2 :
世界@名無史さん:2009/07/12(日) 20:16:43 0
蜀漢の兵制について説明しよう。具体的な史料が伝わらないので細部は推測するしかないのだが、基本的には呉と同じ『世兵制』であった。すなわち、部曲を持った多数の豪族の連合体によって、軍が成り立っていたのである。
そして、益州領内にいる劉備軍の精鋭は、もともと荊州を根城とする部曲であるから、彼らの本願地を奪い返さなければ、益州部曲を経済的に圧迫することになって軍の維持が難しくなる。
劉備が、荊州人士を中核に据えて東征軍を編成したのは、彼らの士気を高めるのと同時に、彼らを益州から引き離して余計な摩擦を避けるという政策的意味もあったのだ。
age厨のボクの考えた三国志の真実スレと化しているけどな
隔離場所が無いよりマシ。
どうせ2chなんてどう取り繕っても9割9分9厘は根拠のない思いこみレスだし。
7 :
世界@名無史さん:2009/07/14(火) 22:45:05 0
三戦は相変わらずひどいねえ。
ひろゆきのセンスがないからネタ板になるんだよw
せめて三国志で独立してりゃあな。
いいからとっとと隔離板に帰れよ
9 :
世界@名無史さん:2009/07/14(火) 23:27:36 0
>>8 何でこのスレに粘着してんの?
嫌いなら見なきゃいいだけだろ。
ここの住人が他スレで迷惑かけてる訳でなし。
このスレではソースになる史書がないと叩かれますから、ご注意ください
>>9 何でこのスレに粘着してんの?
空気読んで正史の話すればいいだけだろ。
ここの住人に迷惑かけてる訳なんだし。
12 :
世界@名無史さん:2009/07/15(水) 02:29:13 0
裴松之・裴イン・裴子野と裴一族は代々歴史家を生んだ家だ。
14 :
世界@名無史さん:2009/07/17(金) 02:37:36 0
何で三国「志」なんだっけ?
書にすれば良かったのに。
15 :
世界@名無史さん:2009/07/21(火) 00:09:09 0
呉の項氏って漢が滅んで劉から姓を戻したのかな?
16 :
世界@名無史さん:2009/07/21(火) 02:25:31 0
関羽が長ヒゲだったというのは演義だけのはなし。
17 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 22:03:14 0
馬超って演義だとえらい美化されてるけど、
美形だったっていう記述あった?
錦馬超
19 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 23:02:53 0
菌馬超
21 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 23:47:20 0
四庫全書検索したが錦馬超なんて全然ヒットしなかったぞ。
なぜこのスレで演義の話をしているんだ?
23 :
世界@名無史さん:2009/07/23(木) 07:01:26 O
なんで馬超は功臣なの?
大して功績が無いような気がする。
24 :
世界@名無史さん:2009/07/23(木) 08:41:58 0
異民族にとって脅威な存在だったというのはでかい
劉璋も彼が来たと聞いただけで降伏するほど、もう存在だけで功績
>>17 美化と美形はちょっと意味が違うんだが・・・
なんで中国英雄板に行かないんだ、こいつは?
おことわりします
28 :
世界@名無史さん:2009/07/23(木) 20:11:36 0
馬超は羌人とのハーフだから美形っていう説があるけど、
羌って今のチベット系だから大して顔つきは変わらない。
馬超の乱は曹操政権最大の大反乱だからね
直接劉備への功績ではないが、漢朝廷への献身と置き換えることができるし、
元軍閥長クラスの大人物だから劉備の臣下としては格が飛び抜けている。
益州平定時の序列一位はそういうことだろう。
そもそもハーフ=美形ということが色々と間違い。
というか、馬援が美形だからじゃねえの>馬超美形説
32 :
世界@名無史さん:2009/07/23(木) 22:21:33 0
成都の武侯祠の馬超は美形とはお世辞にも言えんが・・・
1800年前と美的感覚が一緒というわけでもないだろうし。
>>30 いや、ずっと同じ民族の血統だと遺伝子が偏るから少し他の血が入ったほうが優秀なのが生まれる事もある
けど、今の日本と違ってハーフとか当時の中国じゃ珍しくはなかったろうな
ハーフ、ハーフと言うけど馬超はクォーターだす。
馬超が美男子ってのは演義の設定でしょ。
だったら演義に根拠を求めないと意味ない。
西涼を拠点にしたことないのに西涼の馬超って呼ばれてたり、
イスラム教徒に多い馬姓だったり、
作者はかなりトルコ系を意識してると思うよ。
36 :
世界@名無史さん:2009/07/24(金) 22:21:35 0
イスラムってw
涼州は、演技の成立した時代に西涼と呼ばれた。
馬騰の本貫は扶風だが、涼州生まれの羌族とのハーフで、涼州で名声を挙げ涼州で従軍、後には蜂起した人物。
董卓に帰順してからはビの辺りに駐屯を続け軍兵は馬超に継がれるが、小説的簡略化として「西涼の馬超」と
するのは何も間違っていない。
つか馬超が馬姓なのは歴史上の人物だからだ
なんでイスラムが出てくる
もしかして君らはイスラム教徒の多くが馬姓を名乗った事を知らんのか。
???
馬超が生きた時代はイスラムが生まれる400年前なんだけど?
演義馬超にムスリムらしい人物造形が施されているなら、
「馬姓から着想を得てイスラムを意識した」と言えるだろうが、
だとするならその辺りの描写を示してくれないと理解できないよ、
13、14世紀の中華に住んだムスリムは馬術・騎射に秀でていたんだ、とか。
だから演義の作者が、馬超がイスラム教徒に多い馬姓であることに着目して
エキゾチックなキャラクターに演出したと言ってるんだろう?
扶風の人物なのに西涼を強調しているのも同様の理由だと。
ちなみに涼州が西涼と呼ばれたなんて、どっから引いてきたんだよ。
西涼は王朝名。州名として見た場合でも扶風や隴西とは関係ない。
ずっと向こう。張掖とか酒泉とか敦煌らへん。
騎射を善くすることなど、馬超に演出されたその「エキゾチック」な味付けというのは、
匈奴のような騎馬民族のイメージ。イスラムとは関係ないと思うんだが。
元ネタは、曹操を騎兵で追い詰めたり、足を射られても馬を駆って奮戦したなど、史書にある。
ただ羌族は山地の遊牧民族だから、馬超自身が騎射に優れるような人物だったことには疑問があるが。
>西涼
北宋から元くらいに掛けて、西涼府とか西涼州とよばれた地域は武威に属したと思ったけど違ったらごめん。
後漢の編成では天水も武威も涼州に属する。当時の民衆には涼州では馴染みが薄いので、
涼州→西涼と置き換えをして地理を把握させた、というだけだと思うよ。
ところで、イスラム教徒に馬姓が多いということは、講談の対象であるような層にも一般的に認知されたことだったのかね?
例えば現代日本でだって、中国関連に興味のない人に聞くと、
中国人には金という姓が多いと思いこんでいる人がかなりいて驚いた事がある。
高い教育を受け、情報のあふれている現代日本ですらそういった状況なのだが、本当に周知されていたの?
作家とかが、勝手に相似性を発見して結びつけたとかではなくて?
あと俺は
>>31でもあるんだが、馬援になぞらえて美形としたんじゃないかとしたのも全く無根拠の話じゃない。
例えば、陸遜なんかも美形とされてるんだが、彼の先祖である尚書令陸閤は容姿によって光武に寵愛された人物だ。
美形化した人物の中でも、少なくともこの二人についてはそういう共通点がある。
あともう一つイスラムイメージ説について疑問があってな。
明代は異文化に大してエキゾチックな魅力を圧倒的多数が抱くような時代だったのかという疑問だ。
講談てのはさ、例えば日本でも源義経が美形とされたりと、
男性対象の物語でも、意味もなく美形にしたりするものなんよ。
ましてや先祖の容姿という後ろ楯があるこの二人で、
かつ、片方は九郎判官義経に近い、「判官贔屓」な物語の主要人物の一人だ。
そういった理由と考える方が適切じゃないか?
>>43 >馬援になぞらえて美形
講談の脚本家などがそこまで歴史を調べるだろうか。
まず、馬超や陸遜が美形と認識されていたのは演義成立の頃にはなかったと思う。多分。
演義が爆発的に普及したあと、三義兄弟や孔明以外にも講談や京劇によってスピンアウト的に主役に抜擢される人物が出てくる。
講談というのは「男性対象の物語でも、意味もなく美形にしたりする」ものだから、
そうやって主人公に抜擢された呂布や周瑜、趙雲、馬超などが美形に設定され、そのイメージが広がっていったのだろう。
孫策なんかは元からイケメン記述があるけど、今は周瑜に食われちゃってるね。
演義では馬騰の父を馬粛だと言ってるんだが、実は後漢書注に馬平だとある。
演義の作者は通鑑系の野史は見てるけど、正史は見てないよ。
あと、呂布が美男子なのは貂蝉とのロマンスがあるからだね。
その言い方だと演義の版本に関わった数百年間の数十人かそれ以上の出版者の全員が、
同一種の「通鑑系の野史」だけを参照して修正を加え続けた不思議な小説になっちまうぞ
後世のイメージが過去に溯って適用される例としては孫権があるね。
史書では紫髯としか書かれてないが、演義では碧眼が追加されている。
実は碧眼紫髯というのは、西域人の特徴で、
顔師古は「現在の胡人が青眼赤須でサルに似ているのは烏孫の子孫だからだ」と言ってる。
東晋の明帝も「黄鬚の鮮卑」と蔑称されていた。
この胡人イメージ(紫髯→胡人→碧眼)が時代を越えて孫権に当て嵌められてる訳。
>>46 実際そんな感じだよ。通鑑系は民間で大流行して正史はほとんど読まれてない。
通鑑と言っても司馬光が書いたオリジナルとは大分違った派生品だけどね。
正史の方は知識人ですら読む人が少なかった。
>>47 現在残ってる版本だけでも、
違う流れを汲むテキストによって前版の誤りが改められたた跡があったりしてるから
「通鑑系の野史」とは言い切れないよ
もちろん全部が全部って訳じゃないさ。
ただ演義の種本は三国志か通鑑系の野史かと言われれば後者と言わざるをえない。
しかし、ここ正史スレなんだけどなw
>>43 >>講談てのはさ…以下ry
そのへんが本質と思われるね。
でも、羅貫中系の演義本である、五代史演義伝の李存孝は、メイン主人公のくせに
かなり貧弱な容貌で、描写されているけど…
馬超は父の仇討ちをする役割だから、最初は少年キャラだったんじゃないかね。
そこから少年→女性的という変換が起こってるような気がする。
「正史と演義の記述の違いについてと、その理由や史的背景。」と考えると、
そうスレ違いでも板違いでもないんじゃね?
ばちょ〜〜ん!!!
羅貫中の著作という説もある水滸伝だが、
当時の食材といったら普通は豚肉なのに、なぜか劇中では牛肉がメインで出てくるのは、
作者がイスラム教徒だったからではという有名な説があるね。
56 :
世界@名無史さん:2009/07/28(火) 02:28:47 0
中国文学では回民の描写自体が皆無。
後漢には仏教寺院は洛陽の一部以外には無かったのに、三国演義では地方にもある。
57 :
世界@名無史さん:2009/07/28(火) 23:21:40 0
サク融が徐州に寺を建てたじゃないか。
宗教史としてみればイスラム教、キリスト教、ゾロアスター教も伝播してたが、
まあ確かに小説の中に、それらの信徒は出ても、宗教そのものの描写は少ないよな。
でも三国演義だと仏教も似たような扱いなので、それは反証にはならんと思うよ。
59 :
世界@名無史さん:2009/07/30(木) 08:46:20 0
中国庶民向け文芸には仙人がよく書かれているので、一般人にとっては道教、道士が馴染みだったわけだ。
60 :
世界@名無史さん:2009/07/30(木) 09:09:18 0
あ
61 :
世界@名無史さん:2009/07/30(木) 09:16:19 O
零陵や武陵は蛮族のほうが多かったの?
あんまり重要な土地ではなかったみたいだけど。
あんまり美味しい土地ではなかったのですか?
62 :
世界@名無史さん:2009/07/30(木) 13:22:03 0
零陵出身の有名人としては蜀の蒋苑と劉敏がいるな。
あとは呉に使え、『通語』を著作した殷基だっけ?
武陵は諸葛亮に左遷された寥立がいたな。
一応は名士と呼ばれる漢人は出ているところではある。
ただ、赤壁後に劉備があっという間に占拠したところを見ると、
あんまり守備の兵も配置してなかったと思う。そんなに重要な
土地ではなかったのだろう。
そのへんは、もっと後代だな。
中唐以降になると、潭州長沙はもちろんのこと
朗州武陵は武平軍節度が置かれている(湖南軍閥の拠点だったし)。
零陵=永州は潭州長沙に置かれた湖南節度の属州。
そのもうちょっと南西の桂州(桂陽ではない)には節度使が置かれ
長沙と桂州のちょうど中間にある、零陵はあんま重要度はないのかも。
64 :
世界@名無史さん:2009/07/30(木) 20:34:46 0
劉備自体も赤壁直後はさほど兵力は保持してなかっただろう。
南郡ほどの守備兵がいたら、劉備保有の兵力では四郡を平定は無理だったのでは?
それと、呉が長沙・零陵・桂陽・武陵が重要なら、劉備に領有を黙認はしなかった
だろう。215年時の荊州分割時には、零陵は一時呉が陥落させているのに、蜀に
返還している。占領するほどの価値がないから返還したのだろう。
65 :
世界@名無史さん:2009/07/30(木) 21:53:50 0
零陵や武陵は農耕もイマイチだったのですか?
孟獲の国ってどこにあったんですか?ピンポイントで。
座標ください。
>>66 北緯25.492868 東経103.793335
ただし世界測地系、10進でな。
。
69 :
世界@名無史さん:2009/08/02(日) 10:22:21 O
南郡だけが大事なんです。
,一-、
/ ̄ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■-っ < んなーこたーない
´∀`/ \__________
__/|Y/\.
Ё|__ | / |
| У.. |
71 :
世界@名無史さん:2009/08/03(月) 11:30:01 0
>>57 しばらく時間は空くけど、孫綝が寺院をぶっ壊したって話もあるね。
72 :
世界@名無史さん:2009/08/04(火) 23:17:28 0
馬騰の妻って名前の記述ある?
あと、馬岱って馬騰の兄の子?弟の子?
弟の子っぽい
75 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 11:06:46 0
馬超は馬岱に家督を継がせた。実子無かったのか。
76 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 12:23:58 0
馬秋と馬承は実子じゃないの?
77 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 19:46:52 0
実子がいたけれど、なぜか馬岱に継がせたいと劉備に申し出ている。
その後の馬一族の行方は不明。冷遇されて没落か?
78 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 20:48:27 0
たぶん、劉備に使えてから出来た子供だから、
馬超逝去時では年齢が若すぎたのだろう。先祖を祀るみたいな観点では、
年長者では一族の生き残りが馬岱しかいなかったのだろう。幼少の子供では、
一族を率いることはできない。
79 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 21:06:20 0
爵位を継いだのは馬承だよ。
馬岱をよろしくとは頼んだけど家督などを継がせてやってくれとはないな
81 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 21:34:58 0
馬岱は陣代みたいなもんだろう。
82 :
董卓:2009/08/05(水) 23:16:17 0
久しぶりに書き込みしてみる。官渡の戦いでの疑問 @官渡の戦いでの曹操についての記述だけど「1万
で10万の袁軍を破り、8万余の首級を上げた」って書いてある所があったような
気がしたけど、実際いくらなんでも1万で8万余りの首を上げれるとは考えにくい。
一族の祭祀を受けついだのは馬岱だろ
84 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 23:22:32 0
馬岱は後に西に去った。
そしてある偉大な歴史的事業に参加している。
そのことはある有名な書物をみればわかる
85 :
董卓:2009/08/05(水) 23:26:56 0
A 青州兵の行方。曹操は青州黄巾党を下したとき、100万余の民衆と30万(だったかな?)
の兵を手に入れたが、官渡の戦いのときの曹操軍の兵力は1万弱。残りの29万人余りはどこに行ったんだと
いう話。それは確かに関中諸侯(馬騰・韓遂等)、劉表等の備えとして兵力を分散したとは思うが
いかんせん1万とは少なすぎる。おそらく陳寿の正史の記述は曹操の凄さをアピールする(または強調する)
ためにわざと「1万で10万余の軍を破った」と書いたと思われるがみんなはどう考えるだろうか?
俺は強調するために書いたのだと思う。なぜなら正史の正当、主役は「魏」なのだから。
>>85 みんなに聞くまえに、もちっと読み込んだほうがいいな。
その程度の疑問、古人が抱かぬとでも?
>>85 青州の賊軍を傘下におさめたときに曹操は戸籍調査を行った。
どのようにしたかというと炊き出しをおこなったんだよ。
碗をもって並んだやつを数えたんだ。
結果、同じやつが何回も並んだからね。
でも曹操はとがめなかった。
「わたしが徳を施した人民の数が多くて何をこまることがあろう。」ってね。
そういう逸話があるのをしらないの?董卓さん。
でも董卓さん=問う沢山。だね。
>>84 「蜀碧」でしょ
張献忠の乱の時地元の義兵を率いて
戦ったのが馬京と馬亭の兄弟で
1400年後に現れた馬岱の末裔だと言われてるね
89 :
世界@名無史さん:2009/08/05(水) 23:51:22 0
そうニダ
隠れた良スレだったのが見事に糞スレ化したな
>>隠れた良スレ
え?そうだったん? だったん人のおどり〜
>>85 どの時点のどの範囲を数えるかによって数値は変わってくるね。
官渡前後の記述をよく読むと分かるんだが、曹操は官渡に籠城した事で、
本拠地のエン州含めて支配圏のほとんどと連絡を断たれている。
連絡を断たれただけでなく、「河南の人々の多くが寝返った」ともある。
そうすると曹操が籠城していた時の官渡城内は、兵士が1万人しかいなかった
としても、それほど不思議な事ではない。
袁紹軍が壊滅した時、それらの寝返り組がまた曹操の元に戻ってくれば、
8万人を捕虜にすることも不可能ではない。
そういう寝返り組がいたからこそ、曹操は袁紹軍の通信文書を焼いたとも言える。
95 :
董卓:2009/08/06(木) 18:53:47 0
なるほど。いろんな見方ができるなあ。でもさすがにこれはさすがに分からんやろ?
まあ俺もやけど、質問@董卓の孫娘、渭陽君・董白の父親は誰?
A董卓の父親の本名は?(董君雅が父であるがなんか君雅ってのは字な気がする。)
破賊文書の十倍表記がある
この時代に勝った側の記録による捕殺数は十倍されたものだと考えてだいたい間違いないだろう
官渡の捕虜穴埋めの実数は八千になる。
だとしても、他の死傷者数をあわせて推定一万超というのは袁紹勢力が崩壊してもおかしくない被害だが。
>>95 1は不明としか言いようがない。そもそも董卓の子という存在自体が、
白と、司馬朗の同期という死んだ子の二ヶ所の記述からでしか浮かび上がってこない。
2も、史書に君雅とあるから、そうだとしか言いようがない。
英雄記と董卓別伝の二ヶ所に現れているが、どちらもそれが字とは言ってない。
字かも知れんとは想像してもそれを裏付ける根拠が出るわけでもなし。
四万程度の兵力で七万の捕虜を抱えてしまい、おまけに敵から砲撃受けたから
移動の過労と栄養失調で死者が出るのも構わず急がせて移送したら、捕虜虐待だとされ、
敗戦後に裁判で責任者が死刑になったことが先頃の大戦でも、互いの兵力が日米双方の資料で
完全に裏取り出来るケースで存在したし、自勢力より多数の捕虜を抱えた結果
そういった行動にでるというのは全く無いとはいえないと思うがね。
>>98 銃砲の時代と条件がまったく違うよ。
ぶっちゃけ青州兵30万も十倍計算だろうが、
官渡に滞在した曹操の兵力が二、三万あったとしても八千の捕虜を取るのは大変な労力だったろうし、
自軍の数割の捕虜を取るなんて兵糧難の軍隊には自殺行為なので穴埋めは全然不思議な行動じゃない。
袁紹軍の未帰還が一万を越えたなら十万動員の一割。袁紹の政治基盤に亀裂が入るに十分な惨敗で、
冀州での反乱も頷ける展開になる。
逆に、主力精鋭を中心に本当に数万以上の兵が未帰還だったのなら袁紹陣営は崩壊していただろう。
袁紹が死ぬまで持たないだろうし、袁尚が袁譚と内乱しつつ五年も踏ん張るなんて殆ど不可能だ。
>>99 川勝義雄の魏晋南北朝でも降伏させた青州兵は3万になってるな
101 :
世界@名無史さん:2009/08/07(金) 21:06:30 0
諸葛亮が北伐で動員した兵力はどれくらいなの?
102 :
98:2009/08/07(金) 22:29:12 0
>>99 正史にその証拠があるのか?
おまえの妄想を書いていいスレではないぞ。
正史だけでは、より近い事実には到達できないよ。
>>99の言い分は、まだ理解しやすいように思うが?
ときに、98は俺ですでに引き下がっているのだがな。
何が言いたいかというと、主張に便乗するのは別にいいんだけど、名前欄で騙るのはいかがなものだろうという。
またage厨か、どうしょうもねーな
変な自作自演がはじまったなw
なんかおかしなことになってるが、とりあえず。
>>102 破賊文書の「一を以って十と為す」件は国淵伝にある。これは後漢の慣習だろう。
三国(少なくとも魏蜀)がそれを引き継いだことは、例えば王経が姜維に破られた時の
蜀書と魏書での被害格差を見るとわかる。
109 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 03:19:09 0
王経って司馬昭に殺されたの?
113 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 14:57:01 0
姜維が王経を撃破した時、魏軍の戦死者は万単位だったんだろ?
でも魏には少しも打撃になっていないんだな。
逆に姜維が段谷で大敗した時は、すぐに蜀が滅亡はしなかったが、
防衛ラインを下げるようになってしまった。やっぱ国力の差なのかな?
114 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 15:49:24 0
数は参考程度で詳細はわからないけど
勝利と敗北、それによる影響くらいは分かるだろう
115 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 16:37:45 0
戦場に出てくる多くても兵力は最大動員兵力の2/3だな。
動員兵力が10万なら、戦場に投入できるのは6〜7万位。
兵力の半分が戦死・捕虜になったら、軍事的には全滅判定。
よって3万位やられたら、袁紹みたいな軍閥では即滅亡だろう。
だいたい全兵力の三割くらい戦死・捕虜がでると壊滅判定。
組織的戦闘能力が喪失される。官渡の戦いはこれに相当するのでは?
曹操が華北平定にそれなりの年月がかかったことを考えると、
組織的戦闘能力は喪失されたが、散発的な抵抗戦闘は可能だったこと
がうかがえる。
袁紹の動員兵力が10万だと仮定すると、
実際に官渡の戦いに参加した兵力は6〜7万。損害は2万前後と考えるの
が妥当ではないだろうか?
全滅=被害3割
壊滅=被害5割
殲滅=被害10割
117 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 17:06:23 0
まあ、直接戦闘での被害は1〜2万くらいが妥当だろうな。
兵員以上に戦闘指揮官が投降したり、戦死したりした人も多かったのだろう。
有能な参謀も捕虜・投降・獄死したしね。兵員以上にその損失は大きい。
>>115 前線部隊の3割損耗で全滅とかそういう意味らしい
帯甲数万とかいう表現だと非戦闘員は入ってないんじゃないのかな
119 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 19:23:15 0
街亭で馬謖が率いた部隊の兵員数はどれくらいだったのだろう?
>>115 袁尚の抵抗は全然散発ではないよ
黎陽近辺で敗れるが、ギョウまで進軍した曹操を撃破して許へ叩き返している。
その後袁譚と本格的に対立してしまったので、曹操は袁譚と結んだ。
結局曹操がギョウを包囲したのは袁尚が袁譚討伐に出て主力不在の時だった。
武帝紀は省略されすぎて解り辛いが、袁紹の死後ギョウを落とすまで
曹操は三度黄河を渡っているようだ。
121 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 20:55:56 0
曹操もそんなに余力が無かったのでは?
袁紹を官渡で破っても、土地とその住民を支配しないと動員兵力が増えない。
官渡戦直後は曹操自体の動員兵力自体は増えていない。
無かっただろうな。207年に袁尚が死ぬまで、曹操は袁家と戦う合間に東へ南へと連戦している。
202年頃までなら袁氏と曹氏の「総国力」では、おそらくまだ袁氏の方が上で、
曹操が勝利を決定的にしたのは兄弟の分裂に乗じたことが相当大きいのだろう。
分裂したらあっけないものなんだろうな。
AにつくやつBにつくやつ日和見のやつ道義で動くやつ野心で勝手に動くやつ等等色々出そう。
実質指揮系統が一本化されてる場合の何分の一にも落ちるんだろうな
ギョウの包囲中に冀州東部を攻略しまくったのは袁譚だしね。
袁尚からすると、冀州の地力を殆ど使えないうちに東西に振り回されて大州を失ってしまった
勿論、ギョウを救うために駆け戻ってきた袁尚を迎え撃って完勝した曹操の強さは流石の一言だけど
125 :
董卓:2009/08/08(土) 22:27:41 0
袁紹の臣下達の人間関係が複雑な気がする。田豊・ホウキ・シンパイ等々
それぞれあくが強い家臣が多すぎる気がする。袁家は袁紹の死後、袁譚・袁
尚派の二派に真っ二つに分かれてしまった。袁家が滅亡した原因は袁紹がこれらの
家臣団をまとめ上げられなかったことと、袁紹が三男・袁尚を溺愛したこと、
しかもはっきりと後継者を指名しなかったこと等探し出したらいっぱいあるんじゃないかな?
こんな事態になるんだったら晩年の孫権が孫亮を後継者にしたように、間を取って、次子・袁キ
を袁家の棟梁にすればよかったのではないか?そうすれば袁家の滅亡は避けられた(というより
遅れた)かもしれない気がするがどうだろう?
なんか三国時代からの一般評そのまんまの意見だが、
一番の問題は袁紹の死が早すぎたということだろう。
127 :
董卓:2009/08/08(土) 22:43:13 0
たしかにそー考えたらそーだな。少なくとも袁紹が生きている限り曹操は袁紹
をおそらく滅ぼせんわな。あくの強い家臣団も袁紹を支えるよな。そして体制を
立て直し次第再び南下して曹操を攻撃する可能性は大いにあるわな。
>>115 官渡に集結した袁軍は動員可能兵力の一部でしかないので、
その論考はこの点の見落としがあると思う。
曹操の部下達が袁紹の部下達よりましだったとはちょっと断定できないんだろうけどね。
袁紹は負けたから、敗因として部下のいざこざがクローズアップされる。
官渡当時、曹操にとって重要な部下達も数多く裏切ったのかもしれないが、
彼らはその後、死んだか官界から追われて史書に殆ど名前も残らない。
魏で出世して大きく名が残るのはそこで踏ん張って曹操を支えた者だけ。
だから列伝を読む目には、あたかも曹操の部下達は挙って団結して曹操に従ったように見えてしまう。
130 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 23:06:23 0
>>129 だよな。手紙焼いたという逸話もそのまんま信じるやつはバカ。
俺が曹操なら手紙を読んだ上で焼く。
131 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 23:18:42 0
アホか。
読んだかどうかは関係ない。
不問に付したことが大きいのであって。
132 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 23:27:01 0
>>124 逆に言うと前線以外はスカスカだったんじゃないか?
