1 :
ホノリウス:
千年続いた東ローマ帝国とくらべ、蛮族に蹂躙され、かつての大ローマのみる影もなく、
百年に満たず、消えていった西ローマ帝国。そんな西ローマ帝国を語り合いましょう。
ロムルス・アウグストゥルスが2get
偉大なるホノリウスが3get
スティリコって日本人が好きそうなタイプの人物だよね
ガラプラキディア萌え
6 :
ホノリウス:2009/02/01(日) 00:00:38 O
西ローマ帝国歴代皇帝
(在位年)
ホノリウス(395〜423)
コンスタンティウス(421)
ペトロニウス・マクシムス(455)
アウィトゥス(455〜456)
マヨリアヌス(457〜461)
リウィウス・セウェルス(461〜465) アンティミウス(465〜472)
オリブリオス(472)
グリケリウス(473〜474)
ユリウス・ネポス(474〜475)
形式的には(474〜480)ロムルス・アウグストウルス(475〜476)
7 :
ホノリウス:2009/02/01(日) 00:09:52 O
>6に追加と訂正
コンスタンティウス→コンスタンテウス3世 ウァレンティアヌス3世(423〜455)
8 :
世界@名無史さん:2009/02/01(日) 12:49:52 O
>>4 そうだね。国家最大の危機だった対フン族戦で、あれだけの活躍をしながら、処刑されちゃうんだものね。日本人の判官ビイキにあってるかも。
アエティウスとアッティラの関係が面白い
東「蛮族全部そっちに送るからヨロシク」
偉大なるマヨリアヌス帝に敬礼!
テオドシウス1世「怒怒怒!!!うちの馬鹿息子がああああ!殺しておけばヨカタ・・・」
つーか、もうホノたんじゃなくても西は崩壊してたろ。
軍事は完全に蛮族依存。シリアやエジプトみたいな穀倉地帯は東所有。
完全に死亡フラグが立ってる。
尤も、西の最末期って超格差社会で上流市民の暮らしは
五賢帝時代のソレより贅沢だったなんて話を聞くけどマジなの?
>>14 東の上流はともかく
西の上流が豊かな生活してたとは思えないな
>>14 格差社会だったのは事実だけど。農地は大プランテーションばかりで、少数の人間に集中してたし。でも、蛮族の侵入が日常茶飯事の状態で、そんな贅沢してる余裕はなかったんじゃないかな?
ブリタニアなんかはローマに支配されてた方が幸せだったんだろうな。
ローマ撤退後は群雄割拠なカオスの島に。
今の日本を見ているとローマ帝国で言う350年位かなと適当に言ってみるw
中国人とかの移民を受け入れるとローマみたくえらいことになりそうだな。
国が乗っ取られかねん。
>>14 親の大テオドシウスの時代に東西統一までして盛り返してるよ
どう考えても馬鹿息子供のせい
北アフリカをヴアンダル族に取られた時点で、終わりだね。マヨリアヌスのカルタゴ攻略が成功してたら、もう少し生き延びてたかな?
>>20 沿岸の都市部ではイスラムに征服された後もしばらくローマ系文化(というかキリスト教文化?)
をもった住民が存続してたとか。
24 :
世界@名無史さん:2009/02/02(月) 12:16:15 0
>>6 面白いほど天寿を全うした皇帝がいないなw
ホノたんとオリブリオスとグリケリウスくらいか。
25 :
世界@名無史さん:2009/02/02(月) 14:34:52 0
アッチラが北イタリアに攻めてきたとき、アエティウスがスルーしたのはなぜ?
打つ手がなかったから?
東ローマに比べて興味を持たれないな。
所詮ローマといえども西の蛮地しか持たぬ帝国だ。
ハイソな東ローマとは天地の差がある。
そこでシアグリウスの出番ですよ
>>26 「東」はそもそも、 「ローマ」であることを捨てて生き延びただけだろ。何がハイソ、なんだか。
ローマである事を捨てた?
はてさて何のことやら。
何をローマと定義するかだな。
王政ローマも共和制ローマも帝政ローマもそれぞれ過去を捨てて変化した物だ。
ビザンツ帝国をローマの後継と考えるのは一般的だろ。
ローマである事を捨てたなんて言う奴の方がおかしい。
オスマン帝国だって1453年にメフメト2世がローマを征服したと誇ってるしな。
>オスマン帝国だって1453年にメフメト2世がローマを征服したと誇ってるしな
これ本当? オスマン朝の史料に書いてあるの?
>>32 ごめん、現在のトルコ人がオスマン帝国がローマを滅ぼしたと誇ってるという話。
当時のトルコ人もそう思ってたんじゃないの?
ルーム・カイセリなんてスルタンが名乗ってるし。
そのルーム・カイセリって名のったっていうのは本当なの?
出典がわからない。
碌に調べもしないで口をパクパク開けてる雑魚
ルームカイセリを自称したのはメフメト2とスレイマンだけだ。
後のスルタンは『中二病カコワルイ』といって否定した。
ちなみに、東帝国の皇帝の称号はバシレウス。
ルームカイセリなんて名乗ったところでソレはローマ皇帝ではない。
ってここは西スレだろう。
取り敢えず、西帝国っていつまで配給とか行われてたんだ?
鈴木董『オスマン帝国』の76ページに「カイセリ・ルーム(ローマの皇帝)」とは出てくるな。
どんだけ喚こうが、ビザンチンがローマの後継なのは事実。
否定する奴は定説を覆すだけの説得力有る反論をいただこうか。
39 :
世界@名無史さん:2009/02/06(金) 01:32:41 0
真のローまではない!
真のローマってなんだよ?
南イタリアかシチリアあたりに首都を移転して東帝国の援助受けるなりして、
何とかならんかったのかね。
42 :
世界@名無史さん:2009/02/06(金) 08:05:51 O
>>36 東西分裂直後からビザンツって体制が出来上がったと思ってるだろ
カイサルが爵位になったのはずっと時代が降ってからの話だぞ
カイサルもアウトクラトールもセバストスも全部名乗ってる
>>41 だったら東に併合されて終わりだと思う
東にそこまでして西を存続させるメリットないし
>>36>>42 トルコ側の史料ではビザンツ皇帝のことは「タクフール」といっている例が多いが
トルコ語訛りでだが「バシレイオス」と書いている例もある。
隣接していたビザンツ帝国の君主が何と呼ばれていたかは当然知っていたはずだ。
それがメフメト2世の頃になって急にカイサルが浮上するのは謎。
44 :
世界@名無史さん:2009/02/06(金) 14:23:20 0
>>43 人名のバシレイオスと称号のバシレウスはべつもんだろ
メフメト2世はビザンツの後継ではなくローマの後継を名乗っただけの話
>>36の意見は逆だと思う
バシレウスはあくまでビザンツの称号
ローマの後継を名乗るならカイサル セバストス アウトクラトール フラヴィオスが妥当
>中世の西欧人(とくにアルプス以北の連中)は、良くも悪くも田舎者で単純だったから、
>地中海世界のように、異なる文明・民族の十字路で生き延びるのがどれだけ大変な
>ことかということが理解できなかったんだろう。
それだと例えばエルサレム王国のネイティヴ(という言い方も変だが)である
ティールのギヨームがその手のステレオタイプを書いてるのが説明できないんだがね。
誤爆
ラヴェンナにコンスタンティノープルみたいな城壁をなんで築かなかったの?
48 :
世界@名無史さん:2009/02/06(金) 23:08:28 0
「カエサルの魔剣」読みました。
他にこの時代が舞台の小説ってありますか?
>>47 当時は周囲がマラリアを媒介する蚊がうようよする湿地帯だらけだったから
50 :
世界@名無史さん:2009/02/06(金) 23:54:47 0
王政のローマも共和政のローマも帝政のローマもなく、ただ"ローマ"があるだけだ。
ラテンのローマもギリシアのローマもガリアのローマもなく、ただ"ローマ"があるだけだ。
西のローマも東のローマもなく、ただ"ローマ"があるだけだ。
にほんごでおk
ラテン語でおk
ホノタン一代でローマ帝国で見れば400年以上維持してきた領土の3分の1位を失ったのだから
ある意味神業だな。
可哀想なスティリコ・・・・
つーか、末期のローマって皇帝がアホなだけで滅茶苦茶になるほど
元老院も官僚も駄目になってたってコトだよね。
というより誰もホノたんを暗殺しようとしなかったってのは凄い。
ブッシュ時代のアメリカだって、大統領がアホなだけで滅茶苦茶になってるしな
なってねーよw
合衆国から独立した州は一州も無いジャマイカ。
地獄はこれからだよ
いまの日本は、昔のアルメニアのようなものだな
60 :
世界@名無史さん:2009/02/09(月) 00:23:10 0
age
他称は「西ローマ帝国」。
自称は?
62 :
世界@名無史さん:2009/02/09(月) 03:21:25 0
ローマ共和国。コレは東西どっちも。
皇帝は二人いても、概念としてはローマは一つということ?
上流階級は知らないけど一般ピーポーに西と東の区別があったかどうか
東はギリシア人&ギリシア語がメインなワケで。
ペルシア帝国滅亡もアレクサンドロスの帝国滅亡も
ローマの滅亡ほど悲惨じゃないな、感覚的に。
西ローマの滅亡は読んでて欝になるくらい陰惨
東ローマの滅亡もお寒いぞ
いや、東ローマの滅亡は熱い。
ほぼ全領土を奪われ残るは帝都のみ。
対する敵はアジア最強のトルコ
数ヶ月に及ぶ包囲戦の末、皇帝が切死にするんだぞ。
西ローマ帝国で最も有能なマヨリアヌスですら暗殺だしな。
やっぱ暗いよ、未来が見えない。
>>68 そういうジリ貧状態を熱いと感じる人も居るのか。
勉強になった。
70 :
世界@名無史さん:2009/02/11(水) 14:10:56 0
確かに東ローマの末期は政治的にジリ貧かもしれんが、
帝都陥落は熱いだろ
皇帝が「誰か俺を介錯してくれる味方はいねーのか!」で敵陣に飛び込んで戦死とか壮絶すぎる
一方西ローマは甥っ子(笑)とかロムルス・アウグストス(苦笑)とか
まあ西ローマのあれがしょぼいのなら徳川幕府の最期もしょぼいことになるが。
誇りの中で討ち取られるも屈辱を受け止めて生きるも人の勝手
むしろ西ローマが抵抗してイタリアが破壊されたら
その後のヴェネツィア・ジェノヴァの繁栄はなかった。
良いかビザンツ厨房。
ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサ・アマルフィこそ
ローマ帝国の正統なるぞ!
