バイカル湖周辺に始まり、中央ユーラシアに広く分布。
支那、アラビア、小アジア、バルカン半島を支配した
テュルク系諸民族について世界史板的に語るスレッドです。
前回はそれなりに興味深い議論も交わされたかと思いますので
今回Part2を立てました。引き続きレスをお願いします。
テュルク系民族を語る
academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1121937215/
2 :
世界@名無史さん:2009/11/18(水) 10:02:04 0
これ意図的にインド北西部と東欧が除外されるよう何かしらの操作してるね
4 :
名無し募集中。。。:2009/11/20(金) 06:42:31 0
人類学とか民族学なのは政治的意図がありすぎるな
ハンガリーとかテュルク系に含まれるだろ
ムガール帝国だってモンゴル系だしな
抽出の段階で奇妙(不要)な条件付けて
自分に都合がいいよう情報操作するのは白人お得意の手法だよね
ハンガリーはフィン・ウゴル系の民族だし
インドにテュルク系の言語を話す民族が残っているとは聞いたことがないが
白人に都合がいいんじゃなくてお前らに都合が悪いだけだろw
なに言ってんだこいつ?w
DNA調査の結果でインド北西部-アフガニスタンや東欧-ロシアは
トルコ系と同じ形質が高頻度に見られるから
白豚厨はきもいな
8 :
世界@名無史さん:2009/11/21(土) 00:22:35 0
形質でいったらアナトリアのトルコ人は中央アジアのトルコ人よりギリシャ人に近いし
アゼルバイジャン人は、イラン人やコーカサス人に近い
テュルク人って概念は言語的・文化的なものでしょ
9 :
名無し募集中。。。:2009/11/22(日) 13:15:53 0
トルコ共和国っていうものができたことが不幸だった気がするわ
オスマン共和国にでもなっていたほうがマシだった
10 :
名無し募集中。。。:2009/11/22(日) 13:16:45 0
ギリシア人とトルコ人なんてほとんど遺伝子的には同じだろな
DNA的にはトルコ人とギリシャ人はほとんど同じで、アラビア、シリア、ペルシャ人に近くて
エジプト人とも近いけど中央アジアはあんま近くないんだっけ
12 :
名無し募集中。。。:2009/11/22(日) 18:04:15 0
征服者としてのトルコ人なんて微々たるもんだから
遺伝子的にはほとんど変わらんでしょう
もともとのオスマン家だってアナトリアが発祥なわけで
中央アジアからやってきたっていうのも伝説に過ぎないわけで
トルコ民族国家なるものは違和感感じちゃうよ
トルコ人はローマの末裔なわけで
ビザンツを否定するのはおかしいよね
それはおかしくないな、中央アジアからやってきたのは事実だし
テュルク系国家の末裔なんだから
14 :
名無し募集中。。。:2009/11/22(日) 18:16:08 0
オスマン帝国はトルコ民族国家ではないだろう
誰もそんな主張してないのに何一人相撲してんの?
オスマン帝国の支配層が中央アジアからやってきたのも
テュルク系国家に属した末裔なのも事実、ビザンツなんかより遙かに影響がある
>>8 民族は遺伝的なもので決まるものではないよ。
ぬっちゃけていえば、意識。自分自身がそう思うことかまずあって、補完的に周辺の者が
そう認めること。
>>16 オスマン帝国は、イスラム帝国であり、ローマ帝国の継承国家であることを主張していた。
ローマ帝国の再統一を大義名分として、ヨーロッパ侵攻をしていた。
>>17 オスマン帝国は、イスラム帝国であり、ローマ帝国の継承国家であることを主張していた
ローマ帝国の再統一を大義名分として、ヨーロッパ侵攻をしていた
オスマン帝国の支配層は中央アジアからやってきたテュルク系国家の末裔だった
どれも周知の事実だろ、何が言いたいのか意味不明
あなたの理解力が不足している
20 :
世界@名無史さん:2009/11/26(木) 19:59:48 0
>ローマ帝国の再統一を大義名分として、ヨーロッパ侵攻をしていた
?
本当?
オスマンの欧州侵略に何か「大義名分」を掲げてから攻め込んだことがあるのか?
元々トルコ人は匈奴の北方に住んでいたモンゴロイド系民族だった
今のトルコ人、アゼルバイジャン人は
ギリシャ人、スラブ人、アラブ人、クルド人の(元々アナトリアに住んでいた諸民族)
混血したものがテュルク語を話すようになったものだろう
今のウズベク人とかも
スラブ人と融合してんだろうな
23 :
世界@名無史さん:2009/11/27(金) 14:51:18 0
テュルクてさ
モンゴルと同祖なのかな
ローマ帝国の継承だと
そんなのもの好きな一部スルタンの発想だろうが
鮮卑もやはりトルコ人なのかね
鮮卑はツングースかモンゴル系って意見が一般的じゃなかったっけ
三国志や後漢書に農耕してる記述もあるし
>>21 モンゴル系はテュルク系より東の地域が発祥らしいけどな
あと、アナトリアにはスラブ人少ないよw
ペルシャ人と北アフリカの黒人のが多い
27 :
世界@名無史さん:2009/11/27(金) 18:32:03 0
アーリア人というかイラン系な
E3bが多いのは北アフリカ(特にモロッコ)エチオピア、マリ、スーダン
バルカン半島由来というのは完全な誤り
29 :
世界@名無史さん:2009/11/27(金) 19:51:28 0
はいはい、さっさとM81星雲の分布図を張ろうね
E3bは北アフリカや繋がりの深いマリ、スーダンに圧倒的に多く分布
バルカンでの割合はアラビアやシリア、ペルシャ地域より更に低い
張ってある分布図を見ても、常識的に考えれば
バルカンへ入った後変異しそこから先の欧州へ拡散したとしか解釈のしようがないよ
31 :
世界@名無史さん:2009/11/28(土) 17:56:16 0
E-V13トルコに全然分布してねーじゃんww
どう見てもバルカンに入って変異した後ヨーロッパへ拡散してる
しかも、バルカンよりE3bが高頻度で見つかる
シリア、イランに分布するサブグループを意図的に載せてないねそれ
アナトリアでのE3bの頻度はバルカンより遙かに高い
33 :
世界@名無史さん:2009/11/28(土) 21:23:19 0
>>20 第一次ウィーン包囲のそもそもの原因は、
ハンガリーの王冠がハプスブルクに渡ったことに不満を抱く
サーポヤイ・ヤーノシュの求めに応じてのことだったような
>>33 他にもっと張るべき分布図があるでしょ
そんな恣意的な分布図ばっかチョイスしてないでさ
E3bに関してトルコ人はバルカン人よりシリア、アラビア、北アフリカ人に近い
>>20 >オスマンの欧州侵略に何か「大義名分」を掲げてから攻め込んだことがあるのか?
