オスマン朝・オスマン帝国(03)

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623世界@名無史さん:2010/06/16(水) 00:20:45 0
>>620欧州で最初に科挙参考にしたのってルイ14世じゃなかったっけ?
624世界@名無史さん:2010/06/16(水) 03:03:37 P
>>620
「かもしれない」と注釈付けようが付けまいが、現実に歴代中国王朝下でも
時代が後になるにつれ生活レベルが向上してる以上、思いつきでしかない。

何度も書くけど、1400年以降1500年代中頃?以前の西欧の数字に疑問がある
行政の発達度合いからして、16世紀以前の西欧諸国に江戸時代の日本や北宋以降の中国のような
ある程度実態を掴める豊富な行政史料が残ってるとは思えないので。
625世界@名無史さん:2010/06/16(水) 03:40:29 P
>>619
農民は生産する商品作物が種類、量とも増えていて近世日本と同じく身分の安定化と
所得の向上が見られるし(幕末の富裕度が西欧の1500年頃のそれより下回るのも謎過ぎる)
元豊九域志捨てたから確かな事は言えないが、確か都市住民も首都開封が100万人超
各地の主要都市には30万、50万都市があり、5万程度の地方都市は数多くあった(近世日本に似る)
この内の多くは農民や町民?だろうけど、一定程度は工芸品の生産に従事する職人や商人が占め
商税収入は約15%、これで一人当たりGDPの上昇が無かったと判断するのは不自然。

通り一遍の固定観念で知識無しに断定する方が暴論。
626世界@名無史さん:2010/06/16(水) 12:50:45 0
>>625
いや、通り一遍の固定観念で西欧の知識無しに論じてるのはあんたも同じなんだが。
そのことに気づかない点がイタい。例えば1820年の日本は620ドルでイタリアは1100ドルだ。
現在日本のGDPは世界2位だが、1人あたりのGDPは北欧のやベネルクス3国の3/2程度
しかない(フランス・ドイツは日本と同じくらい)。開国して全面的な貿易していない
日本が、イタリアの2/3以下なのは不自然では無いと思うよ。

また、商税収入が15%だからGDPの上昇が無かったのは不自然、と一部のデータだけで
全体を判断する方かそ暴論ではないか。北宋の人口は、当時の史料でも9000万を
超えていた。一部の大都市に数十万の人口がいても全体はそれほど影響しない。
あとえばアンガスは、江戸と清朝について、都市化率の研究を取り入れている。
それによれば、清朝は7.8%、江戸は12.5%程度だったと思う。そういうデータを
出して検討している。あなたも、宋朝を援護するなら、北宋の都市化率データなどを
算出して欲しいものだ。

>16世紀以前の西欧諸国に江戸時代の日本や北宋以降の中国のような
ある程度実態を掴める豊富な行政史料が残ってるとは思えないので。

これもあなたの願望でしかない。そもそも、「西欧」をひとくぐりにし過ぎる。
ヴェネツィア、ラグーザ、ジェノヴァなど、地中海沿岸都市都市の膨大なデータを
利用している。15世紀の英仏独については史料がある研究を見たことが無いので
一応同意するが、地中海沿岸欧州については15世紀の史料は豊富に残っている。
まずブローデルでも読め。

627世界@名無史さん:2010/06/16(水) 12:58:05 0
>現実に歴代中国王朝下でも
>時代が後になるにつれ生活レベルが向上してる以上、思いつきでしかない。

中国の農村部では今でも清朝時代と大して代わらない生活をしているところも
残っている。さすがに電気はきているが、家に電球1つ、洗濯機など無いから
路傍の水路で洗濯している。人口100万の都市が40以上あるが、それでも1人あたり
GDPは日本の1/10以下だ。対して欧州では、田舎の家に先祖伝来の銀器が
あったりする。植民地からの搾取の産物だ。社会全体の富が違う。

