24 :
世界@名無史さん:
>>17 項羽は南じゃない?
元々会稽で旗揚げしたんだし。
,、
, ''  ̄``ヽ、 ノ i
,:' 、`"'' ‐'´,r'
, ' i `"''' ´
、,,. -_-_,---‐'' !
=f `<' ,r'
〈, '´r=ニ.. { ,:':'
_,>='-'´ ,...ヘ ,'/
r ,=ニ´‐' ´ ,,,,.---‐''" ,,ノ ,:'ノ
`''┴―‐ ''' ´ '-'- ''´
26 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 14:23:40 0
首都彭城は淮河より北だがな
>>24 西楚の栄光は一瞬でした。。。
後が続かないんですよ (笑)
当時の長江以南はやはり辺境だったのかね。
再起は無理だと踏んで自害したのか。
太平天国となって一瞬復活するわけですよ (笑)
30 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 14:46:08 0
>>28 辺境というほどでも無いだろ
春秋戦国では呉越が割拠してるし
いや、内陸のやや南で発生して、勢力を拡大したというだけ。
これは南宋や明朝創成期の沿海部とは違い、やや内陸の広西や湖南という点が特異。
長江中流域
34 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 16:23:31 0
黄巣も華南の内陸で反乱起こしたんだっけ
>>32 それなら、小覇王孫策も内陸で発生してるお
>>34 広州から桂林をへて荊州へ北上、淮河を遡上して長安に攻め入る。
本拠地は長安で国号は「斉」。これも湖南省で勢力を拡大していることになるな。
前スレの
>>605 バーロ、劉邦が四川から天下統一してるだろうが。
>>34 科挙に落ちた腹いせで反乱軍に参加したらしいよ。
前スレの
>>635 明末に四川で大虐殺が起きたというのは聞いた事がある。
>>37 漢中は陝西省
蜀とも山脈で分断されてる。
42 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 17:10:02 0
「漢中王」だけど、巴蜀も与えられてるよ
44 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 17:21:19 0
>>39 孫家は南とも北とも言えない位置だよな。
徐州だし。
>>43 いや、そういう問題じゃなくてさ
とにかく、劉邦は漢中・巴蜀(四川)を与えられ、そこから中華統一したんだって事だよ
>>43 中央部では、李冰が地元民を集めて都江堰を作っているよ。
そこの住民は秦と関係が深い。
東部では塩井戸による塩田開発がされている。
山西省の安邑塩池のほうと人脈で関係がありそう。関羽も安邑人脈。
燃えよドルゴンという言葉を思いついたのだがどうしよう。
50 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 17:47:15 0
>>49 重慶市だと、酉陽土家や石柱土家など丘陵地帯の牧畜民は生き残っていた。
ここらへんだと周囲と言葉が通じなくなって孤立して、清朝期には被差別民みたいになってしまった。
なんで土家が離島のように孤立して生き残ったか? これが不思議。
あと西側の「西蕃」の牧畜民も生き残っている。
牧畜民がわりかし高確率で生き残った。そのへんが疫病説のでどころ。
四川盆地は地形的に他と遮断されてるから、疫病が外へ出て行かず、延々と中に留まってたんだろうな。
四川盆地から西(甘孜)に逃げても南(涼山)に逃げても土司地域だから
そこへ逃げこんでも拘束されて、土地に縛られる農奴にされて
再び四川盆地へ帰ることができなくなる。
それも人口減の理由の一つか
内陸のほうって何十種類もの固有言語があって
それがてんでバラバラに分布しているから
パキのトライバルエリアみたいになっていたんだよ。
腕っ節の強い頭目が自治してんだろうな
パキと一緒やね。だから仲良しなのか
モンゴルが南宋攻略前に大理国も解体しちゃった。
大理の諸侯を土司にしたのでトライバルエリアになってしまった。
58 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 18:19:33 0
南宋も南明も、実際は南北の1vs1じゃなくて、挟撃・包囲されてた訳だ。
>>58 もうちょい視野が広ければ、逆転も有り得たんだがな
まぁ、南明は微妙だが
呉三桂自ら足を引っ張ってたもん
61 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 18:36:12 0
>>55 「山越」も、一つの民族ではなく、いくつかの民族をまとめてそう呼んでるんだよな。
江南は色んな民族がぐちゃぐちゃに混ざり合ったカオスな状態で、正直よく分からん。
山越って長江文明を築いた人達の子孫?
漢民族に長江流域から追い出されて更に南に逃げ込んだのが山越なのかね
>>62 「山越=山を越えた者」と考えれば、武夷山脈を越えて、南に逃げたとも考えられる。
64 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 18:51:58 0
山越の越は、春秋戦国時代に存在した越国の越だと思うんだが・・・
>>64 つー事は山越族は越人の子孫という事か
まぁその越人も長江文明人の子孫である可能性が高いが
山越と呼ばれる民族は後漢〜唐にかけて存在した訳だが、六朝時代はどうしてたんだろう。
また、華北からやって来た客家人との対立は無かったのかね。
越というのはタイ系。百越なんかはタイ系が主体でベトナム系が混じる。
南の沿海部は、言葉がタイ系が基層らしい広東語や福建語になっている。
大理とは違って越の国家がモンゴル帝国まで存続しなかったので南宋領域。
当然大理と所領安堵の関係を持った諸侯は存在しなかった。
よって、トライバルエリアにはなっていない。例外はヤオ族とかチワン族とかだけ。
>>65 越のつくグループは、河姆渡や良渚の延長みたいな文化だから
おそらくそうでしょう。
>>66 土客械斗とかしょっちゅうでしょう。
越系の土着民と客民の客家+苗族がなぐりあいの喧嘩、それが土客械斗。
>>67 宋代になると、山奥の隅々まで統治が及んでいたから、越の人も宋の民として暮らしていたんだろうな。
ちなみに、長江文明はタイ系という事なんかな?
タイ系の他にもベトナム系やカンボジア系それからチャムパも
長江文明と同じような土木灌漑工事をやっている。
可能性としてはタイ系が一番可能性が高いという感じだな。
やや内陸へいくと焼畑や棚田になるので長江文明とは無関係。
71 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 19:19:23 0
そりゃ中にはタイ系も混ざっているだろうね
でもタイ系が主体とは限らない
>>69 越(タイ系)は長江下流域の民族だからね
同じ長江でも、中流域・上流域(四川)は別の民族かと
長江下流域 → 呉・越
長江中流域 → 楚
長江上流域 → 巴・蜀
>>72 別でしょう。
中流域は焼畑が基本で棚田や牧畜が混じるミャオ族。
上流域は棚式で半農半牧で遊牧専門がいるチベットビルマ系。人口ではイ族やトゥチャ族が多い。
>>73 呉はどのへんをいうのわからないな。
巣湖や南京のあたりなのかな?
>>75 春秋戦国時代に越と争ってた国
「呉越同舟」って四字熟語が有る
南方民族って、どうも北方民族に比べると弱いよね。
北方民族は何度も中華を征服しているけど、南方民族はむしろ征服される側だし。
呉地方の江蘇省や安徽省って微妙・・・ワカンネェー
そこって越系が踏ん張れた華南ではなく
北方から征服されやすい場所だよ。
>>80 いえ、そうじゃなくて、春秋戦国時代の呉も長江文明(長江下流域)の延長なんじゃないかなと。
呉地方は謎。真っ先に滅んでるし
越に飲まれてその後に内陸の楚に飲みこまれている。
83 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 20:05:55 0
呉城文化が滅んで以降、呉・越が建国されるまでの約4世紀間、長江下流域がどうなっていたかは謎
>>83 え、呉城文化は中流域でしょ。
呉越が誕生する直前の下流域には、湖熟文化というのが有った。
一つの文化から二つの国が誕生する事は無いだろうから、どちらかが新興勢力だろう
恐らく越が湖熟文化の延長で、呉が新興勢力かと
86 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 20:19:45 0
>>80 呉は平地だが、越は山地だからな。
ゲリラ戦で対抗したんだろうか。
南越、閩越、甌越、駱越、これって全て亡命した越人の政権?
「○越」と付くやつは多分そうだろう
しかし越パネェな
89 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 20:36:08 0
>>87 越と百越の混血。
だから、完全な越族とは言えない。
ちなみに、越と百越は別民族だからな。
そもそも、この場合の「越」は、春秋戦国時代に存在した越を指すのではなく、南方民族全体を指している。
つまり、そういう意味では、
>>87に挙げられた国を越人政権と言える。
しかし、春秋戦国時代に存在した越とは別モノ。
>>68 確かミャオ族も五胡の時代、南朝へ逃げ込んだそうな
93 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 21:00:14 0
>>46 恐らく疫病。
人為的に1万〜2万まで減らすのは無理がある。
損害の方が大きくなるだろうし。
でも、明末清初って所がどうもなぁ
平穏な時期なら分かるが、戦乱の時期だし
>>94 いくら乱世とは言えども 310万 → 1万8000 までは減らないだろ普通。それも四川だけ。
ここまで減るとしたら疫病ぐらいしかない。
新大陸に疫病持ち込んだような感じか
四川は他と遮断されてるからな
戦乱によって、他地域の風土病が持ち込まれた可能性は有る
98 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 21:39:30 0
>>74 確か、上流域には巴蜀文字なるものが有ったような
インダス文字と関連性があるらしい
たまたま似てるだけだろ
100 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 21:53:54 0
明って低評価気味だけど、中国王朝としては初めて南北満州を支配したんだよね。
>>100 それよりも前に、元が満州を支配してたお
102 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 21:59:31 0
>>100 遼・金が400年以上も前から支配してただろ
知ったか乙
永楽帝時代以外は間接統治やがな
>>102 はい?
明が誕生した400年前には金なんて国存在してませんけど?
105 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 22:08:12 0
明も最盛期は凄いんだよ。
でも、正統帝以降はヨーロッパに負けてるよ。
洪武・永楽以外の時代は北元(モンゴル)にすら押されてるからなぁ
江南から中華統一を果たした点は評価すべき。
他にそんな例は無いし。
108 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 22:19:28 0
>>107 それは明と言うより、朱元璋の凄みでは?
それに、たった2代で燕賊に簒奪されてるし。
>>107 いやいや、当時の江南はもっとも経済的に豊かだったんだ
むしろ、江南を繁栄させた南宋を評価するべき
110 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 22:35:14 0
明はこれと言って評価出来るモノが無いよな・・・。
でも、当時の世界に対する影響力なら
明>清
万里の長城
鄭和の大航海
陽明学
明朝体
万暦赤絵
永楽銭
水滸伝・西遊記・三国演義
えーと後は…
山海関は、あのヌルハチ・ホンタイジも破れなかったんだぞ
呉三桂が裏切って、ようやく突破された
>>112 明代の万里の長城は、漢代の万里の長城と比べると雲泥の差が有るよな。
1000年以上も経ってるからな
当然だよな
室町時代と卑弥呼の時代を比べてるようなもん
117 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 23:12:21 0
>>114 唐宋でそれだけ技術が進歩してるって事だよ
118 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 23:20:57 0
宋朝体ってあんまり使われてないよね。
明朝体>>>宋朝体
なんでもすぐ不等号で表すなよ
そういうのは所詮、主観でしか無い
永楽銭>>>>>宋銭
>>114 漢代は全般的に版築だから風化しやすいってのもあるけどね。
>>117 唐宋というか、後漢代から徐々に煉瓦が一般的になって来るみたい。
123 :
世界@名無史さん:2010/12/26(日) 23:35:09 0
>>122 そうなのか。
後漢代に作られた万里の長城の画像とか有るかな?
>>123 あー、後漢代はまだ長城じゃなくて建築物ね。
橋とかはネットで見た気がするけどちょっと咄嗟に出てこないわ。
125 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 00:29:22 0
>>110-112 一世一元の制、
熊本藩や弘前藩など若干の藩の刑法にも影響を与えた明律、
淹れる茶の飲み方、
景泰藍、
『本草綱目』『天工開物』などの実学書……etc
明代で評価できるものはたくさんあるじゃないか。
清や周辺諸国も一世一元の制を使ってる罠
127 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 00:37:53 0
『四書大全』『五経大全』『性理大全』
こんなんもあるぞ
マイナーやな。
知らんがな
では清代で評価できるもの・世界史に影響を与えたものは?
無い
133 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 01:12:16 0
>>131 小説:『聊斎志異』『紅楼夢』
戯曲:『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』
清の文化って、明以前の王朝と比べるとなんか物足りない気がする。
チャイナドレス(の元)
136 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 01:33:34 0
清の制度は明のものを引き継いでいる事が多い。
なんだかんだ、明は偉大。
陶磁器の赤絵・染付も、明から引き継いでいる。
明の制度は元が起源なわけで
元の制度は宋が起源なわけで
140 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 01:49:55 0
>>138 いやいや、「明清帝国」とひとくくりにする事はあるけど、「元明帝国」って言葉は聞かないだろ?
>>87 亡命してないよ。ほとんど秦の時代からずっとそこの位置にいる。
駱越の裔は固有言語で、いまは少数民族認定。
>>90 南越は秦人政権かもしれない。
(もう2000年以上も前の話だから確固たる証拠はないが)
もともと亡命政権ではなく植民地総統府が
秦の滅亡で後ろ盾がなくなったが、地元に居座って
独立勢力になった可能性がある。
>>141 趙佗が南越を建国した当時、漢はまだ存在しなかったからな。
本人は秦人のつもりだったんだろうな。
ってか、趙佗は秦の将軍だからな。
前身が秦で有る事は間違いない。
趙佗って121歳まで生きたらしいね
146 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 02:27:23 0
>>144 趙佗は王として在位66年。
ちなみに、史書に初めて名前が出てくるのが前221年。没年が前137年。
前221年の時点で20歳だとしても、104歳で亡くなった事になる。
少なくとも100歳は超えていたんじゃないか。
講談社学術文庫に「モンゴルと大明帝国」があるな
確かに元と明は遮断されてる面もあるが、繋がってる面も有るな。
まぁ、明清帝国の連続性には及ばないが。
そりゃあ少しは連続性も有るでしょうよ
元は明によって中華から追い出されたんだから
しかし、元というかモンゴルて潔いな。
草原に帰ったら中華文明をきれいさっぱり捨て去ったもんな。
>>150 まぁ、元にとっちゃ中華なんて領土の一部だからな。
根拠地はモンゴル。
確かに華南はそうかも知れないが、華北は元に取っても重要な領土だろう
大都(今の北京)にも首都が置かれていた訳だしな
>>150 ハルハ部は帰ったけど、残留したやつらもいる。
>>153 >中国の全土を見渡すと、元の国土の内側でもっとも生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、
>元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として
>150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっており、江南を併合する前の1271年とした後の
>1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。
wikipediaからの抜粋。
>>154 そいつら、洪武・永楽に粛清されなかったのか?
永楽の朱檬が、チャハル部に蒙古戦術を教えてもらい大勝利w
モンゴル人は、現代でも雲南省に少数民族としている。
ついでに、女真人も同じく少数民族として住んでいる。
159 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 03:20:19 0
>>150 トゴン・テムルがモンゴル高原に撤退した当時は、まだ元が甘粛、雲南を支配していたんだよな。
建文帝を退位させるためには、蒙古だろうが女真だろうが
上手に使うのが燕王朱檬なんだろう。
都の江蘇省には自分の味方なんかいないんだから。
>>160 「外患誘致」ってやつか
でも、乗っ取られる事は無かったから偉い
>>160 鄭和もムスリムなんだよな。
ムスリムだからこそ、鄭和を起用したんだろうが。
明は北元などを冊封して懐柔に成功。
ところが南の湖南あたりが王朝通してずっと騒がしい。
そして、万暦帝がひどすぎる。
164 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 03:34:42 0
永楽帝の粛清は洪武帝と違って、自分の簒奪を非難する者だけを粛清しているんだよな(連座はあるが)
だから、モンゴル人でも自分を支持してくれる人は重用したんだろう
洪武帝は見境なしの粛清
>>163 万暦帝の治世も、宰相張居正が生きてる間は安定してたんだがなぁ・・・。
後半25年がひどすぎる。
永楽帝のモンゴル政策は、清朝でいう「旗」ごとにバラして
逆らうやつは制裁加えてみたいな感じで懐柔と弾圧のダブスタ。
洪武帝の時代は意外とモンゴルに対して弱腰だった。
勢いで中華を統一してるから、膠着状態になると不利になる。
>>166 モンゴルが内部抗争で衰退したのも、それが遠因かな
>>163 湖南あたりがずっと騒がしいというのは、倭寇の事?
170 :
↓ こういう人達:2010/12/27(月) 03:58:38 0
,、
, ''  ̄``ヽ、 ノ i
,:' 、`"'' ‐'´,r'
, ' i `"''' ´
、,,. -_-_,---‐'' !
