>>1乙
やっぱ時代は蜀漢正統論だよな
蜀誌先主伝の皇帝即位の下りなんてくだらねー屁理屈ばかりで涙が出る
4 :
世界@名無史さん:2011/02/17(木) 21:45:28 0
蜀誌ってなんだよw昆虫記か?
張温「腹の中に虫がいるので」
陳登「虫には皆さんくれぐれもお気をつけあれ」
蜀だから虫であってんじゃない?
8 :
7:2011/02/18(金) 09:04:13 0
張飛
,. - ── - 、
r'つ)∠─── ヽ
〆⌒  ̄ ̄ ̄ \__r 、 \
,.イ ,イ \ヽ,\rv-,
ヾイ /{ { ヽ、ト、 \Y <ノノ\
{ .ト{\ヽ', メ __\ } ⌒ヽ }へ
ゝ |"ひ) \ イびゞ \ ヽ- 、ノ // >=
ノ ト、"´,. ー ノ ///\/ / \
/. { ゝ / レ// } Y´ \
{ ヽ ヽ⌒> / レ´TTア⌒>、_ \
V{ \ └ ´ / ,.イ/ /ll | /≦__ }
V{ >ー┬|/ ! ,.イノ || | /  ̄ ̄ ̄ /
リヽイ| /:| l _|' '´ || | | _/
/{{ | |===| || | __/
10 :
世界@名無史さん:2011/02/18(金) 16:53:46 0
>>9 三国志の時代には焼き餃子はない。
水餃子と蒸し餃子はあるが。
前スレで袁紹の死に方や劉備の死のタイミングが暗殺や戦傷っぽいというレスがあったが、
最近のムバラクやベンアリ危篤のニュースを見てると落胆して病死って本当にあるんだと思えてくる
気力が萎えると病気にかかりやすくなるらしいね
遺言で腹痛がどうのこうのと言ってたから胃癌とかだったんじゃないかな。
わざわざ戦傷や暗殺だと考えなくても、
60歳前後の人間が大敗して百キロばかり単騎駆けすれば
消耗して病気に罹りやすくなるのは無理はない。
ただ反乱鎮圧しながら二年近く生きてる袁紹は官渡の影響の可能性は少ないが。
劉備の場合はその年うちに病気が知られて反乱が起きているから、
長期退陣と敗走の影響は十分考えられる。
後漢あたりの人間の寿命ってどのくらいなんだろうな。
何か春秋戦国あたりより短いイメージあるわ。
>>15 伝記が残ってて生没年が分かる人間なら、50代から60代が普通だな。
40代で死ねば早死で、70過ぎたら長生き。
そう考えると、弥生時代で70以上で死亡か。卑弥呼すげーな。
18 :
世界@名無史さん:2011/02/18(金) 23:33:33 0
後漢は時代を通して寒冷化していく状況で、災害、疫病も多いから、伝記残っているような上層以外の寿命は微妙なイメージ。
ただ災害、疫病時の医療ケアを国家が行っていたりするし、短い期間で十分な人口増加があり、
豪族の寡占抑制のために、孝廉の年齢制限を行っているから、案外平民も寿命高かったのかも。
21 :
世界@名無史さん:2011/02/19(土) 02:45:29 0
>>18 孔明が仲達の立場で、仲達が孔明の立場だったら、まあ似たような結果になったと思われる。
22 :
世界@名無史さん:2011/02/19(土) 02:46:25 0
>>20 乳児死亡率高いから、55歳ぐらいが寿命だろう。
>>22 全人口の平均寿命なら20代とかだぞ。
成人まで育った人間の平均寿命なら40歳くらいにはなるかもしれんが。
24 :
世界@名無史さん:2011/02/19(土) 03:16:34 0
医療技術がほとんど古代と変わらない中世日本だって、50年ぐらいは寿命あっただろ。
つまり古代中国だってそのぐらいの寿命はあっておかしくないはず。
あ、ごめん。読み違えた。urlのデータは「50歳まで生きていた人間があと何年生きるか」か。
江戸時代の全人口の平均寿命は約30歳なら、やはり戦乱の時代では20代程度と見積もって正しそうだな。
庶民はともかく、皇帝の寿命ってやたらと短くない?
30歳以上生きた奴の方が少なくなかったっけ?
一般に平均寿命は新生児の死亡率を差し引いた寿命なのだろうか
前スレがらみ・・・
やっぱGoogle-IMEダメだわ。
旧来のMS-IMEのユーザ辞書の引継ぎに失敗するし。
部首一覧とかないし。
MS-IMEに戻した。
32 :
世界@名無史さん:2011/02/19(土) 15:09:22 0
りき だと変換されないけれども
こくせんぷうりき だと変換されるという
>>28 普通は差し引かないものを指す。つまり「ゼロ歳児の平均余命」=「平均寿命」。
だから乳幼児の死亡率が5割を越すような前近代、
というか近代に入ってもかなりの期間、平均寿命は30〜40代程度だった。
日本でも50歳代に入るのは戦後のこと(或いは戦争突入直前には越えていたかもしれないが)。
ttp://roop119.com/24.html 無論、戦前の大人が40代でバタバタ死んで50歳になれなかったわけではない。
だから社会の人口構成を手っ取り早くイメージするには、「成人の平均余命」を算出した方がいい。
平均寿命を知ることは、社会の衛生・医療・栄養・治安環境などの総体的な文明の程度を
イメージするのに役に立つが。
34 :
世界@名無史さん:2011/02/20(日) 15:46:55.97 0
昭烈皇帝のあまりの偉大さに誰もカキコできないようだな
もう2ch見放してTwitterで意見交換しているよ。
twitterなんて無双の話ばっかりしてるじゃん
それはそれでいいんだけどw
それは探し方が悪いよ。
ヒントア・ゲ・ル 例えばの話だけどマイナー系の人物を検索してご覧 正史オタがいっぱいフォロー被フォローされている様子が
引っかかるはずだ。
じゃあ王匡と孔イ由で検索してこよう
「王匡と孔チュウってマイナーか?」と一瞬思ったけど、あんまりマイナーだと話題そのものがまだないおそれがあるな。
そういった面ではむしろ、「正史ヲタ内では有名だが、他のヲタにはそれ程名の通ってないと思われる人物」を検索するのが得策かも。
43 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 16:46:25.42 0
陳式は陳寿の父なの?
自分で情報発信してみ 興味深い書き込みならすぐにフォローされるから。
45 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 19:37:45.05 0
>>43 そういった記述は史書になく、また陳寿の父は260年過ぎに死んでいるから、まず陳式が父ということはないだろう。
確か陳式が陳寿の父という設定は現行のものより古いバージョンの演義に書かれていたことらしい。
46 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 19:51:10.03 0
>>45 ていうか、陳寿が「諸葛亮様はちょっと戦下手かなー」とか書いたのが原因で、
「てめー、親父の陳式が諸葛亮に罰せられたから恨みに思ってるんだろ!」と陳寿を叩きまくる諸葛厨が続出したため。
いや史伝の範囲では、晋書の「陳寿は父親が諸葛亮に罰せられたので遺恨に思っていた」という説まで。
その父親が陳式だという話は現在確認できる文献では演義まで下らないと現れない(ハズ)。
48 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 20:21:24.07 0
「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝にあるらしいぞ
49 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 20:23:21.70 0
陳式は武都・陰平を攻略したという功績もあるんだよな。
諸葛亮は野戦はかなり強いでしょう。
追撃軍の撃退も上手いし。
まあ、城攻・奇襲戦みたいのは得手ではなかったと思う。
もっとも城攻は兵糧が少ない時点で大きなマイナス材料ではあるし、
有能な将軍が守っていると、誰が攻めても成功しない場合が多い。
諸葛亮は、日本で言えば徳川家康タイプの感じかな。
野戦は強いけど、機略に関しては豊臣秀吉よりも劣る。
50 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 20:32:08.87 0
諸葛亮は2人いればいい
前線の参謀として1人
本拠地の留守司令官+兵站業務担当として1人
51 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 20:43:04.90 0
王平伝を読むと、
諸葛亮の陣営に司馬懿が、張コウの陣営に攻撃を仕掛けたのは
本当のようだ。張コウは王平に撃退されている。諸葛亮伝には、
231年の北伐は兵糧切れで撤退とあるので、どうやら司馬懿の直接
攻撃も撃退されたことがわかる。流石に西晋王朝の家臣である
陳寿が、司馬懿が攻撃に失敗しとは書けなかったと思われる。
『漢晋春秋』には戦死者3000人を出す敗退だったと書かれている。
資料を総合すると、野戦勝負では諸葛亮が勝っていることがわかる。
しかも、司馬懿配下の張コウが撤退する蜀軍を追撃し戦死している。
どうもこの時の司馬懿の指揮は冴えない感じがする。司馬懿は機略を
駆使した戦闘は得意だけど、野戦勝負はどうも苦手のようだ。最後の
北伐でも野戦を避けている。野戦の強さに関しては、諸葛亮が司馬懿
を圧倒していたのは事実のようだ。「奇才なり」という評価は過大評価
ではないだろう。
司馬懿はどっちかというと孟達や公孫淵討伐みたいに決断力の速さと行軍のスピードが持ち味な気がする。
53 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 20:55:48.91 0
いや司馬懿は五丈原でも郭淮・胡遵らに諸葛亮の陣地を攻撃させて失敗している。
で、この攻勢の失敗に懲りてその後はひたすら陣に閉じこもった。
なんか司馬懿は正面きってのガチンコ勝負は不得手なんじゃないかな。
その穴を電撃的な進軍速度で機先を制すことでカバーしてる感じがして、すごい曹操に似てると思う。
短期決戦に失敗した結果、堅固に築かれた敵陣に攻撃かけて返り討ちにあう所とかも。
>>52 戦略家的官僚だからね。
司馬懿は戦域を俯瞰して彼我の戦力と情勢を見極め、即断して機動と集中を行うのが得意。
一・四・五次ともにそれで諸葛亮の出鼻を挫いている。
先に戦場に到着する攻め手の自由度があるはずの蜀漢が、
司馬懿によっていつの間にか選択肢を狭められている。
しかし叩き上げの指揮官ではないから、戦場で対陣してからの采配では
部下の諸将に及ばない程度だったのだろう。
諸葛亮がそれが得意なのかというと、まあちょっと疑問だが、
少なくとも指揮官としての戦場経験は司馬懿よりずっと長いし、
何より強兵を作り上げ、戦場へ運ぶ軍政家として稀代の能力を持っていた。
だから戦場の交戦では蜀漢が優勢を維持し続けた。
司馬懿は曹爽や公孫淵でも相手を侮らせて油断を誘ってから一気呵成に敵を食らうからな。
そういう心理戦に長けている。孟達の時も油断を誘っているしこわい。
孟達の時のは、わざわざ調査させてから暴発させてるから評価しにくいように思える
孟達の叛意を察知してたのなら、相手に何の準備もさせずに潰しておくべきだっただろうし
曹叡の指示を得ずに出陣っていうのも、結果オーライとはいえ、ちょいと事前準備が足りない
思うに、司馬懿は孟達の叛意自体は見抜けておらず、疑いを晴らさせる為に参内を進めたように思える
もちろん、その後の対応が神がかったレベルなのは疑いようもないが
59 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 22:06:32.44 0
演義って怖いね。
司馬一族って相手暴発させて討伐ってパターン多くね?諸葛誕やカン丘倹の時も同じパターンで始末してる。
親子そろって手法がにているし、諸葛誕の反乱も結局のところ追い詰めて禍根の種を予め摘んだという感じだな。
61 :
世界@名無史さん:2011/02/23(水) 23:35:01.31 0
「しばいたろか」の語源は司馬懿
英語表記だとSima Yi なんだな シマイ
春華(189〜247)は河内郡の平睾県(へいこうけん)の生まれで、父親の張汪は魏の粟邑の県令を務めたそうで。
母親の山氏はあの竹林七賢・山濤の大伯母にあたる人。
張春華は人並み優れた知恵や見識を持ち、行いも正しかったそうですから、良妻賢母の素質があったと言えるでしょう。
彼女が司馬懿の妻となった時期は不明ですが、201年に司馬懿が仮病で曹操の招きを断った時、司馬懿のミスで下女に仮病がバレてしまった時には、後々の禍根を潰すために下女を殺していますから、それ以前でしょう。
ちなみにこの時、張春華は13歳。司馬懿は23歳。
殺人を犯したロリを女房にしている司馬懿って・・・・・
王朝の創業者の夫人については見え透いた嘘話が多いからな
ロリをもらったのは事実だろ。 児童ポルノ法反対! 少子化解消しよう!
>>62 ピンイン表記じゃないのかねそれは
ピンインで「Si」と書いてても「スー」と読む
「四」と同じ
音をカタカナで表すと「スーマーイー」の方が近い
67 :
世界@名無史さん:2011/02/24(木) 00:59:06.17 0
正面から潰すのと、
わざと暴発するよう仕向けて征伐するの、
どっちが人が悪い?
司馬懿は人が悪いというより、アレな人物だったのはまちがいないな。wikiより
かしその後の処置は苛烈なものであった。中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の男子を数千人(一説に7000人ほど)殺し、
京観を築いたという。これについて『晉書』は、「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、
ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。
相手が法に背くように仕向けてから倒す = 性格が悪い
相手が法に背く前に倒す = 悪人
『晋書』は晋が短命王朝だと知っている人が編纂したから
後智恵で書きたい放題
兄貴をぶっ殺して父から帝位を奪った李世民は、司馬懿→司馬師→司馬昭の流れをどんな気持ちで編纂したんだろうな。
八王の乱では一族同士で殺し合いしているけどな
>>55 呉との戦いで諸葛瑾を一蹴しているところをみると、ガチ決戦でも水準以上はあったんじゃないかな。
241年 司馬懿が諸葛恪を攻めようとすると、諸葛瑾は格では司馬懿と伍せないと感じたか、柴桑に下げている。
司馬懿の強さを亮との文通(おそらく言及していたはず)や226年の敗戦で熟知していからからだろう
(ただし諸葛瑾の敗戦は諸葛瑾伝にはない。明帝紀・陸遜伝にはある)
75 :
世界@名無史さん:2011/02/24(木) 17:26:56.11 0
>>64 呂后「そうそう、人豚なんてやるわけないでしょ」
まぁ、実際史書が編纂された際には、既に正統じゃないから作り話の可能性も無きにしもあらずではあるが。
賢妻はこれでもか、といわんばかりに賢妻だし、
悪妻はそれこそ容赦ないくらいに悪妻
孫魯班も韋昭に好き勝手書かれたに違いない。
それに比べて孫魯育があんま悪い扱いじゃないのは、朱拠の夫だったからなんだろうな。
孫魯班とか、あと呂雉も政争関係者の負け組だからなぁ。
他に記述がない以上、ある程度信を置かざるを得ない部分ではあるけれど、
同時に眉に唾をつけて読まなきゃならん部分でもある。
この時代の料理って今の中華料理とはだいぶ違ってたの?
83 :
世界@名無史さん:2011/02/25(金) 14:24:20.06 0
>>82 油であげる系の料理法がなかったらしいので、揚げ物は全部ない。
餃子は蒸し餃子か水餃子で、焼餃子が出たのはずっと後。
多分料理に高火力を使えなかったのだろう。
辛さも無い
ありがと
現代人の感覚では多少味気ない感じかな
各種三国志マンガで出てくる飯のシーンがいつも美味そうに食ってるので気になってた
86 :
世界@名無史さん:2011/02/26(土) 00:19:53.96 0
肉料理は貴重で、下層民が食べられないのはもとより、
上流階級の人間もいつもは塩漬けの保存肉しか食べられなかった。
孔子も家にあったのは塩漬け肉だった。
彭越の塩漬け肉ってどんな味したんだろう。
鶏肋鶏肋ゥ
春秋みたいに食い物の恨みで裏切るってのはやっぱあったんだろうか。
90 :
世界@名無史さん:2011/02/26(土) 04:58:50.26 0
ところでさ、諸葛亮は馬謖を後継者に考えていたって本当?
確かに、街亭戦での先鋒抜擢は異例だけど、若手官僚でも、費イや
董允より重用されいたとは思えないし、亡くなった兄馬良より評価が
高かったとは思えない。後継者に考えていたというのは、『三国志演義』
から出た妄想?
嘘。
演義にさえない。
92 :
世界@名無史さん:2011/02/26(土) 07:44:40.19 0
馬謖が南征・第一次北伐の作戦計画に関わっていた可能性は高いな。
それ故の街亭防衛の主将への抜擢。おそらく、第一北伐の作戦計画は、
諸葛亮・趙雲・馬謖の三人が計画の中心人物だったと思われる。だから
こそ、作戦失敗により馬謖処刑、諸葛亮・趙雲の降格という人事になった。
諸葛亮の誤算は、まさかの馬謖の命令違反だったと思う。
結局馬謖逃亡とはどういうことだったのか
「君臣水魚の交わり」というくらいなのに、劉備・諸葛亮間の
馬謖に関するやり取りが漏れているあたりに、何か意味があるのかもな。
96 :
世界@名無史さん:2011/02/26(土) 10:25:55.78 0
顕官が自ら降格した例は古今例がない。諸葛亮の公明正大さは山よりも高く海よりも深い。
>>90 街亭時の馬謖は丞相参軍。楊儀と蒋エンも丞相参軍。費イと董允は侍中。
費イは後に丞相参軍に転任し、そこから中護軍→丞相司馬(長史と同格)に昇進。
で、当時の丞相府で参軍より重い地位は、北伐軍ナンバー2の丞相長史向朗と成都の責任者の留府長史張裔の二人。
向朗失脚後に楊儀が丞相長史に昇格し、張裔死亡後に蒋エンが留府長史に昇格。
つまり、街亭の時の馬謖は二人の長史に次ぐ地位で、楊儀や蒋エンや費イや董允と同格。
結局馬謖逃亡とはどういうことだったのか
作戦失敗したから処刑をおそれ、魏に下ろうとするも、途中で捕まり、諸葛亮が馬謖をkill。
戦後、日本で諸葛亮の美談として人口に膾炙。
諸葛亮自身は東夷としかおもってないのにね。
>>99 戦後どころか江戸時代初期から林羅山が諸葛亮が馬謖を切った事を称えてるぞ。
ほかには平田篤胤、本居宣長、伊藤仁斎らが諸葛亮好き。
101 :
世界@名無史さん:2011/02/26(土) 17:23:12.99 0
馬謖は敗戦直後は収監されなかったのかな?
処分は待つ身ではあったが、拘束はされてなかった。
死刑確実なので逃亡、途中で捕縛されて収監、そして獄死(処刑?)
といった流れになるのかな。
向朗は平素から馬謖と仲がよかったので、刑が確定するまで収監しなかった?
たぶん逃亡すると解ってたけど黙認。
>>92 戦略は良かったし馬謖がミスする前は上手くいってたから、馬謖は参謀としてなら優秀だったのかもな
103 :
世界@名無史さん:2011/02/26(土) 19:12:56.45 0
馬謖は拠点確保放棄して、勝ちに行ったのがいけなかったんだろうな。
ここら辺は後の姜維と通ずるところがある。
104 :
世界@名無史さん:2011/02/26(土) 21:19:27.76 0
曹操時代の魏は、実戦指揮官と参謀と線引きされて感じだけど、
蜀や呉は実戦指揮官と参謀が兼務みたいな感じだもんな。劉備が抱いた
馬謖への危惧は、その実戦指揮官としての能力の方でしょう。
法正は参謀としては超優秀だけど、自分が軍を統率して指揮するとなると、
能力が発揮できるかは微妙。
参謀というより、諸将を監理・指導する制度が整っていた。
あとは、文官>武官って位置づけが強かったぐらいか?
負け戦決定だから重鎮を犠牲にしないためにも
身内の馬謖で逝かざるを得なかったという気がしないでもない
全滅してもいいから時間稼ぎしてほしい防衛戦ならともかく、
侵攻戦で負けるの分かってて、腹心とそれなりの兵力を前線に配置するってアホすぎだろ。
負け戦決定してたか?確かに箕谷の趙雲は曹真に押しまくられてたが、軻比能が旧北地郡の辺りまで到来し長安を圧迫。
諸葛亮は自身は天水に陣取りつつ、南安へ別働隊を派遣して三輔以西を完全に制圧しようとしていた。
もし馬謖が安定郡から迂回してきた張コウ軍を足止めできれば、南安を落として後顧の憂いを断った諸葛亮は主力を率いて東進し、
箕谷で曹真の主力軍と決戦に及んだだろう。
馬謖を派遣した時点ではまだ形勢はどっちに転ぶか分からなかったと思うが。
敗色濃いからではなく、曹真の主力との決戦を控えていたから、魏延・呉懿ら中核の部隊を街亭に割けず、
王平らの混成部隊を馬謖に監督させて派遣したんじゃないかな。
110 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 01:59:59.32 0
決戦のために兵力を温存しすぎて失敗。
よくある話です。
逆に、沖縄戦では、日本軍は前進陣地の攻防で戦力を失いすぎて、本当の主陣地での決戦が不可能になって総崩れ。
張コウが出てきた時点で勝つことは誰でも厳しいだろうよ
王平が使える人材だと見抜けていればなあ
112 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 02:12:01.60 0
>逆に、沖縄戦では、日本軍は前進陣地の攻防で戦力を失いすぎて、本当の主陣地での決戦が不可能になって総崩れ。
これもまた、よくある話です。
太平洋戦線でも、前進陣地に過ぎないソロモン航空撃滅戦で戦力を失いすぎ、本当の決戦であるマリアナでは戦力不足で大敗。
旧軍の話はスレ違いってか、右にせよ左にせよ「俺が正しい」一点張りのバカ呼び寄せるだけなんで止めてくれ。
>>99 諸葛亮が馬謖をkill。
われながら、切るとkillをひっかけたうまい言い回しだとおもったのに、見事にスルーされた件
115 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 04:14:44.50 0
馬謖は諸葛亮の秘蔵っ子みたいに言われてるが、実は単なる使えない部下ではないか?
劉備は口先だけの男だから使うなと馬謖を全く評価してない
子供の頃、泣いて馬謖を斬る思いでこのマンガを捨てようと呟いたら
親に「ガキの癖に生意気な口叩くな」と言われ頭はたかれたw
118 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 08:51:06.81 0
まあ、劉備も自分で指揮した軍隊が大敗してけどなあ・・・・・・・
119 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 13:34:05.17 0
120 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 13:37:13.64 0
>>119 長安急襲とか言い出す叛骨は危なっかしくて手元から離したくない。
北伐は長安強襲が正しい戦略だろ
諸葛亮は慎重すぎる
122 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 14:01:23.24 0
主将呉懿、副将王平でどう?
魏延の長安急襲策はまだ漢中で作戦会議していた頃の策だろ
前年から蜀丞相が漢中に駐屯して侵攻が秒読み段階と知れ渡り、
荊州都督の司馬懿が先手を打って孟達を落とした段階でもまだ
「長安は油断してるから大丈夫。
洛陽が諸軍を集めて向かってくるのも時間が掛かる」
って主張していたのだとしたら、それこそ危なくて使えない。
孔明より劉備の方が人を見る目あるよな。
馬謖を重用するなとの言は正しいし、
魏延も劉備は使いこなせたし・・・
諸葛亮も使いこなしたが。
三次と四次の間には少数侵攻に派遣して郭淮を撃破させ、
四次北伐でも戦術的勝利に使っている。
独立した将軍級としては特段武功の無い劉備時代より、後の方が活躍している。
勿論、劉備時代と諸葛亮時代とでは魏延自身の価値が全く違うわけだから
「諸葛亮の方が使いこなした」などとは言えないが。
漢中太守に抜擢したのは劉備
諸葛亮ならあの人事やってないな。
「高く評価した」と、「見る目がある」「使いこなした」は違うのだが。
魏延が純粋にどんな状況でも太守の任に堪える政治家的人材だと信じているのなら別だけど。
また、劉備の死後、蜀漢は軍人が要所の軍政を掌握する軍閥の時代から行政官の時代に移る。
さらに宰相が大軍を率いて大遠征を行う時代に、魏延のような戦術のプロが
漢中太守に留まっているのはむしろ人材の損失。
128 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 15:46:06.55 0
え、わからないのか?
もしかして、巴蜀奪取後の人事権が諸葛亮にあったら魏延は漢中太守になれなかった、とでも言いたいのかな?
それこそ無意味な想定だが。
要所を関羽や魏延に任せるというのは、長年かけて軍閥を築き上げてきた劉備がトップの
軍閥体制だから出来たことなんだ。
劉備がそこで死んでいたら、当然、異なる体制に代わらざるを得ない。
劉禅が指導力に溢れ戦場経験豊かな壮年でもないかぎり、元通りの軍閥体制は維持できず、
魏延が漢中太守になることは無い。
宰相格の諸葛亮の方針がどうであれ、誰が宰相であれ、これは逆らえない流れになる。
まあ、その前に軍閥崩壊の可能性の方が遥かに大きいけど。
それあんたの思い込みだろ
魏延を抜擢したのが劉備。
魏延を使いこなせず意見を退け、自分の死後に始末するように段取り整えたのが諸葛亮。
馬謖も見る目なく要職につけ敗戦を招き、死においやったのが諸葛亮。
妄想はいらない史実を抜き出せば両者の起用に雲泥の差がある。
大体、軍閥というが、漢中太守の人事予想は当初張飛になるだろうと群臣の大半が予想していた。
その予想を覆し、魏延もその任を全うした。
だからこそ魏延は外様にすぎない自分をとりたててくれた劉備に心酔し、
逆に自分の策を用いず疎外する諸葛亮に反感を持った。
人を使う面においては百戦錬磨の劉備の方が上だな。
亮はどうも、頭でっかちである。 人事においては劉備よりヘタ。
>>130 それって魏延の長安襲撃案が正しい戦略だって前提がなければならないんだが、
その時点でありえない。
>>131 魏延が劉備に心酔していたかどうかはわからんけどね。
また、宿将だからと言って気を使ってその戦略を採用せねば「上手く使った」
ことにならないっていうなら、そんな老害とっと処分すべきだろう。
史実の魏延はそこまで馬鹿ではなかったと思うが。
愚痴を零しながらも諸葛亮の命令には従っていた。
いいから向朗の伝にある馬謖逃亡の記事についてお前らの考察を聞かせろよ
134 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 17:25:23.94 0
4
135 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 17:37:10.17 0
というか、なんで魏延の作戦が成功するという前提なんだ?
それと、魏延は命令通り殿をして撤退を無事完了させれば、地位を
保てたよ。放置ということは、魏に降伏する選択肢もあった訳で、
命まで奪う算段ではなかった。むしろ諸葛亮が始末しようとしていた
のは楊義の方。側近でありながら、全く後継者に関しての伝達はしてい
ない。成都帰還後には実権が無くなるようになっていた。
魏延の誤算は、ほとんどの人は、魏延の統率下で北伐を望んでいないこと
に気がつかなかったこと。自惚れが過ぎて自爆した感じかな。
そもそも諸葛亮が魏延はともかく、その配下の蜀兵まで前線に放置しろなんて遺言残すかね?
それこそ主力部隊の魏への投降を招いてしまう乱命のような気がする。
137 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 18:59:30.04 0
魏延直卒の兵士はそんなに多くなかったと思う。
それより、他の大部分が無事撤退することの方が大事だったのだろう。
主力部隊は楊義・費イ・姜維の三人が掌握してたみたいだし。
138 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 19:28:12.88 0
諸葛亮の戦術では、最後の決戦段階まで主戦力を温存しておく必要がある。
第四次北伐でも、魏延に一軍を与えてどこかに分派していたら、最後の段階で指揮官の能力不足で勝てなかったかもしれない。
139 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 19:37:40.51 0
部隊を下手に分けて運用すると、
姜維みたく連携失敗で大敗なんてこともあるからなあ。
140 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 19:45:44.01 0
結論。
第一次北伐では、あと1人でいいから、それなりの年齢、地位、能力のある将軍がいれば勝てた。
要するに劉備が夷陵で失った黄権や馮習あたりがいればよかった。
そしたら馬謖は参謀として同行したはずで、街定で負けることもなかった。
141 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 20:03:04.31 0
馮習は大したことないのでは?
