2 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 18:08:03 O
U
3 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:22:47 0
サンドロコットス
4 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 14:59:34 0
ヘーラクレースがアレクサンドロスの落胤ぢや無いという説に関しては、
英語版ウィキペディアを看てみろーイッ!!!!!!!!!!!!!
5 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 15:25:25 0
ゴルディオン
6 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 16:14:23 O
ロクサネ
7 :
世界@名無史さん:2009/06/16(火) 23:32:46 0
クレオパトラ7世
8 :
世界@名無史さん:2009/06/17(水) 19:59:21 O
7月7日あたりに名将の采配アレクサンドロスくるーーー
アレクサンドロスは臨終の時、王国は最も相応しい者にと遺言したが
最も相応しい者=強い者を意味するものでないのではないか?
彼の遺言の相応しい者とは正妻ロクサネから男児が生まれればその
男児が生まれなかったら愛人パルシネとの子ヘラクレスを継がせようとしたのでは?
でないとわざわざかつての敵の民族の娘を正妻に迎えないだろう
それでペルシアの民を慰撫出来ると考えていたのでは?
ペルディッカスはロクサネから男児が生まれれば王位を継がせようとした
メレアグロスはヘラクレスか王弟アリダイオスが良いと主張した
しかしプトレマイオスは既に太守の者、王の配下武将から選ぶべきと強行に主張した
後のアレクサンドロス東征記を著したアリアノスのソースがプトレマイオスが著したと言われるアレクサンドロス伝というのが・・・
10 :
世界@名無史さん:2009/06/20(土) 01:15:08 0
マケドニア貴族からすれば、バルシネにしろロクサネにしろ
異国人に太后として権力を握らせる気にはならなかっただろうな。
11 :
世界@名無史さん:2009/06/20(土) 21:35:36 0
ギリシア系住民のことをインド人はヨーナ(イオニアに由来)と
呼んだけど、何故マケドニアじゃなくてイオニアなんだろう?
イオニア諸都市の住民が大量に入植したから?
そりゃバーラト人じゃなく、シンド由来のインド人になっちゃってるのと同じ事
>>10 まあマケドニア貴族の多くはマケドニア純血主義者だからね
ギリシア系のカルディア人のエウメネスでさえ散々な目にあってるし
ただプトレマイオスの場合はマケドニア純血主義は名目であって早くから太守を務め豊かなエジプトを
分離独立させようという意図があったとしか思えないだよね
統一を目論んだペルディッカス、晩年のアンティゴノスの敵側に回っているから
アレクサンドロスの側近ならプトレマイオスになりたい。
東征ではあまり目立たないがなかなか賢さが伺えると思う。
融和政策に関しても、心の内はどうであれ無駄に口を出したりは
しなかったんじゃなかろうか。保身的な意味で。
15 :
世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:56:45 0
一番おいしいところを持っていった感はあるな。
16 :
世界@名無史さん:2009/06/21(日) 21:16:33 0
ディオゲネスとコスモポリタニズムって結びつかないんだが
ホントにそんなようなこと言ってたの?
中学の教科書だとアレクサンドロス大王あたりから始まるんだよね
だから、ずっと西洋が優れてると一般人は思ってる
え?普通その前に4大文明とか習うだろ
19 :
世界@名無史さん:2009/06/22(月) 01:57:10 0
一般的な日本人は大王の名前しか知らない。
せいぜいダレイオス3世の名を知ってるくらい。
4大文明は習うけど人の名前じゃないから漠然とした文明の発達段階として認識するよ
ダイオレスも知られてないだろね
アレクサンドロスの東征のインパクトが強すぎる
>>16 ディオゲネスは生地のシノペを贋金造りの罪で追放された。
アテナイに辿り着いたが、もうポリス秩序に全く期待してなかったので「何処のポリスの人間だ」と訊かれたら「コスモポリテース(世界市民)だ」って言い切った。
これってポリス秩序に対する絶望の表現でしょ。
彼は人前で自慰行為をして「性欲がこれで満たされるように食欲も満たされればいいのにな」とか言ってるくらいだからね。
古代ギリシアで最も危険な思想を持ってた人物の一人だよ。
「気が違ったソクラテス」と称されたのもむべなるかな。
22 :
世界@名無史さん:2009/06/22(月) 05:26:07 0
アレクサンドロスの東征をインパクトの強いものとして
誇大、過剰かつ虚偽虚飾を多く含んで教える、の間違いな
>>19 アレクサンドロスの名前を知っているだけでも甲だよw
どこの国でも多くの人は歴史に興味がない(ましてや古代の外国史)。
一昔前までの日本の教育でも東征はそう悪くないはず。
神武東征、(史実の)古代の東征−蝦夷征伐−、
源頼朝による奥州征伐、維新での東征(戊辰の役)。
頼朝の奥州征伐はどうか知らんが、他は正義とされてきた。
皇国史観による国内東征賛美と西洋崇拝・英雄崇拝による
アレクサンドロスの東征賛美がうまくマッチしたんジャマイカ?
今なら多文化主義云々とかがうるさいからそうは言ってられんが。
第一、明治以降に日本が輸入した西洋はヘレニズムの流れを汲む
ものばかりだからね。それまた近代化が急がれた
当時にあって当然なことだったが。
中学レベルでアレクサンドロス大王の東征とかいちいち記憶に残るか?
俺なんて趣味で歴史を読み始める前は中世あたりの王様だと思ってたぐらいだ。
>>25 小学生なら知らないけど
中学なら普通にテストに出るレベル
ゆとりは出なくなってるのかな
>>15 一番出世したのはセレウコスだけどね
セレウコスは他のディアドコイと違って
アレクサンドロスのインド遠征時にようやくヒュバスビスタイ(近衛歩兵)の一部隊長になったにすぎない
アレクサンドロス死後のバビロン会議でもペルディッカスの部隊司令官どまりだし
美味しいけどニカトールは戦死するじゃん
セレウコスは、まあ実際のところは実力も勿論あったんだろうが
どうも幸運に恵まれて王となった人という印象を持つわ。
俺も中学生の時はアレクサンドロス大王の東征は普通に覚えてた
ゆとり教育だとアレクサンドロスは出なくなるの?
>>21 つうか、そもそもマケドニアやアレキサンドロス自体が
ポリス秩序=ポリティケー=(民主)政治とは、実は全くの無縁だからなあ。
これは、実は重大なことで、
アレキサンドロス遠征と、それによって広まった「ヘレニズム」とは、
確かに表面上は、「ギリシア語」やら「ギリシア精神」が含まれているんだが、
「ポリス秩序の精神」だけは、スッポリと抜け落ちている、
いわば「あんこだけ全部抜けた、皮だけのギリシア饅頭」だったりする。
>>22 確かにヘレニズムの残滓が、パルティアのころまでオリエントに広くダラダラ残るのは事実。
だが日本人にとってロマン溢れる物語ネタたり得るのは、
ヘレニズム→ガンダーラ→仏像→日本仏教の源流
という、陶酔させるような壮大な宗教的ロマンを掻き立てるものだから。
>>24は関係無いと思う。自分の神話の中枢であるにもかかわらず、
日本人は、あまり征服物語を好まない。判官びいきだからな。
>>28 戦死じゃないよ
セレウコス朝シリアに亡命していたプトレマイオスの長男に暗殺されたんだよ
亡命っていうのが臭いが
>>29 確かに盟友のメディア太守ペイトンがアンティゴノスに暗殺され、その手が自分に伸びるのを予期して
バビロン太守の座を捨て家族とともにエジプトへ逃亡
当時の移動手段でしかも家族連れてバビロンからエジプトへ敵や山賊の目を逃れながら逃走するのは
幸運がなけりゃ成功しないね
その上、プトレマイオスが絶対成功しないだろと踏んでセレウコスに
僅か1000の兵貸し出してバビロン奪回に送り出したというより厄介払いした
しかし幸運にもバビロンを奪回できてしまう
33 :
世界@名無史さん:2009/06/24(水) 17:01:37 0
その辺の事情は何の本に書いてありますか?
>>33 すまん
昼から出張で今ホテルに帰ってきたとこ
家に帰れたら調べておく
35 :
世界@名無史さん:2009/06/25(木) 23:58:27 0
大王の墳墓って今はエジプトにあるの?
アレキサンドリア沖の海中に…って説が。
37 :
世界@名無史さん:2009/06/26(金) 21:30:48 0
アレクサンドリアの展示があるみたいだね。
大王の墓に関する展示もあるのだろうか?
38 :
34:2009/06/27(土) 00:09:25 O
>>33 (ディアドコイとヘレニズム諸国についてのみ限定)
【書籍】
@市川定春著『ギリシア人の戦争―会戦事典』第2章7後継者戦争
Aポンペイウス・トログス著『ユニアヌス・ユスティヌス抄録 地中海世界史』
第13〜18、23〜42章(但し第41、42章はパルティア史とグレコ・バクトリア史)
Bポリュアイノス著『戦術書』第4巻(ディアドコイ各人の逸話しかない)
Cネポス著『英雄伝』][エウメネス
D『プルターク英雄伝』第8冊エウメネース、第11冊デーメートリオス
【記事】
E有坂純寄稿『アレクサンドロスを継ぐ者は誰か』
F宮永忠将寄稿『ディアドコイ戦争史』全8回
39 :
世界@名無史さん:2009/06/27(土) 01:25:34 0
ネポスの英雄伝って訳あったの?
そんな本を持ってるってことは研究者ですね?
34じゃないが近所の大学の図書館にあったぞ>英雄伝
41 :
34:2009/06/27(土) 09:42:56 O
>>39 書籍の方は大書店に行けば誰でも手に入るよ
なかったら注文すればさほど日数を経ず手に入れることは出来るはず
Amazonなら確実でしょ
ネポスはあまりお勧めでないので金をかけるまでの事はないと思う
上の人みたいに図書館で捜してみたら
逆に@とAはお勧め
>>31 なるほど。
平家だ源義経だ豊臣秀頼だ天草四郎だ会津だと
いった歴史上の敗者に同情する人が多いからね。
日本人は実生活は別として(笑)、歴史や自分と直接関係の
無いことだと判官贔屓の人がいまだに多い。
俺はそれを偽善や婦女子の感傷として頭から排除したが。
それはともかくとして、アレクサンドロスのヘレニズムには
多くのギリシア諸ポリスのような古代民主主義が欠けていたというのは、
言われてみれば不思議でも何でもないね。
マケドニアは王国だし、アテナイみたいな古代民主主義ともスパルタのような
一種の平等主義とも無縁の国だったのだから。
とは言うものの、あなたのレスを読むまで
考えてもいなかったというか気づかなかった。
43 :
世界@名無史さん:2009/06/28(日) 23:54:56 0
ユスティヌスのディアドコイの領土分割の記述は怪しいんだが・・・
45 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 01:18:34 0
>>45 今起きて見たけど
ソグディアナ太守の?
和訳本見たら注釈に「この人名については写本の異同が多い」と書かれてあるだけで
この人についての詳細な人物説明がないからよくわからないなあ
47 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 01:19:51 0
スキュタイオスって明らかにスキタイと関係ありそうな
名前なんだけど・・・
ところで、ある本にフィリッポス2世はアステという弓の名手に
射られて片目を失ったって書いてあったんだけど、出典は何だろう?
あと、イギリス人により大王の石棺がロンドンに運ばれたとか書いて
あった・・・
かなり古い本なのでいい加減なところもあるけど。
48 :
世界@名無史さん:2009/07/02(木) 23:14:03 O
>>45さんの紹介してくださったサイトのユニアヌスの項目と
>>38のAのユニアヌスの本見比べたところ
かなり違いがあるのを発見しました
官職名:サイト←→Aの本
〇摂政:ペルディッカス←→ペルディッカス+メレアグロス
〇エジプト太守:プトレマイオス←→プトレマイオス+クレオメネス(目付け)
〇バビロニア太守:ペウケステス←→アルコン
〇大メディア太守:アトロパトス←→(イリュリア人の)ペイトン
〇スシアナ太守:スキュヌス←→コイノス
〇ペルシア太守:トレプトレモス←→ペウケステス
〇カルマニア太守:記述なし←→トレプトレモス
〇ヒュルカニア太守:ピリッポス←→プラタペルネス
〇パルティア太守:ニカノール←→ピリッポス
〇ソグディアナ太守:スキュタエウス←→ソレウス・スタガノル
49 :
世界@名無史さん:2009/07/04(土) 01:20:42 0
かなり違うようだけど何でかな?
