521 :
世界@名無史さん:2014/05/06(火) 03:05:20.14 0
「組織のトップ」と「女性」は占いが好き、って最近の何かの本にあったね。
俺も、知り合いの事務所経営してる人が、理系なのに神頼みモードになっててびっくりしたことがあったわ。
昔の王様も、責任と孤独の中で、占いでも何でもすがりたかったんだろうね。
俺みたいなリーマンには理解できない境地だけど。
ニュートンも晩年は神学者になったからなぁ。
合理的に考えても結論を出せなければ、占いにすがりたくもないよね。
逆に信心深いはずの古代中毒でも、春秋左氏伝に
「合理的に結論出てるんだから占い不要!」と言い切る話が出てきたりするけど。
占いや託宣とは情報を利用して人心を操る手段
>>523-524 そこは古代っつっても長いわけで変化があるでしょう
神々を祀ることにあけくれてた殷の時代と
春秋戦国の気風をごっちゃに言っても意味ないと思う
>>525 ところが、殷の時代の王も結構現実的な判断をしていたと思うんだよ。
というのも、殷の卜占ってのは、
卜師が具体的な提案を書き記した上で祖霊にお伺いを建てるというもの。
つまり、王が特定の案件を意図的に卜占のリストから外してしまえば
その案件は占われることはなく、占いの結果として採用される事もない。
当然、こういう仕組みを利用して我意を通していた王はいただろう。
そして、そのような事情があっても後々に語り継がれることは稀だし、
甲骨文字に証拠は残らないというわけさ。
>>526 そんなの王にも自由裁量の余地があって
神の奴隷ではなかったってことにすぎないんじゃないの?
占いってのは一から十まであらゆることを聞くんじゃなくて
聞きたいこと(人智の及ばないこと)を聞くんだから。当たり前だけど。
そう。例えば戦争するべきかどうかと尋ねるんじゃなくて、
戦争する為にこの日に出陣するのは吉か凶かと尋ねる。
凶と出たら別の日にちで占うという事を吉が出るまで繰り返す。
戦争するかどうかは王の判断。
529 :
世界@名無史さん:2014/05/14(水) 04:25:41.85 0
夏=忠、殷=敬、周=文。
巴蜀文字は明らかに記号の域を超えている。確実に漢字以外の文字だ。
だが未解読なのが残念。インダス文字とともに解読が待たれる。
インダス文字との関係も気になるしね
普通に内陸チャイナのナシ・トンパ文字やリス文字の系統だと思うよ。
トンパ文字は7世紀ぐらいに誕生したらしいが、何らかの影響は受けているかもしれない。
当時まだ巴蜀文字の痕跡は残ってたかもしれないし。
トンパ文字との比較で何とか解読できないものか・・・・
http://www.geocities.jp/haruhara1658/china8.htm 巴蜀王朝よりも更に南には現雲南省にある昆明文化があった。
この昆明文化から南西に向かえばガンジス川に到達する
インド最古の民族と言われるムンダ人やドラビダ人が住む地だ。交流は先秦時代より
あったのだろう。昆明文化の地に強大な権力を持った王は居そうにないけど
何らかの権力者は居ただろう。昆明に明確な王が出現したのは戦国時代になってから。
インダス文明の末裔とされるムンダ人やドラビダ人と昆明の関係が気になる。
巴蜀は分からないけど昆明は確実にインド文明と関係が深そう。
蜀=成都、巴=重慶
この二つは割かし近くのちに合併して巴蜀王朝を作ったが、昆明は離れすぎていて
別の文明である。インド系の住民が住んでたかもしれないと思う。
インドと雲南の間には、虎が出るから、容易に行き来できなかったよ。
ミャンマーに入ったら、イラワジ川下ってパテインに出て沿岸回っていただろうよ。
11世紀以前のミャンマーには、クメール系の住民がいて、パガン朝ぐらいまでは
クメール系の言語も使われていた。
ムンダ系の言語は、クメール系の言語は近いので
東南アジア研究では、古代の住民についてクメールがキーになるといわれとるよ。
蜀(成都)と周(長安)より
蜀(成都)と雲南(昆明)の方が距離が離れている。蜀の事は殷の頃から知られているけど
昆明なんて中原の連中は認識して居なかったと思われる。
広義の意味では当時の雲南は中華文明から外れているね(蜀はギリ中華文明)、今は違うけどさ
