負け戦もあるよ
大規模なものだと
1621年ホティンの戦い
ポーランド オスマン
兵力 5〜6万 10万〜20万(説多数)
戦死者 14500 42000
1664年サンゴタールの戦い
ライン同盟 オスマン
兵力 3〜4万 12〜15万
戦死者 2〜6千 16〜22千
サファヴィーとの戦争1603〜1618でイラクを失う
1623〜1639の戦争でイラク奪回するけど
>>448 どうせレパントと同じいつもの誇大広告だろJAROに通報していいレベルの
頭の良いポーランド人が捏造なんかするわけないじゃない。
ドイツやロシアみたいな民族的誇張国家とは違う。
451 :
世界@名無史さん:2010/05/21(金) 23:35:28 0
452 :
世界@名無史さん:2010/05/21(金) 23:38:07 0
ホチム/ホティン(Chocim/Khotyn)の戦い(1621年9月2日〜10月9日)概略
<戦いの種類>
・城攻め(ホチム要塞とその周囲に巡らしたポーランド・リトアニア共和国軍の陣地と、
それを完全に包囲して攻めるオスマン帝国軍との戦い)。
<ポーランド・リトアニア共和国軍>
・総司令官:ヤン・カロル・ホトキェヴィチ (大ヘトマン=総司令官)
・副司令官:スタニスワフ・ルボミルスキ (レジメンタシュ=副司令官)
ヴワディスワフ4世ヴァーサ (国王ジグムント3世の長子、後のポーランド王)
ペトロー・サハイダーチュヌィイ (アタマン=全コサック軍の総司令官)
・兵力:5〜6万人
・主兵力:フサリア(ポーランド突撃重槍騎兵)1万8000と、多民族歩兵
1万2000人(主にポーランド人商人とオランダ、ドイツ、チェコ
スウェーデン、スコットランドからの移民ポーランド系商人)
・副兵力:コサック軽騎兵とコサック歩兵(総勢2万5000〜3万)
<オスマン帝国>
・総司令官:オスマン2世 (スルタン=オスマン帝国皇帝)
・副司令官:オフリーリ・フュセイン・パシャ (サドラザム=大宰相)
カンティミール・ムルザ (ハーン=タタール軍の頭領)
カニベック・ギーライ (ヴォイヴォダ=モルダヴィア公兼ワラキア公)
・兵力:10万〜20万(内訳は不明)
453 :
世界@名無史さん:2010/05/21(金) 23:38:57 0
<経過>
・ポーランド・リトアニア共和国軍の援軍が近くのカミェニェツ=ポドルスキ要塞
にまで到達していたが、その先はオスマン帝国軍により足止めを食らいホチム
要塞へは補給不能となる(カミェニェツ=ポドルスキ要塞はサッカー、ドイツ代表
ルーカス・ポドルスキの先祖の居城といわれる)。
・ホチム要塞は包囲されるうちに武器弾薬が枯渇してくる。
・ホチム要塞が包囲される最中の9月24日、それまで昼夜を問わず老体に鞭を
打ちながら指揮をしていた大ヘトマン、ホトキェヴィチが過労で倒れ急死する。
副司令官(レジメンタシュ)のルボミルスキ公爵が後を引継ぎ戦いを継続する。
・オスマン帝国軍側もあまりの大所帯による遠征のため、補給、特にオスマン
帝国軍の場合は食料が間に合わなくなり飢餓状態となる。
・両者共に戦いを継続することが困難となった。
<結果>
・不完全ながらポーランド・リトアニア共和国軍側の戦術的勝利(篭城成功)。
・死傷者はポーランド・リトアニア共和国軍1万4500人、オスマン帝国軍4万2000人。
・ホチム要塞にて停戦条約が結ばれ、疲弊したオスマン帝国軍は退却する。
・スルタン、オスマン2世は敗戦の腹癒せに自軍のイェニチェリの責任を追及して粛清を行う。
・これでイェニチェリの恨みを買ったオスマン2世は翌年のイェニチェリの反乱により殺害される。
454 :
世界@名無史さん:2010/05/21(金) 23:41:32 0
>>447圧倒的優位は維持していたってのはちょっと言いすぎな気がする。
異論はあると思うが、カルロヴィッツ以前の西欧に対する力関係だと、
個人的には16cいっぱい位までは圧倒的に優位、
17c初頭〜1640年代頃まではだいぶ優位、
17c半ば〜1670年代でやや優位、
それ以降は同等かそれ以下くらいな感じがする。
カルロヴィッツ後も実は地味に頑張ってたりするが・・・。
他のイスラム国家に対する優位はずっと維持してたけどね。
>>449レパントは確かに大げさに言う程のものではないね。
これも大したことはないが、1572年にはオスマン帝国はハプスブルク家にチュニジアも奪われてる。
1574年には奪回するけどね。
逆にオスマンが勝利した大規模戦闘
1596年Keresztesの戦い
オーストリア他連合軍 オスマン
兵力 90000 100000
戦死者 2〜3万 1万2千〜3万
英語版WIKIにかなり詳しくのってるがレパント以降のオスマンはヨーロッパ戦線での勝率は悪い
が人海戦術で次々に大軍を送り込むことによって相手の戦術の勝利を無効化している
ベネチア戦でも勝率は2割ぐらいだが最終的にクレタを占領して戦略的には勝っている
ポーランドはオスマンと3回戦争して戦闘では勝ちまくってるけどそれを外交的な勝利に結び付けられない
例えば1672〜1676の3回目の戦争では1672年オスマンがいきなりポドリアを占領し仕方なくポドリアを割譲
その後不服を申し立てヤンソビエスキを王にして戦闘でオスマン軍を次々と打ち破るも
ポーランド議会が戦争税の引き上げを拒否して泣く泣く和平結んでポドリアをあきらめる
こういう感じでとにかくオスマンのスタイルは勝とうが負けようが大軍を次々と送り込んで
相手を圧迫し外交的に有利にもってこうというスタイルかな
>>455 ガリア戦記とかアナバシスとか教会の記録とか全部鵜呑みにしちゃうタイプ?
勝とうが負けようが死傷者は1桁少なく発表し戦勝を謳うのが欧州人の伝統
戦勝続きなら不利な条約を強いられたりはしないよ
457 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 00:30:30 0
兵力や死者の膨張は中国人の伝統だろ
なに勘違いしてんだこの人
訂正
1596年Keresztesの戦い
オーストリア他連合軍 オスマン
兵力 5〜9万 100000
戦死者 1万2千〜3万(諸説) 2〜3万
>>457 シナの記録は割と史実に近いぞ
欧州世界は歴史学がシナほど進歩も体系だってもいなかったから
史家次第の玉石混淆で大半は石ころ
近代以降も歴史学や言語学、人類学当たりは無茶苦茶なデタラメだらけ
この10年世界史板に粘着している基地外ポーランドヲタがこのスレにも
湧いてきた模様。そのうちAA貼られて荒らされる危険性大。
461 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 03:05:07 0
AA貼って荒らしてるのはドイツヲタだろ
なに勘違いしてんだこの人
462 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 11:27:49 0
>>447 結局スレイマン以後はしょぼいんじゃん。
イラン相手に優位といっても、肝心のスペイン相手じゃどうしようもない
人海戦術で戦闘に負けて外交で圧迫してたと言っても
結局国力はまだあるが、技術・科学・文化でおいてかれたってことだろ?
ペルシャ君は相変わらず白人捏造病が治ってないらしい
スレイマンも最期がしょぼいよな
余裕で陥とせそうなシゲトヴァールを陥とす前に死んでるしw
キチガイがハプスブルクヲタのフリして荒らしてるのか、やれやれだな
荒らしが自演を装って必死だなw
468 :
エビちゃん親衛隊:2010/05/23(日) 08:00:45 0
日本の技術者がサムスンに流れるのと同じ
商人っていうのは基本的に農村コミュニティに属さない根無し草な存在なのよ
てかオスマンが600年続いたのは
有能な人間であれば人種、民族、宗教、出身国
問わずに重用したからでしょ?
472 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 10:02:43 0
でも最後まで先生と社ーリアだった
代議制、憲法などなくて、17世紀には置いてかれていた。
学問面ではさっぱりだし、文化面では全盛期からイタリアに負けてたね
長寿帝国の存続要因
ビザンツ→外部の政治環境の変化に対して柔軟に統治構造を変革した
オスマン→現代の多国籍企業のようなコスモポリタン性
李氏朝鮮→どんな内外圧力に対しても徹底して何も変えなかった
>>472 ルネサンスの実態はオスマンやイスラム世界の模倣、欧州は学問を学んでいた側だよ
模倣は12世紀ルネサンスの頃な
一般的なルネサンスの頃(15世紀)の海外の影響はせいぜい古典をアラブ語訳からギリシャ語原典訳に変えた程度
その頃に模倣してたら近代化は300年遅れてるわ
476 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 12:38:27 0
>>472 東ローマから亡命してきた人の携えたギリシャ語原典は学んでたけど
オスマンからはさっぱりじゃね?
イスラム科学自体も13世紀には衰退して、イタリアに追い抜かれつつあった
一般的なルネサンスの頃(15世紀)こそ
ありとあらゆる面で優れていたオスマンから懸命に模倣していた時期
その後2世紀の間、欧州が連合しても劣勢を覆せなかったことがその証左
ペルシャ君もしつこいな
見えない敵と戦ってるのか?
何が見えないって?
デカルト、ニュートン、ガリレオ、ケプラー、コペルニクスは
全員トルコ人だった。これは白人がひた隠しにしてる有名な歴史的事実
欧州ヲタって現実が見えないよなw
まさにその通り
それこそが本当の歴史
アメリカ合衆国は実はトルコなんだ
欧州は今のイラクにあって自爆テロ繰り返してるw
>>471 >>有能な人間であれば人種、民族、宗教、出身国
>>問わずに重用したからでしょ?
No.官職はほぼイスラムの独占。
曲がりなりにも600年続いたのは、そのイスラムで独占された官僚制の完成度が高かったから。
強固な統治制度を持つ国は、たとえ国そのものが衰退してもなかなか自壊まではいかない。
寧ろ完成度が高すぎて「オスマン帝国だけで完結していた」というところが、国際レースについていけなくなった理由の1つかもね。
地産地消が行き過ぎて、国家としての柔軟性を失ったというか。
>>472 代議制や憲法に関しては欧州における流れもオスマンのそれも一筋縄ではないので、
単純に「欧州には憲法があり代議制があったから政治的に進んでいた!」といえない。
例えばドイツ・オーストリアは王・皇帝が自由主義的な流れを抑え続けるし、
フランスも共和制になったり帝政になったり忙しい。
イタリアを統一したのは共和主義者の力ではなく、サルディーニャ王国の力。
「憲法と代議制」によってそれなりに安定していたのはイギリスくらいのもの。
オスマン自体はドイツやオーストリアの流れにやや近い感じ、といえると思う。王権が自由主義的な流れとかち合うと事か。
同じ民族問題を抱えているという点で、オーストリアと近い立場にいた、と言えるかもね。
あと文化面の優劣というのが「その国の文化が他国の文化に影響を与える度合い」を指すならば、
オスマンの文化全盛(16〜17世紀)はイタリアの文化全盛(15世紀)の後の話になるので、
「文化面では全盛期からイタリアに負けてたね」という主張は全くもって見当はずれかと。
オスマンは(他国への影響力という点から見た)軍事全盛の時期と文化全盛の時期が違うからね。
まあ軍事全盛の時期には、ただ単に恐ろしくて文化面になんて目を向けてる暇が無かったと言えるのかも。
学問面でサッパリなのには同意。
オスマンの文化全盛は18世紀だろが
>>485 すいませんでした。17〜18世紀の間違いということで。
487 :
世界@名無史さん:2010/05/24(月) 19:56:30 0
>>477 15世紀では文化面で、学問面ではイタリアには到底勝てないね。
全盛期でも、欧州どころか、ジャポニズムにも負けてそう
学問面は…
>>484 政治体制はそう変わらないロシア、オーストリアにさえ連戦連敗だったのは
やはり学問面なのかな?
イギリスにニュートンが生まれたから、イギリスが世界を席巻したようなものか
いやオーストリアと政治体制は全然違うよ
ヨーロッパではロシアが一番近いだろうな
ドイツ領邦ならまだ絶対王政期のフランスの方が中央権力が強くてオスマンに似てるよ
ドイツの場合領邦議会が強いし
>>484は一応、「政治体制」ではなく「(議会・憲法に関わる)政治問題」について述べたつもり。
それでも、「オーストリアに近い」は言いすぎだったかも。
言いすぎたのではなく、知らなかっただけだろw
当時の欧州の政治行政制度は古代ギリシャやイタリア統一前のローマと同レベル
土人に毛が生えたくらいのもの、同じく学問もね
>>490 「当時」って何時よ?