ジハード
ジハードはビザンツ攻略の頃な
欧州進攻の大義名分はローマ皇帝
テュルク、モンゴル、ツングースは同じ民族みたいなもん?
ゲルマン、スラブ、ケルト、ラテンが同じ民族なら同じ
>40
それぐらいの違いはあるんだ
>>41 もっと違うとする説もある。アルタイ語族と考えるか、テュルク・モンゴル・ツングースは
異なる語族と考えるか、とかそのへん。
テュルクとモンゴルは近いけどテュルクと東胡は近くないんだっけ?
44 :
世界@名無史さん:2009/12/02(水) 22:57:02 0
>>43 wikiなどによれば東胡の末裔とされる鮮卑や烏桓なんかはテュルクと
ツングースの混血とする説もあると書いてあるよね。
コトバンク・デジタル大辞泉に同じく東胡の末裔とされる
室韋がモンゴルとツングースの混血と書かれてるんだけど、
これって本当なんですかね?
鮮卑・烏桓は指導者の称号とか行動パターンとか農耕に従事してた事などなど
ツングース系だと思うけどな、テュルク系のイメージがあまりない
フン族はテュルク系でいいんすか?
47 :
世界@名無史さん:2009/12/20(日) 11:26:04 0
アゼルバイジャン人は、共和国とイランにまたがっている。
最近の人類学の研究によると、
共和国のアゼリー人はコーカサスの民族と、
イランのアゼリー人はイラン系の民族と親縁性があるらしい。
ところが言語をもたらしたトルコ系の遺伝子のウエイトは低い。
人種と民族が異なる好例となるだろうね。
今のコーカサスに住んでる連中自体、多くがイラン系じゃん
テュルクももちろんいるし
書いてて自分で矛盾は感じねぇえのかよ?
「トルコ系の遺伝子」って何だよ?
トルコ系とかイラン系とかいうのは民族の区分だろ。
アゼルバイジャンは紛れも無くトルコ系の民族。
人種は、そういうものがあるとしたら、遺伝だろ。
50 :
世界@名無史さん:2009/12/20(日) 22:06:23 0
「トルコ系の遺伝子」とはモンゴロイドの遺伝子ということかな?
元々居たモンゴル高原によく見られる血、ってことじゃね
河西回廊を侵攻してくるより前のトルコ人、突厥とか鉄勒とかの風貌は判ってないよ。
突厥なんて東はオルドスから西は黒海に迫るくらいの勢力範囲だったし、唐の時代くらいまで
今の言い方で東トルキスタン・新疆、フェルガナ盆地、カザフ平原の住民の風貌は、唐の表現で
いうと「胡面」だ。
そもそも、モンゴロイドの遺伝子なんてものは無いよ。
モンゴロイドならこの遺伝要素を必ず持っているというものも無ければ、
モンゴロイドでこういう遺伝要素を持っている人はまず居ないとかいうものも無い。
コーカソイドにしても同じ。
そもそも遺伝要素で分ける人種とかモンゴロイドだとかコーカソイドだとかいう概念そのものが
無為なんだし。
遺伝要素はあまり意味ないと思うけど
突厥も伝承や元来の活動範囲がモンゴル高原なことからしてモンゴロイドなのは確実
突厥の従えた突厥国家の構成員がモンゴロイドだったとは言わないが
突厥と支那世界と接触したのがモンゴル高原なだけで、突厥の実際の活動範囲は中央アジア全域、
東はパンのニアにまで伸びている。
大体、世界史語るなら、地理・地形くらい把握していろよ。
モンゴル高原は確かにひとまとまりの高原状の地形だけれど、外界と隔絶したような所ではない。
ゆるい裾野で人畜の往来の障壁となるようなものは無い。
距離感覚をメルカトル図で把握するなよ。世界の形は球体の表面だ。
北緯35度で黒海だのヨーロッパだのはすげえ遠いが、北緯50度で且つ大圏コースでゆくと親父の葬式だから
戦争をとっとと切り上げて帰って来いと騎馬民族がやるくらいに近い。
紅海もしくはペルシャ湾からインドを回っていく遠いチャイナと、草原を馬で行く近いキャセイとが同じと
信じられないビザンチン人くらいの中世レベルの理解度しか得られないぞ。
パンノニアに突厥の勢力って及んでましたっけ?
テュルク化するというのは言葉がテュルク語になるってことですよね?
>>54 元来の活動範囲って、意味分かるか?
あと、モンゴル高原以西とモンゴル高原から東でDNA分布ははっきり明確に分かれる
>>55 精々キプチャク草原までじゃね?w
58 :
世界@名無史さん:2009/12/22(火) 22:34:00 0
キルギス人とトルコ人は人種的には全然違うぞ。
辞書的な意味での「元来」は解るが、おまぃの文脈での「元来」はわかんねぇよ。
おまぃの文脈での「元来」とはどういうことなんだ?
