2 :
マスコット :2009/01/24(土) 01:14:41 0
俺ら極悪非道のアンゲロスブラザーズ! 今日も未来はないのに帝位争いしてやるからな  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ ∧_∧ (・∀・∩)(∩・∀・) (つ 丿 ( ⊂) ( ヽノ ヽ/ ノ し(_) (_)
初心者向けにお勧めの本 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社学術文庫) 井上浩一ほか『ビザンツとスラヴ』(中央公論新社 世界の歴史シリーズ) 根津由喜夫『ビザンツの国家と社会』(山川出版社)
4 :
世界@名無史さん :2009/01/24(土) 10:36:33 0
ビザンツ帝国史上で最もByzantineな陰謀や政変というと何だろう?
1乙
生意気なユスティニアヌスをシめてやるッ! 書記官であるプロコピオスが見守る中、制裁は行われた。 既にユスティニアヌスの口中ではナルセスの赤黒い怒張が暴れている。 「ベリサリウス将軍、陛下お尻がおねだりしているようですよ」 プロコピオスの声に応じて、ベリサリウスのブリーフから屹立した一物が顔を覗かせた。 ゆうに一尺はあろうかという業物に、恐怖に顔を歪めるユスティニアヌス。 しかし、その恐怖心とは裏腹に、ユスティニアヌスの肉棒は硬度を増していく。 −ユスティニアヌスにとっては、その恐怖こそが色欲そのものだったかもしれない…。 天を仰いだユスティニアヌスの頭皮を、プロコピオスが絶妙な舌技で剥いていく。 サーモンピンクの亀頭が徐々に姿を現すのと平行して、 ベリサリウスの淫槍がユスティニアヌスの菊門にねじり込まれていく…。 東ローマ帝国政府男性陣によるド迫力の4Pファック! だが、長い夜は幕を開けたばかりだ…。
すっごぉ〜いッ! 何回も失策しながらも皇帝をやめないッ、イサキオスーッ! なんという低脳 なんという浅知恵 まるで猿ですッ! 飛び出したのは…アレクシオス! ぬけたァーッ、単独走ですッ! 華麗だ、相変わらず華麗な裏切りっぷりッ! 滅亡! やったァー、コンスタンティノポリスを滅亡させましたァーッ!! アレクシオス「やったなイサキオス、またまた僕らのコンビで勝負を決めたな!」 イサキオス「うん! アレクシオス、見事だったよ、君の謀反は!!」 アレクシオス「ありがとう! だがイサキオス、君の愚策あっての滅亡さ!!」 イサキオスはアレクシオス5世によって殺される予定! かたやアレクシオスは依然として生き続け娘婿の足をひっぱり続けます! この東ローマ帝国崩壊ももこの二人あっての快挙! まさに我が国の汚点!! カリギュラより最悪です!!
とりあえず前スレ使い切ろうや
アレクシオスの対セルジュークの為の傭兵の要請が 何をどう曲解すると十字軍になるのかが分からん。
教皇としては、遠いビザンツまで兵を送るならついでにエルサレムを奪還しようと考えたのかもしれません。 建前上、ビザンツ支援で行くのでビザンツ側からの援助を受けることができますし、エルサレム奪還という旗印なら諸侯の協力も得やすいでしょうから…
>>13 >エルサレムを奪還
そもそも、エルサレムが教皇のものだった時期などあったのだろうか?
十字軍の時はエルサレム総主教がしばらくビザンツに亡命してたな
僕があああああ僕がああああああ悪いですうううううううでも僕のこのちっぽけな願いをかなえてくれない神様あああああああああ あなたも悪いんですううううううううううううううう
450年頃の十五万千二百ソリドゥスって、 現在の貨幣価値(円)に換算するとどれくらい?
自分が知る限りでは、教皇が傭兵派遣からエルサレム獲得に変更した理由は資料が無くてわからなかったはず。
古代・中世の金1gが現代日本円換算で3.6万円とすると、 ソリドゥス金貨(4.5g)1枚が16万円ぐらいかな
ソリドゥスで思い出したけど、いま六本木ヒルズでやってるGOLD展には何枚かノ ミスマ金貨が展示してあったなぁ。
24 :
世界@名無史さん :2009/01/26(月) 23:17:58 0
アレクシオス3世金貨とか無いの? ホノリウス金貨は見たことあるんだよな。
とりあえず、おまいら前スレ埋めろ
塩婆の続編がそろそろでるな。 ビザンツを不当に悪く言ってる気がする
29 :
世界@名無史さん :2009/01/27(火) 00:23:58 0
>>29 「秀逸な記事」に選ばれた記事は時々にトップに来るようになってるだけですが、何か?
というか今更wwwww
31 :
世界@名無史さん :2009/01/27(火) 02:35:32 0
ここの住人がその記事書いたんなら確かにめでたい。
>>32 いや、おれも東ローマ帝国とコンスタンティノープルがトップにきたとき、
真っ先にこのスレのことが思い浮かんだよw
34 :
世界@名無史さん :2009/01/29(木) 23:44:54 O
警報!守備隊、城壁につけ!
塩婆の新刊、いきなりコンスタンティノポリス落城、ビザンツ滅亡からはじまりやがる この婆・・・
>>36 ネタ切れなので自作の使い回しですね、分かります
Syrgiannesって中世ギリシア語の発音では「シュルギアニス」でいいのかな
>>37 自作参照タグの多いこと…
それを「森を見て木を見ない手法を採用した」とか言ってる
>>36 このスレ的にはイタリア萌え腐女子ということで
塩婆の新刊のせいでまたビザンツ帝国の評判が落ちた
>>39 やっぱりネタ切れか
大人しくルネサンス物でも書いていればよいものを
>>42 いや、実質ルネサンス賛美は相変わらずだよ、塩婆の新刊
>>43 だからルネサンスだけ書いてりゃいいんだよ
そのイタリア・ルネサンス自体が、ビザンツから古代の知識が入ってきたことの影響大なんだが
ルネサンスと聞くとデメトリオス・キュドネスのことを思い出して切なくなります
中倉玄喜著の新訳ローマ帝国衰亡史読んだが ユスティニアス帝以後コンスタンティノープル陥落まであらすじのみ 約10Pほどだったのには泣いた
ルネサンスと聞くと山田ルイ53世のことを思い出して切なくなります
塩婆ビザンツに触れなさすぎ超ワロタ。 さすがにソマリア海賊に便乗した形の論法は無理があったか。
大成建設がボスポラス海峡を横断するトンネルの建設工事を請け負っているね。 あそこは潮の流れが二つあって工事が難しいのだとか。
落ち目のビザンツスレw 塩婆の影響力大だな
>>50 ヨーロッパ側とアジア側の鉄道をつなぐトンネルだったっけ
一回映像で建設現場を見たが、潮の流れが速くて大変そうだった
ヨハネス6世の艦隊がえらい目にあったのもその所為か
ボスポラス海峡トンネル位置の潮流は二層になっており、上下で動きが違うと いうことがわかったそうで。 上部の潮流は秒速2mで動いていて、海底に近いところには逆向きの潮流が 秒速1mで動く難所。
深さ60m、60気圧の海水、さらに、ボスポラス海峡は潮流が激しい。 1453年の攻防においても、この海峡からの潮流が激しいため、この潮流が まっすぐに当ってくるマルマラ海側の城壁はほとんど攻められる心配をしていなかった。 だからわずかな兵で見張るだけですんでいた。 その潮流の速さは時速10kmと川に匹敵する速さで、船や重機から作業を しようとしてもみな流されてしまう世界有数の難所なのである。
ムラート2世の時代には、トルコ人はまだ海峡をわたるのにジェノバ人の力を 借りていた。 この時期、ジェノヴァ人は明礬の独占で富を築き、フォカイアに居留地を 持っていたが、後に両方とも失う羽目に・・・
そういやギリシャ神話のアルゴ船もこの海峡通るのに苦労したそうだなぁ
60 :
世界@名無史さん :2009/02/01(日) 14:44:16 0
ビザンツ贔屓の小説家さんていないの?
ビザンツは何度か敵に首都の対岸まで占領されてるけど、それでも首都が持ちこたえたのは 海峡を突破するのが難しいから、っていうのもあったのかねぇ
>>62 フヒヒ、おまいらを蛮族の生贄に捧げて生き延びますた。
ヨハネス6世カンタクゼノスの治世に、ジェノヴァVSヴァネツィア+アラゴン・ カタルーニャ連合王国の海戦がボスフォラス海峡で起きているよな。 ヨハネス6世が作った海軍は練度が低かったそうで。
セルビア人?とブルガリア人は歴史的経緯から今でも犬猿の仲のようだが、 ビザンツではなくセルビアも対立していたっけ?
>>65 ブルガリアとセルビアならバルカン戦争で対立してたっしょ
ビザンツ海軍というと、初期の「ギリシアの火」や「デュロモイ」が一般に 知られていて、中期〜末期はあまりパッとしないイメージだな。
>>67 マケドニア朝の頃まではそれなりの能力はあったみたいだけどね
じゃなきゃクレタ島奪回とか南イタリア遠征とか出来ないし
マヌエル1世がヴェネツィアに一泡吹かせたころが最後の花かな。
え、ギリシア帝国がヴェネツィアを艦隊戦で破った事ってあったの!?
マケドニア朝の主力は海軍より重騎兵だろ。 しかし鎖帷子装備の騎兵を重騎兵と言うのは違和感あるが。
>>71 主力はな
だからといって海軍力が落ちたわけでもない。
弱体化するのはノルマンが侵攻する頃からだろ。
じゃなきゃ、バシレイオス2世がシチリア遠征なんか計画しない
>>65 ドゥシャン大帝のセルビアとブルガリアで大会戦やってたねえ。
ブルガリア側にはタタール兵なんかもいたらしい。
>>71 13世紀までは西欧の重騎兵もメイル・ホウバークだけどね。
イスラム圏ではチェインの上にさらにラメラー装甲とか着けてたけど。
ビザンツでもあったような。
たしか「ロリキオン」がラメラーアーマーの事だっけ?
>>64 >ヨハネス6世が作った海軍は練度が低かったそうで。
練度が低すぎて戦う前に消滅。
1349年の春に、急ピッチで建造した9隻の戦艦と100隻の小型船で
ガラタのジェノヴァ人を攻撃しようとしたが、金角湾に入ろうとしたところで
突然強風が吹きつけてくると、訓練不足の乗組員たちは船が沈没すると
思い込んで退避し始めてしまった。
ジェノヴァ人は最初は何かの策略かと思ったそうだが、結局無人になった
艦隊を拿捕し、カンタクゼノス帝は和平を乞わなくてはならなくなった。
(Mark C. Bartusis "The Late Byzantine Army: Arms and Society, 1204-1453" pp98-99)
>>70 マヌエル1世がヴィネツィアに対し消耗戦に持ち込んだ。
撤退するヴェネツィア艦隊に、アンドロニコス・コントステファノス指揮する
ビザンツ艦隊が追いすがって次々に船を沈没させる。
ヴァネツィア艦隊が本国に帰国したとき、船の数は三分の一以下に減っていた。
この責任を問われたドージェのヴィターレ・ミキエルは、街頭で市民の一人に
暗殺された。
>>75 ギリシア人=海の民というイメージが強いが、この時代のビザンツ海軍は
そこまで落ちぶれていたのか。
>>76 ギリシャ人は独立戦争の際にオスマン帝国を海戦で破ってるし、
現在でも世界屈指の海運国である海の民の名に恥じない民族。
それがルネサンス頃にイタリア人にいいようにやられたのは、かなり謎。
漏れがビザンツ帝国について初めて知ったのは、厨房のこと、アリエノール・ ダキテーヌの伝記を読んだときだった。 十字軍が途中でコンスタンティノープルに寄ったときにこの国の存在を知った。 世界史の教科書には一応、東ローマ帝国という単語は出てきたが、その後この国が どうなったかなんて全然知らなかった。 日本の西洋史学は、中世では北西ヨーロッパの国に偏っているからな。
80 :
79 :2009/02/02(月) 18:49:42 0
×厨房のこと→○厨房のとき
>>78 バルバロス・ハイレディンもレスボス島の生まれだから、ギリシア人の血を
ひいていた可能性がある。
個人として有能なギリシア人はいくらでもいたが、そういう優秀な人材が
ビザンツ海軍には集まってこなくなっていたのかな。
ジェノバ人も、国が落ち目になった後も個人としては各国に雇われて活躍
している。
オスマン朝やアイディン候国のトルコ人が船団を組んでバルカン半島へ略奪遠征に行くときも 頭を剃ってトルコ人の髪型にしたギリシア人が大勢参加してたそうだ。
>>82 倭寇に参加した中国人も、月代を剃って日本人と同じ髪型にしていたとか。
明の官軍は、頭髪の薄い一般人を捕まえ、倭寇だと称して功績をあげようと
することさえあった。
ビザンツ海軍ってアホな大臣に骨抜きにされちゃったからね
>>78 独立戦争のときに海戦なんてあったっけ?
バルカン戦争でコンドリオティスが戦力で優位に立つオスマン艦隊を打ち破ったのは
聞いたことあるけど
86 :
世界@名無史さん :2009/02/02(月) 20:08:17 0
捕鯨に関するイギリスBBCのフォーラムの意見 本当にこんなものが掲載されてます
http://ampontan.wordpress.com/2007/12/27/bbc-inciting-racial-hatred-of-the-japanese/ http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7155255.stm http://jp.youtube.com/watch?v=v5LCzvMo6hU ・日本製品買うのをやめることにした。日本人は財布が寒くなったら国際世論に目を向けるだろう。
・捕鯨に従事する奴は全員国際法で取り締まれ。日本はpariah(不可触民)同然の国だ。
・広島と長崎を恨んでいるのかもしれないが、鯨を殺すのは見当違いだ。
・日本は戦後飢えたから捕鯨を始めて絶滅寸前に追い込んだ。文化的遺産というのはガセネタだ。
・日本人が「調査」の名目で1000匹ザトウクジラを殺すんだって。
じゃあ世界中のみんなで協力して1000人日本人を殺して調査しようか。だめかなあ。
・日本は科学的調査とほざいているが、デタラメだ。
なんで1000匹も殺す必要がある?一匹殺して調べれば残りは全部同じじゃないのか?
・調査だったら肉を食べるな。なんでスーパーで鯨の切り身が売られてるんだ?
・捕鯨なんてとうの昔に禁止された蛮習だ。何故日本人はそんな野蛮なことを続ける? 野蛮人だからか?
・鯨を魚と同じように殺すのは人間の驕りだ。彼らほど知的な生命体がこの地球上にどれほどいるというのか?
・世界で最も裕福な国々のなかの3国 日本・ノルウェー・アイスランドが
恥知らずな海のレイプを続けているのは永久の恥である。第3世界から肉を買う金くらいあるだろう。
・人類は進化の過程で様々な蛮習を捨ててきたのに、日本人だけは文化のアイデンティティーと主張して残虐な捕鯨を続けている。
・鯨は絶滅寸前で、サイズからして彼らを殺す人道的な方法はない。捕鯨はやめるべきだ。
・捕鯨は日本のイメージ悪化を進めるだけだ。日本人の無神経ぶりは南京大虐殺を否定する映画を作ろうとする極右分子にも現れている。
日本とドイツは好対照だ。ドイツは過去を正直に認め、虐殺を否定する奴は刑務所に入れられる。
しかし、難攻不落とはいえ帝国の歴史の中で何度も危機に遭い 最終的に邪教徒の手に落ちたコンスタンティノープルが 邪教徒の手に落ちて城壁が無くなった後は一回も落ちてないってのは皮肉だな。
オスマン海軍は、ギリシアが独立した後、「ルーム」(ギリシア人)を 海軍で用い続けるかどうかで悩み続けた。 できるだけムスリムを海軍で使おうとしてみたものの、内陸部から無理矢理 ひっぱってこられた連中は、それまで一度も海を見たことがなく、極度に 海を恐れ、すぐに船酔いするという有様だった。
89 :
世界@名無史さん :2009/02/02(月) 21:21:23 0
>>87 時代が変わったんだろう
欧州を震え上がらせたオスマンが晩年はイギリスの番犬だ
邪教徒だの聖地だのは関係なくなった
>>88 しかしアンドロニコス2世が海軍を縮小したときは失業した海兵たちが
イタリア商人やトルコ人のところへ行って雇われたりしたそうだ。
また一五世紀になるとパロイコス(農民)を海軍に使ったという記録も実際にあるらしい。
まあそういう事をやってたから
>>75 のような事になったのかも知れないが。
パレオロゴス朝海軍で当初海兵として雇われてたのはガスモウロイと呼ばれたラテン人とギリシャ人の混血民と ミカエル8世がモレアから移住させたツァコネス、またはラコネス(ラコニア人)と呼ばれた連中。 ツァコネスは14世紀になると記録から姿を消すが、わずかに偽コディノスが宮廷衛兵として言及している。 ガスモウロイはその後も史料に出てくる。でもアポカウコスと一緒にコンスタンティノープルで ヨハネス6世の支持者を虐殺したらしいけど、お咎めなしだったのかねえ。
>>84 そういえば近世以降のオスマン海軍も、しょっちゅう無能なカプダン・パシャ
(大提督)の弊害に苦しんでいる。
専制君主国は、有能な人物が出てくると非常にうまくいくんだが、無能な人間が
高位についたときの弊害も大きいような。
レパントなんかその典型だな。
領内にムスリム居住区の設置やカドゥ(イスラム法官)を置くことを認めるのって、 ローマ法上あるいは教会法上、適法なのかい?
>>95 ローマ法はイスラム成立前の法体系だから、端から想定外。
>>91 アンドロニコス2世は、父ミカエル8世の創設した海軍を強化する政策は
とれなかったんだろうか。
傭兵隊長ロジェ・ド・フロルを陸海軍総司令官に任じ、大公(メガ・ドゥーカ)の
地位を授けたが、カタルーニャ軍団を帝国内に招きいれたのは結局災いの種に
なったような。
>>96 dd
そうか、法の改正とかなかったのか…
最近、このスレッドス元気ないな・・・ 塩婆のせいなのだろうか・・・
なんというバルバロイ・・・
>>97 フィレンツェの年代記作者ジョヴァンニ・ヴィッラーニはロジェ・ド・フロルを評して
「コンドッチェリ(傭兵軍やその指導者)の父」と言ってるそうだ。
ルネサンス期を通じて雇い主にも危険な存在であり続けたコンドッチェリたちの
活動の原型がビザンツ帝国で行われたというのは面白い。
ミラノなんて傭兵隊長に乗っ取られてるしね。
しかしマジで書き込みが減ったな いや元はこんなもんだったけど ちょっと寂しい
どうせ来てもバルバロイなんだろ
>>104 そういえばイタリア人は外交もビザンツから学んだんだよなw
よく西欧人がビザンツ外交のことを狡猾だというが、ビザンツは異なる文明圏 に属する国家や民族を相手に外交を行っていたわけで。 近代ヨーロッパの外交というのは、共通の文明的基盤を持つ国々(政略結婚や 他国の宮廷への出仕、留学などのネットワークで結ばれている)に属する エリートたちによって行われていたという点で、決定的に違っている。
>>109 相手はムスリムだの、遊牧民だの、都市文明を知らない民族だの、そんなのばっ
かりだからな。西欧と同じ尺度で考えるのは無茶な話なんだよな。
どうみてもローマ末期の蛮族の外交の方が狡猾なワケだが。 ヴァンダル族とかどんだけ性悪なんだよ。
見地在住のローマ人を内政・外交顧問にしたりしていたけどね。 時代は違うがミカエル8世の外交手腕はマキャベリズムの権化だな。
>>107 「ビザンツから学んだ」っていうか傭兵部隊そのものはその頃既にイタリアでも使われてたよ。
ただカタロニア軍団はやる事があまりにも派手で無茶苦茶だった。
/:::::::::::::::::/|::::/ !:::::/ ヽ:::::::,、::::::::`"i!::::::::i. i::::://i::::::/ |_/ i:::/ |::::/!!'i::::::::::::}{:::::::::! `,::| i i'!:::l'"!/` !/ ‐i'/‐、i |:::::::::::i.{::::::::| ヽ!: !ヾ,,、-=、 ` ;;!'=、,.`i::/::::::i!ヽ;::::i /:::::lイ {ヾ';;;i ´{ヾ';;;iヾ!;i:::,r、i ):il ,/:::::::::!. ゝ-‐' , 丶--'、 //:lノ| ノソ' //|:/|:ヽ.'''''' _, '''''''' ;〃/::::::i 〃 |::i |::从`'‐、、,,___,,,、、-‐;'´::::/:::人ヽ、 ヾ !ノ ヽ;:::::::::;l {::::::ノノノ 丶ミ ´`,、、-‐"''´ `丶、:'ノ / ` '‐- 、、、、, `ヽ. / r i / / ,,;;;;;;::''' ! / ! :。: イ | / 丶、 :。: / ! / /| .イ i ( ヽi | ! \ / ! ,} \ / , i / / V / ヽ i ヘ ,! ! i \|/ ,i
イタリアの都市国家、たとえばヴェネツィア共和国の外交もカナーリ狡猾だと 思うけどな。 中世の西欧人(とくにアルプス以北の連中)は、良くも悪くも田舎者で単純だったから、 地中海世界のように、異なる文明・民族の十字路で生き延びるのがどれだけ大変な ことかということが理解できなかったんだろう。
>中世の西欧人(とくにアルプス以北の連中)は、良くも悪くも田舎者で単純だったから、 >地中海世界のように、異なる文明・民族の十字路で生き延びるのがどれだけ大変な >ことかということが理解できなかったんだろう。 それだと例えばエルサレム王国のネイティヴ(という言い方も変だが)である ティールのギヨームがその手のステレオタイプを書いてるのが説明できないんだがね。
ビザンツに限らず、文明の古い国の人間は狡猾だと思わないか? C国とかI国とか。 長い間に共同体が崩壊して、人間がアトム化しているのでは。
>>119 みんな十万馬力の力が出せるんですね、わかります。
I国とはインドかイラクかイランかイタリアかイスラエルか?