少なくとも、法整備や官僚制の整備という観点から見れば、古代ギリシャやイタリア統一前ローマと
スレイマン以降の大帝国と化したオスマンや、絶対王政期の欧州では決定的な差がある。
古代ローマ帝国との比較、というのならまだわからんでもないが。
イスラム科学にしても物理学、化学、代数学等の分野においては古代ギリシャを越えるものになってるし、
その成果が欧州に取り入れられ、欧州独自の研鑽と結びついた結果のルネサンスは、もはや古代ギリシャとの差は歴然としている。
精密な機械時計・簿記・遠近法・外海航海の技術・代数学・天文学等、
ルネサンスは唱えられたお題目こそ「古典文化の復興」だが、学問的にはそのレベルを既に通り過ぎていたわけだし。
(ただ、イスラム科学の成果はオスマンというよりイラン人等によるものだから、これをもってオスマンの功績とするつもりは毛頭無い)
「当時」というのがせめてオスマン帝国初期の14〜15世紀あたりを指す言葉でない限り、その主張は成り立たないかと。
バカだからほっとけよ
>>491 「ペルシャ人」君を相手にするなよ
コイツは確信犯なんだ
だいたいこいつ古代ローマと古代ギリシャの政治制度もよくわかってないんだろ
ルネサンス以降の政治制度と古典古代は比較するのもアホらしいほど全然似とらん
>>491 自称ルネサンスの起きた12世紀から15世紀に掛けてだよ
絶対王政期をいつ頃からにするかで絶対王政の中身が全然違ってくる。
技術や科学は進歩するものだから、ルネサンス期のド田舎欧州でもローマを凌駕していただろうが
政治や行政の観点から見れば、当時の欧州は官僚制度どころか統一的な支配組織すらない未整備な状態。
統一組織も官僚制度も未成熟な封建制だからこそ
オリエンタル的停滞に巻き込まれなかったんだろうよw
ずっと劣後していた欧州がここ数世紀の間隆盛を誇った、っつーだけの話だ
日本も同じだし時代の流れで覇権民族が代わるのは洋の東西問わず無数にあること。
499 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 06:28:32 0
覇権民族(笑)
小学生レベルの知的水準だな
ちなみにコイツの言う行政制度って何?ww
オマンコ帝国の行政制度で後世に伝わり役だったものなんてあるの?ww
>>499 ヨーロッパの官僚制度はオスマンの模倣だし、裁判制度は同時期の欧州のそれより公正公平かつ迅速
法で縛られた徴税請負人も絶対王政期の欧州にあった同じ様な制度より先進的
徴兵官なんかも西ユーラシアでは珍しい制度
501 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 07:37:29 0
相手するのが無駄だと分かってる相手をなぜ相手するのかね
オスマンVS.ヨーロッパ
>>近代ヨーロッパを生んだ影のスーパーパワー、アジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる大帝国=オスマン。
>>この「先進国」の脅威がヨーロッパに近代化を促した。オスマン・ヨーロッパ400年の抗争を描く。
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2582376 どうせこの手の本を読んでその気になってんだろw
マイナージャンルによくあるけど国内のイスラム関係歴史家ってイスラム礼賛がひどいからね
批判されると殺されるのが怖いのかねwもうちょい冷静に書けばいいのに
ヨーロッパの中央集権化の場合、官僚や軍隊は貴族が握っていて売官が盛んで薄給あるいは無給で働いていた
オスマンや中華帝国に比べれば圧倒的にコストが安く済んで近代化に有利だったというのが定説
>>503 一応その作者の名誉の為に擁護しておくと、
>>500の様な内容はその本には述べられてないよ。
だいぶ前に読んだんでうろ覚えなところもあるが、その本の内容をすごくおおざっぱに説明すると、
・スレイマン大帝くらいの時期では、欧州にとってオスマンとは東欧の向こう側に存在する恐るべき国であった。
その軍事的なパワーによる影響力を無視して、当時の欧州史を語るのは片手落ちである。
欧州には軍事的に、あるいは経済的に「あの恐ろしいトルコ」に対抗しなくては、というモチベーションがあった。
・軍事的プレッシャーをあまり感じなくなって以降のオスマンは、とくにその文化全盛時においては
欧州にとって一種の異国情緒を感じさせる国であったようである。
脅威を感じなくなったことにより、心の余裕が出来たのだろう。
また、欧州の利権・利害がぶつかり合う場所でもあった。
確かこんな感じだったはず。別に大したハッタリはかましていないし、変なイスラムマンセーも無かったと思う。
>>503 傭兵の維持費は高く、士気もお世辞にも高いとは言えず
民衆と王国の軍事は酷く乖離していた、というのが定説。というか史実
行政コストが低く済むのは行政組織が比較的に小さいからであって特段薄給でもない。
はぁ?中央はともかく
売官で地方の名士が官僚の地位を買って薄給で仕事した
その結果地方の名士は政治参加が可能になると同時に中央の公認をえる、
逆に中央は地方の名士を低コストで取り込むことができる
ヨーロッパは官僚制を「帝国」より低コストで進められたのは定説というより史実w
もちろん国の大きさも影響するけどね、スペインは16世紀というまだ政治機構の未熟な時点で
領土が広大になりすぎて官僚の増加が財務を圧迫したからな
実際まず近代化が行われたのはオランダ、続いてイギリス
面白いのはこの二つの国はフランスに比べて膨大な常備軍も官僚もいなかった(ジェントリ任せ)
つまり巨大な官僚機構というのは近代化を遅らせる要因にもなる
だからオスマン史家がヨーロッパの官僚機構の遅れを批判するのはピントがずれてんだよね
フランス絶対王政の官僚は国王から普通に給料もらってたけど。
だからこそ、絶対王政下で常備軍と官僚を維持するために莫大な金が必要だったわけで、
そのために重商主義を推し進めたり、財政が火の車になってあぼんしてたりする。
>>506が言うのはイギリスのジェントリじゃね?でもジェントリが中央の公認を得て仕事するのは、
要するに地方分権化による中央のコスト削減に他ならないわけで、むしろ中央集権化とは逆の話かと。
そういったジェントリ層が近代化を支えた、というのはわかる。
でもそれは、「官僚が低コストで維持出来きたため、中央集権化を安くあげることが出来た」ということにはならん。
そうそう
近代化なんてアルプスの北に石炭の層がたくさんあったからに過ぎないよ
本読み直したけど勘違いしてた
フランスは売官によって一時的に歳入が増えたが長期的には官僚が増加して財政を圧迫してるね
イギリスでは売官はそれ程行われなかった
>>でもジェントリが中央の公認を得て仕事するのは、
>>要するに地方分権化による中央のコスト削減に他ならないわけで、むしろ中央集権化とは逆の話かと。
これは現代人の感覚だね、中世の頃は地方領主と国王は全く何の関係もなかった
つまり形でだけでも中央とつながりを作ることが中央集権にとって結構意味があったということ
>>506 物事の始まりは常に簡素、オスマンの黎明期や戦国時代初期の七雄も
政治行政組織は低コストで小規模、と同時に把握統制はその分弱かった
財政規模や動員力もその後と比べ大雑把に約1/10だからそれで事足りたとも言える。
>>507 オランダは本土が小さく人口も少ない、イギリスは大陸とは海で隔てられている
共に大規模な常備傭兵(官僚組織)を必要としない地理的条件が備わっていた。
近代化は大きな官僚組織を抱えたフランスに於いても劣ることなく進展したし
オランダからまず近代化が始まったというのは、正直本心から意味が分らない。
>>510 形だけ(というか少ない関係性)の繋がりで治めるのが封建制だろ、中央集権とは真逆の立ち位置。
>>512 オランダか最初に近代化してフランスの近代化が遅れたのは常識だし専門書に書いてある、本読めよ
ブローデルやウォーラステインあたりな、そこにこまかく書いてある
近代化ってのは王権が弱体化し、貴族やブルジョワ、ジェントリといった幅広い層が政治参加可能になり国民国家が形成され
同時に資本主義的な行動ができるってこと、王権が強いと ブルジョワの邪魔になるからな
イギリスの場合、ジェントリ(小地主)が議会に参加し、同時に政治を執り行うから官僚はそれ程必要なかったんだよ
>>513 売官によって地方からの税収が増えるし、地方官僚も増えるわけだから
中央集権化はより強化される、それ以前は王権は地方に直接的な影響力が全然ないわけだからね
>>513 勘違いしてるみたいだがヨーロッパ封建制の場合、陪臣制がないんだよ
部下の部下は部下ではない、つまり王の影響力は直接の部下で終わってる
だから売官によって幅広い層を王権と結びつけるのは重要なわけ
つーか
>>503で「ヨーロッパの中央集権化」と言っているから話がややこしいんだw
「イギリスの中央集権化」くらいに言っておけばもう少しすんなり話が進んだものを。
イギリスはほんとに特異な国だよな。あそこだけは異次元な感じだ
結局オスマンはアジア的専制国家で、ムガル朝や清帝国とあまり変わらないんだな
細かく見ればかなり差があるだろうけどね
>>514 オランダが最初に近代化したのが常識?少しはまともな本を読んだ方がいいよ
近代化ってのは、産業技術の進展による生産力向上と
政治行政組織の効率化と民衆への直接統制強化による動員力強化の2つ
国民国家は自国の動員力強化と敵国の統制を乱す策動の為の方便に過ぎず、必須条件でも何でもない。
地方官吏が増えるなら、それは形を変えた官僚制の深化に過ぎない。
>>516 日本の封建制も戦国時代初期までは一般的な領主権力が陪臣に及んでないよ
在地の把握や統制の深化と大名領国全般の支配強化によって
漸進的により下層の村や村民にまで直接的な支配力が及ぶようになった。
同じく欧州に陪臣制の観念が無かったのではなく、支配体制が未分化で粗雑だったという話でしょう。
>>517 オスマン帝国と清帝国は根本的な部分から色々と全然似てない
ムガール帝国はよく知らないから何とも言えん
>>519 ウォーラステインとブローデルってお前20世紀歴史学の最高の歴史家なんだが
無知っぷりが恥ずかしいぞw
>>政治行政組織の効率化と民衆への直接統制強化による動員力強化の2つ
だからそれを最初にやり遂げたのがオランダだろ
オランダは王権を打倒してブルジョワによる最初の資本主義国家だからな
ブルジョワやジェントリといった広範な勢力を取り込んだ議会政治が支配するんだから
当然王政に比べて国民の政権への忠誠もあがるし支配力
も強化される
国民国家と直接統治強化はセットなんだよ
>>520 そうヨーロッパは支配体制が粗雑だった
その要因は封建体制が長く非常に分権化されてたので官僚制を構築するのが難しかった
逆に徴税能力の低い政府だからこそブルジョワやジェントリが成長し大きな力をもつようになった
近代化にとって重要なのはそこ
官僚制や中央集権なんてのは近代化にとって二義的なもにすぎない
ブルジョワ、ジェントリが政権握って産業化をすすめ官僚制・中央集権を施行していくのが近代化
いくら立派な官僚機構もっていても帝政や王政じゃどうにもならん
オスマン帝国における政府の構造って、
有力者の寄り合い所帯
↓
メフメト二世に代表される中央集権化の促進
↓
スレイマン大帝の頃から官僚機構が高度化
↓
軍事費の増大で赤字に。徴税請負制度の拡大
↓
徴税請負はやがて終身制に
↓
アーヤーン(地方勢力)の台頭。税金が中央まで上がってこなくなり、逆に税収が減る
↓
オスマンの近代化。再度、中央集権化を推し進める
↓
近代化に関わるごたごたが色々発生。憲法を公布したりやっぱり停止したりしつつ、
最終的にはWW1に関わり滅亡
大雑把にまとめるとこんな感じか。
台頭したアーヤーンが西洋的な意味での資本家にならなかった?のは、
やっぱり徴税請負権を渡しちまったからなのかな?
アーヤーンに関して詳しい人が居たら説明頼む。
>>521 20世紀に歴史家などただの1人も存在しなかっただろ
恥ずかしいのは色物際物に価値を認めちゃうお前の判断力だw
広範な勢力を取り込んだ議会政治が支配するから集団への帰属意識や統合の容易さが増す?
否定はしないが、結局のところ日常生活の関係性の中で
どのくらい公や国家の存在が意識されるかが重要なのであって、政治体制は重要じゃないでしょ。
実際中国の戦国末期には政治行政の深化と中央集権によって徴兵制が実施され
唐の時代も中途半端ながら府兵制が敷かれたし、中国王朝に近隣するタングートや女真は
民族意識に根ざした皆兵制で対抗する軍事力を捻り出してる。
日本の戦国末期でも、多少見劣るが非常時の防衛戦で非軍役の民衆を動員したケースが何度かあった
それに対して、当時のオランダやイギリスは徴兵制を敷く事が出来てない。
>>522 産業化と中央集権による統制強化はそれほど関連性の無い別の事柄だし
上部の権力構造は近代化と何の関係も無い、帝政や王政のまま近代化を進めた国家はいくつもある。
>>524 ウォーラステインやブローデルを知らない時点で何言っても説得力なざすぎ
>>それに対して、当時のオランダやイギリスは徴兵制を敷く事が出来てない
これが勉強してない証拠
常備軍という財政負担がないイギリスやオランダが近代的なシステムを構築する上でフランスより有利だったのは
本読めば書いてあるだろ、自分の頭の中で考えるからこうなる
>>525 産業化をすすめていく上で絶対王政は足引っ張るから不利なんだよ
絶対王政の場合、少数の王族・貴族が自己の権益守るために行動するから産業の合理化は不十分になる
だからブルジョワが政権握る必要があるんだ
上部の権力構造と近代化は関係ある
帝政や王政のまま近代化といっても立憲君主制に変化してるしな
それと後発の国の近代化は事情がかなり違ってくるからな
俺が対象とするのはイギリスとオランダがなぜいちはやく近代化できたかってこと
まぁ後発の国でもなんらかの政変があって
古い専制体制はぶっつぶされて上部構造の変化が起きてるし
トルコもそうだし、今時の開発独裁国家でも古い専制君主制やってる国はどこにもないな
近代化に必要な過程をどの国でも同一であるとする考え方は乱暴だと思うぜ
まぁ国によってかなり違うからね
共産主義なんてのは完全に国家の管理による体制だし
ただどちらにしろ専制君主制はこの世から消えたな
531 :
世界@名無史さん:2010/05/28(金) 20:03:49 0
近代化以前に、1600年代に大分差がついたように思うんだが
学問じゃないかな?
