92 :
世界@名無史さん:2009/12/11(金) 12:35:19 0
北斉高一族はキチガイだけど戦闘だけには強いな
まあ最後は滅んだけどさ
94 :
世界@名無史さん:2009/12/11(金) 22:30:13 0
北斉皇帝の酷さは南北朝でも最低クラスだな。
他の王朝なら一人くらいは名君がいるはずなのに。
田中芳樹の蘭陵王読んだけど
北斉の皇帝ヤバくね?
DNAに欠陥あるとしか
96 :
世界@名無史さん:2009/12/14(月) 22:27:31 0
むしろ蘭陵王がまともなのが不思議なくらい
戦闘民族だな>北斉高氏
戦闘センスだけは凄い
99 :
世界@名無史さん:2009/12/15(火) 22:57:11 0
北斉が戦闘に強かったのは斛律光のおかげ
高緯が斛律光を殺したせいで滅亡一直線
段韶忘れてるよ
101 :
世界@名無史さん:2009/12/17(木) 03:13:58 0
奸臣の和士開が人妻と夫の目の前でセックスしてる描写には呆れ、驚いた。
元々史書にある話らしい>『蘭陵王』
和士開は武成帝の皇后胡氏と通じていたが
胡氏はその後も淫乱を極め北斉滅亡後も連行先でセックスに狂っていたらしい。
後主はじめ息子達、孫達が皆殺しにされたのにセックスに狂うってどういう女なんだろ。
102 :
世界@名無史さん:2009/12/17(木) 03:24:37 0
曇献なる僧が胡氏の愛人だったらしいが
いつも美少女の尼たちを宮中に同伴していた。
少年皇帝の後主が劣情を催して尼を強姦しようとすると
死に物狂いで抵抗する。宦官に命じて無理に脱がせると
尼は実は美少年だった。この少年達も皇太后の寝所に侍って乱交していた。
哀れこの女装少年たちは、曇献が失脚、処刑された時に道連れで殺された。
103 :
世界@名無史さん:2009/12/17(木) 03:31:20 0
後主の時代には王号を得る者が数百人。
鷹や馬も爵位と俸禄を得た。
大規模土木工事を繰り返し、金がいくらあっても足りなかった。
後主はご利益信仰に凝り、いつも祈祷をして
それで「徳を修めた」気になっていた。
>>5 ×ストリートキング → ○ストリーキング (streaking)
105 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 01:12:51 0
李密と楊玄感ってたいした武将じゃないの?
106 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 18:22:20 0
李密は李勣が心酔した名将
どう「たいした」なのかはどう説明していいやらだけれども
やったことの結果を見る限り李密は当時の指導者連中の中では
別格扱いできる一人なんじゃないですか。
政情不安からきた散発的な(にしては規模が大きいけれど)暴動や反乱を
政治的な意味をもったものに変えた一人。
楊玄感と絡みで処刑された人たちは行動や言い分を見てると
学生運動にのめり込んだ人たちと同レベルな感じがするので
個人的には超低評価してます。
反乱起こして失敗しても赦されるとか思ってたんじゃないでしょうか。
108 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 19:29:20 0
スレタイが一瞬「北朝鮮総合スレッド」に見えた
109 :
世界@名無史さん:2009/12/26(土) 08:05:59 0
楊玄感の話題になってるけど楊素って隋最強?
その要素はあるね
楊素は中英板の名将100選にも選ばれて気がする
112 :
世界@名無史さん:2010/01/07(木) 12:53:36 0
>>114がもっと面白いことを言ってくれるそうなので期待
女帝と書いてエンペラー
エンプレスでなくエンペラー
エンプレスって女帝という意味と皇后という意味と二つ意味があるんだな。
毛唐はどうやって区別してるんだろ。
ヴンミャク
117 :
世界@名無史さん:2010/01/13(水) 23:36:16 0
そうでしたか
118 :
世界@名無史さん:2010/01/13(水) 23:45:01 0
そうでしたよ
119 :
世界@名無史さん:2010/01/23(土) 04:55:08 0
高熲って戦闘面はどうなの?
120 :
世界@名無史さん:2010/05/18(火) 11:32:00 0
>>8 短期間で西魏→北周→隋と王朝交代してるし、簒奪が常態化してたって事だろ
わーい おいらは北魏ファンだよ。
雲崗・龍門と二つも世界文化遺産になっている北魏はすばらしい。
>>120 西魏の元氏は最初から傀儡だったし、
そうすると北周→隋という流れだけになるから
常態化ってのは結論を急ぎ過ぎだと思う。
123 :
世界@名無史さん:2010/06/04(金) 22:47:32 0
>>122 北周の皇帝も最初の二人は宇文護の傀儡だし、
皇帝個人の権力はかなり弱いものだったんだろう。
武帝が長生きしていれば磐石なものになっていただろうけどね。
124 :
世界@名無史さん:2010/06/04(金) 23:01:43 0
北周の初代皇帝というか「天王」はまだ少年だったけど
やはり西魏皇帝の殺害には同意していたのかね。
れっきとした簒奪者なのか、宇文護に全くいいように動かされていた人間なんだろうか。
北周の宣帝はなんであんなに好き放題できたんだろう?
