任那日本府について

このエントリーをはてなブックマークに追加
429世界@名無史さん
『三国史記』強首伝によると、強首は三国統一期の文人であり、本名を
字頭(父の名が昔諦なので昔姓か)といい、もと任那加良人で、かつ
沙梁部の出身です。沙梁部とは沙トク部(「トク」は正しくは口偏に「彔」、
「喙」字がよく当てられているが異なる字)ともいい、新羅王権を構成する
貴族集団の六部のひとつであり、葛文王という副王を輩出する集団として
知られます。

つまり、強首は帰化人(の子孫)にして、新羅の支配層である六部に
属していたというのですが、これは少々異例なことといえます。というのは、
六部は王権および王京(首都)を構成する排他的な特権集団であり、
これに属すということは生粋の新羅人であることを意味するからです。
したがって、帰化者が六部への帰属を許されるというのは相当の厚遇
であり、例外的な処置というほかありません。
430世界@名無史さん:2009/10/02(金) 00:55:27 0
そして、その例外的な処置を同じく受けていたのが金官国の王族でした。
森公章氏によると、6世紀に立てられた新羅の石碑から、新羅に投降した
金官王族が沙梁部に編入されたことが判明しています。こうした厚遇を得た
元金官王族は新羅の忠臣となり、金武力や金庾信のように重きをなし、
王家の外戚となるまでに至ったわけですが、強首の父祖もこれと等しく
考えられるのではないでしょうか。

つまり、強首の父祖らは金官王族とともに新羅に降った人々であると。
彼らは昔氏を称しているので、王族ではなかったようですが、強首の父
昔諦が奈末という新羅の京位(通常外部からの従属者には外位が与え
られるのでこれも格別な処置)を帯びていることからすると、元はそこそこ
の貴族であったとも想像されます(また昔姓は金氏以前の新羅王姓でも
あり、あるいは彼らの高い地位に見合う姓氏として新羅から与えられた
ものかもしれません)。

以上のように、強首の一族はもと金官国人であった可能性が高く、
このことから、任那加良(加羅)国は金官国であったのではないかと
考えられるのです。