大敗して自分も戦死。
諸葛亮の補佐役としては黄権が最適だろうな。
戦略家だし、諸葛亮との関係の良い。軍隊指揮の経験も
それなりにある。
いいから向朗の伝にある馬謖逃亡の記事についてお前らの考察を聞かせろよ
おう早くしろよ
143 :
世界@名無史さん:2011/02/27(日) 20:51:01.18 0
馬謖敗戦→謹慎・処分待ち→逃亡→向朗黙認→逮捕→投獄→獄死(処刑?)
以上
亮オタがスレにいついてすっかりダメになったな。自説に固執して話にならないね。
魏延の長安襲撃の是非が論じられているのに、それを故意に無視して、
「魏延案を受け入れられない諸葛亮は魏延を使いこなせなかった。諸葛亮は人事下手」
とか言う、戦略と人事の区別が付けられない人間がいくら亮オタとか言っても虚しいよ。
146 :
世界@名無史さん:2011/02/28(月) 01:35:31.63 0
あ、亮オタがきた 資料呈さずに自分の思想をおしつけるだけ
おまえのせいでこのスレ完全にさびれちゃったね。
そもそも、魏延を漢中太守につけて魏延は重責をはたした→これは事実だよね。
ところが、之を認めずに話をすりかえているよね。 なぜなんだろうね。
亮より劉備の方が見る目があり、人材を使いこなしていた。
亮ときたら消去法で人材すり減らすばかり 減点主義ばかりでカク昭1人碌に
攻略できないときているね。
いいか、劉備軍団の強さとは何か。
髀肉の嘆を嘆いた劉備に益州を得させたのはホウ統・法正の功績だ。
韓中を取らせたのは黄権の功績だ。
諸葛亮は軍事的には大した成果を挙げていない雍州ひとつ取れなかった
劉備は関羽・ホウ統・法正・黄権を失うと戦争に勝てなくなった。
それが現実。
劉備が攻めあぐねたのは元々の兵力が呉より少なかったからだろうけど、
そもそもなんでその程度の戦力で攻め込んだのだろう。
孔明になってから魏や呉から領土獲得全然できず
せいぜい南蛮程度
孔明より軍事才能が上回っている人材後漢末ー三国鼎立時代いっぱいる
>>147 元々の
>>124-125の論点と反論は
>諸葛亮も使いこなしたが。
>「諸葛亮の方が使いこなした」などとは言えないが。
ってだけで、劉備が魏延を重用してなかったなんて言ってないのに、
馬謖だの人事だの無理矢理話を拡大して、ただ論戦に勝ちたい丸出しで
話をすり替えてるのそっちだろ?
・諸葛亮には人を見る目が…云々
・劉備は魏延を抜擢…云々
・諸葛亮は馬謖を起用したせいで…云々
・劉備は馬謖を使うなと…云々
諸葛亮の批判したい人間って型にでも嵌ってるのかと思わざるを
えないくらいに一本調子ではあるわな
前に三戦に投下したレスを再掲
仮節(軍令違反者を自分の判断で処刑できる権限)
前軍師(諸葛亮の最高幕僚)
征西大将軍(北伐軍の実戦部隊指揮官の中では最高位)
丞相司馬(諸葛亮の軍事面の片腕)
涼州刺史(涼州方面担当の肩書き)
南鄭侯(皇族を除けば最高位の貴族。諸葛亮の郷侯よりも上の爵位)
で、これのどこが重用されてないのか説明を賜りたし
北伐軍の実戦指揮官では、地位も権限も諸葛亮の次に偉いんだが
全部、諸葛亮が与えた地位ですよ?
魏延は蜀で初めて県侯に封じられたからな。
>>153 すげー肩書きだな
一つ俺に分けてほしいわ
亮厨は
もしかして、巴蜀奪取後の人事権が諸葛亮にあったら魏延は漢中太守になれなかった、とでも言いたいのかな?
それこそ無意味な想定だが。
要所を関羽や魏延に任せるというのは、長年かけて軍閥を築き上げてきた劉備がトップの
軍閥体制だから出来たことなんだ。
劉備がそこで死んでいたら、当然、異なる体制に代わらざるを得ない。
劉禅が指導力に溢れ戦場経験豊かな壮年でもないかぎり、元通りの軍閥体制は維持できず、
魏延が漢中太守になることは無い。
宰相格の諸葛亮の方針がどうであれ、誰が宰相であれ、これは逆らえない流れになる。
というが、全部妄想じゃないか こんなので歴史考証になるのか?
妄想がソースとかアホか。
>>153が正しいように思える
李厳の伝記とか読む限り、諸葛亮の人事は公平だったんじゃないかと
158 :
世界@名無史さん:2011/02/28(月) 17:03:34.54 0
そもそも李厳の失脚って諸葛亮が自分の責任を押し付けたんじゃ
自ら木牛まで作って兵站の監督したはずが、目論みが思いっきり外れて食糧不足
妄想乙
亮オタはいつもテメエの妄想をソースにしているくせに人には妄想乙というダブスタ野郎いい加減にしろよ
このスレの癌は「亮オタ」というワードを使ってる一人の人間だな
>>158のレスで分かったわ
ソースなら
>>153があげてるし、
>>157も李厳伝ってあげてるだろ
162 :
世界@名無史さん:2011/02/28(月) 19:15:21.79 0
第四次北伐の食糧不足は
・木牛は役に立ったけど李厳がさぼった
・李厳は真面目にやったが木牛が役立たずだった
・木牛を使っても李厳が頑張っても達成不可能な目標を諸葛亮が押し付けた
>>156 ・後漢末に勃興した群雄とその配下の「侠」的関係
・大小群雄の部曲私兵とそれらのピラミッド的支配構造
・その前後に時代になる漢三国の高度な文書行政・官僚体制
などについて勉強することをオススメする。論文も書籍もたくさんあるよ。
食糧不足の原因はともかく、
李厳が罷免されたのは彼が調停にイミフな文書をおくって諸葛亮に責任を押し付けたからだよね
165 :
世界@名無史さん:2011/02/28(月) 20:22:07.48 0
>李厳が罷免されたのは彼が調停にイミフな文書をおくって諸葛亮に責任を押し付けたからだよね
実は李厳の意見のほうが正しいのかも知れんぞ?
木牛用意したりして、諸葛亮が兵站に相当口を突っ込んでたのが窺える
で、そこまでわかっててなぜ食糧不足になったのか
大雨が降ったから
李厳の方が正しいのかもしれん。で、「かもしれん」がどうかした?
結局、捏造したのには変わりねえしなぁ
不足に陥った事もそうだが、なによりその後の対応が言い訳不能なレベルなわけで
168 :
世界@名無史さん:2011/02/28(月) 20:59:31.05 0
ぶっちゃけ蜀書の記述が捏造のように思える。
反諸葛亮の人は妄想ばっかだな
>というが、全部妄想じゃないか こんなので歴史考証になるのか?
>妄想がソースとかアホか。
と自分で言っておいて捏造だの言ってる始末だもの…
結局の所、昭烈皇帝の偉大さはどんな電波にも否定できないのであった
>>170 おまえ全部一人がたりで憶測と妄想ばかりだろが
劉備の人事は史書で裏付けされているが、おまえの主張全部
おまえの憶測と妄想と亮おkで出来ていて話にならん
大体魏延なんか荊州の劉表の陪臣でしかなかった
挙兵時代からついてきた関羽張飛あたりの関係とは
全然ちがうだろ
年功序列で無能ものを抜擢したんじゃないんだから
劉備の見る目が確かだったという話であって
任侠云々とはちがう。
そもそも魏延は関張みたいな胡散臭い流れものじゃねえし
華キンは高潔な人物といわれるけど
結局、呉を裏切り漢が魏に禅譲するのも容認してるし
何考えてるのかね
>>172 諸葛亮が、およそ与えられる限りの官爵と実権を魏延に与えた人事も、
史書で裏付けされてるわな。
嘘だってんなら、原文で諸葛亮時代の魏延の栄達の歴史を貼りつけてもいいが。
176 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 03:39:50.05 0
こんだけいい待遇だったら、魏延が「自分こそ諸葛亮の後継者」と思っても不思議はないだろ
魏延を調子付かせた責任は諸葛亮にあり。
177 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 05:35:23.24 0
聞けば、夏侯楙は年若であり、曹操の婿であって、臆病で策の無い男とのこと。今、精鋭5000と携帯兵糧5000石をお貸しくださり、
まっすぐに褒中を通って出、秦嶺山に沿って東へ向い、子午谷でぶつかった所で北方へ向かわせて下さるならば、10日と経たない
うちに長安に到達できましょう。夏侯楙は私魏延が来襲したと聞けば、必ず船に乗って逃走するでありましょう。長安の城中には
まだ御史と京兆太守が居るだけですから、横門にある食糧貯蔵庫と逃散した民衆の穀物とで食糧は充分にまかなえます。
東方(つまり、魏の)が軍勢を集めるまではなお20日ばかりかかりますから、公(との、つまり諸葛亮)が斜谷を通っておいでにな
るには、充分余裕があるに違いありません。こうしたならば、一度の行動で咸陽以西を平定することができましょう」
それに対して、諸葛亮は「それは危険な策であり、安全を保って平坦な道をとり、無理をせず隴右を奪うべきで、その方が万全の
必勝策で危険が無くてよろしい」と判断したため、この計略を採用しなかった。
>>173 だから勉強しろって言っただろ。
侠ってのは当時の豪族や儒士が横の連帯を構築するために用いた一般的な倫理観の一つだ。
劉備による魏延の厚遇を否定してる人間は誰もいないのに、
自分の脳内不等号を実現しようと勝ち負けを争ってるのは君だけ。
いい加減にしなさい。
侠を任侠と同じだと思ってる連中多いよね。
日本の「任侠」ってのは要するに、戦国の世が終わって再就職出来なくなった傭兵=山賊が、
再就職出来なかったことを自分達の肥大化した名誉意識の中で合理化しようとして生まれたものであって、
最初から理想とか思想が前面にあって、上からオファーが来ても断ったりする「侠」とは全然違う。
近現代で言うなら高等遊民と若年失業者くらい違う。
なんせ事ある毎に安易にヤクザの一言で括る阿呆もいるしな
181 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 14:55:41.19 0
長安だけ一時的に確保しても意味ねえからなあ。
戦争の最終目的は面の確保の方だから。隴右を奪うという発想はよいと
思うよ。その証拠に、後年隴右が蜀攻略の拠点として大きな役割になった。
魏が関中方面からだけでは、漢中・蜀を攻略できなかったように、
蜀もまた漢中方面からの攻勢だけでは関中方面は攻略できない。
諸葛亮の北伐の頃には、既に局地戦では大勢が動かなくなってしまっていた。
有力な拠点を作り、それを保持していることが最後の勝敗を分けた。
182 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 16:54:49.70 0
自演いつまで続くの
183 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 18:46:34.78 0
魏延の問題は、そもそも『魏略』は、魏以外の国についての記述は伝聞妄想のため信頼性が無いこと。
本文に立ち返れば、韓信の故事が何なのかが不明なので、判断のしようがない。
普通に関中奇襲策だろうに
あれは単純に長安急襲するぞーっていう陽動の一環でしょ。要は虚報。
蜀が意図的に流しておいた上で趙雲を動かして、こっちが本命だったかと曹真が釣られた隙に……という。
まぁ〜、蜀の作戦会議の様子がなんで魏略に載ってんのよと突っ込みたくはなるな。
蜀は戦災を避けて投降したんだから、事務書類はそのまま引き継がれただろ
大震災において私財を傾けて被災者を救う。
これが「侠」でなくてなんなのか。
日本の侠を卑屈におとしめる日本人は中国に行ってくれ。
山口組乙
中国の侠もいまじゃ蛇頭レベルのヤクザじゃねぇか。
191 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 21:04:28.87 0
李厳って失脚後も「諸葛亮ならいずれ自分を復帰させてくれる」と期待していたそうだが、
これは李厳が諸葛亮に代わって食糧不足問題の責任をかぶったからじゃなかろか?
本当は諸葛亮がいい加減兵站計画を作ったのが原因だったのに。
個人的な密約だったから、諸葛亮が死んだ後は反故にされてしまった。
>>187 魏略の成立は蜀の滅亡前と言われているが。
>>191 で、その主張を裏付けるような史料的根拠はあるわけ?
194 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 21:11:53.19 0
>>193 李厳は有能だし弁も立つし戦も強い
伝でも、北伐を失敗させたにしては肯定的な評価が多い
李厳って名前なのに失地回復できなかったんは皮肉だよな〜
>>194 う〜ん、それをどう解釈すれば「李厳が諸葛亮に代わって食糧不足問題の責任をかぶった」という根拠になるんだい?
197 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 21:19:40.48 0
>>196 第一時北伐失敗の原因になった馬謖たちの処分に比べると、李厳の処分は甘い
馬謖はその配下である張休、李盛までまとめて処刑なのに
諸葛亮に後ろめたいことがあったのでは?
食い物のうらみはこわいのぉ
>>197 諸葛亮と同格の上公である李厳と、諸葛亮の部下であった馬謖の処分を同列に語れないのでは?
そもそも諸葛亮が独断で処刑できるのは二千石以下なんだから、万石の李厳に対して諸葛亮ができるのは、
丞相府の幕僚と連判で李厳の罪状を訴え、しかるべき処罰を下すよう劉禅に求める所までであって、
諸葛亮が後ろめたかったから罷免で済ませたという訳ではないと思う。
おれは李厳だ! regainだ! 名誉回復するんだ!
諸葛亮は後ろめたいからといって法は曲げません。
202 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 21:40:37.42 0
>>202 諸葛亮は黄節鉞を賜っているが、それでも処刑できるのは二千石以下の官吏のみ。
一万石の上公である驃騎将軍李厳を殺すことができると断言できる根拠があるというなら、
教えてもらえないだろうか。
万石以上に、李厳は託孤の臣。これは本来、皇帝が遠慮して礼を払うほど重い地位。
仮に諸葛亮が意図的に李厳を排除しようと目論んだとしても相当慎重な配慮が必要だったし、
皇帝の勅命無しには処罰する権限さえ無かった。
明確な(皇帝と国家に対する)謀叛の容疑でもなければ殺せない。
馬謖らに対しては、諸葛亮は仮節鉞によって軍事専殺の権がある。
宰相として皇帝に代わり政事を独裁する者として、諸葛亮は北伐の失敗を
自分の責任で完結させるためにも信賞必罰の必要があった、とも考えられるだろう。
205 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 21:52:22.64 0
>>202 >諸葛亮は黄節鉞を賜っているが、それでも処刑できるのは二千石以下の官吏のみ。
そもそも節の意味を取り違えている。
黄鉞と節は権限の及ぶ範囲が違う。
節は強制執行権。
鉞は「賊」の軍事処刑(つまり討伐・処刑)権。
どっちにしても謀反してない李厳は殺せない。
何で曹爽は殺されたのに曹芳は殺されなかったの?誰か教えてくれ
皇帝だから。
209 :
202:2011/03/01(火) 21:59:37.21 0
>>206 成程、そういうことか。
ありがとう、勉強になった。
210 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 22:02:54.60 0
節を守って。という言葉が有るくらいだからな
お腹すいちゃったから節を食べたのは張騫だっけ。
それは蘇武だ
節を食べたくせに節を守った。
矛盾やな。
>>215 牛尾で出来てる。
まあ、人間飢餓すれば木の皮でも食えるんだから食べられないことも無い…
…いや、毛は無理か? どうなんだろね。
>>216 本体は食ってないからいいじゃん
ジオングで言えば足だけ無くなったようなもんだ
219 :
世界@名無史さん:2011/03/01(火) 22:34:53.69 0
>>209=
>>211以下
そんなに最新(笑)の学説が漏れるのが怖いのか?
他人を騙り、関連のある別の話題で核心から遠ざかることが出来ると思っている低能は死ね。
>>218 >>本体は食ってないからいいじゃん
節から毛の房がなくなったらただの曲がった木の杖だろ〜!!!
>>ジオングで言えば足だけ無くなったようなもんだ
なに?ジオングは足の肉がうまいんだぞ!
足をもがれたジオングなんか誰が食うねん!
>>219 まあそんなにいきり立つなよ。
あんたが202なら209は多分レス番間違えたんだろうが、
肝心反諸葛亮の人が反論に窮して話題が止まってしまったんだから
もう別の話題に移っていいじゃないか。
ジオングはな。
ミソがあんまりないんじゃ。
足の肉がすべてなんじゃ。
皆さん、節度を守って議論してね♡
流れ的にはこれを引用せざるを得まい。
(前略)
斉に在っては太史の簡
晋に在っては董孤の筆
秦に在っては張良の椎
漢に在っては蘇武の節
厳将軍の頭と為り
ケイ侍中の血と為り
張スイ陽の歯と為り
顔常山の舌と為る
或いは遼東の帽と為り
清操、氷雪よりはげし
或いは出師の表と為り
鬼神も壮烈に泣く
或いは江を渡る楫と為り
慷慨、胡羯を呑む
或いは賊を撃つ笏と為り
逆豎の頭は破裂す
(後略)
南宋、文天祥の「正気の歌」。
全文引用は作業量的にきついのでググって欲しいが、これ大好きだ。
昔から日本の思想家とか軍人とか右翼がこの詩を好きで日本版を作ってたらしいが。
『坂の上の雲』で有名な広瀬武夫なんかも。
>諸葛亮は黄節鉞を賜っているが
なんだ往年の于禁や曹真程度の権限しかもってねえのかw
>>225 脊髄反射で煽るの恥ずかしいぞ。
軍事司法権ではそれ以上与えようが無い。
孔明厨はなぜ必死なのか
結局昭烈皇帝の偉大さは誰にも否定できない
孔明厨逃走
昭烈皇帝を必死で否定していた魏厨逃走
昭烈皇帝の偉大さに皆ひれ伏してるようだな
233 :
世界@名無史さん:2011/03/04(金) 19:08:38.66 0
昭烈皇帝?
ただの先主だろ(プ
もっといい釣り餌希望。
235 :
世界@名無史さん:2011/03/04(金) 20:57:18.28 0
阿斗さまのパパ
236 :
世界@名無史さん:2011/03/04(金) 21:28:51.14 0
三国時代の末期で司馬一族が曹魏に対して反乱を起こした際に、「どの武将・文官がどちら側についたか」が分かるような資料、サイトはありますでしょうか、ググっても調べ方が悪いのかいまいち出てこないので…
>>236 そもそも司馬一族は曹魏に対して反乱を起こしたことはないからね
反乱は起こしたことはないが、要するに漢魏禅譲における曹丕を皇帝に推してた連中のことだとエスパーして。
調べたことないけど、多分晋書の武帝紀辺りに推薦者の名簿無い?
>>238 それを言うなら魏晋交替の際に、ではないか?
一覧にしてるようなサイトはまずないだろうね。
司馬氏は魏帝を支持する形で勢力を築き上げたのだから、
かなりの時機まで司馬氏支持派と魏王朝支持派は重複している。
司馬師が大将軍になったときの高官陣容として、
諸葛誕、カン丘儉、王昶、陳泰、胡遵都督四方,
王基、州泰、ケ艾、石苞典州郡,
盧毓、李豐掌選舉,傅カ、虞松參計謀,
鍾會、夏侯玄、王肅、陳本、孟康、趙ホウ、張緝預朝議,
と並んでいるが、うち少なくとも三人が反司馬として反乱や謀議に参加しているし、
陳泰がどちらに就いていたか、なんて伝を一見しては分からない問題だ。
まずは具体的に反乱や皇帝支持の行動を起こした人間を地道に挙げていくしかない。
>>237-239 ありがとうございます、曹爽が皇帝を連れて遠征している際に都を占領したような記述があったのでその際に二極化してたのかと思ってました。
地道に調べるしかなさそうですね、某シュミレーションゲームで司馬と曹を分けたかったのですが…
司馬懿なんて曹操の七男の曹彪を自殺に追い込んでいる。 あまりにもあからさまだった。
だから曹彪と親しかった曹ボウは司馬氏の本心は誰もが知っていると公言していた。
王リョウが時の皇帝に対して反乱して曹彪を擁立しようとしたので連座。
かりに本人の与り知らぬところでも、こうなったら首が落ちるのが慣例。
いや知ってるけど、だから?
「本心」とやらがあからさまに窺える類の事件じゃないって意味。
はぁ? 中二病ですか? 人とちがう新解釈をしてドヤ顔したいだけちがう
曹ボウは
斉王以来、魏は司馬師・司馬昭が専権するところとなっており、皇帝は傀儡であった。曹髦は「司馬昭の(簒奪を目論む)心は、道行く人でも皆知っている」と言い、自ら剣を手に、わずかな近衛兵を率いて挙兵した。
しかし、挙兵を打ち明けた王業・王沈・王経の内、王業・王沈が密告したため、既に司馬昭の懐刀である賈充が、軍勢と共に待ち受けていた。しかし、誰も天子を畏れて斬りかかろうとしなかった。賈充は部下たちに
「司馬公がお前たちを養ってこられたのは、まさに今日のためである」と叱咤し、罪に問わないと約束した上で曹髦を殺害させた。『晋書』文帝紀では「太子舎人成済、戈を抽きて蹕(さきばらい)を犯し、之を刺すに、刃は背より出で、天子は車中に崩ず」とある。
とまで思いつめているよね。 おまえの「本心とやら」云々は道行く人でも皆知っている状態なんだが。
司馬昭の、ね。
曹彪を殺したのは司馬懿。
全然違う事件なのだが。
気になるんだが、曹髦と曹彪が親しかったってのは、どこに書いてあるの?
249 :
世界@名無史さん:2011/03/05(土) 17:51:01.99 0
漢では四鎮将軍の方が、
四征将軍より位は上なの?
>>247 司馬懿はギョウに魏の皇族を監禁し、彼の独裁で裁判し、多くの人士を処刑している。
魏皇帝の勅旨を得てはいるが、当時から彼の独裁政権になっていた。
道行く人はみんな知っているというのはそういう状況を踏まえての話。
もしかして司馬昭でいきなり独裁になったと思ってる?仲達の頃からひどかったよ。
>>250 なに論点ずらしてんの。
ギョウの皇族のことなんて
>>241は何も触れてないし
>>242は反論もしてないぞ。
「曹髦を自殺に追い込んだあからさまなやりようから司馬懿の(簒奪の)本心は誰にも窺える」
↓
「反乱が起きた以上、その顛末は普通の流れであって
司馬懿の『本心』とやらがあからさまに窺える類の事件じゃない」
反論点は初めから『司馬懿の本心』ではなくて『曹彪事件の政治的性質』だ。
だから、「窺える類の事件じゃない」とわざわざ言ったのに。
諸葛亮て、寒中の隣の長安すら落とせてないだろ?
韓信と比べてレベルが低すぎる。
秦漢期に例えると、
韓信が長安を奇襲しても、劉邦の本隊が追いつくより早く項羽が長安を逆包囲する。
そういう形勢。
254 :
世界@名無史さん:2011/03/05(土) 19:50:27.02 0
国家体制が固まった時代と、
群雄割拠時代とは全く違う。諸葛亮の時代は国家体制が固まった時期。
蜀滅亡まで国境線がほとんど変わっていない。司馬懿や陸遜も、魏・蜀・呉
から領土は奪えていない。辺境とはいえ、武都・陰平を獲得しただけでも
結構凄いと思うよ。局地戦の勝敗が国の滅亡や地域制圧に連動しなくなった
時代。
>>250 司馬懿が魏の諸侯王・公をギョウに軟禁したのは確かだが、
「彼の独裁で裁判し、多くの人士を処刑している」ってのはどういうこと?
そんなことしてたっけ。
流れぶった切っての質問で悪いが、
合肥新城を作った時に、合肥に住んでいた住民たちも移動したのかな?
ガッピの住民なら昭烈帝を慕って蜀まで移動したよ
雷緒か
雷緒、のちの魏延である。
いやまだ雷緒=雷薄のほうが
雷緒弑君。
雷姓自体マイナーだから、雷薄、雷緒、雷銅が同族だっていう指摘もどっかで見たな
他に雷姓というと西晋で張華から剣を着服した奴くらいしか思いつかない
革命中国においては同志雷峰が模範的労働者として賞賛されている。
264 :
世界@名無史さん:2011/03/09(水) 05:11:11.60 0
雷緒、雷銅なんてほとんど記述がない人物だろ。
雷銅は武都に張飛・馬超・呉蘭と共に侵入し、戦死したとしか記述がない。
雷緒と共に帰順した部隊でも率いていたとでも言うのだろうか?
三皇五帝の一人、黄帝の妻累祖は雷祖ともいい、これが雷姓の祖とか
岩波
■定価 1,365円(本体 1,300円 + 税5%)(未刊)
■2011年3月16日
魏・呉・蜀三国対立時代の中国.変転きわまりない局面のなかで,劉備・関羽・張飛の義兄弟と師孔明,あい対する曹操・曹丕の親子,また孫権など,
知力と武勇のかぎりをつくして戦う英雄豪傑たち.そしてついに晋に統一されるまでを描いた一大ロマン.気品ある清麗な名訳に北斎門下の鬼才葛飾載斗の版画を多数加えた完訳決定版.(全8巻)
隷釈って全文読めるトコってある?
わからん。
ないんじゃないかなあ
でかい大学や図書館ならもっと資料あるのかねー。
宮崎市定氏の九品官人法研究探してるけどどこにも見あたらんわ……
>>270 書籍でって言う意味なら、オンライン古本屋探せばあるよ
隷釈も品薄っぽいけど長期間探せば出てくる可能性は高い
273 :
世界@名無史さん:2011/03/13(日) 19:32:48.23 0
荊州南部の武陵・零陵・桂陽は、
劉備や孫権は実効支配してたのかな?
275 :
世界@名無史さん:2011/03/13(日) 20:22:48.36 0
武陵なんてほとんど蛮族の居住地では?
一応は伝記がある人も輩出はしているがな。
零陵も一応は有名人を輩出している。しかし、桂陽出身の
有名人はいたっけ?
276 :
世界@名無史さん:2011/03/14(月) 14:16:01.51 0
話は全然違うがお前らのところは地震大丈夫だったか!?
277 :
世界@名無史さん:2011/03/14(月) 14:52:59.44 0
俺は横浜に住んでるが、自宅と家族は大丈夫だった。
当日は仕事で、勤務先から4時間以上かけて自宅に帰ったよ。
慣れない長距離歩行で足はまめだらけ。土日が出勤だった為、
今日明日とお休み。ゆっくり休むことにしている。
曹操が許昌から荊州へ向けて出撃したのが208年7月
そこから209年初頭には江陵で曹仁と周瑜が対峙してる
この期間の短さ見てて思ったんだが
もしかして烏林まで攻めた曹操の水軍は当陽を急行してきた騎兵部隊と江陵で補充した
旧劉表水軍だけだったとかないだろうか?
