3 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 20:42:34 0
唐太宗も兄殺しだよな
でも、兄を殺し、兄から直接帝位を奪い取ったのは宋太宗だけなんだよね
世界史板で1000を拝むのは特別な感じがしますな
ローマは奴隷が総人口の6〜7割いたらしいが、漢では奴隷どのぐらいの割合だったんだろうねぇ?
「史記」の劉邦や項羽の記述をみていると、農民が農奴っぽい扱い。
あんまり移動の自由がなさそう。
石勒は奴隷になった経験があるお
移動の自由っていうか移動したら官田没収されちゃうし
農奴とは全く違う
農奴に相当するのは官奴や私婢
宦官って何か奴隷っぽいよね。
ぽいも何も賎民じゃん
13 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 21:25:01 0
もっと少ないじゃろ
奴隷は戸籍人口に入ってないのかな
まぁ、ローマ程奴隷の割合は多くないけど
ギリシャローマほどじゃなくても結構多い気はするけど
なんせ戸籍に載らないし、イイ本ないの?
それは完全に推測の域だもんなー
奴隷っていっても、時代によって、また地域によって、社会的地位も役割も異なるからねぇ
比較するのは有益だと思うけど、単純に数を比較するのは無益だと思うね
18 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 22:05:38 0
光武帝は何回かに渡って奴隷を解放してる。
東漢は西漢と違ってローマ的な豪族政権だから
土地の併呑が進んで私婢も多かったしな
本当の意味で開放したなら一回でいいんだけれどね
いや、統一前から奴隷解放を行ってるから、領土拡大に合わせてその地域の奴隷解放を行ったんだよ
>>3 でも、何故あんな中途半端な時期に兄(趙匡胤)を殺したんだろう?
以外と突発的な犯行だったとか、んなわきゃないか
李世民のように即位する前に殺害するのは無理なんだよね。
趙匡胤は禅譲で即位したから。
んで、そうしたら自然死するまで待つか、在位途中に殺害するかしか方法はない。
趙匡義は趙匡胤の12歳年下という非常に微妙な年齢差。
仮に、趙匡胤が80歳まで生きたとすれば、趙匡義は68歳で簒奪する元気も無くなってる。
だとしたら、早めに事を済ませておこうという事で、趙匡胤が病気にかかったのを利用して殺害したと言う事なんじゃないかな。
26 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 23:02:13 0
太祖の長男の趙徳芳は何で太宗に対抗しなかったんだ?
正統性が有るんだし、配下達の支持は得られると思うんだけどなあ
やっぱ、太宗に先手を取られたのが痛かったのか
長男じゃないよ。第3子。
>>26 ニセ皇帝・趙高に謀られ、自殺に追い込まれた扶蘇に似てるな。
古今東西、内ゲバは権力欲が強くて性質の悪い方が勝つからな
菅直人とか
小沢さん、起訴されちゃうんですか?
そうとも限らん
陳平や周勃らは呂氏粛清に成功したし
>>29 勝った側が悪に見えるだけじゃね?
地位を確保しても、いつ奪われるや分からなく、そうなれば粛清するしかない。
んで、粛清したら悪と評されてしまうケースが多い。
どっちが政争に勝っても、勝った側は悪にされる可能性が高い。
33 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 23:42:49 0
軍人は政争に弱く、政治家は政争に強いよな
桓温も謝安に簒奪を阻止されたし
我が国でも天武朝が簒奪政権じゃないか。
永楽帝の次男である漢王もオヤジ同様に甥の宣徳帝から帝位簒奪を企んだが、失敗して
最後は惨殺されたな。
そらそうだわな
ってか、フツーは失敗するぞ
燕賊簒位が実現したのも奇跡
朱棣(永楽帝)が優秀だったのも有るが、建文帝が無能だったから燕賊簒位が出来た
37 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 00:01:10 0
無能というか、軍事に関してはは苦手だったんだろう。
なんせ、建「文」帝だからな。
>>30 そりゃ起訴されるに決まってる
検察審査員法を読め
>>36 永楽帝も結構苦労してるしな
ただ、歴代皇帝の中でも、最も軍事的・政治的に有能な皇帝の一人だと思う
軍事的には屈指だけど、政治能力は最高峰どころか優秀かどうかすら怪しいだろ
唐太宗と永楽帝は似てるなー
どちらも、本来なら皇帝に成れ無いのを力ずくで皇帝の座を奪い取った
また、そのきっかけは保身がきっかけだとも思われる
一見悪そうに思えるが、優秀な皇帝ではある
>>39 そうか?
明朝の行政機構を実質的に整備・完成したのは永楽帝だと思うんだが
恐怖政治、宦官重用の評価はともかく、王朝の行政機構を整え、国家を安定させ、その後の王朝の
期版を作った人間を「優秀」と呼べないとはとても思えない
もちろん、他にもっと優秀な皇帝がいるだろ、との評価はもっともだが
永楽は実質簒奪政権だからな
一からとは言わないまでも、明の礎を完成させたのは永楽帝だと言える
洪武帝の時には一応のシステムは完成していた。
永楽帝はそれを壊して作り直した。
って感じかな。
45 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 00:25:38 0
まぁ、孫の事を心配してあれだけ粛清するんだから、完成させとかなきゃいかんけどなw
>>40 政治に長けてる分、唐の太宗が一枚上手かな。
太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれているくらいだし。
47 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 00:37:32 0
西楚って夏・殷・周と同じ位置付けでしょ?
統一政権というよりは中央政権だし
>>21 一々征服するたびに法令を出しなおしてるのかいや
>>47 それ以下だろ。
そもそも、楚漢戦争は陳勝・呉広の乱の延長線上だし。
西楚なんぞ存在しなかったも同じ。
>>42 行政機構は朱元璋の時代に整ってるし、国が動乱に陥ったのは自らのクーデターが原因
遠征で版図に加えた領土は後代に放棄するような土地
軍事的には優秀でも政治的に優秀とは思えない
むしろ、行政機構は洪武帝が作ったシステムを踏襲した方が良かったんじゃないかと思う。
軍才も政才も洪武帝のが上手だろうし。
朱元璋は一応守成もやってるんだよね
大粛清しなきゃなあ、まあ必要性もあったんだろうけど
思うのだが、西楚って項梁が秦との戦いで戦士しなければ歴史が随分とかわったんでね?
項羽は寿詞だが、項梁なら劉邦と対抗できたと思うぞ。
二代目が項羽以外なら何とかなるかもね。
ただ、西楚の封建制は時代遅れ・・・。
56 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 01:09:06 0
>>53 粛清より、朱棣を王に封じたのが間違いかな。
封じなかったら北元が勢力盛り返したと思うぞ。
光武帝が功臣殺しまくって碌な人材居なくなっていたし。
光武帝→洪武帝 まあ、わかるだろうけど酒によってんねん。
長男の朱標が長生きしていたらなあ
粛清ももう少し抑えられたと思うし
聡明やったんかな?
>>57 となると、建文帝は燕王を廃そうとしていたが、もしそれが実行されていたら北元にやられてた訳か。
>>54 項梁なら人望もあったし、封建制にしたかどうかも判らんから歴史は変わったと思う。
天下を取っても後継者は項羽しか居ないから長く続いたかどうかは判らない。
項梁が敗死しなかった場合、韓信と劉邦をどう処遇するかだな。
俺なら鴻門の会の時点で劉邦を殺しておくわ。
63 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 01:27:39 0
劉邦の演技が上手かったのか、項羽が甘かったのか?>鴻門の会
劉邦と項羽が逆の立場なら、項羽は鴻門の会で殺されてるだろうね。
韓信って劉邦が取り立てなかったらそのまま歴史にうもれていたんじゃね?
項羽も重用しなかったし。
戦術は項羽一人で事足りてたもんなー
范増・陳平がいたのにこれを逃したのはもったいない
最も、項羽の下では力を発揮しようが無かったんだけどね
>>63 匹夫之勇,婦人之仁と韓信が評したと
書いたの司馬遷だっけ
項羽は肝心な時に優しくなるよな。
時には秦軍20万を生き埋めにしてるのに。
極端なやっちゃ。
70 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 01:55:00 0
変なプライドが有ったんだろう
「騙し討ちなんてセコい事はしたくない!」みたいな
項梁は為政者としての能力は高いんかな?
軍事能力はそこそこ高かったと思うが。
項羽よりはマシだろ
というか、項羽以下は想像出来ないw
項梁なら范増の進言も聞くだろうしね
つうか、范増は元々項梁に使えていたからな。懐王を探し出して神輿にすべきとの進言を採用したのも彼だし。
74 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 02:10:56 0
永楽帝=トラヤヌス
宣徳帝=ハドリアヌス
>>73 義帝は項羽に廃され、英布に殺されたが、項梁も用済みになったらやはり、懐王(義帝)を廃するのだろうか。
廃されたというか、無理矢理転居させられたと言った方が正しいか。
状況を判断するだろう。まだ政権が安定していない状態で義帝殺害したら史実同様に反西楚の芽を意気盛んにするだけ。
彭越や英布あたりが先に背きそうだし実際そうだったのだから彼らを殺害してからだな。
というか、項梁なら故郷に錦飾る前に都をもちょっとマシなところにしているだろ。
項羽はいろいろと政治センスなさすぎ。 普通はもっと考えて統治するものだしな。
郴は荊州の南端だからなー
ほぼベトナム
79 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 02:30:35 0
問題は封建制だな
項羽が封建制にしたのは、范増の入れ知恵なんだよな
これを項梁が退ければ、項梁が生きてる間は西楚の天下が安泰かな
>>80 ってか、そこって長沙蛮の土地でしょ?
そんな所に都を置くって・・・
82 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 02:40:21 0
ハッキリ言って漢中以上に辺境。
劉邦もそこら辺無能では有るが、張良の進言をよく聞き長安を国都とした
つうか、長安は秦の遺民対策も兼ねてのことじゃね?
項羽もいうこときかん坊だけど秦の降将3人に秦を三分割してそれぞれ王に封じ、
劉邦が蜀から出られないように貫抜の役目をやらせている。
まったく機能しなかったけどな。
章邯は有能だけど、旧秦民からの好感度は低かったんだよな
何せ、秦を裏切って楚に付いたわけだし
むしろ、劉邦の好感度の方が高かったようにも思える
項羽の論功行賞はなあ・・・
よく蜀は三代続かない、天下とったものはいないというが、よく考えたら劉邦って蜀から再出発して
項羽滅ぼして統一するってものすごい話だよな・・・・。
相手が項羽でなかったら天下取れなかったろうけど。
88 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 03:03:59 0
>>84 関中を三つに分割する事で、西楚の優位性・相対的地位を上げようとしたんだな。
あんまり意味は無かったけど。
秦が再度自立するのを恐れたんじゃないか?劉邦の監視もあるが、秦の再独立も怖いと
項羽なりに考えたんじゃね?
ああ、捕捉すると三分割の理由ね。 だれか1人を秦王に封じたら項羽でもまずいと判断したのだろう。
>>87 楚漢戦争は4年という短期決戦だったが、劉邦もギリギリの所を綱渡りしてたな。
彭城の戦いが一番のピンチ所だった。
でも、漢中に封じられたはずの劉邦が、西楚の首都まで進出して来てる時点で、戦略的には項羽の劣勢は決まっていたのかもな。
>>89 まさか、他の王達が連合して掛かってくるとは思いもしなかったんだろうな・・・
西楚の国力も中華全体から見れば3〜4割程度で、こうなると勝ち目が無くなる
彭越のゲリラも地味に痛いし
秦を滅ぼしたのは一応劉邦なんだよな。
この時から有力視はされていたんだろう。
95 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 03:34:28 0
だから劉邦を関中王から外したんか
しかし項羽も洒落てんな
「関中王」と「漢中王」を掛けるなんて
>>93 項羽は咸陽を国都に定めるように進言されたが、それを蹴って彭城を都にしたんだよな
その後、遷都という名分で南の果て・郴まで追いやったと(途中で英布がSATUGAIしたが)
そもそも、西楚は地形的に不利だよな。
まぁ、項羽が関中王になった所で、結局は似たような展開を歩むとは思うが。
98 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 03:52:01 0
范増は封建制を薦めるぐらいだし、張良には劣る気がするな
当然と言っちゃ、当然かも知れんが
守るに易い世界最大都市のある巴蜀に長安のある関中
まあでも関東を磐石の状態で治められれば、劉邦も立ち枯れしたんだろうけど
>>98 ローマは属州制度でうまくいきましたけどね。
それでうまくいかないのが中国王朝の限界でしょうか。
咸陽にしておけば劉邦一党が這いでてきても瞬殺だったのにな。
>>99 劉邦を関中に近い漢中に封じた時点で間違いだった気もするなあ
関中が独立しないように三つに分割して力を削いでも、それを劉邦に取られてしまっては意味ないしな
>>101 劉邦(漢中)と項羽(西楚)の距離は遠いからな
距離が遠いという事は、お互いの領地が接するまでに、領土を広げ国力を増大させるチャンスが有るという事だし
104 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 04:07:04 0
>>101 項羽は咸陽を徹底的に焼き尽くしてしまったよ。
何か秦に強い恨みが有ったんだろうね。
劉邦が秦を滅ぼしてさえいなければ論功行賞で劉邦如き無視しても良かったのだろうけど、
さすがの項羽でも王に封じざるを得なかったんだろうな。
どっちみち扱いに困るのだから鴻門の会で殺しておくべきだった。
まあ、それをしないから項羽と言う男の魅力があるのだろうが。
>>104 楚人で秦に恨みのない奴なんていない。一族郎党殺されて
今また叔父を殺されたばかり。
思慮のある人物ならそこをあえてこらえて鷹揚に接すべきだったんだろうがな。
だからこそ范増は劉邦と項羽の振る舞いの差をみて劉邦を危険と判断したのだし。
それと、史記の「阿房宮を焼き尽くした」との記述はあれ嘘なんだよね。
近年の発掘で実際は焼けてなどないと判明している。
司馬遷の項羽に対する思い入れを考えると彼が筆を曲げたとは思えないから、
どうせ劉邦が項羽を滅ぼした後に史実を脚色して事実をねじ曲げたのだろうがな。
>>105 韓信ナシで項羽より先回りして秦を滅ぼすって、地味にスゲーよな。
まぁ、本来なら関中王に任命をする所を、関中王に任命せず、殺しもせず、僻地の漢中王に。
ここに項羽の人間味が表れているな。
警戒すべき相手だから関中王からは外すが、殺してしまうのもかわいそう。隅っこの漢中王なら任命しても安全だろう。みたいな。
かわいそうというか、項羽自体は秦の降兵20万人を処刑しているんだから、
憐憫の情で助けたのではないんだろう。
もっと別の何かだ。もしかすると漢以前の楚人には独特の美意識があったのかもしれない。
楚人の上層部は苗族だったとの説もあるし中原とは行動原理が違うのかも。
110 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 04:24:50 0
鴻門の会の時点で劉邦50歳、項羽26歳
懐王や宋義などを殺害しているし、項羽はそんなに単純な男ではない。
司馬遼太郎はあまり好きではないが、股潜りの韓信とか鴻門の会時の項籍を
たらい込んだ様子とか劉邦という男になにか独立の雰囲気があったのかもしれない。
本宮ひろ志風にいえばこれぞ王者の風格ということかもしれん。
蕭何も張良も劉邦に付いていったぐらいだしな。
項荘が剣舞で劉邦を斬ろうとしたのを遮った項伯はええヤツやな
114 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 04:40:37 0
>>113 項伯としては、どっちの味方をしたら良いのか辛い立場。
>>109 項羽は章邯の命を助けてるんだよな
ここも項羽にしては意外な所
でも20万人の将兵は殺しているんだよな。
項羽の行動原理はよく分からない。
項氏が苗族と関係あるかどうかまでは分からないが、項籍にしても妙に人のよいところもあるし、
かりに苗としたら、苗族の行動原理が中原のそれと異なるのかもしれないな。
>>108 項羽は敵を徹底的に叩き潰す事によって時間が食われる(相手も死ぬのが嫌で必死に抵抗するから)
劉邦は敵を降伏させる事でスムーズに進軍が出来る
よって劉邦が先に関中入りしたと
当時の長江流域はまだ異民族が多数派やったんかな
>>116 苗族独特の思想が有るのかも知れんが、項梁と比べても喜怒哀楽が極端だな。>項羽
叩き潰すというか、章邯軍メチャクチャ強かったからな。
秦の最後の将軍としてはおそらく白起、王翦クラスの化物だわな。
陳勝呉広の乱から項梁の敗死まで八面六臂の活躍をしてる。
項羽が先に章邯にあたってなきゃ劉邦軍粉砕されてたろ。
あんなの項羽だからこそ止められなかし、劉邦はその辺の運もあった。
何か世の中は劉邦を中心に回ってるって感じがするよな
普段は弱いけど、ココ一番という時には勝負強いし、運も有る
王翦と白起の間に越えられない壁があるようなw
>>118 南越、ビン越なんかは夷狄でも異民族というより中山国や巴国、呉越みたいな感じじゃね
山越までいくと異民族だろうけど
秦末漢初だと韓信・項羽の次に章邯が強いかな。
戦術的に。
124 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 05:14:06 0
越えられない壁ってのは、人間としてって事?