>>124 短期的になら北朝・南朝問わず無茶する皇帝は多いわけで、
北周宣帝は殺される前に死んだから、
そんな印象が強いのかもなあとか思わんでもない。
後数年でも生きてたら、元凶の刑か東昏侯の刑に処されてただろうし。
126 :
世界@名無史さん:2010/06/10(木) 22:46:00 0
北周宣帝は楊堅に毒殺されたんじゃないの?
>>126 静帝が殺されたことは史料上に記録として残ってるけれど、
宣帝については公式には無いっす。非公式にあるのかどうかは知らないが。
でも、殺されていたとしても驚くほどのことでもないけれど、
宣帝をなんとしてでも排除しなければならない理由と
それができるような環境が楊堅にあったとも
思えないというところですか。まだまだ政敵もいっぱい残ってましたし。
128 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 23:04:47 0
宣帝は皇后を五人も立てたり、静帝生母が宣帝より12歳も年上だったり
かなりの好色家だよな。
129 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 15:05:56 0
宣帝は欲望のままに、自分の気持ちいい事だけやって死んだ皇帝だと思う。
他人への配慮や想像力は皆無。
130 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 16:49:04 0
でも同時代に高緯というもっと酷い皇帝がいるのが恐ろしい。
>>129 事跡は各々、後継政権に誇張されたとしても、
実際の所、劉宋後廃帝や南斉東昏侯、北斉後主と
そう変わらんだろうというのが個人的な考えなんだけど、
宣帝は上皇ポジションに逃げることで長生きと報復回避を図ろうとする程度に
知恵が働く辺り、悪質さは感じるよね。
132 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 22:56:19 0
武帝が死んだときに「死ぬのが遅い」と罵った話は、
東昏侯が明帝の葬儀で大笑いした話にそっくりだ。
酔った勢いで殺戮とかしない分だけマシだが。
133 :
世界@名無史さん:2010/07/26(月) 11:06:51 0
南朝スレも劉宋スレもなかったのでこちらで質問させて下さい。
東晋以来、宋が領有していた山東半島が北魏に奪われた詳しい経緯を教えて下さい。
またその年代について、ネットのサイトでは5年か6年ずれた別の年次があげられており、どっちが間違いとすれば何を誤ったのか?
あるいは宋書と北魏書とで記述が違うのか?
あるいは5、6年に渡る長い経緯があったのでしょうか?
134 :
133:2010/07/26(月) 14:17:30 0
5、6年じゃなくて4年でした。
ネットで拾った情報では
469年と472年の両説みつかりましたが
どっちも典拠は明示されてませんでした。
>>134 469年については
『資治通鑑』泰始五年(469)正月条
乙丑、魏人抜東陽、〜(略:沈文秀が北魏に帰順するくだり)。於是青・冀之地尽入於魏矣。
なんだと思う。他にも
『魏書』皇興三年(469)四月条 に 「劉ケ遣使朝貢」
『宋書』泰始五年(469)十一月条 に 「索虜遣使献方物」
とあるのは、上記の停戦後の外交処理ではないかなーと。
上追記
『魏書』皇興三年五月条 「徙青州民於京師」も。
こういうように、三長制・俸禄制の確立以前の北魏って
「土地を支配する」って感覚、もしくは地方行政への意識に
まだ伝統的な漢族とずれがあると思う。
だからどこそこを制圧したみたいな記述があっても、
現代的な感覚での国境線が引けないというか。
ついでに472年までだけど、これといった記述は見当たらないなー。
宋は明帝崩御前後のごたごた粛正人事、北魏は二重朝廷の状態でそれどころじゃなさそうな。
前年末に垣崇祖が北魏の東?州(多分、山東半島の南部)に侵攻してるけど、撤退してるくらい。
これを山東奪回の最後の機会と見たとかかも?
その後、戦線はどんどん南下していきますし。
138 :
世界@名無史さん:2010/07/30(金) 10:04:53 0
>>135-137 ありがとうございます!
宋書と北魏書でさっそく該当記事を確認しました。
(アクセス規制が厳しいのでこれで消えます)
139 :
世界@名無史さん:2010/07/30(金) 21:04:15 0
高句麗>隋
140 :
世界@名無史さん:2010/07/31(土) 23:50:40 0
1919
>>137-138 472年の件だけど
垣崇祖の北侵の挫折は北魏書によると
(471年の)十一月だから
グレゴリオ暦に換算すると翌472年になる可能性高いんじゃないでしょうか。