二千年くらいの歴史はある筈のJ国の外交力の低さは異常。
まあビザンツ外交も、いつも成功していたわけではないけどね。
ヨハネス8世パレオロゴスは、ムラート2世の競争相手である偽ムスタファを
援助したが、これは見事に失敗。
ムラートは偽ムスタファを打ち破り、いったん大軍を擁してコンスタンティノープルを
包囲する。
結局引退していたマヌエル2世が復帰して小アジアで反乱を起こさせ、オスマン軍は
いったん兵を引いた。
>>118 ビザンツ人が狡猾だというイメージは、西欧人だけではなく突厥(トルコ)人も
持っていたらしい。
ビザンツの使節が突厥の可汗のもとにおもむいたときに可汗が言った言葉。
「ここに私の十本の指があるが、ローマ人はこれと同じ多くの舌を有し、欺瞞と
偽証の言辞を弄する。現に貴下が私自身に言う言葉と私の臣下に言う言葉は
別物である。かくして諸国民は次々と諸君の背信的な雄弁に欺かれてきた」
>>124 あれはマヌエル2世が止めてるのに、ヨハネス8世が無理矢理やったからな
>ビザンツ人が狡猾だというイメージは、西欧人だけではなく突厥(トルコ)人も
そりゃ遊牧民には分かるまいて
>>120 じゃあ「ウトラメールで生まれ育ったフランク人」がいいか。
そもそも、謀略で大成した皇帝って パッと挙げられるのが、ミカエル8世と後は精々アレクシオス一世とゼノンくらいしか思いつかない。
狡知に長けたオデュッセウス
オスマンの跡目争いへの介入は、 ヨハネス8世・コンスタンティヌス11世は失敗したけど、 マヌエル2世は成功してるんだよな。 まあムスタファはアンカラの戦いで死んだとされてる人物なんだから、 そんな奴の偽物ではトルコ人もついてこないわけだ。
>>127 バシレイオス2世は武人のイメージが強いが、いろいろ策も弄している
131 :
世界@名無史さん :2009/02/08(日) 04:01:42 0
前半生は自身の権力掌握の為に露助を使ったし ブルガリアも正攻法で捻り潰したと思いきや意外にも まず工作活動で弱体化させてるからな。 でも、まぁバシレイオスが正帝になった頃って 帝国自体が何でもやり放題な上り坂だったからなぁ。
古代から続く、ペルシア人(アジア人)は女々しく臆病であるが、ギリシア人(西洋人)は 正々堂々たる野戦での対決を求め、そこで白兵戦を戦い、その訓練と勇気によって 勝利をかちとると主張はかなりあやすぃ。 ペロポネソス戦争の間、正面からの決戦といえる陸上戦は2、3回しか起きていない。 ローマ人も同様で、たとえばティベリウス帝は紀元16年に養子ゲルマニクスを ライン河彼岸の戦いから呼び戻した際、ゲルマン人諸族を同士討ちさせることが ローマの目的にいっそうよくかなうと考えた。 ちなみに、ビザンツ帝国の住民は、7世紀になっても、自分たちは敵対者である アラブ人とは異なり、堂々とした「西洋的」流儀の戦争をしていると考えていた。
133 :
132 :2009/02/08(日) 09:18:32 0
×勝利をかちとると主張はかなりあやすぃ。 ○勝利をかちとるという主張はかなりあやすぃ。
結局ビザンツは狡猾だの何たらだというのは、古代ギリシャ・ローマ以来の伝統の外交技術で あって、西欧の蛮族どもがそれを知らなかっただけだと
スペインには異端審問道が、 イタリアには宮廷道が、 フランスには騎士道が、 イギリスには紳士道が、 日本には武士道が、 ビザンツはついに何者もうまなかった・・・いまは全てがむなしい
ローマ道だろ
戸締りの大切さも教えてくれたよ
また下らない抽象論か
スターリニズムを経てロシアのプーチニズムに至る専制君主道が今でも 健在ですが何か。
ビサンツ帝国といえば正教会だろ
ブルガリアやセルビアは帝国を名乗って独自の総主教までもったのに もっと遠いロシアに比べて専制君主道がたいして根付かなかったな。
モンゴル時代ってロシアにとって黒歴史なんかな まだロシアはじまってないけど
ロシアは、ルースィ+モンゴル+ピョートルの西欧化で原型が出来上がった感じがする
ビザンツとロシアの専制君主制の最大の違いは、ビザンツの場合 無茶苦茶やってると誰かに倒されるようになってるところかね
>>145 ロシアを支配していたキプチャク汗国のハンは、実際のところ
イヴァン雷帝やピョートルほどの権力はもってなかったよ。
ハンの下に「ウルス・ベイ」という4大部族の長がいて、ハンの
命令文書にもウルス・ベイの印が押されてないと効力が
なかったほどだ。
ロシアで専制君主を意味する「サモジェルジェツ」は
アウトクラトールの直訳。
モンゴルが専制ってのはイメージ先行だろ。つまり西欧人の無知による偏見。 クリルタイ時代にしても分裂後の汗国並立時代にしても、むしろ分権的な体制だ。
ロシアの場合、ピョートル大帝の西欧化政策までは古典古代文化の影響が ほとんどなかったのがビザンツとの違い。 ヘシュカスモスは伝わったが。
>>151 それは有るな、ギリシャ・ローマ文化は全然継承してないからな
>>141-153 を見てると痛感するが、
やっぱり東ローマの後継はロシアだな
今後、ロシアが世界を征服すれば、再びローマが、ビザンツが蘇るというわけだ
ものすごい大雑把にまとめると コンスタンティノープルが征服されて、人文主義者は古典の再評価が進むイタリアへと向かった。 一方へシュカストたちは未開の森と荒野を求めてロシアへ向かったw
>>154 ロシアにはギリシャ・ローマ文化の伝統が無い
ローマ法の継続意識も無い
これでは駄目
158 :
世界@名無史さん :2009/02/08(日) 22:06:26 0
セルビアのドゥシャン法典なんかは、ユスティニアヌス法典の一部と判例集「シンタグマ」と ドゥシャン大帝が書いた補足的な法を合わせて編纂したものらしいが、ロシアではそういうことはしてないん?
ttp://www.law.hit-u.ac.jp/ILPR/H16_P3-3.pdf しかし、このキリスト教改宗は古来の法文化にさほど影響を与えなかった。
教会裁判所の管轄が及んだのは、家族法・相続法の領域だけだった。これらの
領域では、新たに設立されたロシア正教会がビザンツ法源の貧弱なスラヴ訳に
基づいて裁判を行った。さらに法源となったビザンツ教会法集は、あまり古典期
ローマ法と関わりがなかった。この寄せ集め的な法源を除けば、ロシアに対する
ビザンツ法ないしローマ法の直接的な影響は見当たらない。ビザンツ皇帝
ユスティニアヌスが制定したローマ法の集大成である市民法大全は、ロシアでは
実に17世紀まで知られていなかったのである。
とはいえ、ローマ法は多かれ少なかれロシアに間接的な影響を及ぼした。
何世紀もかけて、西欧型法システムの導入を通じて、ローマ起源の法規定の
あれこれが帝政ロシアに輸入されたからである。
いずれにせよ、西欧中世におけるような「ローマ法継受」は行われず、ローマ法が
古代からの共通の遺産となることはなかった。実際、ロシアの法発展は西欧・
中欧とは非常に異なっていた。教会が国家の支配下にあったので両者の間に
深刻な対立が生まれることはなく、(ノヴゴロドとプスコフを除けば)商取引
システムも都市文化も開花しなかった。
それゆえ、洗練された法システムを完成させる必要性がなかったので、ロシアでは
ローマ法その他の洗練された立法をモデルとする必要もなかったのである。
>法源となったビザンツ教会法集 「ノモカノン」とか?
ロシアなんて嫁貰ってローマを自称しただけじゃないか
突厥もどきがローマを名乗るのと同じくらい内実が無い
>>179 結局法的な継承性が全然無かったわけで、
>>154 は完全な嘘っぱち
オスマンのメフメト2世やスレイマン1世の「ルーム・カイセリ」と同レベル
漢室と通婚していた匈奴の劉淵が漢王を号するようなもんか
しかし >実際、ロシアの法発展は西欧・ >中欧とは非常に異なっていた。教会が国家の支配下にあったので両者の間に >深刻な対立が生まれることはなく、(ノヴゴロドとプスコフを除けば)商取引 >システムも都市文化も開花しなかった。 >それゆえ、洗練された法システムを完成させる必要性がなかったので、ロシアでは >ローマ法その他の洗練された立法をモデルとする必要もなかったのである。 それを言うならセルビアだって似たようなもんだぞ。 14世紀になっても北部ではキリスト教があまり浸透してない地域があったほどの片田舎だし。
>>2 ・・・まだ判らないのか!?
ローマを救う、帝国の御為と言い寄って来た連中はみな、バルバロイだったではないか!!
なぜお前が帝国を滅ぼせしめたか・・・よく考えてみよ!!
モスクワが第三のローマだというのは、李氏朝鮮の「小中華思想」と同じレベルでそ。 明が滅亡し、清が興った結果、 「中原の中華文明は明と共に滅び、中華文明の最優等生である朝鮮こそが正統な 中華文明の継承者である」 として、李氏朝鮮はは自身を残された唯一の中華文明の後継者と認識するようになった。
キリスト教圏に普及していた「ローマの滅亡と共に世界の終末が訪れる」という観念とも関係してるんじゃないかな。 コンスタンティノープルが陥落しても世界の終末は来ないが、かといって正教徒としてはドイツをローマと認めるわけにもいかないw
もしローマ帝国(コンスタンティノポリス政府)に何かあったりしたときには、外藩国たりとて、 あんたらがローマ帝国を再興しなさいよ。 …という名目で、皇帝の血縁者と婚姻関係を結び、准后待遇を貰って王位にハクを つける。 本来はローマ帝国に何かあるような事態は、考えていない。 モスクワ大公イワン三世にパレオロゴス家からソフィア公女が輿入れしてきた段階 では、もうその何かが起こってしまって、コンスタンティノポリス陥落、残存領土のモレアス公領も ほぼ制圧されてしまった状態だったが、この輿入れで、ローマを再興する者という 名目がモスクワ大公に与えられたことは事実。 ついでに言うと、オスマン帝国も、オルハン皇帝の正后がビザンチン皇帝ヨハネス6世 カンタクゼノスの娘で、同じように地位を得ていて、メフメト1世、ムラト2世は、 歳費を受け取る外臣という立場をとっていた。(実際にはオスマン側が圧倒的に強く、 ビザンチン側は朝貢国のようなもの) コンスタンティノポリスを陥落させた後には、ローマ帝国の後継者として振る舞い、 トレビゾンド帝国や東地中海の小国をローマ帝国再統一の名目でどんどん攻略して いたわけだ。
カリグラ「だいたいなんではるかに格下のアレクシオス3世なんかと比較されないといけ ないわけ?ここで比較された全ての皇帝に土下座して謝れよ。」 アレクシオス3世「はるかに格上の皆様と比較されることで自分を高く見せたかった んです。御免なさい。極悪非道のアンゲロスブラザーズの分際で身分を わきまえない小汚い私をどうかお許しください(涙)」 コンモドゥス「いいよ。お前の所業だってみんな知ってるし。おまえの裏切り 癖も有名だしな。」 ドミティアヌス「コンモドゥスさん、やめろって。いくらアレクシオスが全員道連れ低能皇帝で 有名だからって過去の栄光に浸る権利ぐらい与えてやれって。」 ホノリウス「しかしアレクシオスって本当にたち悪いよな。自分が負け組だからって人 の足ひっぱるなよ。」 アレクシオス3世「これからはローマ帝国のお荷物であり、最底辺グループの一 員であることを自覚して生きていきます。もう格上の皆様と比較 されることで自分を高く見せようなどという姑息なことはいたし ません。申し訳ありませんでしたー(土下座)」 イサキオス2世「もう帰るっぺ。弟よ。他所様に迷惑をかけてはいけねえっぺ。 修道院でも十分生きていけっるぺよ。いいかげん目を覚ませ弟よ! 我々最底辺グループには、最底辺グループなりの人生があるで。 負け組グループは競争社会の負け犬なんだっぺよ!人生の敗者なん だっぺよ!!」 アレクシオス3世「あ、兄貴ーー(涙)」 その後泣きながら愛情を確認しあうイサキオスとアレクシオスの姿があった・・・・
>>169 名目だけなら何とでも。実質的には、モスクワもオスマンも違うな。
>>170 全員大差ないじゃん
ネロがいないのがなんとなく気になった
ネロは別に暗君って程でもないし。 治世の前半は名君、後半は愛すべき大馬鹿君主。
>>108 世界史板のなかじゃ勢い有るほうだろ?
ちょっと目をはなしている間に次スレに行きやがって…
昔は、もっと緩かったなぁ
ネロは名君だろ
東ローマ人的にはネロとかどう思ってたんだろう。 そう言えば、東ではスエトニウスの皇帝伝みたいなの書いてた歴史家はいるの? 特定の皇帝の伝記を書いた歴史家はいたみたいだけど。
テオファネス
ドミティアヌスだって名君の誉たかいのに。。。。
>>170 封建時代には、その名目が大切なんだよ。
コンモドゥスの上を逝くバカ殿は居ないだろう。 あれで「専制君主」じゃなかったってのがまたすごい。
>>181 コンスタンティノス8世が剣闘士試合を復活させて自分も出た、ってプセルロス
は書いてるんだけど、あれも「名君の後の暗君」を強調させるために、あえてコ
ンモドゥスになぞらえた可能性があるな。
コンモドゥスはまだマシなほうだろw ヘラガバルスとかホノリウスのほうがひどい
>>183 ホノリウスはただの引き篭もり、ヘラガバルスは性同一性障害者だからな
まだイサキオス2世のほうがマシに見えてくる
じゃあアルカディウスは・・・?
東ローマ初代皇帝になんてこというんだ
>>187 でも存在感無いぜ。ホノリウスの方が馬鹿過ぎて有名な位で。
レオ1世までトコトン存在感無い皇帝が続くからなぁ>東
>>189 マルキアヌスは結構頑張ってるんだけどな
191 :
世界@名無史さん :2009/02/11(水) 19:21:21 0
ホノリウスは何故かスティリコをあぼーんしたけど アルカディウスは無能なりに傀儡に徹したからな。
やっぱり器が違うよ アンテミウスを信じ続けた兄と、 スティリコを抹殺した弟とじゃあ
>>193 アルカディウス、テオドシウス2世親子は基本的に重臣達に任せ切りだけど、
別に有害なことも何もしてないからな。
東ローマの一千年史はアルカディウスから始まるといっても過言ではないはず
テオドシウス2世治世下であの城壁は作られたんだし、 もっと評価されて良い。
>>195 過言だろw
そんなこと言ってる専門家誰もいないし
東ローマ歴代皇帝で唯一、教科書に出るユスティニアヌス1世。 しかし高山博東大教授も 「テオドラが死んだ後は大したことしてない」発言はいかがなものかと
トティラ、テヤを討ち取って東ゴートを征服し、西ゴートに侵入したのは テオドラの死後だろ。 高山先生ーシチリア 塩婆ーヴェネチア コンスタンティノープルの戦いはまだ始まったばかりだ…
もはやコンスタンティノープル派は井上先生だけか・・・
そういや井上先生が中世ギリシア語の発音をカタカナ表記するなら 「ビュザンティオン」でなく「ヴヅァンティオン」が近いって書いてたけどw 「コンスタンティノポリス」は中世発音ならどうなるん?
>>202 どこで書いてたんだ、それ?
ついに学界の第一人者がそこに踏み込んだか
高山先生は中世シチリア史が専門らしいね
じゃ次からスレタイは「ヴヅァンツ帝国総合スレ」でw
古典ギリシア語:コーンスタンティヌーポリス 近現代ギリシア語(カサレヴサ):コンスタンディヌポリス 現代ギリシア語(ディモティキ):コンスタンディヌポリ、コンスタンディヌーポリ 古典ラテン語:コーンスタンティーノポリス 英語:コンスタンティノープル ロシア語:コンスタンティノーポリ、ツァーリグラード トルコ語:イスタンブル 漢語:君士坦丁堡、君府
バールバローイ!アーッハハハーッ!
>>207 "Byzanz"はドイツ語だろw
もっともドイツ語読みでは「ビュツァンツ」だろうが
ノルド語 ミクラガルド
212 :
世界@名無史さん :2009/02/13(金) 01:05:16 0
コンスタンティノポリスっていつの言葉?
>>212 ラテン語綴りをローマ字読みしただけだろ
普通名詞としての「主人」に相当する単語は何だったんだろうか…
アドナイ
キュリオス
元々のギリシャ語である「デスポテース」 ラテン語由来である「ドミヌス」は 皇帝もしくはそれに順ずる爵位・君主号だったんだろうな。
>>208 現代ギリシャ語の発音だと、βはvかfだな。
wikipediaのコンスタンティノポリスの項目、 名称がコンスタンティノープルになってる。 元に戻してくれ。
>>200 日本中世史の大家、今谷明先生がビザンツに興味を持ったようです!
吉と出るか凶とでるか・・・
>>219 改名議論の時に参戦しなかったおまいが悪い
中世ギリシャ語派の尚樹教授でさえ「コンスタンティノープル」にしてる位だから、
最も一般的な呼称を採用しているといおう点では、むしろ趣旨どおりか
別にどっちでもいいけど。Wikipediaのああいう論争は、ビザンツの宗教論争よりも下らない。
ほとんどの人がコンスタンティノープルと学校で習っているわけで ヲタのこだわりでコンスタンティノポリスにされる方が一般人にとっては迷惑だろう。
>>223 ビザンツ学者ですら「コンスタンティノープル」にしてるのに、コンスタンティノポリスにこだわるのは
確かに一部の偏狭ヲタだけだろ。しかも、正確なラテン語発音でもないし。
ビザンツの宗教論争は一般市民を巻き込んでたコトに意味がある。
山川の改訂版世界史B用語集の、コンスタンティノープルの項目 解説では何故かコンスタンティノポリス
ネオローマと呼べ
ネタにマジr
俺ら極悪非道のアンゲロスブラザーズ! 今日も未来はないのに帝位争いしてやるからな  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ ∧_∧ (・∀・∩)(∩・∀・) (つ 丿 ( ⊂) ( ヽノ ヽ/ ノ し(_) (_)
アラブ人はクスタンティーニーアと呼んでいたようだな>コンスタンティノープル
>>231 「コンスタンティヌスの街」って意味だな
お、お兄ちゃんイサキオスは取れたの?