写本の違いなのか・・・
スタガノルはスタサノルの読み間違いでしょう。
50 :
世界@名無史さん:2009/07/04(土) 21:17:51 0
>>47 >イギリス人により大王の石棺がロンドンに運ばれた
「不思議はっけん!」でやってたな。
大英博物館で展示してるってさ。映像も見せてたんで録画したよ。
51 :
世界@名無史さん:2009/07/04(土) 23:25:17 0
本当に大英博物館にあったんだ!
イスタンブールにも大王の石棺と呼ばれるものが
あるけど実はシドン王のものらしい。
大英博物館のも大王の石棺と言われているけど不明、
あるいは他人のものなんじゃなかったっけ?
それにしても何故あんなにも彫りの深いギリシア人が
目に怪我をするのかが不思議だったんだが、そうか弓か…
>>49 本ではスタガノルになってますよ
ディオドロス、ユニアヌス、アッリアノスを比べると
時代的に一番古いディオドロスが同時代人の歴史書に触れやすいと思うのですが
アレクサンドロス東征時の遠征兵力を各史家で比較すると上の3人はほぼ同兵力で
恐らくはアッリアノスが自ら述べているように原典がプトレマイオスかアリストブロスの書いた史書でしょう
しかし実際従軍した史家カリステネスや官僚アナクシメネスが著した兵力は彼らの著した兵力と比べ1万人以上違います
私は従軍史家や官僚であったカリステネスらの方が信憑性があると思います
アッリアノスの東征記見てもわかるように明らかにプトレマイオスは意図的に
自らの功績を誇張したり、改竄の跡が見受けられ
逆にプトレマイオスの敵側に回ったペルディッカスやアンティゴノスの功績は無視しており
プトレマイオスより先にエジプトの施政官としてアレクサンドロスから任命され
アレクサンドリアやナウクラティスの植民市建設や行政組織構築に功績があったクレオメネスをボロクソに叩いてるのを見ると
プトレマイオスの書いたと言われる原典の信憑性に疑いを持ってしまうのですが
まあ特定の史料に依拠するのは危険、ってことだね。
55 :
世界@名無史さん:2009/07/05(日) 20:05:36 0
アレクサンドロス4世アイゴスのアイゴスって何?
アイギスでそ?
>>49 失礼しました
少々早とちりしました
ソグディアナ太守はソレウス・スタガノルですが
全くの別人のスタサノルは他の太守に着任しています
上記レスでは省略していました
【スタサノル】
キリキアのソロイ出身の門閥貴族
東征時はヘタイロイ所属
アレクサンドロスの命を受けアレイア太守アルサケスとパルティア太守ブラザネスを追撃、捕縛連行する
BC329年アレイア太守着任
BC328年ドランギアナ太守を兼任
>>56 「アイゴス」だと思う。
「アイギス」だと「山羊」って意味になるんじゃないかね。
アンティゴノス・ゴナタスの「ゴナタス」もそうだけど、意味が伝わってない呼称って結構あるよ。
59 :
世界@名無史さん:2009/07/06(月) 03:45:43 0
ソレウス・スタガノルってのがソロイのスタサノルと同じだと
思うんだけど・・・
訳者は研究者じゃないのかな?
ソロイはキプロス島の都市だよね?
ソロイは昔からのギリシア系植民市としてキプロスにもキリキアにもあるけど
アレイア太守になったスタサノルは前者の出身
でもネット上ではアレイア太守スタガノルって表記もたまに見かける・・・
61 :
世界@名無史さん:2009/07/07(火) 01:56:49 0
自ら将軍として活躍するキュンナ姉さん萌え
62 :
世界@名無史さん:2009/07/07(火) 12:24:40 O
名将の采配でアレクくるな
忘れず見なきゃ
63 :
世界@名無史さん:2009/07/07(火) 12:35:51 0
64 :
48:2009/07/07(火) 21:52:32 O
>>59 今日、頼んでおいたクルティウス・ルフスの「アレクサンドロス大王伝」が届きました
なるほどこれのスタサノルの注釈はキプロス出身になってますね
ただキプロス出身にしろ、キリキア出身にしろヘタイロイになり得たのかという疑問が残りますね
(アーゲマ所属だったら仰天ですが)
少なくとも東征初期まではヘタイロイになり得たのはマケドニア人だけだと思うのですが
あとの民族の騎兵は例えばテッサリア騎兵とか出身別の騎兵部隊に組織されたと思いますが
65 :
48:2009/07/07(火) 22:05:40 O
しかし
アレクサンドロスが生前任命していた現地人太守はバビロン会議でかなりマケドニア人に変えられましたね
スシアナ太守:アブリテス太守(ペルシア人)
ヒュルカニア兼パルティア太守:アンミナペス(ペルシア人)
タプロイ?太守:アウトプラダテス(タプロイ人)
バクトリア太守:アルタバゾス(ペルシア人)
ガンダハラ太守:プロエクセス(ペルシア人)
これら太守はバビロン会議後消えて消息すらわからなくなる
66 :
世界@名無史さん:2009/07/08(水) 02:43:13 0
大王が死んだらペルシア人優遇する意味がないからね。
この国はマケドニア人のもんじゃい!って感じだったんじゃないの?
他にマケドニア人以外だと誰が総督になってる?
67 :
世界@名無史さん:2009/07/08(水) 02:49:16 0
アボウリテスとアウトフラダテスは大王に処刑されとるね。
>>67 そうですか
見落としました、すみません
複数の史料を同時に読んでいくのは難しいですね
>>66 バビロン会議で太守として認められた非マケドニア人は
〇トラキア太守:リュシマコス(テッサリア人―ライオンを素手で殺したというエピソードがある怪力男)
〇カッパドキア兼パフラゴニア太守:エウメネス(カルディア人―ギリシア系、クリミア半島?出身)
〇シリア太守:ラオメドン(ミュテレイネ人―ギリシア系、レスボス島出身)
〇大メディア太守:ペイトン(イリュリア人―インドス兼ガンダハラ太守のアゲノールの息子ペイトンとは別人)
〇パパラメノイ(パラパミサダイ)太守:オクシュアルテス(バクトリア人―アレクサンドロスの妻ロクサネね実父)
〇パンジャブ太守:タクシレス(インド人―タクシラの王、大王生前から臣従)
ペルシア太守ペウケステスはマケドニア人ですが、現地人に懐柔的で現地の言葉を覚え現地人には人気があったらしい
現地人により構成されたペゼタイロイ(重装歩兵)であるパントタボイ(現地人重装歩兵)部隊は彼が初めて組織したらしい
69 :
世界@名無史さん:2009/07/10(金) 01:55:40 0
ん〜、ペルシア人はほぼ皆無か・・・
大王の親ペルシア路線は相当反感買ってたみたいだね。
70 :
世界@名無史さん:2009/07/10(金) 09:24:02 O
ストラテゴスのレベルならペルシア人やらフェニキア人やら結構いたみたいだけどね(特にセレウコス朝で多かった)
71 :
世界@名無史さん:2009/07/10(金) 09:58:10 0
今、庭や高速道路で花盛りの夾竹桃(キョウチクトウ)、
アレクサンドロス遠征軍の1部隊がこの枝を使った串焼き肉を食べて
食中毒で全滅したことがある。
72 :
世界@名無史さん:2009/07/11(土) 16:49:52 0
プトレマイオス・ケラウノスって意外に面白い人物じゃないか?
>>69 アレクサンドロスはダレイオス死後アケメネス朝の後継者として行動していたからね
同じく後継者を自称したベッソスとの後継者争いの様相を見せたし
エクバタナ入場後の大王はある意味イッちゃったからね
・コリントス同盟として従軍していたギリシア同盟軍の軍役解除と傭兵としての募兵
・ダレイオスの遺骸をアケメネス朝の正式の儀礼で歴代王の墓地に葬る
・後継者として現地人を太守任命し、配下の人間にアケメネス風儀礼強要
・反発した副将クラスのパルメニオン、ピロタス父子の粛清
とかね
ベッソス、サティバルネス、スピタメネスら大王の敵対者の地盤は
イラン高原のイラン系農耕定住民でなく
現在のアフガンやカザフを除くCIS中央アジア諸国にいたスキタイ系遊牧民とイラン系オアシス定住民の帝国東北域
もちろんこれら民族も一枚岩でなく、部族によっては大王側に臣従や同盟したり、日和見決めたり態度は色々だが
サティバルネスやスピタメネスは正規戦を回避して徹底的にゲリラ戦を行ったのは妥当な戦略だと思う
大王の率いる軍は最大でも数万しかいなかった
これから各地に駐屯部隊を裂くと容易に大王の作戦部隊後方で蜂起して連絡を遮断できる
大王も新しい敵の戦術に対し軍編制改革をしている
〇軍精鋭部隊をさらに選抜した最精鋭部隊を編成
・ヘタイロイ(騎兵部隊)→アゲーマ・ヒッパルキア(近衛騎兵隊)
・ヒュパスビスタイ(近衛歩兵部隊)→アゲーマ(選抜近衛歩兵部隊)→アルギュラスピデス(銀楯隊)
〇歩兵の機動力強化
ハミッポイ(騎乗重装歩兵部隊→騎馬で移動し戦闘時には下馬してファランクスを構成)
〇スキタイ族の軽装騎馬弓兵部隊(ヒッポトクソタイ)の傭兵部隊採用
〇スキタイ族の軽装騎馬弓兵部隊に対抗し編成?
騎馬投槍兵部隊(ヒッパコンティスタイ)
自分は以前は多くの人同様アレクサンドロスの歴史を見るのは主にグラニコス河〜ガウガメラだったが
今はアレクサンドロスがコリントス同盟盟主の名目的地位をかなぐり捨て
自らの野望に突っ走るエクバタナ進駐(BC330年夏〜)以降の事績に興味を持ちますね
何で「諸王の王」を名乗らなかったんだろうか
76 :
世界@名無史さん:2009/07/13(月) 22:27:46 0
マケドニア関係ないが、340年頃のシチリア戦争も熱いな。
シチリアをねらったカルタゴがコリントスにかなりやられた。
この頃のシチリアってギリシア語通じたのかな?
カルタゴは大王の侵攻を受けず助かったね。
母国のシドンとテュロスは滅ぼされたけど。
>>76 シチリアはギリシア植民市が数多く作られたのでギリシア語は通じたでは?
北東シチリア(ヒメラ、ザンクレ等)→イオニア系の植民市
南東〜南西シチリア(メガラ・ヒュブライア、カマリナ、ゲラ、アクラガス、セリヌス等)→ドーリス系の植民市
シチリア最大のギリシア人植民市であるシュラクサイの母市はドーリス系のコリントスです
カルタゴのシチリア進出はBC5C末頃
ギリシア植民市セリヌスとヒメラを破壊しアクラガスを占領して西部シチリアを制圧
しかしシュラクサイにはディオニュシオス1世、ティモレオン、アガトクレスという有能な指導者を輩出し
それ以上のカルタゴの進出をことごとく阻止していました
片方に母国語、片方にギリシア語の書かれたプレートがあるくらい
あの頃はギリシア語が共通語だったんでしょ?
79 :
世界@名無史さん:2009/07/14(火) 22:01:37 0
シチリア島の支配者は何故僭主と呼ばれるんだろ?
何かイメージ悪いわ。民主制が原則だったから?
>>79 王を名乗らなかったから。
アガトクレス以前の支配者は「自ら権力を有する者」くらいの意味で「アウトクラトル」って名乗ってた。
多分「王」を称するのはヘレネスとして時代遅れだとか思ったんじゃない?