13世紀の時点で、ベトナム・高麗より漢化されてないだろ雲南は
百越(南越)が漢化されるのは秦から始まり、前漢で完了
西隣の夜郎が前漢で漢化が完了
更に西隣の雲南は明の時代に漢化が完了
雲南は制圧→反乱→独立→制圧→反乱→独立→制圧
を秦〜明まで繰り返していて。漢化が完全になるのは明から
秦や漢も支配下には置いているけど末期には反乱起こされて独立される。
春秋戦国時代にも楚に攻められている。
司馬遷も若い頃に昆明や大理と言った雲南奥地まで従軍して居て直にその地を見聞きしている。
おかげで史記では中華圏から微妙に離れているにもかかわらず雲南の異民族に異常に詳しく書かれている。
匈奴とか鮮卑とかの北方民族よりも遥かに詳しい。直接自分の目で見たのと他人から聞いたのとでは
違うわけだ。
つーか、南詔国と唐、大理国と宋の間で盟約があったはず。
大理国と宋のは石碑はないが公文書上に残っている。
宋揮玉斧
http://www.zwbk.org/MyLemmaShow.aspx?zh=zh-tw&lid=202916 元朝以降になると大理国の領地は、地方の県城単位ぐらいに、土司や土官といった世襲の領主に自治させるようになり
清朝になると宣撫使という世襲官の制度に引き継がれる。
共通文書として漢字が流通するのは、元朝以降という。
規模の大きい土司・宣撫使は、麗江のチベット系木氏や洪景のタイ系刀氏など。
明や清の時代の宣撫使は、冊封とは違っていて、世襲であっても任官の形をとり、雲貴総督の支配下という扱い。
領主同士の争いは結構起こっている。
542 :
世界@名無史さん:2014/08/30(土) 00:36:49.11 0
http://www.47news.jp/CN/201408/CN2014082901002218.html 中国で西周時代の都市発見か 長江文明の解明期待
【北京共同】中国四川省広元市で29日までに、
西周時代(紀元前1050年ごろ―同771年)の都市とみられる遺跡が見つかった。
四川地方では近年、長江(揚子江)流域で栄えた文明の多様性を示す遺跡発掘が続いており、
今回の発見にも古代中国の謎を解く手掛かりが期待されている。
古代都市の遺跡は長方形で約5万平方メートル。
中国メディアによると、四川地方で西周時代の都市の遺跡が見つかるのは初めてという。
四川省文物考古研究所が7〜8月にかけて地質調査などを行い、43カ所で都市や墓群などの遺跡を発見した。
2014/08/29 19:56 【共同通信】
543 :
世界@名無史さん:2014/09/06(土) 17:06:06.54 0
>>531 画像を見ると似ていると受け取ったんだけど。
三星堆玉盤(?)の真ん中の文字は明らかに「蜀」だな。
545 :
世界@名無史さん:2014/09/07(日) 08:00:09.45 O
ネットで見る殷や周の文字と似ているから全く別だとは言えないと思う
夏ってさ
どうやったら王朝として存在していたことを証明できるんだ?
文字まだないだろ
547 :
世界@名無史さん:2014/09/07(日) 20:02:25.90 0
字は有るかもしれないし無いかもしれない
もし有ったとしても現代の字とは全然違うはずだし
現代の言語とは全く違う言語で解読は困難だろう
文字が無い頃の大和政権とか邪馬台国みたいな感じで証明する?
第三者の記録という手がかりがあるとないとじゃ、大違いなんじゃねーの
敦煌莫高窟の西夏文書みたいな「ロゼッタストーン」がないと解読できんでしょ
それより現行の甲骨文字より一段古い漢字を探すのが先だね。
552 :
世界@名無史さん:2014/09/10(水) 18:14:41.35 O
そう、問題なのは同じ内容の分かる文章と併記されないと解読できないこと
553 :
世界@名無史さん:2014/09/10(水) 22:25:31.48 0
夏文字・シュメール語のロゼットストーンなんて出土しないかなw
554 :
世界@名無史さん:2014/09/10(水) 23:19:04.26 0
絵付きで字を教えるのが発見されればあるいは
555 :
世界@名無史さん:2014/09/11(木) 02:43:27.08 0
甲骨文字以前の文字は文字なのかどうかよくわからんって事じゃなかったのか?
