1 :
世界@名無史さん:
3 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 00:11:57 0
符堅は忠誠心無いやつまで重く取り立てちゃったからな。
忠臣と乱臣の区別を付ける事が出来なかったのが汚点。
これを区別出来ていれば、民族融和も成功していたし、東晋への南征も成功したはず。
淝水の戦いで前秦を裏切った朱序って、やっぱり東晋のスパイなん?
6 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 00:25:10 0
一回の敗戦であれだけの大帝国が滅んだ例って他に無いだろ。
だって100万は多すぎるから
100万の大軍だと統制が取れにくくなるし
100万の大軍が負ければ国全体の士気も大きく下がるし、反乱も起き易くなってしまう
>>6 別に前秦は一回の戦いに負けて滅んだわけでは無いが
滅ぼされたのは淝水の戦いの戦いから11年後
戦いの戦いから?
10 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 00:42:07 0
バヤズィト1世がティムールに木っ端微塵に粉砕されたのが一番致命的じゃね
呉が晋に飲み込まれた時も1,2戦しかしてないけど、瓦解してたし
呉は6方向から攻められたんだよな。
晋16万vs呉5万、最後の抵抗の割には戦力が少ない。
1,2戦で滅亡したという事は、やはり抵抗する気が失せてしまったのだろうか。
どう考えても詰んでるから
仮に撃退したとしても国力の差が圧倒的すぎる
長江が防衛ラインとなっている呉にとって、蜀は晋との緩衝地帯
その緩衝地帯が晋の領土となってしまった時点で、どうあがいても無駄
それでも、陸抗が生きている間はなんとか時間稼ぎ出来たが、その陸抗が死んだ事で
いよいよ本格的に滅亡へ向かう
こうなると士気も下がり、晋・杜預らの侵攻によって滅亡
それ以前に暴虐王が殺戮三昧で割拠領主やる気0でしょ
>>10 陳が隋に滅ぼされた時も首都(国境からすぐ近く)が陥落して、すぐに降伏したんだっけ。
>>14 孫皓もヘタレというか内弁慶だよな
味方は好きなだけ殺しといて、いざ晋が攻めてくるとあっさり投降するんだから
17 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 01:19:19 0
そういうもんさ。
大抵は虚勢を張ってるだけの暴君。
しかし、攻撃側が一回の戦いで実質滅亡ってのは前秦ぐらいだわな
前秦崩壊の前兆は淝水の戦い前からチラチラと見え隠れしていたがね。
20 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 01:42:08 0
荊州北部(西府軍)では勝ったけど、徐州(北府軍)では負けてるからなー。
謝玄のいる北府軍には勝てる保証が無かった。
てか、それ以前に苻堅は徐々に劣化していってるから
それだけでも十分にわかる
徐々にというより、王猛が死んでからは凡君。
淝水の戦いに負けてからは暴君。
23 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 02:08:06 0
長江文明
>>22 うん
だから、一気に暗君へ堕ちたわけではないでしょ?
「徐々に」という表現で合ってると思うんだが
25 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 02:25:44 0
匈奴は雑魚い。
強いのは冒頓単于であって、匈奴ではない。
また、劉淵も冒頓単于に比べると数段落ちる。
ただ、どちらも中華の混乱に乗じて攻め込んできた点は共通しているというね(笑)
>>25 え?
冒頓単于は漢が統一した後に攻め込んで、白登山の戦いで高祖を破ってるだろ
デマ流すな
27 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 02:45:00 0
無知晒し乙。
楚漢戦争の混乱に乗じて匈奴がオルドスを奪った事すら知らないなんて・・・。
何にしたって高祖自ら親征して命からがら返ってきたのは事実じゃん
>>27 でも、統一された漢と戦って大勝してるのは事実なわけでして
その事実をごまかすつもりなんですね
わかります
周亜夫が失脚させられたのは、文帝が優しすぎるのが仇になったのかも。
文帝の時から仕えていて、周亜夫はその実直さが、むしろ文帝に高く評価されていた。
一方、景帝には反発を買い、失脚に追い込まれてしまった。
いやいや、景帝が悪いだろ
ちょっとした事で人を殺してるんだぜ
周亜夫も悪い。
文帝の事を貶しつつ昇格するなんて・・・。
これに快感を覚えた周亜夫は悪い癖がついてしまった。
あ、やっぱ文帝が悪いんかな。
33 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 03:19:22 0
>>32 >文帝の事を貶しつつ昇格するなんて・・・。
>これに快感を覚えた周亜夫は悪い癖がついてしまった。
んな事ねーよ
元からそういう人間
周亜夫と景帝、どっちもどっちだな
文帝は関係無い
そういえば白登山の戦いでは、偽の撤退して劉邦を誘い込もうとした冒頓単于の策を見破り、慎重論を唱えた劉敬が投獄されてるな。
楚漢戦争の時には配下の進言を優先していたはずの劉邦も、皇帝即位後は変わってしまったな。
36 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 03:38:53 0
人間っていうのはそういうもんさ
名君も晩年は老害か何かで変質してしまう場合が多い。
漢文帝、光武帝、隋文帝、唐太宗、宋太祖、康熙帝などは晩年も名君DA
冒頓単于・檀石槐・耶律阿保機・阿骨打・成吉思汗・努爾哈赤
遊牧厨乙w
41 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 05:07:56 0
>>37 劉邦って名君なのかね?
劉邦軍団はチートだが
>>25 匈奴が西域を支配したのも冒頓単于からだよな
冒頓単于の前の匈奴は東胡に圧迫されてたんだよな
43 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 12:57:15 0
冒頓単于が東胡を潰しておいてくれたおかげで、冒頓単于死後も北方民族の中で主導権を握る事が出来た。
月氏も遥か西方へ逃げて行ったし。
武帝にやられた後も、鮮卑台頭まではな
新末後漢初の動乱で復活しちゃったからな。
ただ、劉秀軍が思いのほか強かったので、劉邦の時みたいにはならなかったけど。
46 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 13:47:06 0
なーんだ
ただの火事場泥棒か
火事場ドロボー言うけど、戦略としては間違ってないだろ。
むしろ、そのやり方のが賢い。
大体、どの王朝も大規模な農民反乱に漬け込んで独立し統一してるんだから。
一々火事場ドロボーとか言ってたらキリが無い。
49 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 14:12:20 0
でも
火事場泥棒なのは事実じゃん
その事実をごまかすつもりか?
事実も何もそういうやり方が常識なんだよ。
当たり前の事に一々火事場ドロボーとか言う必要無いだろ。
キリが無いと言っているんだ。
52 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 14:17:43 0
53 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 14:25:20 0
>>51 >キリが無いと言っているんだ。
知らんがな
本当の事を言って何が悪い
何か都合でも悪いの?
もういいよ。
>>41 劉邦は名君で良いんじゃない。
優秀な人材を集めるだけの魅力と、将の将たる統率力は高いだろうし。
>>46 そうだね
ほとんどの中華統一王朝は火事場泥棒だね
56 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 14:42:52 0
はい
でも、中華民族による火事場泥棒は許されるのです(キリッ
しかし、北方民族による火事場泥棒は許されないのです(キリッ
>>56 カエレ
>>54 むー
確かに王の頃は良かったかも知れないが
皇帝即位後は良いとこ一つも無いしな・・・
むしろ悪い部分しか残ってない
58 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 15:00:54 0
北狄の冒頓単于や、南蛮の項羽よりはマシだ
盗賊皇帝
劉邦も項羽の事言えんぞw
蕭何や張良が居なかったら略奪やるもんね。
63 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 15:25:39 0
でも、項羽と違って配下の注意をちゃんと聞き入れるから良いんだよ
項羽ならまともな配下が注意しても無視して略奪しちゃうでしょ?
白登山の戦いでは慎重論を唱えた部下を無視するどころか投獄しちゃったけどね。
そして負けた。
良くも悪くも項羽より極端だな
66 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 15:46:18 0
そう
蛮族項羽なんぞよりスケールがデカイんだお
>>66 スケール云々はまた別の話だろ。
それに項籍は蛮族じゃねーから。
68 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 15:54:01 0
楚は苗族の国という見解が主流なんだが
>>65 いやいや、悪さは項羽の方がスケールデカイだろ。
項羽は20万生き埋めにしてるわけで。
項籍は義帝も殺してるしな。
71 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 16:12:08 0
それは項羽じゃないよ
義帝を殺害したのは英布
いやいや、自分を手を汚してないだけで、懐王を殺る気マンマンだったろ。<項羽
項羽は戦神
項羽にとって義帝は邪魔でしかないからな
ただ、直接やっちゃうと名声が落ちてしまうから
でもまぁ、直接やらないでも反発を買ってあぼんしちゃったけど
項羽は少数精鋭、韓信は多数精鋭
項羽は大軍を率いるのが大して上手くない。少数ならチート。
韓信は数が多ければ多いほど良い。
ちなみに、凡人が大軍を率いるのは無理。
数が多すぎると統制が取れなくなるから。
無闇に数が多ければ良いってもんじゃない。
韓信の場合は無限までイケる。
やはり皇帝項梁の武将として生きるのが一番適性に合っていたのかも知れんな・・項羽は
項梁の事は尊敬してたし大人しく従うだろうし
78 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 16:45:34 0
項梁が殺された事を恨んでいたぐらいだしな
やがて自分の番が回ってくるとしたら項梁を裏切る事も無い
そうすると、項羽の代でやはり滅亡するんじゃ・・・。
項梁は政治的に有能だと思うし項羽に代わった時点で程度安定してれば・・・
しかし煬帝や石虎コースを歩みそうな匂いがプンプンするな
やっぱり項羽は君主より最強武将でいたほうが良いのか
有能が軍師が陳平しかいないからどうだろう
范増はダメ
入れ知恵で封建制にしてしまったのは范増だし
兵站も無視しているし
また、范増は陳平の昇進を阻んだりしているしな
>>80 もともと項羽に恨み持ってる人多いからな。
そこに項羽が即位して悪政を行うとすれば不満が爆発しそう。
胡亥の時もそうだったし。
83 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 17:10:23 0
西楚には蕭何ほど政治の出来る人がイナサス
一番マシなのが陳平
人材の少なさが致命的だ。
さらに、陳平が漢へ寝返り、范増は下野した事で軍師が一人もいなくなってしまった。
項梁って項羽ほど戦いに強いん?
86 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 17:25:59 0
うーん、項羽には劣るんじゃないかな
そもそも、項梁は章邯に負けて戦死してるわけだし
項羽はその章邯すらも跳ね返す
項梁も強いんだけど、項羽がチートだから
>>85 戦よりも政治力、調整能力が高いのが大きいだろう。
しかも項羽を手足のように使いこなせる立場にいたし。
だね。
項梁の得意分野は政治。
後、季布も政治が得意。
どちらも蕭何にゃ劣るけどさ。
89 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 17:41:20 0
蕭何に劣るというより、蕭何が異常なんだけどな
>>88 季布が政治出来るとは初耳
それなら范増の方が政治力高いわ
范増は政治が出来ると勘違いした男。
封建制はどう考えても愚策。
>>91 だからと言って政治的に季布の方が有能という証明にはなってませんね
わかります
ごまかしても無駄です
とは言っても、それまでの世間の常識が封建制であり秦が瓦解した一因は全国の強力な中央集権化にあるんだから
旧制に復す政策に同情と理解の余地はあるだろう。
このスレ伸び過ぎw
>>93 封建制でもトップがまともなら数百年は持つからな
ただ、長らく(戦国時代〜秦)封建制が機能していなかった事もあって、うまくいかなかったんだよな
一に蕭何、二に韓信がいなかったら劉邦は天下取れなかったな絶対。
97 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 18:06:16 0
覇者という称号が出来た春秋時代からすでに機能していないだろう。
実質は覇者が中華を牛耳っていたんだから。
周王なんて傀儡。
>>96 張良は劉邦が漢中王になるまではかなりの活躍をしていたんだがな
漢中王になってからは蕭何・韓信のターン
>>97 曲がりなりにも、諸侯が周の言う事を聞いていた春秋時代は機能していたと言えるんじゃないかな
周の事を無視していたのは、当時蛮族の国を言われていた楚だけだし
言う事を聞いていたのではなく、覇者になりたかっただけでは?
>>100 どんな理由が有ろうと周りが周の臣として言う事を聞いていたのは事実じゃん
102 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 18:32:23 0
まぁ、それは周が統制を取っていたのはではなく、いくつもの国々がお互いでお互いを抑え合っていたから、統制が取れていたんだけどな。
ただ、機能していたのは確かだ。
戦国時代に入るとほとんど機能しなくなったが。
封建制自体は間違ってないだろ
問題はその論功行賞のひどさだ
危険なやつを僻地の王に任命する
そんな事をしたら独立する危険性が高まるだけ
後、やはり西楚を本拠地としたのが間違いだな
地形的に不利だし、関中王になっていれば少なくとも劉邦の芽は潰せた
104 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 18:47:05 0
それまでの封建制と違うのは、諸侯が「王」に任命された事だな。
だからこそ、項羽は他の「王」と違うぞという意味で「覇王」なんていう厨二ネームを名乗ったのだが(笑)
>>68 そんな見解電波ちゃんしか飛ばしてないから
>>104 秦のあとを継いだんだからある意味当然だろ、秦の最高指導者は皇帝なんだし
覇王以前に覇者という称号が中二的センス。
109 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 19:01:47 0
「皇帝」=「皇+帝」
「覇王」=「覇者+王」
一応、皇帝の方が格上なんだよな。
112 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 19:11:59 0
>>110 皇>帝>王>覇者
皇帝>>>>覇王
こうだろ
>>112 むしろ楚は異民族の国という見方が主流だしね
>>112 楚は漢族で確定してる、定説が無いのは百越とか南蛮
三皇五帝、西帝東帝>諸王、王道>覇道
だよな
漢族って、漢王朝が出来てもないのに漢族がいるのか
漢中盆地の原住民は巴族とかのチベット系だが
119 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 19:33:44 0
>>116 確かに春秋戦国時代は各国が王を名乗っていたのに対し、秦・斉の二強が東帝・西帝を名乗っていた事から、「帝」だけでも「王」より格上という事が分かるな。
「皇」は「帝」と同格か、それ以上。
「覇」は「王」に任命されるものだし、「王」より格下。
となると 皇≧帝>王>覇 こんな感じか。
三皇は神、五帝は偉人
なので、三皇の方が五帝よりは上の位置になる
>>118 当時、漢人が居住していたのはまだ黄河流域辺りだけだしなあ
>>116 確か秦王は帝道、王道、覇道の三つの中で帝道を選んだんだよな。
漢王朝が出来る以前は「華夏」とか「諸夏」じゃねえの
楚の始祖は系譜上は重黎・高陽・黄帝まで遡れるが後付もいいとこ
>>117 越と違って楚や呉は史記に文化の大きな違いが記録されてないから
言葉も通じてる
>>118 チベット系はいねーよ、文化や言語的には中国人
中原の国々から野蛮と見られていただけで
楚は中原の国家と見なされてないだろ。
>>125 秦より早く中原に組み込まれてるから
元々は周に貢納してるし、熊某だっけ
127 :
( `ハ´):2011/01/13(木) 20:01:46 0
楚のような蛮族の国を中原国家とは認めたくないアル!