というわけで、この言葉は再度あなたに返す。
「通り一遍の固定観念で知識無しに断定する方が暴論」。


628世界@名無史さん:2010/06/16(水) 13:00:28 0
>15世紀の英仏独については史料がある研究を
失礼。ハンザ同盟の史料は残っていた。
629世界@名無史さん:2010/06/16(水) 14:51:53 0
都市であれば全て高GDPだと考えてる時点でバカだよな
アムステルダムやイタリア諸都市はヨーロッパだけでなく新大陸、アフリカ、アジアからの富を集めていて
高収益で人口数万程度だから異常に高い一人当たりGDPが可能なわけ
蘇州や広州、開封などがいくら発展したとしても全体でみればね
しかも都市部も人口がバカみたいに多いから一人当たりGDPも下がる
630世界@名無史さん:2010/06/16(水) 21:23:57 0
標的になってるアンガスさんの表みたけど、中国について言えば、
1400年頃に西欧が富裕化したんじゃなくて、洪武帝が商業抑制政策を
取ったから中国の方が低くなったということなんじゃないのかな。
洪武帝の政策って毛沢東の政策みたいなもんでしょ。
1500年頃の中国は知らん良くけど、1600年頃の万暦年間は経済が過熱していた
ので、1500年と1600年が同じ値というのはどうかと思うなぁ。。。
ついでに言えば、1500,1600、1700、1820が同じ値というのは、ちゃんと研究
してるとは思えないけどねぇ。
631世界@名無史さん:2010/06/17(木) 01:24:31 P
>>626
論点ずらすな、誰も幕末の日本と西欧の比較などしてない
幕末と1500年、1600年の西欧の数字を比較して明らかに不自然だと言ってる。

都市化率データを算出しろ?戸籍が無い時代の欧州や西アジアに関しては
著名な大都市ですら研究者によって人口推定が倍以上違うのに、無茶な要求するね。
とりあえず大雑把に、開封が100万、北京、天津、長安、臨安、淮安、成都、襄陽、杭州、広州、揚州が50万
金陵、真州、滄州、徐州、蘇州、江陵、金華、武漢、長沙、無錫、濮陽、邯鄲が30万
泉州、真定、済南、洛陽、青島が20万、その他州都を適当に1〜5万と仮定すると10%くらい。

北イタリア諸国がイベリア半島やフランス、ドイツも支配していたならね
誰も北イタリアが東方並に先進的だった事までは否定していない
願望を元に断定しているのは、あなた。
632世界@名無史さん:2010/06/17(木) 01:39:23 P
>>627
それは工業化と第2次大戦以降の発展の2つが爆発的だったからでしょ。
清朝時代と大して代わらない生活と言うが、中世欧州や中世日本、中世中国の農民は
浮き沈みの中、生涯農民の身分を維持できる事自体が半々とか1/3程度の割合で
小作や奴隷になる割合も多かった。
西欧人口の大半が先祖伝来の銀器を持ってる?それはないわ
>>629
主要な州の人口当たり徴税額は、一般的な州の5倍前後。思いつきで反論されても困る
633世界@名無史さん:2010/06/17(木) 05:12:15 0
>>631
幕末の日本と1500,1600年比較してどこが不自然なんだ。1820年日本は669ドル
西欧平均がで771ドル(1500)、鎖国してる割りにいい線いってるじゃないか。

データも出せずに私の願望云々というのでデータを出します。出展は、
アンガスの「Chinese Economic Performance in the Long Run 」の中国語版、
ttp://www.amazon.cn/mn/detailApp/000-0000000-0000000?ref=DT_TS&uid=000-0000000-0000000&prodid=bkbk822186
だ。p30-31
唐代 762年 1万人以上の都市化率3% 該当都市数50 推定人口5200万
宋代 1120年 同上 3.1%        91  7800万
明朝 1506年 同上 3.8%        112 1億3千万
清朝早期 1650  4.0%         136 1億5千
早朝晩期 1820   3.8%        310  4億

対する欧州(旧ソ連圏は含まない)
1000年  1万人以上の都市数化率データ無し 1万以上の都市数 データ無し 人口4500万
1500年   5,6%              154     7200万 
1650年    8.3%              197     9000万
1800年    10%              364    1億4900万

