東ハンガリー王国=トランシルヴァニア侯国

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1世界@名無史さん
北西部のハプスブルク領、首都のブダを含む南部のオスマン帝国領 
オスマン帝国に自治を認められた東部のトランシルヴァニアと 
ハンガリーが3分割された1541年からカルロヴィッツ条約により 
オーストリアに割譲される1699年までのトランシルヴァニアについて。 

サポヤイ・ヤーノシュの統治期、その妻イザベラの摂政期 
二人の息子ヤーノシュ・ジグモンド。サポヤイ家による統治。 
それ以降のバートリ家、ミハイ勇敢公、ボチカイ・イシュトヴァーン 
ベトレン・ガーボル、ラーコーツィ家、アパフィ家などによる統治。 
ユニテリアン教会創設者ダーヴィド・フェレンツとユニテリアン派と宗教改革。 
エゲルの星ドボー・イシュトヴァーン、宮廷音楽家バーリント・バクファルク 
反乱の将テケリ・イムレ、流血の伯爵夫人バートリ・エルジェーベトなど。 
現在のトランシルヴァニアの民族問題も含め色々と語りましょう。
2世界@名無史さん:2008/12/25(木) 07:58:48 0
    |┃三 ガラッ! ┌───┐ミ 
    |┃       | 2ゲット! |  
    |┃ ≡ 〆⌒└─┬─┘ミ
____.|┃   ( ___)│    サッ 
    |┃=  (_》 ^ω^)E)   
    |┃ ≡⊂     ノ  
3世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:00:30 0

923 :世界@名無史さん:2008/11/03(月) 00:30:26 0
この本参考になりますか?
http://www.hup.gr.jp/details/ISBN978-4-8329-6686-4.htm


925 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/03(月) 16:13:14 0
>923
参考になるかどうか・・というのは、読まれる方の興味の在りようと関連する
ことですので、一概には言いがたいかと思います。
元々が著者の方の執筆された論文を集めたものですので、一般的な書籍では
ありません。著者の執筆された論文はグーグルスカラーで検索すれば、PDF
でダウンロードできるものもありますので、それを読んでみられてはいかがで
しょうか?
4世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:02:22 0

926 :923:2008/11/03(月) 19:00:13 0
>>925
ありがとうございます。
実はエリザベート・バートリがきっかけでハンガリーの歴史に興味を持った口です。
エリザベート・バートリの時代背景について色々知りたくてその書籍に興味を持った次第でございます。
このスレやエリザベートのWikipediaを拝見しましたが何かとわからないことがあったので色々質問させてください。
つい最近調べ始めたので殆ど素人同然ですがよろしくお願いします。


・ハプスブルク家とバートリ家統治期のトランシルヴァニアとの関係について
調べたらルドルフ2世、ボチカイ・イシュトヴァーン、ミハイ勇敢公、バートリ・アンドラーシュ、
バートリ・ガーボル、ベトレン・ガーボルなどの人物が出てきたのですが日本語のサイトが
少ないので彼らの関係が詳しくわかりませんでした。
後、1599年の「シェリムバルの戦い」の背景についても詳しく知りたいです。


・Nádor(Palatine)について...
これはハンガリーでいう副王ということなのでしょうか?
5世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:03:41 0

927 :923:2008/11/03(月) 19:00:51 0
・トゥルゾー家とトゥルゾー・ジェルジについて...
トゥルゾー家は当時でいうメディチ家のような存在だったのでしょうか?
トゥルゾー家の他にフッガー家というのが出てきました。


・Illésházy家とIllésházy Istvánについて...
Illésházy. István が1608年に Nádor に、その僅か1年後の1609年に
亡くなっているようですが暗殺でもされたのでしょうか?


・エリザベートの夫フェレンツ、その父タマーシュ、ナーダジュディ家について...
フェレンツはオスマン帝国との戦いの英雄だそうですが具体的にどの戦いに参加したのでしょうか?
フェレンツの父タマーシュは1554年から1562年までNádorだったようですがナーダジュディ家は
16世紀当時どれくらいの地位にいたのでしょうか?