アガトクレスは王を称したけど、「自分が死んだら民主制を復活させるように」って遺言した(スペインのフランコみたいだが)。
時代が下るとヒエロンなんかが王を称するけどね。
81 :
世界@名無史さん:2009/07/16(木) 21:19:56 0
カルタゴってハンノとかマゴとか多すぎ・・・
区別がつかん。
>>81 プトレマイオス朝の王族はプトレマイオスとクレオパトラだらけだよ
83 :
世界@名無史さん:2009/07/16(木) 22:56:39 0
プトレマイオス朝にプトレマイオス以外の名の王っていた?
バルシネ多杉
>>83 ないよ
名前はプトレマイオス何世なんとかとつくんだが
後期になると名付けに疲れてきたのか
プトレマイオス10世アレクサンドロス1世
プトレマイオス11世アレクサンドロス2世
とかふざけた名前になってる
しかも海外から妃になる女性が来ないときはプトレマイオス朝は近親婚が酷いから
妃もクレオパトラ何とかという名前がほとんど
例外中の例外でごくたまに娘の名前でアルシノエがあったかな
よくここまで代々兄弟姉妹で近親婚やって異常な子供が産まれなかったと関心するね
86 :
世界@名無史さん:2009/07/17(金) 22:18:09 0
近親婚ってエジプトの伝統じゃないの?
ギリシアの伝統じゃないよね?
>>86 プトレマイオス朝の王族は急速にエジプト化した
やたらめったらマケドニア・ギリシア植民都市を建設しまくったセレウコス朝と違い
プトレマイオス朝は植民都市を三つしか建設していない(新規建設都市のみ、既存都市の改名を除く)
人口比は現地人の方が圧倒的
現地人の協力を得るためには選択の余地はないだろうね
88 :
世界@名無史さん:2009/07/18(土) 21:56:16 0
大王はソグディアナで消耗戦やらなければインドを平定できていた気がする。
>>88 ソグディアナ、バクトリアは制圧せざるを得ないでしょう
一部のスキタイ部族の支援を受けたアケメネス朝の継承を称する残党がいたことと
ソグディアナ、バクトリアでの支配体制確立によりスキタイ諸部族を牽制する狙いがあったのでは
アレクサンドロスもこれらアケメネス朝支配領域北東域の山岳地帯制圧には苦労しているのが見受けられますね
カスピ海南東の山岳地帯にいるタプロイ人を攻めるのに
アレクサンドロスはヒュバスビスタイと重装歩兵を軽装化し徒歩弓兵とともに山岳道を進み
騎兵は主に車道の兵站部隊の護衛に当てています
このような山岳地帯では開けた土地でファランクスを展開できるわけもなく
軽装騎兵や軽装歩兵がより威力を発揮できるので当然でしょう
恐らく長大なサリッサなんかは従者が運搬するか車道を進む兵站部隊に預けていたことでしょうね
90 :
世界@名無史さん:2009/07/19(日) 00:13:52 0
ソグディアナを占領しても大しておいしくないでしょ。
オクサス川を国境にして敵の侵入を防げば残存ゲリラなんて
敵じゃないだろうし、クレイトスの不満も噴出しなかった。
ソグディアナの数倍豊かなインドを手に入れたら大王は中国
まで達していた気がする。
>>88 大王は、ソグディアナとバクトリアで戦力を大幅に増強した後、インドに侵攻したとされる。
大王は、ロクサナとの婚礼等により、パルメニオンのマケドニア軍に代わりうる大王の帝国軍
を創設したとされる。
スピタメネスのゲリラ戦にアレクサンドロスがどれだけ苦しめられたか分かってるか?
後方に不安があったら前進を躊躇うのは当然だろ。
93 :
世界@名無史さん:2009/07/19(日) 07:17:03 0
しかし、あの時代によくギリシャ人たちが今のアフガニスタンまで行ったな。
いや
ペルシャ帝国の東方辺境に行っただけだし
95 :
世界@名無史さん:2009/07/19(日) 14:32:19 0
だからスピタメネスなんて雑魚は放っておけば良かったんだよ。
相手は少数だから大軍で要所を守ってればまず負ける心配はない。
ソグディアナ総督に専守防衛を命じてインドに向かうべきだった。
いくら兵力的にソグディアナ傭兵で数が増えても、結局はギリシア人
部隊の不満で撤退を余儀なくされた訳だし。
ロクサネとの結婚も対ペルシア的には良かったんだろうけどマケドニア人
に対してはマイナス要素しか無かったような。
後出しで損得考えるとバクトリア、ソグディアナ、インド侵攻はいらなかったな
そうすれば東征は五年で大成功の内に終わったのに
97 :
世界@名無史さん:2009/07/19(日) 19:26:44 0
象兵導入したのってインドが世界初?
どうでしょうか
ヒュダスベスの戦いのアレクサンドロス配下の軍を民族別に分類すると
マケドニア系12000
トラキア系傭兵1000
ギリシア系傭兵6000
イラン・スキタイ系傭兵3500
で確かにギリシア系傭兵はアジア系傭兵より多いです
しかしこれからの兵の損耗・補充を考えるとソグディアナ、バクトリアを完全制圧して
兵員補充のプールしていた方が得策に思えますね
それ以外にも武器・防具・・軍馬・食糧の補給源として
特にマケドニア軍は幾多の戦いを経てインド侵攻に際しては多くのマケドニア兵はペルシャの防具を身に纏い
マケドニア騎兵はソグディアナ、バクトリア産の軍馬に跨がりましたし
インド侵攻はやはりインダス流域で限界点じゃないでしょうか
まず対ペルシア、対中央アジア戦に比べイ、ンド方面の情報があまりに不足しています
アッリアノスのインド誌も見ても怪しげな探検記になってますからね
第二にまだ西アジアの延長上のような地勢・気候下のインダス流域、パンジャブ地方に比べ
ガンジス流域やデカン高原のモンスーン気候で暑苦しい重装備のマケドニア兵が耐えうるか疑問です
海の見えない中央アジアの度重なる山岳戦でギリシア系傭兵の士気が落ち込み方を見ると。。
唯一有効な侵攻策を講ずるならやはり艦船による海岸づたいに侵攻するのが妥当でしょう
勿論タイフーンとか気象がかなり絡んできますが
私論ですが、まだこの時点ではマウリア朝は成立していませんが
インドには軍事侵攻より交易を潤滑に行った方がかなりメリットが大きい気がしますね
99 :
世界@名無史さん:2009/07/20(月) 01:58:39 0
兵士の士気さえあればナンダ朝滅ぼすのは簡単だったはず。
その後東に進出した場合、あの頃の東南アジアなんて全く未開の地だし、
アレクも征服欲わかなかったかも知れんが・・・
征服したって統治出来んのだがw
101 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 00:19:21 0
アレクは基本未開民族は興味ないからな・・・
インドを蹂躙してそのまま進み
途中で北上して中国文明圏と接触したらどうなるだろう
当時は中国も春秋戦国時代で
史記の記録によるなら十万単位で戦ってた時代
アレクサンドロスが乱入したなら中国勢ははたして
ダレイオスの2の舞になるのだろうか?
103 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 01:35:54 0
戦国争乱のまっただ中の中国に突如南方から見たこともない兵器を
持った軍団が象兵なんか連れて現れたら、いくら孫子呉子の時代
でもひとたまりもないだろうな。
マケドニア軍の規模によるだろ。
当然最初に接触するのは秦だろうけど、あの時代でも結構手強いと思うぞ。
あと抵抗出来るのは南方系で剽悍な楚くらいか。
105 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 01:46:19 0
兵士の疲労が原因で引き返したのにさすがに無理なんでないの
>>102 雲南超えるのか? どう考えても疫病で全滅するな。
>>99 気候や地勢の困難があるが万が一、たとえアレクサンドロスが現地の中心的勢力を撃破しても
>>100さんの言う通り統治はかなり困難が予想されます
アジアを支配地域にしたアンティゴノス1世やセレウコス、ペルガモン王国は
マケドニアから軍人、ギリシアから職人や商人等誘致(騙しや強制もあったかも知れない)し植民都市を建設し
その植民都市らの都市連合に立脚した支配体制を取っていましたから
都市以外の在地土豪に対する支配はかなり緩く半独立的だったのが現実です
しかもギリシア本土と違い自営農民は極端に少なく大土地所有制がメインで
兵を召集しても現地の小作人たちにギリシア的な自発的献身は望めないでしょう
植民都市も地中海から遠ざかるに従い数も希薄になり
大王死後、中央アジアの都市に植民させられていたギリシア人らが帰郷を目指し西へ向かい大規模な反乱も起こしていたこともあり
たとえインドを征服したところで気候や地勢の違いからそこへ植民しようとする人を捜すのは困難でしょうね
まあ、たとえ一時的な統治だとしても、その後の影響は大きそうだけどね。
ガンダーラ美術のように、ギリシャ人の影響で宗教・芸術面での大変革はありそう。
もちろん、イスラム勢力の侵入ほどの影響は出ないだろうから、その程度じゃ
カーストは揺るぎもしないんだろうけど。
>>102 ペルシアの手前にあったとしてもマケドニア軍の完敗に終わるだけだ
お、なんか中国勢完勝を唱える人がいるな
面白そうなんで
>>109の人はもう少し詳しく説明してくれんかい?
111 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 23:21:45 0
バクトリアについて語る勇者はいないか?
数年前引っ越す際に
東京の某区の図書館に
『バクトリア王国の興亡』(この本の購入時、既にかなりの古本でしたが)を寄附してからは
バクトリアについての詳細な事柄はわからないですね
今思えばかなりもったいないことしたと思います
今じゃ古本のサイトでも引っ掛からないくらいですから
113 :
世界@名無史さん:2009/07/24(金) 00:07:49 0
バクトリアは欧米人は結構必死で研究したみたいだけど。
最東のギリシア人植民地だし。
「バクトリア王国の興亡」は持ってるけど、要約出来る内容でもないしなー。
俺は一度買った本は基本手放さない主義なんでね。
115 :
世界@名無史さん:2009/07/24(金) 00:47:41 0
バクトリア王国の系図の怪しさは異常。
グレコ・バクトリア王国は千の都市を支配下に入れたと言うが
誇張を排除して純粋にマケドニア系、ギリシア系植民者が実際に入植したのは十都市ぐらいか
思いあたるところで
バクトラ、ブランキダイ(エルクルガン)、カンプルテパ(パンダヘイオン)
アオルノス、アイ・ハヌム、タクシラ、最果てのアレクサンドリア(フジャンド)
オクソスのアレクサンドリア(テメルズ)、マルギアナのアレクサンドリア(バイラム・アリ又はギャウルカラ)
ぐらいか
人口が多くて1万、実際は1000〜2000ぐらい?
カトイコイ、クレルコイ(マケドニア系軍事植民者)はさほど多くないはずで
さらに都市機能を麻痺させずに市民兵の動員可能兵力を推察すると王国全体で2〜3000が限界か
バクトリアは主に傭兵を頼っていたらしいが西方との連絡絶たれガラディア人のような傭兵に適した民族から来援できず
また傭兵を雇う金も政情不安で歳入が安定せず
王国末期には野戦を戦える兵力の余裕もなく、都市の城塞守備要員を満たす程度に落ち込んだらしい
トカラ族に一撃で滅ぼされたのも滅ぶべくして滅んだと言うべきか
「ミリンダ王の問い」でギリシア的な論理と仏教徒の論理を直接交し合ったってだけでバクトリア王国の存在意義はあったと思う。
118 :
世界@名無史さん:2009/07/25(土) 12:45:20 0
小さな町も含めれば1000は支配してたんじゃないの?
インド・グリークの研究者はなかなかいないねえ。
東海大の定方氏の異端のインドは面白いよ。
119 :
世界@名無史さん:2009/07/26(日) 22:16:15 0
バクトリアの建国者ディオドトスって先祖はどこに
住んでいたか分かる?