これはアンガスが自分で集計したのであなく、先行研究者のRozman,1793、De Vries,1984の研究
を引用している。こういう研究を元に中国の数字を出しているし、別の書籍
(今手元に無いが)で日本の数字も出している。
634世界@名無史さん:2010/06/17(木) 05:23:11 0
1400年のデータは無いが上記都市化率の観点からしても、中国は欧州に
大きく水をあけられていることがわかる。

>>632
じゃあ1000、1500、1600、1700、1820の納得できる生活向上のデータを
出してよ。

>清朝時代と大して代わらない生活と言うが、中世欧州や中世日本、中世中国の農民は
>浮き沈みの中、生涯農民の身分を維持できる事自体が半々とか1/3程度の割合で
>小作や奴隷になる割合も多かった。

こういう散文的に情景の描写、現代の歴史学では時代遅れ。

>西欧人口の大半が先祖伝来の銀器を持ってる?それはないわ
大半とはいっとらん。が、フランスのいくつかの村を調査し、
多くの家庭で先祖伝来と称する銀器や装飾品を持っていた、また田舎の
教会に至ってはほぼ全部、金銀の器や食卓を持っていた、というレポートを
大学時代によんだ(ゼミの教官がその調査の担当者)。

>>632 中国は地方によって徴税率が違った筈だ。あなたの書き方も、思いつきだ。
635世界@名無史さん:2010/06/17(木) 09:46:27 0
つーかさぁ
今の中国だって上海とか広州とか凄い発展してるけど、一人当たりGDPはトンガと同レベルだろ
これが香港単独だと先進国並になる

ラゴスやムンバイはどっからどう見ても近代都市で今じゃ車も家電も飛ぶように売れてるけど、
ナイジェリアやインドの一人あたりGDPは、
首都があのガダルカナル島にあって産業は漁業しかないソロモン諸島より低い

アフリカ有数の国際都市ナイロビを抱えるケニアと、砂漠しかなく慢性内戦状態のチャドの一人当たりGDPは殆ど同じ


前近代社会の100万都市の工芸品やサービスの付加価値が全体に占める割合なんてこれ以下だろ
636世界@名無史さん:2010/06/17(木) 20:16:04 P
>>633
西欧平均771ドル(1500)、これが疑問だと何度も何度も書いてるでしょ理由は上にある通り
そもそも説得力を持つだけの全国的な記録が残ってるかどうか謎。

データといっても所詮アンガスソース、参考文献に何を用いても上でつらつら書いた通り信憑性に欠ける
都市化率が何を意味するのか不明だが、都市人口を指すなら長安と開封の2都市だけで3%到達。
637世界@名無史さん:2010/06/17(木) 20:17:02 P
>>634
>こういう散文的に情景の描写、現代の歴史学では時代遅れ。
伊藤 正敏が中世〜近世日本における農民身分の維持・没落の研究をしてる
時代を追うごとに継承率が上がる傾向で、中世は大雑把に言うと1/3〜半々。
欧州は農奴や奴隷身分の民衆が大量にいたでしょ、あれ農民じゃないし。

>フランスのいくつかの村を調査し
日本でも昔から続く村を訪ねて旧庄屋の家を回れば、多くの家庭で先祖伝来と称する家宝が出て来るよ。

>田舎の教会に至ってはほぼ全部、金銀の器や食卓を持っていた
中世から残る寺社なら、もれなく金銀やそれに匹敵する財物を持ってる
当時の寺社は小さな所でも村落の中心、大きな所は実質都市で、その核が寺社だったからね。
638世界@名無史さん:2010/06/17(木) 20:37:16 P
>>635
どの例も中世や近世のGDPから3倍〜7,8倍へ達してるでしょ
どの国も工業化されたり、それに伴い農家の集約が進めばGDP/人は上がるって。