城壁の中でコソコソしてたトラキアの田舎者がローマ帝国とは片腹痛い!
>>72 西ローマが〜ならわかるけど
ヴェネツィアとかジェノヴァとかまったくカンケーねーじゃねーか
何でオドアケルは東に喧嘩売ったんだろうねぇ。
西を潰して東も潰せると自分の実力を過信しすぎたんだろうか。
>>72 むしろ、初期のヴェネツィアはビザンティンの影響を受けてるんじゃね?
民族大移動を乗り切ればかなり先まで存続できたかもな。
領土をほとんど持たない、足利将軍とか朝廷みたいな感じで。
何せブランド力がすごいから。
いや、それはない。無いからこそネポスはぬっころされたワケだ。
やっぱ東ローマが正統なんで^^
やっぱ南朝が正統なんで^^
ローマに領土を持たないので東はローマ帝国じゃないお。
>>75 一応、最初期の人間は西ローマからの難民だろう
システムも寡頭制だしね
近現代&妄想近未来の日本に置き換えてみようぜ
1000年近く京都が首都だったけど、
首都より発達している東の大都市江戸へ遷都。
東西に分裂。西日本では中国人、韓国人がのさばる。
西日本は崩壊。中国人、韓国人を主体とした小国家に分裂。
一方、東日本はなんとか持ちこたえる。
さぁ 正統な日本はどっちだ!?
天皇陛下がいる方が正統です。
ローマ帝国 前46年から192年
シリア帝国 193年から272年
イリリア帝国 249年から582年
アナトリア帝国 474年から1078年
ギリシャ帝国 1071年から1453年
ビザンティウムはコンスタンティノープルに改名&遷都後も
ローマには勝らなかった。
本格的に、首都として意識されたのはテオドシウスが本拠地に定めてから。
古代ローマ 紀元前753年から紀元後546年
西ローマ帝国 紀元後395年から紀元後568年
西ビザンツ時代 紀元後395年から紀元後568年
とりあえず、ドミナトゥスになってから1世紀程度たってからの東西分裂だし、
このころはすでに中世的な観念の君主制が成立したと考えるべき。
で、君主制では、領土は君主の私有財産だから、
国の優劣、正統は君主の優劣、正統で考えるべき。
で、どうかんがえても東ローマが正統でファイナルアンサー
そもそもローマを含めるか否かが重要な概念だったら
政府をミラノとかラヴェンナにうつさねーだろ
このスレはラヴェンナ帝国について語るスレに解明すべき。
なにをもって正統とするかだな。
>>87 >>89 ホノリウスのみならず、東ゴート王テオドリックやナルセスらも、
東ローマ領からイタリアへ渡来してきた事が共通しているようだ。
ディオクレティヤヌスとってのマクシミヤヌスのように、いずれも
東ローマ帝の代理としてのイタリア統治者であった。
92 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 14:48:43 0
>とりあえず、ドミナトゥスになってから1世紀程度たってからの東西分裂だし、
>このころはすでに中世的な観念の君主制が成立したと考えるべき。
ねーよw
そもそも、東西分割の区分けがフェアじゃないよな。
東は豊かなエジプトやシリアが領地に入ってるのに
西は精々北アフリカがいい所。
だから東の正帝のほうが格上なんだろ
しかし、蛮族は西のほうが魅力的だと思ったワケで。
都市ローマのブランド力は異常。
中世的な君主制の定義がいまいちアレだけど、
中世のはゲルマン部族の制度が基本になってるから、このころはまだだろ
分裂直後でも、西ローマの末期でも、ローマ市民はいるし、元老院も健在。
だから東西皇帝どっちが正統なんてない。
どっちが格上とかどっちが正統なんて意識があるなら、
東が正帝、西が副帝、あるいはその反対とか決めてるはず。
よってどっちも正統が正解だな。
まぁ、内実は東部による西部切捨てだけど
>>95 > しかし、蛮族は西のほうが魅力的だと思ったワケで。
ちがうちがう。東は防衛が固くて手を出せなかっただけ。
>>97 でも、東の軍の中枢にいたテオドリックなんか
ゼノンの甘言に乗せられてイタリアに向かったじゃん。
>どっちが格上とかどっちが正統なんて意識があるなら
テトラルキアでググレ
東の正帝のほうが格上
>>99 テトラルキアはコンスタンティヌス1世が帝国を再統一した時点で終わってますがw
>>95 そうなのか?東の方が国力があったので、定住できず、
仕方なく西に向かった、という理解でいたのだけど。
>>80 ルーマニアは、正式なSpellは ROMANIA なわけだが。。。。
因みに、4世紀頃から、ローマ領土はROMANIAと認識されるようになっている。
「ローマ皇帝」と訳される称号はいくつもあって、
ビザンツにおいては、ギシリア語のバシリウスがだ第一で、これは
他国には絶対譲らなかった。カイサルは、何番目か忘れたが(2番目くらいか?)の
称号であって、カエサルの時代から、東方に知られていた(イエスの言葉にも
「カエサル」が出てくるし、クシャン朝もカイサルを名乗っていた。
因みに中国の宋書にも、「カイサシ」なる言葉が登場しているので、
対外的には、広く知られた呼称だったのだろう。
第一次ブルガリア王やロシアなど、スラブにもカエサルが語源のスラブ
訛の「ツァーリ」が浸透している。ブルガリア王に授与された称号も
カイサルだった。
これらのことから、バシリウス=カイサル なのか、バシリウスよりも
下の称号がカイサルなのかどうかはともかく、対外的にはカイサルの方が
知られていたと言えそうである。
105 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 20:46:02 0
>>36で
>ルームカイセリなんて名乗ったところでソレはローマ皇帝ではない。
とあったので、書いてみました。
まぁ、末期の西帝の何人かは東帝レオの息のかかった人間が送り込まれてたワケだし
東西の皇帝が対等だったとは思えんよなぁ。
108 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 21:02:07 0
何でアエティウスって皇帝なれんかったの?
シャグリウスとそのオヤジはなんで皇帝って名のならなかったの?
109 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 21:11:16 0
アエティウスがプラキディアのクーデターにあって半島を追放されたときに隠れて
プラキディアのローマ軍団も手出しできなかった
アエティウスの領土ってどの辺にどのくらいあったんだろう。
後にローマ皇帝になったリウィウスってカタラウヌムの戦いのときに
ローマへの不信感からトゥールーズでの篭城策も考えていた
西ゴートの取り込みに活躍したみたいだけど
やっぱりガリアの地主としてなんかのコネがあったんだろうか。
アエティウスやリウィウスみたいな、封建領主にも繋がる
地方領主としての大貴族の実態ってどんなもんなんだろ。
ローマの主権から離脱しつつあったのは想像できるけど
どれくらいのものだったんだろう
110 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 21:19:29 0
西ゴートが篭城策とったら間違いなくカタラウヌムでは西側が負けていたし
もしかしたら会戦自体起こらなかったかも。
アッティラの第一目標が西ゴートだったのは進路からも分かる。
アエティウスは会戦を避けて西ゴートとアッティラの潰しあいにかけただろう。
その場合トゥールーズってもったんだろうか。
アッティラはコンスタンティノープルを攻略する意図も能力もなかったのは確かだが
他の都市はほとんど壊滅させてるからそれなりの攻城能力はあったはず。
歴史十巻でも攻城具でオルレアンの城壁が破壊されかかるシーンがある。
111 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 21:38:57 0
>>102 450年代までは東西の防衛体制はある程度連動している。
アラリックは東方でしばらくスティリコ戦を行って苦戦しているけど
スティリコが処刑されて始めて西進の余地が出ている。
この場合の西進は、まだ荒らされていない狩場を狙ったという側面がある。
また、第三次ローマ包囲の前には、東ローマの資金で1万のフン族が
イタリア半島に集結したため、アラリックも動揺したらしい。
アエティウスがフン族に人質に出されたのもこの頃だと言われている。
ラヴェンナを無視してローマに直進することで逃れたらしいが。
このあたり詳しいこと知ってる方に捕捉してもらいたい。
112 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 21:59:38 0
パンノニアにルーアのフン帝国が形成されるのは420年頃だから
このときのフン集結は純粋に東ローマの実弾の威力によるものだろう。
翻ってアエティウス配下のフン軍団は、プラキディアにクーデター起こされたときに
ルーアに土下座してパンノニア北部の支配権を承認する売国取引と引き換えに
(東ローマの反攻で南部は侵されていて、この取引はルーア側にかなりの利益があったらしい)
軍団を貸してもらったことに始まる。
アエティウスはフンを率いてイタリアに帰還するけど
軍事衝突は起こらず、そのうちびびったプラキディアの手下の寝返りが相次いで
なし崩し的に決着がついて、ついに哀れ女王は僧院送り。
ところが430年に、西側における唯一の使える戦闘集団である
フン軍団が無くなったらしく、パガダウエの乱やブルグントのベルギー乱入、
西ゴートのナルボンヌ包囲など、ガリアで騒乱が連続して起こっている。
113 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 22:06:43 0
これは多分ルーアの死と関係あるだろう。
ちなみにローマの友サリーフランクもちゃっかり領域を拡大している。
434年か435年に甥のアッティラが契約を更新したため(多分)
再びフン軍団がガリアに出現し、
パガダウエを鎮圧。ブルグントは一旦投降を認められるも
フン族が虐殺してギビフンゲン王家は哀れ断絶。
435年にはフン騎兵にも糧秣を背負わせてナルボンヌに進出
西ゴート(この頃は既にテオドリックが王様)を一蹴すると
市民に騎兵が持ってきた食料を支給している。
その後もう一度破ったが、トゥールーズ付近でかなりの損害を出して撤退する。
114 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 22:18:11 0
アエティウスは偽帝ヨハンネス(だったっけ?)騒動で頭角を現している。
皇帝になったヨハンネスに
プラキディアが東ローマから軍勢と子どものヴァレンチノスを率いてきて
文句つけた戦い。
ヨハンネスは付近にいたフン族を雇ってつれてこいとアエティウスに命じた。
しかしアエティウスが戻ってきたときにはヨハンネスは既に処刑されていた。
このときのアエティウスの軍団は6万と言われるが、
明らかにかなり過大な数字で、実際は3000人もいれば御の字ではないだろうか。
それでもプラキディアはびびって直接対決を避け、アエティウスを懐柔した。
アエティウスは軍団に報酬を支払ったのちイタリア外まで連れ出して解散。
しかしその後プラキディアとアエティウスはしばらく半島における冷戦を戦うことになる。
>>101 あれ見ればわかるだろ
ディオクレティアヌスが就いたのは東の正帝だし
コンスタンティンスも結局東方に首都を移した
その後再分裂した際、長男アルカディウスに残されたのが東、ホノリウスに残されたのが西だったことを考えると
どうみても東>西
116 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 13:42:48 O
前の方のレスでもあったけど、アエティウスがアッティラをスルーしたのはなぜ?
