさせるためなら別だけど。
一次が終われば戦時動員はあらかた解散、
三次までの行動が一段落すれば完全に平時体制に戻ってるだろう。
むしろ趙雲クラスの重鎮を必要とするほどの大軍を
漢中に長期張り付ける余裕の方が蜀には無い。
324 :
世界@名無史さん:2011/08/26(金) 06:57:43.83 0
すいませんちょっとageます
325 :
世界@名無史さん:2011/08/26(金) 09:16:50.03 O
一次北伐の翌年に逝去してるから、
体調崩して帰還してたかもな。
二次、三次北伐には、参加の記録がない。
326 :
世界@名無史さん:2011/08/26(金) 13:56:38.83 0
北伐の翌年に死去してるから、
北伐終了後しばらくしてから、趙雲は体調を崩して、漢中で無くなるといった
感じでは?
成都には尚寵、対呉方面では李厳・陳到、南方には李恢・馬忠が配置されている。
配置としては、諸葛亮が率いる軍の重鎮として漢中に残ったのではないだろうか。
征伐が終わった方面に、
諸葛亮を筆頭に魏延・呉懿・趙雲ではいかにもバランス悪いな。
勿論、趙雲が229年の征伐が一段落する時点まで生きていた保障もないが。
328 :
世界@名無史さん:2011/08/27(土) 12:02:44.87 0
趙雲が降格になったのは何故?
囮部隊は負けても当然だと思うけどな。
曹真の関中軍の主力を相手にした訳なんだし。
>>328 それだけうまくいった囮だったんでしょう。
事後であったにしても囮部隊とその時代の人々に認識されちゃう様では曹真だって引っかからないでしょう。
蜀の国民達の眼には単なる敗北の将とうつっていたのに違いないし。
330 :
世界@名無史さん:2011/08/27(土) 20:48:20.67 0
『希漢輔臣賛』では、ほとんど事跡が語られてない陳到と
同等な扱いだった趙雲が、後に関羽等と同じように、建国の
功臣として諡号を追贈されたのも、単に二代皇帝の命の恩人
というだけじゃなかったからかも。
第一次北伐で、上手く囮をしてくれたこと、諸葛亮と共に責任を
とったことへの評価もあるかもしれん。
諸葛亮が毛沢東なら
趙雲は朱徳。
魏延は林彪。
332 :
世界@名無史さん:2011/08/27(土) 21:49:03.25 0
>>329 >諸葛亮と共に責任をとった
全員降格なのになんで趙雲だけが優遇されるの
一次北伐には前線が二つあって、
もう一方の街亭は大敗して将帥が軒並み斬首。
諸葛亮が主将として、趙雲が東前線の責任者として降格。
諸葛亮と同じなら、時間を置いての復職を暗黙の前提とした降格になる。
あくまで政治的なけじめであって、趙雲の経歴や名誉に傷がつく類のものではなかっただろう。
まあ、この囮や降格があったから諡号が追贈された、とまでは言いすぎじゃないかと思うけど。
街亭の敗戦の意味が結局分からんままだ〜
戦術的意味? 戦略的意味? 政治的意味? 歴史的意味?
戦術的意味と戦略的意味
戦術的意味
・守るべきところを野戦に持ち込んで大敗、陣地を失う。
(ただし、篭城可能な状況だったのか? など不明な点は残る)
戦略的意味
・魏領に対し、洛陽・関中からの大軍到着に時間が掛かる
北西辺境から進入して隴西を掌握しようとした蜀漢軍だが、
東から急進してくる魏軍を要衝隴山(街亭)で阻むことに失敗し、
地歩を固める時間を失う。
(この時期、実際には天水太守など諸城が立て篭もって抵抗していた)
魏の本隊が隴西に雪崩込んできて敵領内で泥仕合になることを嫌った諸葛亮は
決戦を避けて早々に撤収、一次北伐は失敗に終わる。
なるへそ。
あんたすごいしっかり把握してるな。すげえ
どれくらい足止めしてればよかったんだろうね。
それとも撃破しないといけなかったんだろうか?
そこらも教えてくだされ。
街亭が破れて、諸葛亮が「前進しても拠るべき場所を失い」だから、
蜀漢が隴西をある程度安定させたり抵抗する城を封鎖する態勢を整えて、
諸葛亮が本隊を率いて隴山に防御線を構築するまで。
341 :
世界@名無史さん:2011/08/29(月) 04:23:03.53 0
Poetry of seven steps 詩・曲 MC曹子建
豆を煮て豆乳を作り 俺のbrother 罪作り
醗酵させて汁にする 絶望させて死ぬ曹熊
豆がらは釜の下で燃え 正に卑劣な沙汰で萎え
豆は釜の中で泣いていた (カマ カマ イェー カマ イェー)
もとは同じ根から生まれた同士 導師導く道は下氏
どうしてそれほどひどく煮詰めるの 母が涙で見つめるの
どうしてそれほどひどく煮詰めるの(要チェケラ! ヒップホッパー楊奉!)
Poetry of seven steps
(yo-HO! yo-HO! ヒップホッパー楊奉!)
Poetry of seven steps
(say YO! say YO! brothers 熱い抱擁!)
Poetry of seven steps
(yo-HO! yo-HO! ヒップホッパー楊奉!)
Poetry of seven steps
(カマ カマ イェー brothers 深い愛情! 見せてくれ抱擁!)
失礼
誤爆です
344 :
世界@名無史さん:2011/08/29(月) 12:50:26.96 0
陣地を堅守すると意外と負けない場合が多い。
王平は張コウの攻撃を陣を堅守して撃退している。
この時代の戦争は対異民族戦でないかぎり基本的に、有利な戦場を設定しての陣取り合戦だからね
普通は数十日から数ヶ月の押し比べになる。
346 :
世界@名無史さん:2011/08/31(水) 15:20:17.28 0
正史 三国志を読みたいんですけど、ちくま学芸文庫のやつで
大丈夫ですかね?
OK。
完訳普及版です。
348 :
世界@名無史さん:2011/08/31(水) 22:46:10.15 0
ありがとうございます
大丈夫とは念を押せないという説も
350 :
世界@名無史さん:2011/09/01(木) 11:04:56.69 0
後漢で栄えた袁氏って清流派? 濁流派?
両方
すげえデカい一族になったんで双方に人材を配してのし上がる方策を取ってた
宦官粛清しようとした陽球には濁流の親玉みたいな言われ方してたな。
353 :
世界@名無史さん:2011/09/01(木) 13:39:10.95 0
袁紹や袁術のお祖父ちゃんにあたる袁湯は、あの梁冀とくっついて出世した大濁流。
また、袁紹のパパと見られている袁成も梁冀派。
次の袁家の主人は袁逢。袁湯の息子で袁術のパパ。
この頃の袁氏は、癒着していた梁冀が粛清されたせいでしばらく沈黙していたが、
清流派の超名門である楊氏と通婚して復活を遂げる(後に曹操にぶっ殺される楊修の家。楊修の母が袁逢の娘)。
袁逢自身もまた清流派として振る舞った。
次は袁隗。袁逢の弟。
袁隗は30年も公職にあり続け、6人の皇帝に仕えたという政治の天才。
清流派とも宦官派ともつかぬ身の処し方をしたらしい。
でも袁紹のせいで処刑。
354 :
世界@名無史さん:2011/09/01(木) 14:04:57.10 0
袁逢の清流ぶりは大したもので、楊賜、崔寔、荀爽と仲良し。
荀爽に至っては、袁逢の死後、袁逢のために3年の喪に服したほど。
袁逢からの仕官の誘い、断ってるのに。
梁冀って濁流なのか?濁流≒宦官なんだから、宦官に潰された梁冀は清流じゃないのか。
356 :
世界@名無史さん:2011/09/01(木) 15:14:03.55 0
梁冀は外戚として好き放題やって、宦官と清流派のどっちからも嫌われたのでは。
でも朱穆みたいな廉潔な人物が梁冀の辟召受けてるからなぁ。
失脚したから叩かれまくっただけで、実際は董卓みたいに結構士大夫の支持を受けてたかも。
それに陳蕃や李膺を世に輩出した清流派の大物周景は梁冀の故吏。
むしろ梁冀の派閥から清流派が生まれたのでは?
梁冀に組したから濁流/清流、とはちょっと言えない。
梁氏は皇后を通して宦官と与し、後宮の勢力を維持する一方、
宮廷では自分の意に沿う高官・名士を取り込んで権勢を広げた伝統的な手法の外戚一族。
梁冀が宦官に離反されて粛清されたことで、後宮宦官勢の専権が後漢王朝に確立した。
つまり「清」「濁」の対立構造が生まれるのはその後のこと。
宦官の宮廷支配が進み、官僚達がそれに迎合して汚職が進んだことで、
これに危機感を持った儒学的名士の一部に己を「清」と称する改革派が誕生する。
彼らは宦官と宦官に寄り添う官僚達を「濁」と呼び、糾弾するいわば野党勢力だった。
361 :
世界@名無史さん:2011/09/01(木) 19:19:53.76 0
>>360 清流派が三君と呼んで崇めた3人の中に、外戚として栄華を極めているトウ武がいるわけだが。
濁りまくりだろ。
外戚イコール全て悪、とはこの時代は考えてないんだと思う
つーか、清と濁の二元論で説明するのが無理な話。
というか、清濁二元に分類することで政治主張を図ったのが政治活動グループが「清流派」なわけだ。
幼年皇帝が続いた後漢において、皇帝権力の要に位置したのは臨朝皇太后だった。
前期から中期の外戚政治全盛期には、外戚の男が皇太后と深く連携することで宮中・宮廷で権力を振るい、
宦官は権力を補佐する脇役だった。
しかし、梁冀が排除されると、皇太后(と幼年皇帝)は宦官に占有されることになり、
外戚男子は宮外へ排斥され、往時の「栄華」を失う。
竇武・何進は、この情勢の中で宮廷の高官名士(ここに清流が含まれる)との連携を深め、
宦官との対立・権力奪還姿勢を強めた人物。
外戚と皇太后とは政治的立場を異にし、外戚は皇太后を再び「手中」にしようと図った。
結局二人は宦官の反撃で破れることになったが。
366 :
世界@名無史さん:2011/09/02(金) 00:52:49.42 0
純粋な清流派は党コで壊滅して、後に残ったのは、濁流ともある程度折り合う人たちだけ。
袁氏みたいなのね。
367 :
世界@名無史さん:2011/09/02(金) 01:04:04.09 0
清流と濁流の抗争は、党錮の禁で完全終結。
清流の全滅という形で。
後に興隆する名士と、清流士大夫は完全に断絶している。
黄巾の乱のとき党人赦免令でてなかったっけ
369 :
世界@名無史さん:2011/09/02(金) 03:46:09.29 0
>>368 時既に遅し。
野に下った党人は官職に復帰できず、清流派が持ち直すことはなかった。
黄巾に入っちゃった奴も多かったしね。
「権道派」といわれるように、権力内から改革していこうと変質はしているが、
党錮によって壊滅は言いすぎ。
荀爽・何ギョウ・何休など、何進や董卓は党人を積極的に迎え入れた。
清流の系譜が壊滅したのは、その後の後漢末の乱〜魏の成立によって。
董卓や戦乱、何より時間経過によって多く死んだし、
曹操の方針に従える者しか魏に使えることが出来なかったので
旧後漢勢力はあらかた振るい落とされた。
皇甫嵩とかって清流派ではないの?
穎川閥は軒並み旧後漢名士勢力そのものだろ。
>>369 >野に下った党人は官職に復帰できず、清流派が持ち直すことはなかった。
復帰してる者もいたような。
>黄巾に入っちゃった奴も多かったしね。
たとえば誰?
374 :
世界@名無史さん:2011/09/03(土) 03:14:59.73 0
>>373 >復帰してる者もいたような。
お話にならないほど少数だけどな。
>たとえば誰?
弾圧された党人たちが、黄巾とつるんでるのは、正史にも指摘されてるぞ。
だから急いで宦官たちは党人を赦免した。
名前のある奴はいないが。
具体例がない。
そもそも「清流」が現れて以降、宮廷中枢に位置することが出来たのは
何進時代が初めて(霊帝には用いられなかったが)、
「政権担当」に昇格できたのは董卓時代が初めて。
政治勢力としての最盛期はそのときだぞ。
184年時点で急いで赦免する必要のある在野勢力だったのに
194年時点で赦免されたときには時既に遅し。壊滅している。
とはこれいかに。
間違えたw 両方184年だ
378 :
世界@名無史さん:2011/09/03(土) 13:34:33.87 0
>>376 在野勢力といっても、一旦賊になっちゃったら官職復帰はかなり無理だけどね。
赦免したのは、党人が更に黄巾に加入するのを抑えるため。
>>378 >在野勢力といっても、一旦賊になっちゃったら官職復帰はかなり無理だけどね。
一応、徐晃、楊奉がいるけどね。確かに少数ではあるが。
380 :
世界@名無史さん:2011/09/03(土) 13:58:13.67 0
>>374 >弾圧された党人たちが、黄巾とつるんでるのは、正史にも指摘されてるぞ。
どこに記述されてるか教えてくれないか?
宦官の一部が黄巾と結託してたのは知ってるんだが
張角に内通しかねないから先手打って許しましょうよと
皇甫嵩と呂強が進言しただけじゃなかったっけ。
張角自身が党人だった事は党人赦免の詔で触れてるけど。
>>382 それ違うよ。
当時の恩赦は「本来死罪に当たるものでも全て」と枕詞が付いて、
普通は罪状を問わず赦免が出た。
それでは黄巾一党まで許してしまうから「張角らを除く」と条件が付いただけ。
>>378 わけわからん。
それなら、黄巾に賛同しなかった、
「反乱情勢に影響を与えるほどの質と量の在野党人」は政治復帰できたはずだろ。
太平道が全国の清流派によって組織された集団だったのでもない限りはね。
385 :
世界@名無史さん:2011/09/03(土) 20:32:09.57 0
>>384 トウコが解かれても、すでに官位ポストは埋まっちゃってるしぃー。
当時の人材登用は、有力者による推薦のみだから、一度派閥が壊滅するともう復活できない。
引き上げてくれる人材がいないのだから。
黄巾から5年もたたないうちに、董卓政権ができて、二袁の争いが続いていくが、この中で名士を重んじたのは董卓だけ。
黄巾時点で党人の処遇が問題になって恩赦が出るほどだったのなら、
どのみち党人は党錮で壊滅したのではないんだな。
>>385 清流を称したのはあくまで名士層の一部だが、
そんな結合的な一個の「派閥」なんかじゃないし、
社交界から浮いた存在でもないんだが。
その二袁、特に袁紹の事跡と人間関係を追ってみるといいよ。後漢書で。
389 :
世界@名無史さん:2011/09/04(日) 14:08:44.56 0
>>388 肉屋出身ごときに、政治思想なんてあるわけないよ。
何進を補佐した袁隗、袁紹あたりが実質取り仕切ってたんだろ。
>肉屋出身ごときに、政治思想なんてあるわけないよ。
それは根拠がないし、思想のあるなしと名士の任用は関係がない。
何進は楊賜の門生だから、れっきとした士大夫。
何進を補佐した袁隗、袁紹あたりが実質取り仕切って、
清流派を政治の中枢に招いたってことか。
やっぱり清流が壊滅したのは党錮じゃ(ry
屠者=屠殺業者=卑賤の出身
ってのは成立しない。
屠殺業が卑賤な職業だってのも西洋風の思い込みだが、
「屠者」と言う名は太常の太祝令や太宰令の下に見られる職。
他に用例がないのであれば、
何氏は(もともとは)神事に用いられる生贄を捌く下級官僚の家だったことになる。
いつから止めたのかはわからない。
もとより、歴史に名を残すほどの高官に昇るのはありえない地位だろうが、
宮廷を知らない家でもない。
何皇后が初め「良家子」として後宮に入れられたことからも、
何氏は南陽ではそこそこの豪族だったんだろう。
「良家」ってのは、最低限の田地があって商人や奴婢ではない官吏になれる家柄って程度みたいだから、
豪族とは限らないかと。
中央では下級官僚(立派な家学やコネがない)でも家は富農とかありえるだろうし、よくわからんけどね。
樊カイって豚殺し=屠者じゃないの?
樊カイは「屠狗為事」。ついでながら豚ではなく犬。
ついでに調べたら、「市井屠者」という言葉もあるから、必ずしも「屠者」は官職とは言えないようだ。
398 :
世界@名無史さん:2011/09/06(火) 05:13:36.53 0
董卓は実は名士を重用した政権をつくったってことになってるけど、
そうすると董卓をぶっ殺そうとした袁紹や曹操って、実は反名士?
劉備は馬ショクの本質は見抜いたが李厳の本質は見抜けなかったね
李厳は才のある人だったと思うけど、孔明に王を称して九錫を受けるよう勧めたり
同郡の出身者である陳震は以前から李厳のいい加減さを孔明に訴えてたし
何か違うんだろうな
別に名士とやらが一枚岩でなきゃいけない理由もないし,
単に董卓のやり方が気に入らなかったのでは。
401 :
世界@名無史さん:2011/09/06(火) 06:50:09.44 0
>>399 劉備崩御時点では、
ホウ統、法正、黄権、馬良といった優れた人物はおらず、
李厳くらいしか諸葛亮に次ぐ人物がいなかったという
事情もある。蒋苑、費イ、董允、馬忠あたりは、まだまだ
駆け出し。
戦争で負けなければ
黄権が一番信頼度が厚くひとかどの人物になっただろうな
403 :
世界@名無史さん:2011/09/06(火) 07:50:44.68 0
黄権は、諸葛亮との信頼関係も厚かったし、
内政・軍事・外交と幅広い分野で頼りにされただろう。
404 :
世界@名無史さん:2011/09/06(火) 07:55:58.95 0
陳寿は中常侍黄皓に迎合せず左遷されたと晋書陳寿伝は記す。
だが調べてみると陳寿は衛将軍主簿→東観秘書郎→散騎侍郎→黄門侍郎と順調に出世した所で父が死んだ為辞職して喪に服し、服喪中に蜀は滅亡した。
つまり逆算すると陳寿は260年頃までは確実に黄門侍郎の職務にあった。黄皓が権力を握っていた時期に。
黄門侍郎は尚書が起草した上奏文を中常侍を介して皇帝へ提出する職務。
自分がもしも黄皓だったら上奏文の伝達を担う黄門侍郎には自分の息がかかった人物を据える。
また晋書より成立の早い華陽国志陳寿伝では左遷されたなど記さず、黄門侍郎に至るまで官職を歴任したと記す。
陳寿の政治的立場はかなり黄皓に近かったのではないだろうか?
>>398 梁冀や董卓は名士を使いたかったけど、名士側の多くから凄まじく嫌われていた。
だから反董宅連合にはむしろ橋玄など名士連中が顔を並べている。
>>404 そのころの陳寿は、若くてまじめ・自分の意見などは表に出さず、
課題はきっちりこなす、という優秀な官僚だったのでは
黄皓に迎合したといより、重宝されたんじゃまいか
407 :
世界@名無史さん:2011/09/06(火) 11:09:14.47 0
>>405 そうでもないだろ。
反董卓連合側で名士と呼べそうな人間はかなり少ないぞ。
八俊として高名な劉表も董卓側についてるし。
408 :
世界@名無史さん:2011/09/06(火) 11:21:29.37 0
董卓側についた名士。質量共に圧倒的に優位。
蔡ヨウ
何ギョウ
周ヒ
伍ケイ
楊彪
荀爽
荀攸
士孫瑞
王允
胡母班
黄宛
鄭泰
409 :
世界@名無史さん:2011/09/06(火) 12:21:51.72 0
>>406 黄皓が人事まで介入できるようになったのは、
陳シが死亡した後だろう。258年以降といったとこでしょ。
黄皓が本当に人事を動かし始めたのは、260年頃くらいからだから、
黄皓の専横を嫌って職を辞したというのは、変な話しではないでしょ。
黄皓の専横は蜀の命運にトドメを刺したが、原因そのものは姜維の
度重なる遠征による経済衰退と、段谷の大敗後の軍事的弱体化が主因だか
ら。
260年頃だと丁度諸葛センと董厥が成都のトップに立った頃だな。
姜維の主簿を務めた経歴のある陳寿は、実権を握った諸葛センら反姜維派に疎まれて、
父の喪を理由に郷里に帰ったというのが真相なのかも。
董卓が権力を握ったのは、洛陽動乱の最中に飛び込んできて皇太后と少帝の身柄を抑え、
さらに兵士からの信望を利して何兄弟や丁原の軍事力を吸収したため。
董卓は高級騎兵士官出身であって宮廷を知らない無法者ではなく、
権臣の常套手段として名士を厚遇したわけだが、
前記のような過程で権力を奪取したのでは、それまで洛陽で政権を争っていた連中、
特に専権体制確立まであと一歩だった袁氏の若い二人とその一派が董卓を容認できるはずもなく、
洛陽からの大脱出と反董卓蜂起を招く。
それでも、皇帝の存在や宦官一掃の成功など、期待も大きかっただろうし、
実際には当時の朝廷官僚の多くは洛陽に残留しただろう。
しかし董卓はその後、皇帝廃立やら長安遷都やら重臣処刑やらを重ね、
長安残留組からの信望も失い、王允の乱を招く。
袁紹はともかく袁術は後将軍を拝命してるし、洛陽出奔後も劉表を通じて董卓と連絡取ってるし、
袁術は董卓との融和を目指していたんじゃないか。
最初の反董卓勢力で最後まで攻撃を続けたのも袁術。その後に朱儁が出てくるけど。
董卓が入城して半年ほど、主導権争いの駆け引きやら
宦官なきあとの政治方針の論争が続いて、
袁紹も一旦は司隷校尉の仮節を受けてる。
しかし董卓が洛陽の軍権を独占したり、献帝を擁立して
何太后の影響力さえ切り離そうとしていくに連れて、
続々と脱出者が増えていった、というところなのだろう。
董卓って実はけっこうな人物だろ?
信長的な要素をもった。
だけどよく書いてもらえないわな。
領土拡張できず古いものをぶっ壊すしか出来なかった信長。的な?
と言ってもこの前後で歴史的に一番重要な「破壊」である宦官誅殺は他人だし、
洛陽燃やしてさらに旧都である長安に移ったりが。
理解者もいた。
部下も優秀だった。
思い切ったことをした。
でも最後は内部からの謀反に倒れた。
信長的要素でしょう。
信長には秀吉がいたが、董卓にはいなかったんだろ。
政治的有能さが無い信長を、「信長的」と言っていいのかなあ。
董卓の政治的な有能さは、せいぜい洛陽を掌握したまでが限界。
それも中華の九割の支配の放棄と引き換え。失地の回復はできなかった。
社会や政治の望んでもいない「思い切ったこと」ができる人間はたくさんいるよ。
それは普通、ただの暴君と呼ばれる。
信長も全国支配できてなかったがな。
そのかわり支配している地域は強固に確保してたがな。
董卓が目指したのは漢の枠組みの中での全国支配ではなく、自分を頂点とする新たな権力の構築。
つまり簒奪、王朝交代。
だからすげぇ反発食らったんだろう。
暴君イメージはどこまでほんとうのことなのか。
曹操だってクーデターで暗殺されて死んでしまってたら 王朝の初代になっていなければ
もっと悪人として伝わってたと思うよ。
他人の未亡人を犯す、黄巾賊とつるんで徐州大虐殺。
いまでも悪人イメージあるのにさ。
董白が史書上妙に記録が残ってるのは、董卓が皇后にするつもりで色々してたからなんじゃないのかな
簒奪、王朝交替を目指したとされる権臣なんて、特に中華ではいくらでもいるわけで。
心理的にもそんなに大したハードルじゃない。
数十年蔓延って王朝をガタガタにするとか
王くらいにはなるとかじゃないと、悪臣としても一流とはいえない。
>>420 要するに秦の趙高、漢の王莽、唐の禄山、梁の朱?ってことですね。
>最初の反董卓勢力で最後まで攻撃を続けたのも袁術。
袁術じゃなくて孫堅だろ
孫堅は袁術の一部将
424 :
世界@名無史さん:2011/09/07(水) 05:54:22.97 0
>>422 孫堅は董卓派も反董卓派も見境なく殺しまくってて、どっち派かわからん。
南陽で袁術と組んで初めて旗幟が鮮明になった。
>孫堅は袁術の一部将
この認識は古くね?
ギブアンドテイクの域を超えてないよ
426 :
世界@名無史さん:2011/09/07(水) 08:36:45.66 0
魏武アンド程イク
配下とも言い難いからギブアンドテイクという言い方も間違ってはいないと思う。
経済力と政治力と人的糾合力を供出した袁術と、
中核部隊と指揮能力を供出した孫堅。
>>425 孫堅が独立した群雄っていう認識の方がたぶん古い
>>428 もう、一回りしたんだよ。
曹操が袁紹の配下って説も最早過去の遺物だな
そもそも完全な意味での「部将」とか「配下」とか信じてた人間なんて日本のオンラインにしかいないだろ。
190年前後の軍閥達は、まだ漢王朝の「臣下」という繋がりを強く持っている「盟友」関係だった。
ただ、盟友や臣下の間にも地位の高低や立場の強弱があるって建前。
だから曹操や劉備、小さめのところで言えば朱霊や甘寧のように
兵力を率いて陣営間を移動して歩くことも、後の時代より比較的容易に出来た。
曹操なら、徐栄に敗れて以後、東郡太守になるまでは、
袁紹の経済的政治的援助を受けつつその意を満たすために転戦せねばならない立場だったし、
太守になってからも、背後に控える袁紹の圧力と後援を背に受ける程度の
呂布にエン州を奪われている間は兵力支援まで受けてるし、
同時に袁紹から派遣された臧洪の浸透を許している。
曹操が「独立した群雄」という地位を完全に確立するのは、196年以後のこと。
>>431 >袁紹の経済的政治的援助を受けつつその
まぁその袁紹も韓馥の経済的援助がなければ立ちいかないわけで。
>同時に袁紹から派遣された臧洪の浸透を許している。
臧洪がいたのは東武陽で、黄河北岸。
州牧になった時点で曹操は独立したと言えると思うな。
エン州の領域は、漢代では河水北岸まで広がっていた。
まあ地政的には袁紹が抑えておきたい地域だったろうけど、
ここに建前だけでも冀州の官をおくのでもなく、
以前曹操に任せたことのあるエン州東郡太守を派遣した、というのは、
曹操の自律的なエン州支配を否定してるってことなんだよね。
曹操は先に州牧になった時に袁紹の頚城から脱出しかけたとは思うが、
呂布の乱で大きく後退してしまった。
>曹操の自律的なエン州支配を否定してるってことなんだよね。
これがすなわち曹操が袁紹配下ではなかったってことの証左だと思うな。
曹操が配下ならば太守を送り込むまでもない。
それに、呂布との州争奪戦における東郡を巡る争いにおいて臧洪がまったく出て来ないことからも
臧洪が実効支配出来ていたのは黄河以北だけだったと思われる。
曹操自身が東郡太守だった時期は東武陽まで支配していたから、
呂布の謀反で曹操が弱体化した結果、袁紹に黄河北部を接収されたのかな。
>>435 臧洪が東郡太守に任命された時期がいまいちよく分からんのだよね
呂布の謀反の前に任命されてるようにも読める。
曹操陣営では夏侯惇が東郡太守で、曹操が陶謙征伐に行くときには濮陽の守備についたというが
これはもしや臧洪に対する備えだったりするのだろうか。
>>436 東郡太守になる前は青州刺史だったから、
いつ青州刺史から外れたかが焦点になるな
>これがすなわち曹操が袁紹配下ではなかったってことの証左だと思うな。
だから
>そもそも完全な意味での「部将」とか「配下」とか信じてた人間なんて日本のオンラインにしかいないだろ。
とゆーとるのに
完全な意味の部将とか配下っていうと、たとえば曹操にとっての楽進とか于禁、ぐらいかな
私兵を持ってたら、完全な意味での配下にはならんだろうな
じゃあ清千代は?
