【女真】☆☆☆金☆☆☆【完顔】

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67世界@名無史さん:2009/02/19(木) 02:23:20 O
66の続き
その次の世宗は国政の改革を試みるが、あんまりうまくいかない。女真族の漢化による弱体化を食い止めようとしたが、あまり効果はなかった。
次の章宗は逆に中国かぶれで、漢制によって法制や官制を整備するなど、一定の成果をあげたが、宋との戦争などもあり、財政難がすすみ、女真族の弱体化もますますひどくなる。
章宗死後、モンゴルの侵攻が始まり、あとは滅亡一直線。
68世界@名無史さん:2009/02/19(木) 15:48:16 0
金の軍事力が衰えてきたのって世宗の時代?
69世界@名無史さん:2009/02/19(木) 18:34:55 O
>>68
軍事力の低下が表面化したのは、世宗の時だと思う。金は華北を支配するために、女真族に土地を与えて移住させたが、漢化して生活がぜいたくになり、借金がかさんで、土地を失う者が続出した。中核である女真族が弱体化したため、金軍の戦力はかなり低下した。
70世界@名無史さん:2009/02/19(木) 22:13:12 0
でも世宗の時代は平和で良かったらしいけどな
71世界@名無史さん:2009/02/20(金) 10:30:44 O
>>70
世宗は宋との和平の持続に努力したからね。
逆にいえば、軍事力が低下していたので戦争できる状況じゃなかったともいえる。
72世界@名無史さん:2009/02/20(金) 10:48:03 0
平和だから軍事力が低下したてことも考えられない?
73世界@名無史さん:2009/02/20(金) 17:58:03 O
>>72
確かにそれはそう。平和が続いたことで、軍事力はますます低下した。
世宗はそれを食い止めようとしていろんな手を打った。
漢化した女真族に民族主義を鼓吹し、宮廷で女真語以外の使用を禁止したり、女真語の科挙までやっている土地を失った女真族のためには、「徳政令」みたいなことをやって、土地を取り戻させている。でも、これは漢人の反発を招いただけ。
結局、一時的な政策で根本的な解決策にならなかった。
74世界@名無史さん:2009/02/20(金) 18:23:50 0
遼も元も似たような感じで衰退したのかな?
75世界@名無史さん:2009/02/20(金) 20:11:42 O
>>69
それでも勝てない南宋。
どんだけよわいんだか。
76世界@名無史さん:2009/02/20(金) 23:03:30 0
金も宗弼が(ry
77世界@名無史さん:2009/02/20(金) 23:21:02 0
兀朮はやればできる子
78世界@名無史さん:2009/02/21(土) 00:08:05 0
金朝歴代皇帝の肖像画って残ってないの?
どんな髪型で、どんな衣服着てたんだろう。
章宗皇帝の時に漢化が進んだというけど
北魏の孝文帝くらい漢化し切ったのか
それとも清朝の乾隆帝のように外見は女真人そのものだったのか。

宋や元の皇帝の肖像画はあるのに。
79世界@名無史さん:2009/02/21(土) 02:31:03 0
金の陵墓で阿骨打の石棺と遺骨が発見されたけど
肖像画とか衣服はどうなんだろう?
80世界@名無史さん:2009/02/21(土) 21:40:43 O
>>74
遼は似てるけど、元はまったく逆。
モンゴル族は漢化してない。軍事力が衰えていたわけじゃない。むしろ、軍閥の対立で国内が内戦状態になったのが滅亡の原因。
81世界@名無史さん:2009/02/21(土) 21:53:58 O
>>79
皇帝陵はたいがい盗掘されているから、副装品は期待できないんじやない?
82世界@名無史さん:2009/02/22(日) 09:36:10 0
遼と金は似てる
83世界@名無史さん:2009/02/23(月) 01:42:59 O
似てるというより、真似したみたい。女真族はそれまで国家を作ったことがなかったんで、遼や宋の制度を取り入れたみたい。
84世界@名無史さん:2009/02/23(月) 01:57:59 O
このスレで名前がよく出てくるので調べてみたよ宗弼。
金史によると、この時期の金軍は連戦連勝って感じだが、たまに「負くる」とか、「戦い利有らず」とかいう記載があるんだけど、全て将は宗弼w
本当に弱かったんだね。
85世界@名無史さん:2009/02/23(月) 12:40:19 0
中国名将録てサイト見るとまるっきり弱いわけじゃないみたいだけどね。