ギリシア系は名前で大体の出身が分かると聞いたが・・・
>>119 まともな史料が手元にないので確定的なことはいえないけど
BC2世紀にシリア王国で王位を簒奪した幼王後見人の名前がディオドトス(テオドトス)・トリュポンというマケドニア人だから
マケドニア人かも知れないね
だけど時代が経ているからマケドニア人と言ってもバクトリア現地生まれかも
とにかくバクトリアについては遺跡遺物はわりと出土しているけど
いかんせん文書史料が決定的に少ないのがネックで推測でしか人物像を描けない
>>120に追加で
セレウコス1世とリュシマコスが仲たがいして対立した時
リュシマコス領のサルディス要塞(小アジア西部)の守備隊長の名がテオドトスという名のマケドニア人
(セレウコスは計略によりテオドトスと守備隊員たちに相互不審を抱かせ
意気消沈したテオドトスが降伏を申し入れ開城した)
また大王存命時代にバビロン北のシッタケネで1000人隊長選抜するため開催した戦技大会で
第七位に入賞したマケドニア人軍人の名がテオドトス
122 :
世界@名無史さん:2009/07/27(月) 22:59:45 0
ディオドトスはマケドニア人の可能性が高いのか・・・
バクトリア王のコイン欲しい。
>>122 私論ですが
マケドニア人はギリシア人に対して職人、商人、学者としては一目置いていたかも知れませんが
かのエウメネスの件でもそうですが
マケドニア人は兵士としてのギリシア人は認めていたが
将帥としてのギリシア人を見下していたいたような気がしますね
むしろギリシア本土侵攻前からマケドニア王国に傭兵を出していたトラキア人やイリュリア人の方をかっているように見える
実際、マケドニアがギリシアに陸上会戦で負けたのは神聖戦争での対フォキスと
ディアドコイ戦争初期のラミア戦争当初の苦戦を除けば
虚栄心と王室に対する敵愾心以外軍才も施政者としての資質も全くないカッサンドロスがギリシアに敗れただけですからね
>>118 ヘレニズム、特に東方ヘレニズムに関する研究者としてはロシアのリトヴィンスキー氏ですかね
この人の文献はロシア語なんで読めませんが
氏の友人である加藤氏の『アイハヌム』は東方ヘレニズムやパルティア、クシャーナに関する論説読めて面白いと思いますが
(既にご存知なら申し訳ないです)
バクトリア(若干インド・グリーク)の話なら
『アイハヌム2001』のヘレニズム的東方としてのグレコ・バクトリアという記事がお勧めですね
125 :
世界@名無史さん:2009/07/28(火) 23:24:40 0
加藤氏は結構貴重な文献を訳してくれてますね。
経歴も面白い人だ。創価なのはアレだが・・・
バクトリアはディオドトス1世が子の2世に殺され、
更に2世が部下のエウティディモスに殺されるとか
ゴタゴタしまくりですね。
ペルシアの事情読むと、暗殺の連続で王族が次々に消えたあと、
地方総督やってた王族のおっさんが王位に据えられ、その数年後に
アレクサンドロスに攻めて来られたみたいだな。不運過ぎるな・・・
そのまま王位にいても宮廷の陰謀で危険ではあったが。
>>125 しょうがないですよ
加藤氏もバクトリア王国の興亡の著者もそうだけど
日本でグレコ・バクトリア関連の遺跡のようなマイナーテーマの調査となると
莫大な調査費用を出資してもらうなら仏教をネタに仏教関連の大組織にパトロンになってもらうしかないでしょう
仏教に批判的な調査報告は出来ないという手枷足枷は嵌められてしまうけど
それでも加藤氏らが紛争地帯で地道に調査していただけるおかげで
自分のような下賎の人間でも情報を知り得るのだからうれしいですね
>>20 ダイレオスってのがいるのか?
それともダレイオスを間違えたのか?
それともダレイオスと大王を混ぜたのか?
>>31 TVでやってた岸辺シロー西遊記のエンディングの
ガンダーラ伝説の影響も大きいだろうな
130 :
世界@名無史さん:2009/07/29(水) 05:50:59 0
>>128 「ダイオレス」と20氏は書いてるのだが
大王レス、つまり民主政体の事だな。
____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\ <
>>128 「ダイオレス」と20氏は書いてるのだが
/ ⌒(__人__)⌒ \
| |r┬-| |
\ `ー’´ /
ノ \
/´ ヽ
| l \
ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
セレウコス1世ニカトールはリュシマコスを破り
アンティゴノス・モノプタルモスの息子で次々親族や重臣の裏切りで苦境にあった中
人望のない老父に代わりに孤軍奮闘していたデメトリオス・ポリオルケテスをついに虜囚とした
デメトリオスは捕虜になった時、愛妻アパメと死別して久しいセレウコスに娘ストラニケを後妻として差し出した
ある時、セレウコスとストラニケが部屋にいるときセレウコスと前妻との息子アンティオコスが来ると
アンティオコスは顔を赤らめ挙動が不審だった
そのようなことがたびたびあって心配したセレウコスは臣を呼び息子がどうしたのか聞いた
臣は答えた
「陛下、申し上げます。若君は恋をしているのでございます」
「なんと」
セレウコスはさっそくアンティオコスを呼び出すと
怒るどころか自らストラニケと離縁すると言うとアンティオコスと婚姻させた
アンティオコスとストラニケは仲睦ましい夫婦になり二男二女をもうけたという
ええはなしや
安彦さんの二カトールは
へらへらしてとらえどころのないタイプだったが
>>134 これって父親が愛妾を息子に譲ったっていう世にも珍しい話だから伝わってるんだよね。
リュシマコス家のお家騒動では詳細が殆ど伝わってない。
セレウコス・ニカトルは息子(実質東方副王)の謀叛を恐れてたんじゃないかね。
戦国時代みたいに身内でもうっかり信用出来ないから。
>>136 リュシマコスのお家騒動でわかっているのは
それまでリュシマコスの参謀、副将、そして小アジア領の副王としてリュシマコスの片腕だった嫡男アガトクレスを殺害したこと
そしてそのアガトクレスを慕っていた貴族も多かったのですが
リュシマコスはその貴族たちも殺害
もう老齢で判断力を失っていたのかわかりませんが
そして他の貴族たちや民衆の支持を失ったリュシマコスはクルペルディオンでセレウコスに敗れ
人望を失っていた瀕死のリュシマコスに付き添っていたのは彼の愛犬一匹だけだったといいます
(ただこの事の顛末をこの記述を書いた著者に話したのはその愛犬がどうか定かではありません)
リュシマコスには15人の子供がいたそうですが、いろいろな理由で失い
わずかにエジプト王プトレマイオス1世の娘アルシノエの間に出来た子供
プトレマイオス、リュシマコス、ピリッポスの3人は母アルシノエと難を逃れていました
クルペルディオンの戦い後、セレウコスは彼の元に亡命していたエジプトから追放された
プトレマイオス1世の長男プトレマイオス・ケラウノスに殺害されました
プトレマイオス・ケラウノスはセレウコス、リュシマコス没後の混乱するマケドニア・トラキアで王位に推挙されます
リュシマコスの寡婦にしてプトレマイオス・ケラウノスの異母姉のアルシノエが逃れ所有していたカッサンドレイア市を手に入れる為
アルシノエと婚姻し
その婚儀に出席していたリュシマコスの遺児を次々抱擁しました
しかし婚儀が終わり皆が市外に出た時
プトレマイオス・ケラウノスは兵に命じ3人の子供の命を奪い、リュシマコスの血統は絶えました
そのプトレマイオス・ケラウノスもあっけなくガラディア人の侵攻軍に敗れ落命するのですが
>>136 セレウコスとアンティオコスの関係は良好だったと思いますよ
セレウコスはアンティオコスに戦闘を経験させるためにイプソスや
おそらく(文献記載はないですが)クルペルディオンにも同行させました
その点、イプソスの敵側アンティゴノス親子よりは恵まれていたと思います
アンティゴノスはもう老齢で型に嵌まった片翼包囲の戦術しか取らず、セレウコスにはバレバレでした
むしろアンティゴノスは若い嫡男デメトリオスに全面的指揮を任せた方が良かったように見えます
その後、アンティオコスは東部諸州の監視に赴くのですが
セレウコスは地中海沿岸に植民都市建設に専念し、親子で役割分担できていたと思いますね
そのためシリアやキリキアはアンティオキア、セレウキア、アパメイアの家族の名を付けた植民都市だらけになりますが
東部諸州の都市に植民させられていたのは地中海沿岸に植民させられていた植民者たちとは違い
マケドニアの老兵やギリシア人傭兵で反逆した者やしそうな者、ペルシア側に従軍していたギリシア人傭兵
マケドニアに反抗したギリシア人市民などで
反乱の温床になり得るため副王クラスの軍司令官の滞在が必要だったのでしょう
実際、アレクサンドロス大王存命時と死直後に大規模反乱起こしていますし
セレウコスが凄いのは彼が一か八かの大博打的行動に出ることですね
摂政ペルディカッスの暗殺もそうですが
ペルディカッスは一介の近衛歩兵大隊長に過ぎなかったセレウコスを摂政軍の軍司令官に押し上げた恩人で着任から間もないし
またアンティゴノスから暗殺されそうになり、普通なら自分一人逃げるところを家族連れで
途方もない距離を走破してバビロンからエジプト逃亡を成功させる
圧巻なのはガザの戦い後、プトレマイオスからわずか1000の兵を借りて再び家族連れでバビロン奪回へ向かったこと
しかも行動を起こしたのは当時の軍事常識では軍事行動は控える冬
プトレマイオスはわずかな出費で野望ありあり輩を厄介払いできるとあって
確実に失敗すると思い諸手を挙げて見送ったのだが
なんとバビロン奪回に成功してしまうところですね
【セレウコスのバビロン奪回行@】
ガザの戦いでデメトリオスはプトレマイオスに惨敗を喫し遁走した
デメトリオス側にいたバビロン太守ペイトンが戦死しバビロン太守は空位になった
このペイトンはアゲノールの息子で暗殺されたセレウコスの盟友であったイリュリア人のペイトンとは別人
アンティゴノスの命で召還されセレウコス逃亡後のバビロン太守に着任)
BC312年冬 セレウコスはプトレマイオスから800の歩兵と200騎兵を借り、バビロン奪回へ向かった
プトレマイオスはセレウコスを厄介払いできたことと若僧デメトリオスを大いに破り
捕獲したデメトリオスの財宝を贈物として贈ったほどの余裕を見せていた
プトレマイオスはデメトリオスに止めを刺すべく将軍キリスに追撃を命じた
自分の父親のような歳の相手に対しても臆するようなことがない負けん気の強いデメトリオスはただ者ではなかった
デメトリオスは敗残兵とともにシリアに戻ると各地から兵をかき集め8000の兵でミュウスにおいてキリス率いるエジプト軍と戦った
寡兵ながらデメトリオスは大勝しキリスを捕虜にした
今度はデメトリオスがキリスと多くの贈物とともにプトレマイオスのもとへ還した
(後にデメトリオスはキプロスのサラミスでプトレマイオスと海戦しエジプト海軍を壊滅させることになる)
デメトリオスの勝利は反アンティゴノスを瓦解させ
カッサンドロスとリュシマコスはアンティゴノスと休戦した
孤立したプトレマイオスも休戦に同調せざるを得なかった
【セレウコスのバビロン奪回行A】
そんな中、セレウコスはティグリス上流を迂回するコースでバビロンへ向かっていた
途上のマケドニア人の軍事植民市カライでセレウコスは説得を始めた
