952 :
世界@名無史さん:2009/02/20(金) 21:36:28 0
漢代の三公クラスの高官はほとんど九卿を経て昇任してるんだが、
蜀漢の高官には九卿を経由した様子がほとんどない。
これは蜀漢の独自性というか、九卿そのものがなかったとしか
思えない。
孫呉も三公を置いたのは孫皓の代からのようだし。
漢代の外戚や権臣も九卿を経由することはあまりないよ。
蜀漢の権臣も同じく。
尚書や侍中、将軍(漢代なら校尉)を経由するのが出世パターン。
とりあえず、 太常・光祿勳・太僕・大鴻臚・大司農・少府
の六つは蜀書で確認できるな
姜維の同輩や、劉禅の即位後に中級官吏で後に出世した人物、
降伏の使者や姜維への勅命で派遣されているから、
滅亡時まで存在したと見ていいだろう。
955 :
世界@名無史さん:2009/02/20(金) 23:59:50 0
三公は蜀初しかなかっただろ?
蜀の官制はかなり特異だと思う。
三公が廃止されたのは諸葛亮による簡略化の影響だろうが、
全体的に後漢と比べて特異というほどではないかな。
むしろ、大将軍・録(平)尚書事や、衛・車騎将軍のポスト、
行政実務を掌握する尚書、近侍して皇帝に働きかける侍中や常侍など、
後漢の官制を強く意識して踏襲し、後漢に似た弊害も出している。
まあ正当性の主張からして当たり前だろうけど。
958 :
世界@名無史さん:2009/02/21(土) 00:50:45 0
孔明・蒋エン・費イ・姜維と国のトップが大体都を留守にして遠征に
出かけて二重政権構造になってるし、後漢の政治の中心であった三公
九卿がいるかいないか分からない状態になってる時点でかなり特殊。
政治実務の実権は既に後漢代で三公九卿から離れ、
尚書台等の内朝官や外戚が為る大将軍を中心に回っていた。
宰相格が長期間首都を空けるのは蜀漢の特殊な点だが、
丞相府に権限を集中した諸葛亮時代が終わると、
宰相が首都を空けた場合の中央行政を仕切ったのは劉禅と尚書、侍中、常侍など。
皇帝とその近侍が決定権を保持している。
これは後漢と類似しているところだね。
961 :
世界@名無史さん:2009/02/21(土) 03:14:05 0
曹操もかなり長期間司空だったし、楊氏・袁氏などの○世三公の一族に
力があったのは確かだろう。
九卿クラスにはやはりそれなりの影響力を持った人物が多い。
決してお飾りではない。
曹操政権が確立すると、三公九卿制度はないも同然になるけど。
曹操が権力を持ったのは車騎将軍・録尚書事を兼ねたから。
三公経験者の名士的影響力が強調されたのは辟召制によるとされる。
曹操は丞相になると上卿に戻したので、三公がいないのは当たり前。
御史大夫は途中いなかったりもしたが機能している(曹操に都合良く)
確かに漢朝廷の機能は段々骨抜きにされていくようだけど。
実務の実権が移ったことと、お飾りとは全く別。この時代は特に、政治は実務だけじゃない。
蜀漢の九卿がお飾りだったなどとは、史料の少なさから判らないはずだが。
>>962 蜀では九卿はあんまり実権が無かったのは事実では?
政治を動かす程の役職なら、それらの官位の人達の伝記が残っているはず。
新資料発掘がほぼ不可能な時代の歴史学の研究者は
資料解釈の斬新さやレトリックの上手さで勝負するのかな
>>963 後漢期に既に失われつつあった。後漢末から魏晋に掛けてさらに無くしていった。
蜀漢に限らず、これも事実。
有力者の実権を奪うのにも流用されている。朱儁、諸葛誕、張華など。
>>964 墳墓などからの発掘史料があり、気象などの考古学的アプローチがある。
二次史料の史書というのは大きな部分を占めるけど、全てに近くはないよ。
まあ、俺らみたいな素人には殆ど全てだけどね。
小覇王孫策の覇王とは項羽のことなの?
>>941 出世出来るほどの徒党が無いのに、
訳の解らんことする李厳は頭が悪いということだろうか?