馬騰は入朝させた劉璋が合力してきたし後は孫家だけと乗りと勢いで
突っ込んじゃったみたいな
賈クの諫言は遅れてくる主力を待ての意味だったとか
短くはない。江陵を占拠してから赤壁の遭遇戦まで2、3ヶ月ある。
兵力を整えるには十分な時間。
ただ、曹操陣営の有力諸将の大半が荊州に展開していたにも関わらず、
赤壁に参加したと思えるのは賈クや許チョのような側近クラスだけ。
当時の曹操は孫権に帰順の手紙を送ったあとだから、
孫権の反応を待たずに揚州に攻め込むとは思えない。
となると、曹操の目標は劉表残党の劉備・劉g軍のみで、
荊州各地に散って占拠・鎮撫する諸将をそのままに
江陵水軍と曹操の中核軍数万程度で江水を降ったのではないか
と推測は成立する。
諸将に赤壁の参加記録がないのは単に負け戦だからとも考えられるが、
負け戦だからこそ、参加したのなら劣勢を支えて奮闘したという逸話を
残す者がいてもいいだろうとも言える。
280 :
世界@名無史さん:2011/03/14(月) 21:46:25.44 0
赤壁戦の段階では、荊州は単に占領していただけといったところ。
賈クはしっかり支配してからでないと、呉を屈服させられないと見ていた
のだと思う。単に占領してただけで、攻勢限界点に達していたことは、
周瑜や諸葛亮には見抜かれていた。諸葛亮が孫権との会見で、孫子を引用
して孫権に語ったのは、曹操軍が、その攻勢限界点に達していることを
指摘いる。攻勢限界点に到達すると、一度軍隊の進行を停止して、再び
攻勢に出られる力を蓄えなくてはならない。曹操ほどの軍略家が何故かそれ
を忘れてしまった。本気で戦うというより、圧力をかければ降伏すると
踏んでいたのかもしれない。
簡単に降伏論を唱えていた張昭あたりよりは、攻勢終局点を見抜いていた
周瑜・魯粛・諸葛亮は優れた戦略家であったことは間違いない。
>>279は、曹操東下は孫権攻撃・降服を目的としたものではなくて、
残党劉備の後始末を第一目的としたものだろうという推測。
これによって孫権に圧力を加えることが出来る。
攻勢限界点は、単純に敵方の物量で変化する。
劉備・劉g攻略には十分な兵力での東下であっても、
周瑜率いる水陸二万が劉備らと突然力を合わせて
赤壁まで遡行して来ては対応できない。そのために赤壁敗退。
疫病の流行と孫権自身による合肥圧迫が重なり、
曹操本隊を中核とする大軍は荊州に駐留し続ける力を失った。
そのため曹仁を残して撤収することとなった。
魯粛・諸葛亮の優れたところは、即断の同盟と共同前進を企画することで
曹操軍の攻勢限界点を積極的に変化・後退させることに成功したところ。
なるほど、合肥攻めは周瑜に援軍を送らず二兎を追う
孫権の戦略眼のなさが理由だと思ってましたが中原に
圧力をかけて曹操軍を北に向けさせるという狙いもあるんですね
劣勢を支えると言えば、落城寸前の江陵の曹仁を李通が
救援して軍中一の勇と讃えられた話がありますね
誰か教えて欲しいのだが、諸葛亮伝だと曹操は赤壁で敗れた後、ギョウへ帰還したとあるんだが、
武帝紀を見る限りだと赤壁で敗れた後、そのまま合肥方面へ転戦してるように思える。
208年に出征した後、曹操がギョウへ帰還したのはいつなんだ?
>>283 建安13年正月ギョウ
7月許都
8月宛
9月新野から江陵
12月烏林
14年3月ショウ
7月合肥
12月ショウ
208年の春を最後に少なくとも211年までにはギョウに戻っていない
>>282 アン時の孫権は合肥取り荊州への援護、両方の目的と見て良いと思う。
勿論、戦略的に問題ないし好機でもあった。
あくまでも主が荊州で従が合肥、当塗なので、危険と見るや引き上げてる。
周瑜が江陵。劉備が荊南4郡。孫権が合肥。張昭が当塗という
孫・劉連合による4面攻撃という壮大な攻勢で、
東方はうまくいかなかったが、西方はほぼ目的を達成できた。
本音では襄樊も落としたかったろうが…
4面って言い方は変だったかな…
二正面作戦とかの方が良かったかな
287 :
世界@名無史さん:2011/03/15(火) 06:55:53.54 0
劉備が呉から借りた荊州一部はどこなの?
南郡なのかなあ。
後に湘水以東の長沙・桂陽郡を放棄して、
代わりに南郡を正式に獲得したという解釈でよいの?
>>287 劉備が各郡を奪うのを黙認してもらったのを「借りた」とするなら別だけど,
実際に借りたとするなら,南郡の一部や宜都郡あたりだと思う。
江陵や夷陵は孫権側主導で奪っているから。
289 :
世界@名無史さん:2011/03/15(火) 07:48:36.98 0
呉は、劉備に荊州南部を占拠され、
荊州北部は依然曹操が支配している現状では、
あんな回廊みたいな支配地域を維持できる
見込みがあったのかな?
魯粛も、維持が困難だから、貸しを作るみたい
な格好で放棄したような感じがするな。曹操に奪還
されるより、劉備に与えた方がマシみたいな。
劉備が益州を得た後、回廊みたいな領土の返還では
なく、ある程度安定支配が可能な湘水以東を得る実利
とったということかな?
>>284 211年まで出ずっぱりだったのか、ありがとう。
>>289 結局そういうことだと思う
劉備と友好的ならいいが、劉備との仲がこじれると、荊州の輿望と荊州刺史劉キの存在を背景にした劉備に対し分が悪かった可能性が高いと思う
そうなれば江陵方面は曹操に奪回されるか追い出されて劉備に取られるか
それなら「貸した」風を装って自ら退いた方が、後々の外交カードにできたり荊州の人間に好印象を与えたりとメリットがあったんだろう
周瑜がいて軍事力で制圧できそうな状況でなら支配することもありえたのかもしれないが・・・
292 :
世界@名無史さん:2011/03/15(火) 19:59:15.22 0
周瑜の益州制圧作戦は結構危ない作戦だよな。
場合によっては益州で軍が孤立する危険性もあったし。
魯粛現実的な堅実な作戦に転換した感じかな。
天下統一を目的とすると、
無茶と言える戦略を唱えることもあるんだろうね。
本拠から遠く離れた地を攻め(て保持す)るって、戦国時代的なんだよな
かといって周瑜が秦の陶侯の様になるとは思えんし、大概が攻め落とせても
保持できずに手放すか他国に割譲する結末になるんだけど
まあ保持が簡単とは言わないけど、
曹操も関西や青・徐州の支配に不安が大きいわけだから
一対一で考えればそう不利でもない。
ただ益荊の豪族などに対して支配力を保てるか云々となると話は別だけど。
袁紹が子弟を三州の刺史に送ったような、親縁者+現地有力者の間接的統治体制になったのだろう。
周瑜は益州は孫瑜に任せると言ってるから、揚州は孫権ら孫堅系の本家が統治し、
益州は孫瑜ら孫静系の分家が代々統治っていう、室町幕府(近畿)と鎌倉府(関東)みたいな統治構想だったのかも。
297 :
世界@名無史さん:2011/03/17(木) 16:09:23.94 0
>>292 >場合によっては益州で軍が孤立する危険性もあったし。
荊州に劉備一派がいたんだから余裕でしょ。
荊州を守るだけなら関羽一人でもできたこと。
298 :
世界@名無史さん:2011/03/17(木) 20:09:22.86 0
周瑜は軍隊の指揮は卓越してるが、
戦略眼は魯粛の方が現実的な考え方だと思うの俺だけ?
周瑜はそんなんで維持できるのかよという発想のような気がする。
魯粛の戦略は現実的で、維持できるかを第一に考えてるような気がする。
これは諸葛亮とよく似てるかな。天下を三分するのも同じ考えだね。
魯粛は、呉には益州まで保持する能力は無いと見ていたのだな。
大差ないでしょ。
同盟はよいけど、次の一手は提言できてないのだから…
赤壁の時もそうだけど、同盟の後の展開を唱えたのは周瑜であり呂蒙であったわけで、
大きな指針として魯粛の提言は非常に有用だろうが、
現実的と言うには、さらに具体的方策と展望がなければならない。
そういう意味でも魯粛と周瑜や呂蒙は補い合う関係だったと思う。
>>288 確か、その話に清の趙翼が呉の創作の域を出ないと批判していたはず。
>>300 清代ってもう蜀漢正統論一辺倒の時代だからだよ。
蜀と呉のどちらの主張が創作か、なんて史書からは判断できない。
厳密な文書で分譲ないし貸与が行われたかどうかもわからない。
302 :
世界@名無史さん:2011/03/18(金) 13:15:40.77 0
中国 ガソリン1万トン、重油1万トンを無償援助
2011.3.17 21:48
【北京=川越一】中国政府は17日までに、東日本大震災の被災地を中心に燃料不足が深刻化している日本に対し、ガソリン1万トン、重油1万トンを無償援助することを決めた。日本の要請に応じた緊急措置といい、近日中に日本に向けて輸送される。
中国外務省の姜瑜報道官が、同日の定例記者会見で明らかにした。
中国はすでにテントや毛布、手提げ式応急灯など3千万元分(約3億6千万円分)の援助物資を提供しており、それに続く追加支援となる。
姜報道官は「両国民は違う時期に重大な自然災害に見舞われた。互いに見舞い、支援の手を差し伸べることは、隣国としてあるべき助け合いの精神だ」と述べた。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110317/chn11031721490008-n1.htm
303 :
世界@名無史さん:2011/03/18(金) 18:02:35.39 0
軍人蔑視の中国で、軍事学に耐えうるレベルの軍事史料など無い。語られていることはみな講談のレベルby専門家
好きな人には悪いが孫権も馬鹿だわな。
あの状況で関羽攻撃してどうするんだ。まずは魏を倒すのが優先だろうに。
まあ、晩年の行動見てればその程度の人物だと言うのは明らかだが。
質問です。
曹操が甘寧に引抜をかけたという話をどこかで読んだのですが知っている人は
いますか? 確か「自分のところに来い」という意味の薬草か何かを送ったという
話だったと記憶しているのですが。
>>305 それは曹操が太史慈を引き抜こうとした時の逸話。「当帰」という薬草を送り、
当帰⇒当に帰すべし⇒ウチに来い、と暗に誘ったということ。
甘寧に引き抜きをかけた話は聞いたことがないな(自分が知らんだけかも)
>>304 だから孫権もギリギリまで曹操と手を結ばなかった。219年春には合肥に出兵してる。ところが夏に于禁軍が壊滅したから、
このままじゃ劉備は中原まで食い込みかねない⇒すると孫権軍詰む⇒だから関羽を叩こうってなったんじゃね?
かつて劉備が孫瑜の益州遠征計画をぶっ潰したのと同じだろう。
>>305 甘寧と太史慈の話が混じってるんだろう
演義では赤壁で蔡中・蔡和を利用して甘寧が偽りの投降をしかけ、曹操の陣営に火をつけた
曹操が直接引抜をかけたわけじゃない
>>300,
>>301 孫権側に荊州を求められた時の劉備の答えは「涼州を取ったら…」,
孫権伝だけでなく,先主伝や華陽國志でも一致している。
だから,具体的な内容は分からないけど,
215年当時の劉備側にとって身に覚えのある話だったと見ていい。
なお,趙翼がこの件をどう処理したのかというと,
呉側の曲解が蜀側にも伝わったと主張する。
いくらなんでも無茶な理屈だろう。
215年の劉備は漢中を曹操に押さえられ喉元に剣突きつけられた状態
関羽救援に来た時点で漢中はまだ落ちてないが事実徐晃、張コウに巴郡に侵入された
ことを考えると孫権と長いこと争ってる場合じゃないからある程度の譲歩が必要になる
その辺の事情もあるんじゃないか?
魯粛は良くも悪くも絶妙のタイミングで攻撃をかけた訳だ
いやそれは順序が逆。
劉備が成都を落としたあと、孫権は荊州「返還」を求める使者を出し、断られると魯粛・呂蒙を三郡へ派遣した。
劉備が慌てて荊州へ来援し、そのためかこれまで魯粛に押さえ込まれていた関羽が一気に南下を開始、
三郡攻略中の呂蒙が魯粛の救援に北へ戻る事態となる。
(その直前に計略で零陵を落とすクリティカルで三郡全域奪取に成功する)
両軍が南北に対峙し、次の動きを始める前に、曹操が漢中を攻めたという報が入り、
劉備は三郡を占拠されたまま和睦せざるを得なくなった。
312 :
世界@名無史さん:2011/03/20(日) 12:21:49.09 0
なんで零陵だけは返還されたの?
313 :
世界@名無史さん:2011/03/20(日) 14:00:45.12 0
関羽が益陽に駐屯したのも大きかったのでは?
太守を騙して降伏はさせたけど、軍事的に支配するのは、
益陽に関羽がいたのでは難しかったのだろう。
益陽に関羽が来たことにより、湘水以西は再び蜀の勢力下に
入ったと思われる。関羽は湘水を超えて東進できなかったが、
呉も湘水を渡って西進もできなかった。その結果、あの和議に
なったのだと思う。
ちなみに、呂蒙が関羽の不意を突いて南郡を奪った時は、魏と
が攻め込む危険性もなかったし、益州の軍も救援にはこれない
状況だったので、揚子江一帯を占拠を真っ先にすればよく、荊州
南方の辺境は後からゆっくり制圧して事足りた。
314 :
世界@名無史さん:2011/03/21(月) 06:58:55.55 0
劉備「ゆっくりしていってね!」
曹操患者とネット右翼って似てね?11
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1296330223/ 【曹操患者の定義】
1 三国志魏書武帝紀、三国演義の曹操を元ネタにした『蒼天航路』を元ネタにした曹操を妄想完璧超人にしたてあげる。
2 曹操患者に崇拝される曹操は曹操患者自身が生んだ偶像であり史的曹操から乖離した存在。
【曹操患者9の症例】
1 ネット右翼・漫画『蒼天航路』を読んで「真実の曹操を知った」と自称し、非常に高圧的、攻撃的。
2 厨二病・漫画、小説と現実の区別がつかない。『曹操軍四天王』などという馬鹿すぎる単語を常用。
3 蜀アンチ・現状の中国での曹操の再評価に不満。いまだに蜀に人気が集中している事に激しく嫉妬している。
4 非コミュ・テンションが異常で、すぐキレる。火病多発。曹操患者の一番の問題点。
5 ニート・平日の昼間、深夜に自作自演。常時揚げ足を取ろうと監視している。
6 連呼・何の脈絡もなく「曹操は主人公」「孔明は凡将」「赤壁の戦いは中国人の捏造」といきなり連呼。
7 脳内妄想・「中国では曹操は年配には受けてないが、
若者には漫画のおかげで絶対的な人気があると思う」と現実とまるで乖離した脳内妄想を垂れ流す。
8 捏造・人気投票で曹操を一位に仕立てあげたHPを持ち出すが、
日中両国双方とも多数の人気投票が実施されており現実の曹操の順位を指摘されると貝のように口を閉ざす。
9 脳内変換・中国のマスコミが民主党の小沢を『日本の曹操』と評したことに衝撃を受け、
報道元は香港→香港と中国は別の国→中国は小沢を曹操と評していないと脳内変換。
そもそも曹操患者は中国では曹操=国賊という意味で使うという程度のことも知らなかった。
316 :
↑:2011/03/21(月) 14:44:57.77 0
ナゾキモコピペ厨
ヤフー・gooなどの三国志の人気投票
______
/ \ /\ ネットではみんなが曹操を天才・詩人・超人とほめてる
/ し (>) (<)\ もう蜀なんて入れる奴居ないだろ…
| ∪ (__人__) J | ________
\ u `⌒´ / | | |
ノ \ | | |
____
/ \ ─\ チラッ
/ し (>) (●)\
| ∪ (__人__) J | ________
\ u `⌒´ / | | |
ノ \ | | |
____
/::::::─三三─\ >曹操患者が鬱陶しいので蜀に入れるわ
/:::::::: ( ○)三(○)\ >曹操患者が発狂するのが楽しいから とりあえず蜀に入れることにしておくわ
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | _______ >曹操患者発狂目的で蜀しかありえない
\::::::::: |r┬-| / | | | >曹操患者がファビョルの見たいから蜀かな。
ノ:::::::::::: `ー'´ \ | | | >蜀一択だろ。ばかじゃねー
318 :
世界@名無史さん:2011/03/22(火) 12:28:31.85 0
曹操は後漢の統治領域を全部手に入れたので天下統一に成功した。
孫呉は最後の最後で降服して臣下になったので問題なし(あとで背くけど)。
かつて蜀では公孫述が数十年割拠したが、それで後漢とは別の独立国ができたとは言わない。
曹操の天下統一は成功したのだ。
319 :
世界@名無史さん:2011/03/24(木) 12:48:49.73 0
関羽は名将と言えるの?
有名人ではあったと思うけど・・・・・・・
320 :
世界@名無史さん:2011/03/24(木) 18:26:34.01 0
南荊州って、劉備や諸葛亮たちが益州連れて行った兵+関羽が率いた兵で軽く5万はいると思うんだが、そんなに豊かな土地だったの?
多く見積もって五万ってとこだろう。
関羽単独では魯粛一万に足止めされて長沙らを救援できないくらいしか残ってなかったわけだから。
>>318 ただの釣りだろうけど、
>かつて蜀では公孫述が数十年割拠したが、それで後漢とは別の独立国ができたとは言わない。
普通に別の独立国があったと言うからな?
東大の院卒の学習院大学の教授の書いた概説書でも、統一は東巡のあととしているし。
それが建武20年のか32年のかは横に置いておくとしても、統一した上で統制が行き届いた時期を統一としてる。
もっともそうすると西暦100年近辺から既に統一が怪しくなってくるのだが……
323 :
世界@名無史さん:2011/03/24(木) 19:52:58.02 0
>>320 荊州に残った兵力は2万くらいでは?
それもある程度は各地に分散しているので、
関羽が直卒できる兵力は1万くらいじゃないかな。
揚子江流域を守るの精一杯といった兵力でしょう。
諸葛亮・張飛・趙雲が荊州に残っていたら、もっと
兵力は多かったかもしれない。三将が率いた兵力が、合計
1〜2万程度と思われる。それは荊州には帰還せず、そのまま
益州の鎮撫にあたったのだろう。
324 :
世界@名無史さん:2011/03/24(木) 20:31:23.30 0
壮穆侯とはどういう意味なのですか?
325 :
世界@名無史さん:2011/03/24(木) 21:54:17.81 0
>>321 いや、呉には呂蒙の3万の別働隊があるだろう。
魯粛の戦力と足すと4万。
少なくとも関羽軍は2万はいると思うぞ。
>>323 でも、関羽北上の際にも1万ってのはさすがに少ない。
どんどん関羽は徴兵したんじゃないか。
326 :
世界@名無史さん:2011/03/25(金) 05:48:56.72 0
零陵や武陵からも徴兵したのかな?
327 :
世界@名無史さん:2011/03/25(金) 08:57:51.39 0
関羽の失敗が、後の魏延に別働隊を率いさせない遠因になったかもね。
魏延はミニ関羽みたいな感じだし。
三国志の経済や社会、郷土史等の書かれたお勧めの本ってありますか?
三国食貨志が少し気になってはいるんですけど。
>>328 四川の郷土史なら華陽国志があるが。
三国時代とその前後の時代の項は、和訳がネットで読める。
食事だったら中国史全体のを入手するなり図書館で該当箇所をコピーするなり写すなりと言った方法もある。
経済、社会となると難しいね。
多分漢代研究の本と魏晋南北朝研究の本を見比べるなりになると思う。
305ですが、お答えありがとうございます。規制に巻き込まれて書き込めなかった
ので遅くなりましたが。
>>329 和訳がネットで読めますか。早速検索してみます。ありがとうございました。
>>330 食事は個人Blogで考察しているのを前に一度拝見しましたが、経済や社会となると中々無くて…。
ありがとうございました。
ちなみに中国の歴史の権威である田中芳樹は、名著「中国武将列伝」で
三国時代の名将として曹操、陸遜、関羽を挙げていますが。
はげの言うことにまともに取り合っても。
奴は権威でもなんでもないっつーか、そもそも奴の専攻は文学であって歴史じゃない。
おまけに中国文学じゃなくて国文学(つまり日本文学)。
幸田露伴とかそっち系から中国関係に入った。
その「中国武将列伝」も、彼は後に「無知だった」として色々訂正入れたがってる。
後漢三国はどうか知らんけど、少なくとも南北朝に陳慶之入れなかったことはもの凄く後悔しているようだ。
あと、その本でネットでよく突っ込みが入るのがケ禹を選んで耿エン呉漢入れてないこと。
あの無様な負け方したケ禹を入れて、あの中国史上にも稀に見る完勝をした耿エン入れないのは無いだろうよと。
略奪の多い呉漢は心情的に認めないでもないけれど。
336 :
世界@名無史さん:2011/03/27(日) 18:48:42.78 0
関羽は名将か?
説話や人気、知名度、影響力込みの「歴史上の武将列伝」だった気がする。
純粋な能力・戦果だけでの名将列伝ではない。
あと時代や陣営のバランスも取ってる。
ついでながら三国志の扱う範囲では
後漢代 曹操、関羽、周瑜
三国時代 司馬懿、陸遜、ケ艾
関羽とケ艾が浮いてるな。
名将で無いとは言わないが。
関羽は説話補正として、
ケ艾は曹操・司馬懿のような帝号追贈面子を除けば、
三国で国家への功績が最も大きな将帥の一人だろう。
対呉対蜀の双方で兵站充実に尽力したのは、
直接の蜀攻略指揮よりもずっと大きな規模で歴史の転換に貢献している。
>ケ艾
確かに統一への影響という点では二重に大きな役割を果たしたかもね。
兵站の充実は呉蜀攻略への架け橋といえるし、その実働隊まで率いたとなると。
341 :
世界@名無史さん:2011/03/30(水) 15:48:33.78 0
そういう意味では、小国から大国への遠征をしても、
それなりに戦闘を優勢に進めた諸葛亮は凄いよな。
342 :
世界@名無史さん:2011/03/30(水) 17:50:17.76 0
>>341 そのぐらいの人材なら、孫呉や東晋にも何人かいる。
そもそも名称評価を100人に限定するガイエの思考自体が無意味だと思う。
どうしたって選外は出てくるからな
あのハゲの妄言を相手にしてもしょうがない。
俺もそう思う。
そもそも姓を100に限定する百家姓の思考自体が無意味だと思う。
どうしたって選外は出てくるからな。
ふっかんふっかん
★ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━ − -
【4】三国志について書かれた文献5,000点をリスト化した目録
『三国志研究要覧』(124票) 待望の復刊
- − ━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ★
124票もの熱烈な復刊リクエストが集まっていた『三国志研究要覧』が
待望の復刊です。
http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68319351&tr=m 三国志について書かれた国内外の単行本と論文を収めた文献目録として、
三国志研究には欠かせない本書。その収録数は、日本語の文献は明治後期
から、中国語の文献は1900年から1992年の間に刊行された計5,000冊以上
にもおよびます。
三国志のすべてを知りたい、効率よく目的の文献を探したいと
お考えの方には、効果的な1冊です。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
■『三国志研究要覧』(最終得票数 124 票)
http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68319351&tr=m ――――――――――――――――――――――――――――――――――
【著者】中林史朗・渡邉義浩
【発行】新人物往来社
【予価】4,095円(税込み)※予価の為、価格が変更する場合がございます。
【発送時期】2011/05/下旬
中国の三国時代と『三国志演義』に関わる研究動向と、文献目録からなる
本格的な三国志研究案内書。学説史の解説から文献の入手方法、国内で
入手可能な日本語・中国語の文献5千件以上までを収録した。
347 :
世界@名無史さん:2011/03/30(水) 20:25:15.22 0
これって目録集?
三国志集解一冊あればすむやろ
集解は50年以上前の編集で、民国以前の中国史学者の見解や地理を調べるには素晴らしいが、
その後の進展が著しい制度史や社会史には弱い。
『三国志集解』とは、中国の盧弼という人の著作。
1936年出版ということになってますが、高島俊男さんによると「刊行されたのは1957らしい」(『三国志きらめく群像』)どちらにせよ、
意外と新しい本ですね(これで新しいというのは、私の感覚が変なんでしょうか?)
高島俊男(中国の大盗賊などの名著で有名)が1957年刊行説を唱えているみたい。
民国初期の見解だけでない可能性もありえるな。
blogからの転載なんだが、URLが禁止ワードになっているらしくレスが吸収されるので、
該当部分だけを引用しましたあしからず。
>民国初期の見解だけでない可能性もありえるな。
盧弼以外の中共時代の見解というのはあるかどうか覚えがないが、
どちらにしても瑣末な揚げ足取りだろ
揚げ足取る気はないが、351の物言いは不快。1957年発行なら実際に年代が変わってくるんだがねえ
36と57は全然ちがうだろ
世界史知ってたら普通にわかる
36年と57年。
中国では戦争が始まる直前の年と、国共内戦含む全戦闘が終わった次の次の年だな。
日本と違って、長い間全土が戦場であったわけで、出版と発行の年代のズレはそこから生じたとみるのが適切だろう。
そして、それまでに改稿すれば流石にそのことが記述にあるはずだが、改稿されたのか?
全部354の時節であってソースなし
ソースなくても問題提起としては適切だと思う
かと言って、ソースのないやつが増長されても困るけど
http://www.chuka-shoten.co.jp/58_1163.html 史実が中心で、典章名物方面の注釈が不足していた裴松之注を補うものとして、近人盧弼が諸家の研究・注
釈を集大成してなった《三國志集解》は、1957年古籍出版社から排印出版された。本書はこの1957年版を基に
銭剣夫先生が整理標点を加えたもので、陳寿の志文を段ごとに分け、盧弼集解を小字注形式にまとめ、
各段末に載せ、もとの箇所に番号を標記した。裴注は位置を変えずに楷書体でポイントを下げて排印。このほか、
原書組版後に盧弼が拾遺補欠した480條は、改版せずに《集解補》二巻として巻末に付していたが、
今回は盧弼の原意に沿って、それぞれ関連する正文中に増補した。
つーか、漢文て、本場の人でも読みやすく整理しなおさないと読めないもんなの?
>>358 現代中国語は古代中世の漢文とは結構違うからな
我々も平安時代の古語を全く未整理で読むことはほとんどの人間が出来ないわけで
そうかな
文字の読み取りづらさはあるが、和語はふつうによめるが。
いや、練習はしたけどさ
漢文のよみづらさってその比じゃない気がする
そもそも357レベルの改版て日本の出版社ではたいしたレベルじゃなくてサービスのレベルじゃね?
注を小文字にして本文と区別して分かりやすくしました的な改変なんでしょ?
>>353 この場合の問題(
>>346-349)は、
36(57)年以降の三国時代研究の大幅な進展によって、
集解を読んだだけでは理解不十分(というか多くの分野では時代遅れ)に
なっているってことなのだが。
特に70年代以降の出土資料の爆発的増加から40年ほどで、
中国古代史研究は大きく変化した。
仮に盧弼が36〜57年の中国での論考を網羅していたとしても、
この時代遅れ状況はほとんど変わらない。
学会の外でどれだけ時代が変わってもどんな意味がある?
だから瑣末な揚げ足取りだと言ったわけだ。
>>360 句読点が一切入っていない1957年本に対して句読点(標点)を入れたもの
句読点なしは一冊におさまるが、句読点つきは8冊
読みやすさがぜんぜん違うはず
どっちにしても中国の国内情勢じゃ36年に出しても実際にほとんど流通しなかったんじゃないだろうか?
民国前、民国期、民国後で文法がそれぞれ違うから困るわ
365 :
世界@名無史さん:2011/04/05(火) 13:55:56.37 0
馬良が長男、馬謖が末っ子という話は本当?
>>365 白眉の故事で最も優秀と言われたのは馬良だが字は季常で長男はありえない
367 :
世界@名無史さん:2011/04/05(火) 14:16:06.71 0
馬良は馬謖よろ3歳前後年上なだけだね。
馬良が長男、馬謖が末っ子だと、腹違いの兄弟が間にいるか、
双子、三つ子がいたことになる。
368 :
世界@名無史さん:2011/04/05(火) 17:41:04.58 0
馬謖末っ子はその通りなの?