マケドニア人の中にはアンティゴノスの強引なやり口に反感を抱くものが少なくなかった
こうしてカライのマケドニア兵を合流させバビロンの前面に到着
まだバビロンの軍と真正面で戦える兵力でないため
セレウコスはバビロン守備兵にも調略を開始した
バビロン守備隊はセレウコスの調略によりアンティゴノス派と反アンティゴノス派に分裂
反アンティゴノス派はセレウコス軍に合流した
セレウコスはここで初めて攻撃を開始しバビロンを陥落させた
バビロン陥落の報を受け仰天したのがアンティゴノス、デメトリオス親子
歓喜したのは八方塞がりになっていたプトレマイオスだった
アンティゴノスは直ちにスシアナ太守ニカノールに命じ東部諸州の軍を出来る限り集結しセレウコスを追討を命じた
またデメトリオスにも準備出来次第バビロンへ向かうよう命じた
スシアナ太守ニカノールの元には歩兵10000、騎兵7000が集結した
一方のセレウコスの手元にはまだ歩兵3000、騎兵400しかなかった
どうするのか
【セレウコスのバビロン奪回行B】
セレウコスは寡兵でニカノールに勝つには一度の戦いしかないと考え
そのため徹底的に偵察を行い敵の陣容、行軍経路、ティグリス川の渡河予想地点を把握した
セレウコスは部隊をひそかにティグリス川を渡河させた
さらにニカノールにセレウコスが逃げ出したとの偽情報を流し油断させると
一気に夜襲をかけた
セレウコス軍は大勝、ニカノールは僅かな敗残兵とともにメディア太守領へ逃げ込んだ
セレウコスも戦機を逃さず、がら空きになったスシアナ太守領へ進軍し制圧した
これを見たアンティゴノスの甥でギリシアのボイオティア、エウボイア島の支配を任せられていたボレマイオスが謀反
これに対しアンティゴノスはペロポネソスを支配していたポリュペルコンにボレマイオスに対抗するよう命じ
アレクサンドロス大王の遺児ヘラクレスを託した
これに危機感を持ったカッサンドロスはポリュペルコンにペロポネソスの恒久支配を承認すると講和を持ち掛けた
条件はヘラクレスの殺害
そしてそれは実行された
一方、セレウコスはスシアナ制圧に成功したものの
とてもやがて来るデメトリオスの軍には対抗できない
下手をすれば立て直したニカノールと挟撃されるかもしれない
どうするのか
【セレウコスのバビロン奪回行C】
セレウコスはニカノール追撃を決意
僅かな兵を残し追撃に向かった
残された部隊にはデメトリオス軍と正面から戦わず
機動力のある小部隊で渡河地点や補給拠点でのゲリラ戦術で敵を遅滞するよう命じた
案の定、デメトリオスは掃討のためバビロン太守領内で釘付けにされた
それでもデメトリオスは強引にバビロンを奪取した
しかし310年夏から半年も掃討作戦で時間を潰してしまった
その間にセレウコスはメディア太守領、ペルシア太守領を制圧
ついにニカノールを戦死させた
結局、フリュギアでアンティゴノス配下のフォイニクスがアンティゴノスに対し第三の謀反を起こしたため
デメトリオスは召還された
デメトリオスは謀反者達を討伐し小アジアに上陸したプトレマイオス軍を撃退して
BC308年父アンティゴノスとともに再度バビロン太守領へ赴くと
既にセレウコスは十二分にアンティゴノス軍に対抗できる兵力を有していた
詳細な記録は残されていないが何回か戦ったが決着着かず
結局アンティゴノスがメソポタミア放棄を条件に和睦しセレウコスの支配は安定した
ここら辺、カッサンドロスの梟雄振りが際立ってるよなあ。
親父に似たのかどうか、息子は母親殺してマケドニアから追い出されたり。
この家系は何処かタガが外れてるよな。
>>144 カッサンドロスはアレクサンドロス存命中に父アンティパトロスが解任されたことに弁明するために大王の元に派遣されましたが
当地でのアジア式儀礼法を見て思わず失笑してしまい
それを見たアレクサンドロスは激怒してカッサンドロスの髪を引っ張ると激しく殴打、頭を壁に打ちつける等激しい暴行を加えました
カッサンドロスはそれがトラウマになり帰国後も大王の彫像を見ただけで震えが止まらなかったようです
大王の死後の彼の行動は大王への怨みを大王の家族に転嫁してその怨念を晴らすべく行動しています
その行動はもうほとんど執念に近い
カッサンドロスはアタマおかしい
トロイア戦争関係の文献で
「カッサンドラ」=「アレクサンドラ」って表記されてるんだよね。
だったら
「カッサンドロス」=「アレクサンドロス」の意味にも取れる。
実際明確に書いてる文献はないはずだけど、アレクサンドロスとカッサンドロスは同じ意味の名前だってことは当時のギリシア語圏では常識だったんじゃないか。
重臣アンティパトロスの息子だってことも合わせて、カッサンドロスには大王との特別な関係があったんじゃないかと俺は勘繰ってるんだが。
148 :
世界@名無史さん:2009/08/06(木) 22:12:31 0
アレクサンドロス帝国の州区分と都市などが詳しく載っている地図が
あるHP知りませんか?
>>147 どんだけ狭い知識からの敷衍だよw
飛躍しすぎ
>>150 「勘繰ってる」って書いたろ。
仮説だよ。
少なくとも一部文献的な根拠のある推論なんだから飛躍してても愛嬌だろ。
前方5kmにある10cm四方の的へ向かって
照準が右に30度傾いた最大射程1kmの弩を放つようなもんだな
カッサンドロスで評価できる唯一の政治的行動は
アレクサンドロス大王が破壊したテーバイを再建したことか
>>151 仮説ね。ま、体をなしていようがいまいが、言うのは自由だからな
いくら文献的な根拠はあろうと、そっから先の信頼度は引用者と引用の仕方によるけどな
155 :
世界@名無史さん:2009/08/08(土) 03:15:41 0
カッサンダーのやりたい放題に一番憤ってたディアドコイは誰?
アンティパトロスだろw
157 :
世界@名無史さん:2009/08/09(日) 19:00:19 0
ハルパロスの汚職っぷりはガチ
ば〜〜〜〜〜〜っかじゃねぇの!?
159 :
世界@名無史さん:2009/08/10(月) 01:36:38 0
そりゃ人違い。
>>155 ディアドコイというよりは
反カッサンドロスの急先鋒でイニシアチブ取ってたのは王母オリュンピアスでしょ
ハルパロス事件以来アンティパトロス・カッサンドロス父子とは犬猿の仲だし
反カッサンドロス陣営は
オリュンピアス以外はポリュペルコン、エウメネス、(白の)クレイトス
カッサンドロス陣営は
カッサンドロス同様帝国摂政の地位を欲していたアンティゴノスと分権独立派のプトレマイオス
帝国艦隊司令官でもあったリュディア太守クレイトスは
ビザンティオンの海戦でニカノール率いるカッサンドロスの海軍を撃滅しエーゲ海の制海権掌握し
カッサンドロスとアンティゴノスの連絡路を寸断するが
アンティゴノスが策略によりクレイトスがビザンティオンに上陸している隙に奇襲をかけて
クレイトスの艦船を1隻以外全て沈没させた
陸上で孤立したクレイトスは陸路でポリュペルコンと合流しようとしたが
カッサンドロス陣営が有利と見た中立だったトラキア太守リュシマコスがクレイトスを捕らえ処刑しカッサンドロス陣営に加わった
リュシマコスはヘマやったよなー。
一旦後継者に決めた息子に謀叛の疑いを掛けて、結局後継者を失った。
一代で滅ぶのもむべなるかな。
162 :
世界@名無史さん:2009/08/12(水) 15:39:30 0
プトレマイオスはフィリッポスの隠し子らしいよ。
>>162 それってラゴスの妻がピリッポス2世の寵愛を受けてたのが根拠だろ。
平清盛が白河法皇の落胤だってのと同程度の信頼性しかないよ。
164 :
世界@名無史さん:2009/08/13(木) 19:44:33 0
ピリッポスって言うなw
トレミーって言ってた頃もあったな
>>164 おまえにどうこう言われる筋合いはねぇよ
ネタにマジr
169 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 11:10:27 0
ペルシア人は大王はダレイオスとフィリッポスの娘の子と
言っていたらしいぞ。
170 :
世界@名無史さん:2009/08/14(金) 23:06:27 0
サラミス王メネラオスってプトレマイオスの兄ですか?弟ですか?
>>170 アレクサンドロス存命中には記述がないので弟だと思われます
パルメニオン、ピロタス父子を粛清しアンティパトロスも粛清するため召還していた晩期の大王の幕僚は
身辺護衛兵(ソマトピュラクス)の8人
【大王のイエスマン的なとこはあるが、参謀、大王の臨編部隊長など勤めていた】
レオンナトス、ヘパイスティオン、リュシマコス、アリストヌウス、ペルディッカス、プトレマイオス、ペイトン、ペウケスタス
この内アリストヌウスだけ大王の生前も死後も何をしたのかわからない
ヘパイスティオンは大王生前に病死したが
大王死後、ペルディッカスは摂政、アリストヌウスを除く5人は太守職に就任している
173 :
世界@名無史さん:2009/08/15(土) 23:32:19 0
リュシマコスなんて自分でライオンの檻に入れておきながら
よく身の回りに置いてたな。
174 :
世界@名無史さん:2009/08/17(月) 00:46:03 0
大王の墓って海中に沈んだの?
175 :
世界@名無史さん:2009/08/19(水) 23:20:02 0
切れ者セレウコスを暗殺してマケドニア王になったケラウノスは
なかなかの人物だと思う。
何故後継ぎにされなかったんだろう。
>>175 詳細はわからないが
プトレマイオス1世がケラウノスを追放したのはBC287年で
プトレマイオス1世が退位しピラデルポス(2世)に王位を譲ったのはBC285年だから
プトレマイオス1世とケラウノス父子間で後継者問題で確執があったのかも知れない
亡命後のケラウノスの狙っていたかのようなセレウコスがリュシマコスに勝利した直後の暗殺、出奔
リュシマコス、セレウコス没後の混乱を利用したマケドニア王位簒奪
トラキア太守の後継者になり得る可能性のあった姉アルシノエとリュシマコスとの子供たちの謀殺など
ケラウノスの目敏く汚い性向からして父プトレマイオスが嫌ったのかも知れないね
>>175 でもガラティア人の侵入に抗し切れずに斃れただろ。
君主の器ではなかったんだよ。
178 :
世界@名無史さん:2009/08/20(木) 22:09:03 0
ケラウノスはアンティパトロスの外孫に当たるんだよな。
だからマケドニア支配の為には後継者に立てるメリットがある。
ファレロンのデメトリオスなんかも後継者に推していたみたいだし、
そこまで凶悪な人間ではなかったと思う。
しかし、実の兄弟から二回も妻にされるアルシノエってどんな魔性やねん。
萌え〜
180 :
世界@名無史さん:2009/08/21(金) 01:20:35 0
アンティパトロスの外孫と言うよりカッサンドロスの外甥と言った方がいいか。
アレクサンドロス死後、バビロン会議が開かれるのだけど
中心となったのはペルディッカスやプトレマイオスら身辺護衛兵とメレアグロス
(メレアグロスはペルディッカスに猛反発して謀殺されるが)
まだ応急的措置だけを講ずるならわかるが
アンティパトロス、アンティゴノス、クラテロスを招致せずに頭ごなしに太守領を取り決めるのは
身辺護衛兵たちの越権行為にしか見えないのだが
それを可能にしたのは何かあるのか?