>>967 諸葛亮の責任にしたのは能動的な行動ではないというのが当時からの見解だろう。
兵站失敗して追い詰められて支離滅裂になったのであって
徒党の有る無しなんか初めから関係無い。
或いは、四次北伐の失敗の責任を帰せられることになって
過剰反応してしまったというようなことはあるのかもしれないが。
法に則って行った処断だからな。
法の刀で子分の馬謖を泣きながらきり、返す刀でライバルの李厳を葬り去った。
諸葛亮は、魏をつぶせたら九錫うけとっていいと言われてたらしいけど
実は蜀が早晩滅亡するだろうと分かってたんじゃねえの?
劉封への仕打ちなぞをみると諸葛亮が篤実なひとというよりは権謀をもって世に立とうとするひとであることがわかる。
確かに諸葛亮は篤実を売りにしたことは無いが、
自分の利益と直接関わり無い劉封の件を以って「世に立とうとする人」というのは牽強付会
劉封は剛毅であり手に負えなくなりましょう。
だれの手に負えなく成るのだろう??
劉備ではないな。
つまり将来、実権を担う予定の諸葛亮の手に負えなく成るのではないか。
>>975 ちくまか何かにはそう書いてあるの?
原文にはちゃんと「易世之後終難制御」ってかいてあるじゃない。
劉禅が夭折したりして、
その弟達は幼年で即位すると、騒動の元になるかもね。
呉の二宮の変みたく、誰が正当かということをハッキリし、
争いの元を絶っておく必要はある。
劉封が危険というよりも、
劉封とそれを担ぐ勢力が出来てしまうのが危険ということ
だろう。
978 :
世界@名無史さん:2009/02/26(木) 01:01:22 0
乙なんだが、なんで「十四巻」にしてしまうんだ
980 :
世界@名無史さん:2009/02/26(木) 06:49:41 0
>>970 天候や道路の険阻による失敗なら諸葛亮は罰することはないのでは?
やっぱ全力で協力しない何かがあったと見るべきだろう。
諸葛亮は必罰主義だから、失敗に終わったなら責任の所在をどこかに求めただろう。
四次の場合、それが李厳とは限らないけど。「責任を帰せられる」はただの俺の想像だよ。
だからその想像を基にして「全力で協力しない何かがあったと見るべき」とも言えないけど。
李厳伝を読むと、
夏から秋にかけて長雨があり、その為の輸送困難で使者を派遣して
諸葛亮を呼び戻したとある。後に李厳が諸葛亮の死を聞いて、再び
任用される望みが絶たれたことを嘆いて落胆死したほど刑罰に関して
は諸葛亮を信頼していた。正当な理由での補給失敗なら、諸葛亮に
罰せられないと考えるだろう。
それが諸葛亮には補給が足りているのに撤退してきたと驚いて見せ、
後主には偽装撤退で敵を引きつける策などと上奏している。計画的な
陰謀ではないが、単に補給失敗の隠蔽とは違いニュアンスも感じられる。
諸葛亮の刑法を信頼していたのは李厳だけじゃない。
「失敗したのに誰も罰せられないのはなんでだ」と言われるのは、
徳治ではない諸葛亮の統治方針にとって打撃となる。
兵站責任者の降格くらいはあっても不思議ではなく、
李厳も手紙の書面上は自分の責任を認めような書き方をしただろう。
けども実際の場面になって李厳はそれを嫌った、
ないし自分だけが責任を取らされるのを不服に思って
言い抜けしようとしたなら、一応の筋は通る。
逆に、李厳に予めサボタージュや諸葛亮に含むところがあったのなら、
諸葛亮はそのように上言し、陳寿も史書にそう書けば良いだけ。
でもそのような言葉は見当たらない。
それどころか北伐の撤退について、諸葛亮は劉禅への上言で一言も触れていない。
史書に残る限りでは、四次北伐の失敗の評定は李厳の騒動で霧消してしまった感がある。
責任の主体は李厳だけど、諸葛亮もそれに乗じて失敗の責任の所在を
上手く誤魔化したということになるんじゃないかな。
第四次北伐は極地戦では魏軍に勝利している。
補給が続かなかったから撤退したのであり、敗退して撤退したわけではない。
特に諸葛亮の過失はないだろう。
史書からも李厳の補給が続かないという旨を受けての撤退とある。
諸葛亮に含むことがあったのは『諸葛亮集』の中で、出陣の間際に
自分も幕府を開府させて欲しいとか、なんやかんや要求している。
全力でやって失敗しましたという感じではないだろう。
李厳を処罰するためにそういう北伐以前の話をなんやかやと持ち出す必要があった、
しかし北伐中の現行については持ち出すことができなかった以上、
職務中は李厳に怠慢がなかったと見るべきだろうね。
でも、失敗した以上誰かが責任を取らねばならないのが組織という奴で。
986 :
世界@名無史さん:2009/02/26(木) 16:36:06 0
どなたか句扶について御存知の方はおられませんか?