=f `<' ,r'
〈, '´r=ニ.. { ,:':'
_,>='-'´ ,...ヘ ,'/
r ,=ニ´‐' ´ ,,,,.---‐''" ,,ノ ,:'ノ
`''┴―‐ ''' ´ '-'- ''
www
元朝では重用された分、明朝になって反発が大きくなったんだろうな。
>>169 まぁ、確かに倭寇も負けず劣らず騒がしい
>>167 なんだかんだで、女真が台頭するまでは、明にとって最大の脅威がモンゴル(北元)だったんだよな。
英宗は明朝皇帝のくせに、モンゴル(北元)の捕虜になってるしな。
明の皇帝は名君・暗君を問わず、ほとんどDQN
もちろん、ハゲ(洪武帝、朱元璋)も燕賊(永楽帝、朱棣)も
明、北元、ティムール朝。
いずれもモンゴル帝国の後継王朝。
>>141 一応、同化を視野に入れて、現地人との婚姻を進めてたはず。
秦人主体の同化というよりは、現地に溶け込む形の同化だけど。
それと同時に中国政権らしい制度も整えてた。
関係無いけど、趙佗は三国志で有名な趙雲と同じ常山郡真定県の生まれなんだよな。
常山郡に残してきた墓のことで、漢との間に変ないざこざ起こしてもいたし。
明と北元の南北朝時代→北元の玉璽が清に移る
181 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 13:47:50 0
明の時代も、元にとってはあくまで中華世界を欠陥しただけで、遊牧国家(北元)に押される中国王朝(明)という本来の構図に戻っただけだからな。
永楽帝以後は?
かつての元が中華征服したように、明がモンゴル征服する事は出来なかっただろ。
>>181 前のレスや全体から大意はつかめるんで何の問題もないと言えばないんだが、
>明の時代も、元にとってはあくまで中華世界を欠陥しただけで、
何と言いたかったんだ?
欠陥は単独では動詞にはならないし。
あ、もしかして失陥か。
>>183 正統帝(第6代皇帝)が北元の捕虜にされました。
189 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 14:33:51 0
それらも、直接支配はしてない訳で。
明清はヨーロッパに負けてるのさ
永楽帝の時代や、康熙帝の時代ですら
>>191 永楽帝の時代はまだ中華の方が上だろ。
抜かされるのは明中期〜明後期あたり。
193 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 14:51:46 0
>>184 まぁ、でも漢も唐もモンゴル高原への支配はあくまで、
一時的なものに過ぎなかったね。モンゴル高原への、
支配と言う面では清が一番安定して恒久的だったかな。
古代から中国はヨーロッパに負けてます
>>10 王朝開くと大体、縁のある地名から取る物だけど、金と元だけは統一王朝の中で
脈絡なく付けた国号。
中華風というより、なんちゃって中華風だな。 あ、統一王朝ではないが李自成の大順も該当するかな。
196 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 14:52:30 0
永楽帝の頃(1402〜24)はまだ百年戦争やタンネンベルクやフス戦争の時代だろ
ヨーロッパ諸国は連合しても新興のオスマン帝国に負けてるし(1396年ニコポリスの戦い)
大航海時代が始まるのは鄭和より後
ヨーロッパと地中海全土が一丸となる大帝国にでもならんと明にすら及ばん
しっかしこのスレ端から見てんだけど伸びるなあ
>>1が頑張ってるの?w
近年まれにみる伸び具合だわ
特に中国関係は最近衰退気味だったのに
何にせよ良い事だ
>>197 大航海時代初期はやっと半世紀前の明(鄭和の大航海)に追いついたって感じだからな。
>>198時代限定していないから話題がつづくんだろうな。
東晋のスレなんか不人気で歓呼鳥が鳴いている。
>>198 というより、単独スレのない王朝ファンとかが何か流れ的に集結してる。
前漢も後漢もともに単独で人気あるのに、全員スレ立て規制くらってるのか未だに単独スレが立たない。
かくいう俺も無理。
「漢王朝とローマ帝国」スレが一時漢ファンの受け皿になってたんだけど、全員流れて来たっぽいな。
鄭和って基本的に沿岸公海じゃないか
明の国力とマンパワーで力技で後悔したなって感じ。
鄭和の大後悔
スレの勢いを専用プラウザで見ると、勢いが100越すのこのスレだけだしな。
質問スレでさえ、76だ。
>>198 中国史は他の地域史よりも需要は有るだろうからね
>>203 大航海時代中期になると、ヨーロッパ≧中華 になるっぽいな。
209 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 15:10:55 0
ルネサンス→大航海の連打は明にとって痛い
そして清になって半植民地にされ瀕死状態
>>195 遼は契丹族の興った遼河から
金は女真族の興ったアルチュフ川(砂金のとれる川)から
元は正式には「大元(ダイオン)」で、『易経』の「大哉乾元、萬物資始」という句から
明(大明)は太祖が禿坊主だったから
康熙帝の時代には、既にロシアと国境を接していた。
この時代も清の全盛期で有りながら、影響力は下がる一方。
>>210 >明(大明)は太祖が禿坊主だったから
マジかよ・・・
>>193 そこら辺は、時代補正によるモノが大きいかね。
>>209 明滅亡の原因のひとつにスペインのアカプルコ貿易によるマニラからの銀流入が挙げられる。
ヨーロッパ世界では銀の大量流入によるインフレで経済が急成長したが、
マニラに流れた銀はスペイン本土の2倍近くもの流入があり、この銀で中国の物産を買い付け、
明に4万トンものの銀が流れ込む。
その結果、東アジア全体に経済的変動、社会的変動をもたらし清へと政体が変化する原動力となっていくのだ。
>>210 そういや「明」って言う字は、粛清対象にはならなかったんだな。
>>214 万暦帝の時代だっけ。
その影響で、万暦赤絵が生まれたんだよな。
しかし、軍事は衰退する一方。
217 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 15:27:46 0
>>213 漢による南匈奴の支配は約200年、唐による、
東突厥の支配は約50年、清によるモンゴルの、
支配は約300年。こうしてみると、唐が極端に短いなぁ。
>>217 あの時代の遊牧民は強い。
突厥第二・ウイグル・遼(契丹)・金・元(モンゴル)
元(モンゴル)までは時代が下る毎に強くなっていく。
>>194 漢とローマは互角だろう。
ローマ帝国の東西分裂以降は中華の一強時代。
220 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 15:47:06 0
>>218 確かにね。そこら辺の時代は世界史において遊牧民が、
最も輝いてた時代だったからね。北元の後期辺りから、
遊牧民勢力が歴史の表舞台から徐々に姿を消していくね。
後金〜清は、遊牧民?
そもそも、明は再遷都論もあったはずだが、なぜ北京にこだわったんだ?
南宋のように長江こせばまだ戦えたはずだが。
南明というものもあるが、あれはいろいろと雑魚すぎて東晋や南宋とは比べ物にならな。
なぜか複数後継政権ができて全部共倒れになっているし
223 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 15:56:54 0
>>221 満洲人は遊牧民と言えるかどうかかなり微妙だね。
農業と狩猟を適度に組み合わせたような生活を、
送ってたそうだから、遊牧民とは言えないかも知れない。
>>222 南明は独立政権では無く、一応清の傘下だからなぁ
つうか、女清は最終生活おくっていたのから、半農半遊していたのとか、明とも通称して毛皮や朝鮮人参うっていたのとか
いろいろいるだろ。
>>222 あれだ。
五胡や金が襲来して来た時は江南で国を立て直す余裕が有ったが、清が襲来して来た時はそんな暇が無かったんじゃない?
清も結構ギリギリだったんだろうけどな
だからこそ、呉三桂らを王に任命したんだし
228 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 16:14:55 0
>>225 その中に遊牧生活を営んでたのも存在したのかな?
まぁ、どっちみち彼らをまとめて遊牧民とは言えないね。
>>226 普通は長江でとめられるものなんだがな・・・・
宋や晋の国家崩壊の時はいずれも長江でとまり、モンゴルですら、40年も宋を攻めあぐねたというのに
明脆すぎ。
>>219 ローマが分裂した頃にはちょうど中華も分裂しているわけだが…
隋唐はビザンツよりは上でもササン朝やイスラーム帝国と互角ぐらいだろ
>>221 まぁ、清が強かった理由は騎馬なんだろうがな。
曹操の赤壁からずっと騎兵は長江で止められたんだが、清はあっさりと長江こせたな
呉三桂らって水軍のノウハウ持っていたの?
当時は李自成が反乱起こしてたからな
明の皇族は北京にいて、それを李自成に包囲され落とされた訳だから、江南に亡命しようにも出来なかったんじゃ?
んな訳ねーだろ
明の皇族全土で王として封じられているだろ。
清は元という(長江突破の)前例が有る分、楽だわな。
このスレ時々中国人留学生が寄稿あしているが、中国人らはなぜ満州族が漢民族を圧倒したと考えているんだ?
2chみたいな掲示板の翻訳でもいいから向こうの歴史好きの意見を翻案して聞かせてくれ。
>>236 その王の中には創業者に足る人物がいなかったって事だな。
>>223 後金・清軍の戦闘スタイルはどうだったんだろう。
やはり、戦闘時は遊牧民と同じようなスタイルなのかな。
>>236 封じられていることと、就国していることは諸王にそれなりの権限があった漢代ですら別問題だけど、
封地にみんな行ってたの?
242 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 17:01:49 0
>>240 清の戦闘スタイルはちょっと良く知らないけど、
モンゴルの支配権の獲得は、明に対抗するための、
騎馬を確保したかったという理由も大きかったらしいし、
推測するに騎馬遊牧民的な戦闘だったんじゃないかな?
元々騎馬は少なかったんだね
明の皇帝は名君に限って短命だな。
それも幼帝という訳でなく、大人だけど即位してからが短命。
これは裏で何かありそうだ。
まあ、前近代社会では丈夫だった人が短期間にあっさり死ぬの珍しくないから
陰謀論とか限らないけどね。
そして、暗君の嘉靖帝(在位45年)・万暦帝(在位48年)。
>>246 そのお2人さんが明にトドメを刺しました\(^o^)/
むしろ、李自成・呉三桂の気がするが。
崇禎帝に群臣が南遷を説いたか、願として聞き入れず明を潰す結果となった。
李自成も崇禎帝は評価していたが、本人は人を信じず、我を通す悪癖があり、
それが身を滅ぼす原因となっている。
袁崇煥処刑してる時点でアウト
明の財政は万暦帝を張居正が支えていた頃はよかったらしいが、万暦帝が息子の結婚式などに巨額の浪費を続け、
政務を省みず淫蕩にふけり魏忠賢の専横を許した。
万暦帝の治世末期には明の財政はひっ迫しており、崇禎帝は貧乏くじを引いた格好となった。
サルフの戦いでは、後金が騎兵で火砲装備した明の大軍を撃破してるが、
「騎兵が下馬して」塹壕を突破したあと、再び馬に乗って突撃をかけるという戦法をとっている
根っからの騎馬遊牧民ではなかなかやらんだろう
>>250 子孫は清に取り立てられて一族大いに繁栄している。
つーか、呉三桂マジで何がしたかったの?
自分で南明滅ぼしときながら、三藩の乱起こしてるし。
呉三桂が南明の武将として、清に対して徹底抗戦していれば、何とかなっただろうに。
女真は狩猟民族。
遊牧民族という訳でもない。
258 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 17:43:42 0
>>252 まぁ、そりゃ満洲人は別に遊牧生活を中心的に営んでた訳ではないし、
根っからの騎馬遊牧民っていう訳ではないだろうね。サルフの戦いでの、
奇策は満洲人だからこそ編み出せたと言っても良いのかな?分からないけど。
清代に人口爆発した原因は康熙帝にある。
後世に禍根を残した点は評価できないな。
>>258 騎馬は戦闘に有利という理由で使ったに過ぎないんだろう。
261 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/27(月) 18:05:40 0
>>260 なるほど。清の戦闘スタイル自体は特に遊牧民的という訳でもなかったのかな。
近代兵器も巧みに使ってるしな
>>262 それは逆に言うと ヨーロッパ > 明清 という事だぞ。
>>222 弘光帝が南京で明の亡命政権を立ててるじゃん
まもなく清に南京を占領されたけど
265 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 18:15:41 0
>>264 >南明というものもあるが、あれはいろいろと雑魚すぎて東晋や南宋とは比べ物にならな。
>なぜか複数後継政権ができて全部共倒れになっているし
袁崇煥は処刑されて、呉三桂は清に寝返った。
名将のいなくなった南明は、地方政権として国の体を維持する事すらままならなくなった。
東晋の時は五胡同士が争っていてくれたし、南宋の時は岳飛らがいた
その点、南明はツイてないな
まぁ、東晋も南宋も別に初代皇帝が名君という訳ではないからね。
269 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 18:34:57 0
ってか、呉三桂が裏切らなければ、ずっと清は入関できず、明か順の政権が続いていただろ。
呉三桂が裏切ったのは陳円円のゆえ、というのは講談話で
母国の明は順に実質滅ぼされ、その順も安定政権にはならなそう
南明に加わって順を討とうとしても東の清が隙をつくと危ないし、
たとえ南明が中華を回復しても自分が賞を受けるかはおぼつかない
じゃあいっそ、清を助けて順・明を討ち、悪評と引き換えに藩王にでもなるか、と思ったのだろう
思い通りに雲南の藩王にはなったものの、清が危険な大勢力をいつまでも残しておくはずもなく
取り潰しに遭うのを恐れて反乱し、当然民衆の支持も得られず自滅に追い込まれた
271 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 19:00:22 0
清って陸軍は強いだろうけど、海軍は強かったのかね
歴代王朝と比べてどうなの
>>270 でも、雲南って相当な僻地だよな・・・。
273 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 19:06:45 0
清兵一万人で明は滅んだ。
でもバカは「清が強かった」と思うが
知ってる人は「内部の支那人がたくさん寝返った」と
考えるだろう。
274 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 19:11:54 0
いやいや、清兵一万人>明とは言わないが、清はそれなりに強かったでしょう
>>274 呉三桂が寝返るまで、山海関すら破れなかったじゃん。
清が中華統一できたのは呉三桂のおかげだよ。
276 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 19:21:22 0
で、清の海軍はやはり弱いんですか?
そもそも、清は海戦の経験が少ないからな。
少なくとも、強いとは言えないだろう。
長江越え出来たのはなぜ?
>>278 蜀を経由すれば、水軍を使わずとも江南に攻め込めるだろ。
まぁ、清も元に比べりゃ雑魚いわな。
281 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 19:45:24 0
>>252 モンゴルだとトルイが金との戦いで、下馬して塹壕に篭って戦ったりしてる。
内陸出身で海禁政策とった清に海軍もなにも…
まぁ海禁は鄭成功らの補給ルートを封じ込めるためでもあるが
清末には北洋艦隊が編成されたが、近代だしな
>>272 雲南は中華本土から見れば僻地でも、鉱山開発や交易ルートで賑わった重要な地だ
モンゴルもここを押さえていたし、鄭和も雲南出身
秦(しん)
漢(かん)
新(しん)
晋(しん)
隋(ずい)
唐(とう)
宋(そう)
元(げん)
明(みん)
清(しん)
心なしか、最後に「ん」が付く王朝が多いな
たまたまかも知れんが
285 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 20:05:18 0
>>282 じゃあ、下馬して戦ってるからと言って、「遊牧民では無い」とは限らないんだな。
>>272 日本の長崎市が僻地だろうか? 諸外国に近いし栄えているだろう。
昆明や大理を中心に地図を見てみよう。
ミャンマーのヤンゴン港は近いし、ベトナムのハノイ港も近い。
西南の玄関口なのだよ。
そりゃ、首都の北京から見れば遠いし、確かに山奥なイメージもあるが、雲南は結構重要な位置。
インド・東南アジアに近いしね。
288 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 20:18:15 0
ってか、三藩の乱を起こした三藩は、清と東南アジアの間を塞いでたんだよね。
つまり、交易に支障が出る訳だ。
289 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 20:24:16 0
>>193 でも、清の時もモンゴルは直轄では無かったんだよね。
藩部だっけ
近代化を遅らせた犯人は司馬光と西太后
292 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 20:42:12 0
>>289 世俗支配者は弁事大臣配下のいわゆる藩部。旗という単位。
ただハルハ部族仏教の頂点=ボグドハーンだけが冊封扱いで独立勢力。
>>293 藩部と冊封はまた違うのか。
清の影響力の強さで言えば、直轄>>>藩部>>>冊封>>>その他 ぐらいか。
>>294 違うよ。冊封は独立国に対しておこなうものだから版図の外。
なるほど。
地図を見ると、モンゴル(ハルハ部)も清の版図に含まれているように描かれていたので、てっきり版図の内かと。
297 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 21:00:19 0
清はイギリスに負けてる
直轄といっても、満洲族と錫伯族は特別。
総督-巡撫-県令の流官統治と違い
将軍府という役所によって世襲貴族の旗人を統括するようなイメージだと思う。
>>296 世俗は版図内、僧侶は版図外というわけで
ボグドハーンという僧侶だけが優待されている。
ジュンガルから逃げてきたのを保護したという経緯による優待。
朝貢国とも違うの?