動けなかったから?
カタラウヌムでの戦力の消耗が激しくて、戦うのは無理だったんだろうか?
>>115 テオドシウスを東の皇帝に任じたのは、西のグラディアヌス。
そもそもユリアヌスの死以降、皇帝が複数なのは、広大な帝国を一人で統治するのは不可能という認識に基づく。
どちらか一方が欠ければ、もう一方が共同皇帝を任命するだけのこと。どちらかが格上というもんじゃないと思う。
こんな議論は無意味。もうヤメレ。
ウァレンティアヌス1世は西だったしねえ。
>テオドシウスを東の皇帝に任じたのは、西のグラディアヌス
当時東の皇帝ヴァレンスは戦死していて帝位には西ローマ皇帝しかいない
そういった例外を除けば上位にあるのは東の正帝
というかアッチラが北部に侵攻してきたとき
アエティウスは何してたんだろうか
121 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 14:45:20 0
>>120 逃亡と対策(徴兵とか集金)を兼ねて東ローマまで高飛び。
カタラウヌムのときも飢饉のせいで
アエティウス直属の軍団としては僅かな傭兵を集めえた程度だったらしい。
当時、西ローマの正規のローマ軍団はもう存在しなかったと考えるのが妥当。
もうボロボロだから各将軍のブケラリィしかいなかったと思われ
テオドシウスの時までは辛うじで持ちこたえていたのに、
どうしてあっという間に崩壊したの?
息子どもがどうしようもなかったから
125 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 15:54:18 0
煽る前に東皇帝が戦死しててまるで例になってないという指摘について
何か一言いってくださいよお
127 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 16:51:38 0
カタラウヌムのときは北部ガリアを荒廃させつつオルレアンに達していた
標準的な南仏攻略ルート
このとき、フランクの避難が間に合わずクローヴィスが一時捕まったらしい
すぐ救出されたけど
かなりのスピードで進軍していたことが窺える。
カタラウヌムのときは地元ガリアが戦場だったから
ゲルマン諸部族がアエティウスの召集に応じたんだろう
西側連合軍の右翼はアエティウスのローマ軍団と説明されることもあるが
実際は正規の軍団なんて無かったし、アエティウスの手勢は僅かな傭兵部隊だけだった。
実態はフランクとか、ブルグントの残党とか、ガリアの中小部族の寄せ集め。
さもないとヨルダネスが数え上げてる
多数の聞いたこともない部族の入るところがなくなってしまう。
一方、イタリア侵攻ではゲルマン諸部族は高みの見物。
だからアエティウスは対抗する術が全くなかった。
128 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 20:51:29 0
西ローマが東並に長く続いていたら
どうなっていただろうか
歴史家からはミラノ帝国とでも呼ばれていたんだろうか
129 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 20:59:21 0
西ローマの軍隊
・425年にプラキディアが東ローマから連れてきた正規のローマ軍団
偽帝ヨハンネスに楽勝し、大きな戦役は経験しなかったが
補充の困難から退役によって徐々に摩滅していく
432年のプラキディアのクーデターに際しては
アエティウスの手勢に問題なく勝ったが、
アエティウスが自領に引きこもると手が出せなかった。
・ルーア〜アッティラ帝国のフン分遣隊
432年の政変に際して、アエティウスが密かにパンノニアに赴いて交渉し
連れ帰ってきたもの。戦力としては5、6000くらいではないか。1万には程遠いだろう。
アエティウスに半島における無血の勝利をもたらした。
436年からはガリアで活動し、436年にブルグント、バカダウエを殺しまくって鎮圧。
438年にはナルボンヌを包囲していた西ゴート軍を一蹴するも、
439年に敗れて、以後は大きな戦いはなかった。
その後の軍団の消息は不明だが、常識的に考えてパンノニアに帰還しただろう。
時期としては対東ローマ戦役の前になるのではないだろうか。
130 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:01:22 0
>>128 天皇とか教皇みたいな存在になってた。
バチカン帝国が存在しないようにミラノ帝国も存在しえなかったろう。
131 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:05:08 0
いや、首都がミラノだから
東側とおなじくらいに滅んでいたとしたら
後世の歴史家からミラノ帝国ってよばれてたのかな?と
132 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:07:22 0
いや首都はラヴェンナに移ったか
133 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:12:29 0
うーん。東ローマ帝国は何だかんだいってビザンツにおける主権を
最後まで維持していたからね。
西側の場合、仮に殺されなかったとしても主権は維持できず、
東ゴートとかフランクのお飾りになってただろうね。
そうなれば歴史家としても東ゴート帝国とかフランク帝国と呼ぶことになるのでは。
天皇陛下はずっと京都にいたけど、京都を日本帝国とは呼ばないでしょ。
134 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:16:50 0
明治初期から天皇家は事実上、東都へ移住して居るぞ!
しかも、徳川家の城跡に棲みついてるゼッ!!!!!!
135 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:23:28 0
なんか このスレ馬鹿が多いよな
自分が思い込んだら絶対に考え直さないというか
自分が面白い事考え付いたと思ってろくに資料も読まないというか
君ら 歴史話すの向いてないんじゃない?
136 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:23:59 0
137 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:26:23 0
138 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:27:31 0
と、議論もできない小学生がわめいております。
139 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:39:35 0
>>138 もうPC落とすんで最後にしますけど
ID付かない板でレス番号も指定せずに何をどうやって議論反論しろつーんだ?
対象もなしに議論できないと小学生なら 小学生で結構だわw
140 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:43:18 0
>>139 レス番号指定してやればいいじゃん。
涙目で逃亡乙。
141 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 22:00:11 O
どっちも出てけ 空気悪い
しかし、当時は既に首都でも何でもなかったのに
何回も略奪の対象になりうる程の金品があったローマって・・・。
何でもなかったって
旧首都で記念建造物も元老院もあるのに
>>139はヴァレンティニアヌス三世みたいなガキ
>>140はアエティウスのようなカス
まさしく、ここは西ローマスレですね
ホノリウス様乙です
滅亡期は英雄がたくさん出ていいよねえ
東にはテオドリック、西にはアラリック、フランクはクロヴィスがいるし
オドアケルもなかなかの人物だったぽい
ゲルマン側だとガイセリックが一番の大物だと思うけどw
>>142 ラヴェンナとローマだと、サマラとバクダッド、ベルサイユとパリなどと同じく、
当時圧倒的にローマの方が大きく人口が多かったそうだ。
別に英雄でいいだろ
ゲルマン族からみれば、英雄なんじゃないかな。ローマからみれば、盗賊の親分みたいなもんだろうけど。
151 :
世界@名無史さん:2009/02/17(火) 21:49:37 0
ガイセリックは間違いなく一番だな。
戦力的にはアッティラやアエティウスに比較すれば二線級だが
それを補って余りある謀略の才の持ち主。
朝鮮総連や民団の代表を英雄と呼ぶ様なもんだ。
すぐにシモネタに思考が直結する親父と同じなのかねそれは
少し脳内を洗浄したほうがいいんじゃないか、朝鮮チョウセンと
脈絡もなくナチュラルに出てくることにちょっと危機感を持て
朝鮮専門家なんです
年中ハン板に篭って研究を重ねてるんです
西ローマ帝国(395〜476)
1 :ホノリウス:2009/01/31(土) 22:18:36 0
千年続いた東ローマ帝国とくらべ、蛮族に蹂躙され、かつての大ローマのみる影もなく、
百年に満たず、消えていった西ローマ帝国。そんな西ローマ帝国を語り合いましょう。
100回読んでから書き込みしろクソども
何度も大敗を喫し一度は部族滅亡の存亡にたたされても人が集まってくるアラリックのカリスマ性は異常
157 :
世界@名無史さん:2009/02/18(水) 19:22:05 O
スティリコに泳がされていただけでは?
ホノリウスがスティリコを処刑しなかったら、最終的には潰れていたと思う。
それとも、ホノリウスが信じたように、裏でスティリコとアラリックはつながっていたのかな?
潰せそうな時に東帝国の妨害に遭うからな。
西ローマが滅んで哲学も科学も技術も全て失うんだからなぁ。
つーか、コレだけの優れた物を持っていながらよく蛮族に呆気なく滅ぼされるもんだ
160 :
世界@名無史さん:2009/02/18(水) 23:58:13 0
優れたものは東ゴート王国が受け継いだから安心して下さい。
ヨルダネスの東ゴート史の翻訳を密かにキボンヌしてるんだが。
フン戦争についてはあれが一番詳しいんじゃない?