袁譚の反抗スピードも、ギョウ陥落後の曹操の進撃スピードも考えると。
幽州なんか、タク郡くらいしか実効支配出来ていないし。
ところで公孫度が青州に進出して営州を置いてたのっていつ頃なんだろう。
>>131 しかも、そのパフォーマンスが前例にのっとっていると
不問とされた側の安心感をさらに得ることになる
政治的配慮以外のなにものでもない。
どんな前例?
光武帝でしょ
>>132 州の拠点でもない郡単位の戦力なんてそんなもんなのだろう。
衰退著しいとはいえ袁譚は青州一州を確保しているのだし、
元々、袁紹の長子として支持した人間も多かったとされているし。
ギョウを包囲されながら二正面作戦になった時点で袁尚は圧倒的不利。
袁尚って五男だったらしいけど
もしかしたら袁譚の上にも庶子が居たりしたんだろうか…
>>130 実際読んだ上で焼いているはずだよ
趙ゲン伝注魏略では、袁紹を破ったあとに文書を抑えて中身を確認する曹操の姿が書かれている
>>138 そちらが「実際」とは言えない。
見ずに焼いたというのが曹操の美事を残したものであると同時に、
魏略の方は趙儼の美事を残したもの。
>>131の言うとおり不問に付したことが大きいのであって、
その重要度のためにこそ複数の伝説が残されたのだろう。
そのうちのどれが創作かを断定することはできない。
>>139 ひそかに読んだ上で、読んだことを伏せて手紙を焼く
どっちかが創作なんじゃなくて、どっちも間違いではないということなんだろう
(曹操が読まずに焼いたということだけは事実ではないわけだが)
誰がやったかわからずに焼いたのと、知っていて不問に付したのとはその後の人々の心理的な影響は全然違う
>>140 つまりあなたは、曹操が読まずに焼いたことが創作で、
趙儼伝注の方が真実に近いと言いたい訳だろ?
俺はそこまで断定は出来ない、と言ってるだけだよ。
どんな物事にしろ突き詰めれば断定なんてできる訳がないんだから、
断定できないって繰り返してもあんまり意味ないと思うけどね。
断定できない中で、どのくらい蓋然性が高いかを検討するのが大人の仕事。
官制や法制についての検討ならそれが大人の仕事、つまり歴史研究なんだけど、
筆一本で創作できる個人の言行について整合をつけるよう頑張るのは言葉遊びの範囲だと思うが。
あなたがそう思うんなら
こんな所で言葉遊びに興じるのは止めて歴史研究の現場に戻ればいいよ。
どっちも大人の態度には見えんな
遊びに来てるんだからいいじゃない
俺らは2chに大人の仕事をしに来てるわけじゃないだろ?
ようするに、創作に使いたいから、より有力と思える説を割り出したいんだろ。
148 :
世界@名無史さん:2009/08/09(日) 19:02:26 0
ところで三国志検定についてどう思う?
149 :
世界@名無史さん:2009/08/09(日) 19:22:34 0
三国志検定?
クズだと思うよ
後で粛清していたら美談にはならないよな。
きっと内容を読んでいてもそういうことはしなかったんだろう。
孔融だけは処罰したんだけどね。後で。
これは俺の推測w
じゃあ三国検定の例題からネタ振ってみるか
・諸葛亮と魯肅の戦略について、儒教と「漢」との関係を踏まえて、対比しながら論ぜよ。(思想・哲学)
諸葛亮は卑劣漢。
魯肅は好漢。
はわわ、卑劣漢にされちゃいましたぁ
154 :
世界@名無史さん:2009/08/09(日) 23:51:13 0
>>151 そもそも漢と言ったって前後では全く性質が違う上に
後漢ですらも、後期になると道教の教主の肖像を時の皇帝が拝んだりしており
漢と儒教の関係は「一時期国学だった」という程度でしかないんだが
何だそのクソみてーな設問は
>>154 はあ。
だから「漢」と、かぎかっこが付いてるんだろ?
蜀側について言えば、諸葛亮伝によって表現され蜀漢王朝が捧持したところの漢という国号ないし国体と
(当時の)儒学によって正当化される勤皇や革命の潮流の兼ね合いを
論ぜよという設問だと俺には読めるんだけど、違うのかね?
>>155 鉤括弧が付いたら意味が特殊になると主張するのはいいよ?
でもそれを「設問」の文章でやっちゃうのはクソ以外の何者でもない
鉤括弧で付加される意味が万人共通だとでも?
>>154 たしかにw
それ説明しようとすると、その題で論文書けそうですね
設問とするには、巨大するぎる気がする。
意味が特殊になるんじゃなくて一般化されるんだと思うけど。
それに、
>>155は一応俺が回答する場合の基本ラインというだけであって、万人共通である必要はない。
諸葛亮と魯粛の戦略と聞いて誰でも思いつくのは二分と三分の計の対比だろうが、
設問はそれを指定しているわけではないし、回答者が拘る必要はない。
「漢」に括弧が付いていようがなかろうが、諸葛亮、魯粛、漢などと提示された条件の中から
有意を汲み取って述べるのが論文の書き方だろ。その結果、
「後漢末には儒学倫理が崩壊していたので魯粛はそれを無視した」などという答えもありうる。
まあそれは恐らく誤りだろうが。
自分の気に食わなかかったから本題でもない理屈を述べて紙面を埋めてたらレポート失格だよ。
>>158 レポート失格でいいよ
そりゃ三国志検定がクソだってだけだから
それに両者の戦略には儒教と漢の関係を踏まえて話すべきものはないだろ
>>159 ないわきゃない。陳寿の呉志本文は呉書によるところが大きいとされる。
ならば、漢の後を受けて土徳を名乗った呉は、その「建號帝王」の功績を魯粛に帰したと考えられるわけだ。
当時の魯粛と孫権の間に本当にこの会話があったのかはともかく、
呉の史書は、魯粛伝の元になった魯粛の逸話によって漢呉交替の論理の正当性を表現したんだよ。
十分以上のネタになる。
>>161 漢書は五行志で災異を記し、易経を元に天意を解釈している
易経は勿論五経の一つ
儒教ってのは天地開闢から人生品行に至るまで説明を試みる広範な哲学思想だよ
>>162 易経に曰く天意云々があるんで五行は大事だよ〜って話であって
五行志全ての理論が易経で出来てるわけではないぞ
しかも漢書は後漢に書かれたものだが、前漢を書いた代物だし三国志に単純に当てはめるもんじゃない
要約すると三国志検定が嫌いということですねw
世の中を好き嫌いで要約して生きて行ければ、人生楽でいいよなw
俺は賢いんだと錯覚してる奴に限ってクソを連呼したがるという
というか、語彙が貧困なだけだろ。
クソの内容を説明すると、これまた結構な分量の文章ができそうだがな。
しかし、三択とか四択だと思ってたが、1級だと渡辺センセが採点するって?
論文の域だなw
「論ぜよ」ですでにへんだと思ったが。
たった一人の人物が採点、って時点で検定としてどうかと思う
名称が「渡辺三国志検定」とかだったら文句はないが
まあこういうのは所詮お遊びだからね。
概要見て興味がありゃ受けてみりゃ良いし、どうでも良ければスルー。別に糞だのなんだの言う程の事でも無いよ。
170 :
世界@名無史さん:2009/08/10(月) 17:38:09 0
魏の官位の序列とかは史料あるけど、
蜀・呉の官位の序列が解る史料はないかな?
伝記に昇進とか書いてあっても、魏の官位の序列とは違うみたい。
なんか解りやすい史料ないですか?
呉蜀、特に蜀の官制は後漢のものをかなり踏襲しているので後漢書百官志
でもあれだね。
三国志の時代って一人の心ある政治家ががんばればずいぶんと庶民が救われたじだいだよね。
ムリ。
中央集権が戸籍単位まで結構有効に利いていた時代と違って、
全国津々浦々で郷里に根ざした豪族が流民を抱え込んで自衛していた時代だから。
問題の根の深さはもはや一人の政治家が中央で頑張ってどうにかなるレベルではない。
>豪族の害
というか前漢武帝の改革に端を発し、王莽の時代既にどうにもならなくて、魏晋以後貴族化し
隋の科挙成立以後大分マシになるものの、そのあとの唐でも関隴集団には手がつけられず、
北宋成立までどうにもならんっていう、かなりどうしようもないことだからねぇ。
むしろ1000年スパンの積み重ねでようやっと克服したというか。
これに対抗しようとしたら、一人の政治家の力なんて、どんな怪物級の政治家連れてきたってカスみたいなもの。
>>174 細かいこと言うようだが、豪族化は武帝に端を発したんじゃなく、秦末の乱世とそのあとの休民政策(文景の治)あたりから始まってる
武帝はそれをナントカしようとした最初の皇帝だ
>>167 ウンコでも糞便でも何でもいいけど
儒教と漢の関係っていうものを最早固定された観念として考える時点で設問としてどうかと思うよ
諸葛亮も魯粛も結局軍事的に可能か、不可能かでしか物事考えてないように見えるし
検定というより渡辺先生と楽しく談義しましょうってレベルだろ、こりゃ
>>169 検定どう思うかって聞かれたからファッキン検定って言ったんであって
ただ検定をネガりたかったわけじゃあないんだけどねぇ
いや、別にクソからファッキンに変えなくても…w
その対応、気に入ってしまった。
178 :
世界@名無史さん:2009/08/10(月) 23:49:16 0
>>176 別にひとつの答えが用意されてるわけじゃねーだろ
儒教と漢についての認識が設問設定者と同じじゃなくてもいいし、
要はそこでの受験者の解答に知識の裏付けがあった上で論理的にも整合性があればいい。
>諸葛亮も魯粛も結局軍事的に可能か、不可能かでしか物事考えてないように見えるし
たとえば魯粛なら、早い時期から孫権に皇帝に即位することを唆しているようだから、
そうした彼が儒教や漢朝とどういうような距離にあったか、とか
論ずるに値するトピックだと思うが。
儒教としては混乱した時代にあっては異姓の有徳者が天下を治め王朝を開くことはむしろ推奨される
>>176 何故軍事的に可能か、不可能かを彼らは論じたのか、という話を儒教と絡めることは可能じゃない?
儒的価値観を利用して漢朝という旧世代の権威をもとに反抗勢力の足場を固めようとした諸葛亮と、
その間隙を縫うように、儒的権威に基づかないあるいは放伐論的に基づいているとする形で
魏に対抗しようとしたという構図を提示するとか。
例えば冷戦なんかでも、思想面で捉える元来の見方もあれば、
純粋に軍事勢力図的、地政学的にのみ捉えることも可能なわけだ。
そして、当時の儒的価値観とは大きく断絶のある時代にある我々にとっては、
軍事的側面がとりわけ際だってみえるのは事実ではあるけど、
実際はもっと重層的なもので、儒教と旧国家体制という軸は
十分論じられてしかるべきもののように感じるな。
181 :
180:2009/08/11(火) 00:30:38 0
× 魏に対抗しようとしたという構図を提示するとか。
○ 魏に対抗しようとした魯粛という構図を提示するとか。
>>178前段
自分は
>>176ではないが…
普通はその通りだと思うが、それなら採点は知識のある複数人でできるはず
ところが件の検定は採点が一人で、その人物がそのように考えているかどうかもわからん
というのが問題なのだろう
別に一人でも問題なくね?
大学だと大抵そういうもんだろ。
普通、教授と同じ結論を持ってる必要はないし。
>>178 だから、漢と儒教の関係ってのは一定したもんではないから
それを使って論じろって時点で無理があるっての
それは研究であって、設問とするのはどうか
186 :
世界@名無史さん:2009/08/11(火) 08:22:13 0
爵位と官位、どっちが上がったほうが優遇されたことになるの?
論じた中で整合性がとれてれば問題無いだろ
それを採点者が「自分の論と違うからペケ」とかやってりゃ問題だが
>>185 一級は「研究者レベル」なんだって。
ただ資料持ち込み可とは思えないから会場で実際に書けることは高が知れてるだろうけど
189 :
世界@名無史さん:2009/08/11(火) 20:37:27 0
>>184 別に一定のものでなくたっていい。
そんなこと言ってたら大学の試験だって出来なくなってしまう。
というか、三国志検定落ちてムカついてる人とかなのかな?w
>>188 なるほど。
つまり、どの程度くらいそこに造詣があるかってことなのかな。
漢にしろ、儒教にしろ、論理だててその社会背景に投影できれば
ある程度はOKなのかね。
唐宋変革論でも、似たようなことできそうだね。
しかし資料なしとなると、専門家とははいかずとも、結構な時間
三国志研究にプライベートを費やしているような人対象かな。
にわかや正史を読んだだけの人は門前払いもいいところだな
>>189 余計なあおり入れんでよろしい。
191 :
世界@名無史さん:2009/08/11(火) 20:55:23 0
おれは当然、三国志検定の教養として
人形劇三国志、横山光輝三国志 は必修と思うが。
と言う事はシンシン・ロンロンの行動や言動も頭に入れとかないといけないのか
当然です。
シンシン〜 ロンロン〜 胡赤児〜
ハ〜イハイ 沛じゃない〜
ぐらいは歌えなきゃならない
>>189 受けたことすらねーよ
「漢と儒教の関係」が一定してないならば如何様にでもこじつけられてしまう
これを「設問」とするのは悪問以外になんとするかね
検定じゃなくて小論文コンテストとかなら俺だってここまでクソクソウンコなんていわねーよ
なにイライラしてんだろ
挑発するヤツがいるからだろ
ところで、模範解答はどんななんだろう。
回答できる人に、ちょっとやってもらいたいが
諸葛亮は荊州儒学界の若手のホープ
魯粛は魯家の狂児と蔑まれて儒学界の鼻つまみ者
やってることは大して変わりないけど、立場や思想が違うかな
199 :
世界@名無史さん:2009/08/12(水) 15:09:08 0
諸葛さんは儒者じゃない
他人に駄目だしすると自分が優秀になったかのように錯覚するよね
どっちも縦横家だな
・諸葛亮と魯肅の戦略について、儒教と「漢」との関係を踏まえて、対比しながら論ぜよ。(思想・哲学)
これ、諸葛亮の戦略=魯粛の戦略ですよ。そういう出題ですよ
対比せよと言っているのに、イコールで結んで終わり?
204 :
世界@名無史さん:2009/08/13(木) 00:05:48 0
研究者で三国志検定受ける人なんているの?
後漢は儒教マンセーの時代だから、形だけでも儒教やっとかないと、出世は
難しかったんじゃないだろうか。
206 :
世界@名無史さん:2009/08/13(木) 22:35:04 0
三国時代は皇帝の殺害まで儒教の教典を曲解して正当化したからな。
儒教が必須科目だったことは確かだ。
207 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 00:03:54 0
諸葛も魯粛もこれからは儒学の時代じゃないと思ってた口だろ。
208 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 00:45:07 0
>>195 大学入試だって記述あるし、小論文もある。
問題ないだろう。
>「漢と儒教の関係」が一定してないならば如何様にでもこじつけられてしまう
だから、そのこじつけがどれだけの客観的な事実に基づいていて
なおかつ論理的に整合性があるか、てことだろう。
>>208 いやいや、これ論理的整合性を求めてるんじゃないと思うよ
参考資料が渡辺御大の本だけだし
検定に託けて本売ろうってだけじゃん、これ
210 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 06:20:27 0
中領軍と中護軍とは仕事の内容が違うの?
どちかも首都防衛軍の司令官という感じしか受けなかった。
三国時代の両者の役割の違いはなんですか?
>>209 論旨がすり替わってますがな
「設問が」クソって延々言ってるんだから
検定がレッドクリフに便乗した商売であることなんて、君以外は全員知っとるよ。
いまさら何言ってんの。
>>210 魏晋では異なる。
中護軍は外軍を掌る。
つまり帝都の外に滞在する諸軍の考課・人事・訴訟を一手に掌握する強い権限を持つ職だった。
人事権にどのくらいの上下幅があるのか(例えば二品三品の高位将軍の選定にも権力があったのか)
などはよく解らないけど、少なくとも部将格の牙門将などを選ぶ権限があったので魏では賄賂が殺到したという。
中領軍は内軍を掌る。
魏では五校尉、中壘、武衛の三営を掌り、禁兵を指揮した。
どうも漢の北軍中候(六百石だった)の強化版らしい。
これは魏晋の制度であって、曹操時代や蜀漢で同等の権能があったとは考え辛いが、
すくなくとも中護軍は漢代からある古い職なので
皇帝か宰相に直属して緒将の人事訴訟を担当し法規を護る実務に当たる、
という点では大差ないと思う。
215 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 19:50:26 0
レッドクリフ効果ってどの位あったんだろうね?
コーエーもエイベックスも株価ボロボロだったが。
216 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 20:27:57 0
>>214 趙雲が中護軍・征南将軍というのは、皇帝劉禅と宰相の諸葛亮直属で、
陳到は李厳配下の護軍みたいな感じかな?
それと、223年段階では将軍位では趙雲はあまり重用されていないが、
意外と権力があったということかな?
>>215 国内だけで上下で100億くらい興行収入があったらしいから、それなりの効果はあったでしょ
218 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 20:51:18 0
>>216 趙雲は諸葛亮が漢中に駐屯すると、趙雲も漢中に行き鎮東将軍に昇進。
なんか魏延に対抗させてる感じだよね。囮とはいえ、魏延ではなく趙雲に
別働隊を指揮させている。
街亭戦の後は王平を重用して、魏延に対抗させてる感じ。231年の
北伐では王平が別営を守り、魏延は諸葛亮の直卒下。一応は魏延も230
年には一軍率いているが、呉壱という蜀軍の重鎮を同行させて牽制している。
最後の北伐も、魏延が命令に従わなければ放置しろと指示を出している。
うーん、やっぱ魏延は諸葛亮には能力は認められていたけど、信頼はされて
ないようだね。
219 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 21:06:23 0
魏延みたいな名士に対抗的な軍人には軍権は握らせたくないんだよ。
関羽の失敗という前例もあるし。諸葛亮の死後も遠征続行しようなんて
暴走プランを事実もってた。諸葛亮は名士に対抗的な軍人の魏延を抑える
には、名士に従順な軍人である趙雲や王平に力を持たせる必要があったのさ。
>>211 もう設問がクソということは前提で狙いは何かなって話をしとるんだよ
俺が強引にでも書くとしたらこうかな
後漢末期だけで見ても儒教は国教として人々の思想の中心にあったが、
官学としての儒教以外に各地で学派があり、「儒教と漢」の関係は常に不安定なものだった。
諸葛亮の述べた戦略において、漢の再興、儒学倫理に関するものはなく、
また同様に魯粛の述べた戦略の中でも同様であり、両者ともに漢という国をある程度無視した立場で動いていた。
儒学の学派同様彼らもまた漢という国を無視し、独自の路線を採り、地方は戦国以来の独自性を強めていった。
彼らの戦略は大本のところでは長江ラインを非敵対勢力で確保することで北部からの攻撃に備えるという点においては合致したが、
諸葛亮のものは基本的に寄る辺なき劉備に対して献じられた持たざるものの戦略であり、当座の備えをどうするか考えられたものであるのに対し、
(中長期的にも一応の有効性は歴史が証明してはいるが、自己の北伐の頓挫によって完全に展望を失っている)
魯粛のものは根拠を持ち、原資を持つ孫権のための、国家百年の大計だという相違点が存在する。
結局、前者は荊州失陥により、後者は長江上流の敵対勢力による占領によって後に破綻し、
長江ラインの確保という戦略に幾つかの課題を残す結果となった。
221 :
世界@名無史さん:2009/08/15(土) 02:50:47 0
>もう設問がクソということは前提で狙いは何かなって話をしとるんだよ
そんな話してねーだろw
設問がクソということに同意もしてねーしw
>諸葛亮と魯肅の戦略について、儒教と「漢」との関係を踏まえて、対比しながら論ぜよ。(思想・哲学)
どういう答えが欲しいのか見えてこないなぁ
223 :
世界@名無史さん:2009/08/15(土) 06:21:51 0
>>219 漢中を獲得したとき、総督に魏延が抜擢されたのも、
劉備による名士への牽制かも。張飛みたく名士に愛想がよい人間ではなく、
スモール関羽みたいな、名士に対抗的な魏延を総督にすることで牽制した
のかも。
趙雲は言動が元々名士に近い考え。
君主権力を確立しようという時期には重用しずらい人物だったのだろう。
諸葛亮が事実上政権を握ると、名士に近い考え方の趙雲は有り難い存在。
しかも皇帝劉禅を救ったという経歴があり、君主の憶えも悪くない。
北伐直前に趙雲が魏延と同等の地位についたのは、名士による軍人牽制
の確立だったのかも。当然実質の権限が削られる魏延は面白くない。だから
諸葛亮への不満が募る。
>>220 諸葛亮と魯粛は長江防衛ラインの重要性を分かっていたが、孫権と呂蒙と陸遜はあまり分かってなかった
呂蒙は勉強して多少は教養を身に付けたが、戦争が上手いだけの兵隊野郎の域を出ることはなかったようだな
儒教が漢末の社会にどれだけ大きな影響を及ぼしていたかを知らないのか?
服喪の習慣もそう。
少なくとも「建て前」の部分では儒教的倫理が世の中を支配していたんだっての。
儒教の理想通りの社会なんかでは無かったけど。
諸葛亮は法家的な発想、規矩でもって政治に臨んだ。
いや、魯粛など実際的な人間はそうであったことだろう。
曹操もね。 曹操なんかは法家なんてくくりを突き抜けた柔軟さと「ルールなしでゲームを楽しむ、楽しませることができる」天才的発想があったとおもうけどなぁ。
(諸葛亮は己がつくったルール、マニュアルにしばられているあたり、秀才でしかない気がするけど。)
荀ケみたいな頭のいい実務家でも儒教的倫理から己を解き放つことはできなかった。
で、おれも検定の答えはわからん。
ただ、劉備はあの時代の儒教的な大義名分を最大限活用した男なのはたしかだ。うん。
諸葛亮は「天下三分の計」
魯粛は「天下二分の計」
とよくいうがほんとかな。
魯粛の戦略は北方が分裂してる間に南方を統一し、
分裂勢力の弱い方と組んで強い方を撃破せよだから、
同盟勢力が長江防衛ラインの外か内かの違いはあっても
基本戦略は最後まで一貫してるんだよな
儒教というのは漢王朝を存続させる論理でもあった。劉邦はえらい。
だから曹操には停滞した旧王朝にとってかわるには新しい論理が必要だったし、彼は儒教的倫理観をしばしば無視するような、打ち壊すような行動をとった。とらざるを得なかった。
もし曹操が途半ばにして倒れていたら董卓クラスの姦雄として記録されたに違いない。
諸葛亮だってそうだろう。
だが、諸葛亮は個人的には儒教的倫理にばりばりにのっとった行動をとった。
託弧、出師の表。。
やっぱ儒教的価値観どっぷり男であったのである。
そしてそれは後世におおいに評価されて、多くの婦女子を胸きゅんさせているのだ。
本望だろうか?諸葛亮。
いや、やっぱ実務家としてホクバツを成し遂げられなかったことが悔しくて悔しくならないに違いない。
かれは管仲の崇拝者なんだから。
>>228 託弧や出師の表はただ単純に儒教的倫理に則ったというわけではないだろ
影響は有っただろうが、これらを儒教的に優れた行動だ、と単純に言い切るのは無理じゃあないか?
歴史にうっかり名を残すと大変だにゃー
あの曹操も生涯儒学を勉強し続けたらしいね
あの時代は儒者にあらずんば名士にあらずだよ
>>216 >趙雲
実際の蜀漢で中護軍がどの程度の権力を持っていたのか不明なのでなんともだけどね。
ただ、趙雲の評から見ると、劉備死後の状況で厳正な旧臣に諸将を監護させたかったのだろうとは言える。
因密議曰
「今漢室傾危、四方雲擾、孤承父兄余業、思有桓文之功。
君既恵顧、何以佐之?」
粛対曰
「昔高帝区区欲尊事義帝而不獲者、以項羽為害也。
今之曹操、猶昔項羽、将軍何由得為桓文乎?
粛窃料之、漢室不可復興、曹操不可卒除。
為将軍計、惟有鼎足江東、以観天下之釁。
規模如此、亦自無嫌。何者?
北方誠多務也。因其多務、剿除黄祖、進伐劉表、竟長江所極、拠而有之、
然後建号帝王以図天下、此高帝之業也」
権曰「今尽力一方、冀以輔漢耳、此言非所及也」
劉表死。肅進説曰、
「夫荊楚与国隣接、水流順北、外帯江漢、内阻山陵、
有金城之固、沃野万里、士民殷富。
若拠而有之、此帝王之資也。
今表新亡、二子素不輯睦、軍中諸将、各有彼此。
加劉備天下梟雄、与操有隙、寄寓於表、表悪其能而不能用也。
若備与彼協心、上下斉同、則宜撫安、与結盟好。
如有離違、宜別図之、以済大事。
粛請得奉命吊表二子、並慰労其軍中用事者、
及説備使撫表衆、同心一意、共治曹操、備必喜而従命。
如其克諧、天下可定也。今不速往、恐為操所先」
権即遣粛行。
因屏人曰
「漢室傾頽、奸臣窃命、主上蒙塵。
孤不度徳量力、欲信大義於天下、而智術浅短、遂用猖獗、至於今日。
然志猶未已、君謂計将安出?」
亮答曰
「自董卓已来、豪傑並起、跨州連郡者不可勝数。
曹操比於袁紹、則名微而衆寡、然操遂能克紹、以弱為強者、非惟天時、抑亦人謀也。
今操已擁百万之衆、挟天子而令諸侯、此誠不可与争鋒。
孫権拠有江東、已暦三世、国険而民附、賢能為之用、此可以為援而不可図也。
荊州北拠漢沔、利尽南海、東連呉会、西通巴蜀、此用武之国、
而其主不能守、此殆天所以資将軍、将軍豈有意乎?
益州険塞、沃野千里、天府之土、高祖因之以成帝業。
劉璋闇弱、張魯在北、民殷国富而不知存恤、智能之士思得明君。
将軍既帝室之胄、信義著於四海、総覧英雄、思賢如渇。
若跨有荊益、保其岩阻、西和諸戎、南撫夷越、外結好孫權、内修政理。
天下有変、則命一上将将荊州之軍以向宛洛、
将軍身率益州之衆出於秦川、
百姓孰敢不箪食壺漿以迎将軍者乎?
誠如是、則覇業可成、漢室可与矣」
先主曰「善!」
235 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 02:01:47 0
何でそんな一問にこだわるの?
他の問題はないの?