300 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 21:12:40 0
女真三国志
海西・建州・野人
ちなみに、ヌルハチは建州女真
>>299 朝貢ってお土産のほうが多いのだから
それだけやるのは反則なんじゃないの?
冊封文書を受理せずに、おいしい所だけ齧るのは建前上NG。
朝貢したら、追認でもいいから冊封させろと明とか清は煩いんだよ。
302 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 21:18:15 0
>>299 >冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもある。その
>逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることが出来る。
同義です。
303 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 21:24:17 0
あ、ごめん。同義じゃないわ。
>冊封により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うこ
>とが出来た。
>>301 朝貢って、なんだかんだ、宗主国としての国力を見せ付けるのが目的だからな。
朝貢自体はポーズに近い。
>>303 でも、ハルハ部は冊封国であり、朝貢国でも有るでしょ
305 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 21:34:51 0
ぬるぽ
306 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 21:37:06 0
ぬるはち
>>306 それが言いたかったんですね。わかります。
308 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 21:41:35 0
三国志って有名だけど、魏・蜀・呉、どの王朝も世界的にみたら雑魚いよね
実際は大した事ないよね
309 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 22:00:03 0
>>308 魏>>>>>>>>>>ローマ>>>>>クシャーナ=ペルシャ>>>>>パルティア=鮮卑>>>>>呉=蜀
>>309 どっかいけ
つーか、その中ならダントツでローマだから
311 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 22:07:53 0
>>308 中国王朝は全体的にザコい。
漢も唐も清も大した事ない。
元だけが唯一、世界と肩を並べられる帝国。
何言ってんだコイツ
>>311 唐・清はともかく、漢は凄いだろ
古代にあれだけの大帝国を築いたんだぜ?
こんな程度の低い釣り針に食いつくバカが居るのも冬だからか?
316 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 22:30:38 0
前漢の最盛期と後漢の最盛期は、どっちが漢の最盛期にふさわしい?
317 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 22:37:29 0
>>316 漏れは後漢を推す
前漢は最初匈奴に押されてた分スタートが低い
最盛期は後漢の方が上
前漢は「文景の治」が有るけど、後漢にそんなの無いだろ。
一日でスレの質が急に下がったな。 冬休みだからか?
>>319 そう思うんなら良い話題提供しろよ
じゃなきゃ同罪
いやいろいろとレスつけてはいるが、急にレベル下がったなと見たとおりの印象しかないね。
322 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 23:16:29 0
仕方ねーな。
おまいらのために、俺なりの順位を付けてみた。
1位 漢
製紙法の発明 東西交易の発達
2位 唐
国際都市長安
3位 宋
宋銭
異論は認める。
隋って短命だけど、何気にあの大運河を開発したという点では、かなりの影響が有ると思うんだ
ワーストな王朝は挙げないの?統一王朝だと限定されるから泡沫系の王朝も挙げるのアリとする
隋や秦など土木工事をこのむ王朝は短命におわる。
自民党政権も100年続かなかったろ
>>324 明と清の間に存在した、影の薄い大順帝国がワースト1位かな。
327 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 23:44:39 0
>>325 土木工事が行われた当時は悪評でも、何十年、何百年して「やっぱり役に立った」と評価される事はあるよな。
後世にさほど影響を残していないという点では、新・晋・周辺りがワーストになる(統一王朝の中では)
>>327 あくまで後世の評価であって同時代の人間にとっては賦役は強い不満の種。
案の定王朝はとっつぶれたでござる。
田中角栄にいたっては論外。 煬帝や始皇帝の足元にも及ばない中卒。
晋は悪い意味で後世に強い影響を与えているだろ。
八王の乱、永嘉の乱で胡族が入り乱れるようになったのは
晋王室司馬氏の内訌がそもそもの原因だしな。
儒教を定着させた以外はクソの役にも立たないどころか、
内憂外患を自ら呼び寄せた王莽の新が最悪
>>326 ところが、中国共産党は順を高く評価しているよ(本当)
333 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 23:59:11 0
>>330 五胡が移住してきたのは、前漢〜後漢〜三国にかけてだからなぁ。
八王の乱・永嘉の乱が起きなくても、何かの拍子で五胡が反乱を起こすというのは有り得ると思う。
李自成はいわば成功した陳勝呉広だからな。
続けば今頃大英雄だったな。
>>331 王莽って、即位前は民衆に慕われていたらしいな。
即位後に支持率急落。
337 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 00:15:20 0
大規模反乱は王朝滅亡の原因になる訳だが、その反乱を起こした当人も成功する訳では無いんだな
陳勝・呉広の乱 → 劉邦が天下統一
赤眉(樊崇)の乱 → 劉秀が天下統一
黄巾(張角)の乱 → 司馬炎が天下統一
・
・
・
漁夫の利を得た人が成功するようだ
>>337 陳勝やら李自成やらは、時代の徒花でしかない。
>>328 周はもはや唐の一部だもんな
一つの王朝として扱われてない
武周は年号変えすぎ。
たった15年で12回も変えてる。
どんだけ異変が有ったんだよって話。
女ってそんなものだろ。 長期的なビジョンがなく場当たり的な施政者が多い。
アラスカ州のペイリンなんか私が大統領になったらイランと戦争するわというキチガイだし
342 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 00:40:35 0
建武32年(後漢光武帝の治世)
貞観23年(唐太宗の治世)
開皇19年(隋文帝の治世)
名君の治世だと、やはり年号は長続きしているな
え?
246 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/12/27(月) 17:14:33 0
そして、暗君の嘉靖帝(在位45年)・万暦帝(在位48年)。
>>343 それは、「一世一元の制」が導入されて以降だろ
論外
>>344 そりゃそうだけど、明の暗君の多さ、期間の長さは異常だよん。
>>342 開元(唐・玄宗時代)28年
永平(後漢・明帝時代)17年
永元(後漢・和帝時代)16年
和帝も何気に長いぞ。
342涙目w
でも、和帝って暗君では無いんでしょ?
むしろ、名君と言っても過言ではないぐらい。
明以前は、僅かな異変でも年号を改元してた
年号が長続きしているということは安定していたという事
それ以上でも、以下でもない
ちなみに、明以降は皇帝が生きている限り改元される事は無いよ
352 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 01:16:41 0
中華史上で一番の短命皇帝は明の泰昌帝(1ヶ月)か、順の李自成(41日間)だな。
1ヶ月と言っても29日〜60日と幅広いから、李自成より短いとは限らん。
>>251 万暦の三征も明滅亡の一因
それに万暦帝個人の贅沢浪費が重なって崩壊寸前という時に崇禎帝のターンがやってきた
つまり、万暦帝は頭だけでなく、運も悪いと。
万暦の三征の一つ、楊応龍の乱には
>>170も参加しています
崇禎帝は既出だが、袁崇煥の粛清と、群臣による南遷上奏の否決が大きい
李自成と清に挟まれてはいるが、そういう地勢の悪い北京にこだわったの
彼の自己責任だから。
楊応龍なんて四川に独立政権が三代続いた試しはないし秦良玉に討伐されたカスだから。
そうやね。
なんだかんだで、明にとどめを刺したのは彼自身(崇禎帝)だと思う。
万暦帝も明を衰退させてはいるが、とどめを刺したのはあくまで崇禎帝。
もう少し優秀なら、せめて南明は存続出来たんじゃないかな。
359 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 01:48:40 0
ボバイの乱→楊応龍の乱→李自成の乱
こうみると、明朝も結構持ちこたえた気がするぞ
秀吉の朝鮮侵攻もあったぞー 島津が泗川の戦いで大勝利! 明軍よえええええええ!
呉三桂って秦檜や汪兆銘なみの漢奸だわな。
満州族が自力で山海関を突破するのって、可能なん?
>>362 石敬瑭もなかなかの漢奸だ
まぁ、そもそも漢人では無いのかも知れないが
自力の定義にもよるなあ
多分崇禎帝と袁崇煥を離間させたのホンタイジやドルゴンだろうし。
満州族はそれまでの塞外民族とちがい、結構寝技使うからね。
ホンタイジの時代も、長城の外で着々と勢力拡大していたからな。
呉三桂が清に寝返ったのも、清の計略なんだろうか。
ドルゴンが何もしていないとは思えないなー
ドルゴンいなかったら清は中華全土支配できたかどうか?
チャハル部攻撃してモンゴルを降し、迂回して華北侵入も彼の発案じゃなかったか?
>>364 元々宋が3度裏切ることになった領土問題の遠因作った人物だしな
どうみても中国人の間で嫌われているでしょう。
時々している中国人学生にもきたら聞いてみるといいかもー漢奸って誰が該当するか?とね。
>>367 なるほど。じゃあ、どっちにしろ時間が経てば清は中華侵入出来ていたんだな。
まぁ、その頃には李自成の順が統一してるだろうから、多少苦戦するだろうが。
どうかなあ・・・・李自成は皇帝になったとたんに毎日のように宴会して政務試みなかった馬鹿だからな。
皇帝になるのが目的で皇帝になったらどうしようというビジョンが欠落していたからな。
賊と施政者とはまた別の領域であるということを全く理解してなかったからね。
一応目的は果たしているな
41日天下だが
>>370 朱元璋レベルじゃないとあっという間に滅ぼされるだろうな。
ちなみに、順軍の残党は南明と共に、清に対して抗戦している。
なんだかんだで、同じ漢人として協力していたんだな。
>>363 正攻法(山海関突破)が無理なら海から攻め込む事も有り得る
376 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 03:06:32 0
呉三桂が寝返ったのは、李自成の乱が原因
李自成の乱が起きたのは、崇禎帝が駅伝制度を廃止した事が原因
また、袁崇煥を処刑したのも崇禎帝
つまり、崇禎帝が全て悪いという事でFA
そうだ!崇禎帝が全て悪い! あやめさんが世界史板に来なくなり、山野に粘着していた
朱由検が全て悪いのだ。
>>376 それもまた極論。
崇禎帝の自滅も明にとってはかなり痛いが、全て悪いという訳でも無かろう。
どれだけ名君が続いても、崇禎帝のターンが来たら崩壊しそう
380 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 03:28:08 0
なんつーか、崇禎帝は嘉靖・万暦と違って、自ら進んで政務を行っていたんだよな。
ただ、進む方向を間違えたというか・・・。
どっちにしても、行動力は有ったと思うんだ。
その点、隋の煬帝に似てる。
いかがなもんでしょうか
>>117 「治 唐宋より隆し」と称されているが(明太祖の時代)
>>304 違う。坊主だけが冊封・朝貢の特異な形。
世俗統治者は大臣配下の二重構造。
ボグドハーン≠ハルハ部か
ハルハ部がボグドハーンに「大政奉還」したから
ハルハ部は清朝から独立した存在となり、袁世凱もそれを承認したのだ。
>>382 何気に明の版図は唐宋より広いんだよな。
ボグドハーンってチベットの人なのな
>>376 >李自成の乱が起きたのは、崇禎帝が駅伝制度を廃止した事が原因
そうせざるを得なかったのは万暦帝の悪政が原因なのだが。
万暦帝が金を使いすぎて、財政を立て直すため仕方なく駅站廃止した訳だ。
途中でゲルク派に改宗したので、転生活仏として相続する際にそういうことになってしまった。
初代はジュンガルのモンゴル人なので、どこから選ばれようと魂的にはモンゴル人。
チベットとのコネがある点では有利に働くな
実質はモンゴル人だしな
391 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 06:01:50 0
>>388 張居正が生きてる間は、万暦帝自身もまともだったんだがな
張居正が死んでから、朝廷に顔を出さなくなった
2ちゃんねるはクズ。
2ちゃんねるは反省しろ。
2ちゃんねるは俺に謝罪しろ。
>>376 ヌルハチの台頭は李成梁のミス
これを防いでいれば、どうにかなった訳で
少なくとも遠因は、万暦帝の時代から出始めていた
396 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 13:37:35 0
>>323 遣唐使も二番煎じだったりする。
遣隋使が先達。
煬帝って、始皇帝と同じで、名君なのか暗君なのかよく分からんな
>>328 玄宗の代に開元の治を迎えたのは、武則天のおかげとも言われているが。
399 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 13:52:11 0
>>397 民が困窮していたのは事実だから、名君とは言えないでしょう。
大運河を建設するにしても、やり過ぎです。
煬帝は目立ちたがり屋なだけで、利便性を思って大運河を建設したわけではないしな
でも、そのおかげで唐は楽が出来た感は有るが。
大事業を隋が全てやってくれたおかげで。
その点、漢と唐は似てる。(漢の場合は、秦が大事業をやってくれた)
>>401 秦は万里の長城を作っているね
あんまり意味は無かったけど
403 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 14:10:26 0
>>397 隋を滅ぼしたのは煬帝と言っても間違いでは無いだろ
ちなみに、律令や科挙制度が制定されたのは隋代。
唐はそれを引き継いでいる。
隋も後世に大しては、それなりの影響力を誇示している訳だ。
>>402 駅伝制と貨幣統一と路幅&馬車の規格化は大きいだろう。
>>404 それを改良したのが唐宋
後世の人たちは唐宋に改良されたモノを使っているわけ
407 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 14:31:21 0
>>405 それによって、始皇帝のやった事は他国征服では無く、あくまで中華統一という事になったんだよな
>>396 そらあんまり関係無いでしょw
どちらかというと仏典欲しかったり制度学びたかったりは日本の事情だし。
むしろ隋ばかりではなく、それまでの王朝の蓄積あってのものだから。
>>400 いや、本当は洛陽から長安に遷都したがってたけど、輸送費が跳ね上がるので無理だったという実際的な事情もある。
前漢期の時点で人口的に長安は飽和状態で、とんでもない漕運費用がかかっていたという研究がある。
前漢末に現れる洛陽遷都計画には、裏にはそういう事情があったわけ。
隋の時点で実は長安あたりはその人口をほぼ回復してしまっているので、運河無しにそれをやったらアウト。
国費ヤバな状態になる。
409 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 14:41:40 0
隋文帝も、長安〜洛陽あたりに運河を作っているよね。
名前は忘れたけど。
楊堅……
>>408 それを受けてか、後漢の光武帝は洛陽を首都にしているよな
秦の頃は、咸陽としてそれなりに機能していたんだが・・・
414 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 14:57:34 0
>>405 始皇帝は文字も統一している。
やはり、それまでは完全に別々の国家だったんだな。
当時は、同じ漢民族という意識は有ったんだろうか。
>>413 光武帝の頃ですと、赤眉のせいで既にかなり荒廃しちゃってるし、
今更再建しても将来的にまた人口復活したらアウトなので、
長安に都を建てるのは二重三重にアウトだったりしますね。
>>414 漢というものは存在していなかった。
中原という概念はあったみたいだし、失墜したとはいえ、周という権威はあったが。
>>415 光武帝が即位した当時、まだ長安を支配下に置いた居なかったというのもあるな
ちなみに、前漢高祖の劉邦も洛陽遷都を考えた事が有ったとか
>>417 洛陽がそれだけの都市になったのは、東周が長安から洛陽へ遷都した時だな。
東周になってからもそれなりの権威は有ったんだな。
419 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 15:17:04 0
>>408 宋以降、長安に首都が置かれなくなったのは、やはり人口が原因かな?
運河を使っても、食料を賄い切れなかったのかね。
そして運河に近い、開封が首都に。
>>419 開封は大運河が開通した隋代から徐々に栄えていた
唐末に長安が荒廃した事で開封は首都になれました
そもそも、長安なんて1000近く前の話だろ。栄えていた頃っていつの時代の話だよ。
それを言っちゃあおしまいよ
>>419 唐代も国際都市長安として繁栄した裏で、食糧難に陥っていた。
安史の乱以前は大運河を通じてなんとかなっていたが、安史の乱以降は運河が機能しなくなった。
そして、ついに洛陽へ遷都した訳。
>>416 当時の概念では、秦や楚も異民族扱いだよね
425 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 15:48:05 0
>>328 王莽の新も、地名や役職名の改名、農地の国有化、奴隷売買の禁止、国家による安い金利での融資、など、良くも悪くも色々と改革はしてる。
後漢が前漢と別王朝扱いされる所以も、それに有るんだな
>>425 しかしそれは、その時代、一時的に混乱しただけで、後世への影響は限りなくゼロだよな
>>425 そういえば、その当時、南方に「哀牢」「句町」という国が存在したらしいが、それについて知ってる人いないかな?