ローマが偉いのは田舎者の蛮族を文明人に変容させること
ゲルマン民族は野蛮人なんですね、わかります。
少なくとも16世紀あたりまで蛮人そのものだったな
英仏もそう違いはないけど
あ、ドイツ(地域としての)に対する英仏ね
ローマにモノリスがあって触ると頭良くなるとか。
ローマ亡き後の白人共がどうしようもないろくでなしばかりなのは間違いないしな。
オリンピウス?
オリンピオス?
どっちかな〜?
こいつがギリシア人だったら、西ローマはクソギリシアによって滅ぼされたってことになるな
>>160 東ゴートは、ウクライナでも有能な統治者、文明の守護者だったされるね。
ブリタニアを破壊し尽くしたたとされるアングロ・サクソンとは大違いだね。
第一次大戦時、イギリス人はドイツ人をフン族呼ばわりしていたそうだが、
イギリス人の祖先こそフン族の同類みたいだな。
アングロ・サクソンもヴァンダルもプロバガンダの産物だよ
破壊尽くしたとかマジ笑える
>>169 同意
破壊の限りを尽くしていたら、長期間にわたってその土地を支配できるわけがない。
ガイセリックも海賊まがいのことをやっているから、イメージが悪いけど、ローマ法に基づく穏健な統治を行なっている。
東欧出身のヴァンダル族は、東ゴート族と同じく異民族統治の経験があり、
被支配民がスラブ人からローマ人にかわっただけに過ぎないとされる。
一方、アングロ・サクソンらは、原住地で自ら耕し自給自足していたので、
被支配民は無用であり、土地だけが目的だったとされる。
アングロ・サクソンらは、フランクやゴートよりも後進的だったとされる。
>>170 ゲルマン慣習法に基づく野蛮な政治をやってたのは記録に残ってるがねぇ。
カトリック・ローマ人の虐殺とか。
>>170 穏健な統治を行っていたわりには、ガイセリック亡き後がチョロイよなwww
東ローマの一撃でくたばっちまったぜ
カルタゴのヴァンダル族は、急速に都市化文明化して、尚武の民ではなくなったとされる。
東ゴート族は、パンノニアを領有し続けていた事が、伝統の保持に有利であったようである。
ローマだってカルタゴやギリシアを征服した後、急速に尚武の民ではなくなった気がするがね。
やっぱりヴァンダルは無抵抗の市民相手なら強いけど、
本格的な兵士相手だと話しにならんwww
ホノたん以降の帝位=死亡フラグと取れるくらい
皇帝は暗殺されまくりなのに、誰も蛮族の王を暗殺しようとしないのは凄いな。
ヴァンダル興亡史によると
ヴァンダル族が悪く書かれるのは
文章をかける(記録を残せる)
キリスト教とが多い時期と場所を
襲ったからだと書いてあった
西ゴート族のローマ略奪の方がよほど
激しいものだっただろうともいう
ちなみに最後の王ゲリメルはベリサリウスとの戦いの際に
弟の死を慎むためだとか言って剣だけで戦うように
命じたという。
>>175 キリスト教文化が軟弱だからなのだろうな。キリスト教は元来ユダヤの分派、
ユダヤのように戦争に不向きになってしまうのだろうな。
ユダヤと比べると、アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、ローマは尚武の民、
ケルト、ゲルマン、フンの方により近い価値観の社会だったとされる。
ガイセリックが生きていたころはローマの海軍を壊滅させたり
船という船を片っぱしから襲う海賊行為を行っていたんだが
軟弱になったというより
ただたんに「剣だけで戦え」ていう王のように
後継者が無能なだけだったんじゃないか
コンスタンチヌス1世やテオドシウス1世らは、自らは武将であったのにもかかわらず、
後継者らを専ら宮廷人として養育し、軍人としての能力を与えようとしなかった。
ゲルマン諸王らも、このビザンツ的帝王学を模倣するように、なっていったとされる。
それでも後の東ローマや神聖ローマには
軍人皇帝とよべる人物が何人も出てきているが
バシレイオス2世のように、親族らを武人として鍛えられなかった、残念な例も少なくない。
バシレイオス2世は自分以外のことはどうでもよかったんだろうな
前半生は戦争マニア共の傀儡として過ごし
晴れて正帝になったと思ったら貴族が反乱起こしまくりで一度は絶体絶命の危機を味わってるんだ。
挙句の果てに母親はローマ史上最悪とも言われるビッチ。
普通に人格歪むだろ、これは。
オクタヴィアヌスの娘とどっちが
ビッチ度高いんだろうね
というか普通に時代が進むと
皇帝が軍人を兼ねることが
少なくなっていくだけだろ
ハインリヒ6世も後継者を軍人として育ててない
バシレイオス2世の後に衰退したのは
後継者育成を怠ったバシレイオス2世にも責任があるよなぁ。
ヴァンダルに関しては東ローマ介入のタイミングが絶妙だったてのもある
カトリックが普及しまくっててなおかつ経済的にも文化的にも進んでたてのも重大な要因だろうけど
ヴァンダルがどうのこうのってのも当時北アフリカで起きてた宗教論争が原因だしなあ
下手人はヴァンダル側についたキリスト教徒だっていうし
それをわざわざ放置して北アフリカの国力減少に致命打を放ったヴァンダルの罪は重い
スティリコ先生もヴァンダルです
スティリコ先生が皇帝になったとしても、おそらく息子とかは宮廷風に育てられ、
またホノリウスとかと同じ事が繰り返されてしまうのだろうな。
コンスタンティウス・クロルス→コンスタンティヌス1世→クリスプスのように
後継者が育成がされれば良いのだが、クリスプスのように殺されてしまう場合も
ありえるので難しいですな。
ユリアヌスも後継者を定めずにくたばりやがったからなあ
まあ、まさか死ぬとはおもっていなかったんだろうが
スティリコ先生の息子はただの裁判所の助手だよ
その辺見ても帝位を狙う気はなかったように思える
裁判所の助手という事は、軍人ではないわけで、父の後を継いで将軍には
ならないわけで、やはり大問題ですな。
ホノリアをアッチラに差し出しとけばよかったな
名前もローマ風に改めたりして
アッチラヌスとか
199 :
世界@名無史さん:2009/02/27(金) 23:36:25 O
ホノリウスはスティリコを殺したのを後で後悔したのかな?
200 :
世界@名無史さん:2009/02/27(金) 23:46:41 0
最近の英語版ウィキペディアを見ると、
今までゲルマン民族と思われていた部族が、
ケルトやスラブの可能性もあるみたいですね。
歴史学や民族学の研究も、ここへきて急速な進歩を
とげそうな気配を感じます。
トイトブルグの戦いで有名なケルスキー族は、スコルディスキー族や
タウリスキー族とかの同類みたいな名称ですな。
西ローマ歴代皇帝と真の実力者、影の皇帝
ホノリウス帝―将軍スティリコ
ヴァレンティニアヌス3世帝―将軍アエティウス
アウィトゥス帝―西ゴート王テオドリック2世
マヨリアヌス帝―将軍リキメル
セウェルス3世帝―将軍リキメル
アンテミウス帝―東ローマ皇帝レオ1世
グリケリウス帝―ブルグルト王グンドバット
ユリウス・ネポス帝―東ローマ皇帝ゼノン1世
ロムルス・アウグストゥルス帝―将軍オレステス
ロムルス・アウグストゥルスは皇帝として承認されてないし。
だからなに?
一般的にはロムルス・アウグストゥルスが最後の皇帝でいいんじゃないの?
法的にはユリウス・ネポスかもしれんけど。実質的にはイタリアを追い出されてたんだし。
初代王のロムルスから最後もロムルスとしたほうがおさまりが良いけえ
東ローマも厳密な話はさておきコンスタンティヌスからコンスタンティヌスだ
207 :
世界@名無史さん:2009/03/02(月) 09:53:03 0
初代皇帝のアウグストゥスから最後もアウグストゥスとしたほうが収まりも良いしね
208 :
世界@名無史さん:2009/03/02(月) 10:34:40 0
>ロムルス・アウグストゥルス
この名前、できすぎててネタにしか思えんなw
やっぱりそういう意図で命名したのかね。
209 :
世界@名無史さん:2009/03/02(月) 13:04:11 0
本名はロムルス・アウグストゥス
そもそも、親父のオレステスには家名とかあったのか?
211 :
世界@名無史さん:2009/03/03(火) 12:55:50 0
ヴェスパシアヌスと同じフラヴィウスかね
勝手に名乗ることもあるからよくわからん
>>93 ガリアも穀倉地帯だよ。
まっさきに蛮族が侵入しちゃったけど。
アウグストゥルスってのは日本で言えば天皇を天コロとか天ちゃんとか言う様なもん。
つまるところ、皇帝とは見られていなかったってコトだよ。
そもそも僭称だし。
なんで世界史で最後の皇帝扱いなのか、ネポスじゃなくて。
ローマ帝国 BC753〜AC1453
帝政ローマ BC27〜AC1453
古代ローマ BC753〜AC395/476/610など
西ローマ帝国 AC395〜476/480
東ローマ帝国 AC395〜1453
ビザンチン帝国 AC330/395/610など〜1453
東ローマのゼノンはロムルスの帝位を承認してはいないが、同時に
ロムルスから取り上げた帝位と引き換えにオドアケルのイタリア支配権を承認したこと
歴代ローマ皇帝の全てが正規の手続きを経て皇帝位に就いたわけではないこと
元老院がロムルスを承認していること
ま、一番大きいのは最後か
結局ローマ皇帝はほかの誰が認めなくとも、
元老院とローマ市民が認めれば皇帝だからな
218 :
世界@名無史さん:2009/03/04(水) 18:29:20 O
当時の元老院にそれほどの権威があったのか?
権威というより手続き
先生!カール大帝が作った帝国は西ローマに入れてもいいですか?