確かに他の問題も見たいな
237 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 10:56:21 0
>>223 >>232 確かに魏延が何故漢中総督に抜擢された不明なんだよね。
戦功・信頼なら張飛の方が上なんだし。諸葛亮を初めとして荊州系名士への
牽制の臭いはするな。漢中総督には張飛がなるという世評も、結局は名士の
認識だったのだろう。
劉備が漢中王になると、尚書令は法正、荊州総督は関羽、漢中総督は魏延と
諸葛亮中心の荊州名士に対する牽制体制ができている。関羽の失敗、法正の
死去、劉備の東征の敗北により、諸葛亮を中心として荊州名士が政権掌握を
したという流れだな。
238 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 11:00:56 0
法正のような私怨で処刑するような卑劣漢に依存する劉備。
239 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 12:05:25 0
私怨は小事。法正の才能と比べることもできない。
240 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 12:11:45 0
一級の問題は他だと
「司馬懿の権力掌握を主に軍事の観点から論ぜよ」
「曹操の人材登用を漢の制度を踏まえて論ぜよ」
確かこんな感じ。
241 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 12:17:13 0
>>曹操の人材登用を漢の制度を踏まえて論ぜよ
これはおれでもこたえられるな。
曹操の軍師・文官は孝廉が多いんだよな
曹操も孝廉だしな
曹操の2大軍師の荀イクと荀攸も孝廉
曹操政権は儒教政権
でも、答えるのならやっば
曹操「兄よめを盗むようなやつでも才能さえあれば俺に推薦しろ」ってことをかかなきゃならないんでは?
曹丕の人材採用法はそうではなかったらしいけど。
渡辺先生は名士論者だから
曹操「兄嫁を盗むような奴でも才能さえあれば登用する。でも政権中枢は親族と名士で固める」
公孫サン「豪族と名士は嫌い。商人最高!!!」
>>243 結局そういう事言っといて、曹操は豪族、名士、親族で固めたって事が重要なんだろ
むしろ曹丕の方が曹操よりもフリーハンドで抜擢とかしてるが
これは皇帝と王までにしかならなかった男の差だな
自分が頂点でないと大鉈は振るいにくい
まあ、漢の政治史の本を読んでると、どうやら孝廉がどのような制度であったかいついては意見が分かれていて、
必ずしも儒教重視ばかりの採用法とは言えないという説も多いようだから、
・後漢中期以降の太守の腐敗による豪族との癒着採用の増加
・他薦という制度の限界
という背景があって、その解決のために
・「中央による直接採用方式&自薦も認める」という形の求賢令の発布
を行った。
ってことを書ければいいんじゃないかと。
後漢中期に腐敗が進んでいたことは、能力重視採用の建議がその頃既に行われていることなどを傍証として添えればなおよし。
あと、他薦については、他薦だと明らかに登用し得ない人間は排除されるが、逆に声望がある奴以外の登用は難しい。
そして郷里に自派閥を大きく形成出来る人間というのは、概ね豪族≒名士に他ならないってことを書ければいいんじゃないかな。
>>247 >・「中央(曹操)による直接採用方式&自薦も認める」という形の求賢令の発布
だね。
曹操が能力を重視したのは多分確かだろうけど、
「俺が有能と認めた奴を俺の部下に採用する。朝廷にはやらん」という、
後漢朝廷の登用制度を排除して曹氏の基盤を固めるための布令であったことは外せない。
だから「俺が有能と認めた奴」の中には、「曹操政権に賛同する名士」が多分に含まれるし、
田疇のような名士を丞相府に迎えようとしつこく粘った。
名士は儒学に詳しい人であって豪族じゃないよ
だから家が金持ちじゃなかった名士もいるよ
ただ豪族は金があるから高い本を買えるから有利
当時は印刷技術が未熟だったから本は高かった
袁紹・孫権政権は仲良しクラブ
251 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 13:50:50 0
典韋・許チョなんかも登用っていうんか?
用心棒だもんな。
>>248 漢との切り離しは意図としてあるだろうね。
来るべき再中央集権化のために既存派閥でない人間を集めることは意義があったのだろう。
まあ、結局穎川閥の影響をそこまで排除しきれてなかったっぽいけど。
排除する気があったか無かったかは別としてもね。
>>249 後漢末の状況としてはおそらくニアリーイコールでおおよそ間違いないよ。
初期あたりだと楊氏が台頭したり、袁氏が台頭したりと純粋な学者だった家が勃興しちゃってるし。
鄭玄みたいな前漢ではそこそこだったけど後漢じゃ落ちぶれて貧乏みたいな特異例もいるにはいるけど。
あと印刷技術が未熟というか、むしろ印刷という概念が無いから写本だったので、人力だから高いのよね。
地方でも書館とかには経典の写本置いてたろうし、一番流通してたのはそっからまた写本したものだろうけど。
鄭玄は遠い先祖が尚書僕射だったけど、本人は貧乏なんだっけ
なるほど。
徐庶がその能力のわりに出世がかぎられていた?のはそういうことなのかも。
256 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 14:10:57 0
ていげんは 名声のみは高かりし。という類の人間か。
仕事も神だろ
曹操よりVIPだぞ
李典は金持ちなのに名士扱いされなかったみたいだね
名声は糜竺・糜芳のほうが上みたいだね
貧乏名士といえばケ艾
>>255 いや何の後ろ盾もなく降伏も赤壁直前な男が最終的に御史中丞まで行ったってのは
超が付く大出世だぞ
261 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 16:51:22 0
>>259 貧乏名士では出世bPかな?
功績も抜群だし。
ただ非業の死を遂げたけどね・・・・・・・
姜維も大した家柄ではないよね。
それが敵国だった蜀の大将軍にもなった。
t竊qヒ{コmqテqヒqニq�qトvq「qィ
y uァq虔z?~ヌtゥ|Fqツq蚋鑷ツuYv(uュ|8qァq蛉ェq諄ヒィqソqサqシqュqテ
{コ{ロq柢ソqツqハx駿�qテqヒqニq�qシq?
すまんすまん
どうもホットゾヌ2の仕様かなんかで頭にちょっと難しい漢字使うと文字化け起すみたいだ
というわけでこっちが本文
ケ艾は名士ではないと思うが
早期から司馬懿に引き立てられて下級官吏から成り上がっただけで
名望あっての出世ではないだろ
ケ艾は司馬懿に会う前に上計吏に推挙されてるからなあ
曹丕は孝廉と上計吏を並び評してるから、エリート登竜門の一つなんだろう
司馬懿や姜維は20代で上計掾に推挙されてるんだよなあ
265 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 18:51:23 0
そもそも三国志検定って文科省の認可とか受けてんの?
一般人が勝手に検定とか名乗ってやってる訳?
266 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 18:53:49 0
賈逵なんか家は代々名家というが、親父が死ぬと極貧生活。
名士の定義にもよるんだろうが、やはり名士と豪族は乖離があるんじゃないか。
名士≒儒者
豪族≠名士
って事なんでは?
地盤、鞄、人手=豪族
評判、人格、学問、看板=名士
269 :
世界@名無史さん:2009/08/16(日) 19:43:49 0
豪族=代議士
名士=キャリア官僚
>>261 姜維の父は郡の功曹だったし、
姜維自身も若くして州郡の官吏を歴任してるから、
それなりの家柄だったと思う。
豪族=地主
名士=知識人、特に儒学知識人
考廉制度は親が早死してると名家の子でも出世できないシステム
袁紹は叔父さんに特別に気を回してくれたのが大きかった
曹洪や曹仁は親は金持ちだけど、全然名士扱いされてないと思う
曹仁の弟の曹純は学問好きで18歳で黄門侍郎になった名士
袁術は意外にも孝廉に推挙された名士
黄蓋は貧乏だったみたいだけど、学問に励み孝廉に推挙された名士
孝廉=名士ってのはハードルが低いと思うが
一般から見ればエリート中のエリートの地位だけどさ
月旦なんかの人物評の評価が世間で評判になった人物が名士なんじゃねーの
名士と言ってもピンからキリまで色々な人がいるだろ
月旦なんかの人物評の評価が高い人物が孝廉とかの郷挙里選で推挙され易くなるのは言うまでもないな
名士とは、知識人に名声が高い人だよ
金が必要かどうかはともかく、孝廉に推挙されて高位高官に就けば金持ちになれるわけだ
金持ち名士の例としては、曹純は親の代から数百人の食客がいて、曹純の代になっても
学問好きの曹純を慕って数多くの知識人が集まってきたという大名士。
曹純は富豪・豪族で学問好きでパトロンだったろうけど
本人が「大」名士というほど評価されていたかな?
郷土や周辺の人間には知名人だったろうけど、
「大名士」と呼ぶには初対面の高官や大豪族がすっとんで出迎えたり
自分で訪問して礼を払うくらいでないとさびしい
曹純は親の遺産込みの大名士でしょうね
でも将軍や参謀としても有能だったみたいだから、評判倒れではないでしょう
荀イクも親族の遺産の影響は大きいでしょうけど、人を見る目は驚異的ですね
王粲や孔融なんかは本人の才能が高く評価されてるとは思いますが、それでも先祖の名声も小さくはないでしょうね
281 :
世界@名無史さん:2009/08/18(火) 20:42:53 0
名士間の諸葛亮の人物評価はSランクだったんだな。
確かにその通りだった。
>>281 隠棲中は微妙だろう
内輪の人間しか評価してない
諸葛亮の評価が上がるのはむしろ劉備に付いて赤壁で勝利を収めてからに見える
283 :
世界@名無史さん:2009/08/18(火) 21:13:05 0
まあ、幾ら名声があっても、実際に仕事しなくては評価上がらないよな。
敗残の劉備陣営を孫権との同盟を成立させた外交手腕、赤壁後の素早い荊州
南部四郡の占拠が評価を上げたのだろう。
名士に反抗的だった関羽も諸葛亮には一目置いていたみたいだ。
馬超来降時に、諸葛亮からの手紙で大喜びしたとろを見ると、諸葛亮の評価
は関羽にとってもポイント高かったのだろう。関羽ですら、流浪の劉備陣営
を拠点確保までもっていった諸葛亮は評価しない訳にはいかなかったのだろ
う。
284 :
世界@名無史さん:2009/08/19(水) 21:15:06 O
陳到は名士ですか?
陳到釣りの人おひさしぶり
劉備一派の荊州領有については諸葛亮と魯粛の間でしかわからないいきさつ、取り決めが多くあったわけでね。
287 :
世界@名無史さん:2009/08/19(水) 21:36:05 0
親孝行だったりすると名士になっちゃうわけだから、いわゆる芸能人みたいなもんだね。
陳到て名前からも徐州出身ってすぐにわかるよね
289 :
世界@名無史さん:2009/08/19(水) 22:56:58 O
なになに?
ロメイシの話題?
290 :
世界@名無史さん:2009/08/19(水) 23:09:51 0
いいえ。ケツメイシのはなし
>>290 当時のメイシはケツでも交流してたって話だな
色々検討した結果、劉備は中山靖王劉勝の子孫ではないと思うようになった
劉備を持ち上げるために蜀の公式見解として劉勝の子孫設定したんではなかろうか
蜀漢とは別のルートで劉備の出自を知っていた魏(幽州を支配しているので)で
書かれた魏書を参照し注を加えた裴松之の史家としての良心を信じる限り、
魏もまた劉備を中山王の末裔と認めていたことになる。
魏書は現在でこそ散逸しているが、唐代まで残存しており、
裴松之注三国志と引き比べて無数の史家の批判に晒されたものであるので、
二書の矛盾を裴松之が無視したのならばどこかの段階で誰かが指摘した記録が
残るのが自然。
それが無い限り、少なくとも文献考証上は「劉備は中山靖王劉勝の子孫である」として良い。
>>293 魏は認めとらんぞ?
典略では臨邑侯と言ってるし
>>294 あれが魏の公式見解かどうかはわからんぞ。
典略はあくまでも魚豢の私的な著なわけだし。
直接人づてに聞いた情報を全部乗っけてたせいで、
かなり雑多であったという評価もある書なわけで。
まあ、どっちにせよ漢の末流という評価は変わらんけどな。
前漢末で10万人になったらしいからな、宗室。
戦国期の希少さを鑑みるに、劉なんていう姓な時点で
99.99%漢の宗室の子孫だろうが。
臨邑侯ならむしろ漢の嫡流により近いし。
>>295 蜀の正式発表である中山靖王劉勝の子孫というのが後付け設定であるってのは君も一理あると思ってくれるわけだ?
>>296 なんでそんな俺個人に絡むような言い方する必要があるん?
もしかして293と混同されてる?別人なんだが。
というか、俺は血筋に関しては不可知だと思ってる。
公式見解については不明であるということと、
典略自体成立時期の確定されていない本で、
その本の記述をもとに後付けかどうか判別することは難しいだろう。
後半は劉姓が事実なら漢室の流れの可能性が極めて高いというだけの話。
というか別の結論持ってる人間が紛れ込んだからややこしくなったんだな。
それはすまんかった。
>>297 漢氏であるかないかは割りとどうでもいいことなのさ
問題なのは「何故劉備が中山靖王の子孫を名乗ったか」ってところなもんで
箔が全くない、子沢山王の子孫なんて名乗る価値がどこにあったんだろう、というのが重要な話だと思うんだ
子供が多いから名乗ってもバレないからじゃないの?
>>299 典略を信用するなら後漢の臨邑侯という存在がいるのに
わざわざ子供が多くてバレにくいというだけの王の子孫を名乗るのは動機が弱過ぎないか?
301 :
世界@名無史さん:2009/08/20(木) 17:13:54 0
劉でもただの下っ端部将がいるようだが。
そら前漢の時点ですら、宗室全員官僚にしようとしてもポストが足りないレベルの数なのに、
さらに200年たってたらどんだけ宗室いると思ってるのよ。
官吏って何人くらいいたっけ、どう多めに見積もっても百万は無いよね。
>295
>あれが魏の公式見解かどうかはわからんぞ。
>典略はあくまでも魚豢の私的な著なわけだし。
ああ、確かにそれはそうだね。
ただ、魏略(の間違いだった)を読んだ裴松之が
本伝「元狩六年封タク縣陸城亭侯.坐酎金失侯,因家焉.」の後に注して
「典略曰:備本臨邑侯枝屬也.」
と続けたからには、両者を肯定して読めば、
「劉貞の子孫は陸城亭侯を失ったのち何代かして功績を挙げ、臨邑侯に封じられた。
劉備の系譜は本はその臨邑侯の(次子以下だったなどしての)分かれである」
ということになる。
タク郡にはそれなりの規模の(何しろ県令を輩出した)劉氏一族が残存していたと
考えられるのだから、劉備が嘘を付けば即座にその一族や周辺が否定する。
魏略他、魏系列の各種史書に、絶好の反蜀材料になるそのリアクションが記載されていない
──正確には、各史書を読んだ史家がそのような記述の存在を匂わせていないというのは、
文献考証上は「劉備は中山靖王劉勝の子孫である」として良い、有力な根拠になる。
残された「リアクション」がたまたま全て散逸した可能性も無いではないけどね。
>>304 いや後漢で名前残ってる臨邑侯って3人くらいしかおらん上に、劉勝の子孫だと言う人はいなかったような
もし功績があってそういう褒美があればちゃんと記録残るだろ
>>305 そりゃそうさ
後漢書みたいな大きな史書では全官爵の封廃を網羅表記なんて出来はしないから
紀伝体はそういう性質の史書の形式ではない。
臨邑侯では部分的に歴史の動きに関わった三人だけが名を残したにすぎない。
真定王楊の弟で謀反してそこで断絶と判っている劉讓は一代限りで確定だろうけど、
劉伯升の孫の劉複の子孫がどこまで続いたか、劉トウジョという尚書がその直系なのか、
等何もわからないんだ(どこかに明記があったら御免だけど)。
孔子などの子孫が度々封じ直されているように、この時代の爵位は頻繁に断絶するし、
特例を除いて殆どそれは史書に残らない。
劉備が陸城亭侯の裔かつ臨邑侯の分れでも別に不思議では無いだろう。
尚書じゃなかった。校書郎だなw 全然違うわ
>>306 漢書は表で「全官爵の封廃を網羅表記」やってたんだけど、後漢書にはないからな
>>306 劉複の子孫は直系だろうと傍系だろうとそいつらが陸城侯の子孫になる可能性は0だから考慮しなくていいだろうけどな
皇帝に擁立されそうになった合肥侯みたいに正体不明の奴もいるしなあ
>>309 そうなのかな?
一度封爵された侯は、何度断絶しても、復興の際は元の血筋の人間が探し出されて封じられる、
と、いうのが漢の慣習として成立していたのなら、「陸城亭侯の末裔が臨邑侯になることは有り得ない」ことになるけど。
そういうのは孔子とか蕭何のような特例なんじゃないだろうか。
まったく違う血筋の人間がたまたま空いている侯家に封じられるということはあるはずじゃないかな。
末期のことだから常例にはし難いが、すぐ思いつく例として王允の空きポストに呂布が温侯に封じられているわけで。
>>306 一応臨邑侯の劉トウジョは北海靖王劉興の子復のさらに子として顔を出しているので
直系かどうかはおいといて爵位を継いだというのはまあ、あまり無理はない話しだな
永寧年間に色々やってたようだし120年頃も後漢の臨邑侯ってのは断絶してなかったようだよ
やはり陸城亭侯の末裔が臨邑侯になるってのは無理がある
>>308 漢書の表にあるのは侯王とその王子侯と外戚まででない?
王子侯の家がその後どうなったかまでは載ってない
>>312 確かに明記があった。御免w
でも復が封じられたのは建武30年(西暦54年)、その子が
永寧年間(120-121)に活躍するというのはちょっとおかしくない?
生まれて間もなく封じられて晩年の子ならありえるだろうけど…。
まあしかし、少なくとも復の子孫ではあろうから、トウジョの活躍期間と
劉備の祖父の活躍期間は被るわけで、劉雄が臨邑侯のごく近い係累ならば
流石に蜀志に残らないのはおかしい。
うん。この論は無理があったようだ。御免。
>>313 支族と言われるだけあって結構近いんじゃないかな
ただ、劉備って故地を抑えてた魏と敵対関係だったわけで
劉勝の子孫で臨邑侯の一族ではないっていう公式見解は身内に対する決別とともに
累を及ぼさないようにする最低限の配慮だったのではなかろうかね
光武帝は中山靖王の弟、長沙王の子孫
つまり、劉備は中山靖王の子孫だから血縁では長沙王の子孫と同格以上、ということになる
そういう意味では、劉氏の中でもあえて光武帝より前に遡る家系を選んで名乗った可能性はある
>>313 断絶後は書いてないけど断絶までは継承の年や名称が全て載ってる
>>314 そういう配慮って当時必要だったのだろうか。
蜀や呉の臣は平気で魏の人間と文通してるし。
夷三族の範疇は逃がさなきゃ、くらいの配慮はあっただろうけど、
宗族に累が及ぶということはあったのかどうか。
劉備は皇帝まで名乗ったのだから、他の人間とは扱いが違うというのは
ありえる話だけど…
318 :
世界@名無史さん:2009/08/22(土) 11:06:23 0
蜀の官位の序列はどうなっているのですか?
特に、将軍位は魏の官制に当てはめると昇進だか降格だかわかりません。
あれって、どう解釈すればよいのですか?
劉氏の末裔なんてあらゆるところにいたのだよ。
「劉さ〜ん!」って叫んだら4,5人が振り返るような世界だったのだよ
でも、劉備の家の周りは毛さんがいっぱいだったよ
321 :
世界@名無史さん:2009/08/22(土) 16:07:05 0
毛さんってあんまり有名人いないよな?
毛家の怪
毛沢東
>>318 ぶっちゃけ、何も判らない。
漢では、一般の諸将軍・列将軍は皆二千石だったらしい、ということだけ。
逆に言えば普通の将軍位での移動は席次の上昇というだけで、
階級の上昇ではないのだろう、と推測は付く。
あとは上奏文の順序や昇進順位で想像するだけ。
一応、
・大将軍
・驃騎、車騎、衛将軍
・諸大将軍(中でも輔漢や四鎮は高いっぽい)
・四方将軍
・諸将軍(中でも四鎮は高いっぽい)
とは言えるだろう。
325 :
世界@名無史さん:2009/08/24(月) 14:15:58 0
どうして皇帝の子孫ばかりがそんなに激増?
免税されたの?
>>325 なんで免税と子孫が増えるのが関係あると思ったの?
徭役の免除特権や処罰時に軽減されうる特権があった
これらのお陰で他の者よりも劉氏は生き延びやすく、勢力を増やしやすかった
この時代、豪族と庶民の間に明確な壁は無い。財産を失えばあっさり没落する。
劉姓で侯王の子孫となれば豪族として生き残る確率が高くなっただろう。
別に劉姓が数人に一人というほど大増殖したわけではないだろうが、
漢以前の劉氏が稀な姓だったことを考えれば、
後漢末に劉氏を名乗る官吏や豪族のあらかたは、元をたどれば侯や王に封じられて
全国に散らばった劉邦の裔である率が高いとみるのが自然だろう。
勿論、系譜を伝えるどこかの時点で詐称するようなことは大いに有り得る。
逆に、劉備の代でわざわざ詐称するような希少価値のある肩書きでは、
もはや無かったと言えるだろう。
ただし、中央政府の宗正府に皇族の戸籍があるから、適当に劉氏を名乗ったところで特権を得られたかというとそういうわけでもない
330 :
世界@名無史さん:2009/08/25(火) 03:43:58 0
劉備も年貢、兵役を取られていたのだろうか?
331 :
世界@名無史さん:2009/08/25(火) 03:44:46 0
中央政府の宗正府に劉備の父親までは登録されていたのですか?
332 :
世界@名無史さん:2009/08/25(火) 03:47:40 0
>豪族と庶民の間に明確な壁は無い
いつの時代がもっとも壁があったのですか?
明清?
>>332 むしろそれは世界史質問スレの方が適切だな。
334 :
世界@名無史さん:2009/08/25(火) 14:22:42 0
劉備の父は県令だったから、いちおう公認の宗親。
9月まで我慢だ9月まで我慢だ9月まで我慢だ9月まで我慢だ9月まで我慢だ
突っ込まないぞ突っ込まないぞ突っ込まないぞ突っ込まないぞ突っ込まないぞ
>>334 宗室でなくても、県令にはなれるんだが。
あと、県令だったのは劉備の父ではなくて祖父な。
>>334 県令はごく一般的な官位であって爵位ではないぞ。
曹操が洛陽北部尉の次についたのは頓丘県令だ。
>>335 そのレスに1レス使うくらいなら突っ込んだ方がマシに思えるが。
お前ら釣られ放題だな
340 :
世界@名無史さん:2009/08/26(水) 00:26:34 0
県令に任命された時点で、素性=皇族と登録されているだろうということ。
>>340 「皇族でない劉氏」だとしても県令にはなれるさ
皇族じゃなくたって県令にみんななってるだろ
342 :
世界@名無史さん:2009/08/26(水) 01:01:04 0
科挙の時代とちがうお。
>>342 何が言いたいのか分からないので日本語で頼む。
344 :
世界@名無史さん:2009/08/26(水) 01:43:18 0
ぶっちゃけ皇族じゃない劉氏ってそんないないだろ?
劉邦以前の劉姓とかどんだけいたんだって話だよ。
>>338 あれは
>>334に向けて言ってんじゃないよ。
夏厨にいちいち釣られんなよって、おまいらに言ってんだよ。
>>344 皇族じゃない劉氏なんてワンサカいるが
賊が自称したりもするしな
347 :
世界@名無史さん:2009/08/26(水) 10:47:46 0
>>324 姜維の昇進例をみると、
奉義将軍→征南将軍→輔漢将軍→鎮西大将軍→衛将軍→大将軍
どうも蜀では四征将軍より輔漢将軍の方が偉いらしい。
宗預の例も見ると、
後将軍→征西大将軍→鎮軍大将軍。
どうやら、四方将軍より四征大将軍の方が偉く、更に鎮軍大将軍は偉いら
しい。どうも四征よりも鎮軍の方が上ということか?
趙雲の例だと、
征南将軍→鎮東将軍→鎮軍将軍(降格)。
四鎮将軍は鎮軍より上、四征将軍は四鎮より下とわかる。
黄忠は征西将軍→後将軍。
もっとも、黄忠が征西将軍になったのは、まだ劉備が漢の左将軍の時。
劉備以上の官位な訳がないから、四方将軍は確実に四征将軍より上だね。
輔匡なんかは、四鎮将軍から四方将軍になっているので、四方将軍は四鎮将軍
よりも上。北伐直前で、蜀のbQの李厳が前将軍だったので、趙雲等の官位が
李厳より上の訳がない。
雑号<四征<鎮軍<四鎮<四方<四征大<鎮軍大<四鎮大<衛・車騎・票騎<大
こんな序列なのだろうか?
輔国や輔漢がどこに位置するかはよくわからん。
>>347 趙雲は鎮東将軍から鎮軍将軍に降格してるんじゃないか?
曹操が黄巾の乱後、斉南の相になってるけど、この相っていう役職はランクとしてはどの程度?
郡太守と同じくらい?
続志によると太守二千石、相二千石で同等だね。
>>349 基本的に同格だが、太守より相のほうが支配下の県が少ないので太守>相という序列になっている
おお、即レスサンクス。
曹操はこの後東郡太守→西園八校尉で
孫堅が同時期に、別部司馬→議郎→長沙太守・鳥程侯
で、功績もあるけど比較すれば出自不肖な孫堅は異例とも言える大出世っぽい?
県令とか田舎役人だろ
今の日本でも市役所行けば同じ名字のヤツが多いのと同じぐらいの地位
「令」という職は、秩石1000-600。階級では公・卿・大夫・士・庶の三番目大夫に当たり、
県令他、尚書令、武庫令、大楽令のような九卿内局の長や丞(次官)、刺史に相当する地位。
断代史書に名が残るほどではないが、かなりの高官だよ。
勅任市長、省庁事務次官、局長クラスといえば判りやすいか。
>>353 勅任官だよ
354も言ってるが単なる田舎役人ではない
それは「県長」
劉備は筵を作って生業としてたって事で貧しい暮らしをしてたと思われがちだが
実は筵を大量に生産していた大富豪であった
>>355 いや県長も奏任官であって、後漢では本籍地忌避の原則が強固に守られており、決して田舎役人ではないが…
県令は1000-600石の大夫、県長は300-400石の士、とはっきり階級が別れているのは面白いけどね。
359 :
世界@名無史さん:2009/08/27(木) 03:41:47 0
「筵」といっても、当時は富裕な家にしか敷いていなかったのでは?
一般農民は土間に藁だけ。
360 :
世界@名無史さん:2009/08/27(木) 03:44:07 0
県長になった時点で本籍・族譜が提出されていたであろうから、宗親の劉姓と記録されていたのであろう。賄賂でニセ系図を公認してもらった可能性もあると思うが。
361 :
世界@名無史さん:2009/08/27(木) 03:47:30 0
>斉南の相
封建された王侯の領地「国」=王侯自身は禄を受け取るだけで行政権は奪われていたので、
その「国」の「宰相」が、実質的な知事ということでしたか?
>>360 任官したら族譜を提出するという慣習はこの時代には無い。
族譜のようにいくらでも捏造できるもんなんか信用できないし。
だから、自称曹参の子孫の曹操、
自称張良の子孫の張超や張皓が高官に就くことができた。
張超は集解に触れられてるように張耳の子孫なんじゃないかな。
364 :
世界@名無史さん:2009/08/27(木) 15:51:18 0
中国で確かな族譜は孔子一族だけです!