>>57 わかれねぇよ。
ケレイトとかオイラトとかカザフみたいに跨って住んでる連中もある。
大体よ、北緯50度では、沿海州からドナウまで、障壁も無い、ちょっと馬で遠出してみたら
たどり着いてくらいのものだ。
なんでイスラム帝国と唐との会戦がタラス河畔(現・キルギス共和国領)なのか。
遼や月氏が経度で30度も西に行くのか、考えてみたこと有るか?
>>58 キルギス人はれっきとしたトルコ人じゃん。
トルコ人は、トルコ共和国人とその血を引くものであって、
キルギス人の間に自分がトルコ人だという考えがあるとは思えない
現代の民族は、国家と一緒にして考える必要があると思う
キルギスとかウィグルとかカザフとかカラカルパクとかアゼリとかというのは近代に
人為的に区切られたもので、19世紀時点では、大きな括りでは「チュルク」で「ムスリム」、
小さな括りで居住する都市や部族・氏族で、帰属意識があって、今の民族区分での
帰属意識は無かったんだよ。
そもそも、キルギスの民族区分にしても、トルコ人による民族国家のトルコ共和国の
建設にしても、20世紀に入ってからの話だ。
>>61 基本的に支配層が変わるだけで構成員はあまり変わらない
アルタイ山脈の東西で明確にDNA分布は変わる
突厥の元々の活動範囲だったモンゴル高原は、トゥーラーン、ジュンガル、カシュガル
カザフ、キルギスなんかとは違って、DNA的には北東・東アジアとそっくり
65 :
世界@名無史さん:2009/12/24(木) 21:38:23 0
ジュンガルってモンゴル高原出自の部族じゃん
>>55 >パンノニアに突厥の勢力って及んでましたっけ?
西突厥のさらに後裔のハザール可汗国の西の前哨基地がやっとキエフだったような
突厥のあった頃はパンノニアを含む東ヨーロッパはアヴァールの支配下だったな。
アヴァールはテュルク系なのかモンゴル系なのかよくわからんそうな。
ドナウ流域まで突厥ルーンの彫られた石が出てるけれどな。
70 :
69:2010/01/03(日) 14:20:53 0
>ドナウ・ブルカール語碑文
は
ドナウ・ブルガール語碑文
の間違い
そういやハンガリーのセーケイ人は18世紀まで突厥文字に由来する独自の文字を使ってたとか。
>>54 確かに、オホーツク海からカスピ海まで、日本列島3つ分程度の距離しかないんだよね
草原を馬で駆け抜けたら、案外近いのかもしれない
中国の戦争映画は何気に凄いな
>>72 日本の場合は島も含んだ最長距離だし
モンゴル帝国は、面積が全然違う
税収も凄かっただろうな。
人口希薄なのに税収が凄いはずねーだろw
>>68-70 >ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる例があり、
>スラヴ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、
>ギリシア語を公用語として使用していたことが分かる。
なるほど、ギリシャの活動範囲はブルガリア第一帝国まで及んでいたとw
じゃなくて、文字は言語より広まりやすいだけの話な
日本語も漢字表記だろ?w
碑文の性質からして、自前の言葉と、アピールしたい相手方の言葉と、併記するものだ。
ここに立派な国があるぞーということをアピールするには、ここら辺一帯、特にキリスト教圏に
対してはギリシャ語が有効だからだろう。
エジプトの碑文もマケドニアの碑文もローマの碑文もモンゴルの碑文も
自国語しか書かれてない事がほとんどだよ、当然だけど
>>78 ロゼッタ石は何語で書かれていたっけ?
確か、宗教エジプト語、書記官エジプト語、ギリシャ語の三つだったような。
アレキサンダー王のペルセポリス攻略記念は、確か、ギリシャ語と、バビロニア語だ。
ローマの碑文も、ギリシャ語併記が多いぞ。
ついでに、ハンニバルがエブロ川を越えた記念も、フェニキア語とギリシャ語併記。
モンゴルの碑文、元朝のは漢字併記、イルハン国のはペルシャ語かアラビア語の併記が
多いぞ。
>>78 ヨーロッパにはラテン語で書かれた碑文がたくさんある。
日本にも漢文で書かれた碑文はたくさんある。
そもそも前近代に「自国語」なんていう概念も無い。
>>79 テュルク、モンゴル碑文の多くはペルシャ語、テュルク語や漢語、モンゴル語の単独表記
>>80 ラテン語で書かれているから何なのか、ローマの公用語はラテン語
フランク、ゲルマン族もある時期まで公用文書にはラテン語を使用
当然、ラテン語(のみ)で書かれた碑文が沢山ある。
日本にも漢文で書かれた碑文は沢山ある?それはそうだろ
ある時期までは公用文は漢文、戦国時代でも漢文記録が大半なのだから。
日本書紀は全文漢文、仮名では書かれてない
>>81 モンゴルの碑文でペルシャ語単独表記ってイル汗国の後期かチムール王朝くらいだろ。
その頃は、官吏も非支配層も多数派はペルシャ人だし。
テュルク語というかタタール文語になってくるのは、本国との連携が絶えた後、
キプチャクオルダが更に分裂して以降だしな。モンゴル語単記は黄河以北だけ、つまりは、
自前の言葉もアピールする相手もモンゴル人の場合だし、漢語単記はモンゴル支配時代は無いな。
ゲルマン系の言葉がまっとうな言葉として扱われるのは16世紀になってからだ。ローマはローマでも
神聖ローマ帝国が神聖でも帝国でもローマですらないと言われて瓦解寸前のところだな。
83 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 14:57:21 0
中央アジアなんてロス家がガンガン移住させてんだから当たり前じゃね
85 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 22:06:22 0
サハ共和国のヤクート人は純粋なテュルク系だろうか?モンゴル人と全く区別がつかないが。
86 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 22:19:44 0
>>73 李木蘭かな?
Northern Wei vs.Rouranって、訳すと北魏vs楼蘭だよね?