アンティゴノスは当時単なる小アジア地方の行政長官だろ。
まさか後々帝国の覇権を掌握しかけるところまで行くとは想定出来ないよ。
アンティパトロスはマケドニア摂政の地位を保ってたんだから、問題はクラテロスとレオンナトスくらいだよな。
アンティゴノスはアレクサンドロスの東征時には重要な役割を果たしましたよ
BC332年春 イッソスの戦いの後にアレクサンドロスがシリア、パレスチナへ転戦した際に
小アジア東部やアルメニアに残っていたアケメネス朝の大軍がマケドニア軍の補給路を寸断しようとキリキアに攻め込んできた
アレクサンドロスはギリシア人に対する不信から海軍を解散していたため窮地に陥ったが
その際に対ペルシア軍迎撃のために大王から信任を受けたのがアンティゴノスで
小アジアの太守連合軍の指揮を取った
配下にはネアルコス、カラス、バラクロスがいた
アンティゴノスは見事ペルシア軍を撃破し、大王の死までキリキアの補給路を死守した
キリキア門萌え〜
>>185 『アレクサンドロス大王伝』クルティウス・ルフス
第1章34-35
『アレクサンドロスの征服と神話』森谷公俊
p122-133、主要人物略伝:アンティゴノス、ネアルコスの項
『アレクサンドロス大王』ピエール・ブリアン
p16-17,p57-58
クルティウス・ルフスによるとアンティゴノスとペルシア軍の戦いは3度あったらしい
原本も英訳本も手に入れてないけどディオドロスの本に書いてある気がしますね
下の二つの本はディオドロスからの抜粋だと思います
187 :
世界@名無史さん:2009/08/27(木) 21:10:03 O
>>186の訂正
p122-133→p122-123
188 :
185:2009/08/28(金) 03:45:52 0
グレコ・バクトリア王国の中心都市の一つといわれるアイ・ハヌムはアレクサンドロス存命中に建設されたと思っていたが
アイ・ハヌムを建設したキネアスという人物はテッサリア人でセレウコス1世配下の士官だったらしい
セレウコスがこの地に植民都市を建設させたのはちょっと意外だった
とはいえアイ・ハヌムの最後はかなり悲惨だったみたいですね
円形劇場の半円形部分の半分だけの発掘でも100体以上の遺骨が発見されている
>セレウコスがこの地に植民都市を建設させたのはちょっと意外
なぜですか
>>190 要はギリシア人たちがわざわざ敵性民族に囲まれた遠隔地で
かつ植生も気候も全く違う慣れ親しんでいる海から遠い内陸の山岳地帯に行きたがらないのでは?ということです
大王存命時代もこれら東部辺境地帯の植民都市に送ったのは反乱の恐れのあるギリシア人傭兵や
ペルシア軍側にいたギリシア人傭兵の捕虜
そして大王の東方政策に異議もしくは謀反を実際に起こした懲罰大隊所属のマケドニア兵を
棄民同様に捨てていった人間が中心です
(マケドニア軍に所属したギリシア人傭兵のべ4万4千の内2万5千を植民都市に残した)
現に大王のインド遠征中や没直後にギリシアへ帰還するための死に物狂いの反乱を起こしています
結局、セレウコスはギリシアを支配下に入れられなかったので
魅力あるシリアの地中海沿岸(せいぜいティグリス流域まで)を除いてギリシア人を植民都市に誘致するのには
かなり苦労したと思いますね
あとは騙ししかないでしょう
なるほど
193 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 12:37:48 0
オクサスのアレクサンドリアがアイ・ハヌムじゃないの?
194 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:13:19 0
ヘレニズム期って、ギリシャ語文献の黄金期だったそうですが…
現在、有名なギリシャ文献なのは、ヘロドトスとか、トゥキュディデスとか、
古典期のものですよね。
ヘレニズム期の著作で、邦訳で入手できるものって、どんなのがありますか??
195 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:57:47 0
アッリアノスやクルティウス・ルフスのは邦訳があるよ。
ただその基にしたヘレニズム時代の歴史書はほとんど残ってないし、
訳も断片的なのしかないだろう。
196 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 19:20:07 0
>>195 アッリアノスって、ローマ期の人だっけ??
アレクサンドロス大王東征記は読みました。
へレニズムの著作って、残存してないんですか。
なぜでしょうね。
アレキサンドリアの図書館とか、とにかく文書の時代だと思うのですか。
197 :
世界@名無史さん:2009/08/30(日) 20:13:04 0
朝鮮半島の古典が残ってないのと同じじゃないの?
198 :
世界@名無史さん:2009/08/30(日) 21:02:24 0
アレクサンドリアの図書館は公共図書館じゃないから
そこにある本は流布しにくい。
ヘレニズム時代の資料はアレクサンドリアの度重なる
戦火や災害で消失したと思われ。
199 :
世界@名無史さん:2009/08/30(日) 22:15:13 0
ウリの古典もチョッパリによって消失したニダ!
>>193 それも仮説の一つで
セレウコス期での建設も仮説の一つです
しかしながら私がセレウコス期での建設であるのではないかという仮説を推すのは
一つにアイ・ハイムの建造物からの推察です
もしアレクサンドロスの名を付した都市ならアレクサンドロスに因む建造物があっていいものなんですが
宮殿跡の横にあるのはアレクサンドロスのものでなく、都市の創設者キアネスの大きな祠堂が存在していることです
第二にアイ・ハイムの建造物はかなり破壊、盗掘されましたが、幸運にも同じくキアネスの祠堂の礎石に碑文が残っています
それは都市の創設者キアネスを讃える起草文です
その著者クレアルコスはセレウコスがマウリア朝に派遣した大使メガステネスの随行員の一人の哲学者と言われていることです
それにアレクサンドロスが建設を命じたならクレアルコスはキアネスより前にアレクサンドロスを讃える文を書くのではないかと
>>196 ヘレニズム期に大王伝又は大王に関する著述を書いたのは
歴史家カリステネス
建築家アリストブロス
エジプト王プトレマイオス
哲学者オネシクリトス
大王配下武将のネアルコス
プトレマイオス朝時代のクレイタルコス
の6人ですが、いずれも散在し現存していません
ローマ期に大王に関する著述をしたディオドロス、プルタルコス、クルティウス・ルフス、アッリアノス、ユスティヌスの書は
現存しています(ディオドロスを除く4人の書は和訳が出ています)
彼らのネタ本はヘレニズム期の本であることは確かです
(例えばアッリアノスの『アレクサンドロス東征記』の原本はアリストブロスとプトレマイオスの著作本であるとか)
アッリアノスの『インド誌』はセレウコス朝のマウリア朝への大使メガステネスやインダスを船で南下したネアルコス
インドの風物を書き残したオネシクリトスの著述本から抜粋したもので
怪しげな生物も登場しますが
カースト制(著作内での階層は4つでなく7つもあるが)にも詳しい言及があり興味深いですよ
カッリステネスの書いたものはかなり辛辣だったろうから大王生存中か死後すぐにでも焚書されたんじゃないかね。
カルディアのヒエロニュモスの原文が発掘されたら凄いんだけどなー。
203 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 19:11:03 0
ロゼッタストーンなら全訳あんじゃね?
>>202 カリステネスなら伝承抜粋だと思うけど和訳で出てますよ
オリジナルから比べるとかなり脱稿はあると思いますけどね
ただ古いので手に入りにくいのと同時にあまりに高すぎてあっても私は買えないですけどね
(Amazonで検索したら89000円!?)
205 :
世界@名無史さん:2009/09/07(月) 01:25:56 0
パルティアなんかがのさばるくらいならアケメネス朝が続いて
いた方が文化とか発展していた気がする。
>>205 そりゃ考えるまでもなくそうでそ。
もちろん、支配層が遊牧民の国家が400年近くオリエントで覇を
唱えたというのは、特筆すべきことなのかもしれないけど。
パルティアも文化的な発展は合ったと思うけどね
古代ペルシャって、アケメネス、パルティア、ササンの3王朝で、
合計1000年くらい西アジアの覇者だったのに、
同時代ペルシャ人による文献史料が異様に少ないよね。
古代ペルシャ人が書いたペルシャ史とかって、皆無なんですか??
ギリシャ・ローマ・中国・インドと並ぶ古代文明なのに、影薄いよね。
まあインド人も歴史に対する情熱とかないよな。
逆に辺境のギリシア人とシナ人が異常に歴史記述に拘ったのは何故かと言うことだ。
>>209 涅槃や0の概念発明しちゃうような文化だからかもしれんね
叙事詩とか碑文とかはあるんだろうけど。
まあ、古代ペルシアに関しては、
ついに自前の「永続的な」文字を持たなかったことが大きいな。
日本やヨーロッパが典型であるように、別に借用でも何の問題もないんだが、
その場王朝1代限りの借り物だから、文献が蓄積されていかない。
ペルシアに関しては、ひょっとしたら言語構造の影響もあるかもしれない。
要するにインドと同じ。印欧語族サテム語系特有の現象。
ただ、世界最古の文明であるはずの、オリエント文明全体で、
文字文化の断絶が起きているのは、本当に痛い。
メソポタミアとエジプト、両方で古代文字文化が古代終了とともに断絶している。
結局、楔形文字もヒエログリフも、
生み出した言語がセム系でなかったことが致命的だったのだろう。
セム語族が、メソポタミアで自らの表意文字を生み出していれば、
アラム文字の席捲はなく(というよりアラム語が表意文字で書き表されて)
古代文献は、あたかも中国のように、連綿と受け継がれたのではないかと思う。
セム語自体は、3子音語根の「等音節言語」なので、
一語=一文字とすれば、表意文字に馴染まないこともなかったはず。
どっかの本で読んだ記憶があるけど、アレキサンダーの率いた軍隊は当時では世界最高の
高給取りだったとか。
案外、略奪→ボーナス支払いの自転車操業でなかなか東征をやめれなかったのかな。
当時では、って同時代に比較対象がそれほどあるわけでもなかろう
大規模遠征と大規模勝利のせいで結果的に高給取りだったにすぎないのでは?
言われてみればそうだよね。
世界の富が集中していたペルシアを征服したんだから、納得のペイか。
ところでありがちかもしれないけど、もしフィリッポス2世が生きていたら、
その後のマケドニアはどうなったんだろう?
東征がシステム上必要のものではなく、あくまでアレキサンダー大王個人による
稀有壮大な欲望の発露とするならば、当然のようにオリエント政策も変わっていたはず。
自分としては地中海のギリシア権益を確保できた段階でダレイオスと講和して、むしろ
アテネ、スパルタ政策を重視していた気がする。
フィリッポスが生きてたら
フィリッポスが若い新妃とその子に夢中で
アレキサンダーの後継者としての立場が危うくなった可能性も
その場合ギリシアも鎮めなきゃなんないけど
エペイロスの方ももめるだろうなあ
ミエザで仲間と学ばせてまで後継の土台を作ってたから
切り捨てることはないだろうけど
父子の関係がおもわしくない場合が気になるな
アレキサンダーの強さはカリスマにもあるだろうけど
フィリッポス以来のマケドニア軍と陣法の強さによるところも大きいから
父子が対立することになったらどうなってたことか。
「この国にはお前のいるべき場所はない」って色んな解釈されてるよね。
アレクサンドロスはマケドニアには必要ない、って読む人間もいる。
ピリッポス2世の暗殺は恐らくオリュンピアスが仕組んだものだろうから、失敗することはあっても全く起こらないってことはないだろう。
勿論失敗した時のために間に何人もの仕掛人を挟んでるだろうし、タイミングとしてエペイロス王とマケドニア王女の婚礼の式場でことを決行するってことは失敗したからと言ってオリュンピアスには簡単に手を出せない状況下でやったわけだ。
多分オリュンピアスの尻尾は掴めないだろうし、掴んだとしてもエペイロスに息子のアレクサンドロス共々帰国して西方の脅威になった可能性が大きい。
ピリッポスも結局息子の方は懐柔せざるを得ないんじゃないかね。
フィリッポスが存命ならば、一番の懸念は「東征の成否」なのでは?
無論、人質の身からギリシアの盟主にまで上り詰めた手腕は流石だけど、
歴史を知っている我々からすると、どうしてもアレキサンダーよりも
優れているという感じはしない。
東征にアレキサンダーを率いていたならまさに最強タッグと言えるかも
しれないが「2人の良将は1人の凡将に劣る」という言葉もある。
案外、イプソスの戦いのときのアンティゴノス親子みたいになったかも・・・・・・。
>>216 オリュンピアスの死に様はまさに因果応報ですな。
>歴史を知っている我々からすると、どうしてもアレキサンダーよりも
>優れているという感じはしない。
そうかな?
