【三韓から】古代朝鮮【後三国時代】

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385世界@名無史さん:2010/07/08(木) 00:49:11 0
>>377
アンカーの本当の繋ぎ先がどこなのか、
よく分からないことになってるみたいだけど、
いちおう聞きたいのは、
(高麗期に放射性炭素の測定法が無いのは当たり前の話として)

>三国史記で、高麗の民間の伝承と、支那や日本の書物とで衝突がある場合には、
>民間の伝承を優先したというのは、誰々が何々した、というようなところだで?

貴方は、具体的にどの記述の部分がどういう優先順位で書かれてると見て、
また、三国史記全体での、参考史料の優先度の比率がどうなってると見て、
こう主張したの?
386世界@名無史さん:2010/07/08(木) 13:22:05 0
>>382
重撰 の意味、わかってる?
重要視して撰り出した、という意味ではないよ。
重訳とかの重と同じ、撰った中からもう一回選ったという意味だよ。
387世界@名無史さん:2010/07/08(木) 17:39:28 0
>>386
もちろん分かってる。
だからこそ李奎報の記述の話を>>382で書いた。
現在残る三国史記は金富軾とそのスタッフだけによってある時期いきなり編纂されたのではなく、
その前段階に当たる史書が(編者・編纂時期は不明ながら)既に存在していたっていうことが示されてるからね。
その史書をもとに三国史記が重撰として編纂されたこそ、
李奎報は「『旧』三国史」という用語を使ってるわけだから。
388世界@名無史さん:2010/07/08(木) 17:43:35 0
>>387
その史書をもとに三国史記が重撰として編纂されたこそ、

その史書をもとに三国史記が重撰として編纂されたからこそ、
389世界@名無史さん:2010/07/08(木) 23:36:21 0
>>365
1990年代後半から2000年代前半に掛けて、
風納土城の各地点の本格的な発掘調査とそれに基づく研究が相次いで行なわれたそうだ。
これによって、「風納土城が、百済首都の漢城であった」とする説が急速に有力視されるようになった。

この発掘調査に基づいた研究成果によれば、
風納土城は、或る時期一気に造り上げられたのではなく、
長い年月を掛けて徐々に出来上がっていったとみられてる。

(少数の出土品に基づいた或る見解によれば「紀元前200年前後から城壁の築造が始まった」とする説もあるけれども、これはかなり極論に近いようだ。)
一般的な出土品や遺構などの様々な状況や年代測定から観ると、「紀元元年前後から城壁の築造が始まった」とみるのが妥当なところらしい。
ただ、城壁が造り始められた時点ですでにこの場所に人が或る程度集住していたこと自体は、確実とされてる。
そして長年掛けての築城の末、「紀元200年前後に、城壁の築造が最終的に完成した」とみるのが妥当なところらしい。

なお、風納土城の完成時期を、「紀元3世紀中期〜後期」とする暫定的な見解もあるそうだが、
これは、土城内部の或る区域の、居住地址の関連遺跡の発掘状況から観た見解であるらしいので、
「土城」そのものの完成時期とは異なると考える必要があるようだ。

ところで、「風納土城のすぐ近くに夢村山城(紀元3世紀末あたりから築城開始)が築かれている」ということは、
言い換えれば「平地の都城と、その背後を守る山城」という配置として捉えることができるようだ。
後年の熊津遷都や しひ遷都に当たっても、これと同様の構想が採用されたと考えることができるらしい。
390世界@名無史さん:2010/07/09(金) 01:39:59 0
しかし、三世紀後半以降に百済の首都であった(かもしれない)というのと、
だからといって築城したのも百済ニダ、三国史記の正しさが証明されたニダと
いうのは全く別の話だな。
391世界@名無史さん:2010/07/09(金) 11:28:34 0
政治的・軍事的支配拠点とか通商の中継地点とかいうものは、適する立地というものが
地勢から自ずと決まってくるものだ。
人が通るところ、人が集るところ、この一点を押さえておけば周囲のかなり広い地域を
支配できるところ、という地点は、そんなに沢山はない。
その立地も、一旦、拠点となってしまえば、海面の上下でもなければ、あまり移動しなし、
無理な立地の都市や支配拠点は100年もたない。。
実際に、19世紀末までに都市か城砦が形成されて現在国家の首都になっている都市は、
一つの例外を除いて、すべて、そういう立地にある。
差し渡し300キロとか500キロとかの広さでの支配や通商の拠点になりそうな地点は、
朝鮮半島では、地形からみて、たった二つ。見事に、現在の国家の首都になっている、
ソウルと平壌の位置だし、百済がこの地を含む朝鮮半島の5分の1〜4分の1程度の面積を
長期間保持したことからみても、相応に説得力があるんだがなあ。
392世界@名無史さん:2010/07/09(金) 11:41:38 0
>>389
有難うございます。