熊某なんて実在しねーよw
130 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 20:18:38 0
当時だと、長江流域・巴蜀・関中など国家は中原と異質の国家とされていたね。
孟子は楚人を「南蛮鴃舌」、モズがチーチー言うようなわけのわからん言葉を話す連中、
あえてギリシャ語で言えば「バルバロイ」と呼んでるぞ。
楚では「虎」を「於兔(おと)」というなど、言語的にも華北とは大きく異なり、
華北人との会話には国際共通語として夏語(雅語、文言)を用いた。
荊だの楚だのいうのは「いばらの生い茂るジャングル」の意で、蛮は草叢に棲む蛇のこと。
周からもせいぜい「子爵」しか与えられておらず、南蛮のやや華夏化した程度の扱いだ。
『左伝』は楚人が作ったから、呉も越も杞も「蛮夷」と呼んでいるが、『公羊』『穀梁』では楚も夷狄扱い。
中山国も微妙な扱いだよなぁ
>>130 関西は現代でも首都圏から見て異質とされているよね
異質なだけで言語や基本的な文化は同じ
中山国みたいな根本的に文化が異なる国とは違う
楚・呉・越も根本が中原と異なる
>>129 殷や夏も同じ様なこと言われてたなあ、何十年も前は
異なってたんだろうけど戦国末期には楚も中原化されてね?
>>134 楚、秦は野蛮扱い程度な、越や北狄や中山とは違う
だいたい「中国化」ってのは何だ?
「中国語」を話し、「中国の文字」を使用し、「中国人」だと名乗れば「中国人」か?
楚は異民族の国とされてるZOY
>>137 その野蛮扱いとは何?
何で野蛮扱いされたの。
呉は姫姓で周の分家、越は夏后の庶子の末裔だろ
史記を絶対無謬の典拠とすればの話だけど
142 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 20:53:04 0
史記は伝説と史実が混ざってるからな。
史記を書いた本人もそう言ってるし。
太公望て実在したの?
>>138 あと中国風の生活な
>>139 はいはい、典拠は
犬戎、北狄は人間扱いされてないが楚や秦は野蛮人扱いが精々
それも秦が統一する頃には区別もなくなってる
>>140 野蛮だから
>>141 史記には越人や西南夷の習俗が描かれてるよな
楚人や呉人の習俗は特に言及されてないのに
野蛮人扱いなら中原入りしてるというのかよ。
昔々は欧州も憧れた中国文化
150 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 21:25:05 0
唐の太宗は歴代最強だったよな
日本の覇権も貞観の影響が強いし
源頼朝とか
>>147 匈奴もせいぜい野蛮扱いだが、これも中原国家か?と問われれば違うわな
中原から見た楚は感覚的に西欧から見たロシアみたいな感じか?匈奴はイスラム教徒、未開の周辺民族はインディアンて感じか
>>150 貞観政要か。
確か、徳川家康も参考にしているな。
>>152 良いトコ突いてるな、その例え
ロシア(楚)は欧州(中華)かどうか微妙な感じで、無駄に面積が広い所も似ている
イスラム(匈奴)は一応、文明を持っているが欧州(中華)の圏外
インディアン(周辺諸国)は完全に見下されてる
春秋時代の楚なんてまんまおそロシアの脅威って感じだな
王を名乗ってるあたり、モスクワは第三のローマだから俺皇帝ね!(自称)とかぶる
晋VS楚は米ソ冷戦だな
156 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 21:52:11 0
晋は三国分裂しなければ、秦にも対抗出来そう。
>>148 その電波ゆんゆんの妄想がどうかしたの?
楚は荊蛮とは呼ばれても南蛮とは呼ばれない、孟子がほざいてるのは楚人じゃなく百越の類
分裂した一つに過ぎない趙ですら戦国中盤までは秦と張り合ってた強国だったしな。
>>151 匈奴の風習習俗を非難までしてるよな、野蛮扱い所の騒ぎじゃない
楚や秦に対する態度とは大違い
項羽は「王覇」と称すべき所を、何故か「覇王」と称してしまった。
>>152 意味不明だな
中原がギリシャだとすると楚はマケドニア、秦がローマ
胡服騎射は言わばキリスト教徒がターバン巻いて戦おうって言ってるようなもんか。
そりゃ群臣総反対するわな。置きかえてみるとわかりやすい。
ルネサンスに似てるな。
匈奴の風俗については中行説の口を借りて弁護してないか?
ターバン巻いても戦争の役には立たないが、胡服に変えるのは大いに戦争の役に立つだろ
秦漢の騎兵はぞろぞろ長い漢服を着て馬に乗るスタイルなのか?
マケドニアは田舎っぺのギリシア人、ローマはギリシア化された異邦人?
167 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 22:15:02 0
当時は漢族という意識より楚人、燕人、秦人などという意識の方が強かったんじゃね。
>>167 それはまた別
「○○(地方)人」というのに近い
中国=中華=天下=九州=始皇帝統一圏=漢帝国=中華人民共和国
>>164 むしろ、匈奴の文化を取り入れたりもしてるよな。
>>166 ローマはトロイアの遺臣遺民が流れ着いて建国した国だから、もとはギリシャ人だろ。
>>124 羌とか吐蕃とか西夏とかになんども攻め込まれてるじゃないか。
>>124 秦の李冰や三国志の馬超の時代は、巴族や古羌族が殆どでしょう。
現在も固有言語の土家族803万人、藏族康人が100万人、藏族嘉絨人が100万人。
「湖広填四川」によって湖南や湖北の人々が重慶や東部四川に移住してきた。
174 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 22:38:21 0
>>124 「あい」さん乙です。
あなたも土家だとカミングアウトするとヨロシ。
ラテン語とギリシャ語なんて語族レベルで違うだろ
伝説を持ち出したらペルシア人もペルセウスの子孫でギリシャ人だということになる
>>173 少なくとも、春秋戦国時代には漢人なんてほとんどいなかったろうね
>>176 北魏孝文帝の漢(字)化運動がはじまるまで
ロロ文字使って、古羌語・古彝語を話していたんだと思うよ。
ラテン語とギリシャ語は印欧語族だから、語派レベルだな。まあペルシア語も印欧語族だが、
ギリシャ神話ではアフロアジア語族のエジプトもフェニキアもアルゴス王家の末裔なんだよなぁ。
>>173 中原に中山国が在ったのと同じような、武陵蛮とかシャマカとかその類だろ
楚の成り立ちとは何の関係も無い
>>177 巴も蜀も漢字使って漢語を話してたと思うよ
地理志に何ら注釈無いからね
「漢中盆地にチベット系の巴族がいたか否か」について話しているのに、なんで楚の話が?
楚人や漢中盆地の住民が、山西省南部や河南省あたりから移動してきた純血の漢民族でないとなにかまずいの?
>>178 血統(遺伝子)、帰属、言語は、別々に伝わることの多いもので、結構な頻度で組み合わせが入れ替わる。
>>179 楚はチベットビルマ系の民族ではない。
関係するところでは、楚辞の推定される音からはミャオヤオ系という説がある。
>>181 逆に河南省へ、西戎を含む五胡族が雪崩こんできたから、まずいんだろう。
四川文明は黄河・長江とも類の異なる文明だ
てか、劉邦はよく住民のほとんどが異民族である僻地を根拠地として、関中を攻め取る事が出来たなw
187 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 23:27:46 0
当時は成都も相当な田舎やったんかな?
李冰集団の協力をとりつけられたのであろう
四川というと、文明とか文化とか開化とか道徳とか理性とか、そういうものから最もかけ離れた土地柄の
ような気がするんだけれど……
虫に唐辛子粉まぶして炒めて食ってる蛮族のような。
天府と謳われた当時の人口世界一都市だし田舎だろうな
史書に「風俗が異なる」と特筆されていない人々は全て中国人だよ。
みんな漢字を用い、衣冠束帯を整えて雅言を話し、
黄帝の時代から都市文明を享受していたに決まっているんだ。
うわ〜w
>>183 ねーーよ、楚文字で創られたのに楚辞の推定される音とか
意味不明過ぎだろw
劉邦達は漢中盆地までだったら、もちろん行った事は有るだろうけど
四川盆地までは出向いたのかな?
紀元前111年て、前漢の時代じゃね
>>191 匈奴、鮮卑、倭、ビン越、南越、西南夷、羌、テイ
皆「風俗が異なる」と特筆されてるからな
風俗が異なると特筆されていない=中国人
という法則が発動するのはおかしいけどな。
鮮卑、羌、氐はそんなに隋唐の時代の北朝系中国人と変わらないだろう。
200 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 23:50:24 0
>>190 そんなに多いもんかね?
やはり、戦乱とは隔離された世界だからかな
>>199 鮮卑はわかるけど、何故に羌と氐が入る?
隋唐までの時代に関中盆地に政権を置いた胡族が全て鮮卑だったと?
前秦や後秦が浮かばれまい
それなら匈奴や羯も入れてやろうぜ
隋唐までいくと漢人も胡化してるし五胡も漢化してるからワケ分からんわ
融合してしまったということでしょう。
将来我が国が中国の一部になったら○子様親子も習近平様に仲良く種付け腹ボテになるから
心配しないで。中国最高!
>>203 匈奴・羯は五胡十六国の前半だけだからね・・・。
鮮卑・羌・氐は五胡十六国の後半に国を築いているし。
習近平様を早く日本にお迎えしてネトウヨを強制連行してロボトミー手術させてあげてほしいです。
そうだね
でも、とりあえず落ち着きましょう
習近平の先祖も胡族で鮮卑
江沢民は買弁資本家の一族の出身
王震は新疆の利権政治家
そういや曹操の墓が判明したときに名乗りを上げた自称子孫の人達いたけど
どうなったんだアレ
宇文部なんか匈奴系鮮卑で、「周礼」や漢人を用いつつ鮮卑復古政策をとるという混交ぶり
王楽泉は原油の闇ブローカー
215 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 00:16:41 0
>>212 当時の三国合わせた人口が700万人、現在の人口が13億だから、単純に考えると曹操の血を引く者は20人前後になる。
割と少なねーなオイ
60人くらい名乗り上げたから本物がいる可能性も高いのか?
本物が気づいてないとすれば・・・
>>217 13億人のうち、20人と60人が被る可能性はかなり低いな
それなりの根拠があって名乗り上げたんなら別だが
220 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 00:34:02 0
地球上の全てのものは韓国起源ニダ<丶`∀´>
つまり漢民族の事を韓国人と呼んでも間違いではないニダ<丶`∀´>
>>194 漢中王の本拠地は漢中だから。
わざわざ、巴蜀まで行く用事も無いし。
漢中はまだ関中に近いからまだしも、巴蜀は本当に何も無い僻地だっただろうね
224 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 00:42:15 0
何も無くは無いだろ。
確かに辺境では有ったが。
チベットビルマ系の人達が四川文明を築いているだろ<巴蜀
そういや陳勝呉広の頃に、韓広ってのが燕の王になってるな。
あのへんから逃げてきた燕人が辰韓国も建てたんじゃね?
衛満は燕人だな
燕人の起源はよくわかんね
オルドスからモンゴル高原を東西に行き来しているから
中原に姿を現さないので神出鬼没の感
張飛も燕人らしいが、遊牧文化にも馴染んでるのかね。
>>227 チベットビルマ系が住んでたのは雲南とかソウカとか建寧や
もっと西の山岳地域な
その後も公孫淵も慕容部も国号が燕の国を建てているし
ますますわからぬ
>>231 燕は北テキや犬戎を打って領土拡大してるけど
張飛の時代にはもう完全な漢土だな
235 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 01:07:43 0
呉漢は烏桓突騎を率いたりしてるよな。
生まれは南陽だけど。
燕王といえば、明の永楽帝
新末後漢初の彭寵も独立して燕王になってるな
あっという間に光武帝に潰されたけど
このすれでは
きみのしっているじだいのことしか
わだいにできないのか
そりゃたいへんだなあ
240 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 01:24:50 0
>>227 古蜀の事は史記にも詳しく記されていないからどういう人達が居住していたのかは謎
しかしなんで新末東漢初の話題に欠くと思ったんだ?
確かに知名度は低いかもしれないけど
俺は詳しい(つもりだ)ぜ
243 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 01:35:05 0
ここの人達は皆詳しいはず
知ってる人は多い。
ただ単に人気が低いだけで。<新末東漢初
まあでも後漢書は中国語読むのがめんどくせーのも確か
それでも夏殷周よりは知名度が高いというね
まぁ、仕方の無い事だが
史記にも蜀は出てくるだろ
帝高陽の母は蜀山氏で、夏后禹は蜀の石紐山で生まれてるし、
周の武王が殷を討つときにも蜀などの民が加勢した
つまり蜀は華夏民族の淵源でもあるといえよう
ハハッバロスw
249 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 01:57:31 0
漢中盆地には確か「召」という国が存在したとな。<殷代
定かでは無いが。
半分伝説の時代だからね、夏殷周あたりは
春秋以前の国って都市国家や部族に毛が生えたようなもんだろ?
>>250 殷周は伝説でも無いんじゃね最近研究が進んでるみたいだし
>>251 周代はまだ、都市と都市と都市t(ryを支配してるだけだったからね。
広大な平原を領域として支配するのはもう少し時代が下ってからの話。
飛び石支配か
>>252 まぁ、殷周が実在したとは思うけども
逸話・エピソードはどうなんだろうねぇ
256 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 02:21:02 0
呂尚は怪しい。
流石に太公望は居ただろw
呂尚 約3000年前
贏政 約2200年前
劉邦 約2200年前
劉秀 約2000年前
こうして見ると、劉秀の時代から呂尚の時代まで気が遠くなるぐらいの古さで有る事には変わりないんだよな
259 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 02:36:56 0
カエルやアウグストゥスも2000年ぐらい前。
>>257 実在はしただろうね
まぁ、あの活躍ぶりが本当かどうかは別として
カエサルの事じゃろう
>>258 まぁ、漢の時代だって高度な文明を持っていたのは、ローマと漢ぐらいだし。
周りの国々はまだまだ未開。
匈奴は?
>>263 少し前ならエジプトとフェニキアとペルシャがあったけども
>>264 ローマが高度な文明なら匈奴も高度な文明でしょ
267 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 03:15:49 0
>>265 古代は栄華と没落の繰り返しだからなぁ
ペルシャ帝国の全盛期は漢王朝やローマ帝国よりも凄いと思うんだ
え?
繁栄と衰退は古代に限った事じゃないよ。
>>266 ローマは文字を持っていたけど、匈奴は文字を持っていなかったじゃん
270 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 03:36:39 0
そもそも匈奴に文明なんて無い。
えー
正気で言ってるの?
