匈奴側の史料が限られているから、前漢側の記述しか使えない。
よって、前漢と匈奴を教科書の記述からごっそり落とすしかなくなる。
漢の西域都護班超は独力でタリム盆地からカスピ海に至る中央アジアの都市国家50余りを支配し、
漢土本土より広い地域を支配し、独自に外交を行うなど、
実質上中央アジアを支配する大帝国の皇帝のように振る舞っていましたが、
なぜ自立しなかったのでしょうか?班超が独立したとしても、
漢土からタリム盆地まで班超の大帝国を打倒できるほどの討伐軍を送り込むことはできないでしょうし、
独立すれば班超は即漢に匹敵する大帝国の皇帝になれたのに。
本土の指示を仰がずに遠征や外交を行い多数の国を無断で従え、
西域で専権を振るう班超に野心が無かったとは思えないのですが、
異国の地で皇帝並みの権力を振るうことに満足して皇帝になる欲望は無かっただけですか?
それとも、別の要因があったのですか?
あと、班超の築いた西域の勢力は、なぜ班超の召還後、漢が引き継ぐことができずに、
班超一代限りで終わってしまったのですか?
>>950 >>951 属州と言うのは、宗主国の代理人が常時駐在して、内政・外交・軍事すべてに介入される土地だ。
漢は匈奴に屈辱的な和平を結ばされて、貢物を送らされ続けたものの、
匈奴は漢の内政・外交・軍事に一切介入してないし、漢の皇帝に優越する代理人も置いてない。
武帝期までの漢と匈奴の関係は、覇権国家匈奴と、朝貢国漢と言う関係で、
漢は匈奴の属州では無く、立派な独立国だ。
>>951 前趙の劉淵は、晋の記録でも匈奴だと書かれていて
しかも冒頓単于の末裔とも書かれてる。
よって、前漢時代の匈奴の後継者である可能性が残っているし
まだ鮮卑化していないと期待できる。
前趙の記録と前漢の中行という使者の記録から匈奴の歴史を再構築し
考古学からの成果と連携させて、匈奴の実像に到達できるかどうか。。。待つしかないな。
肥沃な農耕地が広がるシナ本土と、砂漠に点々とオアシス都市が連なるだけのタリム盆地では、
たとえ面積が同じでも抱えられる人口がぜんぜん違う。
班超が官位を投げ打って帝位を号すれば付き従う人々はいただろうが、
これまで彼が戦ってきた匈奴が「反逆者を討伐して進ぜよう」とか言い出して、
本国たる漢と結んで挟撃してきたらどうしようもなかろう。
班超といえば いちかばちか!っていったひとだよね。
>>958 半か?丁か?ええい!勝負だ!って意味でしょ?
班超の個人的なカリスマ性というものが大きかったんだろうね。
なぜ独立しなかったのかはわからない。
>>956 あの当時の分裂した匈奴になら勝てたんじゃない?
班超は大国クシャン朝も破ってるわけだし。
あと、外征に消極的な漢にタリム盆地まで兵を送る意思はないと思う。
独立したら追認したんじゃないか?
>>937 >毛沢東の祖先は、ナシ族地区
麗江のナシ族?、知らんかった。
タクラマカン沙漠周辺に点在するオアシス都市を従えて「蛮族」の皇帝になるより、
漢帝国の将軍でいたほうが地位も名誉も報酬も高い。
>>962 史籍に登場しない個々人の族譜は神話学カテでよく話題にされているよ
この板ではあまり知られていないことも論じられる
965 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 11:09:21 0
後漢の公的な使者・甘英はローマにたどり着くことは出来なかったのですが、
漢の商人は直接インド洋を経てローマまではいけなかったのでしょうか?
>>965 海洋交易路自体はあったが、交易路があることと、ある国の商人がその交易路の端まで行くかは別の話
後漢時代ぐらいの中国の船や商人なら、直接行ったのは東南アジアとか、遠くてもせいぜいインドぐらでしょ
交易路の地図を見ると錯覚しがちだが、たいていの国の商人は隣の国や、無理せずに航海できる範囲内の
地域と交易するだけで、マルコ・ポーロのようにその先まで直接自分で行くのは、むしろ例外
交易路上の国々がみなそのような交易をするから、結果的に商品は順送りに移動し、遠くの国に届く
たとえば、我が国の正倉院にペルシアの物産が残っているが、だからといって奈良時代の日本人商人が
ペルシアに直接交易に行ったことにはならない
967 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 13:38:12 0
マルコ・ポーロって又聞きじゃなかったっけ?