>>231 大体、13〜14世紀頃からペルシア語の歴史書なんかにクスタンティニーヤに混じって
「イスタンブール」とか「イスターンブール」とかいう言い方も出て来るようになる。
>ルーム・セルジューク朝末期とかイルハン朝時代にかけて
>>232 確かタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』に「ルームの王クスタンティーンが堅固な都市を
建設して、クスタンティーニーヤと名付けた」みたいなそのものずばりな説明がされて
いたと思う。
イスタンブルという最も有名な名前があるのに、
わざわざコンスタンティノープルと記述するのは、特に中世ビザンツ時代を強調したいからだろ?
だったら当時のギリシャ語発音に近いと思われる、コンスタンディノポリスとかコンスタンディヌポリスにしろ。
まあ本音ぶっちゃけるとコンスタンティノポリスっていう響きがかっこいいw
>>234 オスマン時代も正式にはクスタンティーニエだったしな。
大帝自身は「新ローマ」と呼んで欲しかったワケだが。
ギリシャ人ビュザスが建設したビュザンティオンの時代は大した都市でもなかったのか?
>>235 確かに
コンスタンティノポリスって名前が多数ある町の呼び方の中で一番かっこいいと思う
でも良く知らない人に言っても分かんないかも知れないからwikipediaなんかの多数の人が見るサイトでは
一番馴染みのあるコンスタンティノープルがいいとおもうよ
>>235 一般人の理解に配慮しない偏狭駄目ヲタ乙
専門家でさえやってるというのに
偏狭って言葉好きだね
レポート提出の時に「コンスタンティノープル」か「コンスタンティノプール」かド忘れして、 焦って苦し紛れに文中では「コンスタンティノポリス」で統一して提出した過去が・・ 一応ちゃんと点数貰えたので安堵したけど。
世界史上の地名・人名の日本語表記には慣例ってものがある アメリカ大陸に到達した航海者の慣例的な表記は、コロンボではなく、コロンブス 世界周航をした航海者の慣例的な表記は、マガリャンイスではなくマゼラン 蜀漢の都の慣例的な表記は、チョントゥーではなく成都 スオミの慣例的な表記は、フィンランド コンスタンティノポリスをコンスタンティノープルと英語読みで表記するのも それと同じことだろ
コンスタンティヌスが遷都の条件としたのは 地理的に守りに適しているコトと 将来に渡ってキリスト教の都として発展しうる可能性を持っているコトだったので ビュザンティオン時代はそう大した都市でも無かったのでは無いかと推測。
大した都市じゃなかったと塩婆さんの本に書いてなかったけ?
コンスタンティヌス1世の時代に人口が五倍になったとか言うね だから元はそれほどでもないんじゃないかな
>>245 元の市域は、いまトプカプ宮殿があるあたりの周辺程度の規模しかなかったらしい
ネオローマの呼称が定着していればこの国に対する後世の見方も変っていたのかな
>>244 塩婆さんのは小説であって歴史書じゃないんで……
フォカスまでは古代ローマの風習を守ってたのに・・・。
>>249 その後大変動が東から襲ってきたんだから、仕方がない
>>248 そして歴史学者は忘れ去られ、塩婆の令名だけが残っていく・・・世の中って厳しいねw
いや、さすがに井上浩一さんとか忘れられないんじゃね?
よっぽど売れる本を書いた人か、テレビに露出してる人でない限り、世間一般の人は 学者の名前なんて忘れたくても最初から覚えてないよ
それをいったら、どんな分野の学者だって一般人には忘れられてるしなぁ。 まあ学者と作家の住み分けってことでいいんじゃね。
そうそう。 学者で有名になりたいって思って研究に打ち込んでる連中は少数派だし・・・と信じたい
この前のノーベル賞の人らの名前ももう忘れられてるだろう
くらげはインパクトあったから覚えてるんじゃない?
ビザンツ帝国が1453年に滅亡せずにそのまま続いていたら、ヘレニズムとヘブライズムのどちらが優勢になっていたんだろうか? 教会史家のメイエンドルフが、 「ビザンツ文明は何世紀ものあいだ、『アテネ』と『イェルサレム』、翰林院 (アカデミア)と福音(ゴスペル)、古典古代の叡智とキリスト教的神秘主義の 知識(グノーシス)の直截性とのあいだの、解決しがたいジレンマのなかで 生きつづけてきた。ヘシュカスモス論争に参加した者たちは、このジレンマを 衆目にも明らかに突きつけてきたにすぎないのである」 と指摘している。
仏教徒のおれには関係ないね
ギリシャ人の国民国家になってたんじゃないですかね
コインをギリシア語で発行するんじゃなあ・・・ ローマ人には読めないしw
ローマ人の教養なめんな
紙幣を英語で発行するんじゃなあ・・・ 日本人には読めないしw って言ってるのと同じか。
>>265 古代ローマでは、文化的に先進国だったギリシャ語は上流層には必須の知識だっ
たからな。
西方でギリシャ語が解されなくなるのは、東西分割や西ローマ滅亡の後の話。
第二公用語みたいなもんだもんねぇ
古代ローマの支配層、知識人にはギリシャ語、ギリシャの古典文化は常識だった 訳で、実はビザンツ時代と変わりはない。 ローマの建国伝説だって、トロイが何だか分からなければ、理解出来るはずがな い。 ビザンツ時代の場合は、母語がギリシャ語の連中ばっかりだったという訳で。
西ローマの蛮人どもはギリシア語なんてしゃべれるわけねえだろw
おまいらだって喋れないだろうwww 何言ってやがる。
東ローマ=関東 西ローマ=関西
>>266 マルセイユとか元々ギリシャ植民市だったんだよな
∧_∧ ∧_∧ (・∀・∩)(∩・∀・) (つ 丿 ( ⊂) ( ヽノ ヽ/ ノ し(_) (_) ____ / \ / _ノ ヽ、_ \ / o゚⌒ ⌒゚o \ 今日もまた即位式で「市民(デーモス)」の一員として | (__人__) | 「ローマ人の皇帝万歳」と歓呼の声を上げる仕事が始まるお・・・ \ ` ⌒´ /
276 :
世界@名無史さん :2009/02/20(金) 17:58:23 0
ヴァリャーギ親衛隊 vs イェニ=チェリ軍団 のガチンコ対決が見たかったなぁ・・・・
もう、ビザンツの時代には即位式で市民にそっぽ向かれても皇帝にはなれたんだろ?
278 :
世界@名無史さん :2009/02/20(金) 19:39:16 O
>>276 タグマじゃなくて?
ヴァリャーギ親衛隊ってそんなに沢山いたんだっけ?
多くても数百人くらいの集団だと思ってた
281 :
世界@名無史さん :2009/02/20(金) 23:03:10 0
ギリシア語で「陛下」ってなんて言うのかな。
>>281 Μεγαλειότατε
だってさ
読み方はさっぱりだけど
μεγαλείο σου かもしれん
284 :
世界@名無史さん :2009/02/20(金) 23:31:16 0
>>282 >>283 ありがとう。カタカナにしたら
「メガレイオタテ」?
「メガレイオ ソウ」?かな。
大昔にギリシア語齧っただけで
今や文字すら読めないけど、「マジェスティ」の源流なのかな。
285 :
世界@名無史さん :2009/02/20(金) 23:36:03 0
「ローマ皇帝」はインペラトールだのアウグストゥスだの その他諸々の複合された語だと思ってたから 「それ一つで『陛下』と訳し得る言葉ってあるのかな」 と昔から歴史小説とか読んでて思ってた。
>>284 タダ翻訳のサイトで日本語の「陛下」をギリシャ語に訳しただけなんでよくわかんないけど
よくギリシャ語読めるね
うらやましい
下はレスの通り「マジェスティ」をギリシャ語に変換した物
Μεγαλειό τητα ムムム 別の翻訳を試してみたら微妙に違う結果に・・・
ギリシャ語版ウィキペディアの現在の日本の天皇陛下の記事を翻訳サイトとかにするとかけると Μεγαλει?τη? ο Αυτοκρ?τωρ Ακιχ?το τη? Ιαπων?α?. が、「日本の天皇陛下明仁」みたいね。 Μεγαλει?τη? 陛下 Ακιχ?το 明仁 Αυτοκρ?τωρ τη? Ιαπων?α?. 日本のアウトクラトール
カール大帝に関する本読んでたらさ、 大帝とイレーネの結婚話(ビザンツの史家テオファネスとかいう人が噂話を書き記したものだとか) のくだりで、 当時のビザンツの法律では三回目の婚姻は禁じられていたらしい、とか出てきたんだけど、 これってマジ?
>>289 テオファネス年代記だろ
正教会は婚姻は三回まで
カトリックは離婚した相手が生存中は再婚不可が基本
中川昭一”メテュソス”
後のレオーン6世だかがソレで問題起こしたよなぁ。 よく、ヘンリー8世の様な事態にならなかったものだ。
>>290 有難う
そうか、教会法の規定なんだ
しかし、ルイ七世、ヘンリー二世、アリエノールらの関係も相当なもんなんだな
カトリックの規定からすると
結婚3回までOKとかすげえww 正教会の制度は何と言うか、人間味があって良いね カトリックは再婚禁止とか、全司祭独身とか、高すぎる理想に現実がついていけてない感じ
まさか日曜に0レスとは思わなんだ
>>296 前は週単位でレスが付かないのも普通だった
>>295 の書き込みがつまらなさ過ぎたのがげんいんだろう
>>297 じゃあ逆になんで最近急に盛り上がったんだろう?
例の暴動でギリシャに注目が集まったからかな?
さんざんいじめられて絹まで取り上げられたリュートプラントはその後は何してたの?
>>300 ちがううううう
塩婆がまた東ローマを不当に貶めた本をだしたからだよ
そもそも、ギリシア人の皇帝って書いたのは故意になの?
>>304 リュートプラントが持ってって行った教皇の文書の話?
取り成すつもりで書いたんだから、素でギリシャ語喋ってんだからギリシャ人でしょ
位にしか考えてなかったんじゃない?
意図して書いたとしたら、それは取り成す気などまるでなかったとしか思えない。
まあ、自称ローマ人の皇帝に対して 「俺等もローマ皇帝名乗るんでよろしく」通達したら 嫌でも問題になるよな。 ギリシア人の皇帝云々は地中海の治安も保てないビザンツへの嫌味を 込めての意味合いもあると思う。
っつうかあの時代純粋なローマ人(ラテン民族)っていたの? 神聖ローマもイタリアの都市国家もゲルマン系じゃん
>>308 その通り。ギリシャ系はまだ古代末期にローマ市民権持ってた住民の末裔という
主張が出来るが(もちろんスラヴと混血したりしてるけど)。
>>295 そんなことだから、4回までOKの回教徒に首府を乗っ取られてしまう。
悔しがるギリシア人が釣れてるw
世界史板全体に言える事だけど 最近なんかみんな沸点低いな すぐ反応する
まともな人間が居なくなって厨房が溢れているだけだろw
この板のスルー力は昔から低いよ
>>315 みたいな、「まともな人間が〜」などと言い出す懐古厨がいるが、
実はどんなに遡っても、懐古厨の言うような「理想の2ちゃん」は存在しなかったという現実。
「昔は良かった今は〜」は、典型的な老化現象です。気をつけましょう。
昔は良かった。。。
>>312 わざと間違えて釣ろうとしてるのかと思ったらマジで間違えてるのかwwwww
俺ら極悪非道のアンゲロスブラザーズ! スレが衰退しようが帝位争いしてやるからな  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ ∧_∧ (・∀・∩)(∩・∀・) (つ 丿 ( ⊂) ( ヽノ ヽ/ ノ し(_) (_)
>>317 コンスタンチノープルと呼ばれていた頃は良かった。
今はイスタンブールと呼ばれているそうじゃ。
>>3 でお勧めされてる
「生き残った帝国ビザンティン」と「ビザンツの国家と社会」買ってきた
他にもお勧めがあったら、教えてください
>>323 >>3 のもう一冊
それと絶版だけど那谷敏郎「紀行 ビザンチン史」も個人的にはお勧め。
紀行文と歴史が入り混じった記述で、楽しく読めた。
アマゾンで安く手に入る。
実は、井上浩一「ビザンツ皇妃列伝」が一番のお勧めなんだが入手困難。
>>323 中央公論「世界の歴史11 ビサンツとスラヴ」をお薦めする
「昔は良かった…今は…」と呟きながらできることをやり尽くしたのが まさにこの「ローマ帝国」なわけだが。
>>324 皇妃列伝は古本でも手に入れにくいよな。名著なのに
>>323 「ビザンティン建築 (図説 世界建築史)」 もいいよ。
帝国の息吹を、残された建築物の写真から感じとることができる。
あと意外にお勧めなのが 「ヴァリャーギ ビザンツの北欧人親衛隊」
ビザンツ帝国を取り巻く異民族の状況と、帝国の巧みな対応策が窺えます。
今の混迷した日本にこそバシレイオス2世の様な人物が必要。
なんで? バシレイオスは今で言う脳筋なんだが?
危機的なときにこそ我々のような名君が現れるものだ  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ ∧_∧ (・∀・∩)(∩・∀・) (つ 丿 ( ⊂) ( ヽノ ヽ/ ノ し(_) (_)
332 :
323 :2009/02/28(土) 22:41:27 0
みなさん、ありがとうございます
高校の世界史の教科書を読みなおしてるのですが
1000年も続いたわりに教科書では数ページしか記述されてないし
皇帝もユスティニアヌスとレオン3世しかでてきません
なので、もっと詳しく知りたいと思ったのです
>>328 興味深いですが、高いw
お金がないので、新書か文庫しか買えません><
>>332 貧乏な蛮族に偉大なる東ローマの歴史を知る資格などない!
何を言いますか、貧乏帝国が
>>332 図書館にリクエスト出してみるのをお勧めする
>>335 つまりどっちもどっちなんですね。わかります
っていうか、アンゲロス朝末期のgdgdっぷりを全く笑えない状態にあるな。我が国は。
流石の我が国も、官位を売り出す程には堕ちてないだろ。
買ってリターンが期待できる官位なんてバレオロゴス時代にはもうないだろ 売れないものは売りに出せない これ経済の鉄則ね
>>338 井上先生によれば官位の販売=国債発行みたいなもんだからな。となると・・・
341 :
世界@名無史さん :2009/03/01(日) 15:12:03 O
アメリカか
>>308 >イタリアの都市国家もゲルマン系じゃん
えっ!?
そりゃたしかにゲルマンと混血はしてるだろうけど・・・
オストロゴート族も、ロンゴバルド族も 都市付近の城塞に住居を構えて都市内部には住み着かなかったっていうけど。 だからイタリアの中世は、都市市民VS城塞貴族、ラテンVSゲルマンが続行中で 中世が終わりに近づいて城塞が都市に融合されていく形で進行した・・・ って何かの本に書いてあった気がする。 それに、帝国最大の敵ヴェネツィアはゲルマン系じゃないだろ
>>343 敵って言っても、元々は帝国の属領扱いだからなぁ
ヴェネチアこそ西ローマ帝国の後裔。 城壁の中でビビってたトラキアのヘタレとは違うのだよ。ヘタレとは!
小沢の無軌道ぶりと、剥き出しの権力欲は確かにアレクシオス3世に通じる物がある。
>>345 ヴェネツィアも、中世前半は干潟に篭ってただけですが何か
>>347 まるでラヴェンナのホノリウスみたいだなw
どれ を せんたくしますか ? ⇒ちから を ためる どれい に なる ばんぞく と いっしょ に りゃくだつする
>>347-348 ヴェネツィアが東方に向かって拡大していくのは、バシレイオス2世の金印勅書で特権を得てからだからな。
今にして思えばそんなもんくれてやらなきゃ良かった気もするが、それは結果論でしかない罠。
>>349 エリコ・ダンドロ
ちから を ためる
どれい に なる
⇒ばんぞく と いっしょ に りゃくだつする
イサキオス 2せい アンゲロス「ついに ねんがんの ていいを てにいれたぞ!」 アレクシオス アンゲロス そう かんけいないね ⇒ころしてでも うばいとる きょうどう こうていに なろうじゃないか
イサキオスの売官は優秀な官僚機構を解体させる切欠になったけど 日本で売ってる官位って公立の教師とかそんなのだしなぁw
国営事業の払い下げ 最近だと郵政なんかがそれにあたるんじゃないのか
>>353 まあ、無理矢理当てはめてもしょうがない訳で
今年って世界創造紀元暦で何年?
>>355 元年が紀元前5509年だから…
ただ、ビザンツ時代の暦法って9月はじまりなんだよね
古代ローマ時代には3月はじまりだったが、いつ変わったんだ? (septemberはラテン語のseptem、7番めのという意味) 西ローマスレが結構伸びてるな。 ビザンツがローマか否かで論争してたのは、片方はここの住民じゃないのか?w
537年から公式に9月はじまりになったようだ。 15年周期インディクティオのはじまりが9月からだし、ユダヤ暦でも新年(ロシュ・ハシャナ)は西暦の9月ごろらしい。 世界創造紀元暦が公式に採用されたのは988年からだが、3月25日を年初としている年代記もある。
>>357 西は見てないけど、どうせ論拠がババアだろ?
今では西側世界は9月が年度初めだよなぁ?確か。
西スレは完全に蛮族史観に支配されてる。
>>361 百年持たずに蛮族に滅ぼされた国だから仕方がない
どうせ、ビサンツ史なんか知らない無知蒙昧なバルバロイどもしかいないんだろ
363 :
世界@名無史さん :2009/03/03(火) 00:26:28 0
スティリコマニアとアエティウスマニアとシアグリウスマニアが共存しています。 アンゲロスブラザーズのポジションはホノリウスが占めています
>>363 まあ、ブラザーズとホノリウスじゃ同じようなもんだな。
ラヴェンナに引き籠もってたホノリウスに比べれば、ブルガリアへ親征したィサ
キオス2世の方がやる気だけはあったが。
アレクシオス「ん?鶏のコンスタンティノスが死んだだと?」
たしかにアンゲロスブラザーズには、やる気だけはあったと思う。
やる気だけは、な。
サラディンとの同盟はバレさえしなきゃ会心の策だったんだろうなぁ。
一度首都を奪われ領土も大幅減、身内の争いで内部もズタズタな パレオロゴス朝がなぜ一番の長命王朝になりえたのか正直よく分からない もう手遅れになってからは色々頑張ってた感はあるけど…
コムネノス朝のころから帝位にも血統を重視し始めたこと、 領土が小さくなりすぎて、有力者や大貴族が没落というか消滅したこと、 位置的にセルビアやイタリア諸都市、オスマンなどの緩衝地帯化したことなどがある。
戦後東西冷戦の中で日本が独立できた事情に似てるな まあ当時の方がより複雑で切迫した勢力バランスがあったと思うが
バシレイオスやマヌエル・コムネノスに比べても、 マヌエル2世は過小評価のような気がする。
>>372 結果が出せない状況だから仕方がない
ランシマンだか誰だったかの「良き時代に生まれていれば…」がやっぱり的確だな
よき時代に生まれてたら、コンスタンティノス7世みたいなことになりそうだが。 何だかんだで文人皇帝だったから。
アントニヌス・ピウスは大したことをやっていないが、 いい時代に皇帝になったから賢帝扱いだものな。
治世が短かった故に名君扱いされたティトゥスもいるぞ。
イサキオス2世も時代が良ければ… 弟はいつ出てきてもダメだろうが
治世が短くてもカリグラとかヘリオガバルスは…
次期皇帝を指名しただけで賢帝と呼ばれたのもいるな。。
ネルヴァのこと? いいんじゃないの? それが彼の役割で、それをきっちり果したんだから。
バシレイオス2世みたいに偉業を成し遂げながら、後をちゃんと決めておかなかった ばっかりに台無しになっちゃったのとどっちがいいのやら…
後継者育成とか後継者選定は絶対統治者の義務 それを果たさなかったバシレイオスは所詮、政治家ではなかったってことさ! ただの優秀な軍人にすぎない
ゼノンもアナスタシウスもユスティニアヌスも特に後継者の選定はしてないけどな。
つか、弟のコンスタンティノス8世とそのバカ娘がいたわけだから、バシレイオス2世が この時点で別の後継者を指名したりしたら、それはそれで、ビザンティン帝国お得意の 内紛になってたかもしれないんじゃね?