イギリスにニュートンやベーコンが生まれ、フランスにデカルトやパスカルが生まれ
なぜオスマンに出なかったのか
この100数十年後にはイギリスフランスにオスマンはいいようにやられるようになるわけで
>>526 ウォーラステインやブローデルは所詮色物、説得力なざすぎ。の間違いだろ
フランスの常備軍が(というより欧州の軍隊全てが)高維持費かつ脆かったのは確かだが
徴兵制とは一切何の関係も無いよな。徴兵制の意味解ってる?
イギリスとオランダの軍備負担が軽く済んだのは、地理的要因から来るモノに過ぎない
>>527 立憲君主制は紛う事なき王政、帝政、君主に権限が無いお飾りならともかく変化云々は詭弁。
産業の合理化や士大夫層が政権を担うくらいの事は、宋以降の近世中国やオスマン帝国でも進展しているし
少数の王族・貴族が権力を握る状態なんてのは王政、帝政でもごく初期の程度が低い段階。
近代化に必要な工業化は資源的条件が揃わなければ起こらないし
オランダが近代化された時期なんて日本といい勝負だろうが。
534 :
世界@名無史さん:2010/05/29(土) 01:47:04 0
>>531 「数量化革命」という本は中々面白かった
535 :
世界@名無史さん:2010/05/29(土) 03:30:38 0
>>535 オスマン帝国スキーとしてはオスマンの知名度が高まるのは喜ばしいことなんだが、
オスマン帝国で行われた「スルタンのパワー(権力・軍事力)を前提とした、強者の寛容による多民族統治」を、
近年の多民族共存社会と結びつける様な論調は止めた方がいいと思うなぁ。
「多民族社会というものは、絶対強者がその力で以って統治するしかない!」という主張をしたいのなら別だが。
まあ、単純な強者の寛容というわけじゃなく、中核地の1つであるバルカン半島にうなるほど異教徒が居たせいで、
極力平等に扱わないと国がまとまらなかった、というのもあるんだけど。
>>536 モンゴルもそうだよなぁ。支配者民族としてのごく小数のモンゴル人と
大多数のそれ以外という感じだったけど。
基本、大きな帝国は多民族共存でしょ
ペルシャ然り、漢然り、ローマ然り、イスラムの諸帝国然り、唐以降の中華然り
突厥以下のトルコ系国家然り、モンゴル系国家然り、オスマン然り。
他民族を物と見なして人性を認めず家畜扱いしたり
害獣扱いして積極的に虐殺しまくったのはキリスト教国くらいのもんだろ。
539 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 18:47:27 0
イスラム教徒がインドに侵入したとき仏教徒と大虐殺しているが何か?
オスマン帝国もアルメニア人を大虐殺しているが何か?
その他ルワンダやらカンボジアやらスーダンやらいっぱいあるぞ。
アルメニア人のあれが大虐殺なら
南北アメリカ大陸やアフリカでキリスト教徒がやったのは超絶大虐殺だなw
純粋な意味で桁が違う
541 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 19:11:59 0
てか有史以来どこでも虐殺・略奪なんてあっただろ
アメリカ先住民同士でもさんざん戦争やってたわけだが
たまたま圧倒的な文明を持つ異世界の連中に抹殺された、ただそれだけ
542 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 21:39:32 0
>>541 同意、というか生物自体が、カンブリア紀から何億年もそんな感じだ
オスマンの問題は、かつては南ロシアの平原から白人少年少女を略奪して奴隷として売っていたのに
その後に立場が全く逆になったことだろう。さすがに奴隷などにはされなかったが
圧倒的な西洋文明の一因になれなかったわけだね
何も知らないんだな、欧州圏とその他の世界じゃ奴隷に対する認識そのものが違う。
エジプトでもペルシャでも中国でもイスラム世界でも奴隷は権利を制限された人だが
欧州圏では家畜と同じ、殺すのも拷問するのも解体して食べるのも自由。
それに有史以来の虐殺とキリスト教徒の超絶大虐殺じゃ根本的な姿勢も浄化した桁数も全く違う。
浄化って・・・
最後のスルタンの孫オルハン・エフェンディ死去、夢からなわずエジプトに埋葬
2010年05月28日付 Zaman紙
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20100529_090509.html .
海外で生活しているオスマン家の末裔がまた2人生涯を終えた。スルタン・レシャドの孫である
ハサン・オルハン王子が3日前にエジプトで、スルタン・アブドゥルメジトの孫であるアブドゥッラ
フマン・サーミーオール・メフメト・サーミー氏がロンドンで死去した。
エジプトで教師をしていたハサン・オルハン王子が亡くなった後、金銭的理由と外交上の
障害のため遺言の内容が実現されなかったことが明らかになった。ハサン・オルハン王子は、
長年、脳の癌を患っていた。お金が払えず、入院していた病院に対し6000ドルの借金があった
故き王子は、亡くなる少し前に病院から追い出された。
ハサン・オルハン王子に対し、スルタン・アブドゥルハミド2世の孫であるオルハン・オスマン
オール王子がイスタンブルから援助しようと試みたが、失敗に終わった。オルハン・オスマン
オール王子の次のような言葉は、王家の末裔たちが今おかれている状況を表していた。
「2ヶ月間、王子にお金を工面しようとしたが、十分な額になりませんでした」。
外務省と在カイロトルコ大使館に働きかけたと述べるオスマンオール王子は、借金が亡く
なった後に払い終えられたことを強調している。ハサン・オルハン王子は、エユプ・スルタン
にある父親の墓の隣に埋めてほしいことなどを含む遺言を、亡くなる直前に会ったオルハン
・オスマンオール王子に残した。オスマンオール王子は、金銭的な問題と外交上の問題で
故人の遺言を実現できないのを残念に思っていると述べている。
また、ロンドンで生活していた、スルタン・アブドゥルメジトの孫であるアブドゥッラフマン・
サーミーオール・メフメト・サーミー氏も5日前に生涯を閉じた。ロンドンで埋葬された故人は
85歳だった。王家の人々は、28日と29日の10時から20時の間、ユルドゥズ公園チャドゥル宮
に集まる。さらに、同じ場所で今日の午後の礼拝のあと、なくなったオスマン家の子孫の
魂のためにコーランの一節が読まれる。
サウド家のほうがオスマン家より金持ちってなんか歴史の皮肉を感じるな
548 :
世界@名無史さん:2010/06/03(木) 14:43:38 0
イスラエル・メディア「『オスマン艦隊』、ガザ沖で阻止!」
2010年06月01日付 Radikal紙
イスラエル・メディアは、支援船に対して行なわれた襲撃に関し、インターネットを使って広範にさまざまなニュースや論評を報道している。
右派のエルサレム・ポスト紙は、イスラエルは、襲撃が世論に与えるマイナスのイメージが拡大するのを防ぐため、時間との競争をしていると述べる一方、
軍事行動に対してヨーロッパからもアラブと同じほどの反発の声が上がっていると報じた。同紙は、支援船上の活動家たちが
イスラエル兵を襲撃した模様が収められたビデオを、イスラエル側が公表するのが遅れたと報じ、「兵士の武器が(活動家に)奪われて、
兵士たちに向けられる様子をうつすビデオがあれば、直ちに公表されることが極めて重要だ」と述べた。
左派のハアレツ紙は次のような論評を行った。「イスラエルが国際社会で自国に与えた損害は、おおげさではなくあまりに大きいのだ。
今年初めにイスラエルが在イスラエルのトルコ大使を一段低いイスに座らせて貶めたことで、トルコとの間に露見した危機は、
今回の事態と比べると非常にささいなものに見える。今回の襲撃は第3次インティファーダの原因ともなりうる。暫定的な結論として、
トルコにとって完全な勝利である」。
イディオット・アハロノート紙のモルデカイ・ケダル記者の署名付きで論説記事では、「世界の今後のための戦争」との見出しで次のような論評がなされた。
「今回の戦争はガザと関係があるものではなく、この過激なイスラーム勢力と自由な西側世界との間の戦争である。ガザ沖で起こった戦争は、
トルコが主導権を握ろうとしている、そしてハマス、ヒズボッラー、イランを含むイスラーム同盟と、
イスラエルに代表される自由主義の西側との間に起こったことは明らかだ。この戦争は中東の未来に関わるものだ。再び中東を支配したいと考える
『オスマン帝国』の勢力は、ガザ沖で阻止されたのだ。
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20100601_184758.html ワラタw イスラエル必死すぎだわ。誰がこんな戯言信じるんだよw
流石カルト国家、北チョンと何一つ変わらない思考形態だな
イスラエルちゃんは必死じゃないと死んじゃうんです
551 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 19:34:35 0
>>547 ケマルに身一つで追い出されましたからね。
>>532 面倒くさいから放置してたけどまた議論再開な
>>ウォーラステインやブローデルは所詮色物
じゃお前現代の歴史学家でこいつら以上のやつだせよ
ウォーラステインの文体はありとあらゆる歴史家の文章を例示してすすめてく方式だからお前はそいつらの功績も否定することになる
どうせ読んだことないから悔し紛れで言ってんだろw
>>徴兵制とは一切何の関係も無いよな
だからイギリスには常備軍も徴兵もねーんだよタコ
お前徴兵制に維持費がかからないとかマジで思ってんのかw
>>イギリスとオランダの軍備負担が軽く済んだのは、地理的要因から来るモノに過ぎない
それも要因の一つだがとにかく俺は軍事負担が少ないのがフランスに比べて有利だったって言ってるだけだろ
お前はイギリスとオランダが地理的要因が有利だから大したことないとか言いたいんだろうが
そんなことはどうでもいい
>>533 >>産業の合理化や士大夫層が政権を担うくらいの事は、宋以降の近世中国やオスマン帝国でも進展しているし
宋の中央集権体制は技術発展を皇帝が独占することによって阻害したし、
士大夫なんて皇帝権力下の官僚に寄生してるだけじゃねーか、
イギリスみたいに官僚にもならないで国王権力からほぼ独立したジェントリやブルジョワみたいな層が育ってないだろ
だから士大夫は皇帝を権力からひきずり下ろすことができない
>>オランダが近代化された時期なんて日本といい勝負だろうが
あのな17世紀初期まではオランダはイギリスも含めてヨーロッパで一番先進国とみなされてたんだけどな
産業革命も日本より全然はやくてイギリスに次ぐ早さだし
それと産業革命=近代化じゃないぜ、制度的なものも必要だしな
少なくともオランダが近代的要素を色濃くもっていたことを否定する学者はいないよ
イギリスの近代的な国王に優越する議会制、立憲君主制の確立もオランダのウィレム3世の影響大だし
水力による機械工業、株式会社、自由貿易などもな
>>552 その2人は歴史学者と呼ばないでしょ。歴史を整理したわけでなく
歴史を面白おかしく加工して飯の種にした、19・20世紀前半に多くいた色物。
文献の一部だけを引用する電波歴史家や似非言語学者
史家の文章の断片を都合よく引用する小説家や似非歴史学者、社会系の自称学者の同類
とは言わないが、20世紀中後半頃までの日本史家と同じく自称学者の文系(笑)だろ。
武器を供給する必要があるから当然維持費は掛かるが、傭兵や封建制下の兵に比べて圧倒的に安価
古今東西徴兵制を敷いた国家の動員力は全人口の1/3程度だが
傭兵や封建制下の動員力が、1/100〜多くて1/30程度なことを見ても分かる。
どうでもよくはない、地理的な条件のお陰で陸軍の維持費を
収奪物を運び制海権を確保する為の船の増強へ回せたのだから、この要因は大きい。
>>553 宋代と清代の皇帝は機関的で激務だし権力も無掣肘な前代までのモノとは異なる。
だいたい「技術発展を皇帝が独占」って、何?意味不明過ぎ。
大資本家(冶金や製陶他)や大商人は国家権力から独立してたし
大地主は士大夫が多く国との繋がりも強いが「官僚に寄生」が何を意味するのかさっぱり解らない。
士大夫層も政府高官や皇帝を言論によって批判しても罰せず、と法律で規定されていたし
宋代には批判の高まりで何人か皇帝が退位させられてる。
17世紀初期だとまだ西欧は先進地域でないから、その中で進んでるから何?っていう。
工業化は西欧諸国の中でも遅めで日本と時期的には大差ない
政治や行政の制度に関しては、そもそも西欧の全ての国家が未整備で遅れていた。
(水力による機械工業)この程度のことはアジアの広い範囲で1千年紀から既に行われてる。
株式会社形式の事業形態も、7,8世紀以降のイスラム世界や宋代以降の中国で既に見られる。
領域国家成立前の交易は全て自由貿易だし、現在は完全な自由貿易が行われてない。イミフ
>>554 だよね
世界中で共通する構造とか流れがどうとか云うんは
それぞれの文明や国家の共通点だけを取り出して言ってるに過ぎんよ
違う部分はばっさりと切り捨てるなんてな乱暴すぎ
557 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 01:00:06 0
>>554ウォーラーステインもブローデルも20世紀後半の人物だし、
ブローデルは20世紀最大の歴史家と言われてるよ。
ウォーラーステインは社会学者だが、歴史にも大きな影響を与えてる。
ブローデルは色物でも際物でもないと思うよ。
>>555確かに「技術発展を皇帝が独占」は意味分からんな。
しかし、
>>553が言いたいのは多分宋の頃の大資本家は工よりも商への傾きが強く、
国家管理形式に傾いたために次第に中央集権体制に組み込まれたゆえに
技術発展がうまく行かなかったと言いたいんだろう。
そういった意味なら別にある程度通じると思う。
「官僚に寄生」はコビ売ってたってことかな?