私兵は三国鼎立後の各国の武将だって抱えてるだろうから
それは言い過ぎじゃないの?
指揮命令権下にあるか、
配置異動や処罰ができるかってのが要かな
その辺も難しいんだよね。
皇帝と民衆でさえ、自動的には「君臣」関係にはなれない時代だから
その意味で、「臣民」という存在さえいない。
楽進は(おそらくは)曹操の帳下吏だったわけだから、この時点で完全な配下。
その後私兵を集めてきたわけだが、その所有が自分の力量に拠って立つものか、
曹操の権威に拠るものかによって立場は変わる。まあ、後者に傾くだろうけど。
臧覇や陳登、文人の名士勢らに比べれば、政治的基盤の貧弱な魏五将らは
「曹操の私的な部下としての性質が強く、時が経つにつれて増していく」とくらい言っていいんじゃないか。
五人とも、最終的には魏国将軍になった時点で完全な意味での「臣」となった。
徐晃と史渙の関係はどうよ?
何か具体的な関係あったっけ?
親友だってきいたぞ?
初めて聞いたが。
まあ親友だってのなら親友だろう。
おどろくべきレベルの低さ
徐晃と史渙ってレベル高い武将だぞ!
しかも親友関係はポイント高いぞ!
徐晃くん!
史渙ちゃん!
がし!って抱き合うくらい仲がいいんだぞ
単に何度か組んで戦っただけじゃないか
腹心を外様の有力武将の目付に付けただけだろ
徐晃と史渙が共闘したのはスイコ討伐から袁紹との一連の戦いの間だな
それにしても親友って……妄想するのは自由だが
まだ関羽と徐晃って言われた方が説得力あるわ
徐晃くん!
関羽ちゃん!
がし!って抱き合うくらい仲がよかったんだってな
同郷なんだっけ
455 :
世界@名無史さん:2011/09/11(日) 18:50:25.24 0
劉備と関羽が別行動すると、いつも劉備だけ死ぬような危機にあうのは面白いですよね。
徐州時代
劉備:曹操に負けて身一つで袁紹の元に逃亡。張飛とも、離れ離れ。
乱戦の中で討ち死にか、追撃から逃げ切れずに討ち死にか、このどっちが起ってもおかしくなかった。
関羽:さっさと曹操に降服して安全確保。オマケに再就職先までゲット。
荊州時代
劉備:曹操から逃れるために江陵に向うも、長阪で追いつかれてズタボロに負ける。またしても、討ち死にの危機。劉禅を落っことし、娘を失う。
関羽:かっぱらってきた水軍で無事に南下。
荊州時代その2
劉備:劉備が益州攻めを始めると、なぜか曹操は荊州には目もくれずに益州方面にやってくる。
関羽:魏と呉との最前線の荊州を任せられるが、一度も魏が南下してこない。孫権との戦いでは劉備が助けに来てくれた。
荊州時代その3
劉備:益州で曹操軍主力と対峙。劉封と孟達に命じて上庸の曹魏系勢力を排除、関羽の側背を守る。
関羽:北伐失敗。討ち死に。
劉備あにぃ!
関羽ちゃん!
がし!って抱き合うくらい仲がよかったんだってな
457 :
世界@名無史さん:2011/09/12(月) 07:28:40.75 O
>>455 釣り臭いけど一応。関羽がそれだけ重要なポジションだったってことでしょ。
徐州時は他の重要拠点任されていて、荊州では水軍で主力温存という大きな役目がある。
関羽以外に荊州の守将はありえないし、単独で楽進なんかとぶつかってはいる。
なんだかんだいわれてるけど 荊州をまるのまま任されてる関羽ってひとかどの器量があったんだろうな。
>>455 かなり違うだろ
徐州時代
前線に出た劉備は曹操本隊が来たと知るとまっしぐらに逃げる
下ヒに置いてけぼりにされた関羽は大軍に抵抗しえず降伏する羽目に
荊州時代
これはだいたいよろし
荊州時代その2
劉備が益州に出た隙に、曹操の呉攻撃に同調した楽進南下。
劉備「荊州手薄なんで救援くれ」と劉璋に頼む羽目に。
結局間に合わず江水沿岸付近まで押し込まれる。
荊州時代その2.5
魯粛・呂蒙の急襲を食らう。劉備どころか張飛・趙雲・諸葛亮の軍も不在で、
南部を一方的に刈り取られる。
劉備の到着で兵力拮抗し、逆撃で魯粛を圧迫するところまで行くが、
曹操が張魯を攻撃したとの急報で手打ちにする羽目に。
結局いいとこなし。
荊州時代その3
関羽一人で北上するが、(関羽の責任に寄るところが大きいにしても)
近場まで来ていた援軍の劉封・孟達らも到達できず。
孤軍となり敗死。
++
劉備軍の攻撃の要は劉備その人で、特に赤壁以降の獅子奮迅は凄まじいが、
それと引き換えに劉備とは別方面の守りの要を担った関羽は苦労しっぱなし。
お疲れというしかない。
丸の内OCNが年間一ヶ月も書き込めなかった頃からの久しぶり
関羽は努力が報われなかった鳥居元忠
463 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 07:05:26.80 0
464 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 15:55:46.63 0
渡邉義浩の「名士」論ってのは自滅してるね。
後漢末に名士の人物評価を基準とした社会が現れたというが、
ちょうどその頃、紙が普及して家や個人の記録が残りやすくなっただけだ。
皇帝、高官、有名人に褒められたとか評価されたという逸話を残せる時代になった(趙雲別伝の類)。
それをもって名士が社会に中心になったなどというのは、とんでもない結果論。
>>464 つうかさ。
今の朝鮮半島内に高句麗の子孫がどれだけいるんだろ?
466 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 19:35:01.21 0
魏晋の誰かが「最近は誰も彼もが先祖を賛美歪曲した記録を残してて風紀が乱れてる」と嘆いてたような。
あと個人の別伝がやたらと増えまくるのも三国志以後。
467 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 19:43:03.96 0
>魏晋の誰か
気になって調べなおしたら東晋の裴松之の提案だった。
「最近は先祖のありもしない功績を粉飾捏造して、私碑を立てる連中が増えている。
国家が真実だと認めた場合だけ石碑の建立を認めるようにしよう(意訳)」
魏は碑文の建立を禁止していたんだってね。
>>464の論法が正しいとすると、「名士が社会の中心になった時代」が後漢よりもさらに遡るだけで、
「名士論」が説く後漢以降の名士の社会的影響力自体を否定することはできなくなる。
文化や社会の進展は、かなりの頻度で技術の普及に後押しされる。
「紙の普及が名士社会の発展を促した」とするなら、
これは名士論を補強することになっても否定的証拠にはなれない。
471 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 20:01:29.95 0
>>469 後漢や三国時代が特別な時代だった、ということも不可能になるわけだが。
そもそも、人物評価なんて、組織の人事担当ならいつでもどこでもやってるじゃん。
名士という特別な人事評価システムなぞ存在しなかった、ということで。
許劭のような影響力を誇った在野の人物のどこが「組織の人事担当」なんだろう
渡邉氏の説く名士論というのは、南北朝時代のいわゆる「貴族社会」の誕生する
過渡期として「名士社会」を設定し、その発祥を後漢中期から後期に置く、というものなんだよ。
この論の中での後漢三国のどこが特別な時代なのか、よく判らない。
>>464の論法は「紙が普及して名士達の記録が残りやすくなった」ってだけだから、
「紙が普及する前から名士社会は成立していた」可能性、
誕生時期の前倒しの可能性、はあるね、ってことでしかない。
474 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 20:25:59.03 0
三国時代や両晋時代になって急に個人の別伝を立てまくる風潮が生まれた。
これらの別伝は大半が唐代までに散逸したが、
魏晋に名士の人物評価を基準とした特別な社会があったことの証拠だ…というのが渡邊氏の主張。
さて、史料が突然増えたことと、名士社会というべき特殊な社会が存在したことは、イコールで結べるだろうか?
俺は結べないと思うが。
それ一つだけなら「イコールで結べない」と言えるが、そんなもの論拠の一つでしかないよ。
著名人相互に交流して世論や政局に影響を与える事例が国史レベルに見られるようになる。
著名人の葬儀には数千、数万の「車」が参列し、そこがまた交流の場となる。
朝廷にまで名前が響く「有名な隠者」というまったく矛盾した存在が出現し、
その名声を頼りに皇帝が高士を徴召することが起きる。
この名声を支えるソサエティの存在が確認されれる。
他諸々。
後漢初以降の儒学の進展によって発生した風潮であるのは間違いないだろうね。
孝廉・辟召といった特に後漢に進展する人事制度は、
名声高い者を地方からくみ上げて朝廷に用いるという
中華古来の理念的風潮の制度化であり、
この制度化によって後漢人事の風潮が促進されたとも言える、相互関係を持っている。
郷論で良い点数をもらえれば仕官・出世する見込みが跳ね上がるという社会システムがあり、
その世論を左右できる一握りの著名人の存在があり、
これらを積極的に運用して自分や自派に有利に操作しようとする派閥の競合が起きている。
とするのが「名士」論。
家伝のような先祖顕彰や、地方史のような地域顕彰の氾濫は、その風潮の爛熟の果てにある。
だから「紙の普及が名士社会の進展を後押しした」と言うなら説得力がある。
逆に紙の無い社会では、中央朝廷や全国へ向けた風聞の伝播力が激減し、
「名士社会」の進展を大きく阻害すると考えられるわけだから。
あの時代の名士とかいうのは仲間内で褒め合ってとんでもなかったらしいぞ。
曹叡「あいつらマジで画餅」
渡邊氏の名士論は漢魏で通用する理論を無理矢理蜀呉にあてはめようとするからおかしくなる。
国家の成立過程やシステムがまるで違うってのに。
亡命国家の蜀漢や、前線の政治と軍事が一体化してて兵力を世襲できる呉では、
魏とは縁故の繋がり方が全然違うからなあ。
確かにそれは言える。
魏のような名声ロビー活動は蜀呉じゃほとんど見られないもんな。
しかしその画餅の諸葛誕や夏侯玄やらの方が忠臣だったという
>>481 そういう奴らは魏での知名度・派閥が頼りだからな
王朝関係なく重用される能力か、次の王朝との太いつながりが無いなら魏にしがみつくしかない
諸葛誕も夏侯玄も能力は高いだろ
484 :
世界@名無史さん:2011/09/15(木) 23:21:11.71 0
>>479>>480 名声ロビー活動で地位を得た奴なんて魏にもいないだろ。
魏の高官は、曹操に仕えた人間の二世か、有力豪族で占められてるよ。
蜀呉と違いなし。
485 :
世界@名無史さん:2011/09/15(木) 23:32:06.44 0
豪族でも二世でもないのに出世した人間には王祥がいる。
だが、この人はありえないぐらい儒教的倫理観を守った人。
名声で出世するならここまで徹底しないと出世できないのだ。
しかも、ここまでやっても30年間は誰にも認めてもらえなかった。
名声ロビー活動で出世とか無理無理。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%A5%A5 >王祥は大変親孝行であった。早くに実母を亡くし、継母の朱氏は王祥を慈しまず父王融に讒言したため、父は王祥を愛さなくなった。
>また、朱氏は王祥に牛小屋を掃除させたが、王祥は益々うやうやしく継母に仕えた。父母が病気になると、王祥は着替える暇も惜しんで看病し、薬は必ず自分が毒見した。
>
>継母が生魚を食べたがった時、当時寒くて水が凍結していたので、王祥は衣を脱いで氷を割って魚を獲ろうとしたところ、氷が自然に溶け出し鯉が二匹跳ね出て来たので、それを持って帰った。
>また継母が黄雀の炙りを食べたいと思った時は、黄雀数十羽が垂れ幕に入ってきた。郷里ではそれらに驚き、王祥の孝心がもたらしたのだと思った。
>林檎が実を結ぶと、継母は王祥にそれを守るよう命じたため、風雨があるたびに王祥はその樹を抱いて泣いた。
>継母は王祥を毒殺しようとしたが、王覧(朱氏の実子で王祥の弟)が兄を庇って毒味をしようとしたため慌てて器をひっくり返した。
>王覧は常に兄を庇ったため、継母は誤って王覧を殺してしまうことを恐れ、毒殺は諦めた。
>
>後漢末の乱が起こると、継母や王覧と共に廬江へ避難し、30年間隠居して州や郡からの仕官の要請に応じなかった。
>継母が死に喪に服すると身体が痩せ細り、杖をつかないと歩けないほどになった。
486 :
世界@名無史さん:2011/09/15(木) 23:38:18.05 0
>30年間隠居して州や郡からの仕官の要請に応じなかった
「こんな小さな仕事は受けられないよ」と要請を蹴り続けて虚名を上げた。
それを30年も続けたのでめっちゃ虚名が高まった。
まあたまたま王祥は有能な人間ではあったが。
だから諸葛誕や夏侯玄だろうに。他に顕著なところでは鍾会。
名族・豪族・高官の子弟なんて史書に名の残る数百倍と存在するんだよ。
高官はその中でも一族の有望な若者を支援し、
また他家の人物を辟召などで自派に取り込もうとし、
豪族は在地社会から京師へ人材を送り込む。
特に曹爽が名声高い人物を多く取り込んで
のちに司馬氏もまた、曹爽派残余を含む名士を盛んに吸収した。
「富裕な豪族だが中央にパイプが無い」という人物が
仕官して身を立てることを決意し、どうやって朝廷で出世して行ったか、
という見事な例が王濬伝にある。
全体的に晋初高官達の経歴を見たほうが理解しやすいと思うな。
こういう傾向は勿論蜀や呉にもあるが、政権独自の事情の方が強く出てるので
そちらを考慮しなけりゃならない。
∩___∩ /゙ミヽ、,,___,,/゙ヽ
| 丿 ヽ i ノ `ヽ'
/ ○ 祥 ○ | / `(○)覧(○)´i、 ほらお義母さん!
| U ( _●_) ミ 彡,U ミ(__,▼_)彡ミ 鯉を取ろうとしたら
彡、 |∪| ,,/ ,へ、, |∪| /゙ 氷が溶け出して鯉が跳ね出してきたの!
/ ヽ ヽノ ヾ_,,..,,,,_ / ' ヽノ `/´ ヽ
| ヽ ./ ,' 3 `ヽーっ / |
│ ヾ ヾl ⊃ ⌒_つ ソ │
│ \,,__`'ー-⊃⊂'''''"__,,,ノ |
490 :
世界@名無史さん:2011/09/15(木) 23:43:23.29 0
それにしても、袁紹がたった6年の服喪で名声を得たのに比べると、王祥は30年の隠棲。
5倍の時間がかかった。
やっぱり名声で出世するのは大変なんだね。
出世目的なら、名声ロビー活動するより他のことやったほうがいいんでない?
491 :
世界@名無史さん:2011/09/15(木) 23:47:22.93 0
>>490 アホがおる。
王祥が仕官したのは後漢末だぞ。袁紹と比べてどうする。
違った。アホは俺か。
夏侯氏や鍾氏クラスの子弟なら仕官すればそこそこは出世しただろうが、
そんなの特例中の特例だし、そんな優遇環境でも凡人だと思われたら「そこそこ」で終わる。
どんな功臣の息子でも、世論に「駄目な奴は何をやっても駄目」と評価されたら、はいそれまでの社会。
軍功だけではせいぜい雑号将軍止まりで、それを超えると文欽のように嫌われる。
いずれ官僚としての評価を経なければならない。
皇帝直々の寵愛を受ける、ってのが「名声」以上に出世できるよりよい道だが、
確率的にこっちの方が遥かに低いのは当たり前だね。
495 :
世界@名無史さん:2011/09/16(金) 00:17:25.01 0
世論を味方につけるには、大々的な施しや贈り物、推薦だろうね。
結局、金持ちしか出世できないような仕組みになっている。
服喪だって、仕事をしないでだらだら数年過ごせる金持ちしかできないことだしな。
そうだよ。後漢から。
袁紹も袁術も累代三公の子弟でありながら名声活動を行ったし、
そうしなければ史書に名を残すほどにはなれなかった。
おそらく仕官した二世のほとんどが力を入れた活動。
だからなんなの。
497 :
世界@名無史さん:2011/09/16(金) 00:25:28.40 0
出世のために、貧民に施ししたり、仲間に贈り物したりする行為って、
別に名士特有の行為じゃないと思うのだが?
政治家や実力者ならみんなやっておる。
名士だなんだと名前をつける必要を感じない。
世界史には、
大臣の子弟が自動的に公職を世襲する時代がある。
筆記試験によって登用が決まる時代がある。
武家のように嫡男がほぼ自動的に人と土地を世襲する時代がある。
そして、高官の子弟といえど、世論を掌握して名声を高めなければ出世できない時代がある。
なんで区別する必要が無いのか、理解に苦しむ。
>>485 琅邪王氏はたまたま後漢では三公格の目立つ人間が少なかっただけで元から結構な名門大族じゃないか?
前漢や新では列侯かつ三公二人輩出してる訳だし、孫堅の上司の王叡も琅邪王氏だぞ?
>>485 王祥の父は仕官してないけど、祖父は漢の青州刺史で、叔父は孫堅に殺された荊州刺史王叡という名門だよ
王祥は隠棲時代の孝行話で名声を得たわけだけど
出世に関しては本人の能力(呂虔の下での)が大きいでしょ。
それから三公になるまで更に30年掛かるわけだし。
魏の時代が、後漢末と同じかどうかもよく分からない。
考課(勤務評価の基準)をこしらえようと躍起になっていた時代でもあるわけで。
許劭とか郭泰みたいな人物評を行う人も出て来ないし。
名声(虚名)よりも実力やコネ(門閥)の時代だと思うけどな。
考課法自体は色々出たけど結局漢代と変わってないんじゃなかったっけか。
後漢末と違ってあんまり機能不全に陥ってないだけで。
九品官人法って少なくとも魏の時代は機能してたよね
寒門出身の高官も少なくなかったし
考課(勤務評価)と九品官人法(採用評価)の議論はまた別の話ではあるが。
曹操時代の股肱からの叩き上げは九品官人法通ってないと思うし、
時系列的に九品官人法通ってて、寒門で大官に上ったのって、石苞以外に居たっけか。
石苞も十代前半でいきなり郡の小役人やってるあたり、純然たる寒門とも思いがたいんだよなぁ。
名士に見いだされてる点でも微妙な感じを覚える。
そもそもバリバリの司馬氏閥だし。
毋丘検や文欽の父親は名士だったんだろうか
>>505 毋丘倹の父は涼州方面で活躍して郷侯に封じられ、将作大匠に昇った実力者
文欽の父は曹操配下の騎将で、文欽が魏諷の乱に連座した時に、曹操が父の功績に免じて許すと言ったほどの人物
>>504 同じく司馬氏閥の出身だけどケ艾あたりかな。
508 :
世界@名無史さん:2011/09/16(金) 17:11:05.55 0
>>503 夏侯玄の発言を見る限りだとどうなんだろうね。
>>504 王経は?後ろ盾がないのに雍州刺史、司隷校尉、尚書を歴任。
あまりの栄達ぶりに母がびびったほど。
510 :
世界@名無史さん:2011/09/16(金) 18:36:36.53 0
王経は農家出身だが、農家にも貧乏小作から富農までいろいろあるからな〜。
富豪の生まれの張既も寒門扱いなんだがな
寒門は別に貧乏を意味しないもの、何も不思議じゃない
>>512 だから、勢族と寒門の分かれ目は地元政界への政治的影響力で、資産は関係ないって思うのさ
>>504や
>>510が疑問を呈してたから、寒門=貧乏な平民って誤解があるのかと思って
514 :
世界@名無史さん:2011/09/17(土) 11:17:04.27 0
>>514 それなのに中央に戻って、尚書や司隷校尉に栄転してるあたりが只者じゃない
516 :
世界@名無史さん:2011/09/17(土) 13:11:40.77 0
同姓同名の別人説があるけど、
どうなのだろうか?
>>514 それに関しては時の魏の皇帝が
それぐらいの敗北なら王経。
っていったんだとか。
/\
, @ / .※ > ))
ノ) ∧..∧ ゞ \__/
ノヘY!ヽ / iつ><) * ミ
〃 ` ,.・ 彡〈 丿y⊂}__) @、 o
(___,,_,,___,,_) ∬
彡※※※※ミ !匹 ミ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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\ /バカヤロー \ #ひっこめー#
l|||||||||||||| ∩,,∩ ∩,,∩ ∩,,∩ ミ∩ハ∩彡
(,# )(,,# ) # ,,) (# )(# )
尚書として死んだ清河の王経には雍州刺史の経歴がある。
姜維に大敗した人物と別人とするなら相当の根拠が要る。
521 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 16:18:44.81 0
袁紹が名士に支持されたって本当か。
袁紹の「奔走の友」で実力者になった名士って、ほとんど董卓政権についてるんだが。
何ギョウなんて、董卓のために正確な情勢分析をしている。
522 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 17:14:42.45 0
奔走の友
何ギョウ
呉子卿
伍徳瑜
…洛陽を逃げ出した袁紹にはついていかず、董卓政権で高官となる。
張バク
…やはり袁紹にはついていかず、董卓政権から陳留郡太守をもらって普通に勤務。
奔走の友で袁紹についてったのは許攸だけ!
523 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 17:28:09.66 0
張バクって、袁紹よりも曹操と歩調を合わせてるように思うのだが。
関東諸侯一斉蜂起でも、袁紹ではなく曹操と一緒に動いてるし。
>>522 何ギョウと伍徳瑜(伍瓊)は鄭泰・周とともに、出奔した袁紹を渤海太守に任命するように画策。
また、この四人は人事を掌握して、後に反董卓連合を結成する人々を刺史や太守に任命。
反董卓連合が決起すると、伍瓊と周は朝廷内の反董卓派をまとめあげて気脈を通じる。
伍瓊は長安遷都に反対して処刑され、何ギョウは董卓暗殺の陰謀に参加したけど露見して獄中で自殺。
どうみても董卓の獅子身中の虫でした、ありがとうございました。
呉子卿?どこいったんだろうね?
525 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 18:20:10.44 0
>>524 >後に反董卓連合を結成する人々を刺史や太守に任命。
「刺史や太守にしてあげるから、董卓に反乱してね(はぁと」
なんて約束あるわけないだろ。
そんなもんがあったら史書に間違いなく書かれるはず。
劉備の入蜀に協力した張松みたいにな。
でもない。
>反董卓連合が決起すると、伍瓊と周は朝廷内の反董卓派をまとめあげて気脈を通じる。
反董卓連合と戦ってるころは、董卓政権内でで反董卓の動きなんてないぞ。
>伍瓊は長安遷都に反対して処刑され、何ギョウは董卓暗殺の陰謀に参加したけど露見して獄中で自殺。
何ギョウの方は、暗殺にかかわったのではなく、別件で投獄されただけ。
伍瓊にしたところで、董卓が長安遷都を計画したために処刑されたということは、董卓が軍事的に負けかける頃までは普通に高官やってたことになる。
>どうみても董卓の獅子身中の虫でした、ありがとうございました。
てかさ、董卓暗殺計画ってほとんどが長安遷都後なんだが。
526 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 18:23:15.15 0
董卓政権が反董卓連合を結成する人々を刺史や太守に任命したのは、
もともと反抗しそうだった連中を懐柔するためだろ。
それでも全然足りなかったので反董卓連合が蜂起。
527 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 18:42:29.15 0
>>524 >何ギョウと伍徳瑜(伍瓊)は鄭泰・周とともに、出奔した袁紹を渤海太守に任命するように画策。
>また、この四人は人事を掌握して、後に反董卓連合を結成する人々を刺史や太守に任命。
推挙されたのは荀爽、韓馥、劉岱、孔チュウ、張咨、張バク。
袁紹派(ていうか曹操派)なのは張バクだけ。
だいたい、関東諸侯って実際にはほとんど董卓と戦闘しなかったから、ガチの戦争やる気があったのか怪しい。
連盟して圧力をかけ、董卓に要求飲ませたかっただけじゃないのか。
>>525 後漢書を読まずに「奔走の友は董卓に味方した」なんて妄想をたくましくしてる人にレスするのはめんどくさいけど、
該当箇所を原文で抜き出しておきますね。
訳文書いても、恣意的に解釈したととられたらかなわんので。
・袁紹と何ギョウ、伍瓊らがもともと気脈を通じていたことに関する記述
侍中周、城門校尉伍瓊、議郎何ギョウ等,皆名士也,卓信之,而陰為紹(三国志魏書袁紹伝)
董卓購募求紹。時侍中周ヒ、城門校尉伍瓊為卓所信待,瓊等陰為紹説卓曰(中略)
卓以為然,乃遣授紹勃海太守,封タイ郷侯。(後漢書袁紹伝)
・伍瓊らの人事が董卓への裏切り行為であったことに関する記述
初,卓信任尚書周,城門校尉伍瓊等,用其所舉韓馥、劉岱、孔チュウ、張咨、張バク等出宰州郡。
而馥等至官,皆合兵將以討卓。卓聞之,以為、瓊等通情賣己,皆斬之。(三国志魏書董卓伝)
卓怒曰:「諸君言當拔用善士,卓從君計,不欲違天下人心。而諸君所用人,至官之日,還來相圖。卓何用相負!」
叱令出,於外斬之。(三国志蜀書許靖伝)
・反董卓連合軍と伍瓊一味が内応していたことについての記述
初平元年,馥等到官,與袁紹之徒十餘人,各興義兵,同盟討卓,而伍瓊、周ヒ陰為内主。(後漢書董卓伝)
・何ギョウの董卓暗殺計画が露見して投獄され、獄中自殺したことに関する記述
事垂就而覺,收ギョウ、攸繋獄,ギョウ憂懼自殺(三国志魏書荀攸伝)
乃與 何ギョウ、荀攸共謀殺卓。事洩,ギョウ等被執(後漢書鄭泰伝)
529 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 19:17:04.00 0
反董卓連合のタイムテーブル
190年1月、蜂起。
190年2月、曹操が徐栄にボコられて退場。
191年2月、孫堅が華雄を撃破
191年4月、董卓、長安に撤退
関東諸侯なにもやってねえじゃん。
530 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 19:40:24.80 0
>>528 >・袁紹と何ギョウ、伍瓊らがもともと気脈を通じていたことに関する記述
別にその点は誰も否定していない。
何ギョウや伍瓊は、嫌がる袁紹を董卓政権で働かせようとしたんだ。
結局、袁紹は官位を受けて渤海太守となった。
>・伍瓊らの人事が董卓への裏切り行為であったことに関する記述
>初,卓信任尚書周,城門校尉伍瓊等,用其所舉韓馥、劉岱、孔チュウ、張咨、張バク等出宰州郡。
韓馥、劉岱、孔チュウ、張咨、張バクを推挙したのは、何ギョウと鄭泰も同罪だろ。
裏切り人事や袁紹とながってるのが処刑の原因なら、なぜ何ギョウと鄭泰は殺されないのだ?