・エリザベートの次女カタリンが嫁いだホモンナイ=ドルゲト・ジェルジについて...
スロバキア版Wikipediaに記述がありましたが全く読めませんでしたorz
ttp://sk.wikipedia.org/wiki/Juraj_III._Drugeth


よろしくお願いします。
6世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:05:14 0

928 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/03(月) 21:40:41 0
さすがに一度にはお答えいたしかねますし、私自身知らないことの方が
多いです。

まず、紹介になっておられた本の件ですが、興味の対象の時代背景、ハ
プスブルク家の宗教政策と、それに反発したハンガリー貴族の反乱を
知るには良いかと思います。前に書かせていただいたとおり、内容の一
部はPDFで読めますので、まずそれをご覧になることをお勧めします。

後は、お答えできるものから、なんとかお答えできればと思いますので、
ご容赦を。


929 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/03(月) 22:01:31 0
PDF「近世ハンガリー王国における「信教の自由」」
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/48/iio.pdf

Nádor(Palatine)
これは「副王」でよろしいかと思います。
7世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:06:53 0

930 :世界@名無史さん:2008/11/04(火) 14:29:08 0
>>928-929
ありがとうございます。

> Illésházy,István (1540-1609)
> ハンガリー王国の西部の最有力貴族の一人であったが、ルドルフと対立し、
> 1603年には所領を没収されポーランドに逃亡していた。ボチカイの蜂起後に帰国し、
> ボチカイ側に立って和平交渉を指揮した。

イーレーシュハージ・イシュトヴァーンはハプスブルク家と対立していたのですね。
ボチカイ・イシュトヴァーンが1606年に死去?
その2年後にイーレーシュハージ・イシュトヴァーンが副王になりその1年後に死去。
同年の1609年にトゥルゾー・ジェルジが副王になっていますね。 凄く気になります。
トゥルゾー・ジェルジはハプスブルク側の人間だったんでしょうか?

もう一つ質問を...

エリザベートの次男パールはレーヴァイ家?のユディトという女性との間にフェレンツという子供がいるようですね。
このフェレンツは1671年にズリーニ・ペーテル、フランコパン・フェレンツという人物たちと一緒に処刑されたようですが
何故処刑されたのでしょうか?
ttp://hu.wikipedia.org/wiki/Nádasdy_Ferenc_(főúr)
ttp://sk.wikipedia.org/wiki/František_II._Nádašdy
ttp://sk.wikipedia.org/wiki/Druget
因みに↑を見たらナーダジュディ家、ドルゲト家を含めれば彼女の子孫はかなりいるようですね。


答えられる範囲で結構ですのでよろしくお願いします。
何か質問ばかりですいません…。
8世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:09:34 0

931 :世界@名無史さん:2008/11/05(水) 16:53:48 0
ここにかなり詳細に載ってるけど如何せんGoogleの翻訳機能がいい加減すぎる。
http://slachta.kosztolanyi.com/modules.php?name=K88_News&file=article&sid=66
トゥルゾーに関してはハンガリーよりスロバキアの方が詳しそう。


932 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/06(木) 01:17:05 0
週末まではまとまった時間がないので、お答えできる範囲で

>このフェレンツは1671年にズリーニ・ペーテル、フランコパン・フェレンツという人物たちと一緒に処刑されたようですが
ハプスブルク家に対する反乱計画が発覚したのです。
恒文社のハンガリー史1巻206〜209ページあたりをご参照ください。

トルゥゾー家は元々はポーランド出身で、鉱山開発技術を持って取り立てられました。
フッガー家とバンスカビストリッツァー鉱山を共同経営していましたが、財閥ではありません。


