1 :
世界@名無史さん:
不思議と無かったようなので立ててみました。
東南アジアのスレって、タイ以外は無いですよね?
白人の便所の歴史について語るスレでつね
4 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 20:34:26 0
東南アジアの先史時代
BC1万年頃〜4000年頃 ホアビン文化
(バナナの半栽培による食糧生産の萌芽)
BC6000年頃 ニューギニアからタロイモ栽培技術伝わる
BC2000年頃 稲作開始(フングエン文化)
BC2000年紀末頃 青銅器伝わり製造も開始(ドンダウ文化、ドンナイ文化、ゴームン遺跡、バンチェン遺跡、ペチャブン銅山)
斧、おろし金、釣針、鍬、鎌、矛など実用製品が主
BC1000年紀中期頃 鉄器伝わり製造も開始(ラテライトを水でイオン化し、鉄被膜を作り精練する高度な製造技術)
同時期 製塩も始まる
日本に比べると食糧の生産が早くから始まり
農耕も日本より早く始まり、稲作は円粒種を夏作として扇状地や段丘で生産し
長粒種を冬作として湿地に栽培するなど生産性は高い
(日本の登呂遺跡での稲作は年間の必要食糧の6分の1しか生産できない)
また金属器使用と生産も日本より古く、日本と違い実用性のあるものである
日本が暫くは金属器生産を朝鮮半島に頼っていたのに対し生産も極めて早い段階から行われた
6 :
世界@名無史さん:2009/04/14(火) 13:58:29 0
いや、いちいち日本と比べなくても…
個人的にアンコール朝とアユタヤ朝が好きだ。
チンWでプレイできる国だからかもしれんが。
象兵マンセー
8 :
世界@名無史さん:2009/04/14(火) 14:05:08 O
東ティモールはオセアニア?
>>8 東南アジアの定義が初めて現れたのはオーストリアの民族学者ハイネ・ゲルデルンが著作した『図説世界民族学』から
〈疑問の余地のない後インド的民族文化地帯〉と〈疑問の余地のない東アジア的民族文化地帯〉の間の〈混合と移転の広い地域〉
として規定
地域は現在の東南アジアにプラスしてアッサム、東ヒマラヤ南麓、東部ベンガル、アンダマン・ニコバル諸島、台湾が含まれる
従って当然東ティモールも東南アジア領域内
そういえば、今はなんで台湾は東南アジアと呼ばれなくなったのだろう。
漢族の支配が強まったからだろうか。
東南アジアは不細工民族多いけど、小顔のマレー美人なら嫁にしてもいいな
或いはミナンカバウ族と結婚して主夫やるのもいいかな
12 :
世界@名無史さん:2009/04/14(火) 16:21:18 0
伝統的なヒンドゥー教ではインド亜大陸を指す「バーラタバルシャ」から出たら
身が穢れると教えているそうだけど、その割に東南アジアにバラモンが渡ってきて
ヒンドゥー教を伝えたりしてるな。
>>10 台湾への漢族入植はオランダ植民地時代に始まった
もともとオランダ人が誘致したのだが
言葉に語弊があるかも知れないが、後に鄭成功に乗っ取られる形になった
台湾はそれまでは民族的、文化的には中国より東南アジア文化圏寄りだったことは確かだ
>>12 一つにはインド人が直接東南アジアに植民したことが考えられる
AD3C頃のマレー半島にあった港市国家テナセリム(現ミャンマー領)には
バラモン僧1000人を含むインド人500家族がいたらしい
もう一つに現地のまだ弱体な国家の為政者たちが権威付けのためにインド文化、風俗を積極的に取り入れたためと言われる
マラッカ海峡は昔から世界でも有数の海賊の本場。
あそこは風が不規則だから、帆船が通るには非常に不便。
スマトラ島はマングローブがたくさんあって、海岸線から100キロぐらいは
沼地になっているので、どこでも隠れられる。
シュリーヴィジャヤ王国などは、港の周りに鎖があって、怪しい船が来ると
鎖で閉めてしまって入れないようにしていた。
それから、これはいい船だと見ると、港のほうから出て行って、無理矢理
連れて来て商売させるという、客引きのようなこともやっていた。
鄭和の船団があの辺の海域に来たとき、明本土で海禁をやってたのに
なぜか中国人の海賊がいて戦闘になってるんだよねw
>>16 それは初耳だな
華人の東南アジア進出が活発化するのは18世紀、清朝の時代
定住華人、いわゆる華僑が現地国家と武力衝突するのもこの時期だが
海賊はあまり聞いたことないな
東南アジアには日本の家船、中国の蛋民と同じような水上生活者(漂海民)がいるね。
「オラン・ラウト」「モーケン」「バジャウ」などと呼ばれる。
フィリピン南部(ミンダナオ島とスールー諸島)から、対岸のマレーシア(センポーナ沖の
ブムブン島)へ移動したりしてるよ。
>>12 昔はインドでもカーストや罪障の観念が発達してなかったんじゃないか?