カール大帝はビザンツ帝国も皇帝と認めたらしいね
ただし自分らより下位の、それも1代限りの皇帝として
つーか、拒否すればオレステスにぬっ殺されるのが目に見えてるのに
ソレを拒否する程骨のある奴が西の元老院にいたとは思えん。
ムッソリーニはローマの再興を目指してたの?
そんなもん、帝政が始まったときからずっとそんな状態だろ
実力をもって、あるいは政治的にでも、ローマと軍団を
押さえた人間を事後追認するだけだ
それでもなお、SPQRは皇帝を承認する主権者であり続けたし、
ネポスを売国皇帝と嫌っていた元老院とローマ市民は、
どちらかといえば積極的にロムルスを迎え入れたんだから、
やはり帝位はここで移ったとすべきだろうと、
世界史的にはこういう解釈だ
226 :
世界@名無史さん:2009/03/04(水) 20:32:57 0
もしローマが共産化でもやって、残っていたら面白かったのにね。
その後の中世や近世も。
もっとも、国家間の競争がなくなった分、
近世の到来もあるいは遅れたろうが。
おお、ローマよ!偉大なる文明と男達の母よ!
230 :
世界@名無史さん:2009/03/05(木) 06:57:49 0
>>226 228は信じないように。ローマ皇帝の就任手続きは、
軍による推薦 → 元老院の承認 → 市民の前で就任宣言
五賢帝を頂点とするなら
>>228が入って完璧なプロセスだろ
要は「カエサル」号を得ているかどうかだろ
次期皇帝でも副帝でもいいが
235 :
世界@名無史さん:2009/03/05(木) 18:21:10 0
236 :
226:2009/03/05(木) 18:55:23 0
>>230 つうことは、正規の手続きのうち、ロムルス・アウグストゥスが実行していないのは
市民の前で就任宣言
だけ?
シアグリウスを筆頭に西ローマの将軍からは支持も承認もされてないよ>ロムルス
軍団の指揮権もネポスがいくらかもっていったから話がややこしい
ロムルス側が抑えたのはローマ、つまり西ローマ皇帝としての形式
ネポス側が保持したのは軍団と各国の認知、つまり西ローマ皇帝としての実際
ただし、ローマから追い出されたネポスも
次第に忘れられた存在になっていくんだけど
当時は東の皇帝と互いに即位承認しあってたが、東のゼノン帝もロムルスは承認
してなかったはず
前のレスちょっとは読もうね
241 :
226:2009/03/05(木) 22:00:54 0
>>238 ロムルスも一部の軍団の支持を得ていたんだよね?
支持つってもローマ軍団はほとんど傭兵の群れみたいな状態だから
結局いい目をみさせてくれそうだと思ったほうについていってるだけなんだけどな
だからロムルス、というかオレステスについたオドアケルも、
結局アテが外れて叛乱を起こしたんだし
ホノリウスとウァレンテニアヌス3世の2代だけで治世の3分の2位を占めてるから、
後は空気みたいなもんだろ。
皇帝としてはホノリウスやウァレンティニアヌスの方が空気だが。
マヨリアヌスやアンテミウスの十分の一も仕事してないだろ。
ホノリウス→スティリコ殺害
ウァレンテニアヌス3世→アエティウス殺害
二人とも帝国崩壊には欠かせない仕事をしていますよw
陛下は御自分の右腕を切り落とされた
>>244 マヨリアヌスがリキメルスを返り討ちに出来ていれば今頃歴史は変わっていたかも
西ローマがなんとか生き延びたとしても、ユスティニアヌスにつぶされてたんじゃない?
あいつの性格じゃ「もう一人のローマ皇帝」なんて、認められなかったろうからなあ。
249 :
世界@名無史さん:2009/03/16(月) 23:21:39 0
一週間スレなし。
いつのまに帝国は滅んだんだろう
スレとレスの区別のつかないバカがいるスレはここですか?
古代にはよくあること
|l、{ j} /,,ィ//| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ | あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ | < 『西ローマは衰退しているなと
fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人. | 思ったらいつのまにか滅んでいた』
ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ | 催眠術だとか超スピードだとか
ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉. | そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ. │ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
/:::丶'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ \_________________
ホノリウスの治世って剣闘士試合の禁止とかローマ略奪とか
ローマのアイデンティティーに関わるイベント多すぎだろ。
このスレも同じように消えていくしかない。
ホノリウスとヴァレンティニアヌスがアホだったっていう結論で、
他なにも議論の余地が無いのが西ローマだからな。
誰かこのスレを守るものはいないのかー
鶏の飼育に忙しいんだろ、皆
258 :
世界@名無史さん:2009/03/31(火) 17:31:00 O
あげ
259 :
世界@名無史さん:2009/03/31(火) 17:52:33 0
最後の皇帝がロムルスとアウグストゥスのバチモンみたいな名前なのは、
やっぱり最初と最後をそろえようって意識がはたらいたのかね?
260 :
世界@名無史さん:2009/03/31(火) 23:36:59 0
西ローマ帝国末期って、ラテン人によるゲルマン人への人種差別はあったの?
この時期は、まだラテン系住民系方が立場が上な感じがするけど・・・・
今のアメリカのラテン系はワスプ(実際はドイツ系)より下みたい。
あったらしい、で西滅亡後にゲルマン人の報復が多発し
ついでに東ゴート王国では元ローマ人の居住区制限や武器携帯の禁止
職業選択の制限、ゲルマンの免税特権など様々な差別制度が作られた。
262 :
世界@名無史さん:2009/04/01(水) 01:47:44 0
ローマ帝国時代は、の人種ヒエラルキーは・・・・
ラテン人→ギリシャ人→ゲルマン・ケルト人→ペルシャ人→アラブ人→黒人?
ラテン人もゲルマン人も今じゃ同じ白人だけど、ローマ帝国時代は
同じ白人(ヨーロッパ人)と言う意識は希薄?
後藤久美子が言っていたけど、今でもフランス人てイタリア人の事をかなり
下に見ていて、イタリア人の子供が親の都合で転校して来るとイジメにあうとか。
アラブ人の皇帝も居たきがする
264 :
世界@名無史さん:2009/04/01(水) 05:05:27 0
アラブス フェニックスだな、隠れキリスト教徒らしいが。
>ローマ帝国時代は、の人種ヒエラルキーは・・・・
>ラテン人→ギリシャ人→ゲルマン・ケルト人→ペルシャ人→アラブ人→黒人?
滅茶苦茶言ってやがる
ローマ人の基準はひとえに文明度に尽きる
ガリア人だろうがベルベル人だろうが、高度に知的で教養あふれ
ラテン語とギリシャ語を解して法を尊びついでに軍務でも功績があったりすれば尊敬をえられる
その点一般的に野蛮なゲルマン人が上位にくることなんぞまずない
あとアラブ人なんてこの時代いないからな
まー高等教育には金がかかるから貧乏人は出世できないけどな
それとゲルマニア人やペルシャ人はローマから見れば外国人や蛮族でしかない
>>265 >あとアラブ人なんてこの時代いないからな
普通にいるだろw
>>267 「アラブ人」はイスラム教ができてから発生した概念だから
この時代に現在の「アラブ人」を形成する民族はいるけど
「アラブ人」自体はいない
フィリップス・アラブスは?
フィリップス・アラブスは彼もしくは彼の一族がアラビア属州またはアラビア半島出身だから。
あと訂正、この時代にアラブ人はいる。南アラビアに。
ゼノビアはパルミラ人か?
272 :
世界@名無史さん:2009/04/01(水) 17:23:54 0
>>265 >ローマ人の基準はひとえに文明度に尽きる
アメリカ南部でも、「黒人は文明度が低いから差別する」というスタンス。
>>271 >ゼノビアはパルミラ人か?
ギリシャ人と北アラブ人のハーフ
古代とかに現代の民族意識、いわゆるネイションを持ち込んでも無意味
古代、中世などは民族より共同体意識が強い
いわゆるエトノスというもの
いい例がビザンティンだろう
既に民族的、言語的、社会的にギリシャ化しているのにも関わらず
ローマ人として意識していた
別にローマ人という民族を意識しているのではなく
ローマ文明に帰属する者としての意識、つまり共同体意識、エトノスである
後の中世以降の欧州王家も各々各民族の王家と通婚しており支配者としての民族意識があるとは思えない
無論、共同体としての国家意識は否定できないが
現代の民族意識であるネイションが芽生えるのは19世紀の欧州である
人種差別ていうかただの支配政策
大体侵略自体に良いも悪いもない
勝てば官軍だ
ごb
278 :
世界@名無史さん:2009/04/09(木) 06:00:44 0
>>273 >現代の民族意識であるネイションが芽生えるのは19世紀の欧州である
民族意識は何処の民族にも普通にあるだろう。
古代だって同じく自分は何人という自覚はある。
アエティウス将軍はモエシア出身で、ディオクレティアヌスやコンスタンチヌスらの同類のようだね。
イリュリア・トラキア人らは、蛮族的で多くの兵士、武将、そして皇帝らを輩出し続けたとされるが、
西ローマ領のガリアやヒスパニア、ブリタニア等からは、あまりその類の話を聞かないようだ。
帝政末期のガリア、ヒスパニア、ブリタニアは、もはや蛮族ではなくなっていたのだろうか?
民族よりは部族が優先する
同じ生活を送り同じ秩序を守る、不穏分子が出れば村八で対処できる
共同体意識といえばまず部族がくる
ついで民族
この民族とは、基本的に文化共有、とりわけ言語を共有する集団だ
日本人ならこれが理解できないわけがない
言葉の通じる相手というだけでどれほど安心するか
今日のような、アイデンティティに固執するような民族意識とは少し違う
「話の通じない相手」に対抗するために、いざとなれば頼れる「話の通じる相手」
これが民族の枠だ
共同体意識の低下が、西ローマ・ゲルマン連合、そしてフン・ゲルマン連合の消滅の原因ですな。
アエティウスとアッティラが死ぬと、ふたつのゲルマン連合はたちまち分裂崩壊していった。
ゲルマン人は部族を優先したので、ゲルマン帝国とはならなかった。
282 :
世界@名無史さん:2009/04/09(木) 08:28:06 0
>>280 >民族よりは部族が優先する
ゲルマン人も部族単位で大移動したので、一理あるが
自分達がゲルマン人であるぐらいの自覚はあるはず。
帝政末期にはエトルリア人と名乗る集団も居たそうだから。
>>279 >帝政末期のガリア、ヒスパニア、ブリタニアは、もはや蛮族ではなくなっていたのだろうか?