そもそも原初のテュルクがどういう風貌していたか判らないんだし。
>>7 白匈奴の侵攻。
大月氏政権、中央アジア・北インドにまたがる支配域。
元寇、ネパール・ブータン等、ヒマラヤ南麓に及ぶ。
デリースルタン諸王朝、トルコ人奴隷兵を用いて寇入
チムール帝国の一分派によってムガル王朝の支配
……というふうに、中央アジアからインドに幾度も流入している。
東欧にしても、フン、マジャル、クマン、ブルガルのように中央アジア
からカスピ海の北を廻ってドナウ流域に流入して定着した勢力、南を
廻って進入してきた、セルチュク、オスマンの支配を受けた。
ロシアはロシアでキエフ公国の成立前からウクライナステップをめぐって
中央アジアの勢力と争奪戦をしていたし、国が丸ごとモンゴル帝国の
支配下になったこともある。モスクワのすぐ東100キロのところにも
ボルガタタールの居住地があるし、クリミアは20世紀初頭までジンギスカン裔
の大公が支配してた。
歴史的経緯からして、血が混ざっていないと考える方がおかしいわけで。
89 :
世界@名無史さん:2010/02/08(月) 21:47:29 0
>>89 しかし、トルコ系に特徴的なDNAが東欧やロシアや北印から高頻度で見つかるのも確かだしな
91 :
世界@名無史さん:2010/02/09(火) 08:17:29 0
>>90 だからテュルクという概念はDNAで決まるんじゃねーっての
>>91 言語、文化かな。宗教は時代と地域でかなり変遷している。
中央アジアの遊牧生活者って大雑把なつかみで良いのかな
93 :
世界@名無史さん:2010/02/09(火) 19:21:44 0
DNAでみても、トルコ人とキルギス人は大違いだ。
94 :
世界@名無史さん:2010/02/09(火) 19:34:53 0
キプチャク・ハン国やイル・ハン国も君主は何代目くらいまで、
モンゴロイドの容貌・形質を保っていたのだろうか?
ためしにキプチャク・ハン国のジュチの子孫を何代かウィキで調べてみたら、
けっこう後の方までモンゴル貴族同士で婚姻してるようだ。
南ロシアの草原にいても、かなり後の世代まで朝青龍顔の辮髪オヤジだったのか?
>>93 現代のトルコ、ギリシャ人はイラン人そっくりだしな
もっともイランもトルコもテュルク、モンゴルの征服を受けてるから
どちらのDNAも結構な割合で見られるけど
>>90 東欧やロシアや北印から高頻度で見つかる、中央アジアでも頻度が高いというと、
もはや「トルコ系に特徴的なDNA」とは言わないんでないの?
ユーラシアに一般的なDNAだろ。
>>97 イラン高原北部からアルタイ山脈の辺りで発生、拡散していったから
トルコ系に特徴的なDNAで間違いないでしょ
東欧やロシアや北印がそれだけテュルク系国家に征服、殖民されていただけで。
北印東欧なら印欧系だ
印欧系ってなんだよw
イラン系遊牧民のことなら、後にテュルク化されたし
語族の事ならそんなものは存在しない、植民地支配の為にでっち上げられた代物
は?印欧語族というのはちゃんと根拠のある分類だが
ただアーリア人の大征服によって広まったという従来の説は胡散臭いという話だろ
印欧語族に元々の根拠なんて何も無いよw全部後付け
人類の拡散過程からみてもセム語、ペルシャ語以東に欧州の諸言語との連続性は皆無
104 :
世界@名無史さん:2010/02/12(金) 18:36:57 0
>>94>>98 でも、ヨーロッパ・ロシアに住むカルムイク人は、移住して300年以上たつのに、
コテコテのモンゴル顔だよ。
モンゴロイド的特徴は劣性遺伝だから
コーカソイドと交われば子供は殆どコーカソイドになるのだが
モンゴロイドの特徴を残しているということはコーカソイドの血を意図的に省いているのか
黄人と白人がかけあった場合黄人の方が優性だぞ
>>106 んなこたぁない。
二重とか、基本的に古い特徴の方が優勢な場合が多い。
108 :
世界@名無史さん:2010/02/13(土) 23:56:26 0
>>104 カルムイク人でも混血した者はキリスト教化したりコサック軍団に入れられたりしてロシア人になったんだろう。
109 :
世界@名無史さん:2010/02/13(土) 23:58:54 0
カルムイク人はイスラム教徒系チュルク遊牧民との対抗上、ロシアとは長いこと同盟関係にあったので、ロシア女を拉致しなかったんだろう。
110 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 00:04:10 0
カルムイク人は居住地を奪取したノガイ人(離散・解体)を吸収・混血しなかったのだろうか?
>>106 毛唐と混血すると顔つきは毛唐の顔になるようだけど?
ただし「
>>111の主観では」という注釈が付くけどね
113 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 09:04:43 0
ひとつわからないのは、18世紀にロシアから圧迫されたカルムイク人が
ロシア領から先祖の地に帰ったとき、ロシア側がそれを追撃したということ。
カルムイク人など、ロシア人にとっては邪魔で、荒れ地に追いやられたような、
いてもいなくてもいいような連中じゃないのか?
出ていってくれれば好都合で、わざわざ追撃して引き留める必要なんてないのに。
楽しかったんだろ
115 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 12:29:17 0
カルムイク人は移住当初は帝政ロシアの同盟者として、
北方戦争などにも参加し、ロシアの戦力の一翼を担っていたが、
その後、ロシア人やドイツ人など白人系入植者の数が増えると、
遊牧民である彼らは邪魔者扱いで荒れ地に追いやられている。
要するに、農業労働力としては期待されていなかったわけだし、
戦力としても時代遅れの存在だったはず。
だったら、中央アジアに帰っても痛くもかゆくもないはずなのに、
帝政ロシアは、故郷に帰還するカルムイクの集団を追撃している。
何が目的だったのかよくわからない。
もともとロシアがカルムイクを受け入れたのは、
彼ら遊牧騎馬民族の戦闘民族としての能力を評価したから。
ロシア軍がナポレオンを破ってパリに入城したときでさえ、
カルムイク兵が従軍していたというくらいだから、
やはり貴重な戦力を逃したくなかったんだろう。
117 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 18:45:10 0
>>116 そのときのカルムイク兵は、辮髪にモンゴル人の服装でパリに入城したのかな。
テュルクとモンゴルの区別くらいは付けろよw
119 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 19:10:09 0
カルムイクはモンゴル系じゃないの?