ああいえば孔融
366 :
世界@名無史さん:2009/08/29(土) 19:08:42 0
>>347 昇進例だけど、一概に昇進ばかりでもなくて
横滑りもあるんじゃないか?
黄忠の例は、夏侯淵とも関係あると思う
朝廷(曹操)から授かった印綬をそのまま黄忠に与えたとも思われる。
となると、この事例はそのまま蜀の官制には当てはめてしまって良いのかどうか。
あと劉備は劉璋の推薦で行大司馬にもなってたと思う。
後漢官と漢中王の官と蜀漢の官は分けないとな
黄忠の征西将軍は由緒正しい漢官だが、後将軍は漢中王劉備に私属する官。
序列では上がったかどうか怪しい。
まあ、蜀漢でも後漢を継いで、四方>四鎮征雑号 なのは前将軍李厳と周囲を比べれば確定的だと思うけど。
>>366 行大司馬だけど、これは官位序列は左将軍のままで大司馬の事を兼領する、という意味だろうから
その下に居る将軍は皆雑号格でいいだろう
369 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:38:17 0
>>367 古参とはいえ、趙雲・魏延を2の李厳より官位を上にするわけにはいかんよな。
法正・劉巴が逝去すると、諸葛亮と2の李厳とは結構格差があるよ。李厳の官位が
上がらないと、武人である趙雲・魏延の官位は上がらない。
趙雲が劉備崩御までは雑号に留まっていたのが、中護軍・征南将軍、鎮東将軍と魏延
と同等まで官位を進めている。魏延は劉備即位時の鎮北将軍のまま10年くらいは官位
据え置き。同じ古参の将軍でも、劉備と諸葛亮では扱いが違うみたいだな。
諸葛亮、馬謖、蒋琬、費い。。
こいつら一派の政権だから
371 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 12:30:17 0
王平みたく異例の大出世する人もいるな。
名士と摩擦を起こさない趙雲・王平とかは出生するようになり、
魏延みたく、名士の楊義と喧嘩が絶えない人は抑圧気味となる。
それでも、公平な諸葛亮は魏延を厚遇はしている。だが、ほとんど
単独で指揮を執らせることはないけどね。
最近まで漢中で祠をたてて祀られていた魏エン。。
誇り高くも人民に慕われる英傑であったよ。
惜しくらく。先主亡き後はその才を用いる人を得ず。。
あぁ、我、彼の悲運を惜しまん。
諸葛亮というひとは。
天下三分の計といいホクバツの成り行きといい。
積極的に見える消極策の人 なんだよな。
374 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 16:48:42 0
楊儀が名士って・・・
文官は皆名士か?
375 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:24:03 O
>>374 半分同意。
ただ楊儀は兄の楊慮や一族の楊ギョウの例もある。
それでも本人は狷介偏狭で仲間がいなかったんだから
名士論で片付けるのには違和感があるな。
376 :
世界@名無史さん:2009/08/30(日) 21:40:15 0
楊儀は偏狭狷介な性格だったけど、
仲間がいないという訳でもなかったと思うよ。
諸葛亮の後継者にはなれなかったというだけ。
五丈原から撤退では、諸葛亮は楊儀に撤退の支持を出しているし、
魏延との抗争でも、蒋苑や薫允は楊儀を支持している。
楊儀は低レベルの名士という位置じゃない?
377 :
世界@名無史さん:2009/08/30(日) 22:05:48 0
プチ名士?
>>374 楊儀の職務は諸葛亮の事務方仕事をほぼ完全に統括するものだし
一介の小役人レベルではないぞ
名士と官吏の存在は完全に並立するよ
名士かつ官吏もいるし、官吏だが名士ではない人間もいる。官吏ではない名士も当然いる。
武帝などは皇帝集権のために法を峻厳に行使し大臣・豪族の力を殺ぐ官吏を重んじ、
彼らは酷吏の範疇に含まれた。
このような法家の徒の大半は、自己の独立的名声に拠って立つ名士の定義と相反する。
380 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 06:33:26 0
楊儀は一応は学問は積んでいたのでは?
晩節を全うしなかったので、名声はなかったかもしれないけど・・・・
李厳なんかも、在職中から性格的に問題あったけど、一応名士なんだし、
法正なんかも、名士というには性格的に問題ありでしょう。
名士の定義なんて、後の研究者がつけたもの。
当時はもっと漠然としたものだったのでは?
だいたい名声なんかも、根拠不明なところもあるし。
381 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 09:43:15 0
そもそも何がどうなったら名士なの?
そこんとこはっきりさせないとな。
郷挙里選の時代、一般に評判の高い人物が選挙された
訳だし、そいつらは皆名士か?
名士とは死後に与えられる評価。
芸能人みたいなもんやな。
>>381 主に周囲からの名声・信望によって自分の政治的社交的地位を確保する者。かな。
名声を得る手段には儒教的な教養・品行が当たることが多いが、結構多彩だったりする。
官吏は、国から与えられた地位職責に拠って自分の政治的社交的地位を確保する。
高位を歴任すれば勿論名声が高まり「名士度」はアップするだろうが、
その官吏は、官を辞してもなお、在官時の声望を維持できるだろうか?
出来ないなら彼は「名士」ではない。
勿論これは程度問題で、大抵の官吏は両方の性質を持つだろう。嫌われまくって免職された酷吏だって、
自分の里に帰れば人気と政治的影響力があるかもしれない。
漢代では、三公に辟召されたり皇帝に徴召されるような者ほど、官に就いた期間は短かったりすることがある。
40過ぎで仕官したり、理由を付けては帰郷して私塾を開いたり、でもやっぱり呼び戻されて要職に付けられる。
そういうのが本物の「名士」だろうね。後漢末だと盧植がぴったりこれに当たる。
384 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 19:21:54 0
結局、孝廉・茂才とその候補が名士なんだろ。
孝廉は孝行廉潔が評価基準とされているが、段々有名無実化していくとされているし、数が多い。
「エリート官吏登竜門」くらいの価値だろう。
茂才はもっと数が少ないが、主に州の官吏から有望者を推挙したものとされる。
漢の推挙法にはもっと希少な賢良・方正や辟召・徴召というのがあって、
そのくらいの著名人なら間違いないんでないかな。
×間違いない
○一つの基準になる
387 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 21:13:37 0
けっきょく具体的に何が「仕事」だったの?
388 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 21:51:20 O
陳到は名将ですか?
陸績なんか幼児のころから既に名士。
売りとなる親孝行エピソードがあったから。
名士というのは有名人のこと
>>387 職種の定義じゃないよ。
得意分野は様々。儒教に限定しても易・礼・楽・詩など多くの分野があるし、
その活用にしても、皇帝の顧問、立法、天文、史家、勿論行政を執る者もいる。
当時は経典の解釈を通して行政理論を学んだわけだから。
391 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 22:54:56 0
九品中正法が導入された動機は何よ?
それまでの制度じゃダメだったんだっけ?
ちなみに宮崎氏の本は読んでいない。
8行くらい書いたけど
>>392に先手打たれたから答えなくていいよねw
394 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 23:36:52 0
>>393 書こうよ。宮崎氏の受け売りじゃないんだろ?
受け売りでも別にいいが。
396 :
世界@名無史さん:2009/09/01(火) 00:35:46 0
397 :
世界@名無史さん:2009/09/01(火) 10:39:34 0
「名士」を登用するのは、地域社会の土豪を調略してこちら側に引き付けるためなのが第一のレーゾンデートルです。
政党が地主と町内会長を後援会長にするのと同じことです。
398 :
世界@名無史さん:2009/09/01(火) 12:06:39 0
蜀は九品中正制度ではないだろ?
楊儀が任用された時期は、劉備が荊州を得てからの時期だし、
出世し始めたのは諸葛亮の時代。必ずしも名声によって官吏が
任官していた訳でもない。劉備や諸葛亮といった時の権力者に
評価されるのが出世の条件。どちらかというと、中央集権的な
政治制度じゃないの?
>>398 創業の時代は軍事力を背景に集権体制が取れるから
能力主義は一時のあだ花と言える
特に曹操は後漢の登用制度を排除して自分の所に人材を集めた
漢の任用制度は未だ研究が尽くされていないというか、まだ判ってないこと多いから微妙だけど
ある程度名声に依拠していたことは事実じゃないかな。
じゃあなにを以て判断するのよってことでもあるわけで。
章奏試験なんかは漢明帝の頃には既に例があるらしいけど、それが一般的だったかについては微妙な所だし。
あと九品中正制度についての質問は流れとは別で魏の話じゃないかな。
401 :
世界@名無史さん:2009/09/01(火) 13:04:00 0
蜀で国政に重きを為した人物、
蒋苑、費イ、姜維、董允、ケ芝、馬忠といった人物は、
全て諸葛亮に評価された人物。郷里の評判は任官への足がかり
にはなったと思うけど、その後の出世は実力と劉備や諸葛亮の
評価がものをいったと思う。漢から魏晋への移行期で、しかも
辺境の国だから、中原の魏とは違うのだろう。
>>401 諸葛亮も集権に成功した人間だったからね
丞相権力だけなら曹操並に強かった
だから能力主義(というか俺好み主義)が取れたのだろう
403 :
世界@名無史さん:2009/09/01(火) 13:41:40 0
諸葛亮もっていうより三国時代に集権に成功したのって諸葛亮だけなんじゃね?
劉備はおいておいて曹操もコウユウとかサイエンとかヨウシュウとか殺しまくったけど結局だめで
後を継いだ曹丕はあっさり豪族のいいなりだし。孫権も末期はブチギレ金剛だし。
諸葛亮は大規模な粛清なしで中央集権を実現したのは評価できるな
曹操の参謀や文官は荀イク・荀攸・賈ク・董昭・鍾ヨウ・華歆・王朗・王修・張既が孝廉に推挙されてるから
後漢の登用制度に対する依存度は高いと思うけどな
405 :
世界@名無史さん:2009/09/01(火) 14:38:35 0
諸葛亮は集権化したけど、
対立相手に恨みを買わなかったよな。
左遷された李厳や寥立は自分が悪いと自覚しているし。
公平な政治をすれば、集権化しても反発が出ないのだろうな。
曹操や孫権の集権化は、とても公平な政治とは言えないものがある。
曹操の唯才主義で謳ってるような、人格最低だけど能力一流な人ってどれだけいるの?
董卓、リョフ、リジュ
>>404 魏が中央政府としての役割を漢から引き継いだからだろう。
呉や蜀は地方の役所と豪族を接収し勢力にしている上に、
君主そのものの出自やら官吏としての実務なんかはほとんど意味ないから
法律よりもその時の君主の意志による統治になる。
409 :
世界@名無史さん:2009/09/01(火) 19:00:24 0
潘璋
李カク 郭シ 甘寧
曹操や司馬懿や袁紹も人間性に問題あるだろ
曹操は若い頃は花嫁泥棒、中年時には徐州虐殺、老年になってからは功臣の粛清
>>391 魏に対する忠誠心の高い人物を優遇するためらしい
>>407-144 魏臣が一人もいねえw
実際、唯才の布告が出された前後(ほぼ丞相になった以降)に
曹操が招聘した人物というのは、
王必 王烈 蒋済 王粲 劉広 桓階 王リョウ 楊阜 馬超
のように名士・学識者・高官の子弟・後漢からの官吏が主体だからね
楊阜のように実務有能な者もいて、著名人=名前だけ なんて図式は立たないが、
「不孝者でも有能なら採用する」という建前とはかけ離れているし、
具体的に新制度を制定したというわけではないんだよな
その曹操が漢の官吏だw
416 :
世界@名無史さん:2009/09/01(火) 21:33:09 0
>>404 費偉の時代まで中央集権化は維持されてたもんな。
かといって、皇帝をないがしろにする権臣ではない。
諸葛亮が指名した後継二人も地味だけど良い仕事をしている。
諸葛亮は街亭戦での馬謖抜擢以外の人事は、総じて成功している。
馬謖も命令違反しなければ、大敗まで至らなかったかもしれないね。
>>414-415 曹操みたいなドラ息子でも親の七光りで「孝行廉潔である」と推挙されてしまうのが
後漢後期の登用制度の現実であり、問題点なんだよな。
曹操は結果的に能力があったので出世したが、まともな仕事もせず賄賂と癒着でのさばる
豪族や高官の子弟がわんさといた。
「唯才」と、「品行方正を重んじる後漢制度の否定」と、「名士の排除」というのは微妙に食い違う問題で、
あちらを立てたからこちらが立たない、とは単純に図式化できないんだろう。
宦官が実権握ったことで宦官の意向重視の人事が行われるから
制度そのものがあっても機能しない。
それを考えても一番の皮肉は曹操の存在だよなw
爺さんは宦官として栄華を極め、
孫の曹操は宦官と対立する立場になって色んな経緯で漢の再興を。
その曹操の子が漢の皇帝から禅譲を受ける。
しかし、子孫はクーデターによって国を失う。
曹家の歴史が中国の歴史の一つの象徴になってる。
>>417 >「唯才」と、「品行方正を重んじる後漢制度の否定」と、「名士の排除」というのは微妙に食い違う問題で、
名士や豪族の方が実際に能力が高いということも多かったろうしね。
豪族の方が教育機会や生活的余裕に恵まれている分、必然的に能力が高くなりやすい。
だから腐敗の少ないはずの出来たばかりの曹氏軍事政権においても、必然的に豪族が枢要を占めるケースがほとんど。
まあ、もしかしたらそうなっていった理由の半分はすでに腐敗もあったのかも知れんけど。
本当の貧窮の中から大きな才能が出てくるようになるには、
本当にごく一部の例外を除けば宋代以降レベルの社会が必要なんだろう。
420 :
董卓:2009/09/01(火) 23:02:48 0
董卓は人生の前半期は部下を思いやる気前のいいにーちゃん。後半・末期、即ち
上洛して権力を掌握してからはただの国賊www。曹操は前半は袁紹とグルになって
悪さをしたり花嫁泥棒したりしかも花嫁泥棒を袁紹にしたり十常侍・張譲の屋敷に入って
刀振り回して暴れたり、でも権力を掌握(献帝を擁立)してからはこいつもただの国賊www。
袁術も前半は侠客を気取ってたが権力を掌握(孫策から預かった玉璽を勝手に自分の物にして
皇帝を名乗ってからは)してからはただの国賊wwwいやあこう見ると若い頃ヤンチャしてた
奴は国賊ばっかですなwww。(国賊=漢朝の目線からみたら)
421 :
董卓:2009/09/01(火) 23:17:46 0
418に言う。「漢の再興」と書いてあるが曹操は実質的には魏公・魏王になり
漢のなかに藩国・魏を建国し漢王朝を一層形骸化さした感があるが。しかも赤壁で
勝って呉を滅ぼし天下を統一した暁には皇帝になる気だったから再興よりむしろ
漢を滅ぼす気満々。「わしは周の文王たればよい」とか言ってるし。息子の曹ヒ
が皇帝になって魏を漢に変わる王朝にしたからまさしく「周の文王」の通りだが。
漢の再興を目指してたのは宦官虐殺の時だけ。董卓が権力を握り世が滅茶苦茶に
なってからは「漢の再興」とかどーでもよくなったっぽい気がする。
漢から見たら袁術と曹氏は国賊・叛臣だろうけど
董卓はそこまでいかない。「悪臣」って程度だな
423 :
世界@名無史さん:2009/09/02(水) 21:20:08 0
実は宦官のほうがいちばん学(といっても、繁文褥礼のことだが)があったんじゃね?
424 :
世界@名無史さん:2009/09/02(水) 21:23:08 0
>曹操は前半は袁紹とグルになって花嫁泥棒したり
>袁術は孫策から預かった玉璽を勝手に自分の物にして
つくりばなしでしょ?
425 :
とうたく:2009/09/02(水) 21:30:37 O
正史に書いてあったような気がする。作り話の可能性もあるが。
426 :
世界@名無史さん:2009/09/02(水) 22:21:50 0
袁紹のあざなは本初。で、なぜ本初なのかというと西暦146年が本初元年だから。
本初は1年で終わってるから146年生年と考えて差し支えない。
袁紹の母親は袁家の奴隷だったから、袁家にあって袁紹の立場は微妙だった。
だから母親が死んだときに父親のぶんも足して6年の喪に服している。
だいたい袁紹が21〜26歳の時だと推定される。
全ては袁紹の名声を高めるためのパフォーマンス。
だから嫁盗みをしたとするならば20歳以前ということになるが、
そうなると曹操の年齢が10歳ということになるので、結論としては嫁盗みの話はフィクション。
>>426 いや、嫁盗みをしたとするなら服喪後の遊侠生活をしてたころだろ
袁紹は20代後半、曹操は10代後半ということだ
>>427 >>426は名声を高めるためのパフォーマンスをし始めた服喪以降には
名声が下がる嫁盗みなんかしないはずだと言ってるんだと思うよ
遊侠は当時の一つの社交スタイル
官僚的秩序からは批判されるが
基本的に官吏を排出する豪族・教養層は横の繋がりを尊ぶ
性質を持っている
遊侠生活で名声下がったら劉備とかかなり人望が無いだろうな。
遊侠は筋が通ったライトな不良みたいな感じだろうか
乱世では人気でそうだね
433 :
世界@名無史さん:2009/09/03(木) 20:02:07 O
嫁盗みから何から遊侠の一語で一緒くたにして良いのだろうか?
袁紹の遊侠に嫁盗みは含まれないという話
相変わらず、あー言えばこー言う。こー言えばあー言うってな感じのスレだね。
相手と違う考えを主張し優越感を浸るのは、前も今も同じだな。
中身の無い一行疑問文レスしかしないからつまらない返事しか返ってこないんだよ
了解ニダ
438 :
世界@名無史さん:2009/09/04(金) 12:19:14 0
世説新語はデマ・プロパガンダ集。
日本にきた侠は 任侠道 とかなんかうさんくささの混じった美学?になっちまったけど。
儒教の中に侠は大きなウエイトを占めている。
いや中国人の行動原理の中に、というべきか。
だから史記にわざわざ侠で名をなした市井人の列伝を建てたのだった。
遊侠というとなんだかなんだかだけど。
侠と言う部分で名をあげていた劉備、関羽の二人は庶民代表みたいなおもむきもあったんだろう。
主婦代表みたいな。
侠が主婦だったら袁紹も袁術も董卓も孫権も主婦ですね
>>440
そうそう。
そんいう雰囲気あるじゃん?
イチゴのエプロンした董卓がヤギのスープ作ってるところを想像したがまずそうだorz
董卓が入れてくれるお茶はおいしい
董卓が手ずから捌いた子牛はおいしい
董卓おじさんのチーズケーキはおいしいんだよ。
446 :
世界@名無史さん:2009/09/05(土) 19:41:04 0
李厳は有能だったのですか?
伝記読むと、烏合の衆の反乱軍に勝ったくらいしか功績が無かったような・・・
性格に問題ありだし、軍需物資の補給の失敗と責任転嫁。なんだ重んじられた
のか不思議です。
軍需物資の補給の失敗と責任転嫁 ではなくて 諸葛亮追い落としの策謀
448 :
世界@名無史さん:2009/09/05(土) 20:44:26 O
それにしてはお粗末な策謀だったよな。
補給に失敗したっつーか、長雨の影響で輸送部隊への疲労が半端ないので、
作戦中止を孔明に進言したってところだよ。
その後、孔明を陥れようとした行動が謎すぎるが。
計画的ではないのだろう。
諸葛亮に手紙を送って撤退の相談をした時、李厳はある程度自分の責任を認めていた(だから後にこれが証拠になった)。
しかし、諸葛亮の帰還が決定すると、おそらく李厳は自分が考えていた以上の責任を問われる風向きになった
(諸葛亮は法家の人なので)。
これに対抗するためには、李厳は急ごしらえの弁明を用いて周囲と劉禅に説明するしかなかった。
だが、諸葛亮の準備と政治勢力、劉禅の信任は圧倒的で、李厳は殆ど政争の形を作ることもままならず
もろくも敗れ去り、政界から去ることになった。
451 :
世界@名無史さん:2009/09/05(土) 21:40:34 0
盧植が黄巾討伐を命じられたのって何故?
儒者なのに。
奴隷と妾って同じ意味なの?
>>451 1.儒学の師の馬融が外戚だった。
2.実際に文武の能力も高く、それを正確に世間や皇帝の周囲が評価していた。
3.過去の太守時代、実際に軍事に関する実績を残した。
やたら声のでかい巨漢だった上に戦場では大斧を振り回していたらしい。
ビジュアルが儒者のパブリックイメージに反しているなこいつ。
>>454 儒者界の創始者、孔子もとんでもない巨漢だったし、子路のような武闘派がいたりした
儒者のパブリックイメージが文弱の徒というのは後世のもので、文武両道こそが当時の儒者の理想の姿
その意味で盧植とか諸葛亮みたいなのは儒者の理想像だね
456 :
世界@名無史さん:2009/09/05(土) 23:05:56 0
盧植の武の才って最初はどの辺が評価されてたんかな?
457 :
世界@名無史さん:2009/09/06(日) 05:42:25 0
>>450 李厳は周囲にも嫌われていたみたいだしね。
魏延・楊儀もそうなんだが、結局はそれが身の破滅を招いた。
悪い死に方をすれば悪評ばかりが残りがちになる
李厳はそれにしては問題が少ないほう
諸葛亮による告発も完全に事後のものだし。
李厳が庶に落とされて死んだのが完全に自業自得かというと
疑問だな。
459 :
トリッピー:2009/09/06(日) 13:09:59 0
国取学習ゲームの人か。結構あのクイズは難しいんだよな。
>>439 当時の侠ってのは庶民派どころじゃないんだが…
市井の人でも名声があるというだけで、別に「庶民代表」というわけではない
そもそも劉備が侠だなんてのは後世の創作に過ぎないんだが
何を根拠にそんな主張を?
>>461 侠という字をよくごらん。
人の両脇を二人の人が助け支えている形だ。
つまり関羽、張飛に支えられている劉備そのものなんである。
少し離れてもう一人(人べん)。 これは諸葛亮。
侠こそまさに劉備のための文字である。
>>463 いや字形じゃなくて侠だっていうだけの歴史的根拠を
語言少なく、下人を善く待遇し、喜怒を表に出さなかった。豪侠と交結するのを好み、年少者は争ってこれに附いた。
>>465 それが当時の庶民派って主張するのか?
豪侠と結んだ、ってことで侠客になるのか?
・侠が現代的な意味での庶民派だなどとは思わないし言ってるのは違う人間
・この当時の侠とは名士や豪族と呼ばれる人間も使う社会規範の一種であって
日本語の「侠客」というイメージから連想するような特殊な階層ではない。
だから名士も犯罪者すれすれの人間も含まれる。
・劉備の若い頃の素行や付き合いは「侠」そのものであり、豪侠と結んだと明記されている以上、
侠の社交グループに加入する人物だったことになる。
・劉備を侠とするのは歴史的根拠がある。後世の創作ではない。
・ていうか劉備を侠とする後世の創作ってのは、存在したとしてもごく最近のものだと思うが。
>>466 その人は君が劉備が侠じゃないなどと主張するからそれを引いて来たのであって、
別に庶民派がどうの等という主張はしとらんと思うが。
君は特定の人への反論が端緒とはいえ、複数の主張を同時にしたんだから、
それに反論する人は部分的賛成、部分的反対ということもありうるし、
それを全部賛成か全部反対かで括ろうとするのは少々勢いごみ過ぎている。
それと、「豪侠と交結した」を侠と呼ばないのなら、
侠とされる人物の範囲は一般的なカテゴライズより大分狭まることになるな。
記憶が確かなら、中国の学者である汪涌豪氏の著書の『中国遊侠史』でも、
三国志の曹操、劉備、孫堅はみな侠であったと書かれていたのだが。
>455
そういえば孔子の親父さんだったっけ、鉄の扉を持ち上げるほどの強力とかいうのは
470 :
世界@名無史さん:2009/09/07(月) 12:45:04 0
>>458 曹真が軍勢を率いて漢中に侵入しようとしているのに、
援軍を出すのにくずり、しかも、もっと厚遇してくれと迫った。
そして補給の失敗と責任転嫁。李厳は改名してあたりから行動が
怪しかった。短期間に問題行動を連発している。
>>458 後方支援の責任者ならそうとうな高官だよな?
李という姓はからしても蜀ではそうとうな豪族の出で蜀豪族の盟主的な立場にあったんだろうか?
仮にそうだとしたら李厳の罪そのものより存在そのものが統治上支障のあった可能性がないだろうか?
魏でも豪族の隠然たる影響力を排除するために官制整備が何度か行われてたみたいだし、
李厳の排除はより地場豪族の影響が強かったであろう蜀の官制改革の一つだったかも知れないね。
侠に関しては孔子の弟子の子路がすぐに頭に浮かぶな。
見栄、金銭、権力はどうでもよくてただただ信念を貫くこと、仲間の為に命を懸ける。
孔子学派が窮地に陥ると腕力と人脈の広さを持つ子路が何とかするというパターンが多い。
死に方にしても敵に切られた時に落した冠を拾いあげ、再び被って言切れるという大夫としては異常。
論語の中でも繰り返し孔子に叱られたり、
侠に引きずられ過激で調和の足りない自分を嘆く姿が繰り返し描かれている。
孔子の子路に対する評価は「道を行うには足りないが、困った時には助けてくれる頼れる兄ちゃん」。
これが正に儒教的君子と侠者の差なのだと思う。
孔子のいう君子ってのは顔回みたいなのだろ
475 :
世界@名無史さん:2009/09/07(月) 15:39:37 0
>>471 李厳は益州の豪族出身ではないよね。
諸葛亮は先帝劉備の意志を継いで北伐を行っている。
李厳は諸葛亮と共に劉禅の補佐を託された人物。
だから諸葛亮も重んじる必要があったのさ。
ただ、内心は劉禅に自分に何かあったら蒋エンに任せるように
上奏したり、費イを大勢の前で指名して車に同乗させたりと、
自分の後任はこの二人と考えていたようだ。協調性に乏しく、
権力志向の李厳は、凡庸な劉禅の補佐には向かないと考えていた
と思う。
>>470 面白いことに、
「援軍を出すのにくずり、しかも、もっと厚遇してくれと迫った」という記録を、
陳寿は李厳の罪が明らかになった後の諸葛亮の上表という形でしか記述してないんだよな。
高貴郷公殺害について司馬昭と皇太后のやりとりのみを載せたことに通じる手法だ
477 :
世界@名無史さん:2009/09/07(月) 19:02:05 0
>>476 李厳に劉禅の補佐を命じたのは劉備だからな。
その李厳があんなことすれば、劉備の人選が悪いということを指摘する
ことになる。だから諸葛亮の上奏文を掲載して事実を明らかにしたのだ
ろう。
劉備の股肱だった関羽・張飛が陳寿にどう書かれているかのか
479 :
世界@名無史さん:2009/09/07(月) 19:52:18 0
非業の死を遂げたのは自業自得と評しているな。
劉備自身の素行や蜀漢の正統性(「三国志」においては微妙な言葉だが)に触れるのでなければ、
劉備の人選や人物眼に対するタブーは陳寿には無いということだね
>>467 袁術などは「以侠氣聞」などと書かれて侠客そのもののように書かれているが
劉備は「好交結豪侠」であって、侠客と交友があるだけで、劉備自身が侠客であるとは書かれてない
ヤクザと付き合ったら皆ヤクザ理論はおかしいよ
だから侠はヤクザなんかじゃないと言ってるのに。
義に感じて友人の仇を討ってやったり、
兄を頼って逃げ込んできた罪人を留守の兄に代わって
弟が匿い、隠匿の罪で死罪を受けるつもりだったり。
それで名声を挙げる儒者がいる時代なんよ。
>>482 だから劉備はそういう人らと交友があった、というだけであって
そういう人だったという歴史的な事実はないでしょ
袁術はそういう人だったと書かれてる
ヤクザ理論はただの例えだよ
暴走族が友人だったらそいつも暴走族かい?ってことだ
横から口を挟むとだ、普通そういうときは誤解が起こりかねないことを予測して、
議題に違う形で関係する言葉を避けるべきだと考えるが如何か。
日本で侠をヤクザと誤解する例が多いのは周知のことだし。
違うもんだって主張する当人が勘違いして混同したような読み方するんだからたまらんな
いろいろ例えてる人が言いたいのはこういうことだろ
宗教家と付き合うのが好きな人がみんな信者ってわけじゃない
格闘家と付き合うのが好きな人がみんなry
まぁ、だいたい感化されて入信しちゃったり、ジム通ったりしちゃうんだろうけど
専門家と素人は違ってことだな
対して侠は精神の在り様だって言いたいほうは
今の感覚で言うと、礼儀正しい人くらいのレベルの感覚だから
専門家と素人みたいなくくり方じゃなくて
礼儀正しい人と付き合うのが好きなのは、
普通は礼儀正しい人だよなってことを言いたいんだろ
段々屁理屈になってるぞ。
最初は
>儒教の中に侠は大きなウエイトを占めている。
>いや中国人の行動原理の中に、というべきか。
に対して
>そもそも劉備が侠だなんてのは後世の創作に過ぎないんだが
>何を根拠にそんな主張を?