文明レベルで言えば、
ローマ≧漢>>パルティア≧クシャーナ>>匈奴>>>その他
ぐらいじゃないの。
匈奴は漢に近いし、その他の未開の地と比べればまだマシって感じ。
パルティア・クシャーナもローマ・漢と言った辺りには劣るけど、それでも先進地域と言える。
まぁ、匈奴には胡服が有ったしね
胡服については、むしろ秦漢側が恩恵を受けているし
それでも、その他の分野についてはヒドいけどな
苻堅も若い頃は優秀だったのに。。。
275 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 04:28:59 0
皇帝になる前は政治家として活躍してたよね
276 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 04:45:02 0
韓帝国>>>>>>>>ローマ≧漢>>パルティア≧クシャーナ>>匈奴>>>その他>>>>>>倭人
そうかもね
でも、とりあえず落ち着きなさい
278 :
中華民族:2011/01/14(金) 05:00:17 0
倭猿に諭される朝鮮猿を眺める。それもまた一興。
>>234 いや、あそこら辺の地域は遊牧文化の影響を受けているよ。
遊牧国家への玄関口でもあるし。
ペルシャ≧漢>ローマ
また基地外遊牧民信者がホラ吹いてんのか
匈奴(笑)なんざアフリカ土人と同レベルの文明
遊牧国家というけどさ 特に街もないし草原ばかりで食べ物なくなったら農耕民のところにいってオンナと食料奪ってかえっていく
ような連中って野盗と何が違うの?わかんないんだけど。
エジプト人がピラミッドを作ってる時代のシナはまだ夏王朝以前の五帝時代か
遺伝子的には当時の人々の子孫だけど、中の人的にはコプト教徒の一部ぐらいしか当時の子孫の末裔だと自覚してねえんじゃねえの。
つうか、もう大分征服王朝が続いているだろペルシャとかヌビアとかローマとかアラブとかクルドとかマムルークとかイギリスとか
いっぱいきてオンナにちんぽ入れられまくっているから、もう何がなんだか分からないのが大半だろ。
一応、アラブ人とアイディンティティもっているらしいけど、実際はかなり複雑。
馬に跨って乗るのは漢民族が起源だしな
匈奴はそれを真似しただけのコーカソイド蛮族
ええ そうなのかなあ?武霊王が胡服胡射を趙群に導入するまで主に戦車で戦っていたような・・・・・
もちろん、模倣元は匈奴だったと思う。 漢民族が起源ってのはどうなのかなあ? 黄河流域が漢民族の大元だから
いわゆる春秋戦国時代の趙を漢民族の国と規定して良いかはともかくとして、騎乗自体は匈奴が先なんじゃないか?
黄河流域で馬必要なシーンってそんなにないとおもうし
匈奴の起源は夏后の淳維です
これは史記に明記してあるから間違いありません
289 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 11:47:24 0
それはあくまで自称でそういっているのを司馬遷が書き留めただけだろ。
そもそも、トルコ系の人々(異説もあるが漢民族とは関係なかろう 言語も生活様式もまったくちがうし 夏自体の実在も危うい
そもそも、夏はせいぜい都市国家で統一政権どころか領域国家ですらなかったのでは?)
が、なんで夏王朝の末なんだよ 漢民族の王朝でない可能性もあるが、いくらなんでもトルコ系はないわ。
夏は楚と同じ?かどうかは勿論不明だが、存在するならば支配層は苗族という説がある。
苗族は楚の時代はすでに南下していたが、いわゆる三代の頃は黄河流域にいたとする向きもある。
夏王朝の伝説などを信用するなら当時は苗族と羌族が中原の覇権を争っていたらしいな。(黄帝と蚩尤の抗争)
黄河流域の人々が夏を「討伐」し、周を建国するのは大分後の話で歴代の単于が信じている夏后の淳維云々は
かなりの眉唾だと思う
史記に書いてある事が必ずしも正しい歴史とは限らない
これは、司馬遷本人も言っている
それを裏付ける証拠が無いとね
あ、周じゃねえ殷だ・・・・あー徹夜で頭惚けているわ寝ます。
大体異民族って自分の権威を何も無いところから着けたがるものだからな。
たいてい根拠のない嘘伝説を捏造して仮冒していると適当こいているものだよ。
つ三皇五帝
三皇五帝は司馬遷も伝説の時代と位置づけているけどな。
殷や周も実在はしているけど、伝説で埋め合わせてる部分も多いだろうね
トルコオタらは龍山文化の担い手が遊牧民によるものとか意味不明の主張しているからな。
あいつらの妄想どこまで続くんだよと生温かい目で見守ることにしている。
300 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 12:26:24 0
三皇五帝だって、調査・研究が進んだら実在していたと言う事になるかも知れないよ。
>>300 いや、それによって伝説と史実の境目がハッキリするだろ
>>299 その頃の遊牧民はどうしてたんやろね。
数千年後の匈奴・鮮卑とあんま変わらんか。
>>269 じゃあ、突厥すげえじゃん。
沿海州からパンノニア盆地まで突厥ルーンの彫られた石が出てくるし
時代が違げぇよ
何がマシなんだ? 適当こくなよ。
>>305 ましと言っても・・・
漢>>>>>>>>>>匈奴>ローマ
五十歩百歩だが。
アンチ西欧ですね
わかります
欧米へのアンチテーゼは視点の多元化という意味では結構だが、
それなりに裏とらんと電波とかわらなくなるよ。
まだローマは史料の裏付けがあるが、遊牧厨や東洋厨の電波は
毒電波だらけでまあ・・・困ったものだ。
推理小説じゃないのだから妄想や願望でなく地に足をつけて物事かんがえろ。
史記は単于の戯言をそのまま紹介しているだけだろ。
裏をとってないしその一言で中原にまで遊牧文化が〜と飛躍するというのが理解できん。
確かにローマは地味な農業国家で、優れた芸術・文化こそ生まれなかったが、建築・統治・支配は優れてはいたというね
>>311 ローマ時代の歴史書には裏付けがあるのかい
>>312 突っ込んでほしそうだが、馬鹿に付ける薬がないので放置しておくね。
この時間帯はだめだな厨大杉夜になるまで放置しておくか。
西欧厨があらわれた!
>>300 お前様はイザナギの尊も実在したかもしれないと思ってるんですか?
319 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 13:14:41 0
匈奴が誇れるモノって胡服しかねーだろ。
それも、匈奴発祥じゃないし。
>>319 え?
本気で言ってるの?
胡服は匈奴の発祥で無いと?
匈奴が誕生する前からすでに存在していたかと<胡服
323 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 13:35:38 0
軍功の無い韓信を大元帥に任命するって、劉邦も度胸あるな
蕭何・張良が薦めたとは言え
無策な劉邦だからこそ思い切った事が出来たんじゃね?
黄帝が葷粥を討伐しているから、夏后以前には既にいたわけだ
つまり匈奴は炎帝が起源だ
だから、黄帝やら炎帝やらは実在しないって。
司馬遷だって、黄帝伝説はあくまで伝説だと認めてるんだから。
327 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 14:06:33 0
今の所、実在が確認されてるのはまだ殷後期までだしな
匈奴の単于て、頭曼以前は確認されてないんだっけ
冒頓が実在の確認されてる中で、二番目の単于
頭曼単于も冒頓単于のおかげで名が知られたんだけどな。
>>323 どうせ負けたら全てが終わるんだし、一発賭けたんだろ。
辺境民族の虚勢なんて小日本の日王水増しや虚飾だらけの皇紀でお腹いっぱいだから。
単于にしても半島と大して変わらないよみんな仲良く中国の元でひとつになろうぜ。
そうかもね
でも、落ち着こう
333 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 14:37:40 0
謝玄は名将?
謝玄とか一発屋だろ。
淝水の戦いは謝玄にしてみればまぐれというか、前秦の負けは決まっていたし
東晋側がよほどに愚将で無い限り、誰でも勝てた
しかしその後の歴史を大きく変えたよ隋唐ではなく前秦が統一していたのかもしれないし、
下手すると日本の謎の4世紀が百済王分家による支配だったと記録に残っていたかもしれないのにね。
>>334 おいおい
淝水の戦いの前にも徐州で前秦の南下を防いだりしてるじゃないか
一発屋ではなく名将だ
謝霊運など後世にも知られた名門を排出する豪族だしな
普通に下地あってのことよ
一発屋なんて苻堅厨が悔し紛れの戯言
339 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 15:00:15 0
まぁ、桓温と劉裕の間に挟まれていて、ちと影が薄いのは否定出来ない
2人とも野心家で簒奪しようとしたが、失敗したか、成功したかの違いでしかないじゃん。
謝玄が一番顕彰されてそうだがね。
毛沢東とかの話しよーぜ!
この時間帯はどうも劉邦や毛沢東の話を好む人がいるな
住民の中の人が時間帯ごとに変わっていてなんとも興味深い
一番人が良いのは謝玄
北伐が成功しなかったのが悔やまれる
置かれた状況が悪かったのか
>>342 農民からの成り上がりに憧れてるんかね。
三国志における孔明の南征とそれが世界史に与えた影響について三行で教えてくれ
謝玄は寒門出身でなく、名門謝氏の出身だからな。他の2人みたいに下からの叩き上げで西府軍や北府軍でのし上がったわけではないから
バックホーンが違うわな。
孔明の南征によって
蜀の領土は
ミャンマー東北部まで及んだ
劉邦は野良仕事もやっていたが、親にろくでなしと罵倒される生粋のクズ。
毛沢東は父に反抗したりもしたが、豪農で坊ちゃん育ち。
ある意味レーニンと似ている。
苦労知らずの坊ちゃんが革命にかぶれたのが本人にとって、いや中国にとっても
紛れもない不幸のはじまりだったワ
>>347 当時のミャンマーって統一政権あったの?
なかったのなら、モウカクとかゴツトツコツとかは現地住民ってこと?
王を名乗ったりしてたのかな? それとも集落どまりか?
そういうところまで分かるように書いてくれなきゃ納得いかん
レスありがとう
ミャンマー?そこまでいくかなあ?まだ雲南省の領域じゃね?
351 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 15:19:32 0
>>346 謝安が失脚すると半ば道連れにされてしまったからな
正史で語る三国志スレにいけよ 向こうのスレだと三国志オタがいっぱいいるから
細かいことまで答えてくれるはず。
ロシアはともかくGDP2位になった中国にとって、
統一政権をつくった毛沢東は不幸だけをもたらしたとは言えんぞ
>>352 世界史との関連で知りたいんだよ
というのも最近魏志倭人伝関連の本を読んで、
日本だけではなく三国時代のほかの地域はどんな古代史になってるのかな、ということに興味がわいたのです
1949年に毛沢東がしんでりゃ不世出の英雄だったろうさ。
その後の人生は中国にとって不幸であったし、本人の晩節を汚すだけだったと思ってる。
その点レーニンは革命直後に死んで晩節を汚してないわな
ソ連が崩壊してなきゃ、冷戦のもうひとつの勢力をつくった人物としてまだ評価されてたかもしれない
スレ違いすまん
357 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 15:24:44 0
>>349 統一政権は無かったというか、まだ未開の地だったろうね。
ちなみに孟獲は豪族。
毛は共産党内部でも内心よく思ってないの多いだろ。
失脚の口実にされては叶わないからみな表だって言わなかっただけで
ケ小平なんか奴のせいで息子まで不具者にされてしまったからな。
八つ裂きにしても飽き足らないのが本音だったろうさ。
習近平も下牧経験者だ 公的にはともかくよく思っているはずがない。
つうか、5-70年代に青春を送った人間でよく思っている奴いるのかねー?
>>357 なるほど、よくわかりました
ありがとうございます
>>350 孟獲が反乱を起こした範囲は雲南省〜ミャンマー北部だったと
それを全て鎮圧して領土としたかは分からないけど
>>358 「中国にとって」と国視点で書かれてあるから国にとっては英雄だぞ、と書いただけだよ
中国のあの世代の人たちにとって幸福をもたらしたとは俺も思わない
蜀の特産品といえば塩とか絹とかだったと思うけれど、
それが世界史に与えた影響ってあるかな?
砂糖の世界史とか綿の世界史みたいな感じで・・・
三国時代になったお陰で流通が促進されて周辺民族が活発化したとか・・ないか
>>360 確かに、当時の永昌の位置はミャンマーとの国境にかなり近いけど、果たしてどうなんだろうね。
国にとっても大躍進や文革は今までの功績取り消しものだけどな
権力をもっていたし、周恩来という現代中国の化物政治家が中国を国家崩壊寸前で
押しとどめていたようなものだ。
人治主義の悪癖がもっとも悪い形で出ていた時代だね。
>>362 三国時代の蜀も西南シルクロードを通じて交易は行っていただろうけど、三国時代に特別活発化したという事は無さそうだ。
現代の中国でも前半はよかったが後半は悪かったという評価らしいな>毛沢東
ということは孔明の南征が世界史に与えた影響は少ないということですね
蜀にとっては大きな意味が有ったけど、世界規模で見ると微々たる物<孔明の南征
世界史というより、南征より少し前に呉が交趾にまで進出して半独立状態だった士氏を支配体制下に組み入れているから
反乱もあってこれ以上放置できなかったというのが正しいかな。
北伐も重用だが、その前に後方を固めて云々というのはいわゆる演義でだいたい知っているとおもうが、正史でも概ね
似たようなものだからな。
>>369 ベトナムとかミャンマーとか出てくると、ああ、中国史と世界史は関連しているって気分になる
でも北方騎馬民族はたびたび中国を圧倒しているのに、
他の地域が中国を圧倒してるってこと少ないな
ベトナムとかチベットなんていつも中国史ではやられ役
近代の日本と欧米くらいか 南蛮東夷が中国を圧倒した例って
371 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 15:56:24 0
まぁ、当時の呉の交州支配は間接的なもので、呉が南中へ進出する事は有り得ないけどね。
反乱が起きた事でこれをきっかけに南中支配しようと思ったんじゃね。
南中の反乱は呉の後方撹乱もあったとの説もあったはずだが?
蜀首脳陣もこれ以上放置できないと判断したのでは。
http://ja.losts.net/%E4%BA%A4%E5%B7%9E 11年(建安16年)、劉備の益州攻略に際しては呉は歩?を交州刺史に任命し、交州を呉の勢力下においている。
223年(章武3年)に劉備が薨去すると士燮は益州の豪族であった雍?を離反させ呉に帰順させることに成功している。
226年(黄武5年)に士燮が死去すると現在の広西チワン族自治区北海市合浦を境界に、その北部に広州を新設した、
呂岱、戴良をそれぞれ広州、交州刺史とし、士燮の子である士徽を九真太守としたが、その待遇に不満を有す士徽が反乱、
呂岱は交州及び九真に攻め入り反乱を平定するとともに、再び広州と交州が統合されている。
雍?が実際に呉に寝返っているじゃん
>>365 前漢中期にはインドや中央アジアに蜀の絹は伝わってたみたいだな
ヨウガイは孫権に永昌太守に任命されてるんだよね。
雍闓の事?