>>114 項伯は鴻門の会の前に劉邦側に取り込まれたんだよね
だから、劉邦の味方をせざるを得なかった
ひとでなし度では白起と項羽は良い勝負。白起の方が30万ほど余分に殺しているけど。
章邯は三秦の一人として封じられた後はまるで別人だな。まったく精彩を欠いているな。
かつてのような強さも無いしね
いとも簡単に劉邦軍に攻略された
精彩を欠いてるも何もろくに兵士与えられてないし、その後の記述はなくねーか?
>>126 項羽は秦への恨みも有って秦兵を生き埋めにしているが、白起は食料不足が原因で生き埋めにしてるからな
40万人も殺された割にはその後も粘ってるね趙って
李牧の将才が大きいのかもしれないけど
李牧も離間の計で超王にころされなければ趙もまだまだ終わらんかったんだろうけどなー
真の敵は身内にありってのはある意味真実だわな。
項伯、胡亥、唐太宗、宋太宗、敵だらけだw
その面々に何故項伯がw
>>132 暗君だと配下に名将が揃っていてもどうにもならんって事やろうね
始皇帝は名将王翦を疑う事も、殺す事も無かったし
>>136 疑ってはいただろうw
君主も臣下も互いに疑っているっつう緊張感があの話から感じられる。
ま、どこまでホントの話なのかわからんが
劉邦や朱元璋みたく、統一後に粛清するならまだしも、国の存亡か掛かってる時期に粛清するのはな・・・。
北斉でも斛律光・蘭陵王が粛清されて滅ぶきっかけになったし。
廉頗も趙王を見限って出奔したんだっけか?
全く疑わないというのも、それはそれで問題だ
ある程度警戒する必要は有るだろう
だからといって、少しでも怪しいと思えば粛清するのは良くないが
>>138 粛清そのもの以前に、中原を掌握したことで風紀が弛緩し宮廷が腐敗していたんだろう。
しかし離間の計って使い古された手だというのに国の存続が掛かっているときに限って
やからす御仁多いね。
袁崇煥粛清した崇禎帝なんか典型的だよな。
>>137 君主と臣下の粛清されるかされないか、それをめぐる駆け引きも面白い。
王翦のような軍人はまず最初に疑われる対象だから。
毛沢東と林彪とケ小平
145 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 05:56:39 0
>>141 北斉は初代皇帝すら名君とは言えないしな
劉ビみたいに潰される前に呉楚七国の乱を起こすパターンもあるぞ。
戦略面のミスで7国側負けちゃったけど、あれで勝っていたら、
晋の八王の乱みたいに北狄の侵入はやまってグダグダになっていたかもしれないな。
成功例としては靖難の変かな。何度も既出だから今更な話だが。
>>139 罷免されたのが原因。
後任の将軍楽乗を攻撃してしまったので、亡命するほか無かった。
>>147 逆恨みの上、逐電かよ! 廉頗さん惚けているんじゃね。
>>149 確か城の攻囲中にバカ王が交代の将軍を送り、着いたとき既に攻略を終えてた廉頗が
プッチンして後任の将軍を力づくで追い返しちゃって、仕方なく楚に亡命したんじゃなかったっけ
>>142 まぁ、そういう時は裏切りも増えるだろうし、離間策を真に受けてしまうんだろうな。
そういう状況を打開出来る名君(中興の祖)なら、当然そんな罠には掛からないだろうけど。
>>146 北魏の六鎮の乱も反乱を起こした側が勝ったのだが、一つの勢力にまとまる事は無く、西魏・東魏に分かれてしまったんだよな
他の国にも豊富な人材が居るには居るんだが、どうして秦のその他の国の間でこれだけ差を付けられてしまったのだ・・・。
斉は一時、秦と肩を並べていたが。
斉は田氏による簒奪で以前から人心が安定してなかったし、求心力がやや弱い。
燕を攻めた時もやらかして衰亡しちゃったからなー田単の機転でなんとか楽毅の大攻勢を
しのぎはしたが、もう斉はボロボロの状態だった。
始皇帝云々以前に話にならなくなってる。6国の盟主としては役不足なんだよ。
155 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 06:13:51 0
>>151 でも粛清したらどうせ国は滅ぶんだし、生かして置いた方が可能性は広がるんじゃね?
趙は長平の戦いがやはりデカイ、次に李牧の粛清、廉頗の出奔も大きかった。
完璧や刎頚の交わりの語源となった藺相如が顕在だったらな・・・・。
>>154 燕があのまま旧斉領を維持していたら、斉に代わって秦との二強に成れたんだろうかね
韓は周に毛が生えた状態の弱小国で問題にならならなった。
楚は屈原が自殺するぐらい以前から機能不全状態に陥ってた。
秦を峡谷にした長平君がどういう経緯か宰相やめて楚王になるという
驚愕の展開で巻き返そうとしたが、武運つたなくやられてしまうんだよな。
楽毅は名将だが、死兵の恐ろしさがまだ理解されてなかったからな。
義経が牛に火をつけて倶利伽羅峠を攻略した計略があるだろ?
あれ状況はちがうが、元々は田単の計略がおそらく元ネタ。
最後の一分で楽毅はやらかしてしまったな。
>>153 蜀を握ったからとか?
あと、大陸の歴史は西や北の辺境の民が中原に攻め込み、
中原を制した後、江南を平らげるっつうのがお決まりのパターン。
逆がなかなか起こらないのは、北は南の経済力・生産力を必要とする一方、逆に南は北を必要としないから。
統一後は北に首都を置き、南の物資を吸い上げることで国全体に富がいきわたる。
互いに微妙なバランスが保たれているから、秦以外の国が台頭するのは難しかったんだよな・・・
魏は秦に圧迫されたが、信陵君ら有力諸侯が支えていたが、嫌疑を掛けられ魏王が重く用いなくなり、
失意のうちに亡くなった。
そういえば魏王って廉頗が亡命してきたのに禄に兵をあたえず楚にさらに亡命されてしまうやらかし
していもいるな。
結論 6国どこも滅ぶべくして滅んだ。
163 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 06:26:39 0
連合軍が斉を攻撃してる間に、秦は着々と勢力を伸ばし続けていた。
まあ李斯の6国分断策もデカイがな。
紀元前4世紀では、むしろ斉の方が秦より強かったと思う
>>159 楽毅は田単の計略で、失脚させられたんだよな。
>>160 当時の蜀ってそんなに豊かやったんかな
すでに文明が発達していたとは聞くけど
劉邦が封じられた漢中は流刑地だったよね。
169 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 06:44:46 0
秦は地の利の有るからな
でも、劉邦・項羽はあっさり関中攻略しちゃったけどさ
>>164 連衡策と言えば張儀だな。
各個撃破だと国力のゴリ押しで楽勝に秦が勝つる。
船頭が多いとなかなか総意を取りにくく、舵どりを誤るものだ。
秦はその辺船頭が1人だからな。
古代の連合国で勝ったケースってペルシャの侵入をコリントス同盟軍がやぶった事例など
極まれにしかない。たいてい負けるんだよな。
>>169 あれはもう胡亥と趙高のせいで内部から崩壊してるようなもんだ。
んで、項羽と劉邦が到着する頃にはお二人さんは亡くなられてると。
好きなだけ秦を腐敗させといて、何と自分勝手な事か・・・。
>>171 劉邦も後に天下統一しているが、56万の連合軍で3万の西楚(項羽)軍に負けてるからな
これは項羽のチート的な強さのせいでも有るんだろうが
それでも、これだけの兵力差が覆されるという事は、まさに烏合の衆だからだろうな
174 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 07:07:58 0
てか、56万も居れば韓信クラスじゃないと統制取れないから。
冒頓が40万で劉邦の32万を包囲した芸当って実は相当凄いのか
冒頓単于が劉邦ざくっと殺して漢帝国を八王の乱、永嘉の乱みたいにクダグダにしてしまえばよかったのに。
どーも晩年の劉邦好きになれんし
遅レスになるが章邯は秦滅亡後はもう心が完全に折れてたんじゃね。
防戦してるうちは故国を守るっていうモチベーションに支えられて天才を発揮してる面が大きかったんだろうが
それが破れ目の前で配下20万人を約束に違えて殺されればそりゃ無気力になるわ。人として普通。
この人はベリサリウスに通じる悲劇の名将だと思う
178 :
177:2011/01/09(日) 10:25:53 0
約束に違えて、ってのはちょっと違うみたいだな
反乱企ててたんだな秦兵
前スレに対するレス。
>>883 ローマも一極集中ではない
2世紀五賢弟時代全盛期ローマ帝国
ローマ120万人アレクサンドリア80万人アンティオキア50万人カルタゴ30万人エフェソス20万人ペルガモン20万人
ローマの外港衛星都市オスティアですら10万人もいた(今で言う横浜神戸に値する位置。先進的現象だよ)
この他にポンペイのような10万クラスの衛星都市や地方都市が無数にあり
2世紀の古代では圧倒的に都市化が進んでいた
この時代では20〜30万人いたら世界的には巨大都市
そしてこれらの大都市はもしろん、数万クラスの中堅都市でもローマ風の都市インフラが完備
>>897 ヘレニズム時代の最盛期ならいた可能性はある。プトレマイオス朝時代は外から来たギリシア人やユダヤ人が
アレクサンドリアに集中して居住していたし。
ローマ時代になると若干減って80万ほどに。
肥大化するローマ市に抜かれたようだけどそれでも世界トップクラスの巨大国際都市。
180 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 13:24:38 0
>>176 そこを乗り切らせるのが陳平の凄みじゃね
それに、当時の漢にはまだ名将がいたし
ってか、匈奴って野戦は得意でも攻城戦はヘタだから。
>>177 章邯が反撃を始めたときはもう手遅れだった感が有るな
どうにか項羽の進撃を防いでも、劉邦が違うルートで関中へ向かってるし
183 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 13:42:36 0
冒頓40万って本当なのか?
人口密薄の匈奴にそれだけの兵が居るとは思えないが。
遊牧民は女子供も牛馬操って補給活動するんだろう。
>>120 章邯も名将だと思うけど、白起・王翦あたりには劣る感じかな
韓信や項羽がそこに該当し、章邯は次点
遊牧国家は全員を兵にしても、生産性が落ちないからね
>>185 しかしそれまで兵を指揮したことも無い文官が囚人出身の寄せ集めの手勢でってのを考えると異常な才幹な気が
劉邦は何とか乗り切ったけど、范増は討つ気マンマンだったんだよねえ。>鴻門の会
確か韓信も寄せ集めの兵で戦っていたな
そう考えると項羽は有利だったんだな
負けたけど
190 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 14:14:12 0
>>185 確かに章邯はその2人の影に隠れてる感じで、存在感が薄いよな・・・。
韓信はともかく項羽あたりには勝てそうにも思うんだがなあ・・。
しかし直接対決で惨敗、破滅の原因になってるので議論の余地も無いか。
章邯が項羽に負けた時、兵数では章邯軍の方が多かったんだっけ
この時代はチート武将が多すぎてどうしても霞むよなあ
余力がある段階で降伏したから、やってみたら勝ってたかもしれんぞ。
章邯の不幸は秦上層部のクソさに起因する。
章邯というより、最精鋭部隊を率いていた王離が負けてしまった
って感じだからなぁ
195 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 14:44:28 0
他の時代に生まれれば一番の名将になれたかも。
運ワルス。
>>179 一極集中ではないが、漢に比べると巨大都市への集中が見られる感じはするな。
漢は最大都市の長安でも40万ちょいだしさ。
197 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 14:58:36 0
>>196 前漢代は中原、旧斉の当たりが人口密度高いね
長安周辺は意外に人口少ない
むしろ長安や洛陽あたりはもっといてほしい
ローマレベルとは言わないから60、70万人くらいは
40万て他の地方都市と大して変わらんよな
>>95 項羽は他にも范増の事を亜父(アホ)と呼んでいたりするしね・・・。
>>197 関中の人口は多いよ、行政区分が細かく分かれてるから少なく見える
一番多いのは両淮地域だろうけど、黄河以北もかなり多いね
>>196 ローマが45万〜最大限75万、アレキサンドリアは30万くらいな。
>>202 どうゆう意味?
ここのスレへ飛んじゃうんだけど
五賢帝時代に100〜120万はいたんじゃないの。
アレキが30万なんてのは少なく見積もりすぎかと。
アレクはともかく、ローマは最盛期で100万越えていたでしょ
208 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 15:19:00 0
漢の長安は絶対100万人超えてないけどな。
項羽の論功行賞って范増の入れ知恵なんだろ。
范増はむしろ西楚の崩壊を早めた気もするな。
反乱分子を僻地へ遠ざけるという事は、項羽の監視から遠ざかって独立しやすくなるという事
211 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 15:30:33 0
>>209 范増の若い頃はまだ春秋戦国時代だったからね
封建制の方を好んでいたのかと
始皇帝よりも年上だろうし
>>206-207 遺構の範囲からして最大限多く見積もって75万だと
アレキサンドリアは80万なんていう数字自体が無茶過ぎ
そもそも、当時の項羽軍には中華全土を直轄で支配するだけの力がまだ無かった。
とりあえず自分が一番優勢な立場に立ち、反乱が起きれば各個撃破していくという方針を取ったのだろう。
>>214 そう思い込みたいのは分かります、現実とは思い通りにならないものですね。
>>215 それはあなた自身の事を言ってるんですね。わかります。
217 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 15:47:25 0
>>213 劉邦が郡国制にしたのもそれによる所が大きんだろうな
直轄で支配するのは無理だけど、項羽のように封建制を取っても反乱が起きて統治に失敗してしまう
そのために中間策の郡国制を取ったと
封建制じゃ広大な中国全域を支配できないけど
功臣や有力者を処遇するには大きな封土が必要だしね
秦はどうしてたんだろうな
皇帝独裁権の確立していない時代だからなあ
どうしても、功の大きい臣下に配慮せねばならなくなる
>>218 代表的な功臣としては、王翦・蒙恬が居るけどね。
先祖代々から仕えていて、封じる必要は無かったのかな。
221 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 16:00:02 0
でも15年で崩壊したよな
>>220 そういえば穣公は定陶に所領持ってたっけ、随分離れてるけど
白起も封じられてるお
まだ始皇帝の時代では無いが
224 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 16:08:00 0
ん?
でも、劉邦は異姓王を粛清した後も郡国制を続けてるよね。
そこら辺の考えがよく分からない。
だから、直轄で中華全土を支配する力が無いんだよ
まだ陳勝・呉広の乱、楚漢戦争が終わったばかりで国土は荒れているし
そもそも兵を禄に指揮をしたことがなかった章邯が囚人募って戦いに乗り出したのは
胡亥や趙高、李斯が遺書を捏造して胡亥を立てて扶蘇と蒙恬の一族郎党を殺害し多くの
人士を衰亡せしめたからだろ。だから反乱が起こった時点で秦は人材を欠いて対応が遅れた。
元々後継者の資質のかけらもなく、長子でもない胡亥など始皇帝は後継にする気はなかった。
蒙恬ってありゃあキングダムで出てきている蒙武の息子でオルドス方面で対匈奴で活躍
していたよ。内政にも功績あったしな
>>187 文官と武官は未文化の時代だよ。 万単位の軍は率いた経験はなかったろうが、
あの時代はなんでもやる夫。
>>224 帝国に封国は必要ないけど王朝の為にはある方が良かったんじゃね
太守や刺史を歴任させればいいのかもしれないけど
韓信だって元は項羽の下で一兵卒やってただけだからなぁ〜
優秀な人材は意外な所に眠っているモノだよ(蕭何だってそうだ)
>>224 咸陽郊外に長安をたてて直接支配していた旧秦領を除く旧六国の遺民対策だよ。
劉氏系の王とはいえ、急に六国を廃止することは漢の安定を損なうと高祖は
判断した。
>>95 現代日本語では同じ音になってるけれど、戦前の仮名だと、関は「くゎん」、漢は「かん」
現代中国語の音をウェード式の横文字にすると、関はkuan、漢はhan だから、
声調は、関は平声、漢は去声なので、随分と違う音のはずだ。
魏の文帝は疑心暗鬼になる悪癖があり、藩屏になるべき一族郎党を冷遇した。
司馬氏に政権を奪われたときに宗族は何も出来なかったし、むしろ曹植の子孫の
ように司馬氏に仕える一派もでる始末。
晋はこの教訓をいかし、一族を藩屏に封じたが、八王、永嘉の乱が起こる遠因となった。
古代国家はこの辺の匙加減が難しい。
まぁ、王の座を一族が占めるという事は、内乱が起きて誰が天下を取っても自分の子孫だから良いや
と、思ったんだろうな
234 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 16:32:12 0
>>232 おいおい。
そう上手くはいかないもんさ。
内ゲバ起こしたら、その内どっかからか漁夫の利を取られる。
>>232 その辺難しいね高祖は次兄劉交と確執があり、次兄が匈奴の侵入に対して一戦も交えず
逃亡すると父を酒宴に呼んだ降りに兄貴と俺はよく比較されろくでなし呼ばわり
されたが、いざ封じると一戦も交えずに逃げる体たらくであったさすがは
親父殿の自慢の息子ですなと大いに辱めた。
んで、この(劉邦からみて)不肖の兄の子が呉王劉ビ。
そう呉楚七国の乱の首謀者であり、景帝に息子を殺された張本人でもあり、
漢帝国の支配を大いに揺るがせた。まあ戦後処理で諸王は権限委譲を
迫られ、漢はかえって安定することになるのだが。
世代的には文帝の方が近い、というか文帝よりも年上なんだよな>呉王劉ビ
237 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 16:42:17 0
>>235 劉邦の次兄で劉濞の父と言えば、劉喜かな?