>>382 内政もガンガンやってたけどな
>>383-384 姪に良い婿を用意しておけば良かったんだよ。
初期は元老院が実体のある機関だったから、後継指名しなくても元老院が決めた
が、この頃は元老院議員が高官の称号化してたからな。
まあ無能とはいえ、コンスタンティノス8世が後継者くらい決めてくれると 期待してたのかもな。
一応あのバカ弟もフォカス家の内乱を鎮圧するのに活躍したんじゃなかったっけ?
>>387 プセルロスによれば、バルダス・フォカスを最後に討ち取ったことになってる
事実がどうかは別だが
>>382 至高の皇帝トラヤヌスだって奥さんが切れ者の謀略家じゃなかったら賢帝と言われてなかったかもな
東ローマがアルカディウスから始まると仮定して 至高の皇帝は誰だろうか・・・ やっぱりバシレイオス二世か、ミカエル8世か、誰も居ないか・・・
なにをもって至高とするかによるだろう 単に領土を拡大した皇帝ならユスティニアヌス1世の方がバシレイオスより上だ
じゃあ、バシレイオス2世とヨハネス2世ならどっちが上と思うよ?
俺が高く評価するのは ヘラクレイオス ニケフォロス2世 アレクシオス1世 マヌエル2世
394 :
393 :2009/03/07(土) 14:48:34 O
テオドロス1世 を追加
395 :
世界@名無史さん :2009/03/07(土) 15:06:23 0
ヘラクレイオスはいらないだろ。 帝国が危機に陥ったのは、コイツが反乱起こしたからだし 姪と結婚とかアリエナイ。 アレクシオス3世以下だ。
>>396 反乱を始めたのは親父ですが何か?
そもそもユスティニアヌスのせいで国力を消耗したのが、その後の衰退の原因だろ。
ユスティニアヌスはビザンツ皇帝に入るのかしら
>>398 入るといえば入る、入らないといえば入らない。
コンスタンティヌスは? 図書館にあった昔版の山川の東欧史だとここから中世ローマ帝国のくくりになってるけど
どこまでがローマ帝国でどこからがビザンツ帝国かってのは人によって違うし コンスタンティヌスから入れてもいいんじゃないのか?
ユスティニアヌスをビサンツ皇帝と呼ぶのは違和感があるな。 彼の政治目標はローマ帝国の再建だったわけだし。
在りし日のローマを取り戻すのは歴代皇帝の野望として当然あっただろ。 ユスティニアヌスに限らず。 じゃなきゃ、ユスティニアヌスが後の帝国の精神的支柱にはなり得ないし ラヴェンナが陥落して大分経ってからバシレイオスがイタリア侵略なんか始めないし マヌエルが変な電波を受信したりはしない。
アルカディウスからはキリスト教化された東ローマ帝国 ヘラクレイオスからはキリスト教化されたギリシャ人の中世ローマ帝国=ビザンツ帝国
結果はともかく、ユスティニアヌスは偉大なローマ皇帝だった、かもしれない。 すくなくとも、夢を見させてくれました。
頑張ったのはベリサリウス、ナルセス、ムンドゥス、と言った 武将や大臣たちだがな。
クルクアスとかムンドゥスみたいなビザンツの著名な人間を知るのに良い資料ってないかな?
>>406 ナルセスはとんでもない奴だぞ
職権乱用による横領とか
現代日本の公務員と大差ないじゃん。
水心あれば魚心といいますが、どんな名将、至高の将軍でも 煙たがられて政治的に抹殺されれば、それでおしまいですからな。
ユスティニアヌス自身も優秀だぞ。 反乱を乗り切り、長年にわたる征服戦争や建設活動を行いながらも、 寿命まで帝位を維持できた。 側近や高官もそれなりに忠誠心を持っていたようだし。 マヌエル1世もそんな感じだ。
そうかなぁ まあ、あの国で長年、権力を維持できたって点は確かに評価すべきかもしれないが ニカの乱でテオドラに発破かけられなかったらあっさり諦めてたと思うと、権力者として さほど優秀な奴でもないような気がするんだが 悪くもないが良くもないってところじゃね? たまたま部下や状況に恵まれていい結果を残せただけで
結果よければオーライじゃんよ 能力が高くても結果として国を滅ぼしかけるやつもいるし
部下に恵まれていたというのも、部下を活用できた幸運と才能を誉めてもよいと思う。 ベリサリオスに対する処遇だけはみんな納得できんだろうけど
ビザンツで抜きん出た将帥はユスティニアヌス帝治下のベリサリウスとバシレイオス帝没後のマニアケス 2人とも東へ西へ奔走して数多くの勝利を得るが 2人ともその成功と名声を嫉まれベリサリウスは失脚、マニアケスは讒言により謀反人の汚名着せられ謀殺 最後は悲惨だが、ビザンツらしいと言えばビザンツらしい帰結だ 特に後者のマニアケス死後は東西の戦線で破綻し、アレクシオス1世即位まで帝国は凋落の一途
ユスティニアヌスは結局、無理して領土拡大したり建築しまくったりして、 そのツケを全て次代に回したって印象だなぁ
このスレでは評価が低いがローマ法典の編纂に一度は統一ローマを再現した事実は この国を単なる東欧の大国として見るならともかくローマ帝国として語るなら外す事のできない業績だろう
>>419 むしろ彼のせいでかえって古代ローマ帝国の解体を招いたから、評価が低いんだろ。
ユスティニアヌスがいなかったらビザンツのアイデンティティも危うくなるよね
功罪の両面とも大きかった皇帝ってことか
ユスティニアヌスはイスラムの栄光の立役者。 イスラムに苦しめられ続け、最後にトドメをさされた帝国 東ローマの苦難はユスティニアヌスから始まったのだ。 だから帝国を語る時は、ユスティニアヌス以後800年以上生き延びたのはなぜか、 という点に注目するのが楽しい。
>>422 それが妥当だな
とにかくユスティニアヌス抜きには語れないのは間違いない
話断ち切ってすまんが マヌエル1世がセルビア軍を破ってステファン・ネマーニャを虜囚とし帝都に連行し 帝都で作られたばかりの戦の経緯を示したレリーフを見せつけたのが1172年 しかしネマーニャがセルビア王を自称したのは1171年 ネマーニャ朝はネマーニャが捕われても継続している ということはマヌエルがネマーニャが宗主権下にあることを認めさせ釈放したということ? で、その通りだと再独立はいつ頃になるのですか? これがそうだとマヌエルはちょっと安易過ぎるな 通常なら抵抗力を奪い王朝滅ぼし完全支配下に置かないとバルカン国境地帯が安定しないと思うのだが
426 :
世界@名無史さん :2009/03/09(月) 00:28:48 0
全てキリスト教が悪い
>>425 >>これがそうだとマヌエルはちょっと安易過ぎるな
>>通常なら抵抗力を奪い王朝滅ぼし完全支配下に置かないとバルカン国境地帯が安定しないと思うのだが
ケースバイケースなんじゃないですかね
>>423 >ユスティニアヌスはイスラムの栄光の立役者
???
ユスティニアヌス1世の時代にまだイスラム教は存在しませんが?
マヌエル=コムネノスとユスティニアヌスは 小泉純一郎や足利義満と印象が被る
>>429 たぶん功罪の話だろ
ムチャして西に攻め込んだりしたせいで、
100年後のイスラムの攻勢に対応できなくなったという
どう考えても、イスラムの栄光の立役者はヘラクレイオス
そんなこと言ってはヘラクレイオスが気の毒。 ペルシャ、アラブ相手にがんばったじゃないか。 古代ローマ最後の名君と言ってやりたい。 でも近親結婚はイクナイ。。。
ヘラクレイオスは健闘した方じゃないかな
近親結婚が気持ちよくないワケがない
コンスタンティヌスは カトリックでは聖人ではないが、正教では聖人 やはりビザンツの始祖はコンスタンティヌスか しかし 帝都コンスタンティノープル 国教キリスト教 言語・文化ギリシャ にくくられると ユスティニアヌスになるのかな 古代ローマ帝国の伝統である帝都民に対するパン配給やめたし
兄弟はともかく、いとこになるとほとんど他人だろ。
テオドシウス2世とエウドシアは怪しい!
パン配給はヘラクレイオス時代まで続いたろ。 しかもそれを穀倉地帯を奪われたからであって、 その後も競馬を開催したり、市民に金貨銀貨配ったりしていた。 それと、ユスティニアヌス時代はまだラテン語が公用語だろ。 ユスティニアヌス自身の母語もラテン語のはず。周りとはギリシャ語話してただろうが。
ユスティニアヌスの時代は市民がほとんどギリシャ語話していたから、彼らに分かりやすいようにローマ法大全はギリシャ語で書かれたんだよな
ラテン文字で表記、とかもあったんだろうか。
>>442 正確に言うと、ユスティニアヌス自身が出した勅令の部分だけね
それ以前の法律の部分などはラテン語。
あの競技場は馬上槍試合紛いの事もやってたんだよな。
>>420 ゴート戦争でイタリアを荒廃させた事よりも、バルカンのスラブ化を招いた事が、ローマ世界
にとって致命的だったようである。
かの軍人皇帝時代以来、バルカン出身者の軍事力こそがローマ帝国そのものだったとされる。
ユスティニアヌスとベリサリウスらもバルカン出身であり、彼らは自滅してしまったようである。
確かに今の複雑なバルカン情勢はユスティニアヌスにも一因あるな。 帝国がバルカンの防衛に注力していれば、スラブ人はゲルマン人のように 旧西ローマ領に進出していただろうな。
ユスティニアヌス即位時、バルカン西部は東ゴート領であったとされる。 東ゴート王国滅亡後、ビザンツ領へのランゴバルト族やスラブ人の南下を 遮るものはなくなったとされる。
>>448 スラブ侵入の前にバルカンに伝染性の疫病が流行り人口が激減して防衛力が弱体化していた
スラブ侵入時は既に東ゴート王国は滅亡していたはずだよ
スラブはアヴァールの隷属民として当初現れたからね
>>445 パレオロゴス朝末期にはヒポドロームで騎射をやってたそうだ
ハザールがいたからイスラム化を防げた
>>449 ウクライナ方面からモエシアへ南下しようとしたスラブ人らを撃退する事には、
ユスティニアヌス帝らは成功したとされる。
しかし、ランゴバルト族のイタリア移住後、アヴァール配下のスラブ人らが、
パンノニアからイリリアへ侵入、さらにバルカンを東南に進撃したとされる。
おそらく、東ゴート領であったバルカン西部には、城塞が充分に配備されて
いなかったからではないだろうか。東ゴート族は、自らの騎兵戦力に自身が
あったから、ローマ人のように城塞を熱心に整備する事はなかったであろう。
>>452 結局ユスティニアヌスが東ゴートを滅ぼしたのがいけない、ということになるような。
オドアケルが皇帝を名乗って テオドリックもそれに倣ってりゃ 滅ぼす必然性も無かったのかもね。
×滅ぼす必然性 ○滅ぼす大義名分 事故レスw
レオ三世 エロゲー法典
オドアケルが皇帝を名乗ったらソレはソレで帝位簒奪で やっぱりテオドリックを送り込む大義名分が立つから無意味。
西ローマ皇帝を存続させて実権を握ればよかったかもね。 天皇と征夷大将軍みたいな関係で。
>>453 ウクライナ方面のアント、スロヴァキア方面のスクラヴェンニ、スラブ人が二方向から
攻め寄せてきた事が致命的だったのであろうな。一方の撃退に成功したが、もう一方は
防ぎ切れなかったと言う事ですな。
後のヘラクレイオス帝が、東のペルシアを撃退出来たが、南のアラブを防ぎ切れなかった
事とよく似ていますな。
ビザンツが産んだものはなにもない・・・むなしさ以外
なんというバルバロイ!
アッララララーイ アッララララーイ アッララララーイ \\\\\\\\\\\\\ \ \ \ \\\\\\\\\\\\\ \ \ \ \\\\\\\\\\\\\ \ \ \ \||/||// \\\\\\\\\\\\\ \ \ \ { |┃|┃| } (・∀・(・∀・(・∀・(・∀・ )∀・ )∀・ )∀・ )∀・ ) 乙 ̄⊂( ´・ω)つ ̄乙 ── ─ ──────⊂ ||  ̄| ||  ̄| ||  ̄| ||  ̄| ||  ̄| ( ) し- し- し- し-\/ \/ \/ \/ \/
東西南北に敵がいるからねえ。要害コンスタンティノープルが無ければ 650年頃に滅んでたっぽい。
>>463 一々反応する奴がいるから楽しいんだろうよ
無視しとけばいいんだよ
>>459 ユスティニアヌスは対アヴァール防衛のためにクロアート族とセルボ族をバルカン北部に誘致したと思ったが
>>466 それは、ユスティニアヌスではなく、ヘラクレイオスだったはず。
ヘラクレイオスはカッパドキア出身なので、彼がバルカンよりもオリエントの
防衛を優先した事は、極めて自然ですな。
ユスティニアヌスは、スラブ人らを抑え込ませる為に、アヴァールをパンノニア
へ誘致したとされる。
アヴァールは、ビザンツ側となったアントを602年に撃破したが、自らの領民と
なったスクラヴェンニらを戦力として活用したので、アヴァールのバルカン侵攻に
ともない、バルカンがスラブ化していったとされる。
>>466 セルボイとクロアト(ホルヴァト?)はバルカンに入ってきた時はスラヴ人ではなくイラン系騎馬民族では?
晩年ユスティニアヌスは、東ゴートに代わってパンノニアの主となった ランゴバルトを牽制する為に、アヴァール&ゲピドと同盟していたとされる。 次帝ユスティヌス2世が、財政破綻の為にアヴァールらへの歳幣を減額すると、 アヴァールは、ランゴバルト側に寝返り、ゲピドを滅ぼしたとされる。 アヴァールを恐れたランゴバルトは、パンノニアを放棄して、イタリアへ 移住する事となり、ユスティニアヌスの成果の多くが失われる事となった。
ユスティニアヌスのバシレイオスも贅沢は慎んだらしいのに 何故ここまで差が出たのか・・・。 ハギア・ソフィアとかの所為か。
>>470 ゲルマン諸国との戦争を邪魔されない為に、ササン朝とかに多額の歳幣を支払っていたとされる。
金を払って解決というビザンツ根性が浅ましい! 祖国は鉄で蘇る!金は不要!といったローマ人の魂をなんでこいつらは忘れたの?バカなの?
ローマ人の魂なんかマリウス軍制改革の時に滅んどるわ。 むしろヘラクレイオス以降からバシレイオスあたりやラテンに挑んだラスカリス家、 オスマンに挑んだパレオロゴス家の方がビザンツ人なりの魂を作り上げていった。
アウグストゥスから最期のコンスタンティノス11世まで 連綿とローマ皇帝が続いていたわけだが 当時の帝国の公式に認められた皇帝でカウントするとローマ皇帝って何代続いた事になってるの?
アウグストゥスからとなると、公式かどうか微妙な皇帝もけっこういるから難しいな 複数の皇帝が乱立して争った時代もあるし
6皇帝とか、どう数えるんだか
>>468 セルボイとクロアトは、アヴァールの配下だったとされるが、アヴァールと
対立していたアントは農民化したスキタイ人だとされるので、ビザンツに
スラブと呼ばれた集団に、イラン系が混在していたらしい。
>>477 中国なら無理やりに正統と非正統を分けちゃうんだけどなあw
ちゃんとビザンツがドナウ川防衛線を守っていればこんなことにはならなかったんだがなあ なさけないギリシア人どもめ。
自称女帝のエイレーネは皇帝と見なすのか? 武則天もいるからアリか?
それにしてもエイレーネーはろくなことしてないな 他のはまぁ中継ぎだったからいいとして
>>481 一応どちらも即位してるし、皇帝とみなすんじゃないの
>>481 聖人なんだし、正統な皇帝扱いしてるだろ
彼女のせいで西に偽物を作る余地を与えてしまったが
概してビザンツの方が、同時代の西欧より女性の地位高めだよな
第七全地公会でイコン崇敬を認可したから聖人になったんじゃないか コンスタンティノス5世なんか軍人としては有能だったけど、 聖職者を敵に回したから「クソ野郎(コプロニュモス)」呼ばわりだし
エイレーネーが聖人なのは聖職者史観だからだろ。聖像破壊絡みの。 何しろ、名君コンスタンティノス5世が糞呼ばわりだからな。
結婚してください
聖職者ってシナの儒学者みたいだな
>>480 ユスティニアヌスらはギリシア人ではない。
ヘラクレイオスらもまたギリシア人ではない。
>>492 そういう論法だと
バシレイオス2世はアルメニア人ということになってしまう
>>492 バルバロイはスルーしる
何も知らないクズなんだから
>>493 彼の代まで下ると完全にギリシャ語が母語だしなぁ。
ギリシア人がしっかり国境を守らなかったために 大帝の生まれ故郷はバルバロイに占領されてしまったな なさけないなあ キリスト狂いの軟弱ギリシア人が帝国なんて作るからローマはあんなみすぼらしくなったんだ ギリシア人の罪は重い
愛と義に生きたヴェネツィア共和国の足を引っ張った老害帝国のスレはここですか?
愛と義(笑)
>>495 の内容自体は意外と正しいからな。
マンジケルトの裏切り者はギリシャ至上派が多かったし
>>500 バルカン駄目にしたって言ってる池沼に、アナトリアの話してどうすんだよ
ここの住民にSound Horizon「Moira」の幻想ギリシャは反感を買うのかまぁ面白いと思われるのかが気になる
>>454 オドアケルもテオデリックも皇帝とは言ってなかったんでは。
あくまでもローマ皇帝の代理でイタリアを統治するという建前であったはず。
ユスティニアヌスが東ゴートを滅ぼす大義名分は
皇帝から信任を受けていたアマラスウィンタが東ゴートの内紛で殺されたため。
>>503 だから、オドアケルが西の皇帝を名乗ってテオドリックがそれに倣えば違っただ
ろうに、って言ってるんじゃないのか?
なぜギリシア人はドナウ国境を守ることができなかったのだろうか? なぜギリシア人はペルシア人と分かり合えなかったのだろうか? なぜギリシア人は
とうとう壊れたか
世界史板とかこんなマイナーな板にも粘着はいるんだな どんだけ物好きなんだ
>>506 なぜトラキア人はドナウ国境を守ることができなかったのだろうか?
なぜカッパドキア人はペルシア人と分かり合えなかったのだろうか?
>>508 しかも、わざわざこんなマイナーなスレに来てるんだぜw
どんだけ基地外なんだか
>>509 首都がローマからコンスタンティノポリスに代わり
みんなローマ人じゃなくなったからだろう
ローマから移って僅か100年ほどで偉大な事業が破綻した事考えると
帝国の毒はキリスト狂と一番無能な信者であったギリシア人だとしか思えない
>>512 俺の古代ギリシャ・ローマの知識はゼロだ、まで読んだ
>>首都がローマからコンスタンティノポリスに代わり これだけで0とはいえまい。1くらいはあるだろ
フランク人の地はローマではない。
>>514 テトルキアの時代に既に実質的な首都の座はローマになかったし、コンスタンティ
ノープル開都から実質的に首都になるには60年かかったことがわかってないから
0.5くらいじゃね?