オランダは一応、生産・流通・金融面では17C初頭〜半ばまでかなり高水準にあったぞ。
政治や行政も比較的進んでいたし、工業化面でも造船業は他を圧倒してた。
とはいえ、1750年になってさえ清の国民総生産はヨーロッパ全体よりもはるかに
巨大であったし(同じ頃の一人当たりの生産力はイギリスがトップ、次点で清)、
17cのムガル帝国の農業生産力もかなりのものだった。
つまり
>>553が言いたいのは多分、国力ではオランダはアジアの大国に負けてるかもしれんが、
以後発展する要素は兼ね備えており、それは評価すべきだってことだろ。
558 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 08:54:46 0
>>553ほぼ同時期だけど、ベルギーの方が気持ち程度産業革命の時期早くなかった?
>>555調べてもらえれば分かるけど、一般的には最初の株式会社は
1602年のオランダ東インド会社だよ。
17c・18cにもこの会社形態は多少は広まるが、本格的な広まりをみせるのは、
19c初頭になってから。
>>556 ウォーラーステインの著作の内容については近代世界システムの2巻目
までしか知らないが、その後の著作で彼は清朝やインドなどにも言及
しているの? 彼が本当に「世界中で共通する構造」などと発言している
のだとしたら踏み外してしまったとしか言いようがない。
彼の近代世界システム論は基本的に西欧の近世にしか適合しないし、
現代の部分は社会学の従属理論に接合しているだけだから、
「近代世界システム」も近代以降が出せないだけだと思っているんだけど。
あと、ブローデルも「それぞれの文明や国家の共通点だ」なんて
ことは言ってないと思うが。彼のいう「構造」は方法論の話であって、
気候や地理的な要素、社会的な同質性の拡張は持続性、といったものを重視
しようとしているだけで、シュペングラーやトインビーとは違うんだけど。
どうも
>>556は、ウコーラーステインもブローデルも読んでないような印象を受ける。
失礼、徹夜明けなもんで。
×ウコーラーステイン
○ウォーラーステイン
>>557 中国の大資本家は基本鉱工窯塩業で財を成した人物が多い。
多くの職人を国家や権門家が管理していたのも唐の中頃までで
宋代以降は自由経済?適当な単語が思い付かないが封建的な職人統制とは無縁。
技術発展も工業化や冶金、化学を除けば清代に至っても
なお世界的に高水準を維持していた事に鑑みて停滞したとは言えない。
〜17世紀中葉頃は近代化の始まる以前、欧州や日本はまだ近世の時代でしょ
産業が進展したといっても工業化は始まっていないし。
>>558 西欧人の実態無視したホルホル起源認定の受け売りはもういいよ
562 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 17:01:59 0
>>555 「罰せず」じゃなくて「殺してはならない」じゃなかった?
それも法律じゃなくて、一般には非公開の遺訓でしょ?
あと「言論を理由に殺してはならない」と、「言論によって
政府高官や皇帝を批判しても」じゃ違うと思うんだけど。
それでも十分すぎるほど先進的だと思うし、
宋代の技術や科学、社会や経済・産業の飛躍的な
発展は同時代の他の国とは比較にならないぐらい
高レベルなものだったとは思うけど。
563 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 17:45:16 0
>>561 あんたも傍から見れば中国のホルホル起源認定の受け売りだろ
さっさと古代中国での株式の形態と過程を説明してもらえるかな
「産業革命のレトリック」とか意味のわからん誤魔化しは禁止な
>>563 >株式会社形式の事業形態も、7,8世紀以降のイスラム世界や宋代以降の中国で既に見られる
どうして古代中国だと思った?
商人が紅海・ペルシャ湾〜南インド〜インドシナ〜シナ間で遠距離交易事業を行う際
多数の資本家から出資を募って交易へ従事する形態が、上に書いた時期頃から見受けられるようになる。
565 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 21:32:15 0
>>561確かによく調べると、間違ってた。
宋代に関してはおまえさんの言う通りだわ。
しかし、元代以降になるとある程度政府に統制・活用されたのは間違いないようだぞ。
あと、俺はある時期まで中国が他の地域を様々な面で他を圧倒してた
ことは否定しないよ。
例を挙げるなら、
・14c末の明の海軍力は世界でもダントツ
・14cのイタリアでは紙の製造すらされていない
・13cの宋の鉄生産力はすさまじく、おそらく19世紀になるまで生産力で
これを超える国は出現しなかった(その後生産は低下するけど)
・火薬の爆発性すら7c半ばには発見
・清代(乾隆帝)の代の国民総生産は世界の四分の一もあった
とかな。
で、古代中国における実態をとらえた株式会社ってやつはどんなやつなんだ?
山川系の教科書レベルの知識しかないがそれによるとオスマン帝国は
1571年のレパントの海戦では大敗したものの勢力圏では大した影響はなかった
衰退のきっかけになったのは1683年の第二次ウイーン包囲で撃退されてから
って感じの記述になっているな
567 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 22:39:02 0
>>564もしかして言いたいのはイスラム世界の「ムダーラバ」のこと?
あれは確かに共同出資してるし、中国とかヨーロッパの貿易制度
とか商慣習に与えた影響も大きいと言われてるけど、
どちらかというと信託業務に近いよ。
株式会社の源とは言われてるが、世界初の株式会社というには無理がある。
中国のシステムも同様のものなので、上記と同じ。
イスラムの先見性はすごいと思うけどね。
>>564 近代型の株式会社がどういうものか、ちゃんと理解している?
特徴は三つ。
一つは、法人格。契約や法的行為の主体となり得る。
二つ目は、資本と経営の分離。出資者たりとて、株式会社からするとヨソの人だ。
三つ目は、出資者の有限責任。会社がなにかやらかしたとしても、その責任を負うのは
株券が紙切れになるだけ。逆に、株主も会社に対してオーナー俺様要求はできない。
こういうことが約束できてるかできないかで、近代の株式会社か、前近代の講や頼母子やらか
の違いになる。
支那だの中世イスラム圏だのでは、発起人兼経営者の人柄に惚れて金を融通し金も口も出す、
責任の分担も曖昧なもので、分類からすると、後者だ。
出資者と経営者が居て、それぞれの責任区分と利益分配の割合が契約で決められていた。
株式会社と呼ぶ事に無理があるというなら、イスラム、シナそれぞれの類型において
何れの要素を欠くか指摘しないと話にならん。決定権は経営者側
>中国のシステムも同様のものなので
>支那だの中世イスラム圏だのでは
地域毎、時代毎に発展、変化していった仕組みなのに同様もクソも無い
よく知らないから抽象的な言い回しで逃げただけだな。
何にしても話題が無軌道展開され過ぎ。
570 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 03:10:11 0
>>569 まずはあんたが現在の株式に相当するものが存在していた説明を相変わらずしないから話が進まんだけだろ
とてもじゃないが
>>564この程度じゃーね・・・
>>566 政治的な影響は無かったが、経済的な変化がレパントを切欠に起きた、
というのがブローデルの『地中海』
山川というより日本の歴史教育は政治偏重だからいつでも事件がいきなり起きる。
572 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 08:35:45 0
>>566 たしかに、日本の教科書ではそうだけど
世界史的にみると、大きな転換点だったと思うな
オスマンを破ったスペインは20年もしないうちにイギリスに敗北しているし
上昇するイギリスの力と、下降するオスマンの力が交差した象徴的な事件と思うな
レパント以後、オスマンはベネチアやオーストリアといった小国にもてこずるようになったし
大航海時代により、経済的地位も低下したし
文化、学問面では14世紀からすでに欧州の後塵を拝していた
いきなり事件が起きるのは仕方ないでしょ、教科書は幅広い範囲網羅して尚かつページ少ないし
それとブローデルは過去の遺物、近年の研究の急速な進展を見ると真に受けるのは非常に疑問。
>>570 はいはい、
>>569>>564にある要素以外の何の要件が東インド会社と比べて欠けてるか指摘しろよ。
574 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 11:13:25 0
>>573 本国の学問力、技術力が全然違う
ネジも知らない低技術の中国、外来の優れたものを取り入れられなくなっていたオスマン相手じゃ差がつくわ
575 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 15:26:11 0
>>574オランダ東インド会社が最初の株式会社ってのには同意なんだけど、
株式会社の定義に本国の学問とか技術水準の高さを持ってくるのはおかしいよ。
清代の頃だって朱子学はライプニッツ(国が違うけどw)の哲学に影響を与えてるし、
科挙はヨーロッパの高等文官試験に多少なりとも影響を与えている。
技術に関して武器など(とりわけ大砲)は、オランダの水準が清とかオスマンの
レベル圧倒してたってのはあるけど。
一応、573は自分が『ムダーラバ』じゃないのと質問して反論しないから
多分そうなのだろう。
システム上、『ムダーラバ』は、
1.収益の一定割合が配当として還元されるが、損失は(出資額の範囲内で)、出資者の負担となる。
2.出資者は資金を出すのみで、事業には関与できない。
3.原則として契約の終了(配当確定)が想定される
といった要素をもっているが、個人的にイスラムのそれは当座企業的要素
(航海が終わってから、配当・生産が行われ終了)を持ってるのに対し、
オランダ東インド会社は永続事業会社であるという点が大きいと思う。
実際これによって競争力を飛躍的に高めたのは間違いないし、
近代株式会社の一要因ともなっている。
>>573 >近年の研究の急速な進展
具体的にどの点か教えてくれ。
過去の研究では、定説化するものと、ご指摘のように覆されて古くなる
部分の両方がある。過去の研究だからといって全部否定するのは
歴史学会一般の話として無いので、今回の争点となっているブローデルの
見解について、現在どのような学説がでているのか教えてくれ。
>>573 ページが少ないならページを増やせば良い
アメリカの世界史教科書は1000ページあった
無意味な通史に拘って事件の羅列をするのをしょうがないで済ませてては駄目なまま
それから、『地中海』を読んだ事もないだろう
>>572 にわかかつ知識量絶無だけどこの表現はどうなんだろう。
>ベネチアやオーストリアといった小国にもてこずる
レパント当時でこの二国が小国っていったら大国ってほとんどない気がするんだけど。
>>575 永続性が無いと株式会社の要件を満たさないというなら
窯業、製鉄、製塩のような大規模事業では、南海貿易やムダーラバに見られる形
プラス永続性を備えた契約も見られる。
>>576-577 オスマンに関して西欧視点の重大な出来事しか分かってなかったのが
研究が進み出来事や実態が明らかになるにつれ、「いつでも事件がいきなり起きる。」的な認識から
より現実に近い理解がされるようになってるのは事実でしょ。
レパントの影響にしても、基本的に域内で完結する経済のオスマンが
当時はまだ豊かでない西地中海地域の制海権を失っても
その後のオスマンに退潮の兆しが見られない事から考えて、些細な影響しかなかったはず。
西欧側での経済的影響どうこうは、西欧経済史の知識皆無だから何とも言えないけど
581 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 23:24:05 0
>>579それだけじゃない。
『ムダーラバ』の出資者は、出資するのみで事業には関与できないが、
出資者による会議などの介入が出来るのも近代株式会社の条件だ。
さらに、株式(自己の資本)の譲渡も出来なければならない。
中国の大規模事業で
>>568と俺が挙げた条件全部揃ってるのなんてあるのか。
>>568のいう1,2と永続性は持ってると思うので(山西商人など)、それ以外の条件が
存在していた証拠を具体的に例も挙げて説明して欲しい。
教科書の書き方はいかにも「事件がいきなり起こる」的な書き方だけど、
実際書き手側はそんなことは認識してないと思うし、ブローデルは
事件の前後関係へのアプローチも忘れていない書き方してると思うんだ。
例えば、レパント海戦においても1571年前後の軍事的事件について丁寧な
導入をしているよ。
レパントの海戦がオスマンに大して影響は与えなかったのは同意。
むしろそこら辺からのオスマンの内政的な変化の方が重要。
>>580 なんとなくわかってきた。君は、ブローデルがオスマンを重視してない、と言いたいのでは
ないの?そういう意味では、ブローデルは「地中海」といいながら、イスラム側資料を
利用できてない事実は良く認識していた。ブローデルでオスマンの記述や分析が
不足しているのはその通りだが、それでブローデルが否定されることにはならんでしょ。
また、ブローデルは事件についての決定論者では無いよ。どうも誤解が多いようだね。
更に16世紀の地中海が「豊かでない」と判断するのはどうかな?