劉交は劉邦の異母弟だったような。
>>226 秦末期は明らかに人材不足だな
劉邦軍・項羽軍の方が人材豊富だし
蒙恬をプラスしても見劣りする・・・
239 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 17:05:21 0
それは秦の人材が不足しているというより、劉邦軍団が強すぎるんだろ。
古今東西、劉邦軍団に勝る軍団は無いし。
>>238 敗残側の人物は余程の大物以外書かれないだけだろ、史記に
>>239 >古今東西、劉邦軍団に勝る軍団は無いし。
それは言いすぎだって
軍事的には末期でもけっこう豊富な気がする
トップはやっぱりうんこ
章邯は秦の人材の最後の牙城て感が
7年で天下統一って、中国史上でも稀に見るスピードだと思うんだがなぁ。
劉秀や李世民、朱元璋でももうちょっと掛かってるでしょ。
囚人軍二〇万人をかき集めたってことは常備軍はおもうより少ないのか?
なんか章邯が項梁を滅ぼすまで各地の反乱を潰しまわっている感じだが、
彼の属将以外は県令レベルの常駐兵程度しか置かれてなかったのかね。
その昔、秦といえば軍事が精強で知られ、穆王の頃には並び立つ者が
いなかったというimageがあるのだが。
245 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 17:21:24 0
やや小粒では有るが章邯以外にも、司馬欣・董翳・王離・蘇角・渉間などが居る。>秦末期
>>243 秦を趙高というクズが食い荒らして李斯や蒙恬処刑するし、胡亥は政治試みないし
章邯が援軍を要請してもなにもしないし、むしろ劉邦軍に内通しようとする馬鹿だし
秦の兵力の大半は反乱軍や項羽が潰していたりして劉邦が上前撥ねた格好だわな。
章邯倒した件にしても三秦が二〇万の軍勢見殺しにしてオメオメと帰ってきたので
恨みを持つ者が多く、劉邦の封地よりの脱出に手を化した者が少なからずいた。
韓信の奇襲も内通者多数あってのことだな。
項羽にいたっては施政面で大ポカやり過ぎ 呂布みたいなもんだ。
>>244 秦の軍制だと職業軍人は極一部で大部分は農民だし
劉邦は3年で秦を滅ぼし、4年で西楚を滅ぼしているが、相手はどちらも統治能力ゼロのDQNだからなw
つか囚人軍団をよく統制できたな
反乱起きそうなもんだが
隋末唐初は、どこの勢力も優秀な連中が揃っていた様に見えるなあ
囚人と言っても大抵はまともな人だろうからなー
大工事に遅刻したか、サボったかの
囚人一人一人がゲイ布みたいなのならおちおち率いてもられなそうだなw
253 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 17:35:02 0
>>244 秦軍は各地で起きた反乱を鎮圧する事で精一杯だったから。
兵力が不足していたのは確かだろう。
>>246 趙高と胡亥が上層部と宗室を皆殺しにしちゃったからな
>>252 黥布20万人なら項羽軍にも勝てそうだが、果たして統制が取れるのか?
ってトコだな。
章邯ってヨウ道だっけかな?補給用の城壁付の道路作ったりしたんだろ。
囚人を兵士に用立てた件にしたって、戦略的な発想がすごいな。
>>253 章邯が出撃を命じられたのは反乱軍が関中の目前まで迫ってる時点で
兵士を徴募する時間が無いから、既に集まってる囚人に恩赦を出して編成しただけだよ
>>256 章邯は全てに置いてそれなりに優秀の万能型だからな
項羽みたいな武勇一辺倒の相手だとさすがに「軍事能力」では負けるが
秦を強国にした穆王や六国の連携を防いだ李斯や趙を衰亡させた白起や楚を滅ぼした王翦が生きていたら項羽みたいな孺子
相手にならんかったのでは。まあ李斯以外は時代が違いすぎるか。
項羽は本当に「武のみ」って感じだし。
せめて将軍の馮劫くらい生かしとけばよかったのにな。チンコ無しも
構成の脚色は要りまくりのものを、よくもまあここまで熱く語れるものだ。
リアルラオウだよな。項羽
263 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 17:54:26 0
>>259 白起が王翦が項羽に負けるのは想像出来ないな。
キングダムの主人公の李信は生没年不詳だけど、楚漢争覇の頃には死んでいたのか?
いつのまにか子孫が漢に使えて李陵が大ポカやり過ぎて匈奴に亡命しているが。
>>259 無理。
項羽という一人の武人が問題なのではなく、郡県制度の矛盾がそもそもの問題。
>>264 李陵って李信の子孫なんだ。はずかしながら初めて知った
ちなみに燕を滅ぼしたの李信。 対楚戦では精彩欠いているけど。
>>265 意味不明、趙高と胡亥の暴政と大粛清が反乱の要因
>>264 李信は統一直後に亡くなってるんやろね。
統一以降は記述も無いし。
李信とその一族ってどういう経緯で漢に走ったんだろうな。
まあ、目端の効く人物なら趙高と胡亥がのさばる秦なんか
見捨てて去るのが普通か。
李信「楚を滅ぼすには20万が必要」
王翦「楚を滅ぼすには60万が必要」
この違いは何を意味しているんだろうか。
実際、李信は20万で失敗して、王翦は60万で成功したが。
よくいるじゃん、勢いばかりよくて見積もりの甘い奴
>>271 李信は若くて見栄張った、老練な王翦は深慮があったとエピソードは言いたいんじゃないだろうか
マンガとはいえ、李信ってたしかにそんな感じだよな。見込み甘くて軽率なところが
あの作者マンガ家とはいえ細かいところ結構伏線はってて面白い。
戦術では両者互角だけど、戦略では王翦が一枚上手という事かな
>>268 ・・・。郡県制を知らんのか?
かつての六国にも郡県制を適用し、急速に中央集権化を進めたため、
諸国の旧王族、旧臣が蜂起したのが秦末の大反乱だろ。
それを踏まえた漢の高祖は、はじめは封建制を敷き、徐々に郡県制に移行させた。
>>276 意味不明、趙高と胡亥の暴政と粛清が反乱の要因
>>276 それを考えるとやはり廃藩置県は偉業だな
規模と時代の違いもあるけど
>>276 六国のうち楚と燕以外でも郡県制、というか郡公制?が敷かれてるよ
李信は有能だけど、白起・王翦クラスには劣るわな。
キングダムのこないだ死んだお姉みたいな言葉話す将軍 王騎って史実では
白起・王翦・章邯あたりと比べて秦の将軍的に能力どのくらいあった?
つうか戦国末期の秦って人材的にも一人勝ちだな
それが始皇帝死後はあんな悲惨なことに
キングダムにまだ王翦出てきてないんだよね。
物語的に絡むのまちがいないが、今廉頗に王賁が殺されそうになっているからその後になるのだろうか?
284 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 18:14:36 0
秦が一番ノっていたのは王翦・蒙恬の二人が揃っていた頃かな。
李斯も腹黒いけど、趙高と違って有能だったし。
てか、ここってキングダムスレなの?
歴史の話をするとこじゃないなら退散しますよ・・・
昭王、白起、魏ゼン、ハンショあたりの時代から秦はチート確変モードに突入するよな
別にいいじゃん、書き込み見てると三国志演義と違って史書に近い感じだし
>>281 多分記録なしw
キングダム最終回予想。
政の統一を見届けた李信はキョウカイと結婚し、子供を設けたが、不治の病にかかり、
この世を去る。
月日は流れ、政=始皇帝の巡業の際、咸陽で労役に勤しむハイからでてきた劉邦が
始皇帝の行列を見、また楚の地では項羽が俺がとって変わってやるぜと不敵な笑みを店
韓の地では張良が始皇帝を襲うが失敗し逃亡
次の時代への物語が始まるー
>>285 いや、俺はキングダムについては一度も話してないよ。
もちろん、歴史の話。
史記がそもそも歴史物語的な記述だからこうなっちゃうんだろうけど、
どの将軍が強い、どの将軍が弱いなんて話はちょっとアレだよな
しかし、章邯もツメが甘いな。
蜀の桟道が焼き払われた後も、陳倉の間道が残っている事に気が付かなかったのか?
章邯らしくないな。
その頃はもう章邯の残りかすだからな
それでも粘ってたけど
>>290 三国志厨より
武最強 呂布
知最強 孔明
秦の天下統一が決定的になったのは昭襄王の時代か。
何せ、在位55年だからな。
この人が即位するまではただの弱小国。
死去した時には中華の西半分を制していた。
陳倉というと、孔明さんがカク昭を攻略できなかった土地ですね。
管中楽毅に匹敵するとの話が劉邦にも伍しないという・・・。
>>294 弱小ではなかったろ
それまでは斉や趙がブイブイ言わせてて昭襄王の代に統一フラグ立ったのは確かだが
だって劉邦は将の将だぜ。人物としての格が違う。っつうのが漢の公式見解
秦代の咸陽の人口ってどれくらいやったんやろか?
やっぱ40〜50万あたりか
>>295 孔明さんは偉大な政治家であると同時にへぼ将軍だからな
韓信の見解だろ。まあ漢の公式見解に劣らない重みはあるかもしれないが、リップサービス&負け惜しみな感もあり
>>298 秦は超重農主義だから都市人口は多くないんじゃね
というか城壁なかった気が
>>298 もうちょっと少なそうな気がするなあ
斉都の臨し50万とか趙都の邯鄲30万(で繁栄してたんだよ)って話は聞くけど咸陽は聞かないし
ただ統一後はそれぐらい行ってるかも
陳倉ならスルーして長安いくべきだったろ。<孔明
むしろ、この時代は臨淄・下都の方が人口多いだろうな
今の邯鄲人口八〇〇万人超えている。大阪市よりよほど発展している。
>>296 孝公・恵文王のあたりから秦は台頭し始めてるよな。
決定的になったのは昭襄王の時代、完成したのが始皇帝の代。
郡県制は時代の最先端という訳ではなく、他の国でも行われてたよね
信長の諸政策みたいなもんだな。発明したわけではないけど初めて大々的に施行したという。
>>308 それだと、秦代の咸陽は漢代の長安より人口多いという事になってしまうが。
>>310 漢は副都・洛陽をこしらえたしありえなくはない。
咸陽に50万人以上もいたかどうかは不明だが。
>>304 燕は人口のほとんどが都市内に居住したんだっけ
ケイの人口が臨シ並みって話は信じ難いけど
秦は名君が長生きし、暗君は早死にしたからな
ほぼ連続して名君が続いた事で、順調に勢力を拡大し統一まで辿り着けた
>>307 エジプトくらいだな、ペルシャは首都だけ
戦国時代の中国調べるとどうしてもその後が退化したように感じる
春秋戦国時代は優秀な人物が多すぎるからなー
止め処なく優秀な人物が現れる
>>315 どの地域でも鎬を削った時代の政治的軍事的な進歩は凄いよね
技術や学問は平和な時代でも確実に進歩してるけど地味だから印象が薄いし
>>316 小説や漫画顔負けな面白エピソードが大量生産されたような時代だしな
脚色も皆無じゃないんだろうけど
319 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 18:59:43 0
>>294 巴蜀を併合して時からは、むしろ強国と言える
恵文王の時代な
日本も最近は衰えているからな。中国と戦争すれば再び精強の国になるよ。
>>321 それはそうなる場合が多いだろうな
自然社会が実力主義になるだろうから
楚は面積デカい割に弱いよね
南半分は楚の領土なのに
楚の全盛期は春秋時代だろ。晋と中原の覇権を争ってた時代は、まさに冷戦期のソ連のような恐怖の超大国だった。
面積広くても、山ばっかりで使える土地は狭かったんだよな。>楚
326 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:10:10 0
>>317 日本だって戦国時代が一番人気があって面白いじゃないかww
大河ドラマでも人気があるのはたいてい戦国
最も戦国ばかりだとネタが尽きるから、その幕末動乱期も
やっているけどww
幕末動乱期は、資料が残りすぎているからクレームのアメ嵐で
いろんな方面に配慮しまくるから、面白くなくなるww
例えば、去年の坂本龍馬でも、岩崎弥太郎が貧乏たらしすぎると
三菱関係者からクレームがついたらしいからww
中国だって似たようなものじゃないかな
中国の戦国時代だとわりと自由にあちらの学者とか一般人も
面白おかしく話しているけど、
これが民国動乱期、毛沢東の時代だといまだに喋りすぎるとやばいのでは
ないかな。あの時代でも結構面白いし、毛沢東語録なんか
文学としてもう少し評価されてもいいくらいなのだがなぁww
>>325 平地も広いだろ
何せ、長江流域独り占めだぜ?
>>324 戦国時代に入っても、越を滅ぼしたりして領土拡大してますぜ
329 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:18:14 0
戦乱期ともなれば君主の数も増えるし、それだけに優秀な人材の需要が増えるからね。
韓信って一度斬刑にされかけたんだよな
その時は自身の訴えで何とか助かったんだが、二度目は助からなかった
「共和」は西周時代に共和という名前の人が居た事から、そう言われるようになったんだっけ。
>>331 空位時代に百姓が団結して合議で政治を行ったことが由来
もちろん「共和」「百姓」の意味も現代とはかけ離れてるけど
>>326 治世は面白みが無いからなー
乱世の方が人気が高いのは必然かと思う
まー江戸時代とかパックスロマーナとか宋代とか、文化史ではゾクゾク来るようなとこあるけどな。
勢力図の推移を見るのは楽しいな。
特に目まぐるしい時代なんかは。
>>325 土地も広いけど、人が住んでないからなw
文字通りスカスカ
337 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:49:01 0
>>336 あの時代だと湿地帯の開発がうまくいかなかったのかな
戦国の日本と比べても土木の技術はあったと思うのだが、
みんな病気でやられていたのかねぇ
単純に昔の農民も田舎には住みたくなかったとか
つうか楚王自身「楚は蛮なり」といっているが、楚自体も山間部のまつろわぬ民の統治には苦労して
生産性はひくかったのでは。
後世の孫権時代でさえ山越対策にあれだけ国力と人員さいているんだから当時は尚更では?
ロシアやカナダみたいなものだと思う。領土は広大だか、官吏はすくなく土地の収益性も低い
ただ、後背地は莫大だから大祖国戦争なみに進行されても李信に対して反撃できる余力はあった。
だから王翦は圧倒的な兵力でないと駄目だと感じてはいたが、そのまま秦王政に進言しても
警戒されて粛清もありえると読んだので李信の20万人発言に口を挟まなかっただけだろう。
仮に20万人で攻略出来ればそれはそれで構わないと踏んだとも思われ。
人が住んでないわけじゃなくて、漢化されていない諸族がすんでいたんだろうと。
面積は中華全土の4割ぐらいあるけど、人口は中華全土の1割ぐらいだよな>楚
呉起が楚は冗官や封建領主が多過ぎると言ったけど
人口希薄で仕方なかったのかもな、湖南省なんて中原の1/10くらいの密度だし
>>341 国家が把握している人口がでしょ。<楚
まつろわぬ民全然含んでないから。
ゲリラ戦には最適な地形だよな。
異民族対策にも手を焼くはずなのに、何故領地としたのだろうか。
無いよりはマシだったんかな。
八王、永嘉の乱で北方の連中が逃げてくるまでは華南はおさめづらい土地だったからな。
秦や漢も十分に支配したとは言い切れない。 呉の時代どころか、
清朝になっても苗族など異民族対策に長城つくってたぞ。
、ヾ'"''; /ゝ
ミ 彡 wWw _/´ `ヽ ビクッ!
ミ 彡 、ヾ ヾ/ ,! Σ
. ミ ミ ミ ゝ o, oミ
ミ ミ ミ `ミ __,xノ゙
ミ ミ ミ ミ ヽ.._,,)))
ヾ、 ! ミ i
´"'`、 ミ ヽ. 、ゞヾ'""''ソ;μ,
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ミ ミ
彡 ミ
/ソ,, , ,; ,;;:、ヾ`
347 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 20:11:28 0
>>339 20万だと、戦闘で勝つ事が出来ても、戦略で勝ち切るのは難しいよな
あれだけ広大な楚領を20万で支配するのは無理
逃げようと思えばどこまでも逃げれるし、こちらが手を引けば反撃してくるし
>>345 秦漢の時は表面的な支配だな。
山奥の隅々までは支配し切れていない。
>>343 後漢〜西晋代になると3割まで増えてるんだよな。
これは華南における人口把握数の増加と見るべきかね。
350 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 20:22:56 0
項羽も長江より南に渡る事無く、自害したよね
>>109 >楚人の上層部は苗族
いやワタシは、苗族の上層部が楚人なんじゃないかと思っている。
苗族で項氏を名乗る人が多少いる。
楚と苗の包含関係は、はっきりしない。
ただ、ミャオヤオ語族の言語は客家語と逐語訳が可能らしい。
沛の劉邦も楚人。
まぁ、楚人と言っても、楚から見れば沛なんて北の端なんだけどね。
つか、春秋のころの楚は長江中流の国だけど、戦国には中原の国に変質してるしな。
客家族は漢民族+苗族って感じなんかな?