どう考えても、諸悪の根源はゲルマン人なんだけどな。 こいつらは偉大な文明を破壊しつくして世界中に今日まで続く差別と貧困と殺戮を撒き散らしただけだ。
違う。 キリスト狂が悪い。 そして一番の狂信者が多かったギリシア糞がもっとわるい。 ゲルマン人なんて所詮フン族に押されて出てきただけ。 彼らも被害者なのです。 それにその後の歴史を見ると、ゲルマン人なければいまの歴史は無かった。 印刷、ソーセージ、プロイセン憲法、ファシズム、ボディービル、SM どれも現代人の生活にはなくてはならないものだ。 ビザンツ帝国にはそのような美しき流れはない。
>>518 これはひどい釣りw
印刷以外全部無くても問題ないし、むしろ無いほうがいいものが多い
神聖でもないのにローマを自称するドイツ人帝国ですね。 わかります。
神聖でもなければローマでもなく、ましてや帝国でもないゲルマン人の国。
かつて拳闘士が戦ったり戦車競技が行われた闘技場で トーナメントや騎射の訓練をしてたビザンティン人は何を思ってたのだろうか…
一番いらないのはタタールとムスリムだよ
>>520-521 まあ、このスレではあんまり人のことは言えないけどな
ローマではないのにローマ帝国を称したのはビザンツも似たようなもんだから
帝国ではあっただけ神聖ローマ帝国よりマシだけど
いや、ローマだからw 東西分裂以降の東はローマじゃないとでも主張する気か?
ローマ帝国からの連続性はあるけど、だから同じローマと言うのは何か違う ユスティヌス朝あたりまではともかく、ヘラクレイオスあたりより後のビザンツをローマと称するのは 現代の日本国を大和朝廷と称するようなもの
>>518 ファシズム、ボディービル、SM 、皆古代ローマ由来なのではないだろうか?
古代においてはユダヤ教徒のような禁欲主義が少数派で、エラガバルス
みたいなのがアラブらしいアラブ人、地中海文化の主流だったとされる。
>>512 ローマ人=イタリア人という事ならば、むしろイタリア本国防衛の為には、本国以外を
放棄する事が当然だったであろうな。
西ゴート族にヴァレンス帝が敗死後、西ゴート族らにバルカンを明け渡した事であろうな。
ゴート族らがバルカンに建国したのならば、西ローマにガリア防衛の余裕も生じた事であろう。
東ローマは、再びニコメディアを都として、ゴート族やペルシャと睨み合う事となったであろう。
インディオにすら『飢えた豚の様に黄金を欲した』と言われたゲルマン人
ビザンツ帝国はキリスト狂帝国、 連中がローマを名乗ろうと、そんなの誰も相手にしないよw 東は東であって、ローマではあらず。 しかしローマの元老院議員も多くが新都コンスタンティノポリスに移住したらしいから断言はできない
バルバロイによる荒し、煽りは徹底スルーでおながいします。
532 :
世界@名無史さん :2009/03/15(日) 21:03:30 O
東をローマだなんて一部のビザンツ史研究者くらいの主張だよ 歴史的に無価値に近いビザンツ史を専攻してきて、 いまさらしまった!とおもった連中はローマとなんとか結び付けようとしているわけだ
つーか、西滅亡後も西に残ってた元老議員達が最終的に 移住してしまう、根本的な原因はバルバロイの所為なんだよな。
>>533 僕はビザンツ学者は誰も知りません、まで読んだ
ドイツ辺りにあったなんちゃってローマ帝国よりはローマっぽいだろ。
熊の第3のローマとか劣化突厥もどきのルーム・カイセリよりはローマっぽい
538 :
世界@名無史さん :2009/03/15(日) 23:55:14 0
>インディオにすら『飢えた豚の様に黄金を欲した』と言われたゲルマン人 スペインはゲルマン系じゃねーよ
>>533 僕の存在が社会的に無価値なのを後悔している、まで読んだ
つヴァンダル族→アンダルシア つ西ゴート王国
ローマらしさとは、血統に強く固執しないところでしょうな。 アケメネス朝、セレウコス朝、アルサケス朝、ササン朝、ウマイヤ朝、 アッバース朝、セルジューク朝、オスマン朝、ルーリック朝、ロマノフ朝、 ヤゲロ朝、ハプスブルグ朝、多くの帝国は王朝=国家ですな。
ローマらしさとは、ローマ元老院ならびに市民の原則が生きていること。 ここは譲らんぞ。
やはりヴェネツィア共和国こそSPQRの末裔なり。
まあ東ローマよりはマシだが。
>>542 腐れ婆乙
そんなもん古代後期には既に形骸化しとるわ
>>543 ローマの法体系使ってないからアウト
ただの干潟の引きこもり
古代以後から東ローマ滅亡までで、 ローマの法体系を継承して、しっかりと運用してた国って どっかあるか?
>>546 しっかりと運用してたってどういう意味で?
>>540 スペインは、カルタゴやアラブにも支配された事あるから、セム系だとかになってしまう。
>>543 ヴェネツィア人は、ラテン化したイリリア人だとされるから、前期東ローマの支配層らに
かなり近縁だったと言よう。
わざわざここに来るぐらいのアンチなら コンスタンティノープル=新ローマってな事は知らない筈ないだろ… わかっててあえて無視してんだろうな。
>つヴァンダル族→アンダルシア >つ西ゴート王国 馬鹿発見
>>550 アンチっていうか、ただの馬鹿だから分からないぞ
ローマ文明を滅茶苦茶やって滅亡させたゲルマン人は その約1100年後、メソアメリカ文明を滅亡させますた。
ヨーロッパ人=ゲルマン人とでも思っている中高生だろう、たぶん
ラス・カサスの著作の中で一番批判されてるのはドイツ人なんだけどな。
>>556 でもメソアメリカ文明を直接滅ぼしてはいない罠
ローマの後継がどうだとか、そんなことは小さな問題だ。 大切なのは、東ローマ帝国が専制君主制を元にしたとしても1453年まで生き延びたことだ。 この超長距離的な偉業を達成できた要因が何処にあったのか知りたい。 バルバロイがなんといおうと、滅びるその日まで、自分達はローマ人だと思ってたのだし。 1453年まで生き延びたその知恵と力を探求する事が、 歴史に学ぶということだと思う 栄光の東ローマは伊達ではない
俺別にローマの後継だなんだにこだわらなくても ビザンツはビザンツとして素晴らしいと思うんだけどなぁ 現代に生きる俺達まで建前を大事にしなくてもいいと思うんだけど
ヴァランガーて最盛期はいつごろでいつごろ廃止されたの
>>559 それがビザンツ好きの普通な見解だろうな
勿論古代ギリシャ・ローマの影響を抜きには語れないが、それとはまた別な魅力
があるからな。これは無知なバルバロイには永久に理解出来まい。
古代地中海世界の末裔にして正教会世界の始祖
キリスト狂的反人間主義の温床ww
>>559 しかし当のビザンツ人たちは最後の最後までローマに固執したという事実が
話をややこしくするw
ビザンツが古代ローマと大きく異なっていたことは、彼ら自身が一番わかっていたはず。
現実と建前の板ばさみに苦しみながらも、千年を生き抜いた。。
これこそビザンツの魅力であると思う。。
566 :
世界@名無史さん :2009/03/17(火) 08:10:21 0
>>564 苦しんではいないだろう、別に。
古代の偉業の上にあぐらをかいて武を怠り蛮族を左手から右手へ移し変えてただけ。
結局最後はもはや蛮族とはいえないトルコに滅ぼされたのは皮肉だ
>>566 >武を怠り
無知というのは本当に恐ろしい
>>564 トラキア人、フリギア人、カッパドキア人らは、民族意識よりもローマ意識、
ビザンツ意識を優先していたとされるが、スラブ人やアルメニア本国人は、
民族意識が強くビザンツ帝国併合に抵抗し続けていたとされる。
スラブ人は、キリスト教化したのにかかわらず、何故ビザンツに加わる事に
抵抗し続けたのであろうか?
逆にカッパドキア人らは、何故分離独立しなかったのであろうか?
>>568 古代ローマ時代に、先祖がいたかいなかったかの差じゃない?
後から来た連中には、ギリシャ人や小アジア、バルカンの先住民みたいな「偉大
なる古代の帝国市民の末裔」なんて意識はないし。
アルメニアは古代ローマ時代にも独立した王国だったんだから、ローマの下に入
る義理などない。
トラキア人やフリギア人らは、ギリシャ化していたとされるが、カッパドキア人らは マンジケルトの会戦当時になおギリシャ化していなかったとされる。 一方スラブ人の多くも、長期の異民族支配にもかかわらず、ギリシャ化、ドイツ化、 トルコ化等異民族に同化される事を免れたとされる。 アルメニア人とスラブ人は、自らの言語に極めて強い愛着があるようだ。
スラブ人というのもよくわからん民族だよな ケルトやゲルマンの時代には(記録上)影も形もないのに、山間地からぶらりと飛来 負けても負けても奴隷にされても何故か勢力だけは順調に拡大しているという…
おまえらゆるさん
>>571 いつの間にかユーラシアに広大な国家まで建設していたという…
スラブ人はアヴァールと同盟関係にあったが 従属同盟でスラブ人はアヴァールのなすがままであった 冬季になるとアヴァール人はスラブ人集落の家々に泊り込み スラブ人家族の妻や娘達を犯した アヴァール人が気に入ったスラブ人の女は春になっても アヴァール人が手放さず自分たちの集落に連れて行かれ 思う存分陵辱し孕ませてからスラブ人家族のもとに返した
>>574 それはここに書く話か?
全く無関係な訳でもないが。
576 :
梵阿弥 :2009/03/19(木) 20:28:53 0
>>568 既にヘレニズムが浸透してた地域かどうかの差だと思いますよ。
アルメニアの場合はヘレニズムも在りましたがイランの影響も強烈だった
>>576 アルメニア王家はパルティアの分家だしな
そういえばヘラクレイオス、バシレイオス1世はアルメニア王家の末裔を称して
るんだよな
578 :
梵阿弥 :2009/03/19(木) 20:50:29 0
>ヘラクレイオス、バシレイオス1世はアルメニア王家の末裔を称してる 本当ですか。知りませんでした。根拠をぜひ教えて下さい
>>578 バシレイオスについては、確かギボンが書いていた
ヘラクレイオスはどうだったっけ?
ランシマンが書いてた
>>578 :梵阿弥:2008/10/20(月) 19:46:33 0
東ローマ皇帝ヘラクレイオスは、アルメニアの名門アルサキド家の出身。パルティア王家アルシャクは
英語でArsacidと書くので同じでしょうね。66年にローマのネロに認定され428年まで続いた
アルメニアの王家アルシャクニはパルティア王家の分家でした。
ヘラクイオスはササン朝を目の敵にして共倒れみたいに成りますが、ササン朝はパルティアの仇でした。
猶、週間『シルクロード紀行』21-カフカス(グルジア/アルメニア)では、
アルメニア歴史博物館の通訳ガイドのダイアナ・アルシャクヤン氏の写真が「美女」の1例に載ってます。
思ったより丸顔な印象です。先祖はアルメニア/パルティア王家でしょうか。
刊行は終えてますが、朝日新聞社に在庫はあるようです。通販してます
話は別ですが
パルチア王族の子孫がローマ帝国で生きながらえていたのをご存知ですか?
とはいっても分家のアルメニア王家ですが
(AD53年にパルチアが王弟ティリダテスをアルメニア王位に就けた 〜428年)
つまり本家が滅んでも暫くはローマの支援で生き延びていましたが
ついにササン朝に制圧され王家はローマに亡命
王族の子孫は6世紀半ばのユスティニアヌス帝のゴート戦争で一時制圧したイタリア駐留軍の将帥の一人として
ギボンの書に登場してましたね
しかし運悪く蜂起し巻き返してきた東ゴートの新王トティラに討たれしまうのですが
まあトティラは他のイタリア駐留軍の将も次々破り、ついには常勝将軍ベリサリウスも破っているので相手が悪すぎましたね
梵阿弥:2009/02/19(木) 19:44:45 0
>>62 東ローマ皇帝ヘラクレイオスはアルサキド家の人ですが、アルメニア王家の裔
なんでしょうかね。アルメニア王家はアルシャクニと書く事が多いですが、
尚樹氏は自著の巻末でアルサキドと書いてます。
もし同じ家なら、パルティア王家の裔が東ローマ皇帝と成ったという事ですね
アルサケス朝→アルサキド dinasty
英語ウェブページではこの表記が多いですが、アルサキドという単語はおそらく、"アルサケスの〜"という意味で使われていると思います。
((すいません、アルサキドもローマ字表記にしようと思ったのですが、綴りarsacid?うろ覚えかつ近くにパソコンが無く〜))
でも、アルサケスという単語には、パルティア国王の称号になる以前に何か辞書的意味があったかもしれないので、
東ローマ皇帝の出自に関しては、断定が難しいと思います。
たまたま同姓なだけだったり(名字が鈴木の人が沢山いるという具合に
それから、アルシャク(ニ?)は、アルサケスのパルティア現地での呼称だったみたいです(ウィキペディア)
((ヨコモジアルサケスは千変かもです。シャー=ナーメの日本語約では、アリシュになってました。
梵阿弥:2009/03/19(木) 19:10:20 0
>>69 そういえばヘラクレイオス(イラクリオス)はアルメニア人説が有力です。書き忘れました。
尚樹 啓太郎氏の『ビザンツ帝国史』の巻末資料では「アルサキド朝」の歴代君主を載せます。
索引では、アルサキド朝 Αρσακιδαι 7,30,317頁と成っていて、
ギリシア文字で書くからにはギリシア語でもそう呼んでたんですかね。
そして、7,30頁に載るのはアルサキド朝アルメニア王国なんですが、
なんと317頁では、
カルタゴ総督イラクリオスはカパドキア貴族の出で、
アルメニアの名家アルサキド家の血を引く
と在ります。
「朝」「家」で違うのだから唯でさえ別項目にしても良いのに1つに纏めるからには、
同じ家と見ていると言えないでしょうか。
一方、同氏の『ビザンツ東方の旅』では、
ヘラクレイオスの先祖はアルメニアの名家アルサケス家の出であるといわれる
とあります。
同じ人が書いてるからにはアルサキド家はアルサケス家と呼ぶことも在るという事でしょう
梵阿弥:2009/03/19(木) 19:36:19 0
また、ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』では、
アルメニア人のヴァレンティノス・アルサキドス(アルサクニ)は
マルティナとヘラクロナスに対し小アジアで挙兵
と在り、ラテン文字ではValentinos Arsakidos です。CがKなのは著者がドイツで
活動した為でしょうか。これを見るとアルサキドとアルサクニは同じと判ります。
これが尚樹氏の『ビザンツ帝国史』では、Ουαλεντινοσ Αρσακιδοσ
です。彼も同族でしょうか。
アルシャクニというのはアルメニア風なんでしょうね。他にバグラトゥニ、アルツルニ、
アマトゥニ、ホルホルニといった家名が在ります。
鈴木氏の例えは不適切だと思います。何人居ようとも親を辿れば1つに成るからこその
同族意識な訳で。勿論建前ですけどね。
梵阿弥:2009/03/19(木) 19:52:09 0
>>73 シリア朝でも最後のレオン5世はアルメニア人です。アモリア朝の皇后テオドラや、その兄弟で、
甥のミカエル3世のカエサル(副帝)と成ったバルダネスもアルメニア人。この頃は他にも何人も
アルメニア人貴顕が居ますがパルティアとの縁は判りません。その点アルサキド家の人とされる
ヘラクレイオスと異なります。
アルメニア王家アルシャクニがパルティア王家の分家だからと言って、アルメニア王国人が
皆パルティア人になった訳じゃ在りませんからね。
現時点ではヘラクレイオス帝がパルティア王家の裔かどうかの根拠はこの場では足りない様です。
学問の進化に期待しましょう。既に結論が出てるかも知れないので見逃さない様にしたいですね
おう、これぞ偉大なるギリシア魂
>>581-584 の立派な検証を讃えたんだよ、行間の読めないヤツめ
そんなんだからお前には友達がいないんだ
>>587 586はともかく、見ようによっては嫌味言ってるように見えるぞ、
あれでは。
行間空きすぎ。というか言葉が足らなすぎ。
いいや、ギリシア魂があれば読めとれるはずだ どんな名文も所詮、読む側の素質に左右されるしかない 哀しいずら
>>589 そういうのを自己満足、一人よがり、オナニーと呼ぶ
>>589 「読めとれる」
ギリシア魂があるから、日本語が苦手なんですね、わかります。
おう、これぞ偉大なるギリシア魂
ビザンツ人根性とでもいうべきか
595 :
世界@名無史さん :2009/03/21(土) 02:22:21 0
ビザンツの著名人を知るのに良い本とかってないかな?
596 :
世界@名無史さん :2009/03/21(土) 04:19:14 0
敵の敵は味方という論法で、ビザンツ正教がスラブ民族に根付いたことについて もっと語りませんか
ビ、ビザンツ正教? このスレ的にちゃんとoρθοδοξίαにしとけよ・・・
ビザンツ正教って初めて聞いたな ググっても出てこない
言いたいことが分かればいいじゃない
良くない。 そういう表記の揺れを超えた新語氾濫は、 学問としての探求、趣味としての楽しみ、どちらにとってもバルバロイ化を招く
真にローマの魂を引き継いだのは、やはりトルコだろ。 ローマ式入浴文化が大輪のルネッサンスとなったのはビザンツ滅亡を待たねばならない。 コンスタンティノポリスの不潔なキリスト狂徒には偉大なるローマ文明が終に理解できなかったとみえる
クマー
>>601 またバルバロイが無知ぶりを自慢しに来たのか
速攻釣られてるあたりさすが釣り耐性の低さに定評の有る世界史板住人だな
>>604 釣るほうも言い返されてファビョったりするんだけどな。この板の場合。
まあオタクが集る板だからな。 反論したくなるのは仕方ないw ところで、聖使徒教会ってモスクに変わったが、 納められてる皇帝の遺骸は捨てられたんだろうか? 第四回十字軍に暴かれずに残ったものね。
>>606 イスタンブールのアナトリア博物館の庭に空の石棺が野ざらしになってたりする
から、捨てられちゃったんじゃないか?
それ以前にアンゲロス弟が墓荒らししてるし
>>603 ふふん、入浴文化を精神病で失ったギリシア人の方がバルバロイだな、トルコ的に言うとバルバル。
精神分裂病の帝国を埋葬したトルコは正しかった。
この結果、小アジアには歴史的活力が戻ったのも事実だから
>>606 世界史板はやたら偏ってる気がするよ
昔からこんなもん?