933 :世界@名無史さん:2008/11/06(木) 23:33:44 0
>>931-932
ありがとうございます。

確かにスロバキア語を翻訳するのは難しそうですね。
そのサイトに載せられている書面の内容が気になります。

トゥルゾー家もフッガー家と同じく財閥だと思っていました。
貴族なのでしょうか?
9世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:11:02 0

940 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/09(日) 21:59:28 0
トゥルゾー家ですが、鉱山を経営していた市民が貴族になった家系です。
手元の「フッガー家の遺産」諸田實著に多少の記載がありました。
・1469年以来、ポーランドのクラクフ近郊のモジラで鋳造所を経営していた。
・優れた銅の精錬技術を有していた。
・1494年、ハンス・トゥルゾーと息子のゲオルグはノイゾール(バンスカビ
 ストリッツァ)鉱山の採掘権をハンガリー王室から16年間賃借する契約を締結、
 採掘に必要な資金をフッガーが出資した(地元の反対で契約期間は10年に短縮)
・鉱山の経営はトゥルゾーの名で行われていたが、1498年に権益の半分が正式に
 フッガーに譲渡された。王室(この当時はヤゲヴォ王家)はトゥルゾーとフッガー
 を頼るようになり、両者は7つの鉱山都市で特権を得ていた。
・1508年に「フッガーの先導役を果たしたトゥルゾー」が死ぬと、5人の息子の
 うち3人が司教になっていたが、そのうちのブレスラウ司教四版と、俗界に残った
 アレクシスとゲオルグがフッガーと事業を続けた。
・アレクシスはブダペストの宮廷で高官になり、ゲオルグは事業に専念した。
・ゲオルグの妻はヤーコブ・フッガーの姪のアンナであり、ヤーコブの甥のライムン
 トはカタリーナ・トゥルゾーを妻に迎えている。
10世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:12:09 0

941 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/09(日) 22:00:17 0
フッガーとトゥルゾーの関係は、ハンガリー宮廷内における、親ハプスブルク派対サポヤイ
ヤノシュを筆頭にする民族派の対立に巻き込まれて、一旦途切れます。
資金不足を貨幣の悪鋳で補おうとしたことが原因で、物価が上昇し、これに
起因した暴動が発生した原因として、フッガーとトゥルゾーが槍玉に挙げられたのですが
、大蔵大臣をしており、責めを負うべきアレクシス・トゥルゾーがヤーコプ・フッガー
に責任を転嫁し、フッガーの財産が差し押さえられることになってしまったのです。
ヤーコプはその政治力を使って、反撃し、ハンガリー王室に譲歩させることに
成功しましたが、その知らせを知る前に死去、ハンガリー王室もオスマン帝国軍の攻撃の
前にモハーチで大敗北を喫し、国王ラヨシュ2世が陣没するという悲惨な状況に至ります。
当時の人々は、フッガーを怒らせておらず、資金援助が受けられていたならば、
こんなことにならなかっただろうと言ったそうです。

ヤーコプの後は、アントーン(カタリーナ・トゥルゾーの婿)が継ぎました。
ハプスブルク家と結び、同家のフェルディナントがボヘミア王・ハンガリー王
になることを援助しています。

さて、トゥルゾー家ですが、アレクシスはモハーチ戦後の1532年に副王に就任しております。
フッガーとの関係がどうなったのかは、手元資料には登場しません。
11世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:13:47 0

942 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/09(日) 22:25:49 0
上記の資料はドイツ語の人名表記になっているのでご注意を。
アレクシスはThurzó Elekと

さて、エリーザベトの事件に登場するトゥルゾー・ジョルジですが、
この家系はトゥルゾー家でも別系統で、さっき出てきたブレスラウ司教
ヨハンの父の兄弟(弟)の末裔で、貴族化したのは二トラ司教だったフ
ェレンツという人物が、アルバ(今のスロバキアのオラバ)のZupan(知
事と訳すのでしょうか)になって時からのようです。彼の息子が、問題の
ジョルジです。

