>>948 あと秦嶺山脈だよな。
赤壁の戦いは長江に、漢中の戦いは秦嶺山脈に阻まれた。
これを一代で天下統一出来た人って、人間じゃないよな。
>>949 武陵蛮や山越がいるのにどうやって意思疎通すんだよ。
そいつらに漢字教え込ませないとダメだろう。それは南宋の時代までかかるんだよ。
清の乾隆時代になるまで、生苗というのがいて、まるっきし言葉が通じない状態で残るのだし。
内陸には、爨とかいるし、その南の内陸洪景あたりには孟獲みたいなのもがいるし
そいつらときっちり話をつけられないと、いつ襲われるかわかんねー。
>>953 中国語に決まってんだろw支配者の言語を押し付けるのなんてよくある事
どうせ僻地の連中は開発し難い土地だし、諸役全免除で兵戸にすりゃいい
開発を進めるのは可能だろうよ
956 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 03:51:06 0
>>950 あの大敗で袁紹は血圧があがって後継者問題も解決しないまま憤死(多分脳卒中とかその辺だろう)憤死したのだし、
遠因であるだろう。
>>957 そっから1年生きてる上に、倉亭に攻め込んだり
冀州各地で反乱起こりまくったのを武力で鎮圧したりと
憤死とは到底言い難い、普通に何かの病気
山越や武陵蛮なんて呉が人攫っては兵戸にしたり、従わなかったら殲滅したりしているので
対漢族の心情最悪だろ。 そうそう賦役免除で兵役なんか組み入れられるものか。
敗戦が原因で死に至るとすれば、自殺ぐらいしかないよ。
それ以外はただの病気。
>>953 陶侃や陶淵明は武陵蛮出身で渓狗と嘲られた。
東晋の頃でさえそんな感じ。
魏史袁紹伝に苦悶の内に血を吐いて死んだとあるけどね。
その割には、官渡の戦いが終わった後も元気だな
でも吐血したのは事実。記述を信じるならばだが。
>>962 それは分かるけど普通に病気って事でしょ?
>>959 そこで、客家が活躍(?)する訳ですよ。
968 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 04:16:37 0
「土客械斗」ですね
でも、袁紹って官渡の戦いの後に、曹操ともう一戦、倉亭の戦いもやってるよね。
仮に敗戦が原因だとすれば、そっちの影響の方が大きいと思うんだ。
まあ現代でも落選した爺が短期間の間におっ死ぬ事があるし
ドミノ倒し的に客家や苗が南へ南へ押し寄せるから
越系の土着民と客民が械斗しちゃうわけで
広東や広西ではよく発生しておるね。
ムスリムも交えたあげく、客民同士の客家と苗で仲間割れもするし
客-苗-回-タイ系土着の四つ巴の争い。
械闘は台湾でもおこっているんだよなあ。特に大陸に向いている沿岸地域で。
ソース忘れたけど、南支那では水利権がらみでまだ農村部では械闘やっているとかニュースみたことあるような・・・。
975 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 04:31:10 0
武帝紀は曹操視点、袁紹伝は袁紹視点で記述されているのだろうか
しかし、あの程度で憤死するもんかねー?