伯仲叔季でググれ
季常なら四男、幼常は五男以下しかありえない
>>368 不明だよ
蜀書では馬良・馬謖が5人兄弟で、字は皆「常」がついて。
馬謖の方が弟としか書かれていない
まあ、字は普通、伯(長男)・仲(次男)・叔・季(末っ子)という順になるから
馬氏兄弟は、伯常、仲常、叔常、季常(馬良)、幼常(馬謖)の並びだろう
って所でこれ以上は推測の域を出ない
371 :
世界@名無史さん:2011/04/05(火) 19:15:23.93 0
馬謖末っ子説は信憑性が高い訳か。
まぁ、夏侯淵の息子みたく、幼常の下に稚常とかいた可能性も無きにしもあらず。
孟は妾腹の子らしいね
実力が伯仲する とか
伯父(父の兄)・叔父(父の弟) とか
人では伯仲叔季を使う
でも、季節だと、孟秋-仲秋-季秋で
孟ははじめで、仲は半ば、季は終わりを意味する
伯はもともと、伯爵のように長(おさ)を意味していて
兄弟の一番の頭ということで、伯が用いられるようになったのでは
で、馬謖が末っ子だと何か問題でも?
375 :
世界@名無史さん:2011/04/05(火) 21:39:19.96 0
史実を追求されると
>>374に不利益が生じるようだが、君は東電同様の隠蔽体質型人類なのかね?
末っ子=わがままという方程式も納得の馬謖
なんだ、それだけのことか
>>372 馬氏五常の中に季常と幼常がいるのに
幼常の下に弟がいる可能性はほぼない
>>373 馬超や曹操は本妻のこじゃないってことになるの?
馬超はともかく、曹操はどうなんじゃろ。
儒学上、孟徳という単語自体があるからなぁ。
孟達は…
>>380 曹操の姓名は荀子に出てくる『徳操』が由来ではないかと。
で、妾腹の長子だったから孟も付け、曹操孟徳と。
孟獲タン
384 :
世界@名無史さん:2011/04/07(木) 19:01:33.26 0
皆さんは原典にあたっておられるのですか?
私は今ちくま学芸文庫の全8巻のやつを読んでるんですが、それ以外に
割と手軽に手にすることができる正史ってありますか?
ちくま文庫、たまに「そんなことはよう言わない」みたいに「よう」って出てくるんだけど、
訳者はこれ方言だって気づいてなかったのかな?京都の方だし。
標準語に混じってると違和感はんぱない
はんなりさんなので堪忍しておくれやす
389 :
384:2011/04/08(金) 20:08:50.28 0
>>385 有難うございます…ていうか、読めないっす
391 :
世界@名無史さん:2011/04/14(木) 20:36:45.21 0
費イと費観は親戚?
両人とも出身地と劉璋の姻戚みたいだけど。
392 :
世界@名無史さん:2011/04/14(木) 20:37:54.77 0
言葉足らずだった。
両人とも出身地が同じで、劉璋の姻戚。
>>391 費観は費イの族父で、孤児になった費イを引き取って一緒に益州入りした極めて近い親戚。
394 :
世界@名無史さん:2011/04/15(金) 08:27:05.37 0
劉璋一族が、蜀漢政権の中枢入りしたんだな。
もっとも、劉璋そのものは同情されてたとは思えない。
劉璋一族と婚姻を結ぶような名家なら、
登用して取り込んだ方が政権運営に有利じゃないか。
396 :
世界@名無史さん:2011/04/15(金) 17:44:09.81 0
呉懿・呉班も、そんな感じだろう。
呉氏はあんま政治的野心はなかったみたいだな。
呉班の弟も有名だよね
呉典だね
呉典? クスッW
義兄弟に杜覧とかいねえの?
杜覧? クスッw
>>401 津波でハワイまで流されたが筏をこいで祖国に生還したんじゃ。
呉典、蔡冶ノ人也
わ〜、呉典なんて知らなかった、すご〜い。で、出典どこ〜?
さぁ?ね。
呉典は呉班の弟ではなく孫だという話も有る。
孫呉典。
呉林もひっそりと高名ですね
なにこの中学生のノリ
呉蓮邪ー : 蜀の文官。李厳の子、李豊の部下。
415 :
世界@名無史さん:2011/04/17(日) 05:30:28.99 0
李豊は太守にはなったんだよな。
江州都督督軍まで務めたにもかかわらず、辺境の一太守にしかなれなかったと言う方が正解かも。
417 :
世界@名無史さん:2011/04/17(日) 09:54:56.36 0
まあ、三族皆殺しにされなかっただけでも・・・・・・・
418 :
世界@名無史さん:2011/04/17(日) 14:53:52.66 0
諸葛亮の手紙じゃないが、
公職を追放されず、太守にでもなれただけでも、
他の左遷組よりマシというもの。
魏延は三族処刑、楊義は自害、寥立は蛮地に追放、家が保てた
だけマシじゃないかな。
李豊は李厳失脚直後は従事中郎・丞相参軍に移ってるね。
諸葛亮が蒋エンと一緒に頑張ってと言ってるから、成都の留守政府で事務に従事したみたい。
で、真面目に職務に励んだから江陽太守までなれたんじゃないかな。
420 :
世界@名無史さん:2011/04/17(日) 19:27:14.40 0
従事中郎・丞相参軍より太守の方が格上なの?
格(秩石)は従事中郎が六百石、参軍が比四百石で、太守は二千石。
出世と言えば出世だけど、益州牧・丞相である諸葛亮の高級幕僚から、
南方の太守に追い出されたと言えなくもない。羅憲とか彭ヨウみたいに。
でも張翼や馬忠も同じルートで南方統治に出された後、また中央に栄転したりしてるから、
李豊にも栄転の目があったけど、早くに死んじゃったのかも。
羅憲ロール!シェゲナベイビー!!
で、、呉蓮邪って誰?
蛮地に追放で思ったけど、呉の2世武将って会稽追放が多すぎないか
どうなってんの
426 :
世界@名無史さん:2011/04/19(火) 01:46:33.54 0
出来の悪い二世から土地や部曲を没収する口実じゃね?
故事に則って会稽で肝をぺろぺろしなさいと言う教育的指導じゃね?
428 :
世界@名無史さん:2011/04/19(火) 20:15:58.53 0
>>421 馬謖も南方の太守やってから、丞相参軍になってたなあ。
街亭の敗戦が無ければ出世コースだったのに・・・・・・・・・
429 :
世界@名無史さん:2011/04/19(火) 20:23:41.08 0
街亭の守りが魏延や呉懿だったら敵軍を撃退できたのかな?
そんなことはやってみなけりゃわからん
安南、安定、天水の三郡を奪ったからこそ街亭が要地としてクローズアップされたのであって
普段から砦を築いたりなどをしている場所ではないからなあ
隘路に陣取るか山頂に陣取るかで揉めたけど言ってみれば何ら備えがなかったからこそどっちにするかで割れたわけで
曹叡が長安にまで親征してきて兵力も増強されてる状態だし誰が街亭に入っても厳しかったかも
張コウ相手なら、諸葛亮自身が守ってもきつかったんじゃね?
その仮定意味ないぞ。諸葛亮と張コウでは立場も能力も違いすぎる。
丞相で最高司令官の諸葛亮が街亭にいるってことは、
数万の蜀漢軍が隴西を固め終わって東進体勢にあるってことだから。
当時の街亭に必要なのは、本軍が隴西を確保するまでの間、
隴山を盾にして安定との連絡を保ちつつ磐石な形勢が完成するまで時間を稼ぐ戦術指揮官。
434 :
世界@名無史さん:2011/04/20(水) 02:17:46.73 0
当時の中国全土で張コウ以上の戦術指揮官はいないんじゃないか?
黄巾の乱から40年の戦歴を誇り、ありとあらゆる戦場で武勲を重ねてきた最強武将じゃないか。
武勇だけじゃなくて知謀もあるし。
435 :
世界@名無史さん:2011/04/20(水) 05:29:26.12 0
231年の北伐では、王平が張コウの攻撃を撃退している。
堅陣を敷いて防御に努めれば、歴戦の名将でも攻めあぐねたかもしれん。
馬謖は守るところを、野戦に持ち込もうとしたあげく、大軍で包囲されて
しまった。
436 :
世界@名無史さん:2011/04/20(水) 13:26:04.00 0
>>435 王平が撃退したときはちゃんと防御陣地が築いてあったろ。
馬謖が街亭にいったときは「堅陣を敷く」時間もないよ。
水経注によると街亭で攻防が行われてた時、諸葛亮は戎丘つー場所にいたらしいんだけど、
これってどの辺?
同じく水経注によると、西城やテイ道の近郊らしいから
天水郡の南の端辺り。
馬謖は防げば良かったのか。それとも積極的に撃破しないといけなかったのか。
馬謖が防いでいる間に諸葛亮は何をするつもりだったのか。
馬謖は自身の力でさらに局面を大きく拡げるつもりだったのだろうね。
失敗したけど。
この時代は陣営戦≒野戦だから、
野に陣取ったというだけでは馬謖の「つもり」はわからない。
近くの県城が防御可能な状態だったのか。
陣営を盾に守るつもりだったのか。
それとも張コウを積極撃破するつもりだったのか。
諸葛亮の「つもり」は、史料があるので推定できる。
三郡が大挙降服したかように蜀志や魏志は記すが、注の史料などを見れば、
天水太守の篭る冀城など固守抵抗した県城も少なからず存在したことが見て取れる。
諸葛亮の当面の仕事は、隴山を境界線として、東から迫る魏軍を防ぎ、隴西を長期維持し、
あわよくば東進ために諸郡諸県を平定して安定支配すること。
そのために時間が必要だった。
冀県の東辺りに諸葛亮が築いた諸葛塁というのがあるらしいね。
つまり救援軍が予想より早く来たので腹背に敵を受けることになって慌てたってことなのか?
>>444 441をうけてのことだってわかるだろ。。
だから441を受けてなんでそういう「つまり」が出てくるのかわからない。
せめて推移の解釈を説明してくれないと。
448 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 08:09:16.65 0
少ない軍勢で守る時は、隘路に陣取るのが普通では?
砦を構築する時間はなかったにしろ、塹壕掘るくらいの時間は
あったのでは?
449 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 11:03:07.71 0
227年春 出師の表〜諸葛亮漢中に駐屯〜魏延の長安急襲案却下〜孟達への内応工作
227年 長安の守将を夏侯楙から曹真に変更〜荊州から張コウを召喚〜司馬懿が孟達討伐
228年春 孟達斬首〜馬謖が街亭へ進軍〜張コウが街亭へ進軍〜張コウが街亭に到着〜馬謖が街亭に到着〜
450 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 11:06:06.14 0
まさに巧遅は拙速に如かずの典型例。
>>449 夏侯楙が都督解任されたのは曹叡が長安へ行幸した時、つまり諸葛亮が撤退した後だよ。
たぶん曹真が迎撃の総司令官となり、夏侯楙もその指揮下に入れられたんだろう。
452 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 19:25:09.81 0
魏は諸葛亮が侵攻するまでは、
蜀が攻め込んでくるなんて思ってなかったみたいだからな。
それほど大物を関中方面に大物を配置してなかった。
ま、曹真を司令官にしたけど、趙雲の囮軍にひっかかったんだけどね。
馬謖は死罪になるほどの罪をおかしたの?
軍令違反?
敗戦責任で処刑ならそれこそ人材払底しちまうよ
454 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 19:50:31.49 0
軍令違反は死罪でしょ。
馬謖は敗戦で処罰されたのではなく、軍令違反による敗戦だから
処刑された。諸葛亮は任命責任で降格、おそらく、趙雲は敗戦自体より、
作戦計画立案に関わっていたのだろう。だから作戦計画が頓挫の責任で
降格。
どんな軍令違反をおかしたっていうのよ?
456 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 20:02:34.47 0
おそらく、諸葛亮は街道に陣を敷くように指示したと思われる。
それに背いて山上に陣を敷き大敗。王平は諸葛亮の指示通りに陣を敷く
ように諫言したが、聞き入れられず。やむなく自分の配下の兵のみを
指示通りの布陣をした。いかんせん本隊が壊滅したので大勢は覆らず。
しかし、王平が頑張ったお陰で、四散した蜀兵を収容し、撤退することが
できた。王平は諸葛亮の指示を守っただけでなく、撤退戦での功績で昇進。
その後の出世の足がかりとつくった。
>>456 そんな個人的な指示ならなかったことにしちゃえよ。
馬謖の命をなんだと思ってんだよ。諸葛亮は。
458 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 20:14:08.22 0
軍令は個人的指令じゃないだろ。
ただの命令違反者の命だろう。
おれの馬謖を処刑しやがって。。
ゆるさん!諸葛亮!
口先野郎の馬謖と、知勇兼備の王平を引き換えにしたと思えば安いもの。
命令に反して軍功をあげたならともかく、命令違反して敗戦じゃあ申し開きのしようもねえわ。
463 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 20:29:18.57 0
馬謖の罪は配下の部将を統制出来なかったこと。
山の下に陣取る違反者とか。
統制しようにも丞相参軍に過ぎない馬謖には将軍を処分する権限がない。
465 :
世界@名無史さん:2011/04/22(金) 20:52:51.15 0
「汝参軍といえども、その実は帥なり」という故事があったな。
曹休?
467 :
世界@名無史さん:2011/04/23(土) 00:21:43.67 0
馬謖のような智謀の士は国家の中枢で戦略立ててればいいのであって
現場に出てくる必要はなかった
現場指揮は王平のような叩き上げに任せとけば問題なし
当時の諸葛亮は人材起用の機微を知らなかったとしか言いようがない
つまり 東電社員に現場指揮経験の必要なしとな?
馬謖はどういう思惑だったんだろうな。
水が不足することでどれだけ将兵の士気が下がるかを理解してなかったのか。
それとも張コウは山上の敵を恐れて山に近付かないと考えたのか。
>>467 蜀漢の重要人物が誰か1人行かなきゃ涼州が持たないだろうけどね
登山家にとっては、街亭行き自体が死地に赴くことだと判断してやぶれかぶれになったのかも
なんにしても馬謖起用は常識的に考えて無理があったと思う
いつも後方で作戦練ってた奴が急に現場に出ても勘が働くわけがない
どんなに頭脳が優秀で理論を展開することに長けてても、
部下の心情や敵将の心理を把握できなければ負ける
素直に魏延か呉壱出しとけばよかった気がするが
魏延は性格的に信用できなかったのかもな
才能を見込んでる子飼いに武功を立てさせたかったんだろ。
韓信>>>超えられない壁>>>諸葛亮
張良>>>超えられない壁>>>諸葛亮
蕭何>>>超えられない壁>>>諸葛亮
よって、蜀漢が中原統一するのは無理。
「諸葛亮は馬謖に諸軍を督させて前衛と為し」ってあるから、督前部とか前部都督とかだったんじゃないの。
476 :
世界@名無史さん:2011/04/23(土) 06:06:05.10 0
つーか、即断即決の戦場で後からタラレバ話しても仕方ないだろ。
諸葛亮は馬謖を使うと決めたのだし、馬謖が指示と異なる山上布陣したことを
含めて戦だよ。
そもそも、街亭の戦いに勝ったからといって戦略的劣勢が覆せるのか?
涼州や、雍州、長安を制圧できるのか? そうはおもえんな〜
477 :
世界@名無史さん:2011/04/23(土) 06:20:07.46 0
第一次北伐は長安攻略までは工程表にはなかったでしょう。
たぶん、涼州と雍州の西の辺境を制圧し、西方から関中を狙う
拠点確保が目的。魏延の長安直接攻略案は、優勢な魏軍に包囲され
て終わった可能性が高い。
そもそも、
>>449の流れみると、荊州事案の方に力入れるべきでなかったか。
雍州、涼州の辺境とっても魏の中枢を脅かせない。
荊州奪還しないと形勢挽回無理だわな。 司馬懿に先に動かれたのが凄く痛い。
>>478 下手に荊州に出ると曹真と司馬懿を同時に相手しないといけないのでは。
馬謖は孔明に斬られて永遠の存在となったな。
同じころされるんでも相手が偉人だと後が違うわ。
諸葛亮「わしの中で永遠の哀しみとなって生きよ、馬謖ぅ。」
馬良と諸葛亮は義兄弟ともいわれるほどの間柄
その弟を斬るって相当だろ
>>482 馬謖がただの頭でっかちだったら免職か左遷で済んだかもしれないけど,
縁故で抜擢した面もあったから斬らざるを得なかったのではないか。
話の流れをぶった切って悪いけど、閻宇のエピソードはありますか?
あるか〜!!
しかし、220をピークに後か転げ落ちるように蜀漢の戦略は手詰まりになっている感ありありだな。
北伐つーたって要は辺境の土地をとる局地戦争でしかないしなあ。
魏延じゃねえけど、リスクとってでも、長安なり、荊州奪還しないと展望開けない。
孔明の活躍と言われるものも、劉備死後、11,12年の短期間だし当時の寿命の感覚といえば
そんなに残された時間はないと分かっているだろ。 北伐意外に手はなかったのかね。
なにより、荊州方面だと呉と作戦連携しやすいんだよねえ。
魏を本当の意味で揺さぶろうとおもったら、関羽が恐れられた理由に
許昌への圧力があったように首都近郊にまでせまる地を取らないと。
だからこそ孟達の内奥策では果断に動けなかったら意味がなかった。
司馬懿に「してやられた」時点でほとんど積んでる。
漢を名乗り、正統国家を名乗る以上無理だろ。
中原回復を名目とはいえ指向しないといかんし。
三国維持できただけでもすごいことなのかもしれんし、諸葛亮と後継者。
でも曹操亡き後の凡戦が三国をいたずらに継続させただけなのかもわからないし。
荊州があれば、とは確かに思うが、実は涼州、雍州を抑えるのも
蜀にとっては悪くはない。何故なら、西方のルートを全て抑えて
しまえるからだ。既にインド、東南アジア方面は抑えていたし、これ
でローマ、中央アジア方面まで抑えてしまえば、魏は東と北にしか
威を轟かせたり物資の交流を行ったりができなくなる。結構大きな
打撃にならないだろうか。
押さえられれば、な。
その可能性があったのはせいぜい第一次北伐までだろうが。
>>490 当時の魏の財政から見れば西方交易なんて微々たる物だろう。
朝貢がようやく回復した時代だから。
それよりも単純に、魏にとって隴西を獲られることは、
関中が脅かされる距離に敵軍が進駐するという純粋な軍事的危機が大きい。
後漢末の関中危機論の再現ということになる。
さらに進んで関中の支配権を失えば洛陽からの遷都が現実味を帯びてくる。
それが実現する可能性はあったのかというと、それなりにあった。
というのは、魏は220〜240年代まで、対蜀対呉の主力を辺境で同時に相手にして
優勢を維持する国力がなかったから。
もし、隴西まではるばる迎撃に出した洛陽中軍が完全撃破されれば、魏には、
首都から700キロの彼方に対してもう打つ手がない。戦線は大幅に縮小されることになる。
だから、特に同じように長駆遠征してくるにも関わらず高い規律と戦力を
維持して対陣してくる諸葛亮は、魏にとって相当の緊張を以って相対せねばならない
敵手だったと言える。
諸葛亮が長征しかできないように追い込んだのは司馬懿なんだがな。
孟達以降、諸葛亮は存命中に二度と荊州方面への遠征を試みることがなかった(できなかった?)んだから。
蜀漢の国力ではいわゆる北伐ルートは長期戦ができず、辺境を犯しては国力が尽きて撤退のルーチンワークに追い込まれていく。
極端にいえば、関羽が死に、孟達が切られた時点で最後の生命線も事実上立たれたと言っても良い。
この辺の司馬懿の嗅覚おそるべしである。
諸葛亮が荊州遠征を目論んでいたが司馬懿によって阻止された、なんて話はないはずだよ。
魏に長駆を強いる隴西・隴東遠征ルートと違い、荊州は司隷と中原の大戦力が直接短時間で集結してくる場所。
蜀は、呉と連携しながら魏軍を辺境へ誘引することで、兵力分散と時間差を作って初めて、
戦場で戦力的優位を確立できた。
荊州では呉と共同したとしても、優位を稼げるかどうかは怪しい。大量輸送する船がない諸葛亮時代はなおさら。
司馬懿の戦略的センスや孟達攻略の迅速さや戦略的影響はいいとして、
>諸葛亮は存命中に二度と荊州方面への遠征を試みることがなかった(できなかった?)んだから。
というのは当たらない。
>>492 魏側に余力がなかったのはあなたの言うとおりだと思うけど。
蜀軍は天水郡(キ山付近)では攻めて来た魏軍を撃退することが出来たけど,
(漢晋春秋が記す戦果がどれだけ信用できるかは別として。)
敵陣に戻った魏軍を撃破することは出来なかった。
また,長安に近い扶風郡(五丈原)では敵陣相手に結局何も出来なかった。
だから蜀には洛陽中軍を完全撃破する力はなかったのでは。
497 :
世界@名無史さん:2011/04/24(日) 16:55:07.52 0
呉と蜀が相争えば、漁夫の利を得るのは魏。
それより、隴西方面を制圧して拠点として、漢中と隴西の二方面から
関中を攻める方が総合的には成功の確率が高い。
隴西方面を拠点にする発想は間違いではない。後年、魏が蜀を制圧する
過程でその正しさが証明されている。
498 :
世界@名無史さん:2011/04/24(日) 17:24:22.57 0
生姜には1万の兵だけ持たせて、隴西を撹乱し続ければよかったんだよ。
費イがやったみたいにね。
まとまった魏軍がやってきたらさっさと逃げ、絶対に会戦しない。
魏軍が引いたらまた荒らしまくる。
ゲリラ戦で蜀の国力を維持しながら魏の国力を削る。
>>498 それはしない。
それをする国は民の輿望をうしなう
500 :
世界@名無史さん:2011/04/24(日) 21:14:52.83 0
姜維は諸葛亮に比べると、大軍で敵地に深入りし過ぎているよな。
つうか、民の信望とかいってるけど、支那の軍隊が敵地奥深く入って「現地調達」しないとでも思っているの?
孔明や姜維を美化しすぎじゃね。 フツーに乱暴狼藉兵隊やくざなことやって現地民には
「また蜀がキター! オラの娘っ子攫われて股ぐらに矛つっこまれて惨殺されたお・・・・」みたいな話は普通にあるだろ。
>>501 あのあたりは蜀より先に曹操が兵隊やくざなことをした後だからな
「魏から解放してくれるなら兵糧出します」って奴も結構いたんじゃないの?
だから敵地のはずの涼州・関中で意外と粘れる
乞食の馬岱くんのお陰だろう。
姜維もあのへん出身だよ。
姜維って元々は母親を捉えられて降服したんだろ。
降服しなけれb母親を殺すってことだろうし
例 項羽が劉邦のの父親を捉えて降伏せねば煮殺す!という先例
まんまやっていることが魏からみて「賊」そのものなんだよな・・・・。
母親はずっと魏の領土内にいたらしいし。
姜維はスカウトされて蜀に就職したんだってね。
508 :
世界@名無史さん:2011/04/25(月) 08:02:37.24 0
姜維は魏では出世の見込みは薄いからなあ。
小国とは言え、丞相である諸葛亮に評価された方が
間違いなく出世はできる。事実その目論見は当たっている。
509 :
世界@名無史さん:2011/04/25(月) 11:08:33.28 0
>>502 あのあたりは曹操が住民を強制移住させてて、そもそもあまり人がいなかったはず。
だからトウガイは、また住民を強制移住させて農耕やった。
食料が補充できる体制になったところで蜀攻略開始と。
510 :
世界@名無史さん:2011/04/25(月) 11:12:57.62 0
曹操のシ民のせいで、かえって蜀の側が兵糧攻めにあってしまった。
だから諸葛亮は兵站で苦しみ、ことごとく攻勢に失敗した。
本来なら長距離を行軍してきた曹操軍だけが苦しむはずだったのに…。
511 :
世界@名無史さん:2011/04/25(月) 11:17:00.96 0
>>499 古代ローマだって、ハンニバルにカンネでボコボコにされた後は、
絶対に会戦を避けて、ハンニバルが逃げるまで待ってたんだぞ。
つうか、堅守にして戦わずは司馬懿が五丈原でとった戦略だけど、
蜀漢が撤退してから都で特に声望が落ちたとか処分されたとかないからなあ
曹爽にしても大博と「祭上げた」のだから失脚じゃないし、当時は
西欧中世以降のようなnobleはどうとか葉がくれのような武士道は死ぬことと
みつたり!というような時代ではない。
513 :
世界@名無史さん:2011/04/25(月) 20:10:47.93 0
蜀でも、陳式や高翔なんかは漢中戦で敗れているのに、
特に処分されていない。高翔は街亭戦と同時にされた戦闘で敗れたのに、
特に処分されることもなく右将軍にまでなっていた。馬謖が処分されたのは、
命令違反での処刑で、敗戦での処刑だったと思われる。諸葛亮・趙雲の降格は
作戦責任者としての責任。蜀でも敗戦したから処刑という訳ではないようだ。
李厳が左遷されたのは、兵糧輸送の失敗ではなく、後主へのデタラメの報告と、
諸葛亮を陥れようとした罪。
wikiにもあるじゃん
裴松之が注で引用する東晋の孫盛の『雑記』によれば、姜維の母親は、姜維に魏に戻るよう手紙を書いたが、
姜維は蜀で栄達するという大望があるため戻らないと返事したとある。
このスレでは常識かもしれんが、暦について教えてくれ。
左氏伝ys史記列伝を読んでて、1〜3月を春と言っていたり、10月が年の始まりといった解説が
あったりしたんだが、三国時代ではどういう風になってるの?
ぶっちゃけ、今でいうところの1月は、三国時代で何月なの?
1月
北斗七星の柄が丑(北北東)を指す時が12月だったんじゃなかろか。
景初の元年から三年12月までは景初歴で1ヵ月繰り上がってたけどね。
後漢書見る限りじゃあ、
春正月に大雪で行軍を渋られた将軍の話や
春2月に大雪で苦しめられた、という記述があるから
基本的に現在の月感覚でいいと思う
問題は春夏秋冬の表記がどれだけずれているかだな
春1〜3月、夏4〜6月、秋7〜9月、冬10〜12月でいいんだろうけど
まず夏暦(夏王朝の暦)というのがあって、これが建寅の月=1月
殷は、これを1ヵ月早めた(つまり夏暦の12月=正月)
周は、さらに1ヵ月早めた(つまり夏暦の11月=正月)
秦は、さらに1ヵ月早めた(つまり夏暦の10月=正月)
漢は、秦暦を引き継いだが、武帝から夏歴に戻した
魏は、基本的に夏暦を使用。明帝の時代に3年ほど景初暦(殷暦)とした。
夏暦の正月は、現在の旧暦正月という理解でいいじゃないでしょうか。つまり旧正月。
以上、違ってるかも。
520 :
世界@名無史さん:2011/04/26(火) 22:36:36.08 0
>>514 >姜維は蜀で栄達するという大望があるため戻らないと返事したとある。
親不孝だな
姜維は蜀が滅亡した時点で命たすけられているんだから、あのまま都にいっていたら普通に封じられて栄達していたとおもうんだけどねえ。
>>474 韓信 軍事
張良 内政
蕭何 兵站
諸葛亮クラスが、あと2人いたら蜀によって統一できた。
蜀漢の三国分立は予想外でした
524 :
世界@名無史さん:2011/04/27(水) 12:56:02.51 0
>>522 諸葛亮みたいなワンマン宰相タイプじゃ他の二人の孔明と喧嘩するだけだ。
劉備が死んだ時点で詰みだな。
諸葛亮3人より、1000人の劉禅。
>>519 太陰暦だからずれていくのを調節したってこと?
じゃあなんで月をはやめたりおそくしたりすんのよ?
あの頃の暦は農作業と関連してるから勝手に正月ずらされたら迷惑なんだよね。
>>529 理念的なものでしょう。天文観測とかその他いろいろの。
明帝の改暦の時は、高堂隆の理論に引っ張られた感じだし。
たかどうたかし? しらんなぁ。。そんな考古学者は。
どこの大学の先生?
>>529 秦や漢の時は「正月」はずらしてないんだよね
年のスタートの月をずらしだだけで(十月で年が変わる)
だから農作業とかに影響はでない
魏明帝は正月そのものをずらしたから確かに農作業に影響があったかもしれんが
世界史なんでも質問スレッド89
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1303625307/ 186 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/04/28(木) 03:20:25.26 0
三郡烏桓は曹操に降ったあとも精鋭騎兵として活躍してるから、単騎の武勇で漢人に劣るわけではなかろう。
まあ烏桓を破った張遼は、精鋭八百で孫呉の軍十万に突撃・生還したうえ、単騎で孫権に切りかかるほどの超武人だから、
普通の漢人と並べるのは問題があるような気がするが…
呂布よりすごいよね。
>>533 その張遼って演義か何かの話?