そんなこと言い出すからイスラムやキリスト教の勢力拡大を許した
20 :
世界@名無史さん:2009/04/15(水) 23:13:14 0
東南アジアのインド化の原因は
・商人の活発な往来
・現地勢力が部族社会から国家・都市社会へと移行するのにインドの高度な文明が便利だったため
といわれている
そういや島嶼部で仏教についてはあまり聞かないような
インドネシア・マレーシア・ブルネイ・フィリピン南部は後にイスラーム化。
ちなみにインドネシアとマレーシア出身のメッカ巡礼者はアラビアで「ジャワー」
と呼ばれていたが、彼らはアラブ人から最大のカモとみなされていた。
まずジッダ港の検疫所や税関で、ジャワーからいろいろな名目で少しずつ金を
徴収する。
同じ宗教の信者が集まるのだから、いかにも和気藹々とした雰囲気だろうというのは
素人考えで、メッカほどよそ者を冷遇する所はなかった。そこで、巡礼が済んでも
イスラーム研究その他の理由で長期間メッカに滞在するジャワーたちの間には、
しだいに自分の生まれ故郷という枠を超えた、インドネシアおよびマレー世界
出身者という連帯感が生まれることになった。
(商業用語としてのマレー語はすでにリンガ・フランカになっていたので)
>>21 5世紀の西ジャワにあった港市国家ジャヴァドゥウィーパが仏教化していたのは
直接法顕が当地を訪れ確認している
また後のジャワに成立したシュリーヴィジャヤ朝〜シャイレーンドラ朝も仏教国家
ポロブドゥール大石像寺院は著名な仏教遺跡
東ジャワでも古マタラム王国もヒンドゥー寺院に混じって仏教寺院もプランバナンに建立している
>>23 インドネシアって精霊信仰とイスラムとキリスト教のイメージしかなかった。解説サンクス。
25 :
世界@名無史さん:2009/04/16(木) 21:49:38 0
1番影響が強かったのはヒンズー教だよ
今でも国章なんかヒンズー教のガルーダだし
「多様性の中の統一」が、インドネシア共和国のスローガン。
1億8000万人の国民、400以上の言語、マレー系・メラネシア系・パプア系に
またがる多様な人種構成、1万3000個の島を抱える広大な群島地域。
それらを連邦制ではなく、単一共和国としてまとめている。
ジャワ人は6000万人ほどであり、全人口の3割以上になる。
ジャワ人以外の民族にとって、ジャワ人による群島統一はほとんど
「パックス・ジャヴァニカ」といえるものであり、少なからぬ反感の
もととなっている。
最後のヒンドゥー王国マジャパヒトが滅んだのが15世紀末
それから約500年もの間イスラムの大海の中、バリ島で孤立してヒンドゥー文化を守り続けられたもんだ
28 :
世界@名無史さん:2009/04/17(金) 01:34:31 0
西暦500年頃、スンダ海峡で大噴火があって、世界中の気候が変動したんでしょ?