>>345 前漢の時代には、貴州省や雲南省南部には夜郎国というのがありましてな。。。
その後は、雲南省北部の南詔・大理のように、しつこくしつこく復活はしませんでした。
夜郎は越(タイ)系の民族らしいのですが、苗ではない別の民族に支配されていたのかもしれません。
なんか和夷とか出てくるのも雲南省南部なんですが、今でいう何族なのかはっきりせず
和人(日本人)であるとか、ハニ族であるとか空想の世界なのです。
>>355 拓跋や羌などの五胡族の影響がない言語ということだけが共通ですが
まだはっきりわからんことが多いのです。
>>356 しかし、雲南省南部の人に「和夷」って呼称を使うのも変だよな
和はともかく、「夷」は東夷の「夷」だろうし
雲南省の位置なら南蛮の「蛮」を使うはずで
>>352 最近の研究では劉氏は楚人ではなく北の方から戦乱を逃れてきたものどもで
楚人ではないらしい。劉氏自身はどう思っていたかはしらんが。
仮に楚や西楚が天下統一していたら、漢民族ではなく苗族≒楚人がその後の歴史でも中原、中華を支配していたかもしれんな。
いろいろな意味で項羽は苗族にとって万死に値するな。
361 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 21:00:37 0
>>295 蜀から北伐を成功させたのは、後にも先にも劉邦軍(韓信)だけだからね
韓信の秦嶺越えは、ハンニバルのアルプス越えに似てるよね
中原支配は無理な気もするなー
やはり鮮卑拓跋や大元ウルスのほうが、政治はうまいんじゃないのかな?
>>354 荘王が春秋五覇の一人に数えられた時はまだ漢化してないよな。
>>361 関中が三秦という形に分割されていたことも大きかったんではないかと。
項羽も秦の復活を警戒していた為、地方政府に充分な権限を与えなかった。
>>362 項羽の政治ベタは、決して彼が特別に政治ベタなのではなく、楚人は全員ああいう感じなのかな?
逆に考えると高祖の先例があるから、蜀漢の北伐を都督雍涼諸軍事の司馬懿はもちろん研究済みだろう。
陳倉の間道を行く奇策は一度しか使えない代物だ。
楚が自分でどうこうできるなら汨羅江に屈原が身を投じる事はなかったと思うがね。
>>364 項羽の以外の封土はみんな細かく分割されてるんだよな
仮に項羽が関中王になっていたら詰んでただろうね
>>366 間接アプローチってやつだな。
強い項羽軍主力を避け、弱い諸王国を先に平らげる。
劉邦とそのブレーン達の戦略眼はほんとにすごい。
あの時代はまだ華北が中華の中心だからな。
>>364 抜け殻のような章邯に大封と、大軍与えたら
水を得た魚のように復活するだろうな。
で、項羽を間違いなく殺しにいくな。
>>360 楚人は中国人だけどな、言語も文化も違う苗族とは隔たりが大きい
>>365 政治が上手なら南北朝のどさくさに各地の「蛮」をとりまとめ
北魏と外交やって承認してもらうとかやれたはず。
六詔・南詔や南越後継(大漢, 南漢!?)にできて、なんで苗にできないのか?
十国の楚も白族に主導権とられちゃうし、何かダメなんだよね。
374 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 21:23:57 0
関中を取ったモン勝ちでしょうな
最初、関中は三つに分かれていたし、これ(関中)を統一して手に入れたモンが勝ちよ
項羽はそれを自ら捨てたわけだ
明治政府も漢と同じことをしているな。征服した江戸に都定めて改称し、(土地が狭いから咸陽郊外に長安こしらえる芸当は無理だったが)
東北諸藩の出口を貫抜のように塞いで内乱の芽を積んでる。
明治政府はよく中国の科挙を新学制に応用するならいろいろと細かく研究しているな。
多分吉田松陰の松下塾あたりから結構突っ込んだ話合いをしたんだろうな。
項羽の楚は、軍閥の寄り合い所帯からなかなか脱皮できない国民党みたいな感じかな。
共産党は軍閥を切り崩して兵力を増やし、国民党を追い詰めていった。
弱い己が強い敵に勝つにはどうすればいいか。
楚は呉起の活躍を台無しにした時点で終わってるよ。
蒋介石も結構無能なんだけどな。孫立人や龍雲などを粛清したり、地方の半独立政権においやったりしてる。
あの男、毛沢東に負けず劣らずアレな所あるよ。
>>374 劉備も着眼点は良いのだが、肝心要の荊州を関羽ごと喪って劉備天下統一の夢が儚く消えました。
>>366 てか、400年後の三国時代になっても、陳倉の間道しかルートが無かったん?
>>371 問題は秦の民が章邯に付いて行くかどうかだな・・・。
民忠は低いと思うし。
>>381 いやあくまで奇策。他にも路はあるけれども、韓信や陳平のやり口は魏は当然想定しているよと
そういう話。
だから一度しか使えないとはそういう意味。
裏の裏を突けば良いかもね
劉邦が章邯やらなかったら、章邯が項羽追討の戦いに加わっていたろう。
項羽かばう理由がない。むしろ強い恨みがあるはず。その前に劉邦に滅ぼされたから
できなかっただけ。
蒋介石はイケメン(若い頃)で大虐殺してないだけまだマシかと
>>379 いや、非力な知識人の集まりだった国民党を、ボリシェヴィキ風に改造し、直轄軍を興した。
なかなかの戦略家だと思うけど。
だけど、農村を背景とした共産党と比べると、資本家を支持基盤とした国民党は弱々しかった。
>>376 同時期ならハンニバルに似てるよな。
ハンニバルも項羽同様、戦闘では勝ち続けたが、それでも戦略で徐々に追い詰められ、最後の最後に負けた。
垓下の戦いとザマの戦いは同じ前202年。
ハンニバルの最後はカルタゴ上層部がクソすぎたからだろ。
胡亥や趙高みたいな手合いはどこにでもいるからな。
>>388 諫言して殺された去疾、李斯、馮劫よりはマシだろう、報われないけど
カルタゴ指導会も援軍送れば良かったのになお陰で民族皆殺し、万死に値する
393 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 21:45:08 0
>>388 章邯は秦兵を見殺しにして王になったとは言え、秦の民を見捨てた訳では無かったんだろうけどね。
紀元前202年はカルダゴ人と楚人が仲良くオワコンになった日か。
>>380 戦略の要、荊州とはよく聞くが、そんなに重要だったんかね?
他の時代ではさほど重要視されてない気がするんだ・・・
三国が接する地点だからだろ。現代の朝鮮半島みたいなもんだ
見殺しといってもジェノサイドされたの不意打ちで章邯が寝てる間だしな
朱元璋の肖像画といえば三谷幸喜似のやつがあるな。それが理想化されたものらしいw
>>386 蒋介石が台湾でやらかしたアレをどう思うのかと
共産圏はよく写真の修正加工をやるよ。フォトショップ誕生何十年前もからな。
荊州を獲得する事で、他の2国への牽制になる
三国時代だからこそ機能する戦略の要
温和で知的。まさに君子じゃないか、三谷幸喜。
405 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 21:54:27 0
映画非情都市で台湾の戒厳令下の非道詳しいよね。
国民党もなかなかのクズ政権やで。
ハンニバルは戦略眼も無くは無かったぞ。ローマがあの時代にはそぐわない変態国民国家だっただけで。
>>385 章邯も劉邦に素直に降伏すれば良かったのにね。
やっぱ、自分自身の手で項羽を叩きのめしたかったんだろうか。
>>408 降伏で一度地獄を味わったからもう二の轍を踏みたくなかったんじゃない?
410 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 21:58:43 0
>>402 それでもソ連と中国では趣向が違うよww
ソ連の場合は修正したことすらわからないように装うし、
百科事典まで回収してまで装うけど、
中国の場合、消したなら消したとわざわざ消した人物のところを
空白にした写真をばら撒くし、百科事典もいちいち回収はしない
>>396 南宋と金・元の係争時は襄陽が南宋にとっての命綱、最終防衛ラインだったよ
他の時代でも、長江中流域の最大の軍事・経済拠点かと
そういやあ、蒋介石の一族って、息子も孫もなかなかのイケメンだったな……
置かれた状況は項羽とハンニバルが似てるけど、個人としては韓信とハンニバルの方が似てるによね
>>408 多分、漢軍内部で検討して「滅すべし」と結論だしたんじゃね?
韓信や彭越や英布などを後年排除する劉邦にすれば項羽に匹敵する
事績を持つ人物をこれ以上抱え込んでも扱いきれないと踏んだのでは。
項羽の楚と同じくらい、章邯が本気出したら勝てるかどうか・・・。
項羽が下すまで無敵だったしな。
>>409 んー、章邯は劉邦が関中入りした時の対応を知らなかったのかね。
それとも、もう既に冷静な判断が出来なくなっていたか。
>>410 草つけて人を見下すのやめろ気分悪いな。
キューバだってオチョワ将軍が不審死すると居ないように小細工するし
ケ小平の顕在示す写真のようにいちいち河をおよいだ写真を掲載するなど
結構いろいろしてる。
現代史と古代史が重なって見えてくる感じが中国史の良さだね
>>413 ひ孫が広告会社を経営しているって聞いた
>>411 東晋も長江を防衛ラインとして、淝水で前秦を撃退したよな
前秦は烏合の衆だった事も有って、容易ではあった
>>411 そりゃあ、嫁が美女で知られた宋美齢なんだぜ。
イケメンになるの当たり前。
同じ美齢でも日本にいるのとは大違いだな
>>414 韓信が既に居るし、劉邦とって必要無いと言えば必要無いな。
韓信は案外マヌケだったから粛清できたが、章邯は上手く粛清できるかどうか分からないし。
項羽は力技で撃破したしな。章邯も項羽ほどでないにせよ、事績考えると相当なチート武将で
天下統一後の事を考えると危険人物だわな。
でも章邯は保身うまそうだな
逆にあんまり出しゃばらないのかも
425 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 22:15:17 0
>>419 淝水って荊州では無いだろ。
准南あたり。
>>412 ハンニバルは韓信みたいに粛清される事は無いよ
そこら辺はハンニバルのが上手
427 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 22:19:54 0
>>426 もしハンニバルが中華にいれば、結局日本に逃げて
天皇として君臨したのかねぇ
でも、ハンニバルはローマ(スキピオ)に戦術をパクられて負けたよね。
>>426 いや、カルタゴを追われ、シリアで粛清されましたが・・・
イベリアの植民地と子飼いの軍という政治的資産を失ったハンニバルは、カルタゴで権力を握れなかった。
>>429 ハンニバルの死を「粛清」と呼ぶのは、語義的に間違っていると思うが
章邯って本当に強いんかな?
相手が農民だったから勝てたような気が・・・
韓信は冒頓単于に投降することで粛清を免れた。
>>431 項羽と韓信以外には全勝してると思うんだが。
>>432 韓信なら匈奴に亡命した後も、匈奴を乗っ取ろうとして失敗して粛清されそうだな
>>430 たしかに。
ただハンニバルは議会や宮廷では上手く立ち回れなかっただろうと。
そういうところは韓信と同じだろうね。
韓信は冒頓に将軍に任命され漢を相手に戦い戦死したという。
437 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 22:33:39 0
王翦は軍人の割に保身上手いよな。
秦王政が粛清しなかったのも、王翦の保身の上手さからか。
60万という大軍を王翦に任せた秦王政の度量も褒められるべきとは思うが。
というか、始皇帝って功臣を粛清した例なくね?
>>434 匈奴に亡命した盧綰の孫なんかは匈奴で左賢王になったそうだ。
どの程度の地位かはわからんし、漢に帰順したが。
呂不韋とか樊於期とか
漢に帰順するより匈奴の方が待遇いいじゃん。
見たことのない祖国に望郷の念でも沸いたか?
>>437 周勃も劉邦の粛清から免れているぞ
武官だが
444 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 23:01:40 0
盧綰の孫って匈奴の東胡王だったような・・・。
でも子の周亜夫はもっと悲惨だったな。呉楚七国の大乱防いだのに
罷免され最後は餓死なんだぜ。
周亜夫は警戒されたというより意見の対立で失脚させられたな。
景帝も感情的な所が有るからなー。
呉王の太子と口論になってSATUGAIしてしまっているし。
447 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 23:10:34 0
反感を買われるような事をするから余計<周亜夫
要は景帝の殺人が遠因の乱の後始末で最後に餓死だろ。
景帝が全部悪い 呉への削減通告もその時の確執が念頭にあってのことだろうし。
ある意味劉邦の遺伝子というか性格、方針を見事に受けづいているな<景帝
漢の基礎を固めたという意味では評価できるがあまり好きではない。
451 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 23:16:16 0
>>449 成り上がりと、生まれつきの王様の違いかねぇ
誰かが言っていたけど、
「王は何回負けても王様だけど、わしらは一度でも負けたら反逆者として
処断されると」
>>448 そこら辺、文帝は景帝と比べて度量が大きいよね。
景帝は劣化文帝というか、文帝の二番煎じみたいな感じ。
ただ前漢の基礎を磐石にし、三国時代の群雄や光武帝を後世に生み出す種馬としては良い働きをした。
454 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 23:21:39 0
文帝、景帝、武帝と徐々にクオリティーが下がっていくよな
中興の祖・宣帝で持ち直したが
名君っちゃ、名君なんだよな。
人間としては褒められた事では無いが。
赤ん坊の頃は奴、幼少期はスラムのクソガキ、長じては庶民、末は皇帝と出世魚のような人だからな。
なんかドラクエみたいなやっちゃな
庶民かと思いきや、実は皇族だったという
458 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 23:33:48 0
>>451 生まれつきの王様が功臣を粛清すると碌な事にならない。
(例:趙の幽繆王、北斉の後主、明の崇禎帝)
勿論、奸臣はガンガン粛清するべし。
奸臣と功臣の違いは一般ピーポーには判然とし難いよねっていう
こう‐しん【功臣】 国や主君に功績のあった臣下。
かん‐しん【×奸臣/×姦臣】 邪悪な心を持った家来。
両方に当てはまる場合も有るよな
実力は有るけど腹黒いヤツ
462 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 00:00:03 0
韓信(かんしん)=奸臣(かんしん)な件について。
>>461 でもよー、人は誰しも邪悪な心を持っているし、区別するのは難しいよな
程度が違うだけでさ
>>462 現代日本語では同じ音になってるけれど、戦前の仮名だと、関は「くゎん」、漢は「かん」
現代中国語の音をウェード式の横文字にすると、関はkuan、漢はhan だから、
声調は、関は平声、漢は去声なので、随分と違う音のはずだ。
という解説がまた飛んでくるぞw
>>443 周勃は丞相になってるよ。
軍才だけでなく、知略もそれなりに優れていたかと。
>>463 そういえば、陳平って粛清はされなかったけど、兄嫁に手を出してるんだよね。
>>278 発案から実行までというか、失敗して実現できる再チャレンジまでというか、350年もかかってるわな。
350年待ったから上手くいった、350年前から実現を見越して動いていたわけでもなく、たまたま、大領主がみんなして
困窮していて版籍奉還を望む、いちばんデカい領主まで行政権まるごと放り出したタイミングだったから上手くいっただけ。
>>284 李斯って、扶蘇を自殺に追い込むのには消極的だったんでしょ?
胡亥・趙高にノせられて成りゆきで
後に李斯も趙高に失脚させられてるし
>>466 ちなみに、明治維新の350年前に失敗した廃藩置県は、後醍醐天皇の建武の親政な。
勅もなく天皇が廃位される、上皇が謀反人として島流しになる、ホンモノの天皇が誰だか60年も判らなくなる、
臣下の身分の足利将軍が日本国王を勝手に名乗って明国に朝貢する、というような大混乱に陥った。
信長が天下取ってたら全領土が直轄地で郡県制みたいな代官に各地方を治めさせる中央集権制に移行してたのかな
>>469 ?
信長はむしろ既得権を保護し、社会制度の改革等で無理をしないで、領地拡大の速度を
維持したわけだが
むしろ、後北条、今川といった大名の方が、領国行政システムの改革・構築に熱心だった
信長が天下取ったら50年くらいで分裂してた気がする
日本は無くなって、九州国、四国国、中国国、大阪国、岐阜国、東海国
鎌倉国、関東国、陸奥国、越国みたいな感じで分裂だな、うん
472 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 00:46:52 0
三世皇帝子嬰は徳川慶喜に似てるような。
>>467 名宰相李斯ですら、趙高に追い落とされたんだよなあ
それを取って返した子嬰は凄い
子嬰が始皇帝の後を継いで居ればね・・・
>>374 でも当時、項羽に咸陽を焼き払われてしまっているし、関中に圧倒的な優位性は無いと思う。
やはり蕭何・張良・韓信が居ての打倒項羽でしょう。
※阿房宮は一部しか焼けておらず史記の記述に疑念がある件。 項羽は本当に咸陽を焼き払ったのか?
なんかあやしいんだよなー?
