1 :
世界@名無史さん:
4 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 18:59:59 0
南海貿易が発達したのは漢代というより、南越王国の時代な。
まだ漢が番禺やその周辺を征服する前。
>>4 んでそれを継承したのが漢(武帝以降)と言う事か
甘英はローマ帝国まで行ってないよ。
当時、シリアはパルティア王国領で、ギリギリローマ帝国に達してない。
>>7 パルティアの船乗りにローマまで片道2年かかると言われたんだっけ
9 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 19:32:51 0
何故、そこで疑わなかったんだろうなあ。
西域を征服した漢にとって、主流の交易路はオアシス・ロード
始発点が首都の長安という事も有るしな
マリン・ロードの始発点は南海郡で本拠地からあまりに遠すぎる
当時の南海郡は間接支配に過ぎない僻地だったし
敦煌置いた時点だと旧南越も直轄領だよ
>>8 実際、シリアからローマまでどれくらいかかるんやろね。
>>11 漢武の征服した地域、西域以外は全部直轄にしてるんだっけ。
嶺南はほとんど空き地みたいなもんだしな
まぁ、実際に隅々まで統治が行き渡っているかどうかは別として、直接支配という形を取っていただろうな
16 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 20:13:20 0
南越国は南海貿易によって栄えていたというけど
本当の所はどうなの?
最大版図はそれなり。
番禺の人口は4万人程度。
漢が征服したり南越が成立したりする以前に、秦があそこらへんを征服していたわけだが…
まあ統治期間こそ短かったが、楚も放置してたっぽい遠隔の地をわざわざ征服したからには、
けっこうメリットを見込んではいたのだろう
>>12 アンティオキア辺りからでも1月かからんね
それ以前の嶺南は百越の活動地域だったんだよな
22 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 20:51:09 0
>>18 まぁ、それと南方が空白地だったというのが大きいな。
西方も空白地では有るが、地形的に厳しいし。
23 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 21:35:16 0
>>21 どうなんだろう。
秦が征服する以前の人口が分かれば、南越王国の時代にどれだけ発展したか分かるんだが。
50万の大軍が駐留した割には少ないな
「50万」という数字が嘘なのか?
>>22 でも無人では無いだろ
百越がいるんだし
匈奴や月氏や東胡と何ら変わりない
嶺南地域は農業に適しているからね。
一方遊牧民の地では農業が出来ないし征服する意味がなかった。
27 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 22:07:43 0
中原からの移民が多かったんだよな
>>24 首都の城郭内にいた人口が4万だから、他は郊外とか地方の押さえなんじゃね
まぁ、ここらの時代は兵数がインフレ気味では有る。
屯田前提だからね
31 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 22:36:37 0
兵農一致
交易国家ってそんな人口多いもんではないからなぁ
一人当たりの富は大きいと思うけどさ
南越は朝鮮王国とあんまりかわらんな
どちらも亡命チャイニーズが中核になり、地元住民と協力して築いた、
遠隔地の貿易や防衛に関して下請け的な役割を持つ半独立政権だ
まぁね。
北に対しては弱いが、南に対しては強いよ。
36 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 23:08:43 0
>>32 楚漢戦争の影響で、中原から難民が流れて来てる。
流石に西域へ逃げたのは極一部だろw
最も多いのは江南かな
長江以南で戦火が交わる事は無かった
嶺南まで逃げた人も少ないの?
わざわざそんな遠くまで逃げる余裕は無い。
西域も然り。
41 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 23:45:17 0
移民は多かったみたいだけどね>嶺南
移民は目的が有ってわざわざそこまで行ってるんだから、そりゃ当然。
まぁ、開発の最前線だからね
いわゆるフロンティア
50万の屯田兵がいれば十分過ぎるがな。
46 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 00:35:20 0
やっぱ、草原の道って、遼や金のような制服王朝しか使ってないのか。。。
言い方を変えれば、遼・金はステップロード(草原道)しか利用出来ない
と言う事なんだけどね
進んで利用してるわけではなく、交易ルートがそれしか無いわけ
ステップ路も長安発なんだよね。
途中のカラコルムも唐の支配下だったし、間違いなく使われていた。
51 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 01:01:47 0
草原のシルクロードに関しては資料も少ないんだよなぁ
文字史料が無いのは仕方ないさ。
あそこら辺は文字を持つ民族が少ない。
利用してる中国王朝も多い訳ではないし。
>>52 カラコルムに当たる位置って事だろ
それぐらい分からないのか
56 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 01:31:18 0
>>54 解読できている文字には、突厥碑文や古彝文などがあるよ。
6世紀頃からは、残っている文書も多い。
11世紀の西夏、13世紀の蒙古など、そのへんの文書も使える。
ある程度時代が下ると、遊牧民も文字を使うようになるよな
まぁ、漢代におけるステップロードの実態はよく分からないが
匈奴が独占していたんだろう。
60 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 02:01:36 0
漢は匈奴と貿易したりしてたのかな?
あくまで敵対?
漢が匈奴に対して、貢物をしてた時期は有ったけどねえ。
>>47 遼はともかく、金はオアシスの道を使えるだろう。
まぁ、マリンロードが使えない金にとっては、ステップロードが重要である事に変わりは無いけどね
64 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 02:31:26 0
>>62-63 金朝は草原の道も、オアシスの道も利用出来ないんじゃないの?
草原の道はケレイト部やキルギス部に邪魔されて、オアシスの道も西夏や西遼に邪魔されて利用出来ないと思うんだが
いやいや。
その国が交易に応じてくれれば、それで交渉成立というわけだ。
そうすれば他国の支配下にあっても、その道を通してもらえる。
もちろん、通行料を払った上で。
ん?
色々と混同してないか?
隣国交易と長距離交易は別だぞ
隣国交易はokでも、長距離交易は認めてもらえない場合がある
その逆もまた然り
>>56 唐が長安から四方に敷設した公道のことで、オトコミチじゃないよ
天山北路とか南路とか
70 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 02:52:51 0
長安からカラコルムに伸びる道か。
草原の道には、一度南下してオアシスの道を経由し、再び草原の道に戻るルートと
更に北上して草原の道を貫くルートが有る
ちなみに、その分岐点はやはりアルタイ山脈
>>9 不慣れな地だし、どっちにしても帰りたいと思っていたんだろう
シルクロードなの中で一番古いルートは、ステップロードなんだよね。
75 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 03:31:42 0
>>68 それらの道は漢の時代から使われていような
唐の時に再び敷設し直されたんだろうか?
>>75 道沿いに駅を設置したり
毎年駐屯軍に物資を輸送するために道路を整備拡張したり
西はアラル海まで支配しているからね。
サマルカンドも唐の支配下。
漢とはスケールが違う。
そういう意味じゃないだろ
漢の時代にはすでに交通路は整備されていたが、唐の時代になってさらに整備(強化)されたと言う事だ
西域との玄関口である玉門関も、漢の時に建てられて、唐の時に造り直されてる
80 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 04:05:50 0
やっぱ漢唐は対外関係に強えーよなぁ。
オアシスの道も、草原の道もウイグルに取られちゃったからねー。
宋もその(唐の)負の遺産を引き継ぐ事になってしまったわけだが
おかげ(?)でそれまで以上に海上交易が盛んになったんだよな
利用出来る交易ルートがマリンロードしか無かったおかげで
>>83 北宋代もシルクロードは機能してたけど
船舶を使った南海交易とは交易量が違うからな、10倍以上
86 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 14:48:45 0
>>84 安史の乱以降は吐蕃とウイグルの係争地>西域
88 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 15:14:32 0
まぁ、首都も長安から開封へ移ったし、以前ほど機能していないのは確かだな
>>87 西夏が交易に応じてくれれば、それで利用出来るのだ
唐の最盛期と比べれば、
途中でストップを掛けられる可能性は高くなった。
ヘタすれば初っ端(西夏)から止められる。
91 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 15:34:04 P
92 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 15:36:59 0
漢とローマは交易関係持ってたの?
それとも、ローマの使者が安南に訪れた時の一回だけ?
長安・北京が北方や西域へ通じているのに対し、開封は大運河や水路により江南・南海へ通じている。
安史の乱以後の長安が衰退したのに対し、開封は「中国本土」の中心となって栄え、五代・北宋の首都となった。
また宋の人口・経済の重心は、北宋代から江南へ偏重していた。
宋代はマリン・ロードを通じての交易が中心となった。
96 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 15:49:09 P
西域を失陥したのは中唐期だよな
オアシスロードを利用する際は、以前と違って中継国家に気を遣わなければいけなくなったので、利用し辛くなってしまった。
マリンロードの方を向いていたわけだ。
>>92 両国は遠すぎる
近代化する以前にそれだけ遠距離で頻繁に交易をしていたという関係は皆無
海路でも港に立ち寄る必要があるから中継国家も多々ある
まあ南海交易に携わってたのはムスリム商人なんでネットワークはあるが
101 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 16:15:42 P
中唐時代に一度西域を手放していて、晩唐時代に再び涼州・西域の一部を取り返している。
しかし、黄巣の乱が起きた事で再び手放す事になった。
103 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 16:28:08 0
南北朝時代は、南朝(宋・斉・梁・陳)の交易路として、以前より活性化する事は無かったの?
>>100 元代まではイスラム商人と海上での交易が盛んだったよな。
105 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 16:45:09 P
鄭和大航海の事か
107 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 16:50:48 P
>>106 イスラム商人も中国商人も普通に南海交易してるぞw
108 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 16:52:47 P
うわーこれはひどい
goo辞書
ちゅう‐とう〔‐タウ〕【中唐】
中国唐代の文学を4期に区分した、その第3期。盛唐に続く、大暦より太和まで(766〜835)。柳宗元・韓
愈・白居易などの詩人が出た。→初唐 →盛唐 →晩唐
yahoo辞書
ちゅうとう[―たう] 0 【中唐】
中国文学史上、唐代を四分した第三期。代宗の大暦から敬宗の宝暦までの約 60 年間(766-
826)。白居易・元(げんしん)・李賀・韓愈・柳宗元らが活躍。
→初唐
→盛唐
→晩唐
>>103 その時代は、西南シルクロードを使われる事が多かったんじゃないか。
112 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 17:18:35 0
>>99 せいぜいイスラム圏あたりかな
ローマ帝国の使者がやって来た時もエジプトからやって来た
その時代はイスラム教なんて存在しねーよ。
>>111 六朝様式の仏教は海のシルクロード経由で伝わってきた
違う。
海の道からやって来て、江南に馴染んだから、六朝様式と言われるようになった。
>>108 それ、どこの電波?
一般での「中唐」は8世紀半ば〜9世紀半ばの期間を指すんだが
117 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 17:41:18 0
>>94 西北方面への影響が弱まって、東南へ重心を移動させた感じだな。
それにより、交易の重心もオアシスロードからマリンロードで移った。
>>104 元の時代って、そんなに海のシルクロードで貿易が活性化していたのか?
首都の大都は、草原のシルクロードの始点だし、どっちかと言うと、そっちに目が入っていたのでは?
119 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 17:55:49 0
モンゴル帝国の時代は東西交流が盛んだった。
そのため全てのルートで今まで以上に物資の流通が盛んになったはず。
春秋戦国時代は中華の国同士で交易する事は無かったの?
121 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 18:03:58 0
無いに決まってるじゃないかw
夏人の都市があった杞県は開封の南東に位置し、
禹の陵墓があるという会稽は杭州と寧波の間に位置する。
殷商の後継たる宋国は商丘にあったが、趙宋もここに興り南京とした。
五代の国号は梁・唐・晋・漢・周と遡っており、周から遡れば殷商たる宋となる。
商が周より受けて夏に都し越に遷る、なんと遡っていくことか。
宋→周→(秦)→漢→晋→(隋)→唐→梁→唐→晋→漢→周→宋
梁が折り返し地点か
>>119 それにモンゴルはイスラムとの繋がりも太いからね。
それは初耳だ
>>122 それは、当時(五代)の人達も意識していたのだろうか。
127 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 18:29:24 0
>>125 当時のイスラム圏はモンゴルが支配していた。
>>73 そういえば、甘英はシリアへ行くまで何ヶ月ぐらいかかったんだろう?
>>121 普通にあるよ、陶朱猗頓の富とか有名でしょ
管仲も経世で国境を跨ぐ商人について言及してるし、鉄とか塩を売りさばいてる
>>8 パルティアの船乗り?
当時のパルティアは地中海に面していない。
そんな事を聞くはずが無い。
甘英がシリアへ到達したと言っても、
シリアの西南部はローマが支配しているし、
シリアの東北部はパルティアが支配しているから、
甘英がローマ帝国領を踏んだか踏んでないか微妙だよな
>>130 あの時代は群雄同士が必ず宿敵だったという訳でも無いからね。
利があれば敵で有っても交易するだろうね。
唐代以降の中国王朝だと天山山脈の向こうまで影響力及ぼせる事が出来なかったよね
例えば宋代には西夏がいるし元代にはチャガタイハン国がいるし明代にはオイラトがいるし清代にはロシアがいるし・・・・
元以降はずっとモンゴルの時代だよね
天山山脈の向こうまで影響力を及ぼしたのは漢隋唐あたりか。
137 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 19:09:25 0
隋は西突厥を従属s(ry
>>135 モンゴル帝国が瓦解した後も、後継国家が世界中に散らばってるからな
>>132 ローマ帝国内に入っていたら、ローマへ行くまでの期間を誤魔化されるわけが無い。
>>140 でもローマは将軍や属州総督の裁量権限が広いから
143 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 19:37:55 0
>>141 同じローマの人間でも
ローマ本国と後漢が繋がるのはマズイと判断した可能性も有るな
と言う事は、三国時代の呉と蜀も交易を行っていたのか。
呉・蜀の同盟は形式上の話
実際は仮想敵国と見なしていただろう
>>145 いやいや。
敵同士でもよっぽどの事が無い限り、利が有れば交易するはず。
147 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 20:03:26 0
秦が強国になったのは、蜀を征服した事で交易ルートを確保したからなのだ
>>147 それ以前に何故秦が蜀を滅ぼすだけの力を持っていたのかが疑問。
秦嶺山脈を越えなければいけないわけだし。
元を辿れば、やっぱり法治主義に行き着く
150 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 20:19:25 0
他の群雄もそういうものを取り入れた時期は有ったが、焼け石に水みたいなものだった
後世に渡ってちゃんと機能していたのは、秦が採用した商鞅の法治主義だけ
それを挙げたらキリねーけどなw
>>150 何せ王がダメすぎるからな。
秦は孝公以降、名君の治世が長く続いたと言うのも有る。
秦が強くなった
157 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:00:07 0
>>154 それによって、ダラける事が無くなり、(キリッとした感じになったんじゃないの。
んで強くなったと
160 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:17:14 0
>>145 よく考えたら、呉って一番正統性が無いよな
魏や蜀に比べて
163 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:35:27 0
戦国時代は春秋時代と比べ、鉄が普及した事で農業の負担が減り、商業が盛んになった。
もちろん、交易も春秋時代より盛んになっている。
そうとも限らない。
こういうのはドミノ式に、連鎖するものだ。
農業が楽になり、人手が商業に回ったのだろう。
>>118 大都には「積水潭」と呼ばれる都市内港があり、
通州(のちの天津)から閘門式の巨大運河「通恵河」が開削され、
直に外海とつながっていて、江南からの物資も船で運ばれた。
元は隋以来の大運河開削をしているからなー
水上では輸送速度も速いし、むしろこっちが重視されていたんでは無いかと思う
ステップロードは大して重要では無かった
首都が大都〜上都というかなり北方に位置していたのは、モンゴル・中華の両方を押さえるためだったしね。
>>164 飛躍してるわな、時期的にちょうど重なってるけど
170 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 22:32:50 0
鉄の売買で活性化したというのなら有り得そう
そういえば斉は鉄器の販売で富んだんだっけ
鉄農具とかは供給制じゃね?
売買で交易が栄えるというのは無いと思うが
いやいや。
鉄・塩は古代に置ける、商業の要だ。
175 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 22:44:50 0
晋の三国分裂以降、燕の楽毅によって滅亡寸前に追い込まれるまでは、斉の土壇場
>>166 むしろ、それまでの王朝の都と比べて、首都が海に近いんだよな。
>>175 ん?
斉の土壇場と、晋の三国分裂は何の関係が有るの?
>>118 南宋の遺民を南人と差別してたぐらいだから、江南に首都を置きたくなかったんでそ
>>177 強国が斉だけになって、各国の警戒心が斉に一極集中したという意味では、土壇場だわな。
180 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 22:57:47 0
楽毅が活躍してた頃にはすでに秦が台頭して、秦・斉の二強だった訳だが
秦は結局、楽毅に討伐される事こそ無かったけど、危険視されていたのは間違いない
>>180 そんな事言うなら、斉の土壇場では無くなるだろ。
自分で言っときながら矛盾してるぞ?
>>178 まぁまぁ。
それとこれとは別だろう。
流石に自分達の好き嫌いで損するのはもったいないからな。
なんだかんだ言って、元を支えていたのは江南だしな
だから、大運河を更に開削した
それらの運河も春秋戦国時代から徐々に開削されていたんだよ。
隋や元が特別なわけではない。
185 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 23:22:49 0
>>184 所々、削られていただけだからなぁ〜
隋以前のものは実用性に欠ける
>>156 始皇帝の時はそうだけど、それ以前から商鞅の法治が続いていたから既に強くなっていた。
他の国では君主が変わると法治が捨てられてしまうから強くなれない。(楚の呉起とか)
秦では商鞅が失脚した後も法治を続けた。
そうだけど隋はそれらを繋いだだけでゼロからあれだけの大運河を完成させたわけではない。
すべてを繋いで大きくした、という点での業績は大きくないか?