556 :
世界@名無史さん:2014/09/11(木) 18:12:04.04 O
文字は表音でも表意でも元々は絵からだよね
畑作の北の民が遊牧民と混淆、水田耕作の南の民を征服
「長江中流域にB.C.14000頃に稲作を行っていたとされる遺跡が発見されました。
これまでは、中国の最古の文明は、黄河流域と考えられており、 また世界的に見ても小麦農業は
B.C.12000頃に始まったとされているので、長江の稲作農業は世界最古と考えられるようになりました。
中国の古代文明は黄河一極ではなく、少なくとも二元的あるいは多元的な起源があると考えなくては
ならないようになったのです。・・・
長江流域では、多くの余剰を持つ者と持たない者との貧富の差は広がり、富を持つ者は自らの財産を
守る必要性がでてきました。 そこで城壁都市が発生したのです。・・・これは、富の争奪が激しい戦争
が行われるようになったことを意味しています。・・・
さて、B.C.2000頃は夏王朝が勃興したとされています。古代の聖王堯・舜・禹はしばしば南征を行い
ましたが、 この神話は実際の勢力争いを反映していると考えられます。すなわち、・・・黄河文明圏
勢力と争い、・・・長江文明は衰退したのです。しかしその文化は確実に黄河文明に引き継がれました。」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point39.html
558 :
世界@名無史さん:2014/09/13(土) 18:00:16.22 0
>>557 稲作地域出身の人々は小麦生産地域出身の人々に比べ、考え方が相互依存的で全体の和を重んじる
という科学的知見や、遊牧民のリーダーを選挙で選ぶという民主主義的側面ないし民本主義的側面、
更には、南は水田耕作文化で北は畑作文化と遊牧文化の複合体という実態、等を踏まえれば、
南の人民は人間主義的で北は非人間主義的であったのに対し、南の支配者に比して北の支配者は、
より民主主義的でかつ民本主義的であった、と考えたいところです。
遊牧民系である鮮卑系たる唐の2代目の太宗と、女真たる清の2代目の康煕帝が稀代の名君であった
とされてきたことは偶然とは思われません。支那には真に民本主義的な統治を行った皇帝が少なく、
しかも、その少ない代表例が2人とも遊牧民系の王朝の初期の皇帝であったわけです。
さて、この両者のそれぞれの長所は相互に打ち消し合い、短所は相乗的に増幅された形で、統一支那
文明が形成された、と私は見ています。
すなわち、北の支配層は、北の支配層間にその痕跡が残っていた可能性がある広義の選挙制に、
新たに隷属させた南の旧支配層を参加させないためにも、選挙制の痕跡を払拭するとともに、
北の人民に対する民本主義的統治を、信頼関係の全くない南の人民(及び旧支配層)に及ぼす
必要性を認めず、実質的に止めてしまい、形式的には引き続き民本主義的統治を標榜しつつも、
それを叛乱を生起させないギリギリの範囲で搾取を続ける統治へと堕してしまった、と見るわけです。
そして、南の人民は、かつては北の人民に比して、より人間主義的であったがゆえに、水田耕作に
よって生じた余剰を巡っての争いに関しても、一族郎党が集住する環濠集落を本格的な都市国家へ、
そして更には領域国家へと拡大強化するまでもなく対処が可能であったことから、人間主義が一族
郎党を超える域まで達しないうちに、南における寒冷化による米収量の減少も与って、北の諸国
更には北の統一国家によって個別に次々と征服されてしまい、人間主義未満の一族郎党命主義が
北の人民の非人間主義、すなわち利己主義と混淆し、利己主義/一族郎党命主義をエートスとする
統一支那文明が形成された、と見るわけです。
きもっ
560 :
世界@名無史さん:2014/09/13(土) 22:23:54.60 O
清は幸せな社会だったとは思えない。
561 :
世界@名無史さん:2014/10/12(日) 17:17:25.86 0
昨日、母校の研究室行ったんです。研究室。
そしたらなんか学生がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか就職した同期が座ってて、就職したけど
博士号が取りたくて、退職して院生になった