東ローマ帝国では異民族が侵入してペストが大流行し、
中国の南朝、梁では侯景の乱が起こり、日本では崇仏派と廃仏派が争った。
現在“バリ島の文化”と思われているものは、実は1920年代以降に、バリを訪れた
欧米人との共同作業によって構築されたものだそうな。
なんか、こういう観光植民地主義(?)ってヤだな。
現地の人たちの自主性を尊重しないみたいで。
≪港市国家VS農業国家≫
シュリーヴィジャヤ・・・港市国家
ジャワ島内陸部・・・内陸農業国家
バリ島・・・内陸農業国家
マジャパヒト・・・内陸農業国家
アチェ・・・港市国家
アチェって昔をしのぶことが出来る建築物って、まだ残ってるの?
出来たら一度行ってみたいんだけど。
津波やら独立運動やらでぐちゃぐちゃになってそうだが
アチェの辺りって、今もだいぶ治安悪いの?
国際情勢板なんて、単なる耳年増の集まりだろ。
海外旅行板の方がまし。
38 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 15:41:03 0
アチェはインド洋海域世界の東端に属しているよな。
アチェでイスラーム化がすすんだのも来航したベンガル商人の影響に
よるものだし。
商人たちはベンガルだけでなくアラブ、ペルシア、グジャラート、タイ
などからもやってきた。
アチェ王国が歴史的に関係が深かったのは西方インド洋世界であって、
東方バタヴィアではない。
>>38 まじかよ。
もうちょっとどうでもいいところでドンパチやってくれよ。
どうでもいいところってどこだよ。
やっぱり東南アジアはアンコールだろ
自分はバックパッカーとしてヨーロッパは行ったことあるけど
暑いところはな・・・
知り合いでやはり東南アジアが好きという奴がいてアンコール行ってきたと言うので撮ってきた写真見せてもらった
しかし・・・
遺跡の写真より現地少女の写真が多い
遺跡の写真も少女のバックとして撮ってるような気がする・・・
あまり話を聞かずに適当に流して帰った
いや俺はぼったくりカンボジアより、ミャンマーの方がいいな。
でもこっちも治安悪そう。
東南アジアは危ないところが多くて。
東南アジアでも歴史認識論争(?)があって、その一つが大タイ主義。
タイ族は南詔の主要民族であり、その後東南アジア北部に南下したという学説が
従来長らく支持され、いまだタイの学校教育の中で教えられている。1932年の
タイの立憲革命を敢行し、第二次世界大戦前・戦中期の首相であったピブーンは、
タイの独立維持の為に、仏印植民地にいる広義のタイ族の解放のみならず、
糾合して大国化しなければならないという大タイ主義をとり、クメール人は
長く高度な文明を持つタイ族の一種族であるとさえ主張した。ピブーン政権の下、
広義のタイ族に関する研究著作が大タイ主義政策を進めるタイの歴史認識に
利用され、いかにタイ族の文明は中国人の文明より古いか、いかにタイ族は
古代漢籍に記載のある哀牢人と同一であるか、タイ族はいかに南詔を建国し
支配したかが語られ、タイで教えられてきた。
46 :
世界@名無史さん:2009/04/19(日) 19:49:17 0
インド人は東南アジア人のことどう思ってるんだろうね
かつてのヒンズー教圏、インド系文字を使い、サンスクリット系語彙を大量に有する
中国と日本韓国の関係に似ている
>>45 サンクス。
不謹慎かもしれんが、伝統的な木造建築物なんて、津波ですべて押し流されて
しまったって感じだね。
モスクはきれいだけど、コンクリート造?
>>46 同じように、アラブのムスリムが東南アジアのムスリムに抱いてる感情にも興味がある。
49 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 01:09:24 O
タイ人は歴史的に敵国だったビルマ人よりもインド人の方が嫌いらしい
>>48 格下の連中と思っている。
イスラーム世界の中心から見れば辺境で、聖地から最も遠い不浄の地の
連中だし、その上に黄色人種だし。
(中東でも、黄色人種や黒人は差別の対象)
>>49 例の、インド人は肌の色が黒いから、ってやつ?