ただ、それらも無く極端に上昇、逆に全く上がらないままで遷移、という主張は疑問大有り。
639世界@名無史さん:2010/06/17(木) 20:40:26 P
追加
>>634
徴税率が異なったとしても、徴税額/戸で比べてる以上は
それに耐えうる経済力があったというだけのこと。
640世界@名無史さん:2010/06/18(金) 00:13:08 0
>>636
>西欧平均771ドル(1500)、これが疑問だと何度も何度も書いてるでしょ理由は上にある通り >>636
なるほど。1600年は問題ないわけだ。
>データといっても所詮アンガスソース
OECDから依頼されて、レポートもOECDから出版してる研究を電波のように言うのが理解できん。
調査方法を批判し、建設的に「より精度の高いデータを出すにはどうするか」と持ってく姿勢が
見られず、「しょせんはアンガス」というのは、「しょせんはお前が言うことだからな」と言われることと
同じ。
>都市人口を指すなら長安と開封の2都市だけで3%到達。
一体どういう計算だ?しかもいつの時代?宋代?ちゃんと数字を出してよ。
>>637
>多くの家庭で先祖伝来と称する家宝が出て来るよ。
家法と評価価値の相違って理解してる?
>> 638
>どの例も中世や近世のGDPから3倍〜7,8倍へ達してるでしょ
どの例?アンガスの表?別の人の研究?教えて。
>どの国も工業化されたり、
この点は争点になってない。言葉をお返しする「論点ずらすな」
>それに伴い農家の集約が進めばGDP/人は上がるって。
だーかーらー。そういう断定をする前に、一部が富裕化しても、人口増大で
吸収されるという算数の話をしてるんだが。1億人のうち100万が富裕層だとして、
富裕層が300万になっても人口が3億になれば平均は同じ。同様に、100万の
富裕層の所得が3倍となったとしても人口が3億に増大し、残りの2億9900万の
所得が変わらなければ平均は同じ。>>633の表を見ろよ。中国の都市化率は唐代から
清朝末期まで3から4%でほとんど変わらない。つまり、前述の算数に当てはめると、
100万の富裕層が3倍の所得となっても、増大した人口に吸収された例に当てはまる。

641世界@名無史さん:2010/06/18(金) 00:14:05 0
続き)
とはいえ、中国がまったく均一に600ドルはのは俺も疑問には思うさ。しかし、検証やデータも
出さずに、「おかしい」と断定するのは危険だと思うけどね。 アンガスだって、ああいう研究を
した学者は殆どいないから、まずはとっかかりなわけでしょ。批判して、より確度の高いデータを
出してゆく姿勢が必要だと思うが、あんたのばあい、おかしい、信憑性が無い、とそればかり。
何度も書くけど、中国の均一600ドルがおかしいというなら、生産性向上指標などの研究データを
出してよ。俺個人は、清朝の人口増大は人頭税の固定化をきっかけとしてもので、
富裕化の要素として産児制限は無く、人口増大続けた結果王朝末期に見られる
人口増大によるカタストロフィに陥ったと見ている。3億人も増加した人口の
殆ど農民であり、その農民のGDP増大の数値データが無い限り、清朝になっても
大して富裕化しなかった可能性もあるのではないか、と思っている。別にアンガスの数値を
信じてるわけじゃないが、否定するデータも持ち合わせていないので、「ひょっとしたらそういう
可能性もあるのかも」とは思う。何の疑問も無く「GDPは上がるって」などと断定はしない。
642世界@名無史さん:2010/06/18(金) 17:54:21 0
>>640
1500年は大いに疑問あり。
OECDが依頼しても電波は電波、というより近代以降がメインだろ。

