1908年のデイリーテレグラフ紙のインタビュー対する不用意な好戦的冒険主義的発言によりドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の
の政治力は失墜し、退位論や皇帝権限の制限の議論が世論でも議会でも公然と開始された。(デイリーテレグラフ事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E4%BA%8B%E4%BB%B6 この事件のためカイゼルは政治的にも精神的にも2度と立ち直れ無くなった。
特に政治的に痛かったのは、世論の反発を受けて皇帝与党であるドイツ保守党(反ユダヤ右派政党) までもが、
この事件以後皇帝に背を向けて、議会での退位論や憲法改正による議院内閣制の導入と帝権制限の議論に参加してしまった事があげられる。
このために表面的には内閣(首相)の重要性が増したが、軍事的には参謀本部(OKW)に実権が移行てしまったので内閣による参謀本部の統制が困難になった。
参謀本部(OKW)をコントルール出来るのは帝権だけだが、それを世論と議会が弱体化させた為に
逆に参謀総長が帷幄上奏権を乱用して皇帝を操る様になり、参謀総長は事実上、首相や国会に諮る事無く
皇帝の追認で軍事上の決断をすることが可能となり、極めて大きな影響力をもつことになった。
これが第一次世界大戦の勃発の1つの原因と見なされている。
これで弱体化した皇帝や内閣、議会は、参謀本部の軍事的な構想に対して
政治的なコントロールが利かなくなる体制がWWTの敗北まで構築された。
例えば中立国ベルギーを侵犯する西部攻勢計画のシュリーフェン・プランの数回の修正は、
政治家にも海軍首脳部にも外交官にも知らされることなく密かに立案され正式な戦争計画となった。
WW1開戦に関してもカイゼルは戦争回避を目指したが参謀本部(OKW)の総動員令には逆らえず
追認してしまう。WWTの戦争期は軍権だけでなく政治(議会対策)も参謀本部(OKW)が握ってしまい
完全に実権の無い傀儡皇帝と化した。
欧州ではWWT期のドイツ皇帝と参謀総長の関係をかつてのメロヴィング朝フランク王国の
国王と宮宰の関係に例える事が流行った。