>・反董卓連合軍と伍瓊一味が内応していたことについての記述
内応したのは、反董卓連合の決起前か決起後かどっちだ?
反董卓連合決起後なら、単に節操がなかっただけじゃないの。
董卓が不利だから関東諸侯についた。そんだけ。
>・何ギョウの董卓暗殺計画が露見して投獄され、獄中自殺したことに関する記述
通鑑考異では、荀攸が暗殺計画を練る前に何ギョウは死んでるよ。
資治通鑑でも、荀爽と何?は董卓を暗殺しようとしない。
>>528 >乃與 何ギョウ、荀攸共謀殺卓。事洩,ギョウ等被執(後漢書鄭泰伝)
後漢書何?伝ではそんなこと書かれてないんだけど。
乃與司空荀爽 司徒王允等共謀卓 會爽薨 ?以他事為卓所系 憂憤而卒
荀爽と王允が董卓を暗殺しようと謀略を練ったけど、何もしないまま荀爽が死んじゃいました。
何ギョウさんは別のことで捕まって自殺しちゃいました。終わり。
>>527 ・関東諸侯の戦意が乏しかった理由についての記述
卓兵彊,紹等莫敢先進。(三国志魏書武帝紀)
あと、諸侯は後々のために兵を損じたくなかったという記述があった気がしたが、見つけられず。
>>529 ・関東諸侯でも戦った人間はいました
河内太守王匡,遣泰山兵屯河陽津,將以圖卓。卓遣疑兵若將於平陰渡者,
潛遣鋭衆從小平北渡,繞撃其後,大破之津北,死者略盡。(三国志魏書董卓伝)
ベン水之敗,(鮑)信被瘡,(鮑信の弟鮑)韜在陳戰亡。(三国志魏書鮑伝注)
533 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 20:04:49.89 0
>>532 諸侯は董卓なんかより自分たちの勢力争いの方が優先だった。
こんな奴らが董卓に対して連合して立ち上がったのがそもそも不自然で、
やっぱりほとんど何もしないまま仲間割れして解散しちゃったわけで。
王匡の場合、曹操と同じで単独で突っ込んで負けちゃった。
諸侯の連携が全然できてない。
>>530 >何ギョウや伍瓊は、嫌がる袁紹を董卓政権で働かせようとしたんだ。
>結局、袁紹は官位を受けて渤海太守となった。
>而陰為紹
>瓊等陰為紹説卓曰
袁紹のためとはっきりと書かれている。
彼らが董卓側の人間として、董卓の利を図るために官位を与えたとは書かれてない。
>裏切り人事や袁紹とながってるのが処刑の原因なら、なぜ何ギョウと鄭泰は殺されないのだ?
伍瓊と周の処刑の直接の引き金は、遷都を諌めたこと。
つまり、かねてより怪しかった人間が表立って董卓に刃向かったから、
憤懣が爆発して「よくも裏切ってくれたな!」と罵って処刑した。
何ギョウと鄭泰は尻尾を掴まれるようなボロを出さなかったのだろう。
伍瓊や何ギョウは長安に引っ込んで、清流名士との連立政権を解消する以前の董卓が、
疑わしいだけで殺せるような小物ではなかったし。
535 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 20:17:56.18 0
関東諸侯とか反董卓連合とかいうと、まるで袁紹や劉岱や孔チュウたちが一箇所に集まって酒盛りしてるイメージだが、
実際には結構ばらばらに散らばっていて(自分の領地を留守にしたくないので当たり前)、
それぞれが小グループを結成し、一応袁紹を盟主として同じ声明を出した程度のもの。
王匡や曹操は、志が高くて特攻して玉砕したのではなく、単に別々の場所で反乱しただけ。
536 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 20:33:25.45 0
>>534 >彼らが董卓側の人間として、董卓の利を図るために官位を与えたとは書かれてない。
「袁紹に関東を巻き込んでの一斉蜂起を吹き込んだ」とも書かれていないがw
>伍瓊や何ギョウは長安に引っ込んで、清流名士との連立政権を解消する以前の董卓が、
>疑わしいだけで殺せるような小物ではなかったし。
既に袁隗という大名士を族滅してるくせに、弱気なことだなぁ。
>>530 >内応したのは、反董卓連合の決起前か決起後かどっちだ?
伍瓊らは決起前から袁紹のために動いていた人間。
そして、決起した人々はもともと伍瓊らが官位に就けた名士。
以前から陰に陽に身内の袁紹や名士のために便宜を図っていたが、
彼らが決起したから、内応という形で便宜を図ったと考えるのが妥当だろう。
>通鑑考異では、荀攸が暗殺計画を練る前に何ギョウは死んでるよ。
>資治通鑑でも、荀爽と何?は董卓を暗殺しようとしない。
司馬光が何ギョウの董卓暗殺計画への関与を否定する根拠としたのは、
魏書に何ギョウの共謀者として名前が出た鄭泰と伍瓊が既に死んでいるからという理由だが、
伍瓊は確かに長安遷都の際に死んでいるものの、鄭泰が荀攸や何ギョウと計画を練っていたことは
後漢書の鄭泰伝に明記されており、鄭泰が死んだのは計画が露見して逃亡した後。
この時、何ギョウらが捕らえられたのも、上で引用した鄭泰伝の原文にあるとおり。
つまり、司馬光が考証を誤っている。
資治通鑑でも、荀爽と何?は董卓を暗殺しようとしない。
>>531 >以他事為卓所系 憂憤而卒
他の伝にある記事から推測するに、荀爽・王允らとの計画が頓挫した後に、
鄭泰・荀攸らとの計画を練ったのではないだろうか?
それが何ギョウが捕らえられた「他事」に相当すると推測する。
鄭泰や荀攸との計画が存在していないなら、魏書の荀攸伝や後漢書の鄭泰伝に書かれているのはおかしい。
特に鄭泰伝は何ギョウ伝と同じく范曄が編んでいるのだから、なかった計画をわざわざ別伝に書くのはおかしい。
がんばるねえ
>>536 >「袁紹に関東を巻き込んでの一斉蜂起を吹き込んだ」とも書かれていないがw
もともと袁紹に味方していたこと、親しい名士に官位を与えたことは史書に明記されている通り。
伍瓊らはもともと袁紹の味方。
蜂起するにしても、しないにしても、袁紹らが官位を得て力を付けることは、彼らにとって望ましい。
一方、董卓にとっては潜在的な敵派閥が付けることになるから、董卓の利益にはならない。
>既に袁隗という大名士を族滅してるくせに、弱気なことだなぁ。
袁一族の族滅は、反逆者である袁紹の一族に対する国法に則った合法的な処罰。
長安遷都に反対するまで伍瓊や周が公然と董卓に反抗したことはなく、処罰する大義名分がない。
400番台で言ってる、「袁紹が名士に支持された」ってのは、
党錮〜何進に仕えた時期の話だぞ。
董卓の変では、この支持層は当然割れてる。袁紹自身も含めて。
「朝廷派」と「反董卓派」にね。
朝廷に残った者にも、袁紹を支援したらしき者、あとから董卓を見限った者、いろいろいるが、
朝廷自体を敵とするような大乱に、一介の名士の袁紹が天下の信望を一身に集めた、
なんて想像したのだとしたら、その想像力がおかしい。
>袁紹が名士に支持されたって本当か。
と
>袁紹の「奔走の友」で実力者になった名士って、ほとんど董卓政権についてるんだが。
>何ギョウなんて、董卓のために正確な情勢分析をしている。
は繋げてはいけない。
反董卓の乱が、どうして漢の政治的統一を決定的に破壊するほどの大乱に成長できたのか、
ってのは、どうも史書では明瞭でない。
地方分立の群雄時代を期待するなら、わざわざ洛陽へ向かう必要は無いわけで。
声だけ挙げて、兵力集めて、自分の州郡で力を蓄えれば良い。
具体的には陶謙・公孫サンのように。
(陶謙はのちに朱儁を応援するが)。
そうではなく、三方から数万の軍が洛陽を包囲しようと動いたのは、
反乱に一定の展望があったことを示すだろう。
廃帝・弘農王の存在がそれだと思うのだが。
>>540 党錮から宦官誅滅の時期までの間ですら、袁紹が天下の名士に支持されたとは思わないよ。
袁紹を支持したのは、行動的で反社会的な気風がある一部の連中。
保守的な人間や、道徳にうるさい人間は袁紹を支持していない。
袁紹一派が目立ったのはその派手な行動のおかげ。
(奔走の友を従えて市井で豪傑と交際する袁紹、虞偉高の仇討ちをした何ギョウ、貪欲なれど危難を救う行動力があるとされた許攸)
そして、袁紹の支持層は関東諸侯と董卓の朝廷にわかれたが、
袁紹やその仲間を強くするということと、内外からの董卓への抵抗という志で一致しており、
董卓に付いていないというのが私の見解。
宮城谷さんの物語が好きそうだね
544 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 22:01:55.03 0
>>539 >伍瓊らはもともと袁紹の味方。
味方だと思ったから、何ギョウや伍瓊らは袁紹を出世させてやろうとした。
でも袁紹は何ギョウらの好意を蹴飛ばして逃げ、董卓政権に反旗を翻した。
何ギョウらに推薦された袁紹たちが反乱を起こせば、何ギョウらが極めて危険な立場に立たされるのはわかっていたはず。
袁隗だって族滅されたのだから。
やっぱり、友達だと思ってたのは何ギョウたちだけなんだよ。
袁紹は何ギョウや伍瓊なんてどうとも思ってなかった。
何ギョウなんて、董卓に反董卓連合の正確な情勢を述べた後、「俺が司令官になってあいつらぶっ殺す」と董卓に申し出たぐらいなんだから、袁紹の裏切りをめちゃくちゃ怒ってるだろ。
>>543 読んだことないよ。
史書にない解釈やオリキャラが出てくる小説は読んでて辛いからね。
546 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 22:17:11.16 0
>>542 >そして、袁紹の支持層は関東諸侯と董卓の朝廷にわかれたが、
>袁紹やその仲間を強くするということと、内外からの董卓への抵抗という志で一致しており、
>董卓に付いていないというのが私の見解。
袁紹を強くするのに、なんで渤海みたいな辺境に送り込んだの?
どうみても陸の島流しなんだが。
反董卓連合でも、袁紹の地位は不安定そのもの。
所詮太守レベルじゃ諸侯を管制できるわけない。
>>544 ずっと疑問に思ってたけど、やっぱ後漢書読んでないでしょ?
反董卓連合軍の分析を述べた後に、自分が討伐するって言ったのは鄭泰だよ。
鄭泰は討伐軍の指揮官に任命されたけど、
董卓に「鄭公業智略過人,而結謀外寇,今資之士馬,就其黨與,竊為明公懼之。」
(鄭泰は智謀があって外敵と結んでるから、兵馬を与えたら寝返りますよ)
という人間がいたために解任された。
これは鄭泰伝にある。
鄭泰の分析っていうのは、董卓の関東出兵に反対意見を言ったために不機嫌にさせてしまい、
その場を繕うために詭弁を弄したに過ぎないのも、文中に明記されてる。
公業恐其衆多益,凶彊難制,獨曰:「夫政在コ,不在衆也。」
卓不ス,曰,「如卿此言,兵為無用邪?」公業懼,乃詭詞更對曰(後漢書鄭泰伝)
申し訳ないけど、あなたが原典にあたってないことが分かったので、
読んでからおいでなさいね。
548 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 22:18:22.16 0
>何ギョウなんて、董卓に反董卓連合の正確な情勢を述べた後、「俺が司令官になってあいつらぶっ殺す」と董卓に申し出たぐらいなんだから、袁紹の裏切りをめちゃくちゃ怒ってるだろ。
ごめん、これ何ギョウじゃなくて鄭泰だったわ。
>>546 紹勃然曰:「天下健者,豈惟董公!」刀長揖徑出。懸節於上東門,而奔冀州。
董卓購募求紹。時侍中周、城門校尉伍瓊為卓所信待,瓊等陰為紹説卓曰:(中略)
卓以為然,乃遣授紹勃海太守,封タイ郷侯。(後漢書袁紹伝)
董卓が冀州に逃亡した袁紹を指名手配したから、
伍瓊らはそれを取り消させるために、董卓を言いくるめて、
逃亡先の冀州に居着けるように、とりあえず渤海太守にしてやったってこと。
董卓の手が伸びる洛陽近郊に呼び戻したら、面倒なことになりそうなのは明らかだしね。
550 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 22:29:49.47 0
>>547 >(鄭泰は智謀があって外敵と結んでるから、兵馬を与えたら寝返りますよ)
こういうヤッカミは、史書に登場する名臣のエピソードにはよくあるものだが?
ホントに裏切ったのはかなり少数派。例えば劉備とかw
>鄭泰の分析っていうのは、董卓の関東出兵に反対意見を言ったために不機嫌にさせてしまい、
>その場を繕うために詭弁を弄したに過ぎないのも、文中に明記されてる。
それは後漢書書いた人の意見でしょ。
董卓のために献策したのは確か。
>>550 悪いけどね、議論の前提となる知識が完全に欠けてるのに、
無知ゆえの誤解を斬新な新説と思い込むのはやめたほうがいいよ。
新説を唱えるなら、その論拠となる記述をすらすら引っ張ってこれるぐらい原典を読みこんでからにしてね。
本人の伝だけじゃなくて、関係人物の伝を比較検討できるぐらいね。
あと、君よりは范曄の意見のほうがずっと信頼性あると思うよ。
范曄は正史の編者だから、当然拠るべき典拠があっての意見だけど、
君の意見は基本知識すら怪しくて、典拠がないという有様だもの。
552 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 22:40:32.75 0
>>549 そもそも袁紹が逃げたりしなきゃよかったわけだが。
そしたら何ギョウたちも遠慮なく袁紹を助けられたはず。
董卓だって、袁紹にもっと高位をあげられたはず。
なにしろ、董卓の周りにいるのは袁紹派の何ギョウたちなんだから!
ホントなぜ袁紹はなぜ逃げたのだ?
553 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 22:45:44.53 0
>>551 俺が引っ張ってるのは司馬光なんだから、俺の意見じゃなくて司馬光の意見なんだが?
司馬光より范曄の方がより正しいという根拠をどうぞ。
554 :
世界@名無史さん:2011/09/18(日) 22:47:48.81 0
>>551 比較検討する限り、何ギョウが董卓暗殺計画に関与した根拠はないね。
だって、未遂のまま、案出した人間が死んでつぶれた話じゃん。
一体誰が彼らのたくらみを聞いたわけ?
>>542 >袁紹を支持したのは、行動的で反社会的な気風がある一部の連中。
だけが、洛陽に邸宅を構える袁紹の元に車で列を成して通いつめたってのは、
数的におかしいだろう。
なんせ宦官寵臣の嫌悪を招いたほどの盛況ぶりだったんだから。
一口に「儒学的名士」とか言っても様々な派閥や考えがあったし、
年齢的に見ても、別に袁紹が「天下名士の信望を一身に集める最大権威者だった」
なんて言わないよ。
ただ、当時の政治状況を想起しなければならない。当時は「保守」が野党だったんだ。
袁紹は、宦官の専横と腐敗が「保守的」で「道徳にうるさい」儒士派から強く批判される中で
反宦官の立場で行動を示して頭角を現した、「若手代表格」だった。
>>553 >司馬光より范曄の方がより正しいという根拠をどうぞ。
普通、より原点に近い史料を実見した人間の方を先に信じるわな。
古い方が間違っている、後の時代の人間の方が正しい、というなら、
そう判断した人間が根拠を提出し、批判に堪える義務がある。
おっと失礼。
>>556-557は横槍。
ageの人にメインで対応してるのとは別人なのであしからず。
司馬彪の意見が聞きたい
560 :
555:2011/09/18(日) 23:23:23.51 0
よく読んでみたら、俺と542氏とは袁紹観が正反対なんだな。
俺は、189年以前、政治が「宦官派」か「反宦官」かという軸で回っていた時代に、
袁紹が「反宦官の若手行動派代表」として名声を急激に高めた、と判断している。
しかし、189年に董卓が政権を握ると、軸が変わる。
反乱の題目である「反董卓」は、ともすれば「反朝廷」に繋がりかねない。
名目はなんにせよ洛陽を武力攻撃するのだから、この重みは党人の不法な救出作戦とは比べ物にならない。
だから朝廷≒董卓に本心から附いた名士・高官も少なからず──というか、かなり多くいただろう。
反乱は、董卓新体制が走り出して一つの安定を見た後に、不平派が起こしたものだから、
ともかくも名士を重用した董卓の下で積年の問題を一掃しようと試みた者が多数残留しても不自然なことではない。
その一方で、洛陽では陰謀劇やらなにやらが企まれたわけだが、
その全てが袁紹らの反乱誘導や、呼応を目的とした、高度な連携のものだと断定することまでは、ちょっと出来ないな。
>>555 弘農楊氏や袁紹を除く汝南袁氏のように、儒教的な道徳律によって高評価を受けながら、
朝廷でも宦官とそれなりに共存できている人々が、当時の政界の主流たる保守だと思ってる。
学を修めて人格を磨くだけなら宦官の権勢に抵触しないし、
だからこそ、保守的な名士が党錮の後も、三公九卿の座を占め続けることができたんだろうと。
そして、その手の保守的な名士ってのは、伝記を見るとかなり大きな声望を集めてる。
こういう政界上層にいる体制派の名士の支持層が多数派与党じゃないかと思うわけだ。
袁紹一派が名を上げたのは、守るものがない少数派ゆえに身軽に動けて、
尖鋭的な方向に深化して目立ったからじゃないかと。
范曄の後漢書が信用できるって言うけど、范曄自身が後漢書党錮列伝で「何ギョウは他事で捕らえられた」と暗殺への関与を否定しているよ。
荀爽と王允と一緒に謀ったとはかかれていない。
>>560 董卓支持に回った名士は、宦官政権に暗黙の支持を与えていた保守派の名士だと思うよ。
誰が政権握ろうと、政界の上層部に生き残る人たち。
だから、前政権と同様にポストを保証されてる董卓政権に不平を抱く理由はない。
不平を抱くなら、政界での保身と栄達以外の目的で動いてる人たちでしょう。
身分の安定をなげうってでも政権をひっくり返したい人たち。
さすがに袁紹一派が長期的な展望を持って、
刺史や太守の職を手中に収めてからの一斉蜂起を考えてたとは思わないけどね。
ボスの袁紹が董卓と対立して洛陽から逃亡
↓
董卓の政権が安定して、ボスを欠く袁紹一派が対抗できる目はないから、
まずは人事権を行使して、地方に仲間を送り込んで地盤を作る事を優先
↓
どういうわけか、地方に送り込んだ仲間が暴走し、ボスを担いで反乱
↓
予想外の事態に困惑したけど反乱軍は仲間だから、洛陽で陰に陽に董卓の足を引っ張って援助
こんな感じだと思う。
>561
いや。
楊氏はともかく、汝南袁氏は学識によって勃興したが、代を経るに連れて道徳を失い当時の権力に寄り添ったと批判されている。
当時三公九卿にいた名士達は「官界では保守」ではあろうし、それぞれに名声も信望も持っていたが、
その「官界保守」には、党錮で洛陽を追われたり自主的に離れた名士・諸生・門徒、数万が数に入ってない。
袁紹の支持基盤はそっちにある。
また少し軸が変わってからのことになるが、冀州支配に乗り出してからの袁紹が、
地元人や中原からの避難組の大きな支持を得ることができたのも、かつての基盤があったからこそ。
>>537 >他の伝にある記事から推測するに、荀爽・王允らとの計画が頓挫した後に、
>鄭泰・荀攸らとの計画を練ったのではないだろうか?
「何ギョウは二回暗殺計画に参加した」なんて、どこの史書にもない主張だぞ。
いったい誰が言ってるんだね。
>>564 批判されていてもなお、その支持は絶大だったってことじゃないか?
汝南袁氏の門生故吏の多さや支持の厚さは、史書のあちこちで言及されている。
>>561で「袁紹を除く汝南袁氏」と言ったとおり、袁紹と汝南袁氏の支持層は違う。
だからこそ、袁隗や袁基ら汝南袁氏嫡流は党錮の時代から関東諸侯の蜂起まで、一度も袁紹に味方しなかった。
袁紹は独自の支持基盤を得た代わりに、汝南袁氏の支持基盤は引き継げなかったと思う。
群雄割拠後の袁紹の声望の源は、常に政界の中心にいて宦官や董卓と対抗してきたという実績が、
乱世では頼もしく思われたからじゃないか?
弘農楊氏や他の名門の子弟が地方で割拠を目指そうとしても、こうはいかなかっただろう。
>>563 そうだね。「官界保守」と「道徳的保守」の食い違いだな。
ただ、董卓支持、というか洛陽残留派にも、
荀爽や皇甫嵩・朱儁・王允といった、
霊帝時代の官界内部批判派や反宦官派がいることもお忘れなく。
>批判されていてもなお、その支持は絶大だったってことじゃないか?
そうだよ。特に官界でね。
袁氏伝統の官僚的学派的コネと、袁紹個人の清流的コネが相乗して、彼を最大群雄へのし上げた。
>>565 荀攸伝と鄭泰伝にある鄭泰、荀攸らの計画と、
党錮伝にある荀爽、王允らの計画は参加してる人間がかぶってないが、
どちらも計画の存在を否定するに足る記述はない。
荀爽の死後に他事で何ギョウが捕らえられたということと、
鄭泰らの計画が発覚して、何ギョウが捕らえられたという記述は、
鄭泰らの計画発覚を他事とするとスムーズに繋がる。
史書には、他に何ギョウが死に追いやられた理由と推測されるような重大な事件は載っていないので、
おそらくは鄭泰の計画が他事だろうと思われる。
途中で送信しちゃった。
>汝南袁氏の支持基盤は引き継げなかったと思う。
紛れも無く引き継いだよ。
「あの人の親父に恩があるから、子供に返そう」ってのが当時の道徳だから。
群雄割拠に入ると、朝廷派・反朝廷派という軸が消える。
だから、袁氏の門生・故吏は、反朝廷などという汚名を気にすることなく、
個人的名声の高い袁紹を選んで味方することが出来た。
571 :
555:2011/09/19(月) 00:20:29.74 0
572 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 00:25:37.90 0
>>568 >袁氏伝統の官僚的学派的コネと、袁紹個人の清流的コネが相乗して、彼を最大群雄へのし上げた。
袁紹シンパの清流派は董卓政権にいた。何ギョウとか。
袁紹が反乱やったせいで彼らは全滅した。
反董卓連合瓦解の時点で、袁紹はただの根無し草に過ぎない。
賭けに負けて見事にスッテンテン。
袁紹が最大の群雄になるのはもっと後のお話。
>>566 >常に政界の中心にいて宦官や董卓と対抗してきたという実績が、
袁紹が政界の中心にいたことはほとんどない。
何進に招聘された時代が一番それに近いが、当時の政界の中心は宦官。
何進は野党党首に過ぎない。
宦官を一掃して中心に座ろうとしたら董卓に掻っ攫われた。
袁紹って後漢朝廷では長年の野党・在野人気質だった人間なのよね。
曹操の方がまだしも中心に近い出世をしている。
同時に橋玄や袁紹と交流したりもしているが。
>>567 荀爽・皇甫嵩・朱儁・王允などは、あくまで朝廷の中にあって、
官界保守や宦官を批判することによって、政治を良くしようとした人々。
あくまで官界秩序の枠で動いてる人々。
袁紹やその支持者のように、過激で極端な行動での変革は望んでいない。
宦官誅滅の時に共に行動した王允がそれ以降袁紹と一度も通じていないのも、
荀爽・皇甫嵩・朱儁らが関東諸侯の挙兵の際に関東に通じなかったのも、
袁紹ら急進改革派と、荀爽・皇甫嵩・朱儁・王允ら穏健改革派の違い。
あなたは袁紹が改革派の星だとの見解のようだけど、
私は袁紹はあくまで改革派の中の急進的な分子の代表的存在と見ている。
袁紹の支持者が急激に増えたのは、関東諸侯の造反で漢の朝廷が全国政権の座から転落し、
朝廷の枠でしか動けない官界保守と穏健改革派が全国的な影響力を喪失して以降だと思う。
>>572 >もっと後のお話。
三年くらい後かな?