と言うから、対抗者らは当時の中国において、侠というのがヤクザや暴走族なんぞではなく
特別ではない行動規範だということを示したはずだったのに、
いつの間にか具体的事例を挙げさせられる羽目になってる。
限られた記述しか残ってない史書をそういう偏屈で追求したらそりゃ証明できるものはなくなってしまうよ。
まあ、劉備の侠らしい具体的事例というと、本来ただの部下であるはずの関羽・張飛・趙雲らへの待遇、
それから徐庶の件などということになるのかな。
>>484 いや、この場合無理。
侠というのは古代から「侠」の一字であって、他に代わりが思いつかない
ヤクザとか暴走族とか例えるのをやめてくれというしかない
>>485 いや、そこは混同を受けかねない発言をした側が避けるのが当然のマナーだろう。
論争相手がそういったところを気にしていると言うことが判っている相手なら尚更だ。
誰も相手の思考は読めないのだから、話そうとするなら
相手に伝わるよう出来うる限り最適にフォーマットを整えるのは当然のことだ。
>>488 俺は侠をヤクザだなどと例えた人に言ってるのだが。
>>489 >俺は侠をヤクザだなどと例えた人に言ってるのだが。
すまん
>>490 いや、まあ、紛らわしいと横道それるだけだし、気を使って語ろうってだけではあるんだが。
>>487 関係は君臣だが恩愛は親子っていう件は何も侠に限った事じゃないだろ
昔から兵学では兵士と同じような環境で戦う呉起みたいな奴もいて
それが侠かって言ったらまた違うわけで
好んで豪侠と結んだってのを現代の軽い人付き合い程度に考えてちゃって良いものかね?
若者たちは争って彼(劉備)に近づいた、とあるし、もっと近しい関係だと思う
確かにはっきり侠と書いてはいないから「侠でした」と書くには何かが足りなかったのかもしれないが
若い頃の描写だから「こんなに若い頃から侠っぽい振る舞いをしていました」って
書き方になっただけ、という見方もできなくはないと思う
>>493 それなら袁術と同じようにもっと直接的に書かれるのでは?
曹操なんてモロに任侠とちゃんと書かれてる
劉備は「豪侠と交友を好んだ」だよ
明確な差異がある
後漢書の伝に儒者と書かれていない儒者はごろごろ居るけど、
明記のある人物とない人物の間に明確な差があるか?
無いよ。
>>495 陳寿は後漢書書いてないから当然だ
編纂方針違うんだし
>>493 逆に現代の軽い人付き合い程度の感覚で付き合えるのが侠の関係だったという見方もできる
改めて特筆するまでもないってのが当時の侠にたいする感覚だったとするのと
史書に明記されない限り侠客ではないとするのでは、根本的な認識の差があるので
話は何時までたっても平行線のまま
出してる史料が史記、後漢書と既にバラバラだしw
一つ言えそうなのは侠は社会の中である程度認められた価値観で、
王朝が力を失って反乱や戦乱で庶民が困った際には
侠を掲げる人々が一定の役割を果たしていたのは間違いないという事。
全ての出来事や人物が文字として歴史に残ってない以上今の人が想像だけで議論し合っても、
正確なところにはなかなかたどり着けないんじゃないか?
一つの価値観を巡ってみんなが結構熱く語っているのはなかなか素敵だけど、
これ以上続けると不毛な罵り合いになりそうだし侠の概念についてはこれで終わりにしたらどうだろう?
逆に現代の軽い人付き合い程度だったのならなぜわざわざ記録に残す必要があったのか
>>497に問いたい
当たり前のように日常に存在しながら、多くの共感を得られる規範であるなら
門戸は広くても、本当の意味でそれを為すのは難しいってもんなんじゃね
どの道も究め名を上げれば史書に記録が残るしな
つーか正直、古代中国の侠とかその辺は史書に残りにくい部類の話じゃね
いつまでもぐだぐだやってても所詮は言葉遊び以上にはならないぞ
>>499 話を収める方に舵を切りたがってる奴に絡むなよ(;´д`)
ネタとマジ話が良い具合になってるのに、これ以上話蒸し返したらウンザリして過疎ってしまう。
503 :
世界@名無史さん:2009/09/08(火) 11:57:05 0
>>480 むしろ、諸葛亮の賞罰が如何に公平かを表現する効果を狙ったのでは?
bQの李厳を処罰するにはやむを得ない事情があったこと、李厳自体も
自分の過ちを認めていた、そして諸葛亮がいつか自分を再び任用してく
れることも書いて、諸葛亮の公平な政治をアピールする効果を狙ったの
だろう。
陳寿の意図はともかくとして、その諸葛亮の上表文を含めても
李厳が諸葛亮を追い落とそうとした、などとどこにも書いていない。
李厳はむしろ諸葛亮の権力にすがって自分の地位を高めようとした。
相手の存在を煙たがっていたのは諸葛亮の方。
なぜかというと、李厳に州刺史や開府の権を与えると、丞相益州牧として
自分に集中する権限が分散してしまうからだろう。
>>473 最近の本を読むと実はそこ微妙。
当時は王侯一族が政治支配をしていたが、この統治の仕方があまりにも手前勝手で
内部抗争を含め乱れ始めるのが春秋期。
この状況の中で孔子は「儒」を中心に据えた学問集団を作ってこれが儒家と言われる。
孔子自身は公職についた期間は短いものの、かなりの高位についた時期もあった。
孔子の弟子のうちにも数人公職につき高官になったものや王侯一族の家宰(内向きの用事一切を扱う)になるものも出て
政治勢力として地歩を築きつつあった。
ここで問題になってくるのが学問集団としての指導者と政治集団としての指導者という役割。
論語や史記などを見ていくと顔回は学問面での評価は圧倒的に高いものの、
政治指導者としての評価は一切ない。
反対に子路、子貢など「口達者」「学問への意欲が足りない」と批判されている人達に対し
孔子は繰り返し政治に対する助言や批判を行っている。
明らかに顔回と後者の人たちに対するコメントの仕方に違いがある。
つまり政治勢力としての指導者としてはどうやら後者に期待していた。
繰り返しになるけど学問として体系を整える役として顔回を
政治リーダーとして子路、子貢を想定していたと思われる。
君子の役割を「学究」としてみるか「政治家」としてみるかは「道を行う者」をどう解釈するかで相当違ってくるので
孔子が顔回を「君子」として見ていたかどうかは保留するのが賢明かと。
506 :
世界@名無史さん:2009/09/08(火) 15:39:53 0
>>504 蜀みたいな小国は権力を細分化しても意味ないからね。
後主に政治能力が乏しい以上は、諸葛亮に権力が集中するようにするのは当然。
侠とはなにか。
もうしょうくんである
侠から一番遠い人間。
諸葛亮である。
劉備みたいなヤクザ者についていってもそうなるんだな
>>509 何故ヤクザ者ってことになるんだ
当時としちゃ一流の教育を受けた知識人だぞ
511 :
とうたく:2009/09/09(水) 19:19:30 O
侠云々とか、蒼天航路読んだほうが早いんじゃね?
在学中に遊びまくったインテリ崩れの武闘派だけどな
忠孝が社会の縦糸であれば、侠は横糸である。
514 :
世界@名無史さん:2009/09/10(木) 00:53:26 0
曹操の統治機構はまた諸葛亮のそれとは成り立ちが違うから難しいよね。孔融
にしても、荀ケにしても位の上下はあれども漢の臣と言う意味では曹操と同列
でもあり政敵でもある。
諸葛亮のように劉備と言う権力の強い君主公認のNo.2と言う立場に比べると、
曹操は他者にナカナカ認められない立場でもあり、それ故政敵を一々排除しなけれ
ばならなかった。
魏国建国についてもおそらく、自分が漢の臣のままでは政敵と己の腹心との区別
がつきづらく、自分の身に何かあった後、下手したらそう言った後漢王朝内での
政敵との内輪もめで自滅する恐れを回避しようとしたのではないかな。そういう
意味では曹操はうまく腹心を後漢王朝から切り離し、自分の体制に取り込むのに
成功していると言っても良いと思います。
515 :
世界@名無史さん:2009/09/11(金) 02:07:25 0
そろそろレッドクリフについてつっこみを入れてみないか?
>>512 書を好まずって書かれてるけど、苦手だったとは書かれてないがね
517 :
世界@名無史さん:2009/09/11(金) 05:28:06 0
もっと陳到について突っ込もう。
うっさいハゲ
劉禅が親政を開始するタイミングは無かったのかのぅ。
陳到なんてほんとは実在しないから
>>516 書が苦手だった一体とどこに書いてあるんだ?
間違えた
>>516 書が苦手だったと一体どこに書いてあるんだ?
いつ? どこで? どんなふうに? だれが?
劉禅が親政しているという話題で何故「だれが?」と言う疑問が
5W1Hだろっ
成都で 劉禅が
つまらんのう
劉禅って側近政治はやってないよね?
一応、最終決裁は劉禅がやっているなら、真性だよね
劉禅なんてよだれ垂らしてたらいいのだ。
だって子牛だしぃ
533 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 09:17:16 O
失礼な!
陳到は実在の人物ですよ!
534 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 10:01:02 0
劉禅は白い糸です。
自分の色はありません。
ただ染められるだけです。
流涎子牛
>>532 それまで誰も書が苦手って言ってないのに
突然「苦手だったとは書かれてないがね」とか言われたら
「は? 誰か苦手だって言いました?」ってなるだろ?
>>536 インテリ崩れ、じゃなくてインテリそのものだよ?
インテリ崩れなんて言ったら落第生に見えるじゃないか
538 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 17:14:09 0
劉備は熱心には勉強はしなかったということだろ?
例えるなら、学校にはいっても、成績はそれほどでもないし、勉強もさほど
熱心でもなかった。ただ、教養くらいはあったと思うぞ。劉禅に読書する本
を薦めているいるし、諸葛亮や法正みたいな知識人も使いこなしている。
無学な武闘派では使いこなせない。
一流の学校に入ったが勉学を好まず悪いの集めて遊んでたんだろ
教養は無くはないがインテリそのものと呼ぶに相応しくは無い
540 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 18:00:53 0
曹操は悪い遊びもしたけど、
抜群に教養が高かったけどね。
劉備のインテリらしい逸話というと
・盧植に師事(読書はあまり好きではなかった)
・陳紀・鄭玄に教えを受ける
・その縁か鄭玄に孫乾を推薦してもらう
・劉表と談論して人物批評する
・その席で許をやっつける(インテリな論法ではない)
・地勢を見て孫権に建業遷都を勧める
542 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 19:18:27 0
劉備は名士と呼ばれる程の教養や学問的名声は無かったというだけでしょう。
だからと言って無学野蛮な人間という訳でもない。関羽・張飛・趙雲といった
叩き上げ軍人にも慕われ、諸葛亮・ホウ統・法正といった名士を使いこなす
人的魅力と進言を理解する教養もあった人物ということだと思う。
543 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 19:41:05 0
劉備の名声って急激にはね上がってるよね。
元は公孫サンの一部将だったのに、
孔融や陳登などの名士の支持を受けて徐州を譲られ、
曹操の下に来る頃には人傑とか言われて、
天下に隠れもない大名士になってる。
何が劉備の評価をそこまで高めたのだろうか?
544 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 19:58:24 0
守旧派が漢室一門に期待しただけ?
>>544 それなら劉備より筋目が良くて地盤も持ってる劉焉・劉璋父子などの方が期待されてもおかしくないと思うんだが、
彼ら全然期待されてないよね。
曹操らは別に守旧派と敵対してないしなぁ。
無能な利権だけの豪族とは敵対したかも知れんが、
所謂四世三公の血族どもは、曹操政権時から曹丕即位後まで何人もが実権ある地位を、
曹操政権側の委任に従って占めてたし。
穎川の後漢豪族どもは曹魏政権の中核となったし。
>>543 「公孫サンの一部将」だったときの劉備って30歳そこそこだよ
それで平原令から相とか平時ならぶちゃけありえないレベル。
刺史クラスまでは行かないが、群雄割拠になった頃から既に
公孫サン陣営の有力者の一人だった
548 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 21:06:29 0
劉備の素性が漢王室の末裔かなんて、
当時でも胡散臭いと思われてたでしょう。
人を引きつける不思議な魅力があったんだろうね。
不思議な魅力、とか適当なまとめかたの方が胡散臭いと思う
当時の劉氏で漢の宗室出身じゃないほうが珍しいだろ
だから末裔だということを疑う人はいなかったと思うよ
551 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 21:16:21 0
つ そこそこ名門で、かつ軍事的才能が有った。
552 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 21:40:37 0
>>550 三国志に立伝されている劉姓で宗室でない人物。
劉放
劉馥
劉ヨク
劉劭
劉巴
劉エン
劉惇
553 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 21:41:51 0
失敬。劉放は宗室だった。
>>551 臨邑侯の支族だったらそこそこの名門じゃ済まされないレベルだがな
劉勝の子孫だと名門どころか最早名前だけレベルだけど
555 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 21:45:19 0
羹頡侯というのは実在したの?
羹頡侯というのは子孫が居たの?
>>552 ○○王の子孫と書かれていない=宗室ではない
とは限らないと思うがね
557 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 21:53:17 0
高祖の兄弟、従兄弟の末裔は宗室として扱われたのですか?
>>557 ちゃんと『漢書』に書いてある
「宗室」というのは高祖か劉仲か劉交の子孫だと
高祖の兄弟の末裔まで
559 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 22:04:33 0
羹頡侯はネタでしょう。羹頡という場所がない。
560 :
世界@名無史さん:2009/09/12(土) 22:11:17 0
>>550 劉邦の生きていた時代でも
沛県には劉姓の人間が多く居たのでは?
劉家村があったからねぇ。
>>560 劉邦の祖父の代に他から沛にやってきたからそんなにはいなかったと思うよ
>>552 確か劉[王炎]は魯の王室出って話がどこかにあったと思う。
というか、直接宗室と書かれてない宗室は大勢いる。
後漢の功臣の劉尚も直接宗室とはどこにも書かれてないけど、呉漢伝の劉秀の発言で宗室とわかる。
あと二十八将の劉植も、どこにも宗室とは書かれてないが、果たした役割から真定王劉楊の一族ではないかと言われてる。
じゃないと理解不能な重用されぶりだしね。
官についてなかった人間が唐突に驍騎将軍を拝命して何故か王との交渉役に任じられるって。
>>561 そういう名前の村って南北朝以後難民化したあと同姓で集まるまで無いんじゃないか?
邑制国家時代にそういう村があるの?
邑が解体されたあとじゃない?
>>563 劉植の死後、驍騎将軍の称号とその軍が次々と親族に引き継がれたのを考えると、
劉植の軍は私兵と考えるのが妥当。
一軍を形成できるだけの私兵をもって、
兵力難に苦しむ王郎戦中のの光武帝に味方したのだから、
仕官して即将軍号を与えられてもおかしくは無い。
河北土着の大豪族と考えれば、真定王との交渉を任されたのも納得がいく。
宗室だろうが、なかろうが、劉植の重用は特に理解不能でも無い。
565 :
世界@名無史さん:2009/09/13(日) 23:11:14 0
結論:三国に政策上の差異は全く無かった。
糸 冬 了
誰か話題振って
567 :
世界@名無史さん:2009/09/19(土) 04:57:27 0
蜀の官吏投与システムは九品中正制度だったの?
それとも、漢代の投与システムだったの?
なにを投与するの?
タミフル
570 :
世界@名無史さん:2009/09/19(土) 19:52:12 0
蜀は意外と叩き上げ軍人も出世するよな。
関羽・張飛・馬超は別にしても、趙雲・黄忠・魏延・王平とかね。
呉壱なんかも、外戚としてではなく、武功で出世した感じだしね。
文字が数個しか知らない王平が、戦功で出世するようなことは、
文帝以降の魏でも可能だったのかな?
馬超って叩き上げ?
馬超は違うねw
黄忠は劉表時代は中郎将だから叩き上げじゃないだろ
趙雲も中山の郡兵を率いて公孫サンに附いてるんだから叩き上げじゃないな
それでも王平はすごいが
趙雲は叩き上げと言って良いんじゃないか
叩き上げってどの程度が叩き上げなのか
祖父が孝廉で県令になるほどの家の人間を叩き上げと言うのか? とか
これって結局、王平すごすぎで終わる流れ?w
王平だって元々の家柄が卑賤、本当の意味での庶民だったわけではないだろうけどね
580 :
世界@名無史さん:2009/09/20(日) 05:27:15 0
黄忠は劉表家臣時代はこれといった功績の記録がないんだよな。
それが蜀征伐に加わると、全軍一の迫力で敵陣を次々と陥落させていく。
まあ、劉備が一部隊を率いさせたくらいだから、それなりに名を知られた
ということは想像できる。それなりに私兵を養っていたのかもしれない。
まあ荊州の黄氏と言ったら諸葛亮の嫁の一族とか
古くは春申君とかいるから、それなりの一族だったんだろうさ
>>577 先祖のおかげで富裕であるとか、
当然のように一定の地位にありつくとかいうことじゃなければ、
先祖が神であろうが皇帝であろうが、
たたき上げといっていいんじゃないかな
583 :
世界@名無史さん:2009/09/20(日) 17:12:27 0
『趙雲別伝』は誰が書いたのですか?
584 :
世界@名無史さん:2009/09/20(日) 20:51:33 0
黄忠自身には一族の広がりが見あたらないけどなあ。
嫡子は早死にして、跡継ぎがいなかったくらいだし。
一族がいれば、適当な男子を養子にして後を継がせただろう。
江南の領袖だよ
>>582 では一族と盧植の余徳を受けた劉備は範疇外か
黄承彦は襄陽の人なので、黄忠とは関係ないよ。
黄蓋のルーツが若干気になるな。
588 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 05:22:48 0
黄祖や黄射も関係ないのかな?
>>588 黄祖は江夏の大姓。同族には三公を歴任した黄エンがいる。
590 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 06:20:34 0
陳式が陳寿の父親という説はどこから出たのですか?
>>589 黄祖の本貫は不明
>>590 現代の誤謬と思われる
或いは小説か何かに元ネタがあるかもしれない
592 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 12:19:46 0
また、女性がその美しさを引き立たせるために顔へ刺青を行うこと
もよくあり、靨鈿(ようでん)と呼ばれた。始まりは三国時代の呉
の皇帝、孫和の妻、ケ夫人。あるとき、酔った孫和が玉の如意(王
侯が持つ孫の手に似た器物)をもてあそんでおり、あやまってケ夫
人の顔を傷つけ、血が止まらなくなったことがあった。医者を呼ん
でその治療法を聞くと、かわうその骨髄と白玉、琥珀を細かく打ち
砕いたものの3つを粉末にして混ぜ合わせ、それを傷口に塗れば痕
も残らないように直る、ということだった。孫和は医者に処方させ
れば良いものを調子に乗って自分でやってしまったために琥珀の量
が多すぎて傷が治った後も紅いあざのようなものが残ってしまった。
だが、実はそれが、なまめかしく見えて気に入ってしまったのでケ
夫人への寵愛が以前よりも深くなった。これを見た他の妃妾達が負
けてなるものかと、自分から頬に紅い刺青を入れるようになった、
ということだ。後にこの方法は一般人にも流布していった。
この話の出典は何ですか?
593 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 14:16:46 0
まともな家の人間は身体髪膚に刺青なんかしません!
594 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 16:36:20 0
王必、王国、王図って同一人物のように思うが、どうだろう?
595 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 18:00:14 0
陳式は劉備の東征に参加したし、辺境とはいえ、武都・陰平の二群を平定
するという大功をあげている。それなのに、伝記も無いし、『季漢輔臣賛』
やそれに付随する解説もない。
こうしたことが、実は陳寿の父親で、功績を評価されなかった諸葛亮に
悪意がったとか妄想をふくらます連中が出てきたのだろう。
>>594 曹操の長史王必、同じく長史の東平の人王国、曹操が魏公に成る時の領護軍将軍王図
国と図が伝写の誤りで同一、必と国は別名か何かということになるか
なるほど
曹操の長史トリオか
王国と王図は、字面が似ている、という意味だけで考えると可能性としてはありえるのだろう。
何せ王国は「冀州平定後に左右長史の一人になった」しかわからないのだから。
一方、王必は218年に丞相長史。213年に既に領護軍将軍の王図とはかなりの確率で別人。
599 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 23:10:09 0
三国志の名家といえば、袁家の4世3公は有名だが、
小泉家も進次郎で4世衆院だし、
鳩山家は、4世で衆院が3人参院が1人もいるが
どうなんだ?
1800年時間差がある他国の高官を比べて何がどうなんだ?
602 :
世界@名無史さん:2009/09/22(火) 14:37:46 0
鳩山家は美作勝山藩留守居役だったので、正確には10世くらいだろう?
603 :
世界@名無史さん:2009/09/22(火) 15:01:55 0
江戸時代の武士だった先祖なんか、民主政治の政党政治家と関係ねーよ。
604 :
世界@名無史さん:2009/09/22(火) 15:40:03 0
選挙で有権者にペコペコ頭下げ、テレビでもタレント並みに扱われる
現代日本の国会議員なんて何代続こうが名門じゃないな。
>>602 三国志的には、皇帝の一門の群小諸侯レベルの副官という感じかな
やはり、独立の地位で活躍を始めたときから、何代って数えるのがしっくりくるような気が
しいて三国志にたとえるならの話だけど
>>604 名門といえなくもないだろうが、英雄ではないな
>>604 時代背景無視して、「有権者にペコペコ頭下げ〜」とか言うなよ。
だったら、地位の欲しい官は、皇帝や宰臣にペコペコしてるじゃないか
そのペコペコ=忠義が認められて、高官を輩出するようになる。
>>605だが、勝山と津山を混同していた
皇帝一門というところは削除ということで
608 :
世界@名無史さん:2009/09/23(水) 08:13:45 0
毛沢東の孫が将軍に!でも権力は無さそう。
609 :
世界@名無史さん:2009/09/23(水) 09:19:56 0
>>606 皇帝や宰相に平身低頭するのと、
不特定多数の一般大衆に土下座選挙するのでは、
全然ちがうなあ。
時代性とか考慮しても、やっぱり民主政治での政党政治家なんて、
イギリスの貴族院議員でもなければ名門なんて思えないな。
>>609 ローマのユリウス氏族とかは全然名門じゃないんですね、わかります
>>609 権力者である皇帝や宰相に土下座賂して辟召を取り付けるのと、
不特定多数の有権者である一般大衆に平身低頭するのでは、
全然ちがうなあ。
こう書けば、それほど大差ない。
612 :
世界@名無史さん:2009/09/23(水) 11:43:04 O
伊吹文明も国民のことを殿様と言ってたなw
大体、そもそもが戯言なんだから細かいことは言いっこなし。
総理クラスは三公扱いで問題ない。
鳩山一郎となれば司空・録尚書事クラスじゃないか?
逆に中曽根なんか尚書令あたりで、ナベツネが録尚書事だな。
613 :
世界@名無史さん:2009/09/23(水) 11:51:43 0
現代では「国民」が皇帝に代わる「主権者」なのだから大差ない。
ここ一応学術系板なのでそういうのは余所でやってください
そこにあるのは、年月を経た幻想があるかないか、階層の隔たりによる幻想があるかないかくらいのものだな。
現代だと制度上極端な階層の違いが生まれにくいからポジティブにもネガティブにも幻想がないってだけのこと。
幻想がないだけで、名高い、由緒を感じさせる門閥と言いうるものはあるだろう。
確かに
>>600あたりは三戦にでも単発スレたててやるべきものだな。
反応してすまんかった。
617 :
世界@名無史さん:2009/09/23(水) 12:07:53 0
いやいや、主権者国民なんてのは天命=民意みたいなもんだ。
皇帝に平伏するのと、そこいらの小汚い庶民に愛想ふって土下座までするのは、
エリートには屈辱以外の何物でもないだろ。
そういうへんなプライドもったエリートは成功しないのと違うか?
民意と簡単に対立出来る世界なんて王権が強い近世近代にしかねえよ。
どんだけ光栄ゲーorマンガ脳なんだよ。
大抵のエリートってのは自分は民意に従ってる、
みんなの為にしているっていう自己像を後生大事に抱えてるもんだよ。
どんなに腐敗しててもな。
620 :
世界@名無史さん:2009/09/23(水) 12:54:24 0
民意に沿った政治をすることと、
「そこいらの小汚い庶民」「不特定多数の大衆」に土下座まがいの選挙やるのは別だろう。
現に片山なんちゃらとかいう元官僚の厚化粧ババアは土下座しても落選したし。
俺は一有権者として、別に政治家に選挙のときだけとってつけたような平身してほしいとは思わない。
別に直接会いたいとも握手したいとも思わない。
威張っていようが気取っていようが、ちゃんとした政治さえしてくれれば十分。
621 :
世界@名無史さん:2009/09/23(水) 12:57:59 0
まあ、威張るってもいいってのは語弊があるな。
別に威張る必要もないし、逆にペコペコする必要も、変なパフォーマンスすることもない。
淡々と普通にやるべきことをやってくれれば、それでいい。
622 :
世界@名無史さん:2009/09/23(水) 13:00:56 0
さぁオチがついたようだ
オチとしては、土下座は政治家の品位を損なうものだから、
選挙法で禁止すべきってことだな
ただ、土下座と座礼を混同している人が多いから、
いやいや座礼ですと逃げられそうだが
いい加減ウザいのでコテつけてくれ、あぼーんするから
皇帝に土下座しても、有権者にするのはだめとかw
こういうヤツが官になったら、吏のいいように利用されるんだろうな。
ただ尊大にしていたいだけじゃないのかと。
>>627 どんどん離れていくような気もするが、
礼というのは正史に関係するということでご容赦を
皇帝に対する礼は、決まっている
むしろ、何でも決まっているんだな、葬礼における泣き方から、
諌めるときに頭を打ち付ける方法とかな
有権者に対する土下座は、決まってもないし、
邸内における座礼でもない
立って普通に挨拶するだけで、有権者に対して礼を失しているわけじゃない
つまり、本来ならする必要もない
実際、選挙で苦しくなった人が憐れみを乞うためにしかしない
うわべは似ているとしても、実質は天と地ほどの差があるように思うな
いい加減にしろ。
>>620以降は学問と政治的意見の境界完全に踏み越えてるだろ。
三国志に興味もない政治論争がしたいだけのバカ呼び寄せる前にいい加減黙れや。
輿論という。
これは民衆が下からすざましいパワーでわっしょい!わっしょい!と担ぎ上げて地下の人間でも皇帝にしちまうんだよ!って言葉だ
それを体現したのが、劉備ということになっているのか?