調べるのに暇がかかって申し訳ないですが、手元の資料でわかるのはこの
程度です。


943 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/09(日) 22:34:39 0
>トルゥゾー家は元々はポーランド出身
ウイキペディアで申し訳ないですが、
「先祖はオーストリア南部からやってきて、セペシュ県のBetlanovce村に
住み着いた。」とありました。そこからポーランドやハンガリー・シレジア
へ出て行ったそうです。

ポーランド出身というのは誤りのようですので、お詫びして訂正いたします。
ご参考
http://en.wikipedia.org/wiki/Thurzo
12世界@名無史さん:2008/12/25(木) 19:16:07 0

968 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆Koh4tO4M8g :2008/11/27(木) 22:59:11 0
>Illésházy. István が1608年に Nádor に、その僅か1年後の1609年に
>亡くなっているようですが暗殺でもされたのでしょうか?
イレシュハージ・イシュトヴァーンについては私もよくわかりません。
ただ、暗殺されるような事態が起こっていれば、なんらかの記載がある
ようにも思いますが・・。

トゥルゾー家については、鉱山関係の資料を見ていたら記載を発見しました。
それによると、やはりクラクフ出身で、優れた鉱山の排水技術を持っていて
今のスロバキア地域の鉱山をまかされたとありました。
13世界@名無史さん:2008/12/28(日) 20:02:20 0
14世界@名無史さん:2008/12/29(月) 20:41:56 0
15世界@名無史さん:2008/12/29(月) 22:28:36 0
この時代のハンガリーでは、突如、トルコ兵が地平線の彼方にやってきて
掠奪をし、さらわれた人間はイスタンブールその他の奴隷市場で売りに
出される、なんてことがしょっちゅうあったらしい。
16世界@名無史さん:2008/12/30(火) 19:08:25 0
女子供などいくらでも差し上げますのでハプスブルクのやつらから
守ってくださいねオスマン帝国さん。
17 【凶】 【1457円】 :2009/01/01(木) 11:06:28 0
18世界@名無史さん:2009/01/02(金) 01:47:22 O
オスマンの属国だろう?
19世界@名無史さん:2009/01/03(土) 22:26:58 0
ヨーロッパの李氏朝鮮
20世界@名無史さん:2009/01/04(日) 02:57:52 O
ツルバニアファミリー
オーストリア・スロヴェニアあたりでも略奪を受けていますね。
「ティルケン・グロッケン」というらしいですが、教会の鐘を鳴らして
来襲を知らせるそうです。
トランシルバニアの要塞教会も略奪部隊対策です。
本屋に行ったら「ハンガリー人 光と影の千年史」パウル・レンドヴァイ著
という本が置いてあったので購入してきました。トランシルバニア公に関す
る記述も多くあるので、ご覧になってみてはいかがですか。
23世界@名無史さん:2009/01/06(火) 10:28:07 0
『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』(山川出版社)に、

ヨーロッパは容易に定義しがたい歴史的地域であるが、15、16世紀のころに
ついていえば、「オスマン朝の支配が及ばなかった地域」と重ねてとらえることは
できないであろうか。歴史的にみれば「ウィーンから西」の地域に相当し、
それはより西方の人々にとって、「守るべきところ」と強く意識されたところ、
すなわち彼らにとっての「ヨーロッパ」だったのではなかろうか。
ハンガリーは、1526年モハーチの戦いでは西方からの支援を得られなかった。
より西方の人々からみて「守るべきところ」ではなかったのであり、その意味で
「ヨーロッパ」ではなかった。一方、1529年にウィーンが包囲された際、
ハプスブルク家が防衛に動いたのはもとより当然ながら、バイエルン侯率いる
2万人もの軍勢が防備を固めたといわれる。オスマン朝のウィーン包囲失敗の
要因として、しばしば悪天候、兵站の問題などが指摘される。それぞれうなずける
ところであるが、ウィーン包囲の際はハンガリー征服の場合と異なってヨーロッパ側の
対処・準備が真剣かつ周到であったこともあわせて考慮すべきであろう。
(中略)
また、オスマン朝の支配が及ばなかったのは、主としてドイツ人の領域(ドイツ、
オーストリア、ボヘミア)、ポーランド人の領域、イタリア人の領域、および
それらから西の地域に相当するようにみえる。それらの領域こそが、オスマン朝から
「守られるべき世界」すなわち西ヨーロッパにとっての「ヨーロッパ」だったの
ではあるまいか。オスマン朝がウィーンを越えて西にはいれなかったのは、自らの
世界へはいらせまいとする「ドイツ」的な強い意思があったからとも考えられよう。