低金利融資は確か前漢にも例があったし、奴隷売買の禁止も董仲ジョの議論が最初だしのう。
農地の国有化が均田制のモデルになったくらいか。
地名や役職名の改名に至っては、ただ単に混乱させただけだからなw
あと奴隷売買禁止はすぐ撤回してる。
>>429 王莽の王田制(農地の国有化)以前にも、周代に井田制が行われていたり、前漢哀帝が限田制を実行しようとしていたりする。
王莽「下句麗」
434 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 16:20:57 0
新貨幣鋳造、塩鉄専売制もやってる。
どれも二番煎じだが。
>>428 名前は聞いた事が有るけど資料が少ないしよく分からん
中国王朝って泡沫国家を合わせると、全部でどれぐらいの数が存在したの?
『華陽国志』『後漢書』『水経注』などによると、秦漢の時代には雲南西部地域に西南夷の支族がおり、哀牢山周辺に居住することから哀牢夷と呼んだ。
伝説によれば、哀牢山のふもとに住む沙壹という名の婦人が、水中の沈木に触れて感精し、10人の男子を産んだ。
沈木に化していた龍が水中から出てきた時、9人の子供は龍を恐れ逃げたが、末子は逃げずに龍の背に座り、龍から頭を舐められた。
そのことで『九隆(ジュウロン、土地の言葉で「背中に座る者」)』と名づけられ、後に長じて王となった。
のち附近に10人の娘をもつ夫婦がおり、この娘たちを九隆兄弟が娶り、これらの子孫がそれぞれの邑落の小王となったという。
前漢時代、この地にも一旦は郡県が設けられ、後漢代には哀牢王の柳貌が55万人余りを率いて内属を求めた。
後漢の明帝の永平12年(紀元69年)、新たに哀牢と博南の2県をこの地(現在の保山市と雲龍県境)に設置し、益州郡6県と合わせ、新たに永昌郡を設置した。
彼らは文身(入れ墨)、貫頭衣などの習俗を持ち、タイではタイ族の祖先ともみなされる。
しかし民族系統については意見が分かれ、イ族(チベット・ビルマ系)とも、濮越系統と関係があるともいう。
唐代に南詔国王となった蒙姓部族は「沙壹という哀牢夷の後裔である」と称している。
438 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 16:55:14 0
日本は中国に領有権があることが判明しました。
中国は、チベット領有の根拠を、1951年に強要した「17条協定」のみならず、歴史的な冊封体制にも求めているからです。
つまり、中国は、過去の一時期にあってチベットを冊封したのだから、中国にはチベットの領有権があると主張している
のです。
といことは、日本も中国による占拠を受け入れるべき道理ですよね。
日本は自衛隊を廃止して、素直に受け入れるべきだろう。
哀牢夷は紀元前100年前後に出現(?)している
>>438 冊封は独立国に対して行うものです。
ですから、冊封したから領有権があるという考えは間違っています。
勉強し直して下さい。
>>438 多分、中国人がてにをはを間違いやすいところから、
「中国人が日本人になりすましてこんなこと書いてる!」ってやりたかったコピペなんだろうけど、
中国語や英語は目的語が文頭に来ることはほとんど無いから、まともな知識があればバレバレだな。
442 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 17:15:23 0
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0320&f=column_0320_005.shtml 中国は最も多くの領土を失った国。日本は琉球王国を沖縄県と改名、残虐な同化・奴隷化政策を開始した
現在に至るまで、最も多くの領土を失った国家はどの国か分かるだろうか?それは中国である。尖閣諸島や南シナ海における群島を考慮しなくても、
603.46万平方キロもの領土を失っている国家は中国を除いて他にはない。
ロシアは17世紀の南下政策から始まり1921年までの間に444万平方キロの中国領を奪った。日本は中国から4600平方キロもの琉球群島を奪った。
琉球王国の各種資料によると、1383年以来、歴代の琉球王は中国皇帝に冊封(中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と君臣関係を結ぶこと)を求め、
正式に君臣関係を結んだ。この関係は1609年、日本の薩摩藩が琉球に侵入しても継続されたが、1879年、日本は琉球王国を沖縄県と改名、残虐な同化・
奴隷化政策を開始したのだった。
インドは9万平方キロの南チベットを奪った。吐蕃王朝(とばんおうちょう:7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国)以来、チベットは今日に
至るまで中国の管轄の下にある地域である。
1914年、チベット政府とイギリス領インド帝国の間で隠密裏に取り決められたマクマホン・ラインは、中国歴代政府は承認したことのないものである。
しかし、インド政府は1950年から53年にかけて派兵した上で領土を奪ったのである。62年、中国軍は中印国境紛争地帯に派兵、大規模な戦闘にまで発展した。
上述の603.46万平方キロもの領土は17世紀から現在に至るまでに失ったものであり、このわずか300年の間に我々中国人が一体何をしたというのであろうか?
現在の領土の半分以上の土地を失った事実は我々中華民族の恥辱であり、永遠の痛みでもあるのだ。
>ロシアは17世紀の南下政策から始まり1921年までの間に444万平方キロの中国領を奪った。日本は中国から4600平方キロもの琉球群島を奪った。
ロシア:「444万」平方キロ「の」中国領を奪った
日本:「4600」平方キロ「もの」琉球群島を奪った
この表現の違いは何・・・。
444 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 17:21:54 0
>>362 >>365 ホンタイジの場合は、なかなか山海関が破れないので、我慢できず裏口から明に侵攻したとか。
445 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 17:29:47 0
>>367 清が中華全土を支配した当時、順治帝はまだ10歳とかそんなぐらいだったな。
ドルゴンを全てを取り仕切っていたかと。
宋画は世界に影響を与えているのかね?
宋は統一王朝で面積が最も狭い。。。
春秋戦国時代って世界史的にはどうなの
諸子百家とかは世界史でも重要だと思うんだが
ドルゴンは順治帝(アイシンギョロ フリン)の母親とフリンしていた。
>>448 確かに秦の中華統一は、商鞅によるモノが大きいな。
まぁ、白起・王翦によるモノも大きいが。
始皇帝が生まれた時には、すでに秦が中華の西半分を制していたし。
世界への影響で言えば、孫子(孫武)の兵法とか
アイシンギョロ プーイーはガチホモ。 子供おらず。
454 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 18:30:38 0
>>450 当時(秦代)の法治主義と、現代の法治主義はまた異なる
>>450 商鞅の法治主義って本当に必要だったの?
その法治主義のせいで、秦帝国が15年で滅んだんでしょ?
漢帝国みたいに緩い感じでも良かったんじゃないの?
456 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 18:45:40 0
【話題】 豊臣秀吉は中国・朝鮮どころか世界征服計画持っていた!
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1293524201/ SAPIOが識者50人に実施した最強のタフネゴシエーターは誰か、というアンケートで3位に選ばれた豊臣秀吉。
秀吉には壮大な野望があったと評論家、西尾幹二氏は指摘する。
秀吉が中国すなわち大唐国を制圧する企てを公言したのは関白になった直後の天正13年(1585年)で、
攻略の目標は朝鮮を越えて明に据えられていた。
しかし文禄元年(1592年)、日本軍が釜山に上陸し、二十日あまりで漢城(現在のソウル)を占領したときに
関白となっていた秀次にあてた書状によると、彼の壮大な世界征服計画はさらに一段と拡大していた。
北京に後陽成天皇を移す。都の周辺の国々10か国を進上する。秀吉自らはまず北京に入り、
その後寧波に居を定める。諸侯に天竺(インド)を自由に征服させる。
この構想は中華帝国に日本が取って代わるのではなく、東アジア全域に
一大帝国を築きあげようとするものであって、秀吉が北京にいる天皇をも自らは超えて、
皇帝の位置につき、地球の半分を総攬すべき統括者になろうというようなこのうえもなく大きな企てであった。
これはすなわち、中華中心の華夷秩序をも弊履(へいり、破れたくつの意)のごとく捨て去ってしまう
日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者として立ち現われた点が注目されなくてはならない。
これを誇大妄想として笑うのは簡単である。結果の失敗から、計画の評価を決めれば、
すべては余りに無惨であった。
しかし彼は病死したのであって、敗北したのでは必ずしもない。
秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ2世と同じ意識において
世界地図を眺めていた、日本で唯一人の、近代の入り口における「世界史」の創造者として
立ち振る舞おうとしていたということが重要なのである。
http://www.news-postseven.com/archives/20101228_8720.html 朝鮮の人々は世界征服を企む日本人から世界を救った大英雄だった。
漢の法が緩かったんではなく、秦の法が異常だったんだけどな。
何せ、無理からぬ理由で用役の場所に遅れただけでも死刑だから。
明は靖難の変で、良く北元に反攻されなかったな。
この時期に攻め込まれていたら、長江以北は再びモンゴルの手に落ちていただろう。
>>455 それ(覇道)を用いた、秦の歴代王・皇帝に問題がある
ちなみに商鞅は他にも帝道、王道などのレパートリーが有った
決して商鞅の意地悪で秦の法が厳しくなったわけではない
>>457 統一前はそれで統率力を高めるという事で良かったのかも知れんが、統一後もそれを続けたのは問題があるな
支配面積が広く、支配人口が多くなると、そういう事で反乱の回数が増えるのは必須
巨大な中華の統一王朝が厳しい法治主義を用いるのは相応しく無かったという事だろう
何事も臨機応変に。
462 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 19:14:32 0
陶芸
唐三彩(唐代)
毫変盞(宋代)
宋磁(宋代)
万暦赤絵(明代)
天啓 (明代)
元朝は、景徳鎮の白磁に中東産のコバルトブルーで染付をした「青花」を世界中に売り出していた。
イスラム世界の各地や東アフリカにまで青花磁器が見つかる。
明代中後期には中東からのコバルト顔料が入らなくなり、銅紅での赤絵になった。
465 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 19:29:39 0
中国歴代王朝の軍事力に序列をつけるとどうなるよ?
466 :
465:2010/12/28(火) 19:31:19 0
あ、書き忘れたけど、世界への影響力という意味でね。
陶磁器は宋元が至高かな
宋と元では陶磁器のタイプが異なるから、どっちが上かは一概に決められないが
>>463 漢代には既に青磁があるでよ。
殷代発祥と言われてるけど、発掘品分析ではそれまでのは灰釉って言って別物だった。
>>465 モンゴル帝国入れて良いなら段違いでモンゴル。
>>465 領土の面積なら
清>>>>>>>元>>>>>>>>>後漢=明>前漢>唐・・・
しかし、影響力なら清は大分落ちるかな
へー高宗時代の唐って地図で見るとでかいけど
後漢とかより小さいのねん?
唐がアラビア海に接していたとは初耳
477 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 20:33:42 0
唐の版図はせいぜいアラル海辺りでしょう
カスピ海まで行くとせいぜい唐の冊封国という程度で、版図の外になるかと
エセ地図は置いておくとしても吉川の地図とか見ると
唐の最大版図はデカイよ。
元本体と良い勝負で北緯は元が上だけど、西方経度では唐の方が上みたいな感じ。
南方はどっこいどっこい。
>>478 元 北・シベリア南部 西・チベット西部
唐 北・モンゴル北部 西・アラル海
ぐらいか。
面積では「元≧唐」ぐらい。
482 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 21:02:43 0
唐は元・清の次に面積広いと思われ。
いや、ヘタしたら元・清より広いかも。
>>438 ダライラマ法王庁が、清朝に冊封されたことなんか一度もない。
一応権力構造としては、駐蔵大臣の支配下にあった。
中央チベットは、ハルハモンゴルや雲南四川(ジャン王木氏)シャングリラと違い
政教分離がされていなかったので、坊主単独で冊封していない。
>>467 最盛期は北宋後半〜南宋時代と言われています。
>>468 灰釉(殷代)は、青磁(漢代)の前身かな。
地図によって違うのはそうだが、高校世界史程度の地図・資料集をみる限り
唐は両漢・明よりは確実に最大版図は広い。
エセ地図なんぞ問題外。
>>487 ただ、純直轄地だとそうでもなくなるんだなぁ。
>>397 煬帝はなんか大酒飲みだったと書いてある本が多いな。
>>488 唐は地方分権色が強く、広義の版図ではかなり広い事になるが、狭義の版図ではあまり広くないんだよな。
>>487 言い忘れたが、漢の方が広いとするのは、英語版wikiの記述。
何やらロシアやらイギリスやらの論文誌準拠っぽい。
>>486 漢は「国属○○」というのが多いから、それを除いた純直轄地だけを見ると、割とまともじゃない?
唐の場合は、ほとんど純直轄地として書かれているからなぁ。
最大版図はでかくても、第二突厥の興亡とウイグルの台頭、
タラス河畔の戦いや安史の乱でほぼ崩壊したわな
あとの唐帝はウイグル・吐蕃・南詔・藩鎮などに圧倒されてどうしようもない
>>492 西域がほとんど漢領土扱いなのはアウトかなぁ。
確かにあそこの諸国は漢内部の諸侯王と冊封国の中間くらいで、
なんか事ある毎に漢に助けを求めて来たりで微妙な地位なのは事実だけど。
>>493 玄宗時代は唐の最盛期と言われる事が多いが、それは政治的な最盛期であって、領土面ではかつて(高宗時代)のような広さを取り戻せなかったんだよな。
その理由が第二突厥の台頭なわけだが。
>>491 頼むからwikiとかやめてくれ
こと東洋史に関する限り我が国の学問的水準を舐めないで欲しい
>>494 西域は版図の外になるんかな。
前漢の場合も、版図の外?
499 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 21:56:59 0
明は西域支配してないから、少なくとも漢・唐よりは狭いだろうね。
>>497 外だろうな。西域は敵対部族もいれば漢に救助を求める部族もいてモザイク状態。
西域諸国はあくまで漢の属国であって、純直轄地というわけでは無いんだよな。
>>498 715と書いてある。高宗時代じゃないな。
ちゅうか、多分wikiの記述は羈縻政策の地や、都護府を除いたものなのだろう。
それだと実際に漢の版図の方が大きいと思うぞ。
>>502 高宗時代は冊封などを含めた意味での最大版図を築いた時代なのでは?
直轄なら玄宗時代の方が広かったりして。
じゃ他の国もそれに準じて計算して欲しいが
ただ単に算出元の年代の地図でやってるだけ。
大日本帝国とかみれば分かりやすい。
大日本帝国って漢・明より広かったんだな
508 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 22:15:54 0
唐がアラル海まで支配していたというのは間接的な支配?
というか、日本は本州だけでも中国の地図と重ね合わせると案外かなりでかいからな。
大日本帝国は直轄地以外となる場所はベトナムだけだろ。
「都護府」は直轄扱いになるの?
こんだけ余計な話してて、実はちゃんとスレの話題にも沿ってるというのは久しぶりだなw
しかし、中国王朝で面積の広いワンツーの王朝が元と清だというのは、皮肉な話だな。
514 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/28(火) 22:35:15 0
>>508 アラル海のほうはどう頑張っても直轄支配とは言えないでしょ。
>>511 「都護府」は羈縻支配の一環だから直轄地とは言えないと思う。
ただ、唐の西域統治はそれなりにちゃんと支配が及んでたから、
唐の領土に含めても構わないとは思う。漢のほうは良く知らないけど。
漢の方も直轄支配ではないというのがさっき出た結論。
つー事は、武帝の時代が前漢の最大版図というのも嘘になるよね。
実際は、ほとんど拡大してない事になる。
>>516 いや、それはウソじゃないぞ。
それまで漢では入ってなかった朝鮮や満州南部や南越やベトナムや雲南を直轄支配にしてる。
あと并州も広まってるな。
西域は都市国家が乱立してて支配が難しいわな
>>514 むー、それだと境界線を引くのが難しいね。
西域の全てが漢の直轄というわけではないが、一部は直轄支配していたんじゃないか
524 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 23:13:23 0
>>514 その場合の西域は東トルキスタンの事ですかね
525 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/28(火) 23:17:55 0
>>524 うん。西トルキスタンのほう(というかソグディアナの辺り)は、
属国のようなもので、半独立国と言っても差支えがないね。
西域を支配できたのは、漢・唐・清だけか
宋・明はやる気が無かったのかな
527 :
世界@名無史さん:2010/12/28(火) 23:31:51 0
>>526 やる気が無いというより、それだけの軍事力が無かった。
宋・明って防戦一方でしょ?
永楽帝の時代は?