どうなんでしょうね。
劉邦はあの直後、新都長安を建設しているからなー。
477 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 01:14:49 0
項羽が焼いたのは咸陽宮
咸陽近郊に長安を造成したのはたしかだけど、「焼き払った」のが原因とは限らないぜ。
中国のみならず大陸だと街そのものを捨てて郊外に新たな街を造成する例珍しくない。
敦煌なんか有名だろ。時代ごとに街そのものの位置がちがうというか、まるごと作り直している。
2004年からの発掘調査で阿房宮は焼けていないことが判明している。
481 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 01:24:35 0
ってか、当時はまだ阿房宮完成してない
兵馬俑も項羽が発見してたら一体一体叩き割ってそう
美女一万人収容したんだっけか。
俺は美女一万人もいらない。毛の生えていない子10人ぐらいで満足するよ。
>>482 まとめて生き埋めにするのも有り得るな。
あの人なら。
485 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 01:36:10 0
>>474 そこで、蕭何の政治力が発揮される訳だ
アウェーの戦いでも、兵站に関しては、常に項羽に対して優勢だった
56万人分の食糧を支えるってスゲーな<蕭何
>>486 実数1/4だったとしても14万か…………
劉邦が漢中を経ってから、たった1年で西楚の首都・彭城まで来てるんだよな。
489 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 01:48:56 0
この時に劉邦はまたやらかしてる>レ○プ
>>487 勝った側の兵数は少なめに、負けた側の兵数は多めに伝えられるのか。
例え、最終的な勝者が劉邦でも。
491 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 02:05:02 0
でも垓下の戦いでは勝った劉邦軍の兵数が項羽軍より多いとされてるよね
彭城の戦いの兵数も割と実数に近いなんじゃない?
そもそも、戦いでは逃げる兵だって居るんだから、正確な数は誰にも把握出来ないんだよ。
遠目から見て何となくな数を記してるんでしょ。
んで、自分のオキニの勢力は少なめに、嫌いな勢力は多めにしてるんじゃねーの。
じゃあ、司馬遷は劉邦軍を多めに、項羽軍を少なめに書いてるんですね
わかります
494 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 02:24:08 0
>>243 確かに猛スピードで統一しているが、ヘタしたら項羽に殺されてたかも分からんからな。
ギリギリの所を綱渡りし、且つ軽快なテンポで渡り切ったって感じかな。
劉邦は三重人格だかんなー
>>373 苗族とか白族の違いがワカンネェー
あそこら辺(江南)の異民族はグチャグチャというか、カオスで
実は一緒なんじゃねぇの?
と思ったり
497 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 02:45:23 0
でも、章邯は韓信の罠に嵌められたけど、あっさりやられたというわけでも無いんだよね。
三秦の中では一番長く抵抗しているし、このせいでなかなか劉邦軍は項羽軍に対して本腰を出せなかった。
498 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 02:46:04 0
■通州事件…盧溝橋事件発生から3週間後の1937年7月29日、
北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した■
其の五
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1 (衝撃的な内容ですので、気の弱い人は読まないでください)
そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。
そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。
一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。
そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。沢山の日本人が殺されています。いやまだ殺され続けているのです。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100915/p1
>>497 まぁ、だからこそ章邯はそこら辺の雑魚将と一味違うって事なんだが
>>74 漢武帝=トラヤヌス
漢宣帝=ハドリアヌス
501 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 03:00:12 0
>>465 陳平は漢三傑に劣らぬ活躍をしているが、何ゆえ三傑に入れてもらえなかったのだろう?
兄嫁とまぐわったからだろう
後、張良の影に隠れてる感じがするな。
陳平が途中参加だし。
ん?
それを言うなら張良・韓信も途中参加だろう
確かに参加時期は陳平の方が遅かったけど
505 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 03:11:50 0
>>486 蕭何は食料支援だけでなく、戦力支援もやってるんだよね。
>>331 共公と和公が協力して、という説もある。
>>465 >軍才だけでなく、知略もそれなりに優れていたかと。
陳平に虚仮にされてるけどな。
蕭何と曹参みたいな感じだな
陳平が蕭何で、曹参が周勃
ミスった
陳平が蕭何で、周勃が曹参
蕭何は何気に怖いだろ。用が済んだ韓信を誘殺しているんだから。
510 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 03:29:52 0
蕭何は自分の事で精一杯だったんじゃねえの。
もし、韓信の処刑に否定的な意見を出したら自分の身も危ういし。
何気に、曹参・夏侯嬰・灌嬰らも高祖に粛清されずに生き延びてるんだよな
夏侯嬰は御者しかしてないから反乱とか起こさんだろ。
夏侯嬰は劉邦に突き落とされた子供を拾ってやるくらいだからな。
信頼されていたんだろう。
しかも命掛けでさ。
515 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 04:00:09 0
ってか、劉邦に粛清されたのは少数だろ
多数は生き残ってるわな
>>99 関中・巴蜀の生産力は肥沃な土地では有るが、項羽にそれ以外の地域を完全に抑えられるとジリ貧に陥るだろう。
前漢代(宣帝時代)になると関隴・蜀地方だけで中華全土にある富の六割は集まっていたと聞くが。
思ったんだが、陳勝・呉広の乱や楚漢戦争の戦力って、春秋戦国に比べて落ちてないか?
春秋戦国だと、各国数十万〜百万の戦力も持っていたのに、統一王朝の秦や覇権を握っていた西楚の兵力はちと少なすぎる
あんだけ戦争していたらそりゃ人口も減るだろ。
戦乱期だからこそ兵数が多い。
統一期に大兵力を養うのは負担が重すぎる。
だから徴兵する暇の無かった章邯は罪人らを起用した。
楚漢戦争の時もあまりに自体が流動的すぎて徴兵する暇が無かったんだろう。
勢力図が膠着気味になって初めて徴兵が出来る。
520 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 04:29:21 0
>>518 白起が一夜にして40万人アボーンしたしな
白起は生涯で約100万人殺しちゃってるよ。
1人殺したら殺人犯だが、万人殺したら英雄視されるんだな。
むしろ、秦の民にとっちゃ英雄なんだろうな
但し、項羽に同じような事をされた時は、もの凄く恨んだらしいが
そういえば、邯鄲ってすごく栄えていたらしいけど、近代どころか、復興してきたのこの2,30年ほどらしいな。
それまでは単なる地方都市として処遇されてきて全く歴史の表舞台からは消え去っていた。
もっとも全部が全部白起のせいではなく、趙征服時に政が人質時代に冷遇してきた一族郎党ごと生き埋めにしたりした
せいもあったんだろうけど。
しかし、秦の民って漢の撫民政策もあって、咸陽郊外に長安築かれてからは漢の民化しちゃって
すっかり秦のアイディンティティって根こそぎなくなっちゃたな。
まだ他の6国だと結構長いこと民間レベルとはいえ燕人張飛ダァーとかいってたのに、
俺は秦人だとか自称する人聞かないな。
526 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 04:49:35 0
邯鄲は元々(春秋戦国時代)、中華でもトップクラスの都市では有ったが、秦漢以降は微妙だな
前漢の間はまだ良かったが、後漢以降は完全に空気化した
>>525 郡国制を取っていたから、旧秦以外の住民はまだその意識が残っていたんだろうな。
旧秦は漢の直轄だから、秦→漢になってしまった。
日本でも「○○(地方)出身」とか言うよね
それと似たようなもんじゃない?
529 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 05:06:37 0
韓信は自身の権力欲が裏目に出たな。
自分で自分の首を絞めた。
王になってもまだ物足りなかったみたいだけどな(笑)
どこまで行けば気が済むんだって話。
粛清に全く気が付かないなんて能天気な奴よ。
なぜあなたは,兄弟の目の中にあるちりは見えるのに,自分の目の中にある丸太のことを考えないのか。
前後して彭越や英布も葬られているからどの道粛清する気マンマンだろ。
r劉邦に粛清されたのは生かしてたらほんとにヤバそうな外様のやつ中心
韓信もなんだかんだいって途中参加のぽっと出だからな
533 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 09:03:46 0
>>525 そうでもないよ。現代の陝西・甘粛人には「西戎」のアイデンティティがあるみたいだ。
三国志の時代でも、秦人とは呼ばず、周囲が「西戎」と呼んでいる。
534 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 09:30:40 0
>>529 韓信は、結構、学があって古典とかいろいろ読んでいるような形跡が
あるのだけどなぁ
最後に首を切られるときも、昔の人が「走狗煮られてウンヌン」
と言ったとおりだったとぼやいているみたいだし、
余程、劉邦の人柄にほれていたのか?
535 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 09:46:48 0
劉邦は殺したのを呂后のせいにしているが、
本当は自分の意志で殺している。
明の朱元章と並ぶ極悪人。
536 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 10:11:21 0
>>496 苗は民族移動をした客民、白は遊牧系
言葉はお互い全く通じない
南方少数民族史スレがこの板にあるよ
>>525 秦や楚のアイディンティティって、意外と滇王国やら南粤王国の支配者層に残ってたりする。
楚の荘蹻将軍やら秦の趙佗将軍なんかを正統性の拠り所としている。
7世紀の倭国には秦王国が、3世紀の韓国南東部には秦韓国があったようだが。
>>529 韓信はそんなに権力欲無かったと思うけどなぁ。
ただの世間知らずだろう。
カイ通の言うとおり、天下三分してればよかったのに、
それを断ったのが基本お人好しな地が出ちゃったところだろう。
まー、そこら辺の判断は甘いよね
戦闘中ではそんな失態犯さないのに
541 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 12:26:55 0
韓信ほどの活躍なら一国の王になってもおかしくは無いと思う
権力欲がよほど強ければ蒯通に誘われた時点で独立してるだろうし
韓信は戦闘以外は何の変哲もないパンピー
故郷に錦を飾りたいと思い人並みに出世を望み
人並みに慢心したけど
人並みに劉邦に感謝してたのでカイ通の勧めを断り
疑われて人並みに恐怖し謀反を企み
人並みに計略に嵌められて斬られた
>>534 色々名言残してるよね。
他にも項羽の事を「匹夫の勇」「婦人の仁」と評していたり。
最初に劉邦からあぼーんされたのは誰なん?
546 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 12:48:32 0
一番最初に粛清されたのは燕王臧荼。
でか、コイツのせいで韓信も疑われるようになり粛清された。
臧荼は反乱を起こして粛清されとるからな
粛清されたというよりは戦死やろうな
まぁ、韓信があぼーんされるきっかけを作ったのは確かやけど
一番最初の粛清はやっぱ韓信やろか
そういう意味では不利やな
韓信にとっては前例が無かったわけやし
おまいら酈食其を忘れるなよ。
確かに活躍は英布・灌嬰・臧荼並に乏しいが。
あの(沛)頃の劉邦はどこへ行った・・・
550 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 13:12:53 0
韓信は反感を買いやすいナルシストでは有るが、それが原因で劉邦が粛清されたわけではないだろう。
でも、統一後も使い道はあったはず。
冒頓単于との戦いに使っていれば・・・。
韓信てナルシストか?
謙遜する面もあるだろ
総大将 韓信
副将 章邯
これで冒頓に勝てる
部隊長に項羽を使えたらさらに勝率上がるんだが現実には項羽が漢に降って登用されるなんてありえないしな
戦術・戦略的な思索に耽るイメージがナルシストに感じる人がいるんじゃない
韓信は(率いる兵が)多ければ多いほど良いもんな。
項羽は人の下に立てる立場じゃないし、韓信がベスト。
555 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 13:37:58 0
戦術だけじゃなく戦略もイケるんでしょ?<韓信
政略はザルだが戦略は一流だな
河北を獲得して、巨大な項羽包囲網を完成させたしな。
統一へのお膳立てを整えたのは韓信。
蕭何は常に兵士・物資の補給を頑張ってるぞー
559 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 13:57:43 0
劉邦の疑心暗鬼は統一前からチラチラと見え隠れしていたんだよな。
>>555 戦略は張良じゃね
韓信は戦術・作戦(戦術と戦略の中間)だろ
561 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 14:15:36 0
戦略眼は微妙だねー。
だからこそ、蒯通に誘惑された時も断り、漢に付いてしまった。
あれはあれで間違いとは思わない
韓信にとってはミスだったというだけで
でもよ、あの状況から独立しても韓信に勝ち目は無いでしょ。
少しでも延命するなら、漢の軍門に下った方が上策。
564 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 14:35:41 0
確かにあのまま割拠したら国力では一番劣るね
でも、漁夫の利を得れば逆転のチャンスは十分有り得る
絶望的でもない
無理だって。
あの男は戦場でしか活躍できない。
項羽と同じ。
だね
まぁ、項羽よりはマシだろうけど
蕭何・張良がいる漢軍には勝てないわ
567 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 14:49:08 0
おいおい、韓信と項羽は全然違うだろ
項羽は猪突猛進、勢いのままに敵を踏み倒すが、韓信は入念に計算して戦いを挑む
いや、そういう意味じゃなくて、戦場でしか活躍できないという意味で同じ。ってわけ。
569 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 14:57:23 0
蒯通が居るし
>>471 信長とか秀吉とかの時分に来航したヨーロッパ人は、大名を「王」とか「公」とかに、
大名の所領を「国」と、解釈していたようだが。
蒯通ってそんなに有能なのか?
張良・陳平には及ばないでしょ。
どっちも張良や陳平に比べてと小物だな。
574 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 15:13:10 0
そりゃ主君がダメだったから仕方ない
范増も同じ
でも、張良はそこらの軍師と違ってチートだと思うんだ。
陳平だって、呂氏粛清で漢王朝を救ってるし。
576 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 15:24:46 0
人材が豊富なのはこの時代までだよな・・・
春秋戦国〜秦末前漢初
まぁ、多少誇大に記されているのかも知らんが
でも負けた側の人物は中々取り上げられないだろうしな
名前だけの萌リ通や李左車も案外知恵者かもしれないし
>>566 曹参も忘れないでほしい
蕭何チームだよ
曹参は途中まで韓信に従軍してたけど、劉邦側なんだよね。
>>576 三国、晋、南北朝時代も人材豊富だよ
国土が荒廃して物事の規模が小さくなってるから小粒に感じるかもしれないけど
581 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 15:34:54 0
後趙の崩壊〜前秦の華北統一(五胡十六国時代の一部)だけで、王猛・慕容恪・謝安・慕容垂・桓温などが居る。人材豊富だわな。
>>577 才能は有っても君主補正であまり評価されない事も有るからなぁ
ハンニバルや項羽は割りと評価されているが
曹参は曹操曹丕と多少なりとも縁がある家系だっけ?
血の繋がりで言えば夏侯嬰じゃね?
曹操の先祖は元々夏侯氏。
曹氏に養子入りしたのでそうなった。
585 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 16:00:39 0
>>582 それは司馬遷が項羽信者かつアンチ劉邦だから仕方ない。
項羽がチンケだと、前漢もチンケになってしまうだろうw
曹参は影薄いけども戦功第一候補だったんだよね
結局、戦功第一の座は蕭何に取られちゃったけど
戦功第二は恐らく曹参
ってか、前漢の相国に就任出来たのは蕭何と曹参だけなんだよな
項羽は実際チートだかんな〜
生涯、韓信以外に負けた事は無いし
戦闘レベルならほぼ無敵なわけだ
っつうか、中国史上最大の名将とも言われる李靖
他にも人材が唐側にも敵側にもうじゃうじゃといる唐初の方が……
590 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 16:23:59 0
樊噲=尉遅敬徳
韓信=李靖
ってわけか。
李靖が雑魚いとは思わないけど、韓信に比べるとどうしても小者に見えてしまう・・・
韓信・張良・蕭何はそれぞれの分野に置いて極められているチートだからさ
592 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 16:36:04 0
李靖は突厥滅ぼしてるよね。
韓信も活躍の場を与えてもらえていたら匈奴を滅ぼせたんじゃねーの。
当時はまだ馬匹が少ないし鐙も開発されてないから無理だろ
突厥滅ぼすとか半端ねえ
衛青・霍去病も匈奴に連戦連勝はしたが滅ぼす事は出来なかった
ましてや、冒頓単于が健在の匈奴を滅ぼすのは韓信でも難しい
唐の場合は初代皇帝(李淵)より2代皇帝(李世民)の方が優秀という事も有って、功臣粛清する必要が無かった。
それに2代皇帝(李世民)が即位した時はまだ統一されてなかった。
功臣粛清していない事で人材も充実しており、対外にも強かった。
初代皇帝や皇太子に近い廷臣が粛清、族滅されてるじゃねーか
597 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 16:54:26 0
人材だけの問題じゃ無いと思うな
>>591 確かに唐は人数が多い分、一人一人が小粒に見えるっちゃ見える
>>594 衛青と霍去病も韓信に比べると小粒だよな。
それに蕭何や張良らに当たる人物がいないし。
この3人が揃って尚且つ匈奴の単于が凡君ならイケるだろ。
600 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 17:03:31 0
蕭何も言うほど保身が上手い訳ではないぜ
劉邦にその人気を嫉妬され、逮捕されてる
まぁ、命は助かったが
>>596 まぁ、有能な配下の多くは李世民側に付いてるからな。
>>600 保身のプロは張良。
蕭何はプロとまでは行かないが常識人だし、韓信みたいに無様な事にはならなかった。
604 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 17:28:19 0
てか、李世民は事実を捏造して、歴史歪曲やっとるから
実際は粛清しまくりやろ
>>601 どうだろうね、早い時期に何度も独立軍閥興されたり簒奪されたり内戦したり
軍事は本人含めて優秀でも、内治に関してはとてもじゃないが有能とは思えん
項羽が咸陽を燃やしたのは間違いない。
阿房宮は焼いてないとしても。
>>605 むー、貞観の治って言われるけど、内政は安定してなかったのかね?