377 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 16:18:36 0
蜀が嫌で呉に付くとはこれ如何に
やはり、突発的な行動だったのか
>>374 西南シルクロードは一番古いとも言われてるからね。
呉にとって長江が防衛ラインなんだから、
蜀とは素直に同盟しときゃいいのにね
蜀が滅んだら自分が滅ぶと分かってない
唇滅びて歯寒しというやつだ
こんな事やってたら魏にゃ勝てないな。
>>381 そんなの夷陵の戦いの時に昭烈帝に対して諸葛亮が散々指摘したが、劉備さん馬鹿すぎて人の意見ひとつも聞かない人だったから。
だから黄権も魏に降服した。
呉は遼凍の公孫氏にもいろいろと画策しているからな。
謀略好きな所が体質としてあるんだろう。
>>370 吐蕃(チベット)も最盛期には長安を占領したりしてるんだけどねえ・・・
>>382 最初に手を出したのは孫権だがな
しかも関羽が魏に対して大攻勢に出てたのによ
しかも、何故か魏と手を組んでるというね。
手を出したというか・・・あれ関羽が荊州に居座ったまま返さないし、
姉妹には魯粛がもってきた孫権から関羽に娘を降嫁させる話も
侮辱的な言葉はいてたたき返したからな。
激怒した孫権は融和派だった魯粛が死ぬと主戦派だった呂蒙に
命じて荊州奪取を命じた。それだけの話だ。
ちなみに夷陵の戦いがおきる直前は当の呂蒙は病死した上に、
孫権からの謝罪と荊州の一部の返還を前提とした諸葛瑾の
和平交渉を劉備は蹴っているんだが。
>>383 まだ荊州を手に入れてない時に四川の領有計画を立ててるもんだからなぁ
まぁ、発想力はすごい
>>387 「返さない」という言葉を使うのはおかしいがな。
諸葛亮は呉との戦争に反対していた。だからという訳でもなかろうが、水魚の交わりとまで言われた2人は劉備自身が親政という形で
出馬して諸葛亮は後事を託すという形で成都にて留守居を命じられている。
呉への親政をめぐってよほどのやり取りがあり、感情的な凝りがあったのだと思われるフシがある。
>>388 それは周瑜や魯粛の天下二分計画だろ。 赤壁しばらくして周瑜も魯粛も亡くなっているから。
関羽というのも傍若無人で人を人とも思わない所あったからな。
孫権からの降嫁話うけるのが世知というものだろう。
劉備に義理を立てたんだろうが、追い返した視点で許昌責められている曹操と
個人的にも関羽に恥を掻かされた孫権が臣下という形とはいえ、事実上の同盟
関係むすんで荊州事案の解決図られるの当然だろ。
魏から見れば、呉にしても蜀にしても、どっちもどっちって感じだな
責任の押し付け合いをしてる内に、どんどん国力差が開いて行くんだから
曹操が河北制圧した時点で、孫権も劉備も詰んでるだろ。
呉と蜀の国力を合わせても、魏には劣るぐらいだし。
>>387 2郡返して和睦しただろ
関羽の性格は悪かったけど殺すほどじゃないだろ
396 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 17:06:30 0
どんな理由が有ろうと、呉蜀で争っているようじゃ魏には勝てない
不可能では無いだろう。
南北朝時代だって、北半分の北魏が東西に分裂した東半分の東魏を前身とした隋が統一したんだから。
侯景の乱みたいに大規模な反乱が起きればな
毌丘倹の乱とかでは規模が小さい
400 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 17:22:14 0
呉の時に江南開発が大きく進んだんかな?
長きに渡って、江南を本拠にしてるわけだし
呉の時はまだ揚州北部・荊州北部だけ。
揚南・荊南の開発が進むのは東晋になってから。
403 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 17:38:37 0
領土を拡大するのと、守るので精一杯だったからなぁ<呉
華北が戦乱に明け暮れている間に、開発が進んだ東晋とは違って
「六朝」には、一応呉も入ってるんだけどね。
405 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 17:50:29 0
でも、呉の時だとまだ生産力は華北に負けてるから<江南
江南が華北に追いつき、抜かしていったのは東晋以降
>>383 そういえば、燕てすぐに消えたけど、蜀と良い勝負出来るんじゃね?
燕軍は士燮軍と同等か、それよりちょっと上ぐらい
蜀軍には劣るだろ
蜀は数十年抵抗出来たが、燕は二年で滅ぼされたしね。
赤眉の乱
緑林の乱
黄巾の乱
黄巣の乱
紅巾の乱
410 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 18:23:22 0
>>409 反乱の名前に色付いてるのが多いね
何でだろう
黄巣はたまたま名前に「黄」が入ってただけだろ。
他の反乱とは類が違う。
>>409 これらの反乱の中から、統一皇帝が出たのは緑林の乱(劉秀)と紅巾の乱(朱元璋)だけか
あれ、両方とも地味に超名君じゃね?
そらそうだ
一代で反乱者から統一皇帝に成り上がれるのは優秀な人間にしか無理だから
朱元璋が名君?
>>415 劉邦も見方によっては名君と言えるだろ。
誰にだって劉邦の真似が出来るわけではないし。
朱元璋は暴君じゃい
朱元璋に仕えたいと思うやつなんかほとんど居なかろう
419 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 19:11:20 0
元を追い払ったという意味では名君じゃね?
朱元璋のように落差が激しい皇帝は、評価も極端になりがちだよね。
しかし、楚の項羽はなんで会稽で旗揚げしたんだ?
あそこって、元は越の土地じゃね?
423 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 19:36:33 0
最終的には楚に併合されてるからな。
項羽の祖父、項燕は下相(徐州?)の人だ。
会稽は揚州じゃん
元は文化以外の分野で、全てに置いて明を上回っているし、文化に置いても明と大差無い。
総合的には元のが圧倒的に(ry
429 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 20:05:50 0
元代は水運の整備、紙幣の流通などで意外にも経済面はかなり良性だったんだよな
領土の広さや軍事力なら明も平均レベルよりは上だぞ。
元には敵わないが。
ただ、元もローマと一緒で鮮卑系みたいに細かな統治してないよな
塩と明礬の専売に宋以来の商税と関税がメインでざるな面があるし
労役や軍戸の割振りなんかは綿密だけど
蒙古と鮮卑って、中の人はほとんど同じじゃね?
それとも数百年経つ事で性質が変わってしまったのか
>>431 まぁ、宋の経済も大いに繁栄してるし、それを引き継ぐ事で良質な経済を維持しようと思ったんじゃないか。
唐も貞観の治や開元の治では繁栄しているが、最盛期でも経済では宋に遠く及ばないし。
明は朱元璋が文化人、知識人を殺しまくったお陰で、それから百年間は文化不毛。
そうでも無いよ
確かに打撃は受けたが
437 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 20:41:23 0
文化が全国へ普及(?)したのも明初だしなぁ。
朱元璋の大量粛清は、朱一族にとってプラスだったが、明にとってマイナスだった
劉邦の粛清から生き残った功臣:蕭何、張良、陳平、周勃...etc
朱元璋の粛清から生き残った功臣:湯和
いやまぁ、粛清は粛清でも徹底ぶりが違うよねw
441 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 21:07:01 0
朱元璋は長男が先に死んじゃったからな・・・。
それに劉邦はじっくり粛清する暇も無かったろうし。
蕭何、張良、陳平、周勃このへんの子孫漢代どころか、武帝の頃ですらもう中央で見かけなくなっているよな。
やっぱり功臣なんかになるものじゃねえな。
子孫が凡庸なら仕方ないんじゃね?
優秀なら取り立てるだろうし
>>439 > 朱元璋の粛清から生き残った功臣:湯和
劉基(りゅうき、字は伯温、1311年 - 1375年)は、粛正されずに引退。
中国では、諸葛孔明なみの持ち上げられ方である。
『三国志演義』の「赤壁の戦い」の火計場面は、
羅貫中が、劉基の進言により朱元璋が陳友諒を火計で破った時の描写を参考にし、
諸葛孔明の人物描写も劉基を元にしたとされる。
劉基の著書に四柱推命(淵海子平)の注釈書である「滴天髄」が挙げられるが、
劉基は儒者であるため、これはおそらく誤りであろう。
劉基が死んだ1375年て、まだ朱元璋は覚醒してないんだよな
まぁ、張良に比されるぐらいだから、粛清を回避するだけの能力は有ると思うけど
嫌な覚醒だなあw
朱元璋より後に死んだ功臣ていないよね?
たまたま、朱元璋が長生きだっただけ?
郭子興(1355年死亡)
常遇春(1369年死亡)
康茂才(1369年死亡)
ケ愈(1377年死亡)
胡惟庸(1380年死亡)
宋濂(1381年死亡)
李文忠(1384年死亡)
徐達(1385年死亡)
李善長(1390年死亡)
沐英(1392年死亡)
藍玉(1393年死亡)
湯和(1395年死亡)
馮勝(1395年死亡)
馮国用(1395年死亡)
朱元璋(1398年死亡)
李善長は生かしておくべきだったと思うなあ。
藍玉はヤバイサインが散々出ているのに空気嫁なさすぎ
李善長は粛清された時、すでに76歳だったんだよな
生かしておいても今さら反乱は起こさないだろうw
451 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 21:47:30 0
>>449 藍玉はどの道粛清されたと思う。
あの修羅場をくぐり抜けるのは不可能に近い。
張良なら辛うじて生き残れるだろうけど、蕭何や陳平はあぼんされるだろうな<朱元璋
朱元璋は虐殺と粛清を繰り返した典型的な暴君だし逃げ切れないよな
1390年代以降となるとほぼクソゲーの領域だろう。
どの選択肢えらんでもbad endしかないという。
引退・隠居しても家に乗り込んできて引っ張り出されそう
国外へ逃げるしか方法が無い
李善長は半ば引退していたはず。
それを日本に通じていたといいがかりつけて一族郎党みな処刑だからな
457 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 22:03:33 0
晩年の朱元璋は絶対何かの病気に罹ってるだろ。
それ胡惟庸じゃね?
湯和は1390年の時点でも死にかけてるからな。口が聞けないようになった。
まぁ、処刑を免れるための演技だったのかも知れないが。
>>458 胡惟庸は、日本や北元と内通して謀反を起こそうと企んだ罪によって粛清されてるな
引退はしてなかったと思う
李善長はその胡惟庸の連座で失脚させられ、強制的に自害させられてる
まぁ、引退というか失脚させられたんだよな。<李善長
463 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 22:25:51 0
朱元璋が死んで建文帝が即位した時には、有能な将軍一人も居なかったろ
武将どころか、軍師もいなかったよ。
政治家だけ。
>>442 子孫で有名なのは、周勃の子の周亜夫ぐらいか
周勃以外の子は名前すら知られていない。
周勃も孫の名は無名。
467 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 22:55:06 0
そんなもんだろ
先祖の名を借りるだけではうまくいかないもんさ
周亜夫は親の周勃よりも有能だったから取立てられた。
周勃は呂氏粛清で活躍している
漢王朝としての危機感はむしろ、こっちの方が大きかった
やっぱ名将でも親父には敵わんよ<周亜夫
保身(?)も周勃の方が上手いよな。
471 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 23:16:25 0
>>442 功臣の子孫だからと言って特別冷遇されたりするわけじゃないぞ
は?冷遇されているよ。いわゆる楚漢戦争期元勲の受益者争は文帝・景帝の頃に口実儲けられて
ほぼ除封されるパターンばかりですよ。周勃に限った話ではなくかなり意図的な政策でしょう
確実に冷遇されまくってるよね
その割に功臣の子孫を排除したのに王氏の簒奪を許すという失態も演じてる
474 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 23:56:43 0
楚漢戦争の功臣とか関係無いし
まぁ、どの時代でも無能な奴は冷遇されるだろうね。
>>474 関係あるよ。
「名門出身」とかよく聞くだろ?
つまり、その一家は優遇されているという事だよ。
そして、「寒門出身」は冷遇されているわけだ。
寒門出身と冷遇はまた意味が違うような・・・
冷遇というのは功臣の一家を叩き落すんだから
叩き上げは寒門出身だな。
>>377 まぁ、蜀はもとより、呉の軍門に下るつもりも無かったろうね。
隙を窺っては、南中に独立国家を建てる予定だったんだろう。
南詔国や大理国みたいなね。
>>473 元勲受益者層を排除したら外戚が台頭したでござるの巻
そらそうだ。
そこに空白が出来たら、絶対何かが入るんだから。
何いってんだ急に王氏が台頭死たわけではない
外戚の台頭なんて文帝・景帝の頃からあったんだぜ。
王莽以前にも霍氏らの専横あったし。
>>479 つーか蜀も南詔も、隣部族伝いに6人ぐらいで伝言ゲームすれば
烏蕃同士で話がつけられたというからな。支配者層は近縁だったんだろう。
大理と北宋は四川省の大渡河の東西で、境界線引き「宋揮玉斧」していて
河の西側は大理国だった。
建国→排除→台頭→排除→台頭→排除→台頭→h(ry
の繰り返し
485 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 00:38:14 0
大理は「漢人」 南宋は「南人」 モンゴルはすごいねw
唐宋以降は南方に対する影響力が弱いな
それ以前は雲南やベトナムを支配出来ていたのに
雲南一帯を支配出来なかったのは、隋・唐・宋だけで、元・明・清は支配しているよ。
>>486 滇王国のころから、冊封みたいな関係で一定の距離を置いていたよ。
元以降もずっと、雲南は土司や宣撫使によるトライバルエリア。
現代でも、自治県が多く残っていて、少数民族語のほうが第一言語で、漢語は第二言語だ。
>>483 大渡河が境界線という事は、四川盆地の一部も大理の版図に含まれているという事か
中国王朝(宋)がかなり弱ってる時期なんかな
>>489 康定県などの森林地帯だろう。盆地は入っていない。
そこから金沙江あたりまでの西側は、ナシ族やカム人などが住人だ。
盆地は入らないよな。
まぁ、盆地が見える場所だとは思うが。
>>490 まあ西夏なんかと住人がカブるからな。ナシ族の歴史でも調べるか?!
>>488 あそこら辺に郡が設置されたのは、前漢武帝と後漢明帝の時だっけな
蒙古人
色目人=諸種族(蒙古人、漢人、南人を除く)
漢人=金の遺民
南人=南宋の遺民
じゃなかったっけ?
大理の扱いは難しいね。
蛮ではなく、蕃だろう。吐蕃の「蕃」。
チベットは色目人とされてるんだよね
>>497 大理は有力部族が、納西とか白の北方遊牧系、
南のほうにタイ系やもと夜郎国がいて、さらに湖南からの客民のミャオ族が山間に潜伏しはじめたという具合。
さらに西のほうに、狩猟民出身のリス族などもいる。いろんなエスニックグループの坩堝。
ゴールデン・トライアングルに逃げたワ族も、昔は雲南にもっと多くいたらしい。
あそこら辺はカオスだよな
一枚岩では無い
>>347 ミャンマーどころか、雲南省南部にも行けて無いんでね?
せいぜい雲南省北部。
505 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 01:49:34 0
漢の最盛期ですらミャンマーまでは及んでないからな
ましてや、人口が10分の1まで減った三国分裂時代では無理
雲南省と邯鄲にいうが、日本の3倍ぐらいなくね? それも大河と渓谷と密林だらけ どんなバツゲームだよ あんなところ
さすがにそこまでデカくは無い(日本と同じくらいだ)けど、
四川からミャンマーまで行くとしたら、
いくつもの山あり谷(川)ありの地形を越えていかなければならない。
移動手段が徒歩しかない、当時の人にはキツすぎる。
ミャンマーは11世紀ぐらいにならないとビルマ族の王朝はできていないからな。
モン族やビュー族という先住民の都市国家があったから
孔明のころは、まだ雲南の影響なんか強くないだろう。
地形的にあそこまで勢力を伸ばすのは難しいからな
ヨーロッパに統一国家が出来なかったのと同じ
まぁ、巴蜀も他の地域からだと山を越えなきゃ行けんけどな。
長江を伝っていけば、案外楽に行けるだろう
しかし、ミャンマーへは山や谷をジグザグに徒歩で行くしかない
途中に旧楚地区があり、五渓蛮が賊行為をするから
呉からは蜀へは容易にいけないよ。
513 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 02:21:04 0
劉邦が漢中へ左遷された時でさえ、逃亡者が続々と出たのにね。
華北平原から四川盆地まで長江で遡るとしたら500kmぐらい有るぞ。
>>508 せいぜい、西南シルクロードで交易してたぐらいか?