万里の長城だってゼロから作られたわけではないし
それまでの国々ができなかった事をやった(やれた)事には違いない
189 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 23:37:24 0
隋は後世のため、犠牲になったのだ・・・
190 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 23:38:29 0
>>149 フビライをどう辿れば法治主義に辿り着くのか
俺でも理解できるように説明してくれ
煬帝は高句麗遠征さえしなきゃ李世民だったのに
>>190 元もモンゴルもバリバリの法治主義・文書主義国家だぞなどとマジレスw
>>191 李世民も高句麗遠征でやらかしてr(ry
>>191 それを抜きにしても、李世民には及ばない気が・・・。
何故なら、李世民は突厥を滅ぼして、モンゴル高原を支配下に入れている。
煬帝にそれだけの事が出来るとは思えん。
196 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 00:01:23 0
>>186 あ、じゃあ始皇帝の以外の時代は割とまともな法治主義だったのか
商鞅の法治主義も韓非と比べたら、そこまで厳しくない?
秦王政の時に秦は沸点に達した。
まぁ、韓非の考え方も商鞅の影響を受けているだろう
受けてるも何も韓非自身が法治には、慎到の勢、商鞅の法、申不害の術の3つが大事
つってるじゃん
大して変わらんよね。
虫国が世界に誇る2大輸出品
凶悪犯罪者と格安売春婦
統一した後、すぐに法治主義を強要せず、少しずつ浸透させれば何とかなった
隋も突厥を討って朝貢させたり東西分裂させたりはしてるな
北周・北斉は突厥に頭が上がらなかったものだが
扶祖が継ぐか、無チンキモデブに権力握らせなきゃ200年くらい続いたろ
205 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 00:35:12 0
>>203 南北朝時代では立場が逆だからな。
統一された突厥と東西分裂した北斉・北周では明らかに突厥が有利。
>>204 始皇帝が趙高を粛清しておけば、扶蘇が後を継いでいたかもね。
まぁ、夫蘇も趙高に負けるぐらいだし
皇帝になれたとしても暗君だな
普通に運営していれば反乱なぞ起きないだろう。
それとも、すでに限界点に近づいていたのか?
秦
原因の皇帝:二世皇帝
亡国の皇帝:秦王嬰
隋
原因の皇帝:煬帝
亡国の皇帝:恭帝侑
先行逃げ切りですね
わかります
211 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 01:06:40 0
>>188 まぁ、技術とかもそれまでに蓄積されたものに上乗せして進歩してるんだしなぁ
>>210 何もする暇が無いうちにツケを払わされる皇帝も多い。
但し、自業自得な皇帝も居る。
確かに居るには居るが(明の崇禎帝とか、明の崇禎帝とか、明の崇禎帝とか)、決してそいつだけのせいじゃないんだよな
そのちょっと前から、体たらくな状態が続いてるし
214 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 01:32:58 0
そういえば、秦の時代ってまだ南方路・北方路・中央路が開通してないのな。
とは言えそれ以前からシルクロード交易は行われていたよ
確かアレクサンドロス大王の時代にはすでに
>>215 アレクの死後じゃね?
まぁ、始皇帝時代のちょっと前だが。
>>216 アケメネス朝の頃から、ソグド人などが担い手となった東西交易は行われていただろ
サマルカンドとか、紀元前10世紀頃の遺跡とかあるぞ
そう考えると、秦は随分と昔からシルクロード交易を行っていたんだな
あの位置はあまりに有利すぎる
西周の本拠地も関中だよね。
流石にあの時代は東西交易行われてないだろうけど。
220 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 01:56:55 0
>>219 紀元前10世紀から行われていたと言う事は、西周時代も東西で交流が有ったのでは?
あの時代にはるばる中国まで交易の波が及んでいるのだろうか。
タリム盆地にはすでに国が出来ていたし、
当然それらの国を介して東西交易が行われていたはず
>>147 その際、いくつかの亡命政権(?)みたいなのが誕生してるんだよな。
225 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 02:26:38 0
張騫が訪れる以前の西域は不鮮明だからなー
>>225 でも、それ以前の西域の様子が分かっていないと言う事は、西域を通じての交易はそんなに古くから行われていなかったと言う事だよな。
少なくとも中華はシルクロード交易に関わって無かっただろうね
>>215 ハカーマニシュ時代の事は文献記録が消失してるからよく解ってないよ
マケドニア帝国はすぐ四分五裂したし、交易してた形跡も無い
229 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 02:42:48 0
まぁ、四大文明の位置を見ても、他三文明はお互い近いのに、黄河文明だけ離れてるもんなー
>>217 ゾグド人がオアシス地域の交易を握るのはもっと後で
最初はバクトラ人が担い手、そもそも交易してないし
>>229 その通りで、
メソポタミア文明・エジプト文明、
メソポタミア文明・インダス文明は交易関係を持っていたが、
黄河文明だけは蚊帳の外であった。
東西交易するようになったのはやはり前漢武帝の時代からか
>>229 長江文明とか四川文明とかなかったっけ?
四大文明と言われる時は「黄河・長江文明」と、何故か一括りにされてるっちゅうね・・・。
華陽国志
黄河文明と長江文明も交易してたんじゃね?
イラク文明もシュメルとアッカドとアッシュールとアラムで違うよねっていう
二輪戦車は太古の朝鮮民族が発明したものである。
彼らは華夏民族を征服して殷商帝国を築き、
西方に大移動して中央アジア・インド・中東・ヨーロッパをことごとく征服した。
のち、俗に猫車と呼ばれる一輪車に進化したとされる。
>>232 まぁ、それ以前は河西回廊すら支配した事無いからな
海を使っての東西交易はもうちょっと早かったんじゃないの?
241 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 03:31:18 0
>>237 実際四大文明じゃないからね。
大まかに分ければ四つに分かれると言うだけでさ。
兵馬俑の剣すげーな
力入れすぎやね。
そりゃー、秦が犠牲になっても仕方ない。
二千年以上の間、錆を防げる剣を作れるという技術が有ったのが凄いっていうね
それも二千年以上も前に
>>243 あれって始皇帝が生前に命じていたのか、あるいは胡亥が・・・
246 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 03:57:19 0
もちろん始皇帝が作らせた。
自ら三皇の「皇」と五帝の「帝」を合わせた「皇帝」を名乗っちゃうぐらいのナルシストだから。
>>240 それは東西交易と呼べるものではない。南海交易。
東西交易はもう少し先の時代になる。
前漢代はマラッカ海峡を越えない程度の交易だからなあ
249 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 04:42:56 0
西南シルクロードでは約3000年前から、西アジアやギリシャ文化の特徴があると見られる文物が流通していたようだが。
現に四川盆地でそれらしき文物が出土している。
3000年前と言えば、周の時代だ。
251 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 12:23:07 0
>>249 四川文明とインダス文明の関連性を聞いた事は有るけどたまたま似てるだけじゃないの?
巴蜀文字はインダス文字に似ているって言うし
共通点が二つの面で存在すると言う事は、ますます何かしらの関係があったという風に思えるんだが・・・
文字まで似ているのか、
これは四川文明がインダス文明の影響を大きく受けているのだろうか。
>>254 逆かも知れないな
実は四川文明の方が古いっていう
それはない
四川文明は長江文明でも新しい方
メソポタミア文明→インダス文明→長江上流域
しかし、インダス川から四川まで、直接行き来するには遠すぎるの。
ガンジス川あたりにも文明が有ったんじゃね。
実際ビルマから四川に入るルートはあったからね
中国人自体そのルートで東アジアに入ってきたし
>>259 そのルートなら秦以前から東西交易(?)みたいなものが行われていた可能性は高いな。
果たしてどうかな
>>250のような物が見つかったり、文字が似ているのは
インダス文明の一派が四川にやって来たというだけかも知れん
交流しているとは限らん
263 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 14:21:11 0
あれだな。
李自成は明智光秀と同類。
誤爆?
まぁ何らかの交流は有っただろう
大昔に、ビルマから四川入り出来るルートが有ったと言う事は、交易も可能だったとは思う。
>>248 小型船なら楽々越えれるでしょ。
少なくとも、その時代でも中東あたりまでは行けたはず。
269 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 15:18:56 0
それには途中で寄港しなければならないが
当時に寄港できるような所は有ったのだろうか
>>269 あるに決まってるだろ。
じゃなきゃ、南越国は南海貿易なんてやってられんな。
南海貿易で栄えたんだから。
まぁ、あの時代から海上交易は盛んだったよね
特に中東では
だから、東南アジアでも南海交易やってたつってるだろ。
で、中東と東南アジアのそれは繋がってたの?
そりゃつながってはいただろ。
細いか太いかは別として。
275 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 16:01:32 0
限りなく細いな
もしかして、マラッカ海峡を越えたのは鄭和が初めてじゃね?
>>257 イラク文明とインド文明の間に連続性が無いw
インド人の祖先は出アフリカしてイラン南部からインドに土着したから
アフリカ東岸とインドは60000年前頃から交易が行われてたんだろうな
>>276 7世紀にはイスラム商人が広州に住み着いているし、
東西交易と言えるんじゃないかな
>>277 まぁ、全くの無関係では無いと思う。
時系列的にも。
>>278 インダスと四川もそういう流れで交易関係を持っていたのかね
他方面のルートで行くと、ヒマラヤ山脈や天山山脈を越えないといけないからな。
それよりは雲貴高原を越えて、ビルマ・インドへ至る方が楽。
286 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 16:57:10 0
河西回廊〜タリム盆地は奇跡的な地形だよな
それに河西回廊は首都の長安とも近いし
だから長安が首都となった漢代はオアシスロードが重視された
成都が首都となっていれば西南シルクロードが中心となっていたのだろうか
>>286 当然だ。
現に蜀へ篭った政権はそれをフル活用している。
地方の特色だな
>>283 交易が確認されるのはエジプト新王国とかペルシャ帝国の時代から
エジプト文明の外交交書に、メソポタミアの言葉で書き記されたものが残っているので、無関係では無さそう。
ん
南下おかしくないか?
唐とアッバースも戦闘以外で何か交流はあったりしたの?
>>293 タラス河畔の戦いから30年ぐらい後に同盟してるけど。
まぁメソポタミアとインダスに何かしらの関係が有ったのは間違い無いだろ
あれだけ距離も近いんだし
黄河や長江の文明も同じぐらいの距離感ではあったが接触はあった
296 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 18:11:55 0
それらの文明は全て韓国起源
ペルシャ湾で船に乗れば何の障害もなく短期間で行けるからね
298 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 18:13:56 0
シルクロードを作ったのも、我々韓国人です
宇宙を創ったのも韓国人ニダ
>>295 シュメル語もイラン語群でもセム語でもない謎の言語みたいだしな
南東部にはインド人に分かれた集団がいたのかも
>>262 それは無いな。
長江上流域の民族も、黄河文明と文化が異なるだけの中国人。
決して、インダス人では無い。
四川文明はチベットビルマ系だと・・・
>>295 近いつっても2000kmぐらい離れてるよ。
黄河と長江はせいぜい500kmぐらいしか離れてない。
全然違う。
チベットビルマ人とは限らない。
あそこは色んな民族が混ざり合ってるからな。
共存してたのだろう。l
307 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 19:33:12 0
インダス系も少しは居るんじゃねーの
全ての文明の起源はインダスだからな
310 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 20:00:02 0
文化的なことなしに経済的政治的には中華帝国が成長してたのは宋帝国だけだそうだ
果たして宋かな?
確かに宋代の成長率は高かったと思うし、それに比べたら他の王朝の成長も霞んで見えるが。
312 :
<丶`∀´>:2011/01/20(木) 20:11:04 0
中国王朝など大した事ないニダ
大朝鮮帝国マンセー!
313 :
<丶`∀´>:2011/01/20(木) 20:14:50 0
>>309 何デタラメな事を言うニダ
あらゆる全ての物は韓国起源ニダ
314 :
<丶`∀´>:2011/01/20(木) 20:17:34 0
もちろん二輪戦車は韓国人が発明したニダ
日本人も中国人も我々韓国人に平伏せニダ
>>310 文景の治(漢)、貞観の治(初唐)、開元の治(盛唐)などでも十分に成長していたかと。
開元は微妙な気がするな
文化だけが繁栄していたような・・・
経済・政治においては文景や貞観が繁栄した
東西交易に関しては、玄宗の治世である開元の治の方が栄えていたはず。
それはどういった理屈?
チベット人もビルマ人もタイ人もビルマ人も、
すべて文化風俗が異なるだけで中国人だよ。
天下=中国だから。
320 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 20:48:35 0
何故ビルマ人を2回言ったw
大事なことなので2回言いました。
イギリス人もフランス人もスペイン人もトルコ人も、
すべて文化風俗が異なるだけでローマ人だよ。
天下=ローマだから。
>>318 都護府に送る物資の量が100倍に増えてるよ
人口も税収も倍以上に増えてる
324 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 21:06:35 0
>>316 まあ長安周辺とかなら成長というか繁栄はしてたかもしれんが
貞観の治は発展してたけども、まだ熟してない感じだな。
開元の治がオレンジ色のみかんとすれば、貞観の治はまだ青がかっている感じ。
成長と繁栄は違うよね
繁栄は衰微しちゃうと元(昔)に戻ってしまうけど
成長は一度してしまえばなかなか退化する事は無い
見せかけだけの変化か、根本が変わっているかの違い
元に漢から唐まで人口の上限(6000万?)が全く変化していない
宋になってようやく1億を越えた
328 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 21:23:47 0
みせかけとは失礼だね。
それに人口が全てでは無いだろう。
>>328 産業革命以前は、人口=国力じゃないの?
>>326 意味が分からない
成長の結果が繁栄だろう
>>329 技術は時代によって水準が全然違うけどね
332 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 21:38:13 0
>>324 唐代の長安は国際都市として文化的には栄えていたが、食糧問題に悩まされていた
経済的に飛躍していたのは、どちらかと言うと江南じゃな
円周率の歴史
後漢時代(張衡):約3.162
南北朝時代(祖沖之):3.1415926 < π < 3.1415927
数百年経っただけで円周率の正確さがこれだけ変わったっていう!
長江文明の担い手は、語族でいえば、タイ・カダイ語族か、ミャオ・ヤオ語族だろうよ。
この2つのグループが、「漢族」に押されて南下していくのが、「支那(チャイナプロパー地域)の民族史」であるが、
問題は実は、「中原の漢族」が一体何者なのか、「出自がよくわからない」というところにある。
夏王朝(系のゆるい都市国家群)の担い手は、本籍はタイ語族で淮河方面から川を遡って中原に移住したが、
そこでチベット語族およびアルタイ語族と接触し、言語が通じないので
絵文字で意思疎通を始めたのが「漢字」の始まりだ、という説がある。
この説の面白いところは、パロール(口頭言語)としての「シナ祖語・シナ語族」を認めないところで、
漢文の最古の形とは、「絵文字の配列の読みかた」であって、「言語」ではないと言い切る。
(つまり「発音を後から表記」した通常の文字ではなく、「先に文字があり、後で読み方の規則ができた」ということ)
一見トンデモのようだが、
正統な漢字研究者や中国語音韻研究者なども、よく似た結論に達することが多い。
>>332 漢から唐で耕作地がだいたい1.5倍に増えてるけど
大半は江南だろうしね
337 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 21:57:16 0
>>333 その祖沖之が算出した円周率は、その後1000年間で最も正確な円周率に君臨していたんだよな。
ルネサンスの時代になるまではこれより正確な円周率は算出されなかった。
>>327 華北平原の粟と黍だけで、1億の人口をたたき出した前漢末の人口爆発が異常ww
ここで、黄河中下流域は土地の地力を全部搾り取られたようなもので、
その後は「残りカスの歴史」でしかないところがある。
黄河中下流域限定で、人口密度が前漢末に達するのは、
下手をすれば人民共和国時代に入ってからじゃないか?
まあ、メソポタミアよりは夏に雨が降るので、イラクほどひどいことにはならなかったが、
それでも南北王朝の緩衝地帯として無人地帯になったり、
1930年代になっても、蒋介石が堤防を切って水浸しにしたり、大変な限り。
尤も、地球物理学的には、華北平原は北側が隆起しているので、
本来なら、黄河は蒋介石が決壊させたルートで流れるのが筋なのかもしれない。
339 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 22:01:37 0
>>330 感じとしては大航海時代のスペイン・ポルトガルが繁栄、イギリス・オランダが成長
黄河は長江と比べて氾濫が多いよなー
>>327 唐代の戸籍で丸ごと残ってるのは、9世紀末の死に掛けてる時期の物だけ
三国時代でも人口10分の1に減ったからな。
確かに戦乱時代では把握数が減って激減するのが常だが、これだけ減ったのは三国時代だけじゃないか?
>>339 だから
言葉の定義を勝手に作るなと言っている
辞書を引け、辞書を
そのあまりの激減が隋唐になっても響いていたんじゃねーの。
>>345 収穫量は5割増以上になってるのに、人口だけそのままってのも何かな
春秋戦国2000万? → 秦2000万? → 前漢5900万
三国800万 → 晋1600万 → 唐5200万
349 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 22:26:05 0
前漢は最後の最後まで人口増え続けたんだよな。
西暦2年って、滅亡する6年前やないかと。
>>346 それだと、実際の把握人口は別として(唐の)養える人口の上限は9000万以上と言う事になるな。
唐(755年) 戸数 8,914,709 人口 52,919,309 『通志』
755年と言えば、安史の乱が起きた年。
果たして起きる前の人口統計なのか、起きた後の人口統計なのか・・・
>>338 確かに前漢の人口は異常だと思うが1億は行き過ぎだと思うぞ
7100万という説は有るけどさ
352 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 22:42:03 0
唐のピーク人口は5300万人。
それより前だとまだ十分に熟しておらず、人口は少ない。
それより後だと安史の乱で荒廃して、人口が減っていく。
353 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 22:43:58 0
戸籍外の人口を合わせれば、ピーク時で6千万〜7千万になるだろう。
収穫量の割に合わないのは、一人当たりの食料消費量が増えたのかね?