>>574 だから、そうだね。って。
そっちが先に、「道徳的保守的」な人間は袁紹を支持してない、って言ったから、
俺は「保守的道徳派は袁紹を支持した。支持してないのは官界派・妥協派・折衷派の方だよ」って
言ってるのに。
>>574 それから、あなたは用語に問題がある。
袁紹は「政治改革」派ではあるが、これは「革新派」じゃないんだよ。
党人ってのは儒学的保守的な価値観に沿って腐敗した政治を刷新しようとする、
いわば「新保守」の立場なんだから。
霊帝は、儒教を遠ざけて、古学を重んじない鴻都門学や宦官を採用した皇帝だった。
これに抵抗したのが党人。
>>570 そのわりに、袁紹に袁氏の門生故吏だからって理由で味方したと思われるのは、
冀州を譲った時の韓馥と、官渡の際に汝南で蜂起して満寵に平定された袁紹支持者ぐらいなんだよね。
袁紹を支持した名士の多くは、汝南袁氏そのものとの縁より、袁紹本人の声望を慕った人々。
前代の官界でそれなりの地位にあった名士の子弟は、多くがそれほど個人的な名望がない曹操に流れてる。
>>573 野党の中心人物として、政局を動かす立場にいたということ。
政界の中心というより、政局の中心という方がわかりやすいかな?
曹操が支持を得たのは、与党である官界保守や、穏健野党である穏健改革派にとって、
官界秩序の維持という点で過激派色が強すぎる袁紹より支持しやすい人物だったからというのが大きかったのでは?
579 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 00:46:50.63 0
>>575 袁紹派名士が全滅した後、袁紹は冀州の地で自ら独自の人脈を築き始めた。
袁紹のコネクションは一回リセットされている。
皮肉にも袁紹自身の手で。
>>576 袁紹の有力な支持者には儒教的道徳律で動いてる人間は居ないから、
袁紹は道徳保守とは言えないというのが私の立場だね。
儒教的価値観で動いてる人間からしたら、袁紹一派を「凶淫不純」(袁術の許攸評)と見る人も少なくなかったと思う。
清廉潔白さを良しとする徳行には欠けるけど、危難の時に頼りになる行動力や智謀の持ち主が揃っていたからね。
儒者としての高い志で悲憤慷慨して世を救おうというより、侠者に近い論理で体制を覆そうとしてるように見えるからね。
その点で官界秩序の中でも、価値観においても、袁紹一派は改革派。
儒教道徳にうるさい人たちは、官界派・妥協派・折衷派に含まれると思うよ。
忠孝の論理を堅持するには、宦官の朝廷に忠を尽くし、家を保って孝を尽くすほうが、
不忠の名を被ったり、家を滅ぼして孝を損ねかねない袁紹に付くより抵抗が少ないからね。
>>578 >冀州を譲った時の韓馥と、官渡の際に汝南で蜂起して満寵に平定された袁紹支持者ぐらいなんだよね。
三国時代の敗者の記述としては十分すぎる
>袁紹を支持した名士の多くは、汝南袁氏そのものとの縁より、袁紹本人の声望を慕った人々。
「累代三公」ってのが群雄袁紹、袁術の強みとして喧伝されていたはずだが。
>前代の官界でそれなりの地位にあった名士の子弟は、多くがそれほど個人的な名望がない曹操に流れてる。
荀氏や郭氏でさえも、同族と思われる者が袁紹に附いている。
「三国志」では曹操に附いて出世した者が大きく取り上げられるから、はじめから有力者が曹操に附いていたと錯覚するだけ。
実際には、三国時代で日の目を見られない羽目になる当時の有力者が多く袁紹に附いたから、官渡前後の苦境に陥った。
>野党の中心人物として、政局を動かす立場にいたということ。
いや、袁紹が政治家として(?)政局を動かしたことは宦官誅殺が初めてで最後だと思うけど……。
>曹操が支持を得たのは、
・戦争が強かったから。
・皇帝を擁したから。
・官渡で勝って袁紹の南下を止めたから。
・その二年後に袁紹が死んで河北が分裂したから。
曹操が政治的に支持しやすい人間だったなんて、いっそ思い切った新説じゃないか。
軍事力や皇帝を擁したことを差っぴけば、儒士に敬遠される典型的酷吏だろうに。
袁紹は、宦官らに対しては苛烈だったが、統治としては名士や豪族の支持を必要とする。
だから冀州統治で地元名士らとの軋轢が表面化すると、袁氏崩壊の一因となった。
>>580 えっと。
儒学のことを、調和と従順を愛する協調主義だとでも思ってないか?
正反対だよ?
>>569 >どちらも計画の存在を否定するに足る記述はない。
肯定する記述もないが…。
後漢書王允伝では、王允の董卓暗殺計画に関与した者の名に、何ギョウの名前はない。
ところが、後漢書荀爽伝の董卓暗殺計画には、荀爽と王允と何ギョウの名前が出ている。
もはや何がなんだか。
「何ギョウだけじゃなく王允も董卓暗殺計画を二回も練った」ことにするのか?
>>577 霊帝の意向と関係なく、弘農楊氏や汝南袁氏や保守的名士の政界における地位は脅かされることはなかった。
彼ら官界保守も鴻都門学や宦官には不快感を示してたし、時には対抗したけど、しょせん保守派内部の政権争いにすぎない。
また、宦官は権力が欲しいだけで、儒教道徳に変わる新しい価値観を持っているわけではない。
党人にも清廉さを良しとする儒教原理主義に則って動く人たちと、
品行が悪くて過激な行動を好む人たちがいて、
前者は袁紹を支持せず、後者が袁紹の支持者だと思う。
袁紹の交友関係の中に、儒教原理主義的な清廉の士はいないから。
>>584 なんというか。
新興勢力の宦官を「保守派」に組み込んじゃうのか。
用語のすりあわせに同意するか反論するかしてくれないと、議論が成立しないんだけど。
それと近いことだが、私的報復の類を袁紹一派の「品行の悪さ」と言ってるのなら大間違いだよ。
母への侮辱を報復して相手を殺した人間が孝廉に選ばれるんだから。
儒学では「反社会的」でもなんでもないんだ。
>>582 私もそう思ってないよ。
原理的にはそうではないかもしれないが、
後漢の多くの人々にとっての儒教はそうであったろうと思う。
>>583 後漢書と三国志の記述を全部信じて、つじつまが合うようにするならそうなるけど。
荀爽・王允・何ギョウの計画が荀爽の死で計画段階で頓挫、一味はなし崩し的に解散
↓
失敗したわけではなく、中心人物荀爽が消えたため立ち消えだから、
董卓を殺したい気持ちは変わらず、何ギョウは鄭泰らと組んで別の計画を立てたが失敗
王允は呂布を抱き込んで成功
時系列的に矛盾してないし、「二回も暗殺計画を寝る人間がいるわけない」という無根拠な先入観よりは、
史書の記述を信用したほうが良い。
董卓暗殺計画関係の記述。
後漢書王允伝・・・荀爽や何ギョウとは謀らなかった。
後漢書荀爽伝・・・荀爽と王允と何ギョウが謀った。
後漢書党錮列伝・・・荀爽と王允が謀った。何ギョウは他事で捕まって死んだ(自殺ではない)。
後漢書鄭泰伝・・・鄭泰と何?と荀攸が謀った。何ギョウは捕まって自殺した。
三国志荀攸伝・・・荀攸と何ギョウと伍瓊が謀った(通鑑考異のツッコミ。何ギョウと伍瓊は既に死んでる)。何ギョウは捕まって自殺した。
>>585 私の考える保守は、辞書的な意味の保守だよ。
政界においては自らの地位と官界秩序の維持。
価値観の点では、穏健で一般的な価値観に忠実であること。
儒教原理主義的党人は政界においては保守的でないし、
価値観においても、清廉さの極端な追求は多くの人の道徳律とは異なるので保守的とは言えない。
侠者のような袁紹一派は言うまでもない。
何ギョウの仇討ちは、これは儒教的な孝の論理ではないね。
むしろ、史記の刺客列伝にあるような戦国の侠客の論理に近い。
父祖への孝心のような仇を討つべき道徳的な論理がないのに、命を投げ出しているから。
どちらも痛快な行動だから、世の喝采を浴びることには変わりないけど、何ギョウの仇討ちは儒教的ではないね。
母への侮辱への報復は、孝心から発しているから儒教的であり、とても社会的。
>>587 >三国志荀攸伝・・・荀攸と何ギョウと伍瓊が謀った(通鑑考異のツッコミ。何ギョウと伍瓊は既に死んでる)。何ギョウは捕まって自殺した。
鄭泰と?輯も参加。
>>588 友情も儒学の五倫の一つだよ。
孝が最も重くなっていくのは後漢から魏晋への禅譲の繰り返しを通じてであってまだ過渡期の最初の方。
友人の親についてなら、ガチガチの儒学的行動と見ていい。
>>586 >荀爽・王允・何ギョウの計画が荀爽の死で計画段階で頓挫、一味はなし崩し的に解散
>↓
>失敗したわけではなく、中心人物荀爽が消えたため立ち消えだから、
>董卓を殺したい気持ちは変わらず、何ギョウは鄭泰らと組んで別の計画を立てたが失敗
>王允は呂布を抱き込んで成功
新説ですな。
で、なぜ王允伝に何ギョウや荀爽と組んだ記述がないの?
不思議なことに、後漢書董卓伝で暗殺計画が発覚するのは、伍孚によるものだけ。
伍孚が返り討ちにあってやられてしまう逸話しかない。
董卓伝には、何ギョウや荀攸による暗殺計画なんて出てこない。
ついでにいうと、董卓伝には伍瓊、鄭泰、何ギョウ、荀爽の暗殺計画も出てこない。
長史や尚書が暗殺計画してばれたなら、確実に記述が残ると思うんだがな〜。
なんでだろ? 史家的に董卓を貶める絶好の記述だと思うが。
本人の伝では綺麗に書く法則が董卓の伝で発動したわけじゃななかろうに
なんか邪推してしまうな
595 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 08:50:48.02 0
邪推ってより妄想だなwww
このスレはたまに糖質が湧くから面白いwww
596 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 13:00:12.69 0
お前ら三国志読めよ。同人誌読んでも何もいいこと無いぞ。
597 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 13:23:06.40 0
伍瓊と伍孚って同一人物でしょ?
598 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 13:51:16.92 0
>>596 後漢書と晋書、できれば華陽国志も押さえといてほしいな
考察サイト読んだだけで議論しようとする奴が多すぎ
董卓暗殺計画の記述。
後漢書董卓伝・・・伍孚(=伍瓊?)と王允が別々に謀った。
後漢書王允伝・・・荀爽や何ギョウとは謀らなかった。
後漢書荀爽伝・・・荀爽と王允と何ギョウが謀った。
後漢書党錮列伝・・・荀爽と王允が謀った。何ギョウは他事で捕まって死んだ(自殺ではない)。
後漢書鄭泰伝・・・鄭泰と何ギョウと荀攸が謀った。何ギョウは捕まって自殺した。
三国志荀攸伝・・・荀攸と何ギョウと伍瓊と鄭泰とチュウ輯が謀った(通鑑考異のツッコミ。何ギョウと伍瓊は既に死んでる)。何ギョウは捕まって自殺した。
まあ、この暗殺計画が全部本当だとしたら、董卓がぶちぎれるのも当然である。
三國志董卓伝は王允と士孫瑞の計画だけだな
後、洛陽付近での攻防であれだけ派手に闘ってた孫堅の名が
本文に出てこないとか可哀想だな
お前らよくもまあ色々と知ってるもんだが・・・
ならこれはどうだ?孔明の血液型
さすがに血液型までは知らないだろう
で、出題者の貴君は正解を知っているのかね?
まだまだ教えないよ〜^^
606 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 19:30:48.23 0
ジャジャーン正解発表!
正解はAB型だよ。
武候司にある遺髪から鑑定結果が出たそうだよ。
まあ本物だったらだけどね。
607 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 19:33:19.09 0
まぁO型じゃないことだけはわかる。
古い遺品からの血液判定は
基本的に当てにはならんけどな
>>588 辞書的な意味
ほ‐しゅ【保守】 [名](スル)
1 正常な状態を保つこと。「休業時も機械を―する」「線路の―点検」
2 旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること。また、その立場。「―派」⇔革新。
権力側が既得権益を守ることを保守なんて日本語では言わないよ。
だったら今の日本の民主党は保守派なのか?
イギリスの保守党が10年くらい政権とれずに与党を批判し続けたら革新党になっちゃうのか?
馬鹿を言いなさんな。
610 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 20:19:49.65 0
言いたいことがあるなら自分の言葉で言えって曹丕もいってるじゃん。
共通概念だと思っているのは自分だけだから。
議論するきないだろうと思われてもしかたない。
儒学が、国家集権を重んじて事なかれ主義になっていくのは南北朝以降。
後漢中期以降は、侠の概念さえ吸収した最も先鋭的な行動の時代の一つ。
袁紹一派が〜 なんてのじゃなくて、儒学思想全体が、一身・一家の立場を貫いて
時には国家に反抗することを厭わなくなった。禁錮の影響だろうか。
だから、名士や名士予備軍の間では、危険を冒したあだ討ちや、
斬刑を受けた恩人の遺体を引き取って埋葬することが流行った。
世論はそれを支持し、権力者もときにはそれを許さねばならなかった。
孔融の少年時代を見るといい。
後漢末に強調される門生・故吏の命がけの倫理感も同軸線上にある。
前漢後期以降、地方豪族が教養と品行を身に着けて政界に進出していく過程で、
出身層の重複からか、「侠の儒教化」「儒教の侠思想の取り込み」といわれる形で
両者が習合したことは、宮崎市定氏以降、肯定的な論文が多数出ていて、
否定的なものはおそらく無い。
勿論、完全に一体化したわけではなくて、地域社会で侠客として生きた者も多ければ、
ひたすら自重と謙譲を尊んだ儒士も多くいたが。
前漢の儒教の布教度は5%に過ぎなかったが、
後漢末期になると6割とか7割に激増したらしい。
>>601 孫堅の活躍は呉書が盛ってるだけ、って可能性もあるんだろうな
まあ盛ってる可能性はどこにでもあるだろうけど。
孫氏絡みの事件は、呉志第一〜第三が「本紀」相当の扱いになるから、
「列伝」の董卓伝で書かれなくとも不思議じゃない。
それに、陳寿が董卓をあえて悪く書く理由があるとしたら、
それは漢魏晋の交替を正当化するためであって、むやみやたらに貶めるためではないし、
他伝でわざわざ孫呉を持ち上げる義理もなし。
あえて書く理由はあるだろ。
反董卓連合を募る檄文は曹操が書いたものだとしているし、魏・晋につながる動乱の起こり、そして統一に向けて
重要なファクターだ。まちがっても董卓を「良し」とする風潮になるはずがない。
祭りに軍を乱入させて荒らさせたとか廃帝を弑殺したとか書いているのも容赦無い。 どう考えてもよく書く理由がない。
だからそれは、悪臣董卓によって漢王朝の権威が失墜して
魏へ繋がるものとして強調して書かれること。
董卓が孫堅に敗れたことは孫呉にとっては重要だが、
魏晋にとってはむしろめんどくさい話なので、
三国志董卓伝に載らなくても不思議じゃない。
徐栄と曹操の戦いだって董卓伝には載っていない
董卓伝は本紀じゃないし、戦ったのは董卓本人じゃない
武帝紀や孫堅伝に載ってれば十分で、重複の意味がない
一方で、後漢書の董卓伝での孫堅は凄まじい活躍だよな。
徐栄に敗れた後、散兵を収集し、胡軫、呂布を敗走させ。
董卓自身が出陣!?し敗走。さらに再び呂布を逃走させる。
范曄って、本当は後漢書に漢の忠臣として孫堅の伝を立てたかったんじゃね?
>>621 袁術の部将の孫堅という表現が献帝紀ではたびたびでてくるが
>>622 王叡と張咨を斬った時に兵を奪ってるだろうし、
江夏太守劉詳や潁川太守李旻も孫堅に味方してるから、
数万規模の兵力を持ってたんだろうね。
こんな大軍が洛陽近辺にいたら、そりゃ董卓も逃げるわ。
625 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 16:08:05.25 0
>>624 南荊州、江夏、南陽、潁川の兵を全部合わせれば、数万の兵は確実にいたはず。
626 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 16:22:41.53 0
三国志正史自体がほとんどウソ
読んでても陳寿の脚色があまりにも露骨すぎるし
現に戦場跡からは全く何も出てこないし
627 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 16:28:07.16 0
>>626 後漢の人口統計とつつき合わせれば、どの州がどのぐらい人口持ってるかがわかるだろ。
すると、揚州と荊州をもってた孫呉の人口はこのぐらいで、徴兵可能人口は何万人と推測できる。
>>621>>623 後漢書では、袁術も孫堅もともに漢臣としての立場で書かれている。
まあ孫堅は立場上伝を立てるわけにはいかないので、
董卓伝や袁術伝に分散して書かれることになる。
629 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 18:07:09.21 0
孫堅や曹操の伝って書かれなかったんかな?
三国志に司馬懿の伝がないのと同じ理由でしょ
631 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 18:29:55.51 0
>>630 司馬懿司馬師司馬昭伝は時代的に書くことは不可能だけど、孫堅や曹操は違うんじゃね?特に孫堅は。
632 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 18:31:08.27 0
あと、劉備伝が後漢書に無いのも謎だな。
633 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 18:31:59.45 0
結局、三国志以上の資料が無かったということなんかね。
結局、陳寿の小説なんだよ
馬鹿ばっか。
皇帝の伝記を列伝に書く阿呆がいるかよ
636 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 23:11:42.78 0
武烈帝(孫堅)だけでなく、長沙王(孫策)も後漢書には立伝されてない
後漢書自体、三国志より後の編纂なんだし、立伝する意味もそんなにない
孫堅が袁術の部下でマイナー勢力だったから立伝されなかったー、とかでは全然ない。
「立伝する意味もそんなにない」
じゃなくて、
「立伝するなんて侮辱でしかありえない」
だろ。
孫呉が皇帝を名乗ったことを真っ向から否定して喧嘩を売る意図が無い限り。
孫策を後漢書に列伝するということは、呉王朝長沙王の地位を完全否定することになる。
魏・呉・蜀漢はそれぞれ、東晋以降には歴史的な価値を認められた王朝なんだから
わざわざそんな真似をするのは余程特殊な歴史観の持ち主でなければあり得ない。
五胡十六国の皇帝を晋書の載記に入れてるのは、完全に嫌がらせだよねw
范曄『後漢書』が呉の謝承の『後漢書』のかなり強い影響下にあることを忘れちゃいけない。
それを念頭におけば孫堅の記述が充実していることも解決する。
載記なら、正統王朝ではない「僣称」という扱いながらも、
それぞれを独立した国家として認めていることになる。
列伝ではこの独立性さえもなかった「臣」の扱いになる。
後漢書袁術伝・・・
642 :
世界@名無史さん:2011/09/21(水) 14:19:51.20 0
>>637 >>魏・呉・蜀漢はそれぞれ、東晋以降には歴史的な価値を認められた王朝なんだから
この時点で後漢書は時代的価値観的には三国志未満ってことだよな。
>この時点で後漢書は時代的価値観的には三国志未満ってことだよな。
詳しく
644 :
世界@名無史さん:2011/09/22(木) 00:47:38.47 0
程c 200.196cm 「三国志」正史・魏書[程c伝]
許チョ 192.96cm 「三国志」正史・魏書[許チョ伝]
劉備 180.9cm 「三国志」正史・蜀書[先主伝]
諸葛亮 192.96cm 「三国志」正史・蜀書[諸葛亮伝]
趙雲 192.96cm 「三国志」正史・蜀書「趙雲伝」
太史慈 185.724cm 「三国志」正史・呉書[太史慈伝]
陳武 185.724cm 「三国志」正史・呉書[陳武伝]
董襲 192.96cm 「三国志」正史・呉書[董襲伝]
諸葛恪 183.312cm 「三国志」正史・呉書[諸葛恪伝]
劉表 192.96cm 「三国志」正史・魏書[劉表伝]
馬騰 192.96cm 「三国志」正史・蜀書「馬超伝」
ちなみに呂布と関羽の身長は身長9尺、約225cmらしい
尺は後漢では約23センチだから
それらの人物はもっと小さい。
諸葛恪だけ世代が違うが、漢呉で単位が違うかはわからない。
少なくとも魏に倣うことは無いと思うが。
それから、「身の丈八尺」は長身をいう枕詞だから正確な身長には当てにはならない。
董卓政権樹立から董卓の長安撤退までの袁紹派の動きがイミフなんだが。
せっかく董卓政権内に築いたコネを捨てて冀州に逃げる袁紹って何なの?
董卓に重用された袁紹派の清流士大夫の力を持ってすれば、100%州牧になれたはず。
将来はその上だって狙えただろう。
そしたら、冀州でしょっぱい一太守としてスタートラインに立つ必要なんてなかったのに。
袁紹はかなり行き当たりばったりの人生送ってる。
>>643 私は
>>642氏じゃないから本心はどうか知らんが、流れからエスパーするに、
『後漢書』は東晋以前の価値観の影響が強いため、
三国時代にかかってる人物に対する評価のスタンスとして
三国どこかの王朝に寄ってる部分が強いということでしょ。
それは未満と言うより、以前と言うべきだとは思うが。
旧何進一派の粛清が始まってるのに、のんきに洛陽に居残る選択肢はあるまい
>>649 袁紹派自体、何進の故吏でできあがってるじゃん。
何進の故吏であることが原因なら、袁紹シンパの何ギョウとかが重用されるわけない。
何進の故吏の集団が袁紹チームの本当の姿なら、
宦官を全滅させて何進の仇を討った時点で、
もう目的を果たしたので解散だろ。
>>647 袁紹が董卓に州牧にしてもらって満足する人間かよw
その程度の望みしかないなら、宦官の天下ひっくり返そうと思わんかっただろうよ
653 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 10:50:32.32 0
>>652 何進の部下やってたのに、なぜ董卓の部下にはなれないわけ?
袁紹は権力闘争に他人様を引き入れすぎでござる。
>>653 外戚として高位に進み漢の藩屏になることを期待されていた何進と
武力を背景に朝廷で権力を握った董卓は同列にはできないでしょ。
それと、袁紹が実行した宦官誅殺のおいしいとこを董卓が持ってったのも一因あるのでは?
656 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 12:45:25.41 0
>>655 武力だったら何進だって握ってるじゃん。西園八校尉って形で。
董卓が禁軍を吸収したってのも書かれてるし。
>それと、袁紹が実行した宦官誅殺のおいしいとこを董卓が持ってったのも一因あるのでは?
657 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 14:11:09.35 0
>外戚として高位に進み漢の藩屏になることを期待されていた何進と
袁紹が後漢の忠臣だったといいたいのかこの人
658 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 16:24:41.38 0
何進の兵力は、意外と董卓と同じぐらいあったのでは?
西園軍と、袁紹が大量に養ってた私兵で。
袁術ですら200人程度の虎噴を支配下に置いており、
宦官誅殺では組織的に放火して回ってる。
一方の董卓は、兵力が少ないのでパフォーマンスで大軍に見せかける苦労をしている。
659 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 16:35:31.75 0
董卓が洛陽に招かれたとき、意外なことに董卓は涼州軍を連れていかなかった。
董卓政権は軍事力の裏づけがない。
何苗を殺して西園軍を吸収したり、丁原を呂布に殺させて軍を吸収したり、
兵力不足と思われる記述がしばしばでてくる。
あの時の董卓は召還命令シカトし続けてて、
下手に大軍動かしたら反乱とみなされて討伐されかねなかった微妙な立場。
だから、僅かな兵だけ連れて河東で政局を見守ってた。
そしたら皇帝が転がり込んできて、都に乗り込んだら政権が転がり込んだ。
661 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 17:00:41.95 0
董卓の名士重視政策、というよりもほとんど懐柔に近い態度は、やっぱり軍事力がなかったからだろうなぁ。
664 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 19:16:22.17 0
>>411 >さらに兵士からの信望を利して何兄弟や丁原の軍事力を吸収したため。
丁原はどうしようもないが、何兄弟亡き後の兵の管理は袁紹がやるべきだったし、その資格は十分にあったんだけどね。
何進の仇討ちをやったんだからさ。
なのに兵をみすみす董卓に奪われるとか、どんだけ袁紹は支持されてないんだよw
袁紹はその時点で「乱世」になる予感がなかったのだろう
体制内の人間としては正式な印綬も詔もなくみだりにりに
大将軍・車騎将軍の兵を掌握するという発想がなかったのかもしれない
一方のアウトローな董卓はだしやる気マンマンだったし
董旻という伝手もあってかスムーズ
『九州春秋』の正確性にもよるが、兵を日夜回して多く見せるってのは光武帝の頃の臧宮の計略と一緒だな。
史書に詳しい誰かの助言だろうけど、誰も気づかないとは洛陽の皆さんの学のなさがうかがえる
当時は洛陽を支える義兵が外から沢山来たって宣伝するべき時期だから
袁氏ら朝廷を抑えた派は董卓の策に乗って吹聴しただろう。
当時の兵力は、上は丁原、下は張遼のような人物が各地方から集めた
雇兵が多くなっていた。彼らはすでに長くなりつつある地方の混迷状態
に鍛えられた層で、宦官や何進が倒れた後に自分達の判断で
次の主を決めた。
彼らは名士・宮廷人の集まりである袁氏らよりも、
実戦経験豊かで下を大切にする親分肌な董卓を支持した。
668 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 21:29:21.51 0
この中に魏晋南北朝研究会に参加した人はいるかい?
>>665 その時点では洛陽の宮廷は機能していた。
そこで董卓が皇帝と皇太后を抑えた時点で、
袁氏は下風に立たざるを得ない立場になった。
董卓は自らを太尉前将軍に任じさせるが、
袁紹などが皇帝の膝元で董卓に対立して
勝手に官位などを名乗るなんて自殺行為。
反宦官などといった強力な名分も無く
再び首都兵乱に持ち込んでも勝てるわけがない。
670 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 22:55:59.02 0
671 :
世界@名無史さん:2011/09/24(土) 00:00:45.62 0
>>669 宦官を一瞬で全滅させたにしては、その後の対応がお粗末だなぁ。
明智光秀か?