という指摘があった。
24世界@名無史さん:2009/01/07(水) 18:59:40 0
>>21-22
>ギシュクラ・ヤーノシュさん
お久しぶりです。前スレで質問した者です。
引き続きレスお待ちしています。
>ハンガリー人 光と影の千年史
面白そうなので読んでみたいと思います。


>>23
ハンガリーやバルカン地域は本当の意味でヨーロッパ人の考える
ヨーロッパにはなれなかったということですね。
25世界@名無史さん:2009/01/07(水) 19:11:27 0
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5f/Hungary_1550.png
この地図を見て気になったのですが、トランシルヴァニア側の
“Esced”という土地がハプスブルク領なのは何故でしょうか?
“Esced”といえばバートリ家に縁のある土地だと聞いてます。
26世界@名無史さん:2009/01/07(水) 19:40:51 0
EscedではなくEcsedでした。
27世界@名無史さん:2009/01/08(木) 08:35:01 0
トランシルヴァニアの名門貴族バートリ家の始祖バートリ・オポシュは、エチェドの沼地の竜を殺し、
そこからバートリ家の紋章には三本の竜の歯が描かれることになった。
そのとき使った鎚が家宝として伝わっていたという。
28世界@名無史さん:2009/01/14(水) 00:03:32 0
東洪王国
29世界@名無史さん:2009/01/14(水) 09:51:28 0
オスプレイ・メンアットアームズあたりで
"Armies of Ottoman-Habsburg Frontiers"なんてのが出ないかと思ってるのは俺だけ?
30世界@名無史さん:2009/01/18(日) 16:43:46 0
あげ
31世界@名無史さん:2009/01/18(日) 19:44:10 0
ハイドゥク
32世界@名無史さん:2009/02/04(水) 21:40:10 0
33世界@名無史さん:2009/02/09(月) 21:49:13 0
欧州映画の舞台によくなる地域だ
ドラキュラのせい?
34世界@名無史さん:2009/02/09(月) 22:15:54 0
ドラキュラのモデルになったヴラド・ツェペシュは隣国のワラキア公だけど
35世界@名無史さん:2009/03/04(水) 19:33:30 0
36世界@名無史さん:2009/04/20(月) 11:43:10 0
37世界@名無史さん:2009/04/20(月) 19:23:25 O
>>35-36
( ´∀`)ドラキュラモナ
38世界@名無史さん:2009/04/21(火) 17:50:40 0
ドラキュラってラテン系なの?
だからシェスタしているの?
39世界@名無史さん:2009/04/22(水) 20:43:53 O
>>38
( ´∀`)
40世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:50:22 0
マジャール人とスロヴァキア人って、言語以外にどんな違いがあるの?