>>628 でも、皇帝に対しても毅然とした態度で臨む臣もあり
土下座が制度化していようとも、そっちの方が
清涼だという認識はあるのだろう?
ま、さすがに言いたいことはわかった気がするので、終わろうぜ。
何にも見えないけどレス番だけ進んでるw
>>599 どこからと言われても困るけど王子年の『拾遺記』だよ。
としか言いようがないス。
635 :
世界@名無史さん:2009/09/24(木) 02:26:19 0
>>634 王子年の拾遺記なんて残ってた?
別書の引用ならそれを教えて欲しい。
636 :
世界@名無史さん:2009/09/24(木) 06:39:00 0
皇帝に諫言が受け入れられなかったら、壁に頭をぶつけて死ぬるいうマニュアルも「礼」できまっとったん?
638 :
世界@名無史さん:2009/09/26(土) 11:03:02 0
なんで趙雲だけ諡号の追贈が、関羽・張飛・馬超・黄忠よりも遅れたのですか?
639 :
世界@名無史さん:2009/09/26(土) 12:31:16 0
趙雲って老将だったの?
641 :
世界@名無史さん:2009/09/26(土) 15:21:52 0
>>639 劉備に仕えたのが30歳前後なら、没年時は60歳前後だと思われる。
人生50年と考えれば老将と言ってもよいかもね。
>>638 これは推測でしかないが
まず、格落ちだが劉禅お気に入りの陳祗と夏侯覇に追諡して求心力低下
それを宥める為に陳祗が左遷して鬱々として亡くなった男の父親を追諡することにした
が、それだけでは露骨すぎなので漢中王即位時の四方将軍も元勲として一緒に追諡
趙雲は自分の命を救ってくれた恩人なので追諡したかったが上記の理由なので自重
で、頃合を見計らって茶番の推薦を受けて趙雲も追諡という感じかと
643 :
世界@名無史さん:2009/09/26(土) 17:10:20 0
>>642 どちらかというと死亡時期がものを言ったのでは?
ホウ統・関羽・張飛・馬超・黄忠は先帝劉備時代に死去している。
趙雲は諸葛亮の執政時代。当時としては世代が違うという感じなのだろう。
だけど、趙雲存命時を知っている大将軍の姜維等が、現皇帝の命を救い、
劉備時代からの家臣で、功績も先の四将軍に匹敵するのだから、諡号追贈
すべきと建議したのではと思う。
644 :
世界@名無史さん:2009/09/26(土) 19:42:19 0
姜維は趙雲に会った可能性はある。
古参の名将として尊敬してたのかもよ。
龐徳の子龐会に換羽の子孫が皆殺しにされたって言うけれど
本当ならとんでもないDQNだなコイツ。
上官・同僚・部下で止めようとする奴は居なかったのかよ…
646 :
世界@名無史さん:2009/09/27(日) 10:45:26 0
父の復讐ではそれぐらいやるのでは?
史上、蜀ではよくあること>虐殺
何か知らんけど蜀制圧後はよく虐殺が起こるな。
どうしても天険を越えた先にあるから、中央の統制もたがも外れちゃうのかもわからん。
あるいは鉄の生産地で少数民族も多いし、抵抗がきつかったりするのもあるのかも。
復讐ってのは、周りでそれに合理的な理由をつけているだけで。
後漢の呉漢の虐殺も、普段のように略奪までで済まなかったのは、
来歙・岑彭の暗殺に対する復讐だったという話があるが、
本当のところはそういった抵抗の頑強さに起因するんじゃないかと。
648 :
世界@名無史さん:2009/09/27(日) 16:19:40 0
>>638 三国志集解によると「単なる記録ミス」という説があるみたい。
というのも五虎や龐統より夏侯のが先に追諡されていて、さすがにそれはないだろうと。
>>648 贈諡というのは普通死去の際に行われるもの。
劉備・諸葛亮は軽々しい贈諡を望まなかったが、
それに対して、諸葛亮死後の劉禅は寵臣や縁戚筋の死に際して諡号を贈った。
その後、前代の功臣や太子時代の恩人に対しても追諡すべきという風潮になって、
関羽らの追諡が行われた。
という順序だろう。別におかしくない。
650 :
世界@名無史さん:2009/09/28(月) 03:10:37 O
いやだから、俺がおかしいと言ってるんじゃないから
651 :
世界@名無史さん:2009/09/28(月) 20:33:10 0
降伏者を優遇する為に、功臣より先に諡号を贈ることはあり得るでしょう。
姜維の北伐が活発な時期だったしね。特に魏の皇室の親族の降伏者なら尚更。
諡号ではないけど、馬超や許靖の優遇なんて、功績ではなくて対外宣伝以外の
なにものでもない。
652 :
世界@名無史さん:2009/09/28(月) 21:10:01 0
賈クの最終爵位が郷侯ってのは低くね?
>>652 有力者と付き合わなかったのでコネがなかったんでしょ
賈クより同格ちょい上の鍾ヨウ・華キン・王朗も曹丕時代は郷侯
(華キンはちょっと明記が無いが)
そんなもんだってってことだろう。
655 :
世界@名無史さん:2009/09/29(火) 19:50:11 0
爵位と官位とではどっちが優遇されたことになるの?
それで一冊本が書ける
657 :
世界@名無史さん:2009/09/30(水) 19:10:43 0
家を優遇するなら爵位、人を優遇するなら官位とか?
官位は世襲できないが、爵位は世襲できる。
659 :
世界@名無史さん:2009/10/01(木) 14:51:42 O
でも爵位を世襲する時ってちょこちょこランク落とされない?
あと長男が早めに活躍しだして別に爵位を貰った場合、
次男が父親の爵位を継いだりするけど、
そうすると「名前のみ登場の次男の爵位」>「活躍しまくりの長男の爵位」ってことがある
長男微妙だな。
あとこの場合、祖先祭祀はどうなるんだろう
中野勤
漢魏辺りまでの爵というのは欧州貴族のようなイメージで見てはいけないんだろうな
晋以降の貴族社会ではまた変わってくるだろうけど
基本的に秦漢以降は、欧州とは一線を画しているよ。
東晋や北魏にみられるような貴族社会というのも
欧州のような封建的なものとは、ずいぶん違う。
663 :
世界@名無史さん:2009/10/02(金) 17:22:35 0
袁煕の子孫は生き延びて唐代に宰相を出してるらしい。
曹丕が子孫を憐れんで優遇したのかな?
唐代と曹丕のつながりがわかりません
断絶しなかったって意味でしょ
666 :
世界@名無史さん:2009/10/03(土) 00:06:43 0
袁煕の子=甄皇后の子なんだろうな。
>>666 それは、ない
むしろ妾腹だから許されたと考える方がいいと思うけど
>>667 なんで無いんだ?
明帝の異父兄なんだから明帝が丁重に保護するだろ
漢の武帝は異父姉を丁重に扱ったぞ
秦宜禄−秦朗−秦秀
何進−何晏
まあ、妾なら幽州にいってから、連れ歩いて一緒にアボーン
甄氏の子供なら残していって、鄴陥落時に一緒にお縄で
こっちの方が生き残りの可能性が高そうではある
670 :
世界@名無史さん:2009/10/03(土) 16:29:29 0
蜀の安漢将軍という官位は、
どれくらいのランクの官位なんですか?
>>670 魏の輔国将軍ぐらいのランクです。
官品に換算すれば三品相当。
九卿並みの高位です。
672 :
世界@名無史さん:2009/10/03(土) 20:15:45 0
蜀の四鎮・四征将軍よりも上なのかな?
蜀では四鎮>四征みたいだけどね。大が付くとややこしくなる。
輔漢や輔呉将軍は特進クラスの高官だけど、
蜀漢の安漢将軍はそこまで高そうではないな
李恢
(225年)南土平定,恢軍功居多,封漢興亭侯,加安漢將軍.
趙雲
建興元年(223年),為中護軍、征南將軍,封永昌亭侯,遷鎮東將軍.
魏延
鎮北将軍 建興元年(223年),封都亭侯.
五年(227年),諸葛亮駐漢中,更以延為督前部,領丞相司馬、涼州刺史.
鎮征と伍す雑号將軍の一つだろう
>>668 しねーよ
袁氏の直系に近い奴いたらぶっ殺すっつうの
断言した根拠を述べよ
紹中子熙、其後世居樂陵東光。熙裔孫令喜(新唐書)
つまり甄皇后の子ではないが、袁煕の子は断絶していなかったということかな
何故にそこまで甄皇后の子でないことに拘れるのかということを聞きたくはあるな。
てか秦漢三国あたりだと本家の嫡男だろうが普通に許されるだろ。
幼ければ特に。
新代の劉隆とか親が叛乱の首謀者で、漢の元侯家の跡取りで、字をみるに正妻の嫡男だけど、
判断力がない年齢だとして普通に許されてるぞ。
積極的参加でなければ公職追放&財産没収ぐらいで許されるだろ。
『新唐書』を信じるなら袁煕の子が生き延びていた
甄氏の子かどうかは不明としか言いようが無い
>>678 甄皇后の子かもしれない袁煕の子が生き延びていたことは確か、ということでおk?
魏代から楽陵にいたのだろうか?
確かかどうかまではわからん
唐代に相を輩出する袁氏が代々袁煕の子孫を名乗っていたということ
なんつうか、歴史は「白か黒かはっきりつけたい人」にゃ向いてないよね。
歴史物語はともかくとして。
興味を持つべきポイントは、なぜ袁煕の子だったのか、だよな
袁術の子(こっちは生存がはっきりしてる)でもなければ魏以降栄えた陳郡陽夏の袁氏でもなく、なぜ袁紹の次男という微妙なところの子孫を名乗ったのか
楽陵の袁氏がいつ袁煕の子孫を名乗ったのか解らないのだから考えてもあまり意味がないんじゃないの
唐に隆盛してからのことなら「微妙なところ」と言えなくもないかもしれないが、
無名時代からなら微妙も何も無いし、そもそも本当に袁煕の子の生き残りかもしれない。
それに、袁術や袁尚・袁譚が人徳あふるると評価される人間だったなら「袁煕は微妙」だろうけど、
実際は自分の勢力を滅ぼした者達だから避ける心理が働くだろう。
陽夏袁氏は一族を保っているのだから勝手に名乗れるはずもない。
>>675 袁熙の子がいるなら、何晏のようにちょっとでも顔出してくるでしょ、明帝が大事にしたというなら尚更ね
だが、そんな奴はいない
甄氏は建安元年から10年のどっかで袁熙に嫁入りしてるわけだから高確率で子供がいる可能性はあったかもしれないが
そういうのが記録に出てくることはないし、むしろ何故甄氏の子と断言したいのかわからんなぁ
>>678 新は政情不安で劉氏の反感を買うまい買うまいとしてるから状況がまるで違うだろ
袁譚は族滅になってるし、袁氏の嫡流はきっちり殺しにかかると思うがなぁ
>>685 何晏は粛清された曹爽派で、しかも魏代有数の孔子研究者だったから名が残ったんだよ
仮に何晏に兄弟がいたとしても、政治や学問に事績を残していないので実在したかどうかも不明。
歴史ってそんなもんだ。仮に袁氏の嫡流が生存したとしても、それだけで史書に名が残るはずがない。
漢文帝以後の連座死刑は適用範囲が狭く、夷三族でも両親・同産兄弟・妻子のみとされる。
袁氏の場合、袁譚が妻子を戮されてそれに近いが、袁尚・袁煕は遼東で首を取られているので、
袁譚のような法の執行が行われた可能性は低い(どこかに明記があれば別だが)。
ギョウを確保した際に曹操が袁紹に対し哭礼を行っており、曹丕に甄氏を与えているので、
「袁紹の一族自体が滅せられるべき朝敵」のように看做されていたわけでもない。
207年に対袁氏の征討が一段落するまでに生き残っていた子がいたのなら、
それを「きっちり殺しにかかる」必要性も可能性も低いものと思われる。
>>686 低くないだろ
ちゃんと袁譚がぶっ殺されてる実例あるのに
袁氏の場合、袁譚が妻子を戮されてそれに近いが、袁尚・袁煕は遼東で首を取られているので、
袁譚のような法の執行が行われた可能性は低い(どこかに明記があれば別だが)。
689 :
678:2009/10/05(月) 07:22:11 0
>>685 >そういうのが記録に出てくることはないし、むしろ何故甄氏の子と断言したいのかわからんなぁ
否定派への反論者の一部、少なくとも私は別に甄氏の子と断言したいわけではない。
誰の子かは不明とすべき事案で、否定派の史実に対する態度は
>>666と同じくらいの予断に満ちている。
ただ、否定派は乱暴な口調で断言するから、否定派の発言は反感を生みやすくよ、り多く反論を受けたわけだ。
事実が確定されうるほど史料の残らない事案で、
互いに反論を行わざるを得ないから、水掛け論のようになる。
不明というのと、可能性があるというのは、どのくらい違うんだ?
>>686 袁氏は三国志の中で散々帝位僭称だの漢の天命は終わったと袁紹は思っただの書かれてる時点で
>「袁紹の一族自体が滅せられるべき朝敵」のように看做されていたわけでもない。
ってのはないな
魏晋通じて、袁氏ってのは正しい天命の継承を阻んだ巨悪の如き位置付けじゃん
>>691 袁渙など漢や魏に帰順した者達の配下時代の事跡が無かったことにされている袁術については、それはほぼ完全に当てはまるが、
袁紹とその息子達には当たらない。
袁紹一派に殉じた審配や、哭を行った王修・田疇らのことが美談として残され、曹操もその行動を認め、評価しているのだから。
王修は魏国大司農まで昇り、田疇は曹操の再三の辟召に応じず漢議郎で終わった。
曹操時代の袁紹一派への評価というのはこんなもの。
「漢の天命は終わった」とか「袁術の譲位を密かによしと思った」などという袁紹の態度は、
もっと後代に史書向けに作られた創作でなければ、当時言われていたとしてもあくまで表面的なプロパガンダだっただろう。
693 :
世界@名無史さん:2009/10/05(月) 19:58:37 O
劉虞に即位を迫ったりしてるじゃん。
それと王修や田疇の例は義行であって袁家を称える話ではないし、
袁術配下時代の話がボヤかされてるとかもこじつけに思える。
袁紹配下で詳細な記述があるのだって王修ぐらいじゃない?
>>692 旧主に忠節を尽くす事は、主人が例え悪人だったとしても問題がないし美談だが
それをもって主が赦されていたということにはならんでしょ
劉虞に即位を迫るというのは漢室を奉じるってこと。
それに袁紹は袁紹で、君側の奸を討つという名目で曹操と戦っている。
袁譚に哭するというのは、王修が袁譚との故吏の縁を断たなかったことを示す。
もし袁譚が名実共に大逆無道罪に近い名分で斬られたのなら、王修は逆臣に仕えて
その死後も節を改めなかった人間ということになる。そんな人物をどうして曹操が
高く評価できるのだろうか。
袁譚は厳密には誅殺ではなく、征伐の結果の曹操の軍事専断権による斬刑と見るべきだろう。
袁紹に従ってその敗北後に転向した人物というと、他に崔エン、陳琳がいるが、彼らが袁紹に
強迫されて従ったような記述はない。
一方袁術の配下というと、例えば袁渙は197年頃、袁術の即位が目前に迫るか即位後の時期に、
どんな名目で呂布に対し同盟を持ちかけたのか。
徐キュウ、馬日テイなども無理矢理従わされたことになっているが本当か。
本当ならば、華キンは袁術の恣意に与して馬日テイの辟召を受けたことになるが
それで彼の名誉は傷つかなかったのか。
建安以降に生き延びた名士達にとって、その辺りのことに触れるのはタブーになっていたのだとわかる。
袁紹派と袁術派とでは、史書の書き方には明らかな格差がある。
反逆者と門生故吏関係など懇意な関係にあるなら、まず確実に連座を受けるだろうね。
班固の獄死の理由も竇憲の連座だし。
>>695 そりゃそうだ
袁紹を打ち倒して華北の覇者になったんだから、袁紹は雑魚ではなく
強大な難敵でなければプロパガンダにならんでしょ
>>694 袁譚自身が赦されていたなどと言ってない。
漢の頃、連座の及ぶ範囲は現代人が先入観で思うよりもかなり狭く、
>>678が言うように血統によって継がれる権威や責任も意外に小さいという話をしている。
三族刑というのは血統を根絶やしにする効果というよりは、家(特に父母)を最も重視する当時の士人達への
最大の威嚇刑という要素が強いだろう。
また、征伐というのは刑法の執行の一種で、故に降伏すれば赦免も有り得るという結構柔軟なもの。
後漢末の諸軍閥は言うに及ばず、劉禅や孫晧が赦されているのもその流れに収まる。
中国で本当の意味での一族郎党皆殺しが通例になるのは、もっと後の時代のことだ。
>>698 間違えた。
夷三族と大逆罪を混同していた。
夷三族は父・母・妻それぞれの一族を誅戮する。
後漢では董卓がこれに処されるまで行われなかった非常に過酷な刑で、
その後董承や馬騰など数例を数えるのみ。これは今回は外していいだろう。
大逆無道罪は、本人は腰斬、父母妻子が棄市。漢の一般の謀反罪にはこれが適用された。
そういえば、「典略」で袁煕が立派な最後を遂げたことにされてるけど
当時の魏において袁煕を擁護する人が存在したと考えることもできるね
あと、袁紹の甥「高幹」の従弟「高柔」が魏の安国侯&太尉まで昇進して升
袁氏には代々恩を受けた人間が多くいて、袁紹自身も党錮の禍の際、
何ギョウと共に危険を冒して清流派を救ったという逸話を持つ人物。
漢魏の公式見解はともかくとして、袁氏にシンパシーを持つ人間はあちこちにいたのだろうね。
情の激しくて旧交に絆されやすい曹操自身がその一人だったようにも見える。
詔書:「齊長公主,先帝遺愛,原其三子死命。」於是豐、玄、緝、敦、賢等皆夷三族
でも実際には李豊の娘(賈充の嫁)は流罪で済まされてるんだよね。
で、後に戻ってきてる。
となると、夷三族って結構柔軟だったのかね?
703 :
世界@名無史さん:2009/10/06(火) 05:39:15 0
ところでさ、
何で楊義は、諸葛亮が死んだら仕事無くなったの?
確かに諸葛亮の後継は蒋エンだったけどさ、自分の官位があれば
仕事くらいあったでしょ。
それに、中軍師に任命されたと書いてある
けど、だれの軍師だったの?
諸葛亮は死去して、開府している人なんていたっけ?
>>702 法律上、判決は死罪だけど、イロイロ事情があって赦令が下されて減刑、なんてのは
非常に良くある
>>703 わかりません。
官属に附く「中」が「中央の」を示すのならば、
丞相や大将軍のような軍権責任者がいない場合皇帝に直属するものとも考えられる。
というわけで2パターン
1.中軍師は皇帝の直属に戻った
2.向朗が行丞相事左将軍となっているので、丞相府は即座に廃止されたわけではなく、
中軍師もその下に置かれていた
いずれにしても諸葛亮が亡く、劉禅が積極的に政治を執らなければ
指揮系統の主流から外れる位置。
政治の中枢が尚書令蒋エンに移り、しばらく軍事が止んだことで職務が無くなった
(蒋エン派が回さなかった)のだろう。
或いは、元々名誉職的な扱いだったのかもしれない。前任(?)者が劉エンだから。
706 :
世界@名無史さん:2009/10/07(水) 05:28:37 0
北伐の残務処理が無くなったら仕事が無くなったのかな?
魏延みたく鎮北将軍・征西大将軍という官位がありながら、丞相府の
役職も兼務している人もいるなあ
蜀の場合は、李厳でさえも開府が許されなかった。中央政府と丞相府との
境界線が曖昧だった感じはする。
707 :
世界@名無史さん:2009/10/07(水) 06:50:14 0
魏延の役職は前軍師・征西大将軍だったけ?
>>706 諸葛亮は北伐に従軍する高官を悉く自分の官属に置いている
丞相は元より万機を掌るというワントップの宰相だけど、
より強固に自分に権限を集め指揮系統を統一しようとしたんだろう
709 :
世界@名無史さん:2009/10/07(水) 17:27:25 0
中護軍の趙雲も丞相の指揮下ということになるの?
確か、陳到は護軍で中都護の李厳の指揮下に組み入れられた。
蜀では護軍は、丞相や方面軍の責任者の指揮下の役職だったのかなあ?
陳到が護軍として李厳の下にいたかはわからない
中都護の李厳が永安を離れるので、代わって諸将を監護する役として
陳到を護軍に任じたとも考えられる。
丞相諸葛亮は名実共に蜀漢の全軍権を掌握しているので、
その下に中前後左右護軍や軍師・監軍が存在するのとは別に考えなければならないだろう。
趙雲が中護軍だった時期に丞相の下にいたか─いわゆる漢中府と呼ばれる
巨大な府に当たる者が劉禅即位直後に既に諸葛亮の下に成立していたのかも、やっぱりわからない。
711 :
世界@名無史さん:2009/10/07(水) 19:30:21 0
趙雲が中護軍・征南将軍に任命されたのは、
劉禅即位直後だったはず。その後に鎮東将軍に昇進。
中護軍の役職がどうなったかは不明。趙雲は諸葛亮と共に北伐前に
漢中に駐屯している。当然、諸葛亮の指揮下だっただろう。
征南将軍時代も、おそらくは諸葛亮が成都にいた時期。
まあ、実質諸葛亮の統率下であったと思われる。
どうも蜀は都督とか、都護、護軍、領軍とかの方が実務を表わすみたい。
魏延なんかは、諸葛亮が漢中に常駐するようになり、官位は昇進しても、
実質的な権限は劉備時代より削られていると考えられる。諸葛亮を快く
は思わないのは当然かな。
>どうも蜀は都督とか、都護、護軍、領軍とかの方が実務を表わすみたい。
いや魏も呉も同じだろう
将軍号というのは階級の上下と、直下の兵を領する指揮権を示すもの。
他の将軍や太守への監察権、命令権、及ぶ領域を示すのが都督・護軍・監軍などで、
独断の司法権限の大きさを示すのが節・鉞。
713 :
世界@名無史さん:2009/10/07(水) 20:10:11 0
無知な俺は将軍号が大事で、都護とか護軍とかは付録程度としてか思ってなかった。
実は付録が重要だったんだな。
さかなクンの下にくっついてる人と同じだな。
716 :
世界@名無史さん:2009/10/10(土) 04:53:44 0
姜維の北伐を止めさせようという動きが出た時、
涼州刺史から益州刺史にしようとしてたな。涼州方面に出兵する権限
を取り上げるという意味なのかなあ。大将軍でも、州職がないと、北伐
できないの?
>>716 あれは大将軍を取り上げて益州刺史だけにしてしまうというものだったはず
諸葛亮は丞相・益州刺史で北伐したわけだから涼州刺史は必要なわけではない
大将軍を失うことが問題だった
718 :
世界@名無史さん:2009/10/10(土) 14:57:38 0
万年野党の民主党が政権取って、閣僚経験者の亀井・藤井という老害ジジイ
を登用せざるを得なかったのは、
田舎者政権の蜀が三公の血筋の孟光・来敏というキチガイジジイを登用
せざるを得なかったことと似ている気がする。
>>718 亀井・藤井起用は連立維持と大臣経験者がほとんどいない民主党にとって
国会答弁・委員会対策の意味合いが強いかと。
七光を言うのであれば党首鳩山にこそ相応しい例えだと思う。
720 :
世界@名無史さん:2009/10/10(土) 16:00:52 0
>>717 蒋エンが姜維を涼州の刺史にしろと上奏してなかった?
あの計画の延長線上の話じゃないのかなあ。
蜀の孟光・来敏はいわゆる名徳というやつで、
魏の楊彪・華歆、呉の張昭・顧雍みたいなもんで能力関係ないからな。
むしろ官位が低すぎるくらいだ。
なぜ蜀が三公を常置しなかったのかがよく分からんね。
722 :
世界@名無史さん:2009/10/12(月) 08:52:03 O
権力が分散しない為では?
小国だから、あんまり偉い人は沢山いらないのだろう。
それに、俸禄の工面も大変だし。
723 :
世界@名無史さん:2009/10/12(月) 13:00:14 0
とりあえず蜀は常設ではないけど、家臣で一番位の高いのは、
丞相>大芝>大将軍という感じの序列でよいのかな?
これに録尚書事とかいう付録付いて最高権力という感じなのかなあ。
724 :
世界@名無史さん:2009/10/12(月) 14:18:35 0
571 :助けて!名無しさん!:2009/10/12(月) 12:53:15 ID:sYOMSU8z
昔、三国志を読んだんだ。
劉備を匿うさいに農民が飯を用意するんだけど、何もないから娘を食材にするんだよ。
で、劉備はその事を食べた後に気づくんだ。そういえば娘さんはどこに?って感じで。
で、農民の娘を犠牲にしてまで自分に飯を用意してくれた事に涙を流し感激して
大義をなす決意を一層固めるんだけど・・・
これ読んだ時に何がビックリしたかと言うと、人肉への抵感感と娘に対しての同情感がないんだよ。
あくまで娘を犠牲にした父親への同情だけ。
何が言いたいかと言うと敵兵や村娘を食べるって言うのは中華の文化じゃないの?
FEとかの舞台になる西洋は主にキリスト教だから人食は禁忌で普通ではなかったはず。
レイプして、売り飛ばしたのは普通だったと思うけど。
572 :助けて!名無しさん!:2009/10/12(月) 12:58:59 ID:A65OQGaE
俺は「自分の妻をヨトギに使ったことへの隠喩」だと思うけどね。
三国志の底本は明あたりの「ガキにも話していい三国志」だった
はずだから、いくらなんでも「オエライさんだから妻をやらせた」
じゃまずい。だから「狼の肉と偽って食わせた」というところだろう。
なんでもかんでも日本人は言葉の額面どおりに受け止めすぎじゃねーか?
想像力や構築力がないというかなんというか・・。
>>724 演義純正の話をなぜここに持ってくるのか。
三戦か、中英にいけと。
726 :
世界@名無史さん:2009/10/12(月) 16:58:59 0
荊楚の名族出身の頼恭なんかは、いちおう九卿まで出世しているな。
蜀朝の存在期間中の家の力も関係あるかもよ。昔羽振りがよくても、今は
駄目なんてこともあるしね。
それと、儒教を勉強しても、蜀の儒教は特殊でなかった?