120 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 19:11:17 0
トルコ人の遺伝子を調べると、大半は東欧か中近東。
モンゴル高原は5%未満。
アゼルバイジャン人も周辺の民族と遺伝子上の差異はあまりない。
少数のトルコ系支配者が原住民を同化したというのが実態です。
モンゴロイドの特徴が目立ち始めるのはトルクメン人以東。
ようつべなんかでは大テュルク主義の連中の動画で
モンゴル系のカルムイクやブリヤートも自民族扱いにして同一視してるのも有るし
むしろ外部の連中が言うほどテュルクとモンゴル(と場合によってはツングース)は分けてたりしない
>>119 カルムイクって、モンゴル系の言語とロシア語のバイリンガルで
チュルク語族とロシア語のバイリンガルではないので、モンゴル系だろう。
123 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 20:36:20 0
カルムイクに凹られていたカザフが報復にカルムイクを殺害・捕まえてサマルカンドに奴隷として売った。
124 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 20:39:06 0
ジュンガル滅亡の際にも、散りじりになって逃げるオイラトを、復讐心に燃えるカザフが落ち武者狩り。
125 :
世界@名無史さん:2010/02/14(日) 20:41:57 0
仏教徒でイスラム教徒(トルコ寄り)遊牧民との敵対関係があるので、彼らへのにらみとして有効だったようだ。
カルムイクが去ったあと勢力バラスが崩れてプガチョフの乱がおきた。
マニ教と垂迹した仏教って、残っているのだろうか?
127 :
世界@名無史さん:2010/02/15(月) 03:01:44 0
>>125 だったら圧迫したりせず、もっと大事に扱ってやればよかったのに。
128 :
世界@名無史さん:2010/02/15(月) 06:05:00 0
狡兎死して走狗煮らる
人間とは鍋が大好きな生き物である。の意
>>113 住民が逃げ出すなんて、国の恥だからね。
今でも、北朝鮮なんかやってるだろ。逃げ出す住民を取り締まるけれども、人材が惜しい
わけでもないから連れ戻した逃亡者は殺してしまうし。
131 :
世界@名無史さん:2010/02/19(金) 05:54:48 0
キューバは?
1962年にカザフ族が中国から脱出するのを、ソ連は手引きしたみたいだよ。
133 :
世界@名無史さん:2010/02/20(土) 17:49:35 0
モンゴル国の西端(カザフスタンとの国境付近)もカザフ族の居住地。
今のモンゴルはロシアのせいで本来領土の5割程度に削られてるからよく分からん
ゴルバチョフも中央アジアや西側境界で何の意味も無い大盤振る舞いするなら
モンゴルや東三省や樺太、北方四島を返せよなぁ‥
135 :
エビちゃん親衛隊:2010/02/20(土) 23:01:29 0
>>113 お金に困っていたロシア兵のビンボー人がタクシー強盗みたいに
カルムイク人から何か奪って金にしたのでしょうか?
136 :
世界@名無史さん:2010/02/20(土) 23:59:35 0
モンゴル人の居住地のうち、ブリヤートとウリャンハイはロシアに取られたが、
それでも本来領土の5割にはならんだろう。
内蒙古は中国側だし。
興安嶺北辺からバイカル湖周辺〜アルタイ山脈北辺
チタ、ブリヤート、イルクーツク、トゥバ、アルタイ、半分程度だろう。
>>136 バヤンノールとかアラシャンだと、内蒙古といはいえモンゴル国側とそのまま言葉が通じるだろうな。
139 :
世界@名無史さん:2010/02/21(日) 09:36:57 0
タンヌ・ウリャンハイ(唐努烏梁海)=トゥバ共和国も、最初はモンゴル人民共和国と同じで、
ソ連の衛星国として独立国だったのに、第二次大戦のどさくさでソ連に併合されてたんだよな。
蒙古族図瓦人って、トゥバ共和国のトゥバか?
北方チュルクだから、キルギス族かカザフ族かと思っていたら、
中国では蒙古族or漢族で登録しているとは。。。
トゥバ人の場合文化的にはほぼモンゴルだし蒙古族で登録されるのはわからなくもない
ただ、漢族で登録ってのはどうなんだろうな
トゥヴァ人って文化的には限りなくモンゴルだからな
言語の一点に置いてくらいテュルク語族だからテュルク系になってるけど
数年前にNHKのBSでブリヤート共和国の医僧の話をやっていた。
ブリヤート人のラマ僧が僧院でチベット医学の研究をやっていた。
>>141 漢族のトゥバ人は、祖先がトゥバ人というだけの人でしょう。
>>134 力づくで取ったところは俺のモノという領土感覚のところに「本来領土」も
ヘッタクレもないだろ。モンゴルもロシアもそういう感覚でやってきた国だし。
ゴルバチョフのキチガイが目論んだ見返りを何一つ得られず終いだった
西方領土の失陥に比べたら、モンゴル本来の領土や東三省や北方領土、樺太の返還は
見返りも色々とあっただろうに、無能過ぎだろあの国賊。という愚痴さ
148 :
世界@名無史さん:2010/02/23(火) 08:00:44 0
どうでもいいが、東三省はそもそもロシア領じゃなくないか
はあ?ウラジ・オストクまで旧東三省の半分近くがごっそりロシア領じゃん
え?東三省って遼寧、吉林、黒竜江の三省のことだろ?