どうもスロヴァキア人の具体的なイメージが浮かんでこないんだけど。
41世界@名無史さん:2009/05/05(火) 19:33:15 0
スロヴァキア人はスラブ系民族
42世界@名無史さん:2009/05/05(火) 19:37:28 0
スロヴァキア人は1000年前のモラヴィア王国の直系の子孫であり、
後から入ってきたマジャール人よりも由緒正しいのであります。
43世界@名無史さん:2009/05/08(金) 23:46:58 O
>>40-42
(* ´∀`)
44世界@名無史さん:2009/05/25(月) 10:11:00 0
1526年8月29日、ハンガリー南部のドナウ川沿いにあるモハーチという
村の近くで、7〜8万人のオスマン軍と2万5000人のハンガリー軍が戦い、
ハンガリー軍は壊滅し、国王ラヨシュ2世は死亡した。その知らせを聞いて、
王妃とその取り巻き、また城代もオーブダやブダを逃げ出した。ドイツ系の
富裕な市民も逃走した。王妃は国王の財宝をもって、まずはポジョニへ、ついで
ウィーンへ逃亡した。そのために9月にスレイマン1世がブダに入ったとき、
ブダは事実上無人で、もともとのブダの住民とユダヤ教徒がいただけであった。
スレイマン1世は年老いたユダヤ教徒は殺し、若い者はバルカンのテッサロニキの
近くに移住させたという。
45世界@名無史さん:2009/05/25(月) 10:23:02 0
ところでラヨシュ2世が死んだので、ハンガリー国王の継承が問題となった。
トランシルヴァニアの公サポヤイ・ヤーノシュが貴族たちによって国王に
選ばれたが、他方で反対者たちによって、ラヨシュ2世の義理の弟である
ハプスブルク家のフェルディナント大公が担ぎ出されて国王に据えられた。
ここに二人の国王が誕生することになった。
はじめ、サポヤイがブダ城に入って、身分制議会も開催した。市民たちも
戻ってきた。しかし、その間にフェルディナンドが勢力を拡大して、
サポヤイを圧倒し、1527年8月にブダに入城した。そして、城代の
ほかに副王(ナードル)を長とする総督府を任命して、都市の再建に当たらせた。
彼が登用した人物のほとんどはドイツ系の軍人と豊かな市民であった。
46世界@名無史さん:2009/05/25(月) 21:05:51 0
ハンガリー屈指の名宰相ナーダジュディ・タマーシュ
47世界@名無史さん:2009/08/17(月) 02:10:19 0
48世界@名無史さん:2009/09/16(水) 10:16:45 0
バートリー家の拠点の一つである、ニール・バートルまで行ってきました。
バートリー城の建物が復元されているのと、教会堂にあるバートリー・イシュトヴァーン
(ポーランド王とは別陣)の墓碑を見てきました。

>27
面白い話ですね。出典をご教示いただければ幸いです。
私は、以前「狼の牙」と聞いていたのですが、バートリー城の係りの方から、
「竜の牙」だと教えていただきました。
自己解決しました。ウイキの英語版に同じような話が出ていました。

ニールバートルのミノリーテン教会前の池の中の島に、作り物の竜が
置いてあるのも、その関係かもしれません。
51世界@名無史さん:2009/09/30(水) 03:22:28 0
ギシュクラさんお久しぶり。
日本版ウィキのトランシルヴァニア関連の記事も大分充実してきましたね。

トランシルヴァニア公国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%85%AC%E5%9B%BD
バートリ・ジグモンド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89
バートリ・アンドラーシュ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5
ボチュカイ・イシュトヴァーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%B3
ケメーニ・ヤーノシュ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%82%B7%E3%83%A5_(%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%85%AC)
アパフィ・ミハーイ1世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%A41%E4%B8%96
アパフィ・ミハーイ2世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%A42%E4%B8%96
テケイ・イムレ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%AC
ラーコーツィ・ジェルジ2世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B82%E4%B8%96
ラーコーツィ・フェレンツ1世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%841%E4%B8%96
ラーコーツィ・フェレンツ2世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%842%E4%B8%96
52世界@名無史さん:2009/09/30(水) 03:28:25 0
53世界@名無史さん:2009/09/30(水) 23:28:19 0
>>49
ニールバートルに行かれたんですね。
ニールバートルでは毎年夏にバートリ家の紋章「翼を持った竜」に因んだ
「飛竜週間」というお祭りが開かれるそうですね。
54世界@名無史さん:2009/10/01(木) 17:37:04 0
>>49
バートリー城ってどんな外観ですか?今は観光地になってるんですか?
所有者はバートリー家かそれに関係する家系の子孫の方だったりするんでしょうか?
>49
「飛竜週間」というのですか、ニールバートルの観光案内に、写真が出ていました。

