鉄砲三段撃ち
仮に本当だったとしても、その後この戦術が大流行しなければ、
戦術革命にもならないような。
778 :
世界@名無史さん:2009/10/15(木) 07:27:34 O
火を防ぐために装甲したが航行出来なくなった船w
残ってる書状比較
北条家 北条氏遺文全6巻 5千以上(最大領域5〜6国)
武田家 武田氏遺文全6巻 4千数百(最大領域4〜5国)
信長 織田信長文書の研究(増補改訂版) 1400くらい(最大領域10数国)
支配の手の行き届きようがわかりますね
まさに丸投げ体質どすなあ
781 :
世界@名無史さん:2009/10/15(木) 22:59:54 0
誰もやってないのに大流行w
783 :
世界@名無史さん:2009/10/15(木) 23:04:25 0
>>778 バーカ毛利水軍を倒すための秘策だよ
>>782 は?雑賀党を始め鉄砲の撃ち方は効率化されてるよはげ
雑賀のほうが早いのに信長のパクリ扱いwww
盗人たけだけしいとはこの事w
鉄鋼船とかいわれてるけど
現物見た人間で鉄貼りなんていったのはいないんだけどな
786 :
世界@名無史さん:2009/10/16(金) 05:34:53 O
宗教はともかく信長みたいな独裁者も屑だけどな
そんなに独裁者が好きならジョンイルのもとに帰ったほうがいいぞチョソ
787 :
世界@名無史さん:2009/10/16(金) 07:00:20 0
正日は国民を餓死させてる無能
信長は国民生活を向上させた英雄
井沢のおかげで
>>781のような何も考えない輩が増えた
789 :
世界@名無史さん:2009/10/16(金) 08:26:00 O
>>779>>780 百姓役をしてる者への徳政とは名ばかりの恐ろしい北条高利貸し制度
安い金を貸して質に取った物は、三島の秋の収穫たる酉祭が返済と質流れ期日にするが、
伊豆三島暦や武蔵氷川暦や甲斐暦の違いをうまく利用して
質品を勝手に流してシカトする高利貸有利なシステム。
天正17年に借金で困窮していた武士で足軽衆の統率者根岸が
高利貸をしていた関宿城番の恒岡越後守と太田下野守に借金の質に鎧や馬を預けた。
取り戻そうと氏政に訴えたが、太田や恒岡ら高利貸の肩を持つ氏政に、
質品はもう流れてねーから知らんわと却下される。
それ以前だが天正11年に、古河公方の奉公人が運ぶ荷物や馬を北条側の足軽達が山賊行為で強奪。
足利家が氏政に訴える。 氏政はちゃんと返させるからと言って根岸に通達。
しかし何度も請求しても返してくれない。 交渉して栗橋城奉行の布施美作守から文書発給してもらったら、
偽馬や運び手は返すが荷物は返さない。 偽物はいらないちゃんと返せと言ったら、
ついに本性を剥き出して、お前らに返すものはねーぞゴラ!交渉打ち切り何も返さねぇと逆ギレされる。
武士階級が困窮し盗賊と化した北条領の現実。 永禄4年の景虎の小田原侵攻時に、
失政が原因ですでに引退に追い込まれていた氏康が
「氏政がまだ若輩なので再度国家之意見」を吐いて復権したが農民らは死ね銭狂い高利貸野郎と呪ったろう。
天正12年簗田領の民が北条高利貸し金融に破綻に追い込まれた。
高城胤則
「おいコラ北条!簗田んトコの民に米を貸してやったんだが、奴ら徳政が出たから返さなくていいとか言ったぞ!ふざけた真似すんなや」
高城文書10/16北条「簗田領だけ徳政を出すわけないじゃないスカっ!むしりとってください」
民衆「何が徳政だよ騙された…」
790 :
世界@名無史さん:2009/10/16(金) 08:27:33 O
天正13年いつものように再び北条の高利貸し政治で民衆生活が破綻。
ここ武蔵国は小机城の河輪郷では領主の北条氏規に困窮を訴え徳政をもらった。
高利貸し業界が実質的支配する北条氏に対して河輪郷に金を貸していた鈴木氏が怒り狂って文句を氏規に言ってきた。
「おいコラ氏規!河輪のバカどもがお前が金返さなくていいとか言ったって言ってんぞ。お前が代わりに払うんか?」
鈴木文書12/13氏規「あ、すいません鈴木殿。民衆のウソです。まさか私がそんなこと言うわけないじゃないっすか」
民衆「また北条に騙された(涙)」
まさに悪徳北条金融の恐ろしい手口で民衆は泥沼。
高利貸し「山内扇谷上杉はワシらの貸付金をちゃんと保護しねーから使えねぇ」
北条「民衆にはキツくあたらないとだよね」
高利貸し「おっ!わかってんじゃねーか。よし北条を支援して上杉を追い出そう」
こうして関東は民衆が悲惨な目に合う暗黒時代を迎えたのです。
関東でいまも尊敬されている人
上杉憲実 長尾景仲・景信親子 太田道灌
小田原市だけが観光収入の為に北条をマンセーしてるだけ。
791 :
世界@名無史さん:2009/10/16(金) 09:44:13 O
そんな治世なら丸投げ織田の方が遥かにマシだな(笑)
792 :