ローマ系住民とケルト系住民の融合・混血がローマ時代後期には進み、
特にガリアではガロ-ローマ人という意識が出来始めたのかも。
カエサルがガリア征服時にケルト人部族長をローマ元老院議員にしてしまうのが功を奏したのかも。
>>261の書き込みから見ると
ローマ人によるゲルマン人への人種差別も西ローマ帝国ではあったらしいから
何事も全て部族単位にでは考えられない。ゲルマン人内部では部族が重要視されたかもしれないが。
帝国末期にはローマ貴族でもゲルマン風の衣服が流行したとか、
今の若者が、黒人ラッパー風を気取るのと似ているのかも。
283 :
世界@名無史さん:2009/04/09(木) 08:33:34 0
>>281 >共同体意識の低下が、西ローマ・ゲルマン連合、そしてフン・ゲルマン連合の消滅の原因ですな。
フン・ゲルマン連合はともかく、
西ローマ帝国の共同体意識の低下は、キリスト教の拡大と関係がありますか?
カトリック教会による末端行政権獲得により、西ローマ帝国が機能不全を起こしたり、
税収や徴兵が上手く行かなくなったり・・・・・
関係ありますかね?
284 :
世界@名無史さん:2009/04/11(土) 17:15:11 0
ローマ帝国の時代は「ラテン系」は「勤勉な文明人」というニュアンスで
「ゲルマン系」は「DQNな土人」というニュアンスだった、と思う。
いつから「ラテン系=DQN」になったんだろう?
近代にラテン系国家が衰退して、ゲルマン系の国が先進国になってから
ラテン人 広義 狭義 でぐぐれ
ローマの時代のラテン人といまのラテン系は意味が違う
>>283 フランクは発展段階でかなりケルトと混血したぞ
288 :
世界@名無史さん:2009/04/12(日) 01:21:19 0
>>287 シアグリウスの国?(フランス北西部の西ローマの飛び地)を上手く乗っ取った
り、取り込んだのがフランク族の発展の基礎だと思う。
>>288 ネウストリアではどう見ても人口的にガロ・ローマ人の方がフランク人より上だからね
まあアウストラシアの方は元ゲルマニアだから混血の度合いは薄いと思うけど
290 :
世界@名無史さん:2009/04/12(日) 04:29:26 0
ソワソン管区の維持に腐心していた将軍シアグリウスを486年に
ソワソンの戦いでフランク族のクローヴィス王が破りソワンソン管区
をフランク族が丸呑みした。
ソワソンの戦いでフランク族はシアグリウスの軍勢を破ったのだろうが、
ガロ-ローマ系住人には危害を加えなかったのだろうか?
西ローマ帝国が滅ぼされて10年以上もソワソン管区を維持できたのは
ある意味奇跡。もっと早くフランク族や西ゴート族が攻めてないのが不思議。
シアグリウスが軍人として有能なのか、それともソワソン管区ローマ軍団が
強かったのか、ゲルマン人はフン族の攻撃を跳ね返すのに手一杯だったのか、
よくわからん。
291 :
世界@名無史さん:2009/04/12(日) 13:02:03 0
うまく現地や周辺のゲルマン部族なんかと同盟したんじゃないかと予想。
ローマ軍団単独じゃもう勝てないだろこの時代。
292 :
世界@名無史さん:2009/04/12(日) 13:30:53 0
シアグリウスの国ってのは、ローマ帝国の継承国家なの?
293 :
世界@名無史さん:2009/04/12(日) 13:54:20 0
アルトリウスのブリタニアをローマ帝国の継承国家と言えるかどうかだな
シアグリウスの肩書きは西ローマの将軍だし
奴自身はネポスが皇帝だと思ってたわけだからねぇ。
ソワソン管区はガリアに残った属州の飛び地みたいなもんで国ではないし。
295 :
世界@名無史さん:2009/04/12(日) 17:10:49 0
>>293 アルトリウスってアーサー王のモデルになった人だっけ?
410年以降のブリタニアはローマ軍団が全部撤退した為、今までローマ人の
支配下にあったケルト人部族が勝手に小国家をいくつも作りブリタニア内部は、バラバラ戦国状態。
アルトリウス自身はローマの騎士階級の保持者だとしてもこの時点では
ローマ軍は一兵も居ません。単に自分の手勢を率いているだけの中世化
しつつある初期の封建領主みたいな者。
おまけにアングロサクソンの侵略も始まり大混乱状態である意味
シアグリウスのソワソン管区よりひどい状態。
ソワソン管区には弱っているとはいえローマ軍の残存軍団や騎士・将軍がいて
一応ローマ系住民を保護し治安の維持もしている。
ブリタニアは、ローマ系住民をほったらかしのまま、勝手にローマ軍団は撤退してしまった。
>>292 “シアグリウスの国”とは言う物の、国家とはいえないかも・・・・
既にイタリア本国は消滅しているわけだし、元老院だけが何とか残っている感じ。
何万人もの東ローマ軍団が、オドアケルが西ローマを滅ぼした時点で
ネポス救出の為との名目でイタリア半島とダルマチアに侵攻したら
また別の可能性もあるけど。
そうなるとフランク族も西ゴート族もソワソン管区に手が出せないかも。
>>292 単に西ゴートやブルグンドにイタリアとの連絡遮断されたため出来た飛び地
シアグリウスは軍人というより文人だから軍才に恵まれないだけか外交能力もなかった
唯一シアグリウスが生き延びる可能性があったのは南ガリア・ヒスパニアを領有する西ゴートと同盟結ぶこと
しかしシアグリウスがフランクに敗れ西ゴートに逃げた時、あっさりフランクに追い返された
この時、西ゴート王もあまり軍才に乏しいアラリック2世
前王エウリックならフランクのクローヴィスといい勝負だったと思うが
何れにしてもシアグリウスには運がなかったと言わざるを得ないな
297 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 07:13:49 0
オドアケルが西ローマを滅ぼした時点で、何で東ローマ帝国は
イタリアに出兵しないの?
理由付けもチャント出来るのに〜
@西ローマ帝位の維持(ローマ帝国再統一?)
Aガリア・イタリア半島のローマ系住民の保護救出
Bネポス&ロマヌス前帝(どっちでも良い)の保護救出
Cオドアケルの反逆・反乱鎮圧
Dローマ元老院(ローマ貴族)からの軍事介入要請(あっても無くても)
Eソワソン管区とイタリア半島の通行回復
こんなところかな?
>>297 その時点では軍事力が不足してたし、なにより、自身が「唯一無二」のローマになった事に酔いしれてたんじゃないかな?
まぁ専門書読み返せばなんか書いてるだろうけど、読み返す気力がない
そもそも、当時の東帝は権力を奪回したばかりで、自分の身の保身で頭いっぱいで
西に出兵させる精神的な余裕がない。
300 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 16:07:59 0
>>299 488年にゼノン帝が東ゴート王のテオドリック大王にオドアケル討伐を命じて
いるので、旧西ローマ領侵攻計画は、東ローマ帝国の政治構想としてはあった
んでしょう。
しかし、西ローマが滅んで10年もしてようやく東ゴートにオドアケル討伐
を命じるとは、少し遅すぎですね。
ゼノン帝は、「惰弱な人物」な人物としてウィキに記載されているので、
そのあたりも東ローマ自身によるオドアケル討伐戦を行わない理由かも、
ゼノンはある種のバカ殿かも。
>自分の身の保身で頭いっぱいで、西に出兵させる精神的な余裕がない。
もしレオ1世がもう少し長生きするか、ゼノンが早死にしてアナスタシウス1世
が帝位にいたら、オドアケル討伐の軍を東ローマは起こしたでしょう。
レオ1世はもう70歳代なので、将軍に軍隊を率いさせて討伐するでしょうが、
アナスタシウス1世なら西ローマ滅亡時は40歳代なので皇帝自ら親征するかも
しれません。
しかし、西ローマ滅亡直前の471年、イサウリア人のタラシコデッサ
(後の皇帝ゼノン)の力を借りてゲルマン人軍事長官アスパル父子を
打倒し、皇帝としての地位をレオ1世が確固して良かったですね。
アスパル親子は東ローマのオドアケルに成りかねません。
301 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 16:18:35 0
東ローマ帝国では当たり前のようにゲルマン人は皇帝になれなかったという
説がありますが、東ローマではマルキアヌス帝の死後にゴート人のアスパル
が帝位候補に上がっています。
アスパルが帝位に就けなかったのはアリウス派信徒だったことが原因と言う説もありますが?