>>47 現在アチェに残っているモスク(メスジッド・ラーヤ)は、木造で、釘を一本も
使っていないそうでつ。
アチェ王国時代のものは19世紀末から約40年続いたオランダとの戦争のために
破壊され、現在のものはアチェ人を懐柔するためにオランダが建て直したもの。
スレとは直接関係ない話だけど、あの大津波の前まではビーチに旧日本軍のトーチカ
(ベンテン・ジパング)が残っていた。
>木造で、釘を一本も使っていないそうでつ。
コンクリート造に比べればはるかにましだけど、19世紀に立て直したものなら、
あんまり資料的価値はないかな。
むしろアチェ以外の場所に行った方が、古い時代の様式のものが残ってるとか?
石積んでる建物以外はもたないからなぁ。
それに、資料のためにあるもんじゃないし。
インドネシア国民の9割がムスリムだといわれるが、多くの場合アラブの厳格さ
とは違い、土着の宗教・ヒンドゥー的なものと混淆しているし、そうした伝統を
コーランより優先させる場合がよくある。
他の地域のイスラームにはみられない偶像崇拝や、木や生き物の精霊を信じる
風習(スラマタン)が、インドネシアのムスリム、とくにジャワ人には顕著だと
いわれている。
逆にアチェ人やブギス人は、中央多数派であるジャワ人に対する対抗意識から、
よりコーランに忠実で厳格であろうとする傾向が強いという。
>>49 嫌いというよりは・・
タイ人の知り合いがふたりばかりいて親しくなって個別に食事に行くようになったんだが
インド料理行くかと尋ねるとかたくなに拒否するからなぜだか聞くと
「インド人は手で食べるから」
「・・・(いやいやレストランでは手で食わないよ)」
でいてふたりともなぜか牛肉は食わない
ふたりとも個人的に嫌いなのかと思ったらふたりとも両親から牛肉は食うなと躾されたらしい
なんだかんだ言ってインド文化の名残はあるんだな
思えばタイの仏教も上座部仏教だし
牛食べない=インドの影響、でもないと思うんだが。
東南アジアでも、スリランカでも、仏像の色が剥げてくると新しく塗り直すよな。
日本のように色が剥げたり、煤けたり、苔むしたものを喜ぶのとはかなり
感覚が違っている。
59 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 18:27:16 O
日本人感覚だと金ぴか仏像はむしろありがたみがないな
韓国も中国も金ぴか仏像。
日本も戦国時代以前は、金ぴかだったんじゃ?
太平洋戦争で、日本軍がインドネシアを占領したとき、300年間オランダに統治を
受けていた島民にとって、捕虜として引き立てられるオランダ兵の姿はまったく
信じられない光景だったそうな。
さらに、日本軍は地元民にもオランダ人捕虜の管理をやらせたわけだが、
彼らにとって自分たちが白人の上に立って管理するというのは、なんともいえず
気持ちの悪い、体がむずがゆくなるような体験だったらしい。
>>62 ×軍事版→○軍事板
漢字もまともに書けないとは、おまえ、もとからの世界史板住民ではないなw
フィリピン人なんかはスペイン軍を破ったりしているな。
所詮、土人の抵抗に過ぎない
そして誰もいなくなった
67 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 00:23:51 0
68 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 00:25:52 0
日本だけ同時期の建築とは思えないな
日本には磚を使った建築というのは伝わらなかったのか?
70 :
世界@名無史さん:2009/05/16(土) 13:59:32 0
あげ
71 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 22:57:44 0
石澤良昭『興亡の世界史11 東南アジア 多文明世界の発見』(講談社)に、
「東南アジアの歴史は基本的にそうしたある意味の『進化論的』進歩と発展の
歴史ではなく、いうなれば自己充実史であり、精神文化深化史ではないだろうか」
「決して勤勉と時間厳守を基軸とした生活文化ではないが、人にやさしい生活史が
続いてきた。むしろ人間味あふれるやさしい生活と文化が連綿と続いてきたのではないか」
と書いてあるんだが、これを読んだ人は、
「やっぱり東南アジアはダメな地域だ」
「東南アジアは歴史なき地域だ」
という印象を持つんジャマイカ?