355 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 23:01:49 0
漢は戸籍対象外を含めると、7千万〜8千万でやはり唐よりは若干多い。
>>354 技術や生活の水準が上がったんじゃね
秦漢はほとんど農民で生産物もほぼ穀物と桑だけど唐以降はそうじゃないし
>>354 唐って中央の権力弱いからさ
地方が人口を少なめに報告しても文句言えなかったんだと思う
地方の把握してた人口はもっと多かったのかも知れない
>>357 府兵制を敷いてる時点でそれはありえないな
府兵制のおかげで逆に戸数隠しが頻発したとか
戸数隠しという単語自体が謎過ぎる
兵役に行きたくないから本籍地から逃げたんだとさ
なら単なる雑戸、奴婢だな
363 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 23:50:39 0
そうか。
雑戸・奴婢が増えて戸籍人口が減ったんだな。
唐は統治能力低いからな
何故そうなるw
でも実際そうでしょ
把握してる人口が少ないと言う事は
367 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 00:21:24 0
それは玄宗の時代になってからな。
太宗の時代はそれでうまくいっていたのだ。
凡人には天才の事が理解できないし、天才には凡人の事が理解できない
つまり、太宗の作った制度は玄宗に合わなかった
相性が悪かった
唐代の戸籍には、租庸調を納めるべき「丁男(20歳から59歳までの平民男子)」が異常に少ない。
戸籍上、丁男(課口)が一人でもいる家は課税対象の「課戸」となり、納税や労役・兵役の義務を負った。
不課口(非課税者)は有官位者、老弱(60歳以上か20歳未満の男)、廃疾(障害者)、女性や未亡人、賤民(部曲・客女)・奴婢など。
755年、安史の乱直前に記録された891万4709戸・5291万9309人のうち、4割が不課戸、8割5分もが不課口であった。
人口の半分は女性としても、戸籍人口の8割以上が非課税というのはあまりに異常である。
これは民が課税逃れのため、男子の数を極度に少なく報告したことによるという。(戸籍調査の役人は袖の下を得たであろう)
また『通典』での推測では、実際の戸数は少なくとも1300万〜1400万であるといい、戸籍に把握されない家が500万戸前後もあったことになる。
とすると1戸6人として3000万人、戸籍上の人口と併せて8300万人となる。
大部分は貴族・官僚・寺院・道観・富豪などの大土地所有者に隷属し、佃客・荘客と呼ばれた荘園小作農(農奴、隷農)であろう。
これは中小農民の没落・逃亡を意味し、大土地所有者は彼らを兼併して巨大・富裕となっていった。
宋で1億なんだから
唐で8000万ぐらいいてもおかしくないな
371 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 00:41:49 0
治世でも戸籍人口は実際の人口より少ないんだよな。
>>369のは推測でしょ?
推測人口が多くても、把握人口が少ないのは確かだ
>>370 果たしてそうだろうか。
人口というものは、ある時停滞したり、ある時(突然)爆発したりもする。
唐の「公地公民」は、正しく北朝の伝統を引き継いでいて、均田制的な、「開拓地政策」「公有地政策」の発想が強く、
「人民をひとり残らず把握する」という発想ではないからなあ。
人民把握制度と捉えるのは、それは日本律令制の「公地公民」にひきずられているわけで、
つまり、いわば1400年も経ってまだ「孝徳天皇に騙されている」とも言えるw
土地政策というのは、意外にわからないものだからねえ。
古代ローマの有名なグラックス兄弟の改革も、
「公有地の払い下げの話」なのか、「大土地所有の制限」の話なのか、
未だに説が分かれているくらい。
唐は貴族制の時代だしなあ
378 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 01:42:29 0
まぁ、漢も戸籍外人口は多い。
755年 5291万人
764年 1692万人
凄い減りようだな・・・
奴婢や農奴を積極的に囲うようになったのは
魏晋南北朝以降の門閥貴族制下ってのが通説だけどね
>>378が新説を披露してくれるそうだけど
382 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 02:21:30 0
通説(笑)
>>381 金と南宋の人口を足すと、1億を軽々越えるんだよな
宋と遼を合計すれば一億人超えるアルよ
つまりは南宋と金を合計して一億人超えるのは当然の事アルね
>>357 唐王朝は地方分権の傾向が強いだけに、隅々まで統治が行き渡っていて、逆に統計漏れが少なかったんじゃないかと・・・。
386 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 02:56:59 0
確かに根
>>385 一人残さず徹底的に把握してやると言うような体質では無いから
そうとも言えない
明の最盛期は1億6200万人
清の最盛期は4億1200万人
>>388 清は産業革命が起きる前(康熙帝時代)から人口爆発してるんだよな。
人頭税廃止で。
だから、それ以前の王朝も本当は2〜2.5倍くらいに多かったのかも。
390 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 04:01:51 0
ねーよw
明以前は乱世を除けば、せいぜい多くても1.5倍が上限だろうね
392 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 05:04:29 0
後漢も前漢より戸籍人口すくねーの。
393 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 13:00:36 0
後漢の人口が少ないのも唐と同じ理由?
本当は前漢よりも多い?
赤眉の乱その他の内戦、貴族の土地併呑で自作農が減少
どう考えても西漢のが多いね
>>387 基本一人残さず徹底的に把握してやると言うような体質だよ、官僚制なんだから
貴族政治なこともあって、宋と違い賎民を把握しない方針なだけで
人口多いからイイとは限らない
太宗貞観13年 639年 戸数:308万 人口:1328万
玄宗開元14年 726年 戸数:706万 人口:4141万
玄宗開元20年 732年 戸数:786万 人口:4543万
玄宗開元28年 740年 戸数:841万 人口:4814万
玄宗天宝14年 755年 戸数:891万 人口:5291万
発展していた貞観年間や開元年間より、衰退し始めた天宝年間の方が多いというね
397 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 13:27:01 0
基本的に放って置いても増えるもの>人口
反乱が起きない限り衰微期でも現状維持か増加かのどっちかだ。
人口の増加幅で、どれだけ繁栄していたかが分かるけどな
陳勝・呉広の乱
楚漢戦争
呉楚七国の乱
前漢は普通に禅譲で滅亡したからねぇ。
末期になっても安定はしていたし、増え続けていたんだろうねぇ。
401 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 14:07:26 0
>>399 呉楚七国の乱は1年も経たない内に終結したので打撃も少なかったよ
流民の事は豪族が囲ってくれてるんだよねぇ。
まぁ、それが占めるウエイトが大きいんだがな。
>>286 とは言っても、あれで500〜2000mぐらいは有るから驚きよ。
406 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 14:53:25 0
東漢が貴族社会だったとは初耳
貴族というか、外戚だな。
光武帝・明帝の時代はむしろ弱かったけど、章帝以降は幼帝が連続して続いたせいで外戚が台頭してしまったっていう。
小沢=韓信
409 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 15:13:29 0
>>403 把握してないと言うだけで、そういう訳でも無い。
平民よりは下って程度だな。
戸籍対象外なのに?
>>208 趙高に負けたというか、始皇帝の名前で死罪を申し付けて扶蘇があっさり納得してしまうのは
始皇帝がならあり得ると思ったから。そう信じてしまうくらい始皇帝がダメ。
始皇帝はバリバリの法治主義で、融通が利かないというか、杓子定規だかんな
教科書通りにしか物事を進められない奴
414 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 15:54:40 0
自分の政策に諫言されただけで左遷。
>>403 欧州やインドはともかく
アジアで人間扱いされない賎民って、基本的に存在してないよ
賎民最下層の奴婢でも主人以外に対する裁判権持ちだし
>>403 主人も奴婢を殺害までしちゃうと罪に問われたしね
>>414 それさえなけりゃ、扶蘇がすんなり皇帝になれただろうな
419 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 16:13:47 0
奴隷って、案外簡単に主人をヤれちゃうんだよな
>>419 後漢初の群雄、彭寵は奴隷の子密に首を取られた。
でもそれって後漢の時代だよね
唐の時代も同じなのか?
>>134 アレクサンダーも天山山脈を越える事は出来なかったな
423 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 16:41:34 0
チンギスは楽々天山越えしたよ?
やっぱ格が違うよねw
>>422 アレクサンドロスもソグドでは苦戦して、なあなあな処置で済ませ
腹癒せに征服した領域の住民を難癖つけて虐殺したうえでインドへ転進
インドへ着いても苦戦続きで、兵を供出すれば支配下に置かないという
偽装勧告で誘き出し、都市や村へ戻った所を襲撃して皆殺す姦計連発したからな
余力なんてこれっぽっちも残ってないw
項羽も戦闘では勝利したが、この時点で中華を再統一するのはもう不可能だった>彭城の戦い
常に劉邦に先を越されていたからな…。
う〜ん。
>>424 後先考えずに、今現在の事しか考えて無かったのな
もう少し長生きしてたら死ぬ前に帝国が崩壊してた所だ
428 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 17:13:04 0
実際にそうなった例が項羽だが、項羽は劣化アレクみたいな感じで、本物アレクなら何とか持ちこたえたかもね。
莫高窟
泰山と莫高窟は、世界遺産の登録基準を全て満たしているな
でもスケールは長城の方が圧倒的にデカイ。
万里の長城 6259.6km
京杭大運河 2500km
>>432 長城を盛るのと、運河を掘るのと、どっちが重労働かな?
434 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 17:53:11 0
一気に作り上げたわけじゃないからの。
1000年以上かけて少しずつ。
開削する方が大変に決まってるじゃないか
距離は長城の半分以下だけど同じくらい負担は大きい
それよりは、漢・唐のシルクロード整備が大事業だとも思えるんだが。
>>436 始皇帝も咸陽へ通ずる巨大な街道をいくつもの方角に作らせてるよ
438 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 18:20:12 0
シルクロードじゃないし。
>>438 そうだけど、道の整備なら始皇帝もやってるという意味さ
しこっていい?はマジでやり過ぎ。
度が過ぎてる。
何か卑猥な発言に聞こえるのは気のせいだろうか?
やはり反乱は起きたのも始皇帝が原因だな。
ただ、始皇帝は強いので反乱を起こす勇気が無かった。
始皇帝が死んでようやく反乱を起こしたというわけだ。
443 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 18:46:49 0
>>442 確かに遠因ではあるだろうが直接の要因はやはり胡亥・趙高の無能ツートップ
>>443 始皇帝も原因に含まれるっちゃ含まれるけど、どの道胡亥と趙高が水の泡にしてくれるからなw
特に皇帝独裁権の確立していない古代ではあっさり転覆させらせる。
>>445 このスレに辿り着くまで後数ヶ月はかかりそうだな
448 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 19:06:48 0
オツガイ・ハーン
450 :
オツガイ ◆nh1/xq8iIM :2011/01/21(金) 19:12:02 0
451 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/21(金) 19:13:40 0
>>450 念のため、言っておくが彼は成りすましです。
トリップは当分のあいだ変える気はありませんので。
>>334 >問題は実は、「中原の漢族」が一体何者なのか、「出自がよくわからない」というところにある。
色んな民族の連合体っちゅう可能性も有るね
もともと華夏民族の住む範囲はものすごく狭かったんだけども
どんどん吸収・拡大を繰り返してあそこまでデカくなったし
>>447 日付けみると一月ぐらいのタイムラグ翻訳されているみたいだよ
しかし向こうの連中こんな場末の掲示板までよくチェックしているな。
以前いた自称中国人の あい ってのもしかしてそこの管理人だったりしてな。
>>430 莫高窟の壁画のほとんどは、隋唐代に描かれたものらしい。
>>451 色々大変だとは思いますが
頑張って下さい
>>453 有り得るっちゃ有り得る
あの人なら翻訳出来るだろうし
トルファンを吐魯蕃としているようだけど、敦煌じゃなかったっけか。
オツガイ、ボロが出始めたな。
459 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 19:41:00 0
>>457 吐魯蕃と敦煌は500kmぐらい離れているよ
宋の時もシルクロード(オアシスの道)は機能していたと言うけど、
具体的にどの国とどんな交易をしていたの?
そっち方面は西域への出口を西夏に抑えられていたから西域諸国やオアシスロードを通じた商取引は全部西夏を
とおさないといけんかった。
だから、主に海上交易になりました。
462 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 20:08:20 0
つセルジューク朝トルコ
あの時代は遠距離交易させてもらえなかった、っぽいね。
隣国交易しか出来ないから、オアシスロードなら西夏だけ。
>>462 宋とセルジュークに何の接点が?
もっと具体的に
それなら明はどうなる?
西域方面はタタール・オイラトに抑えられているし、
南海方面は海禁政策取っているし、
交易手段が無くなってしまうじゃないか
467 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 20:28:24 0
つ西南シルクロード
>>460 取引相手国は帳簿に載らないから解るわけないでしょ
ただ、長安の在る州は交易税収入が南海交易の盛んな沿海州と遜色無いくらい大きかった
まぁ、大半は西夏だろう。
>>468 交易が完全に途絶えてしまったわけでは無いのか
472 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 21:04:31 0
確か、タタール(モンゴル)とも長城を介して交易してたよね。
>>473 たま〜に
条件に不満を持ったタタール人が攻めてきたけどな
大宋帝国(笑)
大明帝国(笑)
何が言いたいの?
478 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 21:35:38 0
世界史へ全く影響を与えなかった中国王朝って何がある?
三国志なら「仲」だな。
統一の過程でやられていくのって、腐るほど有るからね〜
漢(更始帝政権):2年間・赤眉軍に滅ぼされる
漢(劉盆子政権):2年間・後漢に滅ぼされる
成(公孫述政権):11年間・後漢に滅ぼされる
仲(袁術政権):2年間・後漢に滅ぼされる
485 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 22:05:28 0
正式に認められて無いから?
自称皇帝だかんな。
冉魏(350年 - 352年)
個人の影響力は強い方だ>冉閔
490 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 22:43:21 0
東晋の人口って最盛期でどのくらいなんでしょうか?
調査記録とか残ってるんですかね。
ちなみに、同じ時代の前燕の人口は999万人
東晋は前燕より少ないそうだ
東晋の最盛期っていつ頃よ。
劉裕の時代か。
だとしたら、前燕の人口は参考にならんな。
すでに滅んでる。
494 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 23:12:17 0
淝水の戦い
前秦100万vs東晋7万
これが人口比だとしたら・・・
割と多いな。
前に四百数十万人とか言ってた人が居た気がするんだけど、どっちが正しいんかね?
498 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 00:13:24 0
四、東晋、南朝の時期に南方の人口の増加
1.東晋の至劉と宋元嘉の時南方の経済の発展と人口の増加
(1)永嘉の乱すこと後で北人の大量は南に移します
西晋の“永嘉の乱すこと”の後で、南方は次々と宋、斉、梁、陳の5つの王朝と東晋を創立して、任せて長江の“天険”の障壁を敷いて、北方が
それぞれ政権の間の戦禍に割拠して連結を免れて、および遊牧する部族の後れている生産様式の破壊、比較的に長期の内に比較的に安定的な局
面があって、北方の広大な漢族の人民、戦乱、凶作と民族迫害を逃れるため、大量に江南遷を渡って、史載:“河南の紳士淑女の避難する江左
者の16、7”。
これらの北方知識分子南渡の時に、大部分が(は)宗族、客、郷の党を率いるのが同業です。
もしyan州の大家族のシーの鏡は郷里の千余の社が広い丘陵で亡命することを(今江蘇揚州)率いるならば;青州の大家族の徐澄の、つまり子弟
のそして郷里の士どうにか千余の社の南渡京の口を率います。
北方の人民が分散していて南方の絶え間ないことまで(へ)亡命して、もし“人のある荊州を流すならば、10数万戸”など、枚挙にいとまがあり
ません。
予想するによると、東晋から初めて劉宋の粉まで(へ)、北方はすぐ100万以上で亡命します南下する人口。
六朝の時代はそこまで南には逃げてないな
江准あたりまでだろう。
むしろ黄巣の乱で江准→浙江・福建まで逃げた
いったほうふうに段階的なものがあると思う。
でも黄巣軍も広州まで南下したよな?
東晋〜劉宋の時代は時期によって、江准を支配したりもしてるんだよな。
黄巣は中国全土を暴れ回ってるよ。
503 :
訂正:2011/01/22(土) 00:32:00 0
四、東晋、南朝の時期に南方の人口の増加
1.東晋の至劉と宋元嘉の時南方の経済の発展と人口の増加
(1)永嘉の乱すこと後で北人の大量は南に移します
西晋の“永嘉の乱すこと”の後で、南方は次々と宋、斉、梁、陳の5つの王朝と東晋を創立して、任せて長江の“天険”の障壁を敷いて、北方が
それぞれ政権の間の戦禍に割拠して連結を免れて、および遊牧する部族の後れている生産様式の破壊、比較的に長期の内に比較的に安
定的な局面があって、北方の広大な漢族の人民、戦乱、凶作と民族迫害を逃れるため、大量に江南遷を渡って、史載:“河南の紳士淑女の
避難する江左者の16、7”。
これらの北方知識分子南渡の時に、大部分が(は)宗族、客、郷の党を率いるのが同業です。
もしyan州の大家族のシーの鏡は郷里の千余の社が広い丘陵で亡命することを(今江蘇揚州)率いるならば;青州の大家族の徐澄の、つまり
子弟のそして郷里の士どうにか千余の社の南渡京の口を率います。
北方の人民が分散していて南方の絶え間ないことまで(へ)亡命して、もし“人のある荊州を流すならば、10数万戸”など、枚挙にいとまがありま
せん。
予想するによると、東晋から初めて劉宋の粉まで(へ)、北方はすぐ100万以上で亡命します南下する人口。
>>499 江准と言ったらヒ水の戦いが起きた場所だし、
北朝と南朝の軍がぶつかる場所でも有る
そんな中途半端な所へ逃げるかね・・・?