永昌は蜀が支配してたのかな。
あそこは、東南アジアや南アジアとの玄関口なのだが。
>>515 その時代は途中に虎が多くいて危険だろう
永昌は滇じゃね?
>>511 でも、航空写真だとパッと見難所ばかりで行軍に苦労しそうな
いまのアフガニスタン北部〜パキスタン北部に抜けるルートが
実は冬期になるとそれほど苦労することなく抜けられる、みたいな事が案外あったのかもしれんし
>>518 張裔が永昌太守に任命されているが、あれはパチか
雍闔みたいに、任命されただけの太守かな
迪慶まで北上したら、メコン川もサルウィン川でも金沙江でも上流地点から船に乗れる
大理からそのまま西に進んで、蘭坪や濾水で山越えをすると3000mの高低差の谷超え
>>519 秦嶺山脈から蜀入りした劉邦は結構苦労してるみたいだけど、長江伝いの劉備は割とあっさり蜀入り出来た感じがするな。
時代の違いかも知れんけど。
>>522 秦が楚を攻めたときも、楚が秦だか巴を攻めたときも割合短時間で到着してるから
移動の便はいいのかもな
当時は四川盆地から一歩西へ出ると化外の地だったんだよな
西から(異民族とかに)攻め込まれたら、あっさり成都が陥落しちゃいそうなもんだが・・・
>>504 蜀が支配下に治めていたのは四川盆地だけだろ
唐の時代の8世紀に、唐の正史に残っていないが
南詔が成都を占領したような記録が、大理側にあるみたいだな。
>>526 それはない。
少なくとも、漢中は四川盆地に属さないし、確実に支配していた。
>>527 一時的に占領してるね
すぐさま引き上げたみたいだが
領地化するつもりは無かったんだろうな
530 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 03:36:41 0
大礼国(南詔)の最盛期って、東南アジアをほぼ統一してるんだろ?
大陸部分はな
>>530-531 インドシナ半島も半分程度しか支配出来てないよ。
まぁ、それでも十二分に凄いんだが。
南方民族の絶頂期とも言える。
>>522 秦嶺越えって、アルプス越えよりキツイんかな?
アルプスの方が1000mぐらい高い。
脱走者もハンニバルがアルプス越えした時のが多いだろうし。
535 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 04:37:08 0
秦は秦嶺山脈を越えて蜀を滅ぼしてるよ
大抵、成功するのは北から南だよね。<秦嶺越え
南から北へ成功したのは、やはり劉邦軍(というか韓信軍)。
537 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 04:55:51 0
南詔は唐に冊封うけていましたチベットも冊封うけていました つまり東南亜細亜は中国の不可分の領土です
日本も冊封うけていしましたチベットも冊封いけていました流求もです つまり中国の不可分のの領土です
日本人よ父祖の意志とは中国の一地方になることです歴史を認識せよ
アルプス越えは大した事ねーよw
1週間掛からず抜けられるし、確か海岸線近くにそこそこ広い道も通ってるんだから
そうかもね
でも、焦る必要は無いよ
とりあえず落ち着こう
>>538 秦嶺山脈はどこを通っても高い所を越えなきゃ行けないからな。
アルプス山脈は極端な話、標高0mの地点を通って行く事も出来る。
そんな所をノコノコと進軍してたら、ローマ軍にバレるだろ
感づかれないために、わざわざ山奥を通っていくんだよ
韓信だってあえて蜀の桟道を焼いて、陳倉間道から関中へ攻め込んだしね。
543 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 06:09:09 0
アルプス越えそのものは大した事ないよ
ハンニバルがやったのは「冬のアルプス越え」だ
それもピレネー越えの後に連打で
>>537 隋唐の時代に、そういうきっちりした制度はないだろう。
元・明・清の朝貢冊封体制とごっちゃにしてはなりませぬ。
明・清に冊封を受けると、独立勢力として認められたことになります。
足利幕府も琉球王も、独立勢力であり、近代では国家として認めたということです。
>>532 南方民族でも、先祖は西戎みたいだな。
南詔の支配民族は言語も北方系っぽい。
中国史でも戦間期はもろに世界史とからんでくるよな
・辛亥革命で半植民地状態だった中国が覚醒orグダグダをはじめる
・ドイツと結びつく国民党、ロシアと結びつく共産党
・日中戦争から太平洋戦争へ
・中国内戦、冷戦の幕開け
547 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 13:48:34 0
内乱期は漁夫の利を得ようと、他国も隙を窺ってくるからな。
楚漢戦争の冒頓単于
新末後漢初の呼都而尸道皐若鞮単于
八王の乱の劉淵
五胡十六国の鮮卑・羯・氐・羌
など、この先もまだまだね。
>>545 遊牧民も混ざってるよな
そういうのは大抵、西か北
>>543 ハンニバルは無茶しても(最後の一戦を除いては)勝つる所が項羽に似てるよな。
タイプ的には韓信に似てるけど。
大理国の支配層はチベット系とペー族らしい
>>550 タイ系の土着ではないだろう。
大理は遊牧系のチベット系だから前身も遊牧系。
ミスった
チベット系「の」ペー族な
南詔は位置的に西戎と南蛮の境目あたり。
西戎には遊牧民が多いし、自然と力の強い遊牧民が支配者となる。
555 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 14:31:49 0
しかし、あんな南で馬は育つのだろうか?
南のシーサンパンナ、西の徳宏のほうは遊牧民ではないが
北部の楚雄、大理、麗江などは農耕と遊牧のミックスだろう
標高高いし、涼しいっちゃ涼しいでしょ。
>>549 いやいや、項羽なんかはハンニバルと比べる対象じゃない
ハンニバルは山越え谷越えの強行軍、項羽は平地を走り回ってただけ
560 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 15:07:28 0
>>558 てか、それより南はどっちかというと象じゃね?
南詔や大理国が四川盆地を圧迫するほどに強かったのは、やはり遊牧民がいた事が大きいのかな。
あの時期以外はさほど強くない。
項籍はハンニバルよりアレクサンドロスと被るなあ
強行軍連発な所とか極端に直情径行な所とかよく粛清する所とか若くして死んだ所とか
色々と似過ぎ
19世紀に、もと大理国の迪慶住民が仏教に帰依して
20世紀に、チベット族登録になっている人達が200万人程度いる。
彼らは麗江のナシ族に近い文化を持っている。
そういう人達はカム人と呼ばれ、四川の西部にも100万人ほどいる。
森林限界あたりのところは遊牧の比率も高い。
>>562 アレクや項羽は勢い(戦術)だけであそこまで行った感じだからなー。
なので、少し時間が経つと帝国は崩壊してしまった。
565 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 15:47:32 0
勢力拡大のスピードというか、短期間での拡大率が異常だよな
始皇帝や劉邦も異常だけどさ
秦王政の拡大率は大した事ない。
元から面積デカいから。
昆明は標高1891m、大理は2000m、麗江は2400mという高地にあり、
緯度こそ低いが年平均気温15度と過ごしやすく、冬でも暖かく真夏でも20度ほど。
赤道直下にある高原都市ナイロビが過ごしやすいのと同じ理屈。
雲南とミャンマー北部って、風土はあんまり変わらんでしょ?
>>561 唐は貞観の治だと、北方で突厥を滅ぼしたりしているわけだが、南方には全くと言っていいほど手出ししなかったよな・・・。
唐太宗の治世にはまだ南詔が建国されてないし
南詔が誕生したのは唐玄宗の時代
>>568 カチン州は雲南北部のような遊牧民出身ではなく、
狩猟民出身の民族のほうが多いな。
雲南北部でも西寄りは、リス族やヌー族のような民族が
唐の時代には狩猟民だった。青海や四川から来たとは書かれていない。
リス族はタイ北西部にも、ミャンマー北部にもいる。
まぁ、そうだけどね。
ただ、南方へは全然勢力を拡大してないなと思って。
モンゴル高原は征服しているのに。
>>567 チベットあたりの標高になると、逆に肌寒くなるんだよな
雲南ぐらいがちょうどいい
>>570 南詔のころの白蛮・烏盤・磨些蛮などと違い、
滇王国のころの文化・風俗が記録が残ってないからな。
もしかしたら、滇(テン)はチベット系遊牧民かもしれない。
>>572 出が満州だから重心が北に寄るのは仕方ないんじゃね
>出が満州だから
慕容部が唐の主流ではないだろう
拓跋や禿髪はそんなに東寄りではない
577 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 17:00:36 0
太宗の頃は六詔かな
まあ,慕容が鮮卑のいわばスタメンだろう
北魏以降だと慕容部が建てた国は無くないか?
582 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 17:24:46 0
慕容恪・慕容垂のいた頃が絶頂期だな
戦国楚や統一秦のころに入植している集団があるので
楚とは関係があるとはいえる。
初代君主が荘蹻で、第7代君主が嘗羌
途中で姓が変わってるというね・・・
改姓したかもしれないし、ローマみたいに世襲じゃないかもしれないし
何とも言えないんじゃね?
共和政ねぇ〜
帝政ローマも決して世襲ではなく、養子を後継者にする事も有ったしな。
588 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 17:51:01 0
中国王朝だと苗字が変わってるのは、後周王朝の郭威→柴栄の時くらいか
と言う事は、色んな民族が君主をやってる可能性があるわけだな<滇王国
ローマだって属州出身で執政官や皇帝になったりしてる人もいるからね。
>>585 途中(第2代〜第6代)が抜けてるからなぁ・・・
これらの姓名が判明すれば、ある程度ハッキリすると思うんだが
592 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 18:25:27 0
でも、名前ぐらいしか分かってないんだよね。
まだまだ実態は見えてこない。
司馬遼太郎『街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち』で
滇(テン)が何系だったか空想していたような記憶が。。。
文字史料が少ないからな
しかし、仮に楚人が建てた国ならもっと文字史料が沢山あっても良いはずなんだ
保存されてなかったのか
出土物は、"滇国"で画像検索するといくつかでてくる
昆明にすんで、稲作をし、かつすすんだ青銅器文化をもつ民族のことを長安では「滇(テン)」という奇妙な音と文字でよんでいた。
同時代、貴州に夜郎国も存在したんだよな
そう考えると、秦始皇帝の支配領域も思ったよりは狭いのかもな
あの頃だと中原以外は都市だけを点状に支配していただけだから。
飛び地みたいなもんで、都市を一歩離れるとそこは異民族が支配している土地。
>>599 え?
それは無いだろ
仮にそれが本当だとして、街を包囲されたら終わりだろ
周りは単に支配していないだけで、異民族の土地というわけでもない
601 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 19:11:42 0
秦代に造られた長城が、明代のものより北に位置する事から、北への影響は明より強かった事が窺える。
逆に南は長江あたりが南限。
点線も含めるなら南海まで及んでいるが。
直接支配してたのは両湖や四川盆地辺りまでで
それより南はマケドニア王国やローマみたいに軍事城砦作って間接支配だったんじゃないの?
>>590 と、いうか
ローマの場合、トライアヌス以降ローマ本国出身の皇帝はほとんどいないね
国都咸陽〜南海は街道が通じていたから、その街道沿いだけは支配していたんだよね
それ以外は間接支配かな
605 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 19:23:20 0
始皇帝の郡県制で、郡の置かれてる地域でも、直接支配出来てない地域が有った。
>>600 都市とその周縁域以外には少数民族の支配地だったりしたからね
中原に近い地域ですらいたわけで
>>602 広州辺りまで中原国家によって直接支配に入ったのって宋以降(それも南宋以降)の話
だろうね。その南宋もすぐ南、福建省の特に内陸部には少数民族による支配地だったり
したしなぁ
確か当時は山東半島あたりにも異民族いたよね。
南海郡、桂林郡、ビン中郡、象郡と雲南は、直接支配無理そう
>>606 中原に少数民族がいたのは中山国が最後でしょ
南朝時代には江南も粗方中国に組み込まれてるし
黔中郡と長沙郡あたりが直轄の南限か
>>608 潜伏なら、まだまだ少数民族いたんじゃね。
611 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 19:54:00 0
でもその内消滅してそうだけどね
中原は隅々まで直轄統治だったんだし
ん?
戸籍対象外の流民だっているぐらいだし、隅々まで直接支配出来ていたとは思えないけどな。
>>608 国を組織するほどではなくても、山中や街道から外れた一部には少数民族が
いたらしい、ってのが通説でないか?
もちろん同化は進んでいるんだけれども
>>602 南方は、呉語,贛語,湘語,閩語,粤語など非常に言語区が細かく分かれている。
もともといろんな種類の民族がいて、漢字の読みも違って読むようになっただけで
いまでも少数民族区みたいなものだよ。
彭越がゲリラ戦術を展開していた地域なら、少数民族が潜んでそうだな。
618 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 20:09:11 0
彭越のゲリラは、ありゃ乱世でしか通用しないよ
それも、項羽が兵站を軽視してゲリラ対策を立てなかったから、ああなったわけで
>>618 あの時代に、組織的に、かつ後方攪乱を目的としてゲリラ戦を仕掛ける、と言う発想が
そもそも新しいのでは無かろうか
ゲリラに対する策って何だよw
統治機構の充実しかないんじゃないかねぇ
過去も現在もそこは変わらん
>>619 確かにあれ以前でゲリラ戦術を仕掛けた例って無いだろうな。
彭越の次が、新末後漢初の樊崇か。
最初は食料を略奪しては移動していたんだよな。
>>617 官奴や農奴を除いた戸籍人口を数千万も把握してるのに、無い無い
まあ伝統的に地方政府が大きいのはあるけど
中国平穏期の歴史を見て盗賊や蛮族が多いとするなら、近世西欧も盗賊が横行していたことになるし
中世の西欧や五賢帝以後のローマには盗賊しかおらんわ
>>617 人口密度の低い昔だと、山奥の隅々まで統治を行き渡らせるのは難しいよな
625 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 20:35:47 0
最盛期でも1千万ぐらいは流民いたんじゃね?
近世西欧では傭兵という恐ろしい盗賊団が跳梁跋扈していたようだが。
現代中国には戸籍を持たない黒孩子が…
>>626 中世中期から近世まで、欧州における治安の最大の敵は傭兵だね
フランスは百年戦争(シャルル5〜6世)を通じて、傭兵を国外に叩き出すのに成功して強国化
トラヤヌス帝の時代って、前漢武帝の時代と一緒で、最大版図を築く事は出来たけど、内治はボロボロだったんだよねえ。
>>629 トライアヌス期は、ダキア遠征のおかげで財政健全化(金山のおかげ)
属州に目立った混乱はなく、元老院との関係は良好
っつうわけで、内治がボロボロって事はない
しかし、軍団配置が偏っており、また前線が延びすぎて国防上の問題を抱えていた
また、それまでのローマ国内の社会問題について手を打った形跡はない
それらの諸問題に手を着けたのがハドリアヌス
状況は、漢武より明永楽の方が似ているような・・・
>>618 武力以外何の取り柄も無い奴だから・・・項羽は。
項羽じゃなくても、彭越のゲリラを止めるのは無理
三傑なら彭越の息の根を止められそうだけどな。
それぞれの分野で全力を発揮すれば。
指一本でイケる
>>625 流民が居るって事は、その地帯は支配出来てないという意味だよな。
だとすると、実際に直接支配出来た面積はかなり狭いんじゃないのか。
638 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 21:27:05 0
名目上は支配してた事になってるんだけどね
てか、流民ってどういう所に潜伏してんの?