>>608 で、またしょーもない釣りか
マジレスしておくと、中世ビザンツ時代でも小規模な浴場はあったんだがな
>>610 馬鹿に馬鹿と言ってもしょうがない
無視するのが一番だよ
>>610 涙ぐましいじゃないの、「小規模」でっか。
敗北を認めたようなものですなw
コンスタンティノポリスのキチガイギリシア人どもに支配されていた人々が
トルコの支配に救いを見出したということも、さもありなんですね。
はいはいペストペスト
>>607 アンゲロスは金目当てだったしね。
まあ財宝が現在まで残るのは難しいだろうが、
遺体も残らず捨てられてしまったのは可哀相だな。
古代の皇帝たちは墓や遺灰が残っているのも多いのに。。。
栄華を極めた宮殿も皇帝の陵墓も今は跡形もなし。
まさに平家物語の冒頭だな。
>>615 ハドリアヌスの廟みたいに、完全に別の用途に転用されちゃったのもあるがな。
首都近郊の離宮も全然残ってないな。トルコの観光局のサイト見ても、各地の紹 介でほぼ必ずビザンティン時代の遺跡の紹介してるのに離宮はないし。 聖ママス離宮なんか、競馬競技やったって記録があるから、結構大きかったろうに。
ハルキ神学校もどうなることやら
>>618 最近のトルコはEU入りのためにビザンツの故地であることを強調する傾向がある
みたい(滅ぼしておいて、よく言うわ)だが、正教会は抑圧され続けてるみたい
だな。
欧州の保守派はキリスト教民主主義政党が多いから、そういうことをしているう
ちはEU入りは難しいだろうね。
永遠にムリっぽいな。 昔はウィーンを包囲し、今はEU内部でどんどん原住民の仕事を奪っている。 トルコが努力をすればするほど、嫌われてしまう。カワイソス
やっぱ欧州と比べると所得に雲泥の差がある上に人口はやたら多いからなぁ EU入りなんかしたら欧州に移民が殺到して大問題になっちゃうよ 今だって舟を漕ぎ漕ぎギリシャに密入国するトルコ人が絶えないって話だし
世界に数多興ったイスラム教国の中でトルコほど欧州に脅威を与え続けた国は無いからな コンスタンティノポリスが陥落した15世紀から18世紀までヨーロッパでトルコに並ぶ勢力は無かった しかもオスマン朝はスルタン=カリフ制でイスラムの盟主を称してた訳だし
結局ロシアの核とかでアナトリアを浄化する事になるのだろうな。 アメリカが黙認するのならば明日にも実現するであろうな。 武力によりなされた事が武力により解決される事はやむえまい。
あーあ、アンゲロス兄弟は帝都を相手に楽しんでいたってのに・・・ おれはなにをやってるんだろう
モレアの宮殿とかは廃墟が残ってるんだろ? そう言えば、ギリシアもギリシアでテッサロニキを奪回してるけど さほどこの街をウリにはしてない気がする。 まぁ、トルコの英雄ケマル生誕の地だしなぁ。 その割に、その生家は保存してたりするけど。
>>627 ギリシャ第二の都市で経済の中心
じゃなかったかな
629 :
世界@名無史さん :2009/03/23(月) 20:14:42 0
>>534 > つーか、西滅亡後も西に残ってた元老議員達が最終的に
> 移住してしまう、根本的な原因はバルバロイの所為なんだよな。
この辺の、西ローマ滅亡直後の様子について説明してる本ってあります?
東ゴート王トティラが、ローマから住民の多くを追い払ったとされるので、 当然その時にビザンツへ亡命した元老院議員がいただろうね。
>>629 うーん、軽い本なら「東ゴート王国興亡史」か?
632 :
世界@名無史さん :2009/03/23(月) 23:02:36 0
帝国領内には佐渡なみの金山があったのだろうか? 金貨や金製品をあれほど造るには、輸入頼みでは間に合わないのではないかと。
小アジア西部のフリュギアにはミダス王の伝説があるぐらいだし、リュディアでは最古のコインが造られた。 バルカン半島にも大きな金鉱山があり、トラキアやイリュリアでは黄金文化が栄えた。
セマ(軍管区)で最も貧困な階層から徴集された兵士をペニスといった
「徴集された兵士のペニスをとった」に見えた
>>629 一般に西が滅んだとされる時の著名人の反応。
ゼノン(東ローマ皇帝)『え?ロムルスって誰?』
シアグリウス(西ローマ軍司令官)『え?ロムルスって誰?』
ネポス(西ローマ皇帝)『ローマ皇帝は漏れだぞゴルァ!!』
各蛮族国家の酋長達『え?ロムルスって誰?』
サーサーン朝『興味ないね』
おまけ、ローマの支配から離れた時の各属州の住人の反応
ブリタニア『ローマに支配されてた時の方がマシだった』
ガリア『え?ローマじゃなくなる?嫌なんだけど』
アフリカ(返事がない、ヴァンダル族に虐殺された様だ)
ゲームのMedieval2TotalWarで「アレクシウス(コムネノス?)帝が 役人の孤児を集めて作った」アーコントポウライ って重騎兵が出てくるんだけど、本当にいたの?
不死部隊っていうゾンビ軍団ならいた。
>アフリカ(返事がない、ヴァンダル族に虐殺された様だ) 実際にはイスラムの支配下になっても10世紀頃までは 都市部でローマ文化が存続していたのだとか。
>>637 西欧人との混血の海兵隊ならいたそうだが・・・(ガスモウロイ)
>>639 ベルベル人らの抵抗により内紛状態だったので、ヴァンダル王国はあっけなく
ベリサリオスに敗れ去ったとされる。
ユスティニアヌスが派兵しなくても、6世紀中にヴァンダル王国はベルベル人
やゴート族らに滅ぼされていたであろう。
>>636 東ローマ市民「西側はバルバロイのせいでいろいろ大変だな」
西ローマ市民「誰でもいいからこの状況なんとかしてくれ」
>>641 ベルベル人って軍事的にはどうだったんですかね。
古代のヌミディア騎兵みたいな感じ?
有名なベルベル人 [編集] マシニッサ - ヌミディア王。 ユグルタ - ヌミディア王。 アプレイウス - ローマの作家。 アウグスティヌス - キリスト教の教父。 モニカ - アウグスティヌスの母。 アレイオス - アリウス派の祖。 ターリク・イブン=ズィヤード - アンダルスの征服者。 ユースフ・イブン=タシュフィーン - ムラービト朝の建設者。 イブン=トゥーマルト - ムワッヒド朝の建設者。 イブン=バットゥータ - 14世紀の旅行家。 アブドゥルカリーム - モロッコの反仏闘争リーフ戦争の指導者。 ジネディーヌ・ジダン - アルジェリア系フランス人のサッカー選手。 澤尻リラ - 女優沢尻エリカの母。 なんだかすげえな
後期ローマかビザンツでアラブ出身の将軍とかいなかったっけ
軍人皇帝時代はアラブ系皇帝とかいた希ガス。
フィリップス・アラブスだな だから、別にイリュリア人、ギリシャ人、アルメニア人が皇帝になってもどうっ てことない訳で。
五賢帝のうち三人はヒスパニア系だし、セウェルス朝は北アフリカ系やシリア系 トラクスはゴート人とアラン人のハイブリッド デキウス、ゴティクス、アウレリアヌス、プロブスはパンノニア出身 ディオクレティアヌスはイリュリア出身 ガレリウスやリキニウスはダキア人の農民出身 コンスタンティヌス大帝も母親はブリタニア人だ
トラヤヌスはトラキア、ハドリアヌスはアドリア海に因んだ名だそうで、彼ら自身の出身地は ヒスパニアであるが、元来の血統はバルカンであったらしい。 トラキア、イリュリア、パンノニア、ダキア等バルカンは、軍人、指揮官の宝庫だったとされる。
>>648 ビザンツとは少々スレ違いになるが
パンノニア出身者も広義のイリュリア人(人というより地域の呼称の方がいいかも知れないが)
ローマ後期〜初期ビザンツまでのイリュリア諸属州は現在のギリシャを除くバルカン諸国とオーストリア、ハンガリーの地域
従って軍人皇帝時代後期クラウディウス、クィンティルス、アウレリアヌス、タキトゥス、フロリアヌス、プロブスはイリュリア人
プロブスを継いだカルスと二人の息子ヌメリスとカリヌスはガリア人だが、ディオクレティアヌスは言う通りイリュリア人
なぜイリュリア人皇帝とイリュリア人の中央機動軍が出現するかというと
ガリア、ブリタニア、ヒスパニアが僭主によりローマから分離され
小アジア、シリア、エジプトもパルミラの制圧下に入ったため
アウレリアヌスによって統一されるが、ディオクレティアヌスの施行したテトラルキア制(四分治制)によりイリュリア人の中央機動軍が細分化弱体化してしまい
コンスタンティヌス帝がガリア、ブリタニア、ゲルマニアの兵でリキニウス帝のイリュリア人部隊を破り
イリュリア人の中央機動軍は完全に衰退した
コンスタンティヌス帝は自らの資質の高さで体制を維持出来たが
イリュリア人部隊無きローマの軍事防衛体制は瓦解したも同然になった
>>651 ユスティヌス、ユスティニアヌスまでかな。イリュリア人が帝位に就くのは。
ギリシャ人が皇帝になるのって意外と遅くて、ヘラクレイオス朝の後くらいからなんだよね。
>>652 さすがにユスティニアヌスの時代になると皇帝がたまたまイリュリア人という感じだけど
3世紀後半のイリュリア人興隆は皇帝や中央機動軍だけでなく、イリュリア地域以外の属州総督にもかなり名を連なれている
イリュリア人が皇帝位、軍、属州総督位を掌握し、ローマの元老院の権力を抑え込むのが同世紀後半の一般的特徴
654 :
世界@名無史さん :2009/03/27(金) 20:28:56 0
>>654 興味深いけど日本じゃDVD販売しないだろうな
ユスティニアヌス1世の頃は古代の印象で東ローマ帝国だが バシレイオス1世頃には中世でビザンツ帝国の印象
そう言えば、ビザンツ時代に書かれた長編小説で サラセン人がキリスト教に改宗して帝国に移り住み皇帝に謁見するとかいう内容の小説があったってマジか?
天使はの語源はギリシャ語でアンゲロス(元の意味は神の使い)。 神がローマ帝国のために使わした二組の天使が、 我らアンゲロスブラザーズ!!  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ ∧_∧ (・∀・∩)(∩・∀・) (つ 丿 ( ⊂) ( ヽノ ヽ/ ノ し(_) (_)
>>658 そうかもしれないw
腐りきったビザンツはもっと早くに滅びさるべきだったからな。
ローマの遺産を曲がりなりにも継承していたビザンツのしぶとさにしびれを切らした
神がきっとアンゲロス一族をつかわしたのだろう
660 :
世界@名無史さん :2009/03/28(土) 08:46:02 0
しかし、決定的に悪いのはアレクシオス一世じゃないか? ローマ教皇と西欧人を甘く見すぎたとしか思えない。 いざとなれば「ローマ皇帝」の権威にそれらも服する、と考えていたのか。
>>654 >侍女がいきなり騎士とその友人の騎士を深夜の皇女の部屋に呼び入れて、
>侍女と友人がはじめてしまったり、皇女もその気で裸になったり、騎士の別の付き人が皇后と姦通して
>3日も部屋から出ないのを心配した皇帝が后の部屋の扉をこじあけて侵入すると、慌てた后が
>間男をベッドの下に隠すとゆう展開ぶりにかなり心配になってきてしまいました(この皇女はその後も、
>「あ」と発して何度か失神したりしていた)。
カタルーニャの騎士道文学「ティラン・ロ・ブラン」のコンスタンティノープル編でもそういう展開だったな。
おそらくアンドロニコス2世が雇ったカタルーニャ軍団やロジェ・ド・フロルの記憶が反映してるのだろうな。
>>658 どっちかっていうと悪魔の使いだったけどな
ビザンツの軍隊ってどんな格好だったんだろう? どうもイメージが湧かない 騎士団とかもあったらしいけど
>>665 まさにうってつけ!
その拍子を見てみると見た目は西欧の軍隊と変わらないのかな
>>660 強引にロマノス・ディオゲネスを皇帝にした事は、やはりまずかったのでは
ないだろうか?
アンドロニカス・ドゥカスらが皇帝ならば、指揮系統に乱れが生じにくかった
だろうな。
ロマノス・ディオゲネスはロマノス4世にならなければ、皇族らに殺される事も
なかっただろうから、良かっただろうね。
>>666 表紙はノルマン人のヴァリャーグ親衛隊だからな。
>>667 ただ、アンドロニコスがアンゲロスブラザーズ並という可能性もあるが。
ドゥカス家の歴代皇帝は文治重視な傾向があるし。
>>669 ほほう
見た感じは西欧の兵士とそこまで差はないんだね
カタフラクトとかも載ってる?
マーケットプレイスしかないのが残念だ・・・
どっちかっつーと突厥やウイグルの騎兵にも見える
これがビザンツの兵士か・・・ なんつーか、みたまんま野蛮だな
>>660 彼は単に、対トルコ戦の援軍を要請しただけなんだがな
それがなぜか聖地奪回の聖戦にすり替えられた
それをローマ教皇を甘く見たというならそうなのかもしれないが、そんなこと予測不可能だろう
マキアヴェリは外国援軍は事あらば侵略者に変わるので要注意って言ってるぜ。
>>675 マケドニア朝までなら、スヴァトスラフみたいに、援軍が侵略軍になってもビザ
ンツ軍自体が強力だったから撃退できたが、コムネノス朝まで来ると、そうはい
かなくなってるからなぁ。
西欧的に見れば、落ち目の帝国の領土回復の為にトルコと戦うより てめぇ等の為に聖地を落としに逝く方が余程メリットある罠。 聖戦とか何とか言って煽れば士気も上がるんだろうし。 逆にビザンツはあまりにも長くムスリムと戦いすぎた所為で 十字軍の異教徒は皆殺しの聖戦という感覚がまるで理解できなかったらしいが。
>>679 まあ、現代の感覚で言えばビザンツの方がまともだよな、そこは。
スルタンのターバン云々って発言も元を辿ればそういう事なんだろうな オスマンが東方系のキリスト教国なら逆に向こうと組むか後盾に西欧を攻めてたかも
そもそも、イスラム帝国が分裂していく辺りから その内ゲバを利用する為に、ムスリムとさえ手を組んだのがビザンツだから。 全盛期のマケドニア朝時代だって友好国や属国にイスラム教国があったくらいだ。
>>674 聖地奪回の聖戦は、ビザンツ側にとっても歓迎すべき事だったとされる。
十字軍がエルサレムを目標としなければ、アナトリアにイコニウム公国とか
カエサレリア伯爵領といった十字軍国家が建設されたと予想される。
やはりビザンツ側は、マンジケルトの会戦以前の領土を全て奪回したかった
から、十字軍がアナトリアに留まらないように働きかけたとされる。
>>668 文治重視な傾向のドゥカス家の場合、ロマノス4世のように大攻勢にでなかったかもしれないので、
アルプ・アルスラーン直卒のセルジューク本隊は、ファーティマ朝討伐を最優先として、そのまま
エジプトへ進撃し続けたと思われる。
>>684 もっとも何がどう幸いするか分からないからなぁ
ドゥカス朝の歴代皇帝が国内の騒乱に対処できなかったのは明らかだし
十字軍のころのイスラム世界は「十本の矢があれば一本を異教徒に、残り九本を異端者に射る」って状況だしな
サラエボ事件で始まったとされる第一次世界大戦に似ているような状況ですな。 あれも、オーストリアとロシアの首脳らがより無気力で堕落していたのならば、 開戦にいたる事がなかったとされる。フランツ・ヨーゼフ1世とニコライ2世は、 道徳的で厳格な人柄で、狡さと柔軟性が足りなかったとされる。
DQNである事は間違いないんだけど、民衆十字軍の末路なんかは欝になる。
ロマノス4世が、アルプ・アルスラーンと講和せずに、マンジケルトでの決戦に 臨んだ原因のひとつは、多くのペチェネッグ人やフランク人らが、ビザンツ軍 傭兵として参加していたからだとされる。 これら外国人傭兵らは、バクダッドなどイスラムの莫大な富を略奪する為に参加 したとされ、講和すればビザンツが彼らに略奪されかねなかったとされる。 実際、マンジケルトの会戦後に主を失った外国人傭兵らは、セルジューク軍らと 先を争うかのように略奪を行い、ビザンツ領を荒廃させたとされる。
>これら外国人傭兵らは、バクダッドなどイスラムの莫大な富を略奪する為に参加 >したとされ、講和すればビザンツが彼らに略奪されかねなかったとされる。 バグダードあたりまで遠征があると当時本気で信じられてたのか? ユリアヌスがクテシフォンへ遠征するより無謀な気がするが
691 :
世界@名無史さん :2009/03/29(日) 09:19:49 O
十字軍はビザンツの寿命を縮めたと言われるが十字軍の援護無ければもっと早く滅亡じゃないか? コムネノス家の繁栄は イスラムと十字軍が争った漁夫の利だし。
結局、結果論では何にも言えないという事だ
でもオスマン朝以前はバルカン半島にまで本格的に足場を築こうとするイスラーム勢力はなかったような
>>693 そりゃ、小アジアやトラキアでビザンツに撃退されてるから、無いのは当たり前
ビザンツが7世紀あたりで滅亡してたら、バルカン半島もイベリア半島みたいになってたかもね
>>690 フランク兵達はバクダットの場所がわからないで、名前だけ知ってたという可能性はないだろうか?
後、エルサレムやダマスカス等の都市も略奪する価値は十分ある思う。
ルーシは黒海やカフカスを越えて中東とも交易があったけどな
>>690 宗教的な情熱は不可能を可能にさせると錯覚させるんだよ
>>695 そこまでアホじゃないだろう
ボエモンドはシチリア王国出身だし
>>690 ロマノス4世の遠征の目的地は、バクダードよりもさらに東方、セルジューク帝国の本拠地ホラサーンであったとされる。
レイ、ニシャプール、メルブ等数多くの都市を攻略するが為に、ロマノスのビザンツ軍多くは、野戦用の騎兵隊ではなく、
攻城戦用投石器など運搬する輜重隊だったとされる。マンジケルトの会戦では、動きの鈍い輜重隊らが足手まといとなり、
ビザンツ軍の敗因のひとつとなったとされる。
もし成功してたらアレクサンドロス並だな
ロマノス4世が将兵らの略奪を制止する事は困難であったとされるので、 後にチンギス・ハンらが略奪する対象がなくなってしまったかもしれんですな。
最後の十字軍っていつだっけね
エルサレム遠征ではないのも十字軍と呼んでいるから、わかりにくいですな。
ドイツ騎士団なんかプロイセンに居座ってたしなw
「第何回」ってつくやつだと、ルイ9世が北アフリカに行って死んだ第7回十字軍(1270)が最後だね その後も、東欧方面ではニコポリス十字軍(1396)とか、ヴァルナ十字軍(1444)とかがある
706 :
世界@名無史さん :2009/03/30(月) 02:22:36 O
藪親子大統領の湾岸戦争、 アフガンのタリバン征伐、 そしてイラク戦争も十字軍に入るんじゃね?
ほんとうの第一回十字軍は、ヤルムーク川の会戦か、対トルコということならば、 マンジケルトの会戦とかだったのかもしれんですな。
十字軍にどの程度オリエントの地理知識があったのだろうか
ヨーロッパに行った事のないおれだって、何処に聖地があるかわかるよ。この時代の人間どもアホすぎw
当時の西欧は一見すれば野蛮な後進国だが、第一回十字軍が快進撃を遂げられた裏には ムスリムの弓攻撃を防ぐ強度を持ったプレートアーマーを既に開発してた事にある。
>>706 一応建前上は、ローマ教皇が正規の十字軍と認めたものが十字軍なんじゃね?
現代の湾岸戦争やタリバン征伐やイラク戦争はいくらなんでも無理があるだろ
西洋の軍隊はムスリムの神出鬼没な騎兵に度肝を抜かれ ムスリムの軍隊はいくら矢を放っても一向に倒れない西洋の騎士に度肝を抜かれたそうだ
そろそろスレ違いのバルバロイどもには帰ってもらわないとな
そんなこといって、すでに帝都陥落間近では?
>>716 ねーよw
話題が偏ってるだけなんだから
中期の最盛期は知ってる人が少ないから話題になりにくいけどな
アモリア朝〜マケドニア朝あたりをちゃんと語れる人は少ない
718 :
世界@名無史さん :2009/03/31(火) 01:13:38 0
バルバロイを巧みにあやつり、スレを軌道修正してこそ真のローマ人
マケドニア朝の最盛期が短すぎるからだよw
>>718 さらにバルバロイ同士を戦わせて潰すのが真のローマ人
やる夫で学ぶシリーズのヘラクレイオス、なかなか面白かったな。 俺にAAを駆使する能力ないから、誰か他のビザンツもの作ってくれねえかな。 アレクシオス1世やミカエル8世とか面白くなりそうなんだが。。。
722 :
世界@名無史さん :2009/03/31(火) 03:16:05 O
コムネノスの名君達は 十字軍を上手く利用して 帝国の勢力維持を図れたが アンゲロスの暗君達は 利用出来ず帝国を乗っ取られた訳か。 夷を以て夷を制す帝国伝統の外交が不可になった時点で帝国の命運は尽きたな…
ローマと東ローマは インドと東インド貿易会社くらい違う。 言語も、宗教も、魂も。
>>711 の11世紀にプレートアーマーってのは誰も突っ込まないのか
725 :
世界@名無史さん :2009/03/31(火) 12:00:11 O
十字軍時代は基本鎖帷子で心臓部など要所をプレートでガードだろう?