12世紀までは西欧はビザンツやイスラムに比べて貧しかった。が、スペインと
イタリア諸都市は急速に力をつけ15世紀には富裕化していた。大航海の資金も
あったし、ビザンツ政局に介入もできた。英仏などに比べると、スペインやイタリア
都市国家は相当富裕だったと言える。西地中海地域の制海権というが、
16世紀中盤のオスマンの西地中海への軍事的進出は一時的で、元からオスマン経済に
インパクトがある進出ぶりでは無かった。もっとも、レパント海戦に代表される地中海での
数々の戦闘でキリスト教側が敗北し、1世紀くらいオスマンが地中海全部支配していたら、
どうなっていたかわからない。
あと、レパント海戦以降のオスマン退潮史観はオスマンの史家自身が言い出したことで、
政治・軍事的にスレイマン以降急拡大が止まったことの象徴でしょう。
欧州に対して一方的な軍事的劣勢に立つのは18世紀からで、国力としては17世紀
までは維持できてたと思うよ。ただし経済文化的には17世紀には西欧に
抜かれてたと思うけど。
>>581 株式の譲渡が公開取引を通じて容易に売り買い可能という意味なら
株を容易に譲渡できない株式会社が今の日本に幾らでも存在する以上、条件にはならん。
可能か不可能かという事なら、当事者同士が決めればいい事なので当然可能。
何の為に資本家が経営権を持たない事業へ出資するかを考えれば
無限責任を負うなら他人へ経営を委任する意味がない。経営権の範囲は契約で決められてる。
>>554 おお盛り上がってるね
じゃさっそく反論
ブローデルやウォーらステインは全然電波歴史家じゃないよ
下の人も書いてあるけどあんた無知だね
>>どうでもよくはない、地理的な条件のお陰で陸軍の維持費を
>>収奪物を運び制海権を確保する為の船の増強へ回せたのだから、この要因は大きい。
だからそうだって書いてあるだろあんた無知だね
>>武器を供給する必要があるから当然維持費は掛かるが、傭兵や封建制下の兵に比べて圧倒的に安価
宋は中央に数十万の禁軍置いてたんだぜ、常備軍だろはっきりいって
禁軍に武器供給してないわけないだろ
>>555 実際中国の技術は民間まで降りてないだろ
宋の時代の機械時計も一過性で技術は失われてるし
ヨーロッパの場合技術は民間で発達したのに中国じゃ士大夫層がその受け皿になってねーし
>>大地主は士大夫が多く国との繋がりも強いが
だから「官僚に寄生」してんだろ
そもそもイギリスかなり大陸と違って陪臣制が強いから封建体制化でも官僚なしで中央集権化が進んでんだよ
官僚の中央集権化よりよっぽど低コストだ
>>17世紀初期だとまだ西欧は先進地域
少なくとも科学技術面に関しては先進国だし、もう近代的な経済システムの基本は築かれてる
>>この程度のことはアジアの広い範囲
規模が違うんだよ、アジア諸国でオランダみたく食料を外国から輸入して産業の特化した国なんてないね
>>557 一人当たりの国民総生産は1750年頃でもオランダかイギリスかどっちかわからんけど
かなり長期間オランダがトップじゃなかったか?今でもオランダの方が上だったかな
>>559 中国が近代経済システムに取り込まれるのは19世紀後半じゃないのかな
>>561 自由経済といっても株式会社も変動相場制もなく当時の日本より劣ってたよ
工業化自体は16世紀から始まってる。産業革命は大量生産大量消費社会で工業化の大規模化
>>西欧人の実態無視したホルホル起源認定の受け売りはもういいよ
勉強しろよバカ
>>562 けど中国は近代化できなかったしそこが問題かなんだろうが
結局オスマンも中国も20世紀になって旧来の支配体制を暴力に覆さなきゃ近代化できなかったじゃん
士大夫層も前近代的で西洋のブルジョワやジェントリみたいな役割は果たせなかった
比較的皇帝の権力を維持したままで近代化したドイツもユンカー(イギリスでいうとジェントリ)が実質的に権力もってたし
>>580 すぐには影響はでてないけどフランスや新教諸国の商人が徐々に影響力を出してきたんじゃないの
オスマンがイギリスやフランスに経済支配受けるようになるのは18世紀後半だけどいきなりってわけじゃないからね
>>582 スペインに関しては出資者のイタリア商人やオランダ商人が金が流れちゃったけどね
>>582 オスマンの西地中海への進出が一時的というのは、元来海軍の伝統があったわけでもなく
イタリアより西への進出を企図してもいないから妥当だろうけど、西地中海の経済力はどうだろ?
(ローマの時代はアジア属州の経済が西方を圧倒してたこと、イスラーム・ビザンツ諸王朝が繁栄した時代も
交易の中心は紅海からペルシャ湾へ移り、西欧が切り離されたことから地の農業生産性の低さが窺える)
南北アメリカ大陸での収奪や鉱山開発から上がった利益は莫大だろうが、スペインは何回か財政破綻状態に陥ったし
インド洋航路での交易は中印間の南海交易と比べかなり規模が小さい(明代中頃で年間100艘)
あくまでただの疑問です、はい。知識無いので
589 :
世界@名無史さん:2010/06/14(月) 18:52:19 0
>>588 カルタゴの故地アフリカ属州とか、イベリア半島の属州とかは
相当に豊かだったんじゃなかったっけ?
>>588>>589 レコンキスタ終了後のスペイン・ポルトガルや15世紀以降の北部イタリアの
研究は進んでいるが、10世紀から15世紀のイベリアと南イタリアの経済の
研究は、遅れているのか日本で紹介されていないのか、あまり情報が無いので
発展していたイメージも無いのだろう。
ウマイヤ・コルドバ政権治下でイベリア半島は繁栄していたし、シチリアも
イスラム治下からシチリア王国通じて繁栄し、東地中海と貿易していた。11世紀から15世紀は、
アラゴン、サルディーニャ、シチリアが地中海東方へ経済的・政治的に
進出していた。サルディーナなど、黒海沿岸都市を手中にしている。
このあたりの様子はランシマン「シチリアの晩鐘」などを読むとイメージし易い。
12世紀ルネッサンスと言われる翻訳運動が起こり、その後のレコンキスタ成功には
軍事だけではなく、経済的蓄積があったればこそと言える。
>>588 >ローマの時代はアジア属州の経済が西方を圧倒してたこと、イスラーム・ビザンツ諸王朝が繁栄した時代も
>交易の中心は紅海からペルシャ湾へ移り
これはまったくその通りで、前16世紀以来繁栄していた東地中海が、12世紀頃から
その経済的重心が西欧に移るわけだが、その途中でイベリア半島、シチリアなどを通過
していた点は案外見逃されていると思う。
大航海時代のスペイン・ポルトガルも突然変異のように飛躍したわけではなく、
そもそも1492年に統一されたとされるイベリア半島は13世紀にはほぼキリスト教国家に
支配され、だいたいレコンキスタは終了していた。ポルトガルのレコンキスタ終了は1249年だしね。
大航海時代で脚光があたってからのスペイン・ポルトガルは、寧ろ絶頂からの下り坂だと言える。
上り調子の時代のイベリア半島の歴史にももっと光りがあてられても良いと思う。
オスマン帝国のバヤジット1世が1402年にアンカラの戦いでティムールに捕虜となり
病死してしまい1413年まで空位時代となり滅亡の危機に瀕した
世界史B用語集とかの記述はこんな感じだがよくその戦いから半世紀でビザンツ帝国を滅ぼせたなと興味を持った
ウィキペディアで調べてみたら子のメフメト1世はビザンツ帝国と同盟して他の兄弟を倒して即位したとあり驚いた
宿敵なのに同盟したのだから外交革命というべきものかも
次にムラト2世が即位した時にビザンツ帝国がアンカラの戦いで死んだはずのバヤジット1世の兄弟ムスタファを対立皇帝として擁立で内政干渉したから
オスマン帝国に同盟破棄されてしまったと
読んでみてビザンツ帝国の滅亡は外交の失敗だなと思った
まあ、コンスタンティノープルは1204年にも十字軍に陥落させられてるし
ウィーンより落しやすい都市だったんだろうけれど
>>592 >>ウィーンより落しやすい都市だったんだろうけれど
兵站の問題でしょ。
ビザンツは”トルコから見れば”落としやすい都市だったろうが。
>>592 >外交革命
ビザンツとトルコ族とはアレクシオス1世の時代以来、
しょっちゅう同盟しているよ。特に、13世紀頃は小アジアのビザンツの小封建領主と
トルコのガーズィは混住していて、民族・宗教に関係なく合従・連衡していた。
単純にトルコ・イスラームVSキリスト・ビザンツ、と言えない。
こういうところが西欧十字軍には理解できなかったと思われるが、ビザンツ人は
リアリストだったと思うよ。
>>590 ウマイヤ朝以来のイベリア・マグレブが繁栄したといっても
重要性や発展度合いは東方のリビアや小アジアに比べて明白に劣っていたし
南イタリアは情報がないというより経済的に重要性が無かった。
レコンキスタに明け暮れた時代の西欧は、資源等の条件恵まれた都市や北イタリアを除けば
農業の後進性もあって経済的蓄積の無い鎌倉時代の日本のような状態。
>>591 12世紀以降も経済の中心は東地中海、西欧は相変わらず購買力も無ければ奴隷以外のめぼしい産物も無し
モンゴル帝国の大拡張によって東方世界の様々な先進的科学、技術が欧州にもたらされ
交易圏もフランス、イベリア辺りまで拡張したが、その後の衰退で14世紀には再び交易が乏しくなり困窮
スペイン、ポルトガルの経済その他が上向いたのは、新大陸が発見されて以降の出来事。
>>592 当時のビザンツにもう力は残ってないから同盟する事に抵抗はないでしょ
それにオスマンは元々ビザンツに属していた騎士や官吏を多く取り込んでるし
もっと前にはビザンツがアナトリアの諸侯を利用したりもしたりと、宿敵でもなんでもない。
600 :
世界@名無史さん:2010/06/15(火) 00:20:50 0
>>586557だけど、別に国民総生産のランキングの表ではなかったし、
あらためて見ると清よりもフランスの方が国民総生産は上だった、すまん。
ちなみに、1750年の一人当たりの工業生産力はイギリス10、フランス9、
ドイツ・中国8、日本・インド7、ロシア6、アメリカ4(1900年の英を
100とする、バイロックのデータ)だって。
ちなみに2008年の統計では一人当たりの国民総生産(単位米ドル)で
オランダ50150ドル、イギリス45390ドルとなってる。
1750年頃のオランダのデータはないけど、多分イギリスよりは幾分低いと思う。
17cが「黄金の世紀」と言われるのに対し、18cは「かつらの世紀」と言われたくらいだし。
結構長いことオランダの国民総生産がヨーロッパ一だったこと、19cになっても
しばらくは金融面で重要な役割を持ってたのは間違いない。
>>592アンカラの戦いに敗れた時のトルコを攻めれば、ビザンツ帝国は生き残れた
という説もあるけど、それも難しいほど当時のビザンツ帝国は衰えていたみたいだ。
>>593他の国も協力してくれなかったしね。
>>599のアンガスさんの表では、一人当たりGDPで英国がオランダを抜いたのは
1848年となっている。オランダは1600年には既に1人あたりGDPが世界一に
なっている。ま、参考まで。
602 :
世界@名無史さん:2010/06/15(火) 00:39:12 0
>>601600だけど、産業革命が起こった後ですらしばらくは
オランダを抜けなかったんだね。
情報どうもありがとう。
改めてみると、オランダもかなり長い間世界の大国だったんだな。
>>602 まあ、アンガス氏の研究は一例に過ぎませんが。。。
ただ、マルクス主義史観みたいに経済的分析といいながら、搾取の話に終始
するのと違い、数字を出して定量的に分析する方法が最近増えてきて
いるので、今後もこうしたアプローチが深まって欲しいと思っています。
>>599-603 アンガス某さん電波飛ばし過ぎ、記録が残ってる時代から無理矢理逆算で繋げたようにしか見えない。
それから最近の学説ではじゃなく某マディソン氏の説によると、ね。
というか確実に無理矢理逆算で繋げてるでしょ、これ
まず情報が一切無い国がずらずら並び一括で数字ドンのざる認定されてる地域だらけ
西ローマと比べて経済力で勝っていた(徴税記録)東ローマ地域が既に分裂時点で抜かれてる
ガリア地域の初速が高過ぎ、東欧のGDPが低く伸びが悪い本来は途中まで逆、中世日本のGDPも低い
なにより古代中世の段階で1人当たりGDPが全地域同等なのが決定的
産業の進展や官員数の増大、兵士数増大を人口比から考えて
秦漢代と宋代のGDP差はもっと圧倒的に大きい、全般的に雑だし無茶過ぎる。
>>604 あのさ、アンガスにしろブローデルにしろ、研究をちゃんと知らずに
全否定してるように思えるね。アンガスの研究では古代中世はもともと
無理があるのはアンガスを知るものならわかりきったことだ。
その古代中世をあげつらって全否定する時点であんたも相当
へたれだと思うよ。トルコの資料を使ってないからと言ってブローデルを
全否定してた人と変わらん。しかしながら欧州の場合、中世末期から
かなりの資料と研究の蓄積がある。近世以降については参考になると思うよ。
もともと1400年以降の欧州と近代オランダと英国の比較の話が出たので
参考に出したまでなのに古代中世を持ち出して必死に反論するあんた何?