>>639 大資本家や大地主の奴隷というか農奴というか小作になったのがそうじゃね
>>640は秦と斉以外の五国、特に楚と燕にはある程度当て嵌まる
642 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 21:55:26 0
楚はいくらでも隠れる場所が有るからなー
梁山泊の盗賊連中が政府の戸籍に登録されている領民とは思えんが。
>>641 農奴・小作人は暗黙の了解で戸籍対象外になるんかな。
645 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 22:16:01 0
暗黙も何も、元から戸籍の対象外だよ
平民より下の地位と見られてるんだから
>>430 確かに明の領域は広いが、元の劣化バージョン感が否めない
元のおかげで、それ以降の中国王朝の領域が広がったって感じ
それでも、元よりは狭いけどね
秦は厳しい法治主義なだけに、警察権が隅々まで行き渡ってたのかね
締め付けが厳しすぎて統治が安定する前に逃亡民が続出して
処罰を恐れた下級役人(劉邦もこの口)まで逃亡、反乱が起きて崩壊したので、
漢の武帝時代のような統制には至らなかったのでは。
>近世西欧では傭兵という恐ろしい盗賊団が跳梁跋扈していたようだが。
それに対しロシア・中国では近頃まで囚人兵という懲罰部隊を重用していた。
>>649 開墾地面積たった5.7%て少なねーな
そのたった5.7%で漢全体を支えていたとは・・・
10%に倍増するだけでも半分余るわけだし
652 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 22:56:25 0
文景時代はまだ人口が少なく、人口の割に開墾地が広かったため、豊かだったんだよな。
>>601 秦から明にかけて、徐々に勢力が南下していると言う事か
秦の長城は単なる盛り土だが、明の長城は倉庫や兵士の住居まで備えている建造物。
同じ長城という名前でも目的はかなり違う
>>652 でも、人口が増えれば人手が余るわけだし、どんどん開墾地面積を広げていけばいいのに
>>649を見るなり、まだまだ開拓の余地は有ったんでしょ?
>>654 秦の長城は、あれ壊そうと思えば壊せるんじゃね?
ってぐらいのテキトーさだからな。
657 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 23:17:53 0
長城ですらないよ
明の長城は秦のそれより本格的で、造るのも時間がかかり大変。
だから、よりホームに近い場所に長城を築いたというわけ。
>>655 武帝が遠征に金を使いすぎて、開墾するだけの資金が無かったんだけどね。
内政無視しとるからな<漢武
>>648 従来の流民の割合より、逃亡民の割合が多くなって、むしろ逆効果なのな。
662 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 23:52:58 0
逆効果どころの話じゃないな
王朝崩壊してしまったんだから
>>649 人頭税は確か基本120銭でしょ、あと資産のうち職人が3%、商人が6%取られて
種籾は官倉からの支給。公田もあるけど、それが含まれてるのかどうか
つーか、画像開けないんだけどw
前漢(2年)と後漢(189年)の版図が全く同じだな。
対象をブラウザで開くがよいよいよい
666 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 00:09:21 0
>>649 やはり西域はどちらの時代も領域に含まれてないのな
>>666 郡県は置かれてないからな、軍兵の供出と食料供給はしてたけど
668 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 00:50:34 0
吸い取るだけで開発はしてないんだよなぁ。
まぁ、農耕には適してないんだけど。
西域はあくまで交易路確保のためだから
雲南・貴州・西四川含めた十八省(中国本土)が390万km2、
タリム盆地全域で56万だからそんなもんじゃね
遼寧・吉林南部・朝鮮・越南を含めるともうちょい広がるが
タリム抜いて、遼寧・吉林南部・朝鮮・越南を含めたら、約460万km2になるんじゃね。
673 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 01:23:41 0
てか、その460万kuというのは最大版図の面積なのか?
>>673 まぁ、記されている面積は大抵、一番デカい時のだろうからな
何か思ってたより面積ちっちゃいな。
>>675 いやまぁ、古代にしては凄いと思うぞ
ローマ帝国よりは小さいけどさ
678 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 01:59:12 0
>>676 ローマより狭いと言っても誤差の範囲だろ。
ほぼ同じ。
てか、西域含めたら漢の方がでかくね?
>>679 西域は間接支配だから含まれないよ
だからローマ帝国が大きい
この時代で面積が一番広いのは、ローマでも漢でもなく、匈奴ですから。
勘違いしないように。
682 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 02:24:40 0
>>649 江南は山がちだし長江・両湖が有るから水は豊富だが開墾可能面積が狭いのが欠点だな
まぁ、当時だと南は長江までしか支配出来てないし、重心は関中に有るから、知ったこっちゃ無いんだけどね。
でも稲作自体が麦作より生産力高いんだよな
江南は湿地帯だから、逆に生産性落ちないか?
686 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 03:00:07 0
元々は華北に重きが置かれていた。
しかし時代が下るごとに重心は南へ移動し、やがて重きは華南へ移った。
何故、最初は華北優位だったんろうねえ。
>>686 黄河文明が一つにまとまってたからじゃないの?
対して長江文明は三つに分かれてる
んで巨大が黄河文明に各個撃破されてしまったとかで
そのまま黄河流域の一帯が覇権を握ってたんでそ
そこまで遡りますかw
それなら、春秋戦国時代に逆転しそうだが・・・。
689 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 03:19:36 0
でも、結局の所、戦国時代を終焉させた秦は黄河文明にも長江文明にも属さない、関中から統一したわけでしょ?
>>680 ローマは多くの属州が間接支配だぞ
西域諸国を入れないのは恣意的に過ぎる
周が長安や洛陽に国都を置いたから、
後の王朝もそれに習って長安・洛陽に国都を置いたため、
華北が中心となり続けたって所じゃないの
黄河文明とかは関係無いと思う
>>689 農業技術が進歩する以前は、降水量がそれほど多くない土地や
河川からやや離れた台地の開発が進むのは洋の東西問わず見られるから
当時の技術じゃ江南は辛いんでしょ生産性的に
関中は中原からやや離れているだけに、周囲に警戒されにくいんだよな。
んで、周囲が気づいた頃には、手が付けられないほどに強大化していたと。
694 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 04:10:52 0
地の利はあんま意味ないよね
ヘタしたらジリ貧に陥るだけ
行くにしても、来るにしても、時間稼ぎにしかならない
まぁ、赤字になる事は無いと思うんだ
時期によっては有り得るだろ。
ずっと黒字だなんて、そんな簡単に行かないもんさ。
>>690 属州と都護府は全くかけ離れたもの
むしろ、属州は唐の藩鎮に近い
藩鎮は間接支配ではあるが、必ずと言って言いほど唐の領域として扱われるでしょ?
699 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 11:38:36 0
もともとローマじゃない土地を、ローマ化させたのが属州だからな。
まぁ、藩鎮ともちょっと違うだろう。
正味、前漢武帝の時に置かれた11州2郡と変わらんやろ<属州
属州が間接支配と言えるなら、漢の州だって「刺史」を置いてるんだから、間接支配と言える
まあ、古代中華帝国もローマも、近代主権国家とは別の実体だからねえ
近代主権国家を「国」の基本的構造と思っていると、ともに理解できないだろ
主権国家を「古代から続く普遍的なもの」と疑問も無く思っている人が多いよね
お前ら全然「世界史における中国王朝の影響」の話してないよな
比較史じゃなくて世界史を語れよ
どうしても比較して勝ちたいという方が約一名いらっしゃるようで。
>>700 武帝の時代に置かれた刺史はただの監察官で、権限は郡の太守より小さかったんだけどね。
州の行政権を持つようになったのは後漢以降。
前漢末期(西暦8年)に、州牧へ改称された頃から行政に介入出来るようになったよ
漢の方が大きい
ローマは内海の地中海の面積引いたらだいぶ小さくなるから
ただ地方の掌握度・発展度で言えばローマの方が上かもしれない
端のロンドンから北アフリカまでローマ文明は浸透していたし
漢の時代の江南は未開だろ
>>365 孔明の南征によって、今しばらく途絶えていた交易が再び活性化したんじゃないの?
それまでは孟獲に西南シルクロードの道を塞がれていたんだから
>>706 その地中海の存在がかなり大きいだろうな、ローマの属州への影響力については
近代、鉄道が生まれるまでは、情報・物資の移動で最も高速、かつ大規模輸送可能なのは海運
あの巨大な内海は、それ自身がネットワークインフラなんだよね
漢や唐は、海の代わりに大河(後に運河)を使ったけどね
>>517 どの時代も虎の数は大して変わらんと思うし、普通に三国時代も蜀はシルクロード交易を行っていただろ
>>710 人口が増え、耕作地が増えていくに従って虎の数は減っていったと思うぞ……
野生動物の減少・絶滅は、近代の専売特許って訳じゃない
んー、でも南中の人口って、繁栄期でも少なくないか?
あそこら辺は人口希薄地域だし
>>712 雲南って、あの辺鄙極まりない地勢の割には、そこそこ人口があると思うんだが
もちろん、平野部とは比較にならないけどさ
714 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 13:10:44 0
温暖で農耕も出来るから、遊牧地と比べればまだ人口はマシ。
まぁ、山林が多いから耕す事の出来る場所も限られてるが。
三国時代や五胡十六国時代の人口激減は野生動物・自然保護の観点から
評価されるべきなどという結論にはしないでほしい。
あのシルクロードは古蜀の頃から使われてたろ
その頃の人口は、三国時代と大して変わらないんじゃないか?
まぁ、西南交易路は乱世でも使われてたとは思うよ。
>>690 ローマは属州出身の皇帝がしばしば出てるし
カラカラ以後はイタリアと属州が同格になった
>>715 てか、戦乱期が動物にとって住み良いとは思えないよな
ローマでは中国産物が珍重されていた
アウグストゥス時代はすでに絹の着用が贅沢と戒められてたし
大秦国王安敦は市民に範を示すため、恐妻に絹着用をなんとかあきらめさせたとか
成都から発する絹の道は保山でインド方面とミャンマー方面に分岐している。
あ、保山=永昌ね。
>>698 よく似たものだよ
主な業務が軍事力の維持と現地有力者の調整だし
藩鎮はその下で官吏が統治に当たっているから属州とは大分異なる
>>718 カラカラ以後ってガリアとヒスパニアの支配を喪失して
軍団を置いた近隣以外どうにもならなくなっていった時代だけど
司隸以外は間接統治
>>706 ローマ帝国の最大時面積500万km2は「陸地面積」だ。
欧州領土だけでも270万(イタリア、イベリア、フランス、ベネルクス、ブリタニア、西南ドイツ、ギリシャ、バルカンなど)。
北アフリカ沿岸部とエジプト(ナイル流域)でも100万、
アジア領土でもアナトリアと大シリアだけで100万(トルコ78万、シリア18.5万)はあり、
トラヤヌスは一時メソポタミアを征服してペルシア湾に達している。
ヨーロッパ地中海の面積は250万はあるから、これを陸地面積に足すと750万にもなるが。
漢は西域を含む最大時の面積が約484万km2
728 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 14:33:35 0
十八省(390万km2)+ タリム盆地(56万km2)+遼寧・吉林南部・朝鮮・越南(約38万km2+西四川)−西四川(???)
と言う事か。
漢代はまだ最大版図でも西四川は版図に組み込まれてないんだよな。
タリム盆地の半分は人も通わぬタクラマカン砂漠だが、まあいいか。
>>706 ブリテン島やヒスパニアに文化が浸透してた形跡は全く無いけど
道路や城砦造るだけでいいなら、雲南や南海に漢が道路や城砦築いてるし
点線状にね
>>724 それはガリア帝国?、15年ぐらいしか続かないで崩壊したし。
でもガリア帝国、パルミラとのローマ版三国時代もあったな。
中国の三国時代とも時代が被る
>>730 ヒスパニアはローマ時代の遺跡がたくさんある。
さらに2000年後の現在さえラテン語圏だ。影響受けまくり
ブリテンもローマンバスとかあるし、ハドリアヌス城壁なんかもあるけど
後者は世界遺産だぜ
万里の長城的なやつか。
>>732 属州統治は現地有力者の請負で、ガリア帝国以前に
徴税拒否の横行、実態把握がされない、補助兵部隊が全く編成出来ない
と支配力の喪失は深刻だったよ
>>733 遺跡くらい漢代のモノも浙広に沢山あるけど
739 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 15:11:46 0
子供達にランドセルを背負わせたいのが伊達直人■■子供達に借金を背負わせたいのが菅直人
必殺技を決めるのが伊達直人■■「俺に決めさせるな」が菅直人
虎のマスクで顔を隠すのが伊達直人■■虎の威を借るのが菅直人
庶民を勇気づけるのが伊達直人■■庶民を落胆させるのが菅直人
フェアープレーで闘うのが伊達直人■■スタンドプレーで目立とうとするのが菅直人
施設にランドセル贈るのが伊達直人■■中国にランド・セールするのが菅直人
贈与するのが伊達直人■■増税するのが菅直人
子供たちに夢を与えるのが伊達直人■■子供たちに弓を引くのが菅直人
リングで虎をかぶるのが伊達直人■■選挙で猫をかぶるのが菅直人
仮面を被って戦うのが伊達直人■■仮免で国を動かすのが菅直人
庶民の味方が伊達直人■■庶民を偽装が菅直人
ヒーローなのが伊達直人■■非道なのが菅直人
マスクを外すと一般の人が伊達直人■■マスクを外すと欲望の人が菅直人
希望を与えるのが伊達直人■■希望を奪うのが管直人
タイガーマスクなのが伊達直人■■総理大臣なのが駄目直人
>>721 ミャンマールートから中華では採れない翡翠を輸入してたんだよな
宝石類じゃ翡翠が一番珍重されたんだっけ
ヒスパニアからはトライアヌスやハドリアヌスが出たし、
ブリタニアのヨークではコンスタンティヌスが帝位を称したが
ローマの影響はごく小さかったに違いないな、うん
やがて西南シルクロードが使われなくなったのは何故だろう?
>>743 4〜8世紀以降の話だが、茶馬古道が整備され昆明からネパールへいけるようになったから。
745 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 15:34:19 0
>>743 地形的に厳しかったんじゃね
タリム盆地の方が楽そう
天山山脈越えるのが楽勝というのか?
>>744 そっちの方が優先されて廃れたと言う事は、やはり利益の問題か。
てか、唐宋時代はそっち方面の交易路使えなくないか?
749 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 16:08:05 0
>>748 南詔が唐側に付いてるうちは利用出来たんじゃないの
>>741 翡翠は殷代から玉座に使われてたりしてたからな。
>>749 8世紀だと吐蕃側の格爾木から入る北線ルートもあって
丹巴からの東北線、康定からの中線、普洱〜大理〜迪慶徳欽から入る本線の
合計4本のルートがあった。
大理〜昆明の連絡線、普洱〜昆明〜昭通〜成都の東側弧状線、
成都から丹巴・康定の大渡河までのアプローチ線なども、整備されていた。
>>745 むしろ、中継・経由が必要無い分、西南道や茶馬道の方が便利だと思うのだが。
>>752 中継していたようだよ。東側の商人はネパール・インドまで行ってない。
吐藩と直接交易してる事も有ったが、吐藩が中継する事も有った
あの時代は直接インドまで行くのは無理だからなあ。
海なら行けるか?