>50
バートリ城は、建物が一つだけ残っています。長らくワイン倉庫として使われていた
建物を復元したもので、元は館だった建物です。
観光地には程遠く、近くの宿は開店休業で、予約をしたのに誰もおらず、電話をして
開けてもらう羽目になりました。
城は今はニールバートル市の管理だと思います。
56世界@名無史さん:2009/10/02(金) 18:19:40 0
>>55
飛竜週間(Szárnyas Sárkány?)の画像と動画がありました。
http://www.hattyudal.hu/galeria/fekvo/szarnyas_sakany_1999_menet02.jpg
"Winged Dragon" 17th International Street Theatrefestival - Szárnyas Sárkány
http://www.youtube.com/watch?v=zBrzbTkrkYc
とても楽しそうですね。

Báthori Várkastély
http://www.bathorivarkastely.hu/
バートリ城とはここのことですか?

これがバートリ・イシュトヴァーンの墓碑ですか?
http://www.datawebkft.hu/index.php?page=5&id=5627
Báthori István Múzeum(バートリ・イシュトヴァーン博物館?)
http://www.nyirbim.hu/
http://www.bvisual.hu/muzeum/
こちらはバートリ家に纏わる品々を展示しているようですね。
http://images.puszta.com/minorita_rendhaz_bathori_muzeum/minorita_bathori01.jpg
http://images.puszta.com/minorita_rendhaz_bathori_muzeum/minorita_bathori05.jpg
http://images.puszta.com/minorita_rendhaz_bathori_muzeum/minorita_bathori06.jpg
57世界@名無史さん:2009/10/02(金) 18:31:09 0
58世界@名無史さん:2009/10/02(金) 18:38:59 0
他にもナーダジュディ・フェレンツ博物館なんてのもあるんですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/hungary_musume/48883082.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hungary_musume/49198230.html
59世界@名無史さん:2009/10/03(土) 15:54:14 0
>56
バートリ城はこれです、1F・2Fは蝋人形によるバートリ家の人物紹介、3Fは
会議場になってます。地下はルネッサンス料理のレストランですが、私が行った
時は貸切パーティで入れませんでした。おかげで、晩御飯はハンバーガースタン
ドですます破目になりました。
城の復元はちょっと綺麗にしすぎで、屋根の部分なんかは新建材みたいな素材が
使われていて、興ざめです。