正史では呉軍十万が揃わないうちに孫権が真っ先に到着したところに奇襲したのであって
状況を見る目や判断が優れているのは確かだが、十万を相手にしたわけじゃない
中国の暦って太陰暦の「月」と太陽暦の「二十四節気」の二本立てだから
太陰暦の正月がずれても農作業にはそんなに問題ないんじゃないの?
改暦なんてそもそも農作業してる階層まで浸透してたんかな?
地域の農耕を主導しているのは豪族か地方官だから無学層もそれに倣う。
農業を中心とした、豪族向けの年間生活指南書も現存している。
秦の農政をずっと引き継いでいるなら何らかのルールがありそうだけど、
数百年経って人口激減、移住も多発なら、一般的な「農民」には残らないかも。
そもそも、明帝で暦変えて農作物の収益に何らかの減少があったなら
史書に書かれてるんじゃないの?
>>531 いや知識人層がどれだけ文盲層に浸透させるかという話だよ
小作人達の実生活において改暦の使用を強要してたんかな?
そういや、漢武と王莽と光武帝とあと何人かの後漢の皇帝のせいで
壮絶な量とキャパの教育機関があるけど、識字率実際どんなもんだったんだろうねぇ。
あくまで後漢末までの確定情報としては、
・書館は辺境(敦煌等)まで行き届いていて、儒学系、算術系、史書系とそこそこの蔵書が見つかってる。
・一部小作人にも行き届いている例が散見されるが、それはあくまでも豪族の縁者だけではないかとの意見が有力。
・李善辺りの話を見る限り、後漢初の時点で既に奴隷でもそこそこの豪族の奴隷だと普通に字を知ってる様子ではある。
あたりかな。
単なる農奴として使うなら字を教える必要はないからなぁ
ある程度側近くで使う人間だけが教育を受けられたんだろうとは思うね
>>541 豪族の農地管理システムって要するに家族経営の多角経営型企業だから、
奴隷や小作人の中で頭良さそうなのを補佐や、農地経営や商業の上で
雑務や補佐を任せる奴は一緒に教育したってのはありそうだね。
後に官僚とショ吏が分かれた事から逆算しても。
谷利なんかも奴隷出身から孫権の側近になってるな。
544 :
世界@名無史さん:2011/04/29(金) 21:02:35.87 0
>>18 あんな史実が展開されているなんてな
人類史上屈指の名将対決だもんな
第一次北伐あたりはスゴイもんがある
孟達を籠絡・扇動し、策略で強引に決起させ反旗を翻させる諸葛亮に
それを通報で察知するや否や皇帝の承認は事後承諾でいいとして、
書簡で巧言令色で時間稼ぎしながら、その実神速の速攻で昼夜兼行の進軍し
8日で上庸を急襲し出鼻をくじく司馬イ
その後も互いに知力と戦術を駆使、器量を総動員しての睨み合い
545 :
世界@名無史さん:2011/04/29(金) 21:24:46.75 0
>人類史上屈指の名将対決だもんな
大会戦ならともかくも、辺境での戦いじゃあなあ・・・・
五丈原なんて孔明のひとり相撲で時間切れゲームオーバーだろ
546 :
世界@名無史さん:2011/04/29(金) 21:46:17.74 0
ミクロ、マクロと勝負の密度は関係ないよ
大会戦でも関ヶ原のように諸将が統率されておらず、お粗末な結末を迎えるものもあるわけだから
あれは古代史とは思えない程、ハイレベルな攻防戦
547 :
世界@名無史さん:2011/04/29(金) 21:50:14.80 0
それに兵数は万単位で動員され、総動員数は十万規模だ
当時は辺境での局地戦でも大規模動員できるくらい
国家の官僚機構が優れていた
偏見かも知れんが、当の自衛隊などの職業的戦争研究屋は、
孫武と韓信と項羽と李靖しか相手にしてないイメージがある。
というか、実際そういう人が書いた世界の戦争みたいな本ではそれらしか取り上げないことが多々ある。
イメージで語られても
普通戦訓は勝ち戦じゃなくて負け戦から得るもんだぜ
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなしって言うっしょ
550 :
世界@名無史さん:2011/04/30(土) 06:28:25.72 0
関ヶ原を貶めて支那の将をもちあげている奴は売国奴だから。
地図と照らし合わせると面白い戦って多いね
蜀の最後の戦いの姜維と鐘会・トウ艾の駆け引きも凄い情報戦だわ
>>24 特に外傷に対する医療は中世日本と古代では雲泥の差だぞ
アルコール度数の高い酒が安定的に製造できる時代だから>中世日本
しかし、アルコール消毒が広まるのは近世になってからのような。
一部の逸話見ても。
554 :
世界@名無史さん:2011/04/30(土) 14:31:34.06 0
>>552 実は日本酒の元祖を作ったのは曹操。
曹操(曹孟徳/魏武帝) > 奏上九?[ウン]酒法・付(全三國文・斉民要術・南都賦より)
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_so/alcohol.html 465 名前:1(ry [sage] 投稿日:2007/02/22(木) 13:25:41
うひー
ほかをぜんぶ後回しにして曹操の奏上九?酒法をうp(ry
訳は帰ってからやるから待ってくんなせえ
全三国文巻一の武帝一より
『奏上九?酒法』 魏武帝
臣県故令南陽郭芝、有九?春酒法。
用面三十斤、流水五石、?月二日清曲、正月凍解。
用好稲米、漉去曲滓便醸、法飲、曰譬諸虫、雖久多完。
三日一醸、満九斛米止。臣得法、醸之常善、其上清滓亦可飲。
若以九?、苦難飲。増辧十醸、差甘易飲、不病。今謹上献。
(北堂書鈔一百四十八、又、文選南都賦注引魏武集)
自分はこの文章をよんだときに、曹操様の偉大さにはげしく心をうたれますたw。
なぜなら、日本酒は「段仕込み(段掛け)」という方法でつくるそうなのですが、
これは曹操がのこした九段仕込みがもとになっているらしく、ああありがとう曹操様ありg(ry
466 名前:無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日:2007/02/22(木) 13:50:38
マジ!?
曹操・・・いや曹操様と呼ばせてくれ
曹操様は ネ申
467 名前:無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日:2007/02/22(木) 13:57:03
マジ
曹操の九?春酒法は日本酒の始祖みたいなもんだよ
古代の日本の酒は所謂口噛みの酒で、すっぱい
>>554 いや、だから作ったのは南陽人の郭芝だと何度(ry
556 :
世界@名無史さん:2011/04/30(土) 19:44:46.47 0
>>554 教師「奈良の大仏を作ったのは誰ですか?」
生徒「聖武天皇です」
教師「違います。尊き労働者です」
つってるようなもんである。
曹操がわざわざ上奏してまで作り方を残してくれたのだから、曹操に感謝すべきだよ。
上表文は確実に残る超一級資料だからね。
でも作った方には感謝しないんだな
>>556 その曹操が奏上の中で「南陽郭芝」と書いてるからねえ。
559 :
世界@名無史さん:2011/04/30(土) 20:41:07.98 0
ただの方術の一種として散逸してもおかしくなかった酒造技術を、
テキストで残した功績は大きいだろう。
でも作った人いないと残しようもないよね
まず、酒造の方法を編み出した人がいる。上奏文によれば、郭芝さん。これはすごい。
その方法を曹操が残した。これもすごい。
どっちもすごいでいいじゃないか。
>>561 そのとおり。ただし、「曹操が現代の酒造法を作った」みたいな言い方をすると大間違い。
どうも最近そういう風に勘違いしてる人を見かけるが。
563 :
世界@名無史さん:2011/04/30(土) 23:22:20.53 0
マイナーな人物の業績が、有名人に吸収されてしまうってのは多くありそうだな。
文字は蒼頡さんが作ったんです( ー`дー´)キリッ
南陽で郭氏というと郭攸之。
566 :
世界@名無史さん:2011/05/01(日) 09:29:50.16 0
>>549 野村克也の言葉だろ
非常にいい言葉だ
現在の原子力危機にも通じる
567 :
世界@名無史さん:2011/05/01(日) 16:34:28.17 0
>>558 奈良の大仏だって工事責任者の名前ぐらい残ってるぞw
杜預は呉を兵法で滅ぼし、西晋を儒教で終わらせた
これを言ってるのは某先生だけか
570 :
世界@名無史さん:2011/05/02(月) 06:11:40.76 0
>>569 西晋の八王の乱の原因は、司馬炎がやたらと子供をつくりまくって分裂の火種をまいた上、
長男ってことで馬鹿のシバチューを皇帝にすえちゃったのが原因だからか。
司馬炎を見て思ったけど、
司馬懿は子と孫が魏を簒奪するであろう事を
解って(黙認して)逝ったのだろうか?
文欽の書簡なんか見ると、
司馬懿はともかく、司馬師は明確に王朝簒奪の意思を表していたのが分かる。
しかし、諸葛一族は孔明同様に諸葛恪も合肥新城で司馬師がカン丘倹、文欽らに「直接あたってはいけない
堅守し、しばらく耐えろ」と厳命して案の定、何もできずに疲弊したところを散々打ち破られて叔父や親父と
同じ失敗しているね。
諸葛一族はロウヤ諸葛一族の諸葛誕を含めてみんな司馬一族にまともに勝てないよね〜〜〜
王元姫が穴を、まで読んだ
カン丘倹は謀反を起こした時の決起文章で合肥新城の戦いは今までにないほどの酷い戦いだったと大苦戦したようなことを書いていたな
そのカン丘倹は司馬師との直接対決で全く相手にならなかった件。 わざわざ自ら討伐にきているというのに司馬師の名声を上げて終わった。
錦の御旗はつおいのよ。
部下がどんどん降っちゃうし
このスレ正史スレを自称しているくせに諸葛厨が居着いているよね。判官贔屓が露骨なのが日本人の悪いところ。
>裴松之によれば、この戦いについて?丘倹は「司馬孚と我々は計略を立て、要害の地を遮り戦闘を避け、引き返して合肥新城を守りました。
将兵は昼も夜も守り続け、100日間頑張りました。死者は泥に塗れ、我が国が軍隊を持って以来、これほどの苦難は存在しなかったでしょう」と上奏している。
翻訳
大将軍様の指図通り動いたところ、呉賊将諸葛恪を退けることができましたということ。
張コウの年齢が気になるんだが
司馬ってどのくらいの年でなれるもの?
後これは募兵後すぐに司馬になったのか韓馥に任命されたのか教えて下さい
漢末應募討黃巾,為軍司馬,屬韓馥
>>581 年齢が分かってる同年代の叩き上げの武人の例を挙げると、劉備は30歳で別部司馬だね。
その前は格上の県令だったけど、劉備はそんなに目覚ましい武功があったわけでも無いし、何度も負けてる。
失敗せずに武功を重ねてたら、30前で司馬になれたんじゃなかろうか?
その軍司馬って、奮威将軍司馬なのかな。韓馥は袁紹に冀州譲って奮威将軍になるまで将軍号持ってないはずだし、
冀州牧の属官に軍司馬はいないし。黄巾の乱で活躍した後、曹操みたいに一時郷里に帰ってたのかな?
それで袁紹が冀州を支配すると召し出されて、韓馥の目付け役となったみたいな。
>>578 正史でも諸葛一族は活躍したのだよ
諸葛一族アンチは正史をろくに知らないくせに正史を語るバカが多い
カン丘倹の乱は王基無双だったな
王基がいなければもっと苦戦してたはず
>>583 後漢の司馬の中で、黄巾の乱以降で軍閥の私官でないと思われる人物をピックアップしてみた。
1.孝廉傅燮が左中郎将皇甫嵩配下の護軍司馬となって張角と戦う
2.涼州刺史耿鄙の司馬馬騰が韓遂の乱に呼応して叛いた
3.議郎陶謙が車騎将軍司馬として、辺章の乱を討伐(魏書では参軍事)
4.張超が朱儁の別部司馬となって黄巾を討伐
5.并州従事張楊が中央に派遣されて上軍将軍騫碩の仮司馬となる
6.仮の県尉孫堅が呉郡司馬となって許昌の乱を討つ
7.揚州従事朱治が長沙太守孫堅の司馬となって荊南の賊を討つ
諸葛一族の活躍? 何を「どう」活躍したの?
・司馬懿に常に後手を取られ続けて何もできなかった諸葛亮
孟達切られて荊州に以後手出しできず、雍涼ともに司馬懿に悉く防がれやはり何もできなかった。
・諸葛瑾 問題外 司馬懿に鎧袖一触 手も足も出ず。
・諸葛恪 たまたま東興で勝って調子にのり、叔父同様に敵陣深く入り、持久戦に持ち込まれて惨敗
敗戦の責任をろくに取らず驕慢な振舞いが反感を食らい族滅
・諸葛セン 涼州出身の姜維を嫌うむしろ黄皓と結託し姜維を下ろそうと画策、最後はケ艾軍の前に玉砕
・諸葛誕 対呉でもさしたる戦果出せず、謀反起こしてもさっぱり
俯瞰してみると司馬一族に劣る御仁は数あれど誰ひとりとして戦略的勝利を収めた人物はいないな。
やはり演義効果で課題評価でインフレ一族といってよかろう。
>>586 4次は蜀軍が終始優勢だった上に魏軍は張コウまで戦死したがなw
>>586 ちゃんと魏書や晋書読めば、司馬懿がいかに苦労して諸葛亮を封じ込めたかのいっぱしでも分かるだろうに…。
優勢な戦力を有してても野戦で勝てないから、守りを固めて時間切れを狙ったんだがなあ。
>>587 局地戦で何がどうしたって?魏は優秀な将軍がいくらでもいる。
X野戦で勝てない
○守れば自然と撤退する 人的損害を出す必要はない。
だろ。 諸葛厨はいいように話作り替えるよね。
>>589 張コウは人的損害のうちに入らないですかw
自演かしらんが、こんなのに構わんでも。
>>589 あんたの言うとおり、司馬懿が諸葛亮を軽くあしらえるような人物なら、
兵の突き上げを勅命使って止めんでも、優勢な戦力で蜀軍を潰滅させたら良かったんじゃないか?
遼東戦役じゃ、兵力も補給も敵に劣ってる中で、決戦を挑んで敵を潰滅させてるんだが。
司馬懿は、孟達や遼東や呉との戦いじゃ速戦速攻で決着付けてる。
ま、司馬懿も諸葛亮も名軍師だ、ということで。
>>590 五丈原の話をしていたのになぜ張コウの話にすりかえるんだろうね。
>>592 荊州に調略の手を伸ばす諸葛亮の機先を制する電光石火の孟達討伐や
遼東の公孫淵討伐など司馬懿は相手に仕事をさせない
いたずらに戦いを避け、次善に芽を摘み取るそれが司馬家の手法だよ
正しく帝王の采配といえよう
諸葛一族はタダの一度も戦略的優位や勝利を自軍にもたらしたことはない
それどころか州一つすらまともにとれたことないよね。
司馬一族は天下をとった 歴史的事実を認めなよw
>>594 おまいがただの釣り師であることがよくわかったにょ
>兵の突き上げを勅命使って止めんでも、優勢な戦力で蜀軍を潰滅させたら良かったんじゃないか?
司馬師は諸葛恪の侵入を「敵陣奥深くきた恪は3ヶ月耐え忍べは自滅する」と見抜き、正にその通りになった。
後に大敗した呉軍を追撃しこれを打つべしと司馬孚が呉討伐の軍を編成しようとすると、王基が
「姜維や恪の失敗」をあげ、敵陣奥深く入る愚を解いた。 司馬孚はこれを受け入れ、帰陣して報告をうけた
司馬昭はこれを賞賛した故事をみると
司馬一族のポリシーが見えてくるであろう。 相手の油断をついて神速をもって用兵を用いる時と、
功を焦るあまり、不案内な敵陣を攻略するときは全く別のモノだとね。
孟達や公孫淵討伐は自軍領内を神速で行動し機先を制する戦いをした。
これと、
功を焦るあまり敵国に攻め入り、徒に国力を消耗するのとは全く別のモノだとね 君が仮に司馬一族と戦えば
鎧袖一触されるだろう。 八達をナメるな
亮・姜維・曹爽・諸葛恪こいつらの共通点はいずれも堅守されたら何も出来ないということなんだよね。
曹爽も蜀漢の堅守に何もできなかったが、司馬師はこの阿呆の無様な戦いを間近で見ている。
亮の戦いも父と共につぶさにみてきた 師が天下を事実上掌握したのは偶然ではない。
天の時、地の利に王才あってこそである。
>>589 五丈原でも実は曹叡からの援軍を待って諸葛亮に攻撃仕掛けて弾き返されてる
それも精鋭の騎兵を数万も投じてな
>守れば自然と撤退する 人的損害を出す必要はない。
当時、かなり得難い人材だった騎兵で堅陣に定評のある蜀軍に突貫掛けるとか
人的損害出す必要もないのに何やってんだよってことになるわけだが
結果が全て。五丈原でも結局寸土も得られずに撤退したしね。 都督諸軍事としてさらに名声を高めた事実のみが歴史に残る。
>>594 >諸葛一族はタダの一度も戦略的優位や勝利を自軍にもたらしたことはない
劉璋討伐戦は?
劉璋? あれはホウ統・法正が現場を仕切っていたろ。 孔明はホウ統が死ぬまで益州にお呼びかからなかったよw
>>601 おまいの無知にはほとほとあきれたにょ
劉備が戦いを始めてから諸葛亮は張飛や趙雲とともに益州に潜入して益州中部を切り取って劉備軍の勝利を確かなものにしたんだにょ
ホウ統が死んだ後の話だろ あとデジコ風のにょにょとかいう語尾(;^Д^)キメェ
そもそも蜀侵略がなんであろうと、司馬一族に劣っている事実は変わらないね。
>>604 詭弁のガイドライン
4.主観で決め付ける
あ? 諸葛一族に戦略的才能どこにあるんだよ
客観的にみて
ラインハルト・フォン・ローエングラム=司馬懿だし
……え。
608 :
世界@名無史さん:2011/05/03(火) 13:33:06.40 0
赤壁以降の劉備の行動は、諸葛亮が描いたグランドデザインに
沿った行動だよ。つまり、蜀漢の基本方針を決めたのは諸葛亮。
ホウ統・法正は各戦役での戦略・戦術の助言者。諸葛亮の基本方針に
沿って、個々の作戦をホウ統・法正が仕切ったという構図。諸葛亮は
基本方針を確かなものにする為に、後方で内政に努めていた。諸葛亮は
ホウ統・法正より高い位置にいたのは確かだ。ただ、ホウ統・法正が
早死にし、黄権を失ったので、各戦役で仕切る人間がいなくなってしまった。
本人以外はみんな無知な釣り師だと分かってるんだから相手するなよ
どうせ芳樹のアレ読んで鵜呑みにしちゃった馬鹿だろw
バカを自覚できないインテリ気取りってとこだな
612 :
世界@名無史さん:2011/05/03(火) 14:25:54.30 0
司馬懿は野戦はあんま強くないよな。
相手の意表を突く行軍で勝つあたりは豊臣秀吉的?
諸葛亮は野戦は強いな。
野戦は強いけど、攻城戦は苦手なのは徳川家康的?
結局、中傷ばかりで孔明厨が司馬一族を諸葛亮や恪が一度も戦略的に超えられなかった事実を覆すことはできないんだよね。
>>585 成程、漢末には刺史や太守ら地方官にも司馬が付くようになっていたのか。
となると張コウは冀州牧の司馬だったということか。
諸葛恪は淮南方面の呉の前線を押し上げた点は評価できると思う。
諸葛恪が舒一帯を呉の勢力下に組み込んだ事で、呉は合肥新城をスルーして直接、
六安や芍陂まで出張る事ができるようになった訳だし。
司馬氏と諸葛氏どっちが上とかは無意味な比較だと思うけど。
人気の諸葛、実力の司馬
>>615 その無意味さに気づかないからこそのバカじゃね?
殷歩(165〜223)
後漢末、三国魏の薬師。字は典津(テンツ)。
薬師として曹操に仕え、強壮剤の開発に全精力をかたむけた。
殷歩自身は子を生さなかったが、曹操が数多の子を生したのは彼の功績であろう。
>>594 戦役単位で言うなら赤壁なんて見事に外交で戦略的な優位を作り出して
戦術級で曹操が何しようと撤退せざるを得ない状況まで追い込んでるぞ
劉備側の外交官として戦略的優位を自軍にもたらしたよね
表舞台へのデビューからしてコレなんだけど…
以降、荊州方面でのヘゲモニーが北方不利で確定して益州が失陥するまでの間
防ぐことしか出来なくなってるから戦役単位どころか国家百年の戦略的優位だな
620 :
世界@名無史さん:2011/05/03(火) 19:14:08.15 0
曹操・孫権の二大勢力があるのに、
劉備に建国させるまで至らした基本戦略を建てただけでも
諸葛亮は凄い戦略家だと思うよ。劉備が東征で大敗した後の
立て直しも見事だったし。
確かに馬謖の抜擢は失敗だったが、野戦では司馬懿を撃退し、
最も実戦経験豊富な名将張コウを戦死させるなど、野戦での
戦闘は強かった。司馬懿が「奇才なり」と感嘆するのも頷ける
活躍だった。諸葛亮抜きに三国志を語れないのは確かだ。
話をブッタ切るようだが、質問。
呂範伝では呂拠は諸葛恪を誅殺した後、驃騎将軍に昇進して「平西宮事」したと言うんだが、
これはかつての陸遜のように武昌の行政を担ったという解釈のいいのか?
>>621 それでいいと思う。諸葛恪が中央に行ってから、武昌に重鎮がいなかった時期だし。
呂岱じいさんがいなかったかな
諸葛氏といえば諸葛瑾と諸葛珪の親子
某サイトで孔明と均は諸葛珪の子供ではない
ってのをみたんだがどうだろう
親と同じ王の字を使う瑾の方がむしろ子供ではない可能性があると思うんだが
625 :
世界@名無史さん:2011/05/03(火) 21:18:01.92 0
>>624 母親がちがうと考えるのが妥当では?
瑾と亮・均の二人は母親がちがう可能性は大いにある。
瑾は正妻の子、亮・均は妾の子では?
>>615 どっちもすごいと馴れ合いで済ませるのが小日本の蛮習
>>619-620 俺は戦略的優位といったが、赤壁ってそもそも戦略的優位に立てたか?曹操は長江以降に進出できなかっただけで、
劉備は荊州の一部を占めるその他大勢にすぎない。
せいぜい「劉備との戦いは不利であった」と一言で記されているそれだけの話しだしな。
そもそも、赤壁は風土病などの病死者多数による行軍不可が大きいのだが。
大体、三国鼎立後も呉賊は揚州交州 蜀賊は夷陵以降になると益州しかなく 人口、土地生産性、人材の差どれをとってみても
過半数ワレしているのだが。
>>624 曹操の息子に曹拠ってのがいるんだから、当時は親子で部首同じっていうのも珍しくなかったんじゃない?
親と同じ諱を避けるというのは聞いた事あるが部首まで避けるんだっけ?
>>618 「津」は「シン」ですよ
「つ」と読むのは和訓です
>>626 荊州におけるヘゲモニーの確定の話をしてるのに
何で全土に関する話じゃないと満足できないのかな
戦略=中華全土に関わる話とでも思ってるの?
戦略って戦術級よりは上位だけど結構下位概念だよ?
なんで構うの?
それはそれで楽しいから
君は楽しくないかもしれないが俺は結構こういうのとやり取りしても楽しいんだよ
そうか、じゃあ、連鎖あぼーんがきっちりできるように、レスアンカーを外すのは絶対やめてくれよな。
他人のレスの内容まで制限しようとするなんて傲慢な奴だな
というか自演じゃね?
レベルが同じだ
自演だろうから、ひたすら無視するのが吉だわな。
>>622>>623 回答どうも、確かに武昌左部督だった諸葛恪は建業に召喚されてたけど、
呂岱が右部督として残ってて、諸葛恪誅殺後も存命だったから、どうにも引っかかった次第。
陸遜一人で担当→諸葛恪&呂岱の分担→呂岱一人で担当→呂拠&呂岱で分担という変遷があったんだろうか。
>>630 え? 目的は中華統一であり、漢帝国復興を名目とした統一政権樹立だろ。
なぜ話をすりかえるの?
>>637 呂岱は、孫権の即位以来ずっと陸遜ともに荊州の政務を仕切ってた潘濬の後任だよ。
本来、武昌は2人体制だと思われる。
>>638 目的は中華統一と置いたとして過程を一切すっ飛ばしたら意味ないよ
戦略ってのは天下国家の帰趨のみならず、各方面毎にあるもんだし
んで北方が南方を制圧するのに有効なルートとしての荊州におけるヘゲモニーは
以降益州を北方勢力に取られないという前提が覆るまでの間
荊州南部を保持する勢力の入れ替わりはあったが、揺るがなかったし
交渉役として諸葛亮が絡んでるので、君の主張する
>諸葛一族はタダの一度も戦略的優位や勝利を自軍にもたらしたことはない
を完全に否定してる
過程も糞も荊州は失われた。
諸葛亮は曹操への対抗策として荊州が要だと訴えたが、呉や魏の攻勢に関羽の死をもって陥落した。
孟達への調略も司馬懿に機先を奪われて芽すら出なかった。
いつ優位を築けたというのだ?
あんなしょぼい国力と人材しかないのに、
曹操や司馬懿ほどの力量がある相手とやりあっても滅ぼされないような国作っただけでたいしたもんだろがよ
優位とは言わんまでも、褒められていいぐらいな勝負したんじゃね?
諸葛亮が無能なら、劉備は荊州で死んでたさ
実際に戦って「天下の奇才」と讃えた司馬懿の評価が妥当だろうよ
それ勘違いしている。
劉備は元々徐州や豫州で基盤つくろうとしていた。
しかし群雄との争覇や曹操の暗殺に失敗して遁走して
荊州に落ち延びた。
そこから立て直すには〜となって三分の計しかねーんじゃねえのと
なっただけの話 このあたり井波律子がかなり以前に指摘していたろ
それと、何度も言われているけど劉備軍団が絶好調だったのは関羽が死に、続いて夷陵の敗戦で荊州失陥が確定するまでの時期な。
劉備が死んでから蜀賊は坂を転げ落ちるようにショボくてどうにもならなくなっていった。 巻き返す目があるとすれば孟達の調略が首尾よくいけたら
というIF過程ぐらいか。 それ以降はもうまったく目が無いだろ。
目があったのに、天下統一どころか圧倒的な戦力を持ってしても、
武力では寸土を切り取ることすらできなかった曹操や司馬懿はなんなんでしょうねえ?
ハナから目がない呉や蜀はともかく、目があったのにできなかったのは恥ずかしいんじゃないかなあ?w
>>645 いよいよ蜀賊厨の化けの皮が剥がれたな。
数多くの群雄を退け、曹操の陣営に身を寄せて官位もらうなら恩恵うけている身で
献帝の密命うけて曹操暗殺の密議ばれて逃走した漢王朝劉氏の名を語る痴れ者が
何をほざくか。
>>646 後漢の正統な後継王朝魏が、蜀が自壊するまで漢中を突破できなかったのはなんで?
曹操・司馬懿の力量に、中原の国力に、数多な人材に、正統王朝としての大義名分で、
無能な劉備・諸葛亮が率いる貧乏な賊を討てば、何十年も雍涼に大軍貼り付けなくても、一戦でカタが付いただろうにねえ
不思議ですねえ
また人格批判と都合の良い材料を使った水掛け論か
>>648 圧倒的な戦力を持った中華皇帝が、しょぼい地方軍閥の分際で皇帝を僭称した賊を、
何十年も放置した理由がそれですかwww
発端は諸葛亮vs司馬慰だったのに、何で蜀vs魏になってるんだい?