所謂、マクシミリアン式甲冑みたいなのが十字軍時代にあるハズ無いだろwwwww あったら無敵だろ。
ローマ帝国ではラテン語とギリシア語が共通語。 キリスト教は統一ローマの末期からすでに東部を中心に広まっていた。
>>725 13世紀ぐらいからメイルの上にコート・オブ・プレーツ等を着るようになるが
第一回十字軍の頃はメイル・ホウバークだけ。
ビザンツやノルマン騎兵の一部はスケールアーマーも装備してたようだけど。
ところでパレオロゴス朝後期の騎兵は板金鎧なんかも装備していたんだろうか?
パレオロゴス朝後期ってそもそも自前で騎兵を賄えてたの? 帝都陥落の時の主力がジェノヴァ傭兵だろ。
ギリシア人はなんで立ち上がらなかったんだろう?
>>733 東海大の尚樹教授によれば、パレオロゴス朝期は、「帝国の没落は神罰」って考
えがあったから、もう諦めてたんじゃないか?
それ以前に、内乱とかで消耗もしていただろうし。
久しぶりに世界史板の掲示板見たら立ってるスレの大半が欧米や中韓のアンチスレだった 元からこんなもんだっけね?
春だから。 まぁ年中休みの人も多そうだが。
パレオロゴス朝末期ではセマ制は事実上機能不能になっており セマ制における総督であるストラティゴスでなく、新たに皇帝から任命されたケファリが地方行政軍事の名目的指揮を取った ケファリには徴税権はあったが、事実上の封建領主のプロニャは免税された上に 実際の徴税は皇帝が別に任命した徴税官が行ったためケファリの収入は極めて限定された セマ制下での自営農民の徴集による軍編成は既に社会変化により瓦解しているため ケファリ自身が傭兵を雇うことになるが、上のように収入が極めて限定されているので 拠点を防御する兵力程度しか雇えなかった これは中央政府も同様にプロニャ層の肥大化による歳入不足は深刻化で十二分なタグマ(中央機動軍)を整備できなかった プロニャは当初は一代限りであったが、しだいに世襲化されていくの一方で 西欧におけるような主君への軍事奉仕は厳格化されていなかった
738 :
世界@名無史さん :2009/04/01(水) 21:50:03 0
>>737 同時代の西欧王権や幕府に比べると、随分ゆるい軍制だったんだな。
これで勝てという方が残酷だ。
739 :
世界@名無史さん :2009/04/01(水) 22:19:00 0
>>665 の「ビザンティン帝国の軍隊」欲しいけど近所では売ってない…
残念
>>738 ただ最後の皇帝コンスタンティノス11世はビザンツ末期の皇帝が文人が続いた中では異例の武闘派の皇帝
コンスタンティノス11世がモレアス専制公に即位すると領土奪回に乗り出し
まずアカイア公国を滅ぼしペロポネソス半島のほぼ全域を制圧
次いで西欧の対オスマン十字軍に呼応し、オスマンの属領になっていたアテネ公国を制圧
テッサリア南部まで侵攻するが、西欧の十字軍がヴァルナでオスマンに惨敗したため撤退した
その後、ほどなくしてコンスタンティノスは皇帝に即位し帝都へ移動
モレアス(ペロポネソス半島)はスラブにあまり汚染されずにいたビザンツ領内での珍しい地域のため
コンスタンティノス専制公時代にようやくギリシア人であるという意識が芽生え始める
かつて総判事の職務名称のはじめに「ローマ人の」という尊称が付与されていたが
コンスタンティノス専制公時代に「ローマ人の」の尊称は外される
史実でも帝都陥落後も7年持ちこたえたモレアス専制公国にコンスタンティノスが皇帝に転出せず在位していたならば・・・・・
>>740 コンスタンティノス「十字架とPXの旗を掲げて戦えば勝てたに決まってるだろうが。
情けないやっちゃな。」
>>740 そのコンスタンティノスが、モレアスは安堵してやる、とオスマン側から言われても蹴って、
史上最後のローマ皇帝として最後まで奮闘するのも皮肉というべきか
>>741 そこはラテン語にしてくれないと紛らわしい
マヌエル2世とヨハネス8世、コンスタンティノス11世の最後の努力は まさにローマ帝国の終焉に相応しいわな。 ホノたんやアンゲロスブラザーズとは段違いすぐる。
アンガス・マディソンによる西暦1000年のGDP推計 (100万GKドル、1990年価格) インド 33,750 中国 26,550 トルコ 4,200 日本 3,188 イラン 2,925 フランス 2,763 エジプト 2,500 イタリア 2,250 スペイン 1,800 メキシコ 1,800 ドイツ 1,435 イラク 1,300 モロッコ 860 イギリス 800 アメリカ 520 ギリシャ 400
>>744 そりゃ日本の数値が大き過ぎる
実際はその10分の1ぐらいが妥当
逆に西アジアやエジプト、ギリシアの数値は数倍ぐらいはあるはず
基準設定年度が曖昧だからわからぬが、西欧も三圃式農法を始めた時期に設定すれば確実に日本の2、3倍〜数倍はあるだろう
西暦1000年当時トルコってどこだよ?アメリカって何だよw
>>744 1258年まではエジプト≦イラクではないだろうか
日本が高すぎる気がする インド、中国がさらに凄いけど
>>747 いや
エジプトは確かファーティマ朝時代だからさほど変わらんはずだ
トルコ(小アジア)はビザンツ中興期の領域だからそれなりの繁栄はしていたと思うが
ビザンツ=トルコ+ギリシャ=4,600 と言う事か
当時のバクダッドは世界最高の人口なのに低くいよな
↑の数値は「経済統計で見る世界経済2000年史」の内容だと思うけど、インドと中国ってここまで凄かったのかな? 逆にギリシャの数値が低い気がする。 国別にしてくれれば分かりやすいんだが・・・
当然当時は統計数値など取っていないから 各地域ともそれぞれの専門史家に推定してもらっただけで それらを統一的に調整出来るスタッフがいないからこのようなアンバランスな数値になると推察するね
そも当時のGDPなんぞどうやって計算してんだ エジプトなんてファーティマ朝の最盛期なんだが蛮族フランクより低いとはとうてい思えん
中国やビザンツは課税台帳とかあったけど、他は統計という概念すらない時代だ もんなぁ
中国といっても現代の中国の領域だから すげての穀倉地帯が中国のGDP シルクロードでの交易も加味してあるのかな インドも同じ
ギリシャは没落したとしても、クレタとアテナイの港があるしなあ 400ってことはないような
日本はかつては世界屈指の金の産出国だし 国土も狭いけどヨーロッパより土壌は肥沃で農業適してるから 一概に低いとも言えないがな
まさに「うさんくせ」 って感じの統計だな
当時の平安京の都市人口はベスト5ぐらいか まんざら低いとも言えないだろ
日本は外敵の侵攻がほぼ皆無だったからな 当時の文明都市で城壁がないのなんか平安京ぐらいだろう 稀に内戦はあっても侵略された後は草も生えないほど異民族に略奪されてた 当時の欧州の過酷さとは次元が違う
>>759 アメリカ大陸のなんか嘘そ臭いにも程があるからな
メソアメリカとかアンデスの諸文明だの、北米のネイティブアメリカンのGDPな
んてどうやって算出してるんだと
まあ、ビザンツが当時の世界では屈指の経済力のある国だった、ってのは間違い
ないだろうけど。西暦1000年はバシレイオス2世の治世だから絶頂期だし。
中国の人口ってのは戦乱期はどっと減り 平和になると爆発的に増えるの繰り返し 明朝末期から清朝初期に2000万だったのがほんの100年しないうちに億超えてたり 北宋は一時は1億越えてたとか 戦争は弱かったけど経済は繁栄してたからGDPもそれなりに高かったんだろう 本当にここまで行くのかどうかは知らんが
西欧が農業革命や海運でビザンツを逆転したのは11世紀頃で 毛織物工業も間もなく西欧で興隆してそれを着色する原料明礬が小アジアで産出するため 西欧にとってはビザンツが原料供給地と化するわけか
で、12世紀半ばまではビザンツも西欧と何とか渡り合えてたものの、マヌエル1 世が国力を消耗させ、アンドロニコスが人材を粛清し、馬鹿兄弟がさらにダメに したところを蛮族どもに叩きのめされてしまう訳で
>>766 なんとかわたりあえていたってところがなさけないよな・・・ザコまっしぐら
やっぱりうまくいってたのはマケドニア朝までだな
>>768 大土地所有の進展で、支配層が固定化されたのも大きいよな
マケドニア朝までは、クーデターもある種の新陳代謝になってたのが
コムネノス朝以降は同じ皇族一門の内輪もめになってしまった
その結果、アレクシオス1世の血筋を引いているというだけの理由で
イサキオス2世みたいなのが帝位につくことになってしまう
日本の経済がある程度よかったのは歴代中国王朝との貿易の結果かな?
>>762 満洲・モンゴリアの人口が、日本と同じくらいはさすがにありえないだろう。
満洲・モンゴリア450万→200万
カラハン朝西トルキスタン250万+イラン450万+アフガン225万=ホラズム朝領925万
アラビア450万→200万
イラク200万→500万
マグリブ500万→300万
>>770 上で書いてる西暦1000年頃は遣唐使も廃止されて
大きい貿易は無かったと思う
>>769 それ以前にマヌエル1世は兄イサキオスを池沼だから自分を後継者として指名した
と急死した父帝の遺言を披露して即位したが
父帝の死の間近にいたのがマヌエルで
即位後の異常なほどの兄イサキオスへの監視を見ると
ほんとに父帝が自然死なのか
兄イサキオスはほんとに池沼なのか
非常に疑わしい
まあこれでは一族内で内紛になるわな
>>770-772 スレ違い
>>773 昔からそこを疑う向きは強いよな
ヨハネス2世の死は狩猟中間違って毒矢を自分の手にに刺して…になってるが、
いかにも怪しい。
ちあみにバシレイオス1世も狩猟中事故死しているが、これも疑われている
当時のビザンツが世界の3分の一の経済力と言われたのは本当ですか?
地中海世界の3分の一だろうな。当時の欧州人は、インドや中国の事をまだ知らなかったはずだ。
>>775 12世紀のニケタス・コニアテスがコンスタンティノープルを「世界の3分の2の富
が集まるところ」と書いているがこれは繁栄を誇ったことを示す比喩だな。
少なくともコンスタンティノープルは、12世紀までキリスト教圏最大の都市であ
り、ビザンツが地中海屈指の経済大国だったことは間違いないだろうけど。
宋に朝貢してきたという記録のある東ローマの使者は 本物だったのだろうか
>>780 宋代くらいだったら別におかしくない気がする
インドはヨーロッパ世界からすると憧れの地だったと思う イスラムが主要な敵だけにね 日本もインドは憧れの地だった印象があるし インド不思議だ
イタリア南端には今でもギリシャ語喋る人がいるって聞いたけど ほんとかね? 普通にギリシャ本土の人たちとしゃべれるんだろうか
>>783 今住んでるギリシャ系住民が中世から居るのか、近代に移住したのは微妙らしい
古代からギリシャ系がいた土地ではあるが
>>784 大ギリシアって奴だよね
こういうの詳しく知るため良い本とかってないかな?
786 :
世界@名無史さん :2009/04/04(土) 07:23:28 0
1000年前ならシルクロードの国々はもっとGDP高いし アッバース朝は絶頂期だし
>>786 根拠不明
というか紀元1000年前後じゃアッバース朝jはもう分裂期じゃないか
>>786 普通アッバース朝の絶頂期と言ったら9世紀初頭で10〜11世紀はもう衰退期じゃないのか・・・?
スレ違いだサラセン人どもめ
>>782 昔からインドは文化国家だからなぁ
いろいろと惹きつける魅力を持ってたんだろうな
ビザンツ末期のモレアスは文化的に高度に発達したミストレスの存在もあって西欧にもよく知られているが トレビゾンドの方はなにかと影薄いけど モレアスのように目立つような働きしたことあるのだろうか 一応ここは前王家のコムネノス家の支配下だったわけだが
文化的には聖ソフィア聖堂やスメラ修道院なんかの宗教建築に代表されるように、 そこそこ栄えてはいたらしい。 ただやっぱり大国に挟まれた小国だしな。 ニカイアに敗れるまでは一時は黒海沿岸地域を支配できそうだったが。。。
>>786 9世紀のイラク1000万 → 10〜13世紀前半のイラク500万
9世紀のバクダッド200万 → 10〜13世紀前半のバクダッド80万
10〜11世紀のアナトリア700万 → 12〜13世紀のアナトリア70万?
10世紀〜13世紀前半のイラク500万 → 13世紀後半〜19世紀のイラク100万?
>>792 経済的に農業以外地場産業がないだろうから苦しかっただろうね
>>792 トレビゾンドはあそこらへんの交易の中心として栄えたって話を聞いたことがあるよ
結構な規模の港だったとか
>>793 なぜアナトリアそんなに減ったんですか?
戦争とテュルク系の侵入で荒廃しまくった。
アナトリア中部が牧草地になったおかげで生産性が激減したとかしないとか
このスレ見てる人って他にどんな歴史スレ見てるの? なんか面白い歴史スレ無いかな
まぁ、ここはつまらないからね
>>801 いや、ここは面白いよ
ここくらい人が多くて話が進んでる場所が他にあれば知りたい
■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★ このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) Victoria/ヴィクトリア太陽の沈まない帝国 46世 [PCゲーム] 【EU2】 ヨーロッパユニバーサリス 26 [PCゲーム] 【装甲艦から】戦艦スレ part.12【トマホークアイオワまで】 [軍事] ランボー怒りの深夜残業 [リーマン] 【政治/教育】自民党・笹川堯総務会長「うつ病で休業する先生がたさくさんいるが議員にはいない。そんなに気が弱かったら務まらない」 [ニュース速報+] ……なんだこりゃ。
>>803 人が多いところは、ここみたいに軽い雑談がループしてるだけ。
結局、参考文献とか限られてるから、マンネリさ。それにいつ気付くかだけだよ。
気づいたのなら来るなよw
>>805 僕は何も知らないので話題が振れません、まで読んだ
1453年からずっと話続けてるんだから レスの内容が多少ループするのはしょうがない
>>797 ガラチアのアンカラは、マンジケルト後キリスト教徒が一掃されたと記録される。
ロマノス4世の地元カッパドキアは、例の地下都市とかで粘り強く抵抗していた
可能性がある。
デリンクユだっけ?NHKでみたきがする
カッパドキアの地下都市、昔はヒッタイト時代とか言っていたけど、古代遺跡ではなく、中世ビザンツの遺跡らしいな。
>>811 中に十字架とか書いてあるからな
古代からあったのを再利用したのかもしれんが
十字架が書いてあれば中世なら、教会に改造されてたパルテノン神殿とかは・・・
そういやシリアにも東方正教の洞窟修道院だったのが十字軍に要塞化されて 戦局の移り変わりと共にサラディンの兵が駐屯したりしてた山がある。 知る人ぞ知るって感じのスポットだけど。
モスクにされたアヤ・ソフィアとかがあるな。 メッカのカーバ神殿も、元々あのエラガバルスで 有名なエメサの神殿と類似の信仰だったらしい。
>>813 おまいは直前のレスの後半部分もロクに読めんのか
西洋の学者が言うシリア文明が検索しても よく分からないです ビザンツにも影響してると思うけど
カーバは元々、神々の像が多数安置されてた神殿なワケで・・・。 今は黒い石しか無いけど。
イラクには古代アッシリアの末裔を自称するキリスト教徒のアッシリア人とかいるね
アルメニアにも居るらしいね
>>819 ネストリウス派の正式名称が「アッシリア教会」とか「アッシリア東方使徒教会」などと言い、
彼らの典礼言語でである中期アラム語のひとつ、シリア語を「アッシリア語」と呼んでいるだけで、
東セム語に属すアッカド語のさらに北方方言である古代のアッシリア語とは直接的な関係はない。
新アッシリア帝国時代から外交や経済関係などでアラム語が非常に重宝されていたそうだから
アッシリアとは縁も所縁もないどころかそういう方面では密接な関係にあったけど、現在の「アッシリア人」
=「アッシリア教会の信徒」たちの意味なのでややこしい。さらに彼らは古代のアッシリア(おもに聖書にも
出て来る新アッシリア帝国の方)にシンパシーを感じて「アッシリア」を使っている面もあるので
さらにややこしい。
>>821 他にもあのあたりは、イスラム・アラブ化した民族やトトルコ、イラン、クルド以外にも
宗教的に細かくいろんなのがいるからややこしいよね
シリアよさらば! そは敵にとり、何とよい国であることか!
アッシリア=シリア、アッシリア人自体は滅びたが、地名を勝者らが忘れなかった。
アッシリア人が臀部を見て叫んだ あっ、尻や!
イタリアで地震か。人命も大切だけど貴重な遺跡が被害受けてそうだ…
アンティオキアはキリスト教五本山のひとつだったし、ダマスカスも古代からの大都市 イスラムが出てくる頃にはビザンツとペルシアの戦いで衰退しつつあった
829 :
世界@名無史さん :2009/04/07(火) 21:30:29 0
ダマスカスはティムールが破壊しちゃったんでは
五本山のうち、キリスト教の勢力圏内なのはローマのみという現実。
そのローマが一番最初に荒廃したな。その次はアンティオキアか。 他の都市はほとんどの期間繁栄していたし、今も繁栄しているだろう。
汚らわしい教皇庁がローマになければ中世にローマが復興する事もなく、 復興の過程で破壊された多くのローマの遺産が現代まで残されたのにな。
>>830 もう聖地だ何だって時代じゃないからねぇ
保持しようと思えば中東植民地時代に民族浄化でも何でも出来たと思うけど
ローマに教皇庁が栄えたのも愚将ベリサリオスがローマでやりたい放題やった反動だな
>>833 現在進行形で、三つ巴の争いが繰り広げられている聖地がありますが。
まぁ、今のアラブ諸国は吹けば飛ぶ綿毛の様なもんだろうな・・・ 1000年前が懐かしいもんだ
837 :
世界@名無史さん :2009/04/08(水) 14:15:19 0
ミカエル8世がマムルーク朝ともめたときに バイバルスの差し金でアレクサンドリアとかの総主教に破門されたりしてなかったっけ
838 :
世界@名無史さん :2009/04/09(木) 14:49:47 0
>>837 アレクサンドリアもそうだが、ヨハネス四世の目をつぶした際に
コンスタンティノープル総主教に破門されているし
東西教会合同の時は遅延を理由にローマ法王にすら破門されている。
もっとも当の本人はどこ吹く風だったが。
次からスレタイ変えないか?
どっちにしろビザンツは検索用に入れとかないと
東ローマってスレタイに入ってるから良いんじゃないの このスレタイ愛着あるから変えて欲しくないなぁ
>>841 何で後から出来た方に合わせる必要があるんだ?
せいぜい、ビザンツと東ローマの位置を入れ替えるだけで十分。両方入れておか
ないと、重複スレを立てる馬鹿が必ず出てくる。
ミカエル8世は幼君の眼を潰して簒奪とかやるから個人的には嫌いだが、 そうして開いた王朝が帝国最長の王朝となったのも皮肉
俺は[世が一番好きだ そういやミカエル[世は一時期傭兵としてモンゴル軍に参加していたとか聞いたけど本当?
鼻削ぎの後に金の鼻を付けて返り咲いた皇帝はいるけど 目潰しの後に金の義眼を付けて返り咲いた皇帝はいないな。
>>846 ルーム・セルジューク朝の傭兵として、モンゴルと戦ったんじゃなかったっけ?