こういう書き方が本当に現地の人々を尊敬することになっているのか疑問。
まあ「アジア的停滞」ってのをポジティヴにしただけですね
73 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 14:28:00 0
マレーシア人が言っていたが
「マレー半島にも仏教遺跡があったんだけど、全部壊して無かったことに
してるんだよ」
これについてどう思われますか?
74 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 16:16:11 0
そんなもん各民族の自由だろ
中央アジアやインドみたいにモスクに転用なんてのはないのか
76 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 23:16:21 0
73ですが
私が本を読んだかぎりではマレーシアには仏教遺跡は無かったってことになってるんですよ。
でも、インドネシアには仏教王国がありましたしインドシナ半島はあのとおりの状況ですから、
間のマレー半島にあったとしてもおかしくはないと思うんです。
でも、「あった」としたら、何の情報もないというのはおかしいと思っているんですが・・・
77 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:14:04 0
78 :
世界@名無史さん:2009/06/13(土) 08:17:27 0
ああ、観音菩薩の画像もあるわ
他の東南アジアと同じくヒンズー教と大乗仏教が並立してたのか習合されてたのかな
観音菩薩の思想は上座部に存在した時期はあったよ。
>>71 無駄なクオリティにこだわって生きづらくしてる日本をやつらが見たらどう思うか?
ってくらいの相対化にしか思えないけどな。
81 :
世界@名無史さん:2009/09/07(月) 23:22:49 0
hosyu
82 :
世界@名無史さん:2009/09/11(金) 06:59:39 0
83 :
世界@名無史さん:2009/09/20(日) 04:49:30 0
もしアメリカがフィリピンから完全に手を引いたらあの国はどうなるの?
やっぱり中国の手に落ちる?
84 :
世界@名無史さん:2009/09/25(金) 17:27:37 0
もちろん。台湾と韓国と日本も。
85 :
世界@名無史さん:2009/09/25(金) 17:28:57 0
中国うぜえ
日本はあれだけ金あったのにバカだったからな
87 :
世界@名無史さん:2009/09/26(土) 22:40:31 0
人ごとみたいに言うな
13-14世紀あたりのカリマンタン島は、どこに支配されていたんですかね。
いわゆるシュリービジャヤの影響下だったのか、諸少数民族が割拠していた
状態なんですか?
マレー半島とかインドネシアの各島が地形的な問題から統一的な支配が
存在はなかったのではないかとおもうのですが。
秀吉が日本を統一した頃は、どんな感じだったのかな?
欧州列強の植民地だったのなら、日本が解放して仲良くできたかな?
90 :
世界@名無史さん:2009/10/25(日) 21:41:47 0
>>89 東南アジアの話?
その頃はやっといくつかの港市を手に入れたに過ぎんよ。
日本は倭寇が進出していた。
91 :
世界@名無史さん:2009/10/25(日) 23:25:09 0
いくつかの港市どころか、マラッカは当時の東南アジア最富強国だったんだけど
アユタヤ朝の進攻も跳ね返していたのだが(→ポルトガル占領直前の状況)
東南アジアは、
世界の覇権国、主役にはなれないが、主役が立つ舞台になれるところだ。
人々が争う紛争地帯、緩衝地帯ではなく、人々が集う港、世界の中心になれるところだ。
資源も豊富だと思うしね。
>>90 説明不足でした。
東南アジアの国々の政権や民衆の文化についてです。
軍事力や人材、初めて欧州が来た時や攻撃を受けた時の様子などですね。
94 :
世界@名無史さん:2009/10/30(金) 22:01:20 0
95 :
世界@名無史さん:2009/10/31(土) 09:45:36 0
96 :
世界@名無史さん:2009/11/01(日) 06:12:44 0
>>93 なんか言いたいことが全然分らん。
多少冗長になってもいいから、もうちょっと長く書いてくれる?