86世界@名無史さん:2009/02/24(火) 00:06:06 O
この時代、震天雷とか猛火油櫃とか本当に使ってたの?
87世界@名無史さん:2009/02/24(火) 09:47:19 0
1232年に侵攻してきたモンゴル軍に対して震天雷が使われた記録があるらしい。
88世界@名無史さん:2009/02/24(火) 23:24:20 0
震天雷って某コーエーゲーでは最強兵器みたいな扱いだけど
実際には音で脅かすのが主だったらしいね
89世界@名無史さん:2009/02/26(木) 14:13:01 0
完顔陳和尚の話題がない
90世界@名無史さん:2009/02/26(木) 14:36:13 0
>>89
「陳和尚」って女真語か何かですかね?
91世界@名無史さん:2009/02/26(木) 14:52:58 0
漢語じゃないの?
しかしあのスブタイを撃破したのは凄い。
92世界@名無史さん:2009/02/27(金) 23:58:39 0
完顔陳和尚は金の宗室?


93世界@名無史さん:2009/03/03(火) 23:08:43 0
田中芳樹の紅塵を読め
94世界@名無史さん:2009/03/05(木) 06:34:36 0
紅塵読んだけど
岳飛以外に韓世忠や呉兄弟にも負けてるんだよな宗弼w


95世界@名無史さん:2009/03/05(木) 11:54:51 0
>>83
そうだな。中華の制度を学んで上位補完するような感じだな
清も明のシステムそのままだし
96世界@名無史さん:2009/03/05(木) 17:31:49 0
遼は金やモンゴルにとって偉大な先輩だって杉様が言ってたなような。
97世界@名無史さん:2009/03/07(土) 22:12:43 0
>>91
元代の人名でも下の名前が「和尚」とか「先生」とか付いてる例があるけど
本名なんですかね? ダルガチとかでもいたはずだけど・・・

よく知らんけど「○○ホージャ」とかああいうのと何か通じるものがあったりするんですかね
98世界@名無史さん:2009/03/07(土) 23:07:49 0
名前からしても坊さんかと思ってた。
99世界@名無史さん:2009/03/10(火) 15:08:54 0
強い坊さんだなw
100岳飛迷:2009/03/11(水) 16:08:43 0
維基百科の岳飛の項↓
ttp://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B3%E9%A3%9E
に以下のような記述がある。

建炎四年(1130年)四月二十五日,岳飛在位于建康城南三十里的清水亭首戰大捷,金兵屍十五里,斩得耳戴金、银环的女真人头一百七十五级……

引用文献として三朝北盟会編巻3や巻28があるが、ここには女真が耳飾りをしていたということがあるだけ。
もう一つの引用文献である《梁溪全集》卷171《靖康传信录》には岳飛の戦勝の様子、女真の首級の数や様子について記述されているのでしょうか。

また、これ以外の文献でこの戦いのことを記述している本がありましたら、教えてください。
101世界@名無史さん:2009/03/11(水) 23:35:04 0
>>78


> どんな髪型で、どんな衣服着てたんだろう。

髪型は清朝の辮髪に近い感じらしいが、三つ編みは2本たらしていたらしい。一昔前の
田舎の女子高生のように、左右に1本づつではなく、一箇所から2本垂らしていたようだ。
衣装は襟のない旗包という感じらしい。というか、漢民族の長包とそれ程違ってないが、
袖が細身で手首までの長さだったみたい。
102世界@名無史さん:2009/03/30(月) 10:01:35 0
>>84
でも評価高いんだよな>兀朮
103世界@名無史さん:2009/04/12(日) 00:05:58 0
金の人口は南宋の倍近くあって、文化もかなり盛んであったというが
104世界@名無史さん:2009/04/12(日) 00:29:17 0
俺はいまだに漢族の衣装ではない
チャイナドレスを、中国人らが中国服としてアピールするのかがわからん。

現地の人に聞いても、満族由来というのは知っている。
漢服じゃだめだったのかしらん。
和服のほうが完成度が高いことがばれるからか?
105世界@名無史さん:2009/04/12(日) 01:01:13 0
ビデオ屋で中国ドラマ「大漢風」や「始皇帝烈伝」を借りて見ている。