又聞きでしかない部分もある、ってだけでは?
969 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 16:56:43 0
監獄に入っていたマルコが語るほら話を、同じく入獄していたルスティケロ・ダ・ピサが書き取ったもの。
というのは知っているが、その聞き取りが入獄中なのか、出獄後に思い出しながら書いたのか、を俺は知らない。
マルコじいさんってたしか 誰にでも語るんだよな、ついてない人生をあれこれと
マルコ・ポーロは元まで来て、黄金の国ジパングの噂を聞いた、とされている。
>>965 甘英は後漢の正式な使者では無く、
中央アジアで半自立状態にある班超が勝手に送った使者。
漢の本土から出発したわけでなく、
班超の本拠の中央アジアから陸路でシリアにまで至ったわけだから、
インド洋など通りようが無い。
>マルコ・ポーロって又聞きじゃなかったっけ?
抽象的すぎて質問の意味がわからん
最近の、「マルコ・ポーロは中国には実際に行っていない」って説のことじゃないか?
中国まで来ていれば、万里の長城とか、纏足の習慣とか、もっといろいろ珍しいものに言及して
いそうなものなのに『東方見聞録』にはそれらの記述がない、ってのがその説の主な根拠
しかし、今のような立派な万里の長城ができたのは明代だし、マルコがアラビア人やペルシャ人
といった色目人たちのコミュニティーで暮らしていたとすれば、何年も中国に住んでいても、漢人
の風俗習慣を知らないままでいても不思議はない
>>959 それは乾坤一擲だろ
項羽と劉邦のことだね
日本とロシアが満州ドンパチやってた時に、満州の持ち主の清朝って何やってたの?
別に満州全土を租借に出したりしてなかったよね?
>>976 日清戦争の賠償金を払うためにロシアから金借りて権利あげたの
>>974 最近とは十年以上昔のことも含めて言うのかどうかはともかく、
そんな珍説の論拠が成り立たないものばかりだという反論もされ尽くしていて、
今更そんな珍説に拠って立つ輩がいるはずがないだろう。
マルコ・ポーロ(が語った内容から記述に至る過程)って又聞きじゃなかったっけ?
マルコ・ポーロ(が誰かから仕入れた情報)って又聞きじゃなかったっけ?
(東方見聞録ではなくて「マルコ・ポーロ」という題名の伝記)って又聞きじゃなかったっけ?
どうとでも解釈の余地がある。
そろそろ次スレ頼む
三十年戦争があんなに長引いたのに、戦場がドイツの外に波及しなかった理由を教えてください。
普通、あれだけの大規模な国際戦争が起きれば、参戦国がドイツじゃなくて、
敵対国の本土に進攻しようという動きを見せたりもすると思うのですが。
特にスペインが隣接するフランス本土に直接侵攻せず、
ドイツで戦った理由が分かりません。
あと、カトリック大国のポーランドが参戦しなかった理由も。
ポーランドとスウェーデンは宿敵だし、
ポーランドを味方に付ければ、カトリック陣営はスウェーデンの本国に侵攻できるのに。
あーあー。ムチムチムッチンはこまるのぉ〜
じゃあ、君が説明してごらんなさい。
>>974 万里の長城があんなに立派な建造物になったのは明の時代。
元の時代は本国首都ザナドゥと植民地首都ハンバリクの間にあったけれども、整備する必要も無いし、
その前の時代に支配した金・遼、五胡十六国は北方系の種族でやはり事情は同じ。
宋・晋は支配域が万里の長城の近辺に及ばず、隋・唐も北方系の王朝なので特に万里の長城を必要とせず。
大体、ヨーロッパや中東にはローマの造った長城跡が至るところにあったんだから、特に注意を引かなかったんだろう。
>>980 そりゃ、封建制だから。
いざ鎌倉、ってのは名目だけで、主君(王様)たりとて配下の諸侯・騎士を号令一本でほいほい
動かせたわけではない。
しかも、ヨーロッパの封建領主は「忠臣ニ君に見えず」というようなことは無いし、近くの
国の近いランクの領主とは縁続きだから、場所によっては国内事情で戦争ができない。
>>984 でもスウェーデンもデンマークもフランスもスペインもはるばるドイツにまでは遠征できてますよね。
配下の諸侯や騎士にとっては、ドイツ行く方が大変だったと思うのですが。
>>985 だからあのころのドイツは一昔前のベトナムみたいなもんだったの。
ベトナムで戦争しても中国本土、アメリカ本国への攻撃はしなかったろ?