世界@名無史さん:2009/10/16(金) 16:42:16 O
織田政権下だったら庶民皆殺しだよなw
恨み買いまくって領内なのに宿泊拒否されてる織田勢(笑)
>>787 別に信長のおかげで民の生活が向上したなんて証拠はないぞ
もともと信長は領地に介入する事なんかほとんどしてないのは
書状数の少なさからわかるしな
>>781 信長は政教分離してないどころか
宗教に既得権益認めまくり
796 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 07:07:56 O
宗教の弾圧はやったけどな
あと装甲船は毛利に勝つためのものら航行能力を追求すべき
浮くだけのヘタレ船が天才の証明なら信長の名が泣くよ
宗教の弾圧ってか
自分に敵対した宗教勢力と戦っただけで
宗教の教義自体を弾圧したわけじゃないんだけどな
この傾向は他の大名も全く同じ
798 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 13:53:23 O
全く同じというなら何故信長だけが政教分離なんだよ
あんたが自分でいうとおり敵対した宗教と戦っただけ
>>798 俺は信長が政教分離したなんていってないぞ
別の人と勘違いしてないか?
信長は他の大名と同じように敵対した宗教勢力と戦っただけで
教義も禁じてないし既得権益を否定してもいない
これは政教分離なんてもんじゃない
800 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 17:10:47 O
だったら信長の偉業のひとつに
政教分離(キリッ
といってるバカを窘めてやれ
802 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 19:22:57 O
信長がやれば政教分離
他がやれば宗教弾圧
803 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 19:57:24 0
西洋より1000年以上前に政教分離した信長
>>796 は・毛利に勝ってんだろ無知
また遊んで欲しいのかな( ´,_ゝ`)プッ
>>803 > 西洋より1000年以上前に政教分離した信長
て事は西洋はまだ政教分離してないのか(笑)
冗談はともかく、君政教分離の意味知らないだろ。
日本が政教分離したのは太平洋戦争後。GHQの占領政策でだよ。
806 :
世界@名無史さん:2009/10/17(土) 21:06:07 O
>>805 見え見えの冗談をヤユして安易な優越感に浸る池沼
日本の政教分離は信長が手をつけた
藤原摂関家の興隆と荘園体制の崩壊にともない、寺社の所領と税収が拡大するとともに、その所領・税収源を確保する目的で寺社は僧兵を保有した
武力を持った寺社が独立帝国化し、神輿を担ぎ都へ繰り出して朝政に圧力を加えた
政治の混乱により仏に仕える教場を守るための僧兵保有が、利権保護勢力となってしまった所に悲劇がある
叡山焼討ちから、石山本願寺の大坂追放により、日本の政教分離が完成する
>>806 信長以前から数十年前の足利義教が既に叡山の焼き打ちやってる
石山本願寺との戦いも細川をはじめとした畿内中の大名がやってる
信長より数十年前に起きた天文一揆で本願寺と畿内大名勢力との総力戦が行われ
敗北した本願寺はその力を減退させる
本願寺が大阪から退去した後も叡山は復興されてるし
本願寺も続いていく
江戸時代では仏教は戸籍制度にも組み込まれ事実上の国教となる
信長以前も以後も政教分離なんてものは起きてない
あったのは武家による宗教勢力への優越化
これは宗教勢力を従えるって事であって利権を奪うことではないので
政教分離とはまるで違う
808 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 15:17:39 O
わかった。確かに政教分離なんてものはしなかったのは認める。
しかし信長の天才・革新性はそれだけじゃない。
「城下町集住策」は信長の創見ではなく、多くの戦国大名らに共通して行われていたものである。
しかし信長のそれが特筆されるのは、常備軍化した全家臣を城下町に集住させたためである。
信長以前では、寄親クラスの家臣を対象としたものであった。
兵農未分離の状況下で寄子まで集住すると、農業が成り立たなくなるためである。
しかし信長の軍団は、土地から切り離された専業武士団であったため、集住することは容易であり、全家臣が城下町に居住する形となった。
そしてこのことを前提に、攻略すべき対象に応じて自己の居城を移していくことになるのである。
809 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 15:19:19 O