>>496 あ、ごめんw
ダブルカウントしてたから527万弱だ
ヨウ州:約12〜15万戸(東晋へ逃げたのは、約4〜5万戸)
ヘイ州:約6万戸(同上、約4万戸)
益州:約22万戸(同上、約20万戸)
キ州:約30万戸(同上、約1万戸)
西晋全土:約377万戸
ちなみに左の戸数はまだ西晋時代のものなので、五胡十六国時代の戸数は「左の戸数−右の戸数」で求められる
但し必ずしも正確とは言い切れないようだ
揚州って東晋領じゃないの
>>505 そっか。
しかしそうなると、やはりこの時代の江南の人口はまだまだ少ないんだな。
510 :
506:2011/01/22(土) 01:00:15 0
>>508 ゴメソ
ちょっと間違えたわ
訂正
秦州・雍州:約12〜15万戸(東晋へ逃げたのは、約4〜5万戸)
并州:約6万戸(同上、約4万戸)
梁州・益州:約22万戸(同上、約20万戸)
キ州:約30万戸(同上、約1万戸)
西晋全土:約377万戸
511 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 01:09:31 0
人口が華北:江南で1:1になったとよく聞くけど、やっぱりデタラメなのか。
>>511 南北朝時代に華北と江南の生産力が逆転したとはよく聞くけど
人口はどうなんだろうね、宋から隋まで100年あるし
南朝も侯景の乱で人口減ってるよな
その直前ぐらいなら北朝に勝ってるかも知れんけど
(2)南方の経済と人口の共に成長すること
北方の人民の南に移すこと、南方に大量に働く人手と先進的な生産技術を持ってきます。
東晋統治者の王導、桓が暖かくて、謝安、劉裕などは一連の比較の時宜にぴったり合う政策を実行して、南方の経済にとても大きい程度の
発展を得させて、人口の増加のために物質の前提を創造しました。
王は導いて籍の“の荊揚晏と安に任せて、戸籍の豊かな”の優越している条件、全て5年と帝の(330年)になるに租税の制度を改革して、“1度
の庶民の田に始まって、十分の一取って、率のムーの税の米の3リットル”。
謝安はまた孝行の武帝の時期(372―396年)は“の高爵の貴族たちの以下を実行して、口の税の米の3升、労働の身で”の新しい税法を積み
立てます。
比較的に農民の負担を軽減して、亡命する農民をまた土地に帰って上がってこさせる、身を入れて農業生産に従事します。
桓が暖かくて、劉裕は田舎くさいことを励行して切れて、政府に知識分子の権勢のある家柄の手から数量に相当する働く人手を奪回させて、
政府のコントロールのもとになって戸を編みます。
史称:“時に財の多い国豊、本当ですこのため”。
東晋統治したの“百許年の中で、風と塵の用心がなくて、地区以内、晏如也”。
政局が安定的なため、経済は発展があって、“時年豊と、庶民は心楽しく働いて、谷帛殷は多くて、ほとんどどの家も衣食が充分です”。
516 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 01:32:11 0
>>470 その為の琉球厚遇。彼らが倭寇と結託するのを懸念したせいもあるけど、
琉球は宮廷の海外からの奢侈品調達役として開始の量や、進貢回数制限の
緩さだけでなく、技術指導など異例の厚遇を受けた。
厚遇される経緯は多少違うけど、第二次大戦後の日本がアメリカに市場を
開いてもらい、安い通貨に目を瞑ってもらい、技術指導してもらったようなもん。
全体の東晋の時期、史籍の唯一の過ちの関係する戸籍の記録、歴代の戸籍の統計の未開の分野になります。
前東晋の太和の5年(370年)前燕を述べてひとつの戸の2,458,969があって、西晋はあまりに康初(280年)ですに比べて地域のの戸の数に相当して1.2倍増加しました。
西晋あまりに康は初めて東晋の地域を統治する各州郡に相当して、ひとつの戸の791,600があって、ももしも増加する1.2倍計ならばによって、東晋太和に5年ひとつの戸の1,743,698がありました。
しかし前に述べて、西晋の時期の代々の名門の豪族の“木蔭の戸”の情況はきわめて深刻で、《晋の本・地理(学)の志》はあまりに康元年の
の戸の数を載せて、自身はすぐ本当でないであることがあって、前燕はただ動乱の重ねで盛んになって、局面は少し事は安定的で、封建的な経済は少し状況で回復と発展のがあって、戸籍の達成したレベル。
比較し始めて、南方は比較的に平和で、安定する局面があって、北方で人民が大量に南に移してと現地の勤労大衆が共に開発しておりて、
経済はわりに大きい発展を得て、“財の多い国豊”、“どの家も衣食が充分です”の東晋、人口は更に迅速な増加があって、その実際の戸が予想を数えて300万より少ないことはでき(ありえ)ません。
南朝劉宋王朝の創建者の劉裕、貧しい家の庶民の地主の代表の人物にして、孫恩、盧の武装蜂起に従う重い打撃もとで東晋の後期腐って
いる知識分子の地主の勢力を利用して、政治の上で日に日に落ちぶれる有利な情勢、更に寛征省の調子を実行して、人民の負担の政策を
軽減して、東晋の時の計算するつを直して税金を徴収して計算する資金になって税金を徴収して、“資金の家がない”の貧民の地租と夫役の
搾取に対していくらか軽減します。
其子と劉義隆はまた何度も農業と養蚕を勧めることに命令を下して、“凡諸州の郡、全て最もまめな地の利をさせて、ディレクターに植えるよう
に勧めます”,責任を監督して“泳いで輩を食べて、全て業を付け加えることをさせます”,“の余すところない利をして、カイコの樹芸を耕して、
それぞれ其力を尽くします”,政治の上でそして“の要点の維備挙をやり遂げて、条は明密を禁じて、有恒科を罰して、爵はあふれている品物
がありません”,そこで“の内で点検の外で晏、全国各地は安らかです”。
劉裕の父と子の政権を握る近い半分世紀の期間、南朝の歴史の上で政治が比較的に安定して、経済の上へ発展する小康の時代。
史称:“義煕の11年の司馬休の外から駆けて、元嘉の粉となると、30は9年あって、戦車は使うなかれ、人民は外国人労働者です、労働は広く
て必ず簡単で、ごろつきがどうにか繁雑でやめて、余剰食糧の生息するムーまで(へ)、戸は夜閉めないで、ものの最も盛んなことをかぶせます。
……人民の戸の繁殖と育成、以前のでしょう時の1”。
しかし記録に見える劉宋の戸籍の数字、いつになく下がって、《通典》によると:“今史(劉宋)の孝武の明朝の8年(464年)戸の90万6千8百70
を押して、口の4百68万5千5百1”,また《宋の本・州郡の志》は各州郡の戸籍のを積載して分けて数を数えて、プラスした後にです:戸の901,769、口の5,174,074。
西晋あまりに康は初めて劉宋が地域の各州郡国を統轄するのに相当して、ひとつの戸の1,331,305があって、劉宋ただ及びだけ67.7%、劉
宋と西晋轄県から変化がない呉の郡などの14の郡はもし見にくるならば、長江下流の3人の呉を割って、江漢地区の南平、および蜀の中の
パ郡、戸の数は西晋の時に比べてある程度の増加の外にあって、その他の各州郡はあまねく倍に下がります。
劉宋の明朝の8年の戸籍数、184年前の西晋あまりに康初より低くて、はるかに及ばなくなった145年後に隋の大事業の5年(609)の戸籍数。
後者は劉宋が地域の各州郡を統轄するのに相当して、ひとつの戸の3,958,748があって、劉宋3倍以上を上回ります。
我が国の人口の発展史の上で、三国の(以)後でまた現れるこの谷間を継いで、明らかに前と永嘉を述べた後に北方の人口の大量は南に移
して、および1個半世紀間の民力(鋭気)を養うことを経て、経済と人口は皆わりに大きい発展を得て、“人民の戸の繁殖と育成、以前のでしょう時の1”の南部の中国の実際の情況、互いに合いません。
前に関係する東晋人の戸の300万より少ないことことはでき(ありえ)ない予想によって、元嘉の治療を経て、“ごろつきがどうにか繁雑でやめる”、領土の面積は東晋よりずっと果てしなく広い劉宋の明朝8年で、その実際の戸の数は300万の以上で時に。
東晋時代に300万戸以上有ったとすれば、1800万人以上
西晋の1600万より多いな
機械翻訳貼り付けてる奴は荒らしか?
>>516 玄関口の役割を果たしていたのか。
出島みたいな。
523 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 02:04:38 0
どうでしょうねぇ〜?
524 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 02:06:16 0
まぁ、無意味というわけでは無さそうだが。
>>520 それ(東晋の戸数)は推測でしょ?
なら、西晋も推測はもっと多いだろうから、やはり西晋の人口が上だと思う。
527 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 02:18:00 0
江南の人口増加は、華北から人が流れて来たというだけだからなぁ
いくら江南開発が進んだ東晋でも、中華全土を支配していた西晋に勝てるわけがない
五胡十六国〜南北朝に渡って華南は終始安定していただろ。
社会増だけでなく自然増も多い。
三国時代という戦乱が終わったばかりの西晋と終始安定していた東晋では東晋が上回っていた可能性も十分ある。
530 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 02:37:59 0
東晋の時代は、まだそこまで開発が進んでいない。
北朝と南朝が逆転するのは、南北朝時代になってから。
宋・斉・梁・陳の時代。
陳代になると、逆にもうボロボロじゃね?っていう
侯景の乱が起きてからはな。
東晋初期には王敦・蘇峻の乱、東晋末には孫恩の乱があるし、
梁末には宇宙大将軍の乱があるな
侯景の乱は別に民衆蜂起じゃないからな
まぁ、安定していたとは言うけど、反乱多いよなー
536 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 03:06:04 0
安帝が桓玄に禅譲して一度滅んでる。
劉裕の挙兵で何とか再興出来たけどね。
東晋は貴族制というか封建制的というか、軍権持った奴が反乱起こし易い体制だしな
政府・北府・西府の三大勢力に分かれてるからの。
ただ、一つが反乱を起こせば、二つで抑えると言った形で国の体を保っていた。
539 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 03:15:42 0
>>538 マテマテ
さすがにそういった大規模な反乱は起きてない
頻繁に起こる反乱を抑えながら、北伐って難しいな
その脆い政治体制を変えるに至らなかった所が東晋の限界か。
東晋程度で脆いならローマ帝国なんて砂上の楼閣蜃気楼だけどな
封建制とかもな
>>538 確か北府軍の管轄って揚州だから、政府=北府軍じゃね?
最初は北府軍なんて飾りみたいなものだったのにな
546 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 03:45:40 0
謝安・謝玄が登場してからは、桓温死後の西府軍とバランスが取れるようになった。
ってか、最終的に禅譲を受けた劉裕は北府軍出身なんだよな。
祖逖はどっちだ?
桓温が簒奪出来なかったのは、乱世だからと言う事も有るな
当時は西府一強の時代だったけども、華北では五胡が暴れ回ってる
ヘタしたら、もろとも潰されると思ってなかなか簒奪へ踏み込めず
更に謝安の台頭で、結局至らなかったと
549 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 04:51:47 0
三国無双やってたせいか、三国時代が中国の歴史の全てだと中一の頃思ってた
なんという修羅の国w
謝安が北伐やっていたら東晋による再統一もできたかもな。遊牧民族が最強とかほざいている遊牧厨も絶滅していてざまあだったのに
あいつら大嫌い。
話戻すと司馬道子が北伐つぶしちゃったんだよね。
謝安に軍事的才能なんて無いだろ
謝玄、謝石を使ったのは謝安
謝玄、謝石に桓温ほどの軍事的才能も気宇も実績も無いでしょ
ヒ水の戦いでは僥倖に恵まれて勝ったけど
554 ねらーはえらそうにいうが、おまえが100万の軍隊に戦うことなど無いくせに偉そうに語るな。
555は戦った事有るのか
558 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 12:53:16 0
謝玄はあくまで防戦の将というイメージが有るが、タイミングが悪かったのかもな
桓温や劉裕が活躍した時期と違って北朝が強かった
?水なら俺達が大将でも勝てそうだけどな
裏切り者朱序の作戦通り退却したふりをして、敵を誘い込もうとしたらそのまま崩れて終わりなんだから、完全に自滅
100万の大軍なら正攻法か、軍を分けて複数路から侵攻すればいいのに、わざわざ奇策なんか使いやがて
朱序のおかげだよな。
朱序が居なければ勝てないし、朱序が居れば勝つる。
562 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 13:09:35 0
それを戦場に連れて行ったのは紛れも無く苻堅
何ていうか、「五胡連合軍」と変わらんよね。
烏合の衆と言うか・・・。
>>551 趙高しかり、司馬道子しかり、政争には強くても、それ以外は全くの無能だな
両方とも天寿は全う出来てないけどね。
566 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 13:32:50 0
謝安の生きてる間に再統一出来るとは思わないけど、良い線までは行ったと思う
謝安(謝玄)→劉裕の連携プレーで、劉裕の代にはなんとか統一出来そう
>>542 その割には、漢や東晋より長生きしたけどな。
比べ物にならないくらいに。
>>566 でもなぁ、せっかく桓温が北伐で洛陽を手に入れたのに、その後に淝水まで押し返されてるようじゃ、到底無理じゃない?
南朝には無敗の将軍なんていないからな
そもそも、朱序は勝利の算段があって裏切ったわけじゃないけどな。
あれで勝てるんだったら、誰だって内応者を使って敵軍を壊滅させまくりできるということだ。
しかし、実際問題、そういった軍の瓦解は歴史上滅多にないし、あるとしても戦闘の終末期とか
にドミノ倒しのような連鎖的投降が生起する、当たり前と言えば当たり前な話ばかりだ。
北府(謝玄)軍が善戦をしなかったら、朱序はあっという間に裏切り者として袋叩きにされる。
敢えてその博打に出たのは、西府軍の宿将としての意地にほかならないだろう。
それに応えて渡河突撃を成し遂げた後輩の謝玄も、見事としか言いようが無い。
100万vs7万だからな〜
朱序が裏切った所で東晋の兵力はたかが知れてる
>>570 自己レスで補足になるが、この場合の裏切りが皆無と言うのは、天下併合の戦役時での話ね。
内応はそこらへんの戦で繰り返されているから、日常茶飯事と言うべき事象
573 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 14:01:33 0
苻堅が東晋の誘いに乗った時点で負けだ。
あんな100万の大軍をうまく統制出来るわけも無いのに、後退なんかするから。
ちょっとやそっとの事で勝利は揺るがないと思って、
油断してたんだろうね
>>560 複数路の侵攻は、寿春戦役の直前に東晋が益州・荊州から攻勢を仕掛けて、そっち正面の
前秦の兵力を拘束する形に持ち込んでいる。前秦には、あの時点で寿春正面しか攻勢経路は
存在しない。それでも100万近くを集めた国力には敬服するしかないけどね。
まさか、北府が西府並みに精強になっているなんて想像もできないだろ、前秦側じゃ。
「西府の攻勢は限界に達している。ここで寿春を突破すれば、東晋の防衛ラインは崩壊間違いなし。
おそらく、北府軍も西方への兵力転用や長大な防衛線により、その戦力は分散しきっている。」
今まで戦ってきた相手を普通に分析すればこんな感じだろう。
こう考察すると、やはり前秦側はもっと時間をかけて東晋を弱体化させる必要があったわけだ。
576 :
◆.tmAzUyAMM :2011/01/22(土) 14:14:02 0
西晋が呉へ攻め込んだ時も蜀が滅んでから、少し時間をかけて攻め込んでいますね。
揺るがないほどの国力差が有るとは言え、とどめを刺すには時間がかかる訳ですよ。
>>575 でも前秦ってその直前に謝安率いる北府軍に負けてなかったっけ?
謝安じゃないな
謝玄だ
579 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 14:30:04 0
凡将よりは上でしょ。
581 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 14:47:00 0
基本的に攻撃側と防御側が同じ戦力ならば、防御側が有利では有る。
しかし、ヒ水の戦いはそういう次元を超えている。
>>581 当たり前だろ
前秦軍は元から瓦解寸前だったんだから
583 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 14:52:36 0
そういう意味じゃなくてだな・・・。
584 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 14:56:22 0
554はようするに司馬道子 てめえが戦うわけでもないくせに謝安や謝玄をこき下ろすクズ おまえが東晋末期の可能性をつぶしちゃったんだよね。
>>567 何十回も中央政府が崩壊して何十度と王朝が断絶してるから
ローマもビザンツもただの地域名だな
ローマは建国400年で滅亡、秦は建国540年で滅亡、東晋は250年
おいおいおい オドアゲルの王国でも元老院は存続していたし、その後、東ローマ帝国はイタリア半島を奪回しているんだぜ。
過小評価したがる東洋厨やイスラム厨が必死すぎて笑える
587 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 15:00:08 0
>>582 じゃあ、分かりやすく。
100人のグループと7人のグループが戦ったら、普通はどっちが勝つと思う?
さあ?
一概に決め付けられないね
>>584 劉裕でも無理だったのに、謝玄には不可能でしょ。
金の騎兵17騎で北宋の歩兵部隊2000人を壊走させたことはあるけどな
>>586 漢人知識人が要職に就いてから、秦帝国は南宋滅亡の13世紀中頃まで続いたのか
そうかそうか1450年も続いたのか
592 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 15:24:55 0
陳滅亡でオワてるよ。
秦漢の血を引いてる南朝は結局滅亡したもんな
595 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 15:38:02 0
>>590 騎馬って人10人分ぐらいの強さが有るからな。
それに換算しても170人vs2000人だが。
謝玄なんて、謝安がいなければただの一兵卒というね
そう言うなよ。
あの時の東晋は守るだけの力は有ったが、逆に攻め込むだけの力は無かった
>>590 それ完顔宗弼じゃないか? あんな名将基準にされてもなー項羽が3万で劉邦軍56万を彭城でけちらしたようなもので
何の参考にもならないぞ。
>>598 はぁ? 東晋は史実で過去2度ほど洛陽攻略したんですけど。
襄陽の戦いで負けてますが、何か
東晋が常に攻勢だとでも思ってんの?
