474 :
世界@名無史さん:
>>469 乙です。新事実を反映して時系列を作りなおしました。全体的に手を加えています。
【関係時系列】
2004年冬 張ト、祖父段連祥から方おばあさんの話を聞く。段連祥は12月に死去。
この時渡されたものは浮世絵、獅子像、戦前の雑誌、銀のかんざし、香炉など
2006年7月 張トが李剛を訪ねて方おばあさんの話をする。 李剛は助手の何景方を呼んで調査を開始する
(李剛は八天英語培訓学校校長、退職前は吉林省政府の司法部門の 幹部で、芸術学校の校長もしており、そこで張トに調査を依頼されたとしている。
2005年には何景方と共同で小説を書いている)
2007年8月21日 張トらは、方おばあさんの生前に卵を届けていた農民陳良を訪ね、方おばあさんが確かに存在したという文章を書かせる。
陳良の文章では方おばあさんは「方麗蓉」であると書かれているが、調査団はこの情報を公表せず
方おばあさんには名前がないと隠し続けていた。
2007年10月 段連祥の3周忌を前に遺品を整理し、クローゼットの中から手提げ金庫、本などが出てくる
金庫の中には双眼鏡などがあった。
以上は張ト側の主張に基づいて作成
475 :
世界@名無史さん:2009/11/06(金) 03:00:41 0
2008年 李剛と何景方は方おばあさん=川島芳子の資料をあつめて長春市政協文史委員会などに提出
5月7日、長春市で市政協文史委主任凌正凱の司会により「関于川島芳子資料情況的聴証会」が開催される
市政協副主席、吉林、天津、内蒙古の文史委などが出席。 王慶祥も会議に参加、以降調査団に加わる。
6月28日、王慶祥、天津で開催された「第2回溥儀研究国際学術会議」で方おばあさん説を紹介。
何景方も会議に参加して発表する。会議に参加していた愛新覚羅徳崇と愛新覚羅兆基が関心を示す。
徳崇は芳子が生きていたことについて、「そんなことはうちの人間はとっくに知っていたよ」と発言。
ただしこの時点ではいつ知ったのかなど具体的なことは言っていない。
9月16日、王慶祥が徳崇と電話で会話。もうすぐ「川島芳子生死之謎新証」という本を出版しようとしていることを話すと
徳崇は1955-56年の冬に芳子が徳崇の家にやってきたと発言。
9月25日、李剛、何景方、王慶祥、張トらは瀋陽の徳崇を訪問。芳子が家に来た当時の状況について尋ねる。
10月29日、兆基と徳崇、偽満皇宮博物館の招待で長春に来て、調査団とも会う。
書道家の兆基は「川島芳子生死之謎新証」のために題字を書く。
徳崇、浮世絵を見て「絵に隠された暗号」の解釈を披露。
11月3日、新文化報、川島芳子が長春で生き延びたという報道を開始。
報道を見て浮世絵が模写であることに気付いた野崎が新聞社に連絡し、調査団に加わる。
11月7日、新文化報記事 野崎、双眼鏡の「HK」のイニシャルを見て、「へきき きん」のイニシャルだと言いだす。
陳良が方おばあさんについて、身長1.67メートルと証言。
しかし、詐欺団はなぜかこの証言は正しくないと、恣意的に捻じ曲げる。
11月10日、徳崇、新文化報と長春電視台の取材に対して芳子が家に来た時の話を披露。
11月16日、李剛、報道陣の前で獅子像を開けて紙を見せる。
時事通信により川島芳子生存報道が日本に伝えられる。
11月18日、山口淑子(李香蘭)、時事通信の取材に対し、
「心が安らぐ思いがする」「78年まで生きていたのなら会いたかった」とコメント。
11月19日、芳子の妹顕g(金黙玉)、新文化報の電話取材に対し、「処刑後の写真を見たが、本人に間違いない。
(生存説は)すべてでたらめだ」とコメント。
2009年 テレビ朝日、芳子生存説の特別番組制作を企画
1月 李剛と何景方、吉林文史出版社より「川島芳子生死之謎新証」を出版
2月17日 テレビ東京が「新説!?日本ミステリースペシャル」で芳子生存説を紹介。徳崇が出演する。
3月2日 テレビ朝日が張トと母、李剛、何景方、王慶祥、野崎らを日本に招き日本の研究者に引き合わせる