>>671 司隷校尉に過ぎない袁紹が並み居る実力者を抑えて頂点に登るためには、
皇帝を手中に収めてないと無理だからね
皇帝を取り逃がした時点で、政権を握る目も潰えた
>>669 やっぱり周勃の例からしても
平常時に緊急措置としての軍権を発動できるのは大尉なんだな
この時の大尉が袁家から出ていたら少し違ってたのかもしれない
いや、太尉は軍政長官であって、名目(だけ)はあるが実際には実動部隊を持ってない。
(勅命が出て征伐に出る時などは除く)
だから周勃・陳平も軍権を掌握するのに計略を弄する必要があった。
権臣は、三公と将軍を兼務するか、大将軍・丞相に昇って下に中護軍などを置く
のが基本となる。
董卓も、太尉で政治権力を確保し、前将軍で宮廷周辺を軍事力で固めて
独裁を確保した。
675 :
世界@名無史さん:2011/09/24(土) 17:14:59.01 0
諸葛亮が丞相となって、下に中護軍に趙雲や費イがなってたのも
同じなのでしょうか?
丞相としての権限の集中度だけで言えば、
諸葛亮と曹操はほとんど変わらないからね。
中護軍は歴史的に大司馬や大将軍の下に付くことが多かったが、
中護軍趙雲が丞相の下に付いていたかどうかは厳密にはわからないが。
北伐に同道している諸護軍は丞相の下だろうけれど。
蒋済は誰の中護軍だったんだろう?
皇帝の。
そもそも中護軍の「中」って何?
681 :
世界@名無史さん:2011/09/24(土) 20:54:08.06 0
趙雲は第一次北伐失敗で、
降格処分になってるから、諸葛亮の直属の配下扱いだったのでは?
682 :
世界@名無史さん:2011/09/24(土) 20:54:55.88 0
そういや、陳到は李厳配下で護軍だったような。
>>680 中央の。宮廷の。宮中の。
厳密な所在地は場合によって違うが、
つまり普通は皇帝直属であることを示す。
漢代では護軍中尉の陳平が諸将を監察したのが変化して、
大司馬や大将軍が中軍を率いて征伐に出る場合に
臨時に置かれる実務職が中護軍だった。
軍権を支配した曹操の時に司空・丞相の常置の職になり、
魏王朝が建つと皇帝直属に戻る。
684 :
世界@名無史さん:2011/09/25(日) 15:02:34.95 0
中領軍が創設されたのは曹操の時代。
漢代盛期には無い。
686 :
世界@名無史さん:2011/09/25(日) 16:54:19.43 0
あれ?三国時代の中護軍についての説明じゃなかったのか。
>漢代では
>魏王朝が建つと
中文が読めないのは仕方がないが
日本語くらい読もうね
688 :
世界@名無史さん:2011/09/26(月) 10:06:45.84 0
蜀だと中護軍と中領軍と並立してなかった?
諸葛亮の北伐時だと、中護軍が趙雲や費イ、中領軍が尚寵
といって具合に。遠征軍が中護軍で、国内守備が中領軍なのかな?
魏晋でも並立してるだろ。職能は晋書に記述されてる。
蜀漢にはそのまま適用できないが、漢献帝下の制度は
ある程度踏襲されていてもおかしくない。
>>665 >袁紹はその時点で「乱世」になる予感がなかったのだろう
その袁紹が、自ら関東諸侯の一斉蜂起に協力してガチ乱世にしちゃったんだから、歴史って皮肉なもんだよね。
>>688 中領軍は中軍の指揮官、中護軍は監察官だから、
中軍の一部を中領軍に指揮させて首都防衛を委ね、
遠征に連れていった残りの中軍を中護軍に監察させるという役割分担じゃないかな?
中護軍(護軍将軍)の管轄である「外軍」がどこからどこまでなのかは難しいな。
中軍の中の遠征軍だけなのか、諸州都督指揮下の諸将軍も含むのか。
中護軍が管轄してるのは中軍だよ。外軍は各地の都督が管轄する軍。
>外軍は各地の都督が管轄する軍。
その用語が正しいのなら、宋書に
>護軍將軍,一人。掌外軍。秦時護軍都尉,漢因之。陳平為護軍中尉,盡護諸將。
(中略)
>領、護資重者為領軍、護軍將軍,資輕者為中領軍、中護軍。
とある通り、漢初からの慣わしに沿って、中護軍は地方軍全軍を掌る職務であって、
曹操時代の「皆掌禁兵」が例外だということになる。
漢代にも護軍将軍の例はあって、
>御史大夫韓安國為護軍將軍,護四將軍以伏單于
と、御史大夫という高官が為り、遠征に動員された諸軍全体を統監する役割を与えられている。
このときの動員数は30万人で、到底京師に常駐し進発する中軍のみに限定されるものではない。
大司馬や大将軍の下での中護軍も同じだっただろう。
魏晋代以降、戦時が常時になって中護軍も常置職になるが、この管轄範囲が中軍のみに
縮小された記述はなく、記述の残る職務も「主選武官」などと範囲を限定されないし、
牙門将は将軍幕下の将なので、中軍内には蒋済が羽振りを利かせる例えになるほどの
員数があったとは考えにくい。
しかしながら、宋書の「掌外軍」はあくまで宋代の話で、晋以前も同じだったかは確証はなく、
ざっと探しても中護軍(護軍将軍)が地方軍の人事を行ったというような記述が見つからない。
ので、難しい。
>>694 護軍中尉は全軍を監督する役目だけど、魏の時代には地方の軍の監督権は都督に移ったから、
中軍だけを統括する役目になったんじゃないか?
中護軍が中軍以外の軍に指揮権や影響力を行使した例は見受けられないし。
蒋済の権勢は、長きにわたって中護軍を務めた中軍の重鎮だったからでしょ。
首都駐留軍に絶大な影響力があるっていうのは、ものすごい政治的財産だよ。
場合によっては、その帰趨で政局が決まるぐらい。
魏の諸州都督に、管轄下全軍の、牙門将のような中級指揮官に至るまでの「主選武官」するような
権限があったとは思えないんだよね。
都督の記述は中護軍より遥かに多いのに、該当する描写もまた無いし。
後漢以降、刺史や太守、公卿などの報告を受けて、尚書が六百石以上の任免を掌っていたのだから、
全国の中級武官の任免を中護軍が担っていても作業量的には問題ないだろう。
追加
>>695 外に常駐する都督にそんな権限があったら、さすがに恐ろしすぎる。
刺史が県令・県長以下の人事を思うままにできるようなものだ。
それに数万の将兵と根拠地となる軍事施設の管理権が根こそぎ付いてくるんだから。
>>696 いつから監督権から人事権の話になったの?
都督ってのは指揮権だけじゃなくて監督権も持ってて、
その監督権は本来は護軍が持ってたって言いたいんだけどな。
>いつから監督権から人事権の話になったの?
今は魏の中護軍の職務内容の話をしていて、
その内容は、「主選武官」とあるように、人事権が代表的に記されているから。
この人事の判断根拠には、地方の都督から上がってくる監督結果が参照されているだろうし、
呉の左右護軍のように訴訟の管理もしていた可能性もあるね。
太守以下の業績を刺史が考課して中央へ報告を上げ、尚書が任免を裁いたように、
地方の牙門将らの業績を州都督が監察考課して中央へ報告を上げ、中護軍が任免を裁いたとすれば、
書類の流れの穴が埋まるわけだ。
701 :
世界@名無史さん:2011/09/30(金) 13:28:34.60 0
諸葛亮は武都・陰平を攻略したけど、
武都太守がいたという記事を見たことないが、
本当に武都を支配してたのかな?
陰平太守は明帝紀かなにかに出てきたような気がするけど。
702 :
世界@名無史さん:2011/09/30(金) 17:05:01.10 0
魏が実効支配してなかったことは確かでは?
魏にとっても、遠隔地で無理して保持する必要がない土地
だったのもあるけど。蜀軍が北伐で武都で進撃が阻止された
ことはないから、蜀の勢力下だったのは間違いないと思う。
>>702 魏の文帝時代は楊阜が武都太守だったから支配はしていたはず。
それと701は蜀の武都太守が不明って意味じゃないのかな。
704 :
世界@名無史さん:2011/09/30(金) 17:53:13.55 0
そうだね、張飛・馬超・呉蘭・雷銅が武都に侵入した時は
曹洪・曹休に撃破され、呉蘭・雷銅の部隊は壊滅、張飛・馬超は
敗走だった。
諸葛亮がわざわざ出兵したとこみると、やはり陳式が攻略するまで
は魏の支配下だったのだろう。
>>703 楊阜は漢中が落ちたときに関中に郡府を避難して、以降戻った様子は無い。
武都は蜀の勢力に近すぎるから緩衝地帯としてほとんど官僚はいなかったんでないかな。
官僚もなにも人そのものがいなかったよ
707 :
世界@名無史さん:2011/09/30(金) 19:05:38.18 0
曹操が住民を集団拉致したんだっけ?
漢中・武都の住民はほぼ全て洛陽か関中か天水に送られてる
残ってたと考えられるのは非漢民族くらいだろう
いや武都で移った記録があるのはむしろ異民族の方だよ。
もともと異民族が多い土地だったと言うが。
一方で、魏蜀の戦争の中で武都のテイ族の動向には何度か焦点が当てられている。
だから無人の荒野ってほどでもないだろう。
魏の郡県統治が行われていたとも思えないが。
魏の官僚はいたとしてもせいぜい異民族監督や蜀の前線監視をするようなものくらいか。
710 :
世界@名無史さん:2011/10/01(土) 11:07:15.53 0
廖化も陰平太守に就任し、魏軍を破ったりしてたが、
本当に現地で統治してたかは疑問。
そもそも、廖化って2人いる説もあるほど、長生きだからな。
普通に晩年は名誉職みたいな感じで都にいて禄受けながら
実務は別人がやっていたのでは。
日本でも平安時代はそういうことしてたしね。晩期になると
現地の実力をつけた武士層に実権奪われていたけどw
712 :
世界@名無史さん:2011/10/01(土) 14:54:50.98 0
>そもそも、廖化って2人いる説もあるほど、長生きだからな。
演義とごっちゃになってない?
713 :
世界@名無史さん:2011/10/01(土) 14:57:36.01 0
平安時代の遥任国司と、三国時代の太守は違うぞ。
遥任国司は「税金取れたら民政も軍事も知ったことじゃない」という朝廷の地方軽視が生んだもの。
国司が民政や軍事にいくら力入れても評価の対象にはならなかったし。
三国時代の太守は民政も軍事も力を入れることが期待されてたし、
その任に耐えない人物に肩書きだけ与えるぐらいなら、中央の高官に就けてもっと有能な人材を充てるのが当時の常識。
実効支配してない土地の太守職を箔つけに与えることはあるけれど、
それ以外での遥任は三国時代ではほとんどない。
>>712 完全にそうだろうな
いまだに勘違いが多いし
715 :
世界@名無史さん:2011/10/01(土) 17:15:04.23 0
廖化は死亡年齢は70数歳だろ。
長生きと言えば長生きではある。関羽の主簿を勤めてた
時は、たぶん20代後半〜30代前半くらい。
蜀漢がどの程度の割合の陰平住人を支配できていたかはわからないが、
それは別として、陰平は対魏の前線基地かつ最初の防壁として機能していたのだから
相応の有能な人材と兵員・資源が投入されて基地化されていただろうと推定は出来る。
そうでないと姜維の度重なる出征は実現できない。
717 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 07:29:31.20 0
地図で見ると、
姜維はだいぶ魏領の奥まで侵攻している。
あんなに侵攻して、補給とか大丈夫だったの?
輜重を切り離して軽兵で高速移動し現地調達。
羌族の支持があって、力役にまで動員できた。
719 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 08:32:16.34 0
それが段谷の戦いで大敗し、
西方蛮族が離反、侵攻能力を失ったというかんじかな?
羌族の協力を得られなくなったから、陰平の兵站機能を拡充する為、
沓中で屯田を開いたという流れだったのかもね。
721 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 13:19:03.50 0
そんなもんだろ
723 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 15:56:00.76 0
曹爽の漢中侵攻の時には、
羌族を初め、あのあたりの異民族も物資と労力を
提供したみたいだからなあ。それが遠征失敗で
蜀に好意的になった。今度は姜維の大敗でまたも
大損失。その結果西方異民族はぶち切れたのかもしれん。
長安の西方、街亭で行われた北伐第一戦
先鋒馬謖軍が壊滅し、趙雲・ケ芝の囮軍も打ち破られ惨敗だった。
本営に響く失望のため息、どこからか聞こえる「だから長安を突けと言ったのに」の声
無言で撤退の準備を始める兵士たち。丞相の諸葛亮は独り幕舎で泣いていた
益州戦で手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できる君主と将軍たち……
それを現在の蜀で得ることは殆ど不可能と言ってよかった
「どうすりゃいいんだ……」諸葛亮は悔し涙を流し続けた
>>717 >>718 劉備も諸葛亮もそれをやりたくて、わざわざ馬超や姜維を拾ったのだろう。
姜維ですら一度は大勝できたのだから、涼州獲得の見込みは十分あったはず。
段谷の戦いで大敗した現実から目をそらさなでくださいよ大将軍W
727 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 18:00:56.60 0
>>723 蜀漢がもう一度晋を撃退すれば、異民族の支持は戻ったはず。
漢中防衛を半ば放棄した姜維が悪い。
>>726 でも、段谷の戦いで魏の反撃をうまく捌けば、蜀漢にかなり有利な状況なことになった可能性は否定できまい。
たられば話をしても仕方ないでしょう。ミッドウェーで日本軍大勝利なら米帝に勝てた!というようなものでしょう。
>>729 蜀漢は実は涼州を取れる可能性かなりあったんじゃね?
っていう話の時点でif話なんだからさw
そもそも、姜維は
>>717氏の指摘している通り、敵陣深く入り過ぎ。
あそこまで伸るか反るかの駆け引きにのめり込んだ姜維を費?亡き後、
誰も止められない時点でいろいろな意味で詰んでるよね。
はっきりというが、夷陵並の大敗北だし、あれで蜀の命運は事実上詰んだと
いっても良い。
>>731 諸葛亮は食糧輸送でひーひー言ってたけど、姜維にはそういう描写がない。
たぶんあのあたりの異民族の協力を受けてたはずで、ということは、蜀の支配範囲はかなり広範囲に及んでたと考えられる。
姜維の苗字からして純粋な漢族には見えないし、あの辺の異民族に族弟らがいたんじゃないかという想像をしてみる。
西方異民族が、曹爽の敗退を見て魏をあっさり見捨てたように、今度は姜維の敗退を見てあっさり蜀を見捨てた。
異民族の支持は常に流動的なのである。
ドライだぜ。
クールだぜ。
まあ、そりゃそうだよな。 漢族なんかに何の義理もねえし、長い方に巻かれるの当然だわな。
736 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 18:30:08.89 0
姜維「勝ち続ける・・・灰になるまで・・・!」
そして段谷で灰になっちゃったと。
魏は段谷以前に蜀よりも多くの損害を出しているが、蜀は人材も国力も無いのでただ一度の敗戦で
致命傷を受けてしまうんだよね。
ホンの60年と少し前に東洋の島国が身の程知らずに大国と戦争して同じ事をしてしまっていたが、
人間って本当に学ばない生き物だよねえ。
>>731 まったく逆。
姜維が敵地に深く切り込んだのは、主に損害を嫌った費イに一万しか与えられなかった時代だぞ。
羌族の支援をバックに、魏の大軍が届かない雍州外縁部で
軽兵で機動戦を行ったから渡り合うことが出来た。
費イが死ぬと、数万の大軍が動員されるが、
やはり魏軍をトウ水のような最外縁に誘引できれば勝つことが出来た。
姜維が大敗した段谷は、諸葛亮の一次四次と同じ、比較的近距離の天水にある。
ここは司馬懿以来魏の隴西拠点となっており、大軍の駐留基礎が整いつつあった。
これを正戦で撃破しようとして姜維は負けた。
で、天水は蜀漢侵攻時の諸葛緒の拠点となる。
739 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 18:47:43.89 0
そういう意味では諸葛亮は凄いんだよな。
夷陵の大敗後を立て直し、北伐ができるまでに
し、北伐をしても国を滅亡させなかった。
740 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 18:49:08.32 0
>>738 >姜維が敵地に深く切り込んだのは、主に損害を嫌った費イに一万しか与えられなかった時代だぞ。
>羌族の支援をバックに、魏の大軍が届かない雍州外縁部で
>軽兵で機動戦を行ったから渡り合うことが出来た。
機動戦ってことは騎兵か?
蜀のどこに1万もの騎兵がいるんだよw
>>739 諸葛亮のボロがでなかったのは、単に姜維が進出したところまで進出しなかっただけだろ。
諸葛亮だって、姜維と同じところにいったら、同じことやってたに違いない。
だから段谷の歴史的な価値は、人的損失の過多よりも、
敗北によって北伐派の姜維が発言力を低下させ、
成都の政治情勢変化に対応できなくなり、
大軍遠征をする権威を失って
魏の雍州整備を妨害する手が止まってしまったことにある。
ついでにこの発言力低下と相互不信は、
魏の侵攻時に姜維の報告が信用されず
援軍派遣が遅れたということにまで響く。
>>740 勝手に用語を捏造しないように。
この時代は輜重や攻城を持たない軍を軽兵と呼ぶんだよ。
744 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 18:58:17.24 0
>>741 姜維と同じことやったら、
単なる馬鹿で終わり。別にスポーツ競技じゃないのだから。
無謀なことをしないのが賢いこと。
でも無謀な事をしないと魏との国力開くばかりだし、姜維はどうすれば良かったんだよ。
746 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 19:19:29.34 0
防御を固めて変事を待つしかなかっただろう。
>>743 蜀が1万展開できるところに、なんで魏が軍を展開できないんだよ。
変事なら司馬懿のクーデター時に内紛に漬け込めなかった時点ですでに詰んでいるな。
749 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 19:25:36.00 0
魏にとっても遠隔地だからなあ。
だいたい、異民族との雑居地区だし、魏が完全に統治
してるかは怪しい地区。異民族の動向次第では、魏軍が
不利になる地区でもある。
750 :
世界@名無史さん:2011/10/02(日) 19:28:43.22 0
司馬懿のクーデターは1月6日で、曹爽一派が処刑されたのが1月10日だぞ。
一瞬で片がついたわけで、蜀呉が手を出す隙もない。
でも不満分子による反乱は何回もあったぜ。
そもそも、新体制による混乱のさなかになんで涼州行くんだよ。
行くなら荊州なり長安だろやっぱり。
>>748 姜維が先に動いて辺境に侵入しているから。
郭淮・陳泰ら都督級は隴東におり、一報を受けて、100キロは先から
しかも常備兵だけで急行せねばならない。
雍涼諸軍の糾合を待つかどうかさえ、陳泰が決断を迫られている
(陳泰は待たずに急行して味方の数を誇大に見せ、王経を救った)。
洛陽はさらに500キロは彼方にある。
だから姜維は、一万の機動で郭淮らを奔走させることができたし、
数万の兵で大挙侵攻すればまたたくまに三県を落とすことができた。
まあ、これを支えた姜維の組織管理能力はずば抜けたものがあっただろうけどね。
魏の都督級が隴西に留まったという記述があるのは、やっと陳泰が狄道を救援した後。
まもなく、長年一人が勤めてきた雍涼都督が分割されて、隴右都督にケ艾が就任する。
これは一定の軍兵を隴西に駐屯させることが可能になったことを意味するだろう。
ここが、魏蜀の軍事バランスのターニングポイントになる。
>>750 公表されたのは全部かたがついた後だろうしね。
そこから数週間掛けて情報が届き、
数ヶ月掛けて大軍の遠征準備を行い……
ぜんぜん隙をつける気がしない。
諸葛誕の乱にさえ有効な呼応ができない距離だってのに。
ようするに防備を固めて変事を待つ策というのは全く意味が無いということなんだろ。
姜維はもちろん、呉も詰んでいるな。
変事は起きるかもしれないが軍備増強されるかもしれないわけで。
特に蜀は、指を銜えてたら魏の支配がスカスカの西方が固まっていくのを
傍観するはめになる。
だから費イですら北伐自体を否定はしていない。
費イ時代(の姜維)は、積極的に魏の隴右浸透の遅滞作戦を行っている。
それでは満足できず、大軍で積極的な根拠地破壊を行おうとしたのが姜維。
>>754 そうでもない。10年15年でも命脈が延びれば満足という層は、
どこの国にでも存在する。自分らが死ぬまで既得権にしがみつけるなら
後は知ったこっつちゃねー、ってね。
真面目に1年でも国家を維持したいという層もいるだろうしね。
蜀も呉も内政面で魏より安定していたのなら、堅守するのも悪くないかも
いずれ滅ぶにしても、だけどね。
>>756 まあフィクションだけど、演義での赤壁で諸将が孫堅に降伏を進めたように、社稷が滅びようと地元に根付いている豪族出身の宮仕えしている連中は
呉や蜀が滅びようと一族の存亡に直結しないからなあ。
必死だったのは大都督様の周瑜とか、過労死した陸遜、陸抗親子とか魏から鞍替えして大将軍に登りつめた姜維とか、その辺だからね。
特に姜維は豪族出身でもなんでもないし、どちらかというと根無し草にちかいし、劉禅よりよほど蜀の存亡が身の浮沈に繋がる人物だったとはいえるな。
>>757 姜維はともかく、揚州の周氏と陸氏は普通に現地の大豪族じゃね?
なんでそんなに必死に孫権を支持するんだよ。
孫権のクビもって降伏すれば、それこそ出世できるぞ。
周瑜にとって孫権は親友孫策の弟であり、呉という軍閥は孫策の夢でもある。そんな事で着ようはずもない。
また陸遜は孫権の娘婿だろ 岳父の関係にあるだろ。
そんな関係のある人物が孫権の首もっていって「取り立てて頂戴」といって魏の宰相が取り立てるような人物か?
X魏
○漢の宰相
まちがえたわ。
>>759 >周瑜にとって孫権は親友孫策の弟であり、呉という軍閥は孫策の夢でもある。そんな事で着ようはずもない。
>また陸遜は孫権の娘婿だろ 岳父の関係にあるだろ。
陸孫の妻は、孫権の娘じゃなくて孫策の娘だろ。
第一、孫策は後漢の臣として死んでるから別に問題なし。
それに、周瑜が呉のことが大事だと思ってたなら、孫策死後7年も何もしてないのはどういうことだ。
968 名前:名無しさん@涙目です。(神奈川県)[] 投稿日:2011/10/02(日) 19:18:59.07 ID:braj53ht0 [5/5]
夏侯惇を猛将と勘違いしてる人が多いが、
宮城谷三国志見たら憤死しかねない。
「曹操は夏侯惇を障害者と認識してるので重用していない」
「夏侯惇は劉備に負けるほどの弱将」
宮城谷は曹操を主人公として書いたんだが正史を元にしたのでこんな評価になった。
763 :
世界@名無史さん:2011/10/03(月) 11:55:21.89 0
何で劉備に負けると弱将なのか意味不明。
スレ違いか。
764 :
世界@名無史さん:2011/10/03(月) 14:30:15.57 0
劉邦なんか最後に一勝しただけで天下人だぞ。
えっ。
赤壁以降自分の戦場では勝ちっぱなしだけど。
劉邦と劉備読み間違えたw
劉邦だって対秦戦争の最高功労者だぞ。
項羽との直接対決で負け続けただけで、
それ以外と前後では勝ちまくってる。
>>764 秦に攻め込んで倒した1勝と項羽倒した1勝、どっちのこと言ってるんだ?
劉備と同じく劉邦も誤解されまくるよな
一流には勝てない一流半ながら、同世代の二流相手にはしっかりと勝ってる堅実な手腕持ってるのに
どうでもいいが弱将の定義って難しい気がする。
武勇が優れてないのか、戦功がないのか、統率力や戦場での指揮が劣ってるのか、他にもいろいろあるでしょうし。
>>768 幸運が重なったとはいえ、戦国時代から誰一人成功させていない秦征服を成し遂げた最初の将なのにな
劉邦の「猛将」
・韓信
・鯨布
・彭越
・俺様(劉邦)
劉邦以下イコール弱将ならばほとんどの将が弱将になってしまう
劉備以下イコール弱将ならば曹操と周瑜以外全部弱将になってしまう
曹操も劉備と同様、混迷期には負けまくっているのにな
地盤と運があったお陰で巻き返せたが、
勢力瓦解しかねないピンチに適切な手を打ててない事が多い
大勢力になった後も派手な負け方をするし
攻めに行っての敗北と攻められての敗北は全く別物
曹操は、人の扱いや政治・戦略的に下手を打ってやばくなったのを
戦場の強さで取り返すってパターンが多かった。
戦場で取り返せなくて禍根となったのが赤壁と漢中。
夏侯惇が負けてばっかりという指摘は良く見るが、
裏を返せば夏侯惇がどれだけ重要な戦で起用されてたかということにつながるわけで。
さすがに200年代後半あたりからは重鎮ポジションに落ち着くが、張魯伝注信じるなら漢中攻めにも出てるんだよなぁ。
NHKBSで三国志の番組始まったけど、2回目は関羽信仰についてだと。
それって最早三国志の範疇じゃないと思うし、せっかく渡邉先生呼ぶんならもっと三国志の話をしろよと思うんだが…。
渡辺氏関羽信仰の発展についての論文書いてなかったっけか。
三国時代専門の学者じゃないぞ。
少なくとも三国時代を舞台にする文芸や信仰も三国志学会の扱う範疇だし。
今度、渡邉先生が関羽の本出すみたいだから、その宣伝兼ねてるのかも。
魏・呉・蜀それぞれ一回づつの三部構成がよかったなぁ。
近年あっちこっちで顔を売ってハイペースで本出してるけど、やっぱり儲かってるのかな
学者はいくらでも資金が要るから
売れるときに顔を売りまくりたいもの
781 :
世界@名無史さん:2011/10/08(土) 18:53:45.61 0
確か軍師の何とかという本の中で、
関羽の民間信仰について書いてたな。
782 :
世界@名無史さん:2011/10/08(土) 19:34:40.49 0
>>781 単に呉の荊州統治がひどすぎたのではないか?