602 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 16:01:26 0
そりゃ負ける時もあるだろ 無敵のモンゴル帝国とやらも実際襄陽で何十回も攻城戦に失敗しているし、南宋も最後には破られた。
勝敗は戦いの常だ一局面だけ切り取って拡大解釈は厨のやることと知れ。
韓信の背水の陣も、おとり作戦であって
別働隊が挟み撃ちにするための布陣だった。
まともに背水の陣なんかで勝てるわけではないからな。
>>602 でも、当時の東晋は防戦一方だよな
ヒ水の戦いまでは
別に弱いとは言ってないぞ
攻め込む程に力は無かったと言いたいわけだ
>>594 どう頑張っても500年、ビザンツはギリシャが復活した帝国、支配層はギリシャ人で公用語もギリシャ語
大体騎兵は縦深戦術のさきがけとして敵の陣形を乱す役割をになっているだけ。
それそのものが敵をすりつぶす道理ではないんだよネ。
あくまで敵の戦意を挫いて敵の意図する陣形を機能しなくなるようにするのが仕事。
たぶん宗弼のことなんだろうけど、名将は少数で戦うとき敵と正面決戦などしない。
勢いで敵を畏怖せしめて潰走を目的としている場合が多く敵の殲滅を意味しない。
この辺かんちがいしている厨が多いな。
たとえば、騎兵でも高祖を包囲せしめた匈奴のそれとはまったく兵法が違うわけだ
わかったカナ?
608 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 16:11:45 0
>>603 本隊がそれやると士気が落ちるだけだな。
>>603 思いつく範囲で窮鼠の死兵となって敵を撃破した例というと楽毅を田単が破って斉滅亡を回避した故事ぐらいだ罠 あれも火牛の計あってこそだしな。
軍の勢いで敵の士気を削いで潰走せしめた道理であって、正面決戦してはいない。
歩兵主体の軍隊だと騎兵の役割は追撃だろ
田単も滅亡寸前から領地を回復した点は凄いが、それ以上に領地を拡大する事は出来なかったんだな。
>>610 追撃とは限らない戦国時代のケースをみると側面からついたり、後方に迂回して本陣につっこんだり、いくらでも運用の幅がある。
正面からいっても槍衾や盾や防柵あったら何の意味もない
敵の運用に遅滞を強いて敵軍の動きを封じるのが役目だよ。
>>611 しょうがないじゃん。 斉は滅亡を逃れるのが精一杯でもはや大国ではなくなった。戦争するには経済の裏付けがいるし民が疲弊しすぎた。
>>612 戦国時代は馬車兵メインで騎兵は秦と趙を除くとあまりいないよ
>>613 経済の裏付けは不要、支配力と糧秣は要るけど
ん? 戦国時代の話ではなく、金宋の話をしていたんだろ。
>>615 いるだろ。 経済の裏付けなく戦争できるか。
徴兵制なら取り敢えず兵糧があればok。
>>617 経済というのが官営工場での武具生産や食料の備蓄って意味なら
620 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 16:29:16 0
いや、田単は燕の混乱に乗じてなんとか七十余城全てを奪回出来たのだ
ある程度時間が経てば膠着状態となり、燕の混乱も収まったので
それ以上の進撃は難しかった
あのなー徴兵制と簡単にいうが、その分生産力が減少するし、軍を養う金はどこからわくんだよ。例えば燕を攻略するとして何年もかけていくならどれだけ金かかるとおもう。
戦争は大きく国力を消耗する光栄のゲームじゃあるまいし、一瞬で国が滅ぶなんてことはない。ゲエムじゃないんだから、無限の金銭と無限の民が湧いてくるなんてことはない。
秦を見てみればわかるが、7国統一できたのは経済の裏付けあってのことだ。楚を滅ぼしたのは王翦の50万規模の大軍だ。
李信の20−30万の軍では反撃の余地があった。 実際に反撃されてるしな。
インカ帝国みたいにツッコミの余地ありすぎなコンキスタドールの征服みたいなケースの方がよほどレア。
軍を養うのは食料さえ有れば良いと思うんだがな
>>622 兵站、食料、軍備etc必要。 そもそも、遠征軍行く間国を留守にしておく訳にもいかない。
戦国時代は均衡の斥力が強く働いた時代だから覇者が出ようとすると他国が連携する
始皇帝がでるまで誰も統一できなかった理由から考えてもわかるだろう。
伊達に7国が残ったわけじゃない。
>>625 どこにも戦争発動で生じる金がないけど
武器や鎧兜、糧秣の生産が経済だというなら解らないでもない
まぁ、その六国連合軍とやらは烏合の衆で瓦解しやすい。
>>624 正規兵1人養うのに輜重は3人必要。 前近代的な道のりを何百キロも行軍して食料だけ考えるなんてことはありえない。
例えば1年間軍作戦するとしようか、単純に兵糧1人1キロ一日消費するとして輜重兵あわせて3キロいるX365日だ。
作戦を2年つづけたら0.7d越す道理だ。 で万単位の軍を動かす傍ら、守備兵も残す必要がある。もちろん、
生産力も減少する。 食料だけいるなんてどこの世界の話だよ。
>>626 賤民賤民というが、宰相は呂不韋だったしな。 賤民よばわりされたユダヤ人は実際彼らの協力がなければ中世の諸侯は戦争出来なかったぞ。
後のユダヤ人追放は借金踏み倒しの側面もあったしな。
はっきりいうと戦争は経済と直結している。
遊牧民族だと現地調達基本だとか帝国陸軍が大陸で現地調達を基本にして恨まれたりしているが、
万単位の軍を現地調達だけでは無理なのわかっておろうが。南方作戦で日本軍が飢餓街道やったのは
伊達じゃないぞ。
農業=食料
商業=経済
>>631 労役だろうと飯くわなければ死ぬし、成丁不足して女子供だけで田畑耕していたら生産力おちるの当たり前だろ。
振って湧いてくるわけじゃないぞ。
>>630 呂不韋が秦に入ったのは子楚の擁立を画策して以降
>>632 孫武が糧秣は現地調達を心掛けろと説いてるよ、略奪じゃなく
>>633 農業も含めて経済だよ。 そもそも、斉の場合、国家存亡の危機にあったのに、成人男子大量に徴兵して
数年軍務につけたらどうなるか考えて見ればわかるだろう。
>>634 経済=農業生産という解釈でいいのかな?
639 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 16:50:57 0
確かに、徴兵によって経済力はマイナスされるが
>>635 呂不韋が政の初期まで戦争の後方兵站を仕切っていたのは事実。
そもそも、あんた楚を滅ぼしたのは呂不韋の存在で実務が整えられた後の話だろ
粛清されたとはいえ、先人の知恵で兵站業務が整備されたのは功績大。
>>636 孫武は名声はあったが、曹氏注が整えられるまで歴史から忘れされた存在。
それも近代まで実在すら疑われた人物だ
大体、日本でも租庸調はあったが、庸はかなりの負担だった。
現地招集、現地解散で自弁だったから、行き帰りに食料がなく途中で行旅死亡人になるケースが非常に多かった。
日本ですらこんな感じ。
戦国時代や秦漢時代でも孫子の兵法を活用してる人は多かったけどな
>>640 事実じゃねーw どこにもそんな記述は無い
そもそもなんで宰相が兵站業務しなきゃならないんだよ
呉世家と孫子呉起列伝があるんですけど
>>643 宰相が兵站業務しなきゃない
おまえが蕭何や諸葛亮知らないとは分かった。
>>642 孫武の兵法を実際につかった同時代人は呉越関係程度。 彼の後半生は不明で中原では無名の存在。
そ
>>644 租庸調自腹だろ。 主要街道で白骨だらけだったの既成事実。
疑うなら日本史板で聞いてみろ。
647 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 17:05:35 0
孫武の仕えた呉って、真っ先に滅んでる。
孫武の居た間は強かったけど。
始皇帝はやがて統一出来るものを若干国を傾けて早めただけでしょ
そして見事に秦は滅んだ
呂不韋は関係ない
有能と言えば有能だ。
康熙帝時代のオボイに似てる。
あるよ 呂不韋がいなかったら子楚や政は秦王になれていない。
同時に呂不韋の地位は大きく向上し、商人の地位も上がったであろう。
彼らの協力なくば六国を凌駕する経済充実や物資の大量調達は不能。
秦の大軍運用能力、常備軍育成は後方兵站の整備あってこそだよ。
それまでの覇者と根本的にちがうのは権威を誇るのみならず、中華統一を
実現できる経済力、運用能力、政務の整備etcあってのことだ。
そんな秦の政策を蕭何が劉邦の咸陽入城とともに項羽に焼かれる前に
実務書や法務書を運び出したことが漢帝国隆盛の礎になっていることからも
明らか。
呂不韋は厳密な意味での商人でないと思うのだが。。
654 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 17:19:22 0
項羽軍も経済を無視したから負けただろ。
劉邦軍は蕭何が経済を担当していた。
大体、おまえらアレだけ楚漢戦争を議論していて兵站や輜重の重要性を理解していないのか。
マッチョリズムでは天下を取れないとまだ分からないのか。
兵站が重要なのは分かるが、それは経済では無かろう
経済とは生産活動における生産物を分配し運搬する一般の活動の総称だろう。諭吉も経世済民をかげており、自民党の経世会の由来ともなっておる
658 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 17:35:48 0
近代以前は(ry
後方支援というより、屯田政策と運輸戦術のセットなんだよな>諸葛亮
兵站も考慮して北伐していたからな
姜維は勢いだけでやったから国力が大きく疲弊した
>>659 荊州時代は後方兵站の実務家だぞ。 関羽とセットで何の為についていたと思っているんだ。
その経験で丞相になってからも日常の些事にまで口をはさむ人になっている。
李厳首にしたのも重要性を理解しているからだし
>>660 元々は魏のアイデアを呉と蜀漢が模倣した
>>645 兵站を担当していたのは李厳や蒋エン
蕭何は丞相といっても、成り上がりで国家組織になってない劉邦軍にあって名称だけ
無名どころか諸子百家の説に度々孫子呉子の名は使われてるんですけど
>>646 日本史板で聞かなくても、延喜式か大宝律令で交通費支給と定められてる
665 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 18:00:01 0
龐統や法正が長生きしていたら、あのまま荊州で兵站を担当していただろう。
>>664 気に入らなければ讒訴ですか。アホらしい。
諸葛亮が兵站実務もみていたし、蕭何の兵站実務がなければ劉邦天下取れてないよ。
>>652 商人は秦において賎民、経済において秦を上回っていた六国は
重農主義の秦に為すすべも無く敗れ去った
秦に常備軍は一部しかいない、大半は徴兵され訓練を受けた農民
兵站の整備は経済や商人と何ら無関係に秦政府と官吏が行ったもの
交通費支給といっても額が問題だろう。実際に庸の行き帰りで途中行旅人死亡ケース多いから。
>>657 民間業者が輸送したわけじゃなく、官と労役を担う農民が運搬したんだけどね
670 :
◆/DkWKVJYJU :2011/01/22(土) 18:06:35 0
古今東西、兵站は基本中の基本
確か昔の教科書に荷物を背負ったまま餓死してる絵が載ってたな
駆りだされた分生産能力が減少するという当たり前の事実を忘れているな。
途中死亡する人もいるし、戦争すれば当然成員の何%かは不帰の人になるわけで
どうあれ生産活動に影響がでるとなぜ理解出来ないのか。
欧米みたいにテクノロジーの優越で大軍を火器や諸侯の内訌を利用して支配し、
コスト圧縮できたわけで無し、古代中国は戦争すれば即国益になるような事はない。
むしろ六国の連携の斥力が働き国家存続のコストが跳ね上がるだけ。
>>666 諸葛亮は些か狭量だからなw 兵站を担ったのは李厳や蒋エン
蕭何は丞相といっても名称だけで、当時の劉邦集団はまだ軍事組織の域を出てない
何より兵站と経済は無関係
>>672 だからこそ秦は超重農主義を志向し商人を排斥した
たとえていうと坊ちゃん麻生が一万円支給したからといって自殺者減ったか?行旅死亡人減ったか?
関係ないだろ。極端な事例とはいえ、額が支給されたからといってどれほどの助けになったか疑問。
飯食えなかったら人は死ぬし、飯食えていても盗賊や病気で行き倒れになる可能性もある。
そういうことよ。
>重農主義の秦
さあ〜 河西回廊の東口を押さえていた秦がそこまで徹底してないと思うぞ。
陝西は現在でも半農半牧であり、それなりの機動力は秦の時代にもあったはずで
交易の地盤は他の戦国七雄よりも整っていた部類だ。
677 :
◆/DkWKVJYJU :2011/01/22(土) 18:11:27 0
諸葛亮は食糧輸送がたびたび途絶え、北伐を中断する事もあった
そういう面から見ても、兵站が万全とは言えなかった状態
>>673 名目だけで劉邦が彭城で53万人を集められるかw 烏合の衆とはいえ、53万人食わせる兵站実務を蕭何がやったから
集められるわけでね。
>>674 意味不明。 そもそも呂不韋になってから過去の秦より強大になった事実がある。
政の異母弟との権力闘争も諸侯や経済界という国の胃袋を握っていたからだろう。
>>677 それ諸葛亮の差配を李厳や馬謖が無視したからだろ
>>679 秦は常に強大化していて呂不韋の時が特別というわけでは無いだろう。
食客を飼っていたからな
一説によると100人とか1000人とか・・・
呂氏シャドウキャビネットともいえるかもしれん
>>676個人のイメージより、墾草令の方を信じるけどねw俺は
>>678 それは蕭何が兵站実務を担ったからという話で、丞相の職務とは関係無い
>>680 人材に恵まれなかったよな。
諸葛亮一人で蕭何・張良・韓信の役割を全てこなさないといけなかった。
もちろん、能力では遠く及ばないんだけども。
>>679 呂不韋が死んでから、もっと強大化してるけど
呂不韋が基礎つくったからだろ。 商人の経験ある彼が残したノウハウがあったから6国次々に滅ぼせた。
兵站に不安があれば苻堅のようになる。おわかりか?
秦の統一に大きく貢献したのは、呂不韋より李斯だと思うが。
>>686 商鞅や恵文王、昭襄王が基礎作ったからだな。
呂不韋以前に他国出身の宰相は何人もいる、呂不韋が基礎つくったとかねーよ
李斯はそもそも呂不韋の食客だろw
呂氏とか苻氏とか、李氏 姚氏 楊氏いかにも西戎北秋って名前だけどなw
政が王位につくまで6国どこも滅ぼせていないけどな。
春秋のころはいざしらず、天下平定に乗り出せたのは政になってからだろ。
692 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 18:30:34 0
商人て人を騙す事が得意だよね。
>>690 だから何? 胡や夷と言われる辺境の方が文明の外縁部に属しているから強大な勢力ができるの古今東西の常識。
西欧ですらロシア、アメリカという外縁部が列強の中で台頭して他国を駆逐した。
実力で物をいうのであって蛮人よばわりなど何の意味もない。
そもそも、商人が賤民呼ばわりされたのは周の策略だろ。 亡国の民が既得権益に預かれないため、
諸国を流浪して商業活動に携わり、己の才覚で財を成したのを嫉妬されただけに過ぎない。
>>690 呂布は現在の内蒙古自治区で生まれたからな
>>683 蕭何は兵站実務の功績大で宰相になったのだが。
劉邦が戦場の最前線で戦うことのない蕭何をなぜ評価したか考えてみろ。
>>692 ポルトガル人商人も売る時は小さい升、買う時は大きい升とかセコいことしてたしな
せっかくの切支丹信者が憤激して改宗すると宣教師が愚痴ってるし
>>691 だからこそ戦国七雄と呼ばれるのだよ
それ以外なら何国か滅ぼしてる
>>696 蕭何は張良や韓信を差し置いて功績第一位になってるしな
>>699 それは内戦真っ只中での功績に対する論功行賞のお話
701 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 18:44:38 0
衛は秦が統一した後も地味〜に生き残ってる。
しかし、忘れ去られた存在だ。
>>694 殷は商 子姓は殷の末裔。
商家とは商の難民というのが由来である
兵站実務の功績を評価されたっていう。>蕭何
>>702 分かってるいちいち解説いらん。 商人は賤民とかいっている厨に一言釘さしただけ
>>703 秦では1首1級の制により、戦功を挙げると医師に就くこともあったという
>>705 商人は賤民、墾草令読んで出直そうな。後に引けない厨よ
707 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 18:55:59 0
范蠡なんか成功例として有名だろう。 商人が賤民だという偏見はユダヤ人同様にやっかまれてのこと。
春秋戦国時代は亡命を繰り返す事が多いよなぁ
>>684 それと、国力自体もそうなかったからね。何ヶ月何年も陣を置いておける地力が蜀漢にはなかった。
この件だけで食料だけで軍事ができるといっている厨房は話にならない。
>>698 そんなの知っている。いちいち解説ウザイ。 それしきのことで揚げ足取りでドヤ顔されてもな。
後に引けず北征したんだよな。
準備万端になるのを待っていたら、先に滅ぼされる。
713 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 19:07:59 0
東帝西帝の時代から、秦の天下は見えてるだろ。
715 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 19:15:24 0
それならまだ斉の可能性が強い
斉が六ヶ国連合軍に負けてからが
秦の一強時代でここら辺から統一が見えてくる
どっちにしても症状王の時代だな。
>>711 知ってるなら、あんなアホらしい事言うなよw
お前が言うな(ry
>>704 前240年には秦に実質滅ぼされてるな。
名目では前209年まで続いたが。
721 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 19:37:31 0
ローマ帝国は優秀だから常に兵站は間に合っていた
へー(棒
723 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 20:00:19 0
>>585 は?東晋が250年?