比較して一番分かりやすい例は信玄なので、信玄の場合とくらべてみると、信玄は出陣のときは常に自己の居城から出ていき、軍事行動が終われば、いかに遠くへ遠征していても必ず戻ってきた。
これは領土が甲斐から信濃、駿河へと拡大しても変わらなかった。
彼は奪い取った敵の城を自らの居城にすることなど考えもしなかったようだ。
それが信玄の限界だった。これは信玄だけでなく、ほとんどの戦国大名に共通することであるから、信長の意識はおそろしく進んでいたことがわかる。
彼は尾張を統一するために、那古屋から清洲に移った。そして美濃攻略のために小牧山城へと移り、美濃攻略したあと、斎藤氏の居城であった稲葉山城へと移った。
稲葉山城は岐阜城と改名し、西のほうへ領国を進めていくための意味をもつことになる。そして安土城の築城である。彼には領土拡大時において最も最先端の領国に城を築くという基本方針があったようだ。
810 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 15:26:01 O
当時の大名たちの軍団編成の基本は寄親寄子制であった。寄親とは支城主クラスのもので、大名の一族の者や重臣がなり、寄子とはその配下となる土豪や地侍である。
つまり「いざ合戦」というときに寄子は決められた人数で武装して、寄親のもとにはせ参ずるしくみである。
この制度は半農半武の在地領主である寄子が兵となり寄親が指揮官となることから、兵農未分離を前提としていた。
兵力が足りないときには成年男子を根こそぎ動員する制度もあった。いずれも、農民が兵の基本となっていた。
ほとんどの大名に共通するものであったこの制度だが、信長はこの兵農未分離の大前提をつきくずして、一歩踏み出した軍団を創設していた。
それは「合戦」がないときでも兵であり続けるという専業武士団であった。この軍団は兵農未分離の軍団にはないメリットがあった。
一つには農繁期の出兵が可能となり長期にわたる滞陣も可能になったこと。
もう一つは、常備化されたために、より高度な訓練が行われたことである。これによって信長の軍団は集団戦法を可能としたのである。
これらのことによって、兵の質にそれまでの大名とでは格段の開きができていったことは言う までもない。
>>808-
>>810 こ、これが井沢などがつくりあげた信長の虚像か
あまりのひどさに目まいがするようだ
資料的裏付けがなく本当の事がほとんど書いてない
可哀想に、君は小説家の虚構を信じ込まされたんだな
これから一つ一つ検証していこう
まず
>>808 >>しかし信長のそれが特筆されるのは、常備軍化した全家臣を城下町に集住させたためである
住んでない。
信長晩年にも尾張に住んでいるものがいてこの家を焼き払って住まわせた事例がある。
しかしこの連中は馬廻りであって数は120程度。そういった直臣層が城下町に住むのは
他の大名でもよくおこなわれていたこと。
信長の土地政策の基本は知行安堵。
書状の少なさから見てもわかるように基本は丸投げ。
>>兵農未分離の状況下で寄子まで集住すると、農業が成り立たなくなるためである。
大きく誤解されているようだが、当時の軍制は軍役衆。
>>810で君自身も書いてるようにいざ合戦となれば指定された装備をもって軍役衆が参戦してくる。
そしてその人数は別に村の人数を根こそぎ動員するわけじゃない。
だから村側は戦が続いて軍役が恒常化してくると、それに出す人間を固定したり雇ったりするようになる。
これが兵農分離という現象。あくまで村側の対応であって信長はこれを指示してなんかいないし
むしろ信長は軍役に関しては「できるだけ多く連れてきてね」とかかなり適当。
>>809 信玄との比較。
>>彼は奪い取った敵の城を自らの居城にすることなど考えもしなかったようだ。
ダウト。もともと信玄が本拠とした躑躅館も父信虎の時代に移転してきたもの。
武田の分国を見れば甲斐から西と北の信濃、東北の西上野、南の駿河、と甲斐を取り囲むように存在してるので
全ての領国に対応しようとすれば、その中心に存在する甲斐が一番適していた。
もともと甲斐は貧国で自然災害も酷かったからほっとくわけにもいかなかったのもあるだろうが。
勝頼時代に新府に拠点が移されているが、これも甲斐国の中の事。
ちなみに小田原北条氏も駿河興国寺、伊豆韮山、相模小田原、と居城を移してきている。
信長だけが特別なわけでは決してない。
>>810 そして根本的な誤解なのがここ。
>>寄親とは支城主クラスのもので、大名の一族の者や重臣がなり、寄子とはその配下となる土豪や地侍である。
>>つまり「いざ合戦」というときに寄子は決められた人数で武装して、寄親のもとにはせ参ずるしくみである。