だからそれ以前の関羽時代が理想化されて、神になった。
783 :
世界@名無史さん:2011/10/08(土) 20:05:57.96 0
関羽信仰が資料に見られ始めるのは、
唐の安史の乱以降のことらしい。
あんま呉の統治は関係無いようだ。
784 :
世界@名無史さん:2011/10/08(土) 20:12:12.21 0
>>783 孫呉、西晋、東晋などなど、唐にいたるまでの政権が全部ひどかったんだろ。
唐代なら、まだ演義どころか三国志平話すら誕生しておらん。
創作で関羽が神格化されたわけじゃないだろう。
三国時代の直後に荊州統治が称えられていたのは劉表。
関羽が神格化されるのは実際の統治の記憶がなくなってはるか後。
786 :
世界@名無史さん:2011/10/08(土) 20:26:55.77 0
蜀漢正当論が出始めたのが東晋後半あたりだから、
関羽信仰もそのあたりからじゃないかな?
桓温が簒奪を企むようになった頃から、主君に忠節を
尽くした諸葛亮や関羽がヒーロー扱いになっていったと
思う。蜀漢正当論の立場で書かれた『漢晋春秋』は、
漢→蜀漢→晋という系譜が正当という立場で書かれた模様。
787 :
世界@名無史さん:2011/10/08(土) 20:27:47.95 0
>>785 創作で活躍しているわけでもなく、
歴史書で統治を褒め称えられてるわけでもない関羽が神格化されたからには、
なにか目に見えない統治上の実績があったのだろう
>>786 諸葛亮はともかく、忠臣として関羽の名前が持ち出されたことなんてねえよ。
平話・演義は蜀漢礼賛創作の集大成、完成点に過ぎない。
遅くとも北宋には創作レベルでの普及が完了していた。
説話レベルの普及はもっと前で、
おそらく関羽信仰の拡大と時期を同じくするんだろうな。
>>787 説話の成立に歴史上の実績なんて必要ない。
これ人類学の常識。
>>789>>790 平話が成立し始めたのは宋代(南北朝時代じゃないよ)で、完成したのは元代。
関羽が神格化されたのは別の理由と見るべき。
>>788 無いわけじゃないが、史書の上では主に勇猛の将、民間では義の人だな。
民間伝承を取り込んでまとまった平話の成立時期なんて関係ないんじゃないの
そのころにはいくつかの言伝えが普及してたってことしか分からない
>>791 だから、平話なんて三国志創作ブームの後発組みに過ぎないっての。
>>791 >別の理由
蜀漢正統論からのスピンアウトだね。
関羽の神格というのは史書に見られる記述の肉付けに過ぎなくて、
それ以外の、後漢末から直接伝わるような伝説の痕跡というものは無い。
理想の統治者なんて要素がそもそも無いし。
関羽の神格というのは、史書を研究する階層から、読めるけど物語性を重んじる階層、
史書を読まない階層へと蜀漢ブームが降りていくにしたがって、
階層が欲する要素を肉付けしていき完成したもの。
曹純の死亡時の官職って丞相軍事でいいんかな?
史書だと司空軍以降の記述がないんだけど
>>794 その三国志ブームの中でも、関羽が「義の人」「神様」になったことなんてねーから。
演義が登場するまではな。
てか、三国志平話の関羽って全然活躍しないぞ。
張飛ばかり目だって影の薄いキャラクター。
義もクソもない。
神格化されるほどの統治上の実績が伝わっていたなら、「民間伝承レベルで
称えられていた」という痕跡があるはずだね。
800 :
世界@名無史さん:2011/10/09(日) 02:36:51.66 0
>>797 北宋だから間違いなく演義より前。
爆発的な人気を得たのが、演義の後。
どちらにしても、史実の統治ぶりとは関係ない時代だけど。
ちゅーか、演義は明代に成立しているんだよね。
というのはこのスレでいうのは釈迦に説法なんだけれども、
陳友諒と我らが朱元璋との大決戦を元にして赤壁の戦いが脚色されたからなんだね。
?統の連環の計が陳友諒との戦いが底本になっていて関羽が神様になったいうのは逆に
商業が盛んになった宋代のことなんだよね。
だからこのへんの時系列ははっきりしているよ。
>>802 >陳友諒と我らが朱元璋との大決戦を元にして赤壁の戦いが脚色されたからなんだね。
>?統の連環の計が陳友諒との戦いが底本になっていて関羽が神様になったいうのは逆に
北伐した人物を神にしたかったなら、別に桓温とか劉裕とかを神にしてもよくね。
まあこいつら裏切り者だけど。
関羽が神になったのは、
剛勇で庶民に優しく士大夫に反骨心がある義の武人ってイメージからだろ。
だから商業が盛んになった宋代に守護者として地位が上がった。
北伐は関係ない。
つーことは、士大夫を見下したというのがポイントか。
腐敗した官制流通を掻い潜る塩の密売人という前歴が作られて
反権力の象徴という面も持たされるしね。
義理堅いからって聞いたことがあるな
808 :
世界@名無史さん:2011/10/13(木) 20:46:15.08 0
関羽人気が高まったのは、
貴族勢力が衰退から壊滅にかけてからじゃない?
>>808 貴族勢力が衰退から壊滅にかけてって、凄ぇ長いスパンだぞ
貴族政治の終わりは唐初の科挙だから、
関羽人気が高まるかなり前だろう。
>>810 終わるきっかけではあっても実際に終わるのはもっと後だろ
科挙の導入は貴族の終わりの始まりであって終わりじゃないけどね。
投稿するか迷ってる内にケコーンレスしてしまった。
唐代は結構南北朝の貴族華やかなりし頃の気風が残ってたし、腐敗もあるのよ。
科挙自体にも貴族時代の気風が残ってたし、権力者の推薦が重みを持ってもいた。
実はまだ任子もあるしね。
品秩世襲のような、ほぼ無条件の公的地位世襲を専らとする社会を、
貴族政治・貴族制度と言うんだから、「終わりは唐初」で良いと思うんだが。
豪族が一族団結して支援して有望な若者に科挙を受けさせたり、
同族の朝廷高官が呼び入れたりするのは結局清まで続くんだから、
それを含めたら「貴族政治は終わらない」ことになってしまう。
同様に、後漢代の権門政治を貴族政治・制度・時代などとは言わないわけで。
いくら豪族が出世に有利な社会風潮やネットワークを築いていても、
制度的に家柄の世襲が保証されていたわけでないから。だから数代で盛衰する。
制度化されているのは任子制くらいだが、これは郎になれるだけで、
そこから高官になれずにぐうたら無駄飯食らいする子弟がわんさといた。
BSの関羽信仰みたけど、ほとんどが隴西商人についてだったぞ
曹操の回に比べると物足りなかったな。
>>816 俺は見てないけど、隴西じゃなくて山西じゃないの?
呉書に関羽瀬って地名が出てくるけどあれは何なんだろうね
820 :
世界@名無史さん:2011/10/14(金) 21:24:08.62 0
渡邉氏は過大評価されている。
>>819 関羽は当時から超一流あつかいだったみたいだな
当時から関張は劉備軍最高の名将あつかい
特に関羽は評価が高かった
>>819 関羽マンセーなのか甘寧マンセーなのかよくわからんが
関羽の評価が高かったのは間違いなさそうだな
823 :
世界@名無史さん:2011/10/15(土) 13:39:47.26 0
>>822 だって孫呉が領土をゲットできたのは関羽相手だけだもの。
824 :
世界@名無史さん:2011/10/15(土) 14:41:47.81 0
825 :
世界@名無史さん:2011/10/15(土) 15:02:45.51 0
敵を褒め称えて、「そんな敵に勝った俺たちすげえ」って自画自賛するんだよ。
なにしろ、関羽は10年近く荊州を押さえてたんだからな。
さっさと益州に逃げた劉備よりも存在感あるよ。
孫呉にとっては。
関羽瀬って名前は後々まで残ってたんだろうか?
それとも短い期間だけ?
827 :
世界@名無史さん:2011/10/15(土) 17:23:07.76 0
>>814 地盤看板鞄はぶっちゃけ今の日本の政治でも有効だしな。
830 :
世界@名無史さん:2011/10/16(日) 11:06:31.19 0
姜維伝に、段谷の敗戦後、
西方で騒乱が発生したという記述を見ると、
西方の蛮族が蜀に好意的だったことは確かだろう。
諸葛亮の北伐当時は西方蛮族は中立、曹爽の蜀侵攻の頃は
魏に服属。労役・物資共に供出していた。曹爽の侵攻失敗で
蛮族に大きな被害。魏に反抗的になり、蜀の姜維に呼応する
ようになる。しかし、段谷の戦いで蜀軍大敗。こんどは魏に
服属。魏の蜀平定の基盤が出来上がるといった流れでしょう。
「落ちていた」と言うには、羌族らの領域に蜀漢が役人を送り込んでいた、
くらいの記述が無ければならないと思うが。
姜維が戦闘部隊のみの「軽兵」で侵攻を繰り返し、
兵糧と力役の供出を異民族から受けていたという明記は複数ある。
832 :
世界@名無史さん:2011/10/16(日) 17:00:40.21 0
呉領には山越がいたし、荊州南部や交州、益州南部にも異民族が
沢山いた。涼州だけでなく、本当に支配してたか疑問のとこは多かった
よな。
支配ってよりは商業的な取引による緩やかな連帯の可能性もあるな
ずっと蜀滅亡時の財布の中身からその辺の謎とけねーかなーと思ってるのだが
中々説得力ある説を思いつけない
834 :
世界@名無史さん:2011/10/16(日) 17:44:05.80 0
支配というのは、
安定的な徴税ができていた地区と
定義したほうがよいのでは?
軍が侵攻したとか、一時的に駐屯できたは
支配とは言わない。
>>830 三国志郭淮伝によれば,231年の北伐の際魏に食料を供出したとされるから,
諸葛亮時代であれば,一応魏に服属していたと思う。
後に姜維に協力した,更に西方に居た連中までは分からないけど。
涼州の場合,蜀側が落としたと言うより,単に魏が拠点以外に手を付けられなかっただけの気がする。
それが漢中から雍州に出撃できた諸葛亮と,
陰平から涼州へ出撃せざるを得なかった姜維との差ではないかと。
836 :
世界@名無史さん:2011/10/16(日) 19:26:35.30 0
姜維は雍州には出撃できなかったの?
雍州/涼州 の区分ではなく、
隴東/隴西 と区分するのが良い。
漢代では涼州だった隴西地方の天水や隴西郡が、魏では雍州に編入されているから。
で、諸葛亮は二次・五次で隴東に侵攻し、
特に五次では司馬懿と互角以上の戦いを演じている。
まあ、この時も、魏は呉の攻撃を受けて
洛陽の中軍が東西に分散している状況であって、
洛陽からの全力の増援に蜀漢が真っ向から対峙できる戦力はなかったと推定できるけども。
姜維の時代では戦力差はさらに深刻化して、
隴東に進出できたのは、諸葛誕の乱が長期化して関中戦力までが東へ動員された時
一回しかない。それさえも、関中軍と隴西軍(のみ)に阻止されてしまっている。
838 :
世界@名無史さん:2011/10/16(日) 21:04:40.93 0
諸葛亮は基本的には輜重による国内からの食料輸送と屯田による食料調達。
姜維は侵攻地区での現地調達。同じ北伐でもやり方が違う。結果は諸葛亮は
政治的に混乱させることがなかったが、姜維は国内経済をガタガタにして
しまった。
姜維の北伐は屯田を行わず、それ故蜀が滅亡に至ったと論難する人もいる。
>>838 いや、わからん。
戦闘要員以外にも大規模な動員と物資徴発を強いる諸葛亮の方式の方が、
蜀漢の政治を混乱させる要因になるだろ。
そこは姜維の失敗と蜀漢滅亡の要因じゃない。
>>839 でも蜀滅亡時の食糧備蓄が壊滅的なレベルになったのは姜維のせいだろ
いや、なんで?
少なくとも「姜維は侵攻地区での現地調達」していたせいで、
成都の食糧備蓄が消耗していた、というのは理屈に合わないのだが。
だから、蜀の衰亡の要因を姜維の北伐に求めるとしても、
>>838のような理屈を
持ち出すのはおかしいと言ってる。
842 :
世界@名無史さん:2011/10/17(月) 05:23:17.21 0
諸葛亮は屯田で軍事用兵糧を確保していたのだろう。
姜維が軍需を現地調達できていたのは、おそらく小規模軍事行動
の頃までだと思われる。数万の軍を出征させた時期は、全部は
現地調達で賄うのは不可能だっただろう。しかも、屯田しないから、
軍事用兵糧は全部成都からの持ち出し。結果は国庫は空っぽ。
>諸葛亮は屯田で軍事用兵糧を確保していたのだろう。
てか屯田ってもともとそういうものだけどね。
常識的に考えて、数ヶ月の屯田で収穫できる食べ物なんて高が知れてるだろ。
だから諸葛亮は何度も撤退する羽目になったわけで。
屯田を過剰評価しすぎ。
諸葛亮が戦地で屯田したのは五丈原だけだぞ。
しかも、この時の諸葛亮は前年から力夫を動員して
大規模な食料備蓄庫を秦嶺山脈付近に築いている。
その兵糧は当たり前だが国内から持ち込まれたものだ。
それで、他の四回、特に一次と四次の大規模な遠征で、
「軍事用兵糧は全部成都からの持ち出し。結果は国庫は空っぽ」
にならなかったはなぜか?
しかも、
>諸葛亮は基本的には輜重による国内からの食料輸送と屯田による食料調達。
>姜維は侵攻地区での現地調達。同じ北伐でもやり方が違う。
とする
>>838から変節著しいし。
さらに、王経が破れて狄道が包囲された姜維最大規模の遠征時に、
対峙した陳泰が、「姜維は軽兵をもって奥深くに侵入し、(中略)食料も続かない」
と、大規模輸送の存在を完全否定している。
漢中近辺には、戦地屯田とは別の、前線常備兵用の屯田地が多数存在したが、
それは諸葛亮時代から姜維時代まで、機能を失ったという話は無い。
諸葛亮先生はろくに屯田しなかったの?
だから毎回撤退してんだねえ
馬鹿はお黙り。
侵攻した敵地で対陣しつつ田地を切り開くなんて真似、
一回やっただけで化け物みたいな統率力なのだが。
敵地まで来てそんな悠長なことやっているから,
魏に守りを固められて動けなくなったんじゃないか。
それは正しいが、
屯田って何かも知らない馬鹿な
>>846とは次元が違う話だね。
850 :
世界@名無史さん:2011/10/18(火) 20:56:13.22 0
諸葛亮は十二分の備蓄を蓄えた上で遠征したんだろ。
家庭で例えるなら、1000万の預貯金のうち、200万位を使った
感じなんだろ。確かに損失はあるけど、困るほどの損失でもない。
姜維の場合は、200万の貯金しかないのに、200万使い切った感じだろ。
同じ消耗でも蓄えはゼロになる。
最初の主張が見る影も無くなってしまったね。
それが正しいのなら、結局、姜維の現地調達策は、
「200万」しか預金が残っていない蜀の国庫負担を和らげる
良策だったことになっちゃうね。
もし姜維に蜀の衰亡の原因があるとしても、
輸送・調達方式による「北伐のやりかた」の違いの
せいではなかったことになったね。
お疲れ様でした。
852 :
世界@名無史さん:2011/10/18(火) 21:12:25.08 0
>>851 それは違うだろ。
200万しか貯金ないのに、使い切るようなこと
するなというのが常識的はとこだよ。
853 :
世界@名無史さん:2011/10/18(火) 21:12:44.01 0
義援がいたら
>>852 そうだねー。
で、「北伐のやり方の違い」はどこにいったの?
855 :
世界@名無史さん:2011/10/18(火) 21:46:22.01 0
諸葛亮は土地の支配を目指してた感じはするなあ。
土地の支配ができないのなら撤退。第一次、第三次、第四次、第五次
の北伐はそんな感じでは?
だから姜維みたいに、軽兵で一気に奥深くまで侵入みたいなことをしない。
それでは土地の支配を永続できなかったからだろう。例外として魏延・呉壱
に奥深くまで侵攻させたことはあったけど。
姜維はたぶんに個人的功名を求めたきらいがあるのでは?
敵を求めて侵入し、戦功を求めたと思う。あんなに敵地の奥深く侵入したら、
拠点確保して土地の支配までは厳しいと思う。
諸葛亮の戦略目標は、もちろん一区切りとして雍州部の土地の支配があっただろうけど、
その兵力運用の方式は、土地支配の前段階として
「長安・洛陽から到来する魏主力軍の撃破」を主眼としたものだろう。
だから、時間をかけて準備して長期戦に備え、敵の主力が到着する前に有利な場所に陣営を固め、
屯田などでさらに滞在能力を引き上げる。
敵と正面から対峙し、長期対陣の末に撃破する手順を固める、という様式。
姜維の運用は、時が経つにつれて深刻化していく「魏の西方支配の破壊」を主眼としたと読める。
速戦して前衛部隊の撃破や県城攻略、大規模徙民。魏から離反していく異民族の支援。
都督級が率いる主力軍とはあえて戦わない。
というよりも、郭淮や陳泰に関わりあって長期退陣に持ち込まれて、
やがて洛陽から来る大軍と正面決戦できる戦力比ではなかっただろう。
戦術的には、姜維が積極的で諸葛亮が消極的に見えるが、
戦略的には、攻撃的だったのは諸葛亮で、防御的だったのが姜維。
857 :
世界@名無史さん:2011/10/19(水) 09:23:02.50 0
姜維は屯田しなかったというより、
戦争をする準備が杜撰だったのだろう。諸葛亮みたいな
周到な準備がなかった。
姜維はチャンスがあると見れば、武器だけ持って飛び出していく
感じの遠征。思いつき出兵みたいな感じ。諸葛亮の場合は国家プラン
てきな戦争で、上手く行かなかった場合も想定しての遠征計画。
まあ、旧帝国陸軍参謀本部的なとこはあったかも。兵の運用には熱心
だったが、戦争遂行を支える経済プランには無関心。
杜撰な人間が、侵攻先の敵地でとっさに物資と労働力を供給してもらえるって何?
後光で平伏させる神のごときカリスマの持ち主だったとでもいいたいわけ?
859 :
世界@名無史さん:2011/10/19(水) 09:47:27.28 0
戦争遂行ということに関しては、
やはり諸葛亮の能力はずば抜けている。
劉備の東征の大失敗を立て直し、数倍の国力を持つ
魏との戦争を続けても、国家体制が揺らぐこともなかった。
戦闘でも、野戦で司馬懿の攻撃を撃退し、名将張コウを討ち取った。
戦争遂行能力という総合的見地なら、やはり三国時代を代表する
名将と言ってよい。戦術だけなら諸葛亮より上の人はいる。
860 :
世界@名無史さん:2011/10/19(水) 09:51:09.31 0
>>858 そういう話しではないんだな。
そもそも、そういう戦争自体に無理があるんだ。
戦争は当座の兵糧が賄えれば問題無しということ
ではない。
孫子の兵法でも現地調達を推奨するみたいな記述があるが、
真っ先に国の大事だから、戦争はむやみにやるなと記述している。
つまり、当座の兵糧だけ確保できれば問題無しということではない
ということ。
諸葛亮の用兵は、「拙速を聞く」以外は極めて孫武的で、その限りにおいては正しいが、
戦争の形ってのは、孫武型の大規模侵攻・敵主力の撃破・土地の支配、
という形式だけではないんだよね、あいにく。
>>827あたりからずっとその話してるから読んでくるといいよ。
姜維が全国に動員をかけるような諸葛亮クラスの大遠征をした可能性があるのは、
253年、254年、256年の3度。この256年には段谷の大敗があり、陳祗の死が重なって、
諸葛誕への呼応作戦を終えた姜維は成都に帰還する。
その後、262年まで成都の主導権争いに専念するが敗れ、追い出される形で成都から出立する。
以後、数度の攻撃を行うが、国政の主導権を失った姜維に、
民衆を総動員し成都の国庫を開くような大遠征が許可されたとは到底考えられず、
出兵は漢中の人員と物資だけで賄われたと言える。
諸葛亮規模の遠征を行うのに必要な備蓄期間は三年と司馬懿は看破したが、
段谷から降伏まで七年以上の時間がある。
以上から、降伏時に成都に兵糧備蓄が少なかったのは、
姜維の遠征での消費が原因ではないと考えられる。
つーか、兵糧を大量に消耗する大動員・大戦闘が蜀漢滅亡直前に起きてるのに、
それは計算にいれないんだな。
「姜維のせいで国庫は空っぽ」の人は。
863 :
世界@名無史さん:2011/10/19(水) 20:38:28.70 0
兵糧だけで戦争する訳じゃないからな。
戦争そのもので国力が消費するのは確かなんだよ。
ついに兵糧ネタさえ投げ捨てたか
>>862 国庫は空っぽじゃないんだよな
膨大な数の絹製品と僅かな金銀、そして銭、穀物という偏った状態で
何らかの商業的な問題が生じてる可能性を伺わせる内容になってる
姜維は王経に勝ったことで気が大きくなって総力戦を挑んで負けちゃったな
ゲリラ戦法を続けていれば涼州くらいは取れたと思う
正攻法の戦いは姜維は諸葛亮ほどじゃなさそうだね
蜀滅亡時の国庫って出典があの蜀記だけど、そこまで信憑性があるようには思えないがなぁ
侵攻受ける前に兵十万ってのはだいたいあってるようだが
兵十万もいたら、漢中は突破されてねえよ。
漢中に四万も入れとけば鉄壁だ。
一万を治安維持と対呉戦線に投入し、姜維が四万を率い、諸葛息子が一万率いて成都で予備として待機しとけば勝てたよ。
>>869 おい、一般郡県の防備ががら空きになるんだが。
10万ってのは戸籍に記されてる動員可能員数な。
王平時代を参考にすると、漢中に居住しているか、
徴兵で赴任している兵力は3万。
仮に、成都近辺に3万、
江州方面に2万、
南方に2万、
の動員力があるとする。
侵攻当時、
・姜維が漢中兵のうち相当数を率いて西の守りに当たり、ケ艾に破れ後退する。。
・残りの漢中軍は鍾会軍10万に包囲され、陥落か無力化。
・成都軍のうち先発した廖化は陰平まで到達するが、
陽平関が落ちて孤立を避けるため剣閣まで後退。
・第二陣の張翼は剣閣で合流。
・第三陣、諸葛瞻が郎官まで振り絞った最後の兵力で出陣するが、ケ艾に壊滅。
・江州方面軍のうち都督閻宇が成都補強に向かうが、消息不明
・南方諸郡兵はおそらく動けず。
こんな具合で、軍隊と言うのは徴発編成出陣に時間が掛かるし、
国内に兵力ゼロで構わない安地なんてないんだからそう上手くは行かないんだよ。
まあ、最初の姜維の急報が信じられて、早い初動があれば解らなかっただろうけどね。
871 :
世界@名無史さん:2011/10/21(金) 09:20:18.97 0
>>870 段谷の大敗による損害も含めたらどうなる。
872 :
世界@名無史さん:2011/10/21(金) 10:30:47.92 0
結果的には秦嶺山脈の防衛戦を維持できなかったのが
蜀滅亡の要因の一つになったね。鍾会軍が秦嶺山脈で進軍が
難渋していれば、ケ艾があんなに深入りできなかったでしょう。
援軍を集める時間稼ぎもできたし。
姜維が引きつけて大勝するなんて危険な発想をしたから、陽平関が
落ちたと同時に敗勢濃厚になった。まあ、諸葛亮に比べるとかなり
劣ると考えていいだろう。
秦嶺山脈ルートの開拓は、漢中突破ができないから仕方なく始めたんだろ
諸葛亮だって、大戦力による二正面作戦を受けて立つのは無理だろう
874 :
世界@名無史さん:2011/10/21(金) 12:56:25.93 0
蜀軍には信頼できる方面司令官がほぼいないのが欠点。
諸葛亮時代は諸葛亮しかおらず、姜維時代には姜維しかいない。
魏晋が大兵力を分進させてきたら、片一方は支えられても、もう一方が支えられない。
蜀滅亡時だって、姜維が漢中を守ってたら、少なくとも漢中方面は突破されなかっただろう。
875 :
世界@名無史さん:2011/10/21(金) 13:34:26.38 0
諸葛亮時代は魏延がいたけどね。
国境線は無難に守ってた感じはするけどな。
その後も呉壱・王平と漢中の司令官には経験豊富な
将軍が就任している。3万くらいの兵力があれば、
敵軍を秦嶺山脈で食い止めるぐらいのことは可能だった
でしょう。
王平死後は胡済が漢中司令官に就任したようだが、どうも
実戦経験があったのか疑問。段谷の大敗の要因を作った人物
だし。
胡済の死後は、誰が漢中の司令官だったか不明。
張翼や寥化といったベテラン将軍も漢中司令官ではなかった
みたいだし。漢城・楽城や陽平関といった拠点を守る将軍が
いるだけで、総合指揮をする人がいなかったのでは?
>>875 >諸葛亮時代は魏延がいたけどね。
>国境線は無難に守ってた感じはするけどな。
国境線が一個だけならそりゃ守りやすいさ。
秦嶺山脈ルートの開拓が全てをぶち壊した。
877 :
世界@名無史さん:2011/10/21(金) 15:27:05.24 0
>>870 >10万ってのは戸籍に記されてる動員可能員数な。
むしろ戸籍の動員可能数は動員力の限界と見る方が妥当。
常時動員されてるのは、動員限界の3分の1程度ではないだろうか。
それ以下だと漢中防衛もおぼつかない。
878 :
世界@名無史さん:2011/10/21(金) 15:45:09.91 0
言うまでもなく、常備軍維持には金がかかる。
霊帝は一万程度の戦力(西園軍)を作るために売官までした。
蜀に10万の動員力があっても、すぐ使える戦力は、国境周辺で屯田してる軍と騎兵と皇帝直属軍ぐらい。
他は徴兵してかき集めるしかないが、当然ながら徴兵には時間がかかる。
なにしろ徴兵されるべき住民は全国に散らばってるので。
立て札一本で集まってくる三兄弟なんてそういないのだから、大多数は嫌がる国民を脅してつれてくるわけで、隙を見て脱走するものもいっぱいだ。
兵を集めてくるだけでも並大抵のことではない。
879 :
世界@名無史さん:2011/10/21(金) 17:00:02.93 0
秦嶺山脈ルートの開拓とは何?
880 :
世界@名無史さん:2011/10/21(金) 17:02:01.52 0
>>879 漢中以外の蜀に大兵力を送り込めるルート
諸葛亮時代にはなかった
>>874 南征の前から「亮慮諸将才不及己」(王連伝)と思っていた諸葛亮や,
費イが生きている頃から「兼負其才武」(姜維伝)と思っていた姜維が,
他人を信用して大部隊を任せると思うか?