帝国拡大と勝利を本当の意味でいいと見るならアレクサンドロスの方が優れてるかもしれないけど
身の丈に合わない、政治感覚に欠けた無茶を人気と兵力で押し切った愚行とも見える
たしかに。
しかしその愚行が古代史に燦然と輝く偉業になったのだから皮肉。
あらゆる偉人・英雄と呼ばれる者の中で、アレキサンダーだけが「現世」における
栄光よりも「後世」に名をとどろかすことを選んだ気がする。
誇大妄想と言えるほどの圧倒的なエゴイズムと抜きん出た能力、そして生まれながらの地位。
こんな人間の親になれば、あとは早死にするしかないのかも・・・・・・。
プトレマイオス朝に興味あって
今、海のエジプト展に来てるわけですが
先程から某所の説明文の前でババア・・
失礼、妙齢の御婦人方が15分以上も占拠なされていて
混んでるんだから
早く退けよババア・・
ではなく
後の人の迷惑になりますから御婦人方、立ち止まらないでください
ってか
クレオパトラっておしゃぶり上手だったってホント?
カエサルやアントニウスを手玉にとったあのクレオパトラのことなら
おしゃべり上手だったのは確かだが
223 :
世界@名無史さん:2009/09/28(月) 19:20:40 0
海のエジプト展の解説のお姉さんはキレイどころ揃いだったな。。。
224 :
世界@名無史さん:2009/10/07(水) 01:36:45 0
海のエジプト展も終わったな。
セレウコス朝展とかやんないかな?
まあ、無理だろうけど。
225 :
世界@名無史さん:2009/10/07(水) 01:55:26 0
アレクサンドロスってギリシャ帝国を作ったわけなのに、
何でローマと違ってバラバラになってあっけなくローマに征服されたんだろう?
帝国作ったっつって
そんな実際的な統治機構があったのかねえ
セレウコス朝とかがそれなりに長続きした方が疑問だ
227 :
世界@名無史さん:2009/10/16(金) 09:17:39 0
帝国作ったと言っても
統治機構が完備していなくて、王のカリスマ・軍隊の力で維持してる
と思うので、崩壊するときはあっけないんじゃないのかな
>>219 >古代史に燦然と輝く偉業
この感覚こそが、最悪の意味での「ヨーロッパ中心主義」「白人至上主義」の
致命的感覚なんじゃないかと思う。
白人がホルホルするネタとしてはどうでもいいが、
日本人が騙されるのは、全くいただけない。
実際の所、アレキサンダーというのは、
ヨーロッパ側から見れば、近代列強まで為しえなかった
「偉大なるアジア征服譚」に見えるかもしれないが、
オリエント史の側から見れば、
歴史上繰り返される帝国の崩壊に、たまたま乗じて乗り込んできたところ
思わず1帝国の版図を丸々手に入れてしまったが、まともに統治すら出来なかった
野蛮人の「(中国史でいう)制服王朝」(恥ずかしいことに一代限り)にすぎないわけで。
俺自身は、反吐がでると言われるほどの西欧文明一極の人文主義者だが、
アレクサンダーは、ポリス体制とは何の関係も無い、
血統がギリシア人に近いだけのただの野蛮人なので、
いくら腐しても痛くも痒くもない。実際その程度だと思う。
>>歴史上繰り返される帝国の崩壊に、たまたま乗じて乗り込んできたところ
アレクサンドロスの遠征が始まる前にアケメネス朝が崩壊寸前だったというのはたまに読むけど、具体的に何がどうなっていたのかは聞いた事が無いのでよければ詳しく教えて欲しい。
>>230 崩壊寸前?
そんなの初耳だな
別に戦争前に大反乱が起きたわけでもなく
アレクサンドロスの遠征に呼応して反乱が起きたわけでもなく
間隙をついてスキタイが攻め込んできたわけでもない
バクトリアやアラコシア、そしてフェニキア人諸都市もペルシア帝に忠実だったし、大兵力の動員も容易に出来た
アレクサンドロスがクテシフォンを陥れても東部ペルシアや中央アジアなどで根強い抵抗もしているけど
ダレイオス三世の即位の経緯からして政情がある程度不安定だったのは事実だが、
>>歴史上繰り返される帝国の崩壊
というのは意味が解らない。それじゃまるでアレクサンドロスが遠征をせずともアケメネス朝は勝手に崩壊したという風にしか読めん。
233 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 21:49:24 0
>>アレクサンダーは、ポリス体制とは何の関係も無い、
>>血統がギリシア人に近いだけのただの野蛮人なので、
>>いくら腐しても痛くも痒くもない。
なんだ、デモステネスか。
235 :
世界@名無史さん:2009/10/21(水) 04:55:37 0
最近、過疎ってるね。
ヒストリエの新刊でも出ないと盛り上がらないか。
228は最近だとフン族スレに湧いて出ていたな。
銃・火砲スレなどを白人白人と連呼して荒らしていたキチガイ荒らし。
しばらく前に「アレクサンドロスの存在は白人による捏造!」と連呼してた奴と同じか?
238 :
世界@名無史さん:2009/10/21(水) 16:44:33 0
>228
言われることは合ってはまるけど
古代に輝く偉大な偉業というのも当てはまるでしょ
やはりギリシアとペルシアの文化が融合したヘレニズムは世界を変えた偉業だと思う
1代で滅びたけどその後もギリシア人が勢力争いを演じたし
239 :
世界@名無史さん:2009/10/23(金) 16:50:38 0
この時代って金の価値はあったんですか?
うむ
>>238 俺はむしろ、アレキサンダー個人の軍事的功績より、
「ヘレニズム世界」なるものについて、かなり疑わしいと思っているんだよ。
アレキサンダー大王の存在が捏造ということは、それはもちろんあり得ないが、
「ギリシアとペルシアの文化が偉大に融合したヘレニズム世界」なる概念は、
最悪で捏造、贔屓目に見ても極度の過大評価の可能性が
かなり高いと思っている。
そもそも、ペルシア側から見たら、中国史でいう「野蛮人の征服王朝」であることは確実なんだ。
アレキサンダー存命中から、彼の指揮により、みるみるオリエント化していき、
その子孫の王国は、ただのありがちな東方型標準の王国となった。
ギリシア文字のコインがアフガンで遠く見つかったりするが、
これは、紫禁城の扁額が、満州文字と漢字の併記であることと、どこが違うのだろうと思う。
清朝治下の支那本土の文化を、「マンチュリズム文化」とは言わない。
あの時代、漢族の服装など、完全にツングース化させているが、それでも
「北アジアと漢土(支那)の文化が融合した、『マンチュリズム世界』が作られた」とは、
やっぱり言わないわけだよ。
242 :
世界@名無史さん:2009/10/24(土) 23:09:16 0
>ペルシア側から見たら、中国史でいう「野蛮人の征服王朝」であることは確実なんだ。
これは俺も認めます
>アレキサンダー存命中から、彼の指揮により、みるみるオリエント化していき、
その子孫の王国は、ただのありがちな東方型標準の王国となった。
ギリシア文字のコインがアフガンで遠く見つかったりするが、
これは、紫禁城の扁額が、満州文字と漢字の併記であることと、どこが違うのだろうと思う。
清朝治下の支那本土の文化を、「マンチュリズム文化」とは言わない。
あの時代、漢族の服装など、完全にツングース化させているが、それでも
「北アジアと漢土(支那)の文化が融合した、『マンチュリズム世界』が作られた」とは、
やっぱり言わないわけだよ。
これに関してはそういう言い方も出来るし、言い切れるけど
なにか違うような気がする、バクトリアのような王国や文化に与えた影響は大きいと思うんだけど、
それと世界帝国といえるペルシア帝国をあっさり滅ぼしたってのが衝撃的なことだったと思うからインパクトは大きいんじゃない
>>241 >歴史上繰り返される帝国の崩壊に、たまたま乗じて乗り込んできたところ
ってのはどういう意味なん?
東方型標準の王国とは?
244 :
世界@名無史さん:2009/10/24(土) 23:22:19 0
>243
俺は241じゃないが東方型標準の王国に関しては
独裁的な王権って所じゃないかな
なんか、そういうのを本で読んだような気がする
>>これは、紫禁城の扁額が、満州文字と漢字の併記であることと、どこが違うのだろうと思う。
首都の宮廷と遠くの僻地にまで浸透するのじゃ違うんじゃないのか?
清朝は例えば満州人を中国中に移民させたりしたの?
>>あの時代、漢族の服装など、完全にツングース化させているが、それでも
>>「北アジアと漢土(支那)の文化が融合した、『マンチュリズム世界』が作られた」とは、
>>やっぱり言わないわけだよ。
中国史はさっぱりだけど、“ツングース化させた”って事は”融合”じゃないって事かい?
“ギリシャ文化とペルシャ文化の融合”と言われるヘレニズムとは比較対象にならないんじゃないのか?
>ヘレニズム世界」なる概念は、最悪で捏造、贔屓目に見ても極度の過大評価の可能性
評価ねえ。誰が評価下すの?
後世の史家でしょ。
ギリシア・ローマを理想とする風潮が何度も起こってるヨーロッパだしね。
それを過大ととるか、後世の史家にも影響を与えてると見るかの違いでもあるだろう
対して満州文化?
中華思想で長く続いてたとこに何かをもちよったとしても、
オマケにしかならないということもあるし
いろんな意味で比較にはならんのではないか
そもそも融合しようとしてたのはアレクだけで後継者達は殆どがギリシャ・マケドニア人優位の政策を取ったんじゃね?
248 :
世界@名無史さん:2009/10/25(日) 12:44:46 0
>>247 大王が融合しようとしたのは後世の作り話じゃないかな
ギリシア・マケドニア人優位は、あまり変わらないと思うね
>>後世の作り話じゃないかな
例えばアリアノスの著作には融合政策に関して幾つもの記述があるが、それが作り話だとする根拠をお聞きしたい。
作り話ならアリアノスが参照したアリストブロスやプトレマイオスなどが創作したという事になるが、なぜそんな事をしたのかという動機も含めて。
そもそもの話、融合政策が評価されたのは近代になってからで、古代では「ギリシャ人やマケドニア人をないがしろにし蛮人を重用した」と否定的な評価がほとんどだった。
それが作り話なら複数の歴史家が半ば神格化された存在だったアレクを貶めようと同じ話を創作した、という陰謀論じみた奇天烈な話になってしまう。
ヘレニズムの文化的融合って、実際どんな感じなの??
バーミヤンには、「仏陀に仕えるヘラクレス」とかの像だか彫刻だかがあったっていうけど、
そういうパッチワーク的な感じなもの??
ギリシャ語を使うオリエント系著作家で有名な人っているの??
252 :
世界@名無史さん:2009/10/26(月) 20:19:11 0
>>249 ギリシア男と異民族の女ってパターンしか作れないんじゃないか
その逆はありえないだろう
融合政策って何?被支配者への慰撫政策とどう違うの?
臣下にペルシャ風礼式とらせるようにしたのは、ペルシャに文化乗っとられたようなものと
感じるものが多かったんじゃない? 遊牧民の漢化と違って言語までは変わってはいないけど。
255 :
世界@名無史さん:2010/01/13(水) 12:19:09 0
支配地域の有力者と結婚して
その地の統治を円滑に進めるための手段は
その後の歴史にも多く見られるけど
256 :
世界@名無史さん:2010/02/21(日) 10:08:06 0
age
ギリシャ人「世界の起源は古代ギリシャ!」
韓国人「そうニダ!」
ギリシャ人「哲学、科学、機械に証明、弁証法、古代ギリシャになくて
現在にないものは一つもない!」
韓国人「そうニダ!」
ギリシャ人「・・なあ、やめてくれる?誰も信用しなくなるべよ」
韓国人「世界の起源は古代韓民族ニダ!」
ギリシャ人「そうデ〜ス!」
韓国人「哲学、科学、キムチに証明、弁証法、古代韓国になくて
現在にないものは一つもないニダ!」
ギリシャ人「その通りデ〜ス!」
韓国人「同胞・・」
ギリシャ人「・・気があいマ〜ス!」
259 :
世界@名無史さん:2010/02/25(木) 13:56:26 0
当時の時代背景を聞きたいのですが
ギリシアのような都市国家とオリエントの大国があり
常にギリシアが攻められる立場でギリシアの人は不安定な生活を送ってて
それで遂にアレクサンドロスのような英雄が登場したって感じですか?