そのアスパルの代わりに帝位についたのが名君レオ1世で、アスパルの傀儡の筈が
ゲルマン人に対抗する為にゼノンを初めとするイサウリア系の傭兵を登用して、ア
スパルの誅殺に成功するという経緯がある。
おそらくアスパルはアリウス派という異端が理由で殺された訳では無く、
ヴァンダル王ガイセリックと密約を結んだという利敵行為(があっただろうという推測)
とレオ1世は皇帝になったのだからアスパルから自立したいという野心を持ったからでしょう。
レオ1世は末期ローマ帝国時代の東ローマ皇帝としては特別な存在です。
アルカディウス、テオドシウス2世、マルキアヌスといったテオドシウス朝の皇帝達
が西ローマ帝国の衰退を放置していたのに対し、自身の縁故者とはいえ西皇帝を支援
しヴァンダル族と一戦交えたりもしています。
この対ヴァンダル戦に勝利していれば、もしかしたら西ローマ帝国の滅亡は防げたの
かもしれないという、重大なイベントです。
逆にヴァンダル族にとっては起死回生の大逆転で、東ローマ帝国の後ろ盾を失った西
ローマ帝国の実力者リキメールを脅迫してレオ1世の送り込んだ西皇帝アンテミウス
を殺害させ、自身の縁故者オリュブリウスを西皇帝に擁立しています。
この辺のアンテミウス帝の悲劇的な死をギボンはちょっと重要視しています。
その後もレオ1世は西方世界の領土維持を諦めておらず、リキメールの死に動揺する
イタリアに新皇帝として皇后ウェリナの親族ユリウス・ネポスを派遣したりもしています。
302 :
世界@名無史さん:2009/04/13(月) 16:25:14 0
東ローマ帝国がウマイヤ朝やアッバース朝の度重なる侵攻を食い止めたの
は小アジアでの軍管区(テマ)独自の抵抗運動があったからだというのが、
近頃の通説になりつつありますよね。
西ローマにもテマがあれば・・・・・
当時の西ローマ領は、11世紀のアナトリアのように、自営農民らは没落していたのだろうな。
304 :
世界@名無史さん:2009/04/14(火) 05:23:58 0
レオ1世やアナスタシウス1世がオドアケル討伐を開始しても、せいぜい
奪回できるのは、イタリア半島とダルマチア、北アフリカ程度だろう。
ガリア奪回遠征はどうかな?北イタリアがせいぜいで、ブルグント王国
を征服できるかどうかでしょう。
東ローマがシアグリウスの国を救出するのはかなり難しいかも。
305 :
世界@名無史さん:2009/04/14(火) 16:16:58 0
ヘタレプミポン国王は、いいかげんタクシン討伐宣言しろよ。
こういうところで、民族の根本的な差が出るよね。
へタレゼノン帝は、いいかげんオドアケル討伐宣言しろよ。
こういうところで、民族の根本的な差が出るよね。
「朕自ら、近衛師団を率いてこれを殲滅せん。」
さすが我等が昭和天皇。万歳!
ユスティニアヌスの再征服自体がヴァンダルや東ゴートの内紛に助けられてのことだからなあ。
ベリサリウスやナルセスという希代の武将たちの存在も大きいし
それでも、自国にいたテオドリックという爆弾を上手く処理したと思うよ。ゼノンは。
つーか、そもそもレオの腹心やってた男なんだからそんな低スペックなはずが無いんだけどね。
何故か評価は低いけど。
まあ東も自国の維持に忙しかったからな。
国内も問題だらけだし、西と違って大国ペルシアも防がなきゃいけないし。。
309 :
世界@名無史さん:2009/04/15(水) 09:12:11 0
ビザンツ帝国の兵力は15万人しか居ない。
おまけに反乱しがちなゲルマン人の傭兵部隊もその中にある。
たった15万人でバルカン半島・アナトリア・シリア・パレスチナ・エジプトを守る体制。
軍事的にはかなりカスカス、現在の陸自と大して兵力が変りません。
もともと蛮族の侵攻を防ぐための軍事体制として帝国分割したわけで
西がなくても豊かな経済力を持つ東は独力でやっていけるし
つーか、東帝国とサーサーンって当初は平穏な関係だったんじゃないの?
アルカディウスが息子の後見を頼んでる程だし。
>>309 しかし最盛期のオスマン帝国も兵力はシパーヒー10万、宮廷軍団が多いときで8万ぐらいだったようだが
西ローマって地味だよな。
314 :
世界@名無史さん:2009/04/16(木) 07:46:26 0
地味っていうより、何にも出来なかった感じ、南ベトナムみたい。
ホノリウス様のお陰で80年持ったようなもんだ
316 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 01:15:05 0
東帝国「むしろ西がいないほうが楽」
318 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 23:25:45 0
地中海貿易を維持するなら、イタリア半島とダルマチアと北アフリカは東帝国が持っていたほうがいいぞ
>>318 だから実際にユスティニアヌスの再征服後、7世紀半ばまでカルタゴは維持した
し、シチリアも10世紀まで、南イタリアも11世紀半ばまでは東帝国が持っていた。
ダルマチア沿岸にも拠点を置いていた。
320 :
世界@名無史さん:2009/04/25(土) 00:16:40 0
ランゴバルト族を東帝国が何で撃破出来なかったのか不思議ですね。
最終的にローマ元老院を滅亡に追いやったのは彼らですし。
だって当時東が相手してたのはあのホスロー率いる最盛期のササン朝ペルシアだもん
ボニファティウスがアフリカにヴァンダルなんか呼び寄せなかったら
イタリアとアフリカだけでもけっこう持ちこたえただろうに
323 :
世界@名無史さん:2009/04/25(土) 15:11:43 0
東帝国は軍隊をもっと増強すべきですね
フランク、アラブ、ペルシャ相手です。
東「国庫の約3分の2が軍事費なのにこれ以上は無理です><」
そもそも西に構ってもいいことない。
古代末期からかなりガタガタだった上に、蛮族の占領時にかなり衰退した。
ユスティニアヌスの再征服した地域も、維持コスト>利益だったし。
西はスティリコを謀殺した時点で命運が尽きた
410年(ローマ陥落)が事実上の西の滅亡だよ
後は形骸化した亡霊国家が残ったのみ
だが西の遺国が今のイギリスでありフランスであり、イタリアである
は、だからなに?
モンゴルに宋王朝が滅ぼされた後も中国は中国
というようなもん
元は、滅亡しなければ中国化していたぞ。
末期は漢人官僚を登用して中国化しつつあった。
ヨーロッパの場合、半島の知識階級はみんな東に逃げたんじゃないの。
330 :
世界@名無史さん:2009/04/26(日) 13:14:35 0
>>326 410年(ローマ陥落)以降の西ローマ帝国ってイタリア半島とダルマチアとガリア北西部(ソワソン管区)のみが領土。
>>329 明に中原を追われた後モンゴル高原の生活に適応できなくて
戻ってきて投降した連中が大勢いたらしいね。
スレ違い失礼。
ふざけんなカス
334 :
世界@名無史さん:2009/07/04(土) 20:47:28 O
東の方にはシリアやエジプトのような食料庫があったけど西の方は
335 :
世界@名無史さん:2009/07/04(土) 21:25:59 0
スティリコとアエティウスを殺すバカ皇帝が君臨していては勝ち目なし。
337 :
世界@名無史さん:2009/07/04(土) 22:46:52 0
西ローマ帝国は兵士が傭兵だった為、そのコストを払う為に重税を掛けて、住民が逃げ出して経済が衰退するという悪循環に陥ってた
そしてインフレも酷かった
>>336 うん、東には劣れどシチリアや北アフリカが食料庫としてあった
339 :
世界@名無史さん:2009/07/05(日) 12:37:46 0
西ローマ帝国は悲惨なイメージがある
>>335 アエティウスの配下に仇討ちされたってのはどうなん
強固な主従関係とか一番希薄な時代な気がするんだが
341 :
世界@名無史さん:2009/07/05(日) 19:15:28 O
今の日本も西ローマ帝国のようだ
343 :
世界@名無史さん:2009/07/11(土) 23:54:21 0
西ローマ帝国崩壊時にゼノン帝が何にもしないのもおかしな話。
オドアケルくらい滅ぼせよ!
テオドリックを送り込んだじゃないか
345 :
世界@名無史さん:2009/07/12(日) 10:37:00 O
カール大帝は「クローヴィスは実は西口ーマ帝位を譲られていた(だから自分も皇帝になる権利がある)」とか言い出さなかったのかね?
>>345 西ローマ皇帝として戴冠をしたときに「こんな話は聞いていない!」とかいったらしいね
なんで皇帝になるのを嫌がったんだろう
347 :
世界@名無史さん:2009/07/12(日) 14:42:50 0
無茶言うでねぇ。ローマに支配はおろか足さえ踏み込んでいないではないか。
中国の禅譲で一旦は拒否する奴と同種の行為じゃねーの?
349 :
世界@名無史さん:2009/07/12(日) 16:51:19 0
体感^H^H戴冠は良いんでも、それが教皇から受ける(教皇×皇帝)のは嫌、ってんじゃなかったか。
教皇×皇帝だと、教皇の優越権を認めることになるしな。
カールは中世以後の皇帝×教皇をその時点で望んでいたということじゃないの。
ひっくり返すのに何百年もかかったわけだし。
350 :
世界@名無史さん:2009/07/12(日) 20:48:56 O
フランク帝国から神聖ローマ帝国とナポレオン帝国に受け継がれたものはどれくらいあるのか
351 :
世界@名無史さん:2009/07/14(火) 17:48:36 0
ハプスブルク関係かなんかの本で
国の崩壊の原因を語るなら、崩壊が不可避になった時点を機軸にして考えるべきっていう風に書いてあった。
この考えでいくと やっぱスティリコ殺しが機軸か
352 :
世界@名無史さん:2009/07/14(火) 22:17:05 O
西ヨーロッパにはローマ帝国の土地と基礎部分(俗ラテン語やキリスト教とかアルファベット)のみ残り、立派な建物部分は全て東方にいったわけか
もともと東方が断然発達してたからな
354 :
世界@名無史さん:2009/07/23(木) 02:17:09 0
もうホノリウス帝の頃からしてアチコチの属州に
もう自分のことは自分達で守ってね!
っていう手紙出しまくっているよ。
西帝国ははじめからダメじゃね?
仮に統一したままゲルマン民族の大移動を迎えたら
どうなっていただろうと思う。
ガリア、ブリタニア、イスパニアは放棄するからイタリアと北アフリカは
見逃してっていう交渉になりそうだけど。
流石に北イタリアと北アフリカではゲルマン人と戦うだろう。
最近西ローマ帝国の滅亡を480年にしてる資料も有るらしいけどそれってどうなの?