103年の間違いだろ。
捏造すんなしw
秦はあのまま西方の大国として君臨していたらまだ続いていたろうな。
すくなくとも、漢としてアイディンティティそのものを奪われて秦人そのものが消滅することはなかった。
統一政権の寿命って短いんだよな
地方政権に比べて
国土が大きい分リスクも高いんだろうか
>>707 話を逸らすなよ、范蠡が秦にいた事実は無い
>>708 商人厨は何故墾草令から目を背けるのだろうか。無知だからである
だれも范蠡が秦にいたといってないが。
>>710 話をすり替え無いように、オマエの主張は戦争に経済力が必要というもの
一方まともな人間は糧秣と兵士があり支配の徹底がなされていれば戦争は出来る、としか言ってない
>>725 漢は秦や西楚の反省をいろいろと踏まえている政権だからな。
ある意味犠牲になったのだ
ただ、扶蘇が2世皇帝に続いていたらドウだったろうとは思う。
731 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 20:15:03 0
唐も隋を踏み台にして繁栄したね。
>>728 はぁ? 三国末の国力差や秦の強大さをみてもわかるように国力差の源泉は経済力だろ。
軍事行動に対する物流を長期的に容易できなければ軍作戦そのものが不可能。
いつの時代だって同じことがいえる。日本軍が議会の承認を無視するようになったのも
予算が下りないと何も出来ないから暴走したのだし、なんでもそうだが金や物資の差が
戦争という様相であからさまになるにすぎない。
俗にいうだろう勝敗は戦う前から付いていると。
実際に賎業とやっかんたところで、金のあるモノがバックにつかなければ子楚は王位につけなかった事実がある。
ユダヤ人と西洋厨がそしったところで意味が無いのと同じことよ。
国力差の源泉は生産力だと(ry
>>729 秦も楚も、中央集権にしろ地方分権にしろ、極端過ぎたという前例が有るだけに楽っちゃ楽だな。
俗に言う「三度目の正直」ってやつか。>漢
生産力の調整、分配を経済活動というのだが・・・・。
そもそも、基礎人口の差は租税公課に差がつくの当たり前の話しだし、動員力にも差が出るの当たり前だろ。
なんでこんなことが食料だけで軍は養えると言っている連中に理解出来ないのか?
実際蜀漢は馬謖や李厳の怠慢や軍令違反がなくても長期作戦が出来なかった。
経済的起因はいつの時代だって付いて回る問題だ。なぜ簡単なことが理解出来ないのか?脳に障害があるのかね。
あと胡亥や趙高が無茶すぎたと言うがあるな。
反乱が続発過ぎて秦の徴兵、編成が間に合わなすぎて破綻きたしていったのだし、
善政していたら単発で充分押さえられていたろうと思う。
「国力=経済力」なんだよね。
>>737 最初の最初から囚人40万を反乱に当てて置けば、1ヶ月もしない内に鎮圧出来たのにな
>>735 よくある話だよな。
織田→豊臣→徳川と同じパターン。
おそらく世界史上の元祖は、
アッシリア→新バビロニア→アケメネス朝ペルシアだろうと思う。
>>736 普通は生産性で大半の説明がつくよな。
ただ、説明がつかないのは、「生活様式から戦術まで全く異なる集団」と比較する場合で、
騎兵で戦う騎馬民族と、戦車で戦う農耕(たまに遊牧もある)民族とを、
生産力を使って軍事力の比較をすることはできない。
これは東方でも西方でも同じ。
スキタイとペルシア帝国を、生産力で比較しても無意味。
同じことが、近代的な軍隊が確立した19世紀にも起きた。
清朝の生産力と大英帝国の生産力を比較しても無意味。
741 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 20:35:21 0
次元(?)が違うからな
常識に当てはまらないというか
人間がいくら鍛えても、普通の馬に勝てないのと同じ。
夏殷周は封建制でうまくいったのにな
>>732 物資補給は労役を利用して行われていたから商人関係無い
補給する物資も農民や官お抱えの職人が生産していたし
大事なのは生産力と動員力であって経済力は枝葉末節
近代戦に経済力が大事なのは解るけどね
>>736 生産力の調整は指導と謂い、分配を均輸と謂う
蜀は兵力が足りず農業生産も足りなかった
蜀は塩が豊富で、豊かではある。
但し、食料生産は微妙。
747 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 21:00:07 0
劉備が割拠した地域は、州(益州)として見れば、最も生産力・動員力が高い
国(蜀)として見れば、最も生産力・動員力が低い
荊州西部を維持出来ていれば、もう少し余裕を持って北伐出来たんだろうなぁ。
南北朝、隋唐時代でも人口多いよね
>>748 孟達毛嫌いせずに援軍送ればよかったのにな
孟達の寝返で上庸も失ってるんだよね
752 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 21:18:43 0
しかし、なんであんな北伐にこだわったんだ?
漢水を東に下って攻め込むルートも有ったのに。
>>752 国力不足という点を鑑みれば、関中を占領するのが先決だろう
754 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 21:29:34 0
荊州は戦略の要ですが何か?
>>752 蒋エンが立案したが、ヘタレな群臣共によって立案自体潰された
俺もあの案良いと思うのだが。そもそも漢中からの補給線維持は難しすぎ。
荊州取れば難易度全然違う
>>754 そっち方面へ侵攻すれば、呉に対する牽制となり、関係も悪くなってしまうだろう
本来の漢中は、あくまで地形を利用して盾とすべきで、北伐をすべきでは無いよな。
>>740 匈奴も長期間の占領はできてないよ。遊牧民族はそもそも扶養できる人口が極端にすくないので
遊撃出来なかったら撃滅されるだけ。
うまくいったのは王族の内訌を塞外ならぬ塞内に住んで域内事情に通じた連中が乱を起こした永嘉の乱ぐらいのもの。
劉邦の時も、包囲はしたものの、皇帝殺して自分が漢の盟主になる発想はなかった。
まともに漢に対して征服戦争したら粉砕されると理解していたからだろう。
チンギスぐらいになると大分状況も変わるけど、それでもいきなり中原に挑むような無謀なことはしてないね。まず金・西夏・天山ウイグルなど
周辺国家を倒して実力を養ってからはじめて南宋との戦いに踏み切っているしそれでも40年はかかったし。
既出だが、漢中から北伐して成功できたのは劉邦軍だけ。それも韓信や陳平による奇襲で、秦自体が三分割されていたからだ。
後世の参考にはまったくならない。魏のように華北を征した政権が抑えているというとのは状況全然違う
もっとはっきりいうと漢中から長安はとれない。とれるのは光栄のゲームだけのおはなしだ。
761 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 21:46:56 0
遊牧民にとって長江は鬼門
>>760 相手がCPUだからな。
せめて対人ならまだしも。
襄陽の戦いだって中東から回回砲などを導入してようやくだからな。それもフビライが大理落として南宋の南方貿易の目を潰してようさっと
正直かなり苦労ししているといっていい。
遊牧民族が中原取れるのは蒙古のように事前準備をかさねてようやくか、五胡の時代のように乱に乗じてか節度使が半自立政権になって
中央の制御が効かなくなる五代の時代とか極少数しかない。
清とジュンガル部との抗争にいたっては殲滅されているときてるまともに撃ちあうとまず負けるのが現実。
遊牧民族は遊撃が命。人口比は農耕民族の方が圧倒しているから統一政権ができるとまず勝ち目がない
土木の変みたいなアンラッキーなことはあるが、あの時もエセンは皇帝殺して自分がとってかわろうとしなかった
正確にはそんなの無理だった。蒙古のように周辺国家を丁寧に潰して南宋自体がそもそも江南政権というのとは状況ちがうしね。
>>760 唐は、蜀に亡命した皇室が長安を取り返しているけどね。
まあ、蜀単独の国力で奪還したわけではないから微妙か。
全くの不可能では無いが95%の確率で無理だな
安史の乱は敵の分裂とウイグルの援助のおかげだろ
四川に逃げた玄宗はたいしたことしてないだろ、むしろ長安以西で粛宗が踏ん張ったからじゃねぇ?
>れもフビライが大理落として南宋の南方貿易の目を潰してようさっと
追加。モンケの代にフビライが大理潰すという事前準備あって
>>755 確かに東征の方が可能性は高かったと思うね。
補給線維持も北伐より楽だ。
一応群臣共が反対したのは作戦失敗したら長江をさかのぼっての撤退は困難だといいだして劉禅が侵攻しないと
却下した
でそうこうするうちに蒋エン自身が病を得て病死してしまいたちきえになった。
771 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 22:14:33 0
粛宗ってそれなりに優秀なんだ?
>>770 それって北伐も同じような気がするな
秦嶺山脈とか遡らないといけないし
まぁ、最初から負け腰だから、そういう発想になるのさ。
内紛を誘えば良かったわけですよ
一応、姜維も内訌を誘おうと雍州内の塞外民族に工作はしてる 芳しくなかったが。
つうか北伐あんだけやったら魏さんも研究し尽くしているだろ 東征すればよかったのに
>>758>>764 騎馬民族(遊牧民族ではないことに注意!!!)というのは、
「農耕民側の交易相手が、生きていく上で絶対に必要」なので、
軍事力が圧倒していても、農耕民社会を「敢えて潰さない」んだよ。
匈奴にしても、そもそも前漢を滅ぼす気はなかった。匈奴を滅ぼす気満々だった武帝とは違う。
前漢の当時、匈奴が物資を交易する相手は、中原の漢族だったから当然の話。
だが、交易相手として価値がなければ、当然さっさと滅ぼして放牧地にしようと考えることになる。
モンゴルの時代、交易相手は、江南の漢族社会で十二分であって、
すでに中原には価値がなかった。そもそも金と南宋の国境地帯は無人だった。
チンギスが、「中原を潰して放牧地にしたらいい」と言ったという有名な話は、これが前提にある。
華北平原は、古代はともかく西暦紀元後の気候では、ステップのようなもので、
植林と稲作にかけては基地外的情熱を傾ける日本人でさえ、
あそこに森を復活させるのは、今の気候では無理だろうと思われる。
逆に言えば、南宋やイスラム帝国まで滅ぼしてしまったモンゴルは、遊牧民としても掟破りの行動。
これは、商業把握による交易相手の多角化が視野にあったことと、間接統治に自信があったからだが、
モンゴルが、今も周辺民族に恐怖の大王として徹底的に恐れられ恨まれているのは、これが原因だろう。
華北は戦乱の嵐で廃れてるな。
劉淵は国を立てているし、晋の皇族どころか、後漢の直系や呉・蜀の後主の系統の大半も根切りにしているけどなぁ。
779 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 22:46:28 0
>>775 一番希望が有ったのは第一次北伐だな。
二回目以降は同じようなパターンだったせいか、魏の方も慣れて来て当たり前のように防がれてるからな。
>匈奴にしても、そもそも前漢を滅ぼす気はなかった。
どうだろうね。 陳平と張良が交渉したからで劉邦は殺される可能性あったと思うけど。
唐を一時期は圧倒した突厥は西からのウイグルに攻撃されて滅ぼされたが、
ウイグルが唐と交易関係のあった突厥より経済的に裕福だったとは思えない。
純粋に軍事力でウイグルが突厥を圧倒したのではないか。
>だが、交易相手として価値がなければ、当然さっさと滅ぼして放牧地にしようと考えることになる
これもどうかなあ。 フビライの征服欲は凄まじい。 日本やジャワなど本来遊牧民族が考えもしなかった海洋進出まで
手を出しているしね。
経済力・軍事力が全てでは無いんだよな
「流れ」を掴むのも大切
じゃなきゃ、農民反乱は全て一発で鎮圧されてしまうから
劉邦も一歩間違えればペルシャのキュロスの轍を踏んでいた。
それと遊牧民族は西戎、犬戎のように昔は塞内にもゴロゴロいたけどな。
中原に農耕民族がみちみちて次第に塞外に追いやられていることからも伺えるように
本来は中原にも生存域を広げたかったが、国力差で叶わないから征服を諦めた例が
大半だと思うけどな。 実際五胡や五代のように隙あらば中原に国を立てている異民族王朝いっぱいいるしねえ。
それはまた随分と抽象的だこと。
それと楚材の戒めで知られる
>だが、交易相手として価値がなければ、当然さっさと滅ぼして放牧地にしようと考えることになる
って史実かどうか今ひとつたしかでなかったんと違う?
>>778 劉淵の代まで下ってしまうと、もう遊牧国家としての体は成していないんだけどね。
中央で文化人として知られていたぐらいの人物だから、虐殺とかは大嫌いだったようだけど。
まあ、あそこまで漢化していると、「征服王朝」と言うよりも「地方軍閥」的な色彩の方が
強いんじゃねーかな?
>>783 李自成の乱も元々は農民の反乱じゃなかったけ。 駅の廃止がきっかけだけど、乱の主力は農民だろあれ
790 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 23:00:35 0
>>785 よくよく考えると、華夏民族ってなんだかんだで時代が経つ毎に中原の範囲を広げていってるんだよな。
>>788 爵位を晋から下賜されたりはしたけど、文化人だったか?
永嘉の乱で皇族を虐殺したの劉系の連中だったろ。恵帝なんか酷いものだ。
後宮にも乱入したりしてるし・・・・
>>785 だから、「遊牧民」と「騎馬民」は、全く違うんだよ。
遊牧民と農耕民は、ガチンコの同一平面で共存したり戦ったりすることになる。
農耕のほうが生産性が高いので、王朝は農耕民の長が開くことになるが、
半乾燥地帯の場合、遊牧民がパッチ状に残ることがある。
そもそも中原(華北平原)は、「農耕民と遊牧民の混住地帯」であって、その伝統は今も名残がある。
これは今に至っても、鄭州郊外などという「中原のど真ん中」に「回族自治区」があったりすることでもわかる。
だが、騎馬民族というのは、全く異質の連中で、生活物資の自給が出来ない。
近くに交易相手(略奪相手?)がいることが前提で、彼らを生かさず殺さずが基本になる。
その意味で、モンゴルは繰り返すように特殊で掟破り。
フビライのモンゴル帝国本国(元帝国)は、更に輪をかけて特殊で、
日本の征服なんて、モンゴルから見れば「何の意味があるのかワケワカラン」ようなことまで仕掛けている。
>>788 とは言え、漢人王朝は少なく、五胡王朝がほとんどというのはどうもね・・・。
冒頓単于もチンギスハンも中原より征西に力を要れ月氏やホラズムを徹底的に叩いている。
これらの草原君主は漢の劉邦を討ち取ることも出来たし金を締め上げることも出来たが
そんなことよりも西域のステップの方が魅力的に写ったのかもしれない。
騎馬民族の本気=モンゴル帝国
という事だな
>>791 永嘉年間の洛陽攻略時には、すでにお亡くなりになっていますけどね >>劉淵
その後を継いだ(正確に言うと二代目の異母兄から簒奪した)劉聡による所業が大部分なんだよね。
もっと言うのであれば、当時劉聡配下であった石勒による大虐殺が直接の原因だけど。
石勒は文盲の異民族傭兵だったから、そりゃとことん破壊しつくすに決まってますわ、何せ
一族みんな奴隷売買されて、地獄の苦しみを晋人から味わわされたんですから。
しかし、その石勒が華北に安定政権を樹立し、儒教を採用して政情安定化に努めるとともに
中国史上最初の国家による仏教の保護・統制を行い、五胡十六国時代前半の文化的隆盛を
築いたのは歴史の皮肉にほかならないな。
797 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 23:12:40 0
>>794 てか、中原を放牧地にするのは無駄だからな。
798 :
797:2011/01/22(土) 23:13:42 0
スマソ、誤字訂正。
「無駄」→「無理」
>>788 実は、漢人の王朝か胡人の王朝かということは、
単に儒教的イデオロギーによる形而上学的な観念的二分法に過ぎず、
客観的に東アジアの歴史を見る上では、実はそれほど大きな問題じゃないように思う。
理由は
>>792であって、
農耕民と遊牧民というのは、華北平原のような気候下では混住するのが普通で、
>>790のイメージのような「排他的な中華民族居住領域」を、確定する実益もないし実体もない。
特に、日本人は遊牧民(牧畜民)のメンタリティを全く持たないので、
どうしても、農耕と牧畜の間に線引きをしてしまいがちだが、
農耕・遊牧/////騎馬民
というのが適切だろうと思う。
これは中国史に限った話ではなく、オリエントなどでも典型的に現れる。
ペルシアは農耕民か遊牧民かという問いは、あまり意味が無い。
だが、スキタイと違い、騎馬民でなかったことだけは確実だ。
>>792 その割にはTurkey厨はかれらはチュルク系とかいろいろとかましてくれるがね。
その場しのぎで主張を使い分けているようにしかみえないがね。
杉山さんらの指示ですか?都合が悪くなると荘やって使い分けしているようにしかみえないがねぇ。
>客観的に東アジアの歴史を見る上では、実はそれほど大きな問題じゃないように思う。
客観的にじゃあないでしょ。恣意的に使い分けしているだけでしょ。
遊牧民族と騎馬民族とのファクターをね。
>>794 征服コスト・リスクが安く上がったそういうことじゃないですか。遊牧びいきの人は正直農耕民族に親兄弟を殺されたかと思うほど
挑戦的で印象悪い彼らに大して好意一切ありませんね。
冒頓単于もチンギスハンも中原を征服・支配するより、
貢物を出させれば満足で、軍事的には西方への征服支配を主眼にした。
>>792 江南軍東軍併せて十数万の兵で日本征服が単に一時の思いつきのはずありませんし。
満足というより、中原征服がリスク大すぎて自己の勢力では時いまだ至らずというそれだけの話しです。
>>796 都合が悪くなると全部石勒におっかぶせておしまいですか。 本当に卑劣ですね。
中原は人口密度が高いから、征服するのに時間がかかるよ。
逆に、西域はほとんど無人地帯でスイスイ征服出来る。
時間がかかるというより、占領・維持が遊牧国家の彼らにはほぼ不可能。 それだけの話しです
中原を征服すれば貢物が入らなくなるし時間と損害もばかにならないとも言えるが、
草原君主たる冒頓単于もチンギスハンも中原型の国家を経営することなど想像すら出来なかったのではないか。
810 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 23:30:48 0
やる気が無かったのだ
>>804 でも明らかに誰得だろ>日本征服
ジャワと日本の征服戦争を仕掛けたことでハッキリしているが、
フビライの朝廷は、このあたりから合理的判断が全くできなくなっているんだよ。
大都を造営して「中華皇帝」になってからのフビライは、
もう「騎馬民の本分」を完全に忘れて、
単に自らの「騎馬」を軍事力としてしか理解できず、
「俺たちは強い。世界最強の大帝国である」と勘違いしているだけのように見える。
杉山は、フビライの政策を「世界帝国構想の総仕上げ」のように言っているが、
これはおかしい。
農耕と牧畜の混交(これは漢族の中でさえ混交する。西楚の王は項羽に会った時何をしていたか?)は、
一切牧畜を知らない日本人には理解出来ないことだろうが、ごくありふれたことだ。
日本人は、農耕・漁労・採集の3つの生活様式しか知らず、「哺乳類を育てて食う」という発想が伝統社会にないので、
農耕民の概念が硬すぎる。そんな「厳密な農耕」をしているのは、雨量が極めて多く温暖で平地の少ない地域だけ。
今一度、「美」という漢字を解体してよく眺めて欲しい。これが華夏民族の「美」なんだよ。
遊牧厨は持ち上げばかりで実際は
>>809のような思考形態が彼らの真実に過ぎないのに立場によってころころ変わりすぎる。
農耕民族ガーと言う前にこっちみんなといいたいね。 中国の歴史に絡んでくる彼らウザすぎ。
>>806 いやいや、私は石勒の虐殺を「キレイな虐殺」と言っても問題ないと思っていますけど。
司馬家の貴種だからといって、異民族を攫って奴隷売買することが正義だとは思えませんけどね。
あんな政治放棄した連中、虐殺されて当然じゃないの?