>>755 海も難しいだろうね
中国商人が海路を開拓したのは宋代に入ってからだし
それでも東南アジアには独自の王朝がいくつも栄えているし
なんつってもマラッカ海峡をいくのがね
海賊対策をして、沿岸に風待ち港を整備すれば行けたはず。
ジャンクはマラッカ海峡あんま関係ないけどな
>>736 軍人皇帝時代はローマ帝国のどこもそんなもの
呉楚の乱や安史の乱みたいなもんだろ
当時は東西交流が盛んだったけど
甘英はシリアまでしか行けなかったし、ローマの使節も安南までしか行けなかったな
761 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 17:06:25 0
陸路なら玄奘、海路なら義浄が行ってるんじゃね
>>742 ブリタニアは影響受け杉だろ
蜀で帝位を称して天下統一した皇帝なんか中国にはないよな
>>742 西域諸国の王子が漢の宮廷に参内して朝臣になったり商人が官吏になってるから
西域諸国は漢の直轄領だったのか、うんうん新事実発見だ
ヒスパ二アにローマの影響が無かったってのは嘘だろう。ラテン語圏なんだから
>>759 ガリア、ヒスパニアの状況は後漢末の黄巾の乱前後に近いな
軍人皇帝時代が群雄割拠時代で
>>762 ただ蜀から勢力おこして天下統一したやつならいるけどな
>>760 甘英はローマへ辿り着くだけの力が有ったずなんだけど、如何せん大秦帝国の情報が少なすぎたせいか、シリアの商人に騙されて引き返したんだよね。
地中海はスイスイ移動できるし、後ちょっとで到着できるのに、4,5年かかると言われてさ。
シリアや安南まで到達してたなら最後の力を振り絞ったら互いの首都まで届きそうなもんなんだけどな
>>763 都護府が漢の直轄領になるなら、属州もローマの直轄領になるな、うんうん新事実発見だ
でも、それは「漢の影響」ではないよね。
都護府は領土と見ていいと思うよ。教科書でもまず漢の領内に色分けされてるだろ。
ローマの属州はもちろんローマの領土だよ。
領土かどうか議論すべきレベルってのは、漢で言えば冊封諸国、ローマで言えばボスフォロス王国やアルメニアなどの属国
>>772 ウイグル語には漢語の単語なんか殆ど入っていないよ。
>>773 同じく「ローマ」の影響じゃないね、文字と言語が残っただけで
15世紀頃までペルシャ語は中東東半全域からパキスタンにかけて使われていたけど
ペルシャではなくモンゴル系国家の影響だよね
>>775 ウェールズ語もスコットランド語もアイルランド語もね
中国では同化政策が苛烈でないから残ってるけど
>>777 スコットランドもアイルランドもローマ領じゃない
ウイグル民族は、漢語をまるっきり「外国語」として習得しなきゃならないから
漢語なんか全然話せない人が多いよ。
地域の外へ出ていって働くことができない人ばかりだから、みんな貧乏。
782 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 17:36:11 0
前漢時代はまだ江南を完全に支配出来てないんだな
>>783 半分釣りだと思うが、属州にとっても旨みがあったからローマから離れなかったんだよ
属州民がローマの代理国家作ったりしてるだろ
ガリア帝国とか
属州民をローマ厨にしたのがローマの統治の上手さ
785 :
784:2011/01/16(日) 17:42:27 0
つかよく読んだら皮肉か
マジレスして申し訳ない
秦は旧楚、旧斉、旧燕、旧趙、旧魏、旧韓から搾取しすぎて統一15年で滅亡したわけだが。
秦には諸国民の中央から派遣された知事に対するリコール権など無かったろう
>>783 直道(幅約70m)ですら郡県を置いた地域に延々と敷かれてるからな
ローマ街道程度のただ舗装されただけの道なら無数に整備されてる、黄土は版築すれば簡単に固まるからね
>>784 ゲルマン人を招いたのはガリア人な、西側はローマの支配が瓦解していた
>>789 それはローマが支配する前の話なのでは?
それでゲルマン人にひさしを貸して母屋を取られてローマがケツ拭いたんじゃなかったっけ
>>790 2世紀末から3世紀以降の話だよ
ローマ人に対する傭兵としてゲルマン人を招きいれてる
792 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 18:00:16 0
>>769 中継国家に騙されたんじゃないの。
お互いが直接通じるようになったら、中継国家としての地位が危ういと思って。
当時はちゃんとした世界地図も無いし、騙そうと思えば簡単に騙せる。
国家じゃなくて商人じゃね?
シリアはローマ領内だし、安南は漢領内だしな
>>788 ………ローマ街道の構造知ってるのかな、この人
>>794 知らないか、知ってるつもりになったか、どちらかだな。
>>761 もし、それが交易商人だったら、途中で通してもらえないだろう
797 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 18:31:53 0
マラッカ海峡ってそんなに危険なのか?
版築黄土の街道網なら、雨が降れば溶けて崩れそうですね
まあ毎年のように黄河が氾濫しますが
>>797 水深が浅い、大型船が通れる航路が非常に狭い
それを狙って現代に至るまで海賊がとても多い海域
>>798 知らないのに語っちゃいかんよ
版築した黄土は少々の雨じゃ水通さないし、幹線路には煉瓦敷いてる
3世紀に「ガリア帝国」を作ったのは、ローマ市民権を持つ「ガリア系ローマ人」やローマ軍団で、
公用語も国号もラテン語を用いており、ガリア人土着の王権による国家ではない
また、ガリア人やガリア帝国がローマに対抗するためにゲルマン人を呼んだのではなく、
すでにローマ自身がゲルマン人を大量に雇い、国外のゲルマン人と戦わせていた
それがフン族の来襲などで飽和状態になり、西ローマ帝国はゲルマン系ローマ人に実権を握られ、
フランクや西ゴートは名目上ローマの宗主権を認めつつ王国を築くに至った
朝鮮やベトナムなど中華周辺部に成立した政権が、南朝・北朝の正朔を奉じたようなものだ
>>800 それはローマ街道すら知らない人が言うこっちゃ無いな
版築は少々の雨ごときではびくともしないのは確かだが
項羽は3万以下の手勢で戦わせれば世界最強だろ
アレクサンドロスと同等
アレク 4万7千で30万(公称100万)のペルシア軍に圧勝
項羽 3万で56万の連合軍に圧勝
>>799 てか、それだと、鄭和はあれだけ巨大な船でよくマラッカ海峡を通過できたな・・・。
>>804 鄭和はマラッカ王国を根拠地に利用したから、現地の案内もあったろうね
マラッカ王国の事を鄭和が重視し、保護したことは、それ自体が鄭和の優秀さを示していると思う
大きいといっても100m以内でしょ。
今の巨大船は333m、喫水線12mだから
水深の深いところを選んで通るのが大変
>>806 マラッカ海峡は単に水深が浅いだけじゃなく、暗礁海域でもあるんだよ……
昔から難所
今ほど海図がしっかりして無い分、現地の人以外は昔の方が危険だったろうよ
海賊の親玉がマラッカ王なんじゃね?
>>806 明史によると137m、少なくとも120m以上は有るよ
それでも、今の巨大船よりは小さいが
ジャンクって喫水浅いでしょ?
>>801 そりゃ農民は上納金拒否るだけだからな
ローマ市民権持ちガリア&イベリア人はみかじめ料を集める側だから陳渉呉広のように反乱起こしたけど
ゲルマン人雇ったのはガリアの方針、ローマ中央はそもそも現地で補助兵雇うの認めない建前なんだから
陳渉呉広は市民権持ちのみかじめ料取る側どころか雇農だったんだが…まだしも南越の方が近い
「ガリアの方針」たって、
ガリアの属州総督が中央(元老院や皇帝)の意向を完全無視した行動とったら反逆罪だし、
現地で補助兵になって25年勤め上げればローマ市民権が得られるのは帝国全土でそうだし、
ローマの正規軍団にも山ほどゲルマン人がいて、オリエントでもゲルマン人混成のローマ軍が戦ってるし、
カエサルもガリア戦争においてゲルマン人騎兵を現地採用しているわけだが…
814 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 19:20:29 0
>>808 遠くからやってきた船なら、襲って略奪してで終わりだが、現地(マラッカ王国)の案内人が居る船を襲うと、後で懲らしめられる事になるから、そう簡単には襲えないだろうね
>>813 陳渉呉広は地位からして下級官吏か地元の有力者と考えられてる
史記には面白おかしく書かれてるけど
>>813 反逆罪に該当する軍団長が何十人もいる時代じゃん
待遇の悪い補助兵制度は無くなってるし
817 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 19:47:13 0
陳勝・呉広の乱て意外にも半年で鎮圧されたんだよな。
結構長く感じるけど。
劉邦も地元ではそこそこ力のある家系だったのか?
それとも地域の顔役のヤクザの親分みたいなポジションだったのかね
韓信て今で言うニートだよな
密度が濃い
韓信はニートで、楚の一兵卒だったのが、一瞬にして漢の大元帥だからな。
>>818 劉邦は亭長だから、沛の豪農・地主だった可能性があるね
貧農が亭長になるのはやっぱ難しいか。
823 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 20:18:45 0
>>818 それでも韓信は学がありそうだろうww
明らかに孫子は読んでいるし、その他いろいろな書物を読んでいるだろう。
アレキサンダーも教養がありそうだな、なにせ家庭教師が
アリストテレスだからww
ハンニバルも絶対にまともな教育を受けているだろう。
劉邦や陳勝・呉広は、史記によれば読み書きは確実に出来ていたようだが、
まぁ、素質も有ると思う
孫子を全部暗記すれば、韓信のように強くなれるわけでも無いしな
ニートだからこそ、いろいろな書物を読む時間が有ったのだろうか
>>823 文盲の皇帝と言えば石勒ぐらいしかいない。
もっといるだろ
0歳で即位し、0歳で亡くなった幼帝とか
__
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L::;;,__ ..:::ゝ
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/j/三三三三三三三三三三ヾ
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r┤ ト::::: \___/ ||
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ
>>823 ニートもネットなりで半可通だったりするぞw
のし上がりぶりで言えば奴隷になった経験のある石勒と貧農坊主の禿様がツートップかと
830 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 21:13:02 0
古代の蜀は交易国家か。
交易に関しては他の国々より先を行っていたが、いとも簡単に秦に制圧された。
>>830 蜀自体、前漢では漢化しきっておらず、西戎っぽい。
前漢の《白狼王歌》は、シナチベット語族チベットビルマ語派の言語で書かれている。
また、秦も同様に西戎的性格が強い。
何か巴・蜀のどちらかと秦は、同盟関係があったかもしれない
夏殷時代の関中は辺境だよな
833 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 21:47:12 0
>>825 考えてみれば、今でも中国は文盲がたくさんいるのに、
成り上がり者とされている連中は、どう考えても読み書きは
出来た形跡があるのだよなぁ
明王朝の太祖でも、坊主上がりでどう見ても読み書きは出来たみたいだし、
読み書きが出来るだけでも、それなりの階級じゃなかったのかなぁ
今の日本に例えたら、三流私大出とでも言うべきかな
巴は楚に滅ぼされた。
>>833 っつうか、坊主は寺で教育受けるだろ
どこの地域でも宗教は学問の拠点だぞ
朱元璋は劉邦より育ちは悪いが、頭は良い
人間としてはどっちもどっち
837 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 22:16:42 0
てか、明太祖は読み書き出来るってレベルじゃねーからなw
文字の獄やってるぐらいだし。
>>831 秦は西戎的性格は強いが、単に遊牧していた中国人だからな、中山と同じで
思ったんだけど「禿」という字を書かれて粛清するのはおかしくね?
朱元璋は禿げてるんじゃなくて、坊主なだけだよね
それとも、禿という字で坊主を連想させるから?
>>841 盗の字と同音の道、僧と音の近い生の字を使っただけでもあぼんするぐらいだ。
禿なんて字を使ったらもちろんあぼんされる。
キリスト教的キチガイっぷりだな‥
844 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 22:59:22 0
元から粛清するつもりで、文字の獄は粛清するための口実とか?
秦も違う
847 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 23:37:10 0
>>656 というか、実際役に立ったのかな?
国を疲弊(というか滅亡)させただけで、あんまりメリットは無かったような・・・
>>847 世界遺産に指定されていない区間は
磚(レンガ)という建築資材を、現代に提供してくれているよw
中山国の君主は周王室の分家だから漢民族もとい華夏民族アルヨ
主要構成部族の白狄鮮虞も周の分家ネ
秦も高陽の子孫だし西戎を討伐してるから西戎違う違うヨ
羌と通婚したからって西戎じゃないヨ、そしたら姜斉も西戎ネ
姫姓なら華夏民族
これは百家姓が根拠あるネ
851 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 00:07:50 0
北狄・西戎なんか中原にいませんから(キリ
殷が生贄にしていた羌も「辮髪で牧羊を行っていた華夏民族」なだけで、決して西戎じゃないしな
むしろ中華のど真ん中の中岳嵩山を聖地にしていたのだから、きっと華夏民族に違いない
853 :
華夏民族:2011/01/17(月) 00:33:23 0
羌のような蛮族を我々と同じ華夏民族とは認めないアル!
周王室の分家を名乗るって事は。だからな
羌テイまで行くと何も中国的要素が無くなる
>>848 磚で作られた明の長城なら少しは役に立ったと思うが、土で作られた秦の長城は・・・
>>856 馬の脚を止めるのが目的だから、まるっきり無意味って事もない
投資に見合う効果があったか、と言うとう〜〜〜ん
>>856 騎兵が大軍で行軍してるとそれなりに邪魔になったのか?アレは
>>858 垂直に近く切り立った2m以上の壁を上れるようにはできてない<馬
だから、足止めにはなったろう
ただあれって何千kmにも渡って連続で続いてるわけじゃなくて途切れ途切れなんだよなぁ
途切れてる部分はそもそも騎馬の利用に向かない土地だからね
862 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 01:09:44 0
冒頓が代に攻め込んだ時は歩兵かな?
一度破られちゃうと、騎馬の出入り自由になるのが欠点だな<長城
だからと言って、二重にも三重にもするとコストがかかりすぎるんだが
とはいっても、撤退するとき難儀する事になるから
意味はあるんだろうけど
まぁ、壊さない限りはそうなるな
あれ一見モロそうに見えるけど意外と硬いんだろ?