3月4日 張トら、松本の川島芳子記念室を訪問。 記念室に展示している東興楼の写真に芳子と一緒に写っている人物が段連祥と似ていると主張。
張ト、日本滞在中に山口淑子を訪問して李香蘭のレコードを手渡す。
4月4日 王慶祥、長春図書館で講演。張トと野崎も参加。
4月13日 テレビ朝日が「昭和史最大のスクープ 男装の麗人川島芳子は生きていた」を放送
4月14日 張トら、吉林省公安庁副研究員で省公安撮影協会秘書長の台禄林に、東興楼の写真に写っていた人物は段連祥と同一人物だという鑑定書を作らせる。
4月20日 新文化報「方姥就是川島芳子」記事を掲載。日本での調査結果などを伝える。
李剛、「日本の専門家が99%川島芳子だと認めた」と発言。←会議記録みてもそんなことは誰も言っていない。
5月10日 テレビ朝日「ドキュメンタリ宣言大追跡SP」が続報を放送。
芳子が731部隊に捕まった中国人を助け、生き延びた芳子がその中国人を訪ねていたという内容。
6月13、14日 産経新聞に野崎のインタビューが掲載される。
野崎「中国政府としての見解は発表されていないが、政府の影響が強いといわれる国営メディアである
人民日報ネット版や新華社ネット中央テレビのネット版などでも報道されていることからすると、
暗黙裡に認めているといえるのではないか」と発言。
8月5日「長春志」サイトに「翼彩虹」名義で「方おばあさんは川島芳子:私の疑義」論文が発表される 。
8月20日「長春志」サイトに「于?」名義で「川島芳子生死之謎新証」の中に重大な事実誤謬があるという論文が発表される。
2つの論文は長春志地方志編纂委員会の責任執筆。
8月21日「翼彩虹」の論文に「賈謐」が最初の張ト擁護の書き込みをする。
「賈謐」は詐欺団関係者のハンドルネーム。22日以降「于?」論文のページにも出没して荒らす。
478 :
世界@名無史さん:2009/11/06(金) 03:03:47 0
10月1日 長春都市文化論壇に長春市地方志編纂委員会の調査結果が公表される。
方おばあさんは方麗蓉で、張トの祖母庄桂賢と同一人物であるという陳良の証言が掲載される。
張トが方おばあさんには名前がないと言っていたのが虚偽だったことが暴かれる。
同委員会は、方麗蓉が庄桂賢の仏教に帰依した際の仮名で、長春の般若寺の仏教活動に参加したり、
夏の間新立城に住んだりしていたが、川島芳子とは何の関係もないと結論付けた。
10月16日野崎晃市、長春都市文化論壇に「通知日本朋友」と題する日本語の反論を掲載。
10月1日記事について、「この論文は主に事情を良く知らない遠方の中国人や日本人に向けて
巧妙に捏造された、 典型的な情報戦の手段である撹乱情報あるいは偽情報の流布の手口であり、
学術的に価値のあるものではない。」と主張←燃料投下で祭り状態に
10月19日中国サイト「天涯社区」に10月1日記事が転載される。
2chや日本語版ウィキペディア、10月16日記事のリンクも張られ、日中相互リンクが完了
「百度貼?」にも掲示板が作られる。
10月25日張ト、長春都市文化論壇に反論を掲載。長春市地方志編纂委員会の孫彦平主任を罵る。
張ト、回想録を出版するつもりであること、また後藤はなが取材を続けており取材過程を出版するつもりでいると表明。
10月26日野崎晃市、wikipediaに「張ト側は長春市地方志編纂委員会の発表は事実無根の中傷であると反論。
さらに張トと民間調査団は長春市地方志編纂委員会の メンバーの一人を名誉毀損で法廷に訴訟手続き中である」と書き込む。
しかし、張トの反論には訴訟準備中でることは記されておらず、ハッタリによる捏造工作であることが明らかに。
10月28日張トの反論へのコメントから、李剛のトンデモ本がすでに書店から撤去されていることが明らかに。
28日以降、「賈謐」が長春都市文化論壇で張トを擁護。他のコメントを下品な言葉で罵る。
10月29日野崎晃市、都市文化論壇に、本がなくなったのは売り切れたからで、これから改訂版を出版すると書き込む。