正史『三国志』第十二巻

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63世界@名無史さん
気になったので勉強がてら調べた。

護軍の発祥は秦漢にさかのぼる。秦代には護軍都尉と呼ばれ、
漢初には陳平が護軍中尉に為って諸将を監察した。これは皇帝直属だったが、
武帝の時代に大司馬に属した。
後漢では非常置となったが、班固が征伐に出る大将軍竇憲の中護軍になるなどしている。
曹操が丞相府で韓浩を護軍としたのはこの流れを汲むものだろう。
魏になると護軍将軍として皇帝の直属に戻り、武官の選任も担当した。
(そのため賄賂を取るのが常態だったと夏侯玄伝にはある)

領軍を制定したのは曹操で、その時代の機能はよくわからない。
魏になると領軍将軍は五校、中壘、武衛の三校尉を束ねた。
これは京師周辺を守護する防衛軍の長ということになる。

宋書には護軍将軍は外軍を掌握し、領軍将軍は内軍を掌握するとある。
内軍が皇帝直属の首都防衛軍なら、外軍は機動軍だろうか。
第五次北伐の際に洛陽から派遣された秦朗の討蜀護軍が、
討蜀の任を負った護軍なら、魏の時代に既にその役割分化はあったのかもしれない。

ただし、そのような職権を持っていなかった曹操時代に、
領軍の史渙がどのような職責を持っていたのかはよくわからない。
両者は禁兵(近衛兵)を司るため、魏の時代、曹夏侯のような皇族や、
後には司馬家の一族、また彼らの特の寵臣が多く任じられる
政治的にも重要な職だった。