>>355 根拠が不明だな。
その年に廃位或いは殺害された皇帝もいないし。
うん480年にしてる資料はネポスが死んだ年だからだそうな
まぁその辺はどう解釈するかだろうけどな
359 :
世界@名無史さん:2009/07/25(土) 04:53:41 0
ネポスが死んだ時の西ローマ帝国の領土なんて
今のクロアチアのアドリア海沿岸部やボスニアあたりだけしか領土が無い状態。
360 :
世界@名無史さん:2009/07/25(土) 08:53:36 0
スティリコとアエティウスを処刑する時点で西ローマは終ってる。
西と東の軍事制度ってどう違うんだっけ?
東は騎兵と歩兵の指揮が分離してる
363 :
世界@名無史さん:2009/12/15(火) 02:46:24 0
7世紀初頭のローマって結構いい感じに復活したって本当?
364 :
世界@名無史さん:2009/12/16(水) 21:18:21 0
ファイナル・エンペラー って映画見たけど以外に面白かった。
グラディエーターより価値有り。
410年代のローマ長官(?)ナマティアヌスが主人公。
こんな掘り出し物がほかにもあったら教えて。
365 :
世界@名無史さん:2009/12/16(水) 21:47:29 0
トーガ着てた皇帝って誰まで?
いつから着ないことにきまったのか教えて?
西ローマ帝国の遺民が作った国とかってあるんかな?
367 :
世界@名無史さん:2010/01/02(土) 02:17:26 0
「俺はローマ人だ」という意識と誇りのある人は東に移住したんじゃないか?
だいたい、当時の人々にとっては「西ローマが滅亡した」という意識は無く、
後世から歴史を振り返ってみると、「オドアケルによって西ローマが滅ぼされた」と結論づけられるだけ。
元老院だって存続してたんだから、当時のローマ人は
「ローマが衰退したなあ」と嘆く事はあっても「ローマが滅亡した」なんて夢にも思わなかった。
「滅亡した」という意識が無いのだから「復興しよう」という機運もあるわけがない。
つまり当時の西ローマって、
「まだ気付いてないのか。おまえはすでに死んでいる」
という状態だったわけだ。
ローマ帝国分裂…という事象自体が後世の歴史家による認定に過ぎないわけだしな。
当時の当事者による認識は
(過去にも何回かあった)分割統治→オドアケル・東ゴート諸王による委任統治→ユスティニアヌスによる直接統治
みたいなもんだろう。
ヴァンダルによって初めてローマ帝国は名実ともにローマ市を失陥した、とでも言えばいいのか。
言い出したらきりが無いけど…
委任統治ってわけじゃないけど感覚的にはゼノビアにパルミラ取られてた時のような状態だったわけか
「また後で取り返せばいいか」的な
>>363 7世紀初頭の崩壊は特に酷いと思うが、
フォカスがマウリキウスを倒して皇帝に即位、
このせいでペルシャと戦争になる。
フォカスは対ペルシャ戦を優位に進めていたが、
フォカスを倒したヘラクレイオスのせいでシリアとエジプトをペルシャにとられる。
そのあと取り返したはいいが、そのあとシリアにイスラム教徒侵入。
エジプトも宗教論争のグダグダで結局失う。
ローマ市の方は知らん。東ローマの領土には違いないと思うけど
そういえばフォカスの記念柱なんてものもあったな。
コンスタンス2世もローマに行ったはいいけど、ローマ教皇を逮捕したり財宝を持ちかえったりやりたい放題。
>>367 ゲルマン人はローマ人を強制的に徴農する為に
ローマ人の移動を禁じていた。東に逃げようとしたらぶっ殺される算段が整ってる。
372 :
世界@名無史さん:2010/02/13(土) 18:35:47 0
そもそも西と東に分裂して犬猿の仲になった理由が政治対立とキリスト教内
の解釈対立でそれが東・西ローマが滅んだ後も延々と現在まで続いてるんだから
可分とも言えるけど、現実的には不可分なんじゃない。
>>372 不可分だったとは考えられんなあ。
ホノリウスと続くウァレンティニアヌス3世で60年間統治していたけれど
この二人は教皇の居るローマをおっぽり出して逃げ回っていたんだし。
そもそも、ホノたんの出身地はコンスタンティノープル。
ローマなんぞに思い入れがあるハズが無いんだ。
東西分裂→西崩壊はどう見てもテオドシウスのミス。
このスレは「そもそも」って言葉の含有率が高いね
377 :
世界@名無史さん:2010/03/06(土) 04:53:20 0
そもそも、そもそもはそもそもそもそももそもそもそもそもそももそ
もそもそ
為政者なんて、だれも、国の体面よか、己が保身の方が大切なんですよ。
381 :
世界@名無史さん:2010/04/21(水) 17:58:46 O
ホノリアって今でいうメンヘラみたいな感じだったのだろうか。
彼女は最期どうなったの?
382 :
世界@名無史さん:2010/04/22(木) 01:22:16 0
383 :
世界@名無史さん:2010/04/22(木) 21:52:21 O
>>382 ありがとう。
「彼女の後の人生については何も記録されていません」でいいのかな。
上のページによると元老院議員に嫁がされたそうだが、その後軟禁されてひっそり亡き者に…というのを想像。
アッティラに蹂躙されたローマ臣民にとってはそれだけでは納得できないかもしれないが…。
384 :
世界@名無史さん:2010/04/27(火) 06:57:59 0
オドアケルって結局何がやりたかったんだ・・・・
最終的には東の帝位を簒奪しゲルマン人のローマ皇帝になりたかったらしい。
387 :
世界@名無史さん:2010/04/27(火) 21:06:49 O
>>386 西でなってももうあまり旨みがなかったのでは?
オレステスを殺した時点ではネポスが健在だし
あの時点で帝位を宣言すると東が潰しに掛かってくる可能性がある。
とは言っても、レオですら結局西を救済出来なかったんだから
勝手に帝位を宣言しても多分何とも無かったろうね。
390 :
世界@名無史さん:2010/04/28(水) 18:54:00 O
しずみゆく泥船みたいなものだからな>西
391 :
世界@名無史さん:2010/04/29(木) 20:12:56 O
あのローマ帝国が蛮族に蹂躙されまくるなんてね…。
>>391のレス見てチャイドルからAV女優転進してった某タレントを思い出した
あの○○ちゃんが男優に中出しされまくるなんてね…。
あの○○ちゃんが蛮族に中出しされまくるなんてね・・・。
剣闘士試合の中止が404年(ホノたんの治世)
カラカラ浴場の閉鎖が410年(やっぱりホノたんの治世)
何の楽しみも無くなった西ローマ市民は悲惨やな。
つーか、浴場廃止の理由がアラリックに水道管壊されたからって
西ローマにはインフラを維持する技術もカネも無くなってたのか?
396 :
世界@名無史さん:2010/05/08(土) 21:32:44 0
インフラ整備と維持って国費から出てなかったような
かつてインフラを支えていた金持ちはこの時代には東に移ってるだろうしなあ。
何でゲルマン人共は建築技術やインフラには興味が無かったんだ?
あいつら元々不潔だったから耐性があったのか?
399 :
世界@名無史さん:2010/05/11(火) 18:41:47 0
質問です。
ローマ市におけるパンの配給は、いつ頃停止されたのでしょうか?
ご存知の方がおられましたらお教えください。
そりゃゲルマン人はインフラに関する能力が全くないからな
ただ不潔かどうかはわからん
近世以前の都市はいくら下水道があるといっても不衛生で
森に住んでる蛮族の方が衛生的な生活してるからな
>>400 そうは言うがローマ人は風呂好きだし都市だからと言っても不衛生と断言は難しいのでは?
不衛生といっても田舎に比べて不衛生ってことだよ
人が集まりゃどうしても汚くなるって
そのローマの清潔具合って近世並と言われてるんだけどな。
近世並みで田舎より綺麗なわけないじゃん
だいたいいくらローマの下水道が発達したといっても
消毒してない水を飲み消毒してない下水を河川に大量に流しこんでるんだから
ローマでも疫病が大流行してたそうじゃん
中世近世の汚さと象徴みたいに言われる「窓からウンコ投げ捨て」も、
ローマ時代からやってたからな。インスラなんか下水道ないし。
いや、インスラは下水道を備えてた。
住人の民度が低かっただけで。
皇帝伝にもウェスパシアヌスの時代に犬が三叉路から死体の腕を咥えてきたとか書かれてるし
綺麗なのは本当に一部の高級住宅街だけだろう、人口密度も半端ないし
マルティアリスも夜間に窓の下を通ることの危険さをその詩の中で皮肉ってる
409 :
世界@名無史さん:2010/06/06(日) 18:22:17 O
きれいなねーちゃんと金目の物略奪し放題www
>>410 おめでとう。
記念にホノリウスも連れて行ってくださいね!
412 :
410:2010/06/08(火) 00:59:56 0
よし!
これでローマ市略奪し放題だぜ!
413 :
412:2010/06/08(火) 01:01:40 0
とおもったら、先を越された!
アラリックのやつめ、クソ!
414 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 19:34:59 O
415 :
世界@名無史さん:2010/06/18(金) 20:40:07 O
崩壊の美学・西ローマ帝国
ローマで最古の12使徒聖画見つかる、レーザーで復元
http://www.excite.co.jp/News/odd/E1277268698511.html [ローマ 22日 ロイター] ローマ法王庁(バチカン)は22日、
ローマの地下墓地で見つかった聖画を最新のレーザー技術で復元したところ、
キリストの弟子である12使徒の顔を描いた最古のものであることが分かったと発表した。
このフレスコ画はペテロ、アンデレ、ヨハネを描いたもので、
存在自体はこれまでにも知られていたが、2年前に始まった修復作業の結果、
4世紀後半から5世紀初めのものであることが判明した。
絵は高貴な女性のものとみられる地下墓地の天井で見つかり、
直径約50センチの円形。使徒を描いた後世の聖画と顔の描写が似ていることから、
調査を行った考古学者は、その後の原型となった可能性があるとしている。
417 :
世界@名無史さん:
>>416 >4世紀後半から5世紀初めのもの
ちょうどテオドシウス〜ホノリウスの時代なんだな。