何を言ってるんだ?
清朝末期に強盗国家ロシアが不法占拠した東三省だぞ
袁世凱が日露戦で日本へ協力した最大要因の清朝発祥の東三省
ロシア領になった外満州は東三省=内満州には含まないだろ
含むよ、東三省に外満州含まないとか意味が解らんわ
154 :
世界@名無史さん:2010/02/23(火) 19:05:49 0
そもそも、全盛期の清は、なんでバイカル湖以北まで征服しようとしなかったんだ?
現在のサハ共和国のヤクート人の居住地まで清帝国に併呑すればよかったのに。
>>154 南のほうで、土司土官を共食いさせて、
それを口実に紛争介入→改土帰流 そういうのに忙しかったんだよ。
改土帰流したら、今度はミャオ族が広域で反乱。
ミャオ族が漢族のほうに紛れ込んできて、太平天国とか白蓮教とか
流行しだして、収拾つかなくなった。
>154
当時の満州人の感覚では、人の住む土地は精々アムール河の流域までで、それより北は人の住む
ようなところではない、というようなもの。
エベンキとかサハとかチュコトとかの北方民族は住んでいたけれど、数十人の小さな集落が隣の
集落まで100キロ200キロとかいう間隔でまばらにしか存在していなかった。
前近代の移動手段・兵装では、国家の領域として維持できないし、仮に清国の兵団が入ってきた
としてもとからの住民は無視してやっていけるレベル。
確保しておけばよかったというのは後から判ったことで、豊富な鉱産資源にしても18世紀くらいの
清国の技術では金も銀もウランも天然ガスも利用が不可能、石油や石炭や木材は掘り出した切り出
したはいいにしても運んでくることが不可能。掘ったり切ったりする人も足らなければ、人を送り
込んだとしても生活物資を供給し維持することができない。
157 :
世界@名無史さん:2010/02/28(日) 19:25:55 0
>>154 清朝の時代にはすでにコサックが侵攻してた時代だろ
158 :
世界@名無史さん:2010/02/28(日) 20:35:11 0
康煕帝の頃の清の武力をもってすれば、
コサックくらい撃退してブリヤートやサハを征服するのはわけないだろ。
159 :
世界@名無史さん:2010/03/01(月) 00:07:47 0
>>158 アルバジン紛争で予想以上の被害を被りコサックの兵器水準を思い知ったから
条約締結してアルグン川以北の進出を事実上諦めたんだが
アイグン川・アムール川流域っちゃあ、満州人の本拠地。清の本国部分。
支那のようなでっかい植民地を持ちながらも、本国を削られている。
しかも、削った方は地球を三分の一周回ったくらい遠いところに本国がある。
19世紀の清朝にそこまでの思い入れは無いだろ、しかも太平天国の乱直後で余裕が無く
無能な婆統治が始まる時期にアムール川流域へ出兵する余裕は無い。
162 :
世界@名無史さん:2010/03/04(木) 08:43:25 O
か
清も北から本拠地を削られるような事態になって程なく滅亡してるけれど、
同じ満州人の金もモンゴル人に圧迫されて宋の首都に遷都したら間もなく滅亡。
削られるも何も天津、北京を占領されてるしw
つーか、女真はテュルクと関係無いから
165 :
世界@名無史さん:2010/03/05(金) 07:10:32 0
サハ共和国のヤクート人とトルコ共和国の国民が同じテュルク系にはとても見えない。
中国史に出てく突厥とかもヤクート人みたいな、コテコテのモンゴル顔だったんだろうか?
満洲人の本拠地は遼東のすぐ北のあたり。
だいたいスンガリ川と遼河やその支流。
それより北の連中は二次的に組み込んだもの。
なにしろ新満洲というぐらいだからな。
だいたい清朝は北方の地理を碌に把握してなかった。
ロシア人に襲撃されてあわてて調査をはじめたわけ。
167 :
世界@名無史さん:2010/03/05(金) 12:52:51 0
>>166 しかも調査として派遣されたのは宣教師ww
アメリカの宣教師ならともかく
英仏だと洒落にならんな。
169 :
世界@名無史さん:2010/03/05(金) 18:39:33 0
>>165 韓流時代劇の「大祚栄(テジョヨン)」では、
突厥の族長も契丹の族長もコテコテのモンゴロイド顔だったな。
>>165 もう何度も何度もくどくしつこく言われ続けられてる事だけど
テュルクの定義っつうのは人種でも文化でも風習でも宗教でもなく言語
だから見た目が白人系とか黄人系つうのは全然関係が無い
テュルク系の言語を日常会話として使ってるかどうかってのが第一でそれが基準
実際言語以外では文化も風習も限りなくモンゴルでしかないトゥヴァも言語がテュルク系ってだけでテュルク系民族な訳だし
コーカソイドじゃなくイラン系=アーリア人ね、R1aの発生地はカザフ中部だし
>>165 もともとは、胡面。鼻が高く眼窩の窪んだ、白人のような風貌。
先に支那人と混血しまくっていた拓抜人の支配層(要は北魏とか隋とか唐とか)との
通婚で支配層から極東風の風貌に。
モンゴルの伸張期に、モンゴル人、契丹人等と混交。中央アジアのオアシス都市に
農耕をやらせる目的でオルドスや渤海湾方面から徴発した女真人を入植させたものが
二次的にチュルク化。
大嘘垂れ流さないようにw
テュルク系は元々モンゴロイド、後代に西方のイラン系がテュルク化された
>>174 それは13世紀から19世紀にかけてのことだ。
その前、8世紀から10世紀にかけての時代に、中央アジアからモンゴル高原・オルドス、
河西回廊に伸張した時期に、モンゴロイドと混血して極東側の集団がモンゴロイドの
ようになってしまっただけ。
たとえば5世紀頃から黒海の北側を回ってバルカンに侵入したブルガール、モンゴル帝国
より先立って10世紀〜11世紀にロシア、パンノニア、リトアニアに侵入した、クン、クマン
ポロヴェツのについて、現地のヨーロッパ人が風貌の相違を見出すほどには至っていない。
逆に、河西回廊を7世紀から8世紀に侵攻してきた突厥・鉄勒については、隋・唐が「胡面」と
記録している。胡面と風貌を評されたのは、ソグド、パルティア、アラブなどがあることから
突厥や鉄勒がコーカソイドのような風貌をしていたことが明らかだろう。
同じ時代の、 鮮卑、羌、狛(高句麗)、倭については面がまえについては特記されていない
ことから、これらは漢人と大差ないモンゴロイド風の風貌だったことが判る。
そもそもテュルクってのは人種なの?