全体的に雑だし無茶、という指摘だけは同意するが、古代中世含めて、無茶だろうが、
とりあえずやってみた点は買うがね。誰かがこうしたことを始めないと、いつまで
立っても、数値無しに「オスマンは凄い」「清朝は凄い」などと水掛け論に
なるだけだからね。そういうわけで、君の指摘も雑だと思うよ。
>>604 今出典を探していたが、なかなか見つからないので申し訳ないが(もう寝たいので)、
1400年頃を境に経済浮上したという説はブローデル(かアナール派の誰か)だ。アンガスが最初に
言い出したことではない。その主な理由は、14世紀中頃の黒死病により、人口が激減し、
同時に生活レベルが急上昇したことにある(歴史人口学を理解しれてばこの理屈はわかるよね?)。
この現象は日本に関しても同様で、江戸時代前期の急速な人口増加と後期の停滞、及び
後期の経済生活向上が見られるが、生活レベルを維持する為に間引きや姥捨て、
過剰人口の都市への人口流入が起こった(都市への出稼ぎは、農村の生活レベルを
維持するとともに、都市文化の成長に寄与した)。なお、アンガスの研究は日本に
ついてはこの歴史人口学の成果を取り入れている。だから近世の日本の数字も
「無理やり逆算」では無い。
>>605 近代はともかく14/15世紀の(16世紀も)情報が当てになるのか非常に疑わしいと言いたいだけ
当時の行政組織は江戸時代の日本より未整備だろうし、同じくその手の史料も少ないだろうから。
>>606 誰も近世日本の数字は否定してないよ
ただし、江戸中期以降に都市流入と都市での死亡率が大きく増加したのは事実だが
同時に主要な港湾での荷揚げ量も著しく増加してる、品目により異なるけども商品作物や
特産品、資材などの年間取扱量が初期〜中期〜後期でそれぞれ倍程度増えたのに対し
14世紀の欧州は、確か13世紀に増大した交易量(本の受け売り)が再び元の水準に戻ってたはず
江戸時代の日本と14世紀欧州の姿を被せるのは誤ってる。
>>607 サッカー勝利の興奮で眠れんかった。今日は徹夜出勤だ。
で、
>14世紀の欧州は、確か13世紀に増大した交易量が再び元の水準に戻ってたはず
>江戸時代の日本と14世紀欧州の姿を被せるのは誤ってる。
14世紀の欧州ではなく、「1400年頃を境」です。流石に黒死病の打撃が直ぐに
持続的な生活浮遊をもたらしたわけではない。普通だったら衰退する筈の社会が、人口減少を
利用して一人当たりの資産を増やして持続的に廻る体制になるには時間がかかる。
なお、黒死病だけではなく、晩婚化・高齢出産化など様々な要素を元に、1400年頃以降の人口と富裕化の
分析がなされている。江戸時代の日本と14世紀欧州の姿を被せている、という印象を
与えるかも知れないが、要は同じ社会学-歴史人口学の方法論を使っている、
ということ。(日本で歴史人口学をはじめた人はフランスに留学して歴史人口学を知った
から、こうなるのです)なお、16世紀の日本の資料は太閤検地及び各国戦国大名の
動員戦力の個別研究の積み重ねから算出されている。14,15世紀の日本はあてに
ならなくても、15世紀末の推計値はまあまあ採用できると思うよ。
>>608 失礼、日本について、14-16世紀があてにならず、16世紀末の推計は採用できる、に訂正。
徹夜なもんで少しぼけてた。
>>608 富裕化は別に西欧世界や近世以降に限って見られた現象じゃあない
前近代非西欧世界の主な変化が農業生産力向上による人口の増減のみというのは暴論
そんな下らん説を参考にする気にゃならん。
16世紀末の日本でも基礎的な史料すら地域によって有ったり無かったりのレベルで
経済力が解るような文献は一部の都市や有力寺院を除けばほとんど無いしね
シナの1人当たりGDPの変化も戸籍あるのに無茶苦茶、まして、空白だらけの東欧
アフリカ、西アジアや近世以前の西欧の数字に信憑性を認めろって方がありえないでしょ。
>>610 君、史学やったことないでしょ。今時一つの要因で全体を決定するような方法こそ
古臭い。マルクス史観じゃないんだから。何度も持ち出すがブローデル自身、
そういうことは言っていない。一つの要素が決定的になるといっているのは
マルクスやヘーゲルやレヴィ=ストロース。歴史人口学も一つの要素に過ぎません。
史料が無い部分は別の地域からの推測で埋め、その他社会諸要素とあわせて
積み重ねで検討してゆく。これこそが現在の歴史学のスタイルです。
同じように黒死病により人口減少したところがあったのに、富裕化しなかった
場所もあった。そこには何か他の要素があるわけです。次にはそれが何かを
研究するのが学問です。史学は「人口のみで決め付ける」などと短絡的な考え方は
しません。あなたの単純な考え方の方こそ暴論です。
なお、シナ云々の文章は意味がわかりません。「近世以前の西欧の数字に信憑性を認めろって
ありえない」こそありえないと思います。宋代は膨大な史料が残っていますし
山田勝芳の研究は漢代の財政,GDPについて相当信憑性ある研究をされてます。
>>610の文章は、自分が理解できないことは否定する。そういう風に読めます。
みっともないからやめた方がいいですよ。
「下らん説を参考にする気にゃならん」ならどうぞ。ご自由に。
失礼。徹夜明けなもんで(今勤務先)
「近世以前の西欧の数字」に中国を持ち出したのは訂正します。
だから、中世の西欧の数字には適用してませんって。1400年を中世末期とみるか、近世と
みるか、というのはあるけど、14世紀にオランダ、ベルギーの商業発展が見られたの
だから、西欧近世史はそこを含むのはおかしくもない。
で、俺は中世以前に信憑性を認めろとは一言も書いてない。
シナの件も中世以前はアンガスは参考にできないと思いますよ。それは
>>605でも
書いてますよね。議論の文章すら読解力が無いのだとしたら、反論する
こと事態失礼ですよ。
>>空白だらけの東欧アフリカ、西アジア
これも言ってません。なんか韓国人と論争してる気分になってきたよ。。。
>>611 唐以降は交易船の入港記録(所属先や品目)を司る官が設置され
徴税記録は漢代のものは極々簡素で大雑把な歳入や歳出が
細目に渡る徴税記録は北宋以降のものが現存していて、それらや戸籍から判断すると
漢→(唐の年代はないが)→宋→明の1人当たりGDPの変化は明らかにおかしい。
山田勝芳の著書も持ってるが、秦漢代の行政記録は残存する史料が乏しく
あくまで分かってる少数の事実(最下層官吏の給与)からの類推を基準に組み立ててるし
その著書の中で秦漢代は食料生産が生産活動の大半を占める的な事を書いていて
工芸品や商品作物、交易が盛んに行われた後代の中国とは大分様相が異なる。
アンガスの表の方こそ、近代以降の西欧を除くと
大雑把に一つの要因で全体を決定してるとしか見えない。
宋の戸籍だと最盛期で人口4000万ちょいでしょ
けど最近の研究じゃ実際の人口は1億越えてたってのがほぼ通説だよな
>>593-594 >>597 >>600 レスサンクスです
ビザンツが助けを求めた十字軍は諸刃の刃でビザンツは孤立無援に陥ってしまい哀れですね
ビザンツに力が残ってなく、他の西欧に味方が少ない中でしてしまった外交の失敗は
内政干渉でオスマンを怒らせてせっかく結んだ同盟を破棄されてしまったことだろうな
>>597 言われてみればオスマンはキリスト教徒の子弟をムスリムに改宗させてからとはいえ
直属の軍団にしたてあげているのは教科書にも載ってますからね
>>612 あと、宋代中国や江戸時代は産業の広がりや規模、政治・行政の完成度からして近世社会と思うが
なんて書くと詭弁臭いけど、15世紀の西欧を同じ観点から視たとき近世と言えるのか疑問を感じる。
西欧のことはあまり知らないが、個人的には科学分野を別として
オスマンと比べ政治・行政の組織が未発達で16世紀中頃以降にようやく整い始めるイメージ
誤った認識なのかもしれないけど、正直あまり興味ないし(笑)
そもそも西欧はオスマンの政治組織を目指してないからな
15世紀でもオスマンの政治組織より西欧の政治組織の方が近代に近いだろ
オスマンも宋の政治組織も近代につながってない時点で
未発達というなら近代に比べて未発達って感じでオスマンは関係ないね
古代・中世の一人当たりGDPが大して変わらないのも当然だね
当時のGDPはほとんど農業生産だからね
宋の時代が古代に比べて商工業が発達したとしても圧倒的大多数が農民だからGDPは大して変化しないんだよ
例えばルネサンス期のイタリア都市は一人当たりGDPがフランスと比較して10倍程度あったけど
農村人口も含めたイタリア全体ではフランスの2倍程度まで下がる
オランダは人口の3割が都市住民で世界で一番豊かな都市をもってたから平均の4倍という数値を出せた
結局産業革命で第二次産業が大幅に増大するまで上のような特殊な例がない限り一人当たりGDPは大して変わらん
>>614 ,
>>617 要するに、西欧に興味も無く知識も無い奴が、アンガスの表で自分が興味が
ある時代が蔑ろにされたから怒ってるわけだ(笑)。その気持ちはわからない
ではないが、議論の仕方を覚えた方がいいんじゃないの?何度も書くけど、
アンガスの表は1400年以降の西欧と近代オランダ、英国の話をする為に
持ち出したものだ。一度も宋代の話はしていない。
で、この時点であえて話をすれば、アンガスの表は江戸日本、清朝については
西欧同様つかえる資料だと思うよ。
>15世紀の西欧を同じ観点から視たとき近世と言えるのか疑問を感じる
江戸の人口調整力(=生活レベル調整力)は、近代化意識に直結した、という
説がある。何故あれだけ速やかに明治の発展ができたのか、は、江戸時代の
人々が「高生活水準を求める意識」が既に醸成されていた点は西欧的近世と
言える*かも知れない*。末期李朝が自己改革できず、清朝は人口増加を
野放しにして、人口抑制して生活レベルを上げるのは1979年の一人っ子政策まで
持ち越された。この観点では清朝が*西欧的近世*とは言えないかも知れない。
が、清朝は十分西欧に対抗できる文化国家だったとは思うよ。
更に、宋を弁護する
>>615、最近の説ではなく、宋代の史書に出てくる
人口が既に1億近い。下記サイトに史書掲載の人口一覧がありますよ。
ttp://heartland.geocities.jp/zae06141/china_population3.html >>617、618
16世紀時点の政治・行政機構はオスマンの方が発達していたという意見には
同意。ルイ17世は清朝の科挙などを参考にしたしね。問題は、そんなに
組織が整っていたのに、人口・国民所得などの研究がなかなか出てこない点。
この点は江戸日本や、宋代中国に見劣りしている。
621 :
世界@名無史さん:2010/06/15(火) 19:43:22 0
>>596 12世紀にはもうフランドルなどで毛織物が発達してたよ
逆に当時の中東にめぼしい産物があるか?
オスマン帝国がレパント以後も勢力を維持できたのは、イギリスやフランスの目が豊かなインドに向かっていたからで
1571年以後は明らかに退潮してた
>>618 オスマンは最後までシャーリアだったからなあ
ルームカイセリを名乗るくらいなら、何とかローマ法でも学べなかったものかね。
代議制国民国家の欧州と、専制政奴隷制のオスマンじゃ相手にならん
623 :
世界@名無史さん:2010/06/16(水) 00:20:45 0
>>620欧州で最初に科挙参考にしたのってルイ14世じゃなかったっけ?