ぞこまでの戦争はしたくなかったからだ。
場合によっては米中戦争勃発の危険はあったけどね。
30年戦争もそう。
大国の利害のために大国の軍隊がドイツを戦場に戦ったけど、あくまで建て前はドイツの同盟諸侯に肩入れするってことだったからさ。
自分らの国土を戦場にするほどのやる気はなかったんだよ。
ハプスブルグがドイツ諸侯を支配下に組み込んでいこうという戦争に介入して援軍を送り込んだ形だね。
国民半数死亡の未曾有の混乱を教訓に、宗教戦争がヨーロッパから消滅した訳だが
ここまで事が大きくならず、ウェストファリア条約が発効されなかったら
ナポレオン戦争も共和主義vs教会伝統の宗教戦争になってたのだろうか
第一次大戦も新教勢(英独墺)vs旧教・正教勢(仏伊露)とか
>>987 前々から皆、宗教戦争とかやる気なくなってたし。
30年戦争でフランスがプロテスタントに肩入れしてるところからしてさもありなん。
その前でも、サン・バルテルミでユグノー派ぶっ殺しておきながら、ネーデルラントの新教と手を組んでたりするしね。
アウグスブルグの宗教和議からの一連の流れの終着点であって、条約1つだけ取り上げて語ることでもないと思うが。
加えてオランダとベルギーの様に、宗教対立が消えたわけでもない。
人は条約1つくらいで変われないけど、その一方、大きな時間の流れで徐々に変わっていくものだし。
欧州の宗教がらみの問題でややこしいのは、結構昔から皆それなりに宗教と政治を割り切ってやってるところに、
時々むやみやたらに宗教的情熱に動かされた輩が出てくるところだと思う。
空気読めてないというか。
マルクスだって教祖だもん。
鳩山だって教祖だもん。
>>980 ポーランドは対モスクワ戦争のあと、対トルコ戦争の真っ最中で、
ドイツに介入するのは財政的にきつかった
しかも当時のポーランド王はヴァーサ家から選挙で引っ張ってきた連中で半分スウェーデン人だから、
宗派同士の戦争である三十年戦争に介入したらポーランドにとっては余計に面倒くさいことになる
また、対モスクワ戦争で王の暴走により懲りたためポーランド議会は他国の戦争に介入するのに反対した
そういうわけでいわゆるモンロー主義を貫いた
その後(1648年)、ポーランドとトルコの和解に不満を持ったコサックの大反乱が起きて、
こんどは国内が滅茶苦茶に
>>980 あともう一つあった
ポーランド王国は伝統的に宗教や宗派に寛容で、
ネーデルランドやスコットランドからのプロテスタント難民を大量に受け入れていて、
また国内もこの当時はシュラフタ層の2-3割程度がプロテスタントだった
国内にはイスラム教のタタール人の貴族もいたほど多文化主義を貫いた、
当時のヨーロッパとしては非常に特殊な社会だった
だからそもそも特定の宗派同士の利権がらみの争いに介入したくない、
というのがポーランド(議会)側にあった
>>976 質問する前に
「シベリア鉄道」「東清鉄道」「鉄道付附属地」
ぐらい調べよう。
シベリア超特急なら全部見ました!
>>976 たしかに清はおかしい!
「けんかすんならよそでやってくんな!うちの店の迷惑だからよ。」っていって日本海に押し出してしまえばいいのによぉ
台湾沿岸部に傀儡国家をつくっておかなかったのは何故なんでしょうか?
対露はよくて他はダメなのかと
>>978 しょうがないだろう。
最近だって「鄭和艦隊がアメリカ大陸に行った」とかという珍説が出た。
しかも、イスラム文献を完全にスル―している時点で著者は「反イスラム主義者」なんて疑惑まで受けた。
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