どんな風に特殊なんだっけ?
728 :
世界@名無史さん:2009/10/12(月) 18:49:37 0
確か天体観測による予言・未来予知みたいなのが中心だったのでは?
如何に生きるかとか、国家経営の儒教とは違ったと思う。曹操とその参謀達
や諸葛亮が重視した国家経営に役立つ実践儒教とは系統がちがうはず。
それは両漢の正統後継だね
三国志には志がないので記載が少なくわかりにくいが、
同じことは魏も引き継いでいて晋書五行志が纏めてくれてる。
儒者達が災異について意見し、政治の乱れを矯正しようとしている。
ただ魏代というのは、一般に確かに礼教の比重が下がり
実務を重んじた時代といわれているようだけど。
曹操は所詮丞相魏王なので、その辺りのことには関わっていない。
(魏王国に置かれていた可能性は…あるかな? 僭上の極みだと思うが)
諸葛亮は史官を置かなかったことで陳寿に批判されているように、
確かに天文や災異について無関心だったようだ。
省力化の一環だろうし、或いは皇帝に意見陳情が集中するのを避けたか。
天文を占うのはあの時代の科学だとおもうんだけど
つうか、予言はともかく天文自体はとっても重要だね。
当時の国の基は農業だし、農業には天体観測が欠かせなかったりするわけだ。
災異も諫言の具としては非常に役立つ考え方だしね。
若干曖昧だけど、記憶が正しければ魏も普通に「災害多いから政治に意見求む」をやってたと思ったが。
即位に関わる瑞祥も結構やってたし。
蜀には讖緯説を重視する蜀学があって
秦?と親交があった任安がその学派の大家でその弟子は蜀漢に仕えた杜微と杜瓊
この系統には属さないが三国志の著者陳寿の師匠のショウ周も
讖緯説に通じた蜀学の大家だったので蜀地方には伝統的に
図讖、讖緯などを特に重んじる学風があったとはいえる
733 :
世界@名無史さん:2009/10/13(火) 05:28:20 0
諸葛亮は迷信話は嫌いだったのかもね。
史官を置かなかったということは、そう言う意味なのかもしれない。
天文や災害にかこつけて、訳の解らない進言は必要ないし。
甘露水が降ったとか、青龍が出現したなんて話は諸葛亮には必要なかったのかも。
キョチョの部下数十人が将軍や諸侯になった、っていう記述があるけど
実際にそう記されている人物っている?
>>734 許チョの兄許定。振威将軍にまで昇っている。
>>733 甘露が降るには北伐止めて塩の専売も止めて民に平穏をもたらさないといけないし、
青龍(東方の守護・春の意味)が出現するには西の果て、陽が当たらず薄暗い蜀は遠すぎる。
どっちにしろ諸葛亮にとっては迷惑な存在だな。
いないんじゃないかね
将軍の全てが名を残しているわけじゃないだろうし
亭侯程度になっただけなら尚更史書には記されないだろう
世の中には兄弟が有名になったせいで、かなりの活躍をしても史書からは兄弟のおまけ扱いとかあるからな。
曹丕が「実態に合わせるもんだ」と臣下の反対押し切って孫権に呉王と九錫を与えたという話しがあるけど
前後通して呉楚七国の乱以降、呉王どころか呉侯すら曹操時代に孫策へ与えられただけで
漢において呉ってのは相当避けられたもんだと思うのだが
曹丕が呉王贈ったってのはもしかして
呉楚七国の乱を思わせるように「実態に合わせて」曹丕の孫権に対する敵認定だったんじゃねーのか?と思ってしまう
ついでに呉王だから荊楚の地は還せと言わんばかりに直前には襄樊を奪い返してるし
ちょっと穿ち過ぎかね
741 :
世界@名無史さん:2009/10/14(水) 09:10:45 O
本当に甘露が降ったり、青龍なんて出たのか?
アスペルガーにはそう思えるんだろ
743 :
世界@名無史さん:2009/10/14(水) 10:08:35 0
現代社会でもUFOで金星に行ったという人がいるくらいだからな。
青龍が出ても、甘露が降っても不思議はないだろう。
>>742 ああ、このスレに居るな。それっぽいヤツ。
745 :
世界@名無史さん:2009/10/14(水) 16:19:06 0
>>717 そうか?
大将軍の地位まで剥奪しようという動きではなかったと思うぞ。
どちらかというと、姜維が出兵したがる涼州方面への軍事行動する
権限を奪うニュアンスに読めるけどな。
746 :
世界@名無史さん:2009/10/14(水) 21:53:10 0
魏・呉・蜀、住むならどこに住みたい?
三国時代はどこも厳しそうだな
>>746 自由民レベルなら魏
税金が最も安くて政情も安定してるから
749 :
世界@名無史さん:2009/10/15(木) 06:23:54 0
呉・蜀は税金高かったのですか?
税金て……
自由民をどのレベルに置くかによるが、それぞれの租税についての記述ってどこかにあったっけ。
少なくとも民屯者にかかる税は他の地域や漢の税より遥かに重かったようだが。
曹叡は自民党
曹丕は民主党
753 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 12:11:27 0
呉がいちばんよさそう。
754 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 12:37:27 0
社会的地位がある人には呉の孫権は要注意人物。
晩年の老害化は凄い。重臣や名族でも容赦なく殺戮したからね。
その悪い遺伝子は孫の孫皓にも受け継がれた。馬鹿殿扱いの劉禅だって、
あんな暴虐・殺戮はしていない。
自分が役人で、それなりの地位にあるなら、
諸葛亮・蒋エン・費イくらいまでの時代なら蜀でもよいかな。
あんまり理不尽な罰を受けそうにないから。魏だと出世するのも
大変そうだしね。
755 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 16:02:59 0
おれならまず荊州やね。
曹操が攻めてくる前に益州かな。
劉備がやってきたら長江をくだって江南の山奥に逸民やね。
で、桃花源になるような村をつくるね
呉は有力者は粛清、下っ端は屯田民か奴隷
随分自己評価の高い人がいるみたいだけどそもそも魏や呉で登用されるのかね?
もしそんな人物なら2ちゃんなんてしてないと思うんだが?
758 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 17:42:03 0
中国大陸じゃ生きていけないので三国時代には大勢日本に移民?
>>755 乱を逃れて辛酸を舐めて生き残るのは十人に一人か二人と言われるような旅に出るとはチャレンジャーだな
>>758 戦国、楚漢の時代からね。
百万人近く移民してきた形跡があるそうな。
当時の日本の人口なんて一千万無いだろうから、とんでもない割合になるね。
761 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 18:29:24 0
漢中の住民は泰平?
曹操が漢中放棄する前に冀州へ強制徙民
763 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 20:14:44 0
曹操の徐州殺戮の難を逃れて、諸葛亮は荊州に移住。
劉備も各地を転々としていたチャレンジャー。それが劉備と諸葛亮の
出会いを生み出したのだから、運命とは面白いのう。
カン丘倹って反乱起こした時にそれを鎮圧しに来た諸葛誕をしっかり勧誘してたのな。
765 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 10:03:40 0
何故、孫皓は直言する陸凱を殺せなかったの?
陸抗に対しても仕打ちが甘いような気がする。
孫皓は国の未来に絶望していただけで利発だったという説があるよね。
767 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 12:16:54 0
それはないのでは?
いい気になって中原侵攻なんかも考えていたんだし。
陸氏は父親の孫和を支持していたからな。
陸遜などは孫和を支持して、孫権にいびり殺されている。
それに対しては多少なりとも恩義は感じていたかもね。
かつては自分の父親を迫害し、死に追いやった人物も宮廷にいる。
まあ、家臣を信じない心があっても不思議はない。
768 :
董卓:2009/10/18(日) 12:52:39 0
要するに孫皓は中原に進出する力が無い呉の国力を嘆き自暴自棄になったんじゃないか?
勝手に中原に進出する事を考えそれが不可能となると自暴自棄になる。なんとまあ自己中な事だろう。
769 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 14:31:16 0
自暴自棄説は変では?
どちらかというと、危機感無く無軌道に暴走してた感じがするけどなあ。
危機感を持ったのは、晋軍が破竹に勢いで進撃してから。
自暴自棄というのは危機感はあったけど、絶望的な感覚。
孫皓は危機感は滅亡直前まで無かったでしょ。
>>768 たまに涌いてくるが、コテに何の意味が?
771 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 17:48:49 0
>>760 つーことは今中国にいる中国人より、俺たち日本人のほうが三国時代の漢民族の血を濃く受け継いでいるってことか?
日本の場合は、地域にもよるが朝鮮半島をはじめ、アジア各所や、欧州の血も
多かれ少なかれ含んでいるけど、一番濃いと言われれば朝鮮系かな?
古代の中国人は、それなりに背丈もあったと聞くけど……
773 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 19:37:42 0
諸葛亮は身の丈8尺だったからね。
現代のメートル法に換算すると、180p前後だったみたい。
774 :
とうたく:2009/10/18(日) 20:59:57 O
770に言う。とうたくが好きだから。
そういや新潟のほうは山越の人云々って話があった気が
縄文系はモンゴルと近いらしいが…
弥生系はどうだったっけ?
776 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 21:39:04 0
スレチ
778 :
世界@名無史さん:2009/10/20(火) 21:21:32 0
>>765 確かに陸氏は廃太子孫和の支持一族だったな。
父親に終始味方だった一族には寛大だったのかもね。
逆に歩氏みたいな、元孫覇派には敵愾心旺盛。
だから歩センみたく怖くなって晋に投降という奴も出てくる。
>>778 陸胤の大嘘が無かったら孫皓も殺されてたかもしれんしなあ
780 :
董卓:2009/10/21(水) 08:55:16 0
どうでもいい話をするがコーエーはもうすぐ「戦国無双3」来年は「北斗無双」
なるものを出すなwwwwwww正味誰か買う?ちなみに俺は買わんが。(戦国はウィー
だし、でも北斗買う)すまんめっちゃ関係ない話をして。
そういえば、秋から始まるといってたNHKの三国志アニメはどうなったんだ?
784 :
とうたく:2009/10/22(木) 07:43:30 O
スマソ。帰るも糞も元々俺はこのスレにいる奴だから帰るとこ無くなるんだが。要は真面目な話をすればいーんだろ?
三国志原文はどこで観れますか?
よかったら、貼り付けてくれませんかm(__)m
原文は失われてもう見れないだろ。
788 :
785:2009/10/23(金) 00:18:23 0
ありがとう
しかしパスワードがあり観れません。
開いた状態でお願いできませんかm(__)m
789 :
785:2009/10/23(金) 00:22:14 0
解決しました。
どうもありがとうですm(__)m
きめえ顔文字連投すんな。氏ね。
台湾中央研究院GJだが、日本もやってくれんかね。
ダムに使う金があったら出来るだろ。
記紀全文とか王朝日記随筆全文とかね
日本は資金力というより文化の違いがあるよな。
すぐ画像化するんだよ。
貴重書、文化財を保護するって意識だな。
それで中国の研究者に、全文検索できなきゃ意味なくね?て言われる。
日本書記なんて残ってんだろうか?
誰かにとって都合の悪いことがいっぱい書いてあったりしてな。
>>793 おー、確かに国会図書館で画像化してるんだね
…でも明治の版本とかじゃ貴重書としても意味なくねえ?
みたいな企画だなこれ
>>793 原版の画像残ってないと後で「この字は〜だったと見せかけて実は別の字だった」っていう研究ができないから
一度固まった定説にされちゃって学問上は日本のやり方のが正しいと思うけどな
いや画像化すること自体は別にいいんだよ。
保存の意味もあるが、書体や字形、字句の異同も視野に入れてるわけだよ。
ただ、それを検索できるようにするってところまで知恵が回らないんだ。
それでn-gramとかやってる研究者個人の労力に頼ってんのがアレ。
800 :
世界@名無史さん:2009/11/03(火) 23:10:53 O
800
802 :
世界@名無史さん:2009/12/09(水) 19:24:55 O
過疎
803 :
世界@名無史さん:2009/12/27(日) 21:51:17 0
華琳さまの墓が見つかったのか
本物だとしたら、なかなかの発見。
そのうち観光名所になるかもな。
盗掘されてないといいけどな。
司馬の代で暴かれたとかないのかね?
>>806 とりあえず記事を読む限りでは、遺体と副葬品は残ってるらしいぞ
今まで発見されていなかったのがむしろ意外。
809 :
董卓:2009/12/27(日) 23:32:35 0
今まで曹操の墓って場所不明だったよな?
811 :
世界@名無史さん:2009/12/28(月) 00:04:51 0
副葬品の画像見ると、本物っぽい
>>810 そりゃ正史じゃない方の三国志は好きなやつがうじゃうじゃいるからな
ましてやその中でも中心人物とくれば
814 :
世界@名無史さん:2009/12/28(月) 01:13:09 0
ヤフーのコメ欄に「こやつめ、ははは」があってワロタw
<続報>「曹操の墓」発見は眉つば?!タイミングできすぎ、出土品の真正度にも疑念―中国
http://news.livedoor.com/article/detail/4525692/ > 河南省文物局は、墳墓の規模や様式、副葬品の年代、埋葬者の年齢などを証拠として挙げているが、
> 最も決定的な証拠は、「魏武王常所用格虎大戟」(魏武王が愛用した戈)、「魏武王常所用格虎大刀」(魏武王が愛用した太刀)と
> 書かれた石碑。しかしこれまで何度も盗掘されたという墓にこれほど貴重な文物が残されている物だろうか?
>
> さらに「武王」は漢の献帝による諡。墳墓に埋める物には書かれないのが一般的だとして、最も有力な証拠が
> 最も疑わしい疑惑になったと指摘し、本当に曹操の墓であるかどうか、結論を下すのはまだ早すぎると主張している。
さらに「武王」は漢の献帝による諡。墳墓に埋める物には書かれないのが一般的
ここの理屈が分からんな
817 :
世界@名無史さん:2009/12/29(火) 15:29:14 0
曹操が死んだ時は魏王だからな。
それと、わざわざ偽の曹操の墓を作る奴もいるかが疑問。
生前の曹操なら72ぐらいは平気で
819 :
世界@名無史さん:2009/12/29(火) 16:12:54 0
後代に墳墓を移したときに替えてしまうといったというのはありえませんか?
820 :
世界@名無史さん:2009/12/29(火) 19:23:27 0
韓玄の墓も眉唾?
「曹操の墓」に異議あり=「魏武王」の石枕は盗掘押収品−中国 (時事通信)
【北京時事】中国河南省安陽県で発掘された墓が三国志の英雄で魏の始祖、曹操の墓だと
確認されたと同省文物局が発表したことについて、異議を唱える学者や専門家が相次いでいる。
「最も有力な証拠とされた『魏武王』と刻まれた石枕などは、今回発掘されたものではなく、
盗掘者から押収されたものだ」。古物鑑定家の馬未都氏は自らのブログで、証拠品の価値に
疑問を呈した。
29日付の中国紙・新京報によると、袁済喜・中国人民大学国学院副院長は「この墓は盗掘被害が
ひどい。(銘文が)盗賊の偽造だったらどうするのか。曹操の墓と断定するのは時期尚早だ」と指摘した。
これに対し、発掘調査の責任者は「考古学の専門家でない人が現場も見ず、調査にも参加せずに
物を言っても根拠がない」と反論する。
高蒙河・復旦大教授は、墓から出土した男性の遺骨と曹操の子孫のDNA鑑定をするなど、
科学的な方法で検証するよう提案している。
http://news.www.infoseek.co.jp/world/story/091229jijiX089/
822 :
世界@名無史さん:2009/12/30(水) 12:24:22 0
三国志に出てくる主要人物で墓の場所が判明しているのは何人いるの?
>>760 >
>>758 > 戦国、楚漢の時代からね。
> 百万人近く移民してきた形跡があるそうな。
> 当時の日本の人口なんて一千万無いだろうから、とんでもない割合になるね。
その時期の日本の人口は200万〜400万くらいじゃねーの?
そこに文化も技術も優れた中国人が100万も移民してきたら、
言語がまるごと変わっちゃうよ。ありえない。
824 :
世界@名無史さん:2009/12/30(水) 12:46:54 0
>>821 曹操の子孫という族譜が捏造なんだからDNA鑑定なんて無意味
盗掘品というのも実は偽造、偽造品の偽造
825 :
世界@名無史さん:2009/12/30(水) 12:51:15 O
中国人は骨格的にも劣等人種だと判明か
ヨーロピアンや日本人と頭の形や肩や背中の形が違い過ぎてワロタ
アヘン戦争までほぼ全員が文盲だった中国人
826 :
世界@名無史さん:2009/12/30(水) 14:15:14 0
>>824 この墓の真偽はわからんけど
曹操の子孫とか孔明の子孫とか
いったい何の冗談かと思うよなw
827 :
世界@名無史さん:2009/12/30(水) 23:26:34 0
>>821 >この墓は盗掘被害がひどい。(銘文が)盗賊の偽造だったらどうするのか。
盗賊が何で親切にも墓碑銘をつくってあげたりするの?
828 :
世界@名無史さん:2009/12/30(水) 23:29:19 0
三国志に出てくる主要人物のほとんどは架空の人物です。
史記も三国志も漢書も春秋も全て中国を簒奪した五胡が自分たちの正統性をいいたいがための捏造なのです。
829 :
世界@名無史さん:2009/12/30(水) 23:31:56 0
古代中国史というものは、ペルシャ帝国など西方の史書をつぎはぎして「漢文」に移し変えたものなのです。
>>828 二十世紀になって、野史によって保全されていた真実の三国時代を記した史書が発見されたよな。
「三国旧史」という。晋の統一などは嘘っぱちだということが明らかにされた。
なんで世界史板の三国志スレはこんなことになってしまったんだろうなあ
世界史板は現代に絡んで思想的なキチガイが多いから。
わかり辛いネタですまんかった
ググったら反三国志ネタだったな
読んでたハズなんだが、そんなネタすっかり忘れてたぜ
835 :
世界@名無史さん:2010/01/02(土) 23:32:29 0
836 :
世界@名無史さん:2010/01/03(日) 06:29:57 0
陳到の墓は発見されてないのですか?
837 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 09:30:10 0
羹頡侯というのは実在したの?
馬雲緑
>>837 劉邦の甥に与えられた爵位。
由来は劉邦が家に友達を連れてきた時、その人物の母(劉邦にとっては兄嫁)が
羹があるにもかかわらず、鍋を頡る(ガリガリと音を立てる)して、
残ってないと言って、食べさせなかったことを恨んでいたから、その当てこすりで。
840 :
世界@名無史さん:2010/01/15(金) 00:11:24 0
>羹頡
だからそれネタでそ?
羹頡侯は実在してるが、由来は羹頡山な気がする
>>840 ネタじゃない。史書にも記載のある実話。
史実ではあっても実話かどうかはわからない
そう思うならネタと思う根拠を示すのが正史スレにあるべき姿だろ
え?基本じゃないの?
史実と事実の違いな
事実と史実はイコールではないのは基本だが
史実は必ずしも事実ではないからすべてネタだ
とでも言いたいのか?
848 :
世界@名無史さん:2010/01/16(土) 06:27:49 0
閻宇は佞臣だったの?
馬忠伝には職務熱心だったという記述があるけどなあ。
無理な戦争を止めない姜維を排除したいという意識は
当然なん感じはする。
849 :
世界@名無史さん:2010/01/16(土) 16:12:45 0
850 :
世界@名無史さん:2010/01/16(土) 16:15:07 0
羹頡侯家がその後存続したのですか?
>>848 いや、姜維排除は当時の成都朝廷の総意だった。
平尚書事諸葛瞻らも姜維を閻宇と交代させようと動いている。
閻宇が積極的に取って替わろうとしたわけではなく、
反姜維派に姜維の後釜候補として担がれただけ。
852 :
世界@名無史さん:2010/01/16(土) 19:37:25 0
黄皓が奸臣であるのは間違いないかもしれないが、
蜀滅亡の主因は姜維の連年の北伐による経済的困窮と段谷の戦いの大敗
以後の軍事的弱体化だからね。防衛戦を後退させて、秦嶺山脈内で魏軍を
防御できなくなった。王平や劉敏が興勢の役で敵軍の進撃を阻止した
システムを放棄しなくてはいけないほど弱体化していた。まあ、戦時中の
日本軍が敗退を続けて本土決戦とか言い出したの似たような構図かな。
853 :
世界@名無史さん:2010/01/16(土) 21:02:02 0
閻宇佞臣説は『三国志演義』の影響でしょう。
陳寿も閻宇については大して記述をしていない。ただ、あまり有能とも
思っていなかったのは事実でしょう。陳寿も閻宇の事跡は年代的にも
知っていた可能性が大きい。大将軍姜維に交代させようというくらいの
高官の伝記がないのはその為と考えられます。
>>853 蜀滅亡時の国政を担っていた平尚書事董厥、尚書令樊建、
諸葛亮の時代から蜀滅亡まで活躍した軍部の重鎮右車騎将軍廖化の伝記もないがね。
855 :
世界@名無史さん:2010/01/17(日) 05:33:50 0
誰かの伝記に付載されてなかったけ?
董蕨・樊建は諸葛亮伝に、廖化は宋預伝に
858 :
世界@名無史さん:2010/01/18(月) 19:58:56 0
閻宇は大将軍にまでなった人物だろ?
その人の伝記を残さなかったのは結構低い評価だよな。
黄皓と結託したという事実だけで、陳寿的には許せない人物なのかも。
滅亡時にも何も働きをしなかったのも評価できない原因かもね。
事跡が伝わってないということはないだろう。
>>858 蜀には事跡が伝わってて、功績も能力もあり、
当時の評価も高かったのに、
伝が立てられてない高官も結構多い。
閻宇は南方統治で功績あったから、
それなりに当時は評価されてた人物だと思う。
伝記が残る残らないは地位とも陳寿の評価とも関係ない。
陳寿は蜀書で全く評価していない人物の伝記も残している。
>>841 実際の地名に裏の意味を込めて封爵したってことじゃないの?
張騫の博望侯とか楽毅の望諸君とかの逆パターン
861 :
世界@名無史さん:2010/01/18(月) 21:04:21 0
>>859 姜維の後継候補として担ぐ動きがあっただけだからな。
862 :
世界@名無史さん:2010/01/18(月) 21:31:04 0
59 名前: あやめ 投稿日: 2000/09/20(水) 18:34
神聖ローマ帝国と関係ないんで御迷惑でしょうが、嫌味でヒドイ地名
を封号に選んだ例として有名なのは、漢の高祖の兄の子が封じられた
「羹頡侯」です、高祖がまだ微賎であったとき友達がくると長兄の家へ、
食事にありつこうと魂胆でちょくちょくやってくるので、嫌った兄嫁
が高祖の顔を見るなり、釜の中をカラカラ引っかいて「あいにく終わっ
ちゃったとこなの」というパフォーマンスをする、後で覗くとちゃんと
残ってたということがあったので、高祖は根に持っていたらしい、天
子になってから親類を諸侯に封じたのに亡兄の子は音沙汰なし、見か
ねた高祖の父親が何とかしてやったらと言ったので、そんならと高祖
は羹頡侯にしてやったということです、「羹頡」というのは「スープは
空っぽ」という意味です、「史記索隠」には意味から爵号を作ったので
こういう縣邑があるわけではないといっていますが、「史記正義」には
河北の辺境に羹頡山というのがあるので、高祖はこれから取って報復
したのだろうと言ってます、広大な国土なので都合の好い地名が見つ
かるのでしょう
陳寿が功罪どちらに評価するにしても、
蜀漢の興亡に大きく関わったり特筆すべき事績を残した人物が優先して伝が立てられている。
閻宇は勿論地位相応に有能だったろうけれど、南方業績では馬忠に及ばないと言われていたし、
蜀の滅亡時に奮戦したり降服を主導したりしたわけではないし、
末期の衰退に積極的に関与したわけでもないのだから直接には記述しなかったのだろう。
864 :
世界@名無史さん:2010/01/19(火) 05:18:01 0
良くも悪くも普通の人だったのね。
まあ、プロ野球で普通に20年スタメンでプレイしたけど
別にCMに呼ばれるわけでもないし一挙手一投足がワイドショーのネタになるわけでもない
ような人を「普通の人」と言っていいなら普通の人かな。
866 :
世界@名無史さん:2010/01/20(水) 10:50:50 0
ところで、
閻宇の右大将軍は最高位の大将軍?
それとも、右将軍DX?
>>866 姜維が大将軍で左大将軍じゃないから、
右将軍DXじゃないかな?
さすがに国家の最高位大将軍を二人置くと言うことはないだろうし。
868 :
世界@名無史さん:2010/01/20(水) 14:34:19 0
呉では左右の丞相とか、左右の大司馬とかあったような。
>>865 動くべき地位にいる人間が
動くべき時に、動かなかった
もしくは動きはしたが情勢に何一つ影響を与えることができなかった
ということなら役者不足の地位に就いていた普通の軍人ってとこじゃね
870 :
世界@名無史さん:2010/01/20(水) 19:44:17 0
>>867 人によっては姜維と同等の地位と解釈してるんだよな。
右将軍だと張翼や廖化より官位が下なのでは?
姜維の後釜となると、少なくとも張翼や廖化よりは官位が上でないと
不都合だろう。
>>870 位階は高くとも一実戦指揮官に過ぎない張翼や廖化と違い、
閻宇は南中や永安など一方面の司令官として活動し、
戦闘指揮以外の政治力や統率力なども備え、
独立して軍を指揮できると見られていたから、
後釜候補として名前があげられたんじゃなかろうか?
>>870 右将軍のDXならかなり高位だよ
前後左右将軍は衛将軍・車騎将軍の次なんだから
張翼らとどっちが上か判断しがたいけど、同等かそれに近いんじゃないかな
873 :
世界@名無史さん:2010/01/20(水) 21:28:49 0
閻宇は諸葛亮時代の李厳に相当するポジションだったのかな?
李厳も江州から永安あたりを統括していた。張翼や廖化は諸葛亮直卒下
の魏延や呉壱といったポジションか?
>>870 かつて、諸大将軍クラスの鎮北大将軍王平が漢中督として赴任している。
同じ職能でも被任命者の格に応じて位階は上下(大が付いたり中護軍が護軍将軍になったり)するので、
大将軍の後釜だから大将軍に匹敵する地位でなければならない、というわけではない。
ましてやこの場合、漢中の軍閥状態を解消するのが目的と考えられる人事なので、
仮に右大将軍閻宇が大将軍の分割職となると、
成都で実権を握っている誰よりも高位になり、元の黙阿弥になってしまう。
閻宇は後に晋に仕えたので立伝されなかったという可能性はある。
>>870 >姜維の後釜となると、少なくとも張翼や廖化よりは官位が上でないと
そんなことないんじゃないか。諸葛恪なんかは呂岱を抜いたし。
>>871 >位階は高くとも一実戦指揮官に過ぎない張翼や廖化と違い、
張翼も南中司令官経験者だよ。
>>875 晋に仕えた郤正は立伝されてるが。
あと、張翼は南中の都督だったが、統治に失敗して召還され、
それ以後一方面の軍事や統治は任されてないので、
統治に功績があった閻宇と比べると、
軍人としては明らかに一実戦指揮官レベルの人間だったと思う。
>>876 郤正は特に劉禅に仕えた忠義をもって立伝されたんだろう。
>あと、張翼は南中の都督だったが、統治に失敗して召還され、
馬忠の南中平定の下準備をしたとして称賛され、昇進しているよ。
張翼は尚書にもなってるし、蜀漢政権の大幹部。
トップに立つ可能性は十分ある。
一実戦指揮官レベルの人間とは到底思えないな。
そもそも四将軍経験者を一実戦指揮官とするのが可笑しいと思う。
879 :
世界@名無史さん:2010/01/22(金) 20:10:14 0
まあ、朝廷(黄皓)の言いなりになる人物でないと駄目だったのでは?