>>813 遊牧民も中国の歴史に絡んでるっちゃ絡んでるよ。
>>811 杉山の主張は、我田引水な所はあるが、懐王の解釈はちょっと異なるな。
牧童同然になっていた彼自身楚王族だとしらなかったようだし、そもそも
苗族は棚田や牧畜を生業としていたそんなに不思議ではない。
まあ、たしかに史記では懐王の有り様はどこの馬の骨みたいなニュアンスを
感じるが。
>>814 元々長城超えて趙や秦の民をかっさらっていた連中の末がそれをいうか
冉閔も負けじと仕返ししてるよね。
征服王朝と言えるのは故地に還った元ぐらいで、
他の北方民族を起源とした王朝は征服しながらも漢人化してしまい、
先祖帰りは無かった。
棚田は元以降なのか 意外と歴史あたらしいんだなアレは。
遼も西方へ移動して西遼を建国してるZE
>>821 苗族ではなく、夜郎国あたりの和夷(和蛮)のほうが棚田の歴史が古いんだよね。
和夷→ハニ族という説が一応有力。
遼は金の圧迫を受けて西に逃走しただけだろ。それもつぶれるとイランに逃げたが。
>>811 仏教の伝来で発酵乳や肉食が廃れただけでそれ以前は萌芽自体はあったぞ。
仏教伝来がなければ存続していたと思われ。これは朝鮮半島でも同じことが言える。
狩猟と牧畜はカルチャーが違うでしょう。
肉食は狩猟にもあるし、養殖ではなく天然物なのかの違いがカルチャーの差となる。
通年飼育していれば、病気などの予防が必要なので、牧畜は狩猟の延長ではないようだ。
>>825 しかし、最古の料理書とも言うべき「斉民要術」においては乳製品系の調理技術や
メニューが意外と多いんだよな。「中国人って乳製品嫌いじゃなかったのか?」と
びっくりするくらい豊富、まあ北魏の影響下に著作された書物だから当然か。
乳製品自体は、仏教では否定していないはずなんだけどね。(お釈迦様が苦行の末
ボロボロになったとき、村娘から恵んでもらった乳粥で息を吹き返した逸話がある
くらいだし)
むしろ、漢族文化圏における乳製品忌避の伝統がそれに勝ったと言うべきかと。
なんだか、中華を無理矢理四方の夷狄と相対化させることにより
「中国史と華夏民族の純血性」を穢している!!とお怒りの人がいるみたいだが、
むしろ、中華文明の実体を勘違いしていないか?と思う。
上の方のレスの、「律令制の全人民把握」もそうだが、
「純粋なる中華の歴史」に固執する一部の人は、
本当の漢族文化ではなく、「大和民族に引き付けて理解した『脳内漢族文化』」を信じているだけのようにもみえる。
中国の律令制は、日本の公地公民のように人民全員を氏族から引き離して国家が把握する制度ではないし、
漢族の農耕民は、日本のように牧畜要素を全く持たない「草食系wwの人々」ではない。
江南はまだしも、中原は、日本とは全く気候も違えば、文化的基礎も違う地域だぞ。
孝徳天皇や徳川家光(慶安の御触書)に騙されていないか?w
いやいや、狩猟ではなく、酪農の萌芽はあったよ以前から山野も言及しているだろ
欽明天皇の頃から仏教伝来後も文武天皇ぐらいまで牛乳やヨーグルトのはしりが
供せられていたし、仏教伝来までは肉食そのものも庶民の間で普通にあったと。
何度も食物スレで既出の話題だから知っているかとおもったが、ここのスレ住民の中には
アソコ見ていない人もいるのかね。
>>828 何を頓珍漢な事を言い出しているんだ。誰もそんな事いってない。
勝手に話をつくるな
>>827 中国でも特に禁止されては居ない。だが、どういう訳か仏教伝来と同時に肉食禁止のお触れが出されたのは日本と朝鮮半島だけ。
他にもあるかもしれないが、俺の知る範囲ではそこだけそういう風になった。
理由は山野あたりにきけ。長い薀蓄を披露してくれるだろう。
>食物スレで既出の話題だから
見ていない人のほうが多いんじゃね?
>>831 食物スレは見ていないけど、農業史と料理関係は大学時代やったから大体掌握している。
牧畜が日本で馴染まなかったのは、農地あるいは入会地とも言うべき山野との競合のため、
と言うのが、雑把な理解(これ以外は、正直解らんが)。
牧畜・耕作の総合的農業経営が日本で未発達だったのは、その農地の狭小さという土地問題上
仕方が無かったのかもね。
>>792 「騎馬民族」ではなく、正確には「騎馬遊牧民」。
モンゴルも匈奴もスキタイも略奪オンリーで生活するのではなく、本業として「馬に乗って遊牧(移動牧畜)を行う」。
「馬に乗る」というのは高等技術で、徒歩で牧畜をやるより10倍も多くの家畜を統御できる。
その分、広い牧草地を必要とし、広い場所を移動する必要がある。馬も牧草がいるし。
そして騎馬遊牧民は、多くの家畜を飼育するぶん「小規模であれば」十分に自給自足できる。
牧草の栄養やビタミンを豊富に含む乳製品と肉を食い、狩猟採集も行えば、小規模ながら農耕もやる。
しかし同業者の数が多くなると牧草地の配分が少なくなり、お互いに衝突が起きる。
そこで定住民や半農半牧民と「交易(輸出品は家畜や毛皮など)して」必要な物資を調達するが、
交易相手が強固にまとまれば足元を見られるので、こちら側もまとまって武力集団になる必要が出てくる。
最初から「なければ略奪」というスタンスではない。
また、騎馬遊牧民は武力集団として極めて強力で、定住民の傭兵や隊商の護衛、遠方への道案内も可能。
彼らの武力の傘の下にいれば、都市住民は貢納を払うかわりに貿易圏が広がり、得をする。
騎馬遊牧民側も、覇権が揺るがなければ定期的な収入が得られ、むやみに略奪をしなくてもすむ。
>>835 一言でいうと倭寇と大して変わらないではないか。交渉に失敗すると強盗に変身するとそういう話だろう。
それに長城超えては趙や秦にちょっかい出していた事実は変わらない李牧や蒙恬によく退治されていたではないか。
そもそも定住民の傭兵といえば聞こえが良いが、八王の乱の傭兵として乱に加わり、つけ込めるとみると永嘉の乱を起こす
彼らはなんとも油断のならない存在ではないか。
>牧草の栄養やビタミンを豊富に含む乳製品
光が当たると分解されてしまうので、蒙古は磚茶(砖茶)を購入していたよ。
>隊商の護衛
漢のフェルガナ使節団を強襲して奴隷に売り飛ばした事あったなあ
>>834 自分で補足するのもなんだが、牧畜の場合、厩舎で飼育する場合における飼料の生産が
主食の生産と競合してしまう面があったことも大きいと言われている。
さらには、豆や蕪といった飼料すら、日々の糧として食べざるを得なかった日本人には
牧畜の負担は余りにも大きすぎた、という説がある。
ちょっと脱線するが、日本においても、
狩猟による肉食の伝統は陰に陽に続くし、牛乳食の伝統も細々と中世くらいまで続く。
決定的に欠けているのは、「哺乳類を育てて屠って食べる」という習慣。
つまり牧畜の習慣がない。
野生動物の肉は「山の幸」になるのに、飼育動物の肉は食べたがらない。
これは、動物ごとに分けないといけないと思う。
まず、羊という選択肢が早々に完全消滅する。これはどうやら気候の問題らしい。
明治に再び導入が図られたが、北海道と高原地帯以外では一切定着しなかった。
牛については、使役動物として飼う習慣は明らかに続いていた。
牛乳もおまけとして搾乳されたんだろう。だが肉を食べることは禁止だった。
豚については、いくらでも飼えるはずなのになぜか消滅した。
必須アミノ酸スコアが良くない小麦を常食するためには、乳製品は大変に有効。
精白するとビタミンB1が無くなる米を常食するためには、豚肉は大変に有効。
麦食う人々中国華北人も、米食う人々日本人も、
どちらも伝統的食事においてなぜか欠けているのはおもしろい。
842 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 00:24:18 0
匈奴は構ってちゃんだな。
漢からすれば、匈奴なぞ興味ないのに、匈奴から一方的に仕掛けてくる。
いい加減しつこいので漢が本気を出したら、匈奴はコテンパンにされたと。
むう、中国スレだけに遊牧民への風当たりが強いな
匈奴は交渉以前に長城こえては娘っ子や食料を奪い劫掠するそんな奴ら。
獣よばわりされたのも中華思想由来だけではなく実際にそんな手合いだったし。
劉淵がというが、劉淵自体は於夫羅が曹操の時代に帰順した南匈奴の末だろ
漢の扶持うけながら都合良くなると我々は独立する(キリッっとなんじゃそりゃ
中国側の史書に書いてあるから間違いないよな
遊牧民は歴史を書かないし
自分に都合よくなると他人の不利につけこむのは漢人も一緒じゃないの
美辞麗句に彩られた禅譲劇とか王莽から1千年も続いたよね
匈奴単体ならそうかもしれないけど匈奴は西域への影響力があるわけで西域を支配下に治めるため邪魔な相手だったんでしょ
それを「興味ないのに匈奴が仕掛けてくるからしかたなく懲罰戦争しました^^」って現代まで続く中国のプロパガンタじゃん
>>843 何度も帰順しては乱になると便乗して荒らしまわる奴らが尊敬受けるはずもないし、
火事場泥棒で国を立てては遊牧民族最高ー!最強ー!なんて言ってる連中に
シンパシー感じるはずもないし、中華思想に共感はしないが、獣なみに油断できない
連中であることは確か。やることなすこと強盗波の素行だしヴァンダル族なみの
蛮族といっていい。
>>846 普通の政争レベルであれば、劉淵もあそこまで思い切った叛乱を起こすことは無かったと思う。
中央の統治能力が壊滅した上に、鮮卑の強大な戦力を擁する幽州の怪物王浚が南下を開始して
同盟者であった司馬頴が蹴散らされ、その矛先が匈奴にも向いてくるかもしれない危機感から
独立に打って出たと、個人的には分析している。
つーか、王浚の過小評価は異常だな、調べれば調べるほど西晋末期最大の怪物
>>849 それは漢代になってからの話で趙王は長年連中に苦しんでいて武霊王が軍制改革するまで守勢一辺倒だったよ。
そりゃあ李牧が退治するし、秦もオルドス地方を攻撃するわ。黙ってやられているわけにもいかんだろ。
>>848 匈奴の話になんの関係もないな。農耕民族の禅譲劇が何の関係があるのだ。
>>852 劉淵は塞内だけでなく塞外のお仲間も塞内に引き入れて好き放題している。
強盗はなにしようが強盗には変わらないだろ。理由なんてあってないようなもの。
>>852 王浚は河北一帯を支配していたよな。
袁紹と重なる。
中国は○○になんか興味はないのに、
○○が暴虐非道で中国の○○を侵略しているから
仕方なく懲罰のために正義の軍を発するのですよ
華夏文明に従わない獣なみの四夷にはそれがわからんのです
まあ今日は寝るけど、遊牧民族の屁理屈と連中のシンパは好きではない。
とってつけたような理由ばかりで全然教官覚えない。
中華思想に教官は覚えないが、特に塞外民族に幻想も持たない言葉は悪いが
火事場泥棒ばかりしているしなあ。そりゃあ嫌われもするよ。じゃね。
>>856 ああ、こういうネトウヨみたいな奴も便乗しているのか。
きもちわるいったらありゃしない。相手に出来ないね。じゃあね。
>>850 なんだ、そんなキモい道徳論にこだわって「文明的格付け」をやっていたのかよwww
俺はそんなことには興味がないから、その話からは降りる。
別に、各騎馬民が「道徳的に高潔だった」などというつもりはないからな。
「朝鮮民族は2000年他国を侵略したことのない無辜の平和民族。まさに東方礼儀之国ニダ」
というのと同じレベルの、どうでもいいキモイ話には興味はない。
>まあ今日は寝るけど、
お疲れ、名誉華夏民族さん
暖かくして寝なさいね
ネトウヨだけど中国大好きよ。
>>854 >>852で書かせてもらったが、塞外の鮮卑を先に引き入れたのは前述の王浚が嚆矢
しかも、八王の乱を鎮圧する際に、冀州、司州において大規模な掠奪・虐殺を行ったのも
晋人の権門出身である王浚の方が先、劉淵はあくまでその対抗策を講じたに過ぎない。
王浚が石勒の暗殺的強襲によって滅ばなかったら、漢(前趙)の華北経略は間違いなく
頓挫していた。
864 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 00:50:34 0
王浚もう60越えてたからなー
>>856 紅河でベトナム軍に砲撃されて逃げ惑ったのは誰よw
前趙は晋の皇帝を弑し、後宮に乱入し宮女を手当たり次第に犯している。
王浚がと言うくせにその辺の言及は一切しないね。
だから嫌われる。議論を意図的に誘導するからね。
嫌われもするよ、って誰の話だよ
多分遊牧民は遊牧民で中国人を嫌ってたと思うよ
俺様が女や食料をうばう中国人はなんて酷い奴らだと悪党がうそぶいているだけの話だがね。
つ劉邦(彭城の戦い)
朝貢貿易みたいのは面子の問題としてまだ笑って済ませられるとしても
中国は北の遊牧民の政治に介入しまくりだからな。そりゃ嫌われる
常に内輪もめを利用してつぶし合わせ漁夫の利を得ることしか考えてない
別に漢族でなくても金なんかもやっているぜ。蒙古の金に対する憎悪の一因でもある。
つうか分断政策自体はよくある話だな。
>>870 朝貢貿易はメンツだけで実質朝貢側が得する変な制度だったりするよ。
日本なんかヒジョーに積極的だったし(w
>>866 政府としての統治の責任を半ば放棄して、骨肉の政争を繰り返し、実務を怠って、だべってばかりいた
中央貴族の連中がどんな悲惨な目に遭おうと、これっぽっちも痛痒なんぞ覚えんよ。
西晋の自滅的統治に甘んじるくらいなら、少なくとも秩序回復のために粉骨砕身・東奔西走した
劉曜・石勒の下で過酷に死んだ方が、まだマシだわ。
内戦と文化圏を異にする侵略は別問題だろ。
八王の乱(笑)
モヒカン「俺ら、晋ムカツクし、政治にユーコクしているんだよ。だから宮廷おそってグヘヘしねえか」
皿 ̄┣┛三3とこういうことだろ。
>>878 内戦のために文化圏を異にする者たちを持ち込んだ王浚・・・
でなぜ前趙自体も非道の限り尽くした事実を意図的に省いたの。
まぁ、確かに前趙は非道な事もやってるけど
もちろん、冉魏も
晋武帝曰く「今日はどの娘にしようかのう」
晋恵帝曰く「穀物がなければ肉粥を食べればいいじゃない」
賈皇后曰く「(聞くに堪えない罵詈雑言)」
基本的に前趙・後趙の虐殺を「無かったこと」にはしていないよ。
それらを認めた上で、「まあ、仕方ないな。」って評価
石勒には虐殺する「正当」な理由があるし、劉曜は当人の作戦・戦略上、洛陽を破壊することが
どうしても必要であり、なおかつ政治的宣伝のために晋室を徹底的に貶める意図があった。
これに比して、王浚の鮮卑軍の何とも原始的なことよ、まあ単純素朴な分だけ愛嬌があるとも
言えるかも知れないな。(ちなみに王浚は冀州における大虐殺の影響で、後年その南下を
頑強に抵抗されると言う、戦略上の大失態を犯している。)
この時代は、漢人胡人を問わずDQNが多いからな
887 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 01:38:58 0
お互い徹底的な潰し合いの時期だからね。
そんな中で苻堅は異端だった。
殺害したのは晋室だけでなく、魏呉蜀の後主の末も大半が殺されています。
後漢時代にいた5000万の人口はなんと前趙の頃には漢族はたった200万人程度に激減しています。
前趙=漢族200万人 胡族倍の400万人 残りは江南に逃げるか殺された
その内の大半は自滅
後漢時代5600万→三国時代700万
>>890 三国時代は奴婢もあわせると大体三国で一千万人いた。 で、ギが人口の7割近くをしめていた。
西晋の統一で若干人口が回復したが、大虐殺で500万人近くは減っている。
ちなみに、晋の皇族ですら五胡の侵入で大半が捕縛されて殺されているね。江南に行けたのは
本当に一握りでしかない庶民においては論じるまでもない。
>>885のような言動は意図的に過小評価しすぎ
漢族の文明的高潔性にこだわる人には衝撃かもしれんが、
実は、漢人と胡人は、エスニシティとして、明確に区切られるものでもないんだよなあ。
これは、胡人の側に問題があるのではなく、実は漢人の概念の側にある。
胡人のエスニシティというのは、各々比較的はっきりしている。
どんな系統の言語を話していたのかは、おおよそ見当がついているし、今の北アジアの語族につながる。
現代人のイメージ通りの、「こんな部族だったのだろう」と想像できる。
だが問題は漢人の側なのだ。彼らがどんな言語を「話していた」のかは、実はよく分からない。
理由は
>>334に遡るものであって、
漢人の口頭言語というのは、漢字からはよく分からない。
漢文を操れるということは、莫大な漢字の「読み方と並べ方を知っている」ということであって、
口語が何語だったかということと、実は関係がない。
さすがに唐くらいになると、口語もおおよそこんな感じだったろうと見当がつくが。
>>892 漢は奴婢をのぞくと戸籍を大体把握している。
未文化だからという風に問題をすりかえて虐殺を正統化できない。
そもそも、何の負い目もなければ前趙の虐殺を意図的に書かないというような行動は取らないはずだがね。
遊牧民を支持する連中のやり口はいつも同じ。全部低住民の方に責任を擦り付けて自己の正当化を図る
王浚の件にしてもそうだ。先にやったのが王浚というが国家崩壊に追い込んだのは前趙だ。
晋を滅ぼしたのも前趙だし、漢族を壊滅状態に追い込んで関中にいたっては戸口の大半が夷族で占められたという
事実に変わりはない。
別に正当化はしてないけどな
>彼らがどんな言語を「話していた」のかは、実はよく分からない。
言語のアルタイ化が起こったからだろう。
客家の話す言葉が五胡侵入以前の漢族の言葉をよく伝えていると言われている。
よくわからなくなった理由は何のことはない胡の侵入によるもの
大方とぼけてごまかそうとしているのだろうがね。
だいたい、漢族200万、胡族400万、なんて初めて聞いたわ
>さすがに唐くらいになると、口語もおおよそこんな感じだったろうと見当がつくが。
鮮卑の末の政権の頃の言葉だろ 検討つくもつかないもあの大混乱の後では
様相が様変わりしすぎて何の意味もないね。ごまかすのもいいかげんにしろ
899 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 02:04:39 0
>>891 江南へ逃げる事が出来たのは、准河流域の人たちだけかな。
>>891 庶民の方が殺されないのは自明、皇族なんて最も身が危険な階層だろう
責任を全か無かという二元論にすり替えてごまかしてるようにしか見えないが・・・
漢民族の自業自得と思われる部分を指摘したら「じゃあ全部漢民族が悪いというのか!?」と的外れな切れ方してるだけじゃね
>>892 北方漢族はあくまでも語源推定による方法だが、チベットビルマ系が多そうだな。
胡族のイメージは涼山彝族や康巴藏族が近いであろう。
若干人口が回復してきた石虎の頃でも人口600万人だよ。大半が胡人ね
>>892 古シナ語を喋ってたと考えられてるけどw
少なくとも中原+燕、楚、秦の領域はね
>>900 石虎の頃でも人口600万。 漢族は何処に消えた。
>>900 皇族は名が知れてるだけに危険なのは当然だわな
それに胡人としては、この皇族に恨みを持ってるんだし
907 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 02:09:17 0
>>904秦は秦簡によって孤立語文法を持っていたことしかわからんわい!