防衛戦なら普通に任せるだろ。
魏が秦嶺を大兵力で迂回してきたら、
諸葛亮や姜維は自分が西方の防御に当たるだろうが、
漢中防衛には、諸葛亮時代には魏延や呉懿・趙雲がおり、
姜維時代には廖化なり張翼がいる。
実際、姜維はそうさせようと急報を打ったが
黄皓と劉禅が信じず間に合わなかっただけ。
883 :
世界@名無史さん:2011/10/22(土) 00:17:54.86 0
張翼って武将としては中の上程度
実際に漢中を守ってた諸将より優るほどはないだろう
ただ、死ぬまで降伏せずに護国の鬼になった可能性はある
中の上の老将に指揮権の統一と十分な兵力があれば漢中は守れる。
885 :
世界@名無史さん:2011/10/22(土) 05:55:18.83 0
鍾会軍が漢中に侵入した時の漢中総督が不明なんだよな。
姜維は陰平方面に駐屯してたし、張翼等は成都からの援軍だし。
おそらく、鍾会軍を秦嶺山脈でゲリラ戦しながら足止め、ケ艾軍が
長駆侵攻したとしても、要害に立て籠もり持久戦に持ち込めば勝ち
だったんだよ。鍾会軍は漢中に侵入し、蜀軍の孤立した拠点しかない
状態でも撤退の相談してたくらいだしね。
どうも姜維は功名を上げたいせいか、決戦して大勝したいという思想が
強すぎた。結果として地形を利用した防衛が軽視された。しかも、諸葛瞻
まで要害を占拠して持久戦をやらろうとしない。
名軍師様多すぎ吹いた
887 :
世界@名無史さん:2011/10/22(土) 20:05:21.59 0
漢中総督の系譜は魏延→呉壱→王平
と実戦経験豊富な将軍が就任していたが、胡済は実戦経験は
なさそうだ。しかも、蜀滅亡以前に死去している模様。
それと、段谷の戦いの時、何故姜維は軍勢を二手に分けて進軍したのだろ?
天水あたりに侵入するだけなら、わざわざ二手に分ける必要もなかったと
思うのだが。
姜維は前年から前線近くに駐屯していたから。
漢中から新手を率いてきた胡済と合流する手筈であって、
一つだった軍を二手に分けたわけではない。
督漢中は、蜀志の書き方の限りではおそらく胡済が留任。
防御線が拡大したため、後方から戦場を見る必要が出たのだろう。
蜀が滅びたときにどうなっていたかはわからない。
ただ、姜維と成都の不和のために漢中方面の人事が膠着して、
有効な漢中司令官の任命が行われなかった可能性はある。
889 :
世界@名無史さん:2011/10/23(日) 11:33:31.96 0
三国時代の常備軍と徴兵軍の割合ってどのぐらい?
帝政ローマだと、本職のローマ兵と現地で募兵した兵が1:1弱ぐらいだが。
そんなものはわからん
即応の数的主力は徴兵の常備軍だろうな。
その中核には将軍の私兵だったかもしれないが。
朝廷の中核には専業の五営兵や郎官などがある。
892 :
世界@名無史さん:2011/10/25(火) 16:38:06.07 0
秦嶺山脈ルートの開拓ってケ艾の侵攻のことか?
あれは開拓なんてレベルじゃないだろ
信頼できる方面司令官は西と南にいるし、
問題は、信頼できる中央の司令官の不在、
さらには意思ある権力の不在だろ
漢中守れなくてもいくらでも戦いようがある。
成漢なんて益州全土落とすのに30年くらい掛かってる。
893 :
世界@名無史さん:2011/10/25(火) 18:06:57.85 0
>漢中守れなくてもいくらでも戦いようがある。
ねえよアホ。
漢中の利点は少な目の兵力でも中原の大軍に対抗できることにある。
漢中落とされたら、そっちに大兵力を貼り付ける必要ができて、他が手薄になる。
要するに史実の蜀滅亡だ。
前はいちいち煽る奴なんていなかったと思ったが・・・
世界史板も変わったもんだな
>>893 人のことアホ呼ばわりするなら、曹操が漢中を維持出来なかった理由も教えて貰いたいもんだ
>他が手薄になる。
他って?
>要するに史実の蜀滅亡だ。
蜀が滅びたのは劉禅が降伏したからだろ
896 :
世界@名無史さん:2011/10/25(火) 19:24:35.55 0
>>895 >他って?
西の方だよ。姜維が剣閣に立てこもってる間に成都は降伏した。
もし剣閣の兵力を5000でも成都方面に回せたら、ケガイは勝てず、史実の成都降伏は起こらなかっただろう。
>蜀が滅びたのは劉禅が降伏したからだろ
だからあ、劉禅を降伏させたケガイはどこからやってきたの?
剣閣に立てこもってた有力な将帥と兵がいれば、ケガイをストップできた可能性は高いだろう。
897 :
世界@名無史さん:2011/10/25(火) 19:47:08.34 0
右を立てれば左が立たず、左を立てれば右が立たず、というのが蜀滅亡の状況。
漢中や剣閣に将兵を送れば、ケガイを止められず、逆なら鍾会を止められない。
横レスだが。
>>895 >曹操が漢中を維持出来なかった理由も教えて貰いたいもんだ
漢中と口唇の関係にあるのはあくまで巴蜀。
巴蜀をバックアップにする勢力が、北の脅威から漢中を維持するのは比較的容易だが、
中原勢力が、巴蜀の攻撃から漢中を維持するのは極めて困難。
秦嶺山脈を越えて人と物資を行き来しなけりゃならないからね。
特に関中の弱体化著しい後漢末・三国期ではなおさら。
だから古来、散関がそこにある。
>>896 西って…
一度、益州の地理を確認した方がいいだろう。
というか俺も
>>892で東と書くべきところを西と誤記してしまったが。
>もし剣閣の兵力を5000でも成都方面に回せたら、ケガイは勝てず、史実の成都降伏は起こらなかっただろう。
ケ艾は勝てずって、誰に勝てなかったって話?
ケ艾が至る前に成都は降伏した。
成漢の話をさせて貰うと、奴らも成都を落とすのに手を焼いてる。
成都を落としたあとは長江沿岸の諸都市を落とすのに何年も掛かってる。
益州は三州に分断され兵力少なく、荊州からの援軍も途絶えていたにも関わらずだ。
そして何より糧秣の確保に苦労している。
成都で籠城するなり、長江を防衛ラインにするなりしたら、ケ艾は相当苦戦したはず。
問題は兵力よりも、そうした決断を出来なかった指揮官・権力の不在。
鍾会が成都まで進軍出来れば話はまた違ってくるがね。
900 :
世界@名無史さん:2011/10/25(火) 20:12:35.83 0
>>899 >誰に勝てなかったって話?
諸葛センに決まってんじゃん。
>ケ艾が至る前に成都は降伏した。
諸葛センが敗れた以上、このままではもうだめだから降伏したんだろうに。
>>900 >諸葛センに決まってんじゃん。
いやー兵5000増やしたところで諸葛センには荷が重いんじゃないの?
>諸葛センが敗れた以上、このままではもうだめだから降伏したんだろうに。
劉禅は南方へ遷ることを検討している。
東晋の桓温と西晋のケ艾・鍾会じゃバックアップも実兵力も数倍の格差があるだろ。
西晋相手じゃ、成都(成都盆地)を守れなかった時点で蜀漢は終わり。
劉禅が残余の兵力を糾合して何年か抵抗しても、
晋は地方兵力を残す程度で本隊を引き上げてもそのうち鎮圧できる。
それから、
>>896の意図は知らんが、漢中方面に多数の兵力を張り付ける必要が
生まれたら困るのは、漢中の「西」である、陰平・武都方面だな。
漢中を根拠とする機動軍と、最優秀指揮官の姜維が「西」に張り付いており、
成都からの援軍も間に合わずに漢中が手薄になって突破されたのが史実。
仮に劉禅が奮起して、成都周辺を戦場にしつつケ艾軍を殲滅し、
鍾会を撤退させたとする。
それでも、漢中奪回はもう困難。
西晋はさらに後続で賈充を漢中まで送れるような相手だぜ。
漢中・武都・陰平が掌握され、
かつて張コウが巴に対して行ったような撹乱作戦を、
数倍の兵力で繰り返されたら、蜀漢はもう衰退していくしかない。
>>902 >東晋の桓温と西晋のケ艾・鍾会じゃバックアップも実兵力も数倍の格差があるだろ。
俺がしてるのは西晋の羅尚の話で、桓温とは全然ちがうよ。
>西晋相手じゃ
西晋じゃなくて魏でしょ。
>成都(成都盆地)を守れなかった時点で蜀漢は終わり。
根拠がない。成都で籠城したら、長江まで撤退したら、ケ艾は糧秣をどうするのか。
成漢も成都押さえた後に益州民の一斉蜂起食らってリーダーの李特が死亡してる。
>>903 >西晋はさらに後続で賈充を漢中まで送れるような相手だぜ。
指揮官としての実績のない賈充率いるわずか1万の後続に何ができよう。
>かつて張コウが巴に対して行ったような撹乱作戦を、
>数倍の兵力で繰り返されたら、蜀漢はもう衰退していくしかない。
関中や涼州に反乱起こされまくって全然鎮圧できない西晋にそれが出来ればね。
羅尚か。西晋の全国支配が瓦解していく、桓温よりもっと悪い時代の話じゃ
なおのこと比較にならないな。
>成都で籠城したら、長江まで撤退したら、ケ艾は糧秣をどうするのか。
成都盆地が一大生産地なんでね。
劉禅が南方や東方に逃げれば、成都を安定させることに専念すれば良し。
成都盆地という幹を失った蜀は根腐れするしかない。
劉禅に成都を守り切られたら、漢中まで撤収し、張コウの数倍の以下略。
260年代の魏=晋ってのは、関中・隴西を対蜀根拠地化することに成功し、
隴西から数万の軍勢を遠征させることが出来た力を持っていた。
>関中や涼州に反乱起こされまくって全然鎮圧できない西晋
の時代とはワケが違う。
>指揮官としての実績のない賈充率いるわずか1万の後続に何ができよう。
問題は賈充の能力じゃない。十数万の大軍を他国へ一年近く展開した後に
さらに後詰を送れる国力だ。
姜維なら鍾会の撤退を追撃して剣閣から漢中まで展開する軍勢十万を根こそぎ殲滅し
一挙に漢中奪回できるだろう、とあなたが考えるなら別だけど。
そうでないなら、ケ艾を包囲殲滅したくらいで漢中・武都・陰平を奪回するのは不可能。
>西晋じゃなくて魏でしょ。
そりゃすまんかった。
その時期なんてもう晋と呼んでも魏と呼んでも大差ないよね
>>905 >羅尚か。西晋の全国支配が瓦解していく、桓温よりもっと悪い時代の話じゃ
その羅尚が成都を守る側の話なんだけど
>260年代の魏=晋ってのは、関中・隴西を対蜀根拠地化することに成功し、
ケ艾の苛酷な統治を隴西の士民は恨み、その死を喜んだくらいなんだけどね(唐彬伝)。
戦争が長引けば問題が顕在化した可能性は高い。
>さらに後詰を送れる国力だ。
わずか1万ばかりの兵を鍾会の牽制のためにちらつかせただけの話で、国力の例としては不適当だと思う。
>そうでないなら、ケ艾を包囲殲滅したくらいで漢中・武都・陰平を奪回するのは不可能。
内紛含みの鍾会の軍が漢中を保持できるか、保持した後に巴蜀に侵攻を繰り返せるかって話だよ。
>>906 大差あるよ
蜀平定出来なければ司馬昭は晋王になれなかったかも知れない
王になる前に司馬昭が死んだら相当ゴタゴタするぞ
実績のない司馬炎をトップに担げるかどうか
>その羅尚が成都を守る側の話なんだけど
西晋の將の羅尚が蜀の現地勢力に手を焼いた話じゃないのか…。
「大国が大軍で北から攻めて成都を落とそうとすると苦労する(かもしれない)話」と、
「蜀の現地勢力が大国の地方拠点である成都を落とそうとして苦労する話」を比較するなんて、
なおさらワケが判らなくなっていくんだが…。
>わずか1万ばかりの兵を鍾会の牽制のためにちらつかせただけの話で、国力の例としては不適当だと思う。
おいおい、鍾会の大軍が解散してないにも拘らず、さらに一万追加した事例のどこが、国力の例として不適当なんだ?
この場合の劉禅徹底抗戦ifでは鍾会は反乱できないし、ましてや壊滅もされないだろう。
対蜀攻撃軍の大半が健全なまま維持されるんだよ。
>内紛含みの鍾会の軍
それはどんなif?
成都を落とせなかった鍾会とケ艾が、漢中のようなちっぽけな盆地内でどんな内紛を起こすと?
そのストーリーを解説してくれないと反論できないな。
>>909 雍州の異民族の李氏(元は巴テイ)と流民が大量に益州に入り反乱。西晋の羅尚(羅憲の甥)が刺史になり対応。
当時は八王の乱で、他州からの援軍は基本的に無し。
しかも益州も分割されてたので羅尚の軍も僅少。さらに羅尚は益州民に嫌われまくり。
それでも成都に籠り、江州に逃げ、巴東に逃げ、10年以上孤立無援で戦ってる。
>どこが、国力の例として不適当なんだ?
鍾会に対して一万送るぞと牽制してる話でしょ。
>成都を落とせなかった鍾会とケ艾が、漢中のようなちっぽけな盆地内で
そもそもケ艾が鍾会と合流できるか分からん。
>どんな内紛を起こすと?
幕僚に嫌われまくりのケ艾、誣告して諸葛緒の軍権を奪った鍾会、問題は多いよ。
長期遠征しても安心ってメンツじゃない。
>それでも成都に籠り、江州に逃げ、巴東に逃げ、10年以上孤立無援で戦ってる。
そうだね。
で、成漢には中原や江南のような巨大なバックアップがあってそのザマだったの?
違うだろう。それでは話にならないよ。
>鍾会に対して一万送るぞと牽制してる話でしょ。
で、実際に漢中まで一万が到達している。
>幕僚に嫌われまくりのケ艾、誣告して諸葛緒の軍権を奪った鍾会、問題は多いよ。
それは成都を落とした後で本国との距離問題が発生してから初めて致命傷になった欠点だ。
二人が漢中さえ維持できない程度の底の浅さしかないなら、
史実で蜀漢が敗れることはなかっただろうね。
そもそも、遠征が失敗して漢中維持が至上命題となれば、
十数万の大軍を二人に預け続ける意味がないわけだし。
数万を率いる漢中都督としてならケ艾などは最適任だろうな。
>で、成漢には中原や江南のような巨大なバックアップがあってそのザマだったの?
俺は成漢をケ艾軍と比較して見ている。
鍾会なり別の魏の援軍なりが成都まで来ることが出来たらまた別の話になる。
また、蜀は羅尚と違って南中や巴東、荊州(呉)からの援軍を期待できる。
>で、実際に漢中まで一万が到達している。
俺が見落としてるのかね?
賈充伝には「未至而會死」とあるが。
>それは成都を落とした後で本国との距離問題が発生してから初めて致命傷になった欠点だ。
>二人が漢中さえ維持できない程度の底の浅さしかないなら、史実で蜀漢が敗れることはなかっただろうね。
曹操だって漢中維持出来なかったわけで。
それに二人とも変事で横死。底は浅いだろ。
あと小さいこと言いたくないけど命題の誤用気になるわ。
>俺は成漢をケ艾軍と比較して見ている。
だから俺は、「ケ艾軍を殲滅したとしても、魏晋に取られた漢中・武都・陰平を取り返すのは極めて困難」と言ってるのに。
劉禅が南に逃げ、ケ艾が成都を取り、姜維が剣閣で鍾会を阻み続けたらどうなるか、という想像は難しいが、
少なくともケ艾軍が殲滅するよりは魏晋にとって不利なことにはならないだろうな。
>俺が見落としてるのかね?
うん、見落としてるね。
>以本官都督關中、隴右諸軍事,西據漢中,未至而會死。
漢中に至る前に鍾会が死んだだけで、鍾会遠征軍維持と同時に賈充軍を漢中まで進駐する国力は間違いなく存在する。
>曹操だって漢中維持出来なかったわけで。
前レス読んでる?
曹操時代の洛陽・関中の人口掌握度と不安定さを考えた?
兵站根拠地は遥か彼方の許昌だよ。隴西なんて支配さえ殆どしてない。
これで劉備相手に漢中を維持なんて夢物語。
その後、司馬懿・司馬孚やケ艾らが関中・隴西の根拠地化に努力してきた実績を知ってる?
晋が少なくとも280年までは十万以上の大軍を外国へ数ヶ月遠征する国力と安定度を持っていた事実はどうする?
天水をバックに武都を擁すれば陽平関を攻める敵を西から挟撃し、
陰平を維持すればケ艾のような危険な真似をせずとも白水まで到達し蜀の街道を横撃することができる
地理的優位は?
なにより40年の時代が流れていることを忘れてはいけない。
>それに二人とも変事で横死。底は浅いだろ。
結末だけ見て自分に有利な結論付けなんて、「劉備は戦が弱い」とか言うのと同じレベルじゃないか。
いや、まあ、ケ艾や劉備をその程度の人物だというなら、もう俺には反論は出来ないが。
>あと小さいこと言いたくないけど命題の誤用気になるわ。
ごめんなすって。
>>901 >劉禅は南方へ遷ることを検討している。
検討するだけなら、豊臣秀頼だって島津への逃亡を検討したっての。
南方の豪族が劉禅のクビを魏晋への手土産に降伏しかねない。
>>914 ちょっと待て。
>>914=
>>893じゃないのか?
漢中維持できるかどうかが主題じゃないんだが
というか、
>漢中に至る前に鍾会が死んだだけで
その前には
>で、実際に漢中まで一万が到達している。
ウソ書いておいて謝罪もなしかよ
>これで劉備相手に漢中を維持なんて夢物語。
そうだね、劉備(というかまともな中央の権力)がいたら蜀の平定は難しかったね、
というのがこちらの主張なんだけど。
>晋が少なくとも280年までは十万以上の大軍を外国へ数ヶ月遠征する国力と安定度を持っていた事実はどうする?
晋は270年代の関中や涼州の反乱を何年も鎮圧できなったのだけど
>結末だけ見て自分に有利な結論付けなんて、「劉備は戦が弱い」とか言うのと同じレベルじゃないか。
ケ艾は悪評多く、鍾会の失敗は予見していた人もいる。結末だけ見てはいない。
>>915 島津への逃亡とじゃ全然違うだろ。南中は蜀の実効支配地域なんだから。
西晋の李毅(李朝)とその後継者たちは寧州に依拠して三十年くらい戦ってる。
>>916 >南中は蜀の実効支配地域
いや、支配できてないから何万も兵力置いてるんだよ。
これはひどい
>ちょっと待て。
>>914=
>>893じゃないのか?
違うよ。横槍だと言っただろう。
>漢中維持できるかどうかが主題じゃないんだが
主題だよ。
ことの発端は、あなたが、
>漢中守れなくてもいくらでも戦いようがある。
なんて目玉が飛び出すようなことを言い出したからなんだから。
当時の魏晋と蜀漢の国力差を考えれば、漢中・武都・陰平を取られたら
取り返すのは極めて困難だし、遅かれ早かれ滅びするしかない、と俺は言い続けている。
賈充は、「漢中に至る前に鍾会が死んだだけで、実際に漢中まで一万が到達している」
これが事実だよ。どこが嘘?
>晋は270年代の関中や涼州の反乱を何年も鎮圧できなったのだけど
極局地的に見てさえ、綻びが見えるるのは70年代の話だねえ。
それに平行して呉討伐に成功しているわけだ。
巴蜀内、外郭の防御陣、精鋭軍をボロボロに食い荒らされたあとの蜀漢を迎え撃って
漢中を維持できない理由には程遠いね。
>ケ艾は悪評多く、鍾会の失敗は予見していた人もいる。結末だけ見てはいない。
劉備の失敗も曹丕が予見していたね。まあ、そういうのはあまり真に受けない方がいいよ。
ケ艾(や鍾会)には、巴蜀を維持する器量は無かったが、
魏が50年為しえなかった巴蜀制圧を実現する程度の(!)器量はあった。
なら、もっと易しい漢中を維持するくらいの器量は期待するのは自然じゃないか。
変事に倒れたケ艾の底が浅いというなら、心配ない。
姜維も大差無いから。
将の人物に大差無いなら、問題は戦略環境になる。
>>919 >違うよ。横槍だと言っただろう。
898か?俺は898にはレスしなかったんだけどな。
と思ったら
>>902で
>>896にレスしてるから別人なのか。
桓温とか言いだしてビックリしたからちゃんと確認しなかったよ
898では「中原勢力が、巴蜀の攻撃から漢中を維持するのは極めて困難」と書いてるね
それでもあなたが魏末晋初の場合は可能としてるのは、西晋の安定を根拠としているのだろうが
兵站基地として朧西で過酷な統治をしたケ艾の死が現地で喜ばれ、
270年には秦州刺史の胡烈が死亡するような状況。
>280年までは十万以上の大軍を外国へ数ヶ月遠征する国力と安定度を持っていた事実
こんなこと言えないわけよ。
>これが事実だよ。どこが嘘?
「実際に漢中まで一万が到達している」これがウソでしょ。
「280年まで〜」にしてもそうだけど、ちょいちょいウソ混ぜるの勘弁して欲しい。
>漢中を維持できない理由には程遠いね。
自分で「中原勢力が、巴蜀の攻撃から漢中を維持するのは極めて困難」と書いてる。
司馬懿・司馬孚が関中を耕しても、曹爽が征蜀を諦めたのは兵站に失敗があったからでしょ。
兵站のための労働力徴用が長期化するなら関中で変事が起こる可能性はある。
鍾会は綿竹落ちる前から諸葛緒を誣告するなど野心出しまくり。
魏晋が漢中を保持するにあたって不安要素はいくらでもある。
>劉備の失敗も曹丕が予見していたね。まあ、そういうのはあまり真に受けない方がいいよ。
さっきから劉備の名前を出すのが意味不明。敗戦予想とはまったく別物だろ。
>魏が50年為しえなかった巴蜀制圧を実現する程度の(!)器量はあった。
巴蜀制圧してませんが。
>なら、もっと易しい漢中を維持するくらいの器量は期待するのは自然じゃないか。
諸葛緒を誣告した鍾会は召還されるだろう。
ケ艾はそもそも漢中に辿りつけるかも分からんのだけど。
>>921-922 その晋の不利を全て肯定しても、諸葛瞻戦死後から蜀漢が挽回する
要素は、戦略・国力面では見当たらないね。
なぜ「中原」から漢中を維持するのが困難かというと、中原-長安-秦嶺-漢中という極細のラインに
流通の全てを載せなければならないからだ。そのために頓挫したのが曹操。
その後の魏では、
司隷に諸州随一の人口が集められ、長安は飛躍的に増強され、天水に冀州から殖民が送られ、
隴西では姜維の侵攻を跳ね返し、羌族を括弧撃破、支配権を広げた。
さらに蜀漢の三郡を落としたことで、
狄道-天水-右扶風-長安-洛陽
| | |
陰平-武都 - 漢中
という縦深性を持ち、「面」の展開で攻防を展開することが可能になった。
反乱の危惧を抱えていても、まともな前線根拠地を全て失った蜀漢よりは遥かにマシ。
>兵站のための労働力徴用が長期化するなら
成都陥落を諦めて戦時動員を解除すれば、過酷な徴用はそれで一旦区切り。
反乱の危惧も減少する。
>>280年までは十万以上の大軍を外国へ数ヶ月遠征する国力と安定度を持っていた事実
>こんなこと言えないわけよ。
だって事実として呉を攻略したじゃない。
>司馬懿・司馬孚が関中を耕しても、曹爽が征蜀を諦めたのは兵站に失敗があったからでしょ。
曹爽の時代からさらに20年経ってるんだな。その間に魏は姜維に対する兵力不足を挽回して
隴西都督を置き、そこから出征できるまでになった。
>巴蜀制圧してませんが。
巴と蜀は制圧したよ。羅憲も降伏してるもの。
まさか降伏した相手が鍾会らじゃないから鍾会の手柄じゃないとは言うまい?
>「実際に漢中まで一万が到達している」これがウソでしょ。
西據漢中。西して漢中に拠す。
文面上では到着している。その前に鍾会が死んだだけ。
状況的に見ても、鍾会が死ななければ順調に漢中に到着・長期滞在する予定だったことになるし、
征蜀軍を監督するために派遣された軍が、鍾会が死んだからといって
その後の混乱の可能性を忘れてその場で回れ右するなんて有り得ないだろう。
>さっきから劉備の名前を出すのが意味不明。敗戦予想とはまったく別物だろ。
60年の人生を有能と評価された人生を送りながら、終わりが悪くてのちの人間には
誤解される人物の筆頭だから。姜維でもいいよ。
しかし劉備や姜維の能力を疑う現代人はたくさんいたが、ケ艾を疑った人間は初めて見た。
仮にケ艾戦死、鍾会は召還でもいいんじゃないか。代わりの漢中都督が来るだけだから。
衛カンか司馬望を都督に、のちの征呉で活躍する優秀な将を何人か付ければ十分。
でも、剣閣を守るのが劉備、成都が諸葛亮クラスの傑物だったら挽回できたかもね。
>>924 ケ艾の人格的問題は三国志にも書かれておる
>>924 鍾会の乱を経ずに衛カンが都督?