>>581 なーんか、王猛と慕容恪以外は小物って感じだけどな
>>607 強国の突厥を駆逐して漢の最盛期を更に拡張した広大な帝国創ってるけど
武氏に一時期政権取られたり、府兵制は結構短い期間で破綻したり
早い時期に軍閥作られて安史の乱起こされたり
制度的なモノがあんまり上手く作られてない気がする
610 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 17:54:30 0
慕容垂は小物じゃねぇだろ。
確かに韓信には劣る気はするが。
王猛と慕容恪は五胡で一二を争うぐらいの天才だ。
石勒も苻堅も慕容垂も拓跋珪も十分大物じゃん
>>609 少なくとも太宗の時代にそう言った問題は起こらなかったな。
それは、高宗や玄宗に問題が有るんじゃないかとも。
それらの皇帝には相性が合わなかったというか。
614 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 18:06:23 0
石勒・慕容垂・拓跋珪に関しては生きてる間に国が傾く事は無かったな。
でも苻堅は・・・。
>>611 苻堅は王猛が居なけりゃ、ただのカスじゃん(笑)
616 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 18:13:10 0
でもそれって劉邦も同じじゃないか?
要はあの時点で王猛が死ぬのは早すぎたって事だ。
王猛を責めるわけじゃないけどさ。
>>600 違うよ、逮捕された時は劉邦の嫉妬を恐れて、民衆の人気を落とす為にわざと悪政をやってみせた。
芸が細かい。
投獄されるのと引き換えに、粛清を免れたんだよね。
張良みたく隠居するわけでもなく、働きながら粛清を回避した。
619 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 18:26:08 0
>>587 良く言えば、全てに置いて万能で欠点無し。
悪く言えば、全てに置いて中途半端で欠点だらけ。
だな。
桓温も小物じゃないだろ
>>616 苻堅の晩年も劉邦と似て、まるで別人みたいだ
反乱が続出して気が狂ったか
623 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 18:48:49 0
桓温は禅譲を受けるまで後一歩という所、枋頭の退却戦で慕容垂に大敗してパーになってしまった。
曹操タイプかな。
そして、桓温死後に息子が禅譲を受けている。
劉裕は司馬懿か?
なんか劉裕はスーッと現れて、スーッと禅譲を受けたって感じだな。
626 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 19:09:06 0
ところで劉邦は何で冒頓単于と戦う時に韓信を使わなかったの?
この頃からすでに韓信を疑っていたとか?
当たり前だろ。
つか、それ以外に韓信は起用しない理由は無いだろ。常識的に考えて。
628 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 19:18:00 0
>>613 盛唐は色々な問題点が噴出し始めた時期
そういう意味では初唐が一番安定していたのかも知れない
個人的には開元の治より貞観の治の方が繁栄していたと思うし
当たり前ジャン。
だいたい、せっかく太宗に治世に突厥を滅ぼしたのに、高宗〜武則天の時には復活(第二突厥)しちゃってるしな。
この時点で下り坂に入ってる。
あれか
前漢の最盛期は武帝の時代だけど、一番安定していたのは文景の治世ってやつか
631 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 19:40:50 0
李世民ってすげーよな。
文帝・景帝のように国内を充実させながら、武帝のように領土を拡張するんだから。
漢の三傑=凌煙閣二十四功臣
李世民軍団もスゲーけど、これで初めて互角
天才3人と秀才24人か。
でも漢は匈奴に負けてるわけだし。
対外的には唐のが強いんじゃね?(少なくとも初期は)
あ、対外的に唐が強いから、人材でもそうなんかなと。
でも、人材≠軍事力だな。
前秦が大挙南下を始め肥水の戦いが始まろうとする頃と、
アランがフン族に襲撃されその傘下に収められたのが同時期。
フンの進撃は寒冷化の所為だというが、前秦の大挙南下も単に
符堅の野心の所為だけでなく若干は北方の寒冷化の影響があるのかもしれない。
637 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 20:00:29 0
軍事は技術の問題も有るからな
漢武が匈奴を押しまくった理由の一つでもある<技術
>>636 王猛は南下に反対していたらしいが、そこら辺はどうなんやろ?
641 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 20:15:37 0
寒冷化っつても、高車とか柔然はもっと北に勢力を持ってたからな。
>>637 >>639 色んなお膳立てが揃って、初めて撃退出来たんだな。
ただでさえ、冒頓単于が死んで以前より弱くなってるはずなのに。
>>639 鉄器の普及期というか、鉄刀と鉄鎧が普及した時期だな
鉄の農具と鉄兜は戦国初期からあるし
匈奴はまだ青銅使ってたんだっけ
>>642 それほど遊牧民というものは脅威的なのだ
人口は少ないが人口の5割を戦力として使う事も出来る
646 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 20:38:36 0
馬の数を合わせたら結構多いんじゃね?
前秦崩壊の頃に鮮卑の拓跋部が南下した後に
柔然がモンゴル高原を制するという玉突きのような移動があるが、
寒冷化の影響はないのか。
玉突き制覇は匈奴→鮮卑もそうだし、単純に力の空白を突いただけじゃないのか
649 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 20:41:48 0
b
そもそも、五胡流入のきっかけは南下というより、晋に従属していた匈奴が反乱を起こしたからだしなぁ。
それに便乗した形。
この頃、珍しく桓温や劉裕など南朝方が北方を蹂躙しており、
寒冷化による北方の弱体化で相対的に南朝の力が優位に立ったのではないか。
>>643 鎧や刀以上に、鉄の鏃が普及したのが大きい
>>651 そもそも、南半分(東晋)は統一されているが、北半分(十六国)は戦乱中だから、南朝が優位に立つのは必然じゃね?
やはり寒冷化によって農耕がたちいかなくなって
そこへ草木食の家畜を持ち込み搾乳して暮らしていた五胡が
中原に居座った感じなんだろう。
前秦や拓跋はもともと山西/陝西/甘粛にいたんだろうけど
洛陽の河南に入ってきたのは、黄河流域で農耕が寒冷化に
急には対応できなかったのだろう。そこへ草木の牧草を求めて入ってきた。
655 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 20:56:04 0
元は農耕地持って無かったんじゃないかと思ふ
でも農耕地は生産力が高いため肥沃な土地を求め南下したいと思っていた
しかし南下がなかなか上手くいかないのでチャンスを待っていた
そのチャンスが八王の乱・永嘉の乱だったと
五胡って、それ以前から徐々に中華の内部を蝕んでいたからな。
農耕してたとは思うよ。
五胡って、ほとんどは半農半牧じゃね?
それでも足りずに更に中原へ侵入したというのは有り得るが。
鮮卑は漢書に農耕してたような記述あるけど
匈奴は農耕してないべ、匈奴内の漢人はともかく
660 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 21:07:34 0
>>657 今でいうチベット族カム人(カンパ)や納西(ナシ)族みたいな感じなのだろう。
匈奴は元々後漢末頃より中原にいたが鮮卑拓跋部が代に侵入してきたのは前秦が東晋に負けた頃。
拓跋部が代国を建てた頃に柔然がモンゴル草原を制圧している。
それ以前は大抵、略奪目的で侵入して来てたんだよな<匈奴、鮮卑など
>>661 それ以前、柔然はもっと北に居たという事?
664 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 21:23:39 0
もともとモンゴル高原に居ったやろ
北魏のモンゴル高原支配が弱まった事で、そこらに居った人達が柔然を建国したんやで
じゃあ、寒冷化とか関係なくね?
>>665 なんで?
寒冷化ってのは、それまで生産できた品目がもっと南の方じゃなければ生産できなくなるってことだし
遊牧民にとっては、牧草の適地の南下の影響を大きく受ける
拓跋部の南下が前秦の崩壊に乗じたものであるという通説に対し、
寒冷化による温暖地域を目指した面もあるのではないかと推測。
高車とかはバイカル湖周辺にとどまっていたが、耐性強いのかな?
温暖地域が政治的に安定している場合は寒冷化している方は不利で
前漢の宣帝時代には匈奴が寒冷化に悩まされたが豊作続きで元気な漢に踏み込むことなど出来ず帰順した。
寒冷化しても温暖地域が政治的に不安定なら
晋を荒らした五胡や民族移動を引き起こしたフン族のように一か八かで殴りこんで乗っ取ってしまう場合もあり得る。
670 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 21:38:58 0
しかしタイミングが良いね
八王の乱が起きた後、淝水の戦いで大敗した後
柔然・高車に関しては鮮卑拓跋部に先取りされて、南下出来なかったんだろう。
で、華北まで南下したわけだが
それでもまだ寒く、更に(江南まで)南下するためにヒ水の戦いが起きた
というのは有り得るのか?
>>672 そのへん(江蘇・安徽の北部 除州など)の地域はありうる。
だが浙江や福建までいくと環境ががらりと変わり
平地は湿地帯なので牧畜には使えず
荊州あたりの五渓蛮のように三峡の山地に陣取り
河岸段丘で放牧や畑作をする変則的な形になってしまう。
674 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 22:02:46 0
北半分は麦作で南半分は稲作やしね。
675 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 22:04:29 0
稲作の土地には適応できない。
河岸段丘で放牧なんて聞いたことないぞ
シ肥水の戦いは純粋に統一のための行動でしょ
大国家が寒いから南進とか聞いたこと無いわ
肥水の戦いでは前秦軍の漢族兵士が大量に東晋に投降したという。
漢族政権への親しみがあったのかもしれないが、一方では
華北に帰っても生活できない状況があったのではないか。
苻堅は東晋を殺る気マンマンだった。
王猛も生前には苻堅を止めたが、苻堅は王猛の死後に東晋へ攻め込んでしまった。
寒冷化が有っても無くても、南下はしていただろう。
>>669 帰順した?
あの有名な王昭君って宣帝の時代ではなかったっけ?
史記なんかでは、困窮する匈奴に施しをしたように書いてあるけれど、和蕃公主が出されるということは、
匈奴が上位、漢が下位での和睦だろう。ボコボコにやられて、和議の内容が、穀物の貢納と和蕃公主だ。
史記じゃない、漢書だ。
>>679 意味不明、呼韓邪は分裂した一方を率いて西漢に降ったんだけど
ヨーロッパでフン族から発する民族移動が起きていた頃と中国で北方民族の侵入による騒乱の時代が重なった
共通の要因として寒冷化と温暖地域における政権の弱体性があると思う。
683 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 22:17:02 0
ヨーロッパの民族大移動て、南ではなく西に移動してないか?
>>676 土家族は三峡ダム建設で漢族や苗族の村が水底に沈むまでは
わりあい放牧をしていたほうだ。省でいえば湖北省だ。
今は放牧地を買い叩かれて、新農村になってしまったがな。
実は、氐を元朝時代以前のルーツとして主張する土家族もいるのだよ。
黒海北岸の草原地帯は周辺民族争奪の地で
ここからフン族がゴート人を追いやる形で
民族移動が始まったという。
宣帝の時代に匈奴が寒冷化に悩まされたとは初耳
帰順したのは寒冷化云々ではなく、宣帝の匈奴に対する弱体化・分裂化工作が要因だ
687 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 22:32:02 0
>>677 当時の華北は撤廃していたからな
一方、江南は戦乱に遭わなかったので豊かではあった
688 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 22:37:25 0
ただ、華北で生活しにくくなった原因が、寒冷化かどうかというと否かな
前漢宣帝時代、匈奴は異常気象で家畜が凍死するなどして国力が減退したという。
一方で漢は豊作で穀物の値段が下がり、
農民救済の為に政府が市価よりも高値で買い上げるほどだった。
690 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 23:06:55 0
それは武帝期に匈奴が北へ押しやられたからじゃない?
でも、北方民族って常に中華へ侵入してくるから、寒冷化かどうか分からんな
ヨーロッパの民族大移動とたまたま時期が合っただけかも知れんし
宣帝に匈奴が恭順したのは武帝の30年ぐらい後で
武帝時代に国内が困窮したのを宣帝が建て直して板についた頃。
間接的には武帝の遠征による効果もあるが宣帝の治世の成功が直接の要因だと思う。
>>691 元の蒙古、五代の沙陀、清の満族も
東晋の時代の五胡ほど人数的には多くはないよ。
>ヨーロッパの民族大移動とたまたま時期が合っただけかも知れんし
その大移動が起きた原因が地球寒冷化なのだよ。
>>693 五胡って合わせてどれくらいなんやろね?
厳密にはもっと多くの民族が割拠していたんだけど。
>>695 華僑華人のたぐいが、「百家姓」で五胡由来の氏をリストアップして
五胡の家系をカウントすると現代では4億人ぐらいいるとか・・いないとか・・
眉唾の数字だと思っていいが、結構多そうな感触。
根拠が「百家姓」ということで学問的ではないよね。
当時の西晋の人口が1600万人で、そうすと、単純に考えれば800万人。
さすがにここまでは多くないか。
698 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 23:39:51 0
寒冷化とは言うけど、前秦もモンゴル高原の拓跋部へ攻め込んで滅ぼしてるよ
>>692 外政でも内政でも漢に負け、更には分断工作でトドメを刺されたからな。
遊牧民というのは強い時は強いが、弱い時は弱い。
頻繁に分裂するしさ。
701 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 23:52:54 0
>>651 桓温は冉閔らの反乱で後趙が崩壊し、華北がgdgdな時に北伐してるし
劉裕は慕容垂らの反乱で前秦が崩壊し、華北がgdgdな時に北伐してるので
華北がある程度まとまってくると、南へ押し返されてるよ
要は火事場ドロボーというだけで、南朝が強かったわけでは無いんだな
陳慶之も洛陽占領してるけど北朝で六鎮の乱が起きてる時だっけ。
gdgdにならなかったのは統治に優れていたからとも言える
梁の武帝は壮大にやらかしたけど
まぁ、そうなんだけどね。
これは寒冷化というよりは、政治力の無さが原因か。
705 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 00:10:42 0
東晋時代は確か蜀の方で反乱起きてたな
中国の北半分は民族入り乱れてるからしゃーないんじゃね?<gdgd
そういう状況を許したしまったのは晋だし
707 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 00:22:49 0
遊牧国家ってどうも分裂しやすいよな。
部族社会故か。
まぁ、前秦は苻堅の異民族融和政策が逆に引き金となったんだろうが。
例え寒冷期でもローマがオクタビアヌスやトラヤヌスの時代であれば
ゲルマン人が国家を築ける余地は無かった。
五胡十六国は遊牧国家ぢゃないだろ
浸透王朝って言うんだよ
>>708 そらそうだわ。
漢でも武帝の時代や和帝の時代だと、むしろ匈奴はフルボッコにされていたし。
大々的に遠征した武帝時代でもフルボッコまでは負かしていないし損害もかなり大きい。
>>708 トラヤヌスの時代は寒冷期の前、寒冷期に入るのは2世紀後半から
714 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 00:50:07 0
>>711 李陵が匈奴に投降しちゃってるからねー
無傷では無いな
ゲルマン人は遊牧民じゃないけどな……
どっちかといえばフン族。
匈奴vs武帝は、武帝がやや優勢だった
実際の所は漢の匈奴遠征で勝利しましたというのは
ペルシャがスキタイに遠征してフルボッコしました
といっているのに近いのではないのか。
>>717 西域を影響下に置き、匈奴を中原から遠ざけた時点で、漢の優位は明らかだろう
ただ、無傷というわけにはいかなかった
720 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 01:03:07 0
衛青・霍去病が死んでからは膠着気味だよな。
まぁ、匈奴をゴビ砂漠から漠北に追いやったのは確かだ
>>718 それよりはマシなんじゃねーの。
一時的な占領では無くて、武帝死後もそれまで(武帝以前)よりは領域が広くなったのだ。
帰順してきたのは宣帝になってから。武帝時代に痛めつけておいた効果もあるが、
宣帝がガタガタになった内政を立て直し豊作に恵まれた一方で、
匈奴は内紛を収められず冷害に見舞われ、天は漢を嘉したと匈奴は漢に帰順した。
もちろん、それまで文景の治で蓄えられた富を全て使い果たしたがな。
>>723 衛青が無くなってから計算しても50年かかってるんだよな
でも勝利とは言えると思うんだけどなー。
引き分けというわけでも無いしさ。
>>717 無い無い、漠北に逃げ去り西域が全て漢に服属した事から判断して
武帝の時代に趨勢は決まってる
728 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 01:35:00 0
晩年は負けまくり
>>723 宣帝の時代が特別豊作に恵まれたという記録は無いけどね
>>728 また妄想症が再発したか
負けというほどでも無いが。
匈奴に負けたのって、李陵が降伏した時の一回だけでしょ?