とか言ってるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前な、人文系博士号如きで会社辞めて研究室に戻ってに来てんじゃねーよ、ボケが。
人文系博士号だよ、人文系。
なんか嫁も子供とかもいるらしいし。一家4人で無職生活か。おめでてーな。
よーしパパ塾講師のバイト行っちゃうじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、博士号やるからその就職しろとと。
研究室ってのはな、もっとはつらつとしてるべきなんだよ。
テーブルの向かいに座った女といつ恋愛が始まってもおかしくない、
恋するか恋されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。30過ぎのおっさんは、すっこんでろ。
で、やっと35にして博士号が取れたと思ったら、その後の消息が不明なんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、博士号持ってる新卒なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、「私は博士号を持っています」だ。
お前は本当に博士号を取りたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、就職したけど、プライドだけが高くて、社会に順応できなかっただけちゃうんかと。
行方不明博士通の俺から言わせてもらえば今、行方不明博士通の間での最新流行はやっぱり、
同窓生名簿に40近くになっても院生、これだね。
卒業生名簿就職先が空欄。これが通の博士号の取り方。
博士号取得まではにそいつの名前でグーグルで検索すると入ってる。そん代わり35過ぎて博士号取得後は検索0。これ。
で、「あのひと検索」のはずが、いつの間にか「あのひとは今」状態。これ最強。
しかしこれを書くとと次から「留学して日本にいないから」噂を意図的に流されるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、まじめに就職でもしてなさいってこった。
>>530 甲骨文字に似ているようですが、未解読文字なのね
前漢時代既に蜀の文字は当時の学者たちも読めなかったみたいだし(戦国七雄の文字は読めた)
蜀を支配した秦人が蜀人の文字の矯正を強引に進めた結果だ
ロゼッタストーンの発見が期待される
夏文字?から発展したのが甲骨文字だとする、巴蜀文字も同じく夏文字?から発展したと
考えるといいかも?
夏文字?→甲骨文字→金文→秦文字・燕文字・楚文字・晋文字・斉文字(戦国七雄の文字を便宜上の名)
夏文字?→巴蜀文字
甲骨文字から巴蜀文字が発生したなら秦や漢の学者が巴蜀文字を読めないのはおかしい
彼らは秦文字以外の戦国六国の文字も全部読めたのだから。
巴蜀文字は甲骨文字の子では無く兄弟であるならつじつまは合うな。
見比べてみるとヒエログリフとか楔形文字とかとは違って、だいぶ近い
でもまあそれでも未解読なのは甲骨文字が起源じゃないからだろう
秦恵文王
巴蜀
秦昭襄王
鄭、西周
始皇帝
東周(東周公)、韓、趙、魏、楚、燕、斉、百越、匈奴
漢武帝
匈奴、大宛、衛氏朝鮮、ビン越、百越、テン、キョウト、夜郎、昆明族、且蘭、筰、徙、ゼンボウ
後漢明帝
哀牢、鹿タ
滅ぼした、又は服属させた国或は部族
始皇帝と漢武帝が抜きんでている。これが後の漢族の真の領域になるわけだ。
何度か分裂・独立したりもしたが、明の時代に漢族の版図はこれで確定した。
多民族帝国と漢族を同一視してはいけない
>>565 ここにウイグルチベットモンゴルは含まれていない点が味噌
あほか、三代や秦漢の話で、ウイグルだのモンゴルだのいう単語が出てくるほうが時代錯誤だわ。
どこまで現代に毒された頭で歴史を解釈してるんだ。
569 :
世界@名無史さん:2015/01/26(月) 11:24:25.54 0
>>39 犬戎ってチベットビルマ系が起源?って書いてある書物もあるし、
のちの匈奴の源流じゃないかと書いてある資料もある
(この場合、淳維、鬼方、けん允、葷粥なども匈奴ひいてはフンの源流としてる場合が多い)
どっちなんだろ