シナ・チベット語族とか印欧語族みたいな言語のグループ分け概念。
>>175 大嘘垂れ流さないようにw
その記述は既に完全に否定されてる恐ろしく作為的かつ信憑性の無い古臭い腐った遺物
匈奴、突厥、ウイグルはテュルク、モンゴル系諸語を使用、DNAもアジア人に特有な特徴を持つ
三者とも蒙古高原が出自の民族、契丹も東方起源、ソグドはイラン系だがアルタイ以東には進出してない
それに結局イラン系はアジア人のテュルク民族によって言語的にも文化的にもテュルク化された
安史の乱で玄宗皇帝を追い詰めた安禄山はソグド人じゃん。
今で言うと遼寧省の西半分くらいを領地として賜っていた。
沢山住んでいたかというとそうでもなかったろうが、隋・唐の時代には、それなりに
珍しくないレベルで商用等で来訪し、中には政治中枢に取り込まれもしていた。
匈奴は、一様な集団ではなく、遊牧政権らしいゴチャ混ぜの集団、政治的結合や軍事
盟約で結びついているだけで、言語や出自が一様ではなかったらしいことが判っている。
だから、接触した時期や人によって、記載される習俗なんかはバラバラ。
張騫(前漢)は、匈奴も月氏も胡(西方系)と評している。
突厥は、モンゴル高原出自なのではなく、モンゴル高原も支配した。
西は黒海、東は黒竜江まで、支配域が延びている。
大体よ、高緯度は地球の周が小さいんだし、沿海州からヨーロッパまで平地
ばっかしなんから、黒海から黒竜江まで馬でちょいちょいっと行ける距離に
ある。メルカトル図で地球を考えるなよ。
遊牧民はそもそも居住地の広さの割りに人口が少ないし、細切れの土地に対する執着は薄く、
人的紐帯を重視することから、同盟や戦時処理の和睦やら条件に縁戚関係を求める習慣がある
ものだから、簡単に人種的特長が変わってしまう。
まして、人口の多い農耕社会に長期間接触すると、数世代で人種的特長が同じになってしまう。
言語や帰属意識だって通商(経済上)・軍事の都合から簡単に変わってしまうし、帰属意識に
したって、大集団の一部分としての小集団(日本の県民意識のようなもの)ではなく、小集団が
集まって大集団を形成するという遊牧社会の紐帯の特徴、物資の完全自給が不可能で定期的な
農耕社会との物資の交換を必要とする経済上の制約を併せて考えると、既に8世紀にはユーラシアの
東西を股にかけて支配したテュルク人がどんな人種的特長を持っていたかなんか考えるだけ
無駄なんではないのか?
>>179 大嘘ばかり垂れ流さないようにw
ソグドのコミュニティは長安を筆頭に洛陽、開封、各所にあったが
征服活動に伴う移民植民と比べると圧倒的に人数が少ない。
匈奴は全てアジア系の民族から構成されてる
言語はテュルク語やモンゴル諸語、満州祖語
張騫伝に匈奴が西方的な特徴を持つなどとは一言も書かれていない。
突厥はモンゴル高原に出自がある民族
>>180 無駄なのは、おまえの下らない妄想
突厥が支那の史書・地誌に出てきた時期に、既にコーカサス方面まで支配域にしているし、
影響力はドナウ川左岸に達している。
漢人との接触はモンゴル高原だったろうが、それがモンゴル高原出自とするは、短絡的す
すぎないか?
短絡的過ぎるのはおまえの妄想の方だw
突厥の言語は匈奴によく似ている、故地もアルタイ山の東、と記述されてる
カザフや中央アジアにいたサカ族の末裔は言語系統が別
サカ族が歴史に出てくるのは紀元前7世紀から紀元前2世紀くらい。
突厥は紀元後6世くらいから出てくる。
700年以上ズレがあるんだが。
突厥とほぼ同じ時代の九姓鉄勒は既にビザンチン帝国と領域争いをしている。
7世紀には今のウクライナ・ザカフカスに相当する地域にハザル可汗国が成立。
モンゴル高原の出自という根拠は全く無いし、そもそも、唐との接触にしたって
今で言う新疆方面から河西回廊を通って侵攻してきているものが最初。
普通に考えたら、中央アジア・トランスオクシアナから拡散してきたものだろ。
サカ族の末裔というのは要するにイラン系の遊牧民、その程度の事も知らないとか無いわ
ハザールはテュルク化したイラン系の典型
突厥は「モンゴル高原」のアルタイ山付近で冶金に従事していた民族だと記述されてる
大嘘ばかり垂れ流さないようにw
モンゴル高原から南下すればジュンガリアに出る
普通に考えればモンゴル高原に興って征服したのもだと解るよ、予断が無ければねw
そもそも遊牧国家の拡散の歴史は常に進んだ東から遅れた西への流れ
根拠の無い妄想垂れ流しは自分のブログでやれよ
>>185 単に、唐が把握していた事項の中に、突厥がアルタイ山近辺の採鉱・精錬を重視していた、
アルタイ山方面で取れる金属を突厥が唐に運んできていた、というくらいのことだ。
>>185 >ハザールはテュルク化したイラン系の典型
アフガニスタンのハザラ族とごっちゃにしてる?