より精度の高いと簡単に言うけど、土台がゴミだからな
より高い精度じゃなく一からやるのと同じ、研究者の仕事。金くれるならやるぞ

唐代 762年 都市化率3% 推定人口5200万
長安が100万都市、開封が50万、この時点で3%到達。

なんかもう言い掛かりにしか聞こえんが・・・ウン100万、多ければ1000万いくのが旧家。

現代の1人当たりGDPを持ち出したのはそっちだろうに
工業化や農家の集約が進み平均所得が上がるのは必然。

漢代は徴税のほぼ全額が農業、唐宋代になると工芸品や商品作物、交易品の売り買いによる
商税や関税収入の割合が上がる、これは江戸時代の日本にも見られる過程。

>>633の表の都市化率の意味を答えろ、都市人口とイコールなら表が間違ってるだけだ。
643世界@名無史さん:2010/06/18(金) 19:08:25 0
>>633 失礼した。推定人口はRozmanとAngasのものが併記されていた。
唐代と宋代はAngasのものを記載してしまった。Angasのものは史書の数値をほぼ
そのまま流用したもの、Rozmanのは推計値。唐代については通典でトユウが記載
している推定値に近い。
総人口比の1万人以上の都市人口比。
唐代 762年 1万人以上の都市化率3% 該当都市数50 推定人口100万
宋代 1120年 同上 3.1%        91  120万


>工業化や
何度も書くが工業化の話はしていない。GDP額の差の例えとして出しただけだ。
その他近代に言及したのは、「江戸の人口調整力(=生活レベル調整力)は、近代化意識に直結した、という
説がある」と書いただけ。

>農家の集約が進み平均所得が上がるのは必然。
集約化が進んでも、過剰な人口増加で相対的に1人当たり農地が減少し、
一人当たりGDPが減ることは考えられる。実際清朝の中国では、人口一人
あたり4畝以下となった場合、生産性の低下が起こるという説があるようですよね?
で1766年頃を境に平均4畝以下となった。だからといってこれだけで600ドルの
根拠になるとは思ってないが、600以上だと断定することもできない。

>なんかもう言い掛かりにしか聞こえんが・
>より高い精度じゃなく一からやるのと同じ、研究者の仕事。金くれるならやるぞ

あんた研究者?だとしたら余計言い訳にしか聞こえんね。一からやる程度の段階
だろうがAngasは一応数値を出してますよ。そこに根拠があるかどうかの検討
も無く、一部の現象だけ捉えて「必然」「日本にも見られる現象」と断定するのが
研究者なのか。いちからやる程度の段階なら、断定するのは変だし
Angas(の近代以前)を電波と決め付けるのも変。それに気づかないのか?
644世界@名無史さん:2010/06/18(金) 20:43:10 0
オトラントの戦い
1480年7月28日、70〜200隻のオスマン艦隊がイタリアのアプリア地方にあるオトラントの町の付近に到着した。
男性市民を集めて奴隷にする略奪が行なわれた。ステファノ・アグリコリ大主教らは大聖堂で殺され、
ステフェン・ペンディネッリ司教と守備隊の指揮官フランチェスコ・ラルゴ伯爵は生きたままのこぎりで両断された。
8月12日にはイスラームへの改宗を拒んだ800人の市民がミネルヴァの丘(今日では殉教の丘と呼ばれる)で斬首され
大聖堂は馬小屋のひとつとして使われた。アルバニアへ奴隷として送られた市民もいた。
645世界@名無史さん:2010/06/19(土) 05:35:22 P
オスマン支配地域と比べ本当にかなり裕福だったのなら奴隷狩りより略奪に精を出すわな。
646世界@名無史さん:2010/06/19(土) 11:01:58 0
オスマンの奴隷略奪は主にデヴシルメの為だよ。
ところで、英語版Wikiを見ると、「男性市民を集めて奴隷にする略奪が行なわれた」の
一文が無く、結果的に何人かがアルバニアに送られた、とだけある。
ついでにいうと、当時既にバルカン半島や小アジアは西欧と比べて過疎地帯で、
労働人口を必要としていた。

また、英語版Wikiには
Italian researchers, on the other hand, conclude that some acts of terror were committed by the Turkish invaders to create panic among the Italians around Otranto.
と書かれている。パニックを起こさしめるのが侵攻の目的で、その後の
征服戦争の前哨戦だったとも考えられる。
647世界@名無史さん:2010/06/19(土) 23:23:05 P
前の書き込みと矛盾してるな
バルカンや小アジアが労働人口(奴隷ではなく)を必要とした、という状況や
西欧が人口過多地域だった、という話が事実かどうかは別として。