もう構うなって。
こいつら待ち合わせでもしてたのか?w
突然の即レス応酬で自演乙としか言いようがないw
>>650 曹操はあくまで漢の臣。 劉備は逆賊だから。
逆賊は曹操の方だろ。
今さら正閏論マンドクセ。
893崩れの傭兵隊長が建国した貧乏国家がどうしたって?
658 :
世界@名無史さん:2011/05/04(水) 20:04:33.36 0
どうでもいいが陸議と陸遜だったら陸遜の方が格好いいよね
いや、俺は陸遜だな。
サムソンっぽいじゃん。
いやいや待て 公明の罠だ
662 :
世界@名無史さん:2011/05/05(木) 07:36:31.69 0
_______
/ | | | | |/|
/ | | | |/| |
⊆ン゙ 、- ''"| ̄| ゙''| <.| | |
/||' | | | || | |
/ ;´ || ,, -O‐O-O 、O .O .O そうはいかんねい!
| ̄| ,,||;; ニ -‐ '''""゙゙"''' 、| _
| l'',;|リ/"''=、,,. ,,=''゙ヽ! ,-v-、
| i^||ミ. <"o.フ. =〈<oフ | / _ノ_ノ:^)
O .(ゝ||ミ. ´≡" |゛≡ ! / _ノ_ノ_ノ /)
||彡 __‐'_ ,ミ / ノ ノノ//
||`彡, 〈__/ ,ミ| ____ / ______ ノ
.||^Y^)"'' 、,,,,,,,,,,,〃゙、|| (" `ー" 、 ノ
ー'/ 'i. ヽ、 ,二ニ/ \ ``ー-、 ゙ ノ
/ 'i、 /\ / > ( `ー''"ー'"
\ 'i," (__) / / \ /ノ
ちくまは「後漢書」「晋書」の完訳を出してくれ
完訳が無理なら「後漢書」「晋書」の本紀・列伝中、
「三国志」にも名前が登場する人物の本紀・列伝だけでも訳してくれ
需要はあると思うんだが
現存する分だけでもいいから東観漢記を
後漢書は吉川忠夫先生の訓注があるからいいじゃん
晋書なら、解体晋書というサイトがあるから助けに行ってやれよ
ただし、東観漢記を本気でどうにかしてほしいのは同意する
原文で読めば?
陸遜流罪みたいな誤訳に翻弄されることもないだろ
自分が誤読することはあるかもしれんが
667 :
世界@名無史さん:2011/05/05(木) 17:24:15.57 0
曹操と司馬懿の簒奪は内容が全然違う。
曹操の場合は、後漢は実質崩壊状態であり、名目的に
皇帝が存在しただけだった。曹操は武略で華北を統一し、
魏王朝の基礎を築いた。ほど独力で一から国家建設をした。
司馬懿から始まる司馬氏は本当の簒奪。基礎が出来上がった
国家を、重臣同士の争いに勝利して権力を掌握した。司馬懿には、
曹操と同じ条件でやったら、国家建設なんて不可能だっただろう。
諸葛亮は、ほぼ資本金ゼロだった劉備に経営方針を持たせ、辺境とは
いえ、一国を構えさせるまでにいたった。その後も東征の大敗を上手く
処理し、北伐ができるまで国力を高めた。数度の北伐でも政権は同様せず、
諸葛亮の死後30年存続できる基盤を残した。
司馬懿の後世の評価が両者より低いのは当たり前だろう。
曹操>司馬懿>諸葛亮>劉備>陸遜>孫権
まちがえた
曹操>司馬懿>諸葛亮>陸遜>劉備>孫権
違うな
曹操>劉備>諸葛亮>司馬懿>陸遜>孫権
671 :
世界@名無史さん:2011/05/05(木) 21:48:31.60 0
>>667 >諸葛亮は、ほぼ資本金ゼロだった劉備に経営方針を持たせ、辺境とは
>いえ、一国を構えさせるまでにいたった。
その程度なら、騙しで一州奪った袁紹の部下の沮授とか、曹操や呂布の部下の陳宮と同レベルだろ。
てか、沮授に至っては、冀青幽并の4州平定を成功させてるのだから、諸葛亮の4倍偉いw
韓馥ちゃんなんて赤子の手をひねるようなもんだろ
周囲の敵の力量を考えると沮授は諸葛亮の二倍くらいじゃね?
673 :
世界@名無史さん:2011/05/05(木) 22:43:02.42 0
いや、ニ袁の争いの頃は、エン州の曹操も袁紹の部将みたいなもんだったから、袁紹は事実上5州持ってた。
劉備と袁紹の元手が同じならそうだろうね
675 :
世界@名無史さん:2011/05/05(木) 22:57:22.15 0
>>674 最初の頃の袁紹も、名声と官位ぐらいしかねーよw
対董卓で関東諸侯をまとめたといっても、あっという間に分裂しちゃってお互いの領土を切り取り始めるし。
袁紹は州牧ではなく、関東諸侯の中ではろくに地力を持ってなかった。
劉備とそんなに変らん。
しかし、袁家の繋がりを考えると……。
いかに袁紹が最初の頃は袁家主流派じゃなくても、そこはでかいところだろう。
租綬って最初期の部下だったんだ初めて知ったわw
>>675 しかし、手駒はたくさんいたよね。
無いのはそいつらを食わせるための領地と兵糧だけ。
679 :
世界@名無史さん:2011/05/05(木) 23:24:13.53 0
>>678 ますます劉備。
荊州で「腿太ったなぁ」と嘆いてた劉備も、将軍の手駒はそれなりにいた。後で諸葛亮も加わった。
>>679 袁紹の手駒は自前の兵持ってるから、全部面倒見なければあっという間に勢力が雲散霧消して再起できなくなる。
その気になれば、一声で大軍を集められるってのが袁紹の力の源だから。
劉備のように自分の兵だけ面倒見たら済むような身軽な身分じゃない。
袁紹はかなり凄い
何というか、俺たちにできないことを平然とやってのける
読み込めば読み込むほどそれは分かる
ただ袁紹と劉備の時代では州を得る難しさも違っだろう
682 :
世界@名無史さん:2011/05/06(金) 01:32:05.54 0
>>667 曹操は漢の臣、司馬懿は魏の臣で生涯を終えた。
簒奪とは何のことですかw?
683 :
世界@名無史さん:2011/05/06(金) 01:39:52.64 0
信長と秀吉の簒奪は内容が全然違う。
信長の場合は、室町幕府は実質崩壊状態であり、名目的に
将軍が存在しただけだった。信長は武略で機内を統一し、
安土桃山時代の基礎を築いた。ほどんど独力で一から国家建設をした。
秀吉から始まる豊臣氏は本当の簒奪。基礎が出来上がった
織田政権を、重臣同士の争いに勝利して権力を掌握した。秀吉には、
信長と同じ条件でやったら、国家建設なんて不可能だっただろう。
三河の徳川家臣団は、今川の人質だった秀吉に経営方針を持たせ、辺境とは
いえ、一城を構えさせるまでにいたった。その後も一向宗徒の反乱や武田の侵攻を上手く
処理し、海道一の弓取りと言われるまで国力を高めた。信長の横死でも政権は動揺せず、
家康の死後260年存続できる政権を残した。
秀吉の後世の評価が両者より低いのは当たり前だろう。
684 :
世界@名無史さん:2011/05/06(金) 03:02:23.29 0
>>682 「み、道行く人だって曹操の心は知っている!」
685 :
世界@名無史さん:2011/05/06(金) 03:24:46.12 0
>>680 >その気になれば、一声で大軍を集められるってのが袁紹の力の源だから
それ反董卓連合のときまでだろ。
一州を得るまでは大したことないよ。
>>324 連合の時に味方した地方長官は手駒じゃなくてただの同盟者だから
手駒ってのは、曹操や周兄弟のように、袁紹の任命で刺史や太守や将軍の称号を受けて、
自前の軍を動かせる奴ら
袁紹によって官位を保証されていた「手駒」と呼べる人物だったのは、
行奮武将軍の曹操
行中軍校尉の史渙
行破虜将軍の鮑信
行裨将軍の鮑韜
ぐらいだろう。
688 :
世界@名無史さん:2011/05/06(金) 10:49:31.80 0
>>687 つまり袁紹はエン州に、曹操、鮑信、鮑韜の3人も手駒を投入したことになる。
袁術との最前線でもあるし、よほど重要視していたのだろう。
689 :
世界@名無史さん:2011/05/06(金) 10:51:26.25 0
呂布と組んで曹操を裏切った張バクって、袁紹の仲間だっけ? 袁術の仲間だっけ?
兄弟二人とも袁紹を嫌ってる風だよね
張?は袁紹と対等の友人で、袁紹の部下の曹操とではそもそも対等の関係ですらなかった
692 :
世界@名無史さん:2011/05/07(土) 04:58:06.10 0
>>691 なんで袁紹派なのに、呂布と組んで袁紹派の部将の曹操を攻撃するの?
袁紹が曹操に「反乱されて辛いだろう。家族をこっちに送らないか」っていってるぐらいだから、まだ袁紹と曹操の仲は磐石。
曹操への攻撃は=袁紹への攻撃になる。
独立でもする気だったのか?
>>692 袁紹を諌めたことから仲が悪くなって、
いつ殺されるか分からないって疑心暗鬼に駆られたんだよ
呂布は李カクらに敗れて都を落ちたが、その後和解して潁川太守に任じられてる。
冀州から故郷の并州でなく、南へ移動したのも任地の潁川を根拠地にしようとしたのだろう。
そんな李カク方の呂布を張バクが客将として迎えたのは、張バクが李カクの擁する献帝支持に回ったからだろう。
だからアンチ献帝の袁紹と対立し、袁紹の子分の曹操に殺されるのではと恐れた。
>>692 対等な友人だから袁紹にも意見を言えるし、
なんていったって名士である以上、袁術側にも当然コネがある
696 :
世界@名無史さん:2011/05/07(土) 13:01:05.89 0
>>694 張バクが献帝支持なら、そもそも袁紹と組んでること自体おかしいやん。
董卓と戦うってことは、董卓が立てた献帝と戦うってことだぞ。
いつの間に張バクは献帝派に鞍替えしたのか。
あと、曹操が思っているほど張バクは曹操との関係を重要視してなかった可能性もあるね
友達少ない人と友達多い人とじゃ温度差出てくるよ
>>696 張バク本人は最後まで反献帝でしょう
内部抗争中に敵陣営の力を借りることもあるのは袁譚の例もあるし
だから曹操は献帝に帰順して正式な州牧にしてもらう手段をとれた
699 :
世界@名無史さん:2011/05/07(土) 13:03:52.67 0
>>695 袁紹に意見を言うのと、袁紹派の部将である曹操の領土を奪い取るのじゃ、まったく意味が違うぞw
それになんだって袁術がでてくるのよ。
張バクの曹操への敵対は曹操の辺譲殺害と袁紹との関係悪化が主な原因
そこに調度よく呂布が流れてきたから決起したといったところ
勿論李カクや袁術が裏で工作した可能性はあるがこの反乱自体は偶発的なものじゃないだろうか
この頃は袁紹、袁術に属す事が有利だったろうが必ずどちらかに付かないといけないという訳でもない
陶謙なんかは孔融と組んで第三軸を目指していた感じがする。
劉備もその位置目指していたと思うけど 結局失敗したな。
呂布の受け入れと献帝の密命受け入れで判断を誤ったか。
司馬懿のように内側から侵食していくやり口もあったろうに
>>699 エン州を曹操の領土と見るのは曹操視点の話じゃないかな
張バクらの視点だと、曹操にエン州を貸してやってんだよ、とみることもできる
貸したものを返してもらっただけ
クリル諸島を日本の領土と見るの日本視点の話じゃないかな
千島アイヌ人らの視点だと、日本ににクリル諸島を侵略されてんだよ、とみることもできる
しんりゃくされた領土をロシアに奪還してもらったと視ることもできる。
>>703 その論法なら、陳留も董卓が張バクに貸してやったものだから、
叛いた後も太守ヅラしてるのは不法占拠だって言えるよね
>>700 ということになってるが政治的な対立は既に反董連合から始まってる
(対立というか曹操の計画に張バクが乗らなかった)
袁紹に殺されかけた張バクを曹操が取り成してたりして政治的に徐々に溝が広がってく
エン州勢力としてまとまって放棄したはずの曹操と張バクなのに(且つ張バクが上役)
曹操がさりげなく袁紹に近付いてるこの胡散臭さ
そもそも手勢を失った時、何で徐栄戦で兵を付けてくれた張バクじゃなくて袁紹の元に転がり込むのか
曹操が袁紹に自分を売り込んでる様子が伺える
郡太守としてならともかくそれ以上の権限が本来ならば全くない袁紹と曹操がつるんで
気が付けば東郡太守として張バクの陳留郡の北側を統治し始めた
さらに数年後にはエン州牧を自称してもうここで従来の上下関係が完全に逆転したことを宣言する
陳留郡という張バクの懐にも当然の如く手を突っ込んでくる
辺譲の殺害を抜きにしても曹操と張バクは利権関係の絡みだけで立派な対立構造持ってるわけで
これを偶発的と言うのはどうかと
むしろこんな爆弾抱えたまま友情という細いよすがを頼りにして実力の近い張バク残して遠征行って
そのまま押さえ込めると思い込んでるこの時期の曹操がお人好し過ぎる
こんなの起こるべくして起こった反乱だよ
読みづらいから、句読点ぐらいつけろとまで読んだ
708 :
世界@名無史さん:2011/05/08(日) 10:39:01.03 0
曹操が張バクに「彼にはボクの家族を預けても大丈夫だよ!」といったのは、
後に「息子を持つなら孫権みたいな息子が欲しいよねー」ってのと同じ意味だったりして。
>>705 董卓の名前出すとややこしいけど、だいたいその通り。
袁紹も曹操も反逆者だという点では同様だから、袁紹は曹操と張バクの和睦を図っている。
後に曹操はわざわざ献帝に使者送って正式なエン州刺史になったし、
張バクの一族は三族皆殺しにされた。曹操が官軍に寝返って反逆者の張バクを討伐した構図。
710 :
世界@名無史さん:2011/05/08(日) 16:14:44.36 0
>>709 >後に曹操はわざわざ献帝に使者送って正式なエン州刺史になった
あれは単に献帝(っていうかそのとりまき)が関東諸将の支持が欲しくて官位ばらまいただけで、
曹操から使者がいったわけじゃないのでは。
>>706 袁紹と張バクの個人的な対立がいつ頃から深刻になったのか
張バクが曹操の下につくことを良しとしていたのか、によるだろう
もともと袁曹張は単純な上下関係では語れない間柄だと思う
実力の差はありながらも昔親しかった者同士の馴れ合いがあって、権力者同士の緊張関係からどこか遠い
712 :
世界@名無史さん:2011/05/08(日) 16:17:39.85 0
>実力の差はありながらも昔親しかった者同士の馴れ合いがあって、権力者同士の緊張関係からどこか遠い
三角関係を華麗にぶち壊したのが陳Q
>>710 曹操の長安への使者派遣は、董昭伝とかショウヨウ伝に記録が残っている出来事
官位ばらまき政策の一環でももちろんあるけど
曹操のエン州牧入りくらいからかな?
三者に上下関係云々の緊張関係が出てきたのは
>>711 官渡の許ユウの動きも、単純な寝返りとは言い切れないのと同じかな
いや、酷い寝返りだとは思うけどw
>>714 呂布への処遇の違いとか、曹操の辺ジョウと王匡の殺害だとか、
袁紹と張バクの間には怪しい要素は前からあっただろうね
717 :
世界@名無史さん:2011/05/08(日) 17:28:11.12 0
>>713 鐘ヨウ伝によれば、曹操が献帝に使者送ったのは、正式なエン州牧任命の後っぽいぞ。
718 :
世界@名無史さん:2011/05/09(月) 02:29:21.76 0
献帝の不支持と新帝擁立を目論む冀州とあくまでも董卓政権打倒を目指したエン州
そんななかどちらにも中途半端についた曹操
と思ったがそれだと董卓が死んでから離反するまで間隔が長すぎるな
袁紹・張バク・それに曹操をエン州に招いた立役者のホウ信のそれぞれが
異なる思惑で曹操を担ぐ、または利用した。
ホウ信が死ぬまでは均衡がとれてたが、ホウ信の死の結果、袁紹と張バク
の利害対立が手の付けられない状況になって、曹操はやけくそになって、
逃げるように徐州攻めに狂奔した
徐州さえ手に入れれば、陶謙に代わり、張バクにも袁紹にも対等にモノがいえる力を曹操は手にする
しかし、曹操は無茶をやったにも関わらず徐州を攻め切れず、
曹操の信用がガタ落ちになったのを見越して、
張バクはより信頼できる用心棒として曹操に代えて呂布を招き入れた
陳宮さんが空気すぎるぞ
曹操が袁紹の部下だった時期って董卓の少帝廃止に反対して洛陽を猿までの一時期にすぎないだろ。
挙兵後、劉虞をかつごうとした袁紹は曹操に忠義にもとるとして反対されてる。
この頃にはそんな管の上での従属関係は解消されていると見て良い。
ましてや張バクと袁紹の対立の頃に曹操が部下だったよしみ云々はなかったと思うのだが。
722 :
世界@名無史さん:2011/05/09(月) 07:35:54.82 0
>挙兵後、劉虞をかつごうとした袁紹は曹操に忠義にもとるとして反対されてる。
劉虞が駄目ならまた別の皇族を担ぐのか、とか、そもそも献帝(を擁する董卓)を攻めたのは曹操も同罪だろう、とかいろいろあるわけだが。
>>721 エン州牧就任までは袁紹の部下じゃね?
袁紹から官位をもらって、袁紹のために敵を討ってる。
>>721 193年の陶謙攻めに袁紹は朱霊を派遣して曹操を援護してる
この時点でいまだ二人は密接に繋がってる
未だ名声の低い曹操には袁紹、張バクの支持、援護がなければ地盤を維持できない
事実張バクに背かれた途端にエン州のほぼ全てが敵にまわってる
曹操が徐州を取れば、袁術派の拠点をひとつ潰せる上に、
エン州と徐州を持つ曹操に対する張バクの影響力も小さくなる
もちろん、袁紹としては、張バクの顔を立てて曹操を徐州に移して
エン州を張バクが好みそうな袁紹陣営の別の人物に任せる(ゾウ洪とか)、
という選択肢も出てくる
曹操はあくまで袁紹の一部将と考えるのが前提だが
>>722 あの仲の悪いはずの曹操と袁術がこのときは同じことを言ってるんだよね・・・。
エン州と名士の支持を失った曹操が目をつけたのが豫州潁川の名士と
献帝擁立による後漢の求心力を得ること
潁川名士は地盤の提供を、曹操は勢力内での高位の約束
後漢の権威を借りたことによって荀攸、鍾ヨウ、王朗、華キンのように曹操より格上の名士を取り込む事が出来た
荀イクが曹操にエン州を地盤にしろって勧めたのは
ホウ信のときとは違い、他人の土地を奪えって意味になるから
物騒な提案ではあるな
エン州の賊を倒せ=献帝を重視ということではあるけど
張バクや陳宮が決起した背景に、曹操が徐州で虐殺をやった事が
影響してるってのはないんだろうか
史料だとそのあたりが明確にはなってなかった気がするんだけど
そんなすぐに伝わって準備できるか?
>>726 袁術は仲悪いんじゃなくて僭称のせいで徹底的に悪役にされてるだけ
洛陽逃走時のエピソードを信じるならむしろ袁術のが曹操と仲良かった可能性すらある
正妻ですらない囲い者に対して「曹操死亡」という情報を教えるという事は
意図が何であれ袁術は曹操の下半身事情に通じていたという事になるからな
>>729 張バクの弟の張超は元々広陵太守だしな
関係ないけど、張バクらの挙兵の兵站を担っていたのが陶謙のような気がしてならない
陶謙が何らかの理由で物資止めたから兵糧が尽きて軍勢が解散した、みたいな感じ
あ、この挙兵は最初の反董卓連合の方
>>731 徐栄に敗れた記録がそれぞれにある孫堅と曹操は当時は共同戦線でも張ってたのかな
>>727 曹操の献帝保護は袁紹の指示でだよ。許遷都は曹操の独断だったけど。
袁紹の指示かなぁ。そう考えられなくも無いけど。
許遷都は曹操個人というよりも、曹操・袁紹両陣営にいる
豫州潁川名士グループの意向が大きいかも
袁紹の判断なら南皮に連れてこさせるだろ。
>>738 袁紹の本拠は南皮じゃなくてギョウだぞ
ゲームじゃないんだから
キ州に献帝を連れてきたい人とそうでない人との争いがあったと見ると興味深いね
連れて着たくない人なんているのか?
普通に考えて漢王朝の権威は使えるし、他の群雄と差をつけるチャンスだと
思うが。
>>740 袁紹陣営で「皇帝が来たら、いちいちお伺い立てなきゃいけないからめんどくさいですよ。やめといたほうがいいです」って意見があった。
具体的に誰の発言?
なんやねんそれ 言いだしっぺがいえよ
>>743じゃないが、確かカク図じゃなかったっけ?
沮授の提案を邪魔したときの。
正史読んでたら気づくと思う。
正史をちょっとでもかじってたら、知らないのがおかしいぐらい有名な話だろ…
献帝擁立派は沮授、田豊 反対派はジュン于瓊
郭図は資料によって違う
正史スレで議論するなら心当たりぐらいはあって良いレベルの話しだね
結局、袁紹がグズだったていうことだろ。
お山の大将でいたいだけだから。
>>736 陳琳の檄文で「献帝陛下が長安を脱したと知ると、すぐさま駆けつけたかったのですが、
逆賊公孫サンが背後を脅かしていた為に自らは動けず、ゆえに従事中郎の徐を曹操の下へ派遣し、
代わりに陛下を保護させたのです。」と述べている。
また袁紹は曹操に洛陽の宗廟の復興を支持しており、劉表は大量の物資を輸送して洛陽再建を支援している。
袁紹・劉表の意図は洛陽復興であったが、自らの影響力を強めたい曹操は献帝の身柄を抱えて、許へトンズラこいたわけ。
>>740 それまで献帝奉じた人は暗殺されたり、勢力が内部分裂したりしてるよ
753 :
世界@名無史さん:2011/05/11(水) 12:55:59.52 0
>>750 >陳琳の檄文で「献帝陛下が長安を脱したと知ると、すぐさま駆けつけたかったのですが、
>逆賊公孫サンが背後を脅かしていた為に自らは動けず、ゆえに従事中郎の徐を曹操の下へ派遣し、
>代わりに陛下を保護させたのです。」と述べている。
ないみたいだが。
贅閹遺醜、本無令徳、?狡鋒侠、好乱楽禍、
鷹犬之才、爪牙可任愚佻短慮、軽進易退、傷夷折衂、
数喪師徒、乗資跋扈、肆行酷烈、割剥元元、残賢害善、
放志専行、威劫省禁、卑侮王僚、敗法乱紀、坐召三台、
専制朝政、爵賞由心、刑戮在口。所愛光五宗。所怨滅三族、
群談者受顕誅、腹議者蒙隠戮。道路以目、百辟鉗口、尚書記期会、公卿充員品而己、
身処三公之官、而行桀虜之態、汚国虐民、毒施人鬼、
加其細政苛惨、科防互設、??充蹊、?穽塞路、挙手挂網羅、
動足踏機?。是以?予有無卿之人、帝都有呼嗟之怨、
歴観古今書籍所載、貪残虐烈無道之臣、於操為甚、
操豺狼野心、潜包禍謀、乃欲橈折棟梁、孤弱漢室、除忠害善、専為梟雄
>>753 それダイジェスト版だから。
文選、後漢書袁紹伝、三国志袁紹伝の注に引く魏氏春秋に全文が載ってるよ。
問題の部分は以下の通り。
會後鑾駕東反,羣虜亂政。時冀州方有北鄙之警,匪遑離局,
故使從事中郎徐勳就發遣操,使繕修郊廟,翼衛幼主。
後に天子の御車が東に還られると,群虜(楊奉ら)が朝政を乱しました。
時に冀州は北方の警(公孫サン)を抱え、これを放置して冀州を離れる訳にはいかず、
故に冀州従事中郎の徐勳を派遣し、曹操に命じて郊廟を繕修させ、幼主を輔佐させたのです。
755 :
世界@名無史さん:2011/05/11(水) 18:52:29.24 0
>>754 てか、袁紹に派遣されたって言う徐勳って本当に存在すんの?
>>755 実在を疑う理由はない。
ただ、この時袁紹は曹操に擁立される献帝を否定せず、奸臣曹操を排除する名目で兵を起こしている。
なので、献帝保護の過程に自分の功績を主張するのは、檄文の性質上当然のこと。
「従事中郎徐勳」の派遣が事実だとして、それでも、献帝保護の方針が袁紹の指示であったと確定するには、
袁紹の檄文だけでは今一つ足りないな。事後作話、または誇張の可能性は十分にある。
漢魏交替の正当性を主張する史書から袁紹の功績が削除された可能性もまた十分にあるわけだけど。
757 :
世界@名無史さん:2011/05/12(木) 21:42:33.00 0
なあ、話ぶったぎって悪いが、
火攻め・水攻め・陥穽みたいな計略って
実際にどれくらい使われてたの?
水攻めならたまに。
火攻めは野戦で陣営攻撃と組み合わせてとか、追撃の補助にとか。
陥穽は創作じゃね?
まあどれも常套手段というほどには多用されてる策じゃないね。
スレチガイになるが、陥穽はササン朝ペルシアVSエフタルで使われていた計略だな。
760 :
世界@名無史さん:2011/05/13(金) 11:59:43.19 0
水攻めは長期間兵力を戦場に貼り付けるので、
よほど兵糧の余裕と輸送能力が高くないと成功しない。
火攻めも、兵糧を焼き払う、街に火をかけるみたいなやり方
じゃないと無いかな。演義みたく、どっかに誘い出して
火をかけるみたいな作戦は難しい。準備しているがばれる確率も
低くない。
759だが、エフタルではなく、ササン朝ペルシャVS突厥だったかもしれない。
たしかペルシャの王様がエフタルだか、突厥の軍に釣られて深追いして
誘導されて穴に落ちて死んだはず・・・。文字通りの陥穽の計って奴だ
俺の知る範囲では国のトップが陥穽の計略でかかって死んだ例はこれしかない
エフタルに殺されたぺーローズ1世じゃないの?
穴埋め王は項羽じゃね
764 :
世界@名無史さん:2011/05/13(金) 20:11:05.91 0
武帝紀では、劉弁が殺害されたのは189年
でもって、曹操は同年冬に董卓討伐で挙兵
ところが、後漢紀では、劉弁が殺害されたのは190年
曹操が挙兵した後に劉弁は殺されている…
これってまさか、曹操が挙兵したせいで劉弁殺されちゃった?
>>764 反乱軍に担がれる危険があるやつを生かしておく理由はない
たとえば俺が中国軍のトップなら、日本占領後止ん事無き方々を と判断する。当然だな。それが世の習いだ。
767 :
世界@名無史さん:2011/05/14(土) 00:28:27.04 0
ハーレムに入れる
徐栄は出身地的に涼州系でも丁原系でもなさそうから、旧何進系の将かな?
何進系とも断定できないが
董卓入朝前から朝廷にいる群臣の一人だろう。
771 :
世界@名無史さん:2011/05/15(日) 01:39:51.06 0
徐栄って李カクと戦って死んだんだっけ?
王允の命で胡軫と楊定と共に李カク討伐しにいったが、二人に裏切られて戦死した。。
曹操と孫堅を破った猛将にしては寂しい最期だね
徐栄の弟の子供が徐庶だよね。
また来たのか
嘘つくなら、せめて同郡出身の人物を持ちだすぐらいのことはしてほしかった
公孫度「俺の事が出てこないなんてな」
同郷といえば劉備と傅士仁って家近いよね
傅士仁は簡雍と同じく義勇兵あがりなの?