>>620 「かもしれない」と注釈付けようが付けまいが、現実に歴代中国王朝下でも
時代が後になるにつれ生活レベルが向上してる以上、思いつきでしかない。
何度も書くけど、1400年以降1500年代中頃?以前の西欧の数字に疑問がある
行政の発達度合いからして、16世紀以前の西欧諸国に江戸時代の日本や北宋以降の中国のような
ある程度実態を掴める豊富な行政史料が残ってるとは思えないので。
>>619 農民は生産する商品作物が種類、量とも増えていて近世日本と同じく身分の安定化と
所得の向上が見られるし(幕末の富裕度が西欧の1500年頃のそれより下回るのも謎過ぎる)
元豊九域志捨てたから確かな事は言えないが、確か都市住民も首都開封が100万人超
各地の主要都市には30万、50万都市があり、5万程度の地方都市は数多くあった(近世日本に似る)
この内の多くは農民や町民?だろうけど、一定程度は工芸品の生産に従事する職人や商人が占め
商税収入は約15%、これで一人当たりGDPの上昇が無かったと判断するのは不自然。
通り一遍の固定観念で知識無しに断定する方が暴論。
>>625 いや、通り一遍の固定観念で西欧の知識無しに論じてるのはあんたも同じなんだが。
そのことに気づかない点がイタい。例えば1820年の日本は620ドルでイタリアは1100ドルだ。
現在日本のGDPは世界2位だが、1人あたりのGDPは北欧のやベネルクス3国の3/2程度
しかない(フランス・ドイツは日本と同じくらい)。開国して全面的な貿易していない
日本が、イタリアの2/3以下なのは不自然では無いと思うよ。
また、商税収入が15%だからGDPの上昇が無かったのは不自然、と一部のデータだけで
全体を判断する方かそ暴論ではないか。北宋の人口は、当時の史料でも9000万を
超えていた。一部の大都市に数十万の人口がいても全体はそれほど影響しない。
あとえばアンガスは、江戸と清朝について、都市化率の研究を取り入れている。
それによれば、清朝は7.8%、江戸は12.5%程度だったと思う。そういうデータを
出して検討している。あなたも、宋朝を援護するなら、北宋の都市化率データなどを
算出して欲しいものだ。
>16世紀以前の西欧諸国に江戸時代の日本や北宋以降の中国のような
ある程度実態を掴める豊富な行政史料が残ってるとは思えないので。
これもあなたの願望でしかない。そもそも、「西欧」をひとくぐりにし過ぎる。
ヴェネツィア、ラグーザ、ジェノヴァなど、地中海沿岸都市都市の膨大なデータを
利用している。15世紀の英仏独については史料がある研究を見たことが無いので
一応同意するが、地中海沿岸欧州については15世紀の史料は豊富に残っている。
まずブローデルでも読め。
>現実に歴代中国王朝下でも
>時代が後になるにつれ生活レベルが向上してる以上、思いつきでしかない。
中国の農村部では今でも清朝時代と大して代わらない生活をしているところも
残っている。さすがに電気はきているが、家に電球1つ、洗濯機など無いから
路傍の水路で洗濯している。人口100万の都市が40以上あるが、それでも1人あたり
GDPは日本の1/10以下だ。対して欧州では、田舎の家に先祖伝来の銀器が
あったりする。植民地からの搾取の産物だ。社会全体の富が違う。
というわけで、この言葉は再度あなたに返す。
「通り一遍の固定観念で知識無しに断定する方が暴論」。
>15世紀の英仏独については史料がある研究を
失礼。ハンザ同盟の史料は残っていた。
都市であれば全て高GDPだと考えてる時点でバカだよな
アムステルダムやイタリア諸都市はヨーロッパだけでなく新大陸、アフリカ、アジアからの富を集めていて
高収益で人口数万程度だから異常に高い一人当たりGDPが可能なわけ
蘇州や広州、開封などがいくら発展したとしても全体でみればね
しかも都市部も人口がバカみたいに多いから一人当たりGDPも下がる
標的になってるアンガスさんの表みたけど、中国について言えば、
1400年頃に西欧が富裕化したんじゃなくて、洪武帝が商業抑制政策を
取ったから中国の方が低くなったということなんじゃないのかな。
洪武帝の政策って毛沢東の政策みたいなもんでしょ。
1500年頃の中国は知らん良くけど、1600年頃の万暦年間は経済が過熱していた
ので、1500年と1600年が同じ値というのはどうかと思うなぁ。。。
ついでに言えば、1500,1600、1700、1820が同じ値というのは、ちゃんと研究
してるとは思えないけどねぇ。
>>626 論点ずらすな、誰も幕末の日本と西欧の比較などしてない
幕末と1500年、1600年の西欧の数字を比較して明らかに不自然だと言ってる。
都市化率データを算出しろ?戸籍が無い時代の欧州や西アジアに関しては
著名な大都市ですら研究者によって人口推定が倍以上違うのに、無茶な要求するね。
とりあえず大雑把に、開封が100万、北京、天津、長安、臨安、淮安、成都、襄陽、杭州、広州、揚州が50万
金陵、真州、滄州、徐州、蘇州、江陵、金華、武漢、長沙、無錫、濮陽、邯鄲が30万
泉州、真定、済南、洛陽、青島が20万、その他州都を適当に1〜5万と仮定すると10%くらい。
北イタリア諸国がイベリア半島やフランス、ドイツも支配していたならね
誰も北イタリアが東方並に先進的だった事までは否定していない
願望を元に断定しているのは、あなた。
>>627 それは工業化と第2次大戦以降の発展の2つが爆発的だったからでしょ。
清朝時代と大して代わらない生活と言うが、中世欧州や中世日本、中世中国の農民は
浮き沈みの中、生涯農民の身分を維持できる事自体が半々とか1/3程度の割合で
小作や奴隷になる割合も多かった。
西欧人口の大半が先祖伝来の銀器を持ってる?それはないわ
>>629 主要な州の人口当たり徴税額は、一般的な州の5倍前後。思いつきで反論されても困る
>>631 幕末の日本と1500,1600年比較してどこが不自然なんだ。1820年日本は669ドル
西欧平均がで771ドル(1500)、鎖国してる割りにいい線いってるじゃないか。
データも出せずに私の願望云々というのでデータを出します。出展は、
アンガスの「Chinese Economic Performance in the Long Run 」の中国語版、
ttp://www.amazon.cn/mn/detailApp/000-0000000-0000000?ref=DT_TS&uid=000-0000000-0000000&prodid=bkbk822186 だ。p30-31
唐代 762年 1万人以上の都市化率3% 該当都市数50 推定人口5200万
宋代 1120年 同上 3.1% 91 7800万
明朝 1506年 同上 3.8% 112 1億3千万
清朝早期 1650 4.0% 136 1億5千
早朝晩期 1820 3.8% 310 4億
対する欧州(旧ソ連圏は含まない)
1000年 1万人以上の都市数化率データ無し 1万以上の都市数 データ無し 人口4500万
1500年 5,6% 154 7200万
1650年 8.3% 197 9000万
1800年 10% 364 1億4900万
これはアンガスが自分で集計したのであなく、先行研究者のRozman,1793、De Vries,1984の研究
を引用している。こういう研究を元に中国の数字を出しているし、別の書籍
(今手元に無いが)で日本の数字も出している。
1400年のデータは無いが上記都市化率の観点からしても、中国は欧州に
大きく水をあけられていることがわかる。
>>632 じゃあ1000、1500、1600、1700、1820の納得できる生活向上のデータを
出してよ。
>清朝時代と大して代わらない生活と言うが、中世欧州や中世日本、中世中国の農民は
>浮き沈みの中、生涯農民の身分を維持できる事自体が半々とか1/3程度の割合で
>小作や奴隷になる割合も多かった。
こういう散文的に情景の描写、現代の歴史学では時代遅れ。
>西欧人口の大半が先祖伝来の銀器を持ってる?それはないわ
大半とはいっとらん。が、フランスのいくつかの村を調査し、
多くの家庭で先祖伝来と称する銀器や装飾品を持っていた、また田舎の
教会に至ってはほぼ全部、金銀の器や食卓を持っていた、というレポートを
大学時代によんだ(ゼミの教官がその調査の担当者)。
>>632 中国は地方によって徴税率が違った筈だ。あなたの書き方も、思いつきだ。
つーかさぁ
今の中国だって上海とか広州とか凄い発展してるけど、一人当たりGDPはトンガと同レベルだろ
これが香港単独だと先進国並になる
ラゴスやムンバイはどっからどう見ても近代都市で今じゃ車も家電も飛ぶように売れてるけど、
ナイジェリアやインドの一人あたりGDPは、
首都があのガダルカナル島にあって産業は漁業しかないソロモン諸島より低い
アフリカ有数の国際都市ナイロビを抱えるケニアと、砂漠しかなく慢性内戦状態のチャドの一人当たりGDPは殆ど同じ
前近代社会の100万都市の工芸品やサービスの付加価値が全体に占める割合なんてこれ以下だろ
>>633 西欧平均771ドル(1500)、これが疑問だと何度も何度も書いてるでしょ理由は上にある通り
そもそも説得力を持つだけの全国的な記録が残ってるかどうか謎。
データといっても所詮アンガスソース、参考文献に何を用いても上でつらつら書いた通り信憑性に欠ける
都市化率が何を意味するのか不明だが、都市人口を指すなら長安と開封の2都市だけで3%到達。
>>634 >こういう散文的に情景の描写、現代の歴史学では時代遅れ。
伊藤 正敏が中世〜近世日本における農民身分の維持・没落の研究をしてる
時代を追うごとに継承率が上がる傾向で、中世は大雑把に言うと1/3〜半々。
欧州は農奴や奴隷身分の民衆が大量にいたでしょ、あれ農民じゃないし。
>フランスのいくつかの村を調査し
日本でも昔から続く村を訪ねて旧庄屋の家を回れば、多くの家庭で先祖伝来と称する家宝が出て来るよ。
>田舎の教会に至ってはほぼ全部、金銀の器や食卓を持っていた
中世から残る寺社なら、もれなく金銀やそれに匹敵する財物を持ってる
当時の寺社は小さな所でも村落の中心、大きな所は実質都市で、その核が寺社だったからね。
>>635 どの例も中世や近世のGDPから3倍〜7,8倍へ達してるでしょ
どの国も工業化されたり、それに伴い農家の集約が進めばGDP/人は上がるって。
ただ、それらも無く極端に上昇、逆に全く上がらないままで遷移、という主張は疑問大有り。
追加
>>634 徴税率が異なったとしても、徴税額/戸で比べてる以上は
それに耐えうる経済力があったというだけのこと。
>>636 >西欧平均771ドル(1500)、これが疑問だと何度も何度も書いてるでしょ理由は上にある通り
>>636 なるほど。1600年は問題ないわけだ。
>データといっても所詮アンガスソース
OECDから依頼されて、レポートもOECDから出版してる研究を電波のように言うのが理解できん。
調査方法を批判し、建設的に「より精度の高いデータを出すにはどうするか」と持ってく姿勢が
見られず、「しょせんはアンガス」というのは、「しょせんはお前が言うことだからな」と言われることと
同じ。
>都市人口を指すなら長安と開封の2都市だけで3%到達。
一体どういう計算だ?しかもいつの時代?宋代?ちゃんと数字を出してよ。
>>637 >多くの家庭で先祖伝来と称する家宝が出て来るよ。
家法と評価価値の相違って理解してる?
>> 638
>どの例も中世や近世のGDPから3倍〜7,8倍へ達してるでしょ
どの例?アンガスの表?別の人の研究?教えて。
>どの国も工業化されたり、
この点は争点になってない。言葉をお返しする「論点ずらすな」
>それに伴い農家の集約が進めばGDP/人は上がるって。
だーかーらー。そういう断定をする前に、一部が富裕化しても、人口増大で
吸収されるという算数の話をしてるんだが。1億人のうち100万が富裕層だとして、
富裕層が300万になっても人口が3億になれば平均は同じ。同様に、100万の
富裕層の所得が3倍となったとしても人口が3億に増大し、残りの2億9900万の
所得が変わらなければ平均は同じ。
>>633の表を見ろよ。中国の都市化率は唐代から
清朝末期まで3から4%でほとんど変わらない。つまり、前述の算数に当てはめると、
100万の富裕層が3倍の所得となっても、増大した人口に吸収された例に当てはまる。
続き)
とはいえ、中国がまったく均一に600ドルはのは俺も疑問には思うさ。しかし、検証やデータも
出さずに、「おかしい」と断定するのは危険だと思うけどね。 アンガスだって、ああいう研究を
した学者は殆どいないから、まずはとっかかりなわけでしょ。批判して、より確度の高いデータを
出してゆく姿勢が必要だと思うが、あんたのばあい、おかしい、信憑性が無い、とそればかり。
何度も書くけど、中国の均一600ドルがおかしいというなら、生産性向上指標などの研究データを
出してよ。俺個人は、清朝の人口増大は人頭税の固定化をきっかけとしてもので、
富裕化の要素として産児制限は無く、人口増大続けた結果王朝末期に見られる
人口増大によるカタストロフィに陥ったと見ている。3億人も増加した人口の
殆ど農民であり、その農民のGDP増大の数値データが無い限り、清朝になっても
大して富裕化しなかった可能性もあるのではないか、と思っている。別にアンガスの数値を
信じてるわけじゃないが、否定するデータも持ち合わせていないので、「ひょっとしたらそういう
可能性もあるのかも」とは思う。何の疑問も無く「GDPは上がるって」などと断定はしない。
>>640 1500年は大いに疑問あり。
OECDが依頼しても電波は電波、というより近代以降がメインだろ。
より精度の高いと簡単に言うけど、土台がゴミだからな
より高い精度じゃなく一からやるのと同じ、研究者の仕事。金くれるならやるぞ
唐代 762年 都市化率3% 推定人口5200万
長安が100万都市、開封が50万、この時点で3%到達。
なんかもう言い掛かりにしか聞こえんが・・・ウン100万、多ければ1000万いくのが旧家。
現代の1人当たりGDPを持ち出したのはそっちだろうに
工業化や農家の集約が進み平均所得が上がるのは必然。
漢代は徴税のほぼ全額が農業、唐宋代になると工芸品や商品作物、交易品の売り買いによる
商税や関税収入の割合が上がる、これは江戸時代の日本にも見られる過程。
>>633の表の都市化率の意味を答えろ、都市人口とイコールなら表が間違ってるだけだ。
643 :
世界@名無史さん:2010/06/18(金) 19:08:25 0
>>633 失礼した。推定人口はRozmanとAngasのものが併記されていた。
唐代と宋代はAngasのものを記載してしまった。Angasのものは史書の数値をほぼ
そのまま流用したもの、Rozmanのは推計値。唐代については通典でトユウが記載
している推定値に近い。
総人口比の1万人以上の都市人口比。
唐代 762年 1万人以上の都市化率3% 該当都市数50 推定人口100万
宋代 1120年 同上 3.1% 91 120万
>工業化や
何度も書くが工業化の話はしていない。GDP額の差の例えとして出しただけだ。
その他近代に言及したのは、「江戸の人口調整力(=生活レベル調整力)は、近代化意識に直結した、という
説がある」と書いただけ。
>農家の集約が進み平均所得が上がるのは必然。
集約化が進んでも、過剰な人口増加で相対的に1人当たり農地が減少し、
一人当たりGDPが減ることは考えられる。実際清朝の中国では、人口一人
あたり4畝以下となった場合、生産性の低下が起こるという説があるようですよね?