どんな制度でも選抜徴用されるのは基本優秀な人間で、デヴシルメは年少者が主
その件は遠征先で戦利品として奴隷狩りした出来事だろ。デヴシルメの為じゃあない
648世界@名無史さん:2010/06/20(日) 11:24:33 0
結局技術力がものを言うんだよ。
ヨーロッパは16世紀の頃から技術輸出してたからね
当時最強のオスマン帝国も大量の西欧の技術者を雇用してた
西欧みたく技術に特化した文化作らないと中国や日本が産業革命起こすのは無理
そのために西欧は実証的な学問が進んだわけだ
649世界@名無しさん:2010/06/20(日) 20:42:36 0
セルジューク及びオスマン帝国はイスラム教徒の中でも直接西欧と対峙、
あるいは侵略し、イスラム教徒の中で戦争に最も強い国だ。
西欧は17世紀頃から故に直接ココと対決して攻める事は断念し、
イスラム国の中でも弱そうなベンガルやジャワ、フィリピンなどのムスリムを征服した。
それによってオスマン帝国を包囲して、西アジアと南・東南アジア、アフリカとの交易を寸断していった。
それでもナポレオンのエジプト遠征までは直接オスマン帝国に手を出すのは控えていたように思う。
ここで遂に地中海の主導権は西欧に移ったと言える。更にクリミア戦争で黒海の主導権も西欧に移った。
ここまで1000年近く西欧はイスラム勢に押されっぱなしだった。
ちなみにレバントの十字軍国家滅亡は1291年!そして、ナポレオンのエジプト遠征は1798年だ!
この間実に約500年近くに渡り、イスラム勢は地中海を支配し続けたのだ。
このエジプト遠征以後の西欧とトルコの関係は、もはやそれまでと全く違うものになった。
それを見せ付けたのがクリミア戦争だ。黒海も西欧かロシアかという時代になったのだ。
オスマン帝国支配下の中東と、それ以外のイスラム圏との交易が植民地化で寸断されるに従って、
イスラム世界は保守的になり、独自の科学や技術、思想・学問も停滞していったように思う。
650世界@名無史さん:2010/06/20(日) 22:31:58 0
>>649
釣り?
西欧の範囲は?
オーストリアとポーランド(東欧だが)はずっと対決してたけど。
オスマンとロシアが黒海を巡って争ったのは18世紀だけど。
>約500年近くに渡り、イスラム勢は地中海を支配し続けたのだ。
クレタ島が陥落したのは1669年だけど。地中海を支配し続けたとまでは言えないのではないか。

イスラム世界がいつごろから保守化したのかについては興味があるな。
具体的な情報を目にしたことが無い。
651世界@名無史さん:2010/06/21(月) 20:52:12 0
いやいや、オーストリアは東欧に含まれないでしょ。
652世界@名無史さん:2010/06/21(月) 22:37:25 0
オーストリアは中欧
つーか、東欧なんて概念ができたのは冷戦時代
崩壊後はもう使われてないよ
653世界@名無史さん:2010/06/24(木) 22:23:54 0
>>652
は?それもいいすぎだろw

ヨーロッパは東西に伸びた半島です。
西欧があれば、東欧もあります。その間が中欧です。
政治的な概念ではなく、地理的な概念です。
オーストリアを含め、ドイツはちょうどヨーロッパの真ん中に位置する。ただ、それだけのこと。
654世界@名無史さん:2010/06/25(金) 01:51:07 0
中欧なんて概念無いよ
東欧と南欧と俺等、が奴等の感覚。
655世界@名無史さん:2010/06/26(土) 13:51:01 0
>>649
17世紀にオーストリアにぼろ負けしてるじゃんか
そもそもイギリスやフランスのような本当の列強が17世紀にオスマンに見向きもしなかったのは
オスマンには魅力的な物産がなかったからだろ
イギリスの毛織物、アフリカの金、象牙、インドの香辛料、綿織物
それらに対抗できるような魅力的な物産はなかっただろ
せいぜい南ロシアから少年少女をさらってきた奴隷ぐらいだろ
656世界@名無史さん:2010/06/26(土) 16:19:10 0
>>622>>645-646
>オスマンは最後までシャーリアだったからなあ
>ルームカイセリを名乗るくらいなら、何とかローマ法でも学べなかったものかね。
>代議制国民国家の欧州と、専制政奴隷制のオスマンじゃ相手にならん