国力ではまだ袁紹が有利な状態でしょ。
こじつけっぽく考えるなら憂悶=ストレスで胃潰瘍あるいは胃がん患って一年後に大量の血をはいたまま予後が悪く急死した
かんがえてみるテスト
978 :
sage:2011/01/23(日) 04:41:50 0
a
>>977 田豊を信用できず処刑してしまったり、反乱が多発したりで精神的には追い詰められていただろうな
>>946 6:4ならあまり差は無いように思えるかも知れんが、6:3:1だ
各個撃破すれば魏の楽勝よ
>>971 武帝紀も董二袁劉伝もほとんど一緒じゃん
冀州の城や村の多くが反乱を起こしたが平定した。
官渡のあと発病し建安七年に死んだ。
武帝紀だと吐血した、董二袁劉伝だと憂悶のうちに死んだ、が独特なだけで
まあ、孫策は過大評価だよな。陳登親子に良いようにされているのに、
曹操と長江以北と早期決戦するとか白日夢にすぎない
あくまで江東の虎だし、弟も合肥抜けなかったしな
孫呉はどうあっても天下の目など劉備以上にない。
>>982 孫策って伊達政宗みたいだよな。
大した事無いのに人気が有る。
>>982 官渡の頃なら陳登程度じゃ全くどうにもなんないだろ
魏 443万人
呉 230万人
蜀 94万人
孫堅も孫策も早死にしすぎ
988 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 05:16:26 0
赤壁にしても、漢中にしても、
魏の南下を食い止めたというだけで、瓦解させるには至らなかったんだよな。
>>985 孫策は二度目の陳登征伐いく途中に突然刺客に襲われて横死するのだが、
もしかすると、孫策を暗殺したの陳登じゃね?
本人がやるわけねーよw
>>986 それ兵士と屯田民の家族は抜きってのが通説じゃないの
いくらなんでも30年40年で倍増はしないだろ
http://words-words.blog.ocn.ne.jp/wordswords/2007/07/post_ef4c.html 呂布捕縛の功績によって、伏波将軍の地位についた陳登の次なる敵は、江東の孫策であった。
彼の治める広陵は孫呉の境界にある要衝であり、当時旭日の勢いにあった孫策は大軍をもってこれを攻略した。
孫策の進撃に恐れおののき、撤退を主張する部下に、陳登は言った。「わしは国家の命を受けて、この地の抑えと
してきているのだ。昔、馬援(後漢創立の名将)はこの地位(伏波将軍)についていたとき、よく南方では越の国々を平定し、
北方では多くの夷狄をうち滅ぼしたものだ。わしは凶悪な者どもを撃退することができないうえに、
どうして敵の前から逃げ出すことができようか」かくて陳登は城門を閉ざし、兵士たちの喚声を静まらせてわざと弱々しい防備で
あることを強調した。そして孫策の軍隊に緩みが見えたことを望楼から確認すると、一気に城門を開いて軽騎兵を突き進ませ、
敵の背後を攪乱させた。孫策軍は慌てふためき、陣容を整える間もなく、陳登みずから陣太鼓を叩いて突撃する兵にさんざんに
打ち破られた。陳登はこれを追撃し、万単位の首級を挙げたとある。思わぬ敗北に激怒した孫策はすぐさま大軍を編成しなおし、
再び広陵に迫ったが、陳登は冷静であった。功曹の陳矯を曹操の元に送り援軍を要請すると、すぐさま薪を積み上げ各所に
それを配置し、孫策が迫ると一気に火を付けた。火勢は強く山々に燃えうつり孫策軍は恐慌をきたし、また城中で兵士たちに万歳を
唱えさせあたかも援軍が到着したかのように見せかけると、孫策軍はまた壊乱状態となって退却した。陳登はこれを追撃し、
またも一万余の首級を得たという。このように彼は防御指揮官としても極めて有能であったことが分かる。
孫策は江東においては常勝将軍であったが、北方戦線においては陳登に完全に頭を押さえられていたのである。
(そして孫策は陳登攻めの最中に刺客に襲われて死ぬ)
陳登はこののち東城に転任し、やがて三十九歳の若さで死ぬが、彼が広陵を離れて後、孫権が長江の北に大いに勢力を伸ばすの
を見て、曹操は「陳登の計略をもっと早く採用せず、大きな猪(呉)の爪や牙を生長させてしまった」と嘆息したと言う。
やたら陳登を評価してる人いるけど、そんなに扱い大きい武将だっけ?w
まぁ、孫策よりは頭良いだろうけど・・・
呂布を破り、孫策をやぶったのは彼1人だけ。
いま三国志見てるけど陳登伝なんて無いぞw
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