王平に次ぐ功績、功名を持っていたと書かれていますがどういう戦歴の持ち主だったのですか。
それともやはり陳到と同じように略歴のみの人物なのですか。
史書を読むと、李厳の二枚舌が問題にされてのであって、
補給の失敗自体は問題視されていないように思う。
>>986 『華陽国志』にも句扶については簡単な記述があっただけ。
王平と並び称せられたということがわかっているのみ。戦歴は全く不明です。
並び称せられるというのもくせもので、趙雲と陳到は死後の扱いは相当な差
があります。趙雲は死後に諡号を追贈され、関羽等と共に建国の功臣に名を
連ねました。私見ですが、趙雲と陳到が並び称せられたのは、劉備に使えた
時期が同じくらいだったからではと考えています。荊州領有以前なら同格でも、
領有後の功績ではだいぶ趙雲に差をつけられたのではないでしょうか。しかも
趙雲は後主を救うという大きなポイントがあります。
句扶は地道に功績を上げた武将ではあったのでしょう。
ただ、王平のような諸葛亮からの特別な引き立てはなかったのかもしれません。
『蜀志』が劉備の死後は諸葛亮と関わりが深かった人物が列伝として名を連ねて
います。後世の歴史家にとっては王平は重要な人物で、句扶は簡単な記述ですま
せる人物になったのでしょう。ただ蜀王朝の中では本当に王平に次ぐ評価だった
のではないでしょうか。
曹操なんかは自在に法を枉げて多少の瑕瑾があっても用いる価値のある才能はとりたてた。
蜀科はあまりにややこしくて造った諸葛亮にしかどこがどうなっているのかわからなかった。
つまり諸葛亮のしたいほうだい。
>>988 趙雲が征南将軍に任ぜられたのと同時期に陳到も征西将軍、永安都督に任じられてるので
荊州領有後に差がついたというのは微妙だと思う
趙雲はその後昇進し、また降格したので最終的な官位では陳到の方が上かも知れない
死後の扱いが開いたのは同意だけど季漢輔臣賛ではちゃんと2人がコンビ扱いになってるし
私見だが二人に明確に差がついたのは趙雲だけに諡号が贈られてからだと思ってる
やはり後主を助けたのは大きかったようだ
趙雲はすぐに鎮東将軍に昇進している。
扱いは陳到より上なのでは?
陳到が亭侯になったのも趙雲よりも遅い。
降格といっても、敗戦責任は諸葛亮にあり、もともと別働隊の趙雲
が曹真の大軍に敗れるのは仕方がない。しかも大敗せずに軍需物資
を失わず撤退している。無理矢理責任取らされたところも死後評価
が上がった要因だったのでしょう。関羽なんか荊州失陥という大失態
しているのに諡号を追贈されている。
鎮東将軍へは昇進したかどうかはっきりは言えない
原文では「遷」になっておりこれは転任や移動を表す字(ちくまでは昇進したとなってるが)
季漢輔臣賛でも趙雲の官位は最終官位の鎮軍将軍や鎮東将軍ではなく征南将軍のほうになってる
普通こういうばあい最終官位か一番高かった官位を記すものだろう
あと趙雲が降格したため最終官位では陳到がうえだったのでは?と言ってるだけで
別に責任が趙雲にあるとかは言ってないよ
史書を検討すると、
蜀の将軍位は
四鎮大>四征大>四方>四鎮>四征みたいだ。
だから征南→鎮東は昇進と解釈してよさそうだよ。
それと『季漢輔臣賛』では輔匡や劉ヨウなんかも最終官位では
書かれていない。
蜀では鎮が征よりも上だったんだよ
趙雲の他にも張翼とか宗預とかが征から鎮に遷っていて、逆の人はいない
鎮東将軍へは昇進っていうちくまの訳で合ってる
季漢輔臣賛は間違いか何かわからんが
検討すると、と言われても
できれば具体例を挙げてほしい
陳到は鎮東将軍ではなかったのか。
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