あれ以外は勝ちか引き分け。
732 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 01:44:27 0
馮異は内乱期(新末後漢初)に、統一匈奴を撃退してるんだよなー。
これも偉業。
でも、何故だか知名度低いよね・・・。
そりゃもう有名な著作が有りませんから
>>727 そうなんだ。
世界史の本にそう書いてあったので、つい。
735 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 02:03:51 0
外政も内政も充実していたという意味では、やはり宣帝期の方が最盛期に相応しいかな。
武帝が匈奴を弱体化してくれといたおかげで、
宣帝は内政に力を入れる事が出来たんだけどね
737 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 06:13:39 0
んな事言ったらキリがネェだろ。
武帝だって、文帝のおかげじゃないか。
>>707 違う
苻堅の異民族優遇が引き金というわけではない(きっかけの一つでは有るが)
やはり、あの時期に東晋へ攻め込んだのが間違い
異民族優遇と南下の両立は不可能だった
どちらか片方を立てる事なら可能だった
王猛はそれを分かっていた
苻堅はそれを理解する事が出来なかった
それだけの事
739 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 06:36:15 0
政治力は高いんだけどなー。<苻堅
良くも悪くも極端なだけに評価が分かれる所だ
仁政を敷いていたのは確か。
人としては良いんじゃね。
742 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 06:57:40 0
王猛は桓温より苻堅を選んだ
南北朝時代に南朝が北朝を国力で上回る事が出来たのは、東晋時代に桓温が土断を頻繁に行っていた事も大きいよね。
数は力なだけに、華北からやって来た流民を探し出して、戸籍に登録し人口を増やす。
これだけで人口100万人は増えたんじゃないかな?
744 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 08:26:41 0
秦の征服事業て、政の時代に入っても最初は大した速度では無かったのに、前220年代に入ると急に早まってるな
>>744 李斯や王翦が重用され始めたのはその直前だから。
746 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 08:39:42 0
>>743 100万とか大した事ねーだろ
お前漢王朝の人口知ってて言ってんのか?
100万なら華北へやって来た五胡の数の方が多いんじゃね。
>>746 漢王朝云々は置いといて、この時代の人口100万人というのは物凄く大きい
何せ、中華全土で人口1600万人しかいないわけで
その中で人口100万人が華北から江南へゴッソリ移動したわけだ
(中華全土で人口1600万人というのは、西晋統一期の人口だから、五胡戦乱期に入るともっと少なくなるかも)
>>740 苻堅は少なくとも苻生みたいなDQN皇帝よりはマシだ。
750 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 08:55:14 0
>>745 秦の人材最盛期はやはり紀元前220年代か
中華統一に急速なスピードで向かっていった時期だし
752 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 08:59:09 0
>>748 やっぱ大した事ねーわ
所詮16分の1
大勢は変わらない
彭越は決して戦闘に強いわけでは無いが不死身。
叩き潰したはずなのに何度も何度も蘇る。
また、その時に補給路を絶たれるので項羽としては例え彭越が雑魚くても一々討伐に戻らなければならない。
戦闘で全勝したとしても自分の居ない所では負け続けた項羽。
そして、最後には韓信にとどめの一撃を刺された。
754 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 09:16:02 0
>>753 要するに囮だろ
不死身なわけ無いやん
劉邦に粛清されてるし
>不死身なわけ無いやん
そういう意味じゃないだろ。
何度撃退しても、また復活して後方攪乱を行うという意味だ。
てか、それぐらい察しろよw
>>731 遊牧民の和睦のときには「支配層の女を差し出せ」が基本だから、和蕃公主が出た事実がある以上、
そのときにはどう取り繕っても支那王朝側が負けている。
758 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 09:30:13 0
>>755 お前馬鹿だな
彭越は項羽が現れたら逃げるだけ
叩き潰されたり、撃退されたりなんかしてない
ただ逃げ回ってるだけ
「馬鹿」と言えば、趙高の「鹿をさして馬となす」が語源になってるんだよな。
>>758 >彭越は項羽が現れたら逃げるだけ
それを撃退と言うんだろうが。
そんな事も知らんのか。
>>759 源九郎義経と鷲尾三郎義久の鵯越ではないのか?
む?
その件と馬鹿とは何の関係が?
763 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 09:48:23 0
>>760 違うね
それは項羽の不戦勝だ
撃退とは言えない
何が不戦勝だよ。
お前もう一回史記読み直せ。
あ、それとも史記を読んだ事無いのかな(笑)
>>757 武帝の時はどうだったのかね?<和蕃公主
766 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 10:07:24 0
武帝期は連戦連勝だし出すわけないだろ
とは言え、匈奴側も宣帝時代になるまでは粘ってたんだよね。
完全に立場が逆に入れ替わったのは宣帝の時代。
768 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 10:17:01 0
匈奴なんて冒頓が居なけりゃただの雑魚
実際、武帝にやられるまでは冒頓の遺産で食いつないでたようなもんだろ
>>767 完全に?
宣帝の次の代、元帝のときに和蕃公主を出してるだろ。あの有名な王昭君とか。
宣帝の時に弱体化されていた匈奴が、元帝の時代になって再び勢力を盛り返して来たんだよな
元帝は暗君だし
771 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 10:32:58 0
呼韓邪単于は宣帝に降伏したけど、やはり扱いは他の諸侯王よりも上だった。
そこで漢が妥協してるという事は
やはり何か負い目が有ったという事だよねえ〜?(笑)
773 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 10:47:19 0
>やはり何か負い目が有ったという事だよねえ〜?(笑)
負い目って何?
>>772 せめてものの情けでしょ?
元は大単于だったのが、いきなり諸侯王と同格じゃかわいそうだからねw
775 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 10:57:38 0
しかし、モンゴル高原の人達は頻繁に君主号を変更するよね。
単于から可汗に、可汗からハーンに。
中華ではほぼ一貫して皇帝だからなー。
>中華ではほぼ一貫して皇帝だからなー。
もともと王でしたけど?
それが皇帝に変えられたんだが
>>769 でもそれってすでに名目化してないか?
あの時点ではどう考えても漢が優位だし。
778 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 11:14:14 0
>あの時点ではどう考えても漢が優位だし。
それ自体が表面的、建前に過ぎないのかも知れないが
>>738 オールラウンダーの王猛が志半ばにして死んでしまったのは、前秦(苻堅)にとって痛かったよね。
>>777 元帝期の漢は衰退しているだろう
どこが優勢なんだ
>>780 それは匈奴も同じだろうが。
だから宣帝にひれ伏したんだろ?
783 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 11:50:51 0
むしろ、当時の匈奴は内乱が起きてるから、匈奴の方が悲惨と言えば悲惨
呼韓邪単于が漢に入朝したのも、漢の力を借りて内乱を治める為
前漢は滅亡寸前になってもさほど衰退していないんだよな。
禅譲で滅亡したんだし。
冒頓単于のいない匈奴なんぞ、ウンコも同然だわ
>>781 なんだ、西からも朝貢させられていたのか。
タテマエは二君に見えずな儒教国が、めちゃくちゃだな。
匈奴からみた感覚では、中央アジア一帯(西域)から一帯が全部が属国で、東寄りにある属国の一つが漢だったんだろう。
下手なことしないように血縁で属国の支配層を縛り付けていた、と。
787 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 13:01:22 0
国を維持するためには仕方無かった
漢は古今東西世界一の超大国に決まってるだろ!!!!111
古今東西は言いすぎかも知れんが、少なくとも東洋一の超大国ではある。
(西洋一の超大国がローマ帝国)
匈奴から見て漢が属国って、冒頓単于や高祖の頃の事か?
元帝時代の話だろ
和蕃公主を出したという事は、属国も同じと言う事
>>786-791 西域諸国は匈奴への朝貢を途絶して漢に朝貢、漢軍も駐屯
匈奴の威勢が衰えた原因の1つは西域からの年賦金が入らなくなった為
もう諦めような
793 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 14:31:52 0
誰に言ってんだ?
匈奴スキーさんい対してでしょ。
795 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 15:16:14 0
国力では文帝の頃からすでに匈奴を凌駕していた
立場が逆転したのが武帝の時代というだけであってa
生産力は最初から勝ってるよ。
圧勝だよ。
負けていたのは軍事力とトップの能力だけ。
武帝の匈奴征伐も国力のゴリ押しだからなぁ
798 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 15:51:00 0
色んな条件が整ってようやく匈奴に勝つ事が出来た。
異なる時代に行っていれば失敗していただろうね。
永楽帝の北伐ですら、武帝の匈奴遠征ほどの効果は出ていない。
799 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 17:38:44 0
国を傾けてまで泥沼の対匈奴戦をする必要があったのか?
明らかに得たものより失ったもののほうが大きい。
紀元前100年頃なら
ローマ、(プトレマイオス朝)エジプト、パルティア、漢に、匈奴を中心とする遊牧国家群って感じだな
遊牧国家は戦争強いが人口希薄で生産力が低いので、大国というとちょっと違う感じ
>>799 半属国というか、匈奴に対して低姿勢でならなければいけない状況を覆したかったんやろうね。
802 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 18:04:08 0
後漢の時は、班超が活躍して領土を拡大してる時も内政は安定してたんだよな
>>800 パルティアも遊牧国家。
でも、パルティアだけは大国と言えるやろうね。
>>802 内政面は和帝・鄭衆が頑張ってたからね。
鄭衆は数少ないまともな宦官の一人。
>>800 BC100だとプトレマイオス朝は既にへろへろ
あとなんでインドの王朝が1つも無いんだw
インドはバラバラだからなー
807 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/11(火) 18:32:56 0
>>805-806 この時代のインドは異民族の侵入時期だからね。
もう少し時代が下ればクシャーナ朝が並ぶだろうけど。
あぁ、でもこの時代のインドにはサータヴァーハナ朝があるな。
808 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 18:32:59 0
最盛期の匈奴は人口で漢の4分の1、GDPで漢の2分の1。
>>805 悩んだけど、インドはバラバラなんだよな………
>>808 パルティアやゲルマン人の部族も服属させてたからな
>>807 後、強いてもう一つだけ挙げるとすればシュンガ朝かね
近代以前の「GDP」なんてどうやって算出してんだ?
つか経済力が低かったり人口が少なかったりしても、軍事的・外交的に優位に立つことは可能だろ
例えば?
遊牧民は騎馬が人間1人の10倍近い体重を持ってるから戦闘で有利だよな。
815 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 19:01:53 0
近代以前のGDPは人口に比例すんじゃね?
生産技術力にも左右されるけどな。
後、人口勝負になるとすれば購買力平価ベースでのGDPの話だな。
>>808 GDPで漢の半分もあるとは思えん。
人口ももっと少ないだろ
匈奴が1500万人もいないだろ
最盛期の匈奴って冒頓時代の事じゃろ?
とすると漢の人口は2000万人前後
匈奴の人口は500万人前後になるんじゃね
確かに、GDPはもっと少ないと思うが
819 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 19:25:57 0
当時の匈奴は農耕地を占領したら、そのまま農耕地として統治してたんかね。
だとしたら500万人ぐらいは有り得るとかも知れん。
略奪して帰るだけなら、まだ農耕技術は無いと。
820 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 19:28:27 0
よって、遊牧生活だけで500万人を超える事も難しい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4#.E8.BE.B2.E6.A5.AD >匈奴は牧畜と狩猟を生業とし、たびたび中国に侵入・略奪を行った。そこで匈奴が遊牧を専らとし、農耕は行っていなかったと考え
>られるが、近年の考古学調査の結果から、連れ去った農耕民奴隷によるバイカル湖畔での農業生産が確認されている。1920年代
>からロシアのブリャーチヤ共和国でイヴォルガ遺跡の発掘が行われ、そこから中国人奴隷のための住居跡が見つかった。この他に
>も約20か所の集落遺跡が発掘されている。これにより、かつて匈奴が漢へ侵入略奪を行った際の奴隷や、戦における捕虜などが
>北方のバイカル湖畔において、匈奴のために農業や手工業生産に従事させられていたことがわかった。この他にもタリム盆地のオ
>アシス定住民に対しても、同様のことが行われていたと思われ、匈奴が肉ばかりではなく、穀物も食べていた(もしくは売買してい
>た)ことが分かる。
あんな寒い地域(バイカル湖畔)で農業出来てたんやね
>>819 西域諸国は大抵人口数千人、大きくても数万だから無いな
最大限200万
>>815 しないな、アジアも欧州も時代と共に工芸品や商品作物の生産が増える
匈奴の人口は100〜200万人が妥当な所だ。
匈奴は確かに騎馬が精強では有るが、その騎馬は攻城戦に使えない
となると、城の無い草原地帯を攻め取るしかなく、城の有る農耕地帯へ攻め込むのは無理
わざわざ城の近くは襲わないんじゃね、せっかく騎馬だし
軍隊から遠い農村で掠奪と人攫いして遁走する方が理に適ってるような
>>825 遊牧民って、技術を利用することには熱心で、占領した地域の技術者とか使って
攻城兵器とかも利用しているんだけれども
武帝の匈奴遠征て、回を重ねる毎に兵力が減っていってるよな。
晩年になると、絶対勝てないだろという所まで兵力を減らしちゃって負けたりしてるわけだけど。
それと、衛青・霍去病の戦い方はどちらかというと、匈奴の戦法に近いよな。
やはり従来の戦い方だと匈奴相手には厳しいのだろうか。
そりゃ相手は馬で移動するんだから
騎兵は速いし重いし、歩兵じゃ話にならない
>>826 ゲリラ戦術だな。
素早く襲い、素早く略奪、素早く撤退。
832 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 20:29:33 0
略奪ってそういうもんでしょ
>>827 モンゴルはそれで成功した
遊牧民は騎馬が強みだが、攻城兵器(回回砲とか)も使いこなしてる
834 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 20:44:50 0
匈奴と蒙古では南下した目的が違うから。
匈奴は略奪で蒙古は領土拡大。
>>800 匈奴はそこらの弱小国とも違うんだよな。
だからと言って、ローマや漢と並んで超大国と言うのも変だが。
837 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 21:20:54 0
経済や文化じゃ、そこらの弱小国と何ら変わりない
政権中枢が動かした資金や物資の量はローマといい勝負か上回ってるけどね
>>837 春秋戦国時代、趙の武霊王は中華で初めて胡服を取り入れた。
匈奴はそれ以前から使っていたよ。
840 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 21:40:44 0
まぁ、確かに中国文化の影響は受けているだろうが、逆に中国も遊牧文化の影響を受けているしな
この頃は遊牧厨が常駐してうざいなあ。バイアスかかっていてスレ住民にNGの連発されていてワロタ。
どう見ても遊牧厨じゃなく嫌中西欧厨
遊牧民族が強いと思っていたら大間違い。
貧しい遊牧民族は、豊かな農耕民族が羨ましくて、幾度も幾度も攻め込んでくるというだけ。
逆に豊かな農耕民族はわざわざ貧しい遊牧民族のいる地帯へ攻め込む必要が無かった。
まあ、人口増えすぎて格差が拡大して内乱でボロボロになったところに
北族が入り込んできて北族漢人が誕生するけどな頻繁に
中国の歴史はそれの繰り返し
847 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 22:08:57 0
フフフ、中国王朝など大した事ないニダ<丶`∀´>
我が大朝鮮帝国が最強ニダ<丶`∀´>
朝鮮は中国固有の領土ある
849 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 22:46:20 0
>>842 良くて10分の1。
悪けりゃ60分の1ぐらいだわな。
>>846 中華帝国が国の体を保ってる間は北方民族もなかなか手が出せないよな
それが出来たのは金・元だけで、それも一気に征服したわけではなく、半分ずつ(金が北半分、元が南半分)
乾燥化の影響で秦の始皇帝の頃は森林地帯だった関中も
五胡十六国の頃は荒涼とした平地となっていた。
唐代になると中国の生産基盤は水の豊かな江南に移っている。
北アフリカも古代は穀倉地帯でローマ帝国の台所だったが今や砂漠地帯。
エジプトやチュニジアは今も農業盛んだろ
ただ、商業ベースに乗せるには水をじゃぶじゃぶ使って生産力上げないとだめがから
チュニジアはその点微妙だけど
854 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 23:07:36 0
オルドス高原も昔は草原地帯だったんだっけ。
寒冷化の頃に偶然かもしれないがゲルマン民族の大移動や五胡十六国時代となった。
要因としてはローマや中国の政治の乱れもあるが、気候変動による社会不安も推測できる。
冒頓単于、檀石槐、耶律阿保機、完顔阿骨打、成吉思汗、努爾哈赤
>>852 乾燥化っちゅうより、森林伐採の環境破壊によるモノやろ
秦から五胡十六国の間に乾燥化が起きる理由なんてないしな
>>855 寒冷化で食いもの無くなって不満が溜まる→統制が利かなくなる
→食料の分配が上手く出来なくなる→本格的に飢餓→滅亡説あるけど
どうなんだろ
859 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 23:42:54 0
それだと五胡やゲルマンも共倒れになるはずじゃね。
前趙も後趙も前秦も反乱が起き、統制が利かなくなって滅亡したんだが
一方で江南は安泰。
862 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 23:57:25 0
でも、食料不足が原因で滅亡になったはと初耳。
単に色んな民族がぐちゃぐちゃに混ざってるから統制が利きにくく、反乱が起きやすいだけだろ。
江南にもミャオ族とか色々いるじゃないか
しかし安定していた
864 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 00:12:33 0
そりゃ、反乱が起きたのは華北だし、五胡は中華の外から華北へやって来たわけだし。
華南はどっちも当てはまらないだろ。
日本の公務員が特権階級みたいになったのって、ここ30年くらいの話じゃん
>>864 そりゃそうだ
北方民族は江南も目指していたが、江南が安定していたために阻まれた
なぜ華北が混乱し、江南が安定していたかといえば
華北は寒すぎ、江南は丁度いい気温だったからだ
868 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 00:26:49 0
てか、「寒冷化したから南下」という理論が通用するなら「温暖化したから北上」と言う事になるよな。
楚(項羽)が一時中華を圧巻したのも温暖化したからか?