>>528 対モンゴルだけで精一杯。
西域に手を出してる暇なんか無い。
宋・金はテュルクやキタイが暴れまわる西域に行く前に西夏を倒せません(青海の青唐国はなんとか倒した)
531 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 00:15:00 0
金は西夏を属国に出来たんだけどね。
倒すほどの余裕は無かった。
まず、南宋も倒せてないし。
万暦時代の明はトメットに邪魔されて西域に攻め込めない
534 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 00:35:14 0
ローマ帝国の最盛期は五賢帝時代と言われているように、中華帝国の最盛期を決めるのは難しい。
536 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 00:50:31 0
唐は軍事・経済・文化、どれを取ってもケチの付けようが無いほど繁栄してるでしょ。
一方、宋以降はどこかに欠点があるし、清は植民地にされてるし。
唐が中華黄金期と言える。
と、唐信者が申しております
70 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/12/06 21:09
>68(中国王朝強い順)
納得できる箇所と、さにあらざる箇所があるな。
軍事力・経済力等を勘案した総合的な国力を
私なりに比較してみよう。
清>明>元>宋>(越えられぬ壁)>>前漢≧後漢>>(超えられぬ壁)>>唐>晋
───であろうな。唐という王朝は意外に弱い。
経済基盤が弱体であり、両税法により財政強化されたものの
その頃には既に皇帝権大きく後退して、総体的国力そのものが
衰えていた。中世の最盛期たる李世民の治世をもってしても、
古代の最盛期たる前漢をさらに下回る筈だ。
また清王朝は紛れもなく東アジア史上最大最強の国家だろう。
その強勢たるやチンギス汗の蒙古帝国を遥かに凌駕する。
>69(秦が入ってないし)
私も短命に終わった王朝は埒外に置いた。
ちなみに魏・呉・蜀が晋よりも遥か下位に位置することは、
言うまでもない。
>>538 単純比較で漢に劣るという事は、相対比較だと漢の足元にも及ばないな
つーか、清が列強に植民地化されはじめたのって19世紀以後だろ
それ以前の明や宋が19世紀の欧米列強に勝てるか?
過小評価乙
>>540 何百年も前の国と戦って、欧米列強が勝つのは当たり前じゃん。
時代と共に進歩出来なかった、明清に問題があるわけで。
>>7 モンゴル帝国の一属領が元朝だろ。
支邦ではなく本国皇帝の所領だから、本国皇帝が元の皇帝をかねている。
大元が中国王朝だとしても、大蒙古はモンゴル王朝だわな
>>544 >大蒙古はモンゴル王朝だわな
元はそのモンゴル王朝(モンゴル帝国)の一部な訳でして。
>>508 西域諸国は支配されていたという意識は無いんではないの?
通商の便宜のために手土産持った使節が長安に出向いた、唐の使節が来れば歓待した、くらいのものだろう。
唐王朝は、オアシス都市のソグド語の文献なんかでは、タングのシャー(唐の大王)ではなくて、タグブトのカガン(拓跋の可汗)という表現で
出てきているから、オアシス都市間を支配する遊牧王朝で、支那の農耕地域も西域のオアシス都市も同格の鮮卑人の支配下にあるものという
感覚だったかもしれん。
つまり傍から見れば、唐(拓跋)は征服王朝でしたと。
>>534 唐ではないの?
地中海方面の勢力と直でやりあったのって、後にも先にも、アッバース王朝とのタラス河畔の合戦だけだし。
まぁ、「唐vsアッバース」というより「高仙芝vsアブー・ムスリム」の私兵による戦いではないのか、という声も有るが。
>>548 それはアッバース王朝が凄いと言わざるを得ない
鮮卑なればこその天可汗号だわな
>>549 タラス河畔周辺は唐朝もアッバース朝も直接支配はしてないからな
総力戦というよりは国境でのいざござみたいな感じ
553 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 02:02:50 0
>>470 清は面積デカいって言うけど、藩部を直轄地として扱わないなら、漢明と同レベルになると思うんだ。
清の藩部は唐の都護府と似たようなもんだからね
>>549 実際そうだもの 捕虜による紙伝播で世界史的に大きなインパクトはあるが、
戦い自体はそんなに大したものではない。
製紙法が世界に伝わったのは、アッバース(というか、アブー・ムスリム)の功績
アッバース(アブー・ムスリム)がもう少し弱ければ、世界に伝わるのは先送りになっていた訳で
>>555 この戦いに勝ったから、負けたからと言って大勢が変わる訳でも無いしな
どっちにしても、タラス河畔の戦いが起きたことによって、唐の評価が上がるという事は無いな。
敗北によって西トルキスタンから追い払われた上、直後に安史の乱で滅亡の危機に瀕してるしな
紙だって唐が発明したわけではないし
唐はむしろ、世界から影響を受けてる気が・・・
>>548 タラス河畔の戦いに関しては、略史上は唐vsアッバース朝となっているが、実際はウイグル軍と西アジアイスラム諸国連合軍が戦っていたという説が有る。
>>560 「影響を受けてる」のではなく、正しくは「取り込んでる」のです
確かに唐も凄いけど、アッバース朝が凄すぎる。
イスラムの最盛期だもんなー。
元は漢化していれば、2〜300年は続いたんじゃね?
565 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 03:23:38 0
>>252 生粋の騎馬遊牧民でも、必要とあらば下馬して戦っていたぞ?
566 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 03:23:54 0
クソスレ
そんなあなたに鏡を差し上げましょう
>>560 まぁ、確かにインド文化(仏教)にどっぷりと侵されたとも言える。
>>514 漢も唐も、西域を領土に含んでいたかどうかと言われれば、否。
西域を安定支配出来たのは、清朝のみかと。
>>568 玄奘三蔵なんかは、諸にインドかぶれだからな
唐そのものが世界に与えた文化というのは無いんだよな。
製紙法は漢代に発明されたモノだし。
>>571 つ唐三彩
唐三彩はシルクロードを通り、13世紀から15世紀半ばころにかけてシリアやキプロス、イタリアに伝来した。また、日本や他の東アジ
アにも陶芸品の影響を与えた。
>>559 タラス湖畔の戦いで唐が滅亡に瀕したわけではない。
玄宗が地方に節度使ぼこbこにこさえて寵愛していた
安禄山に3節度使兼任させて18万もの兵団あたえていたからだし。
ちなみに高仙芝が直接指揮できたのはせいぜい2万人ね。
タラス湖畔には亀磁だけでなくテンシャンナンルーからも2万は増援要請きてると思うし
(テンシャンペイルーに大体2万人弱 ナンルーに同じくらい常駐していた)
大体タラス湖畔には5万前後の軍をあつめられたと思う。
なんか支離滅裂な文章になった眠すぎるのだろう。頭がまわらねえや。おやすみ
>>573 アブー・ムスリム側はどれだけの兵をタラス河畔に集結させたんだろうか。
それが分かれば、場合によっては唐をフォローする事も出来るんだがな。
アッバース朝の方は資料が無いから分からんのだよ
アブーはホラサーンを根拠地にしていたから結構動員していたんじゃない。
地の利も補給も彼らの方が有利だろうし
すくなくとも唐軍推定5万人より規模すくないということはないだろう。
アブームスリムは参戦していない。
部下のズィヤードイブンサーリフを派遣している。
それはしってる。おまえは教官か。
気分わるいわ。 もうレスしません。
おまいら、もちつけよw
581 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 04:15:02 0
アブームスリムって韓信みたいな末路だな
大体、
>場合によっては唐をフォローする事も出来るんだがな。
なんでこんなに態度でかいんだ。唐があんたに見下される必要などないのだが。
アッバース厨なんだろうが、なんかこの辺からこの人の尊大な態度が気に食わなかったんだよな。
こんどこそ寝る。 不愉快きまわりない。
>>577 高仙芝は亀茲が本拠地な訳だけど、亀茲からだと天山山脈を越えないといけないしな
一方、アブー・ムスリムのホラーサーンから見ればほぼ平坦な道が続く
人口希薄地域の亀茲と、アッバース朝でも主要地域のホラーサーンでは動員力も違ってくるだろうな
>>529 永楽帝の頃のモンゴルはオイラト部が強大で
新疆のイリ自治州からタリム盆地の北側、青海省や西蔵自治区まで支配していた。
そのオイラト部を細かく分断工作して、個別撃破的に叩いていたのだ。
586 :
575:2010/12/29(水) 04:31:22 0
>>582 確かに言い方が悪かったかも知れない。そこは申し訳ないです。
見下している訳では無いけどね。むしろ、唐朝は素晴らしいと思いますよ。
ちなみに
>>578は私じゃないから。
>>585 オイラトも一枚岩では無く、部族連合だっけ
ちなみに永楽帝の時代、ベトナムへも攻め込んで、併合してるんだよな
決して、モンゴルだけで手一杯という訳でもない
>>581 こういう人って軍才はあっても保身はヘタなのかね
明も宋と比べたら版図は広いよ
しかし、宋の経済力はピカイチ。
591 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 05:30:43 0
宋は同じ事の繰り返しで、国を滅ぼしているからね
皇帝独裁制が確立した宋代においては、皇帝がある程度有能じゃないと国が衰退していくシステムになっている
戦略眼に長けた皇帝が輩出されていれば、何とかなったんだろうけどね
>>587 明代のオイラト部はジュンガル、ホショト、ドルベト、トルグートの四系統が確認でき
これが「盟」ぐらいの単位。さらに支族単位の「旗」が細かく分かれる。
それぞれの主は、西部蒙古語が通じた。
ジュンガルは清代に、盟主格の葛爾丹(ガルダン)が清との戦争で滅びてしまった。
分解バラバラにされて、抵抗運動は弾圧された。
清代にホショト、ドルベト、トルグートの三系統に減っているのはそういう理由。
清は近隣諸国に対しては最も
化外の国家との戦争で汚点が付いちまったな・・・
595 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 09:11:13 O
イギリス相手じゃあどこもそんなもの
仕方ない
596 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 12:16:07 0
モンゴルに負けた宋、イギリスに負けた清。
まぁ、両方とも最盛期がチートだから、仕方ない部分も有るな。
どの王朝もモンゴル・イギリスクラスのチートにはなれなかった
>>597 大英帝国 3370万ku
大蒙古国 3300万ku
大清帝国 1470万ku
清が弱いのではなく大英、大蒙古が強すぎるんです。
>>593 四オイラトと呼ばれるのはそういう理由か。
ということは、四十モンゴル(タタール)は四十系統に分かれていたのかな?
だとしたら、モンゴル(タタール)は烏合の衆で、一つ一つの系統の規模だと、オイラトの方が強いんか。
元々、オイラト部が強大になったのは永楽帝と協力して、アスト部を叩いたからなんだけどね
そして、強大になったオイラト部を攻撃
永楽帝は分断工作うまいよね
永楽帝の死後は、正統帝が捕虜にされちゃうんだけどね
>>601 オイラトではエセンが登場した上に、明の皇帝(英宗)はその頃幼帝だったからな。
その間にオイラトが力をつけて、明に侵攻してきた。
そして、英宗が調子に乗って親征したせいで、捕虜にされたと。
>>589 明は宣徳帝が永楽帝の獲得した領土まで放棄しちゃってるからなぁ・・・
経済的には仁宣の治が最盛期ではあるが、すでにその頃には領域がかなり狭くなってしまっている
604 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 14:00:14 0
>>569 唐後半の西域は、吐蕃とウイグルの係争地と化してるもんな
605 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/29(水) 14:02:59 0
>>569 確かに、どちらも西域を完全な支配下に置けてた期間は短かったね。
都護府も領土に入れて良いだろ。
そうじゃないと、ローマ帝国の属州だって領土に入らなくなる。
607 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 14:30:17 0
608 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/29(水) 14:30:47 0
>>606 まぁ、朝貢国よりは上かな。領土に含めていいだろうね。
>>606 だとすると、漢の西域支配も版図に組み込まれるな
>>573 安禄山は全藩鎮の4割もの兵力を持っていたそうな
そりゃー、それだけの兵が反乱を起こしたらどうしようもない
国境の警備もしないといけないから、全ての兵(6割の兵力)を動員するわけにもいかないし
612 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 14:56:38 0
>>606 お前都護府と属州の違いも分からないのかよ
613 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 15:02:40 0
>>603 >経済的には仁宣の治が最盛期ではあるが、
明の経済的な最盛期は、湖広の開発や、江南での商品作物の栽培が進み、
マニュファクチュアが発展し始め、世界各地との貿易量が増加した
16世紀だと思うが。
この時期は、まだ元末の争乱や靖難の変の争乱による荒廃から完全には
立ち直っていないだろう。
世界史板における「明初偏重、明末軽視」、「皇帝ばかりに注目して社会・文化面は無視」
といった著しく偏狭な明代史のとらえ方は何とかならんものかね?
明は300年近く持ちましたよ
明より長続きしたのは唐だけです
明の最盛期は万暦帝期(前半)かね。
文化ではこの時期が最盛期、経済も好況。
「16世紀」の中だと、弘治帝の時代も繁栄していたな
でも最盛期とはいえないのである。
>>564 漢化して堕落したから滅亡した。
堕落していない部分が帰北して残った。
それがハルハ部
唐も晩唐はどうしようもない気が
ウイグルと吐蕃が争っている所を、指を加えて眺めている唐。(一応、ウイグル側についてる)
唐末期(晩唐)から遊牧民が強大化しているよね
それがモンゴル帝国まで続く
>>622 それを言うなら、五胡十六国〜南北朝〜隋も同じだがな。
途中で漢化しているだけで。
>>593 ジュンガル部、滅ぼされる前は強かったんだな
中原が弱まってるだけじゃね、と思わないでもない。
特に西晋末。
あれは頂けないというか、天然記念物もののバカの集団だな。
全ての責任は司馬氏の台頭を許した曹爽の無能にある。
武装解除せずダメ元で司馬氏と決戦挑むべきだったね。
三国時代の動乱で、ただでさえ衰退しているにも関わらず、統一から30年も経たない内に八王の乱だからな
そして、匈奴の劉淵が独立
んで、周りの遊牧民がドドドドドドッと中原へ侵入して来た
内乱に内乱に独立が重なった結果、遊牧民の侵入を許した
団結しなければならない所に見事な団結を見せてくれた八王の皆さんに拍手!
唐も安史の乱で国力g(ry
武帝が暗愚な愍帝に皇位譲らなければまだ八王もそうそう手出しできなかったんだろうけどな・・・・
暗愚な上で、賈皇后や側近も好き放題したからな。
賈皇后なんか夜な夜な美少年を調達してきては交わり、用がすむと殺害して口封じしたとの醜聞まで
今日に伝わる悪女だし 真相は分からんけど。
愍帝じゃなかったわ。恵帝である。訂正するわ。
まぁ、武帝自身も晩年は暗君だったと思うんだ
司馬攸が初代皇帝になっていた方が良かったんじゃないか
恵帝は個人的に「ケイ侍中の血」の件があるから暗君だとは思いたくないんだよね。
恵帝が賈南風を始末出来なかったのは問題だな。
五胡十六国時代と宋金並立時代で決定的に違うのは、五胡十六国時代では色んな民族がぐちゃぐちゃになって華北に侵入しているが、宋金並立時代では一つの民族が華北に侵入している点。
まとまりがある点では、宋金並立時代の遊牧民の方が強いだろう。
>>635 五胡がバラバラで進入できた=晋が弱すぎた
という事?
それもあるよねー。
正直、他の時代とは比べものにならないくらいの大ポカだった気がする。
淝水の戦いで東晋は奇跡的に勝ち(前秦の自滅?)、前秦はいくつもの国に分裂
華北が分裂している隙を伺って、劉裕の北伐で洛陽・長安を占領するも、数年と経たない内に奪い返される(この時もまだ華北は群雄割拠)
ちなみに、石虎死後に後趙が崩壊、冉魏・前秦が独立して華北が混乱した時も、桓温の北伐で洛陽を占領している
しかし、数年で前燕に奪われる(やはり、この時も華北は群雄割拠状態)
北朝にとっては長江が最大の壁、南朝にとっては黄河が最大の壁だよなぁ。
逆に言うと、これを破ってしまえば天下統一は確実になる。
破られた側は滅亡が秒読みになる。
641 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 18:39:58 0
>>606 ローマの属州は、どっちかと言えば藩鎮に近い
都護府は版図の外
そもそも都護は皇帝が任命するモノなんだし唐の支配下と言ってもおかしくはないだろ。
ってか仮に領土の外になるとしてその部分はどこの領土になるの?それとも空白地帯?無政府状態?
東西分裂前のローマは友好国の国王や部族長をそのまま名目的な属州総督にしたりせんだろ
西ゴート王国やフランク王国もローマ帝国の属州というようなもんだ
つまり、都護府は独立勢力という事か
唐の軍人が都護になってる事もあるしなぁ。
>>648 だから、半独立ということなのだよ
完全な直轄でも、完全な独立勢力でもない
版図には入らないだろう
じゃあ清の藩部はどうなんの?