えっ
98 :
世界@名無史さん:2009/11/01(日) 19:30:07 0
それ短すぎ
東南アジアってことばがむかつくね。
日本からみれば西南だし、アジアなんて
ことばは、西欧の帝国主義始まって
使用されたわけだぁら。
100 :
野口健氏フィリピン遺骨3万体への疑問「(゚ペ):2009/11/02(月) 06:30:32 O
1.野口氏の遺骨蒐集は、「、政府は何もやってこなかった、
未だ残っている遺骨が沢山ある」という大ウソから出発しています。
私の提示した表を見れば一目瞭然です。
新聞記事(産経10月28日2面)に付いては画像にしても容量超過で
弾かれるでしょう。
不思議なのは、記事見出しは「戦没者遺骨3万体 比で新たに発見」
ですから、産経WEBの記事検索でも戦没者遺骨で出てきてもおかしくないのですが
出てきませんね。古い記事は出てきますが。
記事に自信が持てないのでしょうか。
2.仰るとおりです。本来は実績のある海外青年遺骨蒐集団がやるべきことと
思います。
3.左翼自身が空援隊に入り込んでいる可能性もあります。
やることなすことが国立追悼施設建設に有利になるよう進めています。
4.フィリピン人のは遺骨とは言い難い。墓地の人骨でしょうか。
5.その他おかしいことだらけです。現在調査中でありますが、
大変なことが、保守側からも疑問をもたれずに進行しつつある。
101 :
世界@名無史さん:2009/11/03(火) 07:07:53 0
マレーシアって東西に凄く離れていて、間にインドネシア領の島があるけど、
あれって東西を結ぶ航空路とかどうなってるんだろう?間のインドネシア
領空内を自由に通過できる協定とかがあるんだろうか。
103 :
世界@名無史さん:2009/12/09(水) 21:37:26 0
104 :
世界@名無史さん:2009/12/09(水) 21:50:08 0
>>99 連中は普通にASEANと言う呼称を積極的に使ってるからね
特別なときだけ極東アジアを使う日本とは、感覚が違う。
暖かくて、果物食べ放題だと、こうなるのかと思うよ
フランスもオランダもさぞかし楽だったろうに
日本もASEANに加盟すればいいのに。
中国や朝鮮はもういいからさ。
リーダーとなってインフラ整備や技術支援をより積極的におこなって、
将来的には統一通貨を目指してほしい。
新通貨はズバリ「EN」
YENと変わらないが、世界的に信用されやすいので良いと思う。
ついでに格差是正の為にSEN(銭)も発行してもいいかも。
ASEANの中だけのアルファベットだし。
でも現実的には、個人的には、太平洋共同体の方が
(日本、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)
いいかな。
108 :
世界@名無史さん:2009/12/10(木) 02:06:48 0
アメリカやカナダはいらない離れすぎ。
オーストラリアやフィリピンあたりと一緒でいい
109 :
世界@名無史さん:2010/02/13(土) 15:11:54 0
じゃあ「西太平洋」共同体だね。
米中G2が発狂しそう。
つーかAOEC意味ねーよなw
111 :
世界@名無史さん:2010/05/02(日) 23:22:59 0
あげ
>>104 もともと「中国の周辺地域」という程度の扱いでしかなかったんだよ>東南アジア
もしくは「東インド」。「インドネシア」なんかそのまま「インドの島々」という意味。
ヴェトナムは越南=中国の越の南という意味だし、
研究対象として見た場合にも、戦前はタイ除いて植民地ばっかりでバラバラだったから
統一した地理的名称/概念はなかった。
「東南アジア」が地理的概念として成立したのは、実に戦後になってからに過ぎない。
しかもアメリカで(ぶっちゃけると冷戦の副産物)。だから割と受け入れられた。
> 研究対象として見た場合にも、戦前はタイ除いて植民地ばっかりでバラバラだったから
> 統一した地理的名称/概念はなかった。
正確に言うとウソだけどね。普及はしなかったが、ドイツの民族学系研究者はそれにあたる単語を
20世紀初頭には使ってた。戦前の日本にも「東南アジヤ」という地理概念が存在した。
> ヴェトナムは越南=中国の越の南という意味だし
越は「百越」であって「中国の越」ではない。
越南はベトナム語の語順から行けば「南の越」になる。漢語とベトナム語両方の意味を入れ込んだ名称。