張翼や廖化は姜維の遠征には反対でも、比較的意見をハッキリ言う人物だった
ようだしね。ある意味姜維と同一視された人物なのかも。
>>878 都督や督〜じゃなかったら、車騎将軍とかでも一実戦指揮官と変わりないよ。
881 :
世界@名無史さん:2010/01/22(金) 23:04:02 O
それって俺理論じゃん
張翼は南中都督だし、その後は督建威・仮節なんだが。
それに姜維だって都督経験者じゃない
少なくとも尚書経験者だし、
>>871は間違いだな
882 :
世界@名無史さん:2010/01/22(金) 23:54:17 0
張翼って張良の子孫だよな?張コウもだっけ?
883 :
世界@名無史さん:2010/01/24(日) 15:45:48 0
閻宇は晋に使えたという記録はないの?
蜀の旧臣でも、晋に使えて活躍した人もいるのに。
885 :
世界@名無史さん:2010/01/24(日) 21:00:31 0
閻宇は宦官と結託したという話しは、儒家思想の陳寿には許せない
ことだったかもしれないね。陳寿は黄皓を蜀滅亡の主犯という感じで
扱っているし。
それと、二宮事件で皇太子派を攻撃した楊竺なんかも伝記がない。
確かに小人物ではあるが、呉を混乱に陥れた中心人物なのだから、もう少し
記述があっても良い気がする。
楊竺は官位すら分からないんだよね。
かなりの高官のような気がするのだが。
887 :
世界@名無史さん:2010/01/27(水) 21:15:33 0
『蜀志』は劉備と諸葛亮に評価されたか、排斥された人間が中心に
構成されているから。閻宇は諸葛亮に評価されたということも無かった
ようだ。
違うよ。
諸葛亮の丞相府に属していた人間が、
亮の死後も羽振りを利かせて出世し業績も残したから多く立伝されている。
諸葛亮に高く評価されて、さらに出世しても、目立つ事績がない人物は
記述が殆どない。胡済のように。
陳到もそうだな
出師の表で褒めちぎられて高位にあった郭攸之、向寵も立伝されてないしな。
891 :
世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:43:58 O
向寵は伯父の向朗が立伝されててそこに記述があるから、
立伝されてないのとはちょっと違う。
892 :
世界@名無史さん:2010/01/28(木) 06:29:25 0
胡済は段谷の戦いで大敗の原因作った人だから伝記が立てられなかったのでは?
893 :
世界@名無史さん:2010/01/29(金) 19:56:33 0
胡済は段谷の戦いで遅延した人物と、諸葛亮に重用された人物とは
別人という説もあるよな。
どうせ、諸葛亮が待ち合わせに遅延してくるような人物を重用する訳が無い、とかいう理由じゃないの?
>>894 諸葛亮が重用した人間の中にも、大役に抜擢されたのに指示を守らずに大敗した奴や、
戦争ばかりして国を傾けた奴もいるがな。
896 :
世界@名無史さん:2010/02/02(火) 14:49:34 0
姜維は段谷の敗戦で降格になったが(すぐに復位)、
胡済は処罰されたという記事はないね。サボタージュで遅れたというより、
天候等の理由で期日に間に合わなかった。桟道がぶっ壊れたとかなのかな?
諸葛亮って姜維をそんなに重用してたっけ?
評価はしてたけど
898 :
世界@名無史さん:2010/02/03(水) 05:46:04 0
諸葛亮の評価が後の出世に好影響を出したことは確か。
30歳前半で征南将軍とか凄くない?
そもそも姜維が実権握ったのも、王平、張嶷、馬忠、呉懿などが死去してからだから
姜維以上の実力者、人物がいなかったのだろう
900 :
世界@名無史さん:2010/02/03(水) 19:59:42 0
姜維が失敗したのは屯田をしなかったからという説があるな。
諸葛亮・蒋苑・費偉までは政治家としてのセンスがあったけど、
姜維はただの軍人。段谷まではそれなりに戦果をあげたから、
才能は確かにあったんだろうけど、戦争は作戦だけでは勝てない。
>>899 それは普通の年齢による代替わりじゃないかw
902 :
世界@名無史さん:2010/02/04(木) 08:35:02 0
姜維は諸葛亮や次の蒋エン・重鎮のケ芝とかに評価されいた。
エリートコースだったことは間違いないよ。軍人としての能力は
あったけど、宰相としての能力がなかったという感じかな。
結局は費イの言葉が的中したわけだ。
諸葛亮に能力的に及ばないのに、無理な外征をして滅んだ。
903 :
世界@名無史さん:2010/02/04(木) 15:52:01 0
張嶷は活躍の割に官位が低くない?
廖化なんかは、逆に何に活躍したかわからんのに官位は高い。
70歳過ぎまで生きたからか?
904 :
世界@名無史さん:2010/02/04(木) 17:33:30 0
張嶷は劉備が蜀を平定した214年くらい20歳位。
生まれたのは194年くらいか。そうすると、没年は60歳前後だね。
>>903 出世の最上層コースから外れた地方回りってこと
県功曹(県に功曹があった)から始まった官僚人生としては上々の終わりだろう
県に功曹があったのかは疑問だが。
というのが抜けた
907 :
世界@名無史さん:2010/02/04(木) 18:05:52 0
張嶷の軍功では張翼・廖化なんかより上だよね。
>>905 二十歳で県功曹〜州従事、しかも郷里の先輩とも親交ありってことで
スタートは恵まれていると思う。
ただ、おっしゃるように地方回りで出世が遅れたんだろう。
>>903 蒋エンが茂才の推挙を辞退した時に、代わりに挙げた名が廖化。
張翼と廖化は官位が等しかったらしいが、どちらも劉備時代から要職を歴任し
諸葛亮の北伐の際には側近として従軍している。
張嶷の異民族平定の記述の詳細さに比べて、どうにも具体的な事跡が分かりにくいが
漢中戦や夷陵戦や北伐などで渋く活躍を続けたんだろう。
909 :
世界@名無史さん:2010/02/04(木) 20:24:58 0
張翼と廖化は王平みたいあたたき上げの軍人とは違うみたいだね。
名士ではないかもしれないけど、それに近い扱いの士人といったところか?
張翼は尚書なんかもにも就任している。
張嶷は武功も見識も高かったが、寒門出身で学問面で評判が高かった訳では
ない。それと、荊州出身でないのもやや不利だったかもね。
>>909 王平は叩き上げではなく、漢中周辺の有力蛮族出身のボンボンで、
巴夷の王につき従って洛陽に行くといきなり仮校尉になったりしてる。
曹操裏切って劉備に着くと今度は牙門将、裨将軍に任じられたし、
叩き上げどころか、エリート軍人コースに乗ってるっぽい出世振り。
その後しばし出世が止まるけど、諸葛亮政権下で徐々に出世して、
最終的には鎮北大将軍にまで登ってる。
文字が読めないから叩き上げ、というのはちょっと間違ってる気がするよ。
911 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 13:51:57 0
関羽や張飛の方が階層としては下の出身?
兵隊奴だから下じゃないの?
劉巴がバカにしてたからな
914 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 16:55:30 0
関羽や張飛は、劉備旗揚げ以来の盟友だから特別扱いだけど、
階層的にはすごく下なんだろうな。だから関羽や張飛より遅れて
配下になり、階層的には下の出身と思われる趙雲・陳到とかは
あまり名位が上がらない。
馬超は軍閥のトップだったし、黄忠や魏延は荊州ではそれなりの
階層出身だったのだろう。武功もあるけど、そういう身分が官位に
反映されたのは否めないかな。それでも、長年の功績が認められ、
建国の功臣として、後年には諡号が追贈された趙雲は異例の出世と
いえるかもしれない。
>>914 関羽や張飛は旗揚げ以前から交流があったかもしれない。
現代的な感覚かもしれないが、旗揚げするぞって募った人間をいきなりボディガードに採用はし辛いと思う。
>>910 王平が有力蛮族のボンボンなら、軍中で育ったために十字しか読み書きできなかったと、
王平伝に書かれてるのはなぜ?蛮族でも有力者は高い教育受けてるもんだが。
ついでに言えば、軍中で育ったってこともないわな。
王平は蛮族の軍中で叩き上げた軍人で、
曹操に帰順した時点で蛮族の軍中である程度の地位を占めていたから、
校尉に任じられたのでは?
917 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 19:23:12 0
>>915 それはそうだね。
旗揚げ以前から兄弟同様のつきあいをしていた。その後に黄巾の乱が勃発。
そして旗揚げという流れが自然かもね。
>>916 激動の時代にあって、少数民族の巴夷は指導者層でもそんな高い教育受けられる余裕がないと思うんだが。
巴夷は黄巾賊乱以前から後漢や魏と長期間に渡って戦い続けていたわけだし。
>>918 多数派の漢民族との付き合いや交渉事、商売、訴訟なども必要だろうから、
指導者層はそれなりの教育なきゃ務まらんだろ?
少なくとも読み書き算盤は必要だ。
>>919 十数字しか知らなかった、とあるが耳学で色々学んだとも、口述筆記の内容は論理的だったとも言われてる。
指導者本人が読み書きを出来る必要は漢民族ですら必ずしも必要じゃなかった時代だよ。
後漢では学者ですら読み書き出来なかった何てこともあるくらいで、読み書きはあれば便利、必須ではないという程度の技能だった。
921 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 20:28:08 0
王平は読み書きは不得意だったけど、
教養はかなりあったということだろう。あんだけ活躍したから
軍事知識にも詳しかっただろう。
「平生長戎旅」の「戎旅」は常に異民族とともにあったことを指しているんじゃないの。
923 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 21:50:31 0
孟獲も蛮地に居住し、蛮人からの声望が高かったけど、孟獲自身は漢人みたいだしね。
王平も同じように異民族と行動を共にしてた漢人といったところか?
王平は異民族の支配領域に住み、異民族の軍に参加してた漢人って所だろう。
巴夷は張魯に味方して劉璋と戦ってたから、王平はその軍中で頭角を現し、
曹操に帰順した時には官位を与えられるほど重きをなしていたのだろうな。
>>922 そう取れるようにも思えるけど王平の出身と推測される「板楯蛮」「巴夷」はどちらも「戎」ではない。
一応蛮夷戎狄は風俗によって当初分けられたようで、王平が非漢民族だったとしても「戎」には該当しないし、
軍装を戎服と呼んだりして「戎」という字に「軍」という意味も元々あった。
そこはやはり通説通り、「生まれてから長ずるまで戎(いくさ)の旅にあった」と訳すのでいいと思うよ
926 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 06:06:00 0
王平は蛮地にすんでいた漢人だと思う。
配下に多くの蛮人がいたのだろう。孟獲なんかも蛮人に声望が
あった漢人だしね。漢字が十字くらいしか知らなかったというのは、
読み書きが苦手だったという程度かもしれん。
孟獲が漢人だったって証拠はあったっけ?
928 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 15:04:32 0
確か『華陽国志』にはそれらしきことが書いてなかった?
該当箇所挙げてもらえない?
手元にないから確認できない
930 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 19:36:18 0
孟獲は漢夷双方に信頼されていたとあるだけで、
漢人であるとか夷人であるとか明記されてるわけじゃないよ。
ただ、建寧の大姓として孟氏が挙がってるほか、
孟獲自身も御史中丞になってる。
漢人の雍ガイが非漢人の高定に殺されてその後釜に座ったのが孟獲ということを考えると
A:漢人の顔役
B:高定と同類の非漢民族
どっちの可能性がありえるかね?
また異民族出身だろうとちゃんと服従してりゃあ高位高官になる事はよくある話で
御史中丞になってたからと言って漢民族であったと言うことは難しい
>>931 あの反乱は役人も漢族も異民族も参加した大がかりなものだったから、
多数派の漢族の中から指導者選ばないとまとまらないのでは?
たぶん孟獲は漢人の顔役だと思う。
金日テイの実例もあるしな
おっと、933は931へのレス
>>933 漢の武帝の人事は狂ってるから、参考にならん。
結果として成功した人事でも、選考したのはだいたいいい加減な理由だし。
936 :
世界@名無史さん:2010/02/08(月) 06:32:19 0
王平も漢人顔役で、
漢昌あたりの異民族を従えて北伐に参加。
活躍により出世という感じかな?
>>932 あの辺の漢族はもう土着化してたようだし、非漢民族出身の土豪も士人だなんだと言われてたわけで
むしろ
>>931のような「漢人かそうでないか」という区分けで住民たちも見てなかった説を提唱してみる
漢晋春秋によると、孟獲は漢民族と蛮族にも慕われて、どうのこうのと称えられている
推測するに、漢民族でなければ、ここまで持ち上げられることはないと考えるのが自然
>>938 漢人、蛮人両方から好かれてるのはやはり同じく漢人、蛮人両方いるっつーの
孟獲と並び称される爨習なんかは後に爨という民族になってしまうような見事な非漢民族の一族
(漢人が中央から独立した政権で以後に民族の呼び名として使われるような例を知らんだけかもしれないが)
李恢はそんな爨習と縁続きではあっても一応漢人っぽくはあるんだが、
もう漢人、非漢人とか分けるのバカらしいくらい同化が進んじゃってる気がするよ
孟獲もそういう分け方じゃなくて、単純にしっかり服属して租税を納めたので出世出来たって感じじゃないの?
華陽國志の南中志によれば、爨氏は孟雍李毛なんかと並ぶ豪族のようだよ。
だから漢人だと思う。
西晋東晋交替期の頃の寧州の歴史を見るに、
まだまだ同化は進んでいないと思うな。
夷は夷として表記されているから。
>>941 「孟雍李毛なんかと並ぶ」豪族って書いたんだけどな。
並記されてるのがミソ。
秋,遂平四郡。改益州為建寧,以李恢為太守,加安漢將軍,領交州刺史,移治味縣。
分建寧、越嶲置雲南郡,以呂凱為太守。又分建寧、牂柯置興古郡, 以馬忠為牂柯太守。
移南中勁卒、青羌萬餘家於蜀,為五部,所當無前,號為飛軍。
分其羸弱配大姓焦、雍、婁、爨、孟、量、毛、李為部曲,置五部都尉,號五子。故南人言四姓五子也。
以夷多剛很,不賓大姓富豪;乃勸令出金帛,聘策惡夷為家部曲,得多者奕世襲官。
於是夷人貪貨物,以漸服屬於漢,成夷漢部曲。
亮收其俊傑建寧爨習,朱提孟琰及獲為官屬,習官至領軍,琰,輔漢將軍,獲,御史中丞。
出其金、銀、丹、漆,耕牛、戰馬,給軍國之用,都督常用重人。
これは南中志の、諸葛亮の南征直後からの記述。
俺は漢文に自信がないのでちゃんと読めてるか分からないけど、
爨習も孟獲も夷を手なずけた(つまり自身は夷でない)地元の漢族だと思うんだが。
俺も942に同感
この頃にそんなに漢、夷って区分けが厳密に意識されていたのかな
それよりも政権内、政権外って区分けの方が強かったんじゃないか?
たとえば、呉に関していえば、「山越」ってのは漢夷をとわず、
山岳地帯で政権に逆らう勢力を指していたって見解もあるみたいに。
フロンティアみたいなところに行くと、漢人らしい漢人や夷らしい夷、
漢化した夷や夷化した漢人みたいな人たちが、とくに意識されることなくごっちゃになってたんじゃないかなぁ。
もう三国志の時代になると習俗によって分けられてたはずの蛮夷戎狄も区別ないみたいだしな
当初話題の俎上にあった王平の関連でも、「巴夷」と「板楯蛮」と蛮と夷の区別が付いてないことが推測されるし
最早、
>>944の言うように夷って不服従って意味くらいしかないかもしれんn
三国時代の後の西晋末期や五胡十六国時代になると、
漢化した夷狄が当たり前のように官位を貰って、
群雄として割拠したりしてるからな。中には王朝開く奴まで出たり。
夷と漢人の違いは、三国時代の頃にはどの集団に属しているか程度の違いしか無いのかもしれん。
>>944 山越の場合は、山越と呼ばれる人々が何者かって問題。
南中の場合は、夷と呼ばれる者と呼ばれない者が明確に分かれている。
>>945 しかし蜀でも西晋でも、反乱者のうち夷と呼ばれる者と呼ばれない者がある。
>>942には夷の気質も書かれており、やはり単純に服従・不服従ではないのではないか。
>>946 しかし晋代には、夷狄が漢化しながらも明確に区別・差別されていたわけで
だからこそ五胡十六国時代となった。
成漢を作った連中は、巴夷と雍州流民が明確に区別されている。
>>947 ちゃんと区分されてるなら、南中に「夷」がいる事を笑い飛ばさないとダメなんだがね
当初、夷は東の部族だったわけだし
>>948 勘違いしているようだが、俺が述べたのは「漢族」と「それ以外」の別。
区分なんて言葉は使っていないし。
まあ西南夷ってのも列伝あるからな・・・
>>947 >南中の場合は、夷と呼ばれる者と呼ばれない者が明確に分かれている
断定的に言われちゃったけど、本当に分れているのか、
辺境に行けばけっこうちゃらんぽらんなんじゃないかという疑問なんだ。
たとえば「桃源郷」のはなしなんて、武陵蛮がモデルになってるといわれるけど、
説話の中では明らかに「華」人の末裔として描かれてるし、結構緩々な社会だったんじゃないかとも思うのさ。
>>949 つまり「夷」という言葉が三国時代にはもう当初の意味を失ってたのではないか?って話だよ
別にお前が勘違いとかそういう話じゃない
「夷」という言葉に拘る価値はあんのか?
夷は四夷と言うように、蛮族と似た感じの包括的な使われ方をする文字
雲南あたりに棲んでる連中で長江周辺に棲んでるヤツらとも陜西に棲んでるヤツらとも習俗が違うから
西南夷って呼ばれただけで、ここでは夷という字が広義の意味で使われてるだけ
>>950 俺もくわしくないので偉そうなことは言えないが
地名や「大姓」などを氏名に冠して表記される人物と
そうでなく「夷」を冠して表記される人物と分別され
その表記は混乱していないように思う。
たとえばある場面で地名を冠していた人が別の場所で「夷」を冠してたりは、ないのじゃないか?
>たとえば「桃源郷」のはなしなんて、武陵蛮がモデルになってるといわれるけど、
おれが最近読んだ本では、「桃源郷」は僑居した華人の話だと説明されてた気がする。
>>951 俺は「漢」「それ以外」の別を
>>947で書いたのであり、
>>948の意味がわからない。
当初の意味など関係なく、当時において「夷」と表記される人々が西南にいて、
しかもそれは単なる不服従民ではなく、異民族のように思える。
例えば西晋末では五苓夷と記されている。
実際に使われていること、また異民族を表すので「夷」を書いただけ。
於是夷人貪貨物,以漸服屬於漢,成夷漢部曲。
亮收其俊傑建寧爨習,朱提孟エン及獲為官屬,習官至領軍,エン,輔漢將軍,獲,御史中丞。
この文読む限り、諸葛亮は夷人の俊傑で建寧の4人を収めたって書いてあるように見えるんだが
どう読むとこいつらが漢人ってことになるんだ?
その3行くらい前から読めばいいんじゃないか?
夷を多く帰属させた者に官職をやるみたいな話になってる。
孟エンの出世ぶりすげえ。輔漢将軍って言えば、
大物が歴任してる高位の将軍号だぞ。
いまちょっと検索してみたけど、
華陽國志では蜀漢という語が使われている。
だから
於是夷人貪貨物,以漸服屬於漢,成夷漢部曲。
ここでの漢は後漢のことかも知れない。
分其羸弱配大姓焦、雍、婁、爨、孟、量、毛、李為部曲,置五部都尉,號五子。故南人言四姓五子也。
以夷多剛很,不賓大姓富豪;乃勸令出金帛,聘策惡夷為家部曲,得多者奕世襲官。
この2行の間に断絶がありそう。
上の方は諸葛亮のとった政策。
下の方は当時の南中の豪族連中の来歴。ではないだろうか。
>>954 4人じゃなくて3人だな。
朱提は孟エンの出身郡名だろう。
孟獲はこれより上に建寧孟獲と書かれている。
・爨習
・朱提
・孟エン
・及び(孟)獲
を諸葛亮が収めた、と書いてあるから4人
それなら
亮收其俊傑建寧爨習,朱提孟琰及獲為官屬,習官至領軍,琰,輔漢將軍,獲,御史中丞。
これが
亮收其俊傑建寧爨習,朱提「,」孟琰及獲為官屬,習官至領軍,琰,輔漢將軍,獲,御史中丞。
となるだろ。
>>960 おお、よくよく調べたら朱提って郡名か
これは失礼した
3人だな
諸葛亮はその中で優れた人物だった建寧の爨習、朱提の孟エン及び孟獲を官屬とした。爨習は領軍、孟エンは輔漢將軍、孟獲は御史中丞となった。
って感じか
>分其羸弱配大姓焦、雍、婁、爨、孟、量、毛、李為部曲,置五部都尉,號五子。故南人言四姓五子也。
ここの意味がいまいちわからんのだが、青羌から飛軍を作った余りと大姓合わせて部曲5個作ったって事でいいんかな?
蜀に移された強いのやら青羌で5部隊作って、五部都尉に監督させて、
南中に残ったよわっちいのは豪族である焦、雍、婁、爨、孟、量、毛、李の各家の部曲にさせたんだろう。
>>955 なってはいるが、その官位を貰う連中が漢人とはどこにも無いわけで
>>965 漢人と書かなきゃ漢人じゃないのか?
大姓富豪と夷が対応して記述されていて
爨も孟も大姓なんだろ?
それを否定し出したら南中や巴の出身者は全員を疑う必要があるな。
>>964 弱兵を豪族に配して、その豪族連中を管轄したのが五部都尉だろう。
だから南中では四姓五子と呼ばれた、と。
李恢伝にはこう書かれている。
後軍還,南夷復叛,殺害守將。
恢身往撲討,鋤盡惡類,徙其豪帥於成都,
賦出叟、濮耕牛戰馬金銀犀革,充繼軍資,於時費用不乏。
これは
>>942にも対応している。
ここで叟、濮となっているものを夷と総称しているんだろう。
>>966 辺境でそこまでちゃんと区別できてたか怪しいもんだが
>>966 句読点の打ち方の問題でさ
「移南中勁卒、青羌萬餘家於蜀、為五部、所當無前、號為飛軍、
分其羸弱配大姓焦、雍、婁、爨、孟、量、毛、李為部曲。置五部都尉,號五子。故南人言四姓五子也。」
こう打てば蜀に行った五部の監督が五部都尉と読めるでしょ。
「南中の強い奴、青羌など一万余家を蜀に移して五部(当たるところ敵無しの強さで、飛軍と号した)にわけて、
大したことない奴らは焦等等の豪族に分配して部曲とさせた。五部都尉をおいて、五子と言った〜」
「五部」を作ると書いてあって「五部」都尉なんだから。
あとさ、漢人、夷って二項対立的に捉えすぎじゃない?
漢人と書かれなければ漢人じゃないのかというけれど、そんなもんわからんとしか言えんよ。
大姓富豪が全員漢人だなんて、それこそどこにも書いていないでしょ。
>>967もいっている通り、非漢人と漢人が混在する辺境でのことなんだから。
いま論じているおまえらを登用したい
自分は詳しくないけど、
官位や富豪はともかく、支配者側の資料に「大姓」とまで書かれているなら、
支配者側の社会から見て大姓と認められる者でなければ不自然な気がする
夷とどれだけ血が混ざっていても父の家系は漢じゃないかな
夷狄が大姓に認められることだってあろうよ
>夷狄が大姓に認められることだってあろうよ
その辺は実例が出て来ないことには何とも言えないな
>>970 中国は伝統的に女系も結構しっかりと家柄とかを判断するために見られていたので、
父系が漢人だから漢人です、とかそういう話にはならんと思うが。
比較的資料の残ってる馬超を見れば漢人と非漢人混在の地で、
お互いにロクに気にしない形で同化が進んでいることが記されてる。
南方でも似たようなもんじゃないか?
呼衍・須卜・丘林・蘭
『後漢書』より匈奴の貴姓
>>972 後漢書に巴郡南郡蠻、本有五姓とあるし、大姓と呼ばれて蛮族扱いされてる連中もいるでしょ
「○○県に大姓△△あり。もとは□□夷なり。」みたいな文章はないんだろうか
服属しちゃったら夷じゃないからそういう事気にしないんだろ
服属して夷じゃなくなって、漢族と区別されないなら
漢族だったか非漢族だったかを考える意義って薄れて来ない?
何らかの政治的特徴がないなら。
>>978 実際、特徴を失って漢化しちゃった民族なんて有志以来相当あるじゃない
当初の王平は巴夷出身か?という問いからは大分遠くに来てしまったが、
「孟獲のように夷の中にいる漢人」という反論はそもそも孟獲がどっちかよくわからない、ということになり結局王平もよくわからんな
巴夷の王に付き従って曹操を詣でて官位貰ってるから巴夷の中でも何らかの指導的地位にいたことは容易に推測できるのだが
>>979 この頃の校尉は数百人程度の指揮官だから、
曹操に降伏してこの官を与えられたってことは、
王平は巴夷の中にいた頃から、数百人程度の兵を指揮する地位にいたんだろうね。
板楯蛮がどの程度の規模かは知らんが数百程度の兵を抽出できる人口となると数万規模になるし
曹操喜んで官位をくれるのもわかる
成漢を立てた巴夷の李氏は曹操に帰参して関中に移住。
杜濩、つまり王平なんかと同じ時期だろう。
80年後、関中がテイの反乱で荒廃すると雍州の豪族と李氏は巴蜀に移動(流民化)。
李氏が護衛してくれたので、雍州人は随分と頼ったという。
この雍州人連中が後々の成漢の幹部となっていく。
王平のケースもこれと同じ可能性があるのではないだろうか。
また、李氏の祖先は五百余家を率いて曹操に帰参して将軍となっている。
五百余家というのは思ったほど多くない。
王平は校尉に任命されたが、校尉クラスに任命された者は多かったのではないか。
数十〜百程度の家を束ねる指導層なら、華夷関係なく官位がばらまかれたとか?
ただ、どっかのスレで、現存する王平の墓(後代建てられたものだろうが)には
異民族だと書かれている、と見たことがある。
そこで挙げられていた中国語サイトまでいって確認した記憶があるんだけどな。
中国語のwikiかと思ったが、いま見たら書いてなかった。
983 :
世界@名無史さん:
伏波将軍≒日本で言うところの征夷大将軍=令外の官