>>778 劉備軍は地縁を基盤にした集団じゃないから、
近くの出身だからと旗揚げ以来の部下とも限らないね
公孫サンが付けた部下で、劉備が陶謙に従った際に行動を共にした可能性もある
関羽と不仲エピソードが知られ、反対に簡雍みたいに劉備との馬鹿話がないのが気になるな。
士仁も入蜀に同行しれてば簡雍伝に「士仁は広陽の人で官位は○○で終わった」
とかちょろっと記録が残るような扱いだったかもな。
公安、南郡の要地を任されるってことは糜芳も士仁も頼りにされてたってことでいいのか?
麋芳は義弟だしな兄貴の糜竺は劉備に次ぐ地位だし
士仁は登場したと思ったらいきなり公安の守備を任されるくらいだから
それまで派手な功績をあげてなかったけど昔から付いてきた古参の武将、
義勇兵の頃からいた生え抜きだったらいいなあという妄想が働くけど
不思議に思うのは、赤壁のときは曹操が圧倒的勢力とよく呼ばれたのに
その後の曹操と孫権は互角に戦う構図になってるね・・・
>>783 劉備が古参で気に入ってるってだけの人間に政治や軍事を任せないのは、
縻竺や簡雍や劉エンの待遇を見れば明らか
縻芳も士仁も文武にそれなりの力量があったんだろう。
縻竺は劉備のパトロンだから
寝っ転がって雑談するだけの簡単のお仕事です。
>>784 それまでは淮水の南に緩衝地域もあって、
曹操が主力を集中して他の群雄を各個撃破する勢いだったのが、
赤壁で流れを止められたことで揚州・荊州・関中の三正面に
戦力を分散させられる情勢になった。そのため膠着状態が生まれ、
曹操は関西までは落としたもののその間に孫権と劉備が地歩を固める
猶予を与えてしまい、三国分立に至った。
>>784 赤壁の敗戦以後の曹操は住民の強制移住を強行して国境に空白地帯をつくってる
盧江や武都、漢中などがある
その地の生産力を奪えば敵は攻める旨みを失うから攻められにくくなるが
同時に兵站が苦しくなり長期の軍の展開を難しくする
つまり曹操の天下統一の意志が弱くなってたわけだ
790 :
世界@名無史さん:2011/05/16(月) 16:30:24.57 0
>>789 おかげでトウガイは、まず農民を強制移住させて生産力を回復するところからやり直す羽目になった
792 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 00:09:45.83 0
>>791 いまさら正史正史って、1周遅いよな。
どうせ「政治はすごいけど戦ベタだよね!」というこのスレで100回は書かれた結論になるんだろ。
793 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 00:14:16.56 0
どうせなら、ニセクロやひろおみたいに、後漢書から資治通鑑に至るまでほじくり返しまくって、諸葛亮や袁術への愛を語って欲しいものだ。
いまさら正史正史いうのはつまらん。
今見てる感じだと、孔明は戦下手ではないし人物眼もあるという前提で作ってるみたいだぞ。
ボリュームあるから最後までまだ見てないが、北伐もやるみたい。
宣伝乙
ニコニコで歴戦なんて末期の蜀みたいな状態だろ
無駄な足掻きせずにさっさと潰れろや
人物眼とな
劉備と孔明の馬謖と魏延への評価とかどうするのかね
馬謖は弁明できないだろうが、
魏延は普通によく使われていたってのがこのスレでも答え出てただろ
諸葛亮の人物眼問題ってのは所詮史書の記録の濃淡の問題に過ぎないんだよ。
諸葛亮は劉備の入蜀時から荊州時を統括していたという記録があり、
これは確か魏側の記録だから信憑性が微妙だとしても、
以後、左将軍府事、丞相として、劉備の「相」劉禅の「託孤の臣」という、
人事権に最も大きな発言力を有する地位にあり続けたわけだ。
蜀漢が諸葛亮の死後30年持った以上は、その間の有力者の若き日の
抜擢・昇進の多くに諸葛亮が絡んだのは当然のことで、
後進にとってもそれは箔であり、記録に残される率が非常に高くなる。
逆に失敗人事の最たるものである馬謖のケースでは、
その劇的な性質故に幾つかの逸話が残された。「劉備の遺言」もその一つ。
馬謖の当時の政治的軍事的地位を、おそらく実際よりも過大に評価する要因ともなっている。
こういう逸話の幾つかは創作だろうが、現代からは真偽を見分ける手段に乏しいので
人物眼があるだのないだの余計に振り回される人間が多くなる。
799 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 02:55:41.04 0
孔明の人物眼の見事さは後継人事にあると思う。
800 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 10:18:32.60 0
自分が後継に指名した二人が健在の内は国家体制が揺らぐことが
なかったから、諸葛亮の人物眼は確かでしょ。
劉備の人事も成功したとは言いがたいものがある。関羽に荊州一州
任せて、結局は呉との外交で失敗し、内部融和も上手く行かず、荊州
失陥になってしまった。戦略的には馬謖の失敗より遙かにでかい。
確かに諸葛亮に全て後事を託したのは凄い決断だけどね。
ま、曹操だって失敗はある訳だし、孫権の晩年の失政なんて暴君レベル。
馬謖の一件のみで、諸葛亮に人を見る目がないというべきではない。全体的
には国家にはプラスだったと高い評価をすべき。特に、自分の死後、楊義を
完全に切ったのは凄い決断と洞察力だと思う。魏延は大人しく命令に服せば、
地位は保全された可能性が高いけど、楊義は完全に飼い殺しにする手筈ができ
ていた。
801 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 11:09:28.83 0
諸葛亮の魏延冷遇は演義のイメージだろう。
別働隊を率いさせなかっただけで、待遇自体は功績に見合った
地位を得ている。
功績以上と言っても良いんじゃない。
孫権も壮年期までなら人をみる眼はあるんだけどね
寿命を孫登に分け与えるくらいでちょうどよかったか
804 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 13:29:54.59 0
演義の影響で馬鹿殿扱いの劉禅も、
そうなったのは費イの死後の話しなんだよな。
国力の急速な低下は姜維の外征の失敗、特に段谷の大敗
以降で、国力低下の主因は姜維にあった。
寿命が費イが存命くらいまでだったら、無難に役目を果たした
地味な二代皇帝といったところ。もしかしたら、晩年に有能な家臣
弾圧しまくった孫権より評価が上だったかもしれん。
805 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 14:54:24.37 0
ヒイが諸葛亮の後継者というのは嘘なんだけどな。
諸葛亮が後継者としたのは蒋エンだけ。
正史読めば蒋エンは持っていたけれど、ヒイは持っていなかった諸葛亮が後継者に求めたものが書いてある。
806 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 16:08:08.34 0
直接指名はしなかったかもしれないが、
蒋エンの副となり、次の宰相になる道筋を作ったのは諸葛亮
でしょう。臨終間際に蒋エンの次は費イと言ったのは嘘くさい
けど、蒋エンの次になるよな人材配置にしたのは諸葛亮の影響は
大きいと思う。
「蒋エンの次は費イ」発言の出典は益部耆旧雑記だから、こっちも陳寿本人の記述な訳なんだけど。
808 :
世界@名無史さん:2011/05/17(火) 17:32:10.74 0
>>807 うん、そうだね。だけど、後継者に蒋エンを指名したのは諸葛亮なんだよ。
で、そっちは誰が指名したんだっけ?
>>807 陳寿の時代には既に出来上がっていた話だったんだろ
じゃあ諸葛亮が蒋エンを後継者に密かに指名していたというのも
陳寿の時代にすでに出来上がっていた話だったんだな。
まあ可能性はあるが。可能性だけは。
で、君は史書の何を信じるの?
813 :
世界@名無史さん:2011/05/18(水) 21:28:04.28 0
後継者を蒋エンとし、その副を費イとしたのは諸葛亮の
人事でしょうな。『益部耆旧雑記』みたいな、見てきたような
話しは無かったかもしれないが、蒋エン・費イ体制は諸葛亮の
人事であることは、ほぼ間違い無いだろう。
費イが蒋エンの副になるのは、指名が無くても順当な人事でしょ?
長史の次に偉い丞相司馬なわけだし。
815 :
世界@名無史さん:2011/05/18(水) 21:44:47.59 0
>>812 出来上がっていた話=当時の風潮ということだよ。
この2つを陳寿が書いたから同列で扱うべきだよね、と括っちゃうようなら、それはそれでいいけどね。
ここまで書かなくてもわかる人には伝わるし、書いても伝わらない人には伝わらないから、書く必要は無いんだけれども、書く。
A:内密に上表して、「臣にもし不幸があれば、後の事はよろしく蒋エンにおまかせください」と諸葛亮が述べた
と、陳寿は蒋エン伝の本文に書いた。
B:蒋エンの後は誰に任せればよいかというと、諸葛亮は「費イに継がせればよい」と答えたと、李福が言った
と、陳寿は楊戯伝に記載されている『季漢輔臣賛』の注の『益部耆旧雑記』に書いた。
さっぱりわからんね。
国史に載せる・載せないの規準は信憑性だけじゃないからね。
>>815 もし
>>805や
>>808と同一人物だとしたら、
楊戯伝注の記述を知らずに(おそらく演義の創作だと思い込んで)
「ヒイが諸葛亮の後継者というのは嘘」だとか「で、そっちは誰が指名したんだっけ?」
とかデタラメ吹聴しておきながら、それを撤回せずに
勝手に前提を変えつつ議論を続けているのはとても卑怯だぞ。
>>815 三国志に書いたから信憑性が高いという訳じゃないだろう。
個人的に私撰して終生洛陽の自宅にしまっていた三国志よりむしろ、
司馬炎に献上して秘書閣に収められた益部耆旧雑記の方が
力入れてたかもしれないし。
>>814 丞相長史も丞相司馬も丞相府内の序列で偉いだけで、蜀漢の朝廷ではもっと偉い人が山ほどいたのにな
>>819 しかし、九卿や高位の将軍より、丞相府の高官の方が実質的な地位や権限は高かったっぽい。
諸葛亮死後に北伐軍の指揮権を争ったのは、長史楊儀と司馬魏延。
二人とも後継者を自負してた。
蜀書については陳寿本人のバイアスがあからさまなところがあるからな
諸葛亮ラブだったりお師匠様ラブだったり、同時代の人に対しては何か冷淡だったり
司馬遷のような露骨なえこひいきはしてないよ。
823 :
世界@名無史さん:2011/05/19(木) 09:39:27.17 0
>>817 撤回する気はさらさらないけどね。最初からこういう意図で書いてるのだし。
書いたのは陳寿じゃだろ?謝れ!と感じる人もいれば、どういう意味なんだろ?と考える人もいるってこと。
>>821 陳寿は諸葛亮アンチだと思ってる人も多いよな
総合的に見れば意外に公平な人なのかもな
三国志はマイナーな人物の列伝に曹操の悪口が書いてあったりするから気が抜けないw
つかまあ上に貼られてた動画でも諸葛亮のマイナスイメージって独り歩きしてるし、
陳寿の評の最後のも誤解してる人は多い気がする
>>824 裴注に引用されてる本の偏向ぶりと比べたら、すごくまともだよね。
>>824 それは単純に人物の伝記に、その人物の悪い点や欠点は書くのは避けるという
「春秋の筆法」の鉄則の遵守であって、悪口ではないかと。
それもまた事実であって。
Aという人物の伝記には、Aという人物の欠点はなるべく書かないけど、
Bという人物の伝記には、Aという人物の欠点を忌憚なく書くようにする。
という原則があるのよ、中国の史書には。
>>823 だとしたら君は日本語能力がおかしい
考える考えない以前に、史書の記述を間違えて記憶していたのに改めないんだから。
鐘ヨウは本人の伝だと温厚篤実な名臣なのに、衛覬伝だと関中大乱を招いた原因扱い、
毛カイ伝じゃメチャクチャ性格悪い酷吏のような奴と落差が激しい。
鐘ヨウは人柄は温厚篤実だとしても
立場的には法家のスペシャリスト。
なので毛カイ伝の記述とは背反しない。
関中大乱を招いた件についてはなんとも。
石井仁の「魏の武帝」ではさらっと「あれは敢えて大乱を誘発させたもの」的なことが
とくに説明もなく断定的に書かれていて驚いた記憶があるのだが、どうなんだろう。
俺も「誘発説」ではあるんだけどね。
軍閥跋扈してる関中を放置して張魯や益州の討伐なんかそもそも出来ない気がするし。
軍閥跋扈と言ってもそれは当面服従していたわけだ。
朝廷の統治が長期化して、また曹操政権が安定化すれば、次第に手懐けることができる。
曹操が弱体、または自分達の利害と反すると見れば造反するにしても、
理由なく好んで反乱するわけではない勢力群。
反乱誘発というのは大敵が滅んだあとの安定期に向けて仕組まれるのがセオリーであって、
劉備・孫権と益州争奪のスピード勝負をしていた時期にあえて足踏みをするような計略をたくらむだろうか。
逆に張魯討伐に関中軍閥を動員しようとして厳しくしすぎた、って方が自然な成り行きだろう。
毛カイ伝の鍾ヨウの言い分は厳しいが漢代では儒学的に普通の論理。
ここでは毛カイを告発した証言が真実かどうかが争点になっていて、
鍾ヨウ自身はおかしなことは言っていない。
ここはユニコード文字使えないの?
曹操政権の河北制圧後は概ね光武帝の統一戦略
(南進(荊州)→東進(揚州)→西進(隴西・巴蜀))に依ってるから、
急激な叛乱によって光武帝の統一を遅らせた関隴地域の軍閥のことが気にかかるのは当然の帰結。
更に言うと、曹操政権の場合「非劉氏にして天下を狙う」という、
隗囂とも共通のバックボーンを持っているから、「竇融」たり得る存在も気にかかる。
竇融は「異民族を単独で撃退し、異民族に畏怖されていて、漢の外戚出身」という人間。
後漢末の馬一族と全く同様の背景を持っている。
また双方とも「当面服従」していたが、隗囂は光武帝、竇融は隗囂の動員令に背いたという共通点もある。
新末後漢初の戦訓を顧みれば、光武帝にとっての隗囂であり、隗囂にとっての竇融でもある、
曹操にとっての馬一族は出来る限り排除したい。
そういった面で関中の反乱誘発は、むしろ戦略上の必要に沿ってるといえる。
蜀を望むには、隴を得なければ話にならんのよ。
>832
使おうと思えば使えるけど、いちいち書くのがめんどくさい
時機として適っているだろうか、という異論と
大戦略からすれば計画していて至極自然だという意見
かみ合ってないな
>>833 曹操が赤壁に勝っていれば、「統一戦略」路線に乗って、反乱誘発・平定ということも有り得ただろう。
史実はそうではなくて、隴蜀より遥かに大きな敵が200年前より豊かになった荊揚に割拠していた。
光武帝とは状況が違うのだから、史書の証言無しに、勝手にそれに反する光武帝モデルを想像して
当てはめてはいけない。
普通に「史書の記述を信じる」でいいだろう。
まあそもそも荊州併合から赤壁までの流れがなんか急だよね
>>837 賈クの漢水南域保持の献策に対する裴松之の批判を読むと、
本当に南朝の人間かと突っ込みたくなる。
839 :
世界@名無史さん:2011/05/20(金) 20:58:55.44 0
荊州の保持と、惰弱な劉璋を降して益州を獲得すれば、
いずれ孫権は降伏だし、劉備にいたっては、せいぜいベトナム
方面に逃走できたかくらい。
戦略家の曹操にしては、勝負を急ぎすぎた為に、周瑜・魯粛と諸葛亮の
狙い通りの展開になってしまった。
賈クの建策以外で、曹操の東下が孫権攻撃が目的だったという話はない。
(賈ク伝でも微妙に明言されていない)。
曹操からみれば、当時「東にいる敵」というのは劉g・劉備の夏口軍だった。
孫権に対しては帰順を要求する威圧の文書を送ったが、孫権からの返答は無い状態。
それにも関わらず曹操が先に動いたのなら、赤壁で遭遇戦というのはあり得ない。早すぎる。
順序として、孫権・劉備の連合が為り、周瑜と劉備が荊州への逆進急襲を始めた後で、曹操が東下したことになる。
つまり赤壁会戦というのは劉孫連合の攻撃への急遽迎撃作戦だったか、
夏口攻撃のつもりの東下の途中で遡行してきた劉備周瑜の攻撃を受けたかのどちらか、という戦闘になる。
赤壁は、魯粛・諸葛亮から始まる、荊州内部まで侵攻して曹操軍を積極的に駆逐する、という大胆な逆撃構想を、
曹操が読み切れず敗北した、というものであって、曹操側から揚州へ侵攻しようとして敗れた、というものではない。
まああの状況で曹操が揚州まで行こうとしてたとしたら正気じゃないよな
孫権の進撃を読めなかっただけなら失態ではあってもキチガイではないが
あまり関係ないが、赤壁時に「劉備との戦いは不利であった。」との言及は具体的にどう不利だったんだ?
客将にすぎない劉備との戦いなどさして実害はなかろう。 蜀出身の陳寿が大げさに言っているだけで
実際は魏呉の戦いで劉備とは分隊のごく一部がちょろろっと負けた程度じゃないだろうか。
二万の兵を擁してた劉備と曹操が分隊の一部程度しか交戦しない程度のぬるい戦いしかしてなかったら、
曹操の圧力が全部周瑜にのしかかって、曹操が退却するまでもちこたえられなかったと思う
>>842 当時の劉備について色々と見誤ってると思うよ
劉備の総兵力は当時、劉g軍1万と関羽の1万(諸葛亮の弁)。
周瑜(と程普)が孫権に任させられたのは2万(建康実録)。
劉gの夏口を空にしたとも思えないが、それでも見劣りする兵力じゃないだろね。
武帝紀などで、陳寿は、当時の主敵、劉孫連合の主体を劉備として描いている。
「劉備を攻撃しに東下したが、孫権の援軍を迎え入れた劉備に撃退された」と。
その実相はまた別に検討する必要はあるが、
ともあれ「劉備と戦い利あらず」は劉孫連合軍と戦って利がなかってってことだ。
劉備部隊との局地戦を言ってるのではない。
曹操と孫権はあの赤壁までは緩い同盟状態
孫権の黄祖攻めも張遼を派遣して別方面からの攻撃で支援してるし
「呉会で狩りでもしようぜ」ってのは結構マジで一緒に遊びましょう程度の意味くせぇ
というか孫権は200年に当主となって以来、一貫して献帝を支持し勅命を奉じて
逆賊劉表と戦ってきた江南一の親曹操政権。
劉表は洛陽復興に金出しているだろ 逆賊じゃねえよ
その時点では輔漢の臣だっただろうけど、198年に袁術諸共逆賊認定受けてる。
曹操と同盟というがなら逆に何故赤壁で敵対の道を選んだんだ?
親曹操なら大人しく劉備を殺しておけばいいだけの話
臧覇、陳登、馬騰と曹操に従った有力勢力はある程度地位を守られてる
その後、朝廷勢力が曹操と袁紹の2グループに割れた訳なのだが。
内実はもっと以前から割れていたけれど。
>>850 孫権にもある程度の地位に甘んじたくないくらいの野望はあったのだろう。
馬騰謀殺されて一族ほとんど皆殺しうけているじゃん 地位守られているってどこの平行世界の話なんだよ。
劉表逆賊説についても突込みどころありすぎ 息子の劉ソウふつーに曹操に下った後青州刺史で暮らせているし
>>853 馬騰は衛尉・槐里侯で、馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉。
曹操に降った軍閥の中じゃ、最高級の待遇だ。
馬超が独断で反乱おっぱじめなかったら、馬騰一族は宮廷貴族として繁栄しただろうよ。
>>851 >その後、朝廷勢力が曹操と袁紹の2グループに割れた訳なのだが。
そんなのあったっけ?
856 :
世界@名無史さん:2011/05/21(土) 11:27:49.18 0
ぶっちゃけマジレスで
正史なら
1国がしょうとく時代の日本のほうがいたんじゃねーのくらい人口いて
1国300〜500万とかしか人口いないんだよな。
軍の装備、戦闘、派兵規模もマジでそんくらいしかないし、
総軍50万なんておそらくフィクションか完全なふかしで、軍事行動はほとんど数万とかのレベル
ぶっちゃけ、その200年くらいあとの日本でも数万以上の軍隊なら動かして
日本のほうが派兵規模上なんじゃねーの?くらい
また、工業生産力、社会水準、分度もはてしなく低くて
日本のほうがたかいんでわ?ていうか、鉄の武器つかってたのか?くらい
金融もまだ実質的に貨幣がないしね
科学技術、社会水準、日本のほうが高いだろレベルだよ。
ぶっちゃけ当時近隣だとマレー系のほうがはるかに水準上
ぶっちゃけすぎ
>>856 君、漢vsローマスレにもいたけど意味不明
>>854 馬騰一族が曹操に取り込まれたのを見てから
韓遂は自分じゃなくて馬超をリーダーに仕立て上げて
曹操に馬騰をぶっ殺させるというウルトラCをやってのけた
馬超の独断じゃなくて「俺らのリーダーは馬超だ!」って言いながら
他の連中が蜂起したわけだ
でもそれだと韓遂の一族郎党も連座して皆殺しにされている件は同説明するの
たしかに馬一族のほぼ壊滅に成功はしているが、韓一族もほぼ皆殺しにされて
最後は自分も潰されているだろ。
>>846 曹操は「君の実質支配してる領土に公称水軍80万で乗り込んでいくから今度一緒に狩りしようぜ」
って言ってる。
どこが「結構マジで一緒に遊びましょう程度の意味」なのか。
それまで親曹操だろうが反曹操だろうが関わりなく、軍事威圧を背景にして
朝廷一元支配への服従を要求している通信だ。
最近多いんだよね
やたら袁術大好きな某を読んでそのまま持論のように語る奴とか
霊帝を必死にプッシュするやつとか
某が好きな袁術論の方は知らんが、
今の学会では、霊帝期の政治軍事改革は
魏晋南北朝にいたる制度変化を先取りする面が多々含まれると位置づけされているよ。
だからと言って霊帝個人が賢君だとか言い出したら注意信号だが。
袁術は謀略だけは一流
寿春って一大都市だと思ってたんだが、曹操の末期あたりから
合肥への中継点ぐらいの意味合いしかないように感じる。
合肥という防衛拠点があるなら、寿春あたりは大きく栄えても良さそうな気がするんだけど。
寿春に民とか兵がいたら、呉や荊州に兵送りやすそうじゃん。
ダメなの?
866 :
世界@名無史さん:2011/05/21(土) 20:12:20.74 0
>>861 曹操の人望のなさが異常なだけ。
揚州に行っては孫権に反旗を翻させ、
涼州に行っては馬超に反旗を翻させ、
ついでに劉備に益州をゲットさせちゃう。
速攻で降ってくれたのは荊州だけ。
袁術といえば演義のイメージが大きいが劉寵を謀略で殺害したりと決して無能じゃないんだよな
根拠地が董卓の攻撃、蝗害、水害といつも最悪の環境であれだけ戦えたのは凡人にはまぁ出来ない
根拠地を失った後建て直した曹操や流浪の末最後まで生き残った劉備と比べたら確かに無能だが
異常でもなんでもないだろ。
袁紹・袁術は十常侍を一掃していることからも分かるように宦官を憎んでいる。
曹操の家系は宦官の養子の系譜。
他の群雄も似たり寄ったりだろう。誰があいつの下で禄を食むものか
死んだ方がマシというのがいくらでもいた。
司馬懿も当初仮病を使って仕官しないで済むようにしたぐらいどれほど士大夫階級の間で
嫌われていたかわかろうというもの。
>>866 妄想に妄想を重ねて無様なものになるといういい見本だね。
曹操の人望云々など持ち出す前に、曹操の孫権への通信が友好的なものだったという根拠でも見せたらどうだい?
中国では「共に狩をする」は「戦場で雌雄を決する」の修辞なのだが。中原に鹿を追う。
劉備は土地の人間でもなんでもないからな。どんだけ尻まくって逃げようが別になんともない
だから徐州も平気で捨てて逃げた。
そういう「逃げられる」強み「失う物がない」強みというのが劉備の長所というか、戦略に幅を
持たしているところだな
まずくなったら曹操に降伏して禄を食むことすら平気でできるし、同じ口で献帝から誅殺の勅を
受けることもできるそういう人間。
袁術にはそういう事は出来なかった。その差だよ。
後漢後期の官僚豪族名士の間では宦官を容認する人間の方が多数派。
だから政治問題になり、「清流派」形成の呼び水になった。
清流派とはつまり少数野党であり、霊帝の死後まで輿論を主導したことがない
非力な勢力だった。
>>870 袁術は出身の豫州を本拠にしたことが無く、前期は荊州、後期は揚州に割拠した人物。
韓遂も孫権も一旦は曹操に従属姿勢を示しながら後に反乱、独立してるのは面白いな
曹操の何が気に入らなかったのか、それとも天下への野心か
韓遂に関しては裏切られる可能性を指摘されながらそれをスルーしてるし、
関中諸侯が集結した時は一度に倒せると喜んでるから曹操の方が韓遂を駆逐したかったのかもしれんが
妄想でもなんでもなく群雄と争覇している頃の曹操軍閥に人望がなかった
これ事実ね。
>>871 十常侍が袁紹・袁術に粛清されて以降はそんなもの全部吹っ飛んで本音が出ている。
なぜ司馬懿が曹操に仕官するのを拒んだんだろうな。
許昌移転の件にしても劉表や袁紹といった出自が明白な名門の横槍を嫌ったからだし
>>873 玉なし野郎の養子の禄など食めるか!祖霊に申し訳が立たないわ!
儒教国家である漢王朝では天下争覇の時代になると本音がむき出しになるの当然だよね。
>>873 単に曹操の力不足を読み取ったのだろうね。
後漢後期の混迷から一応は中原を収拾したものの、
曹操の勢力基盤は劉秀などとは比較にならないくらい弱かった。
それだけ国土が疲弊していたから。
曹操が堅調に勢力を広げて自分の勢力圏を飲み込むなら早めに従うのが得だが、
それが無理なら地方政権を維持したほうが得、という野心も起きるというもの。
孫権はその見切りに成功し、韓遂は失敗した。
>>874 曹操に「人望が無い」とするなら、疲弊した民衆を取り込んで地域に根を張る
豪族・軍閥の力を削いで中央集権を図る法家の酷吏型政治を敷いたから。
宦官云々とはほぼ関係ないよ。
だって曹操は、大宦官の孫として孝廉コースに乗り、黄巾や宦官誅殺の時代を経ても
一貫して袁紹派有力者として振舞い続けるのだから。
動乱の世に劉氏ではない宰相が政権を牛耳るのだから、先読みしてはせ参じる者、
様子を見て引き篭もる者と分かれるのは当然。
無論漢室に忠誠で魏国に仕えるのを拒否した者もいるだろう。
やはり宦官とは関係ないね。
>>876 そうだとしたら孫権の見切りの絶好のチャンスは烏丸討伐にならないか?
主力は遥か北方、トウトンとの戦いも張遼の奮戦がなかったら危なかったくらいだ
劉表と泥沼の戦いを想定していたのかもしれんが
当時の人物評価は、家系の賎しさを個人の人品や交流関係がしばしば覆した。
曹操は任官直後に、酷吏として名を轟かせた橋玄を訪問して評価を受けている。
また、何ギョウ・袁紹といった清流派と通交した。
こうして早くから、自分の「脱宦官」カラーを作っていったわけだ。
袁紹も同じく、清濁両方に権勢の軸足を置いた袁家に生まれながら、
黨錮に反抗して抵抗活動を行ったり、洛陽で侠客を養ったため、宦官に憂慮され、
袁隗に叱責された。
二人とも、出生自体には誹謗の余地のある身の上でありながら、
自分の品行(という政治活動)で地歩を築いた人物という点で共通しているね。
>>878 そんな速報性は無いし、烏丸に攻め込まれたならともかく曹操が攻め込んでいるわけだから、
そこで反旗を翻しても得が無いだろう。
孫権は曹操に取って代わって積極的に中原を占領するような野望があったわけではないから。
若い頃ならなおさらで、自分の基盤を固めるのと対劉表戦線とで手一杯。
お陰で荊州を取られて手遅れになるところだったが。
>>677 わかりました。すべてわたしがまちがっているといいたいのですね。
嫌になりました。全部あなたが正しいずっとひとりで意見を書いてくださいでは。
袁紹はその点プロパガンタで勝ってたな
>>882 正統派ヒーローの貫禄があるわな。
官渡までの袁紹と曹操の事跡だけ比べたら負けるのが信じられないくらいだ。
884 :
世界@名無史さん:2011/05/21(土) 21:57:18.23 0
このスレもこの程度だから紫電Pも安心して動画作成に取り組めるねw
そんなに自分を卑下するなよ。良いこと無いぞ。
自分を高めるために努めなさい。
>>860 はて?韓遂の家族について詳しい情報なんてあったっけ?