長髪を頭頂部に巻き上げた髷を結い、ゆったりした漢服を着ていた時代の漢族は
本当に悠然としている。

それにくらべて辮髪や筒袖の服は滑稽でね・・・
106世界@名無史さん:2009/04/12(日) 01:07:09 0
衣服の騎馬民族化は欧州のほうが早いぞ。やつらのスーツなんて騎馬民族に
征服させられたから成立した欧風チャイナ服なんだぜ。
107世界@名無史さん:2009/04/12(日) 01:43:29 0
108世界@名無史さん:2009/05/31(日) 21:33:40 0
呉璘・呉玠兄弟にもボコられてるな宗弼
109世界@名無史さん:2009/06/26(金) 19:49:30 0
たしかに昔満州だった地域の中華料理は、
どちらかというとモンゴル料理くさいな。
羊料理とか当たり前にもあるし。
110世界@名無史さん:2009/08/07(金) 22:45:02 0
腹違いとはいえ弟の後に皇位を継ぐことになった宣宗の心境はいかに
111世界@名無史さん:2009/08/07(金) 22:52:15 0
>>109
先祖の料理を継承したこともあるのでしょ

麺類なんぞも、南北朝時代に、騎馬民族がもたらしたもののようです
112世界@名無史さん:2009/09/17(木) 23:04:27 0
世宗って本当に名君なのか?
海陵王を過剰に貶めすぎてると思うが。
113世界@名無史さん:2010/01/31(日) 19:20:38 O
age
114世界@名無史さん:2010/05/11(火) 00:35:56 0
李氏朝鮮って満州人国家なんだね

ウィキペディア- 李成桂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A1%82

女真人説 [編集]
池内宏[8]や山内弘一[4]らは李成桂が女真人或いは女真人の血を引いている可能性を指摘している。

状況証拠としては次のことが挙げられる。

李一族の出身地の咸鏡道は15世紀までは女真人の地だったこと。

李一族は女真人の配下を多数抱え李一族が頭角を現したのはかれらの助けが大きかったこと。

のちに15世紀になって編纂された王朝創建の偉業を称えた『龍飛御天歌』によると、李一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたがやがて咸鏡道に移住した、と書かれているが、後世に潤色されて書かれているため信憑性が疑わしいこと。

モンゴル語で書かれた李家の家系図から、李一族の女直名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれいないこと。

ダルガチは原則としてモンゴル人であり、稀に女真人や色目人が任命される事があるが、被支配民族の漢人、ましてや漢人の子分の高麗人が任命されることは非常に不自然であること。

千戸として女真人の統治を行っていたこと。

姓を李氏と言ってはいるが、祖先が元朝の家来で、元の開元路出身であることは明らかであり、モンゴル名を持っていること。(ただし、当時は高麗人貴族もモンゴル名を持っているから、これだけでは女真人とはいえない)
115世界@名無史さん:2010/05/11(火) 00:40:18 0
岡田英弘と宮脇淳子は13世紀モンゴル時代の朝鮮半島と大陸の関係と李氏朝鮮勃興を概説し、
朝鮮の太祖李成桂女真人説について次のように論証している[9]。
その上で史料証拠として『李朝実録』の冒頭『太祖実録』の内容[10]を用いて次のことを挙げている[9]。

『李朝太祖実録』冒頭には「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒、全州大姓也」とあり、本貫が全州李氏であること、新羅の司空李翰を始祖として、以下21代を経て李成桂に至ったとするが、
第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代(李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。その第17代以後の祖先の活動舞台と居住地を通観すると、
前16代につなげるために全羅北道全州(完山)を出発点として、東海岸の三陟から豆満江畔にわたり、
そのほぼ中央に位置する咸興をもって活動の根拠地としたように書いてある。すなわち、全州李氏の出身だというのは後世の捏造で、その証拠に、李氏朝鮮王室で、全州李氏の誰一人として祖先として祀られた人はいない[9]。

『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次のような記事がある。「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。」
これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道の吉州)にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟(姓が違う兄弟)である。
彼は女真で育ち(女真の族長になった)、腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。
これによると、太祖も女真族としか考えられない。なぜなら、遊牧民や狩猟民は族外婚制をとり、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とする。
女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。
『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である[9]。
116世界@名無史さん
保守