651 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 19:29:44 0
故事成語が一番多いのは春秋戦国かな。
>>651 一つの国ごとに見ていくと、そこまで多くない気がする
後漢の場合、パッと思いついたのが・・・
劉秀「隴を得て蜀を望む」
班超「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
>>650 弁事大臣の支配下だから、総督の支配下の土司とほぼ同等。
藩部は前漢初期の郡国制に近いわな。
いや粒度が小さすぎる。県程度の規模しかなく州に20人ぐらい土司や旗主がいる。
せいぜい郡県制あたりだろ
郡国は、呉三桂・尚之信・張献忠の三藩に比定するべき
清がややこしいのは満族が世襲領主である東北三省の存在と
錫伯族も満族と同じ待遇で新疆に駐留していることだよ。
よって新疆が純直轄地扱いになっているわけ。
ん?
つまり、錫伯族の扱いが満族と異なると、純直轄地では無くなってしまう?
>>658 東北三省も純直轄地だっけ
純直轄地だけを見ると、飛び地になってるんだよな(東北三省)
新疆はジュンガル滅亡後にカザフ族がなだれ込んで増えて
錫伯族が東北から転地したので人為的な配置がしてある。
さらに雲南から回族、湖南から苗族を流罪的に入植。
人為的に人類史上最もカオス的にぐっちゃぐっちゃにしてしまつて、直轄地化。
人口爆発による耕地不足の解消かな
>>653 ○○総督と弁事大臣はほぼ同義なのな。
言い方が違うだけ?
664 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 21:25:12 0
アヘン戦争の時に清が使ってた大砲ってのは、確か康熙帝期に開発された大砲なんだよなぁ。
100年以上も前の大砲で、進歩の著しい欧米列強からすれば100年前の兵器と戦うなんて、赤子の手を捻るようなモノ。
665 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 21:27:01 0
乾隆帝は60年在位した訳だが、そういう備えをする気は無かったのかね。
当時はすでにイギリスと貿易を開始していたのだが。
本人に聞けよ
>>664 康熙帝の時代に設置された大砲だって西洋からの輸入物
清には大砲を作るだけの技術が無かった
清朝ナメんなよ
669 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 22:07:57 0
>>664違う。300年前のポルトガル整の大砲w
日本人が様々な学問を志して
明に留学したら「バカばっかりで自分が一番賢かった」という
話を残している。
宋代まで世界一の文明をイスラムと分かち合ったが、
明でどうもべらぼうにバカになってしまったらしい。
670 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 22:09:15 0
ついでに今のイギリス人も超バカばっかり。
一番イギリスで賢いのはインド・香港系で、
なんと現地の白人は黒人と同じ程度の
学力しかないという。
イギリスはクラス社会だから人種別にかたっても無意味でしょ。
イートン・カレッジ卒の人材とコックニー話すワーカークラスを同列に論じて
イギリス人は〜というようなもの。
>>669 明になってヨーロッパと入れ替わってしまった
幕末にもどっかの藩だかが関ヶ原時代の大砲で戦おうとしてたな
まあ先進的な藩ではがんばって西洋の技術を学んだけど
清はそういうのが無かったな・・・。
太平天国の乱も先進的な兵器は使ってないし。
清もアヘン戦争から70年ほど、よたよたしながら続いてはいるし
日本や欧米に近代西洋文明を学びに行ってもいる
清仏戦争や日清戦争ができるほどには近代化したが…まぁ寿命かねえ
>>669 >「バカばっかりで自分が一番賢かった」
もう少しでソクラテスになれたのに惜しかった。
>>651 春秋戦国の場合、典拠となる本が半分はそれ集めるために編纂してるような本だったりしますし。
あと、メジャーな故事成語とメジャーでない故事成語がありますね。
日本の場合、春秋戦国は前者が非常に多いです。
今の日本文化の原点となる事柄が多く決まった江戸期に『春秋』や『戦国策』が好まれでもしたのかも知れません。
日本の戦国時代もまさしくそうでしょうしね。
あと他だと、秦〜東晋、それにちょっと飛んで唐が特に多い感じですね。
竹馬の友は日本でも中国でも使われる故事成語となっています。
もっとも向こうではやや違い、「青梅竹馬之交」と言いますが。
幼馴染みを指す言葉なのは変わりません。
意外に日本史で重要なのが班一族の史書編集範囲ですね。
「関白」、「博陸侯」、「大樹将軍」、「建武」と『漢書』、『世祖本紀』辺りの出典の言葉がかなり重要な所に使われているように思います。
ベースが唐の官制なのに、何故かひょっこり漢の言葉が出てくるんですよね。
ここら辺がなんかちゃんぽんで、中国が日本に与えた影響を見る上で面白げな感じです。
最後の「建武」は明らかに集権回復のジンクスで決められてる上に、武の字が不吉だと言われたのに後醍醐帝が強行したという面白い逸話があります。
その上でやったのが逆に新みたいな「中央にとっての妥協のない、理想政治の急進的な押しつけ」だったのが面白いというかなんというか。
政治は妥協の積み重ねでございますよ陛下と、一言言上仕りたくなりますが。
普通は年表に載らない、忘れられがちな時代
秦末漢初
新末後漢初
隋末唐初
元末明初
明末清初
>>675 過去に中国統一王朝で300年継続した例は無いからね。
清は250年以上続いているし、長生きした方だと思うよ。
秦末漢初は小説「項羽と劉邦」で日本での知名度は割とある
隋末唐初は「隋唐演義」、元末明初なら「英烈伝」に「劉伯温伝奇」だろうが、
一般的な日本人はあんまり知らんわな
元末明初・明末清初の、勢力の推移がよく分からん。
>>674 やろうとしていた人間は確か居たと記憶しています。
軍事ですと有名な曾国藩あたりがそうだったかと。
洋式工場なんかを建設して、軍の近代化を目指していて、洋務運動の先駆者などとも言われていたはずです。
曖昧な言い方は、彼についてはちょっとアンソロジー的に名将の戦略をピックアップした本や、
比較文化の(つまり本来の専門ではない)中国人の教授の受け売りな上にうろ覚えだからなので、
裏取りはみなさんにまかせたいところでございますが。
なんにせよ洋務運動が百日維新などという三日天下の類語で呼ばれることになった要因である所のドスの、
アヘン戦争で真っ先に逃げ出したとか言う悪評のある困ったばあさまのせいで色々と以前に戻ってしまうのです。
まぁ、そんな夢物語を実現する予算がなかったからであって彼女は悪くないとの擁護もあるにはあるのですが。
辛亥革命のようにはいかんかったか
>>669 宋と明の間にある、元の頃はどうなのよ。
685 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 23:39:45 0
元代になるとすでにヨーロッパではルネサンスが始まってるね
>>678 期間があまりにも短いから年表に乗らないのであって三国・五胡十六国・南北朝・五代十国と何ら変わりないよね。
14世紀に始まるイタリア・ルネサンスねぇ。
あれこそパクス・モンゴリカによる世界一体化の影響じゃないかと思うが。(黒死病も来たけど)
東西世界を繋げたのはモンゴルが最初で最後だからな
>>687 それも中華側の自滅だわな。
李自成の乱、呉三桂の山海関開関など。
関開関
>>688 でも、ヨーロッパ(イタリア)のみでそういう現象が起きたのは何故だろうかね
693 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 01:02:36 0
>>678 その中で一番影が薄いのは、新末後漢初
新末後漢初を勝ち抜いた劉秀は中華で五本の指に入る名君なのだが。。。
光武帝があまりにも強すぎて快調に天下統一しちゃったからねー
時代に面白みがないんでしょう
ルネサンスはむしろイスラムの影響でしょ。
欧州の語彙にはアラビア語がずいぶん取り込まれているし、
ギリシャの古典もアラビア語訳によってのみ残っていたものもあったそうな。
>>694 それは他の時代(秦末漢初、隋末唐初...etc)も同じ。
きわめて短期間で統一している。
>>695 ルネサンスは科学技術の進歩が目立つが、そこもイスラム科学の影響を受けているのかな
>>694 劉秀も決して楽に中華統一出来た訳じゃない。
昆陽の戦いでは1万の兵で40万の大軍を破ってる。
それぐらいの事が出来ないと統一は無理です。
劉邦や朱元璋は下層階級からの出世物語が
付加されるからストーリーとして面白い。
劉秀は豪族出身でつまらない。
日本に金印をくれたことぐらいは思い出してやっても良いが。
そりゃー主観の問題だわ
俺は農民出身とか豪族出身とか関係なく面白いと思うぜ
天下統一はしてないけど、曹操だって宦官の孫とはいえ権勢家の出身だな
劉備も没落したとはいえ土豪のやくざ息子だし
貧農の家に生まれ乞食坊主だった朱元璋の生年月日(1328年10月21日)が正確に分かるのは何故?
>>663 こんな感じだろう
総督 → 定住民向け統治
弁事大臣 → 遊牧民向け統治
704 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 02:21:25 0
>>702 その時代になると、大概の人は生年が判明している。
生年の分かっていない人が多いのは、古代〜中世辺り。
>>701 劉邦も亭長だったんだよな
それなりに恵まれてる方かなと
706 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 02:38:38 0
朱元璋はダントツに出自が悪すぎ
朱重八は本当に最下層出身。
そこらにいる平民の方がマシなぐらい。
朱姓の中国人は、「ウチは朱熹の一族です」で通して
朱元璋の一族だとはいわないw
漢宣帝も下層階級ではないが民間育ち
中興の祖という事もあって、吉宗に似ているな
>>697 そもそもalchemy(錬金術・化学)という言葉自体アラビア語
他にもalcohol、aldehyde、alkali、benzine、sodaとか
アラビア語由来の科学用語は挙げ出すときりがない。
>>710 漢宣帝は赤ん坊の時は奴隷身分。
712 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 03:03:20 0
朱元璋は完全に実力だけで皇帝にまで這い上がっている。
劉邦を意識していたとも言われているが、どうだろう。
奴隷から皇帝になった人物と言えば後趙の石勒だな
中華統一までには至らなかったが
柔然・突厥って全盛期だと、匈奴・鮮卑に劣らないぐらい強いのに、どうも存在感薄いな。
717 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 03:48:12 0
>>714 匈奴はともかく、鮮卑は柔然・突厥よりも先に誕生しているのに、柔然・突厥が滅亡した後も続いているからねー
718 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 03:59:31 0
突厥は匈奴以上に有名だろ
柔然は盛期が南北朝時代だからじゃね
柔然は普通に弱い気がするぞ
匈奴・鮮卑・突厥あたりと比べると
秦はいつから統一王朝を目指すようになったんだろう。
やっぱ、恵文王が王を名乗った時からかな。
だとすると、他の国も天下統一の目指していたのか。
721 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 04:26:49 0
その時代はまだ統一という概念が無いからなぁ
とりあえず、中原国家を全て併呑してみよう、って感じでしょ
始皇帝はメチャクチャ急速に領土を拡大しているな。
良くあれで国庫が底を付かなかったもんだ。
戦国時代は徴兵制だから食料さえ賄えれば
その他必需品は大量には必要ないし、武具は官営工場で作るから
国庫どうこうは関係ないんじゃないの
724 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 05:48:13 0
徴兵制から傭兵制に切り換わったのは、後漢光武帝の時代である
725 :
あい:2010/12/30(木) 05:51:17 0
中国共産党ももうすぐ世界統一はじめます。素晴らしい世界がきます!尖閣は中国領土です!
成りすまし乙です!
727 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 07:09:29 0
>>722 関中の生産力と地の利をナメんなよ。
秦と漢はあそこから天下を取ったし、それ(秦と漢)に加えて、隋も唐もあそこに首都を置いたんだから。
隋唐の頃は、そもそも秦漢代の関中開発が再生性無視した森林伐採による田畑開発だったのと
関中の土壌特性を無視した灌漑のやり過ぎで塩害起こして、収穫量が半分くらいまで下がっちゃってて
開発が進んで生産力が華北を抜いた江南から食料転送してなかったっけ
729 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 15:41:39 0
関中の相対的地位は時代が下る毎に落ちてるわな
後漢代になると洛陽が首都になってるし
隋唐はシルクロードに近いという理由で首都になっただけ
その頃にはすでに江南依存になっている
隋の煬帝が大運河建設したのも、それが理由なんだよね。
果たして楊広がそこまで考えているのか
ただ歴史に名を残すためにインパクト強い事やっただけじゃないの
竜頭船に乗って、音楽を演奏させ、酒を飲むのが趣味だったようで・・・
>>719 でも柔然って欧州史でアヴァール族として出てくるんでしょ?
アッティラ死後のフンの残党を掃討したって言う感じで
匈奴=フン説
柔然=アヴァール説
>>731-733 煬帝のやった事自体は文帝と変わらんぞ。
文帝の時から徐々に溜まっていた不満が、煬帝の時にまとめて爆発してしまったわけ。
>>734 そのアヴァール(柔然)も、フン(匈奴)に比べるとね・・・
739 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 16:28:00 0
>>736 柔然の「一部」が、アヴァールの「一部」になっている可能性は十分に有る。
>>737 それをある程度察知できなかった煬帝も悪いけどな
そんな時に高句麗遠征を3回もやるなんてバカ
せめて運河だけにしとけよ
秦の始皇帝も長城建設だけにすりゃ良かったのに
阿房宮と始皇帝陵はいらんかったな。
万里の長城は少し役に立ったが。
743 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 17:23:09 0
まぁ、その直後に漢の劉邦が、匈奴の冒頓単于に負けて半属国状態になってるけどね
>>675 日本にまで新鋭艦を見せびらかしにきたのはいいけれど、長崎では酒飲んで悶着を起こす、
広島では主砲や電信線に洗濯物が干してあるという按配で、玩具を持ったサルだと見抜かれ
日清戦争の抑止にはならないどころか日本が戦勝を確信したという。
あれは劉邦自ら長城を越えて白登山まで進撃してるからなぁ。
深追いしすぎた劉邦がバカとしか言いようがない。
>>678 秦末漢初 ⇒ 項羽と劉邦だろ、史記なんかでは一番熱く語ってるところだ
新末後漢初 ⇒ そもそも新の政権が短期間だから……
隋末唐初 ⇒ 隋・唐は王統の父系こそ入れ替わったが、実質的に拓跋閥の連続した政権
元末明初 ⇒ 新末後漢初を言うなら、何故に李自成の順を言わない?
明末清初 ⇒ 結構厚く語られているで。日本でも国姓爺なんて演劇の題目になるくらい
大順が存在したのは明末清初じゃないっけ?
正確には「明末順初」「順末清初」ってか?w
順は日本だと明智光秀みたいなものだろ。
政権掌握に至らなかった。
新朝は15年、曲がりなりにも統一王朝として君臨しているからね
順朝は41日、統一には至っていない
750 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 18:08:07 0
>>749 存在した期間は新の方が100倍以上も長いんだなw
752 :
あい:2010/12/30(木) 18:21:37 0
謝れば済むという話ではありません 謝罪と賠償が中華民族に対する誠意です(笑い)
日本人は南京大屠殺を反省すべき
成りすまし乙です
怪しい四川人。土家の文化について語ってみてください。
秦良玉は、○○土家の未亡人ですが、○○は何が入りますか?
755 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 18:30:28 0
重慶空爆を言い出さないのは変だよなw
竜船調を歌っている湖南出身の有名なオペラ歌手の名前は?
ヒント:全人代議員
757 :
あい:2010/12/30(木) 18:34:29 0
石柱です(笑い) 日本人疑り深いネ
758 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 18:34:48 0
やぱーり「あい」は成りすまし華人だろう
759 :
あい:2010/12/30(木) 18:37:55 0
ソン・ツーインでしょう(笑い)
成りすまし乙です(笑い)
二問とも正解です。内陸中国通としては合格でしょう(笑)
二問とも検索してら出てきます(笑い)
763 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 18:41:59 0
自作自演ですか?
少なくともこの前の「あい」とは別人だな
意見が全く異なっている
「宋祖」という文字を見ると、一瞬、趙匡胤かとオモタ
767 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 19:20:58 0
趙匡胤って実は天下統一してないんだよね
8割ぐらいまで手中に収めた所で死んでしまった(弟に殺害された?)
>>767 いや、もう9割方統一してるじゃん。
後は北漢と呉越だけ。
8割も9割も大して変わらん もしかして口を挟んでドヤ顔したいだけ?