うぃきみろ
張既伝注魏略。
ちなみにここでは、反乱を首謀したのは馬超をはじめとする関中諸将で、
韓遂は留守中に祭り上げられている。
結局韓遂は決起を承知し、子と孫が殺された。
精々人質に送った子供とかだけだろ
「一族郎党連座」と
>>860にあるのだが、郎党に定義されるような連中が
全員連座して殺されたとはどこにもないのだが
だから詳しい情報なんてどこにあったかなーと聞いてるんだよ
そうだね。
>>860の「一族郎党」は言い過ぎだろうね。
でも今の本題である蜂起の顛末と人質誅殺での「韓遂の家族について詳しい情報」には違いないし、
少なくとも
>>859が史書に反すると判断するには十分だろう。
ただの子供では一族の中心的な子供なのか
死んでも気にならないようなのかよくわからないじゃない
詳しくもなんともないよ
曹操も袁紹も孫権も在地豪族や名士の扱いに苦労してるのに劉備にはあまりそういう話がないな
盧植、鄭玄との面識に始まり行く先々で動乱に飛び込んだり火種になったりしてるのに
公孫サン、孔融、陶謙、曹操、袁紹、劉表といずれも厚遇されて、いつの間にかその勢力内の名士達から高い評価を受けている
はあ。だからなんなの。魏略を全否定して真逆の説を唱えでもしたいの?
そこに突っ込むなら初めから
「はて?一族郎党なんて情報なんてあったっけ? 子と孫なら知ってるが」って言えば他人が余計なレスしないで済んだんだよ。
「そうだね」で済んで終わったんだから。
>>893 「詳しい情報」の有無に対して間違ったレス返してるからそこ間違ってるよって言っちゃダメかね?
言葉遣い程度に対して反論するなら、意味すらたがえてる方はもっと批判するべきじゃね?
>>892 客将として歓待されるのと、支配者として苦労するのとは同列に並べられないだろう。
支配者としての劉備は、荊州では曹操への不満、益州では劉璋への不満を抱える豪族や名士を吸収して力にした。
劉備本人が「武勇と信望」の人だったこともあり、ボロが出る時間がなかったこともあり、
益州が豊かな土地だったこともあり、劉備時代には戦時募兵に頼ってもいて、豪族の力を削ぐ集権化が進んでいなかったのだろうこともあり。
色々複合しているだろうな。
>>894 そこは賛成してるだろ?
他人の俺が認めてもしゃあないと思うが。
まあもう一度言っとく。
「そうだね」
>>896 してないしてない
>>890で言う子供と孫が死んだ事が詳しい情報であるというのはどうかと思うよ
それが「韓遂の家族情報でわかってる事の全て」としたって
詳しいかどうかとはまったく別問題
詳しくはないものを詳しいとしているので君は賛成してない
>劉備本人が「武勇と信望」の人だったこともあり
袁術しか追い詰めてないだろ? 呂布や曹操に降伏再度裏切るってのは
あまり信望の対象にならないと日本人は思うものだが、大陸はちがうのかな
>>897 そちらが勝手に期待した、本題から外れた「詳しい情報」がもらえなかったからって、そんな噛み付かれても困るなあ。
>>859-860の経緯から必要な詳しい情報というのは、韓遂の家族(一族郎党は誤りで子孫)が許都に存在して処刑された
かどうか、その真偽と詳しい顛末だろ。
で、その情報はかなり詳細に魏略に載っている。
>>886は、一族郎党と聞いて、「韓遂の兄子の○は若くして叔父に付き従い……云々」みたいな情報の羅列を
期待したのかもしれないが、そんな期待など
>>859-860の流れを読んでる人間にはテレパシーできないよ。
三族皆殺しにされた家があったとして、処刑された一族の詳しい生涯の情報が残ってることなど稀なんだから。
涼州で殺戮された馬超の一族郎党だって一人も名前さえわからないだろ。
>>898 日本も同じだよ。
最上義光なんかは名君と評価されてるだろう。
群雄割拠の出し抜き合いと、民衆臣下の待遇は別。
劉備は軍閥をよく治めて組織する勇将として群雄達に評価されていた。
武勇においても、対曹操の南陽戦線や益州攻略の獅子奮迅振りを見れば、
劉備軍の主力の将は劉備自身だったことがわかる。
許都まで数十キロの距離まで突っ込んだり、周り一州全部敵という状況
(しかも険阻な益州)で味方を増やしつつ前進できる人間なんだぜ。
>>899 そこまでは求めないけどせめて殺された人間の嫡庶くらいわからんと
韓遂にとってどこまで重要な人質なのかまったくわからない
「詳しい情報」は「家族」の詳しい情報であって「殺され方」の詳しい話しじゃないし
略歴までは求めちゃいない
ただ韓遂の一族の中のどんな奴かはまったくわからん
>>901 本題に関わり無い部分に延々粘着して何がやりたいのかさっぱりわからないので、
殺されたのが韓遂にとって重要な係累ではなかった、と想定して本題に戻ろう。
その場合、
>>860や
>>888の信憑性を否定できるのだろうか?
>>859を立証できるのだろうか?
韓遂にとっては全然メリットないんだよなあ
担ぎ出し説で馬超に罪をかぶせたにしては韓遂の人質皆やられているから
全然曹操を騙せていない。
>>859はおそらく、韓遂は馬騰らを殺させて関中での馬氏の勢力を弱め、
自分の支配を伸ばそうとした、ということを言いたいのだろう。
だから見捨てられた「韓遂の子と孫」が重要な嫡子かどうかを、大きな問題としている。
馬超らが首謀という史書の記述に真っ向から反する上に、
韓遂が首謀というのは「軍師型の黒幕・知恵袋」という創作的なイメージ以外に根拠が無いと思うけど。
いざとなったら見捨てても痛くも痒くもない人質なんて、取る価値ねえわw
三国時代でも、だいたいは嫡子か親を人質に出してるし。
韓遂が留守中の馬超の暴走でしょう
って
>>888にもうあった
馬超が「俺は親父を見捨てるから、あんたも息子見捨ててよ。今日から俺の事息子と思えばいいじゃんw」
って言ってるあたり、人質に出した子以外、韓遂の子はいなかったように思える。
そもそも、馬氏が皆殺しにされているのに、韓氏もどうでもいい師弟だけ殺されたという考えはおかしいよ。
嫡庶が不明だとかそんなの些細な話で曹操の性格考えると全殺ししか無いだろ。張バクとか徐州虐殺とか
献帝ですら、妊娠中の皇后をはじめ側近の大半を連座で皆殺しにして逃げられたの劉備ぐらいだろ。
そういう意味では曹操の方針一貫してる。
馬氏が夷三族されてるから、たぶん韓氏も三族根こそぎ殺されたはず。
911 :
世界@名無史さん:2011/05/22(日) 15:03:37.21 0
>>905 諸葛誕は呉に「末子」の諸葛セイを人質におくっているが・・・・・
>>911 諸葛誕の正妻や嫡男を含むあらかたは、当然洛陽にいる。
夏侯淵の例を見ても、年少の子なら赴任地へ同行して手元に置くことができる慣習があったのかもしれない。
トウガイだって息子と一緒に従軍している。
年は関係ないんじゃないか。
トウ忠の年齢はわからんし嫡子とは限らない。
父の幕下で共に戦った子というと、文鴦や胡世元と未成年者が多い。
漢代には出征する将の妻子を京師に留め置く慣習があり、魏以降も変えられた様子は無い。
また、高官の子は任子として宮廷に招聘し、これも人質の役割を負ったため、
子の青年時代は朝廷の手の内にあった確率が高くなる。
もちろん、それ以後独立して家を構えて出世すれば、一将として父と同じ方面に配属されることはあるだろう。
段谷の戦いの功績でケ艾の昇進と同時にケ忠が亭侯となってるので、
成年した嫡子の可能性が高いね。
他の子、孫や妻が洛陽にいたことも判明してるから、
ケ艾と嫡子を出したという形ではなく、70過ぎてて万が一の怖いケ艾に、
武門の後継者兼補佐役としてケ忠を付けて、双方から人質取ってたと考えられる。
上でも述べたけどケ忠は亭侯だから独立した一家を構えてた可能性もあって、
>>914の言う通りなだけかもしれない。
>>909 一家の長が曹操の手元に出頭してる馬氏とそうでない韓氏では政権との関わりも自ずから異なるだろ
韓遂も後漢末期は自分が顔出してるけど曹操に対してはそうではなかった
韓遂は曹操と旧知の中で、馬超蜂起時にも涼州まで出征していたが
これも曹操(朝廷)の命を受けてのことだったろう。
かかわりが異なるだろって だから何? 馬超を出汁につかって反乱起こしても
一族皆殺しにされている結果は変わらない。韓遂に馬超を出汁に使うメリットどこにもないだろ。
一族皆殺しと家族皆殺しでは意味が大分異なるけど大丈夫?
>>855 袁術が死ぬ辺りまで、表面的には袁紹と曹操は同一陣営だっただろ?
曹操が献帝を迎えたことで実質崩壊しちまったけど。
>>920 朝廷勢力が割れたというところが分からない。
曹操は献帝を迎えた直後に朝臣の大粛清をやってるし、
二派に分かれたというところが分からない。
あと、夷三族とか言いながら皆殺しになってないケースが結構あったと思う。
皆殺しになっていないケースというのは先程の諸葛誕の場合、
司馬家に嫁にいった諸葛家の女1人だけだったよ。
韓遂や馬一族はそういう事情無いでしょ。
>>919 この辺は日本の方がずっと厳しい。別所家、九戸家、長宗我部氏
などは文字通り三族皆殺しになったからな。明智家も玉以外は
生存を許されていない。
漢人と言いつつ雑胡のような状態だった馬氏の親族とかどう広がってるかわからんけどね
926 :
世界@名無史さん:2011/05/23(月) 00:22:48.79 0
>>924 三族皆殺しって、祖父の代までさかのぼって男系の男とその家族全部殺すことだろ。
長宗我部は盛親直系が壊滅しただけで、吉良親実、長宗我部康豊が残ってるじゃん。
>>925 外戚だから皇室とも袁氏とも繋がってるぜ!
そもそもその前に袁術も袁紹も滅亡してるけど。
いつまで負け惜しみいってんだろ 馬氏も韓氏も殺されて馬超衰退は韓遂の陰謀論は
明らかに破綻しているから。
中国は氏族の力が強いからなぁ
それこそ根っこから掘り起こしておかないとまた敵がでてくる。
中国ではそれこそ三族で一個の勢力なのだ。
日本は違う。親子兄弟同士で源平のころから争い合ってきたのでせいぜい親子、嫁はん程度まででよかったのじゃよ。
豊臣秀吉や徳川家康も、信孝は切腹させても茶々ら浅井3姉妹とか信雄とか結構織田一族生き残っているもんな。
家康も男系は滅ぼしたが、天秀尼は助けている。 寧々の一族、木下家もフツーに明治まで足守藩で生き残ってる。
張バクの反乱で曹操があいつは大丈夫と思ってたら裏切られて
「北は匈奴、南は交州まで絶対逃がさない」といったのってだれだった?
935 :
世界@名無史さん:2011/05/23(月) 23:11:29.12 0
>>933 だいたい秀頼の息子も助かったじゃないか
さすがに出家はしたけど
>>934 魏チュウだろ。
河内まで逃げて、張楊が滅んだ時に降伏して、
赦されて河内太守に起用された。
>>935 子孫は残ってないだろ
外戚の木下は残ってるが
劉備は陳羣を召抱えなかったのは何故なんだろう?
秀頼の息子?六条河原で処刑されたよ。
>>938 劉備によって陳羣は豫州別駕に任命されたけど、これは豫州刺史の属官であろうから
劉備が徐州に移れば付き従う義理は無し。
でも陳羣が劉備に徐州に行くなと進言した話って信憑性あるのだろうか。
豫州だって同じく係争の地だし。
それに結局、陳羣も豫州から徐州に逃げてる。
理屈をつけて劉備に出て行って欲しく無かったってことだろ
なるほど。
劉備が出て行って豫州は安定せず、陳羣親子も疎開せざるを得なくなったわけだ。
>>935 眉唾な落胤説とかを無視するなら、
出家して生き残ったのは娘
袁ショウには優秀な人材が多かったけど
袁術には勢力が大きい割には人材は乏しかったんですか?
ある意味では孫策ぐらいですか?
本拠地を失い転々としたことも人材不足の原因ではないだろうか
称帝しちゃったから、袁術仕官という経歴が黒歴史になったから
と、某サイトのようなことを言ってみる
袁術に忠節を守った臣はもう仕官できず歴史に葬られ、
のちに魏などに仕えた臣は「あれは袁術に無理矢理従わせられたんですよ」と言い訳する以外に政治的に生き残る術は無い。
948 :
世界@名無史さん:2011/05/25(水) 22:09:09.24 0
カッキーンとか王朗とかな
王朗もカキンも違うだろ。
>のちに魏などに仕えた臣は「あれは袁術に無理矢理従わせられたんですよ」と言い訳する以外に政治的に生き残る術は無い。
こんなのいたっけ?
袁渙・徐キュウ。
変形として、
「馬太傅に見込まれて節の権限で官位貰ったんです」 →当時節は袁術の意のままじゃなかったけ?
「袁術は正式に朝廷から将軍位とか貰ってるって言ってました。それが嘘だなんて知らなかったんです」 →んなわけねーだろ
みたいなのもある。
政治的処世術として正しいよ。こういう言い抜け自体は全然責められるようなことじゃない。
袁渙は言い訳がましいことなど言っていない。
だいたい彼はリアリストなので、袁術に従ったことを恥だとも思っていないだろう。
徐璆は袁術に屈服しなかったことで後漢書に伝まで立てられてるし
それがウソとも簡単には思えない。
嘘か本当かはそんなに重要ではない。
重要なのは、袁術陣営から鞍替えするには、袁術に仕えた意思を否定したり、「袁術じゃなくて別人に官位を貰ったのだ」などと
方便を使うしかなかったということ。僭称皇帝に仕えた過去というのはそれだけ重いし、
進言や功績があったとしても書かれない。
袁渙の場合もっとあからさまで、時期から言って彼は皇帝袁術に仕えている。
しかし史書はそれを無視して美点ばかり残している。
それを「リアリストなので、袁術に従ったことを恥だとも思っていない」なんて、
儒学的素養のある人間に対しては酷い侮辱だね。
顧雍とかも袁術の下で県長歴任してたみたいだな。
>>954 その時期が不明なんだよね
陳温とか陳ウの時代だったかもしれないし
孫権とは近しくなっていたことは間違いなさそうだけど
孫策との関係も今ひとつ分からん
>>953 >嘘か本当かはそんなに重要ではない。
重要。
>袁術陣営から鞍替えするには、袁術に仕えた意思を否定したり、「袁術じゃなくて別人に官位を貰ったのだ」などと
>方便を使うしかなかったということ。
この辺りの議論は精密にしないとダメでしょ。
袁渙は仕えた意思を否定することは書かれていない。
袁渙が皇帝袁術に仕えたのが明らかで、それが問題ならば、曹操の下であれほど出世するはずがない。
それは劉勲も同様。
>僭称皇帝に仕えた過去というのはそれだけ重いし、
この認識が間違っているんじゃない?
史書の記述の問題と、当時の人々の認識の問題を混同していると思う。
>儒学的素養のある人間に対しては酷い侮辱だね。
ちょっと意味が分からない。
>>956 >ちょっと意味が分からない。
当時の価値観では、自分を登用した直上の上司を「君」と見立てて忠義を尽くすのが節義だった。
だから多くの群雄や権臣には、「君が死ぬまで篭城してのちに降服した」とか「打ち捨てられた死体を引き取った」とか
いう人物がいる。董卓にさえ蔡ヨウがいる。陶謙に対して張昭は弔文を書いている。
「君」の評判が悪かろうと、時には脅されて従ったのであろうとも、推挙や登用を受けたならば、敗北に付き従ったり、
その死を痛むのが当時の名士の節義だった。
この現象が見られないのが袁術。そればかりか、
「あの官位は袁術に貰ったわけじゃありません」「脅されて従っていました」という方便が用いられる。
仕えた当時の心理がどうだったかは重要じゃない。仕えた事実さえも、最も重要なのではない。
華キンが豫章太守を馬日テイに貰ったのは194年。袁術はまだ一群雄。
皇帝僭称の責任など華キンには無いし、当時予見できたかも怪しい。
皇帝使者の足止めなど、当時の軍閥の行状では可愛いもんだ。
それなのに、華キンが袁術の揚州支配の一環で豫章に派遣されたのは、のちに「なかったこと」にされる。
これが袁術の特異性。
袁渙には確かに、仕えた意思を否定することは書かれていない。(これはすまない。誤りだった)
史書の袁渙は、袁術に自分の意思で仕えたのにも関わらず、呂布に従うことに抵抗せず、
呂布が死んでも動揺を見せない。
そんな「リアリズム」など節義ある態度ではない。これでは名望家として存立できない。
実際には葛藤も主義も節義もあっただろうよ。史書ではそれがそぎ落とされてしまっているわけだ。
袁氏が晋代まで続く名家で、陳寿が家伝に追従する形で袁渙伝を書いたからだろうが。
そんな袁渙を美化する時代の中でも、袁術に仕えたことは当たり障りなく流されてしまっている。
劉備の死には節義を守っても、 袁術には反応を示さない。
>史書の記述の問題と、当時の人々の認識の問題を混同していると思う。
混同してはならないが、これはかなり近い問題だよ。
袁術が死んで、「偽帝」としての評価が決定してからのそれぞれの身の処し方の問題だから。
>>957 華キンが豫章太守になったのは197年以降だろ。
>>958 馬日テイは194年に東方に派遣されてその年のうちに死んでる
>>957 >「あの官位は袁術に貰ったわけじゃありません」「脅されて従っていました」という方便が用いられる。
これって具体的に誰なの?
>劉備の死には節義を守っても、 袁術には反応を示さない。
そりゃ逸話が残ってないだけかも知れない。
明確に袁術に仕えてる袁渙も劉勲もそのことが隠されずに曹操の下で厚遇されてるのに
華キンの話を持ち出しても整合性が付かないだろう。
>「君」の評判が悪かろうと、時には脅されて従ったのであろうとも、推挙や登用を受けたならば、敗北に付き従ったり、
>その死を痛むのが当時の名士の節義だった。
袁渙は劉備の死の誤報を慶賀しなかったが
その誤報や実際の劉備の死に関しての陳羣の逸話はないね。
>これって具体的に誰なの?
華キン、徐キュウ、馬日テイ
>そりゃ逸話が残ってないだけかも知れない。
かも知れないで済ませるには、袁術の支配下にあったと記録に残る者が多すぎる。
これだけの数生き残っていながら、袁術に節を示したという逸話を持つ者がいない(はず)というのは、
群雄の中で非常に顕著な特徴。
>隠されずに曹操の下で厚遇されてるのに
だから、仕えた事実は問題なんじゃないんだってば。
事実に対して、のちにどのような政治的態度で取り繕ったのかを問題にしているんだよ。
劉勲は楊弘ら「袁術残党」を攻撃したという実績がある。最後まで忠臣だったのではない。
>>961 >陳羣の逸話はないね。
「たまたま記録漏れ」とか「恩を受けたが彼には節を守らなかった」というのは当然ありえるよ。
しかし一定の数量と傾向が把握できれば「たまたま」「かもしれない」では済まなくなる。
>華キン、徐キュウ、馬日テイ
華キンは違うんじゃね?
改めて確認してみたら、華キンは馬日テイの掾とはなってるが、
馬日テイにより豫章太守に任命されたかどうかは疑わしい。
太守着任はもっと後じゃないか?
>袁術に節を示したという逸話を持つ者がいない
そりゃ袁術は病死なんだから。
>事実に対して、のちにどのような政治的態度で取り繕ったのかを問題にしているんだよ。
ちょっと待って。
袁渙も徐キュウも袁術に正論を吐いたのが事実なら、「取り繕った」云々は成立しないだろ。
>劉勲は楊弘ら「袁術残党」を攻撃したという実績がある。
劉勲こそ、袁術に絶交した孫策に帰順しようとした楊弘らを拘束した、「袁術残党」だろう。
>太守着任はもっと後じゃないか?
だとしたら、袁術に直接任命されたのに誤魔化されているってことかね。
袁術から離脱したと書く絶好の機会に触れていないし、
曹操が擁立した献帝に任命されたのなら、
同じく曹操に帰順していた時期の孫策に攻撃されるのはおかしいから。
>そりゃ袁術は病死なんだから。
陶謙も袁紹も病死。この二人よりよっぽど敗死に近いシチュエーション。死ぬ前後に勢力が瓦解しているのだから。
>袁渙も徐キュウも袁術に正論を吐いたのが事実なら、「取り繕った」云々は成立しないだろ。
なぜ? 蔡ヨウも脅迫されて董卓の任命を受けたが、職務を全うして董卓に哭して殺された。
董卓は後漢の悪臣だが、そのような蔡ヨウの節義がちゃんと節義として記されるだけの余地はあった。
徐キュウは袁術への節義を示すような記述は残されず、「脅されたから」を言い訳にする形で
曹操に帰順している。少なくとも史書はそのように書いている。徐キュウの本心はわからないけどね。
>劉勲こそ、袁術に絶交した孫策に帰順しようとした楊弘らを拘束した、「袁術残党」だろう。
ありゃ。それは状況的にそちらのほうがもっともらしいかな。
>>965 太守着任に関しては長安政府の命による可能性もある。
>陶謙も袁紹も病死。
袁紹に関しては、袁紹死後も袁家に仕えた連中の忠節の逸話が残っている。
それとは状況が異なり、袁術に忠節を尽くすような場面がない。
陶謙の場合は、張昭を茂才に推挙した。
そちらが例に挙げた人物たち(華キン、徐キュウ、馬日テイ)とはまったく異なる。
徐キュウは袁術よりキャリアは長いだろう。
>蔡ヨウも脅迫されて董卓の任命を受けたが、職務を全うして董卓に哭して殺された。
>董卓は後漢の悪臣だが、そのような蔡ヨウの節義がちゃんと節義として記されるだけの余地はあった。
その件を記したのは謝承の後漢書だが、董卓の死に哭してなどいない。
歎惜しただけで、しかも王允にとがめられて陳謝している。
>徐キュウの本心はわからないけどね
後漢書の徐キュウ伝を読むといい。
華キン伝に引く江表伝で華キンは「私は劉ヨウ殿によって臨時に太守に任じられたのだが、
後に朝廷にも認められており、正式に任命されたのと同じである」と発言している。
たぶん華キンは馬日テイに辟され掾になり、馬日テイが死ぬと劉ヨウと共に江東へ渡り、
そして劉ヨウがサク融を討って豫章を支配した時、臨時に豫章太守に任命された。
その後、曹操政権から正式に認められたという流れだと思う。
>太守着任に関しては長安政府の命による可能性もある。
で、その任命を受けて華キンは袁術の支配を振り切って豫章太守になったと言いたいわけ?
可能性可能性連呼してばかりで自分の歴史像を示さないのは卑怯だよ。
>袁紹に関しては、袁紹死後も袁家に仕えた連中の忠節の逸話が残っている。
>陶謙の場合は、張昭を茂才に推挙した。
そうだよ。そういう風に袁術に引き立てられた人間がいくらでも魏や呉にいるのに、
なぜ誰も節義どころか哀悼を述べないのかと言ってる。
>哭してなどいない
哭じゃなかったね。これは勘違い。
でも董卓の死に際してとった蔡ヨウの義理と、以後の減刑問題とは別。
>後漢書の徐キュウ伝を読むといい。
徐キュウの袁術に仕えた当時の本心は問題じゃないと言ってる。そんなものはもはや判らない。
問題は、どう記されたか、どう記されることが望まれたか、だ。
>>967 そこは見落としていた。反論できないな。
華キンの件は撤回する。
議論に負けるということは死を意味する。
凌遅三千刀、滅九族!
>そういう風に袁術に引き立てられた人間がいくらでも魏や呉にいるのに
これって誰なの?
そもそも袁術だけが哀悼を述べられなかったり、節義を示されなかったりしたの?
袁紹の死で哀悼が示されただろうか。
呂布、公孫サン、公孫淵、張楊の場合はどうだろう。
>でも董卓の死に際してとった蔡ヨウの義理と、以後の減刑問題とは別。
よく分からん。
蔡ヨウは思わず歎惜の音をもらしたが、口がすべっただけで本心じゃないとか言ってる。
「雖以不忠,猶識大義,古今安危,耳所厭聞,口所常玩,豈當背國而向卓也?狂瞽之詞,謬出患入,原黥首為刑以繼漢史。」
これは節義を示した場面ではないだろう。
>徐キュウの袁術に仕えた当時の本心は問題じゃないと言ってる。そんなものはもはや判らない。
徐キュウは刺史・太守を歴任し、董太后の命令をも拒んだ硬骨漢。
汝南、東海二郡の太守の印綬を袁術に渡さず、中央帰還時に返納した。
徐キュウが袁術シンパでなかったのは信憑性が高いと思う。
それを無視して「袁術シンパに決まってる」「史書に記されないのはそれが不都合だから」
というのは都合のよい見方ではないだろうか。
>問題は、どう記されたか、どう記されることが望まれたか、だ。
徐キュウなんて子孫が栄達しているわけでもなし、
どう記されることが望まれた、ということもないと思う。
お前ら本当に袁術大好きだな
はちみ・・ちゅ・・(がくっ
>>972 魏からも呉からもdisられた悲劇の英雄が
判官贔屓のお国柄で持ち上げられないはずないよ
>徐キュウは刺史・太守を歴任し、董太后の命令をも拒んだ硬骨漢。
>汝南、東海二郡の太守の印綬を袁術に渡さず、中央帰還時に返納した。
これ汝南太守の印綬を持ってたのはなぜなんだぜ
東海相に異動になったときに朝廷に返すか後任に引き継ぐものではないのか?
陳紀のエピソード希望
流れ読まずに、
李孚が馮紞(フウタン)の祖父って書いてあるサイトを見つけたんでちょっと調べてみたんだけど
李孚側は、元の姓が馮氏で、冀州の鉅鹿出身で、司隷校尉になったことがあり、
馮紞側は、祖父の名が馮浮で、馮紞が冀州の安平出身で、祖父は司隷校尉になったことがある、
以上の情報から、孚と浮は字が似てるし、姓も一応一緒だし、
出身もだいたい近所だし、役職が一致してるので同一人物かもとは思うんだけど、
誰も李孚のところで子孫の注釈いれてない(たぶん)し、決定力に欠けるかなとも思う。
そんな訳でだれか李孚-馮紞に関する情報があったら教えてください
次スレはいるかな
いるでショ
うめ
983 :
世界@名無史さん:2011/06/04(土) 21:13:37.36 0
袁術「わいは猿や! 汝南生まれの猿や!」
984 :
世界@名無史さん:2011/06/05(日) 08:35:59.29 0
ま、劉備や孫権も皇帝僭称みたいなもの。
袁術は言い出すタイミングが早すぎただけです。
袁術はハイキング愛好者の元祖なんだそうだ。
曹操は皇帝を僭称しなかったので、真の英雄だ。