そうじゃないだろうよ
東洋で五胡十六国時代が起きたと同時に、西洋でゲルマン民族の大移動が起きてる
この二つに関連性が有るとすれば地球寒冷化
一方、ミャオ族の北上は同時期に似たような事が起こっていないだろう
そういう事だ
楚はミャオ族じゃねーし
晋もローマも支配が瓦解してるのはしてるけど、特にローマのガリアヒスパニア
871 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 00:42:25 0
晋は南半、ローマは東半だけが生き残ったんだよな
>>868 逆は真ならず、だよ
遊牧民は北へ移動するだろうが、農耕民は主要作物を環境に適合させることによって環境変化に
耐える選択をとることがある
温暖化の場合は、生産力の低下が伴わないことが多いので
寒冷化の場合はそうはいかないけどね
>>869 ミャオ族は南下しているよ。
新疆にミャオ族がいるのは、清朝が懲罰入植させたから。
楚とミャオ族は何らかの関わりが有るのは確かだが、楚=ミャオ族とまでは確定してない。
875 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 00:55:36 0
項羽はミャオ族じゃないだろ
ミャオ族があんなに強いわけが無い
ミャオ族なら言葉通じねーだろ、山越とかなら分かるけど
877 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 00:58:28 0
ミャオ族は、小柄なタイ族やチワン族よりは強いだろう。
よりヒ弱なやつがいる南へと進んだわけだ。
ミャオ族も小柄なんじゃねーの?
そもそも、当時(楚漢戦争)と現代苗族とを繋げるモノが無いんだよなー。
880 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 01:15:58 0
確かに野蛮と言えば野蛮なのだが<項籍
>>878 場所によりけりだな。
烏蒙山で遊牧やっているミャオ族はデカい。
夜郎の血統らしいので、楚人の裔ではない。
しかしあれだな。
趙高はなかなか反乱を鎮圧しようとはしなかったし、咸陽の守備軍を動かすというのも断固として認めなかったが、刑徒に大赦令を出して反乱の鎮圧に向かわせるというのはあっさり許可した。
ここら辺の趙高が何を考えてるか分からんな。
越はタイ系だっけ?
ベトナム系じゃないの
ベトナムは越(タイ系)の南
越は台湾系でしょ?
南ショウなんかは確かビルマ系だったような、確定してないかもしれないけど
887 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 01:43:00 0
>>882 趙高が咸陽の兵を動かそうとしなかったのは、咸陽の兵を動かすと、自分達の居る所は丸裸
自分の身も危なくなるから
刑徒を動かすだけなら、自分の身も危うくならないし、反乱も鎮圧出来ると考えて許可したんだろう
秦の諸国統一化が北方遊牧勢力にもインパクトを与え匈奴の冒頓単于による周辺部族の制圧になったことは間違いない。
>>886 タイ系のチワン族は秦の時代から百越のひとつとして史書にでてくる。
チャムパや台湾山胞は百濮。
>>888 そして、秦始皇帝の中華世界統一に影響されて、ローマが地中海世界統一へ乗り出したに違いない。
>>889 タイ系なのか、なんかイメージ無いな
あと史書には多分出てないんじゃないか?百越で十把一絡げだし
あーでも西南夷伝があるか、昔の呼び名って判明してんのかな?
長江流域からベトナムを越えてタイまで行くとはな<越
元より前の宋以前は、うまくカルタ取りできていない部分があるな
それなりに民族移動している集団もあり
駱越なんかは海南島に移動という説もあってごちゃごちゃ
東南アジア系の中では混血も激しいだろうね。
タイランドなんか、タイ系言語を話せるやつら華人もひっくるめて
みんなタイ族認定して、標準語教育をやっているから
人工的にまとめているよ。今でも北部はなんかは言葉が通じにくいという。
896 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 02:04:37 0
孟獲は、どの系統なんやろうか?
>>896 象つかいの集団に話をつけて同盟させたので、タイ系らしい。
醜いか、温厚そうかの違いなのだろう
900 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 02:25:54 0
北朝は資源が不足しがち。
資源が豊富という意味では南朝が有利。
でも統一するのは必ずと言っていいほど、北側の王朝。
資源なんかはせいぜい+αにしかならないよ
必需品というわけでも無いでしょ?
前近代の戦争は野蛮人なくらいのが強いからまあ
戦闘レベルではね
戦略とか、政治も出来ないと、勝ち上がるのは無理だ(終いには項羽みたいに詰んでしまいます。そうなったらもう手遅れです)
劉邦みたく配下に全てを任せるのも良し
904 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 02:52:10 0
秦が先達というのは確かだ。
まぁ、そもそも始皇帝のやった事も、ダレイオスのパクリなんだけどな
ダーラヤワウ1世の事業もエジプトのなんとか3世のパクリだけどね
909 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 03:33:27 0
度量衡を統一したのは始皇帝ではなく二世皇帝と言う説も有るけど。
厳しい大土木事業も、二世皇帝胡亥の時に行われただけで、始皇帝の時代は割と易しかったらしいな
始皇帝の時は統一から死ぬまでの11年間で一度も反乱は起きなかったが
二世皇帝が即位してからたった1年で反乱が起きてるからな。
よっぽど落差がひどかったのだろう。
913 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 04:31:23 0
何故そういう解釈になる?
単純に一般に言われる程、厳しい事業は行ってないという意味なんだが。
始皇帝を美化しようと必死な奴が居るな(笑)
始皇帝とか棚ぼた皇帝だろ。
その強運だけは認めてやっても良いよ。
917 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 04:48:52 0
おまいら「始皇帝」の意味を分かってて、そんな事ほざいてんのか?
>>917 分かってますが何か。
始皇帝だから名君とは限らないでしょ。
これだけは言える事だが
少なくとも、ここで始皇帝の事を棚からぼたもちとか言ってる奴よりは、ずっと優秀だなw
921 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 05:02:50 0
お前らもちつけよ
>>843 武帝に糞味噌にやられるまでは、どう考えても匈奴の方が優位
これがNG対象になるとでも?
どうかな。
文景時代にはもう互角と言っても良いんじゃないの。
むしろ、内政に置いては漢の方が繁栄してたし。
文帝〜武帝の93年間は三世の春(漢バージョン)だな
本家(清)三世の春とよく似てる
>>853 当時の緑化地帯を碌に検討せずに、ただ適当に答えているだけのゴミって学問板にくるなよ。
チュニジアやアルジェリア、リビアまで広範囲に穀倉地帯だったのだよ。
エジプトも昔と今とではぜんぜん違う。
碌にしらんくせにいい加減なことをかくな。
現在になって残っている緑はほんの一部だしな。
昔は見渡す限りの緑が広がっていた。
926 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 05:22:39 0
まあ、ゴミは言いすぎた
>>921 趙の武霊王、李牧、秦の蒙恬など何度も匈奴は敗北に塗れている。
劉邦にしたところで、陳平の機転で漢帝国崩壊を逃れている支那、韓信らに任せていればよかった
粛清する気マンマンだったから実現しなかったけど いうほど遊牧民族は食い込めていない
永嘉の乱まではむしろ帰順するもの多く、中華の異民族対策うまくいってた罠
晋の皇族たちが馬鹿すぎたから塞外民族の侵入許したが、
始皇帝の時は匈奴からオルドス地方を奪ったりして、北方民族に対しても優勢だったんだよな。
冒頓単于登場・陳勝呉広の乱・楚漢戦争などで一気に、中華側は不利になったんだけど。
そして、武帝のターンになると再び匈奴を押し返した。
つまり、一進一退の繰り返しで、常に北方民族が優位というわけでも無い。
遊牧厨が主張するようなずっとずっと匈奴のターンなんて幻想。
歴史を緩がす戦乱に漬け込んでようやくと言う感じ。
後世の永嘉の乱も、八王の乱がなかったら中原に雪崩込めなかったろう。
この辺、誇大妄想はいりすぎ。
晋が国家崩壊起こしたのは確かだが、遊牧民族が強いというより、自爆じゃね?
931 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 05:45:03 0
ただでさえ、三国時代の分裂で衰弱していて、それを晋がようやく統一したという時に八王の乱だもんな。
それに連鎖するように永嘉の乱が起きて、五胡の侵入を許してしまう。
まともに正面対決で、遊牧国家が中華王朝を滅亡させたと言えるのは「モンゴル・南宋戦争」だけかな。
>>928-931 とは言え、五胡側も皆が協力して晋を江南へ追いやったわけではない
五胡同士でも争っているし、更に鮮卑などは部族毎でも争っている
華北では未だに戦乱が続いているのに、東晋がなかなか北上できないのにも、中国王朝側の限界を感じる
東晋も東晋でいろいろと事情があるんだよ。
西府軍と北府軍がバラバラに行動しているし皇帝権力も南方政権に安住し、安定を重視して外征をあまり好まなかった。
ただ合戦はすごく強いなんども洛陽攻撃しているし、もう塞外民族云々というより東晋内部の内訌や権力闘争の方が主要な政治課題だったし
>>932 永嘉の乱であれだけグダグダになったのは後の元帝以外みな捕らわれて大半が処刑されたから。
遠因は武帝の後継の恵帝の指導力不足。
晋のミスありえないミスが山ほど続いてようやく胡人どもが雪崩込めた感じでその雪崩込んだ連中は当初、
漢や曹魏の時代までに帰順した連中だったんだよね。
晋があんだけグダグダにならんかったらおそらく事なく鍬持って一生終えてた。
ローマや漢の混乱は寒冷化による生産力の低下もあったのではないか。
>>924-925 見渡す限りの緑が広がっていたのは紀元前5000年頃までとか、そういう太古の話だし
北アフリカにあったカルタゴ領の飛び地も、トリポリ・アルジェリア沿海くらいだよ
エジプトはずっとナイル峡谷沿い以外砂漠だし
ヴァンダル王国も知らないなら黙っていれば
>>819 前近代では、誰に貢納する、誰の命令で手伝い戦をする、誰の命令で人員を動かす、というのが支配・被支配だから、
農耕云々は関係ないだろう。
>>868 今の満洲とか内蒙古とか支那人だらけで、蒙古人は既に少数派、満人はほぼ絶滅状態。
黒竜江省とか吉林省とか、水田で米まで作ってるわな。
18世紀までは寒くて乾いていて耕すなんてことは考えられないような土地だったものが、黍のようなもの作れるようになって支那人がいっぱい
住み着き始めて、いまでは耕しまくり。
北京なんてもともと遊牧王朝が農耕民を支配するための出先だったものが、いまでは完全に乗っ取られてる。
北上してんじゃんよ。
まあ、日本からの武装移民開拓団が切り開いたからな。
941 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 15:22:06 0
>>933 東晋は一致団結せずに、西府軍と北府軍の足を引っ張り合いだからな。
いやまあ、北府軍と西府軍が歩調共にする可能性って無きに等しいだろ?
それぞれ蜀を滅ぼしたり、北方に進出したりで権力も地盤も中の人もばらばらなんだから。
劉裕が禅譲を受けた宋以降になるとそういう事は無くなったがその直後に劉裕が死んでしまい、
結局はそれ以上北伐出来ず、しばらくして勢力を強めてきた北魏に南へ押し返されてしまった
東晋時代でも桓温が西府軍の総帥だった頃は北府軍空気に近いけどな。
西府軍の桓温が前燕へ北伐するぐらいだし。
劉裕って呉楚七国の乱の楚王の子孫が東晋につかえて劉氏をなおっているけど、劉裕自体は楚王の子孫なの?
全く関係ないの?
劉裕は楚王の子孫(自称)だよ
最初側近が漢を進めたけど、先祖の力には頼らないと宋を国号にあえてえらんだったけか。
劉氏で国号を漢以外にえらんだの劉裕だけ。
劉氏=漢が定着してるからな
後漢の劉秀や、蜀漢の劉備の件も有って
桓温よりは劉裕の方が一枚上手なんかな。
それとも劉裕の時は、桓温の時の謝安にみたいに簒奪を阻止出来るだけの人が居なかったのか。
950 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 16:23:56 0
後者だろう
でも、洛陽と長安の両方を占領出来たのは劉裕だけ
桓温は洛陽しか占領出来なかった
そういう意味では劉裕のが上でそ
南漢というのもあったな。時代はずっと後世になるが。
ただ劉氏といえば劉氏なんだが、祖先はアラビア系の人とも言われる。
953 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 16:53:56 0
劉淵も国号は漢を名乗ったんだよな
劉曜の時に趙と改名されたが
劉氏なら誰でも彼でも漢を国号に定めてokなのな
>>934 ただの内乱ではなく人材も不足していたよな。
だから、漢人の建てた国が少なかった。<五胡十六国
958 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 17:41:08 0
へぇ〜、でも八王の乱や永嘉の乱から約80年経ってもその状況は改善されてないね
前秦が崩壊した時に建った国のほとんどは北方民族や西方民族の政権
漢人は江南に逃げちゃったからさ。
華北に残った漢人は少ない。
漢人の多くは残っただろうけど、兵士になりたがらなかったんでしょ
961 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 17:58:14 0
数が多くても質が悪い
漢人にも王猛とかいるだろ。
王猛は五胡十六国で一二を争う名宰相だ。
それ以外はあんまりねぇ・・・
そう言うなよ。
東晋自体雑魚いし
雑魚くはねーだろ。
最盛期には黄河より北まで版図を拡大してる。
華北の混乱に乗じた火事場泥棒とは言え。
後漢初期に華北と比べて1/10くらいしか居なかった江南の人口を同数近くまで増やして
生産力と経済力で上回ったんだから大したもんだろ、軍事的には雑魚だけど
969 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 19:41:42 0
それまでは贔屓目に見ても華北:江南で6:4だったのが、5:5になって追いついた訳ですからね
でもよ。
華北を囮というか、犠牲にして、華南を発展させた感が否めない・・・。
>>958 口調がまんまオツガイさんですね。わかりますw
>>967 いやまあ、火事場泥棒といえば、西晋の混乱に乗じて帰順していたはずの匈奴など塞外ならぬ塞内民族だし、
それを遊牧民族最強!とかいいだしちゃう人たちだし・・・・。
なんというかおまえらが言うなって感じですよね。
>>968 増やしたというか、元々中原以外を野蛮とみなして碌に来なかった人たちが長江わたって逃げてきたからね。
増やしたというより単純に数が増えた。
五胡十六国時代はDQNが多い
それは、君主のほとんどが野蛮人だから仕方ない。
南朝の皇族も北のこと言えないやね
DQNの代表例:冉閔(漢族)
南朝も君主はDQNなケースが多く、王朝交代の度に皇族は族滅されたけど、後景の乱など一部をのぞいては民の暮らしは
結構安定してたよ。
劉裕なども司馬氏に対しては苛烈だったけど、結構善政しているぜ?
候景は鮮卑系だしなー。
それに、元々は北魏・東魏に仕えてたし。
違う
鮮卑化した漢人<侯景
981 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 20:55:35 0
>>978 まぁ、初代は大抵まともなもんさ。
一部に冉閔のようなDQNもいるが。
弱いDQN=南朝漢人
強いDQN=北朝胡人
いやまぁ、そうだけどね。
北朝南朝関係なく初代のほとんどはまともだが、一部に変な人もいらっしゃるという意味でね。
985 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 21:07:37 0
どなたか次スレを立てて下さいな
五胡で一番の名君は劉淵か石勒か苻堅か拓跋珪あたり
鳩摩羅什に教えをウケタからの苻堅は本当にいい人なのだが・・・・乱世がそれを許さなかった。
天下統一できた後なら、貞観の治なみの善政できたろうになあ
最大版図は拓跋珪の魏より広いんだよな。<苻堅の秦
前秦は益州北部や荊州北部も版図に含んでいるからね
990 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 22:10:57 0
誰か次スレ立てて下され
>>987 まぁ、慕容評を厚遇したのはマイナスかな。
それ以外は文句なし。人としては。
>>986 慕容垂も名君だろ。
慕容垂が生きてる間は後燕も無敵だったし。
でも、嫌われすぎだろ<垂
よほど性格が悪かったに違いない
どの道お前よりはマシだ。
前燕で慕容垂が冷遇されたのは嫉妬されてたんだよ。
身の危険を感じたので前秦へ亡命。
そこでは苻堅に受け入れられた。(王猛には警戒されていたが)
んで前秦末になると慕容垂は独立して後燕と建てるんだが、
自分が亡命した際に受け入れてくれた主君(苻堅)に恩が感じて暗殺する事は無かったと。
995 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 22:49:33 0
次スレマダー?
996 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 23:50:23 0
次スレ立てて下さいage
苻堅は時間が経つ毎に理想と現実の区別がつかなくなり、戦略眼が衰えてゆく
王猛の遺言を無視して東晋を攻撃してしまった
しかし、内政においては王猛の補佐が有ったとはとは言え一流クラス
まぁ、彼の理想が現実となったならば貞観の治を越えるだろうね
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