で1766年頃を境に平均4畝以下となった。だからといってこれだけで600ドルの
根拠になるとは思ってないが、600以上だと断定することもできない。
>なんかもう言い掛かりにしか聞こえんが・
>より高い精度じゃなく一からやるのと同じ、研究者の仕事。金くれるならやるぞ
あんた研究者?だとしたら余計言い訳にしか聞こえんね。一からやる程度の段階
だろうがAngasは一応数値を出してますよ。そこに根拠があるかどうかの検討
も無く、一部の現象だけ捉えて「必然」「日本にも見られる現象」と断定するのが
研究者なのか。いちからやる程度の段階なら、断定するのは変だし
Angas(の近代以前)を電波と決め付けるのも変。それに気づかないのか?
644 :
世界@名無史さん:2010/06/18(金) 20:43:10 0
オトラントの戦い
1480年7月28日、70〜200隻のオスマン艦隊がイタリアのアプリア地方にあるオトラントの町の付近に到着した。
男性市民を集めて奴隷にする略奪が行なわれた。ステファノ・アグリコリ大主教らは大聖堂で殺され、
ステフェン・ペンディネッリ司教と守備隊の指揮官フランチェスコ・ラルゴ伯爵は生きたままのこぎりで両断された。
8月12日にはイスラームへの改宗を拒んだ800人の市民がミネルヴァの丘(今日では殉教の丘と呼ばれる)で斬首され
大聖堂は馬小屋のひとつとして使われた。アルバニアへ奴隷として送られた市民もいた。
オスマン支配地域と比べ本当にかなり裕福だったのなら奴隷狩りより略奪に精を出すわな。
オスマンの奴隷略奪は主にデヴシルメの為だよ。
ところで、英語版Wikiを見ると、「男性市民を集めて奴隷にする略奪が行なわれた」の
一文が無く、結果的に何人かがアルバニアに送られた、とだけある。
ついでにいうと、当時既にバルカン半島や小アジアは西欧と比べて過疎地帯で、
労働人口を必要としていた。
また、英語版Wikiには
Italian researchers, on the other hand, conclude that some acts of terror were committed by the Turkish invaders to create panic among the Italians around Otranto.
と書かれている。パニックを起こさしめるのが侵攻の目的で、その後の
征服戦争の前哨戦だったとも考えられる。
前の書き込みと矛盾してるな
バルカンや小アジアが労働人口(奴隷ではなく)を必要とした、という状況や
西欧が人口過多地域だった、という話が事実かどうかは別として。
どんな制度でも選抜徴用されるのは基本優秀な人間で、デヴシルメは年少者が主
その件は遠征先で戦利品として奴隷狩りした出来事だろ。デヴシルメの為じゃあない
648 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 11:24:33 0
結局技術力がものを言うんだよ。
ヨーロッパは16世紀の頃から技術輸出してたからね
当時最強のオスマン帝国も大量の西欧の技術者を雇用してた
西欧みたく技術に特化した文化作らないと中国や日本が産業革命起こすのは無理
そのために西欧は実証的な学問が進んだわけだ
649 :
世界@名無しさん:2010/06/20(日) 20:42:36 0
セルジューク及びオスマン帝国はイスラム教徒の中でも直接西欧と対峙、
あるいは侵略し、イスラム教徒の中で戦争に最も強い国だ。
西欧は17世紀頃から故に直接ココと対決して攻める事は断念し、
イスラム国の中でも弱そうなベンガルやジャワ、フィリピンなどのムスリムを征服した。
それによってオスマン帝国を包囲して、西アジアと南・東南アジア、アフリカとの交易を寸断していった。
それでもナポレオンのエジプト遠征までは直接オスマン帝国に手を出すのは控えていたように思う。
ここで遂に地中海の主導権は西欧に移ったと言える。更にクリミア戦争で黒海の主導権も西欧に移った。
ここまで1000年近く西欧はイスラム勢に押されっぱなしだった。
ちなみにレバントの十字軍国家滅亡は1291年!そして、ナポレオンのエジプト遠征は1798年だ!
この間実に約500年近くに渡り、イスラム勢は地中海を支配し続けたのだ。
このエジプト遠征以後の西欧とトルコの関係は、もはやそれまでと全く違うものになった。
それを見せ付けたのがクリミア戦争だ。黒海も西欧かロシアかという時代になったのだ。
オスマン帝国支配下の中東と、それ以外のイスラム圏との交易が植民地化で寸断されるに従って、
イスラム世界は保守的になり、独自の科学や技術、思想・学問も停滞していったように思う。
>>649 釣り?
西欧の範囲は?
オーストリアとポーランド(東欧だが)はずっと対決してたけど。
オスマンとロシアが黒海を巡って争ったのは18世紀だけど。
>約500年近くに渡り、イスラム勢は地中海を支配し続けたのだ。
クレタ島が陥落したのは1669年だけど。地中海を支配し続けたとまでは言えないのではないか。
イスラム世界がいつごろから保守化したのかについては興味があるな。
具体的な情報を目にしたことが無い。
いやいや、オーストリアは東欧に含まれないでしょ。
オーストリアは中欧
つーか、東欧なんて概念ができたのは冷戦時代
崩壊後はもう使われてないよ
>>652 は?それもいいすぎだろw
ヨーロッパは東西に伸びた半島です。
西欧があれば、東欧もあります。その間が中欧です。
政治的な概念ではなく、地理的な概念です。
オーストリアを含め、ドイツはちょうどヨーロッパの真ん中に位置する。ただ、それだけのこと。
中欧なんて概念無いよ
東欧と南欧と俺等、が奴等の感覚。
655 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 13:51:01 0
>>649 17世紀にオーストリアにぼろ負けしてるじゃんか
そもそもイギリスやフランスのような本当の列強が17世紀にオスマンに見向きもしなかったのは
オスマンには魅力的な物産がなかったからだろ
イギリスの毛織物、アフリカの金、象牙、インドの香辛料、綿織物
それらに対抗できるような魅力的な物産はなかっただろ
せいぜい南ロシアから少年少女をさらってきた奴隷ぐらいだろ
656 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 16:19:10 0
>>622、
>>645-646 >オスマンは最後までシャーリアだったからなあ
>ルームカイセリを名乗るくらいなら、何とかローマ法でも学べなかったものかね。
>代議制国民国家の欧州と、専制政奴隷制のオスマンじゃ相手にならん
19世紀にオスマン帝国が制定した法律は、民法典(メジェッレ)を除けば、
刑法や商法、憲法などは西欧の法体系に従っている。
また、1876年にはオスマン帝国憲法も発布され、1877年には初の帝国議会が召集されている。
粕谷元編『トルコにおける議会制の展開:オスマン帝国からトルコ共和国へ』(東洋文庫論叢、2007年)
などの近年のオスマン帝国近代史の研究成果を十分に参照しろ。
奴隷制について言えば、19世紀以降、西洋の思想的影響を受け、イスラーム世界でも
奴隷制を廃止する法令が出されるようになった。
話題が極端に前近代ばかりに偏っていて、近代史に関する話がまともになされていないせいで、
憲法や議会などを備えた近代帝国としてオスマン帝国をとらえる視点が欠如している。
ローマ史もそうだけど、斜陽の時代へ差し掛かると急に研究が等閑になるよね。
>>655 思いつきと願望を根拠に仕立て上げてみました。ってか
初心者質問ですまんけど、30年戦争中は、オスマンがウィーンを
攻める絶好の機会だったと思うんだけど、17世紀前半に目立った軍事
行動をしていないのは何故? 17世紀初頭は、最盛期のサファヴィー朝
との戦争に忙殺されていたとは思うけど、サファビー朝との争いが
一段落してからは、西方に集中できたと思うんだけど。
659 :
世界@名無史さん:2010/06/27(日) 11:23:52 0
>>656 結局トルコ革命までは、近代化できなかったみたいでしたが
開発独裁のエジプトにも敗北してるし
それにオスマン時代の憲法って、どうだったの?、一応アジア初だったんだろ?
オスマン帝国はヨーロッパだろ
今と違って首都だってあっち側
661 :
世界@名無史さん:2010/06/28(月) 15:16:28 0
>>659 オスマン帝国憲法の日本語訳は、
>>275、
>>656でも挙げられている
粕谷元編『トルコにおける議会制の展開:オスマン帝国からトルコ共和国へ』
(東洋文庫論叢;70、 東洋文庫、2007年)で読める。
>>660 オスマン帝国はアジアの国でしょ、モスクワ・ウクライナ〜バルカン半島までが当時はアジア
>>658 ヴェネツィアとクレタで25年戦争してたからじゃないか?
第1次大戦でのオスマン軍は防御はすばらしいが攻撃はクソと
イギリス軍に評価されてる。
665 :
世界@名無史さん:2010/07/03(土) 01:01:07 0
>>664 第1次大戦中の1916年、エンヴェル・パシャの叔父ハリル・パシャは、
イラクのクート・アル=アーマラでタウンシェンド将軍麾下のイギリス軍を
まるごと捕虜にするという功績をたてている。
山内昌之「ハリル・パシャ」大塚和夫ほか編『岩波イスラーム辞典』
(岩波書店、2002年)を見よ。
666 :
664:2010/07/04(日) 11:12:01 0
ま、あくまでイギリス軍による評価ということで。
ちなみにソースは孫引きでスマンが、Ottoman infantryman 1914-18で、
もとは1916年に発行されたHandbook of the Turkish Armyだったかと。
クート戦は元々その前のクテシフォンの戦い(セルマン・パク会戦)の続きで起こったこと。
ハリルの前任者であるヌーレディンがセルマン・パク会戦で”防御”から攻撃移転して、
イギリス軍を敗走させ、クートで包囲した。
せっかちな参謀本部によってヌーレディンはクート戦の途中で更迭されちゃったけど、
後任のハリルはヌーレディンの方針を維持してクート戦で勝利した。
だからクート戦の功績は、ヌーレディンとハリルは同じくらいか、あるいはヌーレディンのほうが上。
>>650 スペインですらレパント以後も以前のような窒息状態からは抜け出したものの制海権は握れていない
当時のスペインやフランス軍はオスマンどころか織田軍と比べても鉄砲武装率が低いしな
歩兵、大砲、火縄銃の保有数、どれもオスマンに遠く及ばない。財政の脆弱さや経済力もね
世界ふしぎ発見!「イスタンブールから地中海へ!海の古代文明紀行」を山川系の教科書片手に視聴
ダチョウの卵には蜘蛛が寄り付かないのでモスクに吊るしてあるという話は面白かった
トルコ史の勉強になるかと思ったが古代文明なんだからオスマン、セルジュークはおろかビザンツより前の話だった
最古の遺跡は8500年前とか
リキュア文明の最盛期は前二世紀とか小アジア南部の都市国家がリュキア同盟を結んでいたとかあったが教科書には載っておらず
ギリシアのデロス同盟みたいなもんかなと思ったが同盟間での内紛はなかったそうだ
670 :
世界@名無史さん:2010/07/25(日) 13:09:30 0
>>659 粕谷元編『トルコにおける議会制の展開:オスマン帝国からトルコ共和国へ』
(東洋文庫、2007年)より
オスマン帝国憲法
【オスマン帝国の領土】
第1条 オスマン帝国(Devlet-i Osmaniye)は、現有の諸領土及び特別州を包含し、
単一にして、いついかなる理由によっても分割は認めない。
第2条 オスマン帝国の首府はイスタンブル市である。同市は他のオスマン領の諸都市と
異なるいかなる類の特権も免除も有しない。
第3条 オスマンの至高なるスルタン位(saltanat)はイスラームの偉大なるカリフ位
(hilafet)を有し、古来の方法に従ってオスマン家の最年長男子に帰する。
第4条 スルタン陛下(zat-i hazret-i padisahi)はカリフ位によりイスラーム教の守護者であり、
全オスマン臣民の元首(hukumdar)にしてスルタン(padisah)である。
第5条 スルタン陛下の御人身は神聖であり、かつ、無答責である。
第6条 オスマン家一族の自由権(hukuk-i hurriye)、その私的な動産及び不動産、
並びに終身の帝室費は、公の保障の下にある。
第7条 国務大臣の任免、位階勲章の授与、特別州の特権条項に応じた[首長の]任命、
貨幣の鋳造、金曜礼拝の説教における御名の読誦、外国との条約締結、宣戦及び
講和、陸海軍の統帥、軍事行動の指揮、イスラーム法及び法律の執行、行政諸部局
の事務に関する規則命令(nizamnameler)の制定、法律に従って[宣告された]
刑罰の軽減又は恩赦、帝国議会の召集及び停会、必要とあらば議員を新たに選挙する
条件の下で代議院(Heyet-i Mebusan)の解散は、スルタンの神聖なる大権に属する。
>第1条 オスマン帝国(Devlet-i Osmaniye)は、現有の諸領土及び特別州を包含し、
> 単一にして、いついかなる理由によっても分割は認めない。
これは何を意味してるの?
エジプトやシリアの主権についてかな
意味も何も、そのまんまじゃんw