849 :
世界@名無史さん :2009/04/09(木) 23:49:15 O
>>847 さすがに金の義眼はしてないけど、目つぶしの後に返り咲いた皇帝なら、
イサキオス2世がいるぜ
返り「咲いた」か? 「帝衣は最高の死装束」とも言ったが、その600年も後じゃあなぁ
チューリップひとたびしぼめばひらかない・・・
イサキオスU世の時代ならまだそこまで凋落してないじゃない
>>848 ニケア時代は西欧人傭兵の指揮官だったらしいけど
セルジューク朝でもそんな感じの役目だったんですかね?
むしろあそこから凋落
>>853 というか、イサキオス2世が凋落の原因の一つだからな
ソレ言うならマヌエルの所為だろ。
それを言うならドゥーカス家のアホのせいだよ
それを言うならバシレイオス二世が後継者を決めとかなかったせいだろ
>>856 イサキオス2世自体は単に無能なだけじゃね?
弟の方は帝国屈指の大馬鹿だけど。
アレクシオス2世は可哀相な気がするけど アンドロニコスには何の同情も沸かない漏れ。
アニェスの逸話は完全に悪役だもんな、あの鬼畜オヤジ。
ビザンツ関連で面白い本ないかなぁ 帝国領内のユダヤ人やアルメニア人に関する本とか ビザンツに関連する人名録とか
いっそ自分で作れよ。 つーか、かの時代の著作の和訳だけでもこのスレの中では需要あるぞ。多分。
よし、このスレで面白いビザンツ本を作るぞ。 第一章:新ローマ誕生 次よろしく。
>>868 俺ら極悪非道のアンゲロスブラザーズ!
表紙はアイドルの俺達で決まりだな!
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ ∧_∧
(・∀・∩)(∩・∀・)
(つ 丿 ( ⊂)
( ヽノ ヽ/ ノ
し(_) (_)
そもそも、ブラザーズってコインとかモザイクで肖像が残ってるの?
>>871 英語版Wikipediaにはイサキオス二世のコインがあるな
前期 古代ローマ帝国の再興と挫折(395年 - 610年頃) 滅亡の危機と帝国の変質 (7世紀〜8世紀) 中期 復活から黄金時代へ(9世紀〜11世紀前半) 帝国の衰退と中興(11世紀後半〜12世紀) 帝国の崩壊(12世紀末〜13世紀初頭) 後期 斜陽の老帝国(1204年 - 1453年) コンスタンティノープルの陥落(1453年)
ビザンツの鷲とか言う亡命ビザンツ人が主役でティムール帝国領が舞台というマニアックな小説があるらしい
第一章:新ローマ誕生 第二章:古代ローマ帝国の復興と終焉 第十章:目潰し 第十五章:後継者不在 第十八章:ロマノス4世 第二十章:極悪非道 第二十一章:蛮族と一緒に略奪する
何故かこのスレの連中はヘラクレイオスとロマノス4世とマヌエル2世が好きだなぁwww 個人的にはレオーン3世とかアレクシオス1世みたいに帝国の危機を救った香具師の方が評価高いんだけど。
>>877 どこをどう読めば、そういう結論になるんだよ。
だいたい、一番このスレ的に人気があるのは、あの兄弟だろw
>>534 「おっ氏ね」にせにゃ、ということなので?理解など!
>>879 なんで戸田奈津子の字幕みたいなんだ?
誤爆など!
>>875 読んだことあるけど、日本語で読める資料だけ使って書いたんだろうなあ・・・って感じだった。
つか中世末期のコンスタンティノープルなんて一次史料に目を通してても相当脳内補完しないと
小説にするのは難しいだろうね。
>>876 コムネノス朝が第十九章だけだとバランス悪くね?
883 :
世界@名無史さん :2009/04/14(火) 14:06:42 0
>>877 マヌエル2世はまあ、肉は腐りかけが美味いのと同じだ。
平和な時代ならアントニウス・ピウス辺りになっていただろうけど。
>>883 まあ、あの状況にしては頑張ってたからっていう評価だよね
レオーン3世、アレクシオス1世あたりは世間一般はともかくヲタにとってはベ
タな皇帝だから評価高くて当たり前って感じだろ
逆にこのスレではユスティニアヌスが不人気だな。 ダンテの神曲では天国にいるほどなのに。
886 :
世界@名無史さん :2009/04/14(火) 15:13:56 0
この21世紀にそんな天安門事件みたいな真似したら 国際社会から制裁食らうよ。 とは言え、ユスティニアヌスのあの時の決断は正しいとは思うけどね。
ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会のモザイクより コーラ修道院のがいいと思う俺は少数派? イスタンブールに行ったら一度は見なきゃ損。
>>889 時代が800年も違うから、一概に優劣は比較出来んな
どっちも貴重だし
青党だか緑党のメンバーがしていたという「フン族の髪型」ってどんなのだったんでしょ?
その頃だとアヴァール人でも見て真似したんですかね。
ニカの乱の頃だとアヴァール人は、まだヨーロッパにいなかったような
前ここでユスティニアヌスが話題になった時は一時とはいえローマの版図を復活させたことが その後のビザンツ帝国の精神的支柱になった って事でそんなにひどくない評価だったような
>>895 ユスティニアヌスは功罪ともに大きすぎて評価が難しいんだよなぁ
ペストはじめ天災や戦災が降りかかって、終末論が盛んになってきたのもユスティニアヌスから イスラムの勃興の下ごしらえをしたようなもの
ある意味一番評価が難しい皇帝。 あの兄弟ならすぐに評価は決まるだろうが。
兄クラスの無能なら結構いるけどな。 ぶっちゃけ、バシレイオス2世の後、アレクシオス1世登場までの皇帝はみんな似たようなもんだ。 極一部、本当に不運だったのもいたけど。
あの兄弟の場合、兄が無能な上に、弟が輪をかけて暗愚かつ往生際が悪いからな
兄弟が争ってた時期が、帝国にとってミスが許されない時だっただけにね…
>>901 あの時期にせめてマヌエル2世レベルの皇帝がいたら、もう少しはマシだったん
だろうが
そこまで贅沢言わなくても1世の方でもまだ国は持ったと思う つまりそれほどあれの治世は酷いと言う事
以降、アレクシオス3世を無理やり褒める↓
帝都陥落はラスカリスブラザーズの簒奪が悪い! 奴らこそ最悪の兄弟
ダンドロ相手なら誰出しても難しいから仕方ない
908 :
梵阿弥 :2009/04/16(木) 16:39:16 0
ここ速過ぎ
>>579 『幻影のローマ』 ー〈伝統〉の継承とイメージの変容ー 青木書店
"二つの「ローマ皇帝」像 −バシレイオス1世とミカエル3世ー" 小林 功
に拠れば、バシレイオス没の翌年、息子レオン6世の『追悼演説』で、
父の祖はアルサケス一族で、即ちアルタクセルクセスの血を引いている
と在るそうです。詰り古代アルメニア王家のアルシャクニ家(パルティア王家の分家、の注記)
の裔という主張はバシレイオス帝末期までには成立してただろうと。
しかし他の資料から見ても、首都総主教フォティオスによる捏造だとしてます。
他にもバシレイオスは、
ネア・エクレシア(新教会)を建てて「ローマ帝国の再生者」
大天使ガブリエルと預言者エリヤの加護を受ける「新しきダビデ」
長子コンスタンティノス(即位後改名か)は夭折したがフォティオスの手で「列聖」される
といった権威化の演出を行ったと在ります
909 :
梵阿弥 :2009/04/16(木) 16:54:24 0
(改名させた?)コンスタンティノスは当然首都を建てた大帝を意識しており、 三男がアレクサンドロスなのも古代のマケドニアの大王を意識した命名だろうとの事。 869-70年の首都宗教会議の議事録ではバシレイオスを「新しきコンスタンティノス」としました。 また孫のコンスタンティノス7世の時には、バシレイオスの母はコンスタンティノス大帝の血を引き アレクサンドロス大王の名声を誇っていた、と書かれました。 名声を誇る、という意味が良く解りませんが、更に「新しきアウグストゥス」と孫により 示唆されたかも、と在ります。 余談ですが、「新しい」「再生」は肯定的な意味だったんですね。彼らには。 ギボンの場合は、「追従でなければ」みたいに書いてるし、注記でははっきり フォティオスによる捏造としてますね。 「主張」してたのは確かですが、明らかに偽称ですね。尤も、ローマ皇帝の祖が (アルメニアを通して)イランにあることを誇ったのは面白い。嘘なら尚更です
910 :
梵阿弥 :2009/04/16(木) 17:05:50 0
追加。
>>908 の「アルタクセルクセス」は誰でしょうか。アルシャクニ朝には多分居ません。
アルシャクニ朝の前のアルタクシアス朝の初代はアルタクシアスですが少し形が違う。
まさかハカマニシュ朝でもなさそうです。パルティアの祖のアルシャクの事ですかね
>>580 スティーヴン・ランシマンですか。しかし訳されてる3冊には載ってないみたいですね。
十字軍、シチリアの晩祷、首都陥落、という後の時代のものばかりですから。
十字軍の場合は一応ヘラクレイオスはアルメニア人だと在りますが、それだけでは
パルティアとの縁が判らない。未訳の本ですかね。なんと言う題でしょうか
だってバシレイオスは農民の子だもん。そりゃおそらく当時から真に受けてた奴 はいないだろ。表面上の態度はともかく。
>>911 昔は貧農の子から皇帝になったとか言われてたね
どうも本当は結構裕福な農家だったらしいけど
>>912 > どうも本当は結構裕福な農家
秀吉と全く同じだな。
>>913 天下を取ってから出自を高い身分だったと偽った辺りもね
分裂前のローマや初期の東ローマのように チャンスさえ掴めば誰でもなれる皇帝と元老院の政治っていうのは 他の国にある帝政よりアメリカのような大統領制に近いな こっちの方が優秀な皇帝や政治が望めたのになんで血統主義になったんだろ
>>905 簒奪して僅か1日で滅亡させるとは
ラスカリス兄は物凄い政治センスの持ち主だな。
無駄な争いがおこる。 実権を握った奴は自分の子孫に継がせようとする。 階級の固定化により、血統を重視するようになった。
IDのPって何?
偉大なるローマ帝国が偉大である理由を捨て去った時からのラバルム【XP】のP
パレオロゴスのPだろう
このオタンチン・パレオロガスが!!!!
漱石先生何やってるんですかw
パレオロゴスwwのwPww
うえうえwwwwwwwwwwww
食うにも困るぐらいの百姓から一国の最高君主にまでのし上がれたのって マジで朱元璋ぐらいなんだろうね。
ユスティヌスとその甥はどうだったのさ。 特にユスティヌスの方は字も読み書きできないほどだったらしいのに。
読み書きって言っても西欧なんか 数百年後のカール大帝だって読み書きが出来てなかったんだから そこまで大したことでもないんじゃないか まあ東ローマの識字率は当時としては相当高かったらしいが
文字と文法は魔術だからな。 使いこなす人が少なかったのはしゃーない。
劉邦・劉備・ユスティニアヌス・バシレイオス・秀吉 みんなそこそこ金持ってたか、ないしはパトロンが居たはず。
ユスティヌスは結構すごいだろ。 テオドラのダンサー(≒風俗嬢)から皇后ってのも大出世だな。
関係ないけどナポレオンも結構すごいな
936 :
世界@名無史さん :2009/04/19(日) 20:55:04 0
テオドラこそ真の悪女と言うか、スケールの大きいオンナだ。
テオドラって言ってもいっぱいいるから困る
じゃあエイレーネ
ビッチテオファノと自称女帝エイレーネはどっちが極悪非道か。
エイレーネーは、俺は割と評価するぞ 皇帝就任以前のことだけど、イコン崇拝復活に政治力を発揮している 極悪って言われる最大の理由は、おそらくクーデターで実の息子コンスタンティノス6世の目を 潰して皇帝になったことだろうけど クーデターで実権を握った皇帝はビザンツではいくらでもいるし、その場合に前皇帝は殺すか 目を潰さないといけない(さもないと、ユスティニアヌス2世のように逆襲される) その前皇帝がたまたま実の息子だったのであって、息子の目を潰したから残酷とか極悪と非難 するのは違うと思う むしろ、息子だからこそ、殺さず、目を潰すに留めたというべきだろう まあ、そうまでして皇帝になってからは、女性に対する蔑視というハンディもあって、皇帝として はろくな成果は残せていないのは認めるけどね
>>976 はバシレイオス二世の即位を祝って次ぎすれを立ててくらはい
>>940 そうは言っても、母親が実の息子の目を潰すのは異常だし、彼女が皇帝になった
ことがカールの皇帝戴冠の口実にされたことを考えると誉められんわ。
エイレーネがイスラムのハールーン・アル=ラシードと和平したのは 評価できると思うが。
>>943 あれは和睦する以外手がなかっただけでしょ
イコン破壊派のテマ長官を更迭してアナトリアの軍事力を低下させたのは、他な
らぬエイレーネーだし。
イコン復活が無かったら、テオファノ以上に国を乱した悪女扱いになってたかも
しれん。
まあそのエイレーネーもクーデターでニケフォロス1世に追放されたんだから 自業自得だな。 しかしビザンツを含めたローマ史には大・小アグリッピーナといい 悪女ばかりだな。
テオファノはビッチかつ悪女ではあるが、 ニケフォロス2世→ヨハネスの流れで結果的に帝国は栄えたからな。
947 :
世界@名無史さん :2009/04/20(月) 22:39:56 0
テオファノってまじで悪女なの? ニケフォロスはブ男だし嫌われてもしかたないのでは?
イコン破壊するとかしないとか、ほんとくだらねえ事で国力浪費しちゃって・・・
領土内でイスラムやカトリック、ユダヤやアリウス派に対する迫害とかはやっぱりあったん?
イコンだけに遺恨勃発だな
>>949 そりゃあったんじゃないの
時代が時代だし
単性論は迫害する前に、単性論者の主な居住区が侵略されて失地してしまいましたがな。 アリウス派の迫害は当然にあったんじゃないのかなぁ。
前近代の人間にとって宗教は人生でも最重要事項だろ
ユスティニアヌス帝は単性論者やマニ教徒、ユダヤ教徒を迫害 あとヘレニズムの迫害ってのもあるか
>>948 この手の争いは、たいてい権力争いが絡むもんだ
イコン破壊自体が力を持ちすぎた修道院を叩くためという説もあるし
しかし、イコン破壊推進派の書物が逸失した今では真実は分からない。 小アジア地域の住人には支持されたみたいだしねぇ。 コレだけは言える、糞なんて渾名を付けられた皇帝が不憫でならない。 どう見ても名君なのに。
中世の西ヨーロッパだと、ラテン語の聖書を読めるヤツなんて教会の聖職者しかいないから 彼らが彼らの都合で、「イコンは拝んでいいんだよ」と言えば国王とかもみんな、そうなんだ と納得する だがビザンツでは坊主以外の文官や皇帝もギリシャ語聖書を読んで確認できるから、そうは いかない 中には、聖書に「偶像を崇拝してはならない」と書いてあるじゃないか、イコンも偶像だろうと 主張する原理主義的なやつも出てくるし、その原理主義者が皇帝なら、イコン破壊を推進 することになる
>>957 それどころか都市部だと庶民でも聖書が読めたりするから、上から下まで巻き込
んだ論争になった訳で。しかもカトリックと違って教義の最終決定は教会会議で
決めることになってたからな。
つまんないことで争う、というのは西欧からみた単純な見方→要はバルバロイ。
宗教で政治が混乱するなんて 西欧だってあるし 日本だって一向一揆が鎮圧されるまでは 普通にあることだし べつに東ローマだけが特別宗教にいれこんでいたとは思わない
宗教で政治が混乱するなんて 西欧だってあるし 日本だって一向一揆が鎮圧されるまでは 普通にあることだし べつに東ローマだけが特別宗教にいれこんでいたとは思わない
しまった二度押しだ
宗教争いというのは実は政治と権力の争いだろう イコノクラスムもごくつぶしの僧侶抹殺と 修道院の土地没収のための口実という説もある。
>>960 日本が救いなのは、仏教だ悟りだという難解なものが分裂して武装集団と化した
ところで、一神教のように排他的にならずに住み分けてたことだな
神道も同じく
>>964 そうでもないぞ
日本でも戦国時代以前は、寺同士が武力抗争し、僧兵が敵対する寺を焼き討ちするとかも
けっして珍しくなかった
延暦寺と園城寺なんて、平安時代に分裂してから、延々と抗争し続けていた
ちょっと気に入らないことがあれば、京都に僧兵たちを暴れこませるしね
ほとんどヤクザやマフィア
日本の仏教界がおとなしくなったのは、織田信長が延暦寺を焼いたり、本願寺を屈服させたり
して以後のこと
やっぱり調子に乗った坊主は叩かないとダメだってことか イコノクラスムも意義があった訳だよ
でもビザンツは騎士修道会とか出来なかったよね。
>>968 そもそも騎士という身分がないし
何でも西欧基準で考えちゃいかん
騎士がなかったってことは純粋な武力集団が未発達だったってことか? 誰か東ローマ帝国の徴兵制について教えてちょんまげ
>>970 おいおい、中期のテマ制は基礎の基礎だぜ
中期ビザンツの場合は自前で武装した自由農民が、地域の防衛に当たるのが基本
もちろん皇帝直属の中央軍とか皇帝親衛隊は違うけど
>>969 マケドニア朝の後期には、封建社会へ移行し始めていたとされる。
>>972 あれも西欧の封建社会と一緒なのかどうか…
西欧が封建社会から集権化へ進みはじめた頃に、ビザンツは分権化しはじめちやっ
たんだよなぁ。バラバラでは外敵に対抗出来ず、弱っていったのも無理はない。
ましてやアンゲロスブラザーズやパレオロゴス朝のように皇室で内輪揉めしてる
ようでは…
>>973 乙
やはり、テマの維持の為に大土地所有者を抑圧したバシレイオスの政策は正しかったんだな。
バシレイオスと同じ考えを持った皇帝は後にもいたが、 同じことが出来た者はいなかった。 時代の潮流に逆らうのは難しい。
まぁ、そもそも当時の帝国の主力の重騎兵そのものが 金持ってなきゃなれなかったからな。身分的に騎士ではないってだけで。 馬に乗ったフル装備の兵士が金食い虫なのは西欧と一緒だ。
>>977 だからそのうち維持できなくて没落する層と、軍事貴族化する層に
二分化しちゃったんだよね。
>>977 カタフラクトって維持費の割に使えなさそう
個人的なイメージだけど
>>979 まあ相手によるけど、マケドニア朝も最盛期には効果があったんだろう
>>980 キエフ・ルーシあたりはあれにビビって逃げちゃったみたいだしな
>>981 なるほど
そういう効果もあるのか
確かに威圧感あるだろうね
マケドニア朝最盛期だとカタクラフトより さらに重装な騎兵のクリバナリウスとかおったんやろ…
>>983 あれは馬まで鎧つけてるからな。
文明化されて無い北の荒地から来た連中が、あんなのが集団で突っ込んで来るのをみたら、
確かにビビッて逃走するかもな。
寝殿官について知りたい
ちなみに史上、重装騎兵をもっとも多く用いたのは中央アジアの遊牧民連中
ササン朝とか一時期の中国(隋辺りまで?)に比べたら軽騎兵の方が比率としては多かったんじゃないかな>遊牧民
そりゃ比率でいえば軽騎兵のほうが多いにきまってるだろ
990 :
:2009/04/25(土) 10:02:52 0
もう少しマシな埋め方しろよ
梅
994 :
世界@名無史さん :2009/04/25(土) 12:14:19 0
建国1000年祭とか遷都1000年祭とかやったんかな?
コンスタンティノープル陥落まであと5レス
埋め
土嚢をもったオスマン兵が埋め埋め
陥落間近か…
陛下、城門が破られました ジェノヴァの船で早く避難されてください いや朕は蛮族オスマンと戦うぞ チンは・・・マンと・・・ 斬首!
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。