バートリー・イシュトヴァーン博物館も行きましたが、バートリー家に関する展
示はさほどおおくはありません。バートリが発行したコインなんかは初めて見まし
たが、大半の展示は郷土資料館のようなものです。
>59
シャールヴァール城の博物館ですね。見に行ったことがあります。
あまりエルジェーベトに関する展示はなかったですよ。
ナーダシュディ家の持ち城では、今はオーストリア領になったレーカ城
(ロッケンハウス城)も見たことがあります。
エルジェーベトも住んでいたことがあるそうで、ちょっとした展示があ
りました。閉館間際に行ったのでゆっくり見られなかったのが残念でした。
あと街の中にある教会の地下のナーダシュディ家の墓所にも入れてもらい
ました。
>59
クルージ・ナポカの街ですね。
マーチャーシュ王の生家は今は学校になってます。見に行きましたが、内部の見学は断られました。
マーチャーシュ王の像は聖ミハイ教会の前にあります。
>56
これはバートリー・イシュトヴァーンの墓碑ではありません。
ミノリーテン教会前の銅像です。
墓碑は、改革派の教会の中にあります。
トランシルバニア候だった人物の墓と、もう一人、同名別人の物の
二つがありました。
64世界@名無史さん:2009/12/21(月) 06:32:46 0
age
65世界@名無史さん:2009/12/25(金) 13:05:36 0
SIEBENBÜRGEN KAISERREICH
66世界@名無史さん:2009/12/25(金) 19:01:29 0
ドイツ語?
67世界@名無史さん:2009/12/26(土) 19:55:18 0
              i´` ー- 、_
              |ツ     `'' ー- 、 _
              |メ   __       `''' ー- 、_
              ヾ´ ̄     ̄`''ー‐- 、 _    `''ー、
               ,!≡≡≡口C三∃     `''ー 、 _,,ノ
              r'´~~ ̄ ̄_フ ̄`'''ー- 、._    /´
             /_,,. -‐'''´         `''ー 、l  
            (二__/;;;=-        /´゙l! :::::::::/  このまま書き込みがなければ、このスレは
                 / ',‐        ,ムノ/  :::::/ ナチスレに改変!
                (_ノヽ      、_,ノ   ::::!
               杉_,,,             l
                ヽ `            _, ‐'´゙ゝ
                |        , -'´  /  \
                ゝ- 、_   /   /    , -''ヽ
                    `7´   /   /    \
                    /',  /   /  , - ‐ -、 \
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                / /    O, -、 /_, -''',ニニ、 ‐- 、 / /  l |  |
                 |! r、_,. -'ヽ'゙i  ヽi  //ヽ, \   `''ー、 | l  |
             /! ヽ'  ◯ |    | /、 \ <  ヽ     ヽ、  |
68世界@名無史さん:2009/12/26(土) 23:42:38 0
自分の巣に帰れよ
69世界@名無史さん:2009/12/27(日) 21:58:09 0
ドイツよ、全てに冠たる、
世界に冠たる我がドイツよ!
マース川からメーメル川、
エッシュ川からベルト海峡まで
護りの為めに いつも
兄弟の如く団結せば
ドイツよ、汝は全てに冠たる、
世界に冠たる我がドイツなり!

Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt,
Wenn es stets zu Schutz und Trutze
Brüderlich zusammenhält,
Von der Maas bis an die Memel,
Von der Etsch bis an den Belt
Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt.
70世界@名無史さん:2009/12/30(水) 13:49:53 0
>>66
この地域の正式な呼称。
71世界@名無史さん:2010/03/20(土) 04:00:27 0
age
72世界@名無史さん:2010/06/21(月) 01:25:03 0
73世界@名無史さん
約1世紀ぶり はがきが届く
6月19日 14時13分

第1次世界大戦中に今のハンガリーの戦線から兵士が妻にあてて書いたはがきが、およそ1世紀ぶりに、差出人の孫の男性に届けられました。

このはがきは、第1次世界大戦中の1915年に、今のハンガリーの戦線にいた当時のオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士が
ボスニア・ヘルツェゴビナに住む妻にあてて書いたものです。部隊の仲間といっしょに撮った白黒写真の裏を使ったこのはがきは、
結局、妻のもとには届かず、アメリカ・カリフォルニア州のはがきの収集家が骨とう品の見本市で購入して保管していました。
この収集家はボスニア・ヘルツェゴビナの出身で、今週、首都サラエボを訪れた際、
偶然、市内の骨とう品店ではがきの差出人の孫にあたる48歳の男性と知り合ったということです。
差出人とこの男性の名字が同じだったことからはがきを見せたところ、名前や写真に写っていた兵士の顔から、
この男性の祖父が書いたものだと判明したということです。
はがきは保存状態がよく、「私は元気にやっていると両親と2人の娘に伝えてくれ」と家族を気遣うメッセージが記されています。
当時兵士だった祖父は、戦線から帰還して家族と再会を果たし、のちにサラエボ市長を務めました。
95年の歳月を超えて、祖父からのはがきを受け取った孫の男性は「このはがきが世界のどこを旅していたのかわかりませんが、
届いたことに驚き、感激しています」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100619/t10015223301000.html
http://img4.allvoices.com/thumbs/event/480/385/57715607-postcard-sent.jpg