でもよー
>>9が言うように遼・金が中華世界だとすれば、北宋は一度も中華統一してないことになるよな
772 :
あい:2010/12/30(木) 19:34:46 0
成りすまし乙です(笑い)
774 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 20:04:39 0
>>613 ネット上でも「仁宣の治が明の最盛期」というのをよく見かけるよね。
あれは何を基準に最盛期と言ってるんだろう。
仁宣の治なんか、たった11年しか続かなかったのに。。。
永楽帝の時から繁栄してるんじゃないの
だとすれば35年
>>770 むしろ、遼・金の方が正統で、宋は南蛮なんだけれど。
は?
洛陽を失って南朝になったら「南蛮」でOKだ
孫呉・東晋・劉宋・斉・梁・陳そして南宋は「南蛮」
まぁ、中原って黄河流域のことだしな。
契丹や金の遺臣遺民を漢人、宋の遺臣遺民を蛮子とした、蒙古帝国の取り扱いやら、
イスラム圏や中世〜近世ヨーロッパで支那世界全体を称して契丹もしくはその派生語で
呼んでいたのは、まさしく、遼やその後継の金が正統で、宋が蛮人の住む化外の地で
あった証左だろ。
日本では徽宗の書画が珍重されたから、そこで判断基準が狂ってる。
南越,夜郎,西楚(゚∀゚)人(゚∀゚)六朝,南宋
>>781 自分と意見の異なる人に大して耳を貸さない人も、どうかしてると思うが。
>>783 そういうレベルではないんだよ論外すぎて話にならない。
徽宗は北宋じゃなかったろうか
「論外」の一言で片付けて、具体的な反論も出来ないのか
朱子学スレではありませんから(キリ
論外すぎて話にならない(キリッ
江沢民に洗脳されてますね
冬休みになってから質の低下が甚だしいな。
蜀や大理は西戎
>>780 はぁ〜もう突っ込む気力もないわ〜 しばらくこのスレ寄り付かんとこう。
ってか、南北朝時代の正統王朝が南朝だとすれば、隋は征服王朝?
北魏が正統にきまっとるやん
自分の意見も言わず、自分の意見だけが正しいと勘違いしてる奴・・・
武稜蛮とナカーマなんて南宋はカッコイイね
>>778 でも、何で洛陽?
洛陽が中華の中心という訳では無いでしょ?
洛陽に首都を置いてない王朝なんかいくらでも有るし
正統王朝の流れ
秦→前漢→新→後漢→魏→晋→宋→斉→梁→陳
隋→唐→後梁→後唐→後晋→後漢→後周→宋
元→明→順→清
「あい」は西戎
都江堰は土家の先祖が作った。
重慶の民は湖北湖南からの客民。
801 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 21:30:56 0
>>742 万里の長城ってそんなに役に立ったっけ?
山海関でヌルハチ・ホンタイジの猛攻を防いだことぐらいしか印象に無いな・・・
後は遊牧民にやられっぱなしだし
それでも役に立ってる方。
もし長城が無ければ、今頃中国はどうなっていた事か。
江沢民みたいな嫌なやつはいなかったろう
ネットウヨクが一番嫌われているよ。
などと意味不明な供述を繰り返しており、警察は余罪を追及しています。
806 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 21:51:34 0
中国で初めて傭兵制を実施したのはどの王朝?
後漢?
この頃、勢いだけ良くて質がニュース系とさして変わらないな・・・もうだめかも分からんね。
まるで他人事のようだ
>>678 秦末漢初の故事成語・ことわざ
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」
「金城湯池」
「乾坤一擲」
「捲土重来」
「狡兎死して走狗烹らる」
「国士無双」
「先んずれば人を制す」
「歯牙に懸けず」
「四面楚歌」
「背水の陣」
「辟易」
あの僅かな期間にこれだけの故事成語・ことわざが有るとは・・・
「秦末漢初」という言葉自体は知らなくても、あそこら辺の時代を知ってる人は多いと思う。
恐らく、三国志・水滸伝の次ぐらいに知名度は高いんじゃないかな。
812 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 22:42:16 0
唐の時代の存在した渤海という国
これは、中国王朝と見なして良いのでしょうか
渤海の話はスレチになりますかね?
813 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/30(木) 22:46:41 0
>>812 位置的には満州だし住民も大多数はそっち系だけど、
支配層は高句麗系なんだよなぁ。中国王朝とは言いにくいと思う。
渤海は中国本土を支配していないから、中国王朝ではないと思う。
日本とは仲がよかったらしいな。 舞鶴あたりが日本側の受け入れ口だったんだっけか。
反対に渤海滅ぼしたキタイ民族とはまったくソリが合わなかったそうだが、なんかあったのかねえ。
>>813 支配層云々の話になると、遼・金・元・清も中華王朝がどうか怪しくなるな。
817 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/30(木) 23:00:35 0
>>816 そこら辺は被支配層に漢人も多くいたからまだ分かるけど、
渤海の場合は被支配層も靺鞨で漢人じゃないから微妙でしょ。
「中華民族」とかは近現代の創作なんで、漢人がいう中華地域を広く支配すれば中華「の」王朝ではある
華人が建国したタイ王国やシンガポールを中華王朝や中華国家とはいわんべな
819 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/30(木) 23:10:29 0
>>818 漢人がいう中華地域に渤海のあった満州は入ってるのか微妙だけどね。
満州が中国になったのは清王朝以降だろ?
拓跋系も内地に移動した後は繋がり切れちゃったし
>>809 狡兎死して走狗烹らるは范蠡が元ネタじゃね
満洲地域は「中華本土(十八省)」ではないし、秦漢は歴史上遼寧あたりまでしか支配してない
渤海は冊封国であって、唐は直轄支配を及ぼしていないし、明も女真族を使って間接統治した
遼や元はモンゴル高原東部から、金や清は満洲地域から出て中華本土を征服した
あの(唐)時代までに、当時の渤海が割拠していた地域を、中国王朝が支配した事は一度も無いからな
あそこを初めて支配した中国王朝は元(または明)
つーか渤海のあたりって寒すぎてふつーはなかなか行かんわな。 毛皮とか朝鮮人参と現地のオンナのマンコぐらいしかろくな物ないだろ?
現代風にいうなら、尖閣とられて沖縄もとられるだな。
>>815 渤海は交易国家だからなぁ。
周辺国との付き合いが上手かったんだろう。(隣接国は利害が絡むから別として)
すごーく微妙な位置に勢力を築いているな
中国・ロシア・北朝鮮にまたがってる
微妙じゃないだろ、あそこはあれで一纏まり
ロシアとソ連が火事場強盗で外満州を不法占拠してるだけ
契丹(遼)・女真(金)も旧渤海領を全て併呑しているしな。
至って普通かと。
829 :
世界@名無史さん:2010/12/30(木) 23:59:07 0
どっかで聞いた話なんだけどさ、
たぶん、昔の中国の王様の話だったと思うんだけど、
王様が外出するときに、両隣りに少女2人が側近みたいについて歩いて、
んで、王様がカー、ペっ!って淡を吐こうとしたら、隣の少女が口をあけて
その口めがけて、淡を吐いたんだって。少女を淡つぼがわりにしてたなんてさ、
昔の王様とか貴族とかって、えぐいの多いよな。
どっかのヨーロッパの王様は新生児に自分のナニをしゃぶらせていたとかいうのも
あるし。権力もった人間て、本当ろくなのいないのな。
渤海人はやがて女真族になって、金朝・清朝を建国したんかな
831 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 00:26:24 0
>>819 渤海の最盛期には遼東を勢力下に置いていますよ。
832 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 00:35:38 0
>>831 まぁ、でもあくまで中心地は満州だしなぁ。
中華地域の一部を支配してたというだけなら、
極端な話、イギリスだって中国王朝になってしまうし。
あんた、本当に負けず嫌いですなあ・・・・ 周囲に反感もたれて友人少ないほうでしょ。
>>832 漢化の影響を受けた王朝が中国王朝という事になるのかな
835 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 00:48:50 0
>>834 まぁ、渤海が唐の文化や制度の導入に熱心だったのは確かだね。
そういう意味では、確かに漢化してると言えなくもないかな。
日本の遣唐使みたいなモンか
陸続きだし日本よりも漢化は激しかったろうが
837 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 01:44:06 0
>>324 ワーストの時代は五代十国かな
中華の範囲が最も狭ばったのはあの時代
唐が残した負の遺産を引きずってる
ワーストは中華民国とその後の内戦期だろ
歴史上最も影響力が弱かった
一番狭くなったのは五胡十六国時代じゃない?
北魏が漢化するまではさ。
五代は盗賊皇帝や沙陀族ばかりだが、十国の南唐・後蜀あたりはけっこう栄えてたろ
842 :
漢魂:2010/12/31(金) 02:00:30 0
我大明,不和親、不賠款、不割地、不納貢、天子守國門、君王死社稷!
元、清は中原王朝ではない、異民族侵略者です。
>>841 華北が戦乱で、華南が発展というのは、五胡十六国の時と似てるよな。
でも結局、どっちの時代も華北の王朝が統一しちゃうんだけどね。
江南は繁栄してる分、平和ボケしていて戦には弱い
唐滅亡以降は元による再統一まで混乱期って見方はダメなんかな。
宋=晋
元はモンゴルすぎて唐とは違うか
あー、確かに北宋も燕雲十六州・涼州をちゃんと支配下に収めて無いもんね
北宋が金に北半分を奪われるまでは、宋・遼・西夏の三国鼎立だったという見方が出来る。
>>841 そういえばさ、宋って持ち上げている人やたら多いけど、元々は後蜀の富を根こそぎ収奪して開封にもっていっちゃたんだよな。
某ガイエなんかそういうこと一言も言わずに宋をもちあげているけど、あれはどうかとおもった。
王全斌=呉漢
蜀と言えば、どうも他とは異なる、独立した文化圏って感じがするなぁ。
戦乱の際、蜀は確実と言って良いほどに独立するんだが、蜀の中で勢力分裂が起きる事は無いよな。
これも地形故か。
852 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 03:27:03 0
>>851 春秋戦国時代には巴と蜀二つの国が並び立ってるよ
その後蜀が巴を滅ぼして四川盆地を統一してるけどね
>>840 どういう意味?
清帝国が植民地状態に陥る事は滅亡するまで一度も無かったんだが
植民地ではないわな
部分的な租借地だ
まぁ、清の後半はワースト候補に挙げても差し支え無いとは思うが
清朝は最盛期と末期のギャップが凄い
最盛期でもヨーロッパには劣るけどね
相対的に見れば漢・唐・宋より弱い感じ。
拓跋は、モンゴル高原のド真ん中だよな。
>>855 大清国の最盛期は、まだ西欧各国が雑魚だった時代
産業技術の高さと生産性や生産力は、鉄鋼生産を除くと
滅亡するまで西欧のどの国も凌駕出来てないし
859 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 08:27:14 O
清の全盛期はもうプラッシーだぜ
たった900のイギリス兵に数万のインドが大敗
もう到底勝てないよ
明代にヨーロッパとの力は逆転してる
広西の儂智高が動員した兵士はチワン族やヤオ族が主体だし
秦期の屠睢・趙佗などの末裔がずっと嶺南(交阯, 南越国跡地)に潜伏して政情不安なのが宋。
元朝は、こういう趙佗の裔みたいなのを世襲土官に任命して
うまく統治しているのに、なんか下手打っている。
嶺南は南北朝時代の開発で政情不安に陥るほど独立性を持つ集団残ってないから
>>822 漢の時代の、遼東郡、楽浪郡。箕子朝鮮。
チワン族,ヤオ族はあんまり政治訓練されてないんかな?
貴州のプイ族,ミャオ族もDQNみたいに怒りのまま暴れるだけだし。
. ィ
.._ .......、._ _ /:/l! ミャオ族が政治力!? 西楚の子孫もいるからニャw
:~""''.>゙' "~ ,、、''‐'、| _
゙、'、::::::ノ:::::::_,.-=. _〜:、 /_.}'':,
``、/:::::::::__....,._ `゙'Y' _.ェ-、....._ /_゙''i゙ノ、ノ
,.--l‐''"~..-_'.x-='"゙ー 、`'-、 ,:' ノ゙ノブ
" .!-'",/ `'-‐'') /\ `/ でノ-〈
.-''~ >'゙:: ‐'"゙./ ヽ.,' ~ /
//::::: ', / ,:'゙
866 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 14:25:07 0
しね
無知ウヨが逆ギレw
何にキレてんだ?
何故ウヨになるのかがわからん。
なんでもかんでもウヨにするなよ無知サヨさんw
>>861 宋朝以降はベトナム(呉朝)が独立してるんだよね。
871 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 15:03:35 0
>>858 清の最盛期って、井の中の蛙みたいな・・・
すでにその頃から西洋の技術に頼ってるし
ルネサンスで互角。
大航海時代で逆転。
産業革命で大差。
>>872 鄭和の大航海はヨーロッパより半世紀も前に行われていたし、大航海時代中期になってようやく追いついた。って感じじゃないかな?
中世の50年ぐらい誤差の範囲だろ 沿岸航海だし前にもいったが国力とマンパワーの力技で、
元々は建文帝の捜索及び確保も兼ねての事だったようだが。
後世には鄭和の頃の資料の大半を焼き捨てて技術を継承できなかったしな。
航海技術に関してはまだ中華の方が上だとしても、他の分野ですでにヨーロッパのが上で、総合的に見たら中華は負けてる>大後悔時代
いやいやいや、航海技術もヨーロッパの方が上だわ。
鄭和の航海は基本中の基本なんだから。
規模が大きいだけで、別にすごい事でも無いよ。
>>872 ルネサンス期って大航海時代が始まってから1世紀くらい経た時期なんだけどw
ルネサンス 14世紀〜
大航海時代 15世紀中ごろ〜
>>876 西欧勢の航海技術は16世紀末に到っても陸上国家のオスマンにすら明確に劣る水準
明清の航海技術とは比較にならない低水準だよ
明清に航海技術なんてあるのか?
海禁政策とってたんですけど?
>>878 うわ‥知りもしないで思いつきで書いてたのか
大航海時代 15世紀中ごろ〜
ルネサンス期は15世紀末〜17世紀前半
>>881 >うわ‥知りもしないで思いつきで書いてたのか
そのセリフ、そっくりそのままお返しします
>>880 国家主導でやらないと貿易もロクに出来ない西欧の国とは違って
民貿易で南海交易が盛んに行われてたんだよ
ガレーやキャラック、ガレオンより優れたジャンクでね
>>882 何十年前の中学で習ったの?
今はもうそんな捏造史観は訂正されてるよ、何所の国でもね
877 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/12/31(金) 16:21:42 0
>>872 ルネサンス期って大航海時代が始まってから1世紀くらい経た時期なんだけどw
877 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/12/31(金) 16:21:42 0
>>872 ルネサンス期って大航海時代が始まってから1世紀くらい経た時期なんだけどw
877 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/12/31(金) 16:21:42 0
>>872 ルネサンス期って大航海時代が始まってから1世紀くらい経た時期なんだけどw
877 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/12/31(金) 16:21:42 0
>>872 ルネサンス期って大航海時代が始まってから1世紀くらい経た時期なんだけどw
877 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/12/31(金) 16:21:42 0
>>872 ルネサンス期って大航海時代が始まってから1世紀くらい経た時期なんだけどw
m9(^Д^)プギャー
>>883 むしろ、明清の航海技術は鄭和の頃が最盛期で、以後は衰退しているよ
888 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 17:20:32 0
鄭和の船の設計図などやいちゃったからな
支那人はアホ。
鄭和の大航海は東南アジアで影響力を発揮したよな。
永楽帝の北伐も合わせて、外征面ではこの頃が最も栄えたかな。
海賊討伐も任務の一つだったからね。
891 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 18:27:01 0
唐は都護府を作り過ぎた。
そのため、都護府(半独立)を含めた面積は漢・明より広いが、
直轄地の面積は漢・明より狭くなるという奇妙な事態に。
元と清はどっちが広いんかねー?
このどっちかが、中国王朝で一番なんだろうけど
893 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 19:41:04 0
元には清でも敵わんよ。
元はシベリア方面にも手を伸ばしてるから。
後漢って前漢の影に隠れて地味なイメージが有るけど、版図は後漢の方が広いんだよね
>>878 ルネサンスは13世紀のダンテからだよ
つまり文化面では宋末元初からヨーロッパ>中国だね
大航海時代は15世紀のセウタ征服からだな
中国厨涙目ですね
いやまて、イタリアの一部でルネサンス文化が始まったから即座に欧州>中国とは限らんだろ
ダンテが神曲書いたのは14世紀初めで、当時は大元がマルコポーロがびっくりするような大帝国築いていたし
ダヴィンチもミケランジェロもラファエロもマキャベリも15世紀〜16世紀初めの人だし
イタリアの外にルネサンス文化が波及するのは15世紀以後で、イベリア半島はあんまりルネサンスしとらんし
ルネサンス期には魔術も新プラトン主義も錬金術も占星術も最先端の「科学」としてもてはやされたし
宗教改革や人文主義や科学革命は16〜17世紀のことで、啓蒙主義は17〜18世紀
>>895 定義によって多少の誤差は有るだろうが、どっちにしてもルネサンスの方が先だよな。
元曲より神曲のほうが芸術性が高いだろ
元代の文化って、どうなんかね?