19世紀にオスマン帝国が制定した法律は、民法典(メジェッレ)を除けば、
刑法や商法、憲法などは西欧の法体系に従っている。
また、1876年にはオスマン帝国憲法も発布され、1877年には初の帝国議会が召集されている。
粕谷元編『トルコにおける議会制の展開:オスマン帝国からトルコ共和国へ』(東洋文庫論叢、2007年)
などの近年のオスマン帝国近代史の研究成果を十分に参照しろ。

奴隷制について言えば、19世紀以降、西洋の思想的影響を受け、イスラーム世界でも
奴隷制を廃止する法令が出されるようになった。

話題が極端に前近代ばかりに偏っていて、近代史に関する話がまともになされていないせいで、
憲法や議会などを備えた近代帝国としてオスマン帝国をとらえる視点が欠如している。
657世界@名無史さん:2010/06/26(土) 18:51:11 0
ローマ史もそうだけど、斜陽の時代へ差し掛かると急に研究が等閑になるよね。
>>655
思いつきと願望を根拠に仕立て上げてみました。ってか
658世界@名無史さん:2010/06/26(土) 19:29:37 0
初心者質問ですまんけど、30年戦争中は、オスマンがウィーンを
攻める絶好の機会だったと思うんだけど、17世紀前半に目立った軍事
行動をしていないのは何故? 17世紀初頭は、最盛期のサファヴィー朝
との戦争に忙殺されていたとは思うけど、サファビー朝との争いが
一段落してからは、西方に集中できたと思うんだけど。
659世界@名無史さん:2010/06/27(日) 11:23:52 0
>>656
結局トルコ革命までは、近代化できなかったみたいでしたが
開発独裁のエジプトにも敗北してるし
それにオスマン時代の憲法って、どうだったの?、一応アジア初だったんだろ?
660世界@名無史さん:2010/06/28(月) 08:44:06 0
オスマン帝国はヨーロッパだろ
今と違って首都だってあっち側
661世界@名無史さん:2010/06/28(月) 15:16:28 0
>>659
オスマン帝国憲法の日本語訳は、>>275>>656でも挙げられている
粕谷元編『トルコにおける議会制の展開:オスマン帝国からトルコ共和国へ』
(東洋文庫論叢;70、 東洋文庫、2007年)で読める。
662世界@名無史さん:2010/06/28(月) 16:08:53 0
>>660
オスマン帝国はアジアの国でしょ、モスクワ・ウクライナ〜バルカン半島までが当時はアジア
663世界@名無史さん:2010/06/29(火) 03:40:17 0
>>658
ヴェネツィアとクレタで25年戦争してたからじゃないか?
664世界@名無史さん:2010/07/02(金) 23:10:30 0
第1次大戦でのオスマン軍は防御はすばらしいが攻撃はクソと
イギリス軍に評価されてる。
665世界@名無史さん:2010/07/03(土) 01:01:07 0
>>664
第1次大戦中の1916年、エンヴェル・パシャの叔父ハリル・パシャは、
イラクのクート・アル=アーマラでタウンシェンド将軍麾下のイギリス軍を
まるごと捕虜にするという功績をたてている。

山内昌之「ハリル・パシャ」大塚和夫ほか編『岩波イスラーム辞典』
(岩波書店、2002年)を見よ。
666664:2010/07/04(日) 11:12:01 0
ま、あくまでイギリス軍による評価ということで。
ちなみにソースは孫引きでスマンが、Ottoman infantryman 1914-18で、
もとは1916年に発行されたHandbook of the Turkish Armyだったかと。