ないない
目の上のタンコブの司馬望を漢中に送ることも考えづらいな
>>923 >要素は、戦略・国力面では見当たらないね。
呉や蜀が勝てる要素は戦略・国力面では見当たらないね
とか言っちゃう人なんだろうか
張悌戦死まで至ればそうだろうな。
戦略や国力以外の要素、晋側の政変のような異変・事故があれば別だろうが。
衛カンって蜀討伐前に衛尉。
蜀討伐時にケ艾と鍾会の二軍に跨って監察する持節監軍事・行鎮西軍司。
戦場経験は無いが宮廷中枢の超エリート。
蜀討伐後は都督として各地を転戦して特に失敗無し。
有能な将の補佐があれば格・実力ともに問題無し。
司馬望は関中都督。
ケ艾が隴西部しか担当しないことを考えると、魏の西方軍事力の過半が
彼の手にある程度の権限が任せられていた。
爲征西將軍・持節・キ督雍涼二州ゥ軍事。
在任八年、威化明肅。先是蜀將姜維屡寇關中、及望至、廣設方略、維不得爲寇、關中ョ之。
蜀滅亡後は都督として各地を転戦して特に失敗無し。
有能な将の補佐があれば格・実力ともに問題無し。
>>923 >反乱の危惧を抱えていても、まともな前線根拠地を全て失った蜀漢よりは遥かにマシ。
>だって事実として呉を攻略したじゃない。
その西晋が秦涼の反乱を何年も鎮圧できないどころか、刺史まかせで大軍も送れなかったのもまた現実。
少なくとも280年までは安定していた、いや、綻び始めるのは270年とそちらは二転三転するが、
不安定な状態をずっと抱えていたというのが事実だろう。
>成都陥落を諦めて戦時動員を解除すれば、過酷な徴用はそれで一旦区切り。 反乱の危惧も減少する。
前線なのに戦時動員を解除できるはずがない。漢中だけで糧秣を確保できると主張するなら別だが。
まして、戦時でなかった時期に反乱も相次いだ。
>隴西都督を置き、そこから出征できるまでになった。
それは散関の輸送とは別の話。
漢中とられたら蜀は滅亡必至、衰退必至ってのは
荊州とられたらってのと同じ話だね。それでも蜀は40年続いた。
>巴と蜀は制圧したよ。羅憲も降伏してるもの。
羅憲が降伏したのは劉禅が降伏したからでしょ。劉禅が降伏したのは唯一の方策ではないというのがこちらの主張。
それでも巴蜀を制圧したのは事実だと主張するなら、それでも変事により瞬時に横死したのも事実とこちらは言うだけ。
その程度の器量の持ち主なのは変わらない
>西據漢中。西して漢中に拠す。
西據漢中は西據漢中だよ。鎮許昌と書かれてもしばらく出鎮しなかった司馬亮だっている。
未だ至らずと続くのだから、漢中に入ったかは不明だろう。
とは言え、入った可能性も残るからウソと言った点については詫びる。
だが、十数万が反乱を起こさんという状況で1万の後詰、しかも賈充のごとき輩しか送れなかったのは事実。
魏晋を過剰評価しすぎだね。
>終わりが悪くてのちの人間には誤解される人物の筆頭だから。
劉備は生還して巴東を固め、外交交渉と後任人事もしてる。
終わりは全然悪くないし、誤解の原因は演義だろ。
鍾会とケ艾は同時代人の評判がよくないので全然ちがう。
>仮にケ艾戦死、鍾会は召還でもいいんじゃないか。代わりの漢中都督が来るだけだから。
>衛カンか司馬望を都督に、のちの征呉で活躍する優秀な将を何人か付ければ十分。
そんな上手くいくなら秦涼の刺史を何人も死なせてないよ。
蜀は何攀、李毅、李高、楊稷、毛Q、羅尚らを使って漢中を取り戻せばいいって言うのと大差ない論だな。
そもそも鍾会が召還に応じると思ってるの?
>>929 >戦略や国力以外の要素、晋側の政変のような異変・事故があれば別だろうが。
呉が滅亡したのはまさしくそちらのいう戦略と国力以外の要素による。
そうした要素を捨象することは出来ないよ。
>>930 衛瓘の実力に関して言えばそれこそ、そちらの言うところの「結果論」。
司馬兄弟の属官あがりでも都督経験者でもない衛瓘があの時点で漢中都督はないから。
疲れた。三行でまとめて終わりにする
前線根拠地に反乱の危険を潜在させる大国と、
前線根拠地が根こそぎ消滅した小国。
勝つのはどっち?
>>932 話は逸れるけど
>何攀、李毅、李高、楊稷、毛Q、羅尚
この辺ってどういう人物?
羅尚だけは知ってるけど他の人物のことがわからない
無知ですまん
>>934 何攀、李毅、李高、羅尚は征呉戦で活躍した益州人。
何攀と李毅は王濬のブレーン、李高は王濬配下で建業一番乗り。
楊稷、毛Qは三国志に詳細な記載があるが、益州人で
霍弋の配下として交州を攻撃した人物。呉が交州を回復したのは271年だ。
>>935 サンクス
彼らが益州人ってのは三国志か晋書に本貫書いてあるの?
羅尚は益州人じゃないね。
あとは三国志注の華陽国志に書いてあるし、華陽国志には詳細な記述がある。
交州の戦いなら馬忠の息子なんかも参加してる。
938 :
世界@名無史さん:2011/10/29(土) 19:29:04.39 0
姜維は何であんなに前線で駐屯したがったの?
兵隊を前線に大量に駐屯させると、それだけ生産力は低下するのに。
前線にいないと突破されるから
940 :
世界@名無史さん:2011/10/29(土) 21:35:34.50 0
自分から仕掛けて大敗してるように見えますが?
941 :
世界@名無史さん:2011/10/29(土) 21:41:44.71 0
二律背反というやつだよ。座して死を待つか、打って出るかの2択だ。
942 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 01:05:20.01 0
>>941 駄目軍人にありがちな思考だな。
第二次世界大戦のときの日本も、戦争か降伏かの二択しか国民に提示しなかった。
だから軍人に政治を任せてはいけないんだ。
二律背反の使い方がおかしい
944 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 05:07:52.96 0
常に戦争状態にしとくことが、
姜維の権力基盤の維持には欠かせないものだったのだろう。
その手法も段谷の大敗で失敗した。かといって野戦の強さは
諸葛亮の方が上みたい。
>>944 趙雲、魏延、呉懿、王平、馬忠、陳式、姜維、李厳、トウ芝、高翔、呉班と、
部隊指揮官級で粒がそろってた諸葛亮と比較してもしょうがない。
946 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 09:29:46.79 0
そうなの?
>>942 近代戦と同列に並べてどうする。
外交交渉で、魏に隴西支配強化を控えて中立地帯にしていただく、とでも?
948 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 13:34:06.30 0
劉備崩御直後は、蜀軍も粒ぞろいという訳ではなかったけどな。
かなり将官クラスが戦死、降伏したりして失っているから。黄権や馬良
みたいな重臣になるクラスの有能な人物まで失っている。
そこら辺が諸葛亮と姜維の実力の差でしょう。姜維は消耗させただけで
終了。残念ながら、実力以上のことやって、経済的破綻を招いたという
評価は概ね妥当。
姜維が繰り返し征伐を行って損害が大きいことに批判はあっても、
段谷のダメージで姜維が行動を制限されたとかいう話は、戦力的にも政治的にも無い。
姜維が慌てて成都にとんぼ返りしたのは、二年後の陳祗の死のあと。
その後、数年成都にいたが、結局、政治を委任された黄皓と、
彼に妥協することで権限を維持しようとした諸葛瞻らの派閥に弾き出される形で漢中に戻る。
以後、「地位を奪われることを恐れて成都に戻らなかった」。
この断絶が、魏の侵攻での救援遅れなど致命的なミスを生んで滅亡に至る。
姜維と蜀漢にとっての打撃は、連戦や段谷そのものではなく、
批判を高めていた成都政府が陳祗の死を引き金に姜維をバックアップする体勢をやめたことなんだよな。
950 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 14:39:24.36 0
バックアップする経済的裏付けがなくなったのだろ。
それは根拠が無い。
成都には二つの選択肢があった。
大将軍姜維を支持して彼に対魏戦略を一任するか、
姜維が成都に還っている間に地位を剥奪して、成都の新戦略を忠実に遂行する都督に漢中を任せるか。
どっちでもいい。
最善の戦略ではなくても、組織の力が一致すれば相当の効力を発揮するし、
どんなに素晴らしい戦略でも、組織が言うことを聞かなければ最低の戦略に劣る。
諸葛瞻らはあとから閻宇を起用して、二つ目の選択肢を完遂しようとしていたが、
時期が遅かった。
952 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 14:51:56.15 0
厭戦気分が高くなるのは、経済が貧窮化してくるから。
そいつは世の中の摂理みたいなものなんだ。ゲームじゃないんだからさ。
兵員が失われただけなんてことはないよ。
疲弊はしていただろうよ。
だが姜維と連携することができないほどに「経済的裏付けなくなった」と言うのは根拠は無い。
そこまで困窮していたのなら、滅亡直前の数年間姜維が独自軍事行動を展開した、
成都が野放しにしていた、ということは有り得なくなる。
少なくとも経済的破綻が滅亡に繋がったのではない。
よくいわれるけど、ほんとに資金や食糧がスッカラカンなら鍾会が蜀の地で反乱を企てるはずはない
経済どうこうみたいなものは実際には遠因、またはそれよりも薄いものだろうね
まあ姜維が視野狭窄状態の2択しか考えなかったとしてもだ、実際、それ以外の選択する余地無いだろう。
おまえらが姜維の立場でも傍観者として後日大軍が来きて伏兵看破撃滅戦しかけるか、隴西に兵站整う前に
兵を送る以外の策おもいつくのかい
956 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 19:26:17.36 0
経済的に豊かな国を、武力で制圧するのは難しいのですよ。
だって、それを支える軍事力を持つことができるからです。
鍾会・ケ艾による征蜀の役は、蜀の経済的衰退を見計らって
実行されたものです。戦争は国力と国力のぶつかり合いであり、
互いに国を守るに足る国力がある場合は、局地戦の少々の勝敗
程度では決まりません。
蜀がスッカラカンというのはオーバーかもしれませんが、守るのが
困難になるほど国力が衰退してたのは事実なのです。また、政治の
不和も国力の衰退と共に具現化するのです。
経済が豊かだったら/守るのが困難なほど貧窮していたら、の誤った二分法しか考えようとしない時点でもうおかしい
結果ありきじゃなくてちゃんと考えたらどうだい?
958 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 19:53:44.11 0
夫婦仲や家庭と同じなんだ。
豊かな家庭が経済的に貧窮しだすと、夫婦が不和になったり、
子供が非行に走ったり、飲んだくれになったりと家庭崩壊現象
が発生する。経済の貧窮と政治の乱れは一心同体なんだ。
宦官の専横や国内世論の不一致による政治の分裂は、経済衰退に
よって出てくる現象の一つに過ぎない。
>経済的に豊かな国を、武力で制圧するのは難しいのですよ。
姜維は制圧しようとしていない
>宦官の専横や国内世論の不一致による政治の分裂は、経済衰退に
>よって出てくる現象の一つに過ぎない。
宦官の専横は無関係。
経済の疲弊や戦争の被害によって政治が分裂したとしても、
実際に侵略を受けた時に、
疲弊したために対応戦力が残っていなかったのか、
分裂していたために対応能力を欠いたのかで、
「敗因」は変わる。
蜀の場合、政治分裂が敗因で、経済の疲弊はそれを惹起した遠因。
なぜなら、陽平関への張翼の援軍が間に合っていれば戦況が変わった可能性が高いから。
世論が分裂していたかどうかは記述がない。
960 :
世界@名無史さん:2011/10/30(日) 21:21:51.44 0
>>959 ちがう、ちがう。
経済的豊かな国云々は魏の侵攻のこと。
蜀に十分な余力があるうちは、国力差があっても
武力制圧は難しかった。経済的衰退を見計らって
侵攻が開始されている。
政治というのは、上手く行っているとこは大きな分裂は
発生しない。上手くいなくなってくるから分裂が始まる。
そっちかよ。
でも諸葛亮の時代も王平の時代も武力侵攻してるよね?
過去二度の大侵攻と比べて、何が違うかと言うと、魏側の戦力の「豊かさ」なんだよ。
曹爽の戦力は七万程度。
ケ艾・鍾会らの戦力は15万オーバー。
しかも、これまでせいぜい複数の道を通って漢中盆地に侵入する程度しかできなかったのが、
263年には祁山を迂回して武都・陰平を同時攻撃している。
そのために蜀は全てを守りきることができず、蜀に侵入された。
263年に魏が攻撃を決断したのは敵ではなく味方の変化にある。
>上手くいなくなってくるから分裂が始まる。
で、戦争の敗因は上手くいかなかったことそれ自体ではなく、分裂状態だったことだと繰り返している。
>>960 経済的破綻(わからない)→だから家臣が分裂した
を説明した気分になって
家臣の分裂(事実)→もちろん経済は破滅的に衰退していた
本来の筋にはこちらの説明が必要なことがわかってないよね
もとからアレだけど
>>956あたりから相当無茶苦茶だよ
963 :
961:2011/10/30(日) 22:13:47.30 0
いや、言葉の選び方が難しいが、蜀漢は経済的に「疲弊」はしていた。
これはショウ周の仇国論で指摘されている。
ただこれは、「無駄な出兵をなくして民衆を休ませるべき」
「何度も不確かな出兵を繰り返して逆に致命傷を負う事態になったら眼も当てられない」
というものであって、
姜維の出兵を支える地力がなくなったとか、魏の侵攻に必要な兵力が維持できなくなるほど
「破綻」していたという話ではない。
だから俺は
>>948の
>姜維は消耗させただけで 終了。
>残念ながら、実力以上のことやって、経済的破綻を招いたという 評価は概ね妥当。
という、経済的破綻によって蜀が滅ぼされたかのような短絡に反論している。
「実力以上のことをやって経済を疲弊させ、政治分裂を起こして敗因を作った」とステップを踏むなら
姜維責任論は肯定できるけどね。
>>961 横レスだが
>263年に魏が攻撃を決断したのは敵ではなく味方の変化にある。
鍾会伝には蜀側の情勢から司馬昭が蜀侵攻を計画したことが明記されている
>>959 >陽平関への張翼の援軍が間に合っていれば戦況が変わった可能性が高い
張翼が遅刻した原因を考えてみろよ。
姜維がすばやく移動しているのに、張翼たち援軍は一貫して低調だろう。
これは軍需物資がいきわたっていなかったのではないか?
援軍が遅れたのは急報を黄皓が握りつぶしたから
黄皓に限らないけど、そんなとこだろうね
結論ありきすぎてもう発想がまともじゃなくなってきてる
黄皓に限らないけどって、なんの話をしてるんだろう?
姜維からの上書で魏が侵攻準備をしていると報告があったと
劉禅に相談された黄皓が、巫女のお告げを根拠に侵攻は無いと言って
朝廷に知らせず、蜀漢の迎撃準備が遅れたのは有名な記述だろうに。
ケ艾の侵攻が開始されてからようやく成都が動き出して、
諸葛緒が姜維の裏を取って武都方面に侵入するまでに、
第一陣の廖化は武都を行き過ぎて陰平まで到達していたわけだから、
蜀漢の迎撃速度自体はかなり速い。
姜維の最初の報告が信じられていれば、
陽平関と陰平を数万の軍で防備を固める余裕もあっただろうに。
姜維の上書が劉禅と黄皓に握りつぶされた結果,
群臣はケ艾や鍾会が攻めてくるまで知らなかったということは,
姜維には正式な使者以外に成都への連絡方法がなかったことになるから,
姜維が孤立していたことの傍証になるのでは。
それはなるねえ。
姜維は、鍾会の軍事行動の準備をおそらく諜報で察知して、
機密として皇帝にだけ上表する形を取ったのだろうけど、
並行して親しい廷臣などに知らせたりしなかった(or出来なかった・やっても無駄だった)
とするなら、成都朝廷と姜維の隔絶はかなり深刻だったことになるな。
>>969 いろいろ、ちょっとずつ勘違いしてない?
陰平と陰平橋はすこし違うし、武都を行きすぎた云々も地名間違いか何かかな
張翼や廖化、董厥は派兵時においても消極的に見え、全く黄皓だけの責任で遅れたとするのは短絡の嫌いがある
ま、些事だし、別にいいけどさ
そっちが別にいいならそれでいいけど。
>張翼や廖化、董厥は派兵時においても消極的に見え、
これは気になるな。成都朝廷への評価が変わる。
魏の大軍が迫っている時期に消極的なんてどんな状況なのかと。
終わりにする前に引用お願い。
なんか新事実でもあるのかと思って気になってたけど、武都は間違いでいいのかな
とりあえず、消極的であったとする説を見たこともないならニセクロ氏の降伏劇(劉禅項)でも読んできたらどうかな
個人ページだからリンクはちょっと貼れないけど
あれ鵜呑みにするのはやめといたほうがいい。
史料収集の幅は広いけどドラマチック優先で考察はかなりひどい。
司馬懿が蜀討伐を目論んでいて渭水の南岸に遠征糧食を貯蔵していた、
とかいってるから。
そんな場所の貯蔵庫なんて蜀の前衛部隊どころか、五次北伐の前段階の
兵糧輸送の次いでで殲滅されてしまうわ。
おもに晋書の記述の解釈によってるところか
まぁ、君がそう思うんならそれでいいんじゃない?
書いてる場所が全然違うんだけどさ
そもそも違和感もなく侵攻報告や援軍要請を劉禅と黄皓とで握りつぶして
あとはまったく知らなかったことをスッと受け入れられるのなら、あんま言い加えることはないな
その他は結局解釈次第ということになるんだろう
違和感無くって…
皇帝への上表ってそういうものだよ。
上表を取り扱う機能を「省尚書事」と言う(尚書といっても必ずしも尚書台が扱うわけではない)が、
蜀漢末ではこの機能を劉禅と黄皓が扱っていたと考えられる。
ここで、論考する価値あり、と判断されれば、実行の如何が廷臣に下問される。
取り扱うべきではないと判断されると、「寢事」とされて公開されない。
姜維伝ではまさに「寢其事」の言がある。
ニセクロ氏のところは探す気も起きないから別に争わなくていいや。
そっちは終わり。
それに直接答えるとするなら、まず上表だけが成都への連絡手段だったのかということ
(朝廷への正式なものとしてはそうかもしれないが、もちろん違う)と、さらに、わざわざ
黄皓に親しかったと書かれながら当時国政を担っていた諸葛瞻・董厥の存在などにも
引っかかりを覚えないのかどうかということで、感じないのなら、ま、それはそれでかまわない
しかし、一応付きあってるけど、さっきから君が何を論点にしようとしているのかがぼんやりしててよくわからんな
上表の広報と機密性の件は
>>967-971がすでに触れた。
こちらの主張したい論点なんて無いよ。
根拠も無い話を次々と持ち出して自分の説補強していく有様に、逐一反論しているだけ。
相手が一人は限らないが、まとめるとこうなる
姜維によって蜀の経済が破綻した
→ そんな強い表現はどこにもないよね
成都からの援軍が遅れたのは、経済破綻で物資集めなどに時間が掛かったせい
→そんな記述どこにもないよね
→そもそもケ艾の侵攻があってから動いたことを考えれば陰平まで行けたのは速いよね
姜維の上表を成都の誰も知らなかったというのは有り得ない。
→上表ってそんなものだよ
→当時成都にいた陳寿の直筆では信用に足りない? ではより信憑性のある箇所は?
行動する段階でも張翼・廖化らにはやる気がなかった。根拠?ニセクロ
→知らんよ この場にいない人間の言うことなんて
>>979 さて
>姜維の上表を成都の誰も知らなかったというのは有り得ない。
「有り得ない」って、どこに書いたっけ
たとえ上表が隠蔽されていたとしても、という趣旨のことは書いたけど
>行動する段階でも張翼・廖化らにはやる気がなかった。
「やる気がなかった。」とも書いた覚えはないな
その行動が消極的なもの(受け身といってもいい)に映ったということ(そしてそれは
>>977で勝手に終わらせたはずだった)
俺へのレスに関してはただ悪意ある解釈にしか感じないなあ
なんでこんな低レベル的な争いをわざわざ求めちゃうの?
いやべつに、979に再反論を求めているわけじゃないんだけど。
消極的云々は根拠が提出されない限り話の進めようがないから。
まあこれは言っておく。
>上表が隠蔽されていたとしても、という趣旨のことは書いたけど
うん、それでOKだよ。
隠蔽というのは用語の誤りだが、「寝事」として公が却下した案件が、
仮に黄皓の私的な「呟き」や、姜維の私信で成都に噂話として外に流れたとしても、
それは公式には認められない「流言」だし、流言を許に軍需物資の徴発や召集が始まることは有り得ない。
結局群臣が「事実を知り」「対魏軍事行動が公式に始まる」のは、
魏の侵攻が衆目に明らかとなるケ艾侵攻開始時、つまり陳寿の筆の通りで正しいことになる。
>>981 その例に乗りつつ具体的なことをいうと、諸葛瞻・董厥・樊建らが上表の事実を知らず、
しかし異なるルートで情報を得たとして、公式に認められてないからなどという理由で
対応(黄皓や劉禅に対するものも含む)を怠ったのなら、それはやはり怠慢でしかない
この場合において彼らに責任がないとするのは完全に誤り
>しかし異なるルートで情報を得たとして
>対応(黄皓や劉禅に対するものも含む)を怠ったのなら、
諸葛瞻らが姜維の上表を知らされていたのかもしれないって、どこからも類推できない妄想だよね。
黄皓が秘事を漏らすのを我慢できなかったとして、その相手が諸葛瞻らだという義理も動機も根拠もないし。
そもそも尚書の秘事を漏らしたら大罪だから、漏らした側も漏らされた側も大手を振って対応なんてできるわけがない。
妄想に妄想を重ねれば、「事実」を知った諸葛瞻は密かに夜宮廷の門を叩いたけど相手にされなかったのかもしれないね。
それを陳寿が知らなかっただけで。
ってレスして良いくらいの妄想だよ。
そこまで妄想を重ねておいて、最後に
>この場合において彼らに責任がないとするのは完全に誤り
なんて断定ができるなんて、理解できないよ。かしこ。
ああ、ごめん。
「表の事実を知らず、 しかし異なるルートで情報を得たとして、」か。
>>983-984は撤回する。
しかし結局、姜維が上表を使って機密を維持したのに、
同時に成都の各所に私信を送るというのは考え難いな。
しかもよりによって自分を追い出した諸葛瞻らには。
やはり諸葛瞻らが「流れるかもしれない噂話」以外に具体的に情報を入手していた可能性というのは
妄想の域を出ない。
出ないが、まあ、その仮定を肯定し、かつ、公的にも秘密裏にも行動を起こさなかったと断定する限りでは、
諸葛瞻らにも責任はあると言えるね。
というか、録尚書事と尚書令が雁首そろえて、ほぼ政敵の姜維以外のルートから
魏の侵攻情報を得ていたのなら、それに対応も公表もしなかったのは、
怠慢と言うより合理的な説明が出来ないほど不可思議な話じゃね?
びっくりした、皮肉でもなんでもなく
>>983は理解できなさすぎてぎょっとした
一応わかったみたいでよかった
とりあえず、陳寿の文をそのまま読んで、諸葛瞻・董厥・樊建含め「群臣らは何も知らなかった」とするほうが
個人的には違和感がある、ということまで伝わっていればいい
あとの考証は仮定やそれぞれの解釈のうえに成り立つけど、ま、個人的にはそこまで深入りする気もないな
>>982に関しては、君が
>>981で展開しはじめたから乗っただけだからね
>>981はあくまで「流言として成都に流れても、それを根拠に軍事が動くことは有り得ない」って話。
>>982は、「仮に、諸葛瞻らがどこからか確かな情報として魏の侵攻情報を得ていたとして」って話だろう?
前提がだいぶ違うよ。
俺の考えを整理すると、
諸葛瞻らが独自に「確かな情報」を入手していた「可能性」は、確かにある。
しかし歴史的な考慮に値するほどの「蓋然性」は無い。
ってとこ。
>>988 べつに俺も「姜維の私信」程度の「流言」なるものでも色々と動くべきだったと思って書いてるわけだけどね
ちなみに俺はそもそも
>>967で言っただけ以上のことは別にいい(二行目は
>>965宛)
次からは捕まえるならもっとまともなもん捕まえてくれよ
確かに変なものを捕まえてしまったみたいなだあ。
・張翼や廖化、董厥は派兵時においても消極的に見える
↓
・その話は気になる。ソース求む
↓
・ニセクロ
↓
・じゃあいいや
だもんな。
と言いつつ990。次スレ立てる
レベルが足りないそうです。
次に頼んだ。
>>969 廖化が陰平まで進出したというのは怪しい。
陰平で諸葛緒を待ち受けるというのは整合性を欠く。
この時点で諸葛緒の作戦線を蜀軍は把握しておらず、
諸葛緒が真っ直ぐ剣閣へ抜ける可能性や、
後方より関城を襲う可能性を考慮すべきであった。
廖化がそれを阻止するのであれば、陰平橋頭や白水の辺りで迎撃するべきである。
また、陰平に留まっているという事は、ケ艾と諸葛緒による包囲の中に留まると言う事になる。
姜維軍は、沓中から剣閣までの300kmを2週間で踏破している。
しかも平坦な道ではなく険しい山道を移動してのことだ。
これに比べれば、張翼や廖化の軍の移動は明らかに遅い。
単に成都の出撃判断が遅れた以上のものがある。
姜維軍と張翼や廖化の軍の質にそこまで差があるとは思えないので、
やる気がなかったか、物資不足で移動もままらなかったかのどちらかだろう。
陰平に行ったのはトウ中方面で交戦している姜維の増援。
なんで成都から進発する軍が時間が掛かるかと言うと
>>878や
>>870の通り
曹魏の中軍が許都や洛陽から国境に到着するまで時間が掛かったのと同じ。
陽平関が落ちて、重器を捨てて撤収しただろう姜維が300キロ2週間掛かったのが正しいのなら、
成都-陰平間は同じ速度で一ヶ月。陣営設備などを携行する通常行軍なら倍掛かってもおかしくない。
>>994 張翼廖化は成都に駐屯していた軍を率いたはず。
いくらなんでも、魏の攻撃を確信した後で各地で徴募を始めたのでは、間に合うわけない。
募兵に関しては、姜維の通報時から既に準備していたと考えるべき。
そもそも、黄皓が姜維の通報を握りつぶしたというが、それは一体いつの話なんだろう。
万単位の軍を動員するなら2ヶ月は前から準備を始めないと間に合わないぞ。
実は黄皓は別に通報を握りつぶしていないのではないか?
蜀が動員を完成する前に魏が攻め込んできただけじゃないのか。
首都に駐屯していた兵と、最前線にいた兵の質が同じってことはないと思う
>>870 蜀の滅亡時の戸籍上の兵士数は10万2千だから
漢、楽、陽安関、剣閣の会戦初期の兵士数をそれぞれ5千
漢中を維持する為の兵士数を5千とすると
姜維が動員できた兵士数は7千しかいない計算になる
涼州の異民族を動員したとしても1万前後、多く見積もっても1万5千
これではケ艾軍3万、諸葛緒軍3万には勝てるわけがない
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