他の中国王朝には劣るんかな?
901 :
オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 21:01:01 0
>>900 元朝の文化って言って、すぐに思いつくのは染付かな。
あれは中国以外の地域にも広まったし影響力あったと思う。
まぁ、中国王朝の力というよりモンゴルの力って感じだけど。
元は美術だけはトップクラス
>>901 染付けっていうか青花だな。
>>900 三国志演義とか水滸伝とか宋代に小説に編纂された物は元の時代の劇が元になってる。
赤壁の戦いは、元末明初の鄱陽湖の戦いがモデルになってるんだっけ。
>>904 「三国志演義」の赤壁の戦いのモデルにはなってるな
でも、赤壁の戦い自体は実在したし、曹操の方が多数の兵力を誇りながら負けたというのも本当
906 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 21:57:49 0
907 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 22:28:32 0
ルネサンス初期はまだ中華の方が上かな
中世で大差ついてるもんな。
中国は唐になって発展してるけど、ヨーロッパは暗黒時代。
>>906 あ、そうだった。水滸伝なんて宋が舞台なのに宋代の訳ないよな。で、俺自身が混同しちゃったけど
三国志演義の前の三国志平話とか封神演義の前の武王伐紂平話とかが元の時代の作だな。
それらを元にさらに膨らませて三国志演義とか封神演義とか水滸伝とかが完成するのが明代だ。
910 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 00:01:09 0
2011年age
ショックな訳ないでしょう。ゲルマン人どもにとっては我が世の春だったんだから。
で、ゲルマン人どもがローマの遺産を禄にかつようできずに数世紀暗黒にはいっただけ。
そして中国共産党はその反省をいかして2020年代までに日本を滅ぼし、円満併合、円満活用するから無問題ですよ。
などと意味不明な供述を繰り返しており、警察は余罪を追及しています。
>>911 それを言うなら、中華の三国〜五胡十六国時代も似たようなもんだわな
でもこの場合は、むしろ遊牧文化との融合で進歩してる
漢族が殺されホーダイの世相だったけどな。 当時の治安状況を日本の外務省が各付けしたら海外安全情報でもう真っ赤で渡航禁止レベルだろ。
916 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 00:39:49 0
遼や金は、何か自分たちの文化を残していかなかったのかな。
元朝に引き継がれてる?
そもそも、オドアケルが帝位簒奪したかといって即衰えたというのも良く誤解されていますよね。
元老院自体はオドアケルの王国体制でも機能していました。
即ローマの支配体制そのものがとっつぶれたというわけではなくて、恐竜のように長い年月を
かけて徐々に沈滞していったのです。
日本人も中国をいたずら恐れる必要はなく、兄や父の指導に従うべきそれが弟の分を脇構えるようにすべきということですね。
>>885-886 研究が進んでプレルネサンス期が実は大して発展してなかった事が解ってくると共に
今はもう中世末期をプレルネサンス期と見做す考えは否定されてる
15世紀末以降〜近世以前がルネサンス期、残念だね
>>887 はいはい、ソースソース
鄭和以降も進歩してるよ、南海交易に使われた船も設備が増えたり大型化したりね
>>895 ルネサンス期は中世の秋が終わった15世紀末から
文化面じゃ19世紀の植民地時代まで中国>西欧だよ、見るべきものが無い
>>914 晋南北朝時代は江南に中国王朝が残存して開発が進んだから全くの別物
隋の時代には既に華北の生産力を上回っていたので
元々農業技術の低いローマから更に生産力の下がった中世西欧とは大違い
いい加減ルネサンスの時代間違えてる奴は黙れ
脳内ソースしか出せないのかw
>>922 恐らく、わざと間違った事を言って目立ちたい、注目を浴びたいんでしょうかね。
多分漢字だけの教科書を使ってたんじゃないかな
元は中国じゃないって周恩来か誰かが言ってなかったか?
>>922 いい加減、自分の古臭い思い込みが間違いだったと認めたらどうかな
で、
>研究が進んでプレルネサンス期が実は大して発展してなかった事が解ってくると共に
>今はもう中世末期をプレルネサンス期と見做す考えは否定されてる
こんな根も葉もないデタラメを書いてるあなたは間違いを認めないんですか?
引くに引けないのかな?
それとも、現実を受け入れられないのかな(笑)
可哀想なヤツだな
今時プレルネサンス期を設定する研究者なんていない
15世紀末までが中世、それ以降がルネサンス期、少しは本読めよ
そんな事言ってるのあんただけじゃん(笑)
ほとんどの人はルネサンスが始まったのは13〜14世紀からという現実を認識しているんだよ
「可哀想なヤツ」という言葉をそっくりそのまま返すわ
13〜14世紀の欧州って同時代の中国より何が上なの?
上とか下とかの問題じゃないだろ
ルネサンスが始まった時期について話してるんだが
>>930 13〜14世紀以降がルネサンス期だなんて言ってるのは、オマエただ一人
まともな西欧中世末期〜ルネサンス期を扱った本を読めば
あほでも自分の誤りに気付けるよ
>>933 >あほでも自分の誤りに気付けるよ
自分の誤りに気付けないあなたは、あほ以下という事ですね。
もう少し現実を見ましょう。
中国のルネサンスは宋代だよね
8世紀からだしこの時はまだ中華の方が上だったんだよね
おかしいな、趙氏の宋は10世紀に建国されたはずだが…
8世紀だと唐の玄宗あたりがルネサンスか?
あ、10世紀からか
やっぱり、一番進歩のスピートが早まったのはそこら辺かな
>>934 古い時代錯誤な西欧史観なんて、いまどき無教養な中高年しか信奉してないよ
少しは本読んで勉強しないと
>>937 宋代は既に近世、後漢・晋・南北朝が中世とすれば隋唐代でも変じゃないけど
ローマみたいに雲散霧消したわけじゃないから、敢えてルネサンス期を設ける必要無いな
940 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 03:31:18 0
ルネサンスの三大発明は先に中華で発明されていたからね
当てはめるとしてら、それが発明された時期かな
欧州限定の時代区分法を他地域にあてはめるのは無理があるからなー
ルネサンスは「再生」って意味だからな
別に、中国史上で何かが「再生」された事は無いし
プレルネサンス(笑)で検索しても何も出て来ない
自分で歴史用語作ってドヤ顔してるんだろうww
鄭和が唯一誇れる業績らしいけど単に古代からあるムスリム商人の交易網辿っただけ
航海技術も火薬兵器も宋代止まり後に日本やポルトガルの兵器水準見て発狂
明(笑)が西欧に勝るものなんてあるの?
彼はどうしても持論を押し通したいみたいだ
明らかに間違っているけど
明初はヨーロッパと互角ぐらいじゃないかな
中期以降は負けてると思うけど
>>943 なに自分で「馬鹿でーす」と自己紹介してんだお前は。英語でぐぐれ
そもそも名誉白人のクセしてプレルネサンス期を知らないとか終わってるけどな
アラビア商人もシナ商人も9世紀頃から紅海・ペルシャ湾岸〜中国沿海を行き来してたんだよ
未開野蛮な土人と違って
明軍もスペイン王国軍程度かそれ以上の割合で火器を装備
マスケットの品質ランクはアナトリア産(オスマン治下)が最高で西欧製はずっと下って第五等が最高
船舶も速度、積載量、安定性ともジャンクに劣る船しか造れてない
勉強しろよ、まあ無知だからこそ幻想や妄想を抱けるんだけどね
>>945 お前が紹介してんだから自分で説明しろよプレルネサンスとやらを
だから既に9世紀から存在してた交易網辿って何が凄いの?
ジャンク船には太平洋横断したり地球一周する神業なんて無理だろうね(笑)
明軍最強の異名持つ袁崇煥がポルトガルに泣きついて紅夷砲取り寄せてたりもしたな
双方言いたい事もあるだろうが、ここは一つ正月休戦ということで頼む。
,へ \ | / ,ハ百
\ \ \ | / ム.只
/へ/) ./ ̄\
∧_∧∩ )( ‐ ‐ ‐−──( ゚ ∀ ゚ )──−‐‐ =夫=_
.(*・∀・)7 ( ! ______ノ'""ゝ. \_/ フi三iヽ
゚ .冂つム゚_」 Y (_ ____) ':; | \ '─'
゜ ム_」」」」ゝ 人 ___) (__∠__ \| \
(,_,,ノ `ー´ ( '; (__________) ~':;,,. \
,' . / .' ヽ (_ ,,;::'~ ~':::;;,,,_
/ / ' \ヽ. __,,,,-‐''"~ ∧_∧ ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)
'0 __,,..l⊂Z_).⊃! ( ´∀` )  ̄ ̄ ̄ ̄) (二二二二二...... 0
0Π0- ‐‐'''"" |;;:.:. ヮ . .:::;| ,べヽy〃へ ( ̄ ̄ ̄ 0Π0
HΠH ∩.∧_∧∩ ∧∧/ :| 'ツ' | ヽ  ̄λ_λ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧∧ ̄ HΠH
EEE 匸(´∀`;)フ (,゚Д゚,). o |=宗=! o | ( `ー´) ヮ (゚ー゚*) EEE
|l|lil|ili| 瓜ゞッ=Lく ,くリ=ッ=[ゝ.__」「「「「L_.」 厂〉=ッ冂づ ヌ Oヮ⊂[]ヨ |l|lil|ili|
,,.<卅卅ゝ.__.,.,.,___.__.,.,.,(__)ヾZ)'_.,.,_じ(ノルハ)Jつ」」」」」⊂ソ.,_.,_.(入ム]つつ.__,L!__. (_」つ.,<卅卅ゝ,,.,,
948 :
945:2011/01/01(土) 08:51:09 0
俺は初詣後、姫始めにいってきたリア充だ。
お前ごときキモオタが妄想でぶっこいている間に
俺は3発やってきている。
引っ込んどけよ。
中国の歴史でルネサンスなんかねーよ。
ルネサンスがあったのは西洋の歴史。
中国で既存の価値感・儒教や道教の価値感を否定するなんてこと起きてない。
古代復興
温故知新
中国は文明の断絶が無かったしな
>>946 9世紀どころか、ローマ時代に確立されている交易路だろ
おまいはローマ過小評価、明過大評価だ
>>952様が今まで誰にも知られていない新説を発表して下さるぞw
>>950なんかを見ると中国人のキャッチフレーズ好き標語好きという面が見えてくる。
内容や実行はともかく標語を掲げて何かしら実態があるような気になって結局は何もない。
中国でルネサンスと呼ばれるようなことは起きてないよ。
起きるわけないだろ、ローマ文明のように断絶することなく命脈を保ち続けたのだから
同じことはギリシャ世界にも言える、あの地域も大きな断絶を経験してない
956 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 13:30:20 0
ルネサンスどころか正反対の性質を持った文革だ
毛沢東はもうたくさん
大躍進政策の大失敗の後は劉少奇に政治運営の一切を任せてさっさと首吊ってたら良かったのに
いつまで天安門に虐殺者の肖像画飾ってんだか
957 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 13:44:18 0
>>949 儒教の否定、迫害はしこっていい?(始皇帝)ともうたくさん(毛沢東)がしっかりやってんだろうが
そろって中国史における最大の暴君
ロシアもイヤン最低(イワン雷帝)や吸ったリン(スターリン)の独裁・虐殺で
でかくなってるからな
悪の力による国家繁栄
なんとも嫌な歴史的事実だ
958 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 13:46:07 0
中国とロシアは悪の力で繁栄を遂げた国家
それは今もなお……
959 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 13:52:06 O
ロシアはいいけどソ連はすみたかないな
960 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 13:56:47 0
>>959 言論の自由はほぼないぞ
チェチェン問題を取り上げたジャーナリストが暗殺されてんじゃないの
ヨーロッパは善
アジアは悪
962 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 15:18:33 0
一概にそうはいえん
スペインが南米で容赦ない殺戮を繰り広げ
イギリスが北米で原住民を虐げた
西欧諸国によるアフリカ植民地政策は数々の弊害をもたらした
963 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 15:23:47 0
結論としては一貫して善の国など存在しない
アメリカも原住民を虐げアフリカより黒人を連れてきて奴隷とした歴史がある
日本も軍国主義の暴走で悲惨な殺戮を繰り広げた過去がある
そろそろ次スレの時期か
どなたかよろしくです
967 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 16:48:27 0
嬴政(皇帝即位 紀元前221年)
アウグストゥス(皇帝即位 紀元前27年)
ローマ帝国って一見デカく見えるけど、陸地面積は大した事無いんよね。
だから、6:4ぐらいで秦漢帝国の勝利かな。
地中海という巨大な交易路を中心部に持ってることは大きなメリットだろ
ローマは水陸一体化して南北を繋いでいる
煬帝の運河と一緒
それが紀元前から出来上がっている
漢もローマだけは他と別格(大秦国)と認めていたからな。
東西も黄河や長江どころじゃない規模でつながってるがな
973 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 17:51:05 0
>>968 ローマにとっての地中海は、中華にとっての黄河・長江・運河と同じようなもんでそ
>>972 逆に、あれだけ広大な地中海の周りを隙間無く統治出来ていたのが凄いよな。
975 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 18:29:20 0
そりゃー、秦が崩壊した後、漢や唐があの領土を保てたのは地形のおかげよ
976 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 18:31:26 0
しこっていい?(始皇帝)が歴史上大きな役割をはたしたものとされているが
奴はただ手下にことを任せて遊び呆けていたにすぎない
奴の功績とされているのは有能な軍部やリシなどの政務によるもの
う〜ん、確かに始皇帝自身は中華統一に向けて、何もやってないよね。
統一後は、郡県制を施行したり、いろんなモノ(度量衡、貨幣...etc)を統一したりしてるけどね。
978 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 18:57:38 0
始皇帝は統一という概念、分裂しても統一に向かう秩序、を作った点で偉大なんだよ
それまではみんな「覇者」を目指していたからね。
天下統一して「皇帝」になろうと思ったのは、始皇帝が初。
漢のGDP:268億2千万ドル(世界シェア26.2%)
ローマのGDP:220億ドル(世界シェア21.5%)
981 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 19:21:59 0
ローマ通貨はインドや東南アジアで大量に出土するが、漢の文物はどうなんだろ
国の集合体だった中華から国という概念を消し去ったのが始皇帝の意義
中央集権化されたことで内乱はなくなったわな
>中央集権化されたことで内乱はなくなったわな
秦はすぐに内乱で崩壊したやん
漢が呉楚七国や南越などを潰してようやく統一
始皇帝の中央集権化が急すぎて反発を呼んだ。
そして秦帝国は崩壊し、西楚の項羽が覇者になり、封建制に戻してしまった。
んで、項羽もDQNだったからまた反乱が起きて、漢の劉邦が皇帝になり郡県制と封建制の中間にあたる、郡国制にした。
そして、呉楚七国云々というわけ。
>>984 内乱と反乱は違うねん
警察活動の基礎はただ一つの権力にあって、秦以前は悪いことしたり武力蜂起しても実力者は裁きようがないって時代だったでしょ
漢も大失敗をしてからようやく始皇帝のやったことの意味を理解したんじゃないかね
987 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 19:54:28 0
春秋戦国は秦の統一まで何百年とかかったが、楚漢戦争が4年で終結したのも、始皇帝のおかげだろ。
結局中央集権化された態勢が必要だってことにいち早く気づけたことがその後の中国の隆盛を育んだよな
中国は人口が多い、国土が広いって言われるのは統一国家あってのものだしね
一方、かの国は東西分割統治・・・
始皇帝の300年前にペルシアのダレイオス大王が帝国再編・統一事業を行っている
アレクサンダー、チャンドラグプタ、始皇帝はその影響を受けたものだろう
当時(紀元前5世紀)はペルシアが最強だったな。
比較的先進地域だった中華やローマですら、ペルシアの足元にも及ばない。
993 :
世界@名無史さん:2011/01/01(土) 20:41:56 0
始皇帝の中央集権化による功績も大きいが、やはり一番は地形かな
広大な華北平原が中原の礎となっている
>>993 いや、だからその肥沃な土地を奪い合って多数の実力者の間で無益な争いが延々と続いてたのが問題なわけだが…
仮に誰かが統一したとしても同等の実力者が現れればまた同じことの繰り返し
そもそも地形云々の話だと関中・巴蜀はどうなるんだよ。孤立してるじゃねぇか。って話だわな。
うんこ
ウンコ野郎!
???
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。