>>この制度は半農半武の在地領主である寄子が兵となり寄親が指揮官となることから、兵農未分離を前提としていた。
土豪や地侍は土地を持つ存在であって、彼らと百姓は区別されるものであるという事。
実際信玄が出した書状において百姓や職人を出すことは謀反に等しいといって
堅く禁止している。それに先ほどもいったように軍役は村の男を根こそぎ連れていくわけでもないので
農業ができなくなるわけでもない。
戦乱が恒常化し軍役がかさんでくると、村側は軍役に出す人間を雇ったり固定するようになり
これが兵農分離という現象ではあるが、これは信長をはじめとして大名達が進めたわけではない。
むしろ軍役に質の低い流れ者を出してくることとかあった為、大名側も迷惑した事例が多い。
信玄との比較でいうなら、信玄は先ほどものべたように明確に軍役に百姓が出てくることを
禁止してるので
>>812のいう意味での兵農分離は達成してる事になる。
>>それは「合戦」がないときでも兵であり続けるという専業武士団であった。この軍団は兵農未分離の軍団にはないメリットがあった。
これは資料的根拠は特にない。むしろ信長自身が軍役をできるだけ多く連れてきてね、とか指示してるように
信長の軍も軍役衆だった事は明白。
信長の軍団以外も、たとえば信玄なんかその戦歴の中で一年を通して
農繁期農閑期を問わず出陣できなかったシーズンが存在しない。
理由はさんざん述べてきたが、軍役衆は別に村の男を根こそぎつれていくわけではないので
出陣シーズンを農繁期だか農閑期だかに限る必要が特にないから。
常備化して訓練云々も特に関係ない。
信長も他の大名の軍も軍役衆で構成されてるという点では同じだから。
そして武田や上杉が当時から天下一の強さと言われてたのに対し
織田勢は特にそんな事をいわれてない。
815 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 22:35:31 O
>>811-
>>814 うーむ
確かに信長の勢力圏内で尾張は端っこだから岐阜→安土と遷したのは
「常に最前線」とは言えないな。
よく考えれば親父の信秀の方が攻めるために城を移してたしな。
しかし兵農分離はまだ納得いかない。
あまり強調されることはなかったが、槍隊の組織化というのがある。
信長以前での槍の使われ方は、基本的には刀をもった兵と同じく、個人的な形をとっていた。つまり個人戦法である。ところが信長は違っていた。
槍を持った兵だけを集めて槍隊を組織したのである。
専業武士団であり常備化されていたために、このことを可能としたのを見落としてはならない。
集団訓練を重ねることによって、槍隊は威力を増していったからである。いわゆる「槍ぶすま」を作り一糸乱れず突き進んでいったのである。
これは源平争乱以来の主流であった個人戦法の否定であった。さらに信長は長い槍を導入している。集団戦法においては、長いほうが有利であったからだ。
どれほどの長さであったかというと、三間半(約6,8m)であったそうだ。他の大名たちは三間(約5.9m)の槍であったから、かなりの威力を発揮したと思われる。
また安置のぶなが厨が浅はかな空理空論述べているのか
817 :
世界@名無史さん:2009/10/18(日) 22:41:22 O
ところで僕が参考にしてるのは井沢元彦じゃないよ。津本陽や加来耕三だ。
彼らは井沢と異なり史料に基づくし、古武術も嗜むから、かなり詳しいよ。
信長公に比べると他の英雄は皆塵芥に見える
>>815 納得いかないと言われても信長が兵農分離を指示してないのも
信玄が百姓連れてくるなと言ってるのも史実だから
>>あまり強調されることはなかったが、槍隊の組織化というのがある。
他の大名の軍役でもされてるんだけど。
>>さらに信長は長い槍を導入している。集団戦法においては、長いほうが有利であったからだ
長ければ強いって単純なものじゃない。
時代が下ると長槍より軍役では持槍が増えるね。
第一他の大名も長槍使ってるって君自身も書いてるじゃないか。
>>817 >津本陽や加来耕三
両方小説家
まともな学者の本をお読み
821 :
世界@名無史さん:2009/11/08(日) 00:21:13 0
真の天才のぶなが
天才の「ぶなが」って誰?
823 :
世界@名無史さん:2009/11/15(日) 14:32:07 O
信長は気候の変動により濃尾平野の生産力が上がった恩恵を享けただけ。
・福田首相は中国講演で歴史認識について村山談話をかみくだいて語った。
・だがそれは、日本人に向かって言ったのでも、日本人が聞いていたわけでもない。
・こういう大事なことは、日本に向かってこそ語りかけるべきだ。
825 :
世界@名無史さん:2010/02/11(木) 20:21:17 0
信長公に比べると他の英雄は皆塵芥に見える
逆だろ