http://www.jrcl.net/frame040405n.html 日清戦争のドサクサにまぎれて
一八八五年、日本政府は海産物業者であった古賀辰四郎による「開拓願い」を受ける形で、
沖縄県庁に対してこれらの諸島に対する調査を「内命」した。命令を受けた沖縄県は、同年
九月二十二日付の沖縄県令西村捨三の上申書で、これらの島々は中国領であるようだから
実地調査して直ちに国標を立てるわけには行かないだろうという主旨を、政府に伝えている。
このような沖縄からの上申を受けたにもかかわらず、内務卿・山県有朋は同年十月九日、
「たとえ『中山傳信録』に記された島々であったとしても」、すなわち中国領であっても、「宮古
や八重山に近い無人島なのだから日本のものにしてしまっても構わないだろう」と主張して、
外務卿・井上馨に打診した。
これに対して井上は十月二十一日付の親書で、「清国では、日本が台湾に近い島々を占
領しようとしているということを新聞でも書き立てるなどの状態になって、日本への警戒が高
まっているから、いま国標を建てるべきではなく、調査した事実も新聞などに載って知られて
しまわないよう注意すべきだ」と返答している。その上で山県と井上は連名で沖縄県に対して、
直ちに国標を建設する必要はないと指令している。戦争の準備が整わないうちに、清国との
国際紛争が激化してしまうのを恐れたのである。
日清戦争で日本の勝利が確実になった一八九四年末になって、内務省は外務省に秘密文書
(十二月二十七日付け)で、釣魚諸島を沖縄県所轄として国標を建てることについて閣議決定
することを申し入れ、翌一八九五年一月十四日に閣議決定が行われた。
この閣議決定は非公開で、公開されたのは五十年以上も後の一九五〇年になってからであった。
以上の経緯により、世界史住民の総意として尖閣はもちろん、宮古や沖縄は中国に返還すべきとの
合意を取り付けたいと思います。