280年 西晋統一時 総人口1600万人。 三国末期から人口は増加していた。八王・永嘉の乱それに続く戦乱でまた大激減している。華北の漢族はかなりすりつぶされたと思われ。
後漢時代5600万人→三国時代700万人
西晋時代1600万人→後趙時代600万人
後漢〜三国の方が激しく減っていますね。
於夫羅から劉淵、劉聡が西晋二何の恨みがあるんだか。
まさか魏王朝簒奪に義侠心からたちあがったとか言い出すんじゃなかろうな?
八王の乱で傭兵してむしろくいっぱくれなかったくせに。
>>903 胡人の鎮民は分けられてるからそれは無いな
>>909 三国は内乱。 永嘉の乱は外患だろ一緒にしてなにがしたいのやら。
>>907 秦簡の例えばどれが特徴的な文法なんだ?
ぱっと見ふつうだけど
http://www.3guozhi.com/a/5k2.html 310年6月、劉淵が病死。劉和が嗣いだが、弟の劉聡が、皇帝の兄を殺して即位した。311年、洛陽を陥落させた。次の皇帝を「大単于」として、二重統治をやった。漢族が220万人、五胡が400万人の国家だった。
343年、347年、前涼を攻めた。淮水を越えて、東晋に圧力をかけた。人口は600万人、石虎は『初学記』でゼイタクを謳われた。
なんで人口減少の原因は永嘉の乱、みたいな語り口になってんの?
>>914 江南の漢族を足しても、五胡とおんなじくらいになるんじゃね?
責任を永嘉の乱一押しにするのは良くないな。
八王の乱(笑)でも人口は減ってるんだから。
>>916 江南は華北に人口が及んでいない(東晋初期) 五胡侵入直前の人口比、経済規模いずれも華北の方が上。
八王の乱は王族の戦いだろう。 領民に対する略奪もあったとは思われるが、国家の庇護そのものを失った永嘉の乱のソレとは
質が異なる。
永嘉の乱では上も下も関係なく殺されている。 先程も挙げたように晋の皇族大半の拿捕にみられるように、魏呉蜀の後主たちも
つかまっており、かなりの突発事態立ったことが伺える
そもそも、東晋の成立自体が奇跡と言っても良い まともにいきのこったのが元帝ぐらいのものでそれも琅邪に近いからなんとかという状況だわね。
三国時代、華北(魏)の人口は中華全土の6割だった。
西晋時代もおよそ6割と考えれば、華北の人口は960万人。
924 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 02:29:59 0
>>922 逆に考えれば、華南の人口は640万人。
戦乱の憂き目に合ってない事を考えれば、東晋時代になってもこれくらいの人口を維持しているだろう。
926 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 02:35:36 0
>>913 あとは、「之」という助詞がよく使われていて、唐代にはこの言い方が普通になるので
ひょっとして、唐代の偽物かもしれないという疑惑が秦簡にはある。
>>923 なら本文持って来い、アホか
史書名挙げれば自分で調べるから挙げてくれ
>>926 ねーよ、つーか926の言う秦簡って何のことよ
>>891 まさか、本気でそれだけの数が殺されたと思ってんの?
ただの統計漏れだよ
乱世は統治能力落ちるんだから
280年 西晋人口戸籍調査 1600万人
>>925 実数はそうだとしても、把握してる数は減ってるよ
統計能力も落ちるし、統計から逃げようと山奥に逃げる人も増えるし
>>913 楚の文書も現代漢語も孤立語文法であろう。
秦は若干言い回しが違うだけで、シナチベット語族と言いたいんじゃね?
むしろ、華北に胡族が流入した事で、華北と江南の人口差が更に広がってしまったような・・・。
西晋の段階でも江南の人口は少なかったのが
南北朝時代には同じくらいになってたわけだから
>>935 その分漢人が江南へ押し出されてるけどね
貴人の脱出状況をみると逃げられた漢族はほんの一握り。大半は虐殺されて北斗の拳状態。
ちなみに金と南宋では、南宋の方の戸数が1.5〜2倍に多かったそうだ。
三国時代に青州徐州の人口激減してるのね
そりゃあなあ南宋の頃は江南の開発進捗していたからな。
蜀一州で魏十州と対抗してるから、益州は相当疲弊したと思うよ
>>941 江南開発は主に、六朝時代と南宋時代の2段階に分かれてるよな。
>>942 でも戸数比だと1/8くらいで、呉と蜀合わせるとちょうど4割だからいい勝負じゃね
魏は中央の人口密集っぷりが凄いなw
司州と冀州で半分占めるとか
946 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 03:21:19 0
なんだかんだ、曹操が華北統一してから、晋の天下統一まで75年もかかってる。
魏が圧倒的というわけでもなく、若干優勢という程度だ。
大体孫権劉備なんぞ曹操が官渡の戦いで大勝利した時点で摘んでる。
江東の孫策なんかも生きている頃徐州に進出しようとしたが、陳登に良いようにやられてさっぱりだった。
あれひとつ抜けないで中原進出目指すとか呉厨は夢見すぎだろ
長江に救われているからな。 金や蒙古に対しても防波堤となっていたなかったらまあ異民族の統一政権がもっと増えていたさ。
あれだよあれ、荊、揚の大州を保有してたから
交州、広州の開発を進めることにより500年後には魏の国力を上回るという、国家五百年の大計
>>947 それは違う
官渡の戦いが決定打ではない
袁家が分裂し、曹操その合間を縫って河北を占領出来た事が大きいだろう
>>948 あと秦嶺山脈だよな。
赤壁の戦いは長江に、漢中の戦いは秦嶺山脈に阻まれた。
これを一代で天下統一出来た人って、人間じゃないよな。
>>949 武陵蛮や山越がいるのにどうやって意思疎通すんだよ。
そいつらに漢字教え込ませないとダメだろう。それは南宋の時代までかかるんだよ。
清の乾隆時代になるまで、生苗というのがいて、まるっきし言葉が通じない状態で残るのだし。
内陸には、爨とかいるし、その南の内陸洪景あたりには孟獲みたいなのもがいるし
そいつらときっちり話をつけられないと、いつ襲われるかわかんねー。
>>953 中国語に決まってんだろw支配者の言語を押し付けるのなんてよくある事
どうせ僻地の連中は開発し難い土地だし、諸役全免除で兵戸にすりゃいい
開発を進めるのは可能だろうよ
956 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 03:51:06 0
>>950 あの大敗で袁紹は血圧があがって後継者問題も解決しないまま憤死(多分脳卒中とかその辺だろう)憤死したのだし、
遠因であるだろう。
>>957 そっから1年生きてる上に、倉亭に攻め込んだり
冀州各地で反乱起こりまくったのを武力で鎮圧したりと
憤死とは到底言い難い、普通に何かの病気
山越や武陵蛮なんて呉が人攫っては兵戸にしたり、従わなかったら殲滅したりしているので
対漢族の心情最悪だろ。 そうそう賦役免除で兵役なんか組み入れられるものか。
敗戦が原因で死に至るとすれば、自殺ぐらいしかないよ。
それ以外はただの病気。
>>953 陶侃や陶淵明は武陵蛮出身で渓狗と嘲られた。
東晋の頃でさえそんな感じ。
魏史袁紹伝に苦悶の内に血を吐いて死んだとあるけどね。
その割には、官渡の戦いが終わった後も元気だな
でも吐血したのは事実。記述を信じるならばだが。
>>962 それは分かるけど普通に病気って事でしょ?
>>959 そこで、客家が活躍(?)する訳ですよ。
968 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 04:16:37 0
「土客械斗」ですね
でも、袁紹って官渡の戦いの後に、曹操ともう一戦、倉亭の戦いもやってるよね。
仮に敗戦が原因だとすれば、そっちの影響の方が大きいと思うんだ。
まあ現代でも落選した爺が短期間の間におっ死ぬ事があるし
ドミノ倒し的に客家や苗が南へ南へ押し寄せるから
越系の土着民と客民が械斗しちゃうわけで
広東や広西ではよく発生しておるね。
ムスリムも交えたあげく、客民同士の客家と苗で仲間割れもするし
客-苗-回-タイ系土着の四つ巴の争い。
械闘は台湾でもおこっているんだよなあ。特に大陸に向いている沿岸地域で。
ソース忘れたけど、南支那では水利権がらみでまだ農村部では械闘やっているとかニュースみたことあるような・・・。
975 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 04:31:10 0
武帝紀は曹操視点、袁紹伝は袁紹視点で記述されているのだろうか
しかし、あの程度で憤死するもんかねー?
国力ではまだ袁紹が有利な状態でしょ。
こじつけっぽく考えるなら憂悶=ストレスで胃潰瘍あるいは胃がん患って一年後に大量の血をはいたまま予後が悪く急死した
かんがえてみるテスト
978 :
sage:2011/01/23(日) 04:41:50 0
a
>>977 田豊を信用できず処刑してしまったり、反乱が多発したりで精神的には追い詰められていただろうな
>>946 6:4ならあまり差は無いように思えるかも知れんが、6:3:1だ
各個撃破すれば魏の楽勝よ
>>971 武帝紀も董二袁劉伝もほとんど一緒じゃん
冀州の城や村の多くが反乱を起こしたが平定した。
官渡のあと発病し建安七年に死んだ。
武帝紀だと吐血した、董二袁劉伝だと憂悶のうちに死んだ、が独特なだけで
まあ、孫策は過大評価だよな。陳登親子に良いようにされているのに、
曹操と長江以北と早期決戦するとか白日夢にすぎない
あくまで江東の虎だし、弟も合肥抜けなかったしな
孫呉はどうあっても天下の目など劉備以上にない。
>>982 孫策って伊達政宗みたいだよな。
大した事無いのに人気が有る。
>>982 官渡の頃なら陳登程度じゃ全くどうにもなんないだろ
魏 443万人
呉 230万人
蜀 94万人
孫堅も孫策も早死にしすぎ
988 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 05:16:26 0
赤壁にしても、漢中にしても、
魏の南下を食い止めたというだけで、瓦解させるには至らなかったんだよな。
>>985 孫策は二度目の陳登征伐いく途中に突然刺客に襲われて横死するのだが、
もしかすると、孫策を暗殺したの陳登じゃね?
本人がやるわけねーよw
>>986 それ兵士と屯田民の家族は抜きってのが通説じゃないの
いくらなんでも30年40年で倍増はしないだろ
http://words-words.blog.ocn.ne.jp/wordswords/2007/07/post_ef4c.html 呂布捕縛の功績によって、伏波将軍の地位についた陳登の次なる敵は、江東の孫策であった。
彼の治める広陵は孫呉の境界にある要衝であり、当時旭日の勢いにあった孫策は大軍をもってこれを攻略した。
孫策の進撃に恐れおののき、撤退を主張する部下に、陳登は言った。「わしは国家の命を受けて、この地の抑えと
してきているのだ。昔、馬援(後漢創立の名将)はこの地位(伏波将軍)についていたとき、よく南方では越の国々を平定し、
北方では多くの夷狄をうち滅ぼしたものだ。わしは凶悪な者どもを撃退することができないうえに、
どうして敵の前から逃げ出すことができようか」かくて陳登は城門を閉ざし、兵士たちの喚声を静まらせてわざと弱々しい防備で
あることを強調した。そして孫策の軍隊に緩みが見えたことを望楼から確認すると、一気に城門を開いて軽騎兵を突き進ませ、
敵の背後を攪乱させた。孫策軍は慌てふためき、陣容を整える間もなく、陳登みずから陣太鼓を叩いて突撃する兵にさんざんに
打ち破られた。陳登はこれを追撃し、万単位の首級を挙げたとある。思わぬ敗北に激怒した孫策はすぐさま大軍を編成しなおし、
再び広陵に迫ったが、陳登は冷静であった。功曹の陳矯を曹操の元に送り援軍を要請すると、すぐさま薪を積み上げ各所に
それを配置し、孫策が迫ると一気に火を付けた。火勢は強く山々に燃えうつり孫策軍は恐慌をきたし、また城中で兵士たちに万歳を
唱えさせあたかも援軍が到着したかのように見せかけると、孫策軍はまた壊乱状態となって退却した。陳登はこれを追撃し、
またも一万余の首級を得たという。このように彼は防御指揮官としても極めて有能であったことが分かる。
孫策は江東においては常勝将軍であったが、北方戦線においては陳登に完全に頭を押さえられていたのである。
(そして孫策は陳登攻めの最中に刺客に襲われて死ぬ)
陳登はこののち東城に転任し、やがて三十九歳の若さで死ぬが、彼が広陵を離れて後、孫権が長江の北に大いに勢力を伸ばすの
を見て、曹操は「陳登の計略をもっと早く採用せず、大きな猪(呉)の爪や牙を生長させてしまった」と嘆息したと言う。
やたら陳登を評価してる人いるけど、そんなに扱い大きい武将だっけ?w
まぁ、孫策よりは頭良いだろうけど・・・
呂布を破り、孫策をやぶったのは彼1人だけ。
いま三国志見てるけど陳登伝なんて無いぞw
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