260 :
世界@名無史さん:2010/02/25(木) 16:22:35 0
パルティアはギリシャ・マケドニアの殖民都市を残らずせん滅
ローマとの戦争で、ローマに味方してギリシャ人ポリスの自治権を剥奪。
バビロニア伊東でギリシャ系が同化・消滅したのはそれ以後か?
261 :
世界@名無史さん:2010/02/25(木) 16:23:46 0
アリストテレスはアレクサンドロスにお払い箱になったのですか?
>>259 都市国家といえば聞こえはいいけど
要するに紀元前4000年頃のメソポタミアと変わらない未発達な小国家群が林立するギリシャを
比較的発達していた、併呑の進んだマケドニアが飲み込み
そのまま内憂外患のペルシャも征服した、という感じ。
263 :
世界@名無史さん:2010/02/27(土) 13:50:13 0
>>262 当時ギリシアを統一する思想は結構あったんですか?
それとギリシア人のペルシア観は憧れが強かったんでしょうか?
>>263 マケドニアによる覇権以前から、ペルシャ文化への憧れ・導入はそれなりにあったハズ
ただ、一方で強烈に夷狄・蛮族視もしていた・・・・・
富の溺れたペルシャとか、軽蔑しもしていたし
ただ、フィリッポス2世以前はペルシャの政治的影響を受けまくっていたけど
リュシマコスって宮廷の道化師の息子なのになぜあんなに早い時期から
側近護衛官になったんだろう
直腸部分と密接に関係のある何かだろう
267 :
世界@名無史さん:2010/03/05(金) 11:31:07 0
ttp://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20100305-OHT1T00115.htm シリア北部で「アレクサンダー大王」銀貨発見
シリア北部アレッポ当局者は4日、同国北部の村の民家から、
ヘレニズム時代(紀元前4世紀から同1世紀)に造られたとみられる銀のコイン約250枚が見つかったと発表した。
約120枚には、ギリシャからインド北西部に至る世界帝国を築いたアレクサンダー大王の肖像が彫られていた。
当局者らによると、2月下旬ごろ、村の男性が自宅の増築工事をしようと地面を掘った際、
コインが詰まった重さ約2・8キロの青銅製の箱を発見。
コインはアレッポ市長に預けられ、今後は博物館に寄贈される。
古代シリアはアレクサンダー大王が征服。
同王の死後、部下のセレウコスがシリア王国(紀元前312〜同63年)を築いた。
(共同)
(2010年3月5日11時16分 スポーツ報知)
当時の金は普通に流通して庶民が使ってたのかな
戦象というのはどういうものと認識するべきなのだろうか
戦う象
271 :
世界@名無史さん:2010/03/14(日) 15:07:48 0
乗ってたのは大将だけでしょ?
272 :
世界@名無史さん:2010/03/14(日) 18:32:57 0
ミリンダ王って本買ったら仏教の話ばっかり
つまらん。
>>272 グレコ・バクトリアのこと知りたいのなら
『バクトリア王国の興亡』がお勧め
既に絶版なので入手は極めて困難だが
274 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 01:11:09 0
ミリンダってジュースが昔あったな・・・
メナンドロスってマケドニア人に多い名前なの?
276 :
世界@名無史さん:2010/04/26(月) 03:34:42 0
>>264 いまふうにいうなら、こんなかんじか。
チャイナによる覇権以前から、アメリカ文化への憧れ・導入はそれなりにあったハズ
ただ、一方で強烈に夷狄・蛮族視もしていた・・・・・
富の溺れたアメリカとか、軽蔑しもしていたし
ただ、民主党以前はアメリカの政治的影響を受けまくっていたけど
277 :
世界@名無史さん:2010/05/03(月) 19:24:40 0
新潮古代美術館7を中古で買いました。
写真も豊富でヘレニズム好きにはいい本です。
278 :
世界@名無史さん:2010/05/10(月) 00:39:46 0
日本にアレクサンドロス愛好会みたいなのってないの?
パンパン子孫の会ならあるよ。
280 :
世界@名無史さん:2010/06/01(火) 11:01:11 0
アレクサンドロスの子を身籠もったスキタイの女王は
どうなったんだろ?
281 :
世界@名無史さん:2010/06/01(火) 13:42:48 0
ペイトンは何してたんだろうね
帝国の敵認定から東部総督連合との戦争の間
エウメネスやアルケタスと組むのでもなく
282 :
世界@名無史さん:2010/06/01(火) 15:27:16 0
中立を保ってたらアンティゴノスに警戒され暗殺ってトコじゃないの?
283 :
世界@名無史さん:2010/06/01(火) 15:47:03 0
中立もなにもペイトンもエウメネスと一緒に帝国の敵とされたはず
アンティゴノスは帝国の敵とされた全員を討伐する軍の司令官
自分は中立を守るとして何もしなかったのならペイトン間抜けすぎ
284 :
世界@名無史さん:2010/06/01(火) 15:56:34 0
原典読んでないからわからんけど、エウとアンティゴノスが
争ってる最中に東方に勢力を伸ばしてたら、アンティゴノスに
誘い出されて殺されたんじゃ?
285 :
世界@名無史さん:2010/06/01(火) 16:23:00 0
ペイトンが殺されるのってエウメネスの殺された後だよね
前321年から前317年の間ペイトンはコタツでみかん食ってたのかね
コタツでみかんかあ
いいなあ
当時のヘレニズム世界で炬燵ってあるのか?
セレウコス1世が老母ラオデスをコタツ風暖房具に当たらせ
当時インド方面でしか産出しなかった甘いオレンジを食べさせたというのが
ヘレニズムでのコタツみかん
セレウコスはアレクサンドロスのヘレニズム政策で
中央アジアに勢力を持っていたペルシャ軍の残党スピタメネスの娘と結婚していて
妻から中央アジア山岳地方に伝わるコタツ風暖房器具を伝えられた
今考えたウソだけどな
アレクサンドロスがスキタイの女王を孕ませた件について
kwsk
イランやアフガンにコタツがあるのは本当
292 :
世界@名無史さん:2010/06/03(木) 08:43:16 0
アレクサンドロスは殆ど膣性交なんざ、やらかさ無かったぞ!
293 :
世界@名無史さん:2010/06/05(土) 03:18:03 0
庶子のヘラクレスというのも「アレクサンドロスの胤ではない」
という説が一般に定着しているしね。
なるほど
>>290 アレクサンドロス4世の母ロクサナの事じゃないか
295 :
世界@名無史さん:2010/06/06(日) 00:47:28 0
アマゾン族の女王タレストリスはアレクサンドロスを
訪ねてこう言った。
「私はあなたの勝利と武勇の評判を聞いて、あなたに
お目にかかり、あなたの遠征のお手伝いに私の資力と
兵力を捧げにやって参りました。
いま、あなたのかくも美しく、若く、逞しいお姿を拝
見いたしましたが、この私も、あらゆる点で完全であ
りますので、私と臥所(ふしど)を共になされてはい
かがですか。
世界中でもっとも勇ましい女性と、今生きているうち
でもっとも勇ましい男性との間に将来、偉大にして稀
有な何ものかが生まれ出ますように」
アレクサンドロスは、その地に十三日間逗留して、そ
の間、勇ましい女王のために出来る限り楽しく宴を張
った。(ディオドルス・シクルス17-16)
アマゾン族の女王タレメネスは垂れ目であった
彼女の娘で、次代女王のタレストリスは栗が大きく、垂れ下がっていた
男色の嗜好があったアレクサンドロスに対し、
女王はファルス(陽根)とも見まがうほどの勇ましい栗で夜毎慰め、
アレクサンドロスは女王に耽溺しその地に十三日間も逗留したという。
なお、当時のアマゾン女王の家系タレス朝では遺伝的に乳も垂れ気味であったと言われているが
片乳を切り取るアマゾンの習慣のため、その肉体的欠点は目立たなかった(ミャシタス・ミンメイウス1-3)
297 :
世界@名無史さん:2010/06/07(月) 13:48:49 0
ラテンはけっこう訳されてきたから、ペルシアのほうの
イスカンダルの伝記もそろそろ訳してほしいな。
ズルカルナインだっけ
299 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 06:47:14 0
今月、京都大学学術出版会から刊行される「西洋古典学事典」には
アレクサンドロス大王やディアドコイ、ヘレニズム諸王家の記述や系図が
満載されていると聞いたけど、本当ですか?
300 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 10:52:04 0
将軍偏差値
70以上 アレクサンドロス三世
65以上 フィリッポス二世 パルメニン
60以上 アンティゴノス エウメネス セレウコス クラテロス
55以上 プトレマィオス リュシマコス デメトリオス クレイトス
301 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 10:59:06 0
50以上 アンティパトロス カッサンドロス ネアルコス
ペイトン ネオプトレモス ペウケスタス
45以上 ヘファィスティオン ラオメドン
45以下 ハルパロス
302 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 13:56:54 0
コイノス 60以上
アルケタス 55以上
ペルデッカス 60以上
オフェラス 50以上
アンティゲネス 55以上
303 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 14:13:59 0
57 白クレイトス
304 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 14:21:35 0
アリダイオス 測定不能
305 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 14:54:55 0
ゴルギアス 55以上60以下
306 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 14:56:23 0
ゴルギアス 55以上60以下
307 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 15:18:37 0
参考値
チンギスハン 80以上
ティムール 70以上
カエサル 70以上
ハンニバル 65以上
チンギスとティムール低過ぎワロスw
せめて90と85だろ
309 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 16:09:55 0
偏差値で80以上でることなんてあるの
ただの偏差じゃ規格化とかしてないかもしれんよ
311 :
世界@名無史さん:2010/06/17(木) 11:07:48 0
ポリュペルコンは微妙だな
東征では指揮官やってたけどカッサンドロスに負けるし
中隊長クラスなら優秀だけど司令官としては無能ってことか
50以上55以下ってとこかな
312 :
世界@名無史さん:2010/06/17(木) 14:56:25 0
レオンナトスは55以上はあるかな
スレタイとかけ離れすぎだろww
314 :
世界@名無史さん:2010/06/19(土) 19:53:18 0
プトレマイオス朝とセレウコす朝の攻防に関する
本あったら教えて、ウィキだけでは良くわからんッス
>>314 ターン『ヘレニズム文明』とか
ヨセフス『ユダヤ古代誌』の何巻目か
316 :
世界@名無史さん:2010/07/04(日) 23:31:19 0
>>314 〇『地中海世界史』ポンペイウス・トロゴス ユニアヌス・ユスティヌス抄録
・第二十七巻→ セレウコス2世vsプトレマイオス3世(第3次シリア戦争)
・第三十巻→ アンティオコス3世(大王)vsプトレマイオス4世(ピロパトル)(第4次シリア戦争)―大王、ラピア(ラフィア)で敗北
・第三十一巻→ アンティオコス3世(大王)vsプトレマイオス5世(エピパネス)(第5次シリア戦争)―大王の雪辱戦
南シリア、パレスティナ、プトレマイオス領有の小アジア南岸奪回
・第三十四巻→ アンティオコス4世vsプトレマイオス6世(ピロメトル)(第6次シリア戦争)
―シリア軍、アレクサンドレイアを除く全エジプト制圧するもローマの干渉で撤退
以上は概略しか書いてないのであまり期待しないでください
>>314 〇『歴史 2』ポリュビオス
第五巻 アンティオコス3世(大王)即位〜第4次シリア戦争〜ラピア(ラフィア)での敗戦、休戦条約締結まで
ラフィアの戦いの詳細なら→〇『古代ギリシア人の戦争 会戦事典』市川定春
先生方かたじけない、早速アマゾンに行ってきます。
もりもり勉強して、ぶりぶりネタを投下できるよう頑張ります。
>>319 買うの?
やめときなよ
割とかかるよ
ヘレニズムがかなり好きというなら構わないけど
買うなら中身見てからの方がいい
興味本位ぐらいのレベルなら
大型図書館で捜した方が断然いいと思うよ
>>320 え!?まじですか!?
忠告に従って近所の図書館へ出張ってみます。
おっしゃるとうり絶版の本は高いですからね、
何から何までありがとうございます。
322 :
世界@名無史さん:
age