>>186 アルタイ山方面で取れる金属を突厥が唐に運んできていた?
新事実が発見されたな素晴らしいw
>>187 キプチャクのハザール、知らない?
隋・唐の頃、オルドスや河西回廊やらで支那圏と接触した同じ時代に、既に、
カスピ海の向こうまで突厥の直接の支配権。
そこから分かれたものの一つがハザールだろ。
メルカトル図で世界を把握していると黄河のあたりからザカフカス地方なんて
すげえ遠くに感じるけれど、トランスオクシアナを中心にみて球体の地表を
把握すると、そこに本拠地を置いて東西に伸びると、どちらもそんなに遠く
ないことがよく解る。
つまりは、要するにハザール国はテュルク化したイラン系遊牧国家の典型。という話になる
>>190 アフガニスタンのハザラ族とまちがえてないか?
خزر
هزاره
>>192 ハザールとキプチャクとの間には時間的に300年くらい空隙があるんだが。
相変わらず意味不明だな、キプチャクが地名を指すのは明白
「キプチャク平原」とか「キプチャクステップ」とか言えば、まぁ地名といえないこともないけれど、
単に「キプチャク」といえば、キプチャク・ハーン領とかジョチ・ウルスとかの特定の政権やその
領土のことになるで。
大体、ハザールのあった9〜11世紀には「キプチャク」なんてものは無いしな。
199 :
世界@名無史さん:2010/03/29(月) 16:35:48 0
オグズ→≒キプチャク?
オグズはトランスオクシアナを出てカスピ海の南を回って黒海の南岸に達したもの。
ペルシャ系の政権の残した文献に出てくるトルコ系の集団がオグズの二十二氏族のナンチャラカンチャラという
能書が付いていることが多いので、南西方言郡を便宜的にオグズ語群と言う。
トランスオクシアナからカスピ海を北から回って黒海に達したものを、モンゴル帝国時代のキプチャク
ハーン国の勢力圏に因んで便宜上、キプチャク系と言い、北西方言諸語をキプチャク語群と言う。
結構大きな集団が組織を保ったまま移動し定着したり、もともと言語的差異は小さいので接触や
混交によって特徴が混ざったりするから、きっちり線引ができるわけではない。
またさらっと大嘘書いてるな、このホラ吹きはw
オグズの元々は丁零とか高車の末裔と推測されるアルタイ東部にいた部族で
突厥の崩壊と共に強勢となったウイグルが有名、語彙的にはチャガタイ、キプチャク語群に近いとされてる。
>>198 で、ハザールがテュルク化したイラン系だという事実は理解できたの?
ハザールがテュルク化する前はイラン系だったって主張してる人さ
どの学者がそう言う主張しててどの論文や教本にそういう事書いてるかそれ教えてくれないかな
煽りとかじゃなくってそう言う書物とか学者とか知らなかったから教えて欲しいのだが
日本人じゃないって言うのなら外国人でも良いからさ
元々カザフやトゥーラーンにイラン系遊牧民がいたのは、剰りにも明白な事実で御存知の通り。
突厥の出自に関しては
>>178以下の通り、妄想狂が珍説を垂れ流しているが無視。
その後、旧唐書、列伝144下、突厥下
西突厥本與北突厥同祖。(中略)
十三年,(中略)乙田比沙缶本羅葉護可汗既立,建庭于唯合水北,謂之南庭。
東以伊列河爲界,自龜茲、善β善,且末、吐火羅、焉耆、石國、
史國、何國、穆國、康國,皆受其節度。累遣使朝貢,太宗降璽書慰勉。
という風にテュルク民族の支配を受けてテュルク化されている事が解る。
トゥーラーン(フェルガナ盆地)のペルシャ人は遊牧民ではなくて、オアシス農耕民だし。
もともと遊牧集団は、農耕集団から隔絶した状態では存在し得ず定期的な物資交換を要するもので、
人口密度は低いので農耕民とは無関係に遊牧集団の事情だけで人員構成が入れ替わりやすい。
結構遅い時代まで、オアシスにペルシャ系農耕民、間のステップにトルコ人なんて状態だった。
実際にソビエト時代の行政境界があんなにややこしく引かれて今の国境線に引き継がれている
理由も、北西方言のカザフ、北西方言で半農半牧のキルギス、ペルシャ語でオアシス農耕のタジク、
東部方言で農耕化したウズベク(むしろトルコ化した農耕ペルシャ人というべきか)、南西方言で
半農半牧のトルクメンがモザイク状に勢力圏を持っていたから。
フェルガナ盆地がトゥーラーンとイコールとか、どんだけ滅茶苦茶な解釈よw
トゥーラーンはもっと広い領域を指す言葉
上に挙がった中で言えば、遊牧ペルシャ人は後にテュルク化され
一方土着して農耕民となったのがペルシャ人なりタジクなり呼ばれた人々
206 :
世界@名無史さん:2010/04/01(木) 09:03:35 0
モンゴロイドって人類がシベリア地域で寒冷適応化して形成されたんだろ?
という事はモンゴロイドが南下する前の中国とかモンゴルにはコーカソイドが住んでいた可能性があるのか?
藍田原人が住んでいた
>>206 ねーよww
インド洋に沿って東進しインド周辺で形成されたモンゴロイドが
沿岸伝いに中国へ入りモンゴルへと拡散したんだから
イラン系もカザフスタン周辺へ北上してから西へ拡散したけど東へは拡散してないし
209 :
世界@名無史さん:2010/08/19(木) 18:52:22 O
原宿のケバブ屋にいそうなトルコ人のおっさんのあの後頭部の絶壁具合はなんなの?
南欧にいてもおかしくない顔にあの後頭部はすごい違和感
モンゴル人の血が入ってるからな