「越の南」だったら越じゃなくなるだろ。そしたらそれまでの「大越」という国号が意味不明になってしまう。
114 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 09:36:22 0
>戦前の日本にも「東南アジヤ」という地理概念が存在した。
いや、戦前の日本では、いわゆる「南洋」が東南アジアに相当した。
115 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 14:21:27 0
>>113 「想像の共同体」の263ページの議論をメインにすると、こういうこと。
19世紀初めの阮朝建国に当たって、ベトナム側は中国に対して自分の国を
「南越(ナム・ベト)」と称することを主張したが、
中国側の清王朝の皇帝は「越南」を主張して譲らなかったそうだ。
で、「阮朝越南国」が成立して、ベトナムという国名の起源になってる。
「南越」というのが漢の武帝時代の広東省〜ベトナム北部辺りの地方国家
(南海・日南郡などを設立したときに滅ぼされた国)を指す
=その領土の支配権を主張することに繋がるので都合が悪かったそうな。
その後、1838年頃にはベトナムは自国を「大南」とし、その名称は
公文書にも使われていると書いてあった。
117 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 17:56:52 0
>>115 東南アジヤって、学術用語としてだけではなく、一般人も知っている言葉だったの?
118 :
世界@名無史さん:2010/05/04(火) 22:11:38 0
>>116 その話は知ってる。で、南越の越は何かと言えば、百越の越だよ。らく越とかビン越とか。
ベトナム語と中国語は修飾の語順が違うから越南なり南越なりにベトナム側は2つの意味を
込めることが可能。漢語式に読めば越の南だけど、ベトナム語式に読めば南の越になる。
だから南越→越南にひっくり返してもベトナム側は問題ない。
それにベトナムはは国内向けには越裳(中部ベトナム)の地から出自して安南(北部ベトナ
ム)をも併せたから越南だ、という説明もしている。
>>117 小中学校の地理の教科書に載ってた。
119 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 09:48:49 0
東南アジアの歴史って、いまいちマイナーなのは、覇権国家がなかったからだろうか?
120 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 11:37:40 0
素人にも分かりやすい構図が無いからね。
日本も近代無かったら対して扱い変わらんかもしれんな
メッカ巡礼に送り出されたら途中で政敵の一族が待ち伏せしていて・・・ってのもどっかの王朝であったような
↑すいません誤爆
124 :
世界@名無史さん:2010/08/06(金) 23:21:08 0
>>88 遅レスですが。
1225年頃成立したと言われる中国の地理書「諸蕃志」には
渤泥(ブルネイ)が首都は一万人以上、14州を治めてたとあるそうで。
1521年に立ち寄ったマゼラン艦隊はブルネイ湾内に2万5千戸の水上家屋
ありと記録しとるそうで、当時としては相当な大都市と思える。
ブルネイの反対側に近い場所にあったクタイ王国は5世紀初めに
あったと言うし、カリマンタン島(ボルネオ島)も結構昔からそこそこ
立派な国があったようですな。
125 :
世界@名無史さん:2010/08/06(金) 23:35:09 0
スマトラ島のパレンバンの王子パラメスワラはマジャパヒト王国と対立して
逃れるとマレー半島にマラッカ王国を建て、やがて島嶼部最強の国にのし上がり、
後にポルトガルに併合されると子孫はジョホール王国を建ててまたのし上がり…
パレンバン王家は一応シュリーヴィジャヤ王国を継ぐ存在?のようで
シュリーヴィジャヤは扶南の後継という説もあるそうですが、だとすると
延々と動き回りながら存続したことになりえれえタフさだなーと思った
126 :
世界@名無史さん:2010/08/13(金) 12:44:06 0
インドネシアを統一したのはオランダ
127 :
世界@名無史さん:
シンガポールが一番栄えている