867 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 01:36:04 0
>>866 全部壊さなくても、数箇所に穴を開ければ良い。
時間稼ぎが出来るという意味では無意味ではないな
遊牧民お得意の騎兵が使えないんだから
>>868 騎兵の最大の武器はその機動性にあるわけで、それを一時的に止めることができるなら
無駄ではないよね
完全に防ぐことはできなくても、その間に動員をかけて防衛することはできる
騎兵は弓攻撃に弱いんだっけ。
弓兵と直接戦闘ならゴリ押し出来るけど、城壁や長城の上から弓射されると地味に痛いな。
馬甲着け始めたのが西晋以降だから、秦漢期の騎兵は弱いんじゃね
>>871 馬甲付けていても、基本騎兵は弓には弱いよ
ただ、遊牧民は弓騎兵だからな
歩兵部隊に突撃とかはかまさないだろうし、壊滅させるのは難しそう
873 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 03:20:31 0
>>871 鐙を使うようになったのも西晋以降なんだよな
まぁでも、子どもの頃から乗り慣れてるだろうから、鐙なしでも大丈夫でしょ。
>>848 あ、そういえば万里の長城て世界文化遺産に登録されてたのか
そういう意味では、明が文化において世界に与えた影響は大きいな
876 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 03:53:44 0
知名度もかなり高いしな。
でも、長城を築いたのは明だけじゃないぞ。
古くは春秋戦国時代から存在していた。
と言う事は、その頃から遊牧民に押されていたと言う事か
南方の楚なんかはそんなモノ造ってないし
878 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 04:12:53 0
まぁ、趙の武霊王が胡服騎射を必要としていたぐらいだからな。
ただ、それ(胡服騎射を取り入れて)以降はむしろ趙が優位に立っている。
いや造ってるけど、どの国も国境沿いにあちこち造ってる
てか、最初に建造したのは斉だよ.
何が言いたい?
まぁ、当時に建造されていたのは「万里の長城」というより「万里の盛り土」と言った方が正しいだろうか。
883 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 04:55:03 0
城じゃないからなアレは
監視所も要塞も無いし
ただの防波堤みたいな感じで
城と言えるようになったのは明代に強化が為されてから
884 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 14:01:59 0
柴栄の北伐や南征が世界史に与えた影響とは?
つっても、所詮は国内レベルの話だからなあ>柴栄による北伐・南伐
それに在位5年だし
>>886 でもあの遼に対して優位に戦えたのは柴栄だけじゃね?
その5年で燕雲十六州のうち三州を取り返しているんだから。
もう、後5年長生き出来たら国内統一は出来ただろうか
>>888 だろうね。
燕雲十六州も取り返せたと思うし。
890 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 15:09:23 0
東西交易で草原の道が使われたのって元代だけ?
それとも、それ以前から使われていたの?
>>883 いや、壁・塀こそが白の本質。
城=大きな建物みたいなのは、都市をなかなか作らず都市を作っても城壁を作らなかった日本だけのの語感。
「城」の字が輸入されて間もなくの頃は、外敵の侵入を阻む壁の意味で使ってるで。福岡の大宰府の近くに「水城」ってあるだろ、
本当に盛土と石積で作った本来の意味の“城”が残ってるよ。
892 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 15:21:29 0
>>890 基本的に交易路はオアシスロードとマリンロードで、ステップロードはあまり使われない。
ステップロード(草原の道)て冬は寒さに慣れてる人たちしか利用出来ないよな
農民工なみのオツムの中国人に職うばわれる酷使様ってなさけねーなw
895は生きていても仕方ないからさっさとこの世から消えろや無能者
900 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 15:43:25 0
草原の道は遊牧民しか使わないからなぁ
それに、明確な道は存在しない
草原そのものが巨大な道
>>890 匈奴とか突厥とか契丹のようなカスピ海〜河西回廊・モンゴル高原を横断した勢力が成立するほどには利用されている。
利点は、障壁が少なく距離が短いこと、標高が低いこと。
唐はモンゴル高原を制圧してるし、草原の道も利用出来たんじゃね?
>>890 遼や金は東西交易してるよ、北方経由で
>>900 遊牧国家も埋めたり盛ったり固めたりして直道造ってる
905 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 16:39:03 0
最速でローマまで行けるのはオアシスロード。
え?
むしろ、一番時間が掛かるだろ
草原の道が一番速く、二番目が海の道、最も遅いのがオアシスの道だな
地球は丸いので、緯度が高いところ同士は距離的には近い。
オアシスロードは定住民の都市が多いため中継交易に便利だが、
砂漠や山脈が延々と連なり、馬どころかラクダがないと進みがたい。
ステップロードは平坦な草原を馬で駆けるので移動そのものは容易。
なんなら河川を利用した水路もあるし、シベリア方面からはテンなどの毛皮も得られる。
定住民の都市は少ないが、遊牧民なら定期的に集まって市を開くことも可能。
匈奴は漢から絹を贈られたが、自分たちでは着用とせず西方へ転売したようだ。
直線よりは、ちょっと曲線のが距離短いんだよな
>>907 中東に行くんだからステップ地域とシルクロードじゃ
若干シルクロードのが早いって
衰退ぶりからして輸送量が多いとステップのが運び易いんだろうけど
移動手段がね
どうしても、ステップの方が速くなる
912 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 17:29:27 0
マリンロードの海運もそれなりに高速だ。
>>902 途中までしか使えないがな
アラル海まで
>>912 緯度が低い分にステップロードよりは遅い。
と言うと?
917 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 18:31:47 0
>>881 斉は遊牧国家と接していないが長城を建造した。
つまり、趙・燕はそれを真似て遊牧国家との境界線に長城を建造したというだけの話だ。
919 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 19:10:52 0
まぁ、一番便利というか、使い勝手が良いのはオアシスの道だろう。
西域諸国の人たちが、進んで中継してくれるから。
ステップだと、そうはいかない。
それで一番得しているのは西域商人だがな
921 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 20:13:18 0
>>920 漢が西域へ進出してからは、そうでも無いだろう。
純直轄ではない以上、中継交易で金を取るんじゃないの?
>>919 進んでやってるわけではなくて、珍しいもの隣になさそうなものが手に入ったら隣へ転売の繰り返し。
全行程踏破は少ない。
利益がゼロかマイナスになると、受けて付けてくれないな
都市国家がいくつも連なってるからね。
途中で止まる可能性が高い。
>>922 金を取るというより物資を安く買って高く売るというやり方だ
近隣と遣り取りする中継交易と
東西に高額品を長距離交易するのは担う商人が別だけどね
928 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 21:41:32 0
そういう場合は金を出さないと通してもらえないのか。
ん?
それなら、甘英はどうやってシリアまで行ったんだ?
莫大な出費になってしまうが
そういや殷末に出現する二輪戦車はどこのルートから来たんだろう
朝鮮半島
さすがにそれは有り得ない。
933 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 22:32:01 0
差別イケマセン 日本人は真実を見抜く目を養うべき
この世の全てのものは中国起源なのです。
あなたの先祖だけでなく、全人類の先祖は中国人。
元をたどれば全て中国人。
ですので、今から世界統一に向けて発進しています。
やがて、日本列島も朝鮮半島も中国の一部となるでしょう。
それにも関わらず、楯突こうとする日本人や韓国人が差別されるのは当然の事です。
それが嫌なら早期に降伏するべき、
>>907 草原の道は、ゴビ(戈壁)砂漠へと出て、アルタイ(阿爾泰)の森林山岳地帯にぶちあたる。
一度アラシャン(阿拉善)からオアシス都市のウルムチへ出て、
イリ(伊犁)から再びステップロードに入り込み進む道がとられているのが多いのではないだろうか?
>>933 わかりましたか?
あなたがこうして生きているのも中国のおかげ。
中国に感謝し、中国起源である事を認めるべきなのです。
あまりにも正論で、反論出来なくなったかな?
941 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 23:03:44 0
>>938 確かに一旦オアシスロードを経由してるんだよな
乗り換えに手間がかかりそうだ
>>928 んなわきゃあない、掛かるのは取引税で品目ごとの税率で上納
>>940 所詮、朝鮮猿なんてその程度アル。
我々中華民族に比べれば、圧倒的に劣るアル。
>>942 それって国を通過するごとに毎回払わなければいけないの?
947 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 23:14:51 0
>>929 秘密宗教結社の伝手じゃないのかね
あの時代、仏教は意外と西のほうでも伝わっていたみたいだから
カラコルムからなら、エニセイ川上流のトゥバ経由でアルタイ北麓を越えてヴォルガやルーシまで行けるけどな
アルタイ山脈をウルングル方面へ越えてジュンガリア、セミレチエ、イルティシュ川へ抜けるルートもある
ハミ・トルファン・ウルムチ・グルジャへ向かうのは普通のオアシスルート(天山北路)だろう
そんなの今のじだいだからわかることで当時において地理や事情分かっている人何人いたのかなー
見知らぬ栃で話とおってないと山賊やDQN民族の襲撃マジやばいだろ。
950 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 00:14:55 0
アルタイ山脈ってそんなにキツいんかな?
オアシスロードの天山山脈に比べれば楽じゃね?
>>950 まあ、森林地帯と金属鉱山の一等地だからな。
パジリク古墳群があるし、それなりにガイド料をはずまないと通れないだろう。
古代、中世にかけて、最も大規模に交易品が往来していたのは海運だろ
現代も変わらんが
海運は陸上輸送とは比較にならんぐらい荷物を大量輸送できるけど、
海難事故の損害も半端じゃないよ。
海賊も南洋はウジャウジャいるしねえ
輸送量が多いと海運の方が運び易いからな
956 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 01:15:57 0
ローマはマリンロードを伝って、漢までやって来たんだっけ
>>955 初唐の頃からイスラム商人が唐へ訪れたりしてるよ。
居留地も築かれてる。
>>957 海運自体ははあるけど、唐初と唐末だと出入りする船舶数が10倍くらい違ってたらしいよ
そういや、南越国の首都がのちの広州なんだな
ベトナム国内にあったような気がしてたが、あれは後漢末の交州士氏か
>>955 それは中国商人が海路を開拓した時期であって(以下略
ってのはアレなんで
それこそ先史時代から海路を使った交流はあったし、古代には既に東南アジアの商人などが
海路を使って交易している
海運や内航水運抜きに、古代も現代も物流は語れんよ
961 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 02:15:59 0
>>959 交州士氏の時代も、番禺(南越国の首都・のちの広州)は嬴楼(交州士氏の本拠地)に次ぐ都市であったそうだ。
当時はその2つ以外に都市と言える都市は無かった等しいからな
海のシルクロードを使った南海貿易は歴史が古く、漢武帝が南越を征服した時には既に盛んな交易が行われていた
華南・越南の「銅鼓」がマレーやジャワにまで運ばれたのはいつのことであろう
>>960 漢代と唐末以降じゃ規模が違う
シルクロードから南海交易に重心が移って長安の栄華が終わるのは宋代だけど
>>945 あ、ごめん
読み直したら、日用品以外は通行税のようなものも取られていたのではないか
とあった
967 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 03:52:18 0
968 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 04:01:55 0
士燮一族もやはり交易手段として第一に出てくるのが南海交易。
陸路から益州南部を経由してインド至るというルートも有るけどそれは二の次。
>>966 まぁ、目の前で金目の物が通過して行くのを、黙って見過ごすわけには行かないだろうなぁ
970 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 05:13:53 0
六朝時代に、南海貿易は発達しなかったの?
>>907 ん?
マリンロードってスエズ運河が出来るまでは
ローマへ行くまでメチャクチャ時間かかるんじゃね?
>>965 インド洋航路の研究くらい読もうよ
もちろん後代になればなるほど規模は大きくなるけれど、海運の規模の大きさは陸運
とは比較にならないから
>>971 もちろん、ペルシア湾からイラン経由でシリアだったり、紅海からエジプト経由だったり
するんだが………
ペルシャ湾〜インドは初期文明の開闢直後からで、メソポタミアのシュメールの都市国家の遺跡からインダスの細工物や印章が
出てきたりしている。
エジプト中王朝期には既に紅海を通ってアラビア海を突っ切ってペルシャやインドとの間に外洋航路が通っていて、後にエジプトを
支配したアケメネス王朝、マケドニア、プトレマイオス王朝、ローマも踏襲している。
1世紀頃にはマダガスカルへ東南アジアからの移住者の第一波が到達し、その後も波状的に到達している。
その頃にはマダガスカルやマレー半島・インドネシア多島域の存在が地中海世界に知られていたことが天動説のプトレマイオスの
記述などから判る。
>>972 ヨーロッパ系の人骨ってのがそもそも謎過ぎるからなw
人骨による出自の判定は個人差が大きいから、ほとんどオカルトで学問として成立してないし
976 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 13:31:27 0
長江文明の時代は、流石に南海貿易行われてないか。
>>972 まぁ、後漢時代にはローマ帝国から海路を使って使者がやって来ているが、青海省で見つかったと言うことは陸路からも来ていると言う事か?
978 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 13:50:44 0
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/archeology/1267855442/ 83 :出土地不明 :2010/04/15(木) 02:21:54 ID:NPSL/DWk (1 回発言)
古代ローマにあったモンゴロイドの遺骨は漢の大宛派遣団が奴婢に捕まって
奴隷としてローマに売られたものだろう
5 :出土地不明 :2010/04/16(金) 11:04:37 ID:jgYrkd9v (1 回発言)
アッティラの要望に関する記述はモンゴロイドそのまま。ただしアッティラの
墓が暴かれてないので不確定。
支那は漢代初期、奴婢との抗争に勝利するために西域に何度も漢は派遣団を送り、
「公的な」官吏はパルティアの東隣にある国まで行っている。大体その外交使節、
あるいは商人たちの生存率は10%くらいで殆どは遊牧民に連れ去られたり、飢えや
渇きで落伍したという。その捕らわれた者達がはるばるローマまで奴隷として
売られたのだろう。
そこら辺の地域はすでにローマの影響圏なのかね。
奴婢とそいつかいているが、もしかしたら、匈奴を勘違いして覚えているんじゃないかな。
漢の大宛派遣団が奴婢に捕まって → 漢の大宛派遣団が匈奴に捕まって
奴婢との抗争に勝利するために → 匈奴との抗争に勝利するために
確かにこっちの方が自然だ
しかし何故?
奴だけ覚えていたんだろうな。 世界史の点数悪いと見た。
983 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 14:15:29 0
何方か次スレを立てて頂きたい
2人とも間違えていると言う事は、同一人物だな。
多分そうだろう。 こんな変な勘違いする奴そういるとは思えない。 半年前のスレだから
まだこの板見ている可能性あるかも。 匈奴だぞ匈奴 まちがえるなよー
>>973 陸路で速度は落ちるが、距離も短いし、大した事では無いよな。
>>974 その頃、まだ中国までは及んで無かったのか
まぁ、マレー半島やスマトラ島が邪魔してたのかも知れないが
>>976 遠洋航海が出来るようになったのって、漢代からじゃないっけ?
990 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 15:20:38 0
誰か次スレ立てて下さいage
>>978 電波ゆんゆんw
ソグドやバクトラ商人の東西交易での消失率が10%強なのに、しかも奴婢ってw
その匈奴と奴婢を勘違いして覚えている、二つのレスを切り抜いている978の正体は・・・
>>989 海のシルクロードを渡るには沿岸航海の技術が有れば十分
楚呉越の時代はどうだったんだろう
いやでも、前漢以降でしょ。
生粋の北欧系ガイジンなのに、ぱっと見東洋人みたいな例もあるしな。
Bjorkで画像検索して御覧。
996 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 16:32:03 0
誤差の範囲かな
>>989 愚鈍なチャンコロはそうだろうが、台湾を発した南島人は、史前に、東は南米、南はニュージーランド、西はマダガスカルにまで到達している。
mjk
>>933 残念ながら、日本人に対して差別発言している君が言っても説得力無いんだよ。
このように朝鮮人は嘘ついたり、矛盾したりしてるから差別されるんだよね。
差別されるのがそんなに悔しいなら、少しは自覚しようね?(笑)
1000get!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。