クート戦は元々その前のクテシフォンの戦い(セルマン・パク会戦)の続きで起こったこと。
ハリルの前任者であるヌーレディンがセルマン・パク会戦で”防御”から攻撃移転して、
イギリス軍を敗走させ、クートで包囲した。

せっかちな参謀本部によってヌーレディンはクート戦の途中で更迭されちゃったけど、
後任のハリルはヌーレディンの方針を維持してクート戦で勝利した。
だからクート戦の功績は、ヌーレディンとハリルは同じくらいか、あるいはヌーレディンのほうが上。
667世界@名無史さん:2010/07/15(木) 21:22:01 0
>>650
スペインですらレパント以後も以前のような窒息状態からは抜け出したものの制海権は握れていない
当時のスペインやフランス軍はオスマンどころか織田軍と比べても鉄砲武装率が低いしな
歩兵、大砲、火縄銃の保有数、どれもオスマンに遠く及ばない。財政の脆弱さや経済力もね
668世界@名無史さん:2010/07/24(土) 23:05:25 0
世界ふしぎ発見!「イスタンブールから地中海へ!海の古代文明紀行」を山川系の教科書片手に視聴
ダチョウの卵には蜘蛛が寄り付かないのでモスクに吊るしてあるという話は面白かった
トルコ史の勉強になるかと思ったが古代文明なんだからオスマン、セルジュークはおろかビザンツより前の話だった
最古の遺跡は8500年前とか
リキュア文明の最盛期は前二世紀とか小アジア南部の都市国家がリュキア同盟を結んでいたとかあったが教科書には載っておらず
ギリシアのデロス同盟みたいなもんかなと思ったが同盟間での内紛はなかったそうだ
669世界@名無史さん:2010/07/24(土) 23:11:26 0
>>668自レス訂正
リキュア文明→リュキア文明
670世界@名無史さん:2010/07/25(日) 13:09:30 0
>>659
粕谷元編『トルコにおける議会制の展開:オスマン帝国からトルコ共和国へ』
(東洋文庫、2007年)より

     オスマン帝国憲法

【オスマン帝国の領土】
第1条 オスマン帝国(Devlet-i Osmaniye)は、現有の諸領土及び特別州を包含し、
   単一にして、いついかなる理由によっても分割は認めない。

第2条 オスマン帝国の首府はイスタンブル市である。同市は他のオスマン領の諸都市と
   異なるいかなる類の特権も免除も有しない。

第3条 オスマンの至高なるスルタン位(saltanat)はイスラームの偉大なるカリフ位
   (hilafet)を有し、古来の方法に従ってオスマン家の最年長男子に帰する。

第4条 スルタン陛下(zat-i hazret-i padisahi)はカリフ位によりイスラーム教の守護者であり、
   全オスマン臣民の元首(hukumdar)にしてスルタン(padisah)である。

第5条 スルタン陛下の御人身は神聖であり、かつ、無答責である。

第6条 オスマン家一族の自由権(hukuk-i hurriye)、その私的な動産及び不動産、
   並びに終身の帝室費は、公の保障の下にある。

第7条 国務大臣の任免、位階勲章の授与、特別州の特権条項に応じた[首長の]任命、
   貨幣の鋳造、金曜礼拝の説教における御名の読誦、外国との条約締結、宣戦及び
   講和、陸海軍の統帥、軍事行動の指揮、イスラーム法及び法律の執行、行政諸部局
   の事務に関する規則命令(nizamnameler)の制定、法律に従って[宣告された]
   刑罰の軽減又は恩赦、帝国議会の召集及び停会、必要とあらば議員を新たに選挙する
   条件の下で代議院(Heyet-i Mebusan)の解散は、スルタンの神聖なる大権に属する。
671世界@名無史さん:2010/07/26(月) 00:40:38 0


>第1条 オスマン帝国(Devlet-i Osmaniye)は、現有の諸領土及び特別州を包含し、
>   単一にして、いついかなる理由によっても分割は認めない。

これは何を意味してるの?
エジプトやシリアの主権についてかな
672世界@名無史さん
意味も何も、そのまんまじゃんw