またまたググってたら、ソウルが真番郡治に比定されてました。

http://baike.baidu.com/view/897929.htm

何か関係有るんでしょうか。
393世界@名無史さん:2010/07/25(日) 02:10:36 O
>>391
金城と開城はちがうのか。まあ二つとも王朝の始祖が出身地をそのまま首都にしたわけだし。
394世界@名無史さん:2010/07/25(日) 02:13:44 O
>>382
そのモト資料というのは文書?それとも歴史書?意外に数多いなあ。
395世界@名無史さん:2010/07/25(日) 18:04:12 0
>>391
漢水(漢江)を制するものは半島を制す、でしたからな
396世界@名無史さん:2010/07/25(日) 20:15:46 0
韓国人ほど不毛な生き物は存在しない。
397世界@名無史さん:2010/07/25(日) 22:05:56 O
三国史記と三国遺事より古い史書は本当に残ってないのだろうか?気になる。
398世界@名無史さん:2010/07/26(月) 10:21:57 0
べつにハゲばっかじゃないと思うが。
399世界@名無史さん:2010/07/26(月) 15:38:46 0
後漢書に「帯方故地に建国した」とある通り。(故地は故城の誤写だろう)
帯方県城はそのまま百済第一首都になったんだから
考古学だけで漢城か帯方県かと二択な言い方は間違ってる。
400世界@名無史さん:2010/07/26(月) 15:46:46 0
>>392
それ李丙濤の説。
真番郡は京畿道にあった説で、廃止になってから楽浪郡に併合された説。
日本だと井上秀雄が近かったかな。通説ではない。
中国では共産党政権下での公式学説がこれに近いような。
401世界@名無史さん:2010/07/27(火) 16:10:23 0
>400

有難うございます。

通説ではどうなのでしょうか。
わけわかですいません。
402世界@名無史さん:2010/07/27(火) 16:20:54 0
>>399

それは隋書でしょ。
403世界@名無史さん:2010/07/27(火) 20:18:03 0
>>394
数えられてるもとの史料は、みな史書の名前として出てるもの。
ただし、固有史料については事実上全て散逸してしまっているようで、
一部「発見された」という主張が挙がってるものもあるけど、それについては真贋論争が続いてる。
中国史料については、散逸していないものもいろいろある。
404世界@名無史さん:2010/07/27(火) 20:20:12 0
>>391さん

>>389を書いた者です。
地理的視点からのとても詳しい補足説明、ありがとうございます。
お礼が遅くなってすみません。
405世界@名無史さん:2010/07/27(火) 20:40:48 0
中国の湖北・湖南・江西から出土する竹簡は
8割が年代的に合わないといわれる。
C14測定をすると南宋時代に埋蔵したものといわれている。
南朝系の史料はダウトなものが多い。
406世界@名無史さん:2010/07/27(火) 20:59:39 0
>>405
一応書いときますと、
現在残ってる三国史記は、南宋の時代よりも前に編纂されたものですよ。
407世界@名無史さん:2010/08/01(日) 07:22:03 0
現在の三国史記の編纂時期、よく確かめてみると、
中国江南では南宋初期に当たってたね。
李奎報が著作の中で触れている旧三国史のほうは、現存してないので編纂時期不明。
408世界@名無史さん:2010/08/01(日) 17:02:09 0
>>401
その問題(真番郡の位置)についてのみだけど
国際的な通説はなく、国による。

北朝鮮や中国には定説がある。この両国では通説と定説の違いがあまりない。(中国の通説は>>400に近いが異説も認められてるっぽいので絶対的な定説というほどの扱いかどうかは知らない)

韓国には民間と学界が乖離していて、民間に流布してる通説は北朝鮮に近い。
学界は建前は民間と似たような話、本音での通説は>>400に近いが、この説を唱えた李炳涛は立派な偉い先生として尊敬される時と、日本帝国主義の御用学者として排撃される時があり、韓国の学者も裏表の使い分けがたいへんそう。

日本は真番郡の位置について通説も定説もないと思う。が、通説「っぽいもの」を挙げるとすれば
帝国書院その他から出てる高校世界史の歴史地図に
もう何十年も錦江流域を中心とした韓国の西半分が真番郡として出てる。
これ今西龍の説でむちゃくちゃ古い上に最近の有力説とも思えないので、出版社が惰性でやってるんだろうけども、
それにしても世間に流布してるという意味ではこれが通説といわざるをえない。

真番郡の位置については李朝時代の朝鮮から戦前の日本にかけて、長い論争史・学説史の実績があるが、日本の学者は地雷ふむ恐れがあり功績にもならないので触れたがらない。

ちなみに俺が支持するのは
慶尚道説。「真・番」は後世の「弁・辰」(辰韓弁韓)に当たる。(このことを指摘したのは意外にも韓国の学者だったけど本人は案の定真番郡否定派だった)
409世界@名無史さん:2010/08/01(日) 21:25:50 0
>真番郡の位置については李朝時代の朝鮮から戦前の日本にかけて、長い論争史・学説史の実績があるが、日本の学者は地雷ふむ恐れがあり功績にもならないので触れたがらない。

ワロタ っつーか笑っちゃいかんのだが・・・

漢四郡の半島内の存在すら頑として認めない民間の民族主義史観が
幅を利かせる南朝鮮は異世界だし。
410世界@名無史さん:2010/08/03(火) 14:28:16 0
>408

有難うございます。
よく分かりました。
私は基礎知識無くて、ただぐぐるだけですので、なにも分かってないんです。
411世界@名無史さん:2010/08/04(水) 06:58:06 0
>>410
じゃ何でも聞いて下されなよ。
412世界@名無史さん:2010/08/05(木) 02:09:55 0
> ちなみに俺が支持するのは
> 慶尚道説。「真・番」は後世の「弁・辰」

目からウロコ落ちた
413世界@名無史さん:2010/08/05(木) 10:35:57 0
すごいですよね。
真と辰はおんなじ読み、番と弁も似てるし。
中国語も同じなのかなー。
414世界@名無史さん:2010/08/05(木) 10:42:55 0
番と弁は違う母音だと思うよ。
日本語読みでも母音が違うから上古音でも違うはず。
二重母音の弁のほうが本当の音で、番のほうが言いやすい音なんだと思う。
415世界@名無史さん:2010/08/06(金) 13:30:36 0
いや、番の方が本来の音。なぜかというと理由は二つ。
第一には真番の方は史記から出てる古い名だが弁韓は三国志にならないと登場しない新しい名。
第二の理由はややこしいんだけど弁韓の語源説から説明しないといけない。「弁韓」の語源については古くは
白鳥庫吉だったかの十二支方角説や李炳涛の弁帽説などのイマイチな説しかなかったが
十二支説ってのは楽浪郡からみて馬韓は南だから「午」で馬、辰韓は東南東だから「辰」、弁韓は南南東だから「巳」で蛇なんだが
韓国語で蛇のことをカラというんだが弁(かぶりもの)のことも韓国語でカラというから、弁というのはカラの訓を利用して蛇を表わしたものという説。
これは午韓・辰韓・巳韓か馬韓・龍韓・蛇韓のどっちかで統一されてるならともかく、かなり苦しい説。後世の韓国語までもちだしてこじつけっぽい。でも当て字する漢字が同音の選択肢の中からえらばれた理由ぐらいにはなるかも知れない。
弁帽説は弁帽(慶尚道から出土する金細工で飾られた冠)が特徴的な地域だったので「弁韓」と呼ばれたというのだが、それは弁韓と辰韓にほぼ共通なんだよね
(もっとも李炳涛は通説の辰韓地域も弁韓に含めちゃって辰韓をまったく無関係な場所にあてはめる珍説を唱えてるから彼の中では矛盾はないが)。
それに李炳涛の説では馬韓は「乾馬国」を中心とする諸韓国、辰韓は「斯蘆国」を中心とする諸韓国としていて、馬韓辰韓の語源説明と弁韓の語源説明に一貫性がない(続く)
(ちなみに斯蘆は現代韓国語ではサロだが上古音[si-lo]、古代朝鮮語と現代朝鮮語とで仮に単語や文法は違ったとしても音韻的にはLとNが入れ替わる傾向が古くからあったと仮定すれば頭音を「辰」[sin]で表わしたと推測できる)。
416世界@名無史さん:2010/08/06(金) 13:34:10 0
(>>415から続き)今は「半路国(路は跛の誤写で「半跛」が正しい)を中心とする諸韓国」の意味という説が最有力じゃないかな。
そうすれば三韓すべての語源説明が中心的な国の名からきてることになる。
弁韓の中心たる三国志の半路国ってのは日本書紀では「伴跛」(はへ)と書いてる。
大加羅と伴跛は同一とする説と別の国とする説があったが今は同一国とみるのが通説。
つまり「半=弁」。
魏略には辰韓とならんで「牟韓」というのが出てくる。これを「む」と「ま」が通音だとして馬韓のこととする説もあるが
通説では弁韓の誤りとされている。これは王莽の地皇年間のことだから三国志よりずいぶん古い。
三国史記だか三国遺事だがでは「卞韓」とも書いてる。「下」の上に点のある珍しい字だがこれもベンと読む、
どっから出てきたのか?これも朝鮮側史料には珍しく古い記録の断片と思う。
で、もしかしたら古くは「半韓」だったんじゃないのかな。
「弁」は「牟」と似てるが「卞」とは似てない。しかし「半」はどっちとも似てるから
中国では「半」→「牟」→「弁」と誤写されてきた流れがあり朝鮮ではと「半」→「卞」と誤写されたのではないか。
誤写が名称として定着してしまった例は「夫祖」(ふそ)→「沃沮」(よくそ)ってのもある。
番はツクリになって「は(播)」や「はん(幡)」と読む字になるから「半」と「番」は近い。
…とここまで書いてきてなんだが、仮に「牟韓」や「卞韓」の例が使えないとしても、弁と番は確かに同音ではないがアバウトに類似音といっていいと思う。
417世界@名無史さん:2010/08/11(水) 06:29:55 0
>>416
訂正

×夫祖→沃沮

○夫租→沃沮
418世界@名無史さん:2010/08/15(日) 18:10:51 O
>>382
戦前に日本人が朝鮮から歴史書を持ってきたが、関東大震災で焼けたということがあった。
まさかいくつかを日本人が…
419世界@名無史さん:2010/08/15(日) 19:20:42 O
420世界@名無史さん:2010/08/15(日) 19:31:47 O
「弁」の訓読みは「カラ」なんだろ。
421世界@名無史さん:2010/08/16(月) 22:51:26 O
>>416
置きっぱなしにして忘れ去られたものもありそうだな。探してみる価値はある。

それにしても、統一新羅の話とか全く出てこないな。
422世界@名無史さん:2010/08/17(火) 12:34:22 0
>>418-420
で?
423世界@名無史さん:2010/08/19(木) 11:52:10 0
>>393
三韓時代どころか、李朝の末期まで、朝鮮半島は部族制だぞ。
この時代は首都もへったくれもない、都の実態なんかなくて、一番強い部族の首領が
単に王様の称号かぶっているだけ。街でもなんでもないわけだ。
まぁ、しばしば、他の部族の親分やら遣いやらを呼びつけるから、自然とそこに街の
ようなものはできてくるが。
424世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:04:15 0
【“朝鮮半島の2000年史”の歴史は朝鮮人の歴史ではなかった!!】
1  檀君朝鮮はまったくの神話、中国のどの歴史書にも登場しない
2  箕子朝鮮は伝説上の国、中国人の箕子が建国した中国人の国家。『史記』巻38宋微子世家「武王既克殷、
訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮」
3  衛氏朝鮮は考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家で、燕王盧綰の部将であった、衛満が朝鮮に亡命し建てた亡命政権
4  もちろん衛氏朝鮮の王も朝鮮人ではない『史記』朝鮮列伝「朝鮮王滿者、故燕人也(朝鮮王、満は燕国人である)」
5  衛氏朝鮮もBC108年に前漢の武帝に滅ぼされ、故地に楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡が設置され朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地
6  『後漢書』に「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。」とあり、
箕子朝鮮の最後の王、準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、その馬韓が百済になった
7  百済は扶余系民族だから言語的にも民族的にも今の韓国人は殆ど関係ない
8  新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国
9  『北史』新羅伝「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、
馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。」「新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地
は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来
した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている」
10 『後漢書』辰韓伝 「辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、
行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。」「辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界
の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と
呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。」
425世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:05:56 0
11 高句麗と渤海はツングース民族で、同じツングース民族の満州族系 「高句麗→金国→後金国=清国(女真族のご先祖)」
12 濱田耕策「夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族(Yahoo!百科事典)」、黄文雄「遼東や北満の地は、か
つて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である(黄文雄著『韓国は日本人がつくった』)」
「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数
民族の一つ、満州族の祖先である(黄文雄著『満州国は日本の植民地ではなかった』)」、鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世
紀末、ツングース系の?族によって建国(鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』)」、山川出版社『世界史用語集』「【高句麗】
中国東北地方東部のツングース系貊族の夫余族の国」、護雅夫「高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族であり、
4世紀から6世紀の初めにかけての最盛期には朝鮮半島の大半と南満州とを勢力圏に収めた(Yahoo!百科事典)」、森安孝夫
「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系
の民族国家(Yahoo!百科事典)」、藤本和貴夫「7〜10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建て
られた(Yahoo!百科事典)」、広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」、
大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」
13 唐が高句麗・百済を滅ぼし、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府とした為、朝鮮半島全域が一時期中国領となった
14 ちなみに弥生人は朝鮮人ではない1999年3月18日に、すでに江南人骨日中共同調査団が
「長江下流域の古人骨と北部九州・山口の渡来系弥生人骨のミトコンドリアDNAが一致した」と発表している。
426世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:07:31 0
15 結論として朝鮮民族は新羅が直接のご先祖。でも・・・悲しいことに
16 その新羅も王は朝鮮人ではありません、日本人でした。
金氏王統の始祖瓠公は日本人
(瓠公は新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物)
『三国史記』新羅本紀「瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公。」
(瓠公は、その族と姓は未詳。本は倭人。初めは腰に瓢箪をぶらさげて海を渡って来たことから、瓠公と称される。)

昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)は日本人
『三国史記』新羅本紀「脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。」
(脱解、本来は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里に在る。)
17 それもそのはず古代において半島南部は日本の属国でした
『隋書倭人伝』新羅 百濟皆以倭為大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來
(新羅と百済は倭国を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに倭国を大国として敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している。)

『広開土王碑文』
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
(そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。)
18 高麗を征服した元は朝鮮半島北西部に東寧府、双城総管府の植民地を設置
19 1259年、高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、その息子忠烈王は、1260年に大ハーンに即位したフビライ
の娘婿となった。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、
父の死後、高麗王の位を継ぐのが習慣となった。高麗王の母は、みなモンゴル人になったの
20 李氏朝鮮も実は、朝鮮人王朝では無く、女真族王朝だったの。なのに女真族ををオランケと呼び差別していた
21 15世紀の李氏朝鮮の世宗の時代に侵略して併合し、朝鮮の領土に組み込むまでは、李成桂の出身地の咸鏡道を含む
朝鮮半島北部(咸鏡道、平安道)は女真族居住地域であり、女真族の領土だったの
22 李成桂は女真族の酋長の李之蘭と義兄弟の契りを結ぶなど、李一族は女真族の配下を多数抱えていたの
427世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:10:28 0
23 女真族はモンゴル名を持っており、父李子春は吾魯思不花というモンゴル名を持っており、さらに祖父李椿は孛顔帖木兒、
李子春の同母兄李子興は塔思不花、李子春の兄弟も完者不花、那海などモンゴル名を持っており、モンゴル語で書かれた
一族の家系図から、李一族のモンゴル名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていないの
24 元に仕える行政長官ダルガチは、原則としてモンゴル人か色目人が任用されたが、元初期には一部の南人や契丹人、
女真族が、モンゴル名を持つことでモンゴル人とみなされ任用されたが、李成桂の四代前の高祖父李安社はダルガチだったの
25 千戸長として女真族の統治を行っていたの
26 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。
生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。(三海陽にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、
度祖(李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。彼は女真で育ち(女真の族長になった)、
腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった)」
という記事があり、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然なの

※朝鮮民族が建てた朝鮮民族による朝鮮民族の為の国家は有史以来存在しません。
箕子朝鮮は中国の殷の中国人箕子の国で、衛氏朝鮮は中国の燕の中国人衛満の国で、
箕子朝鮮の準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、馬韓が百済となり、その後は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡が設置され、
朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地で、高句麗と渤海はツングース民族で同じツングース民族の満州族と同系で、
新羅は『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国で、
その後、唐が旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として朝鮮半島全域を支配して、
高麗王朝時代には朝鮮半島北西部は東寧府、双城総管府の植民地となり、忠烈王以後のの高麗王はモンゴル人で、
李氏朝鮮の創始者で朝鮮王の李成桂は女真族。
428世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:12:08 0
ウィキペディア-WikiScanner
http://ja.wikipedia.org/wiki/WikiScanner

駐日アメリカ合衆国大使館から接続のIPユーザーが朝鮮の歴史の朝鮮近代史の項目を削除し、「朝鮮に歴史なし 昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」と書き込む

ウィキペディア-朝鮮半島を中国とみなす記述
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%99%E8%A8%98%E8%BF%B0

スペインの有力紙『エル・ムンド』(El mundo) は、朝鮮は建国時点である紀元前2333年から日清戦争の1895年までの4228年
間にわたって中国の植民地だったと紹介した。『エル・ムンド』は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に
1895年まで属していたが、1910年の韓国併合までの15年間にわたって独立を味わったりもした」と報じた。

CNNは韓国が元々中国植民地だったと報道し、ヒストリーチャンネルは平壌を中国植民地だと報道した。

台湾政府の外郭団体である中国語ネットワーク教育センターは、ホームページ上に「歴史的に、韓国は中国の植民地だった」と
掲載している。

ヒストリーチャンネルはウェブサイトで韓国の全体の歴史が「日本と中国の従属国」だったと紹介し、「韓国は韓国の全ての歴史
をひっくるめて中国と日本から強力な影響を受けた国家(Chinese and Japanese influences have been strong throughout
Korean history)」と叙述し、また「韓国を最初に建国したのは中国の学者箕子で、韓国は中国の植民地から最初の国家が始ま
った中国の植民地国家だった」と叙述した。また、丙子胡乱以後は中国の植民地になり、外国との接触を絶って「隠遁の王国」
に転落したと紹介した。

1478年から現在まで、アメリカをはじめ、日本、カナダ、中国など世界約50か国で教科書を出版しているオックスフォード大学の
出版社が制作している中学校課程教科書は、古代中国の領土を表記した「古代の世界」の1ページで、朝鮮半島全体を中国領
土に含ませている。
429世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:13:19 0
外国教育機関、百科事典、博物館、図書館などで中国の漢、元、清などの歴史を紹介する世界地図が朝鮮半島全体を中国領
と表記している。例えば、中国の国営放送CCTVのサイトは元の時期の世界地図に朝鮮半島全体を中国の土地として紹介し、
米国のミネアポリス美術館のサイトも元の時代の朝鮮半島を中国の領土と表記している。また百科事典「グロリア」と歴史サイト
「ハウ・ツー・フットワーク」、図書館サイト「アイビブリオ」は清の時代に朝鮮半島を中国の土地と同じ色で塗り、百科事典「ニュ
ー・ワールド・エンサイクロペディア」をはじめとして学術機関「カルチャー・チャイナ」「ピッツバーグ大学」「ミネソタ州立大学」等
のサイトは漢江北側を、中国紹介サイト「スーパートレース」と「NEN」などは全羅北道北側地域まで中国領としている。

世界銀行、イギリス公共放送局チャンネル4を含めた外国教育機関、教科書出版社、ポータルサイト、百科事典など34の機関
の世界地図で韓国を中国領として表記している。例えば世界的なファーストフード会社のバーガーキングは自社のホームペー
ジで朝鮮半島を中国領として表記している他、アメリカの有名旅行情報サイトのゲート1トラベルは北朝鮮を中国領として表記し
ている。また、ニュージーランドの茶販売会社ベル・ティー・カンパニーは、自社サイトで韓国を中国領としている。

バロンズ社が発行しているアメリカの大学進学適性試験の教材は、新羅を朝鮮半島で初の国家と表記している。

Yahoo!シンガポールはアジア地図で韓国を中国の領土と表記していた。

2006年にCIAが国家情報報告において、「韓国は1000年間独立国家だったが、日露戦争により日本が占領した」と紹介した。
これに対してVANKは、「これは西暦1000年以前は独立国家ではなかったという意味だ」と批判している。

世界の1億人を対象にした教科書を出版しているピアソン・エデュケーションは、韓国を中国の属国に定義付ける世界史の試験
問題を出題している。

アメリカの世界史教科書では万里の長城が鴨緑江近隣までのびている地図が掲載され、「1640年代に韓国は中国・清王朝の
属国になった」と記述されている。
430世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:16:23 0
アルゼンチンの教科書には「韓国は中国語使用地域」と書かれている。

「朝鮮は近代に至るまで、その国内での抵抗にかかわらず、中国と日本の属国だった」(オーストラリアの教科書)

「朝鮮は、その歴史の大部分で中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹
立することによって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」(フィリピンの教科書)

「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」(タイの教科書)

「朝鮮は中国の従属国」(アメリカの教科書)

「朝鮮は、数百年間中国の属国」(カナダの教科書)

「朝鮮は永らく中国の属国だった」(インドの教科書)

「紀元1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」(ポーランドの教科書)

「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀のことだった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、
唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」 (ドイツの教科書)

「朝鮮を中国の属国」と記し、「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」「朝鮮は言論・宗教の自由が制
約を受ける国」「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」(インドネシアの教科書)

「(日清戦争で)日本の勝利となり、下関条約が結ばれ朝鮮の独立が認められた」(『中等世界史』 韓国・英志文化社 1959年)

「朝鮮は清の半属国だった(『高等世界史』 韓国・教友社 1962年)」
431世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:18:44 0
黄文雄は、著書で「これまで清国の伝統的な属国であったベトナムはフランスに横取されてしまったが、残る伝統的属国の朝
鮮は、もう誰にも渡すわけにはいかない。(略)そこで、新疆や台湾のように、朝鮮も中国の属領から正式な領土にするため「朝
鮮省」を設立し、郡県制とする断行案を検討した。そうすることで、列強諸国に対して朝鮮は清国の絶対不可分で永久割譲の固
有領土だとアピールした。(略)呉長慶は、この反乱をうまく鎮圧できれば、「遼東三省と左堤右挈し、実に東方の一大塀障」、つ
まり中国の遼東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなし、と考えていたのである。(略)なかでも有名なのは、科挙状元
出身のエリートで、呉長慶の幕下に身を投じて積極的な対外政策を論じてきた張謇の『朝鮮善後六策』である。それについて
は、田保橋潔氏(京城帝国大学教授)が大要をまとめているので、ここで引用したい。『1.漢四郡建置の例に従ひ、朝鮮国王を
廃し、其地を清の一省とする。2.朝鮮国王を存置するとしても、周の例に従ひ、監国を置く。3.有力なる軍隊を派遣して。其海港
を清の監理の下に置く。4.朝鮮の内政革新を断行する』これ以外にも、張謇は『六策』で次のようなことを言っている。「あるいは
内政の自己改革と新軍の訓練を、我が東三省とつらねて、一気と為す」。清国の東三省から朝鮮省をも含めて「東四省」とし、
(略)張謇が提案した、清国が李朝国王を廃して監国にする、つまり、属藩扱いにするという政策は、清朝以前の早い時期にも
あった。明の太祖朱元璋が、李氏朝鮮をつくった李成桂に対して監国の地位だけを下賜あい、国王の地位を与えなかったのも
そのためだ。中国人からすれば、朝鮮は漢の時代から中国の一部なのだ。中国の歴代王朝の封国といえば、漢時代の「呉楚
七国の乱」で知られる呉や楚が挙げられるが、それよりもさらに一段下の外藩、つまり外様大名ていどしか見なされていなかっ
た。そもそも、朝鮮をつくったのは中国の箕子だと、中国人は主張するほどなのだから。そのため、張謇の『朝鮮善後六策』のよ
うな考え方は、中国人の一般的な伝統的朝鮮属国観なのだ。中国が中華民国になった近現代でも、この中国人の朝鮮版図観

432世界@名無史さん:2010/08/22(日) 03:20:35 0
はたいして変わっていない。たとえば、蒋介石は、太平洋戦争後の対日処理を協議した1943年11月のカイロ会談に出席した当
時、船上にてルーズベルト大統領に高麗の返還を要求している。もちろん、ルーズベルト大統領は、このとんでもない要求を拒
んでいる。朝鮮人も属国であることにマヒしているため、「朝鮮省」の設置をむしろ、「小中華」から「大中華」への昇格だと喜び、
中国を恨むどころか、恩恵と謝恩を感じるべきだと思っていた。とくに、これまで大中国人やら大中華人になりたくてもなれなか
った支那人かぶれの両班にとっては、願ってもない恩寵なのである」「モンゴル人が明によって万里の長城の外まで追われ
ると、朝鮮朝の太祖である李成桂は高麗朝から政権を奪い、モンゴル人を叩いて事大の対象を元から明へと鞍替えした。明が
遼東半島に進出していたころ、朝鮮人は明の先頭を切って満州人を征伐したため満州人から恨まれた。そのため、満州人の朝
鮮人に対する大規模な逆襲である丁卯胡乱と丙子胡乱が起こり、朝鮮は清の属国となった。明から清に主人を替えた後の朝
鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っていたはずなの
に、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。(略)満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友
のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度
は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。(略)明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝
鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、
明人を虐殺した」「長城外の夷狄だけでなく、西南のチベット系民族吐蕃でさえ中華世界を一度は征服するか、都を占領し
脅威を与えているのに、朝鮮だけは中華の脅威になったことすらありません。朝鮮は大中華に君臣の礼、君父に忠のみだった
のです。『四夷八蛮が皆中原に入ったのにただただ朝鮮だけできずにいる。こんな情けない国に長生きしていてもどうにもなら
ない』と嘆きつつ亡くなった林白湖という儒者がいるほどです」と書いている。

433世界@名無史さん:2010/08/22(日) 13:42:04 0
ここは古代史スレですので
近現代史の話とか政治の話とかは他スレでやってください。
434世界@名無史さん
>>430
三別抄とか、丙子胡乱での抵抗とか、第二次世界大戦での敗